東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

ブラタモリ~荒川・柴又を見る

2011-12-02 18:20:22 | ブラタモリ
さて、今回は荒川/柴又とのこと。前回を受けての荒川後編という意味合いが強いのかと思っていたら、何故か途中から舞台は柴又へと移ってしまった。柴又は江戸川に近く、荒川から見れば間に中川も挟んでいる。荒川について充分以上に取り上げたからと言うのならともかく、ネタの積み残しが結構あるように思われる中で柴又というのが今ひとつしっくり来ない感じだった。前回にも書いたように、荒川の水害について取り上げておきながら地元北区ではなく、荒川沿いとはいえ葛飾区の学芸員の方で話が進むのもどこか不思議に思えたのは、何か取材上の事情でもあったのだろうか?

さて、今回は荒川の水害と言うことで浮間が取り上げられていた。水塚についても取り上げられていて、地元の方の話は面白かった。この辺りは荒川放水路の開削が行われるまで東京府と埼玉県の県境が現在とは異なっていたりしたところなので、その辺りも少しは触れて貰えると良かったのにと思う。

肥料の話になっていたが、都市化の進行に飲み込まれるまでこの北区北部から板橋区、練馬区に掛けては広大な農村地帯であり、大根の産地として知られていた。隅田川を使っての大根の出荷も行われており、板橋区小豆沢の新河岸川(隅田川)にはその名も大根河岸という名を残す船着き場がある。
この名産を使っての沢庵の製造も盛んに行われており、中山道を荷車に乗せて江戸市中へと売りに行く姿が見られたそうだ。馬車には空の肥桶が乗せられ、その上に沢庵を載せていったという。沢庵を売ってしまうと、市中の下肥を買い集めて持ち帰ったという。市中で暮らす人達の下肥は食糧事情が良いので高く売れたという話も読んだことがある。これが大根河岸と呼ばれた小豆沢の船着き場。


さて、水害に話を戻そう。江戸時代以来の江戸市中のこの方面からの治水については、その痕跡が今も地名に残っている。その一つが、日本堤である。基本的にこの頃の治水では、荒川の洪水を完全に治めきることは出来ず、上流域で洪水が起きてもそれが下流の市中に及ばなければ良しとしていたようだ。浮間といい、その当時のあのエリアの最も大きな町だった岩淵、そして志茂といったところは、再三にわたって水が出るところであった。その最後の江戸市中の防衛ラインが日本堤でああった。新吉原と絡めて江戸時代からの話に出てくることの多い日本堤だが、その役割は重要だった。今は地名のみを残して堤はない。

明治以降に鉄道のジャンクションとなり、軍の大規模な施設が置かれていたことから赤羽駅周辺が大きく発展していったのだが、元々は街道筋で渡船場でもあった岩淵がこの辺りの中心地であった。岩淵や志茂では洪水に備えて農家の軒先に舟が吊されていたという。これは赤水門近くにあった志茂の西蓮寺。立派な山門だった。


何故柴又へという点そのものは疑問だが、合わせて気分を変えてみよう。柴又が江戸近郊の行楽地で下町ではないという点は、正にその通り。幕末位まではとか、曖昧な言い方をしていたが、柴又の辺りは昭和7年の35区制が施行されるまでは南葛飾郡である。北区や板橋区などは北豊島郡だったわけだが。地理的には、江戸市中からは北区滝野川辺りよりもまだ遠い行楽地であった。

キャサリン台風の話の中で、台風に女性名を付けた話になっていたが、これは今でも名前を付けることは行われている。ただ、女性名と男性名を交互に付けることになっている。これ自体は、昔は面白いことしてましたね的な話でもないのではという気がした。

その流れで、帝釈天があの地域では最も高いところにあり、水害の被害に遭わなかったことを高低差が水害から守ったという言い方をしていたが、これは完全に逆ではないかと思う。つまり、一番高いところに寺が建てられたのだ。当然、水害を避ける為に。昔の人の知恵を軽んじてはいけない。

また、天明の災害の話になっていたが、これは浅間山の天明の大噴火による惨事のことである。1783年に起きた大噴火は、麓へ大火砕流を引き起こし、大きな被害をもたらした。後に天候不順から飢饉まで巻き起こすことになるのだが、この災害で柴又まで遺体が川を流されてくるというのは、いかに酷い災害であったのか想像を絶する。先日の北区飛鳥山博物館での明治43年水害についての展示の表題「天明以来の大惨事」の天明とは、この時のことを指す。そして、この明治末の水害がそれに匹敵する程の規模であったわけである。そして、この災害を契機に荒川放水路の建設が始まる。

柴又の茶店での話で、おでんに茶飯といっていたが、これも定番メニューと言えるだろう。少なくとも、東京ではおでんと言えば茶飯と決まっている。そしてこれはどちらかというと女性向けの定番軽食メニューの代表格といえる。都内の老舗の甘味屋ではおでん茶飯のセットは必ずある。江戸から明治に掛けての東京には、軽食文化というものがあった。しっかり腹一杯になる食事と言うよりは、ちょっと小腹に収める程度にする食べ物が色々とあった。それで腹一杯などと言うのは無粋とされたという。その代表が寿司、蕎麦、天ぷらということのようだ。握り寿司も日本蕎麦も、屋台で売られていた頃の天ぷらも、ちょっと摘むだけのものだった。だから、今でも老舗の日本蕎麦屋のざる蕎麦は三回もすくえば食べ切れてしまう様な量しかない。寿司屋も同様で、しかも蕎麦屋と違って酒は出さないものだったそうだ。

蕎麦屋で長居せずに、軽く呑んでざる蕎麦をすする。寿司屋でも二,三種類軽く握らせて食べたらすっと出てくる。天ぷらも同様にといったら、今ではなかなか難しいものだと思う。この辺りの食文化のあり方は、現代よりも豊かな内容を含んでいるようにも思えてしまう。

さて、柴又は畑が今でも残る。そこを水路の跡を辿りながら歩いていた。自然の河川に限らず、人口の水路であっても一度流れが作られたものはそう簡単に消え去ることはないようだ。暗渠化されて残り続けていく。都心部でそれを探す楽しみをブラタモリでも何度も取り上げてきた。宅地化で道路の形が変わっていくケースももちろんあるのだが、郊外では耕地整理によって古くからの土地割りの形が変わっているケースも多いという。豊島区の郷土資料館の資料によると、谷端川沿いのエリアで行われているという。都市化が近郊に及んでいくのは震災後の昭和初期辺りなのだが、それ以前の段階で耕地整理で昔の面影が失われることもある。

次回は地下鉄で前後編とのこと。予告編を見たところでは、銀座線新橋駅はしっかり出てくるようだ。私の興味としては、銀座線の幻の万世橋駅跡も見せて貰えればと思う。タモリ氏は鉄道大好きだから、どんな中身になるのか、期待したいと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿