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記紀解読  大和朝廷成立の謎

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6-4 縄文の陸稲

2014-04-29 | 記紀解読
稲作には、畑で米を作る「陸稲」と、水田で米を作る「水稲」の2つがある。日本では、縄文時代から陸稲が行われていた。
「弥生化」を考える上で水稲は無視できないが、弥生時代の水稲の理解には、縄文陸稲についても詳しく知っておく必要がある。
今回は、最近になって色々分かってきた、陸稲を含む縄文時代の農業について、まとめてみる事にする。


イネ科などの植物では、体内のケイ酸が1万年以上も、そのままの形で残る事があり、これをプラントオパールと呼ぶ。
プラントオパールの形を見れば、それがイネかどうかはもちろん、イネの中のどの品種なのかも、ある程度分かるらしい。
岡山県の朝寝鼻貝塚と彦崎貝塚では、約6000年前の縄文前期の地層から、イネのプラントオパールが見つかっている。
特に、彦崎貝塚のプラントオパールは、1gあたり2000~3000個と大量であり、野生のイネではあり得ないとされる。

今の所、これらが日本最古の稲作の証拠であるが、他にも、西日本を中心に日本の広い範囲で縄文稲作の証拠が見つかっている。

イネには、ジャポニカとインディカという2つの種があり、ジャポニカはさらに温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。
縄文時代の遺跡から見つかるイネは、熱帯ジャポニカだけのようである。熱帯ジャポニカは、ジャワニカと呼ばれる事もある。
弥生時代になると、水稲とともに、温帯ジャポニカが日本に持ち込まれた。
水田では、温帯ジャポニカだけでなく、熱帯ジャポニカも育てられたようである。
温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの併存は中世まで続いたが、近世以降、水田では、ほとんど温帯ジャポニカだけとなった。


イネの種子やプラントオパールが見つかる縄文時代の遺跡からは、アワ・ヒエのプラントオパールや小豆の種子等も見つかる。
また、焼畑やその周辺で見られる雑草の種子も一緒に見つかる。
こうした事から、「縄文時代には、西日本を中心に、焼畑を利用して、イネを含む雑穀が栽培された」と説明される事が多い。
この説明は間違いではないが、多くの人がこの文章から思い浮かべるイメージと、実際の縄文の農業とには、大きな差がある。

焼畑という言葉には、「あとは野となれ山となれ」的な農法・頭を使わない原始的な農法といった悪いイメージがつきまとう。
しかし、現在海外で行われている、或いは、過去に日本で行われていた焼畑は、非常に合理的なものである。

日本のような気候の土地で畑作を行う場合、最大の障害となるのが雑草との戦いである。取っても取っても生えてくる。
除草剤の無い時代、最善の雑草対策は、雑草を放置する事らしい。
土地に人間が全く手を加えないと、一年草→多年草→灌木(低木)→陽樹→陰樹と、植生が遷移する。
雑草だらけの土地も、十年ほどほっておくと灌木になり、その頃には雑草の種子もほとんど無くなる。
灌木に火をつけ焼畑にすると、最初の年は雑草がそれほど生えない。また、灰が養分となるので、1年目は収穫が非常に多い。
2年目からは、雑草が多くなり、土地もやせていき、3~5年で畑作ができなくなる。そうなったら、また土地を放置する。

焼畑というのは、耕作できなくなった土地を捨て去るのではない。休耕させるのである。
常に新たな土地を必要とし自然を破壊し続けるのではなく、一定の周期で広い土地をローテーションして使用するのである。


焼畑の実例をいくつか挙げておこう。日本でも、1950年代まで山村で焼畑が広く行われていた。
日本の近代の焼畑では、4~5年耕作した後、15~30年土地を休ませていたようである。
1年目にソバ、2年目にヒエやアワ、3年目に小豆、4年目に大豆というように、地方ごとに決まった作物を順に栽培していた。
これは、土地がやせていくのに合わせて作物を変えていたと考えられるが、連作を避ける事は、病気や害虫を避ける効果もある。

世界的には、東南アジア・南米・アフリカなど、熱帯を中心に現在でも焼畑が行われている。
1年耕作10~15年休耕のタイプと、2~3年作物を変えて栽培した後15~40年休耕させるタイプが多いようである。
中には、1年耕作と2~4年休耕を、数回繰り返すという特殊な周期の地域もあるようだ。

東南アジアでは、1年目にイネを植える所が多い。2年目以降は、雑穀が多い地域と、イモ類・バナナが多い地域がある。
同じ陸稲栽培でも、ほとんどがイネだったり、イネにムギ等を混ぜたり、イネとイネの間に豆類を植えたり、色々個性がある。
1つの家族に十種類以上のイネの種子(籾)が伝わり、それらを使い分けて、リスクを分散している事もある。
また、アメリカ大陸原産のトウモロコシを栽培する所もある。これは、植え付け作物の試行・変更が、最近行われた証拠である。

こうした実例からも分かるように、焼畑は決して頭を使わない農法ではない。地域に合わせ、周期や植える作物を工夫している。


これらの事例を参考に、遺跡から見つかるプラントオパールや種子から、縄文時代の焼畑を想像してみよう。
養分が豊富なら高収穫を期待出来るイネを1年目に植える。2年目にはアワやヒエ、3年目には豆類。その後15~40年休耕。
あるいは、イネを主力に、アワ・ヒエ・豆類を混ぜて1年だけ栽培し、その後10~15年休ませる。


近代農業では、休耕しない。また、同じ作物を続ける事が多い。連作すれば、土地はやせていき、害虫や病気に弱くなる。
これらの連作での欠点を補うため、現在の日本では、化学肥料・農薬などが使われる。

こうした物がなかった時代、焼畑というのは、非常に工夫された、自然の理にかなったものなのである。
休耕地が多いため、農地全体で比較すると生産性は非常に低いが、一人当たりの労働生産性はそれほど低くない。
また、全く生えなくなる訳ではないが、土地を焼いた後の何年かは、除草剤がなくても、雑草との戦いが大幅に軽減される。


三内丸山遺跡の詳しい調査結果が明らかになって以来、縄文時代の先進性が注目されるようになっている。
陸稲を含む縄文時代の焼畑農業も、色々と知恵を使って行われていた可能性が高いのである。
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