本当のヨーガを体得しましたので皆さんにご紹介したいと思い、これからいろいろと活動していきます。

 私の体験したヨーガの創始者はゴータマブッダ、即ちお釈迦さんで、日本には大正時代に中村天風によってもたらされました。

天風の考え 3

2015-12-23 11:02:57 | 日記
 今日は天風がヒマラヤのゴーク村でカリアッパからヨーガを習った時の事を記憶によって書いてみます。元の資料は経営合理化協会刊の中村天風3部作です。これらの本は大変価値あるものですから是非枕元に置かれて、お休み前に読まれることをお勧めします。一冊約1万円と高価ですが、50回以上読めば元は取れます。夢見がよくなり、生活が楽しくなります。


 さて天風、カリアッパに従ってゴーク村に入りますが数か月たっても何にも教えてくれません。業を煮やした天風、追い出されてもいいや!と迫りました。するとカリアッパは言いました。

「おまえね、頭の中のものを全部捨ててから来いよ。」

 これはとても大事な事です。本物の考えを受け入れるためには、以前の考えを捨てなければなりません。


 さて、天風は裏山深くの滝つぼの近くに座らされ「本当の自分は何ものだ?」「お前は何のために生まれてきたのか?」と考えろと命じられます。これをデイヤーナだと教えられます。

 デイヤーナとサマーデイの二つの言葉は覚えてください。ヨーガ、仏教の4禅を理解していただくのに必要な言葉だからです。(仏教ではデイヤーナ=禅定、サマーデイ=三昧。<禅定=三昧>と考えますが、この禅定-三昧の考えこそ大間違いなのです)


 ところで天風、滝壺の轟音に嫌気がさして言います。「もっと静かなところでやらせてくださいよ」と。するとカリアッパはこういいました。「わざわざ苦労してお前の為に探してきたのに、あそこが駄目ならお前はダメだな。それでは天の声どころか地の声さえ聞こえないだろう」

 これは意味のある話しです。深山幽谷や静かな寺の中で座禅を組むのは間違いです。

 滝壺の近くに座ってじっと考えていると、いつしか心が轟音にひきつけられて行きます。すると日頃の悩みや苦しみの思いが消えて行くんです。人間の心は同時に二つの事を考えられませんからね。

 これが釈迦が完成した四禅の第一弾の前半です。ヨーガの有想三昧の①です。四禅の第一禅は大きな音を使います。ここが重要です。


 次に天風が求められたのが地の声を聴くという行法です。これは文字通り地上の音を聴くものですが、それは耳をつんざくような滝壺の轟音の中で川面を飛び交うカワセミの声や裏山で吠えるクロヒョウの声を聞き取るものです。

 これは結構難しいものですが、効果は大きい。たとえばオーケストラの演奏の中で特定の楽器の音に集中するのもいいでしょう。

 その時、集中した音だけが聞こえる、と思うのは間違いです。他の音もはっきりと、しかし遠くに聞こえながら、集中した音が明確に聞こえるようにならねばなりません。

 スポーツ選手や武道家などはこの状態を経験しているでしょう。これが四禅の第一禅の後半です。ヨーガの有想三昧の②です。これができるようになると自分の心を統御(コントロール)できるようになり不安感や悩みに取りつかれる事が無くなります。

 私は歯医者に行って抜歯した時、外の花に意識を移していたら何にも感じませんでした。

 天風は狂犬が目前に迫った時、そばの電柱に手を置き心を移しました。すると狂犬は天風の足に体を滑らせて過ぎ去ってしまったのです。いくら狂犬でも電柱には噛みつかんでしょう?分かっていただけるでしょうか。

 このような状態に入っていると、周りの音を遠くに、はっきりと聞きながら、強い喜びの気持ちが表れてきます。無条件に嬉しくなってくる気持ちです。

 これが四禅の第二禅です。ヨーガでは有想三昧の③です。このところは(私の知る限り)天風の話には出てきません。恐らく彼の講演の中に入っていないのだろうと思います。



 さて地の声はすぐに聞こえるようになった(これはこれですごいことなのですが)天風ですが、天の声はテンとして聞こえません。何をどうやったって聞こえません。

 そのまま数か月がたって「ええい!もうどうにでもなれ!天の声が聞こえないからってどうってことあるか」とふてくされて河原の草むらの上に寝っ転がりました。

 そして流れゆく雲をみながら「あゝあの雲の流れゆく先に桜咲く日本が有るのかな?」と思った、その時「あっ!これだ!」と感じました。しかし何にも聞こえません。

 そこで裏山からの帰り道カリアッパ師に聞きました。実は今日こうこうだったのですが、でも何にも聞こえませんでしたよ?と。師は言いました。「ワッハッハッハ!聞こえているのに聞こえないかい?天の声とは声なき声よ!」

 天の声とは何にも聞こえない、感じない精神状態の事です。これが四禅の第四禅、無我の境地、即ち空です。釈迦はこれを涅槃と言いました。ここを理解して古い仏典を読むとよくわかるでしょう。

 涅槃を通常、人がいう悟りの境地と考えると間違ってしまいます。


 別の時の話。天風とカリアッパともう一人の三人で裏山からゴーク村に帰る途中の事。一休みしたその時、うるさいほど鳴いていた蝉がいっせいに泣き止んだことが有りました。その瞬間「あっ!これだ!」と天風。

 また天風が日本に帰り天風会(の前身)をやっていたころの話。彼が自宅でマッサージ器を使っていたのですが、当時の物はとにかくうるさかった。その機械に身を任せていたその時、女中が足をコードに引っ掛けてマッサージ器が止まってしまった。当然無音となります。

 その瞬間天風は無我の境地(=天の声)をまた経験しました。この経験がもとで無我の境地をブザーを使って人々に体験させるようにしたのです。

 

 ところで四禅の第三禅が抜けていますでしょう?仏典の解説では、四禅は1~4禅の順に進むように書いていますが、実際は第三禅が最も難しく第四禅の後に第三禅を体験することの方が多いと感じます。

 第三禅は自分自身の本体を感じ取るものですが、それはアートマンを感得するというものです。

 アートマンとは世界・宇宙そのものであるブラフマンと同じものであり、人間の実体の事です。ブラフマンの代わりに自身の実体であるアートマン(=日本語であいう魂)を感じ取ることによって悟りを得ようというのです。

 釈迦の時代の出家者(沙門)はこの境地を目指していました。

 

 天の声を聴くという行法(四禅の第四禅)はヨーガでいうと無想三昧で、
 
 自身の本体を感得する行法(四禅の三禅)は有想三昧の四です。

 
 釈迦が出家後師事した二人の仙人は共に第三禅、第四禅を全く体験することなく分かったようなことを言っていました。若きゴータマは彼らのレベルを見抜き立ち去ったのです。

  
 天風が自己の実体は「目で見ることも手で触れることも出来ないが、魂という実態だ!」と感じ取ったその時、カリアッパ師は走り寄ってきて「お前悟ったな!」と言いました。天風は「はい!悟りました!」と。「そうだ!それが本当のお前だ!」とカリアッパ。


 なぜこのような会話が成立したのでしょうか?ヨーガにはチャクラという考えが有ります。ある精神状態になると格チャクラから光が出てくると言います。その色はチャクラによって違うのだそうです。


 手のひらから光が出てきた、と言う鹿児島の坊さんや、みぞおちあたりから光が出ていたというヨーガ行者(日本人)もいました。

 おそらく天風も額から光が出たのだろうと思うのです。それを見たカリアッパが駆け寄ってきたのでしょう。



 私は額の前に太陽のようなものが薄霧の中に浮かんでいるのを二回見ています。この時額から光が出たのかもしれません。これを体験しないと第三禅を分かったとは言えないでしょう。この時「そうか!これが本当の自分なのだ!」と感じます。
  

 この経験と第四禅から出てくる考えが相まって、その後いろいろと考えるようになり、それが釈迦の仏法を理解したり自分なりの考えをまとめるもとになります。その中心には迷信を否定するという考えが有るでしょう。

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