気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

感動するシベリアポーランド孤児の救済・・・・・・人道の港 敦賀ムゼウム

2011-05-18 12:06:23 | 気ままな旅

 2011年5月4日(水) 緑の日 福井県敦賀を妻と二人でマイカーで訪れ、すぐに 日本三大木造鳥居(重要文化財)のある気比神宮の参拝と見学をすました。  見学を終えた後、近くにある敦賀港に隣接する金崎緑地を訪れる。 緑地の中には芝生広場があり、子供連れの若い家族がボール遊びなどを楽しんでいる微笑ましい光景が見えている。  緑地の入り口には、昔の灯台をイメージしたような時計台があり、港には巡視船が停泊し、ここが古くから栄えている港町の情緒を感じさしてくれる。 

 

                   敦賀港に面した所にある金崎緑地、中央の昔の灯台のような建物が時計台である。

 緑地の東側には、赤レンガの倉庫群が見え、この街の近代国家に一躍を担っていたイメージが伝わってくる。  赤レンガから道路を挟んで 急こう配の屋根をもつ洋風つくりの建物が見えている。 この建物が 「人道の港 敦賀ムゼウム」 で6000人の命のピザを発給した杉原千畝氏に因んだ資料などの展示施設がある。

 私は2年程前に、杉原千畝氏の生まれ故郷である岐阜県八百津町を訪れ、そこに建つ 「人道の丘」 資料館を見学、大きな感動が湧いてきたことを鮮明に覚えている。 その時から、福井県敦賀にも同じような資料館があることを記憶していて、機会があれば是非、行ってみたいと思っていた。  

赤レンガ倉庫、1905年に外国人の設計によって造られた倉庫は、現在港町敦賀の象徴的な建築物として存在感を表している。 

「人道の港 敦賀ムゼウム」 ポーランド孤児・ユダヤ人難民の敦賀上陸を紹介、命のピザなどの写真や資料などを展示している。

 私たちは、家族連れの人達が楽しむ緑地を横切るようにして「人道の港 敦賀ムゼウム」 に向かって行く。 資料館は2階にあり、階段の壁には、ユダヤ難民たちが通行したヨーロッパからのシベリア鉄道と日本への航路がわかりやすく表示されている。  2階に上がると ポーランド孤児と杉原千畝氏の功績を称えた資料室に分かれ、その横には映像室があり、数人の人達が熱心に映像を見ている。  最初、私はポーランド孤児も杉原千畝氏の功績であると思っていたが、これは全く違う話であった。 私はポーランド孤児の話は恥ずかしながら知らなかった。 ポーランドの人達が親日的であることは知っていても理由は知らなかった。

ポーランド孤児たちの展示室

孤児の救済に努めた救済会のアンナ・ビルケウイッチ女史

 1919年(大正8年) このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。 この時シベリアには、ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いたといわれている。  彼らは過酷な重労働、飢餓や疾病の中で極めて悲惨な生活を送っていた。 特に親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 まさにこの世の地獄な様な極限状態であった。

 こんな孤児たちの状況の中で、大正8年10月 アンナ・ビルケウイッチ女史を中心に ウラジオストクで 「波瀾児童救済会」 が組織される。 アンナ女史達は、孤児たちの受け入れを頼みとしていたヨーロッパ諸国や米国などの赤十字も、軍隊の撤退とともに本国へ引き揚げ、 受け入れや援助が断ち切れてしまった。 

 万策尽きた救済会は、最後の望みを託して日本政府に孤児たちの窮状を訴え、受け入れや援助を要請する。 要請を受けた日本政府は、孤児たちの窮状に、深い理解と同情を示して、16日間という信じられないようなスピードで受け入れを決定し、日本赤十字に指示する。 日赤の行動も早く、受け入れ体制を整えると、シベリア派遣の日本軍の協力を取付け、本格的な救助活動に入っていく。

            

                               孤児たちを乗せた船が出航したウラジオストク港

             

            孤児たちを輸送した筑前丸

                  

                  孤児たちを乗せた筑前丸が入港した敦賀港

 1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。  下船した孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細って青白い顔をしていた。 

子供たちは敦賀町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食を摂った後、列車で東京へ向かって行く。 

敦賀に入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこもった暖かい救済をはじめていく。

               

           敦賀でのポーランド孤児たち

 9歳の時に上陸したポーランド・ワルシャワ在住のハリーナ・ノビッカさん(故人)は、孤児だったシベリアから来日して 「到着した敦賀の美しい花園のある民家、バナナやみかんなど見たことのない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」 と語っている。

敦賀から東京、大阪へ 大正9年~10年に収容された第1次の孤児たち375名は、東京都渋谷にある「福田会育児所」に収容される。 福田会は日本赤十字本社病院に隣接し、設備も整い、構内には運動場や庭園があり、子供たちを収容するのに適した環境であった。 また、大正11年に、さらに助け出された第2次の388名には、大阪府天王寺村(現大阪市立大学附属病院)の 「大阪市公民病院看護寄宿舎」が用意される。 この寄宿舎は、新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所であった。

  その時、孤児の上陸に当たり敦賀の人達は、鉄道省に優遇処置を申請、お菓子、玩具、絵葉書などを差し入れ、宿泊、休憩所などの施設を提供。 地元の有志をはじめ、婦人会でも菓子や果物などを差し入れて子供たちを慰めている。 敦賀での滞在期間は、数時間、長くても1日というものであったが、当時の敦賀の人達は、出来る限りの温かい手を孤児たちに差しのべている。               

    

     日本に到着してきたポーランド孤児たち

 収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態であった。 また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が施される。 さらに長い放浪のため、着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなかった。 そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や果物などを支給している。

 収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過ごしている。 また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられた。子供たちはよく規則を守り、朝食と就寝前には、お祈りを欠かさなかった。 また、病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど子供たちの周りには、善意があふれていた。   

  孤児たちを優しく介護する日赤病院の看護婦

「看護婦さんは、病気の私の頭を優しく撫で、キスをしてくれました。 それまで人に優しくされたことがありませんでした」

  子供たちの日本での生活は規則正しく、 朝は6時(冬季は7時)に起床、洗面をすませ、お祈りをして、7時から朝食を摂る。 その後は読書や勉強をしたり、寄贈されたおもちゃで遊んだりして過ごしていた。 午後からは自由に過ごし、6時に夕食を、午後8時にはお祈りして就寝する毎日でした。  時には市内を見学したり、色々な慰安会に出席したりして楽しく過ごしている。 食事は子供たちの好みと栄養を考え、一緒に来日した付添人が調理をしていた。

    

                                      食事をする孤児たち

 日本での生活にも慣れ、落ち着きを取り戻しつつあった日々に、悲しい出来事が発生する。 一生懸命に孤児たちの世話をしていた看護婦の松澤フミさんが、孤児から発生した腸チフスに感染し、23歳の若さで殉職する。 彼女の死は多くの子供たち、そして関係者に衝撃を与える。 事情を知らない幼子は、優しかった松澤看護婦の名前を呼び続け、まわりの人達の涙を誘った。 彼女には大正10年にポーランド国から赤十字賞、また昭和4年には名誉賞が贈られている。  

神戸港から帰国のため乗船する孤児たち

 とうとう孤児たちとの別れの日がやってきた。  出港の当日、船のデッキに孤児たちが並び、「君が代」 「ポーランド国歌」を涙ながら歌いました。

 横浜港でも、神戸港からでも出港する際には、孤児たちの楽しみが少しでも増えるようにバナナやお菓子が配られた。しかし孤児たちはみな、親身になって世話をしてくれた日本の ”お母さん” たちとの別れを悲しみ、乗船するのを嫌がって泣きだす子もいました。

 元孤児のハリーナ・ノヴェッカは、日本を去る時のことを、 「 誰もがこの日本にいることを望んでいました。 太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・・」 と回想している。

 両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り、「アリガトウ」「サヨナラ」と叫び続け、その声はいつまでも鳴りやむことはなかった。それから孤児たちは、日本で覚えた歌を元気よく歌った。 幼いながら精いっぱい感謝の気持ちを表そうとする姿は、見送る人々の涙を誘った。 そして、見送る人も見送られる子供たちの顔にも、別れを惜しむ涙が溢れ、とどまることがなかった。

 第1次の孤児たちは、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150名、香取丸で114名、伏見丸で106名の合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへ送られる。 また、大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2階にわたり、香取丸で191名、熱田丸で199名の合計390名がシンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへ送られる。

無事に祖国ポーランドに帰った孤児たちの多くは、バルト海の港湾都市グダンスク郊外の孤児院に収容されて、それぞれの人生を歩みはじめた。 しかし、新生ポーランドの前途は多難であったが、孤児たちは終生、日本への感謝の気持ちを持ち続け、様々な形でそれを表している。

 私は、今回、ポーランド孤児たちのことに触れ、大きな感動が湧いてくる。 日本が数々の国際貢献の中でも、こんなに大きな感動が伝わってくる話を、久しぶりに味わうことができた。 皇后陛下から一般の庶民に至るまで、全ての国民が孤児たちを応援している当時の姿が目に浮かび、日本って、なんて誇らしい民族だろうと思え、うれしくなってくる。

 紀州沖で沈没したトルコ艦船や、命のピザなど、日本人が果たしてきたことにも、大きな感動を味あわせて頂いた。 日本人の持つ特性を改めて感じると共に、東日本大震災の発生した今日、外国からの多くの援助や声援が数多く届いてることも、こうした世界への日本の貢献が認められている。 その成果であるように感じる。 支援して頂いた国や機関・有志の方々には、ほんとにありがたく感謝の気持ちが必然的に湧き、日本人に生まれてほんとに良かったと思えてくる。 

 

 

 



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