気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

けいさんの愛称で親しまれる 「気比(けひ)神宮」・・・・北陸道の総鎮守

2011-05-15 13:59:06 | 気ままな旅

 2011年5月4日(緑の日) 晴れ 今日は妻と二人、急に思い立って気ままな旅に出ることにした。 道路情報などを参考にしながら福井県敦賀市などのある若狭地方に行くことにした。 午前10時頃に南大阪にある自宅を出発する。

 最近、ネットビジネスを始めたり、妻もパートに出かけたりして、今までのような気ままな旅が出来ない。 ゴールデンウイークは、外出する人が多いのか、ネットでの注文も少なく、妻のパートも休みの為、2泊3日の予定での気ままな車中泊の旅である。

 自宅を出発して自宅近くのICから阪和自動車道に入り、近畿道門真JCTから昨年開通した、第二京阪道路を走行して、京滋バイパスへ入る。  京滋バイパスから名神高速道路瀬田JCTに入る予定で走行していたところ、京滋バイパスが、入り口から大渋滞、抜けるのに1時間30分程の時間を要した。

 米原JCTからの北陸道は、順調に流れ、敦賀ICに降り立ったのは午後3時近くであった。  敦賀ICからは5分ほどの気比(けひ)神宮に行くことに決め、神宮駐車場に到着する。 

  気比神宮の隣りにある駐車場から、 妻と二人で歩いて行くと、目の前に大きな鳥居が私たちを迎えてくれる。               

   高さ11mの大鳥居(重要文化財)は、春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つである。                 

気比神宮入り口に掲げられている大鳥居の案内板

  気比神宮は、北陸道総鎮守で、地元の敦賀では、市民から 「けいさん」 の愛称で親しまれるている神宮である。 大宝2年(702年=飛鳥時代)の建立と伝えられている。

 御祭神は、伊奢沙別命(いささわけのみこと)、 仲哀(ちゅうあい)天皇、神功(しんこう)皇后、 日本武尊(やまとたけるのみこと)、 應神(おおしん)天皇 、玉妃命(たまひめのみこと)、 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)である。

 ※ 仲哀天皇=14代天皇(在位178年~200年)で、日本武尊を父に、妻の神功皇后との間に出来た皇子が 應神天皇(在位=270年~310年)である。 應神天皇の皇子が仁徳天皇(在位=313年~399年)である。

 神話によると、敦賀の地は北陸道や日本海への海上交通の要地であることから、、ケヒ神は古くから北陸道総鎮守として仰がれた。また、仲哀天皇即位の時期は朝鮮と緊張状態にあり、天皇は192年に即位してすぐに当社を参拝している。三韓征伐(高句麗、新羅、百済)の前、神功皇后が武内宿禰・玉妃命とともに当社に祈願し、このとき気比大神が玉妃命に神がかりして皇后の勝利を予言したとされている。                 

 鳥居をくぐり参道を進むと、左側に、猿田彦神社の鳥居が見え、石でできた参道が10mほど続き、左側に猿ロ彦神社の祠が見えてくる。

 

 気比神社の境内にある猿田彦神社。猿田彦大神を祀っており、気比大神を案内するミサキ神である。                  

 

猿田彦神社から大鳥居のある表参道を、拝殿に向かって行くと左側に長命水がある。 往古よりこんこんと湧き出て無病息災・延命長寿に欠かせない生命(いのち)の水として親しまれている。 西暦702(大宝2)年のこと。 氣比神宮の造営中に突然、一つの水場が涌きだした。 神宮の大岩から流れ落ちる 『長命水』 は、そのようにして始まったと伝えられている。 由来は定かではないが、御祭神が無病息災や延命長寿の神であることから、その名前がつけられたといわれている。                                    

表参道をさらに進んでいくと左側に手水舎、右側では社務所の新築工事が行われている。 さらに進むと左側に朱色の中鳥居かあり、その奥には気比神社本宮拝殿が優雅な姿を見せている。                                          

  朱色で塗られた中鳥居から、朱色の柱と白い壁、銅板でできた屋根がうまく調和して、美しい姿を見せている気比神宮本宮社殿

境内には砂利が敷かれているが伽藍と伽藍を結ぶ参道には石が敷かれ、調和のとれた朱色の美しい社殿を見せている本宮社殿

気比神宮は昭和20年の米軍の大空襲により、大鳥居を残してほとんどが焼失、昭和25年には本宮が再建されている。

四社の宮も昭和58年に復興された。

きらびやかな拝殿の天井と屋根 

                  きらびやかに細かく細工された本宮拝殿の天井部分

気比神社の摂社である九社の宮と、正面の奥にある豊受大神を祀る神明社

境内にある奥の細道の道中に立ち寄った松尾芭蕉の像

 俳人芭蕉は、1689年(元禄2年=江戸時代)8月に旅の途中に敦賀の地を訪れている。 敦賀では3日間の滞在であったが、芭蕉の旅の目的が月を見ることも愉しみの一つで、とりわけ敦賀では仲秋の名月を楽しみにしていたといわれている。

 芭蕉が敦賀を訪れた日に詠んだ句

   8月14日   気比神宮に夜参して

                               「月清し遊行の もてる砂の上」

  8月15日 、亭主の詞にたがわず、雨降

                               「名月や北国日和 定なき」    

  8月16日  敦賀湾 色の浜

                               「寂しさや須磨に かちたる濱の秋」

                               「浪の間や小唄に まじる萩の塵」

   芭蕉は、上記の他に敦賀では、他に4句ほど詠んだと伝えられている。

  芭蕉の像の前を通り、まっすぐ進むと、右側には池があり、正面には神水苑の建物が見えている。

                  

神水苑の上に建つ会館、豊富に湧き出る水を利用して、江戸時代には名池が誕生。 昭和では大規模な神水苑築造がなされた。

神水苑に注ぐ滝と池、敦賀の地は古くから良質の水が豊富に湧出ている。 中でも気比神宮の神域はその水脈の中心と伝えられている。

亀の池、池と池の間には石橋が架けられ、南参道の入り口になっている。

私たちは気比神宮の見学と参拝を終えた後、元来た正門にある大鳥居をくぐって外に出ると、

道路の向こう側に立っている像が見え、何だろうかと思い、立ち寄ってみる。

お砂持ちと言われれ、参道などを整備するために砂を運ぶ人達の像

 

この像は、「お砂持ち」 といわれる像で、下記のような云われがある。

この銅像は、時宗西方寺(同市松島町2丁目)の開祖・真教上人が約7百年前、当時の気比社と同寺の間の

参道が沼地化し往来が難渋したのを、信者とともに浜から砂を運んで道を整備した故事を再現したものです。

芭蕉が敦賀に泊まり、気気比神宮に参詣したとき宿の主人からこの話を聞いて詠んだ句が、

    月清し 遊行のもてる 砂の上      

                                               の句である。

上空から敦賀湾と市街を望む航空写真

私たちは、気比神宮と像の見学を終えた後、駐車場に戻り、近くにある6000人のユダヤ人の命を救った

外交官杉原千畝の記念館のある港の方に向かって行った。

敦賀の気比神宮は、近くを何度か車で通り過ぎたことは覚えているが、神宮の中に入るのは初めてであった。

木の大鳥居や神宮の歴史の深さには、驚かされる面も多い神宮であるが、

改めて、朝鮮半島の百済や新羅などや大陸とのつながりの深さを感じてくる。

この時代は、古事記、日本書紀や神話などに登場するがミステリーの部分を多く感じる時代でもあった。

敦賀もこの時代から、皇族とのつながりも深く、都との距離も比較的に近いことから、朝鮮半島との日本海交通の要所であったようである。

この時代は、山陰の出雲もそうであったが、日本海地域が太平洋地域よりも時代の先端をになっていたように感じる旅であった。

 



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