満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

3-21 信濃と関東と出雲

2012-09-20 | 記紀解読
状況証拠という言葉がある。
刑事事件では、直接的な証拠がなくても、(間接的な)小さな証拠の積み重ねで、有罪判決が下る事がある。

ここ数回にわたって取り上げてきた事は、これとよく似ている。


長野市の善光寺周辺や上田市の生島足島神社には、建御名方の逃走の伝承がある。
関東の東端には、経津主と武甕槌を祀る神社があり、名前に「神宮」がつく。
崇神以前の人物で、関東の国造の祖となったり、関東の古い有力な神社の祭神となったのは、ほとんどが高天原系である。
日本書紀には、出雲の国譲りの後、経津主と武甕槌が葦原中国の諸神を平定したとある。

これらは皆、単独で何かを証明できるほど、強力な証拠ではない。
しかし、1つ1つは弱くても、組み合わさると、かなりの説得力を持つようになる。


信濃の国は、建御名方信仰の強いところである。
その信濃の地に、建御名方が武甕槌に敗れた話(善光寺)、傷ついた建御名方に粥を出した話(生島足島神社)が伝わっている。
これらは、作り話とは思えない。

弥生末の日本では、海や川を利用した水運が交通の中心だった。
そして、日本海ー信濃川(千曲川)ー碓氷峠ー現在の利根川ー銚子付近というのが、関東への幹線ルートだった。
建御名方に関する話が伝わっている長野市や上田市は、関東の入り口である碓氷峠のすぐ手前である。
建御名方は上田市で千曲川から南西へそれたが、これとは別に、メインルートを関東へ向かった本隊があっても不思議では無い。
また、関東へ逃げる敵がいなかったとしても、ここまで来た高天原の追っ手が、碓氷峠を越えずに引き返したとは考えがたい。
関東を放置しておけば、大国主側の残党が、その地に集結して拠点にする可能性があるからである。

このように、信濃の側の伝承からは、建御名方を追ってきた経津主と武甕槌が関東へ入った事が想像できる。
そして、こうした推測に合致する証拠が、関東の側にもある。
日本を東西に結ぶ幹線ルートの終着点に、経津主と武甕槌を祀る「神宮」が、周囲から目立つ所に建っている。
関東の国造の祖先や神社の祭神は、高天原の人物が多い。崇神以前の人物に限れば、ほとんどが高天原系である。
特に、安房と秩父以外の神社は、高天原系の中でも、出雲の国譲りに係わった人物に関係がある。

このように、信濃と関東の伝承を合わせると、今まであまり指摘されてこなかった、歴史の真実が見えてくるのである。


出雲の国譲りの時に、どのような事があったのか。推測できる事を整理すると、次のようになる。

1:出雲では、大国主から天穂日への権力交替があった。
2:権力交替は、記紀に書かれているような平和的なものではない。国を譲ったのではなく、武力で国を奪ったのである。
3:出雲陥落後、建御名方は信濃へ逃げ、経津主と武甕槌がこれを追う。
4:経津主と武甕槌は、信濃での勝ち戦の勢いに乗り、碓氷峠を越えて関東に入る。
5:これ以降、高天原の子孫達が、関東を支配する。

出雲での考古学の発見により、1~3については、史実ではないかと考える人が増えてきている。
しかし、4・5については、仮説としても、あまり見かける事はない。
もちろん、今まで取り上げてきた事だけで、これら全ての証明が完成したと言うつもりはない。
しかし、建御名方の諏訪への逃走が史実なら、経津主と武甕槌の関東入りは、それほど突飛なものではない。
我々は、出雲と信濃の関係だけでなく、出雲と関東の関係にも、もっと目を向けるべきなのである。