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応報刑というもの・2

2006-01-30 11:21:35 | 犯罪・刑事関係
以前、応報刑というものでTBさせて頂いた「死刑廃止と死刑存置の考察・BLOG版」からTBを頂きました。
死刑存置の理由 <2> 応報刑論~その2
死刑存置の理由 <3> 応報刑論~その3
死刑存置の理由 <4> 応報刑論~その4
コメントを返させてもらったのですが、ライブドアブログのコメント欄、予想以上に受け付けてくれる文字数が少なく、結果として非常に消化不良の感じになってしまいました(なら、コメントするなということに本来はなるのですが…>_<)。
結局、何か自分以外の人には何を言っているか分からないだろうみたいなものになってしまいましたので、改めて<3>の部分につきTBすることにしました。
<2>と<4>については概ね言いたいことが伝わっているだろうと思いますので。

まず、これは私のイメージなのですが、おそらくShinさんとの間に刑罰の理由について大きな違いはないと思います。少なくとも応報絶対論を唱えられているわけではなく、幾つかの概念が連携しながら刑罰が存続していると考える点にも特に相違点はないと思いますので。
違いがあるのは、社会共同体による応報が可能と考えてそれを想定する(Shinさん)か、あるいはそれも無理と見てより幅広い概念に逃げてしまった(私)か、という点に帰すると思います。
全部無理として幅広い概念に逃げたからこそ私は応報の機能を低下させようと考えるのであって、社会による応報機能が果たせるなら、あえて刑法学会の通説に反して、応報の主たる役割は既に放棄された、などとは言いません。ですから、<4>で仰られている刑罰存続理由の根源的部分の展開なども根本的に相違しているということはないと思います。

で、相違点についての再展開をさせてもらうわけですが…

まず応報の主体として、私の見解からは幅広い概念としての「国家」がでてきます。
これは結局、本人、遺族、社会共同体のすべてがダメということで、これらをひっくるめて全体として抽象化した国家、というイメージが私にはありました(それを語る術を途中まで見出せなかったのが情けないですが)。
ただし、全部ひっくるめても個々がそれぞれに難点をはらんでいる以上ただ合わせただけでは結局無意味で、そこに国家統治機関の機能的な部分も加味してみた、というところですね。
ま、そうしたトータルな部分ということで、憲法の教科書に出ていた「領土と人と権力」という言葉を拝借してみたのですが、自分がはっきり理解していない概念を使うものじゃないです…
ただし、結局のところ統治機関を持ち出す以上、他の見解よりは統治機関寄りである点は間違いありませんので、一々「自分の見解はトータル的なものだから」などと言い逃れるのでなく、むしろ統治機関を前提とした部分で答えていきたいと思います。

まず、統治機関による刑罰運営は功利主義に走り、このような形態ではむしろ冤罪が奨励される点に難点があるのではないかとShinさんは指摘されます。
これは一面、そういう部分もあろうかと思いますが、だからといってダメだということもないと思います。
どういう形態であれ、刑罰論は冤罪の危険をはらんでいるのであり、それは刑罰論内部で解消するよりもむしろ別な要素(私は「無罪で裁かれない権利」、つまり人権という部分で)で解消した方が分かり易いからです。刑罰論としての傾向で冤罪が奨励されるから、すなわち刑事訴訟全体で冤罪を奨励するということにはなりません。
蛇足ですが、私は刑事訴訟で人権の果たす場面をはっきりと識別することが今後課題となるのではないかと考えます。これがなされず、刑罰論と人権論の境界が曖昧なままですと、結果的にあらゆる場面で「人権、人権」という主張をされてしまうことになり、行き過ぎた人権主張の弊害を呼ぶことになってしまうのではないでしょうか。
人権主義者の行き過ぎた主張が気に入らないのなら、むしろ人権が及ぶ範囲をきちんと考えて、その範囲ではしっかり認める。かわりに、それ以外の範囲では「趣旨が違う」とはね返すのが適当ではないかと思います。


次に社会共同体の応報というものに対する矛盾点が出てくるのですが、私が指摘したのは以下の三つです。
a.メディアの影響力が刑罰において国家権力の役割を凌駕する(権力機関がメディアの追認機関になりうる)。
b.刑事訴訟の事実認定は伝聞によってはならないのに、刑罰には伝聞があてはまるのが矛盾
c.事件によっては社会が応報感情を抱かない。

aについての反論なのですが、おそらくこの部分だと思うのですが、正直やや分かりにくいところがあります。
現在のところこのメディアの規制が「メディアの自浄作用」に委ねられていることが問題なのであり、メディアが近代民主主義を健全に機能させるシステムの一環であることは間違いないと思います。民主主義国家に必要不可欠であるからこそメディアがその思想傾向等に基づく偏向的な報道等は大前提として非難されるべき対象となると思います。つまりkawanohateさんが仰るような「知る過程において歪められた場合」メディアを制裁するような手段が必要なのではないでしょうか。
おそらくは国民主権に資するものとしてメディアが存在しており、そうである以上、「国民がメディアによって事件を知る」過程というのは正当な要請に基づく過程である。正当な権限に基づくから、メディアを通じて応報感情が生まれる過程自体も正当である、ということなのだろうと思いますが(だから歪められるのはよくない)。
とはいえ、近代民主主義にかかるメディアの役割をいくら強調されたとしましても、メディアは基本的に私的団体という点がやはり問題だと私は思います。もちろん、公共的側面があることは否定しませんが、私的団体としての側面はどうしても存在しています。
結果としまして。

   捜査機関 → 私的(益)団体としてのメディア → 主権者たる国民

という流れを通じて応報感情が発生することになり、私的団体を通じて応報がなされる以上、私刑たる性質を帯びることは否定できないのではないでしょうか。

bについてはaと重複する部分があるので、ひっくるめられたのかもしれません。ただ、私は違う部分として捉えていますので、違うものとして改めて展開します。
刑事訴訟において犯人に有罪の判決を下すにあたっては証拠によらなければなりません。その上で刑事訴訟は伝聞証拠を原則として排除しています。
しかしながら、上にあるように社会の応報感情というのはまず間違いなく伝聞をもって形成されることになります。
もちろん、メディアが捜査機関の報告を一字一句間違えず書き写すだけでそれ以外に何も書かないならそういうこともないのでしょうけれど、それではメディアが独自に存在している意味がありません。
実際には目撃者・関係者の話なども掲載しますし、事件と全然関係ない学者の勝手な分析なども掲載します。これは必ずしも報道機関が事実を意図的に歪めたものとはいえませんが、それを受け取る社会は犯人に対して膨らんだイメージ(歪んだイメージ)を有することになってしまいます。「あいつはガキの頃からキレる奴だった」という知人の話は事件そのものとは関係ないですが、社会は「そんな危険な奴なら厳刑にすべきだ」と考えます。それは伝聞による(歪められた)応報感情になるでしょう。
有罪認定について証拠によらなければならず、伝聞が排除されるのに、処断刑については伝聞がそのまま通用するのはおかしいのではないか、とそういうことです。
もちろん、実際はそのようなことはなく、修正されています(ナイフで何回も刺したという事実行為を認定して、単なる殺人よりも犯人の悪性を強く見るとか)。ですから、その修正部分を指摘して「訴訟理論たる部分と刑罰理論は違うのだ」と突っぱねることもできるでしょう。が、それすなわち「理論の修正がなされていること=社会による応報を単純に貫くのは無理があること」ということになるといえるのではないでしょうか。

cは当初微罪というイメージが私の中にあり、Shinさんもそれを受けて「微罪については、それはそれでいいのではないか」という風に仰られておりました。
ただ、よくよく考えると微罪以外でも社会が応報感情を抱かない場合というのは想定できます。
例えば、暴力団同士の抗争による殺人事件。社会は殺害された暴力団員Aについて「彼は濁り、間違って生きてきた。その彼を殺害するなんて赦せない!」という応報感情をおそらく抱かないでしょうが、さりとて殺害した組員Bについて「僕達(社会)はAについて応報感情を抱いてないから、君は殺人罪の予定する最低刑(5年)でいいよ」とはならないでしょう。この場合、Bに重い罪を課すのは応報ではなく、「殺された奴も自業自得だが、殺したのも危険な奴だから一生刑務所から出すな」という部分の方が大きいはずです。
外国人同士の殺人などでもそうですね。
あとは、同じ事件を起こしても偶々同じ時期に別の人間がより凶悪犯罪をしていたとすれば、応報感情が異なるという場合も想定できます。

社会風俗に関する犯罪などについて、国家機能だけではこれらは犯罪とできないというご指摘もありました。が、これは、「国家は社会秩序とにらみ合いをしながら」という見解からはさほど苦しい論理に頼る必要もありません。社会秩序という部分に配慮すればこれらの罪を裁くことはできるでしょう。

とまあ、こんな感じでしょうか。

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