毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「かえりの道」 とは “赤ん坊の境地” を取り戻す道

2022年07月30日 07時39分41秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
赤ちゃんってすごいなぁって よく思います。

自分の力だけでは決して生きていけない身なのに、そんなこと思いもしない様子で したいことして のびのび過ごしてる。

心地よければごキゲンだし、心地悪ければ泣く、泣いたら当然誰かが飛んできて なんとかしてくれると知っているかのように。

で、なんとかなれば ぴたりと泣き止み、あっけらかんとごキゲンさんに戻る。

後先なんて思い煩うことなく、悠然といま ・ ここを楽しんでいる。

で 何がすごいって、私たちみんな、どんな心配性の人だって、生まれたての頃はもれなくそんなふうだったのです。

過去を悔やんだり 先のことを心配したりして落ち込む赤ちゃんなんて、いませんものね。

もう一度言いますが、私たちみんな、そんなふうだったのです。




数十年分積もり積もった怒りや不安を 薄紙を剥ぐようにコツコツ手放してゆくうちに、どんな負の感情の根っこにも 純粋な悲しみがあることを知りました。

悔し涙みたいに他の感情が混じらない、ピュアに澄んだまっすぐな悲しみです。

最近では どんなネガ感情が上がってきても、同時にじわっとまぶたの裏が熱くなるのがお約束になっています。

それだけ雑多な上塗りが剥がれ落ちて、最初にネガ感情が生まれたきっかけ ・ 根源に近づいてきているのかなぁ。。。なんてぼんやり思っていると、不意にひらめきました。

これって、不安のかけらもなかった赤ちゃんが 初めて自信を失ったときの悲しみなんじゃない?




おおもとの意識体から形を持って分け出されたばかりの、つまり生まれたての赤ちゃんは、まだおおもとの意識を色濃く残しているから、思いひとつでなんでも創れる、なんでも叶えられると思っている。

実際ある程度まではそうなりますよね、まわりの大人は 純粋無垢な赤ちゃんに魅了され、どんな望みも叶えて喜ばせてあげたいって懸命になりますもの。

が、そのうちだんだんわかってくる、どんなに意識を働かせても 思い通りにならないことがたくさんあると。

貴秋は あの純粋な悲しみが、初めて自分の力ではどうにもならないことがあると知ったときの、赤ん坊の自分が感じたもののように思えたのです。

どんなに訴えてもこちらの思いが伝わらない相手、どんなに楽し氣に笑いかけても応えてくれない相手、どれほどがんばっても思い通りにならない状況、そんな壁にぶつかるたびに自信が失われ、本来の自分の力を忘れていった、その果てにあるのが いまの私たちなんでしょうね。




・・・なんて書くと悲痛なイメージですが、「行き」 の道としてはこれでバッチリOKなのです。

いつまでも全知全能だったときの記憶を残しっぱなしでは、わざわざこの不自由な世界に来た意味がありませんからね。

かくして私たちの意識の奥には、「こんなの無理」 「あんなことできっこない」 といったネガ観念が次々刻み込まれ、それに沿って人生の物語が紡がれることになりました。

ということは。

「かえり」 の道では、その逆をやればいいのです。

幼い頃に刷り込まれたネガ観念をひとつずつ手放していって、失われた自信を取り戻せばいい。

その自信とは、「自分は○○ができるからすごい」 というような条件付きの自信ではありません。

自分の存在そのものに疑いも揺らぎもない ありのままの落ち着きとでもいうような、まさにあの生まれたての赤ちゃんがみな持っているありよう。

これが 貴秋が 「芯」 とか 「根っこ」 とか呼んでいるもの、私たちの誰もがこの世界に来た当初は持っていて、そしてかえりの道のいま 再び取り戻すことができるものなのです。
















ぱっと見混迷のいまこそ ネガからポジへと転じるカタルシスを味わうとき

2022年07月22日 10時46分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
またしても記事の更新が一ヶ月以上空いてしまいました。

外に向いていた意識が方向転換して内観期に入るのは いつも不意打ちで、ブログを書くなど 外部に働きかける意欲が唐突に萎んで失せてしまうので、毎度ブログが予告なくぱたりと途絶えてしまって申し訳ないです。




さて、前回の投稿からきょうまでにも 世間ではほんといろいろなことがあったようで、さほど敏感ではない貴秋も 集合意識が不穏にざわついたり どーんと落ち込んだりするのを時おり感じたほどですが、そんな状況でさえもネガポジ両面の要素を含んでいることに変わりはなく、人生という物語の登場人物としては不安を覚えざるを得ない現状も、書き手の視点から見れば 体験し甲斐のある時期にさしかかったといえるのではないかと思います。

登場人物としての自身は 次々押し寄せる想定外の事態からどうやって身を守るかで手一杯かもしれませんが、書き手の目線で俯瞰すれば、分離から統合への道筋を順調に歩んでいる証拠とも見えるのです。

私たちのいまの社会は 自然界の循環システムに明らかにそぐわない仕組みで成り立っているのですから、このままいけば破滅は免れず、そんな宇宙の異物のような社会システムが向こうから崩壊しかかっているのは、ある意味吉兆といえなくもない。

とはいえ 再生の前の破壊にはどうしても犠牲がつきもので、いますでに戦火の、異常氣象の、環境汚染の、感染症の、食糧難や水不足の、社会システムの混乱の下で苦しんでいる大勢の人がいる。

これ以上混乱が拡大する前に 苦難に見舞われている人たちを一人でも多く (できることなら全員を) 救い出しつつ、ソフトランディングで事態を収めることを多くの人が願っておられることと思いますが、その成否は 私たちひとりひとりの選択にかかっています。

何よりもまず申し上げたいのは、もう 誰かがどうにかしてくれるだろうと当てのない期待を抱いて 問題の解決を人任せにするのはやめたほうがいいということ。

想定を超える事態の連続に 明確な答えを持っている人物などいるわけもないのだし、自分たちの保身のために混乱を仕掛けた側の人々ですら、当初の意図を超えて予測のつかない展開を見せることの成り行きにうろたえ右往左往しているありさまなのですから。

もっとも確かな答は、外ではなく内にあります。

ひとりひとりが自身の内に目を向け、自分だけの答を見つけて持ち寄り、力を合わせて新しい流れを生み出す中から、それまでは夢物語としか思えなかった最善の結果が導き出されます。




人々が平等ではなくなり、力のある者とない者とに分かれて、ありとあらゆる不条理や理不尽を味わってきた “行き” の道が “かえり (帰り ・ 返り ・ 還り)” に転じたのは、ごく最近のこと。

数千年の長きに渡って続いた “行き” の道では、何ひとつ報われぬまま一生を過ごし、「虐げられていた無力な自分を経て 本来の自分の強さ素晴らしさを知る」 といったコントラスト効果をついぞ体験せぬまま命を終えた人が数知れずいたはずです。

が、いまの時代に生まれて “行き” と “かえり” の転換点を通過した私たちには、オセロ盤が黒一色から白一色に塗り変わるように、生命軽視の極みから いのちの輝きそのものである真の自分へと 180度対極に移り変わるカタルシスを存分に味わうチャンスがある。

もちろん魂の目的は人それぞれで、今生では目覚めないと決めている魂もあるでしょうし、そのどちらがいいとか悪いとか 正しいとか正しくないということではありませんから、自分の道がはっきりしておられる方はそのままでOKでしょう。

が、いま混乱と不安と迷いの中におられる方には、何千年もの苦しい “行き” の道のりが “かえり” に転じるというとてつもない転換点に居合わせた幸運を活かさない手はないと 声を大にして申し上げたいと思います。

人生ストーリーの登場人物の視点に加えて 作者の視点を併せ持つことで、私たちは 「被害者 ・ 犠牲者の物語」 を 「壮大な歴史絵巻のクライマックス兼血湧き肉躍る冒険小説」に書き換えることができるのです。




次の内観期が訪れる前に、貴秋の力となってくれた情報や 書き手の視点を取り戻すヒントになるかもしれないことを、ひとつでも多く書いていければと思います。

今回もお読み下さりありがとうございました。