川本ちょっとメモ

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大震災・原発事故で浮き出た(2) 大津波――事実を受け入れ、事実に学び、事実を子孫に刻む

2011-04-23 02:58:01 | Weblog

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三陸沿岸では、過去のある時代に津波によって滅ぶという事実がありました。大方がそのことに学ばず、あるいはそのことを忘れ去り、あるいはそのことを知らずに、あるいは知っていてもたかをくくり、近代・現代の工学の力に安住し、過去の事実が警告している地域に幸福な生活を営み、このたびの滅びに出会いました。地球生物の王者「ヒト」の、そうした私たちの尊大さがクローズアップされました。

あらためて、「事実を受け入れ、事実に学び、事実を子孫に刻んで伝える」ということを私たちの肝に銘じようではありませんか。

過去の津波被害に学んでこのたびの津波からまぬかれた例があります。高台に作られた街道と宿場町、高台に移転した集落の実例を下の新聞記事で伝えられています。

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「歴史街道」浸水せず(毎日新聞 2011年4月19日 15時00分)
東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。仙台平野は400~500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。

 国土地理院が作製した東日本大震災の浸水図に、平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部からわずかに外れていたことが分かった。宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を今の位置に移したとも推察できるが、今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。津波を想定して道を敷いた可能性は高い」と指摘する。


祖先の教訓、集落救った 高台移転で無傷(毎日新聞 2011年4月5日 12時24分)
東日本大震災の大津波により壊滅的な被害を受けた岩手県沿岸部で、過去の津波被害の教訓から高地に移転し、今回は難を逃れた集落がある。釜石市唐丹(とうに)町本郷と、大船渡市三陸町吉浜の2集落。本郷地区は道路を挟んだ上下で「明暗」がはっきり分かれた。防災の専門家は「被災地の復興策として高地移転を進めるべきだ」と指摘する。

本郷地区は明治三陸地震津波(1896年)と昭和三陸地震津波(1933年)で海岸部の家屋がほぼ全滅した。住民たちは裏山を切り崩して海抜約25メートル以上の高台に団地を造成、約100戸を移転させた。今回の津波は唐丹湾の防潮堤(高さ約10メートル)を乗り越え、高さ20メートル以上に達したとみられるが、移転した家屋はほぼ無傷だった。一方、転入者らが近ごろ建てた低地の約50戸はのみ込まれた。

住民らによると、住民たちは高台に避難し、犠牲者は漁船を沖に出そうとして津波に襲われた1人だけだった。漁業の千葉賢治さん(79)は「堤防を越える津波が来るなんて思わなかったが、親たちの知恵が生きた」と話す。

吉浜地区も明治三陸地震津波の後に約50戸が海抜20メートル以上の場所に移転。今回、元々集落があった水田地帯は水没したが、家屋は全壊が1戸だけで、死者も1人だった。


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