赤ちゃんってすごいなぁって よく思います。
自分の力だけでは決して生きていけない身なのに、そんなこと思いもしない様子で したいことして のびのび過ごしてる。
心地よければごキゲンだし、心地悪ければ泣く、泣いたら当然誰かが飛んできて なんとかしてくれると知っているかのように。
で、なんとかなれば ぴたりと泣き止み、あっけらかんとごキゲンさんに戻る。
後先なんて思い煩うことなく、悠然といま ・ ここを楽しんでいる。
で 何がすごいって、私たちみんな、どんな心配性の人だって、生まれたての頃はもれなくそんなふうだったのです。
過去を悔やんだり 先のことを心配したりして落ち込む赤ちゃんなんて、いませんものね。
もう一度言いますが、私たちみんな、そんなふうだったのです。
数十年分積もり積もった怒りや不安を 薄紙を剥ぐようにコツコツ手放してゆくうちに、どんな負の感情の根っこにも 純粋な悲しみがあることを知りました。
悔し涙みたいに他の感情が混じらない、ピュアに澄んだまっすぐな悲しみです。
最近では どんなネガ感情が上がってきても、同時にじわっとまぶたの裏が熱くなるのがお約束になっています。
それだけ雑多な上塗りが剥がれ落ちて、最初にネガ感情が生まれたきっかけ ・ 根源に近づいてきているのかなぁ。。。なんてぼんやり思っていると、不意にひらめきました。
これって、不安のかけらもなかった赤ちゃんが 初めて自信を失ったときの悲しみなんじゃない?
おおもとの意識体から形を持って分け出されたばかりの、つまり生まれたての赤ちゃんは、まだおおもとの意識を色濃く残しているから、思いひとつでなんでも創れる、なんでも叶えられると思っている。
実際ある程度まではそうなりますよね、まわりの大人は 純粋無垢な赤ちゃんに魅了され、どんな望みも叶えて喜ばせてあげたいって懸命になりますもの。
が、そのうちだんだんわかってくる、どんなに意識を働かせても 思い通りにならないことがたくさんあると。
貴秋は あの純粋な悲しみが、初めて自分の力ではどうにもならないことがあると知ったときの、赤ん坊の自分が感じたもののように思えたのです。
どんなに訴えてもこちらの思いが伝わらない相手、どんなに楽し氣に笑いかけても応えてくれない相手、どれほどがんばっても思い通りにならない状況、そんな壁にぶつかるたびに自信が失われ、本来の自分の力を忘れていった、その果てにあるのが いまの私たちなんでしょうね。
・・・なんて書くと悲痛なイメージですが、「行き」 の道としてはこれでバッチリOKなのです。
いつまでも全知全能だったときの記憶を残しっぱなしでは、わざわざこの不自由な世界に来た意味がありませんからね。
かくして私たちの意識の奥には、「こんなの無理」 「あんなことできっこない」 といったネガ観念が次々刻み込まれ、それに沿って人生の物語が紡がれることになりました。
ということは。
「かえり」 の道では、その逆をやればいいのです。
幼い頃に刷り込まれたネガ観念をひとつずつ手放していって、失われた自信を取り戻せばいい。
その自信とは、「自分は○○ができるからすごい」 というような条件付きの自信ではありません。
自分の存在そのものに疑いも揺らぎもない ありのままの落ち着きとでもいうような、まさにあの生まれたての赤ちゃんがみな持っているありよう。
これが 貴秋が 「芯」 とか 「根っこ」 とか呼んでいるもの、私たちの誰もがこの世界に来た当初は持っていて、そしてかえりの道のいま 再び取り戻すことができるものなのです。
自分の力だけでは決して生きていけない身なのに、そんなこと思いもしない様子で したいことして のびのび過ごしてる。
心地よければごキゲンだし、心地悪ければ泣く、泣いたら当然誰かが飛んできて なんとかしてくれると知っているかのように。
で、なんとかなれば ぴたりと泣き止み、あっけらかんとごキゲンさんに戻る。
後先なんて思い煩うことなく、悠然といま ・ ここを楽しんでいる。
で 何がすごいって、私たちみんな、どんな心配性の人だって、生まれたての頃はもれなくそんなふうだったのです。
過去を悔やんだり 先のことを心配したりして落ち込む赤ちゃんなんて、いませんものね。
もう一度言いますが、私たちみんな、そんなふうだったのです。
数十年分積もり積もった怒りや不安を 薄紙を剥ぐようにコツコツ手放してゆくうちに、どんな負の感情の根っこにも 純粋な悲しみがあることを知りました。
悔し涙みたいに他の感情が混じらない、ピュアに澄んだまっすぐな悲しみです。
最近では どんなネガ感情が上がってきても、同時にじわっとまぶたの裏が熱くなるのがお約束になっています。
それだけ雑多な上塗りが剥がれ落ちて、最初にネガ感情が生まれたきっかけ ・ 根源に近づいてきているのかなぁ。。。なんてぼんやり思っていると、不意にひらめきました。
これって、不安のかけらもなかった赤ちゃんが 初めて自信を失ったときの悲しみなんじゃない?
おおもとの意識体から形を持って分け出されたばかりの、つまり生まれたての赤ちゃんは、まだおおもとの意識を色濃く残しているから、思いひとつでなんでも創れる、なんでも叶えられると思っている。
実際ある程度まではそうなりますよね、まわりの大人は 純粋無垢な赤ちゃんに魅了され、どんな望みも叶えて喜ばせてあげたいって懸命になりますもの。
が、そのうちだんだんわかってくる、どんなに意識を働かせても 思い通りにならないことがたくさんあると。
貴秋は あの純粋な悲しみが、初めて自分の力ではどうにもならないことがあると知ったときの、赤ん坊の自分が感じたもののように思えたのです。
どんなに訴えてもこちらの思いが伝わらない相手、どんなに楽し氣に笑いかけても応えてくれない相手、どれほどがんばっても思い通りにならない状況、そんな壁にぶつかるたびに自信が失われ、本来の自分の力を忘れていった、その果てにあるのが いまの私たちなんでしょうね。
・・・なんて書くと悲痛なイメージですが、「行き」 の道としてはこれでバッチリOKなのです。
いつまでも全知全能だったときの記憶を残しっぱなしでは、わざわざこの不自由な世界に来た意味がありませんからね。
かくして私たちの意識の奥には、「こんなの無理」 「あんなことできっこない」 といったネガ観念が次々刻み込まれ、それに沿って人生の物語が紡がれることになりました。
ということは。
「かえり」 の道では、その逆をやればいいのです。
幼い頃に刷り込まれたネガ観念をひとつずつ手放していって、失われた自信を取り戻せばいい。
その自信とは、「自分は○○ができるからすごい」 というような条件付きの自信ではありません。
自分の存在そのものに疑いも揺らぎもない ありのままの落ち着きとでもいうような、まさにあの生まれたての赤ちゃんがみな持っているありよう。
これが 貴秋が 「芯」 とか 「根っこ」 とか呼んでいるもの、私たちの誰もがこの世界に来た当初は持っていて、そしてかえりの道のいま 再び取り戻すことができるものなのです。