冷たい水の羊田中慎弥/第37回新潮新人賞受賞作
主人公大橋真夫は、中学2年生である。いわゆるいじめを受けている。自殺を決意しているがクラスの水原里子を暴行殺害し、道連れにしようと今日も下校時、彼女の実家の花屋の店先から離れたところに身を隠し機を窺がっているが、果たせず、自らを責める。同時に、かばんの包丁に気を遣り、ほっと、安堵の胸を撫で下ろす。
父親は選挙に打って出ようと関係先を奔走していた。母は、これから多忙を極める予兆を感じ、夫を支えようと嬉々として愉しんでいるようである。真夫がいじめを苦にしている事に気づかない点を除けば、愛情を注いでくれる、真夫にとって平均点以上の良い両親だった。
いじめには2人の主犯格のリーダーがいて、抜き打ちで、露出した手足以外の部位を狙って、巧妙に正視できない
陰惨な暴力を加えては、お金を巻き上げたりする。
真夫が水原里子を道連れにしようとした訳は、水原がクラス担任に、真夫が被っているいじめ被害を、報告したことからである。担任の加藤は「いじめられているのなら、そうとはっきり言っていいぞ」と真夫の目を見据えて事実関係を確認しようとした。真夫は、この教師の対応には好感を抱いた。
しかし、真夫は「いじめられていません」とこれを否定する。真夫には真夫なりの「いじめに対する論理」<被害を被っても、いじめられたと思わなければいじめられたことにはならない>が既に形成されている。したがって、真夫を思っての水原のチクリだが、これは自分の論理を、破壊する行為である。このように受け止めた。
自分と違って小学生の頃から、優等生の水原がなぜか気に懸かる存在であり、それはまぶしい水原に対する恋心でもあった。無限に続くかと思えるいじめ地獄から、次第に厭世へと傾いてゆく自分。好きな水原里子を置き去りに、ひとり彼岸へ往くのはしのびない。これも真夫のもう一つの論理ゆえだった。
熾烈を増すいじめは続いていた。決行は秋と定めていたが、完遂できぬまま、新年があけた。
雪の降り積もったある朝、父は早朝に車で出かけたらしく、真夫は、昨晩書いた遺書を、机の抽斗に残し、優しい母と
さりげない会話を交わし、家をあとにした。
向かうところは、水原の家。かばんの包丁が踊っている。ところがハプニングが起こる。水原の父が急病のため、
店先の路上に停められた救急車で運ばれるところに、出くわした。
「運命には逆らえない」とは真夫の論理である。もはやこれまでと、
真夫の死出のひとり旅が始まる。
この作品はいじめを苦にした少年の自殺をテ-マにしている。
実に読み応えがあった。少年の、揺れ動く死への恐怖と諦観を、透徹した筆致で抉るように書き綴っている。
感服した点は、主人公の少年の目に映るもの、例えば建物、自然、樹木を擬人化して描く手法である。ただ途中からそれは母や、
いじめの主犯へも及んでしまったのが残念。主人公真夫を描いてこそ活きる際立った手法のはず、なまくらな刃になってしまった。
新潮11月号(平成17年)に掲載された全文にもとづいたものである。