→ 「成宗村絵図」にもあるように、広場堰から分岐し成宗田圃を灌漑していた用水路は、五日市街道手前で余水を本流に戻していました。一方、街道を過ぎてすぐ、相次いで二つの堰が設けられていますが、これは白幡田圃を灌漑するためのもので、「新編武蔵風土記稿」が「此流に設たる堰四ヶ所あり、一は西の方字権現下にあり、一は天神下にあり、余二ヶ所は小名尾崎の内にあり」と書いているうちの、最後の二ヶ所に当たります。善福寺川が尾崎と白幡の境となっていたので、正確には「小名尾崎との境にあり」と書くべきでしょう。
- ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」 ブルーで重ねたのは直線化された現行の善福寺川です。
- ・ 最初の堰跡 尾崎橋越しに左岸の善福寺川緑地を写しています。正面奥あたりで本流は右カーブし、分岐した用水はそのまま南下していたのでしょう。
- ・ 第二の堰跡 緑地造成時架橋の成田上橋と成田下橋の間です。奥の右カーブを抜けるあたりに二番目の堰があり、左岸に用水を分岐していました。
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