唯物論者

唯物論の再構築

唯物史観

2010-12-04 09:01:16 | 各論

 唯物史観では、経済発展の桎梏と化した政治体制は、発展する経済機構からの必要に抗し得ず、革命などにより崩壊すると考えられている。そして唯物史観の想定どおりに、経済発展の桎梏と化した収容所国家ソ連は、エリツィン革命により葬り去られた。

 唯物史観とは、唯物論の歴史分析の方法論である。そして唯物論とは論理の基礎を、意識ではなく物質に置く思想である。これをまとめて言い直すと、唯物史観とは論理の基礎を、意識ではなく物質に置く歴史分析の方法論である。このためにもっぱら唯物史観は、生産諸関係の変化を人間の歴史の本体に扱い、その歴史分析の切り口も常に経済学的になる。人間存在の本質は自由なのだが、人間の自由に制約を与えるのは、経済環境だからである。
 唯物史観の説明では、経済機構の発展により必要生活資材の量を超えた過剰生産が可能になると、共同体の内外に暴力的支配者が登場し、原始共産制から封建体制に政治体制が変化する。資本主義体制にしてもバージョンアップした封建体制の変種にすぎない。封建体制では支配者が被支配者を暴力的に囲い込んでいたのを、資本主義では被支配者を放し飼いに変えただけだからである。
 封建体制が資本主義に移行する理由も、発展する経済機構からの必要に従う。旧時代での労働者の囲い込みは、発展する産業への労働力移動の障壁であり、また能力を無視した身分制による労働者支配は、産業発展に寄与する労働力育成の障壁だからである。資本主義的生産諸関係の発達に伴い、封建体制は経済発展の桎梏となり、必然的に崩壊する運命にある。
 唯物史観では、経済機構が規定するのは政治体制だけではなく、社会の上部構造としての行政や法律、または宗教や思想、さらに芸術文化などの全てに及ぶ。つまり歴史とは、経済機構に対応した、上部構造のモデルチェンジの記録とみなされる。

 ただし従来の唯物史観の説明は、資本主義体制から共産主義体制への推移を除くと、原始共産制から封建体制を経て資本主義体制に到るまでの全経路が、悪鬼による人間支配の暗黒時代である。そして共産主義体制移行の必然性を説明するために、唯物史観はもっぱら資本主義体制の積極的役割と否定的役割の分析に終始しており、資本主義以前の封建体制が果した積極的役割と否定的役割の分析がなおざりになっている。唯物史観は、資本主義以前に支配者として入れ替わりで次々に登場した様々な悪鬼たちが、単に民衆を虐げる悪鬼だったのかどうかも含めて、彼らの果たした積極的役割も明らかにする必要がある。
 封建体制下の商業取引では、取るに足らない流通経路に対しても地縁属人的な支配者による独占が存在していた。それらのしがらみは、暴力同士の対決を通じた地域支配の国家的統一を経て、公正かつ迅速な市場が必要となるのに従い、最終的に資本主義により消滅させられる。しかしそれらのしがらみは、最初から無意味な搾取機構だったわけではない。地縁属人的な支配者は、支配の事実そのものが一族の信用を体現しており、そのことが安定した商品取引を実現するための重要な役割を果たしている。とくに資本主義以前の国家機構が未発達の時代では、強制的に信用を流通させるための封建的秩序を、地縁属人的な暴力装置が確保する必要があった。国家機構が発達するに到ってはじめて、それらの地域的独占が無意味になるのである。逆に言えば、統一国家誕生までの間、地回りの地域やくざ集団にも相応の歴史的役割が与えられていたわけである。
 レーニンの国家論では、国家は支配のための暴力装置である。しかし実際の国家は共同体の管理機構であり、暴力装置の側面も併せ持っているだけにすぎない。この見方は、レーニンからすれば俗流国家論かもしれないが、唯物史観を否定するものではない。共同体の管理機構の発達には、経済機構の発展に基づく過剰生産物の発生が不可欠だからである。むしろレーニンの国家論は、国家全般の否定にまで連携し、無政府主義に容易に転化する。レーニンの国家論に立てば、共同体的国家の方が邪道なのである。そしてレーニンの暴力装置国家論が国家の共同体としての側面を捨象したように、収容所国家ソ連は国家の共同体としての役割を放棄した。このことは偶然ではない。なおレーニンの国家論を全面否定した場合、正反対に国家への盲信に陥る破目になる。

 日本で最初に地域支配が国家的統一を果たした時代は不明だが、最初の国家が大和朝廷になるのは間違いないであろう。ただし大和朝廷に律令制による統一的な租税の仕組みが中国から導入されたのは、7世紀後半である。律令制導入前の大和朝廷に、民衆から生産物を収奪する暴力機構が存在していなかった可能性もある。その場合だと、大和朝廷は祭祀を行う単なる神官組織であり、租税徴収ではなく奉納物で生活をしていた一種の芸術家集団だったことになる。つまり暴力装置としての国家は、実際の国家成立よりずっと後代で成立したことになる。その一つの例証として、民衆への暴力的支配が常態化した律令制以後と弥生時代との比較で、日本人の骨格が顕著に矮小化している点をあげられる。
 民衆から生産物を収奪するためには、そのための暴力機構が必要である。律令制以前の日本は、大和朝廷に従う原始共産制が変質した国家社会主義状態であり、律令制の成立により名実ともに国家の暴力装置化も完了する。しかし経済機構の発展が生産物所有を巡る争いをさらに可能にすると、中間搾取の肥大化に始まる国家機構の分裂が始まる。国家中央は中間搾取による減収に耐え切れなくなる。このために8世紀に入るとすぐに三世一身法に始まる私有財産の容認が始まり、日本の律令制は崩壊を始める。律令制の導入以後の日本での封建体制の歴史は、大和朝廷が育成した暴力機構が自立を果し、分裂と統一を繰り返しながら巨大化し、日本の実質的支配者に君臨する歴史である。しかし支配者の入れ替わりは常に、前時代の支配方法がその有効性を失う場合に発生するものであり、唯物史観のガイドラインの枠内にある。
(2010/12/04)

唯物論者:記事一覧

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« プロレタリアート独裁 | トップ | 人間と自由 »

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 唯物論など妄想です。 (一般法則論者)
2010-12-05 00:51:34
 唯物論など妄想です。
 一般法則論のブログを読んでください。 一般法則論者
昔は生産性が低かったので皆で工場のベルトコンベ... (ニョロニョロ@ムーミン谷)
2011-07-20 08:27:43
昔は生産性が低かったので皆で工場のベルトコンベアに並んで、「男子は黒いランドセル。女子は赤いランドセル。」を大量生産しないと物資が行き渡らなかった。だから、男子学生は将校の制服で女子は水兵の制服を着ていて、男女に上下関係があった。個性を表現する輩は非国民であった。それが「時代の道徳」であった。
21世紀、工場には工作機械があって流れ作業は必要ない。デザイナーさんが増えてパソコンで個性的な商品を小ロットで作る。
みんなが個性を主張してくれないとデザイナーさんの仕事が減って不況になる。
下部構造(テクノロジー)が人々の意識を規制し経済システムをデザインする。
教育行政のお爺さんお婆さん方は未だ頭の中が「黒いランドセル、赤いランドセル」だ。だから日本はグローバリゼーションのプラットフォームが合わず、ずっと不況だ。徴兵制を復活させるなどとも言っているが、世界から仲間はずれにされるだけだ。
人々の暮らし方(上部構造)はテクノロジー(下部構造)に規制される。
 機械や技術の進歩が労働者の職を奪うというのは... (慶応次郎)
2011-07-21 13:08:06
 機械や技術の進歩が労働者の職を奪うというのは、資本主義が登場するはるか昔から繰り返されています。近年ではワープロ普及が日本語タイピストを駆逐し、CDの登場がレコード関連業界を、ネットダウンロードがレコード販売業を、デジカメの登場がカメラ撮影業界を、ネット配信が中小レンタルビデオ業者を続々と廃業に追い込みました。技術進歩は、片方に巨大な富を、片方に莫大な貧困を生み出します。このような技術進歩に対する反発として有名なのは、共産主義登場と同時期に起きた、19世紀初頭のラッダイト運動と言う機械破壊を目指した労働運動です。しかし技術進歩は社会全体としての富の増大をもたらします。したがって問題とすべきは、片側の富の増大を是認するだけで、その増大した富の一部すら片側の労働人口の再配置のために割り当てない資本主義固有の社会構造です。結果的に勤労意欲があるのに職につけないとか、生活保障も得られないままに老いを迎えるような事態が起き、資本主義はそれを個人の勤労意欲や将来設計観欠如だけに起因させます。つまり社会的弱者の意識へと責任をなすりつけ、物理的な経済システムの責任を回避しています。
 徴兵制については、憲法9条の改定が必要です。9条には、領土内への外国軍の軍事侵攻などの限定したケースに対する軍事行動の是認と、米軍指揮下ではなく、国連軍指揮下に限定した海外治安部隊での軍事行動の是認を明記すべきです。つまり野放図な9条廃棄には反対です。また徴兵制復活よりも前に、アメリカによる日本の植民地支配からの脱却が必要です。そうでないとアメリカは自国軍の出動の前に、恒常的に日本軍を出動させるようになります。つまり日本軍は、実質的に単なるアメリカ軍になります。ただしアメリカが最大の友好国であるという現在の図式を変更する必要はありません。

コメントを投稿

各論」カテゴリの最新記事