神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

北四面道口

2015-05-11 06:23:08 | 千川用水2

 四面道交差点から荻窪駅に向かって450mほど、銀行の建物の陰に北四面道口の遺構があります。荻窪駅前から100mに満たないため、現在の土地勘からは「四面道口」の呼称に違和感がありますが、明治の初めの「四面道」は天沼村の字名で、青梅街道と現日大二高通りに挟まれた三角形の部分でした。というわけで「四面道口」でもセーフ、ただ、今なら「天沼口」のほうがピンとくるのは間違いないところです。この支分水が寛政6年→ 「星野家文書」のいう「天沼村阿佐ヶ谷村堀割流落し」と、厳密な意味で同一かどうかは不明ですが、「堀割流落し」との表現からは、開削当時の七ヶ村分水の余水は、ここですべて桃園川に流れ込んでいたと推測できます。

 

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    ・ 北四面道口  → 「東京近傍図」では分水口付近は描かれていませんが、残された水路跡はここから大きく右カーブ、350mほどで天沼弁天池からの流れを合せ、桃園川となって東に向かいます。

 昭和2年(1927年)から平成5年に亡くなるまで、関東大震災直後の区画整理で誕生した荻窪の住宅街に居を構えた井伏鱒二は、昭和57年に荻窪界隈の変遷を随筆風にまとめます。「荻窪八丁通り」から始まる「荻窪風土記」です。井荻村字下井草(現清水1丁目)に家を新築する間、上掲写真に隣接する平野屋酒店二階に下宿していました。以下は「荻窪風土記」中、「平野屋酒店」の一節です。「昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家が出来るまで、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である) 千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分れている分岐点である。」

 

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    ・ もえぎ公園前  天沼弁天池からの→ 水路が、左手から合流しているところです。より下流の八幡社前で合流している「近傍図」と異なり、弁天池から南下する水路と垂直に交わっており、付替えがあったのでしょう。

 「荻窪風土記」の続ですが、別の個所では半兵衛堀は井荻村の者が、相沢堀は阿佐ヶ谷村の者が、年に一度掃除していたこと、相沢堀は今の杉並区役所の手前から阿佐ヶ谷田圃ヘ入り、東流して高円寺、中野へと向かうことなどが書かれ、最後にカッコ付きで桃園川と付記されています。ここでいう半兵衛堀の井口半兵衛は井草村の名主で、宝永4年(1707年)の田用水転用を主導した一人です。一方、相沢堀の相沢喜兵衛は阿佐ヶ谷村の名主で、想像をたくましくするなら、当初は四面道口までだった用水堀を、彼が率先して杉並口まで延長したのかもしれません。