古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

呪詛に関するヤマトコトバ序説

2017年07月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 呪詛に関するヤマトコトバとしては、トゴフ、ノロフ、カシルといった語があげられる。それらの語彙の示すところは何か、どのように区別して使われているか、不分明である。日本書紀古訓にすでに複数訓をもって入り乱れており、了解されるに至っていない。ただ、何となくではあるが、それらの語の印象は捉えられている。
 伴信友・方術源論に、細部に至ると信憑性が疑われるものの、本質的には鋭い議論が行われている。

「トゴヒ」〈言魂〉は憎悪ニクカタキに禍あらしめむとて其人をオモひつめ、凶事マガコトしてワザハヒ在らしむべく神に請てする術なり、〈名義抄に詛トゴフとあり濁るべし、〉……
「ノロヒ」は怨ある人にマガを負ふせむと、ふかく一向ヒタスラに念ひつめてものする所為ワザときこゆ、……
「カジリ」は「トゴヒ」と同義ながら、殊に稜威イヅ々々しき術を云へるなるべし、……(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991316/70~、漢字の旧字体は改めた)

 現代の議論として、白川1995.の語釈を示しておく。

とこふ〔呪・詛〕 四段。人をのろうために呪的な行為をすることをいう。自分の潔白をあかすために、神に対して自己詛盟することもあり、人を呪詛じゆそするときには「のろふ」、自己詛盟的な意味をもつときには「とこふ」といったようである。……(535頁)
のろふ〔呪・詛〕 四段。人の身の上に不幸や災厄を招くように祈る。そのために呪的な方法を用いることをいう。「のる」に接尾語の「ふ」をそえた形。恨みのあるものに対してわざわいを与えようとする行為である……(602~603頁)
かしる〔呪・詛〕 四段。「かしり」はその名詞形。……別に「かしふ」という動詞形があり、「かし」を語幹とする語である。方言として三重や高知に「かじる」という語が残されている。古くは「かしる」という清音であった。神に祈って、人をのろうことをいう。(220頁)

 語の由来がわかるのは、ノロフという語である。ノル(告・宣・詈)に接尾語フのついた形である。「告」、「宣」字を当てるノルは、宣言して言うこと、「詈」字を当てるノルは、ののしる意であるが、同根の言葉であろう。積極的に口に出して大声で言う所作であるとわかる。伴のいう「ふかく一向に念ひつめてものする所為」とは、目もくれず揺らぐことなく一心に同じことを繰り返すようにノル(告・宣・詈)ことを続けることを表しているといえる。ノロフためには、迷いがあってはうまくいかないということである。学校で、死ね、死ね、死ねと言われ続けると、本当に死んでしまう子がいる。誰か一人、生きろと言う友だちがいると死なずに済む。いじめとはノロヒの典型といえる。

 是の月、御馬皇子みまのみこいむさきより三輪君身狭みわのきみむさうるはしかりしを以ての故に、みこころらむと思欲おもほしてでます。不意おもひのほかに、道に邀軍たふるいくさに逢ひて、三輪の磐井いはゐほとりにしてあひ戦ふ。ひさにあらずしてとらはる。つみせらるるに臨みて井を指してとごひて曰はく〔指井而詛曰〕、「此の水は百姓おほみたからのみただむこと得む。王者ひとのきみたるひとは、独り飲むこと能はじ」といふ。(雄略前紀安康十月是月)
 是に、大伴[金村]大連、いくさて自らいくさのきみとして、[平群真鳥]大臣のいへかくむ。火をはなちてく。さしまねく所雲のごとくに靡けり。真鳥大臣まとりのおほおみ、事のらざるを恨みて、身のまぬかれ難きことをさとりぬ。はかりこときはまり望みえぬ。広くうしほを指してのろふ〔広指塩詛〕。遂に殺戮ころされぬ。其の子弟こいろどさへにいたる。詛ふ時にただ角鹿海つのがのうみの塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇すめらみこと所食おものとし、余海あたしうみの塩は、天皇の所忌おほみいみとす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)

 似たような呪詛の話である。宮内庁書陵部本の付訓をみると、同じ「詛」の字でも、雄略前紀にはトゴヒ(ト・ゴの甲乙不明、ヒは甲類)、武烈前紀ではノロフである。雄略前紀の個所は「詛曰」とあって、トゴヒテイハクと訓んで正しいのであろう。次のような類例が見られる。

 故、磐長姫いはながひめ、大きにぢてとごひて曰はく〔大慙而詛之曰〕、……(神代紀第九段一書第二)
 因りて教へまつりてまをさく、「を以ていましのみことこのかみに与へたまはむ時には、とごひて言はまく〔則可詛言〕、……(神代紀第十段一書第一)
 ……、其の河の石を取り、塩にへて、其の竹の葉につつみて、とごはしむらく〔令詛〕、……と、如此かく詛はしめて〔如此令詛〕、けぶりの上に置きき。……即ち其の詛戸とごひと(ヒ・後のトは甲類)を返さしめき〔即令其詛戸〕。(応神記)
 時に[百済王の使、]久氐くてい等、あめに向ひてのろとごふ〔向天而呪詛之〕。新羅人、其の呪ひ詛ふことをおそりて殺さず〔怖其呪詛而不殺〕。(神功紀四十七年四月)

 他方、武烈前紀では、「曰」、「言」といった発語の動詞を欠いている。そこで、ノル(告・宣・詈)に発するノロフという訓が付されていると理解できる。
 そう考えると、呪詛行為の精神的側面、悪く、悪くと気持ちをこめることに力点を置く言葉がトゴフであり、それを言葉として悪くなあれ、悪くなあれと発語して、呪詛が実行されているらしいとわかる。すなわち、意味上、トゴフ+イフ(ノル)→ノロフとなっていると整理される。むろん、思うことと口に出すこととの間は連続しており、南無阿弥陀仏という念仏など、明らかに声を上げているものから、ぶつぶつとつぶやいているもの、心のなかで自分にだけ聞こえるように思うものなど、いろいろである。仮に上の整理が正しいのであれば、トゴフは「憎悪む敵に禍あらしめむとて其人を念ひつめ、凶事して禍在らしむべく神に請てする術なり」とする解説はほぼ正解である。ただし、請う対象が神かどうか、いささか疑問が残る。八百万の神がいることになっている。だから、のろうのが専門の神さまもいるかもしれないが、記紀万葉に呪詛用語で神さまに祈った記述はない。人が勝手に良く思ったり悪く思ったりしているのと同じように、神さまのうちでも神さまどうしでよく思ったり悪く思ったりしていたように描かれている。神さまはみなそれぞれに特異な存在で、自己主張が強く、徒党を組むようなことは考えられていないふしがある。「天安河辺あまのやすのかはら」(神代紀第五段一書第六)、「あめの安の河原」(記上)といった川の八重洲に跨っているようなところに参集させており、それぞれ喧嘩しないようにとの配慮がなされていた。「○○神に祈りてとごふ」といった用例はないから、神さまに請うて凶事が起きるように祈るとするのは、少し勝手が違うであろう。確かに祟り神として強力な大物主神があるけれど、自分までも大惨事に巻き込まれてしまうであろう。
 応神記の「令詛」については、「其の母」が春山之霞壮士はるやまのかすみをとこに呪詛させている。「詛戸」については、呪物のことを指しているとする考え方が一般的である。応神記では、八目やめ荒籠あらこで河の石を取り、塩をまぶして竹の葉に包んだものである。つまり、呪物を使いながら呪言して、呪詛が行われている。そして、「令詛『……』如此令詛」と会話文を挟んで二度「令詛」と記されている。会話文の中の動詞は命令形である。読み上げさせて言ったとおりになるように、「詛戸」を「置於烟上」いている。烟にいぶしたら言った通りに涸れ、それに対照するように、秋山下氷壮士あきやまのしたひをとこも苦しんだことになっている。入り組んだ呪詛方法である。「其の母」がさせているのは、悪意をもって強く念じるところから奨めているので、「令詛」、「詛戸」の「詛」字はトゴフという語で正しいと知れる。
 大系本日本書紀は、「とごひて」について、「のろう意。トゴフの語源未詳。トは、ノリト(祝詞)・コトド(絶妻之誓)のトまたはドと同じものか。このトはト甲類の音。」(145頁)と推測している。この説が正しいとすると、応神記の「詛戸とごひと(ヒ・後のトは甲類)」という熟語の解釈に誤謬が生じる。「詛戸」は「呪いの置物。「詛戸」の「戸」は、「千位の置戸」[(記上)]……の「戸」と同じく、その物を指すとする説[本居宣長・古事記伝(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/316)]による。」(新編全集本古事記281頁)とされる。大系本日本書紀の説の、「詛戸」=ト+ゴヒ+トの前後にト甲類でサンドウィッチにする語を示すことに、何ほどの意味があるのか。フトノリトゴト(「布刀詔戸言」(記上))という場合の前2つのトは甲類、最後のトは乙類である。紀では、「太諄辞ふとのりと」(神代紀第七段一書第三)とあり、その表記がよく物語っているように、懇切丁寧にこんこんと諭すように言う饒舌な言葉が祝詞の特徴である。良いことを願うのが祝詞であるとするなら、悪いことを願う重々しいものに、フトトゴヒトゴト(「布刀詛戸言」)などと仮定してみて、そこから、前のト2音の連続が癒着してトゴフという語のト音は甲類である、あるいは、フトゴヒト(「太請辞」、この字面からは悪意を規定できないが)からトゴフという動詞が起こったとするのは、語展開の説明として順序が逆のように思われる。
 筆者は、何かを請うているから、トゴフ(詛)という語はできていると考える。「~と」(助詞、トは乙類)+「請(乞)ふ」→トゴフという語形成であったのではないか。とごひ(ト・ゴの甲乙不明、ヒは甲類)であり、こひ(乞)(ヒは甲類)である。「~と」という助詞は、「~」部分を引用部として括弧に入れる作用がある。「詛ひて曰はく」の例では、「~と請ひて曰はく、『~』といふ。」という形となる。前後の「~」部分には、同じ意味の言葉が入るので、前半の「~」部分が省略された形となっていると推定できる。言=事であるとする言霊信仰にあっては、事でないことを言うことは御法度なのであるけれど、念じていて念を押していくと、マートン1961..のいう予言の自己成就 self-fulfilling prophecy が起こることがあるから、それを「~と請ひて曰はく、『~』といふ。」という形の短縮形として、「詛ひて曰はく、『~』といふ。」の形に定式せしめたということではなかろうか。
 カシルには、安藤1975.に、カ(所)+シル(知)の形とする説があり、ヒジリ(聖)=ヒ(日)+シリ(知)と同じ展開であるとし、「作法こそは異なれ、その[「カジリ」の]目的はやはり倭の土地の領有にあつたのである。」(357頁)と説かれている。神武紀の用例で考えられている。
手捏土器(猪ノ子遺跡出土、茨城県坂東市弓田、古墳時代、5~6世紀、木村嘉市氏寄贈、東博展示品)
 天皇にくみたまふ。是夜こよひみみづかうけひてみねませり。みゆめ天神あまつかみしてをしへまつりて曰はく、「天香山あまのかぐやまやしろの中のはにを取りて、……天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、……并せて厳瓮いつへを造りて、天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。……亦、厳呪詛いつのかしりをせよ〔亦為厳呪詛〕。如此かくのごとくせば、あた自づからにしたがひなむ」とのたまふ。(神武前紀戊午年九月)、
 ……乃ち此のはにつちを以て、八十平瓮やそひらか天手抉あまのたくじり八十枚やそち……厳瓮いつへ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、用て天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田川うだがはの朝原にして、譬へば水沫みなわの如くして、かしくる所有り〔而有呪著也〕。天皇、又因りてうけひて曰はく、……(神武前紀戊午年九月)
 廷尉ひとやのつかさ、其の子、守石もりし名瀬氷なせひと……をとらへ縛りて、火の中へなげいれむとして、……かしりて曰はく〔呪曰〕、「吾が手をもて投るるに非ず。はふりの手を以て投るるなり」といふ。かしをはりて火に投れむとす〔呪訖欲火〕。(欽明紀二十三年六月是月)

 欽明紀の例を見ると、カシルに特に場所性はないとみられる。神武紀の第二例の「呪り著くる所有り。」の文は古来難解とされている。水沫のようなのがなにゆえ「呪り著くる所」とされたのか、なかなかに理解しづらいとされる。ここで、上の「とごふ」=「~と」(助詞)+「請ふ」説に近い形で理解しようとすると、「~か」(助詞)+「知(領)る」→カシルという語形成であったかと推論できる。「~か」と疑問の助詞で承ける部分は、本当かどうか疑問な事柄である。本当はとても疑問なことを、無理やりポジティブ思考をして「知(領)る」ようにしてしまうこと、それを「かしる」と言っているのではないか。助詞のカは、「表現者自身の内心の疑問を自分自身に投げかける意が原義と思われる。」(岩波古語辞典、1459頁)とある。疑問のあることなのに、疑問を無視して無理強いして相手にまで及ぼさせようとまず自ら知ったことにして、相手にも知らしめるのである。欽明紀の第二例に、カシル以外のカシフの形の連用形、カシヒ(ヒの甲乙不明)の形があるのは、疑問なのに強いることをしていることから生まれた言葉ではないか。事実を枉げて強弁することをシフ(強・誣)といい、連用形はシヒ(ヒは乙類)である。
 欽明紀の例は、当初、馬飼首歌依うまかひのおびとうたよりしこじて、つまり、讒言したのを真に受けて歌依を拷問したとき、彼は、「揚言ことあげしてちかひて曰はく、『いつはりなり。まことに非ず。若し是実ならば、必ず天災あめのわざはひかうぶらむ』といふ。」と言い、そのまま拷問に耐えられずに死んでしまった。その後すぐに殿おほとのが火災に遭ったので、さらに廷尉は、歌依の子までも焚刑に処そうとした。恥の上塗り、嘘を一度着くとどんどん嘘が膨らんでいくこと、一度黒いとしてしまうと皆黒くしなければ収まりがつかないということである。「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」(「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ」)の精神は欠如する。巨大な疑問符、つまり助詞の「か」を、最初から無いことにしてしまうほど強く誣いることで知ったことにしてしまっている。
 神武前紀に、水沫のような「呪り著くる所有り」とあるのは、シルという語が、「領る」と書かれるように領地を領有することである。アワ(沫・泡)という語は、とけやすいもの、消えやすいものの意である。水泡に帰すところである。「菟田川の朝原」というところは、不思議な地名表記で、アサハラとは、浅原というハラとしては浅いところを呼んでいる。川原が広くなっていて、砂地に流れが泡を作るほど浅いところは、雨が多く降って増水すれば水の底に沈んでしまう。つまり、水沫の如く、ともすれば消えてなくなるところである。国土を領有するという観点からは、今日でも河川法で堤防内の河原に作物を植えて畑にすることは認められていない。「領る」ことをしてはならないし、「領る」ことをしても水の沫となりますよ、という場所である。そういう大いなる疑問符の土のところへもってきて、はにつちで作った祭祀土器を使ったお祭りにつづけて見つけ、「うけひ」の場所にしようとしている。ウケヒ(祈・誓)とは、ある願い事をする時に、眼前でAということが起るのであれば、願い事A´も起こるであろうとあらかじめ言っておき、それのうえで眼前のことを確かめてAということが起ったら、願い事A´も起こると確信するというおまじない占いである。「菟田川の朝原」は水沫の如きところだから決して確かに「領る」ことはできないところである。それを強いて「領る」ことができるのであれば、どんな厄介なところであれ、「領る」ことができるに違いないと確信することができるというので、そこでウケヒを行って、不確かなところで不確かな願い事がかなうか試し、確かだと分かったからどこであれ確かだと自信が持てる、という強引な自己暗示が行われている。
 したがって、「厳呪詛いつのかしり」とあるのは、「潔斎して行う呪言。」(大系本日本書紀219頁)、「潔斎して、神に祈って行う呪い事。」(新編全集本日本書紀①211頁)といった、身を清めた、真っ当に思われる行いではなく、ひどくねじけた、心映えのしない行いである。そもそも呪詛するということは悪質な行いである。その態度、性根、場の設定からして悪質でなくてはならないという発想であろう。イツ(厳)なるカシリ(呪詛)とは、まことに危うい状況設定でも堪え得るのか見定めるほどの、背水の陣的な強引なやり負かしをすることを言っている。カ(=「?」)+シル(知・領)の「?」を水泡に帰して白を黒と言い負かす悪辣さが求められている。神武天皇の行ったことは、襤褸を着せて醜い老人に変装させ、敵陣を通って泥んこを取りに行かせ、ろくでもない土器を拵えて手前勝手な祭祀を行って、自己暗示に酔いしれている。狂信集団の行いこそ、カシリであると考えられる。伴のいう「殊に稜威々々しき術」とは、犯罪者は犯罪者でも、確信犯たれという意味であるとわかる。
 以上、呪詛に関する語、ノロフ、トゴフ、カシルについて見てきた。「詛」や「呪」字に付されている訓は、諸本にノロフ、トゴフ、カシル、カシフのほか、ホク、ホサクなどがあり、入り乱れている。そのため語の理解の妨げとなっている。上は筆者の整理による訓を示し、それを前提とした語の理解のための語形成、助詞+動詞の形とする仮説を提示したに過ぎない。科学的立証など困難であるが、上代においてそのように多くが納得していたとすれば、それは当時の語感をよみがえらせるものであり、語義理解に導くものであろう。
 呪詛とは神に霊威を請うために祈ることであるという通説には従い得ない。言=事であるとする本来の意味での言霊信仰の観点からすれば、のろう気持ち、ならびに、それを言葉として発語することの二点によって、呪詛は支えられている。思考はシンボルの操作によって行われる。すなわち、言語なくして思考は生まれない。呪詛心も同様である。かといって、それを内心に秘めている限り、爆発することはない。愚痴り出し、僻み出し、嫉み出し、恨み出して、はじめて呪詛心は呪詛として形となる。「呪」字には、凶事を招くようにのろう意として、上掲の欽明紀二十三年条で、ホク、ホサクという付訓も行われている。

 乃ち矢を取りてきてのたまはく、「きたなき心を以て射ば、天稚彦あめわかひこは必ず遭害まじこれなむ。若しきよき心を以て射ば、無恙さきくあらむ」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一)

 ホク(祝)とホク(呪)が同語であるのは、祝う意味でも呪う意味でも、その言葉を口に出して言う点が同じだからであろう。
 応神記で、「詛戸とごひと」を返させて身がもとのように健康になったとする話について、「此は、かむうれづくのこともとぞ。」とまとめられている。「うれづく」という語は、賭け事のときの賭け物のこととされる。最初、秋山之下氷壮士のほうから、春山之霞壮士が伊豆志袁登売神いづしをとめのかみを得ることができたなら、いろいろなものを「うれづく」としてやろうと賭けて言っている。その話が、「神うれづくの言の本」であるとしている。伊豆志袁登売神は伊豆志の八前やまへ大神おほかみの娘とされている。だから、神うれづくの話である。負けたのに賭けたものをよこさなかったから「詛ふ」ことになっている。話が些末でみみっちく卑しい。「天神あまつかみ地祇くにつかみ」に「む」のとは次元が異なるように思われる。神武紀の「厳呪詛いつのかしり」の話でも、天神は夢に出てきているが、呪詛をせよと命じているだけで、自分(天神)に祈って相手に凶事を起こさせるように働きかけよと求めてはいない。天神も逃げ口上なのである。欽明紀二十三年条でも、「かしり」ているのに、はふりの手で投げ入れさせたことにして責任を回避しようとしている。責任逃れをしたくなるのが「かしり」であるらしい。いわゆる神さまの出る幕ではない。

(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
安藤1975. 安藤正次「呪詛訓義考」『国語学論考Ⅲ』雄山閣出版、1975年。
マートン1961. ロバート・キング・マートン、森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳『社会理論と社会構造』みすず書房、1961年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①~③』小学館、1994・1996・1998年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『古事記』小学館、1997年。

※本稿は、2017年7月稿を、2023年9月にルビ化したものである。

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