明日4月30日は さそり座の満月なんですね。
満月は浄化パワーが強く、必要なくなったものを手放すのにちょうどいい時なんだとか。
貴秋的には、「手放す」 といえば 感覚フォーカス
というわけで、最近詳細を省きっぱなしだった感覚フォーカスについて 改めてご説明しておこうと思います。
「感覚フォーカス」 とは貴秋の命名で、感覚にフォーカスするから 「感覚フォーカス」 、いま思うとなんちゅー安直なネーミングだという感じですが、それはともかく中身のほうは 数年にわたる実験観察を経て これはお伝えする価値があると思えるまでになりました。
不安 ・ 怒り ・ 恨み ・ 後悔など 長年悩まされてきた感情といいかげん手を切りたくて、かれこれ30年近く前から手当たり次第情報を集め、それらネガ感情の出現が 脳の配線が未完成な幼少期の刷り込みに端を発することを知って、自身の子ども時代を探り 原因を探し当てるところまではいったのですが、そこで 「ああ辛かったんだねぇ」 などとインナーチャイルドを慰めたり抱きしめたりいっしょに泣いたりとあれこれやってみても 一進一退、年単位の試みにもいっこうに手応えが感じられず イライラや閉塞感はつのるばかり。
そんなとき、重要な情報に出会ったのです。
ひとつは ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の 「抵抗すれば相手は大きくなる、見つめれば消える」 という神の言葉、もうひとつは マスター濱田浩朱氏の過去記事 「幸せな成功者が知っていて、そうじゃない人のほとんどが知らないこと」 「同 その2」 「同 最終回」 の中の 「ほとんどの人が思い込んでいる怒りや悲しみの感情とは、実はある種のからだの【感覚】のことらしい」 という話。
(濱田氏のブログは お時間ある方はぜひ三つともお読みいただければと思いますが、「最終回」 に前二記事のおさらいが書かれているので、お忙しい方はこれひとつでもある程度わかるかと。)
濱田氏のお話から 着目すべきは感情ではなく そのさらにおおもとである感覚のほうだと氣づかされ、そこに 「神との対話」 の 「見つめれば消える」 が加わって、「ネガ感情が上がってきたときのからだの感覚にフォーカスすれば、感情感覚ひっくるめて手放せるのではないか」 という仮説が生まれたわけです。
この仮説、試す前から これはいける! というわくわく感があって、そこから身をもっての実証実験と相成り、本腰入れ出したここ3~4年でかなりの手応えを得ることができました。
濱田氏の 「感情は 実は感覚である」 を貴秋なりに言い換えると、「感情とは 感覚に言葉が付与されたものである」 となります。
感情から悲しい、悔しい、ムカつくなどの言葉を取り去ると、残るのはからだに感じる締めつけ感や圧迫感、むかつきや鈍痛などの感覚。
そこからさらに 「締めつけ感」 「圧迫感」 などの言葉も除いてしまえば、残るのは 「それはそれ」 とでもいうしかない ある種の感覚だけ。
言葉をいっさい遮断したまま その感覚をただ受身で感じていると、時間の長短はありますが いずれすぅっと消えてゆきます。
この感覚のそもそもの発生元は、まだ言葉を持たない (脳の配線が未完の) 幼児期の辛い体験の記憶らしく、以後同じような体験をするたびに 当時と同じ感覚が走り、それが瞬時に言葉化されて感情となって心や行動を支配し、毎回うれしくない結末へと導いていたようです。
根深く刻みつけられた感情の場合、一度や二度のフォーカスで手放せはしませんでしたが、とにかくことあるごとにフォーカスフォーカスと繰り返していくうち、スイッチオンで立ち上がるからだの感覚が 大幅に和らいでいることに氣がつきました。
怒りなど、以前の感覚が火山の爆発級だとしたら、いまはせいぜい鍋のフタが持ち上がる程度。
感覚が和らいだということは 心的 ・ 時間的に余裕が生まれたということで、いくらきっかけがソフトになったからといって そこにすかさず言葉を添わせてしまえば 結局感情が荒れ狂うのは免れませんが、以前なら間髪入れず言葉化されていたものが 余裕のおかげで 感情に変換される前に手放せる確率がぐんと上がったのです。
これまでの実験探究を通して思ったのは、この三次元世界での私たちの暮らしや人生は 言葉で創られ 言葉で成り立っているということ。
感情は 感覚に言葉が加わることで生まれ、さらに 「自分をこんなに怒らせたヤツは許せない」 とか 「この悲しみを誰かどうにかして」 などと どんどん言葉が増えて “物語” が発展していきます。
逆に どんなドラマチックな感情も、そこから言葉を取り去れば 交通標識のように無味乾燥なただの感覚に変わってしまいます。
少し前の平昌オリンピックのフィギュアスケートで これを試してみて驚きました。
選手たちの心躍る美しい演技が、「ただの動き」 にしか見えなくなったのです。
ふんふん、手を振り 足を上げ ときに廻ったり跳び上がったりしながら滑っているねぇ、だからなに? とでもいうような。
大好きなフィギュアをこんな氣分で見るなんて冗談じゃないと すぐ元に戻しましたが、実験としては面白いものでした。
これがいつでもどこでも自在にできるなら、体験したくない感情や物語のときだけ 言葉と切り離して終了させてしまえばいいのですから。
感情のコントロールが効くとは こういうことでしょう。
幼いころの不快な記憶と結びついた不快な体験の繰り返しも、根氣よく言葉を外し続けることで 変えてゆくことができます。
そんなネガ感情解放の集積が、いま時を得て ずっと同じようなところで停滞していた日常を 大きく動き出させようとしているのを感じます。
雲が消えれば太陽・・・いや 明日の満月にちなんで今回は月でいきましょう、月が顔を出す 、ほんとうの自分でないものが消えれば ほんとうの自分が姿を現す \(^o^)/
無理やり自身や状況を変えようとしなくても、ほんとうでないものを手放しさえすれば、あとはおのずと動き出すようです。