毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

満月にちなんで 感覚フォーカスのおさらいを (^^)

2018年04月29日 13時44分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


明日4月30日は さそり座の満月なんですね。

満月は浄化パワーが強く、必要なくなったものを手放すのにちょうどいい時なんだとか。

貴秋的には、「手放す」 といえば 感覚フォーカス

というわけで、最近詳細を省きっぱなしだった感覚フォーカスについて 改めてご説明しておこうと思います。




「感覚フォーカス」 とは貴秋の命名で、感覚にフォーカスするから 「感覚フォーカス」 、いま思うとなんちゅー安直なネーミングだという感じですが、それはともかく中身のほうは 数年にわたる実験観察を経て これはお伝えする価値があると思えるまでになりました。

不安 ・ 怒り ・ 恨み ・ 後悔など 長年悩まされてきた感情といいかげん手を切りたくて、かれこれ30年近く前から手当たり次第情報を集め、それらネガ感情の出現が 脳の配線が未完成な幼少期の刷り込みに端を発することを知って、自身の子ども時代を探り 原因を探し当てるところまではいったのですが、そこで 「ああ辛かったんだねぇ」 などとインナーチャイルドを慰めたり抱きしめたりいっしょに泣いたりとあれこれやってみても 一進一退、年単位の試みにもいっこうに手応えが感じられず イライラや閉塞感はつのるばかり。

そんなとき、重要な情報に出会ったのです。

ひとつは ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の 「抵抗すれば相手は大きくなる、見つめれば消える」 という神の言葉、もうひとつは マスター濱田浩朱氏の過去記事 「幸せな成功者が知っていて、そうじゃない人のほとんどが知らないこと」  「同 その2」  「同 最終回」 の中の 「ほとんどの人が思い込んでいる怒りや悲しみの感情とは、実はある種のからだの【感覚】のことらしい」 という話。

(濱田氏のブログは お時間ある方はぜひ三つともお読みいただければと思いますが、「最終回」 に前二記事のおさらいが書かれているので、お忙しい方はこれひとつでもある程度わかるかと。)

濱田氏のお話から 着目すべきは感情ではなく そのさらにおおもとである感覚のほうだと氣づかされ、そこに 「神との対話」 の 「見つめれば消える」 が加わって、「ネガ感情が上がってきたときのからだの感覚にフォーカスすれば、感情感覚ひっくるめて手放せるのではないか」 という仮説が生まれたわけです。

この仮説、試す前から これはいける! というわくわく感があって、そこから身をもっての実証実験と相成り、本腰入れ出したここ3~4年でかなりの手応えを得ることができました。




濱田氏の 「感情は 実は感覚である」 を貴秋なりに言い換えると、「感情とは 感覚に言葉が付与されたものである」 となります。

感情から悲しい、悔しい、ムカつくなどの言葉を取り去ると、残るのはからだに感じる締めつけ感や圧迫感、むかつきや鈍痛などの感覚。

そこからさらに 「締めつけ感」 「圧迫感」 などの言葉も除いてしまえば、残るのは 「それはそれ」 とでもいうしかない ある種の感覚だけ。

言葉をいっさい遮断したまま その感覚をただ受身で感じていると、時間の長短はありますが いずれすぅっと消えてゆきます。




この感覚のそもそもの発生元は、まだ言葉を持たない (脳の配線が未完の) 幼児期の辛い体験の記憶らしく、以後同じような体験をするたびに 当時と同じ感覚が走り、それが瞬時に言葉化されて感情となって心や行動を支配し、毎回うれしくない結末へと導いていたようです。

根深く刻みつけられた感情の場合、一度や二度のフォーカスで手放せはしませんでしたが、とにかくことあるごとにフォーカスフォーカスと繰り返していくうち、スイッチオンで立ち上がるからだの感覚が 大幅に和らいでいることに氣がつきました。

怒りなど、以前の感覚が火山の爆発級だとしたら、いまはせいぜい鍋のフタが持ち上がる程度。

感覚が和らいだということは 心的 ・ 時間的に余裕が生まれたということで、いくらきっかけがソフトになったからといって そこにすかさず言葉を添わせてしまえば 結局感情が荒れ狂うのは免れませんが、以前なら間髪入れず言葉化されていたものが 余裕のおかげで 感情に変換される前に手放せる確率がぐんと上がったのです。




これまでの実験探究を通して思ったのは、この三次元世界での私たちの暮らしや人生は 言葉で創られ 言葉で成り立っているということ。

感情は 感覚に言葉が加わることで生まれ、さらに 「自分をこんなに怒らせたヤツは許せない」 とか 「この悲しみを誰かどうにかして」 などと どんどん言葉が増えて “物語” が発展していきます。

逆に どんなドラマチックな感情も、そこから言葉を取り去れば 交通標識のように無味乾燥なただの感覚に変わってしまいます。

少し前の平昌オリンピックのフィギュアスケートで これを試してみて驚きました。

選手たちの心躍る美しい演技が、「ただの動き」 にしか見えなくなったのです。

ふんふん、手を振り 足を上げ ときに廻ったり跳び上がったりしながら滑っているねぇ、だからなに? とでもいうような。

大好きなフィギュアをこんな氣分で見るなんて冗談じゃないと すぐ元に戻しましたが、実験としては面白いものでした。

これがいつでもどこでも自在にできるなら、体験したくない感情や物語のときだけ 言葉と切り離して終了させてしまえばいいのですから。

感情のコントロールが効くとは こういうことでしょう。

幼いころの不快な記憶と結びついた不快な体験の繰り返しも、根氣よく言葉を外し続けることで 変えてゆくことができます。




そんなネガ感情解放の集積が、いま時を得て ずっと同じようなところで停滞していた日常を 大きく動き出させようとしているのを感じます。

雲が消えれば太陽・・・いや 明日の満月にちなんで今回は月でいきましょう、月が顔を出す 、ほんとうの自分でないものが消えれば ほんとうの自分が姿を現す \(^o^)/

無理やり自身や状況を変えようとしなくても、ほんとうでないものを手放しさえすれば、あとはおのずと動き出すようです。




















力強く頼もしい 「自己責任」 という言葉

2018年04月27日 12時43分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「自己責任」 という言葉を、以前は冷たく重苦しいものだと感じていました。

「責任はあなたにあるのだからね、結果何が起ころうとも 自業自得というものだよ」 という どこか突き放すようなニュアンスで捉えていたからです。

が、「世界は自分が創っている」 と認めると、「自己責任」 という言葉がにわかに頼もしく聞こえ出します。

「主導権も力も自分のもの」 ということになるからです。

起こったことの責任がすべて自分にあるのなら、それを変える力も方法も自分が握っているわけです。

理不尽に外から加えられた力には屈するしかなくても、自分が起こしているのなら 必ず突破口があるはず。




アニメ 「モノノ怪」 の 「のっぺらぼう」 という話に、「閉じ込められていると思えば牢になり、出たくないと思えば城になる」 というせりふが出てきます。

一見罪を犯して牢に入れられているようで、実は母親への執着から 進んで自分を被害者の立場につなぎ止め続けるヒロインの様子を指したものですが、貴秋には思い当たることが多過ぎて 痛い言葉でした。

相手はやはり親でしたが、「あなたがたのひどい仕打ちのせいで こんなに歪められてしまった、理不尽に大きなハンデを背負わされた、責任とってどうにかしてよ」 という恨みつらみがハンパなく大きかったからです。

自分では正当な主張のつもりなのですが、その底に潜む意図や それがもたらす結果には氣づいていない。




相手のせいにするとは、そのままその歪められた場に留まると自ら宣言するようなものです。

歪んだ刷り込みを生んだ状況はたしかに理不尽だったかもしれませんが、その先いつまでも被害者でい続けるとは 変化を起こす力を相手に渡し 決定権をゆだねてしまうことであり、その選択をしたのは他ならない自分自身。

刷り込みの原因である出来事は 思い返すたびに悔しかったり腹立たしかったりするかもしれないけれど、ならばなおのこと そんなところから一刻も早く抜け出すに越したことはないでしょうに、それがわからなかったのは、「自分が辛かった分だけ 相手にも辛い目を見せなければ氣がすまない」 という執着のせいでした。

あのころの貴秋は、幸せになるよりも まず戦って勝ちたかったのです。

幸せとは勝利の先に得られるものだと思い込んでいて、戦いそのものを止めるなど思いもよりませんでした。

以前 こんな男性性と女性性のワークを受けたことがありましたが、このときいかにも被害者然とめそめそしていた当時の女性性こそ、弱さを装い こんな自分をなんとかしろと執拗に迫る “篭城” の元凶だったようです。

「相手が陥落するまで被害者の立場に立てこもって 罪悪感を味わわせてやる」 というその意図に氣づいたところから すべてが動き出し、さまざまな展開が起こってきょうに至ります。




        “しなければならないことはなにもない”

ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に出てくるこの言葉が 長いあいだ謎でした。

なんとかしなければならないことが山積みだと思うからこそ どうすればいいのかを必死で探っているのに。

が、隠れた意図に氣づかないままなにをしようと うまくいくはずがなかったのです。

行動を起こすよりも まずは自分の中をしっかり見つめること、ほんとうでないものに埋もれて見失っていた本心を探り当て向き合うこと、それができれば 事のほうから動き出す、そういうことだったのだと いまでは思っています。




ほんとうの自分でないものを見分け 向き合うこと、自分のほんとうの思いに氣づくこと、そのプロセスの中で 「すべて自分が創り 起こしている」 ことが見えてきます。

その事実を中心に据えたとき、望みを叶える力を 自身の手に取り戻すことができるのです。

自己責任で生きるとは、被害者の立場を手放し 創造主の自分に戻ること。

とても明るく前向きな言葉だったんだなぁと いまでは思います (^^)




















それは苦痛か祝福か。。。。またもや登場 「インセプション」

2018年04月18日 11時15分27秒 | 大好きな本・映画・ほか


先日BSで放送された映画 「インセプション」 、父が録画しておいてくれたので 以来何度か観ていますが、今回はどうも以前は氣に留めていなかった場面にたびたび意識が向きます。

いちおうネタバレ注意ということで。













*         *         *         *         *













もうあとちょっとで任務成功というところで コブの意識の投影であるモルにロバートを撃たれてしまい 大ピンチの一味、アリアドネのとっさの発案で 三層の夢からさらにもう一階層下りて 虚無落ちとなったロバートを連れ戻すことになります。

以前モルと二人で創った夢の世界、今は廃墟の街に ロバートを探しに向かうコブとアリアドネ。

二人を待ち受けていたモルとコブの会話の中で、新たな事実が判明します。

モルの死は、コブのモルへのインセプションが 思いがけない展開を見せたことが原因だったと。

現実世界に戻りたがらないモルをなんとか連れ戻そうと コブが植えつけた 「ここは夢の中だから 自殺することで目覚めなければならない」 という考えが、彼の意図を超えて 夢から覚めたモルの意識の中で増殖し続け、夢と現実の区別がつかなくなったモルは (目覚めるつもりで) コブの目の前で高層ビルから飛び降りて 命を落としてしまったのでした。

これがコブの罪悪感の原因だったことが 終盤にさしかかったこの場面で初めて明かされるのですが、今回このシーンで思ったのです、「よかったねぇコブ」 と。

いくら消そうとしても消えない罪悪感を抱え続けていたからこそ、彼は夢の世界にのまれることなく 子どもたちの待つ現実世界に戻れたのですもの。

彼が自分だけの記憶の世界をたびたび訪れて 幻のモルとの逢瀬にふけっていたのは、妻恋しさからだと思っていましたが、実は耐え難い罪の意識から逃れようとしてのことでもあったのです。

が いくらごまかそうとしてもごまかし切れるものではなく、それはコブにとって絶えざる責め苦となりましたが、この切羽詰った場面で初めてそれを率直に明かし認めたことで、ようやっと幻のモルと決別し 夢と現実どっちつかずの不安定な意識から抜け出すことができたのです。




空想の世界というのは いくらでも都合よく創ることができます。

そしてその心地よさにのめり込めばのめり込むほど 意識が現実から乖離して 夢と現実の境が見えにくくなり、高じれば現実の世界を疎ましく思うようにさえなります。

貴秋は幼いころ 本やアニメを通じて 空想の世界に入り込むことで 親の厳しい監視や圧迫から逃れていましたが、この癖は長じるにつれてひとくなり、高校生のころには 「本の世界に入ったきりになれるものなら こんな重苦しいだけの現実世界なんか喜んで捨ててやるのに」 と本氣で思い込むまでになっていました。

まさに辛い現実から逃げようとしたコブや 夢の世界から抜け出すのを拒んだモルと同じ、だから彼らの氣持ちもわかります。

と同時に、夢の世界だけでは 生身の人間はやはり生きていけないということも よくわかるのです。

「空想のハンバーガーではお腹一杯になれない」 とおっしゃったのは岩月謙二さんだったと思いますが、夢が満たすのは脳 ・ マインドだけで、全存在が丸ごと満たされるのとは明らかに違います。

一時的な避難場所としては有効な空想の世界も、のめり込めば現実を見失い まさに虚無に落ち込んだような状態に陥ります。

生き辛いばかりの現実から無意識のうちに心が離れる貴秋の癖は 成人後もひどくなる一方で、ついにはうつ病一歩手前までいってしまいました。

あの時点で 見えない力によって和歌山行きを強く促されたのは、いやおうなしに現実世界に引き戻すための大きな救いだったと 今ではよくわかります。

空想の快感に思いっきり浸り込もうとする氣持ちに冷水を浴びせるようなネガティブな感情や出来事は、幻に引っ張られて舞い上がり ふらふら漂い続ける意識をぐいっと現実に引き戻し、鉛のようにのしかかる現実の重みが 「このままではダメだ、なんとかしなくちゃ」 と揺さぶりをかけて 目を覚まそうとしてくれます。

少し前に書きましたが、「ネガがグラウンディング (地に足つけて生きる) につながる」 とは そういうことなのです。




ただ、その不快さを直視し 現実世界の何がそんなに苦痛なのかをはっきり見極め ほんとうの自分の氣持ちを知るまで、空想と現実のせめぎ合いは続きます。

コブは アリアドネの助けもあって 初めて罪の意識を認め、自ら生んだ幻のモルに引導を渡して任務を成功させ、望んでいた子どもたちとの暮らしに戻ることができたのでした。




人がネガティブな出来事や感情をつい避けようとしてしまうのは、自己防衛反応というものでしょう。

それが苦痛しか与えないと思えば 無理もない反応です。

が、使い方次第で 人としての器を成長させ 幸福度を増すアイテムに変換させることもできると知っていればどうでしょう。

五感の世界と五感を超えた世界、複数の視点を持つことの意味が ここにあります。






















「嘘つきの悪夢」 を終らせる

2018年04月15日 13時12分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このところ政治の世界では 公文書改ざんだの口裏合わせだのと連日騒ぎになっているようですが、安倍さんであれ他のどなたであれ、またおっしゃっていることがほんとうにせよ嘘にせよ、「外の世界で起きていることは 自身の思いが創り出している」 と見るなら、真実を認めるべき相手は 他ならぬ自分自身なのではないでしょうか。

「行って かえる」 の 「行き」 の道のりがほんとうの自分でないものを体験する道なら、「かえり」 は 積み重ねてきたほんとうでないものをひとつずつ取り去って ほんとうの自分に戻る道であり、いまはちょうどその 「かえり」 に当たる時期なのです。

だから、他者に対しても自分に対しても 真実や本音を伝えるほうが万事がすんなり運ぶし、その逆をいけばどんどん進みにくくなってゆきます。

国会前のデモは日ごとに人数を増しているそうで 昔の貴秋なら飛んでいって仲間入りしていたかもしれませんが、いまは 目に映る光景すべてが自分の内側の投影であり、その中の誰かに叩きつけたくなる怒りは 実は自分の認めたくない部分に対して怒っているのだとわかっているので、外の世界で動く代わりに そんな怒りやその奥の痛みを感じることに専念します。




そもそも人はなんで嘘をつくのかといえば、最初は必要に迫られてであり、その後はその刷り込まれた行動パターンにのっとってということになるのではないでしょうか。

貴秋の母親は 自身の “正義の物差し” から外れたわが子の言動に極めて厳しい人でしたから、母の意に背くことをしたかったりしてしまったときは とにかく全力で嘘をついて隠さなければなりませんでした。

そのため 成人してたいがい経ってからでも重度の嘘つきである自分を自覚しており 後ろめたくも思っていましたが、これとは少し違うパターンがあることに氣づいたのは ここ一年ほどのこと。




以前も書きましたが、4歳前後ぐらいだったか 野に咲く花と栽培されている花の区別がつかなかった幼い貴秋は、畑の菜の花を手折って持ち帰り 母にこっぴどく叱られたあげく お百姓さんに謝りにつれてゆくと脅されて 身の縮むような恐怖を味わったことがあります。

おそらく似たようなことがほかにもあったのでしょう、これらの体験は 貴秋の意識の奥に 「そんなつもりではなかったことが いつの間にか他者に迷惑をかける事態になり代わり、自身もいつの間にか嘘つきや悪者になっていて まわりから責められ 心苦しい思いを味わう」 という悪夢のような記憶を刻みつけ、それがまさにそのような体験を生み出す鋳型を生んで 類似のパターンを繰り返し引き起こし、さらにそこから「自分を信じられない、自分は悪くて卑怯なヤツだ」 「世の中もまわりの人も恐ろしい」 などという氣持ちが育って、半世紀にもわたって貴秋を苦しめていたのです。



これに氣づいたのは 奈良にいるここ2年余りの内に引き起こしたある出来事のおかげなのですが、それはまさにこのパターンを踏襲したもので、ただ今回大きく違っていたのは これがその鋳型の存在に氣づかせるために 真我がわざとそう仕向けて起こさせたものだとわかったことです。

五感の世界的にはただもう平謝りするしかないネガティブな状況、一方五感を超えた視点から見れば これまでずっと貴秋を脅かし自信を失わせていた観念を明るみに出して向き合わせるための救済措置。

この二つの視点を行き来しながら事に臨むというのは、あの映画 「インセプション」 で コブたちが 夢と知りながらターゲットの意識に潜り込んで自由に動き回り 観念の書き換えを行なうことができたのと同じように、恐怖や恥や罪悪感 ・ 被害者意識 (こんなことになってしまって 私にはどうすることもできない) などに絡め取られ 身動きできないまま終ることなく、意図的に自身の意識を書き換えて 負のパターンから抜け出すチャンスを手にしていることを意味します。

で、外の世界で事を収めようと必死になる代わりに その状況下で湧き起こる感情に氣づき おおもとの感覚にひたすら向き合い解放し続けた結果どうなったかといえば、恐れていたような手ひどい非難にさらされることはまったくないまま 事態が収束に向けて動き出したのです。

この体験から新たに刻み込まれたのは、世界や人々が恐ろしく見えたのは 母との原体験から生まれた誤解であり、ほんとうはもっともっと寛大で暖かいものだったんだ、という思い。

「 “いつのまにか” の悪夢」 をこれ以上創造し続けることも、当時のような自己不信に陥ることも、今後はもうないでしょう。




わが身を守るために嘘をつくというのは、大なり小なり多くの人が経験すること。

その経験自体にいいも悪いもなく このコントラストの世界で望んで起こしただけのことですが、いまのこの 「かえる」 道のりでのそれは 辛く苦しいことも多いはず。

悪夢を終らせ 本来の愛そのものの自分に返るためには、この五感の世界が体験の場だと氣づいて 逃げることなく自身の痛みと向き合うこと、まずはそれだけで十分なようです (^^)



















あきらめないという思い

2018年04月12日 16時59分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に書いたように 内観してほんとうの自分でないものを手放していく道筋では 思い込みが消えたと思ってもまた戻ってくるということがたびたび起こりますが、このような繰り返しは 取り入れた仮説がほんものかどうかを確かめるときにも起こります。

ほんとうかほんとうでないか、正しいのか正しくないのか、迷いながら繰り返すこのプロセスというのは ふるいにかけることでもあるんですね。

何度ふるいにかけても消えずに残るものだけが ほんものであると。

ということは、自分を苦しめるものや納得いかないものが残っているとき これ以上はムリだと簡単にあきらめてはいけないということでもあり、そのときふるいにかけられているのは自分自身であるともいえます。

音を上げてあきらめてしまうようなら、その願いはほんものでないか、あるいは時期がきていないということだから、いまはまだ真の自分の道をゆくにはふさわしくないと。

そしてこのふるいの繰り返しに耐え抜いて残ったものには それだけの強度が備わるということでもあります。

だからこそ これだと思うものを確かにつかんだ実感は 理屈でないところではっきりわかるし、それが内なる自信につながりもする。

そもそも追求する値打ちのないことであれば、ある程度繰り返したところで なんとなくそれと感じられて 自然と意欲が落ちてゆきます。




以前からたびたび書いていますが、いのちの営みというのは なにかにつけて それ相応の時間がかかるものです。

私たちの人生には 本来の自分 (真我 ・ ワンネス ・ 神などと呼ばれる存在) でないものとしてこの世に生まれ出てから 真の自分にかえってゆくという壮大な行き来を筆頭に、この 「行って かえる」 というパターンがしばしば現れますが、ときには完全に止まってしまったかと思われるほどのこの歩みは つくづくはがゆくじれったく、氣落ちしたり自信を失ったりすることもしょっちゅう。

ここでこの 「生の営みの確かな一環だからこそ それなりに時間がかかるのだ」 「行きつ戻りつもまた人生の大事なプロセスであり 想定範囲内のことだ」 ということがわかっているだけで、かなり氣の持ちようが違ってくるのではと思います。

そして 何度引き戻されてもどれだけじれったくてもあきらめ切れない思いがあるのなら、その思いにまっすぐ従って吉だということ。




さらにもうひとつ言えば、同じところを行き来しているように見えて、実はわずかずつでも進んでいるのです。

何度引き戻されようと再度挑戦する氣概は 「あきらめない」 という宣言として宇宙に届き、そのたびごとにひとつコマを進めて 新しい立ち位置からスタートを切ることになります。

あきらめない思いを重ねるたびに、私たちは少しずつ強くなり 確実に成長しているのです。




樹木や草花をじっと眺めていても 目に見える変化はまず認められませんが、それでも芽を出し 葉を広げ 花を咲かせ 実を結ぶという変化は確実に起こります。

私たちの人生の歩みも 同じようなもの。

あまりのはがゆさじれったさに地団太踏もうと逆上しようと、それはあきらめていないからこそ湧き起こる感情なのですね。

ときに怒っても泣いてもいい、それをマイナスと捉えることもないのです。

この世界で決して変化しないのは 「あらゆるものが変化する」 という法則だけ、自分がこれと思うものをあきらめずに進んでゆく限り、私たちは確実に望みを叶える方向に向かっているのです。




















「ネガ」 とは 「根賀 = 根が賀ぶ (よろこぶ) 」 でもあるんだね

2018年04月12日 10時19分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


最近 「グラウンディング」 という言葉をちょくちょく見聞きします。

エネルギーワーク関係で使われることが多いようですが、もとの英単語 「Grounding」 には接地という意味があり、そこからスピリチュアル的に 「地に足をつけて生きる、現実社会に根ざして生きる」 ことを指すようです。

この 「グラウンディング = 地に足つけて」 という言い回しから即座に思い浮かぶのは、「ネガ」 。

そう、否定的な事象や感情を意味する 「ネガティブ」 の 「ネガ」 です。

貴秋にとって 「地に足つけて生きる」 ことと 「ネガ」 とは 切っても切り離せない関係なのです (^^)




そもそもそんな見方をするようになったきっかけは 旧ブログの 「ネガが教えてくれたこと」 に書いていますが、このときのワークでもっぱらネガティブな感情の役を演じてくれた女性からの ネガ感情になりきってのメッセージは ずっと心に残っています。

彼女を仲立ちにネガが伝えてきたこと、それは 「ネガこそが 人の内側で根を張り 地に足つけて生きられるようにする役割を担っているんだよ」 っていうこと。

あのときは このメッセージが直感的にとても納得できたのですが、そこに12年分の体験の裏打ちが加わった今は 納得の重みも厚みも違います。




三次元世界の視点しか持たなかった昔、ネガティブな感情や出来事は ネガ自身が嘆いていたように 疎ましいものでしかありませんでした。

だからこそ なんとか抜け出そうとがんばったわけですが、何度手放してもまた引き戻される繰り返しに どれほど自分を疑ったかしれません。

しかし実は、その繰り返しこそが 見えない根っこを大きく丈夫に育ててくれていたのです。

樹木の年輪は 春から夏にかけての成長が早く柔らかい部分と 夏から秋冬にかけての成長が遅く硬い部分が交互に現れることででき、この年輪の詰まっているもの、すなわち硬くて密度の高い部分が多く含まれるものが丈夫な木材になると聞いたことがあります。

また、筋肉や骨も適度な負荷をかけることで強くなるといわれていますね。

人の心もそれらと同じで、厳しい環境におかれたり 重荷を負わされたりするときほど鍛えられて強くなるようです。




生れ落ちたときからずっと創造主そのものの意識を保っていられれば どれほど楽でたやすい人生だったかしれませんが、それではわざわざこの三次元世界にやってきた意味がなくなってしまいます。

私たちはともすれば 無難に速く進むことに値打ちがあるかのように思いがちですが、この五感の世界では 速く進むことではなく より多くを体験することに値打ちがあるのです。

進んだり止まったり ときには逸れたり引き戻されたりしながら 忘れていたことを思い出し 少しずつ本来の自分に戻ってゆく、そのプロセスこそ この不自由な世界にやってきたなによりの目的であり 最高の戦利品なのです。

ある地点から別の地点へ 迷いなくまっすぐ進むのが最短距離なら、戻ったり迷ったり外れたりをさんざん繰り返した道のりは その何倍か、何十倍か。

その増えた道のりこそが宝であり 見えない世界に生い茂る根っこなのです。




幾多の失敗から身についた知恵や力は、この不自由で不完全な世界での歩みを強力にサポートしてくれます。

「こうしておればうまくいったんだ」 「これは次からはしないほうがいいな」 という数々の学びは この先どれほど失敗してもきっと切り抜けられるという自信を生み、またすべてが過不足ない最高のタイミングで起きているという氣づきは ひとりぼっちの歩みのようで 実は大きな力に守られているのだという不思議な安心感をもたらします。

たくさん失敗してたくさん学び氣づくほど、次の一歩を自信を持って踏み出せるようになるのです。




貴秋は簡単なグラウンディングのワークも好きで、地球の中心とつながっているとイメージすると なんともいい氣分になれますが、一方で 地に足ついた日々の暮らしで ネガから学んだり氣づいたりすることこそが 見えない根っこをしっかり張り巡らせ エネルギーをたっぷり吸い上げて生きる力となってくれる もっとも確かなグラウンディングなんだろうなぁとも思うのです。




先に引用した過去記事のコメント欄で 心友cocoちゃん (当時はふじの3339さん) が 「ネガって入れて変換したら根賀になっちゃった・・・笑 根が喜ぶって感じでイイかなぁ~♪」 って書き込んでくれたんだけど、すごいひらめきというか先見の明というか、ネガとはまさに根賀だったんだなぁと改めてしみじみ思うきょうこのごろです(*^^*)























「アナと雪の女王」 その後 ~ 「Let it go」 の解放感をぬか喜びで終らせないために

2018年04月01日 05時38分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


久々の 「インセプション」 の次は、久々の 「アナと雪の女王」 。

最近体験したり氣づいたりしたことから ふと連想したのですが、そういえば去年の3月に地上波放送されたこの映画を 初めて全編通して観たんだっけ。

以前の記事のときは かの有名な 「Let it go」 のあの場面しか知らなかったので エルサのことしか書けませんでしたが、じゃあ今回はどうかといえば やはりエルサにフォーカスしたお話になりそうです (*^▽^*)ゞ




さすがに一年前に一度観ただけなので 多少筋のあやふやなところがあって、確認しようと検索していたら こんな記事を見つけました。

う~ん、たしかにいくらありのままの自分でいいと高らかに歌い上げたところで 相変わらずの孤独な境遇に変わりはなく、歌詞のかもし出す雰囲気とはうらはらに 何の解決にも至ってはいないのですが、ならばこれは思い違いか自己欺瞞かといえば 決してそうではないと思うのです。




愛娘の特殊な能力を心配した両親から魔法を使うことを禁じられたエルサは、妹アナに怪我をさせてしまった後悔もあり 懸命にいいつけを守るうち、それが自らはめた枷となって 心に重くのしかかるようになります。

「インセプション」 のロバートもそうでしたが、苦しみのもとは 他者から与えられているように見えて (最初はたしかにそうだったんですが) 、実は自分で自分に課しているんですね。

で 恐れていたように ついに魔法がばれてしまったエルサは、その反動というか 半ば開き直って 「もうこのままの自分でいい、人に知られたって構わない」 という氣持ちになりますが、この 「Let it go」 を高らかに歌い上げる場面のエルサの晴れやかな表情からは ひょんなことで長年の枷が外れた解放感がうかがえます。

この心にぱぁっと光が差し込み春風が吹き抜けるような爽快感、ふわりと全身が浮き立つような軽やかさは、貴秋にも覚えがありますが まさに日本語歌詞の 「これでもう自由よ、なんでもできる」 というあの氣分です。




が、この喜びも長くは続きません。

生まれ変わって新しい人生を生きていく氣でいたエルサですが、現実は相変わらずの引きこもりで しかも今度は雪と氷に閉ざされた山でひとりぼっち、おまけに当人は知らないことながら 正面きって解き放った彼女の魔法は 夏であるはずの王国を氷の世界に変えてしまい、人々の疑念や不信を招くことになります。




内的探究に励んでいると、心の奥の引き出しが不意に開いて 答えが飛び出してくるようなことが ちょくちょく起こります。

このときの 「これですべてが変わる、よくなる」 という期待やわくわく感は まさにあの 「Let it go」 のエルサの氣分ですが、なぜか毎回そのまま進むことは叶わず、元の重たい波動域に引き戻されて 相変わらずの不快な出来事や記憶の再来となります。

ここでどれほど落ち込み、また疑念にさいなまれたことか。

せっかくひとつ先に進めたと思ったのに元のもくあみ、これは私のやりかたがまずかったということ? それともそもそもの仮説から全部間違いだったの?

何年にも及ぶこの繰り返しを経て、これが失敗でも間違いでもなかったとわかったのは つい最近のことです。




そもそもうれしくない出来事とは、自身の否定的な観念が形になったものです。

この観念は 潜在意識に潜んでいて、そのままでは触れることも変えることもできません。

書き替えのチャンスが訪れるのは、それが具体的な形をとって表面化したときです。

あの氣づきのあとのぐいっと引き戻されるような流れは、実は引き戻されたのではなく 前進していたのです。

「またひとつ賢くなったねよかったね~、じゃあその調子で残ってる思い込みもどんどん解放していきましょー (^o^)/」 ということで、力がついたからこそ 解放を待つ新たな課題が次々手渡されていたのです。

もしエルサが魔法の力を隠しおおせたまま城に留まり おおぜいの家臣に守られながら引きこもっていたら、自身が抱える問題に氣づく機会すらなかったわけで、ありのままの自分を認めた結果 さらなる問題が表面化したのは むしろ大きなチャンスだったのです。

というのは、エルサの “ありのまま” は 長年の抑圧から生じた歪みで 真のありのままからかけ離れたものになってしまっていたからです。

そのズレに氣づいて 次々起こってくる問題やトラブルを生み出している 心の中の思い込みやわだかまりと向き合い 味わって解放してやることこそ、真のありのままの自分で生きることにつながるのです。

その意味で あの名曲 「Let it go」 の場面は 真の解放ではなかったけれど、そのための重要な第一歩であったことはたしかです。




映画のエルサは 妹アナの愛に助けられて めでたくハッピーエンドを迎えることができましたが、そんなおとぎ話的展開は期待できずとも 現実世界の私たちにも ほんとうのありのままの姿を取り戻し 幸せに生きていくチャンスは 無限にあるのです。