一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

市井三郎

2017年09月25日 | 社会

市井 三郎(いちい さぶろう、1922年大正11年)6月18日 - 1989年平成元年)6月28日)は、日本哲学者

□「わたしのいう意味での“不条理な”苦痛――つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛――を減らさねばならない、という価値理念は、西洋近代の果てに西洋思想がゆきついた実存的“不条理性”の概念を、一面でより明らかにしたつもりである。
 とまれ歴史は、理念の変革によってだけ動くものではない。だから人類の未来史が、わたしのいう理念を実現する方向へ、かならず”進歩”するなどといっているのではない。パラドックスをより超克した理念に眼覚めて、人間が新しい歴史的創造への努力をするとすれば、ようやく人類の歴史は、“進歩”へ近づく可能性をつかむだろう。その可能性は、よくいって五分五分であるように思う。
 たとえば、西欧近代の個人主義の立場からすれば、“先進国”に生まれついた各個人は、自分自身でなく自分の祖父たちがおこなった外地の収奪にたいして、この自分が個人的に責任を負うべき理由は見出し難いにちがいない。だから現在での隔差のことなど、おれの知ったことか、ということにならざるをえない。
 その理窟(ロジック)を、わたしはまるごとには否定しない。それはそれで、まっとうな側面をもつのである。ただその種の理窟に、少しだけ欠けているものを感じる。
 なぜなら、人がいかなる文化パターンのなかに生まれかつ育つか、という事実はその“不条理性”において、すべての人間に平等なのである。つまり収奪をつづけた“先進国”の新世代として生まれようが、収奪されつづけた“後進国”の新世代として生まれこようが、そこに”不条理性”のちがいはない。だがその根源的“不条理性”のゆえに、ただいま現在、不条理な苦痛をより多く負うているのはどちらの側であるのか。この問いを避けてとおることはできない。いや《避けてとおることはできない》、という規範意識をもつ者が少しもいないとすれば、人類の運命はこれまでであろう。少なくとも“人類史の進歩”は、まったく妄想となる。
 右の設問を避けず、当の不条理を自覚するからこそ、当の不条理にたいして祖先たちが苦闘の歴史をつづけたことの意味を実感しうる者だけが、みずからの不条理な存在そのものに耐えうるのである」(208‐209)