神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

白幡田圃

2017-05-26 06:48:47 | 善福寺川4

 → 「成宗村絵図」にもあるように、広場堰から分岐し成宗田圃を灌漑していた用水路は、五日市街道手前で余水を本流に戻していました。一方、街道を過ぎてすぐ、相次いで二つの堰が設けられていますが、これは白幡田圃を灌漑するためのもので、「新編武蔵風土記稿」が「此流に設たる堰四ヶ所あり、一は西の方字権現下にあり、一は天神下にあり、余二ヶ所は小名尾崎の内にあり」と書いているうちの、最後の二ヶ所に当たります。善福寺川が尾崎と白幡の境となっていたので、正確には「小名尾崎との境にあり」と書くべきでしょう。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  ブルーで重ねたのは直線化された現行の善福寺川です。 

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    ・ 最初の堰跡  尾崎橋越しに左岸の善福寺川緑地を写しています。正面奥あたりで本流は右カーブし、分岐した用水はそのまま南下していたのでしょう。 

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    ・ 第二の堰跡  緑地造成時架橋の成田上橋と成田下橋の間です。奥の右カーブを抜けるあたりに二番目の堰があり、左岸に用水を分岐していました。   

 <白幡>  「白幡 村の東の方にあり、和田村八幡の縁起に云、往古人王七十代後冷泉院の御宇、奥州の夷賊蜂起しければ、源頼義公勅を蒙り追討せんとて進発し給ひ、此所に向ひ給ふとき、林中より奇雲たなびき、恰も白幡の如く見えけるにぞ、是八幡来降し給ふならんとて、一社を勧請し、遂に賊徒を追伏したまふ、かゝるゆへをもて、此ほとりをすべて白幡と名付しという、さればもと和田村の内なりしが、今は当村に属せり」(「新編武蔵風土記稿」) これに対し「杉並風土記(上)」(昭和52年 森泰樹)は、台地の広い畑の意の「広畑」の転化としています。 → 「段彩陰影図」からも、舌状台地の矢倉や尾崎に比べ、白幡が広がりのある台地上にあるのは明かです。