記紀の「諺」 其の三「雉の頓使」

2016年12月07日 | 論文
(承前)
 B.雉の頓使
 ……即ち天若日子(あめわかひこ)、天つ神の賜へりし天(あめ)のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。……其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下(くだ)したまへば、天若日子が故床(あぐら)に寝(いね)たる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき。〈此れ還矢(かへりや)の本なり。〉亦、其の雉、還らざりき。故、今に諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は是れなり。(記上)

 この諺について、先行研究と呼べるほどの論考は管見にして見られない。西郷信綱『古事記注釈 第三巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)に解説がある。

 雉(キギシ)の頓使(ヒタツカヒ) ヒタツカヒのヒタはヒタスラ、ヒタフルなどのヒタで、まっすぐに一途なこと、おそらく「一(ヒト)」に由来する語。で、行ったきり還って来ぬことを「雉の頓使」といい慣わしたのだろう。「雉の」というのは、飛び立つことあわただしく、翔舞するすべを知らぬこの鳥の習性と関係がある。これは「キギシノ、ヒタツカヒ」と二句構成に読むべきである。コトワザは広くいって詩の一体で、必ずしも定型は踏まないが、きびきびした簡潔さを持たねばならなかった。コトワザが多く二句構成になるのは、それがこうした要求にもっともよく適合する形式であったことを暗示する。(238頁)

 西郷先生の“解説”は当然のことであり、正しい。行ったきりで還らないことを言い表わしている。けれども、古代における「諺」とは何か、について検討されなければならない。わかりやすく言えば、「雉ハ頓使」なる言い方は「諺」とはならず、「雉ノ頓使」は「諺」という概念に該当した。雉は何か、鳥である。助詞のノは、連体修飾語を作ったり、所有・所属、同格、ならびに比喩の、~のようなの意を表す。ここで、「雉」は使者となっている。使者のことをいう名詞「使(つかひ)」は、動詞「使ふ」の連用形であるとされている。「雉が使ふ」を助詞ノによって単に「雉の使」という連体修飾語としたのではない。「使」は行って用を足したら還ってきて報告しなければならない。それができていないことを言い表わしたのが、「雉の頓使」という言葉である。

 天飛ぶ 鳥も使ぞ 鶴(たづ)が音(ね)の 聞えむ時は 我が名問はさね(記84)

 ここに、鶴が「使」に譬えられている。現実に伝書鳩のように手紙を伝えるわけではない。けれども、鶴は、来たら還っていくもの、行ったら還って来るものと認識されていた。なぜなら、渡り鳥だからである。季節の変化に応じて大陸と列島とを飛び渡る。「使」とは往還するものである。毎日、スーパーへ買物に行くことはお使いである。行って買って還ってくる。買った商品を忘れてきてはお使いにはならない。買物は済ませたが、認知機能が低下していて還れなくてはお使いにならない。渡り鳥は「使」となる鳥であると考えていた。スズメのような小鳥や、カラスのような大きな鳥も留鳥としている。キジもその概念で「使」とはならない鳥の仲間にしていればいいところを、なぜか一方的にのみ渡る鳥であると言っている。行ったきりにしか渡らない鳥であると言っている。それは洒落である。その理由は、この雉という鳥の呼び名にある。
ジョン・グールド「アジアの鳥類」(1850~1853年、ロンドン、東洋文庫ミュージアム展示品)
 雉のことは、「きぎし(岐芸斯)」(記2)、「きぎし(枳々始)」(紀110)、「きぎし(吉芸志)」(万3375)といった仮名書きや、歌謡の3音使いから、上代にはキギシ(キ・ギは甲類)の形が多く用いられていたと考えられている。しかし、和名抄に、「雉 広雅に云はく、雉〈音智、上声の重、岐々須(きぎす)、一に岐之(きし)と云ふ〉は野鶏也といふ」とある。神代紀第九段本文の兼方本の傍訓には、「無名雉」箇所に「キシ」とある。一般にキジと濁って訓まれているが、表記からは清音であった可能性も残っている。上代に古語としてキギシ、キギスばかりか、キシと清音で呼ばれていたのではないか。キシ(キは甲類)とは、「来(き、キは甲類)し」と同音である。現代語訳すると、「来た」である。来た鳥は還るはずである。渡り鳥のはずである。ところが「翔舞するすべを知らぬ」から還るに還れない。変な鳥である。つまり、雉は「頓使」なわけだが、「雉ハ頓使」なる命題は、真であるにすぎない。命題を語っているのではない。雉の、雉による、雉のための「頓使」を言わんとしている。属性を修飾限定し、同格、比喩を表わす助詞の用法として、「雉ノ頓使」とあるから、はじめて「諺」と呼ばれるにふさわしい性格の言辞となる。行ったきりで還らないことを「雉(きし)」という言葉自体が表わしている。その同語反復を「諺」化して言い表したのが、「雉の頓使」という言い方である。
 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波国語辞典』(岩波書店、1974年)に、連体助詞「の」に見える古代的心性について明解な解説が載る。

……所有と所属とでは、力の関係は逆であるが、古代的心性の表現としては、所有することと所有されることとはしばしば混同されたので、「の」にも所有と並んで所属の用法が存在する5。また、古代的心性においては、所属しているということは、その所属しているものの属性を保持していることでもあるので、「の」は、属性を持つことを示す用法を展開した。「あはれの鳥」は、「あはれ」に所在する鳥、つまり「あはれ」に所属する鳥であり、「あはれ」という属性を保有する鳥である6
  (5)「み船さす賤男伴は川の瀬申せ」<万四〇六一>「初春はつね今日玉箒手にとるからにゆらく玉の緒」<万四四九三>
  (6)「くれなゐ色も移ろひ」<万四一六〇>「聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれ鳥といはぬ時なし」<万四〇八九>(1443頁)

 すなわち、「雉の頓使」は、「雉」=「来し」に所属する「頓使」であり、「雉」=「来し」という属性を保有する「頓使」であるという滑稽な言辞である。それが成り立っているから、まさに「諺」=コト(言・事)+ワザ(技・業)なのである。そして、助詞ノの用法の広がりに合わせて、「雉の頓使」とは、「雉が頓使ふ」でも、「雉である頓使」でも、「雉のような頓使」でもある。雉とは「来し」だけで還らぬ鳥だからである。
 西郷先生の仰られる「二句構成に読むべき」とするお考えは、後代に諺と呼ばれている言い方、例えば、「犬も歩けば、棒に当たる。」、「論より、証拠。」、「七転び、八起き。」などに当てはまる。ピッチャーが投げたボールがこちらに到達する間に変化球となって曲がって来るものが、後代の諺である。「二句構成」に読まなければバットで打ち返すことはできない。了解することができない。それに対して、古代に「諺」とされた言い方は、コト(言=事)+ワザ(技・業)なのである。言葉自体が意味を語ってしまい、すなわち、言辞の次元に飛躍があって、論理階梯を無視した洒落が存在している。だからこそ、わざわざコトワザという名称をあてがっている。「雉の頓使」とは、「『きし(雉・来し)』の頓使」であり、来た鳥なのに還らない雉という鳥、という何とも腑に落ちない変な言葉ということを言っている。
 西郷、前掲書に、「天若日子の話が『雉の頓使』という諺の本縁譚扱いされているのはなぜか。書紀が一方これを『反矢可畏』という諺の本縁譚にしているところから見て、この話と『雉の頓使』とが最初から結びついていたとは考えにくい。多分、それは古事記において結びついたのだろう。」(同頁)とされている。こういった解説は多く行われている。記紀の歌謡と地の文との関係がわからないと、歌は後からその部分へと挿入されたのであるといったおざなりな解釈である。自分がわからないからといってテキストのせいにしてはならない。この部分、紀に「本縁譚」とされている箇所には、

 此(これ)世人(よのひと)の所謂る、返矢(かへしや)畏(い)むべしといふ縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段本文)
 此、世人の所謂る、返矢(かへしや)畏るべしといふ縁なり。(神代紀第九段一書第一)

とある。「縁」とあるだけで、「諺」とはない。記に、「故、今に諺に『雉の頓使』と曰ふ本は是れなり」などとしらばっくれて言っている。後代の意味の諺と取り違えてはいけない。「石の上にも三年」という後代の諺を座右の銘に刻むのとでは、「諺」という概念が異なる。来た鳥なのに還らない雉という鳥、という変てこな言葉のもともとは天若日子の話に登場しているのですよ、と古事記が話している。何の不思議もない。ネタなのだから、笑うべきところである。「諺」の「起源説話を絶えず求めていた」(西郷、前掲書、同頁)のではなく、「雉」という名の鳥が出てきたところでついでにこの言葉、キシについて面白話をしておこう、というのが古事記のスタンスである。記紀の説話とは、話(咄・噺・譚)である。それ以上でもそれ以下でもない。
(つづく)
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魚が泳いでいた

2016年12月04日 | 無題
 美しいとはこういうことである。(写真は下手だが)
錦鯉(上野公園錦鯉品評会)
瑠璃釉魚藻文鉢(中国、明時代、「大明宣徳年製」銘、高10.2cm、口径15.0cm、松岡美術館展示品。「中国の陶磁 明から清まで」展(~2017年1月15日)
 どうして人はわざわざこういうことをするのか? 誰に頼まれたのだろうか?
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記紀の「諺」 其の二「地得ぬ玉作り」

2016年11月28日 | 論文
(承前)
 A.地得ぬ玉作り
 故、其の軍士等(いくさびとども)、還り来て奏言(まを)ししく、「御髪、自(おのづ)から落ち、御衣易(やす)く破れ、亦、御手に纏(ま)かせる玉の緖も便ち絶えぬ。故、御祖(みおや)を獲らずて、御子を取り得まつりき」とまをしき。爾に天皇、悔ひ恨みたまひて、玉作(たまつく)りし人等を悪(にく)みて、其の地(ところ)を皆奪(と)りたまひき。故、諺に「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」と曰ふ。(垂仁記)

 垂仁記では、天皇方が、皇后の沙本毘売命(さほびめのみこと)を奪回しようと力士(ちからひと)を使ってつかませようとしたとき、髪の毛や衣服、環(たまき)がみなすべり抜けて失敗した。それで天皇は、地団駄を踏み、やり場のない怒りを玉作りに向け、玉作りの「地(ところ)」をすべて奪ったという。だから、諺では、「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」というのであると話が締めくくられている。話(咄・噺・譚)のオチになっているはずである。稲城のなかの皇后を奪おうとしたら、奪えなかったから、玉作りの「地(ところ)」を奪ったと言っている。なぜ、皇后を奪えなかったか。表面がぬるぬるしていたからだと軍士は報告している。すべてを玉作りひとりのせいにするのは不思議である。しかも、玉作りを磔・獄門にしたとか、島流しにしたとか、といったことではなく、「地(ところ)」を取り上げたと言っている。だから、諺では「地(ところ)得ぬ玉作」ということになっているというが、玉作部が土地所有を禁止されていたのか、玉作部が漂泊の民であったのか不明である。仮に土地を没収されたとして、それが諺になるであろうか。コト(言・事)+ワザ(技・業)に当たっていると面白がることができるであろうか。腰掛け鎌継ぎのような言葉の技が見られるのであろうか。
 「地(ところ、ト・コ・ロはみな乙類)」には同音に、ヤマノイモのことをいう「薢(ところ、ト・コ・ロはみな乙類)」がある。蔓性植物で、トコロヅラとも呼ばれる。

 薢 崔禹食経に云はく、薢〈音解、度古侶(ところ)、俗に◆(草冠に宅)字を用ゐ、漢語抄に野老二字を用う。今案ずるに並びに未だ詳らかならず。〉は味苦く甘さ少なく毒無し。焼き蒸して粮に充つといふ。兼名苑注に云はく、黄薢は其の根黄白にして味苦き者也といふ」(和名抄)
 なづき田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻(もとほ)ろふ ところづら(登許呂豆良)(記34)
 皇祖神(すめろき)の 神の宮人 冬薯蕷葛(ところづら) さねかつら 弥(いや)とこしくに 吾返り見む(万1133)
 …… 懸け佩きの 小太刀取り佩き 冬▲(草冠に尉の偏に刄)蕷都良(ところづら) 尋(と)め行きければ 親族(うがら)どち ……(万1809)

 和名抄にはまた、「薯蕷 本草に薯蕷は一名に山芋〈夜万乃伊毛(やまのいも)〉と云ふ。兼名苑に藷藇〈音与、暑・預同じ也〉と云ふ」とあって、「芋(いへのいも)」=サトイモと類別されている。出雲風土記・飯石郡条に、「萆薢・……・薯蕷・……」とあって、前者を「ところ」、後者を「やまついも」と振られている。だから異種であると考えられはするが、ヤマノイモ科の植物でよく似ている。現在、トコロと呼ばれる植物は、オニドコロ、ヒメドコロ、タチドコロがあり、ヤマノイモ同様やはり根の肥ったところを食べた(注2)。和名抄にあるとおり、オニドコロやタチドコロは苦みがあるが、あく抜きして食べたり、薬用にしたことがあったようである。両者は似ているから言葉も混用されることがあったであろう。
 なぜ、ヤマノイモ類をトコロというかと言えば、ヤマノイモは山の芋で、採集作物である。夏場は蔓が伸びて行ってハート形の葉によってそれがヤマノイモであるとわかるが、採集するのは晩秋から冬期である。葉が落ちていると、どこにヤマノイモの肥った根があるかわからない。記憶を頼りに、ある一点を掘っていくと、ヤマノイモを収穫することができる。だいたいこのあたりであった、などということでは、土を掘り返すのが大変でとてもやる気にならない。そこのところ、と一点を決めることが肝心である。そのためには、まだ黄葉の残っているときに蔓をたどって掘るか(その場合も蔓が途中で切れていたらもうわからない)、蔓の根元にあらかじめ印をしておくかしておく。麦の種を播いておき、冬場に青々としていることで識別することも行われたという。つまり、ヤマノイモを得るには、場所の特定が欠かせないのである(現在は畑で栽培されており、野生のものを自然薯(じねんじょ)と呼ぶ。ヤマイモは、後に中国から入ってきた近種である。交雑もあるらしい)。したがって、トコロ、トコロヅラと言われたものと考えられる。
 ヤマノイモは食べる時に擂りおろす。卸し金を使っても構わないが、擂鉢ですりおろし、手に持っていたイモが形を留めなくなってからも、さらに山椒などの堅い棒を擂粉木としてとことんこね回すことの方がふさわしい。粘りが出ておいしいからである。古代の土器の擂鉢には、筋目(擂目)がない。今想定するなら、乳鉢の大きなもので、その鉢形の正しいものと思うと近いかもしれない。縄文時代の石皿は叩きつぶすことが主眼であったかもしれないが、それが発展したものと思われる。調理具でありつつ、食膳具でもある。土器のざらざらの器面に当てて擂れば、ヤマノイモのような柔らかいものは簡単に擂りおろせ、ぐるぐる回しているうちに粘りがどんどん出て、終いに鉢を逆さにしても落ちないほどになったであろう(注3)
擂鉢(小松茂美編『日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、昭和62年、85頁)
擂鉢(陶邑TK321号窯跡出土、8世紀、Ⅳ型式1段階、中村浩『泉北丘陵に広がる須恵器窯―陶邑遺跡群―』新泉社、2006年、84頁(注4)
蒲鉾屋(熈代勝覧模本、原本は文化2年(1805)、三越前駅コンコース展示品)
脚付石皿(青森県佐井村出土、縄文時代後期~晩期、前2000年~前400年、東博展示品)と磨石(青森県八戸市南郷区島守字荒谷出土、縄文時代後期~晩期、前2000年~前400年、東博展示品)
 垂仁記の話で、皇后を奪還できなかった理由は、髪も服も玉も皆ぬるぬるしていたからであった。ヤマノイモ状態である。玉作りは、勾玉を作るのだが、勾玉はヤマノイモが蔓茎の葉の腋に作る零余子(むかご)によく似ている。この零余子は食べられる(注5)。秋になるとスーパーでも手に入る。味は地中の芋と同じであるとされるが、筆者は少し劣るように感じる。種は花が咲いてできるが、この零余子もヤマノイモの繁殖に大いに役立っている。イモ類だから、ヤマノイモ自体を切って植えておいても芽が出るし、葉を挿しても芽が出るとも研究されている。自然界においては、零余子の役割は見逃せない。種よりも大きいから育つのが早い。だから、零余子は食べられるからといってどんどん食べてしまえば、肝心のいちばんおいしいヤマノイモの収穫量は減ってしまう。零余子を食べるようとすべて取ってしまい、多くの場合、蔓が伸びて行っているからそれを引っぱって切ってしまうこととなる。冬になってから、もはやどこにヤマノイモの肥った根があるのかわからない。トコロが特定できない。零余子=勾玉ばかり取っていると、薢(ところ)が得られない。「薢(ところ)得ぬ玉作り」である。ぬるぬるについての咎はすべて玉作りにあると思われ、「地(ところ)得ぬ玉作り」とされた。
むかご(10月初旬。11月下旬にこのポイントのむかごはなくなっていた。玉作りが取っていって食べたのであろう。)
むかご(11月下旬、民家の垣根のカナメモチに絡まっている。)
勾玉(硬玉勾玉、大阪府八尾市郡川西塚古墳出土、古墳時代、5~6世紀、桑野與治郎氏寄贈、東博展示品)
玉作り道具と材料(上列:砥石、中列:はずみ車と錐と不明鉄片、下段:硬玉、富山県朝日町浜山遺跡第1号工房址出土、古墳時代中期、朝日町教育委員会蔵)(大田区立郷土博物館編『ものづくりの考古学―原始・古代の人々の知恵と工夫―』東京美術、平成13年、42頁)
 玉作部のことは、タマスリベとも呼ばれる(注6)。勾玉を擂るからである。ヒスイなどの鉱物の形を整えるのに磨り、穴を開けるときには舞錐を使った。鉄器のない時代は、舞錐の先が竹で、細かな砂を散らして砥ぐように使ったとされている。ヤマノイモ同様、穴までもスル(擂・摺)対照なのである。スルことが得意な玉作りは、天皇に胡麻を擂るのが上手だったと考えられていたのであろうか(注7)。ところが、ヤマノイモを擂るのが上手らしい沙本毘古王(さほびこのみこ)側に、してやられたのである。皇后と御子をともに掠め取る、すなわち、掏ろうとしていたのにできなかった。同じスルことの失敗は、スルことの専門職、玉作りにある。だから、垂仁記のこの箇所で、「諺」のコト+ワザとなっている。言葉が無文字であった時代の人の脳の働かせ方である。

(注2)木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年、403~407頁。種の比定に厳しく、万1133番歌の「冬薯蕷葛」の「冬」字に疑問を呈されている。「そもそもヤマノイモの仲間は冬に落葉し蔓も枯れるから、冬季に認識すべき部位は地上になく、また冬に限って掘り採ることもしないから、まったく的外れであるのはいうまでもない」(404頁)とされ、本草経集注の読み間違いから生じたのではないかと指摘されている。けれども、豪雪地帯を除けば、目印をつけておいて掘りに行くことは必ずや行われていたことであろう。食べ物で、しかも、美味しいものに関して、採集者は知恵を働かせたに違いない。枯れた蔓が干乾びて木にまとわりついていて、零余子がぶら下がっていたなら、その根元のトコロには、トコロがある。自然薯の旬は11月中旬から1月である。零余子は、その少し前、10月から11月中旬である。
(注3)同書には、「内面に条痕がみられないのですり鉢とするよりも練り鉢とすべきかもしれない。口縁部に注口がもうけられている」と注釈されている。台座をひと回り大きくして安定させている点や、現在の金属製やプラスチック製のボールとは形状が異なって側面が直線的である点から、ハンバーグを捏ねるような内容物どうしを“練る”作業もさることながら、内容物を容器に当てて“擂る”ことのほうに眼目があったと思われるがいかがであろうか。内容物とは、すなわち、ヤマノイモである。もちろん、ヤマノイモを美味しいとろろ芋に仕上げるためには、擂り、練り、捏ねる、の作業がすべて行われる。あてがい回すことに長けている容器に思われる。筆者は、実際に触れないので、実験考古学の方々からのご教示をお願いしたい。
(注4)スリバチ(擂鉢)という言葉自体は新しいものらしい。中古にも見られない。擂目を入れる技法が確立してから、別してそう呼ばれるようになったのかもしれない。陶器技術の発達がなければ擂目は入れられなかったということであろうか。病草紙の絵は、須恵器の色に見えるが、熈代勝覧の図と体勢は変わらない。絵巻物では他に、慕帰絵(慕帰絵々詞 巻2、慈俊模写、国会図書館デジタルコレクション(13/31))にも描かれている。擂目が入っているかどうか、確かめられたい。小田和利「須恵器擂鉢について」『九州歴史資料館 研究論集』第38号(2013年)に、須恵器擂鉢の特殊な使い方を想定する説がある。鉢形容器を逆さに伏せて底部の刺突孔・線刻をおろし金の突起と同様の役目を担うとする考えである。
(注5)オニドコロやタチドコロは零余子をつけない。「地得ぬ玉作り」という諺が言葉として成り立っていることから出発するなら、ヤマノイモとオニドコロなどとの識別ができていて、あくのない自然薯を得られないオニドコロなどだから、玉作りは勾玉を作ってムカゴ(珠芽)と見立てて葉の腋に添えたのだという話なのかもしれない。けれども、その場合、トコロ(地=薢)という本義の面白味を失うことになる。言葉がコト+ワザとして示されているのだから、本文に述べたような解釈が行われていたと考えるのが妥当であろう。
(注6)寺村光晴『古代玉作形成史の研究』(吉川弘文館、昭和55年)には、「『不地玉作』の語が、特に『諺曰』とあるように、また『古事記』ではここにのみ『玉作』の語が使用されており、他に『玉作』の語がみられないことなどから、本来は別の話であったものが、後に『垂仁記』に挿入されたという疑いが出てくる。とすれば、[古墳時代の]第二期玉作遺跡の消滅という実体が、この伝承に投影されているように思われてならない。」(529頁)とある。記紀の歌謡を地の文と別にあったとする考えも根強い。考古学の研究者からは、前方後円墳の横穴式石室出現が、黄泉国という考え方に与ったとする説も提出されている。記紀のお話に当時の現実がどのように投影されているのか、少なくとも科学的には検証することはできない。むしろ、記紀に載るお話は、“科学”を当て嵌めようとする近代的なものの見方に真っ向から反対しているように思われる。寺村先生のお考えの最大の難点は、「地得ぬ玉作り」という変てこな言い回しがどうして「諺」なのか、説明されない点にある。
(注7)今日、胡麻を擂るという言い方で、上司にこびへつらう意味に用いられる言い方がいつから生れたか定かではないが、近世も後期になってからの用例しか認められない。胡麻を擂っていると油がにじみ出てきてべたべたくっつくことに由来するとする説や、お寺で小坊主が上手に胡麻を擂ると和尚の機嫌が良くなることに由来するとする説がある。胡麻自体は、本邦では縄文時代の遺跡から炭化したものが出土している。養老令・賦役令に、「胡麻油七夕」とあり、つづけて、「麻子油七夕、荏油一合、曼椒(ほそぎ)油一合、猪脂三合」などと油脂類が列挙されている。和名抄に、「胡麻 陶隠居本草注に云はく、胡麻〈音五万(ごま)、訛りて宇古末(うごま)といふ〉は本、大宛に出づるを以て之れを名づくといふ」、また、「油〈擣押附〉 四声字苑に云はく、油〈以周反、和名阿布良(あぶら)〉は麻を迮りて取る脂也といふ。迮〈側陌反、字窄と通ず〉は迫也。狭也。内典に云はく、胡麻は熟し已に子を収め之れを熬りて擣き押す〈俗語に之路無(しろむ)と云ふ〉、然らば則乃ち油の出るを得といふ〈涅槃経文也〉」とある。関根真隆『奈良朝食生活の研究』(吉川弘文館、昭和44年)によれば、正倉院文書には、胡麻は、同じ容量の米の1.5ないし2.5倍の値段であったとされている。上代の油の大方は胡麻油であったらしい。食用ばかりでなく、燈用にも用いられたことが知られている。なお、(注3)との関連にて、ごますりスプーン(商品名:ごますり革命)という逆転の発想による商品が、テレビ東京の番組WBSのトレンドたまごのコーナーで紹介されていた。研究者は、もの→用途へ考えをめぐらすが、実地の人たちは、用途→ものへと考えをめぐらせるようである。
 胡麻の主用途が油であるとして、それが圧搾によってしぼられたものであったとすると、上代においては、スル(擂)という動詞とは結びついていなかったと考えられる。現在目にする擂目の付いた擂鉢が中世に開発されたものであることを考え合わせても、鉢でスル(擂)という行為は、胡麻ではなく、とろろ芋を生み出すヤマノイモのぬるぬる感と密接に結びついているものと考えられる。新撰字鏡には、「▼(手偏に同) 大公反、平、磨也、止支須留(とぎする)也」とある。トグ(研・砥・磨)こととスル(擂・摺・擦・摩・磨)こととの親近性をにおわせる。勾玉、ヤマノイモ、硯に墨、ならびに財布が、スル対象の代表といえるのであろう。誰も論じていないことであるが、スルことには、必ず、対象との間のあてがう角度を気にすることがつきまとう。角度を一定にするのではなく、手に持つ手首を回しながら回すのがうまいスリ方である。なお、善良な市民の方々には、掏摸(すり)の技法は、池波正太郎「女掏摸(めんびき)お富」『鬼平犯科帳2』(文芸春秋(文春文庫)、2000年)を参照されたい。
(つづく)

(追記 2016.12.04)
 擂鉢の利用について、染料を採取する際に用いられていたことを述べておく。植物の花弁や実、樹皮、鉱物をすり潰すのに必要とされた。鉱物の場合、擂鉢に対して擂粉木では当たらないから、乳鉢に乳棒を使うように石製の擂棒を使ったのであろう。土佐光起・本朝画法大伝(元禄3年(1690)成立)に、「緑青製法ハ先鉢に入水と膠(サ)を入石乳木(スリキ)にて軽く少研(スリ)て……」などとある。目黒区美術館「色の博物誌―江戸の色材を視る・読む―」展(~12月18日)に、顔料工房遺跡の遺品が展示されている。その隣の画像展示に、紅花餅(はなもち)製造工程で擂鉢を使う様子も見ることができる。
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印刷美術館「武士と印刷」展 摺られた武士と野生の牛

2016年11月27日 | 無題
「源頼光朝臣丹波國市原野にて四天王の勇士をもちて鬼童丸を退治するの圖」(歌川国芳、大判錦絵3枚続、江戸時代、弘化元~3年(1844~46)、~12月4日(日)まで展示、図版はThe British Museum様サイト)
 印刷美術館「武士と印刷」展(~2017年1月15日(日)迄)にて、鬼童丸の牛皮を被っている図を見ました。大判3枚の真ん中です。鬼童丸(鬼同丸)は、13世紀に成った古今著聞集・巻第九・武勇に、源頼三の話にあり、それを図にしたものです。「[鬼同丸]……くらま(鞍馬)のかたへ向ひて、市原野に辺にて、便宜の所をもとむるに、立ち隠べき所なし。野飼(のがひ)の牛のあまた有りける中に、殊(こと)に大なるを殺して、路頭に引ふせて、牛の腹をかきやぶりて、其の中に入りて、目ばかり見出して待けり。」
 源頼光の先回りをした鬼童丸が、市原野で放し飼いの牛を殺して体内に隠れた様子が描かれています。さて、これは放し飼いの牛であって、野生化した、ないし、半野生化した牛を言っているのではないでしょう。けれども、図には、鼻輪が見られません。特に大きな牛を選んで殺しているので、農耕や牛車用に使っていたなら鼻輪があったはずですし、肉食用だったのでしょうか。(国芳がどう考えていたのかにすぎません。)
 今日、宮崎県の都井岬などには、半野生化した馬がいます。では、牛が日本列島において、野生化したような状態のことがあったかどうか、これがわかりません。平安時代後期に成ったとされる鳥獣人物戯画には、野生の牛、ないしは、放し飼いされている牛が描かれています。これをもって野生牛がいたとは言い切れません。
鳥獣人物戯画乙巻(「Don Panch 橿原日記」様サイト)
 古く日本書紀に、「別(こと)に大連に勅して云はく、『牛を難破(なには)の大隅嶋(おほすみのしま)と媛嶋松原(ひめしまのまつばら)とに放て。冀くは名を後に垂れむ』とのたまふ」(安閑紀二年九月条)とあります。この記事から、牛が放たれて野生化していたなどとわかる由もありません。
 安閑天皇(広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと))は四人の妻がいたけれど子宝に恵まれず、「万歳(よろづとせ)の後に朕が名絶えむ」ことを憂慮し、「物に因りて名を為(な)」そうとして、「屯倉(みやけ)の地(ところ)を建立(た)てて後代(のちのよ)に留めしめ、前(さき)の迹(あと)を顕さしめ」(安閑紀元年十月条)たとされています。名前を残すことと牛を放つことと何の関係があるのでしょうか。この点について、まだ誰も解明した人はいません。「解釈できない」(岩波書店大系本日本書紀)、「不明」(小学館新全集本日本書紀)とされています。
 安閑天皇の名前は、もともと、勾大兄(まがりのおほえ)といいました。曲がっている大きな柄の付いたものとは、犂(からすき)が思い浮かびます。牛に引かせて耕耘するのに使います。だから…………、牛が後の世に生き残っていれば、なるほど、犂を引いたはずの牛がいるのだから、勾大兄という人もいたはずだ、という発想なのであろう、というのが、私の冒険的な仮説です。曲学の徒との批判を恐れることなく主張します。野生化して何代か経ていた後、本土に牛がいなくて難破の大隅嶋と媛嶋松原にいたとして、渡来人が来て、あそこには牛がいるのですね、と言ってきたとき、そうなんですよ、昔、マガリノオホエという人がいたからなのですよ、その名残りなのですよ、という“会話”が成り立つだろうというわけです。鼻輪がないのは牛も代を重ねているからなのです、という話にまとまるだろうという設定です。
牛に犂、馬に馬鍬を引かせるの図(六道絵 畜生道幅・絹本着色模本、中谷求馬写、文政5年(1822)、泉武夫・加須屋誠・山本聡美編著、金井杜道撮影『国宝 六道絵』中央公論美術出版、平成14年、163頁)
 このような仮説を立てつつ、どうやら日本で、牛が代を重ねて野生化、ないし、半野生化したことは、ほぼないであろうと思います。なかなかできなさそうだから、勾大兄という人は、自分の名前を残せるものなら残したいと冀って実験的に牛を放たたせてみたということではないか、と考えます。古墳時代ごろに渡って来させられたらしい牛が、馬以上に日本で野生化しにくそうな点は、羊が日本で野生化しそうもないという点に近いようです。草原が少ない、または、草原は田畑にするから、ごめん、あっちへ行っててね、と人に退かされたら、行き場がありません。鹿が野生化しているのは、山で木の葉を食べて暮らせるからでしょう。
 
 なお、「武士と印刷」展は、徳川家康以降、刷らせた武士がたくさんいて、膨大な資料の一部の、見ていて疲れるほどたくさんの展示がされていました。安土城のVR視聴もできます。お楽しみに。
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記紀の「諺」 其の一(総論)

2016年11月22日 | 論文
 記紀に「諺」と記された語は、全部で7例ある。その7例について、正面から論じられた先行研究はとても少ない。奇妙奇天烈でよくわからない語である。わからないことを考えていくのが“研究”であると思うが、わかることだけで全体像を組み立てることを良しとしているケースが多い。上代文学や神話学、日本古代史では、そうだったのか! という感動よりも、そうなのだ! という自己主張が行われている。弁護士のような人たちが多い。
 河野貴美子「『言』『語』と『文』―諺を記すこと―」河野貴美子・Wiebke DENECKE編『日本における「文」と「ブンガク」』(勉誠出版、2013年)に、漢書・韋賢伝の、「少子玄成、復以明経歴位至丞相。故鄒魯諺曰、『遺子黄金満籝、不如一経』。(少子玄成、復(また)明経を以て位を歴て丞相に至る。故に鄒魯(すうろ)の諺に曰く、『子に黄金満籝(まんえい)を遺すは、一経(いっけい)に如かず』と。)の部分の顔師古の注に括目されている。「これに対して、顔師古はまず『籝』とは陳留で民間に用いられる竹の器であるとする如淳の注を引き、……筺籠の類であるとする。そしていま注目したいのは、……『今書本』において『籝』字を『盈』に作るものがあるが、その場合も『容器いっぱい』の意となり、両方共に通じると述べることである。……『諺』が本来口づてに伝えられるものであるという性格を鑑みれば、これは『諺』のまさにそうした口頭語としての性質と、それが文字に表記される際にまま生じたであろう可変性、流動性を示す注記だとはいえないだろうか」(59頁)と鋭い着眼をされている。感動をそのまま口にされている。
 顔師古は、諺の注の字の説明に納得しているのである。諺が口頭語で飛び交って空中を流れて行ったその先に字に直した時、なるほど確かであったと確認が取れたということである。俗に言われていることのなかにも、確からしいことは結構あるということである。みんなの意見は案外正しい(スロウィッキー)。その点を見ながら、源為憲・世俗諺文の研究をされているのが河野先生の論文の本意なのであるが、筆者は、記紀の「諺」のとり上げ方に興味を覚える。
 古事記では4例、「諺曰」として諺がとり上げられ、そのうち「故諺曰」が3例、「故於今諺曰」が1例である。日本書紀では4例、「諺曰」として諺がとり上げられ、そのうち「故諺曰」が3例、「是以諺曰」が1例である。ダカラ、コレデモッテ、「諺曰」と書いてある。小咄の最後にそうやって諺が登場する。表現として「諺」風なものに、日本書紀には、「古人有云」、「古人有言」、「古人云」、「古人曰」、「古人所謂」、「時人因号」、「時人号」、「時人歌之曰」、「時人曰」などといった例があげられる。「古人」にダカラ、コレデモッテの類の論理記号付与はない。「時人」には、ダカラ(故・因・乃)、コレデモッテ(因此・是以)の冠する例も見られるが、地名の由来を説く場合(「号」、「作」)、以下に歌を歌う場合(「歌」)、人名の由来を説く場合(「曰」、「号」)がほとんどである。例外的に、亡き人の偉大さと死者への冒瀆を糺す場合(「故、時人云はく、『田道(たぢ)既に亡(し)にたりと雖も、遂に讎(あた)を報ゆ。何ぞ死にたる人の知(さとり)無からむや』といふ」(仁徳紀五十五年条))、神の教えの正当性を唱える場合(「故、時人曰く、『二社の神の教へたまへる辞(みことば)、適(まこと)に是なり』といふ」(天武紀元年七月条))といった例があるのみである。人知にまさることを指し示すために「故」と使っている。理由を示しているというより、理屈を示している。この2例で、「時人」は誘導尋問に陥らされている。
 紀の編者は、「諺」とその他(「古人云」や「時人曰」など)とを使い分けている。それは、認識として、言葉のなかでも「諺」とは特異なものであり、他の言葉遣いとは異なる方術と考えていたことを示すと考えられる。「諺」とある言葉は、後掲するように一筋縄では了解できない意味不明のものばかりである。一方、「古人」や「時人」の後に続く言葉に、比較的容易に理解できる。難しいものは、雄略紀の1例(「古人、云へること有り、『娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに(汝人や母似?))。』〈此の古語(ふるごと)未だ詳らかならず。〉」)のみである。「汝人は母似」の意味であることが確からしいのに、「此古語未詳也」なる注がついている。この1例には紀の編纂者の異常ともいえる作為が感じられるのでここでは考慮から除外する。当面の課題である「諺」については、「諺」という特殊な言葉を用いるに当たり、「故諺曰」というように、ダカラ諺でそう言うのだよ、と使われている。曲解せずに受け止めなくてはならない。まず、以下に「諺」の例を列挙する。

 A.地得ぬ玉作り
 故、其の軍士等(いくさびとども)、還り来て奏言(まを)ししく、「御髪、自(おのづ)から落ち、御衣易(やす)く破れ、亦、御手に纏(ま)かせる玉の緖も便ち絶えぬ。故、御祖(みおや)を獲らずて、御子を取り得まつりき」とまをしき。爾に天皇、悔ひ恨みたまひて、玉作(たまつく)りし人等を悪(にく)みて、其の地(ところ)を皆奪(と)りたまひき。故、諺に「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」と曰ふ。(垂仁記)
 B.雉の頓使
 ……即ち天若日子(あめわかひこ)、天つ神の賜へりし天(あめ)のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。……其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下(くだ)したまへば、天若日子が故床(あぐら)に寝(いね)たる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき。〈此れ還矢(かへりや)の本なり。〉亦、其の雉、還らざりき。故、今に諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は是れなり。(記上)
 C.神の神庫も樹梯の随に
 五十瓊敷命(いにしきのみこと)曰く、「神庫(ほくら)高しと雖も、我能く神庫の為に梯(はし)を造(た)てむ。豈、庫(ほくら)に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰く、「神(かみ)の神庫も樹梯(はしだて)の随(まにま)に」といふは、此れ其の縁(ことのもと)なり。(垂仁紀八十七年二月条)
 D.さばあま
 処処(ところどころ)の海人(あま)、訕哤(さばめ)きて命(みこと)に従はず。〈訕哤、此には佐麼売玖(さばめく)と云ふ。〉則ち阿曇連(あづみのむらじ)の祖(おや)大浜宿禰を遣して、其の訕哤(さばめき)を平(たひら)ぐ。因りて海人の宰(みこともち)とす。故、俗人(ときのひと)の諺に曰く、「佐麼阿摩(さばあま)」といふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(応神紀三年十一月条)
 E.堅石も酔人を避く
 故、是の須須許理(すすこり)、大御酒(おほみき)を醸(か)みて献りき。是に天皇、是の献りし大御酒にうらげて、御歌曰(よ)みたまはく、
須須許理が 醸みし御酒に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり(記49)
如此(かく)歌ひて、幸行(い)でましし時、御杖以て大坂の道中(みちなか)の大石(おほしは)を打ちたまへば、其の石走り避(さ)りき。故、諺に「堅石(かたしは)も酔人(ゑひびと)を避く」と曰ふ。(応神記)
 F.海人なれや、己が物から泣く
 是に、大雀命(おほさざきのみこと)と宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)との二柱、各、天下(あめのした)を譲れる間に、海人(あま)、大贄(おほにへ)を貢(たてまつ)りき。爾に、兄(え)は辞(いな)びて弟(おと)に貢らしめ、弟は辞びて兄に貢らしめて、相譲れる間に、既に多(あま)たの日を経ぬ。如此(かく)相譲ること、一二時(ひとたびふたたび)に非ず。故、海人、既に往還(ゆきかへり)に疲れて泣きき。故、諺に曰く、「海人なれや、己(おの)が物から泣く」といふ。(応神記)
 是に、海人(あま)の苞苴(おほにへ)、往還(かよふあひだ)に鯘(あざ)れぬ。更に返りて、他(あた)し鮮魚(あざらけきいを)を取りて献る。譲りたまふこと前(さき)の日の如し。鮮魚、亦鯘れぬ。海人、屢(しばしば)還るに苦(たしな)みて、乃ち鮮魚を棄てて哭く。故、諺に曰く、「海人なれや、己が物から泣く」といふは、其れ是の縁なり。(仁徳前紀)
 G.鳴く牡鹿なれや、相夢の随に
 時に宿れる人、心の裏(うち)に異(あやし)ぶ。未及昧爽(あけぼの)に、猟人(かりびと)有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人の諺に曰く、「鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあはせ)の随(まにま)に」といふ。(仁徳紀三十八年七月条)

 以上が記紀における「諺」のすべてである。飛鳥時代のコトワザの概念に合致するものは、これら以外にないということである。風土記ならびにその逸文や霊異記に、「諺」の語は登場する。一例だけ挙げる。

 国俗(くにぶり)の諺に、水泳(くく)る茨城(うばらき)の国と云ふ。(常陸風土記・茨城郡条)

 記紀の「諺」とこの例との間には、「諺」概念に大きなクレバスのあることを見る。どちらが先かと言えば、記紀の方が先に著されているから先である。そう考えられるが、今日的見解はそうはなっていない。白川静『字訓』(平凡社、1987年)に、「諺とされるものに、〔常陸風土記〕にみえる『風俗(くにぶり)の諺』として地名に冠して用いるものと、〔記〕〔紀〕にみえるような『緣(ことのもと)』のある語とがある。『ことわざ』が呪能をもつ語を意味することからいえば、説話の要約として生れたという世俗的な智を示す『緣』のある語よりも、『風俗の諺』として地名に冠して用いる語の方が、本来的なありかたを示すものであろう。のち序詞や枕詞をして地名に冠していうものはみなこの種のもので、もとは地霊である『祇(くに)つ神』に対してよびかける語であった」(334頁)とされている。筆者はこの考え方に疑問を抱く。コトワザとは、コト(言・事)+ワザ(技・業)という合成語であろう。ワザを使って国つ神に訴えたとすると、天つ神に訴える時の語は、コトワザワザとでも呼ぶのであろうか。
 増井元「わざ」古代語誌刊行会編『古代語を読む』(桜楓社、1988年)も、同じような考えである。少し長くなるが、引用する。

 上代の用例から導かれる<わざ>の語義は、行為・所行・仕事・技術、あるいは行事・事態・次第といったものである。ただし、それらは、「朕(あ)が敬ひ報いまつる和佐(わざ)としてなも」(続日本紀宣命)のように天皇の統治行為であったり、「此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさ)めぬ行事(わざ)」(万、9・一七五九)であったりするように、軽々しく扱えない、重大な意味を持つ行為である。現代でも、「しわざ」「わざと」「わざわざ」などの語群には、意図をもって殊更する行為の意が認められる。また、仕事・職業・技芸の意に解される<わざ>にしても、容易には習得できない重要な技術の意であったと言えよう。さらに、「古(いにし)へにありける和射(わざ)の奇(くす)ばしき事」(万、19・四二一一)のように事態・出来事を意味する場面では、その出来事の意味が問題とされ、あるいは、そうした出来事の背後に、人智を超えたものの意図がはかられようとしている。<わざ>は重大な行為・出来事であり、その現象としての現れの重大さと同時に、それがもたらされた事情や意味が深く問われねばならない事象であった。それを突き詰めれば、<わざ>とは、人間の思惑を超えた力や意図、その発動である。<わざ>は根源的に「神わざ」であった。しかし、そうした<わざ>をなす神々は、記紀においてマイナーな位置を付与されている。(158~159頁)
 「ことわざ」……には幾つかの分類が可能だが、おおまかに、常陸国風土記などに見える風俗諺(くにぶりのことわざ)(握飯(にぎりいひ) 筑波の国」「薦枕(こもまくら) 多珂の国」など)の類と、「堅石(かたしは)も酔人(ゑひひと)を避く」「地(ところ)得ぬ玉作り」のようないわゆる諺・格言の類とに分けられる。言語の機能としては、とりあえず、前者は懸詞や比喩を介した接続関係による称詞、後者は寓意だとしておく。これらが「ことわざ」であり得るのは、共に、日常語とは異なる言語表現として、表面的な意味をたどるだけでは感知し得ない、言語の働きを含んでいると受け取られた点においてである。これらは現代の視点からすれば、レトリックの形態の一つ一つであるが、そうした言語の働きを合理化・論理化せず、神・霊が言わせた言葉、霊がひそむ言葉あるいは言葉にひそむ威力というレベルのままに取り出したものが「ことわざ」であった。ある尋常でない形での言語表現に伴う、不可思議な作用―それが「ことわざ」の<わざ>であり、また、言霊の実体である。これを文学的・詩的な表現についての消極的な認識だと言うこともできる。(160~161頁)

 「ことわざ」とマイナーな神との関係は論じられていない。推し量るに、ことわざは「反文化的なもの」(158頁)らしい。納得がいかない。「<わざ>は根源的に『神わざ』であ」るとの見解も罷り通っている。人がしたのではないようだと思う時、それを神さまがやったように感じる。だから、「神わざ」という言い方を譬えとしてする。古代にそのような言い方をした可能性はゼロである。なぜなら、神さまの行うことは人智では計り知れないから、人間がやっとこさっとこ行う「わざ」と比較することは神さまに対して冒瀆に当たる。人が技巧を駆使して行うことが「わざ」である。どこまでいっても“人わざ”である。「ことわざ」とは、人が技巧を駆使して言葉として発した事柄、つまり、すごく難解ながらズバリと言い当てている言葉のことである。「ことわざ」を見える化するなら、大工さんの柱の継ぎ方、腰掛け鎌継ぎのような言葉の仕掛けが「ことわざ」に当たる。それも、メビウスの輪、クラインの壺のような柱のめぐり方である。言葉が言葉に返って来ていて一本(?)の円環となっていれば、言葉がすごい技を仕掛けていると誰しも思うであろう。しかし、今日まで、記紀の諺の仕掛けが読み解けていないから、からくりがわからないから、諺という語の本来の意味まで誤解されてしまっている。今日使うコトワザという語とは、義が違うというのが筆者の語学的検討である。今日、「おはよう」は挨拶、「開け胡麻」は呪文、「渡りに船」は慣用句、「七転び八起き」は諺であろうが、それと同じ感覚で、「さばあま」という言い方を諺と考えることはできない。上代におけるコトワザ(諺)という語の定義の方を再検討しなければならない。
腰掛け鎌継ぎ(「忘れへんうちに」様サイト
 「諺の誤解史」を繙いてみる。池田弥三郎『日本故事物語 下』(河出書房新社、2009年)に、「『記・紀』に見られる諺[は]……、みな疑ってかかると、諺と本縁譚との間に距離が感じられる。『古事記』や『日本紀(にほんぎ)』のように古い書物でも、日本人の歴史に比べれば、ずっと新しい時代に属するわけだ。日本人には記録以前に長い歴史があって、その間に伝えられていた叙事詩などはいったん崩壊して、断篇(だんぺん)となった歌や諺がさらに別の叙事詩と結びつけられた。記録に載せられているのは、そういう第二次の叙事詩なのであって、したがって、歌や諺とそれを説明する物語との間にくいちがいがあるのが当然なのである。折口信夫(おりくちしのぶ)先生の上代文学に対する解釈はこの点に大きな特色を見せている」(121~122頁)とある。発端は、折口信夫にあるようである。
折口信夫「日本文学の発生 序説」『折口信夫全集4』(中央公論社、1995年)には、次のようにある。

 「ところえぬ玉作」といふ諺があつて、「玉作りの職業者ではないが、ところえぬ」と言ふ風に、ところえぬと言ふ成語に関した語の一種の誹諧なのである。玉作部(タマツクリベ)に限らず、後の所謂職人の類以外の、土地に生業の根拠を持つ者は、職とは言はぬ慣はしである。狭く手工に限らないまでも、広くは土地の生産に関係ない者は、なりはひとは謂はなかつた。神事に関聯深い生業であり乍ら、職人として後代までも分類せられる手人(テビト)は、土地(トコロ)を持つことを許されなかつた。其中の一つなる玉作部を代表として、「ところえぬ」をきかしたのである。さうして又、単に職人に土地なしといふ概念を述べたゞけの語では、又意味がない。恐らく、「玉作りではないが、ところえぬ」と言ふ詞章は、其地位・其職に堪へぬ者即不適任者をさして言ふ擯斥の詞ではなかつたか。ところえずとは、其在る位置の適しない事を言ふ語だからである。かうして見れば、之を垂仁記にとり入れたのは、単に外貌の接近からばかりであつて、詞章の意義すら、深くは酌みとつて居らぬやうである。(126~127頁)

 暴論のように聞こえる。「所得ぬ玉作り」という諺が、「玉作り所得ず」という奇怪な言葉に転化してしまっている。玉作部(玉造部)(たまつくりべ、たますりべ)が職人扱いされたか、奴婢であったのか、いま、問題としない。諺の話をしている。「犬も歩けば棒に当たる」という諺は、「棒に当たる犬」という諺(?)に遷移しない。それは、命題に関してテーマとなる、「すべての……」、「ある……」の違い( every, all, any の性質の違い)といったことによるのではない。諺が諺として成立しているからには、「渡る世間に鬼はなし」が諺である。「渡る世間は鬼ばかり」はそれを捩ったドラマのタイトルである。諺とは決まり文句であり、それが揺らぐようでは力を発揮しない。コトワザとしての言葉の技が「一本」を取れるようなものではなく、「有効」や「効果」でしかなく、「技あり」でさえないということになる。江戸の俳諧ではなく、記紀のコトワザの話をしたい(注1)

(注1)コトワザの話をさせてくれない議論について、比較的近年の議論をみる。コトワザの本義の考察をせずに、屋上屋を築く議論である。山田直巳『古代文学の主題と構想』(おうふう、平成12年)に、

 ……現在我々が目にする『古事記』には[雉の頓使という]諺が付加された形で示されている。……『古事記』原文完成時点で、物語と諺とが何等かの誘因を得て結合し、一つの全体を構成したと見なければなるまい。その誘因たる条件は何かというに、この諺の中に見られる「雉」であり、……むしろ諺という形を採った物語の「索引化」現象だったのではないか、と思われる。「雉の頓使」という一つの成句たる諺を言うことで、耳目にする人々は、その前部に書かれる話の筋全てを知る、といった態を想定するのである。……諺の短章をもって、全体の話を代表させ、話の筋立ても印象付ける。いわば物語のダイジェストを最後尾に付した、という機能を呈していると思われる。即ち、語られた大部の叙事詩の全てを、この極めて短かい言葉に凝縮させて示そうとする表現法としてこの諺を理解したらどうか、と考えるのである。ある意味では長歌に対する反歌のような性格を帯びているとも言えよう。(394~395頁)
 [折口信夫に、]玉作部が土地を持たなかったという事実がはっきりと見据えられており、さらにそこから展じて、その事実を強調することで戯味を出す-俳諧化していたのであった。そこに諺の新たな機能が発見されていたのである。一方で本縁譚めかした諺の成立を信じ、他方ではそれが明らかに強い語りに過ぎないことを知っていた、という実に複雑な心情をそこには予測せしめるのである。そして、そこに文芸意識というか、生活と密着したところからやや余裕を持って物事を見ることのできる新しい意識の覚醒を見ないわけには行かないのである。(400頁)

とある。天動説のように、誤解を正当化されている。また、小林茂文「諺と古代王権」『玉藻』第42号(フェリス女学院大学国文学会、2007年)に、

 「さばめく」の意味が、騒々しくて従わないことだとすると、「サバアマ」だけでは騒々しく従わない海人との意味にはならないだろう。海人の歴史が共有化されていないと、理解されない諺である。むしろ、地名サバの海人の意味と考えられる。周防国佐波郡佐波郷……の海人は、騒々しくて従わないとの海人認識と結びついている。そこには、海人に対する編者の認識と、海人の歴史的背景がある。……推古朝前後に大和政権による海人再編がなされており、「サバアマ」は漁場での活気ある喧噪などではなく、再編にともなう抵抗的言動であろう。決して古い諺ではない。再編は、鮮魚貢納の役割にとどまらず、六世紀以降の緊急課題となった対新羅外交に関連する措置であったことは、言を俟たないであろう。ここでの諺の役割は、海人統轄が古いことを主張することにあった。(22~23頁)
 『海人なれや、己が物から泣(ねな)く』……海人であろうか、海人でもないのに、同じように自分の物が原因で泣くことよ。海人は鮮魚保存に失敗して泣くことが多かったのであろう。応神天皇記にも記載されており、世間で知られていた諺であった。この諺が使われる場面は、持ち物が原因で泣いている人を揶揄するときである。そのとき海人を持ち出して揶揄するように、海人はからかいの対象であった。……[皇位]の譲り合いに翻弄されて右往左往する海人は滑稽であり、海人は揶揄の対象であるが、その揶揄は大雀命らに向かっていないことに注目したい。王権内部の美徳に、海人の滑稽さを対比させることで、過剰な美徳が招く、収拾がつかなくなった王権物語の崩壊の危機を止揚する役割を果たしている。ここでの諺は、王権物語の崩壊を防ぎ、王権の行動の正しさを演出する効果を担っている。その際、滑稽な存在として海人を引き合いにしていることが留意される。構成上の問題に加え、背景には非農業民への差別があった。(23~24頁)
 神代記[の]……『雉(きぎし)の頓使(ひたつかい)』……[は]神代紀第九段と……内容はほぼ同じであるが、紀に諺は紹介されていなかった。雉はアメワカヒコが放った矢で射殺されて、使者として復命を果たせなかった。物語では雉は殺され還らないが、雉が行った切りの鳥であるとの認識がなければ成立しない諺である。しかし、その説明はない。アメワカヒコの葬送儀礼では、雉は泣き女として登場している。鳥が生死にかかわる霊魂の表象であることが、思想基盤にある。中村禎里氏は、アメワカヒコの葬儀に奉仕したトリは一族のトーテムであり、ともに高天原の住人であって、この世界観は北方の大陸から伝わった新しい支配観念とする[中村禎里「カラス」『動物たちの霊力』筑摩書房、1989年]。同じ使者でもヤタカラスは神武天皇の東遷を助け、カラスはその後も熊野の神使いである。雉が使者として「頓使」とされる理由は不明だが、行ったままのことがからかわれ、使命を果たさずに非難されていることを、確認しておく。(27~28頁)
 『地(ところ)得ぬ玉作』[は]……漂泊する技術民を想起させる諺である。……定着している農耕民にとって、不可解な番上部民の生活形態の起源を失敗による結果とし、諺をそのように理解して玉作を非難する。技術民に対する無知と誤解と蔑視がそうさせるのであるが、諺に彼らを登場させることで、それだけに読み手の想像力を掻き立て、物語理解を助ける働きをするのである。(28~29頁)

とある。諺とはヘイトスピーチであるとお考えのようである。(つづく)
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国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」展の唐櫃

2016年11月03日 | 無題
葵祭図屏風(左隻)(西村楠亭(1755~1834)筆、江戸時代、国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」展(~12月4日(日))パンフレット)
 勅使が幣帛など供え物を唐櫃に入れて進んだかとされています。下賀茂神社(賀茂御祖神社)と上賀茂神社(賀茂別雷神社)へ赴くに当たり、3つ唐櫃があります。鈴木聡子先生によれば、祭っている神さまが、前者=賀茂建角身命・玉依姫命、後者=賀茂別雷命の計3柱であるからではないかとのことです。説得力があります。もとより、元禄期に復興されたお祭りを描いているとのことです。
御幣物唐櫃(東京の京にゃんこ&京ねずみの京都観光見聞録様サイト
 平安時代後期とされる年中行事絵巻には、檜箱をかつぐ人は2人に描かれています。軽そうに見えます。
年中行事絵巻・賀茂祭(小松茂美『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社、昭和62年、82頁)
 私には、屏風に描かれた「唐櫃」なるものが、どのように担がれているのかわかりません。ヒツキ(棺)が櫃の原形で、再び運ぶことは念頭になかったろうから、帯のようなもので蓋もろとも結わいつけるのかと思っていたらそうとも限らず、竿通し具が予め備わっている唐櫃もあるようです。宇津保物語・国譲中に、「宮より、七日のは、御屏風、御座よりはじめたまひて、長持の脚つきたる三つ、唐櫃五具(よろひ)に、綾、錦よりはじめて、よろづの物入れさせたまへり」とあります。“脚付き長持”と唐櫃の違いとは何でしょうか。持つ竿を差し込む金物(?)の仕掛けが付いているかどうか? それとも蓋が取り外せるか蝶番式かの違い? はたまた内蓋があるかどうか? 塗ってあるかどうか? 底にだけ台となる脚があるか横づらから伸びているか? どなたか教えてください。



上:和櫃(黒漆塗経櫃、平安時代、49.3×36.5×26.6cm)、中:唐櫃(公験唐櫃、鎌倉時代、62.8×47.7×40.7cm)(奈良国立博物館編『奈良国立博物館名品図録 普及版』同朋舎、昭和55年、86・91頁)、下:車長持(アミューズミュージアム使用例)
 調度の「長持」という言葉の語源説に、持って担いだ時に長方形で長辺を持つから……、参勤交代など長いこと運搬するのに耐える性能だから……、中に入れておくと着物などが長持ちするから……、といった諸説があります。中古以降の言葉のようです。いま、唐櫃の脚先にドリルで穴を開け、ホームセンターでずいぶん安く売っているキャスターをつけたとしたら、それは“車唐櫃”と呼ぶのでしょうか。神輿は担ぐものであったのが、台車に載せて渡る子供神輿(屋台)というのもあります。輿か牛車かといったことかもしれません。“渡る”こと自体に意味はなく、“行列”に意味があるようです。おいしいケーキ屋さんは並ばないと買えません。マーケティング戦略に引っ掛かっています。スクランブル交差点以上に広い広場というものがなくて、本気で集まることをしたことがないのが、この国の特異な点であろうかと思います。
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五十鈴川上 其の三(馬鍬とは何か)

2016年11月01日 | 論文
(承前)
 代掻き(【乾田馬耕】60年ぶりに馬で代掻き(初めの19秒までが馬鍬))の重要性について、河野通明『日本農耕具の基礎的研究』(和泉書院、1994年)は論じている。鎌倉時代に馬に馬鍬、牛に犂の図が定着しているが、中国絵画とは異なるから本邦独自の写生に基づくものであろうとされている。中国では、北部の畑作地帯で牛を使い、南部の水田地帯では水牛を使うのがオーソドックスであるという。南宋期には水牛が描かれているようである。一方、本邦で農耕に家畜を活用した当初、水田を拓きながら水牛はいないから、そして最初は牛もいなかったから、「いやがる馬を泥田に追い込んだ」とされている。また、古代の出土事例に馬鍬は多いが犂はほとんど確かめられないから、大化改新以前には馬鍬のみが用いられたらしいとされている。大変興味深い提題である。
 河野先生によれば、「古代では犂(カラスキ)のことをウシクハ(牛鍬)とも呼んだ。……牛鍬は馬鍬とは対照的な言葉で、古代では犂は牛に引かせるもの、馬鍬は馬に引かせるものというのが一般常識であったことを思わせる。絵画資料でも〈牛=犂〉〈馬=馬鍬〉という対応は見られる。……このように牛には牛鍬(犂)・馬には馬鍬という対照的な対応関係が見られたことは、日本でこれらの農具が使われ始めた当初において、犂はもっぱら牛に引かせたのであり、馬鍬は馬に引かせていたということを反映しているものと見なせよう。」(37頁)という。香川県や広島県の犂の民具呼称のウシンガからして犂は牛に結びつき、絵画資料でも、鎌倉時代の聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅や、松崎天神縁起の犂耕図、法然上人絵伝(堂本家本)の代掻き場面、江戸時代の宗達派の農耕図屏風、石川流宣の、大和耕作絵抄に、馬には馬鍬、牛には犂が描かれている点を指摘されている。
 聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅について、「牛耕場面もまた日本の風俗を写生にもとづくものと考えている。第一に、牛耕場面の牛は水牛ではなく、普通の牛を描いていることである。広大な中国では、北部では牛(黄牛)が使われるのに対し、南部ではもっぱら水牛が利用される。このことを反映してか、宋の南遷以降の中国絵画では、……水牛が描かれることが多くなる。……『六道絵』の人道無常図には中国風の人物に引かれて屠所に向かう角の大きな水牛が描かれており……、中国=水牛、日本=牛という区別をふまえた上で畜生道図には日本の風俗として普通の牛を描いたとみることができる。第二に、牛と農具にかけられた綱の張り具合や結び目、力が加わった時の首木や尻枷の反りなどの描き方は、力学的に見ても民具例に照らしても矛盾撞着がなく、粉本を模写・転用したのではなくて写生を基本において制作されたものと考えられることである。……第三に、『六道絵』の牛が背中に鞍を置いていることである。……牛耕で首木の他に首木(ママ)[鞍]を併用する首引き・胴引き法は日本独自の牽引法であり、首の負担を和らげることによって力の弱い牝牛からも有効に牽引力を引き出すことに成功した工夫であった。第四に、畜生道図の犂の犂へらは、犂柱の左方向に偏角をつけてとりつけられており、掘り上げた土を左に反転するものであったことを示している。ところが中国の犂は一般に右反転と言われている。」(419~420頁)とある。
 さらに馬鍬の起源については、「馬鍬は六世紀後半には九州から東北まで当然のような顔をして出土するので、その初源は六世紀前半から五世紀にも遡るのではないか。……馬の飼養の普及と馬鍬の普及は近接しており、その年代差は多く見積もっても一〇〇年以内で、馬具の普及のあとをを(ママ)追うようにして馬鍬も拡がっていったものと思われる。」(44頁)、「古墳時代の日本列島は、北西にひろがる牛文化、南西にひろがる水牛文化に囲まれた中にあって、ただひとり馬の利用に踏み切った特異な地域なのである。……朝鮮半島では牛が馬鍬を引く。もし古墳時代の日本が主流として朝鮮半島から馬鍬を受け入れたのなら、牛の引く農具として牛ごと首木などの牽引法もそのまま導入していてもよさそうである。[しかし現実には、]……馬鍬は牛とセットでは入ってきていないのである。日本の馬鍬は伝来当初から馬と結びついた農具としてあった。……江南からの直接伝来ルート[を考えると、]……江南では馬鍬は水牛が引いたと推定される。……やむをえず農具だけの導入とならざるをえない。……当時の日本には大型家畜は馬しかいなかった。馬しかいないから仕方なしに馬に牽引させ、当初はいやがる馬を泥田に追い込んだのであろう。牽引法としては背鞍に綱をかけて引かせる胴引き法が行われたと推定される。……古墳時代五世紀の地方社会は、大王に政治上統合されながらも経済的にはなお自立した単位であり、地域の政治に主体性を持ちえたと考えられる。……出土馬鍬の伝来時期が古く、かつ早くから全国的拡がりをみせ、呼称も全国一律ウマクハ系であり、犂耕の普及しなかった関東・東北でも馬鍬だけは近時まで使ってきたという定着度の高さは、渡来氏族の生活技術が周辺の農村に徐々にひろがったというような偶然的な出来ごとなどではなく、また中央政府の上から押しつけ的導入でもなく、地方社会の側に意欲や主体性のある積極的な導入であろう。ものの動きだけを見ていれば「馬鍬の伝来」であるが、それに関わる人々の心にまで考え及ぶなら、「馬鍬の導入」と呼ぶにふさわしい状況だと考えている。」(54~57頁)とある。河野先生は、「農耕と牛馬」中澤克昭編『人と動物の日本史2―歴史のなかの動物たち―』(吉川弘文館、2009年)でも同じように論じられている。
 松井和幸「馬鍬の起源と変遷」『考古学研究』第51巻第1号(通巻201号、2004年6月)に、「牛馬とも弥生時代以降に朝鮮半島を経由して渡来し、当時の人々に飼養されていたと考えられているが、弥生時代には牛馬耕作用の農具が見られないことから、牛馬が農耕に利用されるのは、馬鍬、犂などが出現した古墳時代以降と考えられる。ただ出土した骨等から考えれば、日本列島には馬よりも牛が先に渡来しており、河野氏が言うように定型馬鍬が日本列島に渡来した時期に大型家畜は馬しかいなかったために仕方なしに馬に牽引させたという論ははたして成り立つのであろうか。」(79頁)とある。樋上昇「農具と農業生産」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学5―時代を支えた生産と技術―』(同成社、2012年)には、出土した農耕具の時代的な変遷を記した一覧図表が掲載されている。馬鍬については、はたしていつが始源であるのか、6世紀後半の福岡県カキ遺跡のものはみな賛同されているが、それ以前のものについては決め手を欠いている。同書では、「弥生時代中期からの流れをみれば、直柄多又鍬→曲柄多又鍬→馬鍬というような代掻きの系譜が復元できる。」(19頁)とある。水田稲作農耕の農法が変わったのではなく、農具が変わったに過ぎないということらしい。
 すると、ウマクハ(馬鍬)の前身にマタクハ(又鍬)があったことになる。マタクハのことをマクハと呼ぶことに抵抗は少ない。刃が片方欠けてしまったものをカタクハ(片鍬)、揃っていればマクハ(真鍬)と言って楽しめる。技術革新でそれの大型版が登場すれば、それに似た言葉でうまく表したくなる気持ちは理解できよう。ウマクハという言葉以前にマクハという言葉があったのではないかという説である。民俗用語で馬鍬のことをマグワ、マンガと言っている。むろん、誰が作った言葉かわからないのだから、論証にはならない。それでも、外来語に由来する言葉ではなさそうであることは、水牛に引かせていた馬鍬の中国での呼び方が、「耙」や「耖」とされているところからもわかる。
甘粛省嘉峪関二牛牽拉耙田図(周所『中国農具通史』山東科学技術出版社、2010年、420頁)
黒陶水田(広東省連県附城公社龍口大隊一座墓出土、西晋時代、永嘉六年(312)、広東省博物館蔵、彭卿雲編『中国文物精華大全 陶瓷巻』台湾商務印書館、1993年、108頁。「長19厘米 寛16.5厘米 西晋。泥質黒陶。呈長方形、平底、四角有漏斗状装置、中間以田埂分田両塊。一塊一人駕牛犂田、另一塊一人駕牛耙田、相向而行。耙為六歯、与現代的耖耙相似。水田四角設置漏斗状排灌装置、可按需要灌水或排水;水田内施行一牛挽犂和一牛拉耙的整地技術、反映了広東地区西晋時農業生産技術又有了新的発展。模型塑造精緻、形象生動逼真。……」)
 言葉としてのウマクハに、いったん馬鍬という字が当てられれば、絵を描く際、馬に引かせたくなる傾向はあるであろう。物語絵に見られるように、言葉が先、絵が後であるのがふつうのことである。今日のマンガ(漫画)家のように、絵が先に描かれて絵筆の趣くに任せてストーリーが作られていくという在り方はほとんどない。言葉は人の思考を大きく縛る。馬鍬を牛に引かせてはいけないわけではなく、実際にそういうことがあったことは、河野先生のあげられている連歌(「牛に馬鍬(むまくは) かけたるもあやし」源俊頼(1055~1129))にも見えるとおりである。河野先生のクハ、ウマクハという言葉の成立に対するお考えは、“科学的”である。

 クハと並び称されるスキの場合は、スクという動詞の連用形でもあり古来の日本語であることは明白であるが、クハには活用語の派生語群が存在せず、外来語の音読みと考えるべきであろう。……[尾子音を持たない]一音の鏵(クヮ)が伸びてクハとなったと見るのが自然であろう。古代のハ音は唇を閉じておいてから発するファ音なので、クワは容易にクファ(クハ)に転じうる。……『延喜式』では内膳司の園の耕作用具として「鍬七十四口、鍬柄卌枝、鋤柄卅四枝」が用意されており、……同じ形の鉄製の刃先に異なる木部を取りつけることによって鍬と鋤とに使い分けたことがすでに指摘されている。つまり鍬とは鍬・鋤共通の鉄製刃先を指していたのであり、考古遺物で知られるU字形刃先をクハと呼んでいたのである。中国で鏵とは犂の刃先で、三角形のものもあればV字形のものもあるが要するに鉄製の刃先であり、日本でU字形刃先をクハと称したことと、用途は若干ことなるものの形態上はうまく一致する。クハの語源はやはり钁[(クヮク)]ではなく鏵なのであろう。(35~36頁)

 稲作以前の原始農耕時代から、クハと呼ばれる農具があったとお考えの白川先生の議論と噛み合わない。上代特殊仮名遣いについての、コクハ(「許久波」)が小鍬(こくは、コは甲類)か木鍬(こくは、コは乙類)かという有名な話がある(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年、9頁)。相当に古い時代から鍬の形の木製農具が出土している。縄文時代にさえ遡りかねない木鍬らしい道具がありながら、外来語を採り入れたとは考えにくい。ヤマトコトバとして縄文語からあったのではなかろうか。そのうえ、クヮ→クハへと転じたとする説は、クヮ→クワへとなぜ進まなかったかという理由を説明できず、音韻においてもあり得ない。平安時代ではないからである。
 また、大陸で水牛に引かせていたのが元祖となれば、馬鍬という漢語を受け取ったのではなく、ウマクハと造語して字を当てたにすぎない。ヤマトコトバのウマクハの成り立ちには、うまく作られた鍬という考え方も可能であろう。白川、前掲書に、「『くはしめ』に対しては『うましを』という。」(161頁)と美女美男を言っている。精巧に作られている鍬のことを、クハクハというか、ウマクハというか、言った者勝ちの様相がある。鍬が人から見て手前に動かすものであるのに対して、馬鍬は人から見て向こう側へとやるものである。男女比的に考えれば、ウマクハと言いたくなる。「良人(うまひと)」(万853)、「熟寝(うまい)」(紀96)といった例もある。仮にそういった仮定が成り立つとすると、農耕具のウマクハが、当初、馬にのみ引かせていたものかどうかは定かではなくなる。筆者は、動力源として大型家畜にウマとウシのいずれかがいれば、新技術の代掻き道具を目にすれば、そのいずれであっても引かせるように工夫したに違いないと考える。隣の村には馬がいて馬に引かせていても、自分の村には牛しかいなければ、牛に引かせたであろう。出土する代掻具のウマクハの形態に多様性が感じられるのは、それぞれに工夫したからということではなかろうか。ウマクハの“導入”である。ただ、そのとき、雄略紀に記述されるような逸話が作られるほど、ウマという動物のことを深く観察していたとすれば、しかも引かせる大型獣は馬の方が多かったのであるから、うまくできたクハであってウマに牽引させるのだから、ウマクハと名付け、馬鍬という字を当てようかという気になったということではなかろうか。
 鍬のもとの形態の木鍬については、とても土を掘り起こせる代物ではなく、土を盛ったり塗ったりする鏝のようなものとする見解もある。伏見元嘉『中近世農業史の再解釈―「清良記」の研究―』(思文閣出版、2011年)に、「地力の高い表土には雑木草が繁茂して、これらの根が互いにからみあっており、これを剥がす作業は困難をともなう。生い茂った草木は燃やして処理できるが、根の処理に多くの労力を費やす。小規模開墾では、大鎌や斧で小区画に縦横に切り込みを入れて横方向に張った根を切り、根層の下部に掘棒を入れて梃子の原理で引き剥がす。」(289頁)とし、木鍬や刃先に鉄をつけただけの鍬の出番はないように記されている。しかし、弥生時代以来、多くがそうであったらしい泥田の場合、木鍬を使うことが不可能であるとは認めがたい。伏見先生が参照されている、樋上昇「『木製農耕具』ははたして『農耕具』なのか―新たな機能論的研究の展開を考える―」『考古学研究』第47巻第3号(通巻187号、2000年12月)には、木製農耕具について、曲柄平鍬・曲柄二又鍬・一木平鋤・組み合わせ平鋤は、環濠・溝・方形周溝墓・井戸から出土することが多く、「土木具指向」がより強く、直柄小型鍬・直柄又鍬・組み合わせ又鋤は、自然流路・谷から出土することが多く、「農耕具指向」が強い器種であると把握され、直柄平鍬はどちらからも出土していて、「万能機種」であるとされている。大規模工事には作業をスムーズに遂行させるために大量の「土木具」を作り、工事中に壊れたら水田の大アゼ(畦畔)や堰の構造材などに転用されたか、放置されたから出土例が多く、ふだん使いの「農耕具」は数自体、家族人数分以上はあり得ず、毎日使っては家の中に大事にしまわれて使い続けられたから出土例が少ないのではないかと仮説を立てられている。
 古代の水田は、今のように秋に水を落として冬場は乾いていたのではなく、常時湛水田、つまりは泥田であったとされる。二毛作をする「麦田」ではなく、冬の間も水を湛えた「春田」とも言われるものを掘り起こす際、木製農耕具でも役に立ったであろう。蓮根を育てているような深田も戦前には多く見られ、田下駄がなければ対処できない湿田であった。そんなところには牛馬は入れられないから、馬鍬が入れられる程度のところが「狭長田」に当たるのであろう。乾田を耕起するやり方は、日本の稲作の始まりの時期には見られなかった。河野通明『大化改新は身近にあった―公地制・天皇・農業の一新―』(和泉書院、2015年)には、「朝鮮半島は雨期が日本より遅れるので田植え法の普及は遅く、畑状態で耕して籾を播き、後から灌水して水田とする方法が広くおこなわれていた。」(351頁)とある。馬鍬の江南伝来説(導入説)の証拠の一つとされている。道具名とヤマトコトバにおける呼び方とは、一致しなくても構わない。ヤマトの人が納得できることが言葉としては大切なのである。コミュニケーションするのはヤマトの人の間であって、中国南朝の人とは通訳を介して交流している。
 牛馬耕の始まりに関して、ウシやウマが日本列島へ渡ってきた時期を考えあわせることも当然必要となる。いなければできない。ではあるが、いたからと言って直ちに使役したとも言い切れない。松井章「狩猟と家畜」『列島の古代史2―暮らしと生業―』(岩波書店、2005年)に、「古代遺跡ではウマに比べるとウシの出土例ははるかに少ない。埴輪についても、ウマに比べるとウシのそれは圧倒的に少ない。それはウシがウマほどの軍事的価値を持たず、威信材としての価値が低かったからだと考えられる。」(195頁)とある。また、列島に渡ってきた時期について、ウシが先かウマが先か論じられている。考古学では、本格的なウマの渡来時期は古墳時代中期以降とされ、それ以前には単発的に搬入された可能性が、ウシ、ウマともに4世紀以前からもないわけではないようである(注3)。筆者には、大陸、わけても朝鮮半島に、ウマしかいなかった、ウシしかいなかったという時期に列島に連れて来られたというならどちらかが先であるかという議論は質問として的を射ていようが、両方いたのに渡来人が片方だけしか連れて来なかったと考えるのは、なかなか容認できない。日本書紀では、応神紀に、「百済の王(こきし)、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して良馬(よきうま)二匹(ふたつぎ)を貢る」(応神紀十五年八月条)、安閑紀に、「牛を難破(なには)の大隅嶋と媛嶋松原とに放て」(安閑紀二年九月条)とある。鳥獣人物戯画に野生の牛が描かれており、半野生状態の時期はあったかもしれない。応神紀の記事から、ヤマト朝廷の側からの要請があり、騎乗用に馬が選択的に多く連れて来られたと考えることができる。求める人は朝廷の人であり、農家ではない。「牛を貢る」という記事は見られない。つまり、馬は“導入”されて多く、それに比して牛は少なくなる。
 そこで耙・耖のような便利なものが知られた時、ヤマトの人はいろいろ工夫してウマクハを使うようになった。その際、相対的にウマが多かったことと、川の両側のカハノヘ(川上・河上)のつらつらな馬面地形を田にするのに使われたから、馬鍬と言われてなるほどと納得に至ったのではないか、というのが筆者の第一の語学的推測である。筆者は、言葉の語源を探究するという立場に立たない。飛鳥時代にどのような語感で捉えられていたか、について論考するものである。当時の人がいかに認識していたであろうかという点において、すなわち、言葉の音に語義をいかに感じていたかが問題である。タクハタ(𣑥幡)=タ(田)+クハ(鍬)+タ(田)という駄洒落的な考えがあって、クハ(鍬)という言葉がタ(田)という言葉に挟まれ、銜えられており、クハ(鍬)がクハ(銜)えられているとして面白がったと考えるのである。自己説明によって循環論法になる上代語の特徴をよく表しており、絶妙な言語遊戯となっている。
 その証拠に、馬の轡とは、馬の歯槽間縁に食ませるものである。そこだけ歯がないから、いくら噛んでも噛むことはできない。轡(くつわ、クチ(口)+ワ(輪)の意か)の口中部分は銜(はみ)とも言い、必ず「銜(くは)」えることになっている。そして、ウマクハは馬の口同様にすきっ歯である。これをスキ(ウマスキ)と呼ばなかったことは、それでは洒落にならないからである。つまり、馬鍬という新技術製品に、クハ(鍬)の新形式を悟ったのである。馬に引かせたから馬鍬であるというのは、実際上も馬に引かせるのが多く、言葉の上からも歯槽間縁がコントローラーになって起動しており、耕具もそれに適合した形をしていて確かめられるのである。人間が使う「馬」という“仕組み”を熟知して、はじめて「馬鍬」という字面も生きて来て、それはほとんど悦に入る程であると言うことができる。もしウマが「牛」のように鼻輪によって動かされているとしたら、耙や耖がウマクワと呼ばれ、「馬鍬」という字で記されるようになったか、心もとないというのが筆者の第二の語学的推測である。
歯槽間縁をチェック(JRA育成馬日誌様サイト

(注1)「狭長田」は、岩波書店の大系本頭注に、「サナダと訓むのであろう。……長をナと訓む例は、渟長田をヌナタとするのがある。」(上149頁)とし、「サナダも神稲の田の意。」(上148頁)とある。訓注もないなか、「長」をナと訓まなければならない理由は不明である。
(注2)クハという言葉について、外来語由来、擬声語由来とするほかに、クフ(食)から派生するクハフ(クフ(食)+アフ(合)の約)という語との関係も見出されないだろうか。鳥が餌を食うのはがつがつと食べることであるが、クハフ(銜・咥)のは、嘴に挟んで巣に帰って雛に与える行為である。犬が仔犬を銜えて運ぶこともある。決して噛みついているのではない。鍬はもともと木製であった。土に張っている根を噛み切ったり、かちんかちんに乾いた土を食いちぎることはできない。できるのは、軟らかい土や泥を銜えて、塊ごと余所へ移動させることである。栄養豊富な表土をとっておき、耕盤を整えてからもとへ戻すことに使われたとするなら、クハという語は鍬という道具に正しく当てはまる言葉であると考えるがどうなのであろうか。
(注3)久保和士・松井章「家畜<その2―ウマ・ウシ>」西本豊弘・松井章編『考古学と動物学』(同成社、1999年)に、ウマもウシも少産で、ふつう1回の妊娠で1頭しか産まず、短期間のうちに繁殖させ飼育頭数を増やすためには、牧を設け牧子をつけるといった、広い土地と専従する技術者集団を抱えるなど、大きな権力を必要とする。そのため、牛馬の普及の背景には、古墳時代中期の広い範囲にわたる巨大な権力の出現と密接な関係があるのであろう。」(171頁)とある。

(補遺 2016.11.6)
犂の向こう側に放置されたマンガ(馬鍬)(川崎市立日本民家園)
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五十鈴川上 其の二(f字形鏡板、つらつら、なぶさなぶさ)

2016年10月31日 | 論文
(承前)
騧(鹿毛)(驥毛図解、宗如筆、江戸時代、元禄9年(1696)、馬の博物館蔵、秋篠宮文仁・小宮輝之監修『日本の家畜・家禽』学習研究社、2009年、32頁)
 雄略紀の「虹」の現れる記述は、古訓にヌジと訓まれている。和名抄に、「虹 毛詩注に云はく、螮蝀は虹也〈螮は音帝、蝀は音董、螮は亦蝃に作る。和名尓之(にじ)〉といふ。兼名苑に云はく、虹は一名蜺〈五稽反、鯢と同じ。今案ずるに雄を虹と曰ひ、雌を蜺とあんず〉といふ」とある。また、「虹・蛇をともにナブサともいう」(大系本上補注、634頁)とされている。ナブサという語には、また、新撰字鏡に、「騧 古華反、黄馬黒喙也。浅黄也。馬黄白色也。騧、奈夫佐乃馬(なぶさのうま)、又馬。」とある。和名抄には、「騧馬 尓雅注に云はく、騧〈音花、漢語抄に云はく、騧馬は鹿毛也といふ〉は浅黄色の馬也といふ」、黒沢定幸編輯・驪黄物色図説・乾巻に、「騧 音爪○今按久智倶路加計比巴利(くちぐろかげひばり)」となっている。筆者には、比定に若干違いがあるように思われる。往時、全体的に黄白色で口部が黒いものをいったのではないか。伊勢の狭長田の五十鈴の河上の磯宮のあるところに、馬にまつわるナブサが出現している。馬面の部分の「黒喙」の黒さは、田圃の畦畔(あぜくろ)が作られて耕作されたと表したいのではないか。また、「なぶさなぶさ」という語もある。名義抄に、「随分 ナフサナフサ」とある。分相応に、という意である。馬はもともと騎乗用に舶来させたものであったが、鈍足な馬も生れてきてしまい、「なぶさなぶさ」に農耕馬に払い下げられてしまうものもいたのであろう。
 雄略紀に讒言した者の名は、また「磯特牛(しことひ)」といい、牛馬対決になっている。シコトヒは、「讒(しこ)ぢて問ふ」ことを表しているようである。讒言するきっかけを与えたのは、「湯人(ゆゑ)」という言葉が、風呂を沸かす係やそのための薪の調達役のことばかりでなく、産湯を沸かす役としても称された“ゆゑ”であろう。「廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)」は、「五十木(いほき、キは乙類)」というほどたくさんの材木を調達してきている。いやに湯沸しのための材木が多いではないか、産湯を沸かすためではないか、と勘ぐられる隙を与えたらしい。𣑥幡皇女という名も、𣑥と呼ばれた楮で幡のように長いものを名に負っていると見られてしまう。それはひょっとして晒の腹帯に当たるものではないのか、と疑われたのであろう。むろん、話(咄・噺・譚)のレベルでのことである。
 彼女は、「神鏡」を埋めている。鏡だから屈んで埋めたのであろう。鏡は写すものだから、川の反対岸にも同じことように埋まっているとわかる。つまり、「移行未遠にして、皇女の屍を得たり」とは、鏡の埋まっていたのと川をはさんでちょうど反対側、対称となる地点で、屍が見つかったということである。その両者を渡すように虹がかかっていた。
 ニジ(虹)の語源については、ニージなどといった言い方であったらしいところから探ることもあり得ようかと思われる。筆者は、語源を探究する立場に立たない。上代にどのような語感で捉えられていたか、洒落やなぞなぞとして言葉は感じられたに違いないという立場である。ニジ(虹)という語とニジル(躙)という語との間の関連を見る。新撰字鏡に、「跌 不牟(ふむ) 又爾志留(にじる)」とある。踏みつけて押しまわすことの意であろう。茶室の躙り口などは、膝を押しつけるようにじりじりと動くことである。新撰字鏡のニジルという語の観念には、脚と足とが踵(かかと)、踝(くるぶし)のところで直角に曲がっている様をよく観察した成果があらわれていると思う。踏みにじる行為は、単に叩くや潰すといった動作ではなく、踏んでおきつつ横ずれや回転を伴ってぐうの音も出ないようにすることである。煙草の吸殻を地面に捨てて靴底で踏みにじって火を消している。新撰字鏡に、「蹹」、「蹉跎」、「蹉跌」といった字にフミニジルという訓が付けられている。脚と足とを道具に見立てるなら、それは鍬である。柄の先に刃となる部分をつけながらその刃の平面を使ってこすって塗りつけるようなことである。農具の鍬は、柄と角度をもって刃がついているが、もとは刃全体が木製であり、古墳時代に鉄製の刃先を取り付けるように改良された。柔らかい土や泥田を掘り起こしたり、刃によって雑草の根を切ることもできるようになった。と同時に、田圃の畦畔を作るには、その刃の平面を使って土を押しつけながら形を整えることを行った。その結果、水が湛えられて水田稲作農耕ができる状態を保っている。すなわち、畦畔によって川上(かはのへ)にいつも水に浸る田圃が形成されている。古墳時代の田の傾向に、一年を通して水が浸っている常湛法の細長い田が畦畔によって作られ、それを並行させることがあった。細長い田を横に仕切るのは、後から水準を保つために設けられた小畔である。
古墳時代の水田址(群馬県有馬条里遺跡、6世紀中葉、石野博信・岩崎卓也・村上邦彦・白石太一郎編『古墳時代の研究 第4巻―生産と流通Ⅰ―』吉川弘文館、1991年、口絵ⅰ頁)
 白川静『字訓』(平凡社、1994年)に、「人の足のかかとから足先までの形は、柄を装着した『くは』に似ているので、その部分を『くは』といい、かかとを立てて遠くを望むことを『くは立つ』という。『企(くはた)つ』の意である。鍬がもと疌声で地にうちこむものであったように、『くは』は地にうちこむときの擬声語であったかと思われる。」(300頁)、「足首を『くは』といい、その身体用語から『くはたつ』という語が派生するような語構成は、外来語にはほとんどないことである。『くは』は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。」(301頁)とある。このクハについての白川説には異論も多い。筆者は、農具のほうが後から名づけられたであろうと考える(注2)。道具は、身体の延長であったりする。しかるに、クハという語は、「企つ」を含めて、立てる、入れる、均すためのものといえる。対照的なスキ(鋤)の場合、柄と刃が一直線についているから、掘るのに適している。鍬だけで井戸を掘る気にはなれない。
 スキ(鋤)という語は、地面をスク(梳・鋤・梳)ことに由来した動詞連用形の名詞と考えられている。隙間を作る農耕具が、鋤であろう。「掘串(ふくし)」(万1)の大きなシャベル・スコップ類に当たる。「金鋤」(記98)とは刃先に鉄が付けられたものであろう。さらに牛馬に引かせたのがカラスキ(犂)である。動力源を身体以外に借り、それまで鋤において行っていた力の入れ方、鋤の刃の縁を踏む方法とは違う方向、モーメントを考えなければならない方向から牛馬の力に頼っている。そこがからくりである。よってカラスキと呼ばれた。外来物だから何でもカラと付けているというのでは、ヤマトコトバの名折れである。反対に、外来物であったであろう馬鍬は、馬に引かせたから馬鍬なのであろうが、カラクハとは呼ばれていない。別に「唐鍬」と呼ばれるものは、鍬の角度が80°のもので、専ら開墾、株掘りに用いられたようである。鍬は当初から柄と刃の付き方に角度があり、それは馬鍬の場合も同じで、力の入れ方は似ている。そして、馬鍬を引かせていくことは、田圃のなかに筋を入れて行くことで、細長い田(「狭長田」)であれば虹を描くように孤を描くこともあったろう。
 漢字に虹という虫偏の字を使っているのは、龍の一種とされたからである。龍のことは、

 龍(たつ)の馬(ま)も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため(万806)
 龍の馬を 我(あれ)は求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のたに(万808)

とあるほか、地名のタツタ(ヤマ)(龍田(山))に当てられている。龍は騎乗することが嬉しい馬に近しく、牛には遠い存在と思われていたようである。虹も馬に親しく、牛には疎遠である。
 屍の腹を割いてみると水のようなものがあってその中に石があった。カガミには道徳的に手本となる意の鑑もあり、「上善は水の若し(上善若水)」(老子・易性)、「親の過ち小にして怨むは、是れ磯(き)す可からざるなり(親之過小而怨、是不磯也)」(孟子・告子章句)を引いたものかもしれない。鏡は埋められていたのだから、掘り返すと川原だから水が滲み出てくる。当然、石ころも残っている。反対岸の𣑥幡皇女も、水の中に石が入っていた。これはまぎれもなく、川の中心ラインを挟んで鏡像のツラツラな状態である。馬面地形をもって体を成している。きちんと神に仕えた斎宮であったとわかる。五十鈴の川上の狭長田の磯宮の主としてあったということである。主(ぬし)が虹(ぬじ)に変じた神懸り、ならぬ、言霊信仰にもとづくお話である。
 「神鏡(あやしきかがみ)」とある個所について、一説に、いわゆる三種の神器の一ではないかともする。おそらく、この「神鏡」は、「猨田彦神」と関係する「鏡」であろう。猿と馬の関係については、本ブログ「猿田彦と猿田姫」で論ずる。猨田彦神とゆかりの伊勢の狭長田にある五十鈴河上に出没する「神鏡」とは、馬に関わりの鏡、すなわち、轡に飾りつけた鏡板のことを指すのであろう。鏡板は、鉄地の上に金銅の金ぴかを鋲でとめて飾っている。馬を制御するための馬具として機能的に必要なものではない。轡をきれいに見せる飾り馬具である。この鏡板の形態にはいろいろあるが、古墳時代の特徴として、f字形鏡板、鐘形鏡板、楕円形・心葉形鏡板などがあげられる。考古学では、朝鮮半島の特徴と考えあわせたとき、非新羅系か新羅系かと分類されたり、時代的に製法にも技術的な革新がある。筆者は、この鏡板こそ、雄略紀の逸話にいう「神鏡」のイメージの発端であると考える。
鈴付f字形鏡板付轡(模造、和歌山県和歌山市大谷古墳、5~6世紀、東博展示品)
埴輪 馬(高崎市箕郷町上芝古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
金銅装パルメット文鏡板(大阪府茨木市海北塚古墳出土、古墳時代後期、6世紀、東博展示品)
長方形鏡板付轡(三重県伊勢市塚山古墳出土、古墳時代、6~7世紀、山本貞蔵・平尾長松・山下創太郎氏寄贈、東博展示品)
 鏡板は、縁部が盛り上がって鋲が付けられている。そのなかに模様が描かれることもあるが、十字に区画されていることも多い。筆者には、その様子は、畦畔を形容しているように感じられる。塚山古墳の例など、十字の区画は典型的に漢字の「田」に対応できる。f字形鏡板の場合、それは上述の馬面地形に展開される「狭長田」を表わしているように思われる。川の蛇行に沿うように田を開いた。轡のことは、和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音秘、訓久豆和都良(くつわつら)、俗に久都和(くつわ)と云ふ〉は一名α(金偏に獻)〈魚列反〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢二音、和名上に同じ〉は一名馬鞚なりといふ」とある。顔の両側に着けられている。クツワツラと「つらつら」なものが轡であり、それを何の目的か知れないが飾るのが鏡板である。反射して虹のように輝いていたのであろう。むろん、飾り馬具は、騎乗用の馬に着けられた可能性が高い。埴輪に裸馬として作られているのが農耕用に使役されたものであろうと考えられている。よく走る馬は騎乗用に、鈍足な馬はそれなりにということで耕作に用いられたのであろう。分相応の馬、「なぶさなぶさ」の馬ということである。とはいえ、馬は馬である。ヤマトコトバのウマという概念に、馳せるもの、乗り物、耕耘機のエンジンとなるものというすべてを考えあわせていたことは、人類の行う言語活動の上から当然のことである。今日、セダンも軽も、トラックもタンクローリーも、消防車もタクシーもバスも救急車も、車道を走っている四輪を中心とした燃料で動くものはすべてクルマという言い方で呼んでいる。二輪の場合、バイク、自転車などは、クルマとは通称していないようである。言葉が範疇を決定している。
 f字形鏡板は、馬面地形の狭長田で馬鍬を引くことを暗示しており、不思議な形でキラキラ光るから「神鏡」と呼んでみたり、体温の高い馬が口から湯気を吐いて光線の具合でプリズム的に見えたりするところから、「虹」という表現が導かれているのであろう。馬は農耕具を引かされて、こりゃかなわんなあと喘いでいる。馬の発する声は、イに変わりはないが、その動作を表わす動詞は、イバユではなく、イナクであろう。疲れて喘いで声をあげていると解された。もともと身体が大きくて丈夫な馬ならば、騎乗用に高貴な人の手に渡っていた。しかし、身体が小さく生まれ、足も遅いからということで農家に飼われている。それが分相応、ナブサノウマ(騧)と分類され、泥田へ入れられて重い馬鍬を引かされるのである。重い荷物を背負わされることもある。否、否、と思いながらイと鳴いている、と感じられたのではなかろうか。
 川の左右にある狭小なところを田に拓く際、馬の畜力を使って開墾したことが、話の背景にあるのかもしれない。轡、鏡板の形に「田」の字形があり、後の轡文も丸に十字で田の字に見える。ただ、その時代考証は難しい。平安時代に成った和名抄に、「犂 唐韻に云はく、犂〈音黎、加良須岐(からすき)〉は田を墾く器也といふ」とあって、「鐴(へら)」、「耒底(いざり)」、「耒骨(いざりのえ)」、「耒β(木偏に表)(とりくひ)」、「耒箭(たたりがた)」、「耒鑱(さき)」(造作具に、「鑱(かなふくし)は犂の鉄又は土の具也」ともある)と部品名まで記されている。対して、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音琶。弁色立成に馬杷は宇麻久波(うまぐは)と云ふ。一に馬歯と云ふ〉は田を作る具也といふ」とある。カラスキ=「墾田器」とウマグハ=「作田具」では、用途が違うと認識されているようにも思われる。また、「鋤 唐韻に云はく、鎡錤〈孜期二音〉は鋤の別名也といふ。釈名に云はく、鋤〈士魚反、須岐(すき)〉は穢を去り苗を助く也といふ。γ(金偏に挿の旁)〈音插、和名上に同じ〉は地に挿し土を起す也といふ」、「鍫 兼名苑に云はく、鍫〈七遥反、字亦δ(金偏に躁の旁)に作る。久波(くは)〉は一名、鏵〈音華〉なり。説文に云はく、钁〈補各反、楊氏漢語抄に云はく、和名上に同じといふ〉は大鋤也といふ」とある。ヤマトにおける漢字の用法は厳密とは言えないようである。猨田彦神のところの狭長田を拓いた際、人力のみか、牛馬の力を活用したのかわからない。ただ、狭い範囲であり、小川に沿って開拓するのだから、今でも谷津田(やつだ)と呼ばれるようなところと推測される。廬城部連武彦は「使鸕鷀没水捕魚(うかはするまね)」で殺されている。川の浅瀬を連想させ、谷津田のようである。鵜飼と牛飼との洒落かもしれない。
 川に沿っているから水は容易に供給できるし、急傾斜地でもないから棚田にする必要もない。葦が茂っていたところを焼いてから杭なども活用しながら川を浅く堰き止めて水が溜まるようにし、周りを畦畔で囲めば、一応、田圃の条件は適う。常時灌水させることで、生える雑草の種類は限られる。しかし、イネ科などの雑草は手ごわかったであろう。この場合、いわゆる耕盤が確かでなくとも、川からの水の流入が絶えないから、水田としては機能可能である。その際、「五十鈴川上」が川のすごく上流を指向する語であるとは考えられない。上流に進んで山が近づいてしまうと、水は冷たくて稲は育たず、傾斜が急になって一つの面として拓くことのできる面積は小さくなり、もともとの川岸は石ころばかりで葦さえ育っていない。表土がなければなかなか植物は育たない。
 畑にしたのではないかとの見解も出されよう。「磯特牛」なる人物は、牛を使って犂を引かせようとしたことを表すのではなかろうか。堅田の掘り返しか畠かはわからないが、犂を用いているものと思われる。すなわち、田圃を畠へ転換しようと企てたということに当たろう。「狭長田」が「田」である限りにおいて、「河上」はカハカミとは訓じ得ない。𣑥幡皇女の名のタクハタとは、畠を梳(たく)しあげることや、𣑥という楮の樹皮からとった繊維から作った灌頂幡のような白くて長い幡ということから、畠と間違われやすいが、タ(田)+クハ(鍬)+タ(田)とも解釈できる。無文字であるヤマトコトバに文字を当てたのだから、多様に検討しなければならない。田圃のなかに鍬を入れて耕している。田に囲まれて鍬を使っている様とは、馬鍬を使った代掻きに違いない。代掻きを、白いものを掻き混ぜること、楮から繊維を抽出する作業に準えたのではなかろうか。畠よりも水田に水の張られて反射する白さの方が目にまぶしく、𣑥の様に適っている。「人の行かざる」場所を選んでいるのは、農耕馬の行くところということで、「東西(とさまかくさま)」に探しているのは、代掻きの様子に準えているように思われる。
代掻き図(梅田屋本『代かき草子』久枝秀夫「安芸の大花田植」『日本民俗文化大系〔普及版〕第14巻 技術と民俗(下)―都市・町・村の生活技術誌―』小学館、1995年、59頁)
 すなわち、𣑥幡皇女は、自ら身を以て冤罪であることを証明している。畠ではなく田であるから、腹の中に水があってその中に石がある。原の中に水が溜まっていたのだから田圃に相違なく、谷津田だから石ころもあったということを表しているのであろう。𣑥幡皇女の話の場合、虹の話に展開しており、虹がナブサとも呼ばれて騧に同じ音であって、馬面地形の馬の口のところに畦畔があって、そこが水浸しになってさらに馬鍬による代掻きが行われ、筋目が入ってレインボーと見立てている。
(つづく)
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五十鈴川上 其の一(川上=カハノヘ(ヘは乙類)、両サイド)

2016年10月30日 | 論文
 上代の文献に、伊勢神宮関連の地名として、「五十鈴川上」が散見される。この訓読については、先行研究に、西宮一民「『五十鈴川上』考」『上代祭司と言語』(桜楓社、平成2年、283~295頁)があり、詳しく論じられている。以下に、同書のあげている日本書紀の例を読み下したものを提示した。古語拾遺と皇太神宮儀式帳、祝詞の例は省いた。古語拾遺は日本書紀の「自我流の解釈」(同書、293頁)のため、日本書紀の文意に沿わない場合があって当てにならないことがある。

①[衢神=猨田彦大神]対へて曰く、「天神の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触(くじふる)の峯(たけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし」といふ。因りて曰く、「我を発顕(あらは)しつるは、汝なり。故、汝、我を送りて致りませ」といふ。天鈿女(あまのうずめ)、還詣(まうでかへ)りて報状(かへりことまを)す。皇孫、是に、天磐座(あまのいはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降(あまくだ)ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫(すめみま)をば筑紫の日向の高千穂の槵触の峯に致します。其の猨田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。(神代紀第九段、一書第一)
②時に、天照大神、倭姫命に誨(をし)へて曰はく、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。(垂仁紀二十五年三月条)
③阿閉臣国見(あへのおみくにみ)、更の名は磯特牛(しことひ)。𣑥幡皇女(たくはたのひめみこ)と湯人(ゆゑ)の廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)を譖ぢて曰く、「武彦、皇女を姧(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり」といふ。湯人、此には臾衞(ゆゑ)と云ふ。武彦の父、枳莒喩(きこゆ)、此の流言(つてこと)を聞きて、禍の身に及ばむことを恐る。武彦を廬城河(いほきのかは)に誘(あと)へ率(たし)みて、偽(あざむ)きて使鸕鷀没水捕魚(うかはするまね)して、因りて其不意(ゆくりもなく)して打ち殺しつ。天皇、聞しめして使者(つかひ)を遣して、皇女を案(かむが)へ問はしめたまふ。皇女、対へて言さく、「妾は識(し)らず」とまをす。俄にして皇女、神鏡(あやしきかがみ)を齎(と)り持ちて、五十鈴の河上に詣(い)でまして、人の行(あり)かざるを伺ひて、鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在(な)きことを疑ひたまひて、恒に闇夜(やみのよ)に東西(とさまかくさま)に求覓(もと)めしめたまふ。乃ち河上に虹の見ゆること蛇(をろち)の如くして、四五丈(よつゑいつつゑ)ばかりなり。虹の起(た)てる処を掘りて、神鏡を獲。移行未遠(たちどころ)にして、皇女の屍(かばね)を得たり。割きて観れば、腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩、斯(これ)に由りて、子の罪を雪(きよ)むること得たり。還りて子を殺せることを悔いて、報(たむか)ひに国見を殺さむとす。石上神宮に逃げ匿(かく)れぬ。(雄略紀三年四月条)

 この「五十鈴川上」、「五十鈴河上」を何と訓むかである。「イスズノ……」であることには違いあるまい。「川上(河上)」部分が問題である。岩波書店の大系本日本書紀と小学館の新編全集本日本書紀には、次のように訓まれている。
  大系本     全集本
 ①カハカミ    カハカミ
 ②カハノホトリ  カハノヘ
 ③カハノホトリ  カハカミ
 西宮先生は、「『五十鈴川上』は『五十鈴川上』の約とし、特に「川上」一般の訓義について検討した結果、……

 A カハカミ……上流
 B カハノへ……川岸・川の上(うへ)
 C カハヘ甲乙……川岸・川岸の辺り
 D カハノホトリ……川のそば
 E カハラ……川原(川沿ひの平地)

となる。このうち、Eは訓注によるものであるから、訓注のないものには[その訓を]適用できない。……右のA~Dを一見して、Aのカハカミ(上流)といふのと、BCDのカハノヘ・カハヘ甲乙・カハノホトリ(川岸・川の上(うへ)・川岸の辺り・川のそば)といふのとの二類に分かれることを知る。すなはち、Aで訓むのと、BCDで訓むのとでは大きく異なってくるのであつて、BかCかDかは大した問題ではないといふことなのである。……[上代の用例の]『五十鈴川上』の訓義の決定の方法は、結局各の文脈によるより他はないことになると思ふ。」(290頁)とされ、最終的な結論として、「『五十鈴川上』の資料に見える『川上・河上』は、すべてカハカミ(上流)と訓めばよいといふことになつたのである。」(295頁)とされている。
 西宮先生の論拠は、「五十鈴川上」は、天孫降臨の地、「高千穂槵触之峯」に対応して、猨田彦神の到達点は高いところであるはずだということ、それは、神祭りが上流で行われたことと呼応することであるとのお考えから来ている。垂仁紀二十五年の例でも、「文脈のきめ手は、『礒宮』にあるのではなくて、『則天照大神始自天降之処也』にあると考へる。『礒宮』の名は『野宮』に対するもので、『上流』にあつても、また『川岸』にあつても命名される。しかし、天神の降臨は、川の場合は『上流』である。また神祭りも『上流』でなされる。従つて、『五十鈴川上』はカハカミ(上流)である。」(292頁)とされ、日本書紀の用例を拾われている。再び読み下したものを呈示する。

 素戔嗚尊、天より出雲国の簸(ひ)の川上(かはかみ)に降到(いた)ります。(神代紀第八段本文)
 今、美濃国の藍見川(あゐみのがは)の上(かみ)に在る喪山、是なり。(神代紀第九段本文)
 厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、丹生(にふ)の川上(かはかみ)に陟(のぼ)りて、用て天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いはひまつ)りたまふ」(神武即位前紀戊午年九月条)
 磐余の河上(かはかみ)に御新嘗(にひなへきこしめ)す。(用明紀二年四月条)
 天皇、南淵(みなぶち)の河上(かはかみ)に幸して、跪きて四方(よも)を拝む。天を仰ぎて祈(こ)ひたまふ。(皇極紀元年八月条)

 そして西宮先生は、異説に、伊勢の内宮が山裾の河原に鎮座する宮だから、「五十鈴川上」の「川上」は川の辺り、川沿いの義であるとする坂本広太郎『神宮祭祀概説』神宮教養叢書第七集(神宮司庁刊行、昭和40年、25~26頁)という説を斥けられている。
 疑問点をあげる。皇極紀の例は、雨乞いである。「河上(かはかみ)」=川の上流へ行ったのは、源の湧き水があるかどうかの確認の意味もあったのではないか。地震などで地形が変化して、流れが変わっている可能性もある。現地調査を兼ねたものと言えないだろうか。四方拝をするには、小高い所がふさわしいという理由もあろう。用明紀の新嘗祭で「河上(かはかみ)」とあるのは、川の少し上流へ行ったということではないか。禊ぎのためにきれいな水が欲しかった。生活排水を浴びて禊ぎしてきれいになるか、気持ちの問題として重要であろう。「磐余の河上」は、磐余の地のなかで河上に当たるところであり、奈良盆地南東部の磐余地方の山岳部ではなく、平野部のなかで比較的上流であるというにすぎないと考える。また、神が降りてくる場所も、

 二(ふたはしら)の神、是に、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)りて、……(神代紀第九段本文)

とある。この「小汀(をはま)」は、海や湖に面した小さな浜であろう。川沿いであってもだいぶ下流の、川原が砂地になっているところである。現在でも、笑いの神さまが降りてくる“体験”は、スタジオでもロケの街中でもどこでもあるようである。
 垂仁紀では、その場所をわざわざ「磯宮」と名前をあげて断ってある。そこには歴とした謂われがあるものと考えられる。言=事とする言霊信仰に生きていた人たちの行いである。「磯宮」の「磯(いそ、ソは甲類)」が、大きな岩石を表すか、それほどでもないものも表すか、定かではない。イソは水中や水際のイハ(岩)を指す。イハ(岩)はイシ(石)の大きなものということで一応納得できよう。ただし、上代の用字はとても紛らわしい。イソに磯、礒、石、イハに岩、磐、巌、石、イシに石などが用いられる。紀の編者は、イシノミヤ(「石宮」)ではなく、イハノミヤ(「磐宮」)でもなく、イソノミヤ(「磯宮」)と限定的に断っている。
 神代紀第九段一書第一に、「伊勢之狭長田五十鈴川上」とあるのを真に受けるなら、岩盤の露出した場所に「田」は作れない(今日の水耕栽培技術が古代の稲作にあったとは考えにくい)。石ころがあるところを開拓した川沿いの狭く長い田という意味に思われる。むろん、神代紀と垂仁紀、また、雄略紀の「五十鈴川上(河上)」を、別の場所であると想定することもなお可能である。ただ、ふつうに考えれば、別扱いする理由は特にないのだから、同じところであって同じ土地柄であると認識されているものと捉えるのが筋であろう。
 磯宮のイソ(ソは甲類)の音は、どこかで聞く音である。イは馬の鳴き声、ソ(ソは甲類)は馬を追い御する人の声である。万葉集にある、「いぶせくも(馬聲蜂音石花蜘蟵)」(万2991)、「そま(追馬喚犬)」(万2645)、「まそ鏡(喚犬追馬鏡)」(万3324)、「まそ鏡(犬馬鏡)」(万2810・2980・2981・3250)の戯書、義訓や、「吾(わ)はそと追(も)はじ(和波素登毛波自)」(万3451)という仮名書きから理解できる。橋本進吉「駒のいななき」『国語音韻の研究』(岩波書店、昭和35年、47~50頁)に、馬の鳴き声をイとする理由について論じられている。多少長くなるが、往事の闊達な研究も顧みられるので引用する。

 「いばゆ(嘶)」といふ語の「い」も亦馬の鳴声を模した語である……。ハヒフヘホは現今では ha hi hu he ho と発音されてゐるが、かやうな音は古代の国語には無く、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれ等の仮名は fa fi fu fe fo と発音されてゐた。このf音は西洋諸国語や支那語に於ける如き歯唇音(上歯と下唇との間で発する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い両唇音(上唇と下唇との間で発する音)であつて、それは更に古い時代のp音から転化したものであらうと考へられてゐるが、奈良時代には多分既にf音になつてゐたのであり、江戸初期に更にh音に変じたものと思はれる。
 鳥や獣の声であつても、之を擬した鳴声が普通の語として用ゐられる場合には、その当時の正常な国語の音として常に用ゐられる音によつて表はされるのが普通である。さすれば、国語の音として hi のやうな音が無かつた時代に於ては、馬の鳴声に最近い音としてはイ以外にないのであるから、之をイの音で模したのは当然といはなければならない。猶又後世には「ヒン」といふが、ンの音も、古くは外国語、即ち漢語(又は梵語)にはあつたけれども、普通の国語の音としては無かつたので、インとはいはず、只イといつたのであらう(蜂の音を今日ではブンといふのを、古くブといつたのも同じ理由による)。
 ……江戸時代に入つて、鹿野武左衛門の「鹿の巻筆」(巻三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になつた男が贔屓の歓呼に答へて「いゝんいゝんと云ながらぶたいうちをはねまわつた」とあるが、この「いゝん」は落窪物語の「いう」[巻二、「……首いと長うて、顔つきたゞ駒のやうに、鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。いうといなゝきて引き離れいぬべき顔したり。」]と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で写す伝統が元禄の頃までも絶えなかつた事を示す適例である。(48~50頁、漢字の旧字体、一部の繰り返し記号は改めた。)

 さて、磯宮のイソという音のイは、馬の嘶く音、ソ(甲類)は、馬を追うときの人の声である。新撰字鏡に、「嘽 士于反、阿波久(あはく)、又馬平、馬勞也。阿波久(あはく)、又馬伊奈久(いなく)」、和名抄に、「嘶 玉篇に云はく、嘶〈音西、訓伊波由(いばゆ)、俗に伊奈々久(いななく)と云ふ〉は馬の鳴く也といふ」とある。新撰字鏡では、イナクの義は「馬が疲れてあえぐ意らしい」(三省堂・時代別国語辞典上代編、87頁)とされる。万葉集に、挽歌として、

 …… 何しかも 葦毛の馬の 鳴(いな)き立ちつる(万3327)
 衣袖 葦毛の馬の 嘶(いな)く声 情(こころ)有れかも 常ゆ異(け)に鳴く(万3328)

とある。この部分を、イナクと訓むか、イバユと訓むかについては、馬の飼い主の死を悼む挽歌であるから、馬の鳴き声のイに加えて、嫌だ嫌だというイナ(否)という意を掛けてイナクと言っているものと理解したと考えられる。
 イソの宮という固有名詞は、どうしても馬のことが思い浮かぶ仕掛けになっている。それが、文字を持たず、言葉が口語でしかあり得なかった人々の間の共通認識であった。無文字文化である。それが確かであることは、日本書紀自身に記述されている。「伊勢之狭長田五十鈴川上」(神代紀第九段一書第一)である。サナガタ(注1)が狭くて長い田であるとは、山間部を縫うように流れる川の少し両岸に平地があって、そこを田として拓いたところを言うのであろう。馬の面のような形の長細い田圃である。真ん中を川が流れている。川が馬の口の隙間である。今日でもウマヅラ(馬面)といえば長い顔を誰もが思い浮かべるように、長く伸びている。
道産子の馬面(多摩動物公園)
六道絵 畜生道幅・絹本着色模本(中谷求馬写、文政5年(1822)、泉武夫・加須屋誠・山本聡美編著、金井杜道撮影『国宝 六道絵』中央公論美術出版、平成14年、163頁)
 馬面な地形を田として利用した。言霊信仰なのだから、馬耕したい。牛馬耕のはじめは、馬鍬を引かせた代掻きであったとされる。聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅では、馬が馬鍬を引いている姿の後方に、杭が打たれてある。川の護岸を補強する工作である。ちょっとした水の流れ出を活用し、下方には杭を使って流れを狭めたところに小さな堰を設ければ、水は溜まり、水田の条件は整う。
 イセという地名に「伊勢」という字を当てたのは、もちろん、後付けである。セというヤマトコトバが、イ(接頭語)+セ(狭・瀬)を印象づけるならば、狭まっていてしかも川の浅瀬であるということで、川の下流ではなく、中流より上流の場所のことを言葉の音から彷彿とさせる。そして、そのイ音に馬の嘶きを感じ取るなら、イセという国名の音は、馬の背の細長さを思い起こさせる。その細長さのダブルイメージとして、サナガタ(狭長田)とあるのだから、馬面のような細長い田のことを表して、「磯宮」と呼んでいるとわかるのである。話の聞き手が空中を飛んでいる言葉から了解する。それがわからなければ、無文字文化に暮らす人として、話のわからぬ奴であり、話がわからなければ、訳のわからぬ愚か者として蔑まれたであろう。ほぼ文字がないのだから、意思疎通の確認ツールは言葉そのもの、音声言語しかなかった。
 さて、「伊勢之狭長田」が馬の面のような細長い田で、中央を馬の口筋のように川が流れているとすると、「五十鈴川上」の「川上」をカハカミと訓むのはそぐわない。地形を示すための馬面の表現、「磯宮」のイソ、「狭長田」との関係が現れないからである。ほか可能性のある訓のうち、カハノホトリやカハラも排除されよう。馬面地形を示さない。残るは、カハノへ(ヘは乙類)かカハヘ(ヘには甲乙両方ある)かいずれかになる。後者のカハヘには、川岸の辺りの印象が強くにじんでいる。視線が、川の辺りから川を眺めている。馬面の口の上と口の下のように細長く伸びている田圃を形容するのに、辺りというニュアンスは似つかわしくない。前者のカハノヘという訓がふさわしい。川の真上から川の両サイドに目が配られている。

 川の上(へ)の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて(万22)
 巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢(こせ)の春野を(万54)
 川の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
 川の上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも(万1931)
 川上(かはかみ)の 根白高萱 あやにあやに さ寝さ寝てこそ 言に出にしか(万3497)

 万22番歌の定訓に、筆者は納得していない。稿を改めて論ずることとする。万56・1931番歌に、カハノヘノと訓み、そのあとにツラツラや、イツモイツモといった言葉の繰り返しがある。川の上(うへ)の約された言い方ながら川岸を指す語、カハノヘとは、川が一筋流れていれば、必然的に両サイドに岸が二つあることを思わせる。川岸が川の両側にあるのは当たり前と思われるかもしれないが、川原となって両サイドに現れるとは限らない。一方は平らな川原であっても、反対側は急峻な崖になっているところも多い。そんななか、カハノヘといって両サイドを示すことが面白いから、ツラツラやイツモイツモなどといった繰り返し言葉が続いている。ツラツラニといった言い方は、馬面のツラを言い当てている。口から上の顔と口から下の顔との両側のことを、ツラツラニと言って、その川の両サイドに椿が生えているのを見ている。ツバキとは、植物の椿のこととともに、口から飛び出す唾のことを洒落ている。馬の口から唾が湧くように出ていることが思い起こされる。万3497番歌は、アヤニアヤニ、ネテネテと繰り返し言葉が入っているから、第一句はカハノヘノとあって然るべき歌である。歌の筆記者が、一字ごとの万葉仮名表記に改めた際、「河上乃」などとあったのを、「可波加美能」と誤って訓んで写し間違えたということであろう。上代ヤマトコトバの口語がよくわからない時代に入り始めてからのことと考えられる。
 以上から、「五十鈴川上(河上)」は、イスズノカハノヘ(ヘは乙類)と訓むのが適当であると確かめられた。では、雄略紀の記述から、それが正しいか検証してみる。
(つづく)
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三輪山伝説 其の七

2016年10月23日 | 論文
(承前)
(注25)山中智恵子『三輪山伝承』(紀伊國屋書店、1994年)にも、

 これ[多氏古事記の話]は『書紀』と同じく女は倭迹迹姫、しかも『古事記』の鈎穴などなくて、小道具は針と綜麻だけだから、三輪の地名起源伝説としても、もう一時代古い伝承と思われる。麻によってあらわされる紡織のことは、農耕のはじまりと時期を等しくする。……『日本書紀』ではこの麻糸さえ除かれて、蛇が出現、神人共食の箸と、巫女の死によって終る、神婚悲傷となる。加上されている墓のことを除けば、最も簡明で、異教の霊異のものとのまぐわいを、蛇への畏怖と人間との親近をあらわす、農耕民の最も古い伝承ではなかろうか。あるいは縄文期、採集農業時代の面影をのこすものと考えられる。その最も古い異類神婚伝説に、百襲姫の名が結ばれたのである。(40~41頁)

とある。この解説は、古事記の三輪山伝説を語ろうと始められたものながら、古事記本文から離れてしまっている。そして、説話の作者が何を企図していたかについて、思いがめぐらされていない。蛇の譬えが確かならしめられずに終わっている。仮に蛇のとぐろを巻く状態が、エッシャーの版画にあるようであると考えたとするなら、そこには幾何学的な思索がある。3つの水滴の波紋の輪が重なり合って、ちょうど沢瀉紋にあるクワヰの葉のようであると見て取るなら、ミワ(三輪)とミモロ(三諸)との関係も見出せよう。箄(したみ)から三滴、水がしたたり落ちる。箄の形は上はまるく、下は方形のはずが、下が三角になっているものを仮想してみよう。その角から、それぞれ水がしたたり落ちる。ミ(水・三、ミは甲類)+タリ(垂)である。半月(はにわり)は、女ではなくて足がもう1本あるらしい。その正体をミタリ(見、ミは甲類)である。波紋は干渉を起して峰をつくっている。三諸なる両刃の剣が三方向へ伸びた沢瀉紋(クワヰの葉形)が浮かび上がる。
M・C・エッシャー「蛇」(1969年、木版画、「エッシャー展」(そごう美術館、~2016.10.10迄)お土産絵葉書)
三輪(三円)を以てクワヰ紋ができるの図
沢瀉紋(?)(小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年、74頁)
腸抉の鏃の入れ墨(盾持ち人埴輪頭部、古墳時代後期、6世紀前半、奈良県磯城郡田原本町羽子田1号墳出土、アサヒグラフ編『古代史発掘1996~1998新遺跡カタログVol.5』朝日新聞社、1999年、148頁。威嚇するに十分である。)
(注26)歴史的な「連枷」の変遷については、劉可維「北魏・唐における枷について―獄官令の検討から見た―」九州大学文学部東洋史研究会『九州大学東洋史論集』第43号、2015年3月参照。その論文には、梁の顧野王の玉篇に、「枷、音加。枷鎖、又連枷打穀」とあるとされるが、沈家本・刑具考の孫引きのようである。管見ながら、原本玉篇、ならびにその逸文に、「枷」字を上のようにする文は見られない。ただし、意味は合っている。和名抄に、「θ(木偏に咼)」字が打つ意としてある。紡錘車を示す「鍋」字の別字としてもθは使われていた。θ字は、①車の轂のなかにさす膏を盛る容器、あぶらづつのこと、②糸を紡ぐ紡錘車、③横に打つ杖のこと、をいう。車輪の回転、紡錘車の回転、連枷の回転、すべて回転に関係する語と捉えられる。説文に、「咼 口戻りて正しからざる也。口に从ひ冎声」とあり、「禍(わざはひ)」の初文である。曲がりに曲がって一周して元に戻る回転で、災い転じて福となるのだと、源順も認識していたのではないか。そのためには、「過」、つまり、ちょっと度が過ぎたことを後悔して、お祓いをしようということであったのかもしれない。
 本邦で文献上で実在したらしい確かな「車」は、「轜車(きくるま)」(孝徳紀大化二年三月条)である。殯(もがり)していた棺を載せて運ぶ霊柩車のようである。もともと軋むからキクルマ(キの甲乙不明)で、車にも泣かせて泣女の役割を担ってもらおうとする発想であったかとも思われる。その際、釭(かりも)が車に仕組まれた車に載せると、轂は安定してくるから軋まなくなっている。和名抄に、「釭 説文に云はく、釭〈古紅反、古雙反、車乃加利毛(くるまのかりも)〉は轂の口鉄也といふ」とある。轂が摩滅しないようにするために嵌めこむ鉄の管である。新撰字鏡には、「釭 又σ(車偏に工)に作る。古紅反、平、轂の口鉄也。燈也。毛地(もぢ)」とある。捩ることと関係する語であろうか。名義抄には、「釭 工江二音、カモ、クルマノカモ、マロフ、コフ、コガネヌリ、又σ トモシヒ」とある。釭があってあぶらを注したら音がしなくなる。θには回転を円滑にするという字義が認められるようである。霊魂が戻るようにし、鬼として浮遊しないで帰ってくださいということらしい。そういう仮定をすると、ワという転じ進むことを表す言葉の方が、これまでよりよく戻り、よく帰ることに当たる。「もがり」→「かりもがり」→「かりも」の洒落である。以上は、車の足回り部品の新技術によって、弔いの文化が変化したのではないかという推論である。
 なお、名義抄に、釭をカモとも呼んでいたことは重要である。崇神記の三輪山伝説記事には割注の付けたりがある。

 此の意富多多泥古命は、神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)が祖(おや)ぞ。

 ときおり、三輪氏や賀茂氏の祖先神話が天皇の神話である古事記に紛れ込んで云々、という議論が見られる。釭(かも)の話だよ、という符牒として、あるいは、話からして賀茂氏は関わらなければならないよ、ということである。大伴氏がオホトモという名だから、鞆(とも)、つまり、弓を扱う時の防具を表わし、矢を入れる靫(ゆき)を負っていると自負するに至るのと同じことである。万478・480・1086・4332・4465番歌がその例である。大伴家持という万葉後期の歌にあり、上代語のものの考え方として定着していたことの証となろう。
(注27)日本書紀の音仮名を除く「鬼」の例をあげる。

 桃を用て鬼(おに)を避(ふせ)く縁(ことのもと)なり。(神代紀上)
 葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲ふ。(神代紀下)
 是に、二の神、諸々の順(まつろ)はぬ鬼神等(かみたち)を誅(つみな)ひて、……(神代紀下)
 郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(おに)有り。(景行紀四十年七月条)
 亦、鬼魅(おに)なりと言(まを)して、敢へて近つかず。(欽明紀五年十二月条)
 是の邑(さと)の人、必ず魃鬼(おに)の為に迷惑(まど)はされむ。(欽明紀五年十二月条)
 若し此の盟(ちかひ)に弍(そむ)かば、天(あめ)災(わざはひ)し地(つち)妖(わざはひ)し、鬼(おに)誅(ころ)し人伐たむ。(孝徳前紀)
 亦、宮の中に鬼火(おにび)見(あらは)れぬ。(斉明紀七年五月条、北野本)
 是の夕(よひ)に、朝倉山の上に、鬼(おに)有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。(斉明紀七年八月条)

 第一例の、桃でオニを退治するという話から、桃には邪悪なるものを遮る霊力があったとされていたとする説が昨今定着しつつある。そんなことはあるまい。モモ(桃)と同音のモモ(百)が、九十(卆)に上回るという洒落にすぎない。いずれの例も、得体が知れず、扱いに困る存在として描かれている。ハラフ(掃・祓・払)ことでお引き取り頂きたい対象である。得体が知れないからお祓いぐらいしかできないのである。
(注28)プロットさえ似ていれば本邦へ伝播されたと考えたがる研究者は多い。千野明日香「三輪山神婚譚と中国の王朝始祖譚」『口承文芸研究』第23号(日本口承文芸学会、2000年)に、「今のところ中国、日本、朝鮮、ベトナムを通じて『蛇婿入、苧環型』に対応する最も古い類話は、『古事記』(八世紀)の三輪山神婚譚とされる」(157頁)、「同じ『蛇婿入、苧環型』といっても、日本と朝鮮半島、大陸の伝承の質に決定的な違いがみられる」(162頁)、「三輪山神婚譚では異類の血筋は聖性を持ち、畏怖と尊崇の対象となる反対に、半島や大陸では、異類は貶められ、人間に殺されるほど弱々しい。海を隔てて、異類と人間の力関係は逆転するのである」(162頁)、「両者の性質の違いから、宋太祖出自譚などの王朝始祖譚は三輪山神婚譚の直接の源流とすることはできない」(161頁)とある。妥当な判断であると思う。
 13世紀に著された三国遺事の10世紀の記事に三輪山伝説と似た「以長糸針刺其衣。従之、至明尋糸」なる記述を見出して、「伽耶土器とその製作方法を伝えた集団の中で、[三輪山伝説は]伝承されていた可能性が残されることは留意される」(瀬間正之『記紀の表記と文字表現』おうふう、2015年、90頁)とある。時間の流れに従って、三輪山伝説が朝鮮半島へ伝わったとふつうに考えればいいと思う。三輪山伝説に「赤土」を散らしていることに、須恵器の製作者により伝承・保存されたからと考え、「朝鮮半島から将来された『三輪山伝説』が、陶工により伝承・保存される間に、女の許に通う男の住処・正体を知る目的で使用される糸は、轆轤と陶土との分離に其れが用いられる関係で欠落させられることなく、新たに『赤土』云々の一条を付加されたのであろう」(福島秋穗『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年、436頁)との推測も行われている。陶工が伝承、保存しているのは、伝説ではなくて陶芸の技術である。彼らは噺家ではない。
 苧環型(崇神記)、丹塗矢型(神武記)、箸墓型(崇神紀)とバリエーションがある点について、同じ神話的幻想から発生しているとし、「苧環型でいえば、針と糸という小道具をもって神話となりうる。……苧環型は、毎夜通って来るということはおそらく訪婚という習俗からの幻想であろうし、針と糸で神の正体を確かめるというのは始祖譚が要求されたゆえと考えてよいだろう」(古橋信孝『神話・物語の文芸史』ぺりかん社、1992年、127頁)と、本末を転倒された創作裏話も展開されている。佐竹昭広「蛇聟入の源流」『国語国文』第23巻第9号(241号)、京都大学国文学会、昭和29年9月に、「神衣を調える為の機織を重要な任務として帯びている巫女を女主人公にした神話、否こうした巫女達が生み出して伝承したであろう神話に、父を探知する方法として苧環の糸が繰り出されるようになるという次第は、殆んど自然発生的でさえある」(8頁、漢字の旧字体は改めた。)といった伝承裏話をひっくり返そうとした試みであろう。なぜ、屋上屋を築こうとされるのか。古事記にあるのは、「以閇蘇紡麻針」である。本居宣長・古事記伝(220/267)に、「紡麻はたゞ袁(ヲ)と訓べし【續麻(ウミヲ)と云ことも、万葉などに多く見えて、古言なれば、此も然訓べきが如くなれども、既に閇蘇と云うへは、紡(ウミ)たる麻なることは、固(モトヨリ)なれば、煩(ワヅラ)はしく宇美袁(ウミヲ)と云むはいかゞなり、然るに紡ノ字をしも添へて書るは、例の漢文なり、】」と断じている。けれども、紡んだだけの平らな麻長繊維の連続に、紡錘車で撚りをかけて丈夫にしたものが糸であり、それを針仕事に使う。必ず糸に撚ってから「針に貫く」と思われる。「閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)」をそのまま「針に貫」くことはしない。弱いからである。撚りかけて糸にすることも、そのまえの捩ってつなぐことも、同じくウムという一語にまとめて呼んでしまっているため混乱が生じている。古事記の語り口では、聞き耳を立てさせて、話(咄・噺・譚)の枕にしている。古代のように糸づくりの現場が卑近にあれば、変なことを言い出したと気づくのである。東村純子『考古学からみた古代日本の紡織』(六一書房、2012年)に、「製糸 苧麻と大麻の糸づくりはほぼ同じである。まず、繊維を細かく裂く。繊維の長さは茎の長さに制限されるので、はじめに1本ずつ撚りつなげ、苧桶に貯める(苧績(おう)み)。次に、湿り気を与えながら紡錘で撚りをかけ、紡茎に巻き取る(①撚りかけ)。糸が一杯になると、桛に巻き上げる。桛は、糸を乾燥させて撚りを安定させるとともに、糸の分量を計るための道具である(②綛(かせ)上げ)。桛から外すと、糸が幾重にも輪状に束ねられた綛(かせいと)ができている」(16~17頁)と簡潔に説明されている。
山菱文錦褥の麻芯(麻製、飛鳥時代、7世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 いわゆる「苧環」、ヲ(麻)+タマキ(環)とは何か。それはヘソであろう。紡錘車、後の時代の糸車にかけられる前の段階で、繊維のつながりを巻いた半製品である。糸になる前のことを言っている。すなわち、始祖譚が要求されて創作したのではなく、言葉によって話(咄・噺・譚)を創ったらそれは始祖譚と同じことだった、ということである。本稿のはじめに述べたとおり、ヘソという言葉こそ考究されなければならない。ウミ(績・産)という音が、「閇蘇(へそ)」と「臍(へそ)」とが同じ意であったことを証明してくれる。ヘソの話は始祖譚にしかなり得ないではないか。古事記にあるお話(咄・噺・譚)とは、言葉をもって言葉を説明した自己循環的な辞書、事典である。無文字文化なのだから、そうやって人に言葉=事柄を伝えたのである。言霊信仰ここに在り、である。

※備考 外字一覧
α:糸がしらに人の代わりに鬼(魕の異体字)
β:轂の旁が欠
γ:竹冠に畀
δ:竹冠に宿
ζ:酉偏に繊の旁
η:門構えに龠
θ:木偏に咼
κ:鼠偏に番
λ:虫偏に黍
μ:虫偏に員
ν:手偏に戾(捩の旧字)
ξ:木偏に弗
π:木偏に央
σ:車偏に工

(注26補遺)新撰字鏡には、「枷 古牙枷鎖又連枷打穀具也」とある。(2016.11.7)
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三輪山伝説 其の六

2016年10月18日 | 論文
(承前)
(注11)釈日本紀・巻第七・述義三に、備後風土記逸文を所引する。

 素戔嗚尊、宿を衆神に乞ふ。
 備後国の風土記に曰く、疫隅(えのくま)の国社(くにつやしろ)。昔、北の海に坐しし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子(むすめ)をよばひに出でまししに、日暮れぬ。彼の所に将来二人在りき。兄の蘇民将来は、甚く貧窮(まず)しく、弟の将来は富饒(と)みて、屋倉(いへくら)一百(もも)在りき。爰に、武塔の神、宿処(やどり)を借りたまふに、惜みて借さず。兄の蘇民将来、借し奉りき。即ち、粟柄を以て座(みまし)と為し、粟飯等(あはいひども)を以て饗(みあ)へ奉りき。爰に畢へて出でませる後に、年を経て、八柱のみ子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、将来に報答(むくひ)為む。汝が子孫(うみのこ)其の家にありや」と問ひたまひき。蘇民将来、答へて申ししく、「己が女子と斯の婦(め)と侍ふ」と申しき。即ち、詔りたまひしく、「茅の輪を以て、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の随に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民の女子一人を置きて、皆悉(ことごと)にころしほろぼしてき。即ち、詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疫気(えやみ)在らば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。
○先師申して云ふ、此れ則ち祇園社の本縁なり。○大きに仰ぎて云ふ、祇園社三所は、何の神ぞや。○先師申して云ふ、此の国記の如くは、武塔天神は素戔嗚尊、少将井は、本(もと)御前、奇稲田姫と号するか。南の海の神の女子は、今御前か。○重ねて之を問ふ、祇園を異国の神と号すること然ならずか。○先師申して云ふ、素戔嗚尊、初め新羅に到りて、日本へ帰(もど)る趣、当記に見ゆ。之に就きて異国の神の説有るか。祇園は行疫の神と為り、武塔天神の御名は、世の知る所なり。而して吾は速須佐雄の神也、云々。素戔嗚尊、亦の名速素戔嗚尊、神素戔嗚尊の由、此の紀に見ゆ。仰て信を取るべき者なり。御霊会の時、四条京極に於て粟御飯を備へ奉りし由、伝承す。是、蘇民将来の因縁なり。又、祇園神殿の下に龍宮に通ふ穴有りし由、古来申し伝へし。北の海の神、南の海の神の女子に通ひし儀、符合するか。(筆者の訓読は怪しいので、文献を当たられたい。)
(注12)大森志郎「茅の輪行事の起源と意義」『東京女子大学論集』第9-1号(東京女子大学学会、昭和33年12月)には、次のようにもある。

 大神神社で、茅の輪の行事を、本社の祭としないで、その境内にある綱越神社の祭と認めてゐるのは、なぜであろうか。綱越神社は茅の輪行事を司る社である。このやうに茅の輪行事の司会の神を祀った例が他にもあるかどうかは知らないが、少くとも大神神社においては、茅の輪行事が極めて重要な行事であったために、その行事を職掌とする神が祀られることになったものと思はれる。境内の小社の小さな祀であるのではなく、特に司会する神の社がたてられるほど、重大な行事であったと見るのである。その社が一の鳥居の外にあるのは、そこが茅の輪行事が行はれて来た位置であることを示してゐる。茅の輪くぐりが祓であるかぎり、祓は本殿からなるべく遠いところで行はれるべきで、鳥居の外がその場所に選ばれるのは、順当である。……
 ナゴシは夏越とも記され、語源もその文字に即してゐるやうに思はれがちであるが、〈夏を越す〉とはどういふことか明らかではない。これは夏の行事であるために音の類似から夏の字があてられたまでであって、ナツコシがナゴシになるといふ音韻変化も解しがたい。名越・夏越ともに宛て字であらう。
 ナゴシをナゴスといふ動詞と関係があると見て、「神を和す」意味であるといふ解釈があり、和儺といふ記載法を作り、大言海などもその説を掲げてゐるが、これも行事の実際とは合はない。和儺はシナの儺・追儺に対する造字で、茅の輪の行事は、家家で個人個人の祓除をすること節分・大晦日の追儺に類してゐるけれども、これらの行事は、狭義の〈まつり〉とは言ひがたい。……みそぎはらへは、神へ近づく過程であり、手段であって、神への奉仕そのものではない……。……三輪を除いては、茅の輪行事は、人間のためにあるもので、神神をナゴメるためにあるとは言ひがたい。拾遺集に
 さばへなすあらぶる神もおしなべて今日はなごしのはらへなりけり
といふのは、語呂あはせに類する駄じゃれにすぎない。
 神を和ごすといふ言葉づかひも問題かと思ふが、さうした意味をこの行事が直接に負うてゐることはないのである。この解釈も言葉が先にあって、それに類似した言葉をおしあてた机上の解釈にすぎないと思はれる。(6~8頁)

 後半部において、ナゴシの祓の語源について論究されている。およそ語源などというものは確証が得られるものではない。上に批判されているナゴスという動詞との関係は、あながち間違いともいえないように思われる。八雲御抄に、「邪神をはらひなごむ祓ゆゑになごしと云也」、書言字考節用集に、「名越祓(ナゴシノハラヒ) 和儺(ナゴシ) 荒和(同)〈或いは夏越に作る〉」などとある。暴れる鬼のような存在を和ませることが、祓の本質に近いかもしれない。ケガレ(穢)という語が、ケ(褻)+カレ(涸・枯)の意ではないかとする説が有力な説としてあり、ハレ→ケ→ケガレを時間軸に据えて循環過程として論じられる方もある。褻が涸れて来たら、祓をして元気を更新しようというのである。どうして元気がなくなるかは、日常生活がルーチンワークで、マンネリ化してつまらないからであろう。特に梅雨時の田んぼの草取りなど、嫌になって逃げ出したくなる。それは、心のなかの鬼がつまらない考えを起こしているともいえる。鬼というものを実体としてどう考えるかは難しいが、自分の中に在るのは、自分がどこから来たかにかかっているはずである。形而上学的な宗教でいかに考えるかはさておき、動物として生れて来たからには、自分は、親から生れてきている。親が亡くなってご先祖様になると、そんなつまらない考えを起こした原因も、ご先祖様が引き起こしたとして納得がいく。それを鬼と呼び、人神と言っている。今日と大きな違いは、前近代の平均寿命が40歳ほどである点である。親から“独立”して、などと悠長なことを言っている場合ではなかった。(注4)の老子・河上公注にも、「治身者、当除情去慾、使五蔵空虚、神之帰之也」、「腹中有神、畏其形之消亡也」などとあった。大物主神とは、そんな鬼なのだから、つまらない考え方を起させる心の鬼を和ませることを、卆(90)日÷半割(はにわり=1/2)=180日でもって行うことに、計算上不自然さはない。儺という鬼やらいの字を当てて「和儺」と表記した人には、それなりの知恵があったと筆者は考えている。
 田んぼの雑草のなかには、鬼のような葉をしたクワヰも生えている。クワヰは抜かずに放置することもある。えぐいながらも塊根は食べられるからである。それはまた、水田稲作農耕を始める前のご先祖さまの時代、ヱグ(クワヰ)はふつうに食べていたからでもある。雑草として扱うなど、バチが当たるというものである。祓の対象となる罪かもしれない。お節料理として永らく残ってきたのには、正月に米を隠して里芋を食べる風習の残っていた地域のあったこととの関わりから探るべき課題であろう。坪井洋文『イモと日本人―民俗文化論の課題―』(未来社、1979年)参照。
 なお、三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「わ【輪・曲・勾】」の「考」に、「なお『尾張国阿育知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里』(霊異記上三話)『愛知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里』(霊異記中二七話)のワは未詳であるが、『蕝』は子芮切または子悦切で、茅(ちがや)を束ねて立て、酒をしたたらせてこすものをいう。ワの訓は茅をたばねたもの、すなわち、茅の輪の意によるものであろうか」(812頁)とある。茅の輪に一の茅の葉をたどっていくと、捩じれ回りながら輪に回ってもとに戻っている。ヤマトコトバにワという語意が、転回することを含意した曲郭であることから、まことにふさわしいものと考えられる。どこかへ行くかと思えば戻っていていらいらするもの、道徳的に悖るものであるかに思われながら、老子のいう無用の用を果たすのが、ワということに当たる。蘇民将来の話は、情けは人の為ならずの考えに通じるところがあり、世の中は巡り巡って戻ってくる因果応報的な循環、すなわち、ワがあると説いているのかもしれない。しかも、酒を釃(した)むことと関わるらしい。説文に、「蕝 朝会束茅表位に曰く、蕝 艸に从ひ絶声といふ。春秋国語に曰く、茅蕝表坐に致すといふ」とあるのは、円座(藁座(わらうだ))状にしたものを指すのであろうか。
(注13)一条兼良(1402~1481)・公事根源・百四「大祓(オホバラヘ)同日」条に、

 大ばらへといふは、百官ことごとく朱雀門にあつまりて、祓をし侍るなり。六月十二月二たびあり。天武天皇の御時より始まる。解除(ゲヂヨ)は觸穢などの時もあり。神事を行ふ時は、臨時にも常にあれども、この大祓は百官一同にあつまりて、祓をするなり。またけふは家々に輪をこゆる事あり。
 みな月のなごしの祓する人は、千年のいのちのぶといふなり。
此の歌をとのふるとぞ申し伝へ侍る。然るに法性寺関白ノ記には
 思ふ事皆つきねとて麻の葉をきりにきりてもはらへつるかな
此の歌を詠ずべしと見えたり。

とある。実隆公記(文明七年(1475))条にも記載がある。
 大麻の作法については、丸山顕誠『祓の神事―神話・理念・祭祀』(三弥生書店、平成27年)参照。
(注14)櫻井敏雄「建築」大神神社史料編修委員会編『大神神社史料 第八巻 続拾遺編坤』同会発行、昭和56年に、「三ツ鳥居及び瑞垣は昭和三十四年に修理され、墨書及び発見文書より明治十六年に再建されたことが判明した。なお、三ツ鳥居の石製唐居敷には、使用されていない扉軸受穴があり、修理工事報告書では類例から推して、唐居敷の使用年代は鎌倉から平安時代まで遡りうるかとしている。」(827~830頁)とある。扉軸受穴がどの位置に当たるかわからず、戸(扉)の設置位置が推定できないのが残念である。
三ツ鳥居(文化庁監修『重要文化財15 建造物Ⅳ』毎日新聞社、昭和49年、75頁)
三ツ鳥居図面(櫻井敏雄「建築」大神神社史料編修委員会編『大神神社史料 第八巻 続拾遺編坤』同会発行、昭和56年、829頁)
三ツ鳥居図例(鶉功『図解社寺建築 社寺図例篇』理工学社、1993年、93頁)
三輪山絵図(室町時代、大神神社蔵、上田正昭・佐伯秀夫編『神道大系 神社編12―大神・石上―』神道大系編纂会、1989年、口絵)
三輪山(南都名所集・巻第九、平井良朋編『日本名所風俗図会9 奈良の巻』角川書店、昭和59年、287頁)
(注15)六月(水無月)の祓が一般化しているのは、この三輪山伝説に発端があると考えられる。三輪山は紡錘車に糸を撚りあげた形になっている。ミナツキのミナ(ミは甲類)には、同音にミナ(螺、ミは甲類)がある。今のカワニナやタニシの類である。その貝殻の形は、ぐるぐるっと巻いて積み上がるようになっている。形がよく似ていることにより、言葉と行為とを合致させるべく言霊信仰下の人々は動いた。その結果が、ミナ(螺)月はツミ(罪・紡錘車)な月だからお祓をするのがふさわしいことだと考えられるように発展していったと考えられる。なお、六月(みなつき)の対義語は、十月(かむなづき)である。カミナ(ガウナ)(寄居子)と呼ばれたヤドカリには、髪がないと洒落られていたらしい。本ブログ「十月(かむなづき)について」参照。言うまでもないが、万葉人の語感の問題で、“語源”とは無関係である。科学的(?)な語源探究など、上代の人の解することではない。
(注16)本邦には、奴婢はいたが、宦官は存しなかったらしい。三田村泰助『宦官 改訂版』(中央公論社(中公新書)、2012年)参照。とはいえ、三宝絵詞に見られるように、そういう人があり得ることは認識されていたであろう。そして、それを“人(ひと)”と呼んでよいのかについての論理矛盾について、面白がったのが上代の人であったというのが、いわゆる三輪山伝説に通底するモチーフであると考える。“人でなし”概念が導入された。なお、「人でなし」という言い方は、現代的な言葉遣いとして不適切かもしれないが、上代語研究のために用いているのでご寛恕願いたい。
(注17)宮中で平安時代に行われた大祓の場所、「祓所(はらへど・はらへどころ)」が、朱雀門や、まれに建礼門のところであったのには、古くからの言い伝えとして黄門のことがあったからではないかと推測はされるが、実証は困難である。三宅和朗『古代国家の神祇と祭祀』(吉川弘文館、1995年)参照。また、半分に割れる門戸を、時に観音開きという。内に納められる仏像が観音像であったことに因むのであろうが、観音像の印象として両性どちらともつかない点があげられよう。半月(はにわり)の話と絡めて認識されていたのかもしれない。
(注18)中川ゆかり『上代散文―その表現と試み―』(塙書房、2009年)に、「古事記の文章に漢訳仏典の影響がみられることが指摘されており、……古事記編者は大智度論や経律異相などの漢訳仏典の、阿難が神通力によってカギアナを通るエピソードをヒントにして、〝神壮夫(カミヲトコ)〟―美和山の大物主大神―の霊威を示すために、三輪山神話において、カギアナをもち出したのではないだろうか」(166~167頁)とある。中川先生の仰る「古事記編者」とは、誰のことを指しておられるのだろうか。また、仏教という壮大な思想体系のなかの断片を切り取ってきたとして、単に「霊威」を示す表現に活用しただけで、その出来上がった話を聞くヤマトの人の側が理解できたのか不明である。仏教思想のバックボーンなしにカギアナを通ることは、すなわち、霊威あることであると感じることはできない。聞く側が納得して了解しなければ、後世に伝えようとするものではないであろう。稗田阿礼誦習とは、文字を持たないまま口づてに伝えたことを意味する。人々になるほどと思われて腑に落ちる話でなければ、話(咄・噺・譚)として伝わること、伝えることはできない。カギアナを話の焦点に持ってきていることの根幹を探る必要があろう。稗田阿礼の話(咄・噺・譚)が先、太安万侶の表記は後である。
(注19)合田、前掲書参照。同書に、「鏁子の[助数詞の]『具』は牡・牝で一体となる錠前と鍵とが一組みになっていたであろうことが想定され、鎰(鑰)[の助数詞]に『勾』が付されていることは、その形状が鈎型に大きく折れ曲がっていることを想起させることや、『柄』の場合は鉤(クルル鉤)の木質の把手部分を指したであろうことが容易に想像される」(108頁)とある。
(注20)なぜ杉が登場してくるのか、大神神社にしるしの杉となるのかについても、語学的には、罪のことを示す過失の「過ぎ(ギは乙類)」と「杉(すぎ、ギは乙類)」との洒落、ないしは、言霊信仰にあっては同じ言葉は同じ意味をもつに違いないとする考えに基づいているものと考えられる。万葉集ではほかに、次のような例が見られる。

 三諸の 神の神杉(ギは乙類) …(訓未定)… 寝(い)ねぬ夜ぞ多き(156)
 何時の間も 神さびけるか 香山(かぐやま)の 鉾椙(ほこすぎ)が本 薜(こけ)生すまでに(259)
 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(422)
 御幣帛(みぬさ)取り 神(みわ)の祝が 鎮斎(いは)ふ杉原 燎木(たきぎ)伐(こ)り 殆(ほとほと)しくに 手斧取らえぬ(1403)
 神南備(かむなび)の 神依板(かむよりいた)に する杉の 念(おも)ひも過ぎず 恋の茂きに(1773)
 石上 布留の神杉 神びにし 吾やさらさら 恋にあひにける(1927)
 石上 布留の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(2417)
 神名備の 三諸の山に 隠蔵(いは)ふ杉 思ひ過ぎめや 蘿(こけ)生すまでに(3228)

 「杉」と「過ぎ」との洒落が、第3・5・8例目に見える。いずれも「思ひ過ぎ」の意として使われ、思いが消えて忘れてしまうことを表している。ヤマトコトバのスギ(過)は、変化の程度が限度を超えて消えてなくなることを表し、人の場合、死ぬ意味に用いる。常訓とする漢字「過」は、論語に、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし(過猶及)」、「過(あやま)ちては則ち改むるに憚ること勿れ(過則勿改)」などとあるように、行き過ぎてよろしくないことである。悪意をもってなされた犯罪ではなく、つい過って犯してしまった過失、軽犯罪に近い。(近代に、「重過失」という概念がある点については、法と人とのいたちごっこの結果かと思われる。)死罪、流罪、笞罪にあてるべきではなく、示談、説諭、訓告で解決してかまわない。祓の対象領域である。
 万712番歌に、下級神官の「祝(はふり)」が「忌(いは)ふ」のは、祓の対象となる程度の罪を祓うお祓いをするということである。大宮司は神を祀ることが仕事である。また、「石上(いそのかみ)」には「布留(ふる)」という地がもともとあり、それが「古(ふる)」とも、「振る」とも通じるから、古くから大麻(大幣)(おおぬさ)を振るって祓っていたに違いない。言霊信仰における言行一致につながっていったということであろう。万2417番歌に「更にする」とあるのは、フル(布留)というフル(古)の事柄をフル(振)ことによって更新させようということである。同様に、万1927番歌に、「さらさら」とあるのも、サラ(更)にすることによる言い回しであろう。そして、酒造にはお米を蒸すために甑が必須で、杉板の上で麹米を作ることが言葉の上でめぐりめぐって合致するようになっている。澱粉を糖にしなければアルコールはできないから、麹を使って糖化するのであるが、そのためには米は蒸さなければならない。その際、シタミ(箄)が要にある点については、本文に述べた。また、石の甕=イシノカメ→石上=イソノカミという音訛を楽しんでいたと考えられる点については、本ブログ「『石上(いそのかみ)布留(ふる)』の修飾と『墫(もたひ)』のこと」というスケッチを参照されたい。
(注21)É・デュルケーム、小関藤一郎・山下雅之訳『デュルケーム ドイツ論集』(行路社、1993年)に、

 道徳も法と同じ対象をもっている。道徳もまた社会秩序を確保する機能をもつ。それ故にこそ道徳は、法と同じく、必要に応じて拘束が義務として課す命令によって、構成されている。ただこの拘束は、外的で機械的な圧力を本質とするのではなく、もっと内面的で心理的な特性をもっている。それを行使するのは国家ではなく、社会全体である。その基本条件である力は、明確に規定された何人かの手に集中しているのではなく、全国民社会に分散したようになっている。それは、社会的地位の上から下まで、何人もそれから免れられない世論の権威にほかならないのである。道徳はきちんとした明確な方式に固定化されていないから、法よりも柔軟で自由な何物かをもっており、またそうであることが必要である。国家は、人間の心の余りにも複雑な動きを規制するには、余りに荒削りなメカニズムである。反対に、世論が行使する道徳的拘束はいかなる障害によっても阻止されることはない。それは空気のように微妙で、いたるところに浸透し、「家族の団欒にも王座の階段にも」はいりこむ。それ故に、法はたんに外的特性によってばかりでなく、内的差異によって道徳と区別されるのである。(108~109頁)

とある。(あるものとしてあげたにすぎない。)
 上代において、社会秩序のために、中国に範をとった律令を導入しようとする以前から、道徳の内面化こそが必要なのだと気づいていたらしい。年2回の祓という儀式へとまとめ上げていたように思われる。祓とは、心の問題であり、その人の内面の秩序化が実はいちばんの基礎なのだと理解していたということである。良心というものが欠落していたら、何をしでかそうと呵責を起こすことがなくなる。社会に無益なら命が奪われても構わないとして実行したり、仕事がはかどって成績があがるなら何をしてもいいと思ったり、相手の気持ちを考えずに独りよがりな振る舞いを続けたとしても、悪いことをしているという自覚がなければ対処のしようがない。これを、“人でなし”と考え、あるいは「鬼」として対処した。筆者は、人間へのこの深い洞察からみて、古事記の三輪山伝説を創作したのは、例えば聖徳太子のような偉大な人物であったと推測している。
(注22)竹内晶子『弥生の布を織る―機織りの考古学―』(東京大学出版会、1989年)に、紡錘車を使った糸撚りの方法が解説されている。

 紡錘を使っての撚りのかけ方を図示すると、図13のようになる。右利きの人が右手で紡茎を持ち、時計の回転方向に回すものと仮定する。まず、紡茎の紡輪直上部分に糸の端を結ぶ。紡茎の上端部分で糸をひとひねりして輪を作ってから上端にからませ、紡錘ごと吊り下げる。こうすると紡茎上端に鉤をつけなくても糸は固定される。紡茎上端の30~40㎝ぐらいの部分を左手の指2本で押える。そして右手で紡茎を回すと、紡錘の回転が紡茎の上端から糸に伝わり、下から順に糸に撚りがかかり、左手で押えた部分まで撚りが行きわたる。好みの撚りの強さになるまで、適当に右手で回転を続ける。撚りがかかったら紡茎上端の糸の輪をはずし、紡輪上端に接して出来上がった糸を巻く。そして先ほどのように紡茎の上端で糸をひとひねりしておくと、紡茎に巻きつけた糸はズルズルと出てくることはない。このような動作を繰り返し、続きの糸に順に撚りをかけてゆく。なお、S撚りの糸が必要なら紡茎を左に(逆時計回り)、Z撚りならば右に(時計回り)回す。撚りをかけ終って紡茎に巻きつけた糸玉は「三角錐」の形をしている。糸はあらかじめ湿らせてあるので、半湿りの状態の糸玉をそのままにして乾燥させると撚りを固定させることができる。このとき連続して撚りかけを行うためには、複数の紡錘を所持していなければならない。(12~13頁)
図13「紡錘」の使い方

 紡錘車の出土例が数多いのは、半湿りのままにして置いておきながら、次々と作業をして行くためであったからとされている。
(注23)白川、前掲書に、「底(てい)は氐(てい)声。〔説文〕九下に『山居なり』とするが、『止居なり』の誤りとみられ、建物の地を平低にすることをいう」(433頁)と、説文に対するテキストクリティークでは異議を唱えておられるものの、解釈では、「底は到りつくことであるから柢(いた)るといい、至(し)・致(ち)・臻(しん)などもその系列に属する字。国語でいえば『そこひ』『そこへ』というのに近い」(同頁)とある。三輪山伝説に、至り止まったのが山だったとするのは、厳密な学としての哲学ではなく、口語のお話(咄・噺・譚)なのだからそれでかまわないと考える。稗田阿礼の記憶は、“字書”ではない。太安万侶が説文の誤字(?)について掘り下げたとも思われない。万葉集に、

 古の 七(なな)の賢(さか)しき 人どもも 欲りせしものは 酒にし有るらし(万340))

とある。竹林の七賢人に見られる隠遁の思想も伝えられていた。彼らは好んで酒を飲んだ。徹底的な賢さは、山居して飲酒することにあると考えていたかもしれない。
(注24)律令時代に、調(みつき)は、絹・糸・布・鉄・塩・農水産加工品・手工業製品などのさまざまであるが、その輸送には、地方の公民が、貢調使引率のもと、食料自弁で当たった。庸調の脚夫は、帰りは勝手に帰るように放任されたため、途中で餓死、病死するものが多かったと、続紀以下記されている。五畿七道を整備する政策の当初の主眼は、徒歩での運送のためではなく、船や馬、荷車をもって行わんがために企図されたものではなかったかと筆者は推測する。本邦の乗物史では、後世、車を捨てて駕籠へと退化している。大陸と違い、陸路を進むには必ず河口に程近い場所で、川の急流を横切らなければならない。そんな国土の特色も影響するのであろう。ミツキ(調・貢)なのだから、上に論じたヤマトコトバの洒落からすれば車を使って運ぼうという理念があったに違いないと考えられる。語学的推測である。しかし、そんなヤマトコトバ上のコンセプトは、五畿七道のグランドデザインまでは行き、古代のアウトバーンは各地に出土するものの、実地段階において失敗したように思われる。他方の、車の側の問題、エンジンとなる牛馬の不足もあったのであろう。生産性からいって、農耕に用いた方が効率的であった。列島にヒツジやヤギ、ロバがいなかったのは、移入されても高温多湿の環境に適さなかったから途絶えたのではなく、牧畜よりも水田稲作農耕や麻栽培の方が、単位面積当たりの食料供給、繊維獲得の面で圧倒的に有利であったからであろう。羊毛が得たいからとヒツジを飼い、田んぼに勝手に入られてイネを食べつくされたのでは堪ったものではない。人が多くて雑多に扱われて脚夫が帰路に餓死したという国と、人が少なくて異民族を狩ってきて隷人(宦官を含む)として扱ったのとでは、人とは何かという根本的な思想基盤に違いが出てくるように感じられる。人口が過剰だから、駕籠を使って人が人を運んでいる。雇用が確保されている。本稿とは趣旨が離れていくのでこれ以上は言及しない。
(つづく)
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三輪山伝説 其の五

2016年10月14日 | 論文
(承前)
(注1)荒川紘『車の誕生』(海鳴社、1991年)に、「人類は前五〇〇〇年ごろまでには橇を手にしていた。丸木舟と並ぶ最古の運搬具である。……純粋の橇から車への移行。その動機としてよくあげられるのはコロ説である。……人類は経験的に、丸い棒を並べその上を走らせるならば容易に動かせることを知った。コロは滑り摩擦係数を減ずるとともに、コロが回転すれば摩擦はさらに小さくなる。ただ、橇が移動すると同時に、コロを車の前部に並べ換えねばならないという面倒がつきまとう。この面倒さを解消するために、コロが車体から離れずに一定位置で回転するよう工夫したのが最初の車であったと考えるのである。それゆえ、この仮説によると、最初の車輪は車軸と一体であったのであり、その後車輪は車軸から分離、車体に固定された車軸のまわりを回転する形式に改良された、と想定される。この改良によって、摩擦が小さくなったのに加えて、両輪が独立に回転可能となり、そのため車の方向の転換が楽になる。とくに機動性が求められる戦車には有効であったにちがいない。コロ説は一つの仮説であって、それを証明する資料を提示することはできない。といって、コロ説以上に説得力のある仮説を捜し当てることはできないので、私も、いまのところはコロ説に従っておきたい」(16~17頁)とある。車以外の回転系の技術、紡錘車と轆轤についても言及されておられる。三輪山伝説について、本稿のとおり車輪と紡錘車をモチーフとしており、轆轤技術については、三輪山祭祀における陶邑の須恵器との関係が指摘されよう。言葉と技術とが相即的な関係にあるという、無文字文化であるなら当たり前のことが、現代の眼からも示されている。
ウルク粘土板ピーター・ジェームズ/ニック・ソープ、矢島文夫監訳『事典 古代の文明』(東洋書林、2005年、45頁)
(注2)荒川紘『世界を動かす技術=車』(海鳴社、1993年)に、「車の本格的な最初の改良は、シュメールに車が出現してからほぼ一〇〇〇年後、北メソポタミアに勢力を有していたミタンニ人が牛や驢馬よりも強力な馬を繋ぎ、そしてそれまでの円盤の車輪に代えて、輻(スポーク)つきの軽量な車輪を導入したときである。機動性に優れた戦車の追求から生まれたと考えられる。機動性ということでは、四輪車よりも小回りのきく二輪車が有利であるので戦車にはもっぱら二輪の馬車が使われた。軽戦車の出現である」(15頁)とある。
 本邦には牛車ばかりで、馬車の見られるのが明治維新に下る。乗用には二輪車ではなく飾り立てられた四輪の牛車が偏重されていた。荷車として石山寺縁起に見えるものも牛車である。どうしてそのような状況に置かれていたのかについては、とても興味深い課題である。本論とは別の事柄であるので深入りはしないものの、荒川、前掲『車の誕生』に、牛車や駕籠は「見栄をみたすための大道具」(144頁)であったこと、「急ぎの用ということでは騎馬があ」(139頁)ること、「労働事情[として]……過剰人口を抱いた国で……飼育や訓練に手間のかかる動物の利用に熱心にならなかった」(140頁)など、示唆に富む指摘が多くなされている。技術の歴史の一筋縄では説明できない不思議さを解き明かそうと試みた名著と言えよう。
馭者の乗らない馬車の絵(長恨歌図屏風、筆者不詳、紙本金地着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
(注3)荒川、前掲『車の誕生』、132頁を踏襲している。筆者には、日本の牛車が高句麗の人からもたらされたとする説に疑問が残る。通溝・舞踊塚古墳玄室奥左側の図は、狩猟図であり、牛車は幌付きの荷車である。そのような車は、牽引は馬ではあるが後漢の時代の画像石にも見られる。平安時代の貴族は、大陸に荷車であった幌付き牛車を乗用車にしたということであろうか。何が似ていて何が似ていないのか、よくわからない。
狩猟図(舞踊塚古墳、共同通信社・ナリタ・エディトリアル・オフィス編『高句麗壁画古墳』共同通信社、2005年、275頁)
一棚車(沂南漢墓中室北壁横額東段畫像、後漢時代、2世紀、中国畫像石全集編輯委員会編『中国畫像石全集1 山東漢畫像石』山東美術出版社、2000年、156頁。解説に、「一棚車、御者控轡、車中伸出二枝斜插的長矛」(68頁)とある。「棧車」とも記され、手荷物馬車のことである。
三彩牛車・馭者(陶製、中国、唐時代、7世紀、横河民輔氏寄贈、東博展示品)
(注4)老子・無用第十一に、「卅(みそ)の輻(や)共(とも)一つの轂(こしき)〈古は車、卅の輻あり。日の数に法(の)とる也。一つの轂を共にすれば、轂の中に孔有りて、故、衆(もろもろ)の輻、共に之れに湊(あつ)まる。身を治める者、当に情を除き慾を去り、五蔵をして空虚ならしめば、神、乃ち之れに帰る也。国を治める者、寡(とくすくな)くして能く衆を(もろびと)を惣(す)ぶれば、弱き共(とも)に扶(たす)けて強(こは)きこと之れ也。〉其の無なんことに当りて車の用有り。〈無は空虚(むな)しきを謂ふ也。轂の中(うち)の空虚しき輪にて転(めぐ)り行くを得たり。輿の中(なか)の空虚しくして、人の其の上に載るを得る也。〉埴(はにつち)を挻(せん)して以て器(うつわもの)を為(つく)る。〈挻は和する也。埴土也。土を和して以て食飲の器を為る也。〉其の無に当りて器の用有り。〈器の中の空虚しきこと、故、盛り受ける所有るを得る也。〉戸牖を鑿(うが)ちて以て室を為る。〈室屋を作るを謂ふ也。〉其の無に当りて室の用有り。〈戸牖の空虚しきを言ふ。人、以て出入りし観視するを得たり。室の中の空虚しき、人、以て居処するを得たり。是、其の用也。〉故に有(う)の以て利と為(す)〈物の形に利あるは、器の中に物有り、室の中に人有るは、恐らくは其の屋の破壊(やぶれこぼ)るにあり。腹の中に神有るは、其の形の消え亡せんを畏るる也。之れ〉は、無の以て用を為せばなり。〈言、虚空しき者、乃ち盛り受ける物を用う可き也。故、虚無の有形を制するは、道は空しければ也。〉」とある。(筆者の訓読はあやしいので原典を当たられたい。)阿部吉雄・山本敏夫ほか著『老子・荘子 上』(明治書院、昭和41年)に、「このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである」(28頁)と無用の用について訳されている。
 老子のあげている例が、轂、土器、住まいであるのと、本稿で見渡した轂、甑、橧とがとてもよく対応している。そこには何らかの関係があるのか、祓という実質を伴わない“無用の用”的儀礼の意義にまで及ぶことがらなのか、今のところ不明である。憲法十七条に、老子からの修辞に学んだ句が見える点に手掛かりが求められるかもしれない。後考を俟ちたい。(注20)参照。
(注5)樋口清之『新版 日本食物史―食生活の歴史―』(柴田書店、昭和62年)に、次のようにある。今日の考古学上の通説とは異なる点があるかも知れないが、示唆の多い指摘である。

 ……東洋ではイネやオオムギの伝播に伴いで粒食が好まれた。中国新石器時代土器に袋形をなした三脚を有する鬲(れき)や底部に若干の小孔を穿った甑(こしき)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあり、これは明らかに穀類を粒のまま蒸すのに使用したもので、それらは青銅器時代に入っても同形に鋳造盛用されている。このような穀物を蒸す技術は、米の流入と共に日本に伝わったらしく、弥生式土器の前期のものにすでに甑が存在している。わが国における甑(こしき)の用法は、この中に布で包んだり、篭・笊に入れた米を入れて固く蓋をし、火にかけて湯の沸き立っている甕や鉢形土器の上に載せ、水蒸気で蒸した。古墳時代には甑、釜、竈(移動性のもの)がセットになった遺物が存在し、蒸す方法が一層発達したことが知られる。甑の底の蒸気孔の上には木の葉(カシワ、シイ潤葉樹やサトイモ、ハスの葉、マコモ、アシなどの葉や竹の編物)を敷いた場合も多く、そのことからカシワは炊事の代名詞となりその専従者をかしわで[かしはで](膳部)とよぶようになったとする説もある。蒸す方法は古代の米の調理法の代表とされ蒸した米をいひとよんだ。(70~71頁)

 和名抄にある「箄(いひしたみ)」とは、蒸すためのシタミということになる。甑の中にセットされたものを指している可能性も残る。延喜式に、「籮」をカタミと訓んでいる。和名抄に、「笭簀 四声字苑に云はく、笭簀〈零青二音、漢語抄に加太美(かたみ)と云ふ〉は小さき籠也といふ」とあるもので、用途の違いではなく大きさの違いということである。小林行雄『続古代の技術』(塙書房、昭和39年)に、延喜式にある「煠籠[(あふりこ)]は『内膳司式』にいう漉籠[(したみこ)]と同一のものかと推定される。漉籠もまた、ゆで餅をゆでる時に用いたものである」(160頁)とある。今日、麺類の湯切りをする行為も、シタムということのようになっている。ただし、和名抄では、「烝」と「茹」は別項である。「烝」に、「火気の上へ行く也」と説明されており、もともとは水分の上下動のための調理用具をシタミと考えたと思うがどうなのであろうか。
瀬川、前掲書に、飯の炊き方として途中で湯取りをする方法が残っていて、煮え立った飯釜の中にノリトリ籠を入れて糊をしみ出させてくみ出したという。栄養面でもったいないし、しかも大陸にもその湯取りに似た炊き方がある点について不思議とされている。このノリトリ籠も箄の変形に見えてくる。
ノリトリ籠(瀬川、前掲書、60頁)
(注6)蒸し網(蒸し皿)
 今日、ふかしざるには、金属製でフレキシブルに大きさを変えることのできる商品が出ている。小泉先生のあげられている例は、大きさからして甑の底部に逆さまに伏せて入れて蒸気の通りを良くしながら米粒を落とさない仕掛け用のものである。蒸気の水分を「下」に通して「火気の上へ行く也」といえる。反対に、蒸すための笊としては、甑の大きさに合わせた竹籠を編んだものかとも思われる。和名抄の「籮(したみ)」の説明に、「底を方にして上の円なる者」とあった。そういった形に作った竹籠ならば、穴が一つの甑に落とし込んだとき、底の穴にすっぽりと納まって、蒸し上がった時、箄ごと取り出せて甑を洗う手間が要らない。竃に嵌め殺しの甕では甕が洗えなくて潔癖症にはつらかろうが、甑も洗わなかった可能性まであり得る。廣岡孝信「考古学からみた日本酒の歴史」『酒史研究』第30号(2014年9月)に、「[弥生時代の底部穿孔土器]の蒸し方では、土器内のコメを均一に蒸し上げることは期待できない。それが弥生時代の技術的な限界であったと理解してよいのではなかろうか」(10頁)とあるものの、山口昌伴「火まわりの道具立て 釜甑(ふそう)」『食の科学』№291(2002年5月)に、「蒸気エネルギーは穀粒などの隙間をまんべんなく通るので変成を均質にし、エネルギー効率が高い、というメリットがある」(64頁)とされている。何段にも重ねられた蒸籠のどの段でも粽が作られている。実験すればわかることと思う。特に酒造にとっては、蒸すことによってデキストリンとなった米澱粉を糖化してその糖を酵母菌がアルコールに変えるという同時進行の離れ業に有効であるとされる。てきぱきと作業するには箄内蔵方式が良いように思われる。(筆者には化学はわからないので研究書を当たられたい。)
 竈に嵌め殺しで築かれた甕に常に水が張られて湯が沸いており、そこへ甑を載せるとすると、どちらも土器である甕と甑の間の隙間から湯気が逃げて行くから、コシキワラノハヒ(甑帯灰)というものが、甕と甑との間の隙間を埋めるためにあてがった藁の焦げではないかとの想定もできる。いずれにせよ、現状では机上の論にすぎない。
液体を濾過(画像石、中国山東省嘉祥県出土、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
(注7)佐々木幹雄「三輪君と三輪山祭司」日本歴史第429号(吉川弘文館、1984年2月)、和田萃「三輪山祭祀の再検討」『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 下』(塙書房、1995年)。三輪山から出土した須恵器74点の大半は陶邑に由来しており、陶邑で焼成された須恵器を用いての三輪山祭祀は、5世紀後半から始まり、6世紀前半、6世紀後半がピークで、7世紀には急速に衰退したようである。この考古学的事実と、古事記に残る三輪山伝承とを勘案して、“歴史”的経緯を見出そうとするのは有りがちな議論である。佐々木先生ご自身、「伝承と史実とが混乱してくる」(27頁)ことを恐れられている。三輪山神婚譚は、「神と巫女との関係を神話的に表現したもの」として処理されている。話(咄・噺・譚)なのだという融通が利かなくなっている。筆者は、歴史学的なものの考え方をする立場にない。記紀万葉をありのままに読むことを念頭に読解を行っている。近代の歴史学や神話学というフィルターがいったんかかったら、もはや上代の人の心に触れることはできないと考える。
 和田先生のあげられている疑問点を記しておく。「[①]三輪山山麓集団の実態は何か、[②]須恵器が堅牢で祭器として優れていても、そのことが何故陶邑と三輪の集団を結び付ける機縁となりえたのか、[③]渡来系氏族を母体とする三輪君がどうして『君』姓のカバネをもつのか、[④]六世紀以降、三輪山祭祀が国家的祭祀として行なわれたものとすれば、どうして三輪の神が国つ神として位置付けられねばならなかったのか、等の疑問が残る」(45頁)とある。いま、筆者にすぐ用意できる回答としては、①は関知しない。②はスヱとミワという言葉が縁語だからである。③は「猿女『君』」と同等の事柄として研究すべき課題であろう。④は本稿の中心テーマである。ミワとは、半月(はにわり)、黄門、paṇḍakaと深い結びつきがある言葉で、交わることが禁忌とされてしかるべき祓えの対象、国つ罪であり、国つ罪に対するのは国つ神なのである。異種交配のタブーがついて回る場所がミワという地だから、誰が祭祀しようが、国つ罪であることに変わりはない。罪の種類によって神の種類が変わってくるということであろう。
(注8)田中保「絵巻物のなかに描かれている牛車(ぎっしゃ)の表現」『名古屋大学教養部紀要B(自然科学・心理学)』第28輯(昭和59年2月)に、「絵巻物のなかに描かれている牛車の輻は、刻明に1本ずつ描かれているものもあるが、他の物のかげになったり、疾走中の様をあらわすため輻が流してあったりして、その本数を数えられないものもある。ここでは数えることのできた8絵巻、28台についての調査結果を述べる。……輻数はすべて3の倍数になっている。……牛車の輪の構造から……部材の1片から3本の輻が出るので、輻数=3×(部材……の片数)が忠実に描かれているのではないかと考えられる」(30頁)とされ、実際に絵巻物の絵のなかの車輻の数を調査されている。それによると、
 伴大納言絵詞21本1台
 吉備大臣入唐絵詞24本1台
 年中行事絵巻(住吉本)21本7台、24本1台
 北野天神縁起(承久本)24本1台、33本2台
 西行物語絵巻21本1台
 駒競行幸絵巻24本1台
 平治物語絵巻18本1台、21本5台、24本5台
 小野雪見御幸絵巻24本1台(別場面で23本に誤る)
となっているという(31頁)。3の倍数である点は、作り方を知っていればそう描くであろう。そして、いちばん外側の輞の部品、大羽に3本ずつ、輻が対応するように装着させるパターンから、やはり輻を伴う車輪が「三輪」なのだと納得がいく。
「京町家はいま」サイト様より
 しかし、周礼・考工記に忠実な、ちょうど30本の例が見られないのは不思議である。(注9)に示すとおり、90は卆で縁起が悪いと言い伝えられて避けられているのであろうか。他の絵巻にも牛車は描かれているから、調査する価値はありそうである。なお、井上尚明「描かれた車と道」『古代交通研究』(第13号、2004年)は数え方が違うようである。
(注9)「卒」のシュツ(シュチ)の音は、ヲハル、ツキル、シヌの意である。爾雅に、「卒 尽也、已也、終也、死也、既也」とある。万葉集では、題詞に、「石田王卒之時丹生作歌一首」(万420)、「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」(万423)とある。「卒(みまか)りし時に」と訓むのが通例である。ほかに、「坂本財臣卒りぬ」(天武紀元年五月条)、「凡そ百官身(み)亡(まう)しなば、親王及び三位以上は薨(こう)と称せよ。五位以上及び皇親は卒(そち)と称せよ。六位以下、庶民に達るまでは死と称せよ」(喪葬令)とある。
 扶桑略記第廿九、康平三年(1065)条に、大僧正明尊の九十の賀の記録がある。「十一月廿六日、関白従一位〔経通〕於白河別業大僧正明尊九十之筭。図-絵釈迦如来像一鋪。書-写妙法蓮華経九十部。其詞曰。伏惟大僧正法印大和尚位。戒定瑩器。忍辱裁衣。一乗圓融之嶺、開顕之花春鮮。五部惣持之園、智慧之菓秋盛。旁究学海之波浪、早為佛家之棟梁。弟子従弱冠之始、迄携杖之今、依其護持之力、全此愚昧之身。方今和尚春秋之筭。九旬全盈、可喜可懼、正是其時也。仍掃白河之勝形、敬致丹地之懇念。彼姫公旦之在洛邑也。未花文於禅林之月。智法師之老蘇州也。誰賀松年於巨川之波。今日之事少超古人。又源亜相〔師房〕述和歌序、其詞云、三冬之仲、子月下旬。関白尊閤忽排白河之花亭。設緇素之宴席。盖賀大僧正法印和尚九十筭也。和尚戒定内明。智行外朗。早為一宗之棟梁。久経数代之朝廷。過八十八廻、如来猶以不尓、超九々九歲、筭師所量也。是以因无漏无為之功徳。證不老不死之妙文者歟。遂感希代之鶴齢、命佳会之鸚盞。〈已上〉左大臣〔教通〕以下皆参。
 如来がそうではなく、筭師も計算できない年齢まで生きることは、人の齢の概念を打破する。今までの考え方をヲハリ(卆)にしなければならないということか。霊異記・上・第五話に、「[大部屋栖野古(おほとものやすのこ)]春秋九十余にして卒(みまか)りき」とある。「よみがえりの連(むらじ)の公」のお話である。
(注10)木下武司『万葉植物文化誌』(八坂書房、2010年)に、「おそらく、古代から室町時代までは、シログワイとクログワイの両方を、クワイと総称していたと思われる。中華料理の食材にある黒慈姑は、……シロクワイの改良品である……。……『本草和名』、『和名抄』にクワイという名がありながら、万葉集ではなぜヱグと称したのだろうか。一つの考えとして、クワイは本草家の命名による烏芋という漢名に対してつけられた名であり、古くからある土名がヱグであったと思われる。ヱグイモすなわち『ゑぐい芋』の短縮形と考えられ、食べられるといってもかなりゑぐ味があり、かろうじて食べられるという程度のものであるから、正鵠を射た名といえるだろう。冬は食料の乏しい時期であり、米や雑穀の在庫が少なくなった場合、古代ではこんな芋でもご馳走であったにちがいない」(626頁)とある。筆者は、クワイがまずいかどうかについて、コメントを差し控えたい。命名については、クワヰという何とも元来のヤマトコトバ調でない点に、いわゆる和訓の臭いを感じている。
 また、日本風俗史学会編『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣出版、平成元年)に、「クワイは地下の塊茎を食用とするが、昔から正月のお節料理や三月の節供料理には欠かせなかった。香気が高く風味も高尚で、今では高級料理に用いられている。また、クワイは性欲を抑制する効があると信じられて、ことに僧徒に食され、さらにこの俗説にちなんだ艶笑小話もいくつか作られている」(117頁、この項、植木敏弌先生)とある。本稿の主張する三輪山伝説半月説に関わりがあるように思われてならない。
 また、ヱグシイモ、クワヰのヱグ味については、灰汁(あく)の味も思い浮かべられる。
饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11~10世紀、坂本キク氏寄贈、東博展示品)
 甗(ゲン)は釜と甑が一体のものである。一説に、異民族を狩ってその頭部を蒸したともいわれる。「饅頭」にある「頭」字の由来なのだそうである。ところが、蒸すのに重要な蓋の仕方がよくわからない。蓋の素材が何か、また、把手を避けて蓋をするにはそれなりの仕方でなければならない。筆者の推測では、蓋は青銅ではなく木製で、落し蓋に見えるような入り方ながらご飯を炊く時に用いるようなある程度厚い蓋ではなかったかと思う。この、沸いている湯へ血が滴り落ちていたことをヤマトの人が伝え聞いて、とても野蛮な行為、“ひとでなし”であると感じていたとすると、(注25)に示した3つの波紋円の重なり合いによるクワヰの葉の形の出来上がりについて、甗の下部の鼎のような三脚のつくりからして、甗のなかを見るような思いがしたということになる。血の湯のアクの残り方が、蒸発により湯量が減るにつけてそのようになる。アクに関する語に次の例を見る。第一例は本文と重出である。

 醅〈釃字附〉説文に云はく、醅〈音典、盃に同じ、漢語抄に加須古女(かすこめ)と云ひ、俗に糟米と云ふ〉は醇(かたさけ)の未だ釃(した)まざる也といふ。唐韻に云はく、釃〈所宜反、又上声、釃酒 佐介之太无(さけしたむ)、俗に阿久(あく)と云ふ〉は酒を下む也といふ。(和名抄)
 灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久(あく)〉は淋灰〈阿久太流(あくだる)、上、音林〉といふ。(和名抄)
 鐖 アグ(釣針の返し)
 悪 アク(三宝絵上(984年訓))

 酒をシタムと、漉す器の箄(したみ)のいちばん上に輪状に白くアクが残る。灰汁は、上澄みの水を媒染剤などに用いる。植物のなかに含まれるえぐみや、肉を煮た時の肉汁の表面に浮かぶ茶白い泡もアクという。冷しゃぶを作った後、鍋の水面すれすれに汚れの輪がついている。同じことが甗の鬲(レキ)の部分でも起こって、人でなしとは「三輪」なのだということである。釣針の返しの民俗用語にアグというのは、腸抉の矢の返しと同じ効果がある。魚は一度飲みこむと、吐き出そうとすればするほど引っ掛かって取れにくく刺さっていく。道徳的に悖ることが漢語の「悪(アク)」である。本稿で述べた事柄と合致する意味ばかり登場している。
(つづく)
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学習院大学史料館「君恋ふるこころ」展の銀製雛道具について

2016年10月09日 | 無題
銀製雛道具(山階鳥類研究所蔵、学習院大学史料館保管、江戸時代後期~明治時代、お土産絵葉書より)

向かって左前方に水回り、右側に文房具の配置です。
正面中央の高いところに懸けられている手鏡は、いちばん手前のケースにきちんと納まるように作られているのでしょう。
その鏡箱の向こうにキューブ状の蓋のついたものがあり、何のつもりだろうか? と思いました。
そのすぐ左にある丸いものは口をゆすいでペッとするもののようです。
好青年のスタッフさんにお尋ねしたところわざわざ問い合わせて下さり、このとても小さな立方体に近い箱はお化粧箱とのことでした。

ということは、元の物として考えたとき、
櫛が入っていたであろうから、そのための櫛笥が入るようになっていたのでしょう。
白粉(おしろい)が入っていたであろうから、そのための白粉箱も入っていたのでしょう。
筆も欠かせないから、そのために整頓されるようになっていたのでしょう。
すると、中蓋があって、あるいはそれに仕切りが設けられていたのかもしれません。
カミソリや毛抜きなどは、中蓋を外した底に布かなにか敷いてあってそこへ入れるのでしょう。

当然、雛道具にもそれが再現されて漆器などで作られていたことでしょう。
それがさらに銀製となって、貴金属だからとても小さくなってしまったのか知れませんが、
雛飾りのさらなるミニチュアとして几帳面に匠の技が施されているのでしょう。
あの小さな立方体の蓋を開けてみると、精巧に作られた中蓋が嵌まり込んでいるのかもしれません。
ゆえに、蓋がひと回り大きく作られて、折敷を伏せたような感じになっているのでしょうか?

などと愚にもつかぬことを考えながら頂戴したパンフレットをよくよく見ていると、写真のスペックに、
「(最小、白粉箱)縦0.8cm 横0.9cm 高0.8cm (最大、衣桁)幅4.7cm 奥行1.9cm 高5.1cm」
とありました。
最小の大きさが書いてあるのだから、残念ながら分解はできないようです。
しかし、「白粉箱」となると、白粉が満タンに入っていたのでしょうか。
白粉ばかり大量に持って行ったお嫁さんは、色黒だったのでしょうか。
白粉の毒性も気がかりです。
大きさ的にも筆とパレットと白粉だけ入れて、他の化粧道具は右奥の蒔絵の棚に置いてある箱にしまったのでしょうか??

蓋がひと回り大きいのは、中にカワラケが入っていてワレモノ注意! を示唆します。
下から持ちあげて水平を保て、ということです。
左横のうがいのお椀と対にしてふさわしいのは、お歯黒箱ではないでしょうか。
黒地葵紋牡丹唐草本金蒔絵附子箱(縦5.7㎝ 横5.7㎝ 高5.8cm、個人蔵、東京税理士会日野支部サイト様)
オハグロのカネイレ(お歯黒の鉄漿入れ)(砺波市権正寺、箱:漆黒塗、縦18cm 横14.8cm 高14.5cm、壺:高8.5cm 最大径7.7cm、砺波正倉サイト様)
ほかに蓋をひと回り大きく作る真四角なものとしては、箱膳の可能性(いじめられたら一人で食べよ)もあるかなどと、変な方向へも考えがめぐりました。でも、縦×横×高さがほぼ同じ箱膳なんてありませんね。
目の前に展示されているのに、小さくてくわしくは見えませんから、単眼鏡をご持参の上ご見学ください。
そして、白黒はっきりさせてください。

銀製雛道具については、その季節になると三井家や鍋島家、羊羹のとらやのものが展覧会で見られます。
お化粧箱等については、唐花唐草蒔絵手箱(熊野速玉大社)、梅蒔絵手箱(三嶋大社)、古神宝類(阿須賀神社伝来)、豊姫婚礼調度(東博蔵)を参考にしました。

学習院大学史料館「君恋ふるこころ」展は、~12月10日(土)10時~17時(日・祝と10月21日、11月3~7日は休館)です。
10月29日(土)と11月19日(土)の14時からギャラリートークも予定されています。
入場無料、事前申し込み不要です。
教育機関に在ります。慎んで行動しましょう。
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三輪山伝説 其の四(紡錘車(ツミ)=罪、腸抉(わたくり)の矢)

2016年10月06日 | 論文
(承前)
 ミワが罪と関わる点については、その紡錘形の形状とも関係があろう。「閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)」は、麻糸の製造工程のうち、繊維をつなぎあわせて半製品としたものである。次に、糸を撚る作業が控えている。絹と比べたとき、必ずしも均質とは言い難い麻も、撚りをかけていけば糸となって切れにくさが激増する。織物にも、また、釣糸のような糸単体としても便利である。ヘソは水に浸され、あるいは口でなめて、湿り気を含ませてから撚りをかける。湿り気がないと撚りをかけた時に撚りが安定しない。乾いていく過程で撚られた状態のまま繊維の絡み合いが定着し、強度が増す。水にじゃぼんと浸けられて湿っているから、床の前に散らされた「赤土(はに)」がついてくることになる。乾いた緒のままなら、「赤土」はついて来ない。話の素材として何の役割も果たさない。また、糸に撚る前の段階で針に緒を通すことはふだんはしないから、「針に貫」いていると断っていることは、話に種も仕掛けもあるとの明言になる。
紡錘車を使った糸撚り(小松茂美編『日本の絵巻4 信貴山縁起』中央公論社、昭和62年、103頁)
 鉤穴を控き通り出て行った紡麻には、撚りがかけられて行っていると想像される。上にみたとおり、鉤穴を通る際、クルル鉤を操作している。くっついている紡麻も結果的にくるくるっと回されたであろう。撚りのかけ始めである。三輪山が紡錘形をしているということは、三輪山のなかに紡錘車が隠れていて、くるくると廻しながら糸を撚っていって形作られたもの、それが三輪山であると思われたのであろう。紡錘車は、紡茎と紡輪とからなり、紡茎を回転軸、紡輪を回転盤とし、紡輪はその重さのために遠心力を生んで回転がスムーズにすすむ(注22)。糸撚りは指先でひと撚りひと撚り行うことも可能であり、行われることもあるが、紡錘車という道具のおかげで画期的に生産性が上がった。紡輪には石製、土器製、木製、金属製、種々出土する。重みがあるほど回転の勢いはつく。まことにありがたい輪であるといえる。それが、ミ(御)+ワ(輪)という名と重なったとき、人々の脳裏には、ミワという地は紡錘車で糸を撚りあげた形をしているのだと認識されるに至った。あくまでもミ(三)+ワ(輪)とこじつけたい場合、紡茎が第一のワ(輪)、紡輪が第二のワ(輪)、撚りあげられて巻き取られた糸が第三のワ(輪)に相当するとも考えられる。
 その紡錘車のことは、古語に、ツミ、ツムなどと呼ばれる。和名抄に、「鍋〈紡績附〉 字書に云はく、鍋〈音戈、字亦θ(木偏に咼)に作る。漢語抄に都美(つみ)と云ふ〉は紡車の絲を収むる者也といふ。唐韻に云はく、紡〈芳両反、豆无久(つむぐ)〉は續[=績]む也といふ。蒋魴切韻に云はく、績〈則歴反、宇无(うむ)〉は麻苧を續む名也といふ」とある。ここに、ツミと呼ばれたところから、それがツミ(罪、ミは甲類)であると洒落が想定されたことは理解されよう。本当なら指先で手撚りしなければならないところを、手抜きの作業を犯している。「手末(たなすゑ)の才伎(てひと)」(雄略紀七年条)とは、手の末の爪(つめ)自体が離れて道具化して効率的に糸を撚ったり布を織ったりする手品師のような存在である。効率重視への反省が古代からあったかどうかは知れないが、少なくとも駄洒落レベルでは、三輪山の紡錘形は、紡錘車のツミによって撚られて積み上げられており、罪深い場所であると感じられたであろう。ツミ(積、ミは甲類)とも音が合っている。なお、ツミ(紡錘車)のミの甲乙は知られないものの、ツメ(爪、メは乙類)と関係するツム(摘)という動詞に関係する語ならば、その連用形ツミのミは甲類となる。
 三輪山は、紡錘車によって糸が撚りあげられた形である。三輪山伝説に、「三勾」残してすべては「三輪山に至りて神の社に留」まっている。そこで糸作りの工程はひと段落を迎える。紡錘車を使うのはそこまで、それで終っている。留まらせて、乾いてくるのを待ち、糸の撚りが安定すれば、今度は桛(かせ)にかけて巻き直される。つまり、此処(ここ、コはともに乙類)にあった麻(そ、ソは乙類)が終わって已んでいる。これは、漢字一文字で表せば、「卆」である。「九十」はヤマトコトバにココノソ(コはともに乙類、ソは甲類)である。また、上述の箄(したみ)に「下」のニュアンスがあった。説文に、「丅 底也。指事。下は篆文に丅なり」とあり、「底 山居也。一に曰く、下也と。广に从ひ氐声」ともある。米を研いで箄にあげて水を切ることも、濁り酒を漉して絞ることも、「下む」ことは底に至って山居することになる。いま、「閇蘇の紡麻」は三輪山で山居している。三輪山が酒造と関係したり、此処の麻(ここのそ)が九十(ここのそ)となって、近称から中称へと転移し、あるいは前出の語句を受けて、「彼処(そこ、ソ・コは乙類)」にあるのは、「底(そこ、ソ・コは乙類)」に至りついたということである(注23)。天才的な頓智、叡智といえよう。
 究極に到り着くこととは、月(つき、キは乙類)が満ちること、それは尽き(キは乙類)ることが満ちるという自己撞着的な表現になる。ミツ(満、ミは甲類)と同音がミツ(三、ミは甲類)、つまりミツキ(三月)の90日が表わされているし、同音のミツキ(御調、ミは甲類、キは乙類)、貢納品を示唆する。穢れを祓うために代償として貢ぎ物を神に差し出したことが、後に税として公のために朝廷に献上する物品となった。白川、前掲書に、「古くは祭祀の料として納入したもので、もとは宗教的な行為であった」(724頁)とある。自己撞着までをも御破算で願いましてはにするのが、祓の本質ということになる(注24)
 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)は、崇神紀の記述から、「ここでは特に大物主が蛇身であったとあるのに目を留めたい。この点、古事記はそうハッキリとはいっていないものの、『戸の鉤穴』から外に出ていったというのは、このものがやはり蛇身であるのを暗示する」(256頁)とする(注25)。雄略紀にも、

 天皇、少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじすがる)に詔して曰はく、「朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神の形を見むと欲ふ。或に云はく、此の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。或に云はく、菟田(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)なりといふ。汝(いまし)、膂力人(ちからひと)に過ぎたり。自ら行きて捉(とらへゐ)て来(まうこ)」とのたまふ。蜾蠃、答へて曰(まを)さく、「試に往きて捉えむ」とまをす。乃ち三諸岳に登り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて天皇に示(み)せ奉る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精(まなこ)赫赫(かがや)く。天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中(おほとの)に却入(かく)れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。(雄略紀七年七月条)

とある。これらの蛇身は大物主神を“表現”したものと考えるのが適当であろう。「白き猪と化れるは、……其の神の正身(むざね)」(景行記)、「形は我が子、実(むざね)は神人(かみ)にますこと」(景行紀四十年七月条)、「主神(かむざね)の蛇(をろち)と化(な)れる」(景行紀四十年是歳条)などといったムザネは、ミ(身)+サネ(核)の意とされている。三諸山、三輪山のムザネについて言及されることはない。表面上の見かけとして蛇がとぐろを巻いたように、紡錘車に撚り紡がれた糸が積み上がるようになっている。それを表現として使っている。古語にワダマル、ワダカマルという。新撰字鏡に、「蟠 扶園反、曲也、委也、鼠員虫也、屈也、為κ(鼠偏に番)、字又λ(虫偏に黍)μ(虫偏に員)也、志自万留(しじまる)、又和太万留(わだまる)」、和名抄に、「蟠 野王案ずるに、蟠〈音煩、訓和太加末流(わだかまる)〉は龍蛇の臥す皃也とあんず」とある。ワダマルという言い方は、ワ(輪)+タマル(貯・溜)という語呂からわかりやすい。残ったのは「三勾」だけで、すべて三輪山のほうに貯まっている。また、ワダカマルという言い方は、ワ(輪)+タカ(高)+マル(円)という語呂からわかりやすい。そして、本体が鉄でできているクルル鉤の形状は、蛇がとぐろを巻こうとしている様にもよく合致している。活玉依毘売は、残った「紡麻」の「三勾」から、輪を手繰って探しに行っている。ワ(輪)+タクリ(手繰)である。近世に木綿の製造工程で、綿繰(わたくり)という機械が用いられるが、それとは異なり、紡錘車によって糸を撚っていくことも、三輪山伝説の話からワタクリであると言えよう。
 そのワタクリという語は、同音に腸抉(腸繰)がある。伊勢貞丈・貞丈雑記・巻之十・弓矢之部に挿図が示されている。弓の矢に鏃に返し(返り)のついたものである。弓矢は、矢羽の仕掛けによってぶれずにまっすぐ飛ぶように回転が掛かっている。糸に撚りをかけるのと理屈は同じである。糸が糸として安定して丈夫なのは、撚りをかけていくとその撚りが戻ろうとする力が働くことによって、自ずと撚りが定まる仕掛けゆえである。腸抉の場合、刺さる時には回転が掛かって捩れながら刺さる。むやみに抜こうと引くと、返しが肉や内臓を傷つける。これはクルル鉤の原理にも同じである。鍵穴にちょうど合わさるように挿し入れ、捩じり回し、元のとおりに戻して引き抜かなければならない。鏃の返しの仕掛けは古く、石鏃の考古品にも見られる。
島田勇雄校注『貞丈雑記3』(平凡社(東洋文庫)、1985年、108頁)
石鏃(佐倉市下志津新田神楽場遺跡、小野良弘氏旧蔵、国学院大学博物館展示品)
 糸の撚りが戻ることで安定するという語義は、言葉の上で、道徳的に悖ることと密接な関係にあるのであろう。白川・前掲書に、「『もとる』は曲ν(手偏に戾、捩の旧字)(きょくれい)、むりにまげねじらせること。正常に反して罪を得ることをいう。『もどる』は『ν(もぢ)る』『擬(もど)く』と同根の語で、『文(もどろ)く』系統の語であろうが、のち『もとる』と混じて『もどる』となった。『戾(もと)る』が『ν(もぢ)る』となるのと同様である」(754頁)とある。腸抉の鏃の形は、三菱形に近く、三角形に尖ったオモダカやクワイの葉茎の形に相同している。一度刺されば引き抜こうとするほどに、鬼のように痛い矢、元に戻すのが耐えられない矢ということである。焼夷弾や化学兵器のように人道的に悖る、人でなしの武器である。漢字の「人」字に似るが、意味の上では人間らしさを失っている。人のようで人でないから人でなしであり、それは鬼という言い方が適切であろう。人神が祟り神となっているとてつもなくいやらしい存在、厭わしい存在ということである。白川・前掲書に、「『いと』の語源は知られない」(121頁)とあるが、筆者は、語源のことはともかく、上代に、忌み嫌う意味の「厭ふ」ことと「糸」とはニュアンスに関連があると感じられていたのではないかと考える。
オモダカ紋鏡(江戸時代、国学院大学博物館展示品)
糸作りの図(画像石「曾参の母」中国、後漢時代、1~2世紀、山東省嘉祥県出土、東博展示品。筆者はここに紡錘車を確認しない。)
 紡錘車に撚りをかけた糸は、乾いたら桛(かせ)に巻き返す。桛とはH型をした木枠で、罪人を拘束する際に嵌めた枷(かせ)に形状、様態が同じなのでそう呼ばれたようである。罪の文脈がついて回っている。カセ(桛・枷)によって糸を巻き返すことは、ツミ(紡錘車・罪)を挽回するという意味合いを感じ取っていたのであろう。枕詞ミモロツクの例に、

 …… 三諸着く 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 咲く花の ……(万1059)

とある。ミモロツクは他に「三輪山」(万1095)にもかかる。地名「鹿背山」の音、カセ(桛・枷)つながりで冠されているものと考えられる。
 糸を桛からはずしてばらけないように捻りを加えたものが綛糸(かせいと)で、糸の染色はこの段階で行う。枷は凹型の板木2枚を使って首に巻くようにかけ、両者を固定して動こうにも重くて下が見えない。拘束具として使われた。本邦では縄で後ろ手に縛りあげる技術が巧みになり、近世には常用された。腕に綛糸を巻き返す風情が、後ろ手でクロスしていると思えばいい。一方、首枷の例も見られる。そのなかに、連枷と呼ばれるものがある。2人を前後にいっぺんに拘束して搬送するのに用いられた。中国では異民族との戦いで奴隷として内地へ送る際、使われたようである。この「連枷」という語は、もともと農具の唐竿(からさお)のことも指した。説文に、「枷 ξ(木偏に弗)(からさを)也、木に从ひ加声、淮南に之れをπ(木偏に央)と謂ふ」、「π 禾を撃つ連枷也。木に从ひ弗声」とある。和名抄に、「連枷 陸詞切韻に云はく、連枷〈下音加、賀良佐乎(からさを)〉は穀を打つ具也といふ。釈名に云はく、枷は加也、柄頭に加へ、穂をρ(木偏に咼)(う)〈陟爪反、打つ也〉ち穀を出す所以(ゆゑ)也といふ。或に曰く、羅枷三杖にして之れを用うといふ」とある。和名抄に、拘束具の方は、「盤枷 唐令に云はく、若し鉗無き者は盤枷〈音加、日本紀私記に久比加之(くびかし)と云ふ〉を著けよといふ」とある。「鉗」は「釱」とも書くカナキのことを指す。農具の方は、民俗用語でクルリ棒、メグイ棒(回(めぐ)り棒)などとも呼ばれる。豆類の脱粒や麦などの芒落としに長く活躍した。古代はともかく、本邦の稲品種の脱穀には向かなかったようである。持ち手と叩き棒との間に軸が入っていて、車のようにくるくる回る仕掛けになっている。これを当時の人が、霊験あらたかな輪、ミ(御)+ワ(輪)とか、回転軸となるワ(輪)、それに巻きつける握り棒側のワ(輪)、叩き棒側のワ(輪)の3つのワから、ミ(三)+ワ(輪)と捉えたかどうかはわからないが、穀物を百叩きの刑に処するのに力の要らない優れものであると思えたことは首肯できよう(注26)
地蔵菩薩霊験記絵巻(紙本着色、鎌倉時代、13世紀、妙義神社蔵、妙義町誌編さん委員会編『妙義町誌(下)』平成5年、付録)
十王経図巻(紙本着色、北宋、10世紀中頃~末期、ロデリック・ウィットフィールド編・解説『西域美術2 大英博物館スタイン・コレクション 敦煌絵画Ⅱ』講談社、1982年)
唐竿(須藤功『大絵馬ものがたり1 稲作の四季』農山漁村文化協会、2009年、127頁)
 三輪山伝説の「床前」から「美和山」へ通り出て行ったのは「紡麻(うみを)」であった。三輪山の神は大物主神で、何か知れない鬼的存在である。万葉集の歌の用字の「鬼」は、一つもオニとは訓まない。モノ(万547・664・1350・1402・2578・2694・2717・2765・2780・2947)、シコ(万117・727・3062・3270(醜の意か))、「餓鬼(がき)」(万608・3840)、マ(万3250(魔の意か))とある。紀でも、「葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむ」(神代紀第九段本文)とある(注27)
 三輪山に関する他の伝承も、同じモチーフを別の表現にして表した展開形であると知れる。

 此間(ここ)に媛女(をとめ)有り。是、神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三嶋の湟咋(みぞくひ)が女(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、其の容姿(かたち)麗美(うるは)しきが故に、美和の大物主神、見感(みめ)でて、其の美人(をとめ)の大便(くそま)らむと為(せ)し時に、丹塗矢(にぬりや)と化りて、其の大便らむと為し溝より流れ下りて、其の美人のほとを突きき。爾に其の美人、驚きて、立ち走りていすすきき。乃ち、其の矢を将(も)ち来て、床の辺に置くに、忽ちに麗しき壮夫(をとこ)と成りき。即ち其の美人を娶りて生みし子の名は、富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)、亦の名は、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂ふ。是は、其のほとと云ふ事を悪みて、後に改めし名ぞ。故、是を以て神の御子と謂ふぞ。(神武記)
 是の後、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)、大物主神の妻(みめ)と為る。然れども其の神常に昼は見えずして夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命、夫(せな)に語りて曰く、「君常に昼は見えたまはねば、分明(あきらか)に其の尊顔(みかほ)を視ること得ず。願はくは暫(しまし)留りたまへ。明旦(くつるあした)に、仰ぎて美麗(うるは)しき威儀(みすがた)を覲(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。吾、明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏(うち)に密に異(あやし)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂(まこと)に美麗しき小蛇(をろち)有り。其の長さ大(ふと)さ衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。時に大神恥ぢて、忽ちに人形(ひとのかた)に化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、「汝、忍びずして吾に羞(はぢみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命、仰ぎ見て、悔いて急居(つきう)。急居、此には菟岐于(つきう)と云ふ。則ち箸に陰(ほと)を撞きて薨(かむあが)りましぬ。乃ち大市(おほち)に葬りまつる。故、時の人、其の墓を号けて箸墓(はしのみはか)と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(つ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。(崇神紀十年九月条)

 神武記に、「丹塗矢」とあるのは、腸抉の矢のことである。崇神紀に、「櫛笥」に入っていたのは、クルル鉤に準えたくねった様の蛇である。「人形」となったとあるのは、人の形をして人ではない、人でなしの鬼の形容である。祓の行事では、古くから人の形に似せた形代を用いている。夏越の祓の茅の輪くぐりと並立する手法であった。人形代に息を吹きかけるなどし、それを流すことで穢れを“水に流す”のである。逆言すれば、水に流せる程度のことが、祓の対象の罪なのである。
木製人形代(袴狭遺跡、奈良~平安時代、兵庫県出石郡出石町、兵庫県教育委員会蔵、国学院大学博物館展示品)
 和名抄・祭祀具に、「偶人 史記に云はく、土偶人、木偶人〈偶、音、五狗反、俗に比度加太(ひとがた)と云ふ〉は、野王案ずるに、凡そ削り物を刻み人像と為(す)るを皆偶人と曰ふといふ」とある。現在は紙製のものが使われているが、古くは木製の人形代が多く、出土例もよく見られる。その形は漢字の「人」字に似ているが、少し脚の間に広がりがあるばかりである。木簡の下部を割り削ったような形状に見える。ヒトガタと呼びながら、金銅仏などに型を取って作る際のリアルさを欠く。まず、腕の形象が表現されていない。しかし筆者は、それで良いのだと思う。人形は祓に使うのが目的だから、罪を背負った罪人として表されたのであろうと考える。罪人は、本邦に特有の拘束の仕方、縄を使って後ろ手に手を縛り上げられる。つまり、罪を祓うのが目的の人形に腕が示されていては、かえって意味がないことになってしまう。今日、使われている紙製のそれは、古代よりも意味を込める意識が薄らいだ代物といえよう。
 以上が、三輪山伝説の語学的な考証である。ミワという言葉(音)は罪ある場所と解され、人々に祓の必要性を感じさせていた。そのミワという言葉(音)を話(咄・噺・譚)として展開したのが崇神記の三輪山伝説であり、神武記、崇神紀にバリエーションが見られた。言葉のやりくりとしていちばん出来のいい説話は、崇神記の三輪山伝説といえる。話(咄・噺・譚)のからくりのすべては、ヤマトコトバのなかにある。比較神話学や、漢訳仏典の表記法、東アジア世界に広がる似たプロットに由縁を探しても、三輪山伝説の理解にはほとんど役に立たない(注28)。なぜなら、当時のヤマトコトバに文字はなく、話(咄・噺・譚)として口づてに伝えるしかなかったからである。口づてに伝えるには、伝えたその場その場でなるほどと相手を納得に至らしめる手管、口管が必要である。納得が得られなければもはや覚えてはもらえず、次に伝えられることもない。お話にならないのである。そのためには、当の依って立つヤマトコトバにすがるしかない。すべては言葉のなかにある。話は言葉でできている。
((注)につづく)
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三輪山伝説 其の三(祓、半月(はにわり)(黄門、paṇḍaka))

2016年10月03日 | 論文
(承前)
 神祇令に、「凡そ六月、十二月の晦の日の大祓には、中臣、御幣麻(おほぬさ)上(たてまつ)れ。東西の文部(ぶんひとべ)、祓の刀(たち)上りて、祓詞(はらへごと)読め。訖(をは)りなば百官の男女祓の所に聚(あつま)り集れ。中臣、祓詞宣べ。卜部、解(はら)へ除くこと為よ。」とある。年2回の儀式であったが、宮中では中世には途絶えてしまった。各地の神社ではとり行われ、民間では茅の輪くぐりとしても伝わって来た。茅の輪の由来としては、蘇民将来との関係を示す用例が、釈日本紀の備後風土記逸文に残る(注11)。腰に小さな輪をつけてお守りとしたらしい。
 大森志郎『日本文化史論考』(創文社、昭和50年)に、三輪の大神神社と茅の輪行事との深い結びつきへの考究がある。「大和の三輪の大神神社の茅の輪行事は、おんぱら祭とよばれて……本社の第一鳥居の際で行われる。そこに綱越神社が祀られており、おんぱら祭は、綱越神社の例祭となっている。この、おんぱら祭という名称は、お祓の訛と思われるが、……厳密にいえば、祓は祭の一部というよりも、禊祓は祭祀を奉仕するための前提あるいは準備というべきで、祓そのものが祭祀ではありえないはずである。おんぱら祭という名は矛盾を含んだ名辞といわねばならぬが、庶民が祭という言葉を広義に用いるようになったものであろう。その祓の行事を司るために、特立の神社が存在するというのも、やや異様で、他に例を見ないが、これは大神神社にとって、この行事が重大な意味をもっていることを語るものと言えよう。そして綱越神社という名が、綱状のものを越すことを意味しておることは、大和の大神神社のなごしの人形・茅の輪くぐりの神事が、古くは輪ではなく、綱を越す形で行われていたことを推測させる。大神神社の祭神がよばいに通われたあとに糸の輪が三勾(わ)残っていたという、神婚説話と地名伝説と結合した、いわゆる三輪型神話は、この糸の勾は、スガヌキ・茅の輪と形を同じうし、この神の姿でもあったことに注目せねばならぬ」(91~92頁、漢字の旧字体は改めた。)とある(注12)
茅の輪(品川区・戸越八幡神社)
 茅の輪くぐりが縄跳びであったとは思わないが、重要な指摘が含まれている。お祓い自体が祭りであることの違和感をきちんと説明されている。人は何をするために神社を設けているのかについて、よくよく検討しなければならない。三輪の大神神社の場合、お祓いをするために、それが第一目的として存立していたと考え直さなければならない。そして筆者は、その茅の輪くぐりのくぐり方について思いをめぐらせている。左、右、左と8の字を描きながら回って最後は真ん中から向こう側へ抜け出る。なぜこのような方法がとられているのか、理解されていない。お祓いを受ける時も、神職が大麻(おおぬさ)を使って祓う時、左、右、左と祓う。神宮本庁の規定類集(昭和46年)に、「大麻 右手に下部を、左手にて上部を執り、胸の高さに、左高に捧げ持つ。之を以て祓ふには、大麻を立て、右手を上げ、左手を下げて、左右左と振る。畢りて元の如く捧げ持つ」(363頁)とある。いつからそうされているか、なぜそうされているか、“科学的”に解明されることはないであろう。けれども、推論として、いくつかの説はあげられよう(注13)。崇神紀には、崇神記の三輪山伝説の別バージョンがある。

 五年に、国内(くにのうち)に疾疫(えのやまひ)多くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。六年に、……。七年の春二月……。是の時に神明(かみ)倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に憑りて曰はく、「天皇、何ぞ国の治らざることを憂ふる。若し能く我を敬(ゐやま)ひ祭らば、必ず当に自平(たひら)ぎなむ」とのたまふ。天皇問ひて曰はく、「如此(かく)教(のたま)ふは誰(いづれ)の神ぞ」とのたまふ。答へて曰はく、「我は是、倭国(やまとのくに)の域(さかひ)の内に所居(を)る神、名を大物主神と為(い)ふ」とのたまふ。……殿戸(みあらかのほとり)に対(むか)ひ立ちて、自から大物主神と称(なの)りて曰はく、「天皇、復(また)な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意(こころ)ぞ。若し吾が児、大田田根子(おほたたねこ)を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平ぎなむ。……秋八月……布(あまね)く天下(あめのした)に告(のたま)ひて、大田田根子を求(ま)ぐに、即ち茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑむら)に大田田根子を得て貢(たてまつ)る。天皇、即ち親(みづか)ら神浅茅原(かむあさぢはら)に臨(いでま)して、諸王卿(おほきみたちまへつきみたち)及び八十諸部(やそもろとものを)を会(めしつど)へて、大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主大神と曰ひ、母をば活玉依媛(いくたまよりびめ)と曰す。陶津耳(すゑつみみ)の女なり」とまをす。亦云はく、「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の女なりといふ。……八年……冬十二月……天皇、大田田根子を以て、大神(おほみわのかみ)を祭(いはひまつ)らしむ。是の日に、活日(いくひ)、自ら神酒(みわ)を挙(ささ)げて天皇に献る。仍りて歌(うたよみ)して曰く、
 此の御酒(みき)は 我が御酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし御酒 幾久幾久(いくひさいくひさ)(紀15)
如此(かく)歌して、神宮(かみのみや)に宴(とよのあかり)す。即ち宴竟りて、諸大夫等(まへつきみたち)歌して曰く、
 味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出でて行かな 三輪の殿戸を(紀16)
茲(ここ)に、天皇歌して曰はく、
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮の門(みかど)を開きて幸行(いでま)す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖(はじめのおや)なり。

 ストーリーの展開の要旨は以上のとおりである。冒頭にあげた崇神記に、「……糸に従りて尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地を名づけて美和と謂ふ也」とあった。この記の記述には、大きな矛盾をはらんでいる。「美和山に至りて神の社に留」とある点である。今日、三輪に所在の大神(おおみわ)神社は、ご神体が山そのもので社はない。いつからそうなったかはわからないが、昔からそうだったのであろう。この記述には種も仕掛けもある。崇神紀の「神宮(かみのみや)」、「殿門(とのと)」という謂い方にも矛盾がある。矛盾を面白がったのが上代の人であり、有り難がってしまって“合理的”に解釈しようとして、不思議な考えをしているのが現代人である。小学館の新編日本古典文学全集『日本書紀①』頭注には、「三輪山自体が神体なので神殿はなく、神殿で宴することはないから、この『神宮』は次の歌の『殿門』の語からみて『拝殿』であろう」(275~276頁)とある。拝殿は「人」の「宮」であって、「神宮」にならない。「神楽殿」が神楽舞をするところで「神宮」に当らないのと同じである。よって崇神紀の「宮」は、ご神体となる山(の麓)で蓆を敷いて幕をめぐらし、「宴」をしたことをそのように譬えたのではなかろうか。それが三輪山の禁足地などに見られる祭祀遺跡かどうかについては委ねたい。
 そう考えなければ、「神宮の門(と)」という言い方が生きて来ない。大神神社には、三ツ鳥居という一風変わった鳥居がある。鳥居の形が3つ、中央の大きなものの左右に小さなものがついていて、それぞれが門となって扉が付いていたはずである。崇神紀の記事は、「三輪の殿戸を」と記されており、御殿にあるような「殿戸」を出て行こうぞ、と歌っている。「殿門」は立派であることを示している。拝殿の外側にある門ではあり得ない。大神神社に特徴的な三ツ鳥居しか該当する門はない。とともに、建物としての本殿がないことを婉曲的に物語っている。ふつうに「社」があるなら、ふつうに「門」がある。それ以上にもそれ以下にも表現しないであろう。では、その「三輪の殿戸」をどのような作法で出て行ったか。
 茅の輪くぐりのように、左、右、左と8の字を描きながら出て行ったと推測される。そうでなければ、三ツ鳥居をくぐって出て行ったことに当たらないと感じられたのではないか。現在、図面上でも現実にも、大神神社の三ツ鳥居は、中央の大きな鳥居の下だけが門になっており、左右の鳥居の下には両側の塀が続いてきている。しかし、他の神社の三ツ鳥居の例からも、鳥居の下は3つともくぐれるものでなければ言を事とする言霊信仰に適わないように感じられる。中山和敬『大神神社 改訂新版』(学生社、1999年)にも、「両方の脇鳥居には扉がなく、瑞垣と同形式の透塀で塞がれており、まことに奇異の感をうける」(148頁)とある(注14)。つまり、ミワというスヱをイメージさせる場所は、お祓いをしなければならないところであり、その作法(事)をもってミワという言葉(言)を贖った。言霊信仰にしたがうと、そのように考えられる。茅の輪が血の輪との洒落をもって定着していることは以下に述べる。
 ところが、神祇令に祓を行事としているのは、六月と十二月の年2回である。特に、夏の季のそれは、夏越の祓として今日でも行われている。江戸時代の年中行事の図絵にも、神官の祓えの儀式と、茅の輪くぐりの情景とが二つながら描かれている。同じ目的で、2通りの形態が併存している。その間に矛盾はないと感じられ続けてきたのであろう。茅の輪くぐりの原初的形態としては、年中行事絵巻に描かれるような小さな輪を左足から、右足から、左足からとくぐることで厄払いとする風習のあったらしいことが伝わっている。
茅の輪くぐり(速水春暁斎『諸国図絵 年中行事大成』臨川書店、2003年、454~455頁)
夏越の祓(同上書、463~464頁)
茅の輪くぐり(小松茂美『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社、昭和62年、48頁)
 すなわち、いつの間にか、祓を行わなければならない時季が、年2回、それも季夏の六月、水無月(注15)がクローズアップされるに至っている。とても早い時期からそのような傾向にあるから、それにはそれなりの口語上の語学的理由があったと考えられよう。その発端は、俎上に載せている三輪山伝説にあったのではないか。
 意富多多泥古という人が神の子であると知れたのは、活玉依毘売が神と交わって生れた子であったからであると物語られていた。「麗美しき壮士」が「夜半之時」に現われたと語っている。「夕毎」に現われたという。活玉依毘売は未婚女性だから、当然、戸締りをしているはずである。それなのに、夜になると、「夜半」なのか「夕」なのか時刻は不定期ながら寝床に現われる。合鍵を渡していたとは記されず、どういうわけかわからないと言っている。とするなら、マスターキーのようなものを持っている門の管理人が怪しいということになる。後漢書・百官志三・少府に、「黄門侍郎、六百石。本注に曰く、員無し。左右に侍従して、中に給事し、中外に関通することを掌る。諸王の殿上に朝見するに及び、王を引きて坐に就かしむ、と。(黄門侍郎、六百石。本注曰、無員。掌侍-従左右、給-事中、関-通中外。及諸王朝-見於殿上、引王就坐。)」とある。ここに「黄門」とある官職名に使われる門は宮門の小門のことで、黄色く塗られていた。黄闥とも呼ばれる。その職は、後漢の時、宦官が担った。三宝絵(観智院本、984年)・下に、「カノ黄門ハツミ人の形也」とある。宮刑に処せられた宦官であることを本邦の人が認識している(注16)。宮門(注17)の開閉を掌る小者には、宦官が当てられたと理解されている。閹人とも呼ばれる。そして、仏教では、五種不男の第五番目の人(?)として記される。それを和名抄に、「半月 内典に云はく、五種の男ならざる其の五に曰く、半月〈俗に訛りて波迩和利(はにわり)と云ふ。或説に一月(ひとつき)三十日の其の十五日、男と為り、十五日、女と為りし義也と云ふ。〉といふといふ」とある。内典とは仏教経典のことである。仏教に、月のことは月輪である。
 名義抄にも、「半月 ハニワリ」とある。文献上の用例はほとんど知られない。狩谷棭斎の箋注倭名抄に、「按五種不男、見法華経安楽行品。記云、五種不男、生劇妬変半也。半謂半月。半月列在第五。此所引蓋是。又四文律云、黄門者、生黄門・犍黄門・妬黄門・変黄門・半月黄門。半月黄門者、半月能男、半月不男。亦半月在第五。十誦律云、五種五能男、二半月不能男、半月能淫、半月不淫、是為半月不能男。亦是事、然与此云第五同、又玄応音義云、般荼迦此云黄門、其類有五種、四博叉般荼迦、謂半月作男、半月作一レ女。注所引或説即是。広本或説以下作一云謂其体男而不男、一月卅日、其陰十五日為男、十五日為一レ女、名半月。按波邇和利、蓋半割之義」とある。
 サンスクリット語に、paṇḍaka を、般荼迦、半荼迦、半擇迦、半択などと漢語化し、意訳して黄門のこととしている。それをヤマトコトバにハニワリ(半月)と捉えている。ひと月のうち半分が男、半分が女のような存在、近代になって使われる、いわゆる男女(おとこおんな)である。京都方言に、はんなりと、という言い方があるが、その用語との関わりについて論じられている文献があるか管見にして不明である。後漢に、宦官の黄門は、宮門を自由に行き来している。閹人である。説文に、「閹 門の豎(こもの)也。宮中の奄、昏くなりて門を閉ぢる者、門に从ひ奄声」とある。門の鍵を預かっている。そんなハニワリ(半月)が「能男」となった時に、活玉依毘売は妊娠に至ったということであろう。「麗美しき壮士」の登場時刻は、「夜半之時」ないし「夕」であった。夜半は夜の12時頃、東の空に現われる月は下弦の半月、夕刻に天上に見え始める月は、上弦の半月である。何としても、「半月」をほのめかそうと試みている。
 活玉依毘売の父母は、初めから黄門役の「半月(はにわり)」を疑っている。「赤土(はに)」を床前に散らせている。和名抄に、「埴 釈名に云はく、土の黄にして細密なるを埴〈常職反、和名波尓(はに)〉と曰ふといふ」とある。記では「赤土」と表記されているが、意味的には黄色を意識している。赤色とのつながりは、月経時の血の色によるものであろう。そして、神妙ないでたちの裾に針を刺させている。朝には姿が見えなくなっているのは、朝には麻がどうなっているかという洒落でもあろうし、「鉤穴」を通り出ているということは、鉤を持っていたということの証拠である(注18)。「朝」、「麻」のアクセントは、LLで同じかと思われる。活玉依毘売が跡を辿って行っている際、それは、鉤を使って門が開けられていたということを言っている。彼女は鉤穴を通って見に行ったのではない。通れはしない。いつもなら閉まっているはずの門が開いていて、その開いている門を外に出て追跡している。「紡麻(うみを)」が鉤穴を通って出て行っているのは、紡麻が鉤に絡まっているから、門を閉めるはずであったところが閉まらずに、開いたままになってしまっていた。そういう事情を簡潔に表現している。
クルル鉤の出土品例(合田芳正『古代の鍵』ニュー・サイエンス社、1998年、92頁)
上:鈎穴、下:落とし(桟)(法隆寺金堂)
 古代の鍵は、2種類に大別される。第一は、海老錠式の錠前である。第二は、クルル鉤と通称されるものである(注19)。記に、「鉤穴」とあるから、門戸に施されるクルル鉤の鉤穴である。「落とし」や「桟」、または、「猿」などと呼ばれる錠となる桟を戸に設け、それを下の閾に開けた穴に下ろし、施錠するタイプである。開けるときは、鉤穴からクルル鉤と呼ばれる金属製の曲がった棒をさし入れ、桟の部分に上手に引っ掛けてひねりあげて門を開錠する。くるくるっと回すから、クルル鉤(クルリ鉤)と呼ばれ、その形もくるくるっと回ったような形状をしている。和名抄に、「鑰 四声字苑に云はく、鑰〈音薬、字亦η(門構に龠)に作る。今案ずるに、俗人、印鑰の処に鎰字を用ゐるは非也、鎰は音溢、唐韻に見ゆ〉は関具也といふ。楊氏漢語抄に云はく、鑰匙〈門乃加岐(かぎ)〉といふ」、「鈎匙 楊氏漢語抄に云はく、鈎匙〈戸乃加岐(かぎ)、一に加良加岐(からかぎ)と云ふ。鈎、音は古侯反〉といふ」とあり、正倉院文書にその助数詞を「勾」とする。
 記に、「閇蘇(へそ)」の緒が「三勾(みわ)」残ったと記す太安万侶のテクニックは鋭い。「勾」と用字を選ぶことによって、鉤穴を通っていく際のクルル鉤の様子まで表そうとしている。確実にそうであると言えるのは、それが門の鍵であり、その鍵が、クルルという回転を言い表しているからである。門戸の形状は、枢(くるる)によって観音開きとなっている。1つの門が中央で割れて開く仕掛けである。半割、ハニワリなのが宮門、黄門である。戸(扉)の上下に凸となる戸まらを付け、下の閾(しきみ)や唐居敷と、上の楣(まぐさ)や鴨居にあけた凹となる戸ぼそを穿ち、そこに嵌め込んで回転させる仕組みである。後世の城門に見られるような頑丈な蝶番は古代には見られず、重い門戸に対応できなかったようである。すなわち、枢戸(くるるど)にクルル鉤があるのは、言葉の上で当然のことである。その鍵を預かって自由に出入りしていたのは、観音開きという半分に割れる門戸にゆかりのある、半月(はにわり)といわれる paṇḍaka 、黄門に相当する輩であった。性器がホゾになったりマラになったりする“人”、ヨリ正確には“人でなし”である。
戸ぼそ後付け(横浜市金沢区・称名寺山門)
 半月(はにわり)は、月に半分男で、半分女と想定されている。つまり、「月」という女性の生理が、2カ月に1回しか訪れないということである。時間の経過が二分の一倍速である。となると、季節のめぐりも、はじめ(孟)、なか(仲)、すゑ(季)の3カ月サイクルが、6カ月サイクルへと転ずる。正月から始めて、6月の終わりがスヱに当たる。だから、祓の行事も、6月と12月の年2回でちょうど良いことになる。そして、半月(はにわり)などという、まことに祓をしなければならない対象に対しているのだから、本当のことである。仲哀記に、

 ……爾に驚き懼ぢて、殯宮(もがりのみや)に坐して、更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、種種(くさぐさ)に生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)・阿離(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこくなぎ)・馬婚(うまくなぎ)・牛婚(うしくなぎ)・鷄婚(とりくなぎ)・犬婚(いぬくなぎ)の罪の類(たぐひ)を求(ま)ぎて、国の大祓を為て、……(仲哀記)

とある。半月(はにわり)との交わりは挙げられていないが、変なクナギ(婚、タハケ)であることに相違なく、国つ罪に当たるのであろう。したがって、ミワ(三輪)と聞けば、お祓いをしようという気運が働いた。今日、三輪山は神の依りつく場所として崇められ、奉られ、とても神聖な場所とばかり捉えられているばかりであるが、上代の人にとっては、ミワ(三輪)という言葉(音)はまことに不適切で困ったところ、為にお祓いをしたくなるところ、お祓いのメッカとの印象があったのであろう。

 味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 忌(いは)ふ杉 手触れし罪か 君に逢ひ難き(712)

 万葉集の上の歌は、杉の木(注20)に触って神聖さを穢したというのではなく、ミワという穢れに抵触したことがいけないのである。罪になって、ないしは、罪人になって、すなわち、宮刑、腐刑にあったようなものである。男性ではなくなってしまったから、女性が逢ってくれなくなったと嘆いている。このあいだの勃起不全は、一時的なものであるとの言い訳が聞こえてくる。この解釈は、通説以上に古代的な通念が感じられて面白いものと思われる。恋人同士のエロチックな親密さも伝わり、大人の歌として評価されよう。
 女性の生理と月との関係が語られている。

 爾くして美夜受比売(みやずひめ)、其の意須比(おすひ=襲衣)の襴(すそ)に、月経(さはり)を著けたり。故、其の月経を見て、御歌に曰く、
 …… 汝(な)が着(け)せる 襲衣の襴に 月立ちにけり(記27)
 爾くして美夜受比売、御歌に答へて曰く、
 …… 我が着ける 襲衣の襴に 月立たなむよ(記28)(景行記)

 「襲衣(おすひ)」は記上の2番歌謡、万379歌にも見える。西郷信綱『古事記注釈 第三巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)に解説されている。

 襲(オスヒ) 頭からかぶって衣の上を蔽い、裾まで垂らした、後世の被衣(カヅキ)風のものといわれる。古事記では倭建命の歌……、万葉では大伴坂上郎女の祭神歌に「鹿猪(シシ)じもの、膝折り伏せて、た弱女の、オスヒ取り懸け」(三・三七九)とあり、さらに「延喜式」や「神宮儀式帳」などにその名が見える。これらからするとオスヒは婦人専用、それも主として祭式用であったらしく推測される。だが、かつては男もこれを用いたことは、女取王の「高行くや、速総別(ハヤブサワケ)の、御(ミ)オスヒ料(ガネ)」(仁徳記〔六七〕)という歌によって分る。男が女のもとに通うさいは顔を隠して行ったはずで、女鳥王が速総(隼)別のためにオスヒを織ると歌ったのも、彼が自分のもとにそれをかぶって通ってくるそのオスヒのことを意味しているに相違ない。八千矛神の出でたちもオスヒ姿であったことになる。オスヒはオソフ(重ねて着る)の名詞形オソヒの変形であろう。(93頁)

 延喜式・神祇・伊勢大神宮、「大神宮の装束」条に、「帛の意須比(おすひ)八条〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。虎尾俊哉編『延喜式 上』(集英社、2000年)頭注に、「古代の女性の祭祀衣装で、衣服の上にかける広幅の布」(231頁)とされている。女のもとに通うための女装の小道具に転用されることは容易に想像できよう。半月であった「麗美しき壮士」も、オスヒを着て活玉依毘売のもとに通ったに違いない。だから、父母は、その襴に針を刺せと命じている。「襴」のある衣装として、襲衣が一番適当であろう。「月立つ」こと、つまり、月経の跡がつく場所が、襲衣の襴として印象づけられていた。血が固まって血糊としてこびりつくから、針を刺しておいたときに引っぱられても抜けないはずであるという発想である。「閇蘇(へそ)」という言葉も、動物の臍に同じという気持ちがあったから、血液の臭いがしている。女性特有の血の話である。ふつう、真っ直ぐの針を刺して仮に皮膚から血が出ても、針は容易に抜ける。それが、血が固まって抜けない状態にある。まるい月が輪を示しているなら、それもミワ(三輪)であるなら、輻を備えた車輪のことである。その輻(や)と同音の弓矢の矢(や)が抜けないとの謂いとなる。半月とは弓張月のことである。たいていは、朔から数えて8日目、ヤマトコトバの数え方に、ヤ(八)である。当然、矢のことが頭に浮かぶ。それも抜くに抜けない腸抉(わたくり)の矢である。返しがついており、回転によって肉体にねじ込まれているから、引き抜こうとすれば断腸の思いがするほどに痛い。罪人に対する刑罰のようなものである。さらに後述する。
 上に、「卒」の異体字「卆」について見た。説文に、「卒 隷人の事に給する者を卒と為す。古、衣を染むるを以て題識す。故に衣一に从ふ」とある。卒という字が「衣」+「一」を初文とするという見解である。真偽のほどはともかく、説文は、ヤマトの人にとって漢字文化を訳すに当たって典拠とされていたろう。衣に印をつけたのは、奴隷であることを表すと言っている。江戸時代に島送りにされた囚人が、入れ墨を施されていたことによく似ている。襴に印があるのなら、隷人、ここでは宦官のような半月ということとわかるという落ちになっている。変てこな paṇḍaka のような隷人と交わってしまった。血の輪が襴についている。穢れを祓わなければならない。代償に茅の輪くぐりをすることにしよう。「血」も「茅」もチ(アクセントはともにH)で同じである。祓うこととは今でいうならお金を代わりに払うことである。仲哀記に見られるように、ふつうとは違うやり方で動物の皮を剥いだり、灌漑設備に変な工作をしたり、倫理的に間違ったクナギをしたからといっても、それはお金で贖えることと解釈されていた。謀反や殺人などとは異種の事柄と捉えられていた。もちろん、モラルハザードは許されるものではない。モラルが侵犯されると、侵された人だけでなく、周囲の人から赤の他人に至るまで嫌になってしまう。何を信じたらいいかわからなくなる。社会がアノミー状態になる。そこで、定期的に、年2回、皆でお祓いをして、道徳のおさらい会になるように設定された。反省し、悔い改める習慣を持つことは、大人の階段をのぼるための基本的な要件である。誰の智恵か知らないが、世の中を人心から安定させようとする工夫である(注21)
(つづく)
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