4禅(ヨーガスートラは5段階のサマーディー・三昧)は初禅から第4禅迄順番に上がって行くと解説していますが、これは間違いです。初禅で粗雑な対象、微細な対象へと五官を集中して行くとやがて解放感に満ち溢れ、歓喜の感情が現れます。この状態が第2禅です。
(因みに、騒音の中で微細な音を聞き分ける行は重要なものですから軽視してはなりません。)
その後、第4禅の無我の境地・空に行くのが普通です。この無我の境地を釈迦は「涅槃」と言いました。釈迦の言った涅槃とは空の境地の事で、これが一切の苦しみを滅ぼした最高の境地だと言いました。涅槃とはあの世の事では有りません。
ですから、空とは「この世のすべて物に実態がないこと」では無いのです。
「空とは全てのものが縁起しており固定的自性が無い事である」とするナーガルシュナ(龍樹、ルナ・リュージュ)の説は真っ赤な偽物です。
これらの理屈を基に組み立てられている現在のあらゆる仏教は釈迦の仏教では有りません。だから誰一人解脱できないのです。
さて、第3禅とは「憶念」を体現した後「自身の本質的実体(=アートマン・真実の自我)を感じ取る為の知恵」を得るものです。この知恵を「般若」と言います。これは通常、サンスクリット語のプラジュナーを音写したものとされますが、これは間違いです。
何故ッて、般若とプラジュナーとは音が全然違いますでしょう?本当はインド語であるパーリー語の「パンニャー」を音写したものです。日本では般若を「はんにゃ」と読みますが、これは「ぱんにゃー」と読むのが正解です。般若の般は、例えば一般(いっぱん)のように「パン」とも読みますね。
さて、憶念と般若を得るためには強い精神的力が必要ですがこれを「精進・精進力」と言います。これは「何が何でも真実の自我を掴んで見せる」と言う潜在的精神力の事です。この力を得るには、それこそ「命を捨てても良い!」とまで思い込まなければなりません。
ですから「精進とは一心に仏道を学ぶ事」などと言う龍樹の説は間違いです。彼の書いた中論とか大智度論を基に組み立てられた大乗仏教は根本的に間違っています。
第三禅を会得してから再度第四禅(空の三昧)を行いますと、般若がより深くなって今まで分からなかった仏教やヨーガについて分かってきます。同時に日常に於いて今まで気付かなかった事も色々と分かってきます。
憶念が得られてからは自己に対する自信が非常に強くなり、将来を恐れることが無くなってきます。そして、さらに空の三昧を繰り返していると潜在的な力がより強く蘇ってくるのです。
空の三昧だけを行っていても高い効果が得られ第7感以上の力が現れますが、第3禅を体験した人の方が一段上という事です。
では、どうやったら憶念を得られるのでしょうか。これを文章で表すのは難しいし、やって見せても他者には分からないでしょう。コツは第二禅に至ってから「何が何でも太陽のようなものを見てやるぞ!」とだけ思って坐っている事です。ここが第四禅の空に至る道と違う処です。そうしていると精進力が出てきます。
精進力が出てきますと、もう般若とか空を求める顕在的な意志が感じられなくなります。そうなると第2禅まではすっと入って行き、その後、そのままの状態に意識を預けておられるようになります。
そうしていると、有る時「額の前あたりに直径7~8ミリくらいの、朝靄の中に浮かぶ太陽のようなものが浮かんでいる」のに気付きます。
気付く前に、太陽のようなものを見つめていながら、原語機能が働いていない=左脳が働いていない状態があった事に気づきます。これが憶念の発露です。
そのまま太陽のようなものを見つめていますと色々と考えてきます。私は最初に「あっ!これこそが本当の自分なのか!遂に見つけたぞ!」と感激しましたが、その後「本当にこれがアートマンなのか?」とか「この太陽のようなものは動かないのか?消えないのか?」などいろいろ考えました。これが般若の目覚めです。
般若は第三禅に於いてだけに現れるものでは無くて、その後何日も何年も継続して現れるものであり、その度にアートマンに対しての知識が深まり自己に対する絶対的自信となって来ます。この自己に対する絶対的自信の事を「信念」と申します。
その信念の元となるのが「本当の自我」で(それは身体も感性も通常の思考の力をも消滅させた時に現れるものですが)、そこから出てるく心を中村天風は良心と言い、人間の本心とも言いました。信念とは良心がクンクリートされた精神状態です。
彼は人間の本体を「霊魂」と現し、そこから出てくる心を霊性心と言いました。これが良心です。彼は「霊性心の満足が人間にとって最高のものである」と言っています。
逆に言えば、良心に背くような言動を行っている限り、どのような地位・名誉・権力・金銭などの現世的利益を得ようと、またいかように自己の正当性を主張しようと貴方に幸せはやって来ないのです。老害と評される政治家に多いですね。
私はこの太陽の様なものを二度見ています。一度見ただけでは「何かの勘違いではないのか?」とか、「単なる偶然でしかないのではないか?」という想いが捨てきれませんでした。
何しろ、ヨーガスートラ(ヨーガの経典)にも原始仏教経典にも憶念については何も意味ある事が書かれていないのですから。
原始仏経典に書かれている憶念に関する記述は「人間の古い記憶の事」などと有り、これは後世の偽物である事は分かっていました。現在の仏教学者は、自身で何の研究もせず、ただそれらの文章を転記して満足してきました。これでは研究者とは言えないでしょう。
一回目は早朝、公園の東屋に腰かけて三昧行を行っておった時。二回目は夜間、横になって三昧行を行っておった時です。
二回目を経験してからは憶念に対する執着心が消えたようで、その後見ていませんし、見たいとも思わなくなりました。
もし、貴方が空の三昧を最後まで体験してみたいと考えておられるなら、初禅、第二禅、第四禅と進み、第七感以上の力を会得してみた下さい。ご自身の人生が変わります。間違いなく。
その後に第三禅に挑戦された方が現実的でしょう。第三禅を会得するには一~二年はかかるかも知れませんが、諦めなければ誰でも必ず達成できます。
そうしてからは、恐らく人生が一変する事でしょう。
(因みに、騒音の中で微細な音を聞き分ける行は重要なものですから軽視してはなりません。)
その後、第4禅の無我の境地・空に行くのが普通です。この無我の境地を釈迦は「涅槃」と言いました。釈迦の言った涅槃とは空の境地の事で、これが一切の苦しみを滅ぼした最高の境地だと言いました。涅槃とはあの世の事では有りません。
ですから、空とは「この世のすべて物に実態がないこと」では無いのです。
「空とは全てのものが縁起しており固定的自性が無い事である」とするナーガルシュナ(龍樹、ルナ・リュージュ)の説は真っ赤な偽物です。
これらの理屈を基に組み立てられている現在のあらゆる仏教は釈迦の仏教では有りません。だから誰一人解脱できないのです。
さて、第3禅とは「憶念」を体現した後「自身の本質的実体(=アートマン・真実の自我)を感じ取る為の知恵」を得るものです。この知恵を「般若」と言います。これは通常、サンスクリット語のプラジュナーを音写したものとされますが、これは間違いです。
何故ッて、般若とプラジュナーとは音が全然違いますでしょう?本当はインド語であるパーリー語の「パンニャー」を音写したものです。日本では般若を「はんにゃ」と読みますが、これは「ぱんにゃー」と読むのが正解です。般若の般は、例えば一般(いっぱん)のように「パン」とも読みますね。
さて、憶念と般若を得るためには強い精神的力が必要ですがこれを「精進・精進力」と言います。これは「何が何でも真実の自我を掴んで見せる」と言う潜在的精神力の事です。この力を得るには、それこそ「命を捨てても良い!」とまで思い込まなければなりません。
ですから「精進とは一心に仏道を学ぶ事」などと言う龍樹の説は間違いです。彼の書いた中論とか大智度論を基に組み立てられた大乗仏教は根本的に間違っています。
第三禅を会得してから再度第四禅(空の三昧)を行いますと、般若がより深くなって今まで分からなかった仏教やヨーガについて分かってきます。同時に日常に於いて今まで気付かなかった事も色々と分かってきます。
憶念が得られてからは自己に対する自信が非常に強くなり、将来を恐れることが無くなってきます。そして、さらに空の三昧を繰り返していると潜在的な力がより強く蘇ってくるのです。
空の三昧だけを行っていても高い効果が得られ第7感以上の力が現れますが、第3禅を体験した人の方が一段上という事です。
では、どうやったら憶念を得られるのでしょうか。これを文章で表すのは難しいし、やって見せても他者には分からないでしょう。コツは第二禅に至ってから「何が何でも太陽のようなものを見てやるぞ!」とだけ思って坐っている事です。ここが第四禅の空に至る道と違う処です。そうしていると精進力が出てきます。
精進力が出てきますと、もう般若とか空を求める顕在的な意志が感じられなくなります。そうなると第2禅まではすっと入って行き、その後、そのままの状態に意識を預けておられるようになります。
そうしていると、有る時「額の前あたりに直径7~8ミリくらいの、朝靄の中に浮かぶ太陽のようなものが浮かんでいる」のに気付きます。
気付く前に、太陽のようなものを見つめていながら、原語機能が働いていない=左脳が働いていない状態があった事に気づきます。これが憶念の発露です。
そのまま太陽のようなものを見つめていますと色々と考えてきます。私は最初に「あっ!これこそが本当の自分なのか!遂に見つけたぞ!」と感激しましたが、その後「本当にこれがアートマンなのか?」とか「この太陽のようなものは動かないのか?消えないのか?」などいろいろ考えました。これが般若の目覚めです。
般若は第三禅に於いてだけに現れるものでは無くて、その後何日も何年も継続して現れるものであり、その度にアートマンに対しての知識が深まり自己に対する絶対的自信となって来ます。この自己に対する絶対的自信の事を「信念」と申します。
その信念の元となるのが「本当の自我」で(それは身体も感性も通常の思考の力をも消滅させた時に現れるものですが)、そこから出てるく心を中村天風は良心と言い、人間の本心とも言いました。信念とは良心がクンクリートされた精神状態です。
彼は人間の本体を「霊魂」と現し、そこから出てくる心を霊性心と言いました。これが良心です。彼は「霊性心の満足が人間にとって最高のものである」と言っています。
逆に言えば、良心に背くような言動を行っている限り、どのような地位・名誉・権力・金銭などの現世的利益を得ようと、またいかように自己の正当性を主張しようと貴方に幸せはやって来ないのです。老害と評される政治家に多いですね。
私はこの太陽の様なものを二度見ています。一度見ただけでは「何かの勘違いではないのか?」とか、「単なる偶然でしかないのではないか?」という想いが捨てきれませんでした。
何しろ、ヨーガスートラ(ヨーガの経典)にも原始仏教経典にも憶念については何も意味ある事が書かれていないのですから。
原始仏経典に書かれている憶念に関する記述は「人間の古い記憶の事」などと有り、これは後世の偽物である事は分かっていました。現在の仏教学者は、自身で何の研究もせず、ただそれらの文章を転記して満足してきました。これでは研究者とは言えないでしょう。
一回目は早朝、公園の東屋に腰かけて三昧行を行っておった時。二回目は夜間、横になって三昧行を行っておった時です。
二回目を経験してからは憶念に対する執着心が消えたようで、その後見ていませんし、見たいとも思わなくなりました。
もし、貴方が空の三昧を最後まで体験してみたいと考えておられるなら、初禅、第二禅、第四禅と進み、第七感以上の力を会得してみた下さい。ご自身の人生が変わります。間違いなく。
その後に第三禅に挑戦された方が現実的でしょう。第三禅を会得するには一~二年はかかるかも知れませんが、諦めなければ誰でも必ず達成できます。
そうしてからは、恐らく人生が一変する事でしょう。