カメラは太陽の光と色を対象に、人物、風景、海、山など自然を相手にするから難しくなる。朝の光と昼の光は色が違う。「その1枚」にコダワリが出てくる。
そもそもフィルムの時代から撮影と現像は別々の技術だ。撮影でうまく行っても現像液でNGになることも有る。デジタルになっても撮影と印刷技術は別だ。カメラ世界の、この一貫性の無さが不愉快にさせる。こんな例は他にない。
それは置くとして、本に「1にピント、2に構図、3、4が無くて5に露出」と有ったが、露出は3には来るだろう。まずピントが合っていなくては話にならない。自ずと合わせたピントに構図は考える。
バカチョンと言われる全自動は、この2つで十分だ。先日阿蘇に行った時、同世代の男性群から撮影を頼まれたが、「ピントは半押しですか」と聞いたら「いいえ押すだけです」との返事。この2つさえ判っていないのが大半だ。
カメラの本質は、露出と理解した。なぜなら相手が太陽の光である。1日24時間いや1年365日、雲や風等で1瞬たりとも同一条件はない。その太陽の光を被写体がどう受けているか、プロ、アマ問わず、その判断が勝負なのだろう。
レンズで構図を考え、光量をシャッター速度と絞りで決める。カメラが計算した数値を疑い、露出をプラスマイナス補正するとか、ホワイトバランス、ISOを自分で決めるとか、理屈と経験の世界である。
昔は理屈と経験を全手動で行った。デジタルになって全自動でも行えるが、計算値が正しいとは限らない。ここに「自分・個性」が存在する意義が残った。
私が昔デジタルカメラを買った時、コンピュータ頭だから「画像を取り込めば、後は加工で何とでもなる」と考え、「自分」が無い世界と思って投げ出した。これが間違いだった。
少し勉強した今は、大胆な構図とどういう条件で撮影したかを考えるようになった。写真を見る目が変わった。人工の加工は良くない。妻には相談しないで、所持金の範囲でコダワッてみたい。