映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

8月の家族たち(2013年)

2014-05-07 | 【は】

★★★★★☆☆☆☆☆

 最近、母娘の確執がよく話題になっている気がする。小説家やアナウンサーといった方々が自分の母親とのあれこれを土台に小説やエッセイを書いておられるようである。

 でも、正直、私から言わせてもらえば「何を今さら」である。というか、やっと、娘たちが声を上げることができ、その声を聴いてもらうことができる世の中になってきた、ってとこなんだろうな、多分。私のように、20年以上にわたり母親と、もう、グッチャグチャの「確執」なんてきれいな言葉じゃ治まらないくらいの壮絶な大戦争をしてきた人間にとってみれば、前述の小説家やアナウンサーの方々のエピソードなんて、ゼンゼン甘いとしか思えないが、それでも、そう、娘たちはようやく「それ、おかしいでしょうよ!?」と言えるようになってきたことは良いことだと思っている。

 とはいえ、そういう攻撃にさらされている母親たちだって、かつては、その母親たちとの確執を抱えた娘たちであったことも忘れてはならないと思う。私の母親も、その母親(私の祖母)と、極めて険悪な仲であり、母親に強いられる不条理に苦しむ姿を、私は間近でずっと見てきたのだ。だからこそ、それなのに、どうしてあなたも同じことをわが娘にするんですか? という強烈な疑問が残るのである。

 まあ、この手の母親にはいろんなタイプがいるだろうけど、家族をサイテーサイアクな空気に引きずり込み、嫌悪感でその空間を満たす、という結果は同じなのではなかろうか。そして、こういう妻に対して、大抵、夫は無力なのである。無力を決め込んでいる。だから、余計に妻は増長し、荒れ狂い、その犠牲になるのは、どうしたって子どもたちである。

 はたして、本作でメリル・ストリープ演じるところのキョーレツママゴンであるヴァイオレットもまさにそう。彼女は、口腔ガンを患う薬中で、アル中の夫に去られた女である。ヴァイオレットは、貧しかったから、自分の母親も自分を愛さなかったから、と言い訳ばかりを娘に言う。でも、ゼンゼン同情できない。むしろ、そんな人は子ども産まないでくれ、と言いたくなる。子どもは親を選べないんだぞ。ヴァイオレットの撒き散らす毒性ウィルスに侵され呼吸困難に陥り、瀕死になるのは長女と次女。三女は恐らく、自家製ワクチンを身に備えている。ダメんずと思しき尻軽男と、とっとと逃げていく。いや、三女は三女なりに苦しんでいるのだが・・・。長女も家庭崩壊、次女にはもっと最悪な事態が待ち受ける。

 本作の中で唯一の救いは、ヴァイオレットとよく似た毒舌な実妹マティ・フェイの夫チャールズが、息子を罵るマティ・フェイに対し、強烈な一発(もちろん言葉で)をカマすところである。こういう夫がいると、子どもは母親の毒牙から多少は救われる。でもこれは、非常に稀だと思われる。大抵は、ヴァイオレットの夫ベバリーみたいにアル中とか、でなければワーカホリックとかネグレクトとかになって、妻と子どもたちを精神的に捨てるのである。ベバリーは自殺しちゃうんだから、本当にとことん逃げ切る、サイテーな父親である。こいつがヴァイオレット以上に罪深く、許せん存在だ。殺しても足りない、と思う。

 作品自体でいうと、中盤以降、特にラストにかけては、やや作り過ぎで一気にリアリティがなくなって興ざめである。あんな次女のエピソードはいらんだろう。ただでさえ、精神的にギリギリ来る作品なんだから、もう少しマシなエピソードを入れてもらいたいものである。しかし、役者さんたちは、皆、迫真の演技であった。メリル・ストリープは、あれこれ出過ぎで食傷気味だが、やはり素晴らしい。ジュリア・ロバーツ演じる長女の夫役がユアン・マクレガーだったのだが、これはエンディングまで気付かなった!! 個人的には、次女アイビーを演じたジュリアンヌ・ニコルソンが出色だったと思う。「アリー・myラブ」に出ていた頃より、色んな意味で味わいが深くなって、良い俳優さんになったなぁ、と嬉しかった。

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