東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(24)鉄砲洲

2012-09-17 21:50:54 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

今回は「鉄砲洲」。前回の鏑木清方の文章に絡んだ話の続きから始まる。改めて書いておくと、鏑木清方は日本画壇の巨匠の一人で、美人画で知られた人である。そして、古き良き時代の東京の町を愛した人でもあった。

「清方のいう麻生の勝ちゃんとは、本湊町河岸の大きな炭問屋「山惣」の総領息子、麻生勝之助のことである。鈴木学校では大の仲好しで「祖母が私の不勉強を責める時、いつも引合に出される勉強家」のひとりだった。亀島川の日比谷河岸にあった日比谷神社の神職の子民治とともに、清方の家では「良友と許していた」とある。
 彼の少年時代回想は、明治の築地・鉄砲洲、あるいは銀座その他の場所をまざまざとうつしだして、ほんとうに美しい。私はその文章を読みかえすたびに感動をうけるのだが、その美しさを生みだしているのは、清方の出会った人たちがあたたかく描き出されているからだとおもう。街の風景、日常のこまごまとしたもののなかに、彼の記憶にのこる人聞の姿が刻みこまれているからだ。麻生の勝ちゃんのところでは、つぎの一節がある。
「この人の姉のおみきさんと云ふのが、銀座二丁目に在つた老舗の呉服屋、越後屋に嫁ぐ前のこと、木挽町の私の宅では、月六齋の釜日があつて、江戸千家の小池といふ先生が出稽古に来て居た。嫁入前の高島田に結ひ上げたおみきさんの点茶姿を、来合せた三遊亭圓朝翁がしげしげと見てゐたが、軈て点前を了つて座に還るおみきさんに、『あなたはお美しい』と云つたのが、いかにも感に堪へかねると云つたふうなので、云はれた人はいとゞ恥かしく、身の置きどころのないありさまが子供の私の眼にも残つて忘れない。
 本湊町の河岸には炭問屋が軒を拉べてゐたが、川添の方には中へはいれば昼も小暗い大きな炭蔵が並んで、日の当つた道路から一歩踏み込むと、蔵の中はひいやりとて、あたりに積み重ねた炭の、湿つぽさと、甘酸つぱいにほひに包まれて酔つたやうな気になる。その暗い土間を通り抜けて桟橋へ出ると、そこは石川島に向いた河口になるから、やにはにキラキラする水の光に射られて眼くるめく。」
 このあとに、前号でひいた勝ちゃんと河岸の水にはいる一節がつづく。清方は淡々と筆をおさえながら、しかも的確にその情景を描いている。その麻生勝之助は画家麻生三郎氏の父上にあたる。」

亀島川のかつて八丁堀、桜川が分岐していた辺り。向こうには南高橋が見える。八丁堀が消えたのも、戦後のこと。それも昭和30年代から40年代に掛けて埋められてしまった。日比谷河岸は画面手前の方へ行った辺り。湊一丁目8。


 鏑木清方という人のこと、その人となりについてこうして知ることが出来ていくというのが、近藤氏のこの一連の文章を読んでいく楽しみの一つである。日本画の巨匠としての清方の名声は知っていても、彼の背景や人柄に非常に魅力があって、そういったことを知っていくことが、過去の東京、そしてそこに生きた人たちの醸し出す空気に触れていく楽しみと言えるように思う。
 この部分、おみきさんという妙齢の美しい女性が、三遊亭圓朝翁に美しいと賞賛されるシーン、何というのか、映画のワンシーンのようで情景が目に浮かんでくる。ここに出てくる三遊亭圓朝翁というのは、当然のことながら初代の圓朝で、今日の東京の落語の父祖と言うべき人物である。そんな名人が、その姿に魅了されるように「あなたはお美しい」と漏らし、その感嘆を込めた賞賛に羞恥を覚えて身の置き所がない有様というのが、いかにも明治の東京の人の心持ちまで現していて、その情景そのものが一場の夢のごとくに美しく思える。そして、美人画で知られた清方という人の細やかな神経の有り様にも、さすがだと思わされる。

 本湊町の炭問屋という話が冒頭に出てくるが、今でこそ炭というと、アウトドアやらバーベキューで使うものといった感覚になっているが、少し前までは家庭で普通に使うものであった。だから、町内に炭や薪を扱う燃料店があったりしたものだった。だから、当然その問屋というのもあったわけで、それがこの本湊町河岸辺りにあったと言うことになる。さらに溯っていくと、南千住に隅田川貨物駅という貨物ターミナルがある。この駅は明治29年に開業したのだが、東北線高崎線方面からの東京への貨物を受け入れるターミナルとして建設された駅で、ここに炭なども荷卸しされて、舟に積み替えられて隅田川を使って市内へと運ばれていった。この駅が開業する前には、明治16年に上野駅が開業して貨物もここで扱ったが、明治23年に秋葉原貨物駅を開業させて、貨物扱いをこちらに移した。この駅も神田川から水路が引き込まれており、舟に積み替えて東京市中へと運ばれていった。鏑木清方は明治11年の生まれなので、この話は恐らく秋葉原貨物駅から炭が運ばれていた時代の話なのではないだろうか。いずれにしても、東京市内の物資輸送の主力が水運であった時代の話である。舟で運ばれてきた炭が、陸揚げされたのが本湊町であった。それにしても、今はカミソリ堤防で川と隔てられているが、水面が間近にあったこと、そしてその周辺の景色が生々しく浮かんでくる様な描写だと思う。

本湊町といわれた辺りの大川の眺め。水面は美しいが、建ち並ぶ超高層マンションの景色は私は好きではない。屏風のように建ち並ぶ姿には圧迫感を覚える。湊二丁目16。


写真の手前から二軒目は、かつては燃料屋さんであった店。今は仕舞た屋になっている。湊一丁目11。


隅田川を背にした倉庫群。かつては炭倉が並んでいたのだろうか。今も倉庫が並ぶが、川から荷が揚げられることはない。湊二丁目16。


「鉄砲洲は関東大震災で被害をこうむったが、空襲では難をまぬがれている。したがってまだところどころに残る古い家並みは、震災後、昭和初期の建造とみることができる。もちろん、このあたり一帯も中層ピルヘの建てかえがおこなわれて、街の様相をかえてしまったが、それでも七十年の星霜をかさねた木造家屋が点在する。それをみていると、私のおぼえている昭和十年代の下町の家のたたずまいが思い浮ぶのである。」
 この界隈に印刷所、製本所が多いのは、それなりの理由があるとおもわれる。いまの町名でいうと、湊、入船、そして八丁堀、新富、築地ということになるか、明治以降の文明の発達、ジャーナリズムの輿隆に大いにかかわりがある。」

 確かに、バブル期の地上げが町を破壊し尽くす前には、戦前からの東京の町の有り様を偲ばせるような、そんな町が鉄砲洲辺りには残されていた。昭和の初め頃に、震災で全てが焼失した後に作られた町が生活の場として、活気のある町として、そこにはあった。その当時の有様は、このブログの最初の頃に掲載しているので、改めてここでリンクを貼っておく。この界隈の変わり様は、あまりに痛ましくて言葉で著しきれない。以前にも書いたが、バブルという化け物が東京中、いや日本中で暴れ回って永年に渡って培われてきた様々なものを呑み込み、破壊し尽くし、そして力尽きてこの地に屍を晒している。正にそれ以外の形容の仕方を見出せないのが、この辺りの現状である。

中央区湊(1981年撮影分と現在の姿)
中央区入船~その二、湊~その二(1981年撮影分と現在の姿)

隅田川越しに対岸に建つ超高層マンションが見える。湊二丁目16。


「日本の活版印刷は長崎の本木昌造からはじまったといわれる。その活字鋳造技術の一切を託されたのが平野富二だった。築地の松竹会館の裏手にあるコンワピルの脇には「活字発祥の碑」かあって、つぎのように刻まれている。
 「明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所をおこし、後に株式会社東京築地活版製造所と改称、日本の印刷文化の源泉となった。」

 本木昌造という人物こそが我が国の活版印刷の開祖といえる人物で、長崎でこの一日浮いて学んだ弟子達が東京や大阪で活版印刷を始めていくことで我が国の印刷が始まっていったという経緯がある。大阪にも大阪活版製造所という会社が設立され、本木の弟子の一人であった谷口黙次によって発展していく。長崎でその技術が伝えられて、そこから東京、大阪へとその技術が伝えられて、今日に至る出版、印刷という産業の歩んできた道筋がこれほどまでに明白な例も珍しい様に思う。
 明治の出版物を調べていると、明治中期辺りから出版点数が増加していき、明治末辺りになると印刷技術が洗練されていくのが見た目で分かるのが面白い。版の組み方なども、どこか不器用な印象を受ける明治中期の印刷物から、明治末頃になると、見るからにレイアウトという言葉が似つかわしいような洗練振りをみせていくことになる。調べ物は調べ物としても、こういうところを見ているだけでも、別の楽しみを感じることが出来る。それにしても、大阪は一時は東京を凌ぐ規模の大都市であった時代もあり、商都として、工業都市として、栄えてきた歴史があるのだが、出版物の点数やそれらが今日まで保存されているかどうかといった点から見ると、大きな違いが生じているのは残念だと思う。

「鉄砲洲とその周辺一帯に印刷業、製本業が発達したのも情報産業のあおりである。水運による物資輸送、酒や薪炭をなりわいとしていた家でも、つぎの世代の子供となると、新聞杜や印刷所に勤めたりする。水運のほうはトラックの発達でだんだんさびれてくる。そこで印刷技術をおぽえた若ものは、一人前になって印刷機を購いいれ、仕事をはじめる。『中央区の昔を語る』(三)(前出)のなかで、土地の故老たちの話をきいた川崎房五郎氏は「みなと町的様相から印刷業の町に」なったと語っていたが、中小規模の印刷所が集中したのは、社会的.文化的な要因による。いまもなお、昔ながらのガチャコン、ガチャコンという印刷機の音をきくと、このあたりの立地条件と生成転化の跡を知らされるのである。しかし、大資本の底地買いははげしく迫っていて、この印刷の街はどんなふうに変わってゆくのか、予断はゆるされない。」

 今日に至っても、鉄砲洲周辺には印刷関係の会社は存在している。だが、かつての様な小規模な町工場はほぼ壊滅してしまっている。印刷という世界は、必ずしも大規模な工場で行われていくものばかりではなく、小さな町工場レベルので会社も数限りなく存在してきた。上の方にリンクを貼っておいた鉄砲洲辺りのかつての姿もそうだし、神保町三丁目の裏通りなどにも数多くの小さな印刷工場があった。今ではかつてあれ程までに町を埋め尽くしていた町工場が、綺麗さっぱりと姿を消しているのが今日でもある。電子化、デジタル化による印刷出版不況ということが言われて久しいのも確かだ。町の中から書店が姿を消し始めて、ターミナル駅まで行かないと本が買えなくなったりもしている。それは、印刷を生業にしてきた小さな町工場も呑み込んで、小さな空き地やその空き地を呑み込んだビルへと姿を変えていったわけである。ビルに変わったところは、その姿に目を眩まされて、かつてそこに何があったのかを忘れ去られていくが、小さな空き地の混じるかつて町であったところには、その痛みだけが記憶されているように思えてしまう。

かつては家々が埋めていた町が、歯抜けのような空き地だらけになっていて、真っ赤に錆びた立体駐車の機械が並ぶ不思議な光景。湊二丁目10。


1980年頃に撮影に訪れた時の印象では、活気に溢れた町と思っていた。実際、小さな町工場の印刷会社がどれも忙しく動き回り、その中でこの町で暮らす人たちの生き生きとした姿があった。こんな風になるとは夢にも思えなかった。湊二丁目11。


「東京印刷工業協同組合京橋支部の結成五十周年をむかえたとき、『京橋の印刷史』(昭和四十七年)というみごとな書物が刊行されている。幕末・明治以後の印刷文化史として読みごたえのある大冊だが、各社紹介の項のうち、蓬莱屋印刷所について、つぎの記述がある。
 「明治十年八丁堀仲町十五に於て初代森山亀吉により蓬莱屋として発昆、和本製本業を営む。大正十二年十一月先代森山録三郎に代り蓬莱屋森山印刷所を創立、現在の基盤を築く。昭和十九年企業整傭を機に工場閉鎖、強制疎開に伴う移転先の焼失により神奈川県平塚市の疎開先に居住を続ける。昭和二十三年現社長森山道太郎が家業の再興を計り営業再開し・昭和三十年一月弟二名の参加をもって株式会社蓬莱屋印刷所を設立、八丁堀四ー九に本社を置く。昭和三十二年事業の伸展に伴い湊町一の八に本社を移す。(以下略)」
 この短い社歴を読んだだげでも、和製本から活版印刷を手がけるようになった会社の足跡がわかるが、私が興味をいだいたのは「帖面」という美しい小冊子を刊行していたからである。昭和三十三年五月から五十七年二月まで、全五十八冊、増刊号一冊をかぞえる。表紙装槙とカットはすべて麻生三郎氏の作であった。そのうえ、活版の伝統をかたくなに守っているのがうれしかった。」

 蓬莱屋印刷所は、今も健在で、印刷に拘った本の出版を支えているようだ。活版印刷された本というのは、写植で作られた本とは確かに違う。文字の一つ一つが紙から浮き出しているかのようで、その風合いは格別なものがある。その味わいを大切にしたいと思う人は決して少なくはないようで、今でも敢えて活版印刷で書籍を刊行したいという著者は存在している。文章が印刷されて、製本されて書籍という形を取って読者の元へと届き、それが表現であるとするのなら、どう印刷するのかというのは、どんな紙を使い、どんな装丁にし、ということと同じ様に本を作る上で大切なことであることに違いはない。和本の時代から創業し、長い間印刷の世界で生き続けてきて、企業PR誌という形で生きている証しを生みだしていることは、素晴らしいことだと思う。この文章が掲載されていたのも、丸善の企業誌であった「学鐙」である。単純にビジネスで利益を上げていきさえすればいいというのではない、その会社の社風といったものを含めて、社会に還元する存在でありたいという気持が、今の世知辛い世情の中ではあまりに儚いものになっているのが情けなく思える。こんな不景気しか話の種にならないような状況下で、企業を責めようとは思わないが、メセナだなんだと言っていた時代からあまりに短い時間に変わり果てていることには、言葉がない。

本文で取り上げた会社ではないが、ここも印刷会社。今は立派なビルになっていた。湊二丁目8。


「もうひとつ特徴をあげると、第二十六号(昭和四十一年十月)から「後記」として、東京下町生活者の回想がのせられはじめたことである。
 「行秋や酒たのもしき青蜜柑~という芭蕉の句は何か秋の味覚を唆るような趣があって好きだ。
 私たちの子供の頃、東京の下町では青い蜜柑は八百屋に並べられるより前に、町内の駄菓子屋の店さきに出たように記憶する。小さい頼のゆがむ程酸っぱい青蜜柑のつめたい香りと手ざわり~駄菓子屋のおばさんがそろそろうちでもおでんをはじめるよと眩く頃のことだ。秋にこそおさない季感をとりもどす。」
 とあって、この後記の執筆者は末尾に六ポイント活字で小さく、自作の歌をそえているのである。
  日和つづく秋もおわりの町かげに
  過ぎなむとするおしろいの花
 つつましい活字の組み方である。第二十七号では、正月の食積のなつかしい思い出として「甘く煮つめた黒豆の中に千切の凍豆腐などといりまじっている西洋象棋の駒見たいな紅や白のちょろぎ」をあげ、重箱をもって弾正橋西詰の漬物屋へ買いに行かされた話を書いている。その短い文章からは師走の町を行くたのしさがつたわってくるが、紺暖簾の漬物屋は震災でなくなってしまったことをおもいおこし、それにかさねて「弾正橋の下を流れていた紅葉川という可憐な名前の堀割も数年前無風流な高速道路に姿を変えた。橋だけは震災にも焼け落ちず、今は陸橋として残っている。その下を水ならぬ竪しいくるまの列が流れている」と書いているのであった。
 この作者はいったい誰なのだろう。号をかさねるにつれて、後記はだんだんと饒舌になって、紬かい活字で二頁にわたるときもあった。よくみると六ポより小さな活字だ。そんな活字はルビ以外にはないはずである。活字組みの清刷りをとって縮尺製版したものとわかったが、この欄の筆者は後記に情勲をそそいで、少年時代の記憶もしっかりと埋めこんでいる。その土地に生きたものでなければ、絶対に書けぬ文章である。」

 引用されている文章、歌も勿論良いのだが、それを紹介されている文章に引き込まれてしまう。ここで出てくる下町は、今出来の安っぽい下町ではない、古くからの江戸の香りの残る東京の下町である。日本橋、神田、京橋、銀座といった、江戸の頃からの町場の中心地の空気と生活感がある。私の思い出の中でも、その年の蜜柑の出始めというのは、まだ緑の濃い蜜柑で、初物だなんて有り難いようだが、食べてみると実に酸っぱくて、その容赦ない酸っぱさが記憶に残る。とはいえ、それが最初に並んだのが駄菓子屋の店先であったというのは、さすがに知らない。
 ちょろぎというのも、初めて知った。母に聞いてみたところ、黒豆と食べるあれのことだなどと言っていたが、我が家では見掛けた覚えがないように思う。紫蘇科の多年草の植物で、茎塊がチェスの駒のようで、元々は白いのだが梅酢や紫蘇酢に漬けて赤く染めるという。だから、漬物屋へ買いに行かされていたという話になるのかと納得。弾正橋は今では上下を首都高速道路に挟まれた形になっている。そして、そんな状態なので、紅葉川があったことすら想像するだに難しいし、その西詰めに震災までは紺暖簾の漬物屋があった情景を思い浮かべるのも困難な有様である。でも、こんな文章が残されていれば、変わり果てた町にかつて何があったのかを知る手掛かりになってくれる。都営地下鉄浅草線宝町駅の間近だが、今はビルが建ち並んでいて町があって人の生活があったことが思い浮かばないような都心の景色の辺りになっている。

 そして、この後記の書き手について、読んでいる私も知りたいと思うようになっていくのだ。そんな風に導いてくれるのが、この「東京・遠き近く」の楽しさだと私は感じている。

 近藤氏は麻生二郎氏からこの「帖面」を譲られ、築地や明石町、鉄砲洲の話を語らったという。そして麻生氏の『絵そして人、時』(昭和六十一年、中央公論美術出版)に収められている「佃島渡船」という文章から牽いている。
 「子供のころは川に面して同じようなかたちの倉庫がならんでいた。その倉からつき出ている桟橋に立って川の流れは見あきることがなかった~時間と季節の変化で風景は複雑であった。この佃島や石川島造船所の起重機などはいつも見ていた風景であった。造船所の様子はこちらからもよく見えて船が出来るにしたがってかたちがだんだんはっきり判るようになる。進水式のときには船がすべり出すと鳩が飛びたつのも見えた。対岸の越前堀の岸に船をぶつけたこともあった。大川端の日々の風景はこのころの生活の全部であった。
 いまの潮見観音あたりに堀割があって木造の古風な橋がかかっていたし、この溝はどろどろと青黒かったが、小舟なぞ出入していた。鉄砲洲小学校はこの溝づたいにあった。明石町の居留地の中心を流れていた溝も異国風なこの地帯と調和して美しかった。共に震災後うめて道になってしまった。このような堀割は必要があって出来たものであろうが、無造作にぶちこわしてしまうのはどういうことか。…古いものを毀すことは簡単だが、自分のからだをきずつけることと同じであろう。自然発生的に出来てしまったような都会ではなくて、人の叡知のつみかさねであれば、現在の都合で割切るのは危険だ。このような混乱をいつまでもつづけることもあるまいにと思う。」
 麻生さんの眼には風景の破壊が人間の生活と歴史を無視した暴挙としてうつっている。「後記」の筆者が時代の推移を悲しく回想のなかにつつみこんでいるとすると、麻生さんのそれには激しい怒りがある。」

 はたして、今の変わり果てた鉄砲洲を御覧になったら、どんな言葉が出たのかと思う。今の有様には言葉が出ないのではないだろうか。いっそのこと、ビルの建ち並ぶ無味乾燥なところになっているのなら、まだしも怒りの覚えようもありそうだが、今の有様はそれよりも遙かに酷い。暮らしていた人々の心も傷つけ、町を破壊し、そしてバブルという名の化け物が野垂れ死んでいるとしか言い様がない。この町の現在の姿を見ると、どうすればいいのか、茫然と立ち竦むしかない。せめて、今もこの町に生きる人たちの気持の済むような解決策を探し出す努力をする以外には、手の打ちようがないように思えてしまう。

この一角の景色は、昔からあまり変わっていない。酒屋からの並びで、銅板張りの看板建築がある。かつてはこんな家が数多くある町だった。湊二丁目14。


「私は「帖面」のバックナンバーをとりだしてみた、詩文と絵と鉄砲洲回想が交響して、独自の世界を生みだしている。印刷の街にあって、印刷物はかずかず出ているはずだが、小さくともこれほど芸術味ゆたかに、土地への愛着をしめしたものはほかにないようにおもえる。麻生さんの紹介で、編集担当の福井一氏と知りあい、この小冊子が蓬莱屋印刷所のPR誌だとわかったが、すこしも誇示することなくひとつの世界を守りつづけてきた。武蔵野美術大学に学んだ福井氏は麻生さんのお弟子さんであった。
 ところが「後記」の筆者S氏のことはたしかめずじまいだった。おもいきって森山道太郎氏に書面を差上げたところ、鉄砲洲生まれの歌人白川晃氏で、随想集『ちよろぎ』(昭和四十八年)『つはぶき』(平成三年、ともに帖面舎刊)の著者と教えて下さった。『ちよろぎ』には「もとこれ尫弱の一童蒙、東京下町の水辺に生ひ育ちて、露命を紡ぐこと糸のごとく、今日に及びぬ」とある。」

 こうして、その名を知らさせると、その方の書かれたものを読んでみたいと思うようになる。この項で取り上げる前に読むことが出来ていれば何よりなのだが、そうはいかずとも手元のメモにその名を書き記しておくことになる。この「東京・遠き近く」をこうして辿っていくことで、私自身が近藤氏の講義を受けているかのような経験が出来ているのが面白ことだと思っている。ここに掲載できるように、一部を抜粋する作業自体も、読んでいると無駄があるわけでもなく、お見せしたい部分の方が多いので、毎回荷の重い作業になっているのだが、少しでも「東京・遠き近く」という随筆の良さを知って頂ければと思い、及ばぬ力で続けてみている。確かに、読んでいるだけよりも、こうして抜粋しながら自分で文章を書き連ねていると、改めて丁寧に読み込む作業に繋がっていることはありがたいと思う。


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