本当のヨーガを体得しましたので皆さんにご紹介したいと思い、これからいろいろと活動していきます。

 私の体験したヨーガの創始者はゴータマブッダ、即ちお釈迦さんで、日本には大正時代に中村天風によってもたらされました。

4禅を詳しく 6

2014-02-20 08:50:49 | 日記
 4禅(ヨーガスートラは5段階のサマーディー・三昧)は初禅から第4禅迄順番に上がって行くと解説していますが、これは間違いです。初禅で粗雑な対象、微細な対象へと五官を集中して行くとやがて解放感に満ち溢れ、歓喜の感情が現れます。この状態が第2禅です。

 (因みに、騒音の中で微細な音を聞き分ける行は重要なものですから軽視してはなりません。)

 その後、第4禅の無我の境地・空に行くのが普通です。この無我の境地を釈迦は「涅槃」と言いました。釈迦の言った涅槃とは空の境地の事で、これが一切の苦しみを滅ぼした最高の境地だと言いました。涅槃とはあの世の事では有りません。


 ですから、空とは「この世のすべて物に実態がないこと」では無いのです。
 
 「空とは全てのものが縁起しており固定的自性が無い事である」とするナーガルシュナ(龍樹、ルナ・リュージュ)の説は真っ赤な偽物です。

 これらの理屈を基に組み立てられている現在のあらゆる仏教は釈迦の仏教では有りません。だから誰一人解脱できないのです。

 さて、第3禅とは「憶念」を体現した後「自身の本質的実体(=アートマン・真実の自我)を感じ取る為の知恵」を得るものです。この知恵を「般若」と言います。これは通常、サンスクリット語のプラジュナーを音写したものとされますが、これは間違いです。

 何故ッて、般若とプラジュナーとは音が全然違いますでしょう?本当はインド語であるパーリー語の「パンニャー」を音写したものです。日本では般若を「はんにゃ」と読みますが、これは「ぱんにゃー」と読むのが正解です。般若の般は、例えば一般(いっぱん)のように「パン」とも読みますね。

 さて、憶念と般若を得るためには強い精神的力が必要ですがこれを「精進・精進力」と言います。これは「何が何でも真実の自我を掴んで見せる」と言う潜在的精神力の事です。この力を得るには、それこそ「命を捨てても良い!」とまで思い込まなければなりません。

 ですから「精進とは一心に仏道を学ぶ事」などと言う龍樹の説は間違いです。彼の書いた中論とか大智度論を基に組み立てられた大乗仏教は根本的に間違っています。

第三禅を会得してから再度第四禅(空の三昧)を行いますと、般若がより深くなって今まで分からなかった仏教やヨーガについて分かってきます。同時に日常に於いて今まで気付かなかった事も色々と分かってきます。

 憶念が得られてからは自己に対する自信が非常に強くなり、将来を恐れることが無くなってきます。そして、さらに空の三昧を繰り返していると潜在的な力がより強く蘇ってくるのです。

 空の三昧だけを行っていても高い効果が得られ第7感以上の力が現れますが、第3禅を体験した人の方が一段上という事です。

 
 では、どうやったら憶念を得られるのでしょうか。これを文章で表すのは難しいし、やって見せても他者には分からないでしょう。コツは第二禅に至ってから「何が何でも太陽のようなものを見てやるぞ!」とだけ思って坐っている事です。ここが第四禅の空に至る道と違う処です。そうしていると精進力が出てきます。

 精進力が出てきますと、もう般若とか空を求める顕在的な意志が感じられなくなります。そうなると第2禅まではすっと入って行き、その後、そのままの状態に意識を預けておられるようになります。

 そうしていると、有る時「額の前あたりに直径7~8ミリくらいの、朝靄の中に浮かぶ太陽のようなものが浮かんでいる」のに気付きます。
 気付く前に、太陽のようなものを見つめていながら、原語機能が働いていない=左脳が働いていない状態があった事に気づきます。これが憶念の発露です。


 そのまま太陽のようなものを見つめていますと色々と考えてきます。私は最初に「あっ!これこそが本当の自分なのか!遂に見つけたぞ!」と感激しましたが、その後「本当にこれがアートマンなのか?」とか「この太陽のようなものは動かないのか?消えないのか?」などいろいろ考えました。これが般若の目覚めです。

 般若は第三禅に於いてだけに現れるものでは無くて、その後何日も何年も継続して現れるものであり、その度にアートマンに対しての知識が深まり自己に対する絶対的自信となって来ます。この自己に対する絶対的自信の事を「信念」と申します。

 その信念の元となるのが「本当の自我」で(それは身体も感性も通常の思考の力をも消滅させた時に現れるものですが)、そこから出てるく心を中村天風は良心と言い、人間の本心とも言いました。信念とは良心がクンクリートされた精神状態です。

 彼は人間の本体を「霊魂」と現し、そこから出てくる心を霊性心と言いました。これが良心です。彼は「霊性心の満足が人間にとって最高のものである」と言っています。

 逆に言えば、良心に背くような言動を行っている限り、どのような地位・名誉・権力・金銭などの現世的利益を得ようと、またいかように自己の正当性を主張しようと貴方に幸せはやって来ないのです。老害と評される政治家に多いですね。
 

 私はこの太陽の様なものを二度見ています。一度見ただけでは「何かの勘違いではないのか?」とか、「単なる偶然でしかないのではないか?」という想いが捨てきれませんでした。
 
 何しろ、ヨーガスートラ(ヨーガの経典)にも原始仏教経典にも憶念については何も意味ある事が書かれていないのですから。

 原始仏経典に書かれている憶念に関する記述は「人間の古い記憶の事」などと有り、これは後世の偽物である事は分かっていました。現在の仏教学者は、自身で何の研究もせず、ただそれらの文章を転記して満足してきました。これでは研究者とは言えないでしょう。

 一回目は早朝、公園の東屋に腰かけて三昧行を行っておった時。二回目は夜間、横になって三昧行を行っておった時です。
 二回目を経験してからは憶念に対する執着心が消えたようで、その後見ていませんし、見たいとも思わなくなりました。


 もし、貴方が空の三昧を最後まで体験してみたいと考えておられるなら、初禅、第二禅、第四禅と進み、第七感以上の力を会得してみた下さい。ご自身の人生が変わります。間違いなく。

 その後に第三禅に挑戦された方が現実的でしょう。第三禅を会得するには一~二年はかかるかも知れませんが、諦めなければ誰でも必ず達成できます。

 そうしてからは、恐らく人生が一変する事でしょう。 


天風に見る日常の心構え

2014-02-17 01:15:30 | 日記
 この話は経営合理化協会刊の中村天風講演本3部作に有った話だと記憶していますが、思い出すままに記してみます。



 天風がインドでのヨーガ修行を終えて帰国する時、チャイナに立ち寄った。彼は米国、英国、仏国などを回ったのであるが、密出国であった。肺結核に懸っていた彼にはビザが降りなかったからである。

 当時、密出国罪の時効は10年であった(今はどうか知らないが)。まだ2年ほど残っていたから、知古の間である孫文が第2次辛亥革命を戦っており、従兄弟が外務省の高官として赴任していたチャイナに立ち寄ったのである。

 因みに天風が米国等で名乗った名前は「孫一郎(ソンイツロウ)」、孫文の名前である「孫イッセン」をもじったものであろう。

 チャイナに着いた天風は孫文の警備隊長になった。その時の話である。

 天風が満州方面で軍事探偵をしていた頃、度々馬賊とやり合いになったが彼らは金が目的であったから、襲ってきた連中の一人二人を傷つければ逃げて行った。

 しかし、孫文を暗殺しようと襲ってくる連中を生かして返す訳にはいかなかった。何故なら、警護隊員の顔を知られれば、その一人一人を狙い撃ちしてくるからである。それは警護の失敗を意味したからだ。

 天風が満州にいた時、馬賊とやり合うのは主に刀であったが、その時は「こいつ、次は右からくるか、左からか。とにかく、奴が刀を振り上げた時が勝負だ!」などと思いながら戦っておった。

 しかしヨーガを体得してからの彼は何とも感じなく無くなった。ただ、無意識に相手に対して体が動くようになったのだ。

 山岡鉄舟が無想剣を説いたが、どうやら天風はその域を超えていたようである。自身も「宮本武蔵以上に強かった」と言っているが、頭山も「生まれる時を間違えやがって。戦国の世なら刀一本で城が持てただろうに。」と評していた。


 さて、あるとき警護隊の副長が言った。「どうも怪しい奴が付いてきています。今夜、私は隊長の側にいて寝ずの番をします。」、と。

 天風は答えた。「よせ、よせ。人間、死ぬ時はどんな事をしたって死ぬもんだ。第一、寝ずの番をしたら明日お前は使い物にならん。早く寝てしまえ。」

 そしてぐっすり眠った天風が眼を覚ますと副長が寝ずの番をしておった。天風は言った。「しょうも無い事を。籠を雇ってやるから、ひと眠りした後追いかけてこいよ。」

 ここが宮本武蔵と違う処である。武蔵は生涯風呂に入らなかったからものすごく臭かった。裸で無防備になったところを襲われるのを怖がったからであろう。

 彼には養子が二人いた。ならば、彼らに警護させて風呂に入ればいいのだ。それをしなかったという事は養子の二人をも信用していなかったという事であろう。それが、彼の自画像の眼に現れている。

 中年の天風や頭山満の写真の眼は全く違う。また織田信長公、太閤秀吉公の肖像画の眼も良い。時には信長公の肖像画の眼を見て「何を考えているのか分からないようで怖い」などと言う人が居るが、「何を考えているのか」では無くて「何とも思っていない」のだ。

 先ごろ岡山の有名な寺に修行に来ている欧米人の一人が言っていた。「以前は高収入で、高級車を乗り回していたが、そんなものにむなしさを感じやって来た。今は何も考えない生活を目指して修行している」と。

 これは間違いである。日常に於いては意識をはっきりと保持して、能力を最大限に発揮して生きなければならない。そうでなければ生きている意味が半減してしまう。

 日常を生きる時の心構えは「何も考えない」では無くて、「何とも思わない」である。

 人間は心身ともに健康であり、能力を磨かねばならない。高収入は善いことだ。地位や権力を得ることは悪い事ではない。大事なのはそれらに執着せず、人間の本当の心、良心に従ってそれらを存分に使って生きる事なのである。

 天風と親交のあったカーネギーだったか、最後が近付いた時「後5年生かしてくれれば、自分の財産の半分をやってもいい」と言ったらしい。

 それを聞いた天風「そんなもん、全部やるといえば良い。金なんて撒いちまえばいいんだ。」といった。当時(敗戦直後)のカーネギーは「日本全土を買おう」とまで言った資産家であった。

 カーネギー夫妻は天風と話した時「もっともっと今の何倍もの金が欲しい」といった。自身の生活は質素であった。彼らは今自分達がどれだけ金をっ持っているのか知らなかったようだ。其れなのに。

 欧米人は生き方を間違っている。大変な資産家になって、遊んで暮らし、余った金で慈善事業をすれば此の世でも幸せに成り、あの世での天国に行けると。

 空海さんだったか「この世で幸せに成れんものが、あの世で幸せに成れる訳が無い!」と言ったが、まことにその通りであろう。

 この世で幸せに成る事と資産家になる事とは無関係である。だが普通の人が<金が無くても幸せに成る>のは困難である。経済社会の現在、金を稼ぐことは重要であろう。その為に努力をし、能力を磨かねばならない。

 これらをせずに不平不満を言っているから、益々不幸になって行く。そして当事者はその事に気付いていながら、それを認めない。これで幸福になれるのなら、この世に希望などない。

 同時に精神を磨き、鍛え、人間本来の心を前面に出して生きれば怖いものなしである。だから意識、感性をはっきりと保ち、身体も健やかで有りながら、精神を本来の姿に保持していく事が必要なのである。

 そうなった人は現実をまっすぐ見ていながらそれを何とも思っていない、つまり恐怖感が無く不必要な欲望が無いから独特の眼をしているのである。

 彼らは、いつも人の注目を浴びてしまう。人々は、彼らが出しているオーラに引かれてしまうのだ。

 現実をまっすぐに見て、自身の心が良心によって固まっている(これを信念と言うが)上に、予知能力があって、テレパシー能力、透視能力がある。さらに身体がすこやかであり、仕事の能力も有るし、情にも厚い。これで人生楽に生きられぬ訳が無いのだ。

 

 さて、第2次辛亥革命後、大統領となった孫文であったが、人格に問題が有ったのか、その後蒋介石に敗れ日本に逃げた。その時天風も帰国したのであろう。有る時、頭山満、彼の甥で柔道8段の松下(その頃の柔道はまだ柔術と言った方が良いかも知れないが)、天風、孫文が集まり善後策を検討しておった。

 やれ、一休みと言う所で外を通りかかった飴屋を呼び入れた処、いきなり頭山にピストルを突きつけられ「手をあげろ」ときた。至近距離だから逃げようがない。天風と松下は「しまった!」と思いながら、両手を万歳して立ち上がった。

 頭山は隣で煙草を吸っていた孫文のキセルをひょいと取り、一服吸ってのち煙を突きつけられているピストルにふう―と吹きかけた。すると刺客はがたがたと震えはじめた。その瞬間、松下がピストルを握っている手を「キエー」と蹴り上げた。そして天風は刺客の首筋を掴んで、階下に放り投げた。

 その後天風は聞いた。「先生。拳銃を突きつけられた時、どのように思ったのですか?」

 頭山は言った。「(何とか思ったって)間に合わんもん。」



 松下や天風が刺客を取り押さえた時頭山こう言った。「止せ止せ!手荒な事はするな。何かの間違いじゃ。拳銃も返してやれ。」

 天風は階下に放り投げた刺客に向ってピストルを投げ返したが、その時確認したら弾は確かに入っていたという。

 まあ、かの刺客が本物なら「手をあげろ!」などと言う間もなく、引き金を引いたであろうが。


 やや、とりとめのない話になりましたが、このような実話の方が現実の世界に生きる我々には分かりやすいかと思いまして取り上げてみました。


4禅をより詳しく 5

2014-02-10 19:17:19 | 日記
 空=無我の境地(=無の境地)を涅槃と言いますが、総ての研究者、坊さんがこの境地をどのようなものか知らずにいろいろ発言していいます。

 空=無我の境地とは「何にもわからなくなった境地」「夢も見ないで眠っているような状態」の事では有りません。

 原始経典では「識が無くなった精神状態」と言っています。しかし「色」とか「識」がちゃんと理解できないであれこれ言っているから勘違いするのです。

 空とは心が完全停止した精神状態の事(間脳は除きます)。という事は「空に至る直前の精神状態のままで時間が過ぎてゆく」「時間の観念が無いままにそのままの精神状態が続いている状態の事」なのです。

 ここが分からずに「無、無、無、」とやるから野狐禅になってしまう。

 
 ジョギングやランニングをやっておられる方は経験が有るかもしれません。走っている最中は周囲の景色などをはっきり見ていたはずなのに後から考えると一定の期間の記憶が無い、とういう事が。これも空。

 ですから、行住坐臥全て三昧、というのは正しいのです。但し、三昧のままで生活すると酷い目に合いますよ。それと「行住坐臥、すべからく禅定」と言うのは間違いです。

 広義の三昧 初禅~第4禅   狭義の三昧 第4禅のみ

 広義の禅定 初禅~第3禅   狭義の禅定 第3禅のみ

 この事を忘れないでください。


 さて、今日は拙書でも紹介しました青山流無我行を紹介します。

 天風式坐禅=安定打座法は眼を閉じ音を使って精神統一する方法です。

 青山式無我行は眼、視覚を使って精神統一する方法です。どちらがより良いのでしょうか?どちらも良いのです。だから好きな方を、もしくは両方をやってみてください。


 先ず、椅子に浅く腰かけ、背筋を伸ばし、下腹を前方に突き出します。同時に、上半身の力を指先まで抜きます。すると指は自然と内側に曲がります。

 目に力を入れずに、少し離れた目立つもの、光るものを見つめましょう。自動販売機の明かりなどが良いですね。

 その時、見つめる対象の前を人々が行き交う事が重要です。自宅で行う場合、見つめる対象の前に観葉植物などを置き、それに風を当てて揺らめくようにします。

 そうして、対象を(目に力を入れずに)見つめていると、つい眼は揺れ動く葉や行き交う人々を追いかけてしまいます。それを我慢して対象に集中します。この間が空です。やってみてください。すぐに効果が出ます。

 同時に音楽を流してみるともっと効果的です。この場合、途中で音の無い時間を創って置いたものでも、そうでないものでもOKです。


 禅問答の様ですが、色々注意を引くものを作って置いて、その上で何かに心を引っ張って貰うとその間空になるのです。

 音を使った無我行は、有る音に引っ張られたその時、対象の音を消してやって無我の境地に誘導するものですが、眼を使った無我行は「対象を見ようとする眼の働きを邪魔しようとするものを無視して、対象に集中する事によって思考を停止」しようというものです。

 同じ事は、目の前の対象物をじっと見て、その後もっと近く(or 遠く)へ視線の焦点を合わせた時にも起こります。見ている対象が全体として遠ざかり、特定の対象だけがぼやけたまま浮き上がって見えるのです(すみません。うまく表現できませんが)。

 言葉で表現すると分かりにくいかも知れませんが、どれも皆様が日頃何回も経験している状態です。それを意識して行えるようにしようとするのが無我行です。

 ですからできない事(貴方が虎やヒグマに成ろうなどというような事)を修行によって達成しよう等と云うのではなくて、貴方が本来できる事を意識していつでも出来るようになろうというのが釈迦の仏教です。







4禅をより詳しく 4

2014-02-06 13:03:55 | 日記
 前回は、4禅の第2禅までを書きました。今日は第3禅を飛ばして第4禅を解説します(第3禅は後日解説します)。

 これまでの仏教の学説による解説では初禅から第4禅まで順番に上って行くように書かれていますが、実際は少々異なります。

 第2禅から第3禅へ移行する道と、第4禅に行く道とは一本道では有りません。そして第2禅から直接第4禅に行くほうが、第3禅を経由して第4禅に辿りつくよりもはるかに易しいのです。

 前にも書きましたが、4禅で最も難しいのが第3禅における「憶念」を体験することです。

 本当の所、第3禅を経験してから第4禅に到達した方が悟りは深いのです。しかし、これでは第3禅の前で誰もが立ち往生してしまいます。
 
 貴方にとって必要なのは、先ず第7感以上の力(テレパシー、予知能力、透視能力など)を甦らせ、有意義な人生を一日でも早く送る事ではないでしょうか?

 憶念を会得するのはかなり難しいものです。(釈迦以来、私以外には会得した人が居ないのではないのか?とさえ思います。)だから先ず空(第4禅)を会得して、毎日の生活に活かしながら、その後ゆっくりと第3禅の憶念取得に励んでください。

 その後、憶念を体験し般若を得た時、第4禅の悟りがもっと深くなって行きましょう。


 他方で日本人僧侶の書いた仏教書をお読みになる事をお勧めします。日本仏教の理論は他国の仏教を寄せ付けないないほどの深みがあります。

 他に天風さんの講演本(例えば少々高価ですが経営合理化協会刊の成功の実現など)を読む、安岡先生の本などを読むなどして思想を鍛えてください。個人の思想、哲学、価値観を高めないで能力だけを開花させると、かえって身を滅ぼすことになるからです。

 それと同時に仕事や学問における能力を磨くことも重要です。怠けてはなりません。

 さて、第2禅で「歓喜」の思いを得た時、貴方の心は統一され、音楽に完全に寄りかかっています。その時、寄り掛っている音楽を消してやったらどうなるでしょうか?

 貴方の心は総ての能力を結集して消えた音を追いかけます。無を追いかけるのです。この時が無我の境地「空」です。原始仏教はこれを涅槃(ニッバーナ、ニルバーナ)と言いました。

 次に紹介する方法を見つけたのは天風さんです。ある日の事、彼はマッサージ器を使っておりました。その時お手伝いさんが誤ってコードを抜いてしまったのです。

 昔の器械ですからそうとう煩かったのでしょうが、その音がいきなり消えた。その時、天風さんは「これだ!」と気付いて、その後ブザーの音などを使って安定打坐法を教えたのです。


 当初私は「これでは天風さんが死んだ後、安定打座法を学ぶ事ができないではないか!」と失望し諦めていたのです。

 ところが、商売上、愛用していたヒーリング音楽のCDを聞かせると、すべての人が約5分後不思議な顔を見せる事に気が付きました。

 そのCDは、聞き始めた5~6分後いきなり音楽が消え、せせらぎの小さな音だけになるのです。CDを聴いていた人はその数秒後「あゝ、もう終わったね!」と言ってイヤホーンを外しました。


 この事に着目したのはその数年後ですが「これなら簡単に空を体験できるではないか!」と分かったのです。


 先ず、好きな音楽を編集しましょう。5~6分於きに何回か、30~数分間音を消した状態にします。ヒーリング音楽、クラッシック、ジャズ、梵鐘の音、滝の音、読経の音など何でもOKです。

 それをやや大きめの音で流しながら(ヘッドホーンでOKですよ)初禅で解説しましたように聞き入ります。力を入れないでください。その為に容易に答えの出ないテーマについて考えたり、星団をイメージしたりするのです。

 慣れて来たら最初から細かな音に集中しましょう。そうしていると(第2禅とは関係なく)突然音が消えます。その時貴方の意識は全てを結集して消えた音を追いかけます。その間が無我の境地「空」です。

 これで貴方は空を体験しました。第4禅を会得したのです。「ほんまかいな?」と思いましたか?この空を何回か経験した後、拙書(特に般若心経の部分)を読み返してください。成る程!と思っていただけるはずです。

 
 すべての坊さんや、仏教学者の方々は「無我の境地、無の境地、空、涅槃」をさまざまな文言で語りますが、彼らの中に本当の無我の境地、空を体験した人はいません。これは断言できます。まして憶念を体験した人など、です。


 無我の境地とは何にも感じなくなった精神状態、全身麻酔をかけられたような状態の事では有りません。と言っても私は全身麻酔を経験してはいませんが。

 朝目覚めた時、もう少し布団の中に居たいとボーとしていて、時計を見たら30~40分が過ぎていて慌てて飛び起きた、なんて経験有りませんか?

 誰かの事や入試、仕事の事などをじっと考えていた時、ふと気が付いたら周りに人が居て「何ボヤ~としてるんだ。さっきから何度も呼んでいるのに!」と言われた事有りませんか?

 2例とも意識を失ったわけでは無いのに時間だけが過ぎて行った事を示していますね。この間が空、無我の境地です。

 ですから空とは、貴方が経験した事の無い境地を大変な修行(例えば千日回峰など)をしなければ会得できないようなものでは無いのです。 

 そうでは無くて、空とは貴方が偶然に経験している境地の事であります。、それを意識的に経験できるようにしたのが4禅であり、天風さんの言う安定打坐法であり、青山の言う無我行なのです。


 ただ、空の境地には深浅が有ります。しかし浅くても効果は有りますから継続してください。

 無我行を行って得るものは「本来の貴方の心」であり、「もともと持っている潜在能力を開花させること」です。

 ですから、貴方が虎になるわけでは無く、超能力者に成りましょうと云うものでも有りません。ただ、人間本来の力を取り戻し、本当の心(=良心)に従って豊かに生きていきましょうと言っているのです。


 これが身に付くと「何をも頼らず、死を恐れず望みもしない。自らの湧き上がる思いに従って生きて行けばすべてうまく行くのだ。生きている限りこの道を踏み外しはしないぞ。」と言う気持ちが自身をコンクリートしてくれるのです。それを信念と言います。


 私が時々ツイッターで過激とも思われることをコメントするのは「これに間違いがない!」と言う思いからなのです。今までこの思いに従って失敗した事が有りません。