東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(57)橋と江戸文字

2014-01-07 22:20:10 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は江戸文字、中でも寄席文字と隅田川に架かる橋にまつわる話である。

 そして、今回の登場人物は前回の第56回「本所横網町」で割愛したところから話が始まっているので、改めてここで紹介しておこう。著者の近藤氏の若い友人として紹介されている、ある出版社で編集長をつとめる鱒男君である。昭和20年3月10日、東京大空襲の夜明けに蔵前橋左岸南詰の同愛記念病院で生まれたという。その日に生まれた当人には、その時に周囲がどんな状況にあったのか知る術もなかったが、母親からはその時の話は聞いたことがなかったという。親戚から聞かされて、如何に凄まじい状況の真っ直中で生を受けたのか知ったということが書かれている。浅草、鳥越神社のそばに実家があって、そこはその日の空襲で焼けたという。

「鱒男君は橘右近さんの弟子である。若いころからきちんとした措書の文字を書いていたが、いつのころからか、寄席文字で手紙をくれるようになった。筆さばきにはおのずとユーモアがこもっていて、封をひらくのがたのしくなる。
 寄席文字を習いはじめたのは土地の縁だった。おなじ松戸市内に住んでいて、師匠が教室をひらいたとき、そこに参加して穂先の丸い筆をもつようになった。墨をたっぶりとふくませて一気に書き上げるから、ちょっと真似のできない芸である。師匠の言葉によると「この文字を書く極意は、余白はなるべく少なく、右肩上りに書くこと」。というのは、墨をお客、余白を畳にたとえた話である。客席に隙間ができないように、お客さんがいっぱい入ってくれるように、そして今日よりも明日、明後日と尻上りによくなるようにとの縁起をこめている。筆太で丸味をもつかたちは、寄席の人ならではの発想である。」

 寄席文字の師匠と、弟子になる鱒男君が、元々は東京の旧市街の下町の住人であったものが、後に松戸で暮らしていてそこでであうというのも面白いものだ。ある種、こういった元々都心部の住人であった人達が、東京の周辺に散っていったのは、関東大震災の後、そして第二次大戦の時という、東京にとっては大きな災害や被害を伴う事態になったときに起きている。これによって、旧市街の周辺部の都市化が急速に進むことになり、十五区制から昭和7年の三十五区制への移行の誘因になっている。第二次大戦の際の人口流出は、終戦後の復員による急激な人口増加という事態もあって、最初は周辺部への疎開から始まり、戦後の復員兵受け入れでさらに東京近郊までの都市化が進んでいったわけである。
 だから、その時期に都市化していったところには、元々下町育ちの人々が数多くいて、その気風などが受け継がれているケースもあったりする。ただ、そういった形にならないものでもあり、世代交代が進んでいくことで次第に薄れていることも事実である。

「これは、芝居の勘亭流、千社札や相撲番付などの文字とならんで、江戸文字とよぱれている。それぞれ似ているようでいて、すこしずつちがうところがおもしろい。鱒男君は師匠の『寄席百年』(橘右近コレクション。小学館)と『落語裏ばなし~寄席文字にかけた六十年』(実業之日本社)という二冊の本を貸してくれたが、それによると、寄席文字は寄席ビラからはじまったと書かれている。ことに文化から天保にかけて、両国広小路や柳橋の寄席の摺りもの、配りものから発達、その誕生のくだりを読むとつぎのとおりである。
「神田藁店に住む紺屋職人の栄次郎は本業のかたわら筆字が上手なのを頼まれ、寄席の看板やビラを書いておりました。書いているうちに、寄席独特の書体ができないものかと心をくだくようになっていました。
 紺屋の職人ですから印半纏に書く文字はお手のものです。この半纏文字に、千社札文字、提灯文字を現在では江戸時代に作られた書体という意で、江戸文字と総称していますが、それぞれ独自の特色はあっても、基本は同じで共通したものがあります。見た目の良さを第一に、デザイン化された書体なのです。
 栄次郎は、そのなかから提灯屋の書体を選び、寄席と同じ興行物の芝居の文字を取り入れてみようと恩い立ちました。
~(中略)~
 栄次郎は提灯文字にこの勘亭流を折衷した文字で寄席の看板やビラなどを書き始めました。天保七、八年(一八三六、七)頃のことです。その栄次郎の新しい書体は『大に目立て、恰かも版に摺りたるが如く諸方の席主より続々と頼手多く大いに行はれたり』(関根黙庵著『江戸の落語』)と、好評で迎えられました。いつしか寄席の看板やビラは、栄次郎の新しい書体で占められるようになります。」(『寄席百年』より)
 右近さんはこんな語りくちで寄席文字のルーツを探っている。書家の手になるものでなく、紺屋の職人が提灯文字をとりいれたという発案は、いかにも寄席にふさわしい話である。ところが栄次郎には注文が殺到、紺屋をやめ、ビラ書きが本職になってしまったというのである。」

 勘亭流というのは、いつしかフォントの名前から知った様に思う。ただ、それが寄席文字とも、千社札や相撲番付の文字などとも、同じもののように思い込んでいた。すこしずつちがうもので、そういった経緯で成り立っていったということを知ると、その面白さの一端に触れることができたように思う。こうして知っていくと、江戸の文化の成熟というもののレベルの高さを、教えられたように思える。
 昔、年賀状ソフトを買うと、おまけに勘亭流のフォントが付いてきて、面白半分に使ってみたりした覚えはあるのだが、こうして色々と知ってしまうと、以前とは見る目が違ってくる様に思う。

「明治三十六年、芝・浜松町の庭師の子だった右近さんは、十七歳のときから銀座の細川活版所で働いていた。文字をあつかう仕事についたのは、のちの寄席文字とは無縁ではなかったとおもえる。そこに介在したのが噺家への道であった。活版屋の仕事がおわると、京橋の金沢亭か、南佐久間町の恵智十へ行くのが日課だった。そのあげくに柳家さくら(のち三代目柳家つばめ)に弟子入りして、柳家龍馬、さん三、右近、二代目さくらの芸名で、震災前から第二次大戦後の昭和二十四年まで、高座ぐらし、巡業生活をつづけている。」

 明治三十六年生まれというと、私の祖父とほぼ同じ世代になる。私の祖父は、四国の生まれで上京してきてという経歴の人。祖母の家は、その頃には日本橋横山町にあった頃になる。当時の浜松町辺りは、今とはまるで違う町並みであったことは言うまでもない。すぐ近くの芝浦では、このブログで取り上げた木村荘平の作った芝濱館や芝浦館が盛況であった時代でもある。どこか、この辺りの話は、以前この「東京・遠き近く」の中で明石町辺りの話の時に、三遊亭圓朝のことが出て来たことがあったが、ふと思い出させられる様な雰囲気がある。
 第二次大戦中は、右近さんは四十歳前後という年頃。赤紙の来る年齢ではない。とはいえ、私の祖父には終戦間際に赤紙が来ていたと聞いたことがある。その時に既に、祖父は四十五歳になっていたというのに。

「当時、浅草松葉町の一軒家に住んでいたという右近さん一家は、非常の場合の逃げ場所を入谷の空地(建物の疎開地)にきめていたという。火がまわってきて防空壕からとびだすと、頭上からは火の粉がかかってくる。五歳の娘の身をおもんぱかって、彼は毛布をとりに家にはいる。そうしてもどるまでのあいだに、二人は見えなくなってしまったのだ。
「ほんの一瞬に、女房は避難の人波におされて、ねんねこに娘を若ぶった姿ではぐれてしまいました。
 私は毛布をかぶって死人をまたいで逃げまわって上野美術館で一夜をあかし、約束の入谷に行った。が、いません。自分の家の焼跡に行った。ここも子どもの玩具と刀のつばの焼けただれは残っていても、肝心の女房はいやしない。本所の女房の実家、ここにもいねえ、探し探しての四日間。」
 二人の遺体は身元不明人として浅草の本願寺に運ばれていた。その対面のときのありさまを、右近さんはつぎのように語る。
「見覚えのあるもんぺの柄に、トタン板をしっぺ返して見ますてえと、女房が娘をおぶったまま寝てるじゃあありませんか。と、そのとき、女房の口から血が流れ出しました。
『おまえさんを待ちこがれていて、やっと会えたから血が出たんだぜ。さあ、重いだろうから、娘さんを背中からおろしておやりよ』
 傍にいた係のかたにそういわれると、もういけませんや。恥も外聞もなく、私は泣きに泣いちゃいました。女房に娘を抱っこさせてねんねこで包んで葬りましたが、死因は人波におされての窒息死でした。
 なあに、私なんて仕合せなほうで、焼けただれた姿を見ずに生きたまんまのきれいな女房と娘に会えたんですから・・・・・・。」(『落語裏ばなし』)」

 読んでいて胸に迫るものがある。そして、この綺麗な江戸ことば。流暢な江戸言葉で語られているのが、実に何とも言いがたい悲しい話であることが切ない。私の親や祖父母達には、幸いにして戦災で命を落とした者はいない。それでも、この3月10日に岩槻に疎開していた当時小学校六年生だった母が、東京の空が真っ赤に染まっているのを見て、震えが止まらなかったという話を聞いたことがある。その場で東京のどれほどが空襲を受けているのかも分かろう筈もないし、自分の両親が東京で、その真っ赤な空の下にいると思うだけで果てしなく怖ろしかったと言っていた。その真っ赤に染められた空の下では、限りない数の悲劇が起きていたのだ。やはり、その状況を体験されてきた方の言葉というのは、重いと感じる。

「寄席文字という呼称は右近さんから生まれている。それ以前はビラ字であった。幕末から明治・大正にかけて、ビラ清、ビラ辰の家系をはじめ、神田や浅草や本所にビラ屋は存在したが、大正十二年の大震災で、寄席の減少とともに版木屋も彫師、刷師もちりぢりになった。震災後の寄席では席のものが、見様見真似でビラ字を書いていたというのである。
 震災前には路地のあちこちに寄席があった。客が百人から二百人もはいれば席はいっぱいである。庶民の楽しみはそのような小さな演芸場に集中していた。席亭(経営者)にもおもしろい人がいた。落語が好きで寄席にかよっているうちに、ひとつ席をつくってみようとして実現した人たちである。それだけに人情もこまやかだった。右近さんのいう震災後の変化の例をあげると、
「寄席のほうも上野の鈴本、人形町の末広、芝の恵智十、神田の立花、神保町の川竹、宇田川町の川桝亭か再建されましたが、それは震災前とはまるで趣の変ったものでした。道路規制法が制定され、寄席は道路から一間以上の空地がないと建設できないという規則ができたため、以前のように路地に寄席を設けることができなくなってしまったのです。この規制にはばまれ、再建がかなわず姿を消した一流席もいくつかありました。
 しかしここに寄席復興への歯車が動き始めると、また噺家の離合集散が。はじまります。芸人は土台自惚れがなければできない稼業で天狗揃いなため、紛争の種はつきず内輸もめから分裂し、新しく一派を結成することになるのでした。」
 こんな一節をよむと、東京では災害がのしかかって次の時代になると、物的な面と人間的な面とでは大きな変化をみせはじめる。私たちが東京の下町でみかけた小さな芝居小屋とか寄席は、震災前を知る人からみれば衰退期にあったのであろう。父親によく連れて行ってもらったが、それでもまだ昔の面影をとどめていた。しかしラジオの普及、映画館の隆盛にはたちうちできなかった様子である。大衆娯楽は電波と映像に移りかわっていった。そんな経過のなかで噺家と席亭は江戸・明治の伝統を守っていたのだった。」

 そういえば、これもこのブログで大分前に紹介した「大正の銀座赤坂」(多賀義勝著・青蛙房刊)は、銀座で寄席をしている家の子に生まれた著者の話だった。震災前の東京銀座での寄席がどんなものであったのか、その一端を知るには好適な一冊だった。そして、この銀座の寄席も、園芸好きが嵩じて席亭になってしまったという話だったように思う。
 そして、書かれているように、高度成長期に育った私の世代では、最早寄席は身近な娯楽ではなくなっていた。テレビの中継で見ることはあっても、上野や新宿にある、特別な場所という印象と言った方が良い様な存在になっていた。それだけに、こんな風に父親に連れられて芝居小屋や寄席に通った経験をしているという話自体が、非常に羨ましく思える。芝居と寄席というのは、時代と共に生活の中での位置付けが大きく変わってしまったものだけに、今生で見に行くと言うことと、かつての良き時代に見た経験があるということが、等質ではないと思えるのだ。

 昭和24年に、右近さんは高座をおりて、寄席文字で生きる道を歩むようになったという。高座への未練は断ちがたかったというが、右近さんしか寄席文字を書ける人はいなかったということのようだ。そこまで望まれば、ということになったらしい。

「橘右近さんは昭和四十年十一月、桂文楽(八代目)のすすめで橘流寄席文字の家元となった。その右近さんが隅田川の橋の橋名板を書くようにたのまれたというのである。それを聞いたのは、たしか昭和六十三年のことであった。その年の暮あたりから永代橋、清洲橋、駒形橋に大きな文字がみえはじめた。その後、着々と進行して、いまでは下流から全部の橋にとりつけられた。といってもそれぞれニュアンスがちがうらしい。水上または遠くから眺めることになるので、素人眼にはわからないが、鱒男君によると「江戸文字」の世界ということであった。
 それは橋の歩行者にはみえない。河岸を歩いてもカミソリ堤防のためにさえぎられてしまう。いまでは親水堤の工事が完成に近づいているので、そこから確めることができるかもしれないが、なんといっても船で大川を上り下りしなければわからないのである。私は隅田川の遊覧船に乗るとき、なるべく橋名文字を注意してみるようにつとめた。しかし残念なことに、客を満載してただ機械的に運んでゆくだけの船は、右近さんの文字を味わうにはあまりにも速すぎるのだった。」

 今も、この時に取り付けられた橋名板は取り付けられている。改めて、川面から隅田川の橋を撮った画像をチェックしてみたが、橋の中央部に取り付けられているので、親水堤から見てもあまり良くは見えないのではないだろうか。やはり、船に乗って川面から眺めるしかないように思える。川めぐりの船に乗ったときに実感したが、やはり橋は水面から眺めるのが一番美しい姿だと思う。そして、そこからでないと見えない寄席文字の橋名板というのも、なかなか気の効いた仕掛けだと思う。陸にいては分からない、見えないものがあるというのは、船に乗ってみる一つの契機にもなるだろう。
 そして、この橋名板、よく見るとちゃんと夜間には照明で照らし出されるようになっている。左右から照明が当てられるようになっていたりして、しっかりと考えて作られていることが分かる。役所のやることといえば、大体が碌なものではないといいたくなる当節だが、これはなかなかの良い仕事だったと思う。

下流から見ていく事にしよう。これは勝鬨橋。角度が付いているのと、距離が遠かったので、今ひとつ分かりづらい。だが、両側に照明が付けられていることなど、しっかりしたものであることが分かると思う。拡大しているので、画像が甘くなってしまっているのはご容赦願いたい。


これが一番分かりやすい、永代橋。文字の感じまで良く分かる。そして、この位置に付いていると、橋の上からは勿論だが、川岸からもそうは見えないことが分かって頂けるだろうか。


そして、清洲橋。この橋は、青が美しいし、橋の形も美しいと思う。比べて見ていくと、照明のカバーの形も、それぞれの橋で変えてあるのが分かる。非常に手の込んだことをしたものだと感心する。


「ビラ、看板、めくりの縁起文字。当時、九十歳になろうとしていた右近師匠は、潭身の力をふるって橋名板を書いた。隅田川の観光化にひと役買って出たのだった。
「客席に隙間ができないように、持客さんがいっぱい入ってくれるように。そして今日よりは明日、明後日と尻上りによくなりますように。精一杯笑ってくれるように・・・・・・」
師匠のこんな声がきこえてくるのである。」

 今調べてみると、右近さんは1995年に亡くなられている。九十二歳であった。隅田川の橋名板の出来上がりをご覧になってからのことになる。寄席文字に込められた想い、それがこういうものだと知ることが出来た。その想いを知った上で、またいつか川面から橋名板を見上げてみたいと思う。

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