古事記・日本書紀・万葉集を読む

コピペで学位は自己責任で。(つまり、そちらの問題なのだ。「上代語ニュース」もどうぞ。)

挿絵本の楽しみ(静嘉堂文庫)

2017年05月21日 | 無題
 静嘉堂文庫「挿絵本の楽しみ」展(~2017.5.28)に、書物において絵を入れて表すとはどういうことか、という興味深いテーマの展示が行われている。取扱説明書に絵(または図)が載っていることの始まりについて、考えさせられるものがある。全部で5つのテーマがあげられている。

①神仏をめぐる挿絵……仏画のある書物(お経)を作っていたのは、言われただけではホトケがイメージできないからである。

②辞書・参考書をめぐる挿絵……纂図互註礼記は参考書である。儒教の経典は文字ばかりである。文字を重んじる国、中国のことだからという。バイブルに絵を入るのはいつ頃からか、コーランに絵が入ることはないように思う。漢字はもともと絵(象形文字)なのだから、漢字だけでいいという考えが根底にあったということか。でも、科挙の試験の勉強には図があった方がはかどるというので、絵入りの参考書が広まったという。冠の形などが描かれていて、これは何、これは何、と一目でわかるようになっている。この見える化は、宋代以降に行われたとされる。それまでどうやって勉強していたのか、不思議である。日本の江戸時代に作られた訓蒙図彙は、現代で言えばフラッシュカードのようなものである。
訓蒙図彙(「江戸時代の日蘭交流」(「国会図書館デジタルコレクション」
英単語カード(「福岡県小郡市ひよし英語教室」様)

③解説する挿絵……本草図譜はきれいである。本草学のようなジャンルは絵がないとわかりにくいから絵を描いたとされるが、昔の本草和名や医心方など文字だけである。当然のように、何がどれに当たるのかわからなくなって混乱していることも多い。それなのに、絵に描くようになったのは近世になってからである。なぜであろうか?
 陳列物に天工開物がある。よりによって龍骨車のページなどが開いてある。
「国会図書館デジタルコレクション」(23/37)
 こういう絵(または図)が描かれていて、はたしてわかりやすくなるものなのか。人によってはかえってわかりにくくなるのではないかと思う。明の宋応星の撰であるが、宋応星自身、龍骨車の揚水の仕組みを理解していたのか疑問である。天工開物はたくさんの職業を取り上げて描いている点がすごいとのことで、それはつまるところ、職人尽の絵なのであると納得される。歌合せならぬ漢詩合せのようなことでもしていてくれると、風流の道であって工学の本ではないと気にせずに済む。
 
④⑤と続くが省略する。

 人々が、文字と絵とを別のものとして捉えてきたことは確かであろう。印刷物にする場合、今でも絵は文字とは別扱いである。絵を“写植”することは、膨大なデータをコード化しなければならないからネットに同じく容量オーバーになる。一義=一音=一字が漢字の基本のところへ、一写真(のデジタル化)を字にしていくことは無謀である。表という四角いマス目に囲われたところへ数字が入っているものは、文字とは別扱いだが絵なのかと言われるとそうではないようである。グラフとなると、数字を視覚化したものなので文字ではないが絵なのかどうか、なんとも微妙である。前衛芸術家は何をしでかすかわからないし、書道というのは“書物”の文字ではない。
 就職活動に行くのに初めてネクタイをしめる学生さんが、ネクタイのしめ方がわからないと国の親元へ電話で聞いたとして、教える方も教わる方も、電話では無理だと投げ出すに違いない。もっとずっと難しいことが、絵(ないしは図)で示されずに文字だけでぶっきらぼうに書物として存在していた。長い時代を経過している。どうしてなのか、よくよく考えてみる。
 冠の形など、科挙を受験するような人は当たり前に身近に知っていた。つまり、世代間連鎖があったから、広く知らしめる必要はなかったため図示されることはなかった。村人に、ニラとスイセン、八角とシキミの実を間違えることはなかった。間違えた人はこの世からいなくなっていたし、そもそも実物を手にして伝えられていたから図示する必要はなかった。だから、例えば閻立本の絵に冕冠は描かれているけれど、絵画は絵画、書物は書物という棲み分け(?)があった。書物に文字だけで書かれていた当たり前のことが、当たり前でなくなって困る人が出てくると、例えば、地方に住んでいて裕福ではない家の子なのに科挙を目指して頑張っていたり、都市化が進んでニラとスイセンを見比べる機会が少なくなると、絵入りの書物が必要になる。必要は発明の母で、その需要を蔦屋重三郎のような業者がうまく取り込んで挿絵本が作られるようになったということであろう。つまり、絵がなくてどうしてわかるの? という発想自体が実は間違っていて、わかる人専用に作られていたのが文字ばかりの書物であったということである。言い換えると、文字とは、わかる人どうしにしかわからないコミュニケーションツールであった。

 上の文章は、どこまでが通説や静嘉堂文庫「挿絵本の楽しみ」展の言うことで、どこからが私の仮説、推測、主張なのかわからないので、念のため。話し言葉(電話の例)と書き言葉(書物)の違いについても気に留めていない。また、画賛のある絵も展示されてあるが、書物ではなくなってどんどんわからなくなるのでパスした。絵巻物や奈良絵本というジャンルもあるが、挿絵なのかといわれれば違うように思うのでやはりパスした。深入りすると、マンガとは何かという解明されていない難問に突き当たるので用心されることをお祈りする。
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灯明台ふたつ

2017年05月15日 | 無題
 いずれも灯明台である。
灯明台(平城宮跡資料館展示品)
緑釉熊形灯(中国、後漢時代、1~3世紀、横河民輔氏寄贈、東博展示品)
 灯明の油を入れるお皿を上に乗せて使っている。古代には胡麻油のような植物性オイルが使われたように思う。荏胡麻などは今、健康食ブームで食されている。菜種油登場まではとてつもなく高くて、庶民はおよそ使うことができなかった。蝋燭となればさらに高い。徳川吉宗の頃でも輸入していたらしい。鯨油や石油(「燃水(もゆるみづ)」(天智紀七年七月条))がどのように使われてきたのか、勉強不足でわからない。植物オイルを搾った絵は絵巻物に見られる。
 平城宮跡資料館の図示では、明るくするための反射板か風除けの覆いのようなものが灯明皿にめぐらされている。何を使ったのであろうか? 不燃性の紙などなかったであろう。疑問が湧いた。小学校の机と椅子のようなものが“復元”されていて、ホンマかいな? と思った。当然、机の高さ以上に灯明の明かりが灯っていなければならない。ひっくり返らないか心配になる。民具にはまれに高火鉢というものもあるから、その台かもしれない。それなら椅子に腰かけていて、ちょうど手があぶれる高さになる。奈良時代の官吏に残業が多くて過労死するものがあったのか、知らない。
デスクとチェア復元品(平城宮跡資料館展示品。Googleのストリートビュー範囲内
 中国後漢時代の灯明台は緑釉の焼物である。漢代から魏晋南北朝期には、物の支えの部分に、熊のデザインが施されるのが流行していたという。熊は大きくて存在感があると解説されているが、私にはわからない。むしろ「かわいい」タイプに見える。クマさんの灯明台は、さほど大きなものではなく、30cmくらいであった。いずれにせよ、重心を低くしたいがために熊があしらわれている。中国にいるクマは、ツキノワグマ、ヒグマ、マレーグマの仲間であるが、漢民族の目にはツキノワグマが卑近であったようである。すると、喉元のV字形の出っ張りは、月の輪を示したものと思えてくる。どうなのであろうか。
石山寺縁起の灯明台(小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年)
 日本では、ウルシを塗った台が多いように思われる。三脚式も見られる。台からまるごと陶器というのはもう少し時代が下らないと見られないような気がする。火鉢が焼物として見られるのは、戦時中に、刳物の火鉢の内側にはられた銅板を供出させるために生産が奨励されたとも聞く。お寺さんには金属製の灯明台がある。日本において陶器の灯明台はどのくらい見られるものなのか、ご存知の方はお教え下さい。
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「飛鳥」と書いてアスカと訓むのは

2017年05月09日 | 論文
 「飛鳥」と書いてアスカと訓む理由については、従来、枕詞「飛ぶ鳥の」が地名アスカにかかることから説明されてきた(注1)。足利健亮『景観から歴史を読む―地図を読む楽しみ―』(日本放送出版協会(NHKライブラリー)、1998年)は、新しい地名解釈、地名論の例として取りあげた。そこでの主張は、アスカと呼ぶ土地・地域が先にあり、それに流入した漢字文化において漢字を当てようとして「安宿」とし、「安宿」と記すと飛ぶ鳥も休むであろうからというので「飛ぶ鳥の」という枕詞ができ、「飛鳥(とぶとり)の安宿(あすか)」という表現が普及していった。そして、言葉が短縮されてアスカの音を「飛鳥」の文字に結号させたとしている(注2)
 足利先生の地名解釈の新見解は、「あすか」という地名の発生源は難しいから考えず、「飛鳥」をアスカと読む不思議さに迫ろうとする点である。筆者もほとんど同じ立場に立つ。ただし、音に字を当てる際に頭を使ったことに関して、今の人が使うのとは違う頭の使い方をしたであろうと考える。飛鳥時代になってにわかに文字が使われ始めたことにより、当時の人々は飛躍的に“なぞなぞ”的なものの考え方を発展させた。無文字社会から文字社会への大転換の時代である。それは、ちょうど、幼児が文字を知らずに音だけを頼りにしていた言語生活が、小学校へあがる頃になって文字を覚え出していく過程のなかで、すさまじく“なぞなぞ”に興じる傾向にあるのと同じである。大脳の、音声言語を司る部位と文字言語のそれとの間に複雑な連携を醸し出し、悦楽とするためであろう。長ずるに及んで文字に慣れ親しんでいくと、“なぞなぞ”への興味がさほど起こらず、かえってばかばかしいこととして片づける傾向へと転ずる。人は、文字言語を司る部位ばかりを、機械的、反復的に使用するように偏っていくらしい。
 足利先生の「あすか」→「安宿」表記→「飛ぶ鳥」説も、文字言語中枢偏重と言わざるを得ない。安らかな宿ならば飛ぶ鳥も休めるはずと考えるのは、かなり強引であり、そして、つまらない。安らかな宿は、旅ゆく人も走る馬も跳ねる兎も休めるはずである。なぜ鳥と限定できるのか示し得ない。選択的に飛ぶ鳥が選ばれている理由が示されなければ、示し伝えた相手になるほどと思わせることができない。なるほどと思わせられなければ、法華経のようにはそこから先へ“拡散”していくことはない。そして、枕詞とは、無文字社会から文字社会への大転換期における高度な言語遊戯の“なぞなぞ”である(注3)。あまり多くの例を見ない「安宿」という文字表記に依存した解釈は難しい。枕詞を冠した「飛鳥安宿」という字の並びは、上代の文献に皆無である。
 当時のふつうの人、文字をほとんど読めないか、せいぜい小学校2年生レベルの識字能力の人にとって、「あすか」という地名は、アスカという音によって認識されていた。文字を記号素 monème として演算操作するに至っていないのが大前提である。この点を絶対条件として考えなければならない。万葉集に例を見ると、地名のアスカは、「飛鳥」、「明日香」、「明日香川」、「明日香河」、「飛鳥川」、「阿須可河泊」、「安須可河泊」、「明日香乃河」、「明日香之河」、「明日香能里」、「飛鳥壮(あすかをとこ)」などと表記され、全部で36例である。つまり、どう書いても通じればそれで構わないのである。常用漢字表もなければ、テストもない時代である。枕詞の「飛ぶ鳥の」を冠するのは4例(万78・194・196・3791)にとどまる。また、「飛ぶ鳥の」が他の語、「浄御(きよみ)の宮に」(万167)、「早く来まさね」(万971)、「到らむとぞよ」(万3381)にかかる例も見られる。
多くの辞書に「飛鳥」と書いてアスカと訓む理由にあげられる枕詞「飛ぶ鳥の」由来説は、枕詞というものを隠れ蓑にして、あるいは、ブラックボックスにして誤魔化した説明である。「飛鳥」と書いてキヨミやハヤやイタといった地名に訓まないことを証明できない。アスカという地名の音と「飛鳥」という文字表記との間の関係が、もっとダイレクトに感じられなければ、当時の人の間にわかり合うことはなく、通用しなかったと考えられる。当時の人にとって「飛鳥」と書いてアスカと訓めることは、ふつうに楽しめる“なぞなぞ”であったに違いない。
 アスカという地名は、言葉遊びとしては、アス(明日)との駄洒落が連想されやすい。だから、万葉集に「明日香」と書かれ、紀の古訓に記されているアクセント表記からも、アス(明日)(LL)、アスカガハ(飛鳥川)(LLLHL)と知られている。これは万葉集の風雅などではなく、単なる語呂合わせである。

 明日香川 明日だに見むと ……(万198)
 明日香川 明日も渡らむ ……(万2701)
 今日もかも 明日香の川の ……(万356)
 …… 今日今日(けふけふ)と 飛鳥に到り ……(万3886)

 アスという語の観念は、上代と今日とで微妙な違いがある。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「アスはケフ(今日)の次の日だが、上代にはケフとアスの境界は現代とは異なっていた可能性がある。通い婚の時代、男女が早朝まだ暗いうちに別れ、アスも逢いたいというのはふたたび宵を迎えるときであり、一晩置いた次の日とは考えにくいからである。その場合、今日の宵や夜はアスになる。日の出が一日の始まりととらえるだけでなく、日没が一日の始まりとするとらえ方もあったということになる」(28頁、この項白井清子先生)とある。現在の言い方では、キノフ(昨日、yesterday)→ケフ(今日、today)→アス(明日、tomorrow)という区別がはっきりしているが、上代はそうではなかった。時間の言い方としては、昼を中心とした時間の言い方に、アサ(朝)→ヒル(昼)→ユフ(夕)、夜を中心とする時間の言い方に、ユウヘ(夕)→ヨヒ(宵)→ヨナカ(夜中)→アカトキ(暁)→アシタ(旦)という2種類の言い方があった。
 現代の今夜のことも、上代にアスということがある。すなわち、アスとは、あえていえば、next (day) という意に近い。漢字で記せば「翌」である。名義抄に、「翌日 ア爪[(ス)]」とある。アスカという場合、アス+カのカが、昼を表すフツカ(二日)、ミツカ(三日)のカを表す日の意と捉えたとすると、アクセント上、トヲカ(十日)(HHH)の例からカは高拍で一致する。したがって、アスカという音からは、次の日の日中のことを表しているように感じられよう。そして、「翌」字は「翼」と通用する。書経には、「翌日」のことを必ず「翼日」と記されている。「翌」字は「翊」字に同じく、羽を立てて羽ばたくことを表している。鶏のコケコッコーの鳴き声に代表されるアカトキ(暁)よりも後の時間帯であることを示唆している。アカトキ(暁)は飛べない鳥であるが、アスカは飛ぶ鳥なのである。この洒落がわからない人は、もはや「飛鳥」と記して喜んだ人たちの気持ちには近づけない。
 「安宿」と書く例についても、安らかな宿の意に解したのではなく、ともに動詞と考えて、安は安息の意のやすむこと、宿はやどることを表しているのであろう。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「『家(や)取(ど)る』の意」(770頁)とある。ドは乙類である。漢字では他に、「次(やど)る」と書く。次の日、つまり、翌日のことを考えて、今日はゆっくり休むのである。飛鳥の地に安んで宿った事跡は、記に述べられている。

 故、其の隼人[曾婆訶利(そばかり)]が飲む時に、大鋺(おほまり)、面(おもて)を覆ふ。爾に、席(むしろ)の下に置ける剣を取り出して、其の隼人が頸を斬りて、乃ち明日(あす)上り幸しき。故、其地(そこ)を号けて近飛鳥(ちかつあすか)と謂ふ。倭へ上り到りて、詔(の)りたまはく、「今日は此間(ここ)に留りて祓禊(みそぎ)を為て、明日参ゐ出でて、[石上(いそのかみ)の]神宮(かみのみや)を拝(をろが)まむ」とのりたまふ。故、其地を号けて遠飛鳥(とほつあすか)と謂ふ。(履中記)

 記の記述では、「飛鳥」と書いてアスカと訓むことが既定事実となっている。多くの辞書に記載の枕詞由来説は、天武天皇の都した飛鳥浄御原宮の時代、朱鳥改元のもととなった瑞祥話を引いている。しかし、天武天皇時代をはるかに遡る履中天皇時代の、しかも、河内の近つ飛鳥にまで「飛鳥」と書いて何の疑いもなくアスカと訓んでいる。枕詞は本質的に言葉にかかるものである。飛鳥地方のなかで転々と遷都しつづけた最後の浄御原宮に事跡する事柄ならば、「浄御(きよみ)の宮に」(万167)にばかりかかることとして説明されるはずである。
 「飛ぶ鳥の」がアスカにかかる理由は、鳥が飛ぶときに必要な翼のことと、羽ばたきのことが連想されるからであろう。上に触れた「翌」字に通用する「翼(つばさ)」については、

 天飛ぶや 雁の翅(つばさ)の 覆羽(おほひば)の 何処漏りてか 霜の零(ふ)りけむ(万2238)

とある。翼は、羽が覆うように広げられているものである。よって飛ぶことができる代物といえる。オホヒバ(ヒは甲類)という音を聞けば、ヒノキの矮性園芸種のチャボヒバなどではなく、大きく葉(は、「羽」に同根の語)を広げるヒバのことが思い浮かぶ。チャボは鶏の一種でとても飛べそうにない。ヒバは、ヒノキ、アスナロ、サワラなどの仲間で、小枝が扁平に分枝し、葉が鱗片状になる樹木をいい、特にアスナロを指すことが多い。
アスナロ(神代植物公園)
アテ(ヒノキアスナロ、石川県の県木、皇居東御苑)
 翌檜(あすなろ)は、樹形が檜に似るので、明日は檜になろうの意とする俗説がある。常緑の高木で、ヒノキ同様高さは30mに達する。別名をアスヒ、オニヒノキ、シロビ、アテなどともいう。樹皮は灰褐色で縦裂を来して薄く剥がれる。葉は鱗状で、十字に対生し、ヒノキと比べて厚く大きく、表面は緑色で光沢があり、裏面は気孔群があって蠟質で白っぽく見える。小枝は平面的でひらひらと地面と水平に茂り、鳥の翼を思わせる。5月ごろ花が咲いて10月ごろ1cmほどの毬果を結ぶ。種子は長楕円形で3~4mm、狭い側翼がついている。ずいぶんと翼にゆかりのある木である。材としての性能はヒノキ同様に良いが、臭気のある精油成分ヒノキチオールを含む。そのぶん防腐性に優れており、建築物の土台に使われたり、漆塗りの木地に用いられてきた。類似のヒノキについては、和名抄に、「檜 爾雅に云はく、栢葉松身は檜と曰ふ〈音會、又入声、古活反、飛(ひ)〉といふ。」とある。ヒは日(ひ)と同じく甲類で「日の木」の意であろうといわれ、音仮名に「飛」の字が用いられている。以上いろいろな点から、アスナロは覆羽を比喩としていると思われる。したがって、飛鳥とは翼のこと、翼の字は翌に通じ、アスナロ(アスヒ)は香りが高いから、アスカと訓めるのである。
 ヒバという語については、記の黄泉国の説話に、地名「比婆(ひば、ヒは甲類)」として登場している。

 故爾に伊耶那岐命(いざなきのみこと)の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我がなに妹の命(みこと)や、子の一木(ひとつぎ)に易らむと謂ふや」とのりたまひて、乃ち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に坐す、名は泣沢女神(なきさはめのかみ)ぞ。故、其の神(かむ)避(さ)れる伊耶那美神(いざなみのみこと)は、出雲国と伯伎国(ははきのくに)の堺の比婆(ひば)の山に葬(はぶ)りき。(記上)

 黄泉国の話は、説話が細切れに錯綜している。伊耶那美命をいったんは葬ったはずが、伊耶那岐命は再度会おうとして黄泉国を訪れ、今度はそこから命からがら脱出して阿波岐原(あはきはら)で禊ぎをし、さらに再度中つ瀬でも禊ぎをする。全体的なストーリーが構成されたのち細部が練り上げられたのではなく、スキットの積み重ねで出来上がってきたと考えられる。ただし、総論としては竈の話であり、伊耶那岐命と伊耶那美命との男女の関係は、火鑽杵と火鑽臼との関係として捉えられる。「子の一木に易らむ」とは、木片に火種を継ぐことを「子」として考えている。火鑽臼自体に火がついてしまったから、自分が焚き木になって燃えてしまう役回りになったと憂いている。親は火鑽の器具であり、子は薪の木であると整理されよう。そして、仕方なく、もはや火鑽臼の機能を果たせない伊耶那美命を、ヒバの山のなかに葬ったといっている。
火熾し(往馬神社祭礼「奈良大和路~悠~遊~」様)
 出雲は、それを導く枕詞に、「八雲立つ」(記1、紀1、紀20)とあるように、雲(煙)がもくもくと立ち込めることに当たり、伯伎(ははき)は、箒(ははき)にも使えそうな細い柴を指していることに相当させられる。その間に、比婆(ひば、ヒは甲類)の山がある。ヒバともいうアスナロは、自ら剥がれていく性質の樹皮を使って、槇肌(まいはだ)として船底の水漏れ防止に用いたり、火縄にも用いられた。当然、焚き付けにも使われた。すなわち、出雲、伯伎、比婆という語によって、火の焚きつけの様子が示されている。
箒(奈良県橿原市西新堂遺跡出土、古墳時代、5世紀後半。小枝を藁で縛り束ねる。東京都歴史教育研究会監修『図解古代史』成美堂出版、2007年、105頁)
 葬った地の別伝としては、宗教祭祀を思わせる記事に、「[伊奘冉尊を]紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村(ありまのむら)」(神代紀第五段一書第五)に葬ったとある。紀伊国は、木の国の意にとれる。熊野は、道が隈状になるように入り組んでいる状態と思える。アリマノムラは、魔がいて群れていることを指すと聞こえる。当時「魔」といえば、もっぱら天狗を表し、後述するとおり、竈口で火の焚きつけをする場面が表現されていると考えられる。火鑽臼が火のついた炭になってしまったから、火種としてふたつにばらしてくべている様子である。埋葬する意の「葬(はぶ)る」については、白川、前掲書に、「はふる〔散・屠・放〕 四段。ばらばらに解きほぐし、切りはなすことをいう。『放(はふ)る』もまた同系の語。また『葬(はぶ)る』『散(はぶ)る』にも放・散の意がある。」(627頁)、「はふる〔溢〕 四段。水などがあふれる。その器に入りきらずに、外にあふれることをいう。『散(はふ)る』と同根の語。水のみでなく、雲や風波がわきおこることをもいう。」(同頁)とある。
 また、「翥(はふ)る」とは、鳥などが羽ばたくことをいう古語である。新撰字鏡に、「翥 止遮反、挙也、翔也、波布利伊奴(はふりいぬ)。」、和名抄に、「飛翥 唐韻に云はく、翥〈音恕、字亦䬡に作る、文選射雉賦に云はく、軒々波布流(はふる)、俗に云はく、波都々(はつつ)といふ〉は飛挙也といふ。」とある。ハフルという語の水が溢れる意には、名義抄に、「窴 アス、オク、塞也、満也」(注4)とある。つまり、飛鳥とは水のいっぱいになって溢れることを表しているから、そのようなところはアス(窴)+カ(処)なのである。カは、奥処(おくが)などという処の意である。ハクチョウなどの場合、羽ばたいて飛ぶには、水がいっぱいになっている池や湖の上を疾走するようにしてから上昇している。狭い水たまりにハクチョウのような大型の水鳥は降り立たない。いざ飛び立とうにも飛び立てなくなる。関連する様子は古事記に見える。

 故、其[吉備]の国より上り幸しし時に、亀の甲(せ)に乗りて釣を為つつ打ち羽挙(はふ)り来る人、速吸門(はやすひのと)に逢ひき。(神武記)

 国つ神で、「海道(うみぢ)」をよく知り、「槁根津日子(さをねつひこ)」と名づけられている。水上を行く様が水鳥の飛び立ちつつあるときの疾走の様子を表わしている。なお、ナロという語は、方言に、平らなところを表す言葉としてあり、枕草子・能因本・第百四十七段に、「土はうるはしうなろからぬに」とある。アスカのカを処の意と捉えるなら、一定の面積を持った場所を表すこととして理解される。一定の広さがなければ水鳥が飛び立てないことを知っている。

 次に、庭津日神(にはつひのかみ)、次に、阿須波神(あすはのかみ)、次に、波比岐神(はひきのかみ)……(記上)
 庭なかの 阿須波乃可美(あすはのかみ)に 木柴さし 吾は斎はむ 帰り来までに(万4350)
 生井・栄井・津長井・阿須波(あすは)・婆比支(はひき)と御名は白して辞竟へ奉らば、……(延喜式・祝詞・祈年祭)

 上の3例に見える、語義未詳ながらアスハと言っている神名は、一説に敷地神とも考えられている。作業場としての庭や井戸に近接するものとされようから、自然のなかにありつつ人工的にも構成される場所の神と考えられる。すると、アスもナロも一面に拡がるところを表していると知れる。アスナロは、別名、アテとされ、輪島塗など漆器に珍重される材であった。「貴(あて)」なる木であっての命名かとされる。したがって、山のなかに一定の場所を作って、そこに植林されたこともあったのであろう。
 枕草子・第三十八段に、「あすは檜の木、この世に近くも見え聞えず、御嶽(みたけ)に詣でて帰りたる人などの、持て来める、枝さしなどは、いと手触れにくげに荒くましけれど、……」とあるのが、文献上に見える命名俗説の初見である。同段に載る他の木の名称から、アスハヒノキというひと続きの名詞ではなく、アスハヒの木と言っている。「幸(さき)はひ」、「賑(にぎ)はひ」の類の語形とすると、ハヒ(這)と意と捉えられる。山にヒノキを植樹して人工林にする際、陰樹としてアスナロの方が生育に強く、間伐をしないと負けてしまうという。そこから、陰でじわじわと拡がることや、明日になると拡がってしまうという意味をにおわせるものがある。
 ヒバは、焚きつけの際の着火剤であった。黄泉国からの帰還の語り次のようにある。

 是(ここ)を以て、伊耶那伎大神の詔はく、「吾は、いなしこめしこめき穢(きたな)き国に到りて在りけり。故、吾は、御身(みみ)の禊(みそぎ)を為む」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)に到り坐(ま)して、禊祓(みそぎはらへ)しき。(記上)

 一般に、禊ぎの場としては河原が多く、水のあるところである。「阿波岐原」は、河原や海岸であるとは明記されていない。後段に、「中つ瀬」に禊ぎをしたとあるが、その前段階である。「阿波岐原」は、紀に、「檍原(あはきはら)」とある。檍とは、和名抄に、「檍 説文に云はく、〈音億、日本紀私記に阿波岐(あはき)と云ふ。今案ずるに、又櫓木の一名也。尓雅に見ゆ。〉梓の属也といふ。」とある。何の木かよくわからない。橿の木の一名ではないかともされている。仮にそうであるなら、単に「橿原」と記せば良いのであるが、わざわざ「檍原」としている。アハキに似たことばにツハキがあり、白川静、前掲書に、「つはく〔唾〕 四段。『つ』は唾液。唾を飛ばす。『唾(つ)吐(は)く』の意。」(517~518頁)とする。同様に考えれば、アハキのアは、熱(暑)い、暖(温)かいなど、熱気を表すアを口から噴き出している様子を示そうとしているのであろう。説文には、「檍 杶なり。木に从ひ意声。」とあり、杶とはチャンチン、香椿とも記されるセンダン科の落葉高木を表す。今慣用の「椿」字を、冬から春初めに花咲くツバキ(古語に清音)のこととするのは本邦のみである。中国ではチャンチンに当てる。檍の字は、木偏に意、意は「噫(あ)」、「噫(ああ)」などと記される嘆息を示す字である。あ、と嘆き声を吐くからアハキである。紀の編纂者は、アハキに洒落で文字を当てたらしい。
佐竹秋葉神社(現台東区、明治期に秋葉ヶ原より勧請遷座)
現代版火防の神さま(神田消防署から秋葉原駅を望む)
 アハキは、後に転倒してアキハといい、秋葉原は、火防せの神として崇められる秋葉神社の秋葉の原っぱ、すなわち、火除け地のことを指すのであろう。秋葉は黄葉するように葉が枯れていった葉であり、焚き火に適するほどに乾燥している。これは、焚きつけに使うヒバに同じである。「小門」のところに秋葉原がある。火の気のあるところの前に門があり、物を置かずに延焼しないようにしていたのは竈である。縄文・弥生時代のコンロは地床炉である。竪穴住居のに地面を浅く掘りくぼめて作られていた。土製支脚や烏帽子形石を3点として甕を置いて火を使った。四方がすべて前面である。
 古墳時代になると、朝鮮半島南部から新しいコンロ、すなわち、壁際に造り付けた造付竈がもたらされた。従来の炉は、一部地域を除いてほぼ一掃されてしまう。竈は屋内の床を若干掘りくぼめて作られている。今日まで残っている民家のヘツイでも、土間の地面を20cmほど掘り下げて作られた跡が認められる。古い竃ほど掘り下げた形式のものが多いという(注5)。実際に使った場合、焚き口のほうだけ火が見えるから、その方だけ気をつければいい。その際、掘り下げた場所は、火のある炉の部分ばかりでなく、その灰を引き出す場所も含めて掘りくぼめられている。そこを火除け地に見立てて、秋葉原ならぬ阿波岐原(檍原)と記しているものと考える。
竈(世田谷区立岡本民家園)
 アハキに似た音のことばに、アバク(暴・発)がある。古く清音であったらしい。下二段の自動詞のときは剥げ落ちる、剥落する意、四段の他動詞のときは土中に埋もれて隠されている物を取り出すことである。竈の前の地面を掘り下げていることは、暴かれているということに当たろう。一方、暴かれて掘り下げられていれば、窪んでいるから原ではない。つまり、アハキハラという言葉には自己撞着がある。それは、「黄泉比良坂(泉津平坂)(よもつひらさか)」(記上、神代紀第五段一書第六他)とあって、坂が平らなはずがないのと同じである。洒落を言って言語論理学的に楽しんでいる。それほどに、竈の到来、出現は、倭の国の人々にとって新鮮で、画期的なものであった。今日の秋葉原という地名も、秋葉神社に由来しつつも、三河の秋葉神社が山の頂にあることの矛盾を忘却することで成り立っている。彼の地になぜ火防の神社があるかについては、焼畑農耕に深く結びついているからであろう。別に論じることとする。
 以上、アスカを「飛鳥」と記そうとした人の謎掛けを追ってきた。それを折り返せば、「飛鳥」と書いてどうしてアスカと訓むのか、上代の人にとってなるほど面白いと思える謎解きとなろう。そのためには、記紀のお話(咄・噺・譚)がお話として定着していなくてはならない。それは実は案外、当たり前のことである。話(咄・噺・譚)を仲介役として、ヤマトコトバが人々の間で保たれていたと考えられるからである。そうでなければ、万葉集のような膨大な言葉の塊が、それも防人にかり出されるような庶民も含めて多くの人々によって作り上げられるはずはない。実に豊饒な言葉が文字を持たずにできあがっていた。人々の間でコミュニケーションツールとして行き交っている。なぜ通じるのか。なぜ互いにわかるのか。言葉について言葉自身が自己説明をしているから、なるほどと理解し合える。すなわち、“なぞなぞ”である。古語に、「無端事(あとなしこと)」(天武紀朱鳥元年正月条)という。そうやってできあがったヤマトコトバの体系が、記紀万葉のお話である。万葉集の「歌」が抒情なり叙景なりを伝えることがあるのも、すべては言葉が基盤として立ち上がっているからである。特に初期万葉の歌は、記紀歌謡の続きともいえるモノガタリ歌である。それを当初、「雑歌」と分類したようである。したがって、ひとり「飛鳥」字を取り出してきてどうしてアスカと訓むのかと問題提起をし、漢和辞典をひっくり返しても、その意味するところはわかるわけがない。漢語ヒテウ(ヒチョウ)のことではなく、すべてはヤマトコトバで解かれよう。記紀万葉のそれ自体が母胎となりつつ子どもでもあるお話(咄・噺・譚)の“なぞなぞ”ワールドに没入しない限り、納得されることはない。

(注1)多くの辞書に記載の枕詞由来説は、例えば、『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、1990年)に、「とぶとりの[飛鳥]①枕詞。天武紀朱鳥元年七月の条に『戊午、改元曰朱鳥(アカミトリ)〈阿訶美苔利(アカミトリ)〉元年仍名宮曰飛鳥浄御原宮』とあり、扶桑略記にも『天武十五年丙戊大倭国進赤雉、仍七月改為朱鳥元年』ともあって、赤い鳥の瑞祥を喜んで浄御原宮に飛ブ鳥ノの枕詞を冠し、その宮の所在地である大和の明日香(アスカ)の枕詞ともしたものである。のちに長谷(ハツセ)・春日(カスガ)のように、明日香(アスカ)の地名にもそのまま「飛鳥」の文字を用いるに至った。」(499頁)とある。『日本国語大辞典 第二版①』(小学館、2000年、337頁)や『角川古語大辞典 第一巻』(角川書店、昭和57年、69頁)にも同様の解釈が記されている。
(注2)同書を引用する。

 地名は、地図と並ぶ歴史地理学の基本資料です。……地名解釈といっても、地名の語源については原則として触れるつもりはありません。一般に地名、特に古地名の語源を解くことはかなり難しく、下手(へた)をすると荒唐無稽で無意味な地名解釈に陥ってしまうからです。
 ここで私が試みる地名解釈とは、普通ではその漢字は絶対そうは読めないという種類の漢字地名の問題、例えば飛鳥という地名はなぜ「あすか」と読むのか、百済はどうして「くだら」と読めるのか、といった「不思議さ」に答えを示すことです。
 さて、飛鳥はなぜ「あすか」と読むのでしょうか。……[いくつかの辞書には、枕詞「飛ぶ鳥の」から「飛鳥」を「あすか」と読むと説明されています。]「飛鳥(とぶとり)」は、確かに「あすか」の枕詞です。しかし、なぜ「飛鳥(とぶとり)」が「あすか」の枕詞になったのかを説明することから始めなければ、正確な理解には到達できないのではないかと思うのです。枕詞という一言で片付けてしまうことは、正解に至る道を閉ざしてしまうという点で危険です。ある言葉がもう一つの言葉の枕詞になるためには、当然それなりの理由があるはずです。残念ながら……辞書には、どこにもその理由が記されておらず、「あすか」の用字に枕詞がすりかわって入り込んだ理由についても一切述べられていません。これでは何も分からないのです。
 「あすか」のもともとの意味は、不明と言うべきです。が、ともかく「あすか」と呼ぶ土地・地域があったはずです。そこへ漢字文化が流入し、「あすか」に漢字が当てられることになった。その時当てられた漢字は「安宿」であったに違いないと思います。「安宿」の用例は河内国のいわゆる「近つ飛鳥」地域の郡名にありました。これならば間違いなく「あすか」の音に合致します。さらに光明皇后が安宿媛(あすかべひめ)という名であった事実があります。これは奈良時代の初めに「あすか」を「安宿」と表記していた証拠になります。
 そして重要なことは、はじめ「安宿」の字が用いられたからこそ枕詞が「飛ぶ鳥の」となり得たということです。「安宿」は「やすやど」などではありません。「やすらかなやど」と解するのが、雅(みやび)というものです。そして、「やすらかなやど」であるならば、飛ぶ鳥も好んで羽を休めたに違いない。そういう文脈の中で、「飛鳥」が枕詞となり、「飛鳥(とぶとり)の安宿(あすか)」という表現が成立・普及することになったと解すべきなのです。
 次いで、古代日本人が好んで行なったらしい「短縮」の手法が加えられました。それは「とぶとり」という「音」を略し、「安宿」という文字を略して、「あすか」の「音」を「飛鳥」の文字に結号するという手法にほかなりません。これと同様な「短縮」の手法は、「下毛野(しもつけぬ)」の「毛」の字と「ぬ」の音を略して「下野(しもつけ)」とした例、「近淡海(ちかつおうみ)」の「ちかつ」の音を略し、「淡」の字を落とし(且つ「海」を「江」字に変えて)「近江(おうみ)」と作った例など、いくつも見られるのです。
 『万葉集』では「明日香」の字が使われていますが、これは『万葉集』の風雅であって、「明日香」の用字が漢字到来の最初に当てられていたならば「飛ぶ鳥」が枕詞として成立するはずはなかったでしょう。これは大事なことです。(249~252頁)

(注3)廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
(注4)「塞」字は「寒」に見えるが、説文に「𥧑 塞也、穴に从ひ眞声。」とあり、新撰字鏡も「塞」に作る。
(注5)狩野敏次『かまど(ものと人間の文化史117)』法政大学出版局、2004年、125頁。

※本稿は、2013年に発表した旧稿を改稿したものである。
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火熨斗のこと

2017年05月07日 | 無題
 このところ、火熨斗を見ることに恵まれた。古墳時代からすでに存在する。銅の鋳造品らしい。銅の鋳造技術は、大仏が作れるぐらいだから飛鳥大仏を作った時点で相当なものがあったのであろう。そして、ついこの間まで現役で活躍していたものでもある。考古学的に発見されてずいぶん古いなあと感じ、はたして実用に耐えるかなどと考えるかもしれない。けれども、考古学者がそこで試してみるというのは、むろん禁止されているわけではないが、小学生の自由研究のようなことは小学生と一緒にやらないといけない。恥ずかしいではないか。少なくとも、ちょっと昔当たり前だったことを“学問”としている民俗学の方とよくよく相談して熟考してほしい。相談を受けた民俗学の方は、小学生を招待して“公開実験”しなければ、やはり何となく恥ずかしいものがある。(縄文時代の石斧の性能を調査するための実験映像を見たことがあるが、腰が入っていなかった。ビデオを見ているこちらが恥ずかしくなった。やはり、木こりさんに腕を振るってもらった方が良かったように思う。)
熨斗(古墳時代中期、5世紀後半、高井田遺跡出土、柏原市立歴史資料館蔵、大阪歴史博物館「渡来人いずこより」展(~6月12日迄)展示品)
同、参考資料(百済武寧王陵)
火熨斗(古墳時代、5世紀、奈良県橿原市新沢千塚126号墳出土、東博展示品)
ちょっと昔の近頃のもの(鉄鋳造、江戸東京博物館期間限定触れる展示品)
 実演だと思って江戸博へ行ったのであるが、消防法だのなんだのの関係から火のついた炭を入れることはできないという。見学に来ていた小学生はこれが火熨斗であることを皆知っていた。3~4年生ぐらいで習うのだという。出張授業というのも行われているらしい。むしろ、こたつのようなコードのついたアイロンを知らないようであった。電気ポットの磁石式プラグについて、発明家列伝のような伝記で教えてあげるといいと思った。
 一部の方に、上の火熨斗と目されているものは、別の用途に使われた可能性があるとされている。例えば、柄香炉とか三々九度のときに使う長柄銚子、移動用の行灯である。私は、別に五徳を用意すればいいのだからそういう用途に使ってもかまわないと思う。また、神仙図に火熨斗を持つ姿が描かれていることがあり、遺体の蘇生儀礼に使われたのではないかとのうがった見方もある。夫婦喧嘩の際の武器にされたことはあるけれど、それを主たる目的として製造されたものではないように思う。私は何に使いたいかと問われれば、アイロンとして使いたい。
銚子を傾けて香水をかける(小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年、18~19頁)
 法隆寺献納宝物のいちばん有名な鵲尾形柄香炉は、飛鳥時代、7世紀の作とされている。「慧慈」と墨書があるけれど、聖徳太子の先生の名は後で記されたのであろうと言われている。真鍮製鍛造鍍金と記されていて、つなぐところとかをたたいて作ってあるらしい。真鍮をたたいたらすぐにぐにゃりとしてしまうが、細かい仕事をしているらしい。そういう細かさが感じられず、したがって持つ作法を感じさせないのが、古墳時代に火熨斗として発掘されるものである。やはり火熨斗と考えるのが、オーソドックスで良いように思う。
 とはいえ、疑問点はある。銅の鋳造技術が発達して行ったら、金属をケチりたくならなかったかと思うのである。柄の部分が、ついこの間までの鉄鋳造品では木でできている。柄の部分を欠いた品は、古道具屋で見かけることが多いという。熱伝導から言っても、持つところは木でできていた方が熱くならない。熱くなりすぎると焦げるから、それを手で感じるために一体型なのであろうか。絹は「中」、麻は「高」でかけるものだから、古代の人は温度管理に素手を用いていたのだろうか。洗濯物を洗濯機に入れてスイッチを入れると、洗濯して乾燥してアイロンをかけて畳んで出てくるという製品を家電メーカーは開発している。すべて人工知能が“体感”してくれて、私たちは何も体感することがなくなるらしい。さてそのへんの頃合いについて、実験考古学の方はどのように報告されているのだろうか。
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大物主神の御前を翳(さしば)で祭れ 其の二

2017年05月04日 | 論文
(承前)
 天皇の夢に出てきたオホタタネコという名は、ハ(翳、fa)であるとわかった。翳で大物主神を隠すように祭れば、祟りを鎮めることができて国家太平になる。人目にさらされるのが苦手な神さまが、三輪山に鎮座している大物主神ということである。よって、今日まで山は禁足地として立ち入りを制限されている。どうして神の祟りを、翳を使うことで鎮めることができるのか。それには二重の証明がある。第一に、ハという言葉は、羽・歯・刃・葉・端という名詞だけでなく、助詞のハという例がべらぼうに多い。助詞のハを表記したら漢字に、「者」と書く。それを無文字文化の人の多くは知らなかったかもしれないが、「者」はヤマトコトバにハのことだとインテリは知っていた。
 白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、「は〔者……〕 助詞の『は』、また『ば』の表記には者(しゃ)を用いる。漢文における者の文法的機能が、国語の『は』『ば』にあたると考えられたからであろう。……[『は』『ば』の用法を]要約すると、①主語を提示する、②仮定あるいは已然条件の形をとる、の二点に帰する。……国語の『は』には、取り出す、区別する、条件化するという三種の機能を含んでいる。者もまた、そのような三種の機能を含む字であり、者はまさに『は』『ば』に相当する語である。わが国の漢字の訓読には、漢字の用義上の特質や文法上の機能が、極めて正確に把握されているということができる。」(603~604頁)とある(注8)。ヤマトの人が学ぼうとした漢字と、意味するところがまったくもってヤマトコトバに同じい。者=ハ(バ)である。人に説明するにも、「ははは(「者(は)」はハ)」と言った。言葉の説明文が言葉の説明という入れ籠構造になっている。面白かったに違いない。バカの一つ覚えで良い。ただし、「者」字は、ハと訓むだけでなく、モノと訓むこともある(注9)。ヤマトコトバにモノとは、大物主神のモノである。つまり、大物主神の威力を封じるためには、モノ(物)に対してモノ(者)を以てすればいい。目には目をである(注10)。そう対処した「者」がハであるから、翳(は)を使ってうまく祭ったということである。
 それは決して出鱈目ではない。大物主神が夢に出てきて語っていた。「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古を以て、我が御前(みまへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、国も亦安平(たひ)らぎなむ」。祭るべき対象が神自体ではなく、「我が御前」となっている。変なところを「祭れ」と言っている。神さまの顔の前を、翳によって隠して差し上げたてまつることを求めている(注11)。そもそも大神(おおみわ)神社のご神体は、山そのものである。山を祭るために「御前」のところで隠しておくれというのである。隠さなければならない理由は、その正体がはにわり(半月、黄門、paṇḍaka)であったからである。見てはいけないものは目にしないように隠したい。大物主神のモノ(「物」)とは、陽物を示している可能性もある。
 第二の理由は、翳をとり持つ人のことを、ハトリと呼んだからである。儀式・五・天皇即位儀に、「……女孺十八人執翳、……二九女孺執翳、左右分進奉翳、……」、同・六・元正朝賀儀に、「……各官人二人・史生一人率威儀屏繖一具・円翳十具・円羽十柄・横羽八柄・…………円翳已下分為両行、…………」、延喜式・掃部寮に、「元正前一日、設御座於大極殿高御座、…威儀命婦座。……執翳者座於東西戸前。…………」などとあり、「執翳者」はハトリと訓まれている(注12)。ハトリとはふつう、今に服部さんのことに当たり、ハタ(機)+オリ(織)の約とされる。機織りをすること、その職にある人がハトリである。機織りによって祟りが解消される。なぜなら、タタリには、絡垜と記される繰った糸をかけてたるまないようにする道具の意味がある。和名抄に、「絡垜 楊氏漢語抄に絡垜〈多々理(たたり)、下他果反〉と云ふ」とある。糸のほつれなどを手直しできる器具である。
絡垜(寺島良安編・和漢三才図会刊行委員会編『和漢三才図会 上』東京書籍、昭和45年、426頁)
絡垜(使用例)(「tool-私の仕事場の道具たち-」様)
引廻しの図(『江戸刑罰実録』書誌研究会発行、昭和52年、45頁)
 紡いだ糸がだらんと垂れると、不調部分を確かめられないから、ピンと張れるようにできている。何重にも巻きつけられている状態は、罪人がぐるぐる巻きに縄をかけられているのによく似ている。彼らは罪(つみ、ミは甲類)を犯した。糸を縒るのに使うのは、紡錘、古語にツミ(ミの甲乙不明)、ツムである。よく対応している。もうすぐ死罪なのであるが、自分の罪業は棚に上げ、「祟ってやる」などとわめいている。このようなときでも、許されることがある。火付盗賊改の場合、配下の手下、密偵となるのである。忍びの者、忍者の氏に服部くんが名高いのは、この絡垜に由来するのかもしれない。糸のほつれを直せば、準備は万端整う。糸は完成品としてタタリの上に残されている。あとどうすればそのタタリから脱することができるか。機織りをすればよい。ハトリ(服部・執翳者)によって、ツミ(罪・紡錘)のため生じたタタリ(祟・絡垜)から逃れられる。
 翳の役目を果たすと知れた「オホタタネコと謂ふ人」を探してみると、いた。本当にオホタタネコなのか、自称しているだけでは確かめられない。そこで天皇は質問してみた。誰の子かと。すると流暢に答えた。大物主大神が、陶津耳命の娘の活玉依毘売を娶って生んだ子で、名は櫛御方命之子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子であって、私は意富多多泥古であると言った。どういう系図なのかよくわからない(注13)が、系譜を聞いているのでも答えているのでもない。「謂れ」を聞いている。すべては話(咄・噺・譚)である。天皇は、聞いてみてこれは本物だと思っている。
 陶津耳命とあるのは、今日、陶邑の須恵器と関係する名義とされている(注14)が、話が逆である。スヱツミミなる音を導きたいがためにかこつけている。スヱとは末、ミミとは耳の意と知れば、それは、物の端っこのこととわかる。端は上代語にハである。活玉依毘売を他の個所に出てくる玉依毘売と関係する人物と考える向きもあるが、それも話が転倒している。イクタマヨリと聞けば、生きた魂が依って行くこと、言い伝えに思い出せば、ヤマトタケルが亡くなってから白鳥となって飛んで行ったことが思い起こされる(注15)。鳥はどうして飛べるのか、羽があるからである。ハである。櫛御方命という人が誰かはわからないが、クシミカタと櫛が機能するのは、櫛歯がきれいに揃っているからである。ハである。飯肩巣見命のイヒカタスミの意は詳しくはわからないが、炊いた飯に芯が残って硬ければ、歯でがちがち噛むしかない。ハである。建甕槌命は建御雷神とも書かれるタケミカヅチで、別名を建布都神(たけふつのかみ)といい、よく切れる剣、刃物である。ハである。累々の人がみなハに関係する名を持っていた。ネット銀行か何かのように、人には知られない秘密の質問に答えられるのだから、このオホタタネコと自称する輩も、確かにハ一族であると認められよう(注16)。大物主神が言っているとおり、ハ一族のオホタタネコに翳をもって前を遮蔽する形で祭らせれば、きっとうまくいくに違いない。
 これは、話(咄・噺・譚)である。話(咄・噺・譚)として煩うことなく成立している。どうしてこのような話(咄・噺・譚)が崇神天皇の時代のこととして記されているのか。おそらく、疫病や飢饉が実際にあったのであろう。三輪山の山麓に、ハツクニシラスノスメラミコトとして統治した人の時代のこととして、人々の記憶に定着させるためにとられた方策である。なにしろ無文字の時代である。文字がなければ覚えておくしか後の時代に伝える術がない。そして、文字に頼らないということは、言葉としては頓智やなぞなぞの知恵が、今日とは比べ物にならないほど発達していたに違いあるまい。言葉を音だけで聞き分ける能力にとても秀でていた。聞く人が聞くだけでなるほどと納得し、納得するから後の時代へと語り継がれることとなる。言葉(音)が言葉(音)だけですべての事情を語るのである。文字を覚え、図表を知り、動画までも手にすることができる現代人は、およそ当時のたぐい稀なる言語能力に達することはできない。祟(たたり)に対するには、絡垜(たたり)に対する機織(はとり)同様、執翳者(はとり)を以てすればよい、大物主を遇するには、大者主とでもいえる大きなハ(「者」)の持ち主になればいい。そんなことは文字を知ってしまったら、なかなかに気づかない。記紀万葉の読解には、ヤマトコトバにおいて、文化人類学のフィールドワークが求められている。ないしは、大学の先生の研究対象ではない。

(注1)吉井巌『天皇の系譜と神話二』(塙書房、昭和51年)に、「文章の構造における明瞭な意図とは裏腹に、ここの文章の内容からだけではどこにもオホタタネコの誕生は語られておらず、オホタタネコが神の子である事実はあきらかにされていない。つまり、オホタタネコが神の子である故を問う文と、神の子であると結論する文を額縁としたこの文章は、その内容では額縁に合うものを必ずしも語っていないという点で、額縁に示された意図と伝承の中身との間に、違和感が生じていることに注目せざるを得ないのである。」(186頁)ときちんと指摘されている。残念ながら、吉井先生は、そこから形而上学的な解釈へと進まれてしまっている。
(注2)歴史学、神話学、国文学、考古学など、立場の違いにもより、いろいろである。オホタタネコの祭祀にヒメヒコ制からの祭政分離を見る議論に、西條勉『古事記と王家の系譜学』(笠間書院、平成17年)、天皇自らの祭祀から巫女や神官への祭祀へと変わったととる説に、和田萃「古代の祭祀と政治」岸俊男編『日本の古代7―まつりごとの展開―』(中央公論社(中公文庫)、1996年)、三輪氏の氏族伝承を利用しながら神祇祭祀制度が確立したことを語っているとする説に、寺川眞知夫「崇神天皇の大物主神祭祀―祭主(神主)の登場―」『同志社国文学』第60号(2004年3月)、祟り神=境界神の位相で意味づけようとする議論に、青木周平『古事記研究』(おうふう、平成6年)、三輪山の神と天皇家との対立関係から王家の外来を見る議論に、直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る5―大和王権と河内王権―』(吉川弘文館、2009年)、母の活玉依毘売は須恵器生産集団出身で、祭器製造を介して三輪山の神とかかわりをもったとする説に、阿倍眞司『大物主神伝承論』(翰林書房、1999年)、オオタタネコの伝承に三輪山祭祀の起源譚と、その後裔を称する大神氏が王権に奉仕することの正統性を示しているとする説に、鈴木正信『大神氏の研究』(雄山閣、2014年)、大物主神は疫癘のカミそのものであるとする説に、益田勝実「モノ神襲来」鈴木日出男・天野紀代子編『益田勝実の仕事4』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年)、大物主神は疫病神そのものではなく邪神を統治する神であるとする議論に、壬生幸子「大物主神についての一考察」『古事記年報』第19号(1977年1月)、矢島泉「『古事記』の大物主神」『青山語文』第35号(2005年3月)、小浜歩「大物主神の神名と神格の関わりについて」『神道宗教』第207号(平成19年7月)、谷口雅博『古事記の表現と文脈』(おうふう、2008年)、王小林「古事記の漢語とその思想」『大阪工業大学紀要 人文社会篇』第45巻第1号(2000年)などがあげられる。
 筆者は、文字を持たずに言葉を大切に扱ったヤマトコトバの立場から、国文学の方々が勝手な解釈をして屋上屋を積んで行かれることに危機感を覚える。烏谷知子「祭祀伝承に見る崇神天皇像」『学苑 日本文学紀要』第903号(昭和女子大学、2016年1月)(『上代文学の伝承と表現』おうふう、2016年所収)に、「依り来る神の原郷は『物』の存在するところと観想されていたようであり、『物』はモノを生成したり、モノの力によって疫病を流行させたりする霊(モノ)が原初的な姿であったと思われる。」(5頁)とある。無文字の時代に立ち戻って検討されたい。引用した文を上代語に訳してみるとわかる。「一(ある)は、ものはものを生(あ)れまし、一は、ものの力に依りて伇病(えやみ)起らしむ。其れものの始めの姿なりき」。何を言っているのかチンプンカンプンである。「物」概念を拡大解釈されており、都合よく種々に用いている。これでは、森羅万象すべてが「物」という一語に還元可能になる。モノ(物)とカミ(神)とタマ(魂)と、なにゆえ別の言葉があるのだろうか。それとも、モノ⊃カミ、モノ⊃タマ、という言語体系であったというのだろうか。記紀のいちばん初めの天地創造の不可思議な記述から、そのように言葉を弄ぶことができるというのであろうか。
(注3)古事記における「所謂」の冠する例は、「黃泉比良坂」(記上)、「久延毘古」(記上)、「建豊波豆羅和気王」(開化記)、「五村屯宅」(安康記)がある。「所謂」をイハユルと訓じない例に、崇神記の、「汝所謂之言何言」の例がある。お前の謂っている言葉は何のことか、の意である。
(注4)「所謂王仁」については、稿を改めて別に論じる。
(注5)古事記伝には、「【此ノ名は、意富(オホ)とよみ、多々(タヽ)とよみ、泥古(ネコ)と読むべし、意富多(オホタ)とよみ、多泥古(タネコ)と読ムはわろし、】旧事紀に、大直禰古(タゞネコ)とも書り、多々は地ノ名なるべし、神名帳に、……」などと決めてかかられている。何を“分析”されようとしているのか。
(注6)日本書紀には、「池溝」、「大溝」、「溝瀆」、「渠」といった例が見られる。津出比呂志『日本農耕社会の成立過程』(岩波書店、1989年)、広瀬和雄「古代の開発」『考古学研究』第30巻第2号(1989年)、木下晴一「古代日本における『溝』の字義について」『文化史学』第65号(2009年)など参照。
(注7)鈴木裕明(2000年)に、「現状では翳形埴輪は厳密には存在せず、翳は蓋と違い埴輪も木製品も墳丘にはめぐらされることはなかったようである。」(37頁)とある。関東地方の放射状に線刻されたり、突起の突き出たタイプの“翳形”と呼ばれている埴輪について、筆者は、やはり翳であると考える。両者を同じものからの形象と捉える根拠は、翳に見えるばかりでなく、鵜の蹼にも見えるからである。蹼なら何もウ(鵜)でなくても、カモなどでもそうなっていると反論もあろう。しかし、翳の機能としての隠蔽に当たるほど、潜水ができる鳥はペンギンやウミガラスなど、きわめて少ない。さらに、ウは鵜飼に使われて、自然界に対して人の側に立っている。とても役に立ち、身近である。つまり、貴人の周りにいて手助けをする従者に同じい。深く掘った溝(うなて)に鵜飼をしている。5世紀の四条大田中遺跡や南郷大東遺跡の翳形木製品は、集落周辺の溝から出土するという。何の祭り、ないし、遊びか理解されよう。
鵜飼(宇治川の観光鵜飼、「京都はんなり旅」様(24/31))
 埴輪に穴が開いているのは、被葬者の“君(きみ)”に当たる人が覗き見れるようにする穴か、鵜の目鷹の目のウの目をあけているのか、絡垜から糸を巻き取る時に上に吊られる輪を示しているのか不明ではある。糸がほつれると絡まるから、あらかじめ絡垜にかけて整えておく。鵜飼に、鵜の足に糸が絡まることがある。鵜匠が下手なのであるが、翳に穴が開いていることは糸の絡み合いを防ぐことを示しているように感じられる。そして、ハニワリ(半月)という語とハニワ(埴輪)という語は、どうしてこうも似ているのであろうか。ハ、ハ、ハと笑うしかない。
(注8)白川静『字通』(平凡社、1996年)には、「者」の訓に「かくす」と記され、「堵の初文、お土居、お土居に埋めかくした呪祝、かくす、遮と通じる。」(701頁)とある。山口佳紀『古事記の表現と解釈』(風間書院、2005年)に、古事記の「者」字の用法がまとめられている。直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』(塙書房、1964年、初出は1953年)、瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』(おうふう、1994年)の研究を踏まえられたうえで、次のように結論されている。

 『古事記』の「者」は、次のいずれかによって説明できることが明らかになった。①提示用法・対比用法②条件用法③強調用法④文末用法⑤添義用法⑥連体用法(連体節中の主格表示用法を含む)
『古事記』の解釈は、その解釈の手掛かりを、まず『古事記』自身の中に求めるのが、最良の方法である。(83頁)

(注9)大野晋『日本をさかのぼる』(岩波書店(岩波新書)、1974年)に次のようにある。

 ……平安時代初期の漢文訓読体では、「者」の字は人間に関してはヒトと訓むのが普通で、モノとは訓じなかったという……。ヒトといえば社会的に一人前の存在をいう。モノといえば物体である。だから、モノは一人前の人間つまりヒト以下の存在を指すという意識が、平安時代初期までは明確にあった。それ故、「者」はヒトと訓んでモノとは訓じなかった。『源氏物語』などを見ても、痴(し)れもの、すきもの、ひがもの、古もの、わるもの、わかもの、なまけものどもなど、片寄った人間、いい加減な人間、一人前でない人間などについて、……ものという複合語が使われ、痴れひと、悪(わる)ひと、ひがひとなどとはいわなかった。(33~34頁)

 「者」字についてモノと訓む例としては、平安初期にも仏典に多く見られる。万葉集では、「生ける者 遂にも死ぬる 物に有れば この世なる間は 楽しくを有らな」(万349)とある。日本書紀では、図書寮本(永治二年(1142)訓)に、「譬如物積船以待潮者」(安康紀元年二月条)は、「譬へば物を船に積みて潮(シホ)を待つ者(モノ)の如し」とある。古事記では、「此稲羽之素菟者也(此は稲羽(いなば)の素菟(しろうさぎ)といふ者(もの)なり」(記上)、「於今者山田之曽富騰者也(今には山田の曽富騰(そほど)といふ者(もの)なり」(記上)、「是化白猪者其神之使者(是の白き猪(ゐ)と化(な)れる者(もの)は其の神の使(つかひ)の者(もの)ぞ」(景行記)、「執檝者(檝(かぢ)を執(と)れる者(もの)」(応神記)といった訓も見られる。一人前の人間、それをヒトと言うが、それ以下の存在として明らかに「者」字が用いられているところをみると、モノという言葉に「者」字を当てる意識が働いていたことがわかる。
(注10)ハンムラビ法典のそれは、「目には目を、歯には歯を」であるが、ヤマトコトバには「者(もの、は)には翳(は)を」と優れている。なぞなぞ大王の治める国である。
(注11)小学館の新編日本文学全集本・古事記頭注に、「神などを指す時に、それと直接示すことを避けることによって、敬意を表す言い方。ここでは『御心』と同じく、発言者が神であるための自己尊敬の表現。」(183頁)とある。将軍のことを「殿」という言い方に同じであると誤っている。せっかくの頓智話のヒントをふいにされている。
(注12)延喜式・内匠式に「翳柏形四枚」とあり、「翳の柏形(かしはがた)」と訓んでいる。虎尾俊哉『延喜式 中』(集英社、2007年)に、「柏形 翳に付ける柏の葉の形をした銅製の装飾品か。」(429頁頭注)とある。しかし、実物は管見にしてわからない。あるいは、柏の葉の形は、羽を連ねたような形をしているから、鷲類のサシバの羽を使った古来より伝承されるタイプの翳のことを指しているかと想像する。羽(は)を連ねた葉(は)の形の翳(は)である。上にあげた顧愷之の絵に見られるタイプはそれを物語っている。カシハ(柏)という植物名は、ハ(葉)がハ(羽)の連なりになっていることに注目した語かとも思われる。素材が羅になったから、今日伝わる羅紫御翳のような形に行きついたのではないか。参考例に、麈尾の構造についての図を提示しておく。ご批判を賜わりたい。
柏餅
カシハハ?(柏葉)
カシワ(「東北森林管理局 管内の樹木図鑑」様)
麈尾形状図(王勇「麈尾雑考」『仏教芸術』175号、昭和62年11月、79頁。①柄、②挟木、③鐔、④挟木釘、⑤毫)
(注13)青木周平、前掲書には、古事記の意富多々泥古の系譜を四世の孫ととって、欠史八代の天皇の系譜と対応させようとする「空想」も披露されている。
(注14)須恵器生産の開始によって陶器生産が行われて「陶邑」が出現したのは古墳時代の5世紀のことで、崇神天皇の時代から100年後のことだから、このギャップは何だろうかと疑問視して議論を展開される方が多くいらっしゃる。例えば、直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る4―伊勢神宮と古代の神々―』(吉川弘文館、2009年)、佐々木幹雄「三輪と陶邑」『大神神社史』(吉川弘文館、昭和50年)、吉井巌、前掲書。けれども、スヱツミミという音義を理屈づけるために、日本書紀は、「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑむら)」といった形容を行っているにすぎない。田中卓『神話と史実―田中卓著作集1―』(国書刊行会、昭和62年)は、和泉の〝スヱ〟といふ土地で、新来の陶器の生産が始められ、盛行したので、製品が〝スヱ(の土地)のウツハ〟と呼ばれ、〝スヱ〟の漢字として、「陶」の字が宛て用ひられるやうになつたのであらう。」(366頁)とする。地名譚が適当であることは、記紀の多くの記事に確かめられる。崇神記にも、「三勾」→ミワ、「挑」→イヅミ、「屎褌(くそばかま)」→クスバなど、下らない文章が頻出している。記紀の記された当時において、地名にある固有名詞は、なんとでもこじつけてよいものと考えられていたのであろう。名とは何か、それは呼ばれるものにすぎない。そう呼ばれることを“説明”するのに、紀の編者は時代的に合わないことを承知の上で、須恵器のことをにおわせる譚をしている。だから、挙句の果てに、「所謂大田田根子」という表現が成立している。まともな話としてはあり得ないことを示唆している。知恵がゆたかで、杓子定規に陥らない、とても賢い人たちである。
 なお、記に「於河内之美努村見得其人貢進」とあり、「河内」の「美努村」という地名が明記されている。オホタタネコという名の一解釈に「大田」+「種子」が溝のこととした。河の内の話である。「美努」については、「努」字がヌとノ(甲類)のどちらにでも訓まれるため、ミヌかミノかよくわからなかった。古事記に「努」字はこの1例である。オホタタネコの一解釈に「大手」+「種子」が翳のことであるとした。翳で隠すとよく見えないから、「見ぬ」の村ということから注目させる地名をもってきている。訂正古訓古事記、延佳本鼈頭古事記、兼永筆本、猪熊本古事記、前田本古事記などにある古訓ヌが正解のようである。(注12)にも触れたように、大きな葉の代表に、カシハがある。仁徳紀三十年九月条に、「御綱葉、葉、此には箇始婆(かしは)と云ふ。」とある。カシワの木は、離層を作らずその大きな枯れ葉を翌春まで残す傾向に強い。「葉」をカシハとする上代の人々の感性が知られる。
(注15)ヤマトタケルの逸話は、景行天皇時代のことだから、崇神朝に合わない考える方もおられよう。そういった四角四面な考え方は、お話(咄・噺・譚)を聞くうえで建設的ではない。落語を聞くのに屁理屈を捏ねて間違いだと言って、何が得られるのであろうか。魂が生きていて飛んでいくことは、ありがちな発想である。豊作の米を餅にして矢の的にして粗末にしていたら、鳥になって飛んで行ったとする話が豊後風土記に載る。的のことをイクハという。どうしてイクハというのか定かではないが、イクハと言っていたのだからそう認めるしかない。本稿は、イクもハも出てくる言葉となっている。イクタマヨリビメがハと関連していることを示唆している。
(注16)「ハ一族」という形容は、理解をすすめるために用いている。当たり前の話であるが、蘇我氏、物部氏、三輪氏と並んでハという人たちがいるわけではない。すべては、頓智、なぞなぞである。
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大物主神の御前を翳(さしば)で祭れ 其の一

2017年04月29日 | 論文
 三輪山伝説の主話については、本ブログ「三輪山伝説 其の一」以下で詳述した。夜な夜な活玉依毘売のもとを訪れていた神の素性について、はにわり(半月、黄門、paṇḍaka)であることを明らかにした。今回は、その前に記されている崇神朝の疫病と人口減少、オホタタネコによる祭祀によって疫病が止んで国家が太平を取り戻した記事について解説する。

 此の天皇の御世(みよ)に、伇病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おほみたから)尽きなむとす。爾に天皇、愁へ歎きて、神牀(かむとこ)に坐(いま)しし夜(よ)、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て、我が御前(みまへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、国も亦安平(たひ)らぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かふち)の美努村(みののむら)に其の人を見得て貢進(たてまつ)りき。
 爾に天皇の問ひ賜はく、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」ととひたまふに、答へて曰さく、「僕(あ)は大物主大神の、陶津耳命(すゑつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶りて生みし子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、僕は意富多多泥古ぞ」と白(まを)しき。是に天皇、大きに歓びて詔(のりたま)はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主(かむぬし)と為て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(をろが)み祭りき。又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰せて、天の八十(やそ)びらかを作り、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。又、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神(おほさかのかみ)に、黒き色の楯・矛を祭り、又、坂之御尾神(さかのみをのかみ)と河瀬神(かはのせのかみ)とに、悉く遺し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りき。此に因りて、伇の気、悉く息(や)み、国家(あめのした)安平らぎき。
 此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘売、其容姿端正。於是有神壯夫、其形姿威儀、於時無比、夜半之時、儵忽到來。故相感共婚共住之間、未経幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、問其女曰「汝者自妊。无夫何由妊身乎。」答曰「有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到来、共住之間、自然懐妊。是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇〈此二字以音〉紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾即知自鉤穴出之状而、従糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖。(後半部分は本ブログ「三輪山伝説 其の一」以下に既述の部分のため、原文にて載せた。)

 三輪山の神が大物主神で、その正体がはにわり(半月、黄門、paṇḍaka)であるとしたら、それは祟りを起こすことは説明を要さないであろう。動物に雌雄転換するものは稀にある。人類の(精神的ではなく肉体的な)性のありかたを見る限り、常態ではなく、はにわりの存在は社会秩序に混乱をきたす。では、その無秩序状態を解消するにはどのように祭ればいいか。記では、天皇の夢に、意富多多泥古(おほたたねこ)をして祭らしめれば良いということであった。そこで、オホタタネコを探して来て祭らせたら、疫病がおさまって国は平らけくなった、ということに終わっている。
 そこで問題は、オホタタネコとは誰か、何者なのか、という点に絞られよう(注1)。これが難しい問題であるため、時に議論をずらして解釈しようとする論者がおられる。そこから、歴史上、崇神朝の特質を述べ立てる方もおられる。どんどん議論されていっているが、肝心のオホタタネコとは誰か、ほとんど謎が解かれていない(注2)
 日本書紀には、古事記の簡潔な記述と異なり、ぐずぐずといろいろな話が付加されている。両者の違いから製作意図に違いを見出そうとする向きもある。筆者は、すべては無文字文化におけるお話(咄・噺・譚)であるから、どのように加工しようが口先三寸の脚色であると考えている。むろん、それぞれに話の辻褄は合っているであろう。嘘はない。言霊信仰のもとでは、言=事であるから、間違ったことを言ってはならない。間違ってはいないが、どのように話を面白くするかは作者の口先三寸である。文字がないからライター(writer)ではなく、ペン(pen)先のことではない。うまい話をいかに作り上げるかは、頓智の能力にかかっている。
 日本書紀で見逃せない記述に、「所謂大田田根子」(崇神紀八年四月条)がある。「所謂(いはゆる)」とは、謂われている、の意味である。紀に、「所謂」記事は全部で14例ある。そのうち、物名に冠される例が3例(「草薙剱」、「堅間」、「鳳凰・騏驎・白雉・白烏」)、章句に冠される例が歌謡の文句をあわせて5例(「反矢可畏」、「雉頓使」、「波魯波魯儞……」、「烏智可拕能……」、「烏麼野始儞……」)、地名に冠される例が2例(「泉津平坂」、「三韓」)、神名は1例(「八雷」)、人名の3例は下に述べる(注3)。古代に人名とは、戸籍があるわけではなく、また、芸能界の名鑑があるわけでもない。文字を使っていないのだから当然のことである。名とは、呼ばれるものである。その呼ばれているから名前であるはずの人名に、「所謂」と冠されている。すべての人の名前は「所謂」かもしれないが、ふつうは「所謂」とは冠されない。皆が何の疑問も抱かずに、小さいころからそう呼んでいるから当たり前であって、名は体を表すほどに歴然としてしまっている。そんななか、「所謂」と冠される人名は、知られていなかった人がその名でもって探し求められて見つかった場合である。本当にその人なのか確証は持てない。自称に過ぎない。そのような人を始祖とする末裔を示す際、氏素性が知られないかもしれないけれどといった余韻を残しつつ、「所謂○○」という言い方が行われている。

 所謂(いはゆる)大田田根子は、今の三輪君(みわのきみ)等が始祖(はじめのおや)なり。(崇神紀八年十二月条)
 所謂野見宿禰(のみのすくね)は、是れ土部連(はじのむらじ)等が始祖なり。(垂仁紀三十二年七月条)
 所謂王仁(わに)は、是(これ)書首(ふみのおびと)等が始祖なり。(応神紀十六年二月条)(注4)

 崇神紀では、天皇の夢にオホタタネコという名が立ちあがっている。また、垂仁紀や応神記では、天皇の問い掛けに、群臣や渡来人の阿直岐がノミノスクネやワニと答えている。知られていない人を、名前が先行して述べられている。名前とは呼ばれるもののことであったから、先に人物がいて、それに名前を付けるのが順序である。それが逆転して名前が先にあって、人物が後から登場してくる。これは奇異なことである。氏族の由来をそんな人物に委ねる時、「所謂」と冠して述べている。
 野見宿禰は、垂仁天皇が、当摩蹶速(たぎまのくゑはや)よりも相撲の強い人物がいないかと群臣に問うたところ、一人がノミノスクネというのがいます、と答えたため、全国に探した結果、出雲国にいたので呼び寄せたということになっている(垂仁紀七年七月条)。本当にノミノスクネという人物なのかは確認されていない。相撲を取らせたら勝った。「相撲(すまひ)」と同音に「住まひ」があり、その語はスミ(住)+アフ(合)の約とされている。ずっと住むことを表す。万葉集に、

 …… 布細(しきたへ)の 宅(いへ)をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ 座(いま)しものを ……(万460)
 天地(あめつち)と 共に久しく 住まはむと 念(おも)ひて有りし 家の庭はも(万578)
 天(あま)ざかる 鄙(ひな)に五年(いつとせ) 住まひつつ 都の風俗(てぶり) 忘らえにけり(万880)

とある。また、野見宿禰は後年(三十二年七月条)に、殉死の人柱をやめて埴輪を並べることを提案した人物である。よって、土部連等の始祖ということになっている。ノミ(ノ・ミはともに甲類)という名は、野辺の送りの「野」の意味と、それを守る墓守の意味の「見」の続いた名と捉えられる。人が「住まひ」するのにいくら長く居つづけたとしても、人生50年ぐらいのところを、墓の場合は半永久的に「住まひ」の状態にできる。今に“古墳”時代と言っている。相撲(すまひ)に長じていた所以である。
 名前が、「所謂」として語られる意味は大きい。行為者である人物よりも名前が優先されている。文字の未発達な上代に、言葉が事柄に先行してあることとは、言葉が事柄よりも先に表明してしまっていることを表す。すなわち、疫病が流行っているのは大物主神の神意であり、それを鎮めるにはオホタタネコという人物で祭らせたらよいというのである。オホタタネコという名こそ、大物主神の祟りを鎮める手立てであることが先んじて語られている。オホタタネコとは誰か、という問いには、オホタタネコとは大物主神の祟りを鎮める効果のある名前の付いている人、という答えがいちばん適切である。探してみたらいたというのは、実はそれほど大切なことではない。なぜなら、口先のお話(咄・噺・噺)だからである。
 オホタタネコという音の連なりは、何の意味が考えられるだろうか。一般に、オホ(大)+タタ+ネコ(尊称)とされており、タタについては、本居宣長・古事記伝に、多太神社のある地名を表すのではないかとする憶説ぐらいしかない(国会図書館デジタルコレクション(16/577))(注5)。ネコを尊称とする例は、天皇の名に、大日本根子彦太瓊天皇(大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)、孝霊天皇)、大日本根子彦国牽天皇(大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと)、孝元天皇)、稚日本根子彦大日日天皇(若倭根子日子大毘毘命(わかやかとねこひこおほびびのみこと)、開化天皇)、白髪武広国押稚日本根子天皇(白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)、清寧天皇)、ほかにも、稚倭根子皇子(倭根子命)、真根子、難波根子武振熊(難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと))などとあるから、尊称とされている。そのようにとれるから、三輪氏の祖先ということに収まっているのであろうか。けれども、古事記のネコ称について、他の個所は日本書紀同様「根子」とあるのに、オホタタネコの場合のみ、「泥古」と記されている。夢のお告げに聞いた名前である。多様な捩りがあって不思議ではない。
 例えば、オホタ(大田)+タネコ(種子)と聞けば、大きな田をつくるための材料という意味にとれる。田んぼの面積を大きくすることは、生産・収穫効率を高めて稲作農耕にイノベーションとなった。区画を整理するには、灌漑用水、崩れない畦・畝の構築、排水設備の充実が求められる。低湿地の常湛田の拓かれてきた弥生時代の田んぼをさらに活かすには、排水溝が必要であり、沖積平野へ田んぼを拡大させるには、灌漑のための用水溝が必要である。小さな田をいかに整理して畦を少なく大きな田にするかについては、杭打ちして堅固にした畝の構築が必須である。そのような土木技術を代表する言葉は、溝、上代語にウナテという(注6)。ウネ(畝)と関係する語と考えられている。オホタ(大田)+タネコ(種子)とは、ウナテ(溝)のことらしい。

 其れ多(さは)に池溝(うなて)を開(ほ)りて、民の業(なりはひ)を寛めよ。(崇神紀六十二年七月条)

 オホタ(大手)+タネコ(種子)と聞けば、大きな手をつくる材料ということになる。大きな手として考えられるのは、第一にお相撲さんの手であるが、それではまったく面白くない。お話(咄・噺・譚)にならない。大きな手のようなものには、翳(さしは)がある。上代に清音である。儀式の時に貴人の顔を隠すために使われた。団扇のような形をしていて、長い柄がついている。鳥の羽を挿して作られていたからサシハと呼ばれ、指羽、刺羽とも記される。高松塚古墳の壁画の女性が手に持つのは、おそらく翳である。
 日本古代の威儀具についての第一人者である鈴木裕明先生に、詳細な報告、解説がある。『権威の象徴―古墳時代の威儀具―』(橿原考古学研究所附属博物館、2000年)、「古墳時代の翳(さしば)」『博古研究』第21号(2001年4月)である。先生は注意深く考古品を観察され、とても慎重な物言いとなっている。団扇なのか、麈尾なのか、翳なのか、見極めようという態度である。そのため、一般に翳形埴輪と称される6世紀後半に関東地方で生まれた形象埴輪も、団扇や麈尾を表わしたものであろうかとされている。また、近畿地方では木製品としては認められるが、埴輪化されることはなかったとされている。
埴輪 翳(伊勢崎市豊城町権現下出土、古墳時代、6世紀、東博展示品。キャプション中国語訳に「長柄扇」とある。松木武彦「翳(さしば)形埴輪―冥界に旅立つ貴人―」『歴博』第197号参照。)
翳形埴輪(古墳時代、6世紀、前橋市大胡町出土、国学院大学博物館展示品。翳形埴輪は、岡本太郎「太陽の塔」にあるとおり表裏がある。)
翳形埴輪(埼玉県鴻巣市生出塚埴輪窯跡出土、6世紀、高78cm、鴻巣市教育委員会蔵、一瀬和夫・車崎正彦編『考古資料大観4 弥生・古墳時代 埴輪』小学館、2004年、19頁)
左:さしば形木製品(橿原市四条1号墳出土、古墳時代、橿原考古学研究所附属博物館展示品、「ぽこ あ ぽこ」様)
「此図絵四人身著円領衫袍、竝肩站立。其中二人執高柄行燈、一人執高柄傘、一人執高柄扇、……」(呉文祺)(「備騎出行、山東省嘉祥県英山徐敏行夫婦合葬墓墓室西壁中部、隋・開皇四年(584)、宿白編『中国美術全集 絵画篇12 墓室壁画』文物出版社、1989年、83頁)
顧愷之・洛神賦図巻(東晋、北宋摹、絹本設色、『晋唐両宋絵画・人物風俗 故宮博物院蔵文物珍品全集3』商務印書館有限公司、2005年、19頁)
翳を掲げる従者(絵因果経、紙本着色、奈良時代、8世紀、渋谷区立松涛美術館編『御法に守られし醍醐寺』同発行、2014年、22頁)
翳のある竹原古墳壁画(福岡県宮若市、6世紀後半、「宮若市観光協会」様)
翳(弘化四年御即位諸礼式図、神宮文庫編『即位の礼と大嘗祭』国書刊行会、平成2年、17頁)
翳(文安御即位調度之図、同上書、38頁)
翳((寛文)御即位礼服図、同上書、46頁)
伊勢神宮の羅紫御翳(「産経west」様)
翳(大阪府歴史博物館再現展示品。左手前のはもと菅翳の絹布仕様のものか。)
天平きものガールズ(「平城京天平祭」(2017.5.3~5.5)告知パンフレット、「円羽(こは)」?)
平城遷都之詔(同上、「大翳(おほは)」?)
 筆者は、上にあげた埴輪はともに翳であると考える。放射状に突出している例など、何か違うのではないかとする慎重派に異を唱える。なぜなら、放射状に突起を設けた形のものが、ウナテという語に適うからである。ウ(鵜)+ナ(助詞ノの音転)+テ(手)とは、鵜の足の蹼(水掻き)のところである。それは、まさに、放射状の突起を持っている。それでもって水を掻いている。力強く掻いて、水面下に潜ってどこへ行ったか分からないほど潜水能力が高い。見えなくなる。隠れてしまう。翳と同じ機能を果たす。オホタ(大田)+タネコ(種子)のことを表すウナテ(溝)がウナテ(鵜手)となって翳となっている。水のなかを“飛ぶ”のに役立つ羽というわけである(注7)
かわう(博物館写生図、中島仰山筆、紙本着色、明治9年(1876)、東博展示品)
 和名抄に、「翳 本朝式に云はく、斎王行具翳二枚〈翳、音於計反、波(は)〉といふ」とあり、単にハとも呼ばれていた。この点は、注目されなければならない。団扇のような形のところが、羽で作られている。そして、視線を遮るために用いられている。翳(かげ)を作るものが翳(さしは)である。晴れている時に下を向いて歩いていると、地面に翳(陰(かげ))を見つけることがある。木があったり、鳥が飛んでいたりした時である。木は葉のせいであり、鳥は羽のせいで太陽光線が当たらない。つまり、どちらも、ハ(葉・羽)である。ハというヤマトコトバは、遮蔽することと関係のある言葉であると納得される。そういう納得感のあるものは、言霊信仰のもとにある人々の興味をそそったに違いない。彼らのゆたかな言語感覚から容易に知れる。古代の人々は芸術活動に走った。翳形埴輪と呼ばれる埴輪を作って喜んでいる。「何作ったの?」、「ハ」というやり取りが行われていたに違いない。服玩具の翳は、ハと一音で表すに適切である。
 そんな翳の材料とは、鳥の羽、それも鷲がふさわしい。万葉集に、

 渋谿(しぶたに)の 二上山(ふたがみやま)に 鷲(わし)そ子産(む)とふ 指羽(さしは)にも 君がみために 鷲そ子産とふ(万3882)
 真鳥(まとり)住む うなての神社(もり)の 菅(すが)の根を 衣(きぬ)にかきつけ 着せむ子もがも(万1344)
 想はぬを 想ふと云はば 真鳥住む うなての杜(もり)の 神し知らさむ(万3100)

とある。「真鳥」とは、鷲のことを指すといわれている。鷲は別にオホトリとも呼ばれるが、オホジカのことは、漢字に麈と記され、その尾の毛を使って威儀を正すか蠅を払うかするために使われた団扇型の道具に、麈尾(しゅび)がある。翳を作るのにふさわしい鳥の羽とは、現存例が見られないから確かめることはできないが、オホトリともマトリとも呼ばれる鷲の羽であろう。鷲の類の中に、サシバという固有名の種がいる。別名は、大扇(おおおうぎ)と今に残っている。万3882番歌はその間の事情に負うところ大である。その鷲がウナテ(溝)の杜に住んでいるのは、オホタタネコ(大田種子・大手種子)つながりからであろう。この歌は、オホタタネコの話を捩った歌である。
サシバ(森岡照明・叶内拓哉・川田隆・山形則男『図鑑日本のワシタカ類』文一総合出版、1995年、173頁)
(つづく)
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牓示札(ぼうじさつ)のこと

2017年04月25日 | 無題
加賀郡牓示札(石川県津幡町賀茂遺跡出土、9世紀半ば、「石川県埋蔵文化財センター」様)
「加賀郡牓示札の掲示状況」(平川南『日本の原像―新視点古代史―全集日本の歴史第二巻』小学館、2008年、口絵5頁続をモノクロ化した。)
 牓示札として石川県津幡町賀茂遺跡出土品が知られている。平川南、同上書に、「この牓示札は一一五〇年前、九世紀なかばの古代の村に立てられていた『御触書(おふれがき)』なのである。」(14頁)、「牓示札の大きさは、古代の紙一枚の規格である縦約三〇センチメートル(当時の一尺)、横約六〇センチにほぼ合致する。記された内容は、九世紀にしばしば出された個別の禁令を集めたようなものであり、紙の文書をそのままの体裁で板に書き写している。これは律令(りつりょう)国家が公文書による行政支配を村々にまで徹底させようとしたことを意味している。しかし漢字・漢文で書かれた内容は、当時の村人にわかるはずがない。そこで牓示札には、『村人にその旨を説いて聞かせるように』との郡の下級役人への命令が盛り込まれている。つまり、この牓示札によって、文書伝達と口頭伝達を組み合わせた古代日本の文字文化の特質も、見事に実証されたのである。」(16~17頁)とされている。村人に牓示札の内容を説明するイラストも口絵に載る。筆者には、この考え方に近寄れない。
 平川南、上掲書、ならびに、平川南『古代地方木簡の研究』(吉川弘文館、2003年)による翻刻文を適当に次に示す。

☓〔官ヵ〕符深見村□郷駅長并諸刀弥〔祢〕等
応奉行壹拾条之事
一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状
一禁制田夫任意喫魚酒状
一禁断不労作溝堰百姓状
一以五月卅日前可申田殖竟状
一可搜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状
一可禁制无桑原養蚕百姓状
一可禁制里邑内故喫酔酒及戯逸百姓状
一可塡〔慎ヵ〕勤農業状 □村里長人申百姓名
☓〔撿ヵ〕案内被国去□〔正ヵ〕月廿八日符併〔侢ヵ〕勧催農業
□〔有ヵ〕法条而百姓等恣事逸遊不耕作喫
☓〔酒ヵ〕魚歐乱為宗播殖過時還称不熟只非
☓〔疲ヵ〕弊耳復致飢饉之苦此郡司等不治
☓〔田ヵ〕之□〔期ヵ〕而豈可◍然哉郡宜承知並口示
☓〔符ヵ〕事早令勤作若不遵符旨称倦懈
☓〔之ヵ〕由加勘決者謹依符旨仰下田領等宜
☓〔各ヵ〕毎村屢廻愉〔諭ヵ〕有懈怠者移身進郡符
☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羈進之牓示路頭厳加禁
☓〔田ヵ〕領刀弥〔祢〕有怨憎隠容以其人為罪背不
☓〔寛ヵ〕有〔宥ヵ〕符到奉行
大領錦村主       主政八戸史
擬大領錦部連真手麿 擬主帳甲臣
少領道公  夏□  副擬主帳宇治
□〔擬ヵ〕少領 勘了
嘉祥□〔二力〕年□〔二ヵ〕月□□〔十二ヵ〕日
□〔二ヵ〕月十五日請田領丈部浪麿

 下々の者である村人は、文字をまったく読むことができない。その人たちを相手にして、牓示札の文字を見せても理解されることはない。手習いから始めなければ無理である。江戸時代には御触書が通用した。識字率が高かったから有効であった。瓦版屋さん(読売)が営業できていた。古代にまったく無効な牓示札が、道端に掲げられていたとは考えにくい。体裁も、当時の標準的な紙と同じで、罫線まで引かれている。ご指摘の通り、紙の文書を板に書いただけの代物である。紙がなかったためであろう。日に当たっていた形跡があり、文字の部分が浮き出ている。まるでお経の版木のようである。掲げられていたとしても、文字の読める官吏が勤めている役所の中であると考えられる。真ん中にあいている丸い穴は、何を意味するのであろうか。
 文章のなかに、「符の旨を国の道の裔(そば)に縻羇(びき)し之を進め、路頭に牓示し、厳しく禁を加へん。(符☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羇進之牓示路頭厳加禁)」とある。この出土品は、「符」全部を記している。「符の旨」だけを「路頭に牓示」すれば良いのではないか。掲示板に、「○○○○ということを掲示せよ」とある掲示物は、コンテクストの論理階梯に混乱をきたしている。従順な地方官であれば、掲示物としては「○○○○」だけにする。それを「○○○○ということを掲示せよ」というポスターにするのは、無抵抗・不服従の反対闘争を行っていることになりはしないか。
 平川先生の前掲書、『古代地方木簡の研究』に、「本木簡の場合、各行は、行頭部分では界線に沿うものがあるが、全体的にはあまり界線にとらわれずに記されている。これは、直接札に記されたものではなく、紙の文書があらかじめ用意され、それをもとに、そのままの書式で木札に転記した場合に起こりうる傾向と理解できるであろう。」(121頁)とある。ほぼそのとおりであろう。紙の文書で送られてきたものを、紙がないからそこらへんにある材木に転記し、もとの紙の文書は次の刀禰に回覧したということである。その際、文書の形式に疎かったため、界線にまたがることに何か意味があるのかもしれないから間違いのないように、日頃からやっているようにまるごとそのままに“写す”ことが行われた。別に村人に見せるためではなく、覚えとして取っておかなければならないからそうしておいた、ということではないのか。意図的に無抵抗・不服従をしているのではなく、頭が空っぽだから無抵抗・不服従の状態になっている。その際、本当に頭の中が空っぽであることを示す点として、真ん中の釘穴(?)がある。ここに本来文字が一字あったのか考えると、上の「田〔之〕……可」までの字間が縮まっており、初めから穴に当たらないように作られている。穴を避けるように字が転写されており、その可能性としては、穴のある板に写すために殊更に字を縮めたか、そのように記されて隣の刀禰から回ってきた「文書」(板書?)をそのとおりにしたかのいずれかであると想像できる。衆目にさらされる立札、高札に、真ん中に釘穴(?)のある板を(再)利用するであろうか。
 「牓」と記される木簡には、門牓について、市大樹「藤原宮・平城宮出土の門牓木簡」や同『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)に論考されている。告知札、闌遺札と呼ばれる木簡もある。「牓」についての規定は捕亡令、同じ意味の「牌」は賦役令に記載がある。いくつか出土しているが、すべていわゆる木簡形式の一方に長いものである。なかには横長にして数文字ずつ縦書きして改行していく「横材木簡」と呼ばれるものもある。それでも、紙のように面として一枚二枚と数えられるようなものではない。
 ヤマトコトバを研究する立場からすると、賀茂遺跡出土の「牓示」札は、フダ(札・簡)の概念を覆すものである。中世以降の制札・高札につながるものと定義するのに抵抗がある。馬や迷子の捜索のため、また、境界の標識として記すため、というように異なる目的を、使用方法としては他者に知らしめるために掲示した、という点に限って、同じく“牓示札”と総称し、それに類するものとしてこの賀茂遺跡出土品が捉えられている。他にも疑問点はある。幅のある板状のものが、そもそも「木簡」と呼ばれるものに相当するのか、筆者は不勉強で知らない。
 「牓」字は、字鏡集に、フダと訓まれている。中世以降の制札・高札のことをタテフダと一般にいっている。札を立てているからということであろう。法度、禁制、諭告、案内などを知らしめるために板などに記して道端に立て、通行人に供覧せしめた。タテフダという言葉は、文献記録に戦国時代の16世紀半ば以降の言葉である。ひょっとして、タテフダという語は、タテガミ(立紙・竪紙)に由来する言葉なのかもしれない。正式な文書形式は、今日、般若心経の書写用紙にあるようなものとしてあった。横長の紙に縦書きに記す。料紙の正式な用法であるある立紙を、板に転写して正式に御触書にしたから、タテフダと呼んだのかもしれない。タテガミという言葉は、文献記録に平安時代後期の11世紀末に用いられている。となると、9世紀半ばの賀茂遺跡出土の“牓示札(ぼうじさつ)”のことを、ヤマトコトバ的にタテフダであるとは了解できない。なお、タテガミと今日言っている動物の鬣については、新撰字鏡や和名抄にタチカミとある。本ブログ「太刀魚と馬の鬣、sword、「発掘された日本列島2015」展の形象埴輪について」を参照されたい。
 白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、次のようにある。

 ふだ〔札・簡・簿……・籍……・帳〕 文字をしるすための小片。「ふみ、いた」から転化したものであろう。「ふみた」「ふむた」ともいう。「ふみて」が「ふで」となるのと同じ。もと木や竹で作り、のち布を用いることもあった。(660~661頁)

 白川先生のあげられている用例に、「籍帳(へのふみた)」(顕宗紀元年五月条)、「名籍(なのふみた)」(敏達紀三年十月条)がある。そういったフミタの札は、どのように扱われたのか。荷札は荷物に括りつけられる。木簡、竹簡はぐるぐる巻きにできるように綴じられている。インドで見られる貝葉経文は、真ん中にあながあいていて、糸で綴じられてまとめられている。境界標のように建てられるものには、墓標、ないし卒塔婆があろう。そんななか、高札としてタテフダなるものを想起することは、ヤマトコトバ的になかなかむずかしい。カケフダ(掛札)であろう。出勤したときに表にし、退社するときに裏にする名札には、掛けられる形式のものが多い。
 長い文章をそのままに見ることは、いまでも本の大きさに一定のサイズ感があるように、人の肩幅よりも大きくなると視野に入らなくなってきて手こずる。お経が巻物に写されれば、巻きながらしか唱えられず、蛇腹式であれば、開いているところしか唱えられない。40インチのモニターにこれまで同様に小さな文字を出力して一気に見渡したとして、人間は一度に見ることはできない。観光案内板の立札に寺社の縁起が長々と改行なく記されているものがあるが、立ち止まって読み通すのに数分かかり、とてもいらいらする。同じことが案内パンフレットに書いてあれば、それをゆっくり読むことができて不快感はない。加賀郡牓示札は、その違和感を惹起させるものである。(石碑建立の由来を示す碑文の場合、書として見るので別物である。)
(「防犯おおさか第125号」様)
 筆者の考えは、警察庁から全国の警察署に、「『振り込め詐欺に注意せよ』と高齢者に注意せよ」と通達があったら、「振り込め詐欺に注意しましょう」という内容のポスターを各警察署で作って掲示板に貼るのがふつうであるというものである。「振り込め詐欺に注意せよと高齢者に注意せよ」という立て看板を設置することはないと思う。字が読めるか読めないかには大きな開きがあるが、字は読めても意味が理解できるかどうかにも大きな開きがある。さらに、逐語的に意味はとれても大局的な思想が理解できないことも多い。9世紀半ばの賀茂遺跡出土の「牓示」と記されている縦23.3cm(28~29cm≒一尺)×横61.0cm(61cm≒二尺)(括弧内は復元推定サイズ)の板は、“控え”であってタテフダではないと考える。それが歴史学にどのようなことに当たるのか、議論されることを期待したい。

(2017.5.10追記)
 7世紀末の明日香村の石神遺跡から出土した、表裏に文字が記されている3月と4月の暦の木簡が、“幅”があると知りました。木器に転用されているのでもとの姿はわかりませんが、長方形であったろうとのことです。「牓示」したのかどうか、見当もつきません。どなたか教えてください。
(2017.5.17追記)
貝多羅墨書(梵本心経および尊勝陀羅尼、後グプタ朝、7~8世紀、東博展示品。留め穴部を避けて文字が書かれている。)
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十七条憲法の「和」について 其の三

2017年04月21日 | 論文
(承前)
(注1)和辻、前掲書に、「この憲法は、憲法と呼ばれているにかかわらず、形式の上で道徳的訓戒に近いものである。……憲法は、国家のことに関する限りの人の道を説いたものである……。従ってそれは、官吏に対して、官吏としての道徳的な心がけを説いたものである。その関心するところは公共的生活であって、私的生活ではない。その説くところの心がけも、おのずから国家の倫理的意義を説くことになるのである。」(115頁)とある。
(注2)本ブログ「江田船山古墳大刀銘を読む 其の一」以下参照。
(注3)本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の一」以下参照。
(注4)偽作説や後の仮託の作、太子像虚構説などいろいろあるが、本稿は、「古事記・日本書紀・万葉集を読む」ことを行っている。読んでいてとてもリアルに感じられるので、でっちあげ説には基本的に関心がない。
(注5)筆者の言語感覚に過ぎないが、抽象的な概念を言葉としたものとして古いものに、カミ(神、ミは乙類)という語がある。これは二音である。もとからあるヤマトコトバの一音の語、ワ(輪・吾)以外にも、例えば、ヰ(井・猪)、ツ(津)、ヲ(尾・緒・雄)、ス(巣・洲・酢)などに、抽象的な概念が忍び込む余裕があったとは考えにくい。ヲ(雄)は陽物をもってヲ(尾・緒)である。ナ(名)も二人称のナ(汝)を表す呼び方が名前である。いずれも具体語の派生と考えられる。擬声語や擬態語から言葉の由来を解く試みも見られる。ウ(鵜)は、ウ(肯)と言わざるを得ずに魚を吐かされているからウであろう。いまにハイと同等語のウンに続いている。そうすると、擬声語、擬態語の類は、抽象語とは別次元にあると考えなければならない。
 そんななか、「和(わ)」を、呉音による外来語であると想定している。抽象的な概念の言葉としてのワ(和)は、時代的に遡ろうにもなかなかに遡れない。いかに仏教が盛んになっていたからといっても、寺院内ではなく役所のことである。論語・子路に「子曰く、君子は和して同せず。小人は同して和せず。」とあるから理解していたはずだという前提は、「和」をクワとは漢語読みしなかったという説明が必要である。憲法の十五条で感慨に耽っている文章からも否定される。そこでとりあげられているのは、初章の「上和下睦」である。千字文の文言で、初学書を持ち出さなければならないほど識字知識は低レベルである。宮仕えしている舎人など、前年はお国で鍬を振るっていたかもしれない。そんな輩を前にして、はなっから wa などと外来語を持ち出しては、皆 wa と驚くしかない。そういう洒落なのであろうか。
(注6)「条(條)」は助数詞でヲチと訓まれる。細長いものや細長く連ねた形のものに用いられる。「小幡十二条」(推古紀三十一年七月条)はチヒサキハタトヲアマリフタヲチ、「禁式九十二条」(天武紀十年四月条)はイサメノノリココノソアマリフタヲチと訓まれている。よって姉崎先生の作られた復刻を、ひとつづきの細長いものとして切り貼りしてみた。布や立札に書いて官吏たちに見せた可能性を探るため、“実験書誌学”を行ってみた。
幡(東大寺慶讃法要・庭儀、昭和63年5月2日、井上博道『東大寺』中央公論社、1989年、69頁)
金銅小幡六流(る)(「条(をち)」とは数えないのであろうか。銅板製透彫鍍金、法隆寺献納宝物、飛鳥時代、7世紀、東博展示品)
(注7)大人になるということは、一人立ちするということである。精神面においても一人立ちしているはずであると、自他ともに認めるのが大人である。その大人に対して説諭することは大変なことである。人格に対する毀損も兼ねてしまうからである。する方もされる方もとても恥ずかしい。方便として、酒を飲みながら執り行われている。酔ってしまえば、人格の否定に当たることも、わからなくなっているから許されてしまう。間違った方向に行き過ぎた例として、酒の席でのセクハラや飲酒運転などがあり、許されない事態となる。現在の日本国憲法に高らかに謳われている基本的人権の尊重は、大人に対する説諭や訓戒をさらに難しいものにしている。
(注8)岩波書店の大系本日本書紀補注に、「憲法十七条を文章形式の上から見ると、各条はそれぞれ、はじめにその条の綱領を命令の形であげ、ついで、それ以下にこれを演繹して、説明を与えるという構造を持っている。従って訓読においても、各条が命令の形を含みように訓むのがよかろうと思われる。」(ワイド版日本書紀④、2003年、388頁、初出は1965年)とある。
(注9)日本書紀の古訓に、「和幣(にきて)」、「和順(まつろふ)」、「和享(にこむ)」、「和魂(にきみたま)」、「和好(よしび)」、「和顔悦色(うれしぶ)」、「和解(あまなはしむ)」、「寛和(やはらか)」、「和親(にきび)」、「通和(かよふ)」、「温和心(やはらけきこころ)」、「不和(やくさむ)」などがある。
(注10)池田温編『日本古代史を学ぶための漢文入門』(吉川弘文館、2006年)に、「漢字千字を重複することなく用い、四字句を連ねた韻文としたもの。梁(りょう)の周興嗣(しゅうこうし)が、武帝の子息の学習用に作り、以後後代まで、広く漢字文化圏で初学書として普及した。」(199頁)とある。
(注11)衍字とする説もある。河村秀根・河村益根の書紀集解に、「原有歟字。傍訓讒入。」(国会図書館デジタルライブラリー(24/234))と注されている。「情」を「コヽロ」と訓んでいるのだから、何も讒入とする必要もないと思われる。最後のカという助詞の疑問・詠嘆が、誰が誰に対して発したものなのか不可解とされる向きは、憲法十七条の作者である太子が、自分の作った原稿の第一章を見直して、確かにそうだと思い返すことなど変ではないかという指摘であろう。本文で述べたように、千字文という初学書を示しており、レベルの低い聞き手と同調しようという計らいである。したがって、十五条の「初章云」の文言がある以上、第一条を仏教的な和合の精神から捉えようとするのは、思想的な“背景”としては外れていないかもしれないが、言葉遣いの上ではあまりにも迂遠なことに思われる。なにしろ、この「憲法」は、思想書ではなく、“訓示”である。
 そして、“訓示”であれば、「初章云……歟」とあって、何ら不思議ではない。それを“法典”と捉えると、現代の法律や条約などの条文を含め、最終条項に論理階梯を混乱させる念押しの文言を登場させて並列で記す場合があり、それからの類推を行わなくてはならなくなるが、あくまでも“訓示”であるから、言語感覚的には何ら問題はない。
(注12)「尅念作聖」については本稿と関係ないので稿を改めて論ずる。
(注13)山田孝雄、前掲書の「則」の解説に、用言の已然形にバを添えてよむ「レバ則」と、用言の未然形にバを加えてよむ「ラバ則」について、接続副詞と説明され、それ以外に、「即」、「乃」と同じように用いられる副詞としての用法を確かめられている。「経伝釈詞に曰はく 則者承上起下之詞、広雅曰則即也 といへるものはこれその接続詞としての性質をいへるものなれば、今の関する所にあらず。次に曰はく 則猶其也 則猶而也 則猶乃也 と。かくの如きに至りては、『則』『即』『乃』同じといふこととなり、その意はここに於いてせずして彼に求めざるべからざることとなる。」(168頁)とある。純然たる副詞の用法の「則」は、「其」、「而」、「即」と読み替えられるものである。
(注14)音転して形容動詞化したニコヤカ・ニコヨカ(「和」)の用例に、次のような例があり、男女を比した場合、どちらにニキ・ニコ(和)なのかは明らかと思われる。
 
 蘆垣の 中のにこ草 にこよかに 我を笑まして 人に知らゆな(万2762)
 秋風に 靡く川びの 和草(にこぐさ)の にこよかにしも 思ほゆるかも(万4309)
 夫に随ひ柔〈尓古也可二(にこやかに)〉儒〈ヤハ良(ら)カニ〉して、練りたる糸綿の如し(霊異記・中・27)

 欽明紀二年七月条の「和親」の訓については、ひとまず保留ということにしたい。日本書紀のすべての「和」字についてまとめて検討される方の出現を祈る。
(注15)本ブログ「鳥『甘』とは何か 其の一」以下参照。
(注16)梅原、前掲書に、第十三条を評して、「この[第十三]条には原典探しの好きな学者たちも、原典を見いだすことはできない。まったく太子の政治実感からでた条文だからであろう。私は、日本の官僚(かんりょう)の悪口をいったが、しかし他国と比べると、はるかに日本のほうがすぐれている。このことは、この官僚制(かんりょうせい)の基礎(きそ)をつくった太子が、千年の将来を見通したような、かかる的確にして精密な訓誡(くんかい)をしていることと無関係であろうか。」(734~735頁)と言っている。役所で門前払いやたらい回しにあうことは今も多いが、そうしない方が行政機関としてばかりか行政執行者、いわゆるオカミ(「上」)にとって好都合なのである。この十三条の「和」に、「上」字も「下」字も冠されないのは、大前提に、官吏が「上」であると決まっているからである。太子は、役人に、人民を上手に飼えよ、と訓戒しているととれる。
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十七条憲法の「和」について 其の二

2017年04月19日 | 論文
(承前)
 憲法十七条には、「和」の字が4字使われている。それを文意に応じて読み分けることをしたのか。例えば、「與」という字も4字使われている。「與公」(第十二条)、「與衆」(第十七条)とある個所は、助詞のトと訓み、「與聞」(第十三条)は、動詞でアヅカリと訓んでいる。同じ字でも前後を見渡して読み分けられている。この例からすれば、同じ「和」とあっても、違うヤマトコトバで訓んでかまわない。太子がプレゼンで何と喋ったかわからない。本稿は、そのわからないところに迫ろうとしている。4字のそれぞれの箇所をあげる。

 以和為貴(第一条の1)
 上和下睦(第一条の2)
 然得知之日和如曽識(第十三条)
 故初章云上下和諧其亦是情歟(第十五条)
「和如曽識」(前掲書、18頁)
「上下和諧其」(前掲書、18頁)
 いちばん古いとされる岩崎本の平安中期の朱書では、第一条の1の右側にヤハラクとしかない。墨書では、院政期11世紀のものとして第一条の2の右側に、「ヤ」とある。室町時代に至って、第一条の1、第十三条、第十五条にアマナヒと振られている。ここで問題の核心は、第十五条の文章である。

 故(かれ)、初めの章(くだり)に云へらく、「上下和諧」、其れ亦、是の情(こころ)ならむ歟(か)。

とある。第一章の2の、「上和下睦」を思い出して、ああ、まったくその通りのことをここでまた言っているのだよ、と感動している。太子自身がお話しされているのに、ご自身で仰ったことを振り返って喜んでおられる。そんなことがなぜか記されている。これは「憲法」ではなかったのか。憲法のなかに、前の条文を思い出して、それと同じ趣旨であると言って喜んでいる文章が紛れ込んでいる。
 同じことを言うケースは、「憲法」草案以外でなら、それほどまで不思議なことではない。難しげな論文表記でも、「先に述べたとおり」などとあるのは、だいぶ前に論述された事柄を振り返るときに示される。とはいえ、論文で先述したことについて、感慨深いなぁと自分まで聞く側に回って語られることはない。小説の場合、いくらでもそういった表現は登場する。心象風景を綴ることが小説の大義である。ここで第十五条に、そのような立場の転換に至っている。なぜそんな珍事が出来しているのか。その理由は、第一条の「上和下睦」という文言が、千字文の一句とまったく同じである点に尽きる。
「上和下睦」(『関中本千字文 隋 智栄 中国法書選28』二玄社、1988年、多少加工。)
 千字文は、よく知られるように、文字の練習用に利用された4字ずつの句のつながりである(注10)。とりとめがない千字文が、全体にどのような構想があったのか不明である。ここで千字文の思想的背景は問題ではない。字の練習用として手習いに使われたのだから、官吏のなかには見て知っている人がいたのであろう、そのことが大事である。なあ、君たちも知っているだろう、千字文に出てくる「上和下睦」というのは、そういう意味だったのだよ、と、語りかけるに自らまで納得するかに振る舞っている。句として見れば、何となく意味が通じている。
 千字文のこの部分は、「上和下睦 夫唱婦随」とある個所である。陽明文庫蔵の千字文音決による音訓両訓のいわゆる文選読みでは、「シヤウクワとかみやはらいで カボクとしもむつまじ フシヤウとをつとよんで フスイとめはしたがふべし」(小川環樹・木田章義『注釈千字文』岩波書店、1984年、125頁、文語仮名遣いのみ記した。)とある。上野本の注千字文には、「睦親也人君有寛和仁恕之徳者則諸侯来親也夫唱善道則女随其命也」と注されている(黒田彰・後藤昭雄・東野治之・三木雅博『上野本注千字文注解』和泉書院、1989年、18頁)。山田準・安本健吉註解『詳釈 千字文』(岩波書店(岩波文庫)、昭和12年)に、「【字義】上は尊き人をさし、下は卑き人を指せるなり。和はやはらぎて程合(ほどあひ)のよろしきをいふ。古文に咊又は龢に作れり。睦は親愛の心、面目にあらはれて、和らぎたるをいふ。」(73頁)、「【解】凡て人倫の中に尊卑あり、その上(かみ)たる尊きものは、温和にして下(しも)たる卑きものに接し、卑きものは、尊き人に対するに、親しみ睦しくして、敬和の心深く、互いに深切にすべきなり。」(74頁)とある。
 第一条2の「上和下睦」と第十五条の「上下和諧」とは、字に転倒や異同があるとはいえ、句ごと、あるいは、字ごとに、同じように訓んでいないと、相手に意味が通じないことになる。ここにこうあるのは、初めの章にあのようにあったのと同じことですね、と黒板に書いてある字を指し棒で示して言っているとして、ほら、あれだよあれ、と指しているのに、異なる訓み方をしていてはわかってはもらえない。一緒にわかることが、第十五条の最後に記される「歟」字に表わされている(注11)。「初章」の千字文の文句へ振り返っており、さあ、皆さん、思い出してください、思い出せるでしょう、皆さんもご存知の千字文の言葉ですよ、と語りかけている。だからこそ、でしょうかねぇ、などといった言い回しになっている。ほかに千字文を引用していると考えられているのは、第七条の「尅念作聖」である。どうしてこういう句をぶち込むのか。聞いている役人たちの気を引くためである(注12)
 すなわち、以下のような講釈が教壇上から行われたとは考えられない。

 第一条:「上和下睦」……上(かみ)和(やはら)ぎて下(しも)睦(むつ)ぶ。
 第十五条:「上下和諧」……上(かみ)下(しも)和(あまな)ひ諧(ととのほ)る。

 このように訓み分けると、「初章云……歟」という詠嘆的な感慨が、ひとりよがりになってしまう。上に立つ者がやわらかい態度で接すれば、下の者は親しみをおぼえて仲良しになれるということと、上の者と下の者が和合していて万事整うというのとは、少し違った意味である。上の文の前半を条件節のようにとると、下の文と文意が異なってくる。「上(かみ)和(やはら)ぎ下(しも)睦(むつ)ぶ」とつづけて訓んで、上の者はやわらかく下の者も仲よしになる、の意と捉えれば、かろうじて下の文と同じ雰囲気になりはする。けれども、言葉(音)として合わないものは合わない。言霊として符合しない。
 岩崎本には第一条の2の傍訓に、「ヤ」とあるばかりである。「ア」字に見えないこともないが、11世紀の墨書のようであり、前出の「以和為貴」(第一条の1)の朱書のヤハラクを踏襲してヤと付されていると考えられる。一条兼良による加筆はない。他の伝本でも、図書寮本、北野本に「ヤ」とある。この「上和下睦」部分の「和」は、ヤハラグとしか訓まれて来ていない。けれども、第十五条の付言、付帯事項と第一条が同じであるという考えを貫くなら、もう少し見比べなくてはならない。「諧」字への連なりである。

 第一条:然上和下睦諧於論事則事理自通何事不成
 第十五条:故初章云上下和諧其亦是情歟

 「諧」字は、第一条でカナフ、第十五条でトトノホルと訓まれている。これほどまで似ている句に、同じ字で違う訓みをしなければ、文章として体を成さないのだろうか。そして、やはり、口上して説明するのに、理解されにくくなっていないかと心配してしまう。
 第一条では、「事」という字が3字登場している。「論事」は問題事の意である。「事理」は「事理(ことわり)灼然(いやちこ)なり」(允恭紀元年十二月条)、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり」(崇神紀十年九月条)とあり、常套句であった。物事の理由の意で、事を割るが原義である。岩や木を割る時、楔(くさび)を使うと、ある決まった筋目(木目)から割れる。別の方向へは割れずに必ず筋目に沿って割れる。イヤチコなるところで割れる。物事の道理というのも、それと同じであると考えられている。道理を枉げることはできないし、筋目があるところなら少し楔を打っただけで簡単に割れる。それを「事理」と言っている。「何事」はどんな事でもの意である。
 今日まで通訓である「事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理(こと)自(おのづ)から通(かよ)ふ。何事か成らざらむ」という訓は、少々まどろっこしく感じられる。なぜなら、「上和下睦」の場合、必ず「諧於論事」になり、かなわないことなどあり得ないからである。いやに理屈っぽい話をしているように思われるかもしれないが、「憲法」の命法の講釈として書いてある。人はみな党派に偏り道理を弁えた者は少なく、父に順わないで近隣紛争ばかりしている。「然れども」とつづくのが「上和下睦……」の文章である。第一条で「憲法」として掲げたい主眼は、「以和為貴無忤為宗」という命法である。「以和為貴無忤為宗」は良いことだよ、という趣旨が「然」以下に説明されている。
 「則」の字について、その時には、の意の接続詞に解されている。しかし、そうとばかり限らない。「則」には、副詞として、とりもなおさず、つまり、もうそれだけですなわち、の意がある(注13)

 弟子入則孝、出則弟、……弟子(ていし)入りては則ち孝(かう)、出でては則ち弟(てい)、(論語・学而)
 父母之年、不知也。一則以喜、一以則懼。……父母の年は、知らざる可からざるなり。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼る。(論語・里仁)
 由是観之、則君子之所養可知己矣。……是に由りて之を観れば、則ち君子の養ふ所知るべきのみ。(孟子・滕文公)
 旱既太甚、則不推。……旱既に太甚(はなはだ)し、則ち推(しりぞ)くるべからず。(詩経・大雅・蕩之什・雲漢)
 乱之所生也、則言語以為階。……乱の生ずる所には、則ち言語もって階(きざはし)を為す。(易経・繫辞上)
 其長兵則弓矢、短兵則刀鋋。……長兵は則ち弓矢、短兵は則ち刀鋋(たうせん)なり。(史記・匈奴伝)
 吾則是国王也。……吾は是の国の王(きみ)なり。(垂仁紀二年是歳条)
 君則天之、臣則地之。……君をば天(あめ)とし、臣(やつこらま)をば地(つち)とす。(推古紀十二年四月条、第三条)
 是以貧民、則不所由。……是を以て貧しき民(おほみたから)は、所由(せむすべ)を知らず。(同、第五条)
 
 諸橋徹次『漢和大辞典 第二巻』(大修館書店、昭和31年)の説明では、「『は』の意。対待の関係を表はす。」(267頁、漢字の旧字体は改めた)、藤堂明保『学研漢和大字典』(学習研究社、昭和53年)の説明では、「A(主語)=B(述語)という説明を強調することば。」(148頁)とある。上の例では、命題A=命題Bということに当たる。条件節ではない。太子は今、憲法(いつくしきのり)の話をし始めたところである。ノリの話においてノリトル(則)なのだから、これすなわち、の意である。語っている言葉を枠組として外側から規定してかかる同語反復的な言い回しである。自己言及的な言い方こそ、上代の無文字文化のなかでの言葉遣いに適合している。相手にわからないと言われたとき、だって言葉自身がそう語っているではないか、と説明することができる。そういう仕掛けを保っている。言葉が言葉を自ら説明できるように予めこしらえておき、誤謬をなくすように努めている。したがって、「諧於論事」=「事理自通」→「何事不成」の構成と考えられる。
 文章の構造をそのように規定すると、「則」字には、スナハチ、または、…ハ、…テ、と訓めば良いであろう。試訓すれば、「事を論(あげつら)ふに諧(ととのほ)りて、事理(ことわり)自(おのづ)からに通(かよ)ふ。何事か成らざらむ。」となる。「諧」字はカナヒと訓んでも悪くはないけれど、「以和為貴無忤為宗」という大命題を果たせば適わないときはないのだから、トトノホリと訓んだほうが適切であろう。トトノホリは、他動詞トトノフ(斉・調・整)の自動詞形で、すっかり備わる、整ってしまう、という意味である。「整頓(ととのほ)り」(神代紀第十段本文)とある。トトノホリと訓めば、第一条を承けている第十五条の「諧」字の訓と同じになる。言葉が整ってくる。すると、第一条の「上和下睦」も、第十五条にある訓法を採用するのがふさわしそうである。「上(かみ)和(あまな)ひ下(しも)睦(むつ)ぶ」である。それは、社会の上位層が勝手に「和」の精神を発揮するのではなく、「下」との間で「和」の関係になるようにすることである。かつまた、社会の下位層が勝手に「睦」まじい状態になるのではなくて、「上」との間で「睦」む関係になるようにするということである。「上」と「下」とが単独に「和」や「睦」という行いをするのではなく、互いの関係性のなかでの行為を示すと捉えれば、「上和下睦」と「上下和諧」とが同じ意味となり、第十五条に「故初章云上下和諧其亦是情」と記す意味が深く了解される。
 ムツブ(睦)という語は、形容詞化してムツマシとなる。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「ムツブは、血縁者や親族として、また、そうした関係にあると同じように、身近で親しくする意。ムツマシは、血縁や夫婦の関係にある者どうしのうちとけた親密な気持ちを表す。また、身内同然ととらえられる主従のあいだで使われることも多い。」(1179頁、この項、依田瑞穂先生)とある。「上和下睦」とあるのは、下位層どうしでむつみあうことではない。下位層どうしで狎れ合うことをすると、徒党を組んで一揆を起こすような悪巧みに発展しかねない。秘密結社や闘争活動、組織犯罪を奨励する文章ではない。下位者が上位者と親睦することを勧めている。雑駁にいえば、にこにこと挨拶するようなことと考えればいいのであろう。そのためにも、上位者は偉ぶったり威張ったり怒っていては駄目である。「和」が必要である。では、上位者の「和」とは何か。物腰やわらかく接するということであろうか。無礼講で何でも話していいよ、ということであろうか。和辻哲郎『日本思想倫理史 上 和辻哲郎全集第十二巻』(岩波書店、昭和37年)に、次のようにある。

 君臣上下の和、民衆の和、相互関係における和などは、さまざまの異なった形でくり返して説かれている。が、特にここに注意すべきことは、ここに説かれているのが「和」であって、単なる従順ではないということである。事を論ぜずにただついて来いというのではなく、事を論じて事理を通ぜしめるためには、議論そのものが諧和の気分のなかで行われなくてはならない、というのである。従って盛んに事を論じて事理を通ぜしめることこそ、最も望ましいことなのである。(116頁)

 この考え方は、本末の転倒した、誤った読み方である。憲法の“条項”は、命法とその説明の形で示されている。いわば、法華経とその義疏との関係である。義疏から法華経を作り物にしてはならない。盛んに事を論じて手がおろそかになることや、事を論ずるためだけに百条委員会を設置しようとするものではない。理屈ばかり捏ね回すソクラテスが出てきては困る。そうではなく、「上和下睦」にするとどういうことになるかというと、「諧於論事」状態になり、それは「事理自通」と同じことであり、「何事不成」こととなる、と言っている。前から順に読んで行く。なにしろ、訓示で「曰」われた言葉である。空中を飛び交っている。プレイバックする読み返しはできない。
 問題は、「和」の内容である。ヤハラグと仮定すると、上位者と下位者の間の関係として、上位者が下位者にやわらかくすることは、上位者が上位者にやわらかくすることや、下位者どうしやわらかくすること、また、下位者が上位者に対してやわらかくすることを排除するものではない。「和」が、すべての関係性に通用されてしまう誤謬が生ずる。上代の言霊信仰のなかにある人は、言葉をとても大切にして、適語を選んで使っているように思われる。他の候補、アマナフ、ニキブを考えてみる。
 ニキブという訓は、岩崎本にあるわけではない。欽明紀の古訓に次のようにある。

 昔我が先祖(とほつおや)速古王・貴首王と、故(もと)の旱岐等と、始めて和親(にきびむつぶること)を約(むす)びて、式(も)て兄(このかみ)弟(おとと)と為(な)る。是に、我は汝を以て子とも弟(いろど)ともし、汝は我を以て父(かぞ)とも兄(いろね)ともす。(欽明紀二年七月条)
昔我が先祖(とほつおや)速古王・貴首王の世(よよ)に、安羅・加羅・卓淳の旱岐等、初めて使(つかひ)を遣(つかは)して相通(かよは)して、厚く親好(したしきむつび)を結び、以て子弟(やから)と為りて、恒に隆(さか)ゆべきことを冀(ねが)ふ。(欽明紀二年四月条)

 ニキブはニキ(柔)の動詞化したもので、馴れ親しむ、うちとける、の意である。対義語はアラブ(荒)である。第一条に「上和下睦」とは、欽明紀の第一例の「和親」に似た関係ととることができる。安羅・加羅・卓淳の旱岐等が子弟、百済の速古王・貴首王が父兄の間柄である。ペリーが来た時の日米和親条約の「和親」は、不平等条約であった。米国が父兄、日本が子弟である。欽明紀の「和親」は、ヤマトコトバのニキブという印象に感じにくいものである。万葉集には、

 天皇(おほきみ)の 御命(みこと)畏(かしこ)み 柔(にき)びにし 家をおき ……(万79)
 …… 白妙の 手本(たもと)を別れ 柔びにし 家ゆも出でて ……(万481)
 …… 居(を)らくの 奥処(おくか)も知らず 親(にきび)にし わが家すらを ……(万3272)

といった例がある。「家(いへ)」という語と一緒に使われており、アットホーム感を伴う雰囲気を感じさせているから、ニキビニシは枕詞なのかもしれない。そして、「家」を守る比重は、女性、母親の方に分がある。
 欽明紀は、国の関係をムツビとして考えている。「親好」はシタシキムツビ、「和親」はニキビムツブルコトと言い換えている。筆者は、ニキブという語に、子弟と父兄との間の上下関係を認めることができない。和稲(にきしね)、和魂(にきたま)、和幣(にきて)、柔膚(にきはだ)、和海藻(にきめ)など、他のニキ(和)の用例に、何ら関係の上下にまつわる言葉が現れない。アラ(荒・粗)の対としてニキ(柔・和)がある。欽明紀の「和親」をニキビムツブルコトと訓むのは正しいのであろうか(注14)
 他方、アマナフという語は、「甘」字をもっても記される。仲良くすることであるが、甘受するの義を含んでいる。その「甘」字は、カフ(飼・養)という箇所にも使われる。記紀に、鷹甘、鳥甘、馬甘、牛甘、猪甘などとある(注15)。つまり、アマナフことは、カフことの本質を表わしている。本来、野生動物は、自分の力で食べ物を見つけ出して獲得しなければならない。それを甘やかして餌を与え、なつかせて馴れさせる。そのうえで、人のいうことをきかせて、鷹狩や乗馬や耕牛などに利用する。使役させているのであるが、そのかわりに食べ物には不自由させず、健康面でも気を使って厩舎や鳥小屋をわざわざ建てて大切にする。なぜなら、彼らが働くとき、人間が行う以上のことをしてくれるからである。鷹狩用に調教された鷹は、万能叉手網である。鵜飼用の鵜は、釣針や筌(うけ)何個に相当するのであろうか。馬の牽引する力、馬力とは、何人力か知れない。牛は泥田へ入り、代掻きという嫌な仕事をしてくれる。皆すごいのである。有り難いのである。そこで、互いに甘い関係になろうとした。人が家畜をアマナフことをした。
 第一条に「上和下睦」とあるのは、上位者が下位者をアマナフことである。下位者である百姓に対して、それぞれの持ち分で農耕やその他の生業、職能を生かすように励んでもらうように手なずけることである。税を搾り取るばかりにはならずに、ふつうか今以上にハッピーに暮らしていけるようにして、仕事から逃げないでやり続けてもらうように仕向けることである。自立支援のプログラムや産業育成の助成、待機児童ゼロ化推進、長時間労働への規制が施される。近ごろ政策として訴えられているのは、ほとんどアマナフ関連の予算であるように思われる。国民は国家の大切な家畜となったらしい。
 そのように解釈すると、「上和下睦」という千字文の句は、「上和下」+「下睦上」を“圧縮”した言い方であることがわかる。だから、第十五条に、「上下和諧」という形へと言い換えても、まったく同じことを言っていると理解できる。耳で聞いていてわかるという意味である。
 冒頭の「和」には、岩崎本の一条兼良の傍訓に、アマナヒとあった。犬を飼うとき、“待て”、“お座り”ができたら、よしよしと撫でてあげてご飯を与える。すると、犬はなついて忠犬となる。古代の場合は主に猟犬として育成されたであろう。この飼う間柄に、聖徳太子は何かを見ていたのではないか。「和(あまな)ふを以て貴しと為(せ)よ」、よしよしとする甘えの関係ができていれば、人々の間もうまくいく。現代社会では、家族の間でさえ、甘えの関係が希薄になっている。すべて、「個人」の関係である。「和(あまな)ふ」という甘い関係がなぜか省みられなくなっている。筆者はもったいないと思うが、自立こそが大事であると考えられている。社会的自立と家庭内の甘えに、共立できない斥力の働きがあるらしい。ムツブルコトと訓むはずの「親」の介護の問題がそうさせているのだろうか。家族の構成員の心は、同じ方向を向いていない。そんなことで幸福感は高まるのであろうか。「上和(あまな)ひて下睦べば、事を論(あげつら)ふに諧(ととのほ)りて、事理(ことわり)自づからに通(かよ)ふ。何事か成らざらむ」。上の者がきちんと世話をするようにし、下の者は親しみをもって振る舞えば、問題が生じて論ずる際にもすでに心が同じ方向を向いているから、事理が自然と通ずるものである、もはや不可能ということはない、という意味にとることができる。

 一に曰く、和(あまな)ふを以て貴(たふと)しと為(し)、忤(さか)ふこと無(な)きを宗(むね)と為(せ)よ。人皆党(たむろ)有り。亦(また)達(さと)る者少(すくな)し。是を以て、或いは君(きみ)父(かぞ)に順(したが)はず。乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然(しか)れども上(かみ)和(あまな)ひ下(しも)睦(むつ)べば、事を論(あげつら)ふに諧(ととのほ)りて、事理(ことわり)自(おのづ)からに通(かよ)ふ。何事(なにごと)か成(な)らざらむ。
 十三に曰く、諸(もろもろ)の官(つかさ)に任(よ)さす者、同じく職掌(つかさこと)を知れ。或いは病(やまひ)し或いは使(つかひ)として、事を闕(おこた)ること有り。然れども知ること得る日には、和(あまな)ふこと曽(いむかし)より識(し)れる如くにせよ。其れ与(あづか)り聞かずといふを以て、公(おほやけ)の務(まつりごと)をな防(さまた)げそ。
 十五に曰く、私(わたくし)を背きて公(おほやけ)に向(ゆ)くは、是(これ)臣(やつこらま)が道なり。凡(すべ)て人に私有るときは、必ず恨(うらみ)有り。憾(うらみ)有りて、必ず同(ととのほ)らず。同らざりて、私を以て公を妨(さまた)ぐ。憾起りて制(ことわり)に違(たが)ひ法(のり)を害(やぶ)る。故(かれ)、初(はじめ)の章(くだり)に云へらく、上(かみ)下(しも)和(あまな)ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其れ亦是の情(こころ)なる歟(か)。

 以上の考察で、聖徳太子の憲法十七条の「和」の訓みは、すべて「あまなふ」と訓むことが正しいとわかった。憲法は、官吏の心構えを説いた訓示である。訓示の道徳性は、官吏の立場にある人においてのみ適用される。それは、役人のことを今でもオカミ(「上」)といい、自分たち庶民のことをシモジモ(「下」)の者と卑称することへ根づいている。太子の言っていることは、オカミたる役人の、シモジモの者との間の関係構築において、「和(あまな)ふ」のがもっとも良い方策であると述べている。この「和(あまな)ふ」の精神をもって進めて行けば、多くの事柄はすでに解決しているも同然である、と言っている。シモジモの者は、「和(あまな)」われてこそ世の中で実力を発揮することができ、リア充な人生を送ることができる。昔ながらの日本の会社には、そういう家族主義的なところがあった。そのような精神史の領域において、聖徳太子の憲法十七条は本邦の人々にいきづいている。けっして大それた思想大系などではない。仏教的な慈悲心や儒教的な道徳心では語れない事柄を、太子は官吏に述べて徹底させようとしている(注16)。それが今日に至るまで、日本的な特徴として言われ続けている。土居健郎『甘えの構造 増補普及版』(弘文堂、2007年)に解かれている独特の人間関係の基盤は、聖徳太子によって官僚制の確立と表裏一体に奨励され、普及していったものなのかもしれない。
(つづく)
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十七条憲法の「和」について 其の一

2017年04月16日 | 論文
 夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七條
一曰以和為貴無忤為宗人皆有黨亦少達者是以或不順君父乍違于隣里然上和下睦諧於論事則事理自通何事不成
二曰篤敬三々寶々者佛法僧也則四生之終歸萬國之極宗何世何人非貴是法人鮮尤悪能教従之其不歸三寶何以直枉
三曰承詔必謹君則天之臣則地之天覆地載四時順行万氣得通地欲覆天則致壊耳是以君言臣承上行下靡故承詔必慎不謹自敗
四曰羣卿百寮以礼為本其治民之本要在乎礼上不礼而下非齊下無礼以必有罪是以羣臣有礼位次不乱百姓有礼國家自治
五曰絶餮棄欲明辯訴訟其百姓之訟一日千事一日尚尓況乎累歲頃治訟者得利為常見賄聽讞便有財之訟如石投水乏者之訴似水投石是以貧民則不知所由臣道亦於焉闕
六曰懲悪勧善古之良典是以无匿人善見悪必匡其諂詐者則為覆國家之利器為絶人民之鋒剱亦侫媚者對上則好說下過逢下則誹謗上失其如此人皆无忠於君无仁於民是大乱之本也
七曰人各有任掌冝不濫其賢哲任官頌音則起姧者有官禍乱則繁世少生知尅念作聖事無大少得人必治時無急緩遇賢自寛因此國家永久社稷勿危故古聖王為官以求人為人不求官
八曰羣卿百寮早朝晏退公事靡盬終日難盡是以遅朝不逮于急早退必事不盡
九曰信是義本毎事有信其善悪成敗要在于信羣臣共信何事不成羣臣无信万事悉敗
十曰絶忿棄瞋不怒人違人皆有心々各有執彼是則我非我是則彼非我必非聖彼必非愚共是凡夫耳是非之理詎能可定相共賢愚如鐶无端是以彼人雖瞋還恐我失我獨雖得従衆同擧
十一曰明察功過罸賞必當日者賞不在功罸不在罪執事羣卿冝明賞罸
十二曰國司國造勿斂百姓國非二君民無兩主率土兆民以王為主所任官司皆是王臣何敢與公賦斂百姓
十三曰諸任官者同知職掌或病或使有闕於事然得知之日和如曽識其非以與聞勿防公務
十四曰羣臣百寮無有嫉妬我既嫉人々亦嫉我嫉妬之患不知其極所以智勝於己則不悅才優於己則嫉妬是以五百之乃今遇賢千載以難待一聖其不得賢聖何以治國
十五曰背私向公是臣之道矣凡人有私必有恨有憾必非同非同則以私妨公憾起則違制害法故初章云上下和諧其亦是情歟
十六曰使民以時古之良典故冬月有間以可使民従春至秋農桑之節不可使民其不農何食不桑何服
十七曰夫事不可獨断必與衆冝論少事是軽不可必衆唯逮論大事若疑有失故與衆相辨辞則得理

 聖徳太子の憲法十七条は、そういうもの(十七条の憲法)があることを小学生でも知っている。ワヲモッテトウトシトス、などと諳んずる優等生もいる。「和」って何ですか? と聞かれると、皆わかったふうに答える。平和、和合、協和、柔和、温和、同和、和楽、講和、和解などと熟語をならべて得意がっている。ほとんど大人のレベルである。研究者に残されているのは、儒教や仏教などの思想が背景にある、出典としていろいろな漢籍があげられる、世界の「憲法」的精神と比較するといろいろわかることがある、といった程度のことだけである。ところが、根本的な問題、「和」を何と訓むのかわかっていない。定めようとさえしていない。「和」はワだと思っている。漢字の並んでいるのを読んでいって、聖徳太子の思想は考えるにこうである、という議論をし、後から我田引水的に「和」の概念を縷々述べ立てている。
 「和」をワと読んでいる。それでいいのだろうか。飛鳥時代の推古十二年(604)に、役所の人間を相手にして“訓示”したものが憲法十七条である(注1)。俗に、ワを以て貴しとす、と言っているのは、万葉仮名では呉音に「和」はワに当てるから間違っているとは断じ切れないが、音読みをして役人に通じたとは考えられない。太子が書いて一人だけで悦に入っていたブログではない。書いたものを呈示しただけの可能性は排除できないから絶対にないとは言えないが、当時の識字能力が高いレベルにあったとするのには無理がある。飛鳥時代前期やそれ以前の文字資料としては、稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土鉄剣銘(注2)、天寿国繍帳銘(注3)、法隆寺に伝わった金銅仏の像造銘ぐらいしか見つかっていない。役人の間で文字が理解され普及していたとするなら、木簡の一つぐらい出てきてもいいと思う。飛鳥京跡や山田寺址、難波宮跡から出たと言って珍しがっているが、憲法十七条はその50年も前の話である(注4)。当時の小墾田宮跡付近からぞろぞろ出るような気配はない。小墾田宮がどこにあったのか、ようやく落ち着きはじめたという段階である。おそらく、ほとんどの人は、文字が読めず書きもしなかったのであろう。必要のないことをする必要はない。
 「和」をワと音読みして、抽象的な概念として理解していた記録は、日本語の文では、太平記(14世紀後半)に使われているのが早い。「……と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。」(太平記巻第二十八)とある。和親の意味である。憲法十七条を下ること700年以上後である。経典に「和」はあるから、思想として既存で、ワ、ワと言われていたという説も可能ではあるが、飛鳥時代に、お経のなかの文言がお寺さん以外に広まっていたのか疑問である。漢詩の場合、漢音でクワと読んだ可能性もある。いずれにせよ、抽象的な概念操作ができるためには、文字文化に浸からなければならない。文字という記号をあやつることができて、はじめてワ(和)なる概念を“言葉”で表すことができる。文字を知らないヤマトコトバを使う人には、ワと言えば輪のことである。三輪山伝説では、「三勾(みわ)」(three-ring)残ったからミワという地名であると示されている。輪が3つ、きわめて具体的な言葉である。抽象的な概念の入り込む隙間はない(注5)
 憲法十七条の第一条、「以和為貴無忤為宗」について、訓読しようとする向きには、「和(やはらぎ)を以て貴(たふと)しとす。忤(さか)ふること無きを宗(むね)とす。」などと訓まれている。岩崎本に、朱書で「ヤハラ」とあり、ヤハラカナルを以て……、墨書で、アマナヒを以て……、などとある。
「……七條一曰以和為貴……少達者是以或不……上和下睦諧於論事……」(京都国立博物館編『国宝岩崎本日本書紀』勉誠出版、2013年、15頁)
 日本書紀記事は、次の文から始まる。

 夏四月の丙寅の朔の戊辰に、皇太子(ひつぎのみこ)、親(みづか)ら肇(はじ)めて憲法十七条(いつくしきのりとをあまりななをち)作りたまふ。一(ひとつ)に曰く、……(夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七条一曰……)

 皇太子である聖徳太子(廐戸皇子)が、ご自身ではじめて憲法十七条をお作りになられた。第一に曰(い)うところでは、……、という流れである。「一曰」とある。「作」字について、ひょっとしたら書いたことではない可能性まである。姉崎正治「御筆集成の三経義疏抄と十七条憲法の條章及外国語訳文に就きて」坂本太郎編『聖徳太子全集 第一巻 十七条憲法』(臨川書店、昭和17年)に、伝聖徳太子筆の法華義疏から“復刻”する試みが行われており、興味深い。義疏にない字が現われるから完成はしないとされている。伝太子の書蹟を眺めていると、きっと書いたのであろうという気がしてくる。
太子筆復刻憲法十七「条」(注6)
 問題は、「一曰」、「二曰」、……「十七曰」の「曰」である。口に出して言っているから、「曰」とあるに違いない。そうなると、「和」を音読みした蓋然性はますます低くなる。ワ→輪→車座になった宴会、あるいは、その敷物の円座(藁蓋)のどこが貴いのか、不明である。話された事柄なら、不分明なことは明らかにすべく説明なり言い訳があるはずだが、紀にそのような記述はない。ぶっきらぼうである。
 赤尾栄慶「岩崎本日本書紀 書誌解題」京都国立博物館編『国宝岩崎本日本書紀』(勉誠出版、2013年)には次のようにある。

 有名な第一条の「以和為貴」の「和」の訓は、最初の平安時代十世紀の朱書で「ヤワラク」、続いて十一世紀には「カナル」との墨書が加えられ、全体として「ヤワラカナル」と読まれ、更に室町時代の一条兼良が左右に各々「アマナヒ」と訓を施した。「ヤワラク」は、「おだやかになる・柔和になる」という意味であろうし、「アマナヒ」は「和解・同意・仲よし」という意味となろう。時代によって、訓読や解釈、またニュアンス変わることを示している好資料ともなっている。(93頁)

 赤尾先生は、現代に通じるように「ヤワラク」と記されているだけで、朱書ならびに古文には、「ヤハラク」が正しい。今日の学界は、どちらかというと、聖徳太子は後の時代にどのように受け止められたか、後史の方に関心が移っている。太子自身の思想については語り尽くされた感があり、これ以上研究のしようがないという消去法的な理由によるのであろう。しかし、いまだ、「和」を何と訓んだらいいのか、考慮さえされていない。
 推古朝の飛鳥時代に、「皇太子」は何と「曰」っていたのであろうか。その代表が、「和」を何と訓めばいいのかである。これは、いわゆる訓読の問題ではない。事柄を“日本語”で考えている。日本書紀、ないし、その前身の国記は、話されている言葉を書きとめたものである。その際に、漢籍として伝えられている漢文を、アンチョコとして利用した。基本的に無文字文化にあった。話し言葉としてヤマトコトバがあって、書き言葉を持たなかったから、なんちゃって漢文で記した。倭習などと呼ばれているが、表記法の試みである。助辞や否定詞の使い方が、中国語の正格なものからすれば間違っていると目くじらを立てても仕方がないことである。漢字ばかりであるが“日本語”が書いてある。四六駢儷体の流麗な文字面をしているが、“日本語”である。今日の人が日本語を母語とし、あとから外国語をマスターして英作文をする際、日本語で文章を考えてからそれを訳して英語で表記する。その際、例文の載ったアンチョコを利用したり、あやしげな一発変換ソフトを用いたりする。「以和為貴……」なる字面は、その成果と考えられる。中国人やインド人が作成したものではない。
 冒頭の、「以○為△」という漢文的表記は、なかなかに厄介である。漢文訓読にいたずらに国語が混ぜっ返されている。山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館、昭和10年)に次のようにある。

 抑も「もつて」といふ語は「もつ」といふ動詞が複語尾「て」につづけるものにして、国語本来の用法よりいへば、それを「用ゐて云々す」といふより他に意義あるべからざるなり。然るに、現代の普通文に用ゐらるる「以て」といふ語の状態を見るに、「用ゐて」の義なるもの、もとより多少存すといへども、……他の大部分は「以てす」「以てなり」といふ如くに用言的に用ゐらるるものあり、単に「て」といひてよしと思はるる所に「以て」を加ふるあり、単に「を」といひてよき所に「を以て」といふあり、「によりて」といふ如き場合に「を以て」といふあり、材料方便等をあらはすに「を以て」といふあり、或は又「以て見るべし」とか「亦以て」とかいふ如き国語としては何種の語類とすべきか、当惑するが如きもあり。而して、これらは古来純粋なる国文と認めらるるもののうちにはかつて見ざる所なり。(273頁、漢字の旧字体は改めた。)

 ○をモッテ△とす、なる言い方は、飛鳥時代当時としても真新しいものであったろう。○は△である、とほとんど同じ意味である。少し違うとすれば、今から○を△としよう、的な意志や、○を取り上げたら△である、的な確定条件が垣間見られる点である。「仰げば尊し」というのは、今までさんざん馬鹿にしてきたけれど、卒業式を迎えて省みてみると、「以仰為我師恩」ということなのかもしれない。逆に言えば、ふだんは特段、気にかけていないことであるが、「和」ということは「貴」であると認めようではないか、という講評が行われていると考えられる。すなわち、「以」字によって倒置されている。「貴」いんだよ、「和」っていうのは、という気持ちを強調して言いたいらしい。文法用語では、「以」は処置文をつくり、「為」は意動用法を示しているという。
 岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「憲法十七条を通覧すると、各条は必ず命令の意を含み、…セヨ、…スベシのような命令形を持つ。……意味は、『…を貴しとせよ。……』の意である。」(ワイド版岩波文庫④、97頁)とある。この意味を理解するのは、案外むずかしい。例えば、第六条には、「悪(あしきこと)を懲(こら)し善(ほまれ)を勧むるは、古(いにしへ)の良き典(のり)なり。(懲悪勧善古之良典)」とある。ポイントは、「懲悪勧善」をそのまま言うのではなく、それは、「古之良典」であると述べている点である。一時代前の小学校の黒板の左隅に、「勧善懲悪」などと書いてあったら、ませた子どもはテレビドラマの水戸黄門を思い出しながらも、そういうことなんだぁと刷り込まれ、そうしよう、そう努めよう、と真っ直ぐにすすむ。ところが、「勧善懲悪」なんてこと、わかっているよと言いながら、けっして従おうとしないのが、薹(とう)が立ってしまった大人たちである。そういう大人たちに向かって、「親肇作憲法十七条」に至っている。薹の立った大人を相手に説教することは、される方も嫌ならする方も嫌である(注7)。どうしたって持って回った言い方になる。回りくどくなってわかりにくくなった好例に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)といったものがある。憲法の第一条も同様である。
 梅原猛『新版 聖徳太子 上巻』(小学館、1989年、初出は1980年)に、次のようにある。

 [第一条から第三条まで]の三条は、いずれも最初にひとつの命法をだしている。そしてその次には、命法の説明の文章がある。第一条の命法の部分は「和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ」という部分であり、第二条では「篤(あつ)く三宝を敬え」という部分であり、第三条では「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」という部分であり、各条の以下の文章はその命法の説明であると考えられる。(652頁)

 ここで、梅原先生の訓みを問題にしない。文章構成が、命法とその説明であるという捉え方は正しいと考える(注8)
 では、第一条の命法部分、「以和為貴無忤為宗」をどう訓んだら正しいのであろうか。
 「以和為貴」の出典として、礼記・儒行の「礼之以和為貴」、論語・学而の「礼之用和為貴」が取り沙汰されている。「礼(れい)は和(わ)を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)す」である。しかし、第一条は、儒教にいう儀式の「礼」の話ではないとされている。中村元『聖徳太子 中村元選集〔決定版〕別巻6』(春秋社、1998年)に、「『論語』のその箇所では、主題が礼であり、和ではない。ところが聖徳太子の場合には、人間の行動の原理としての和を唱えている。つまり太子が、礼とは無関係に、真っ先に和を原理として掲げている。これは実は、仏教の慈悲の立場の実践的展開を表わしているものだといえる。」(91頁)とある。「礼」の話ではないことは同意できるが、だからといって仏教の話かどうか白黒つける気になれない。筆者は等閑視したい。「和」と書いてあって何と訓むのか、それこそが大問題である。
 聖徳太子は何の話をしているのか。イツクシキノリ(「憲法」)の話をしている。端的に言えば、官吏の、ふだんからの心構えについて語っている。いきなり一般論なのである。面喰うが、そう考えるとわかることがある。ヤハラギを以て……、アマナヒを以て……、という言い方は、飛鳥時代にはしなかったであろうということである。「以」字は多く名詞(体言)を承ける。しかし、「和」という動詞の連用形、ヤハラギやアマナヒという名詞形は、上代に用例が乏しい。ふだん聞き慣れない言葉をのっけから登場させられては、聞いている人は頭に入って来ない。ただでさえ、○を以て△と為(せ)よ、などと漢文訓読調でかしこまられている。そこへ変な言葉をぶちこまれたら訳がわからなくなる。「以」字(あるいは助詞のヲ)は、活用語の連体形を承けることもあるから、ヤハラグを以て……、アマナフを以て……、という訓み方がふさわしいと言える。そして、ヤハラグという語は、状態語のヤハラ(柔)=ヤハ(擬態語)+ラ(接尾語)によって構成された語の動詞化したものである。岩崎本の最も古そうな訓点の合わせ技、「ヤハラカナル」という形容動詞への捏ねくり回しは、いくら何でも当初の訓、というよりも、太子の発語としてありそうにない。
 では、ヤハラグを以て……、アマナフを以て……、のいずれがふさわしいか。「和」字の古訓としては、他に、アフ、コタフ、ナゴヤカ、ニコシなどが散見される(注9)。憲法第一条で意味が合いそうなのは、付されたことのあるヤハラグ、アマナフの2例と、ニキブが考えられる。「親肇作憲法十七条」は、作った太子が話した(「曰」)らしいが、日本書紀のもととなった国記に書いたのは誰かほかの人である。筆者の推測に過ぎないが、太子ご自身で草案された際、書き留めておいたものを、皆の前でプレゼンに使い、それをそのまま書記官にお渡しになり、国記のようなフミに写され、それがそのまま日本書紀へと引き継がれたのではないか。もとは太子流の“祝詞”である。新しく作ったもので長いから、暗記できないから、メモっておいて発表している。漢文的に間違いがあると突っ込まれても無意味である。万葉集の表記に茶々を入れても仕方がないのと同じである。門づけ歌人の人麻呂のメモに文句を言って、何が始まるのであろうか。太子の場合、役所の訓示に大切なのは、書き方ではなく話しっぷりである。このレジュメをそのまま棒読みしたのではなかろう。いろいろ逸話を加えて膨らませ、聞く人を引き付けたに違いない。国会と違って速記者はいないから、後でレジュメを渡されただけのことである。
 すると、原案としての姿が残っているということになる。その際、言葉でものを考えているから、言葉(音)で間違える可能性の少ないように記される傾向があると思う。憲法十七条の字面には、多くの漢籍が出典として存在していると研究されている。礼記、論語、周礼、孝経、尚書、管子、易経、春秋左氏伝、漢書、千字文などたくさんある。なにしろ、漢籍というものは、“拡散”していくものだから、似た文言がいろいろなところに出てくる。憲法十七条の字面と似ているというだけで“出典”として採りあげるのは、はたして正鵠を射ているのだろうか。第一条の出典を礼記や論語に求めるところも、「礼」の話ではないから字面を借用しただけである。礼記にあるように、「礼之以和為貴」とはなくて、「以和為貴」とだけある。さて、何の話をしているのか。その曖昧さがすなわち、この文章は一般論であり、官吏に対する訓戒であることの証左に当たる。十七条もあるけれど、一言でいえば、官吏たちよ、つつしみはげめ、である。
 漢籍の字面を借りている。むろん、経典の意味するところは理解した上でのことであろう。それでも、一つの字に対していろいろな読み方をすることは、凡人としてはあまりしたくはない。カンペとしての機能に優れなくなる。太子は大勢の人前で緊張しなかったかもしれないが、結婚式の祝辞を述べなければならない時、わざわざ複雑な暗号のような口上書を携えていくことはない。あがっていても一目見ればわかるような簡便なメモ書きが良い。もしこれが立札であったとしたって、なおのことわかりやすくしておきたい。逆に一つのヤマトコトバにおいて、重みが違うという意味合いを思い出させるために、違う字で表すことはあったかもしれない。第十五条の、「恨」と「憾」はともにウラムと訓んでいいのであろう。
(つづく)
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福富草紙に見る「真床追衾」

2017年04月11日 | 無題
 サントリー美術館にて、「絵巻マニア列伝」展(~5月14日迄)が開かれています。歴代の絵巻好きが本当に絵巻を見ていた記録と、当時見ていたかもしれない本物の絵巻とが展示されています。上野友愛先生のお話では、絵巻は肩幅にひらき、見ては巻き、巻いては見ての繰り返しをするので、VHSのビデオを見るのに似ているとのこと、また、ガラス越しにパノラマで見るのは往時とは違うとも仰っていました。私は、立って絵巻を見ること、歩き絵巻、ながら絵巻をすることはなかったと思っています。
 さて、記紀の天孫降臨のお話に、「真床追衾(まどこおふふすま)」という小道具が出てきます。天孫のホノニニギをくるんで天降りさせました。これまで、折口信夫の大嘗祭の説に毒されてきていますが、マドコオフフスマは、かいまきやねんねこの類を言っているのでしょう。ねんねこで背負って落穂拾いをしたりしながら、ネズミを追うのです。
 展示品に、福富草紙(室町時代、15世紀、春浦院蔵)がありました。小松茂美編『続日本の絵巻27―能恵法師絵詞 福富草紙 百鬼夜行絵巻―』(中央公論社、1993年)から引用させていただきます。下の絵の解説に、「竹の簀子(すのこ)をめぐらした、狭い座敷の中に、老夫婦が衾(ふすま)を引きかぶって寝ている。」とあります。ダブルサイズですが、単なる薄手の布切れに見えます。枕は角棒のようです。こういうものをマドコオフフスマというのだというのが通説になっています。
衾(29頁)
 天孫のホノニニギは、こんなボロを纏わされて降りてきたのでしょうか。とても尊い方がくるまれるのに、貧乏人と同じにして、変装さそうとでもしているのでしょうか。福富草紙では、秀武が屁ひりの芸で中将から褒美のものを賜わって、にわか成金となった部屋の様子が示されています。夜着が、なかわたの入ったかいまきに変わりました。
かいまき(32頁)
 ホノニニギがくるまれていたのは、こういったものでしょう。孫に当たる小さな子どもには、かいまきとなっているねんねこでくるまれるのがふさわしいと思います。これがなぜ真床追衾に当たるかというと、「真(ま)」は「片(かた)」の対義語で、ペアで揃っているという意味です。福富草紙のかいまきは、ペアですし、袖が左右に揃ってついています。袖のついていない衾に、「真」と冠することは、言葉のうえで間違いです。
 違う場面では、福富が糞を垂れるしくじりをして帰宅してから、妻に踏みつけられるところが描かれています。この絵師は、とても絵がうまいと思います。妻にねんねこで背負われている赤子の首が変な方向へ飛び出しそうになっています。躍動感をうまく描いています。
ねんねこ(37頁)
 この福富草紙は、後崇光院・後花園院の仲良しの親子が見ていました。天皇家の方ですから、ホノニニギのご子孫です。遠いご先祖が何にくるまれて降臨したのか、この絵で気づいたかわかりません。後崇光院が、息子の後花園院のことをおんぶした経験があったかどうかも知りません。でも、絵巻を、立っておんぶしながら見ることはないと思います。ひざまずいて煎餅を食べながらということは、さてどうでしょうか。ポテチを食べながらというのは、ソファに埋もれるのとは姿勢が違いますからないと思います。

 とても楽しい展覧会です。混んできていますから注意しましょう。
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鳥「甘」とは何か 其の二

2017年04月09日 | 論文
(承前)
 飼うことには、人間と動物との関わりのなかで、一種独特な、文化的要素が現われる。パブロフの犬のように、習慣化すると動物の方が反射的に寄って来ることを利用したものである。甘えの構造である。そして、人間が与える餌を貰いに来るのは、うまいからである。期待して寄って来るのだからすでによだれが出ている。鳥などによだれがあるのか実際の問題ではない。比喩表現である。ご飯だよ、おやつだよ、と女性に呼ばれて集まってくる男たちや子どもたちに同じである。舌なめずりしてやってくる。ナメルには、舐・嘗・甞の字が使われる。甞には、甘の字が隠れている。嘗の字の下部に、「旨」という字がある。玉篇に、「𤮻 古文の旨字なり」とある。やはり、「甘」という字がみえる。「甘」という字は、カフ(飼)ことの本質を言い当てた表現と言える。
糖質の多めの食べ物(『糖質が見える』パンフレット、大正富山医薬品株式会社、2016年、4頁)
 説文に、「旨 美(うま)し也。口の一を含むに从ふ。一は道也。凡そ甘の属、皆甘に从ふ」、「甘 美(うま)し也。甘に从ひ匕声。凡そ旨の属、皆旨に从ふ。𤮻は古文の旨なり」(注12)とあり、旨も甘も同じことである。古代には糖度の高いものは少なかったから、甘(あま)いものは旨いものであった。美の字は、説文に、「美 甘(うま)し也。羊に从ひ大に从ふ。羊は六畜に在りて、主として膳に給するもの也。美と善は同意なり。」とある。神への生贄として捧げられた。本邦の新嘗祭(新甞祭)は穀物を供えるのが通例であるが、中国ではヒツジなどの肉が対象となる。よって、「美」には、羊という字が入っている。祈年祭という予祝のお供え物は、欧米化したおせち料理を思い浮かべればよい。
 馬や猪や鳥などが餌付けされたとき、食べているのは、人間が食べ残した豆がらや残飯やふすま(麸、稃)である。穎(かひ)の残滓物が彼らにとってごちそうなのである。アマナフの含意にある、まあ良かろう的なものである。それで飼(かひ)の状態になる。飼葉桶などというカヒバという語は、カフという動詞がカヒという連用形名詞に先んずるのではなく、同時に、あるいはかえって早く生れた言葉であることを予感させる。刈って干しておいたり、煮て柔らかくしたり、飼料を上手に工夫してあげなければ飼うことは適わない。生き物なのだから死なれてしまう。その穎のうちの、人間の残した余りものである。アマ(余)アマ(甘)な関係が構築されている。両者兼ね合わせているから、動物を餌付けして飼うことを「甘」と記して何ら不思議ではない。頓智のなせるわざである。
 雄略紀十一年十月条に、「余有り」と記されることは、余剰を手中に収めておくことの本質を裏返しで表現して見せたものである。取っておいて、いつでもモノに替えることができるのは、今にいうお金である。お金があればカフ(買)ことができる。カヒ(代・替・買、ヒは甲類)はカヒ(飼・甘)やカヒ(穎)と必ずしも同根ではなくとも同音である。洒落として理解可能になっている。よって、「○○カヒ部」が全面的には令制に受け継がれなかったのは、無文の銀・銅銭や富本銭、和同開珎などに取って代わられたからに違いない。銭は金属でできているが、その昔は貝でできていた。財、宝(寶)、貨など、みな「貝」字を負っているのはそのためである。この貝(かひ、ヒは甲類)もカヒ(飼・甘)に同音である。外殻のことを指す語であるから、カヒという貝と稃は同根の言葉である。和名抄に、「貝 尚書注に云はく、貝〈音拜、加比(かひ)〉は水物也といふ」、「説文に云はく、稃〈音孚、字亦𥞂に作る。以祢乃加比(いねのかひ)〉は米の甲也といふ」、「殻 唐韻に云はく、殻〈音角、貝と同じ〉は虫の皮甲也といふ。崔禹食経に云はく、河貝子(みな)、其の殻の上の黒きもの是なりといふ」とある。
 ちなみに、和名抄に、「河貝子 崔禹食経に云はく、河貝子〈美奈(みな)、俗に蜷字を用うるは非ざる也。音挙、連蜷虫の屈む皃也〉は上(かみ)黒くして小さく狭く長く、人の身に似る者也といふ」とある。カワニナの殻をカヒの代表としている点は興味深い。貝殻を使って生きるものがいる。ヤドカリである。和名抄に、「寄居子 本草に云はく、寄居子〈加美奈(かみな)、俗に蟹蜷二字を仮用す〉は皃、蜘蛛に似る者也といふ」とある(国会図書館デジタルコレクション(40/107))。すなわち、飼われた動物とは、哲学的な意味でヤドカリ(宿借)に等しい。カワニナは人に当たり、ヤドカリは飼育動物に当たる(注13)
 以上、「甘」字をヤマトコトバのカヒ(飼・養)に当てていた上代の言語感覚を見てきた。飼育動物は、「人民」をオホミタカラと呼んでいたのと同様、財寶のもとなのである。それも人並み以上の働きをするロボットのような存在だから、甘やかして甘いものを与えて手なずけて飼っておけばとても役に立つ。今日、女性の社会進出がすすんで大いに結構なことであるが、以前は女性が家事、特に家庭の料理を作る役割を果たしていることが多かった。女性は、うまいもの(旨・甘)をこしらえる能力が高ければ、自然と男性は寄ってきた。簡単である。男性を飼っておくと、外で働いて稼いできてくれる。家畜の馬、牛、猪、鳥、鷹に同じである。自分が働くのではなく、家畜に働かせることの方が効率が良く、楽であるし危険な目にも遭わずに済む。これは、今日、一部の富裕層が、「お金に働いて貰っている」という言い方をするのと同じである。まさに、貝を飼っているということである。そういう論理(資本主義の真実)を理解していたからこそ、「鳥甘」、「馬甘」、「猪甘」、「牛甘」、「鷹甘」などと書いて面白がっていたといえる。マルクスに先だつこと1000年以上前のことであった。

(注1)垂仁記では、言葉の出ない本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の話が長々と展開されている。

 故、其の御子[本牟智和気王]を率(ゐ)て遊びし状(さま)は、尾張の相津に在る二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふたまたをぶね)に作りて持ち上り来て、倭の市師池(いちしのいけ)・軽池(かるのいけ)に浮かべて其の御子を率て遊びき。然るに是の御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで真事とはず。故、今高く往く鵠(くくひ)の音(ね)を聞きて、始めてあぎとひす。爾(ここ)に山辺之大鶙(やまのべのおほたか)を遣はして其の鳥を取らしむ。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦追ひて稲羽国(いなばのくに)に越え、即ち旦波国(たにはのくに)・多遅摩国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到り、乃ち三野国(みののくに)を越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に追ひ到りて和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献る。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。亦、其の鳥を見れば啞(おし)物言ふ。而して戕牁(かし)に言ふ事勿し。是に天皇患へ賜ひて御寝(みね)しませる時、御夢(みいめ)に覚して曰く、「我が宮を天皇の御舎の如修理(つくろ)へば、御子必ず真事とはむ」といふ。如此(かく)覚す時、ふとまにに占相(うらな)ひて、何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。故、其の御子を其の大神の宮を拝(をろが)ましめに遣さむとする時、誰人(たれ)を副はしめば吉けむとうらなひき。爾に曙立王(あけたつのみこ)、卜に食(あ)へり。故、曙立王に科(おほ)せて、うけひ白(まを)さしめしく、「此の大神を拝むに因りて誠に験(しるし)有らば是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺や、うけひ落ちよ」と如此(かく)詔ひし時に、其の鷺、地(つち)に墮ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活け」とのりたまひき。爾(しか)すれば更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾に名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらあけたつのみこ)と謂ふ。即ち、曙立王・菟上王(うなかみのみこ)の二はしらの王を其の御子に副へて遣しし時、那良戸(ならど)より跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇はむ。大坂戸よりも亦跛・盲に遇はむ。唯に木戸のみ是掖月(わきづき)の吉き戸ぞとトひて出で行く時、到り坐す地毎に品遅部(ほむちべ)を定めき。故、出雲に到りて、大神を拝み訖りて還り上る時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、仮宮を仕へ奉りて坐せき。爾に出雲国造の祖(おや)、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を餝りて其の河下に立てて大御食を献らむとせし時に、其の御子詔ひて言ひしく、「是の河下に青葉の山の如きは山と見えて山に非ず。若し出雲の石𥑎(いはくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大神(あしはらのしこをのおほかみ)を以ていつく祝(はふり)が大庭か」と問ひ賜ひき。爾に御伴に遣さえたる王等、聞き歓び見喜びて、御子を檳榔(あぢまき)の長穂宮に坐せて駅使(はゆまのつかひ)を貢上(たてまつ)りき。爾に其の御子、一宿(ひとよ)肥長比売(ひながひめ)に婚(あ)ひき。故、其の美人(をとめ)を窃かに伺へば蛇なり。即ち見畏みて遁逃(に)げたまひき。爾に其の肥長比売患へて海原を光(てら)して船より追ひ来つ。故、益(ますます)見畏みて山のたわより御船を引き越して逃げ上り行きましき。是に覆奏(かへりこと)言(まを)ししく、「大神を拝みたまひしによりて大御子物詔りたまひき。故、参ゐ上り来つ」とまをす。故、天皇歓喜(よろこ)びて、即ち菟上王を返して神宮(かみのみや)を造らしめたまひき。是に天皇、其の御子に因りて鳥取部(ととりべ)・鳥甘(とりかひ)・品遅部(ほむちべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき。(垂仁記)

 最後の文、真福寺本古事記に、「鳥甘」とあって「鳥甘部」とないことは、本居宣長も指摘するとおりである。トリカヒ(「養鳥人」(雄略紀十年九月条))という語が他に出ている以上、日本書紀の当該個所にかかわらず、「部」を添える必要はない。なお、途中の原文、「亦見其鳥者於思物言加思爾勿言事」部分の訓みについては、本ブログ「垂仁天皇の御子、本牟智和気王(誉津別命)の言語障害の説話 其の四(鵠の一)」以下参照。日本書紀では、「鳥養部」と記されている。

 ……湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓(かばね)を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月条)

(注2)考古学的見地から、馬飼、鷹甘について、その実態をまとめられた論考には、基峰修「馬飼について―日本列島における古墳時代渡来文化の検証―」『人間社会環境研究』28号、金沢大学大学院人間社会環境研究科、2014年9月、ならびに、同「鷹甘の文化史的考察―考古資料の分析を中心として―」『人間社会環境研究』30号、金沢大学大学院人間社会環境研究科、2015年9月が見られる。
(注3)山口佳紀『古事記の表現と解釈』(風間書房、2005年)に、大智度論に見える「甘受」の訓のアマナヒから、「これらのアマナフは<良しとする>の意で、アマには<良い・立派だ>の意のあったことを窺わせる。」(395頁)とし、また、憲法十七条の用例に見える「アマナフは、<(他人と)調和する・協同する>意と考えられる。これは<(他人を)良しとする>の意から、<(他人と)調和する・協同する>の意の出て来たものと考えられよう。」(同頁)とされている。筆者は、「良しとする」という語義は、まあ良かろう、ということと考える。程度として better であるということであり、けっして best ではない。諸手を挙げて喜んで受け入れているのではなく、甘んじて受け入れることだから、「甘受」と書いてアマナヒと訓んでいたものである。そして、ナフという動詞化する接尾辞は、ナフ(綯)という言葉が示すように、相手との絡み合いによってできあがっている。アキナフ(商)、アタナフ(敵)、イザナフ(誘)、ウベナフ(肯)、ツミナフ(罪)、トモナフ(伴)、ニナフ(担)、マヒナフ(賄・幣)など、相手との相互作用、被動や使役の意味を強めることが多い。アマナフには、同じ調和や協同においても、させられた感があるというニュアンスを含んでいる。
(注4)コンラート・ローレンツ、小原秀雄訳『人イヌにあう』(早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、2009年)参照。
(注5)筆者は、この考え方について、「西アジア遊牧民の染織―丸山コレクション 塩袋と旅するじゅうたん―」展(たばこと塩の博物館(~2017.4.9))により教えられた。古墳時代の列島においても、蔀屋北遺跡では、ウマの出土が多くなる5世紀半ばから後半にかけて、製塩土器が出現して急増している。馬の飼育に塩が欠かせないことの証明である。今日、動物園や牧場へ行けば、ウマもウシもイノシシもミネラルブロックの鉱塩が与えられているのを目にすることができる。
埋葬土坑出土の馬の全身骨格(大阪府四条畷市蔀屋北遺跡出土、古墳時代、5世紀、大阪府立近つ飛鳥博物館展示品、Saigen Jiro氏撮影)
鉱塩とイノシシのおもちゃ(多摩動物公園)
(注6)内山幸子「狩猟犬から食肉犬へ」設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦編『弥生時代の考古学5 食糧の獲得と生産』(同成社、2009年)に、「縄文時代のイヌは、埋葬地点が人(とくに成人男性)の墓に近接することや怪我の多さなどから、狩猟犬であったとみられている……。弥生時代にも狩猟犬などとして使役されたイヌはいたが、ほとんどのイヌは最終的に食用にされたため、『使役犬は死後に埋葬される』という図式が弥生時代には成り立たない。」(123頁)とある。犬の生産地のような遺跡が見られるという。それが食用犬の生産地なのか、筆者は勉強不足でわからない。若鶏もも肉のように、若犬むね肉が消費されたのであろうか。「最終的に食用」に供される前、狩猟犬、番犬、愛玩犬、軍用犬などといろいろ役立てていたのではないかと推測している。資本財として有効であると考えるからである。ご批判を賜わりたい。
首輪をつけた犬の埴輪(群馬県伊勢崎市境上武士出土、高さ47.1cm、古墳時代、6世紀、「東京国立博物館コレクション名品ギャラリー」様)
(注7)ブタと人間は食べるものが似ており、人間の食料と競合するため、むしろ飼料に当てずに人間が食べた方が、養える人口は増えると考えられている。現代の世界の人口問題に対する見解に同じである。ブタは飼料の約30%、ウシに至っては約6.5%しか肉に還元できないと調べられている。それでもウシは草を食べるから人と競合しない。ただし、メタンガスを発生させて困っている。ブタは人間同様、セルロースを消化できない。田畑を増やし、その里山の先近くの、今日、鳥獣保護法で手出しできず、被害に悩んでいる場所にイノシシをおびき寄せて、罠などで捕まえる方が食糧確保の点からは理に適っているらしい。
(注8)この記事は限りなくあやしい。瑞祥記事かと思われるが、なぜここに放り込まれているのか、筆者はまだ十分にわからない。同様の記事は、例えば下にあげる推古紀にある。こういった記事がなにゆえ存在しているのか、それが解明された時、はじめて日本書紀の編纂者の意図がわかったことになり、“読めた”という段階に至る。今日、その解明に誰も取り組まれていないように見える。文献を書いた人の意図を無視して、“歴史研究”や“文学研究”が行われている。筆者には不思議でならない。

 ……近江国の言さく、蒲生河に物有り、其の形、人の如し。……摂津国漁父有り、堀江に罟を沈む、物有りて罟に入る、其の形、児(わくご)の如し、魚に非ず人に非ず、名づくるを知らず。(推古紀二十七年四月~七月条)

(注9)志田、前掲書には、次のようにある。

 ここにみえる「旦暮にして食へども、尚其の余有り」というのは、たとえ菟田の人の狗が朝夕に食べたとしても、まだあまりがあるという意味なのか、それとも天皇が朝夕に食べたとしても、まだあまりがあると解釈するのかによって、大分事情がちがってくる。「鳥官の禽」について本居宣長は、「鳥官とは御饌料の鳥を養設け置所かとも思へど、比天皇の御瞋の事を以見れば、さにはあらで、御翫の鳥なるべし」としており、日本書紀通釈にも、「鳥官は令になし。天皇御翫の禽なるべし」とみえる。そうすると、天皇が愛玩する鳥を朝夕食べるわけがないから、ここの解釈は「菟田の人の狗が、朝夕食べたとしても」という意味になる。つまり鳥官で飼っていた鳥は、愛玩用であって食事のためのものではなかったことになる。(402頁)

 また、小学館の新編日本文学全集本・日本書紀②頭注にも、「食用・観賞用に鳥を飼育する役所、またはその職員を仮にこう記したか。奈良時代に宮内省園池司が孔雀を飼育していたことが『正倉院文書』にみえる。」(190頁)とある。しかし、「禽」自体を食べる、愛玩する、という発想は、後代のそれであろう。「鳥官」が管掌する「禽」に意図があるとすれば、猛禽類を表すと考えられる。「未だ任那を禽(と)らざりし間(から)に」(欽明紀二年七月条)という動詞の用例も見られる。トリという言葉(音)が「鳥」でもあり、「取(捕・獲・採)り」でもあるという洒落でもあろう。この思い付きをアクセントの違いから排除してしまうことは、最も視聴率の高い番組の一つである『笑点』(日テレ)を否定するのと同じである。言葉の学問が言葉の現場を見失っている。なお、「取る」のト音が早くから甲乙に混乱をきたしていると調査されている。どうして混乱を来たしたかについて、あるいはこの洒落のせいかとも思われるが、あくまで推測の域を出ない。
 それはさて、奈良時代ではなく、古墳時代やせいぜい飛鳥時代初期のことである。「禽」は、鷹狩に使うことのできるタカやハヤブサのことで、鑑賞したのではなく利用したのであろう。万能叉手網とでも呼べる代物であったのではないか。「馬官(うまのつかさ)」(推古紀元年正月条)などとある馬が、乗用車であったのと思考回路は同じである。
 和名抄に、「鳥 尓雅注に云はく、二足にして羽ある者は禽〈音琴、和名、鳥と同じ〉と曰ふといふ。一説に、飛ぶものは鳥と曰ひ、走るものは獣と曰ふ、捴じて之れを禽獣〈訓は獣と同じ〉と謂ふ。……」とある。禽獣という言葉については、あまり厳密に禽と獣とを区別していないと考えられている。獰猛さをもって集められているのであろうか。
(注10)本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の十」参照。
(注11)筆者は、古代日本におけるペット前史について考究している。雄略紀の「禽」が観賞用や愛玩用のペットであるとすると、「天皇聞而使聚積之」と記される道理が合わない。鳥籠を100個置いて飼うことはいけないことではないが、尋常なことではない。そうではなく、使役を目的とする動物利用に、“カヒ(甘=貝)の文化”を見ている。藤原京から出土した木簡に、「亀甘部伊皮〔田〕」という人名表記が見られる。最終的に食べることになったとしても、当初の目的は、亀甲をもって卜をするために亀を飼っていた。「亀甘部」なる部民がいたらしい。
「亀甘部伊皮〔田〕」(奈良文化財研究所編『飛鳥藤原京木簡二―藤原京木簡―』吉川弘文館、2007年、PL.118、3623(赤外)。難しい「龜」字と「部」の略体の「ア」字が見られる。)
 イーフー・トゥアン、片岡しのぶ・金利光訳『愛と支配の博物誌』(工作舎、1988年)は、ペットとして飼っていたカメを殺して食べる話や子豚に人間の乳を飲ませる写真を載せるが、この使役家畜の意味への配慮に乏しい。すなわち、ペット前史である。この部分を論考するだけで、大掛かりな文化誌が展開されるであろう。導線だけ示すなら、古墳時代の飼い犬に、絶対にとは言わないが、室内犬は見られないのではないかというのが筆者の考えである。文化人類学のフィールドワークに、動物の擬人化を徹底的に嫌う文化を記すものがある。現代の“文明人”との違いが浮き彫りになるであろう。雄略天皇は、紫禁城に籠らされているのではなく、「走(わし)り出の よろしき山の 隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山の あやにうら麗(ぐは)し」(紀77歌謡)き朝倉宮に開放的に住んでいる。いつでも狩りに出張る態勢が整っており(雄略前紀安康三年十月条、雄略紀二年十月条、四年二月条・八月条、五年二月条)、「鮮(なます)」を作る「宍人部(ししひとべ)」を置くに及んでいる。
 なお、人民のことを、古訓にオホミタカラとよんでいる。適用される用字は、民・百姓・黎元・民庶・衆庶・億兆・黔首・民萌・万民・居民・公民などと多い。味噌汁などをオミオツケ(御御御付け)というように、オホ(大)+ミ(御)+タカラの意であろうとされる。タカラは、喜田貞吉、松岡静雄、大野晋らの説に、タ(田)+カラ(族)であるという。語源というのはわからないから、“説”以上のものはない。漁民はオホミタカラではないのか、といった批判がありそうである。筆者は、上述のとおり、タカラ(寶)とはカヒ(貝)で表わされることだから、人民は大王にとってみればカヒ(甘・飼)の対象であると捉えている。使役家畜同然の存在であったという意味である。働いてもらう。構造的にそうなっているからどうしようもない。ヤマトコトバは認識するに、とても素直な言葉である。
(注12)白川静『字訓 新装普及版』平凡社、1999年は、「旨」は「[甘と]声が合わず、また甘に従う字ではない。」(161頁)、「[説文は]附会の説である。」(86頁)とするが、当時の権威ある字書、説文を、太安万侶や日本書紀の編纂者は見て、それに従っていると考える。
(注13)和名抄の「河貝子」の説明は、「髪(かみ、ミは甲類)」が「上(かみ、ミは甲類)」に由来するかとされる有力な根拠である。本ブログ「十月(かむなづき)について」参照。カワニナが人で、ヤドカリは飼育動物であるとの比喩対比は、そのまま俗世の人と、剃髪した僧、尼僧との関係に当たるものと思われる。托鉢で食べている者への皮肉が込められている。確かに、寺にある瓦葺の塔は、ヤドカリに等価である。人々の住まいは、住むほどに黒ずんでふさふさした茅葺屋根である。
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鳥「甘」とは何か 其の一

2017年04月05日 | 論文
 記紀に鳥甘とは、鳥養部、鳥飼部のことで、それぞれトリカヒ、トリカヒベと訓む。スワンのような鳥を飼う部民とされている。ヤマト朝廷において、どのように鳥養部が存していたかについては、今日まで少しだけ議論されてきた。しかし、「甘」字をもってなぜカヒと訓むのかについては、あまりにも難しい課題であるため、研究はほとんど皆無と言っていい。瀧川政次郎「鳥甘部考(上)」『日本歴史』第272号(1971年1月)に、「猪甘部は猪飼部である。古事記・日本書紀には、御馬甘・鷹甘等、飼(かい)の意に甘の字を用いているが、甘の字には、甘(あま)い・甘(あま)んずる・恕(ゆる)す・熟する・手際(てぎわ)よい等の意はあるが、飼養の意はない。猪飼(ゐかい)・犬養(いぬかい)の飼・養に代えるに甘の字を以てしたことの説明には、さすがの本居も弱ったとみえて、古事記伝二十三に、……」(81頁)とあり、引用している。その部分は、垂仁記に、「是に天皇、其の御子に因りて鳥取部(ととりべ)・鳥甘(とりかひ)・品遅部(ほむちべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき。」とある個所である(注1)。本居宣長・古事記伝(大野晋編『本居宣長全集 第十一巻』筑摩書房、昭和44年)の垂仁記の件には、

○鳥甘部(トリカヒベ)、部ノ字諸本に無し、今は延佳本に依れり、甘は加比(カヒ)と訓ム、書紀には、鳥養部(トリカヒベ)と作(ア)り、凡て古(ヘ)は某養(ナニカヒ)と云養(カヒ)に、多く甘ノ字を用ひたり、記中には、御馬甘(ミマカヒ)猪甘(ヰカヒ)、書紀にも、鷹甘(タカカヒ)猪甘(ヰカヒ)など見え、其ノ外書どもにも多し、【抑養(カヒ)に此ノ字を用るゆゑは、いかなるにか、詳(サダカ)ならねど、若シは詩ノ小雅に、以祈ル甘雨ヲとある、正義に長スルトキハ物ヲ則為甘ト、害スルトキハ物則為苦ト、云る意などか、又◆(食偏に甘)を字書に、音甘餌也とあれば、此ノ字の偏を省ける物か、されど古書には、前椅(クマハシ)など、字義に依らず、別に用ひならへるコトも多ければ、此レも其類にもあらむか、】さて此ノ部は、まづ彼ノ捕得来たる鵠を飼(カ)ふ者を云べく、又別(コト)にも此ノ名を負せて、定められたるもあるか、何(イヅ)れも彼ノ鵠の事に依てにはあるなり、書紀雄略ノ巻、養鳥人(トリカヒビト)あり、また鳥官之鳥(トリノツカサノトリ)、為菟田ノ人狗所レテ囓(カマ)死(シニ)キ、天皇瞋テ黥テ面ヲ、而為鳥養部ト、【鳥ノ官とは 御饌(ミケ)ノ料の鳥を、養(カヒ)設(マ)け置ク所かとも思へど、此ノ天皇の御瞋(ミイカリ)の事を以見れば、さにはあらで、御翫(ミモテアソビ)の鳥なるべし、】また直丁等云々、仍(カレ)詔シテ為鳥養部トとあるなどは、鳥を飼(カフ)人なり、和名抄に、大和ノ国添下ノ郡鳥貝(トリカヒ)【止利加比】ノ郷あり、【貝は借字なり、万葉十二に、取替(トリカヒ)川とよめるも、此(ココ)なり、】此ノ外も鳥養(トリカヒ)てふ地、此彼(ココカシコ)にあり、(135頁、「国会図書館デジタルコレクション」(76/577))

とある。小学館の新編日本文学全集本・古事記頭注には、「鵠(白鳥)の飼育にあたる部民。『甘』は、『餌』の異体字『◆』の省文。」(209頁)とされている。集韻に、「◆ 沽三切、音甘、餌也。」とある。管見ながら今日まで、これしか説明がない。「鳥甘部」が「鳥餌部」とあって、トリカヒベと訓めるかとなると、「餌」と書いてエサではなくカヒと訓まなくてはならず、それはまたそれで難しい問題である。
 ほかに甘字をもってカヒ(養・飼)の意に用いられている例に、「御馬甘(みまかひ)」(仲哀記)、「猪甘」・「馬甘」・「牛甘」(履中記)、「猪甘」(清寧記)、「猪甘津」(仁徳紀十四年十一月条)、「鷹甘部」・「鷹甘邑」(仁徳紀四十三年九月条)、「都努臣牛甘(つののおみうしかひ)」(天武紀十三年四月条)などとある。「甘」字が通例で用いられている。それが今、どうしてカヒと訓むのかわからなくなっている(注2)
 そもそも飼うとはどういうことか。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「かふ[飼・養](動四)①飼う。動物を飼育する。……②家畜などに飲食物を与える。」とある。記紀万葉に動詞の例をみると、

 鉗(かなき)つけ 吾(あ)が飼ふ駒は 引き出(で)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか(紀115歌謡)
 鳥垣(とぐら)立て 飼ひし鴈(かり)の児(こ) 栖立(すだ)ちなば 檀(まゆみ)の岡に 飛びかへり来ね(万182)
 矢形尾(やがたを)の 真白の鷹を 屋戸(やど)に据ゑ かき撫で見つつ 飼はくし好しも(万4155)
 …… 西の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 東の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りて飼ふがに 水こそは 汲みて飼ふがに ……(万3327、定訓ではない。)
 左檜(さひ)の隈(くま) 檜隈河(ひのくまがは)に 馬駐(とど)め 馬に水飲(か)へ 吾(われ)外(よそ)に見む(万3097)
 寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以て、敢へて我に養(か)ふべけむや。(神代紀第五段一書第十一)
 韓子宿禰等、轡(うまのくち)を並べて往き、河に至るに及びて、大磐宿禰、馬に河に飲(みずか)ふ。(雄略紀九年五月条)
 越人(こしのひと)答へて曰さく、「[仲哀]天皇、父(かぞ)の王(きみ)[日本武尊]を恋ひたまはして、[白鳥ヲ]養(か)ひ狎(なつ)けむとしたまふ。故、貢る」とまをす。則ち蒲見別王(かまみわけのみこ)、越人に謂りて曰はく、「白鳥なりと雖(いふと)も、焼かば黒鳥と為るべし」とのたまふ。

などとある。
 本来、動物は、自立している。自然界のなかで自分の力で生きている。食べ物、飲み物は自分で確保する。探していって食べたり飲んだりしている。ところが、それが飼われると、一転して与えられることになる。これは、人間でいえば、乳飲み子と同様の存在にあたる。動物的には大人になっているのに、甘やかされている。
 動物と人間とは別の生き物である。人間も一つの動物である。飼育するに当たり、新たに野生の動物(の仔)を捕まえることがある。捕まえるのはたいへんである。逃げようとする。捕まえて十分に餌を与えていても、隙あらば逃げる。それがだんだんに慣れてくると、馴れるようになる。なれなれしい態度になってくる。餌は当然貰えるものと思ってくる。甘えた存在になる。
 人間とは別の動物だから、ときおり敵対的なこともある。暴れて危害を加えたり、農作物を荒らしたりする。人間どうしでいえば敵である。その緊張関係を和らげてなくすことが、飼うということである。餌を与え、自然界の厳しさから身の安全を保障してあげる。戦後の日本がどういう具合に進んできたか、吉田茂に尋ねたいところである。そういう和平交渉こそ、飼うということの一端を表している。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「あまなふ[和](動四)仲よくする。甘受する。甘(あま)の派生語。」(45頁)とある。用例に、

 而れども玖賀媛(くがひめ)、和(あまな)はず。(仁徳紀十六年七月条)
 然れども知ること得る日には、和ふこと曾(むかし)より識れる如くにせよ。(推古紀十二年四月条、憲法十七条十三)
 故、初の章(くだり)に云へらく、上下和ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其れ亦是の情(こころ)なるかな。(推古紀十二年四月条、憲法十七条十五)
 爰(ここ)に大臣、群臣(まへつきみたち)の和(あまな)はずして、事を成すこと能はざるを知りて退(まか)りぬ。(舒明前紀)
 寸(きだきだ)に斬(きら)るとも亦甘心(あまなひ)なむ。(遊仙窟)

などとある。もともとは敵であったか、関係がなかった者どうしが仲良くすることを言っている。譲れるところは譲って仲良くするのが互いにメリットが大きいと知ってそうする。まあ良かろう、その点は致し方なかろう、といった頃合いである(注3)。それは、一方的な服従とは異なる。飼われることとは奴隷になることではない。オツベルに使役される象とは異なる。オツベルは象をかわいがらなかった(宮沢賢治「オツベルと象」)。
 ホタルが来るのは、苦い水のところではなく甘い水のところである。実際にどうかはわからないが、人々の間でそう信じられている(東北地方のわらべ歌「ほたるこい」)。動物を飼うことができるのも、自然界よりも甘いものが食べられるから居続けることとなる。番犬が繋がれているのは、犬が逃げていってしまわないためというよりも、見知らぬ人が来訪した際、犬が咬みついたりしないためである。吠えることで警備の役を果たしているから、それ以上は求めない。縄を解いたら飼い犬は逃げていくかと言えば、そういうことが絶対にないことはないが、還ってくることが多い。ご飯だよ、と呼べば、尻尾を振って近寄ってくる。料理の上手な奥さんのところに、殿方が必ず帰ってくるのと同じである(注4)
塩袋(ナマクダン)(西イラン、ルリ・バクティアリ族、1920年頃、羊毛・綿、54×37cm、丸山コレクション蔵)
 これは、遊牧民の家畜に似た傾向である。中央アジアや西アジアの遊牧民は、ヒツジの首に縄を結って繫いでいるわけではない。広くユーラシア大陸のどこへでもヒツジは逃げていくことができる。けれども、ヒツジは逃げて行かない。ヒツジは食べ物を人から貰っているのではない。大地に生えている草を食べている。それにつれて遊牧民は移動するが、いずれ人に選ばれて殺されて食べられてしまうとわかっていながら、人から離れようとしない。それは、人が塩を持っているからである。キリムの塩袋に、舌だけを入れて甞めている。たくさん与えると満足して人から離れてしまうから、口を細くして一度に大量には食べられない仕掛けが施されている。つまり、塩袋はヒツジたちをつないでおく生理的な紐なのである(注5)
 本邦に飼われる馬や牛、猪(豚?)、鳥、鷹は、必ずしも塩に繋がれているとは言えない。海に囲まれている。むしろ、餌(や水)に繋がれている。餌付けされている。乾燥させた牧草や豆がらを煮たものの方が、地面に生えている生の草よりもおいしいらしい。効率の悪いミミズ探しよりも人間の残飯の方がおいしいらしい。水面に浮いている藻よりも籾殻の方がおいしいらしい。人間の食べ残しのようなものは、余ったところである。アマシ(甘)とアマル(余)は語幹が共通する。主に与えている餌とは何か。人間は農耕を始めて、品種改良した植物の穎(かひ、ヒは甲類)を収穫するようになった。栽培植物でなければ、あれほど大量の穎はとれない。だから余った甘いものはカヒ(飼・養、ヒは甲類)と同等ということに当たるようである。
 池のカモにパンの耳を千切って与えると、喜んで集まってくる。囮を使って招き寄せることもできる。集まって来たところで叉手網(さであみ)を伸ばすと捕まってしまう。宮内庁の鴨場では、キャッチ&リリースが行われている。間抜けさに割り切れないものを感じるが、人と動物との関係にはそういう面が見られる。カモシカのように山奥で人間と無関係に生きている動物や、野良ネコのように人間の周りにいながら人間を無視するかのように生きているものもいる。習性だから、古くはあえてカフ(飼・甘)ことはしなかったようである。無理やりにすることは、アマナフ(和・甘)ことではない。
 志田諄一「鳥取造」『古代氏族の性格と伝承』(雄山閣、昭和47年)に、「鹿やうさぎなどを飼ったり、捕獲したりする部は[記紀ニ]かくべつにみえない。おそらく鹿やうさぎは、特別な部を組織して飼育したり、捕獲したりしなくても、容易に入手できるほど畿内地域に棲息していたのであろう。」(402頁)とある。筆者は承服しがたい。シカやウサギは狩りの対象である。貴族の娯楽として行われていた時、動物園(苑)に放し飼いにしておいて狩りをして獲る方法はあろうが、それがヤマトコトバにカフ(飼・甘)ことに当たるとなると、狩猟の醍醐味は薄らいでしまう。堕落した宮廷貴族のことは不明ながら、狩猟は、野生に対峙してこその楽しみと思う。人に馴れている動物を狩って何が面白いのか、という話である。鹿が奈良や宮島で餌付けされているのは、神の使いなどと持ち上げられてからのことであろう。また、ウサギは、列島に棲息する固有種のニホンノウサギが知られる。警戒心が強く、とても人に馴れるものではない。飼いウサギはヨーロッパ原産のアナウサギの改良品種で、南蛮貿易の頃に入ってきたものであろうか。そもそも最初から食べるために動物を育てるという考えは、現代の養殖、養鶏、養豚などの発想に毒されている。大量に飼育している個体に、いちいち名前をつけてかわいがったりしない。牛の場合は大きくて、また、高値で取引されることや闘牛に使われることもあり、名前をつけて飼育されていることも多い。良い肉を得るためにビールを飲ませることまでしている。ある意味、甘えさせることの極みである。
飼いウサギ(渡辺始興筆、江戸時代、大覚寺杉戸絵)
鷹狩埴輪(群馬県太田市オクマン山古墳出土、6世紀末、新田荘歴史博物館蔵、「太田市HP」様)
 「○○カヒ部」は、鷹については、主鷹司の属官に「鷹戸(たかかひへ)」とあるものの、必ずしも令制に引き継がれていない。飼う対象の動物に、馬、牛、猪、鳥、鷹があった。馬は主に乗馬、農耕用、牛は牛車の牽引、農耕用、鷹は鷹狩りに用いるためである。犬飼というのももとは狩猟犬や番犬にするためである(注6)。また、鵜飼も鵜を飼っておいて漁業に用いるためである。飼っている動物を大切にしている。単に肥ってきたら食べようというものではなく、何かの手段に使おうとしていた。一方、鳥については、主に鵠(くぐひ、白鳥)を飼っていたとされる。猪(豚?)(注7)についてと同様、食べるためだけとされてしまっている。筆者は違うと考える。
 雄略紀に、鳥についての話が3つ載っている。

 ……身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉の献れる二の鵝(が)を将(も)て、筑紫に到る。是の鵝、水間君(みぬまのきみ)の犬の為に囓(く)はれて死ぬ。別本(あたしふみ)に云はく、是の鵝、筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)の犬の為に囓はれて死ぬといふ。是に由りて、水間君、恐怖(おそ)り憂愁(うれ)へて、自ら黙(もだ)あること能はずして、鴻(かり)十隻(とを)と養鳥人(とりかひ)とを献りて、以て罪を贖(あか)ふことを請(まを)す。天皇、許したまふ。……水間君が献れる養鳥人等を以て、軽村(かるのふれ)・磐余村(いはれのふれ)、二所(ふたところ)に安置(はべらし)む。(雄略紀十年九月~十月条)
 ……近江国、栗太郡(くるもとのこほり)の言さく、「白き鸕鷀(う)、谷上浜(たなかみのはま)に居(を)り」とまをす。因りて詔して川瀬舎人(かはせのとねり)を置かしむ。(雄略紀十一年五月条)
 ……鳥官(とりのつかさ)の禽(とり)、菟田(うだ)の人の狗(いぬ)の為に囓はれて死ぬ。天皇瞋(いか)りて、面(おもて)を黥(きざ)みて鳥養部(とりかひべ)としたまふ。是に、信濃国の直丁(つかへのよほろ)と武蔵国の直丁と侍宿(とのゐ)せり。相謂(かた)りて曰く、「嗟乎(あ)、我が国に積(うちつみお)ける鳥の高さ、小墓(をつか)に同じ。旦暮(あしたゆふべ)にして食(くら)へども、尚其の余(あまり)有り。今天皇、一(ひとつ)の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太(はなは)だ道理(ことわり)無し。悪行(あ)しくまします主(きみ)なり」といふ。天皇、聞しめして、聚積(つ)ましめたまふ。直丁等、忽(たちまち)に備ふること能はず。仍りて詔して鳥養部とす。(雄略紀十一年十月条)

 十年九月の条は、呉国から貰ったガチョウを犬に噛み殺されてしまったため、水間君という人が天皇を恐れて、オオハクチョウ(「鴻」)とそれを養う人とを天皇に献上することで許しを乞うた話である。ガチョウは、アヒル同様、改良した家禽で飛べない。それを知らずに管理が不行届きとなっていた。だから代わりにと言っては何ですが、オオハクチョウとその管理者で勘弁してくださいというのである。いきものがかりを付けてくるところが心憎い。仮に食べるためだけとしても、今なら冷蔵庫が付いてお得!という設定である。まあ、許そうではないかとアマナフ(和・甘)ことで納得できる。
 十一年五月の条は、鸕鷀(う)のアルビノの記事かと思われる(注8)
カワウのアルビノ(「barbersanの野鳥観察」様)
 十月の条は、鳥官が飼っていた禽がイヌに噛み殺されたので、鳥官を入れ墨にして鳥養部にした。それを聞いた信濃国や武蔵国から来ていたアルバイト労務者が、休憩中に無駄話をしていた。お国でならいくらだって鳥はいて食べ尽くすこともないのに、一羽の鳥のために入れ墨にするなんてまったくひどい天皇だと。それを伝え聞いた天皇は、ならば集めてみるようにと指示した。集めることができなかったため、鳥養部にさせられてしまったという話である。
 鳥官の飼っていた「禽」とは、鷹狩に使う鷹であろう(注9)。鷹狩の始まりを示す記事は、仁徳紀にある(注10)

 ……依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇しびて献る」とまをす。天皇、酒君(さけのきみ)を召して、鳥を示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多(さは)に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷(と)く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)といふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もずの)に幸して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽(たちまち)に数十(あまた)の雉(きぎし)を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養(か)ふ処を号けて、鷹甘邑(たかかひのむら)と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月条)

 鷹を一羽飼っておけば、それはたくさん(「数十」)の野生の鳥(「雉」)を手中にしているのも同然である。一羽の鷹は、うず高く積むほどの鳥と同等なのである。それを知らない信濃や武蔵から来ている直丁は、手立てを持たないまま放り出されて鳥を捕ることができなかった。お国でなら、各種の網や鳥黐などの道具を調達できても、直丁として都へ派遣されているから、身一つで来ている。なす術がなかった。結果、鳥の飼育係になるように詔が下ったのである。いきものがかりが鳥を育てて一年に得られるスワンの数と、何回かの冬場の鷹狩によって得られる数では違うし、なにより手間ひまが違い、楽しさも違う。
 そして、“食べる”ということしか眼中にない田舎者に対して、天皇は見下しているともいえる。日本書紀で、「鳥養部(とりかひべ)」とあるのは、前述の垂仁紀の誉津別命関係で置かれた部民とこの雄略紀の個所である。令制には受け継がれない。誉津別命が由来で飼っているということは、ハクチョウ(鵠)がいれば、万一、言語障害の御子が生れた際、治療に役立てられると考えられて置かれている。由来が書かれているのだからそれにしたがって物事を考えればよい。ハクチョウの数が増えたり、年を取れば食することもあったであろうが、食べるのが目的で鳥養部を設けてハクチョウを飼っているのではない。だから雄略紀に、鳥養人は蔑まれて表現されている。ほとんど実益に結びつかない人たちである。言葉の原初的な意味において、役立たずの存在である。それはまた、現在の皇居のお濠などのように鑑賞のために飼っているのでもない。鳥の肉を食べたいのであれば、手間のかからないニワトリを飼えば、卵も量産できて有効である。鑑賞用であったとするなら、今日の大きな動物園のように多種類飼ってみたくならないか。ハクチョウだけという根拠が成り立たない。ハクチョウの飼育が後代に残らなかったのは、幸いなことに言語障害の御子が多くは生れなかったからか、ハクチョウの鳴き声療法は必ずしも効果がないと悟ったからであろう。
 祈年祭の祝詞に、

 御年の皇神の前に白き馬、白き猪、白き鶏、種種の色の物を備へ奉りて、……(延喜式・祝詞・祈年祭)

とある。その最も古い歴史記述は、天智紀にある。

 山御井(やまのみゐ)の傍(ほとり)に、諸神(もろもろのかみ)の座(みまし)を敷きて幣帛(みてぐら)を班(あか)つ。中臣金連、祝詞を宣る。(天智紀九年三月条)
白っぽい猪(多摩動物公園、♀、キントン号、2002年生)
黒っぽい猪(多摩動物公園、♀、クロマメ号、2006年生)
 猪甘はそのために猪を飼っていたのではないかとも指摘されている。「白馬」はときおり出現する。「白猪」をブタとする説もあるが、当時飼われていたかとされるブタの表皮の色はわからない。今日一般的に見られるような白っぽいものとすると、当たり前のものを捧げることになって特に縁起がいいわけではなくなる。イノシシのこととすると、黒っぽい毛の個体と白っぽい毛の個体がいるから、白っぽいものを当てたとするのが穏当であろう。「白鶏」は白色レグホーンがいるわけではないので、出現を待って選んだということであろう。この「白鷄」は、鳥養部の飼っているハクチョウとは関係がない。ハクチョウはどれも白いから珍しくなく、有難みがない。お供え物には適さないと思うが、世の中は広いので実例があればお教えいただきたい。ほかの「白鳥」記事では、倭建命(日本武尊)の死後に陵墓から飛び立ったいう故事がある。「三の陵(みさざき)を号けて白鳥陵(しらとりのみさざき)と曰ふ」(景行紀四十年是歳条)とある。上記のカフの用例の最後の仲哀紀の例は、それに基づいた話である。仮にそのお話が信仰の形で伝わっていたとすると、霊的な存在をお供えにはしづらいと思う。
 「甘」という字で記紀に記されている対称の動物、馬、牛、鷹、鳥(鵠)、猪は、ただ食べるために家畜として飼育されたのではなく、また、鑑賞のためでもなく(神さまに鑑賞(?)していただくという言い方なら正しい場合もあるかもしれないが)、高度に文化的な活用のために飼われたといえる(注11)
(つづく)
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天孫降臨 其の五

2017年03月29日 | 論文
(承前)
(注11)紀一書第六に、「竹島」とある個所、傍訓にタカシマとあるが、筆者はタケシマではないかと考える。キノコはタケである。シイタケ、マツタケ、ヒラテケ、ワライタケ、エノキダケ、などなどである。和名抄に、「菌 尓雅注に云はく、菌〈音窘、太介(たけ)、今案ずるに数種有り。木菌、土菌、石菌、並びに兼名苑に見ゆ〉は形、盖に似る者也といふ」とある。なお、塔には五重塔のように層を重ねるものがある。ツクシに見えることがあって、それが「竺紫(筑紫)の日向」という設定を読んでいるのであろう。ツクシは土手の日の当たる斜面などによく生える。養分の少ない酸性土壌に顔を出す。
ツクシ
(注12)そこに稲の霊が降りて来て宿り籠もると指摘されているが、筆者は、時代が下ってから行われた後付けの信仰のように感じている。本ブログ論文では、一貫して、無文字文化には、ヤマトコトバが先にあったと主張している。稲ニホについては、会津歌農書(国会図書館デジタルコレクション(136/234))に、「稲似宇(ニウ)積所 いなにうは居家をはなれてつむがよし 地なりせばしかたなけれど いつとても居屋をつゞきに稲似宇を火事用心のために積まざれ」と注意されている。
(注13)土屋又三郎・耕稼春秋(堀尾尚志・岡光夫校注・執筆『日本農書全集4 耕稼春秋』農山漁村文化協会、昭和55年)に、農作業が解説されている。
 ……稲干〈ほすとハ、稲一把宛四方へ株を上にしてひろけて、堅田ハ其田に干、野川原これ有所ハ田より持出て干なり〉。……稲刈六把宛立置也……。是を束立と云也。雨天に見ゆれハ、其間に穂を外へなして算に積、則三束程有により三束にうと云、堅田ハ其田に積、泥田ハ疇の上に積、四五日過れハ雨降晴の時分風にて干る。後はそうけにうにする〈そうけとハ、二ツを一ツに積、穂を内へするを云、是穂をぬらすましき為也〉、天気続て能れハ三日四日にて能干る。惣して稲ハから能干れハ、おのつから干る。からぬれて、穂ぬれすといへとも籾やわらかに成物也、是稲のから穂にかへる故也。皆泥田にて野河原なき所ハ、稲をはさに懸る〈はさとハ二品有、地はさ、作はさ、かけ木、立用品々あり〉。はさの稲天気能時分は七日程にて能干る。雨天の時分ハ十二三日にて大方よく、但作りはさ多ならさる故、積替とて稲六七束のにうを疇にして、からを能風にふかせ、二三日立て積直す、又風にふかせ七八日程にて能干る。但川原近辺惣して嵐(ママ)つよき所ハ猶能干る。稲にう大豆小豆にうする。大豆ハ所により木の枝なとに懸置所も有。けらバをする時ハ大ににうを所々にひろけ、風に吹せ取入てけらバとする物也。下旬晩稲稲刈。中稲にうにする、稲数、にう一ツに五百束より千六七百束迄、又ハ弐千束迄もする、比にうをけらバと云。小百姓ハ百四五十束より弐三百束にうとする也〈蓋にハ藁のま大唐藁又ハ常のわらにてする也>。……(28~31頁)
(注14)おいしくないという感想も聞かれる。
(注15)古い記録として、古今著聞集・巻二七に、「各々相議して、かの水鳥とらんとて、もち縄の具など用意して行き向はんとするを、……」とある。また、『狩猟図説』(明治25年)に、「手賀沼……黐縄ハ方言ボタ縄ト称シ、秋分ノ頃葦穂ヲ刈リ採リ、花ノ実子ヲ脱シ、ソノ袴ヲ日光ニ曝シ、竹箆ヲ以テ細裂シ、之ヲ沸湯中ニ入レテ一煎シ、再ヒ之ヲ乾燥シテ綯ヒタルモノニシテ、径一分ニ充タズ。長サ一千尋ヲ以テ一縄ト唱ヘ、之ニ煎黐ヲ塗リ、ヲダ巻ト名クル滑車ニ絡ヒ置クナリ。」(『桜田勝徳著作集3』名著出版、昭和55年、332~333頁)とある。
(注16)大野晋編『本居宣長全集 第十一巻』(筑摩書房、昭和44年)に、「○水垣(ミヅガキ)ノ宮、凡て水垣と云は、みづみづしき垣と、美称(ホメタタヘ)たる称(ナ)なるを、【水は借字なり、書紀に瑞ノ字を書れたるは、さらに当(アタ)らぬことなるを、美豆(ミヅ)に用ふる字なき故に、普(アマネ)く此ノ瑞ノ字を書キならへり、】宮号(ミヤノナ)とせられたるなり、【必しも此ノ宮の御垣の、水垣なりし由の号(ナ)には非ず、なほ水垣の事、師の冠辞考に委し、さて歌に、水垣の久(ヒサ)しとつゞけよむは、は、此ノ宮ノ号につきてのことと、昔より心得来(キ)つれども、よく思ふに、然には非ず、抑如此(カク)つゞけよむことは、萬葉十一に、処女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者(ヲトメラヲソデフルヤマノヒサシトキユモヒキツアレハ)、これ始メなり、此歌を四ノ巻には、人麻呂の歌とて載たれど、人麻呂よりは古く聞ゆ、此(コ)は石上(イソノカミ)ノ振(フル)ノ社は、いと上代よりの神社にて、其ノ水垣は、久(ヒサ)しき世々を経(ヘ)たる故に、久(ヒサ)しの枕詞にせしなり、かくて後は、振山(フルヤマ)といはで、たゞ水垣の久しとのみもよむは、右の歌に委(ユダネ)て、省(ハブ)けるなり、若シ此ノ宮ノ号に就(ツキ)ていはば、水垣ノ宮のとはいはでは、言たらず、水垣とのみにては、宮ノ号にはなりがたかるべし、】」(4頁、国会図書館デジタルコレクション(57/375))とある。
(注17)弥生時代の穂首刈りについては、均質でない穂ごと、また、熟す時期に合わせた採取法であったという説や、イネは多年草だから湿地にそのままにしておいて、二期作ないし翌年にひこばえから収穫を得たとする説(「多禰島(たねのしま)……粳稲(いね)常に豊かにして、一たび▲(草冠に殖)(う)ゑ両(ふた)たび収(をさ)む。」天武紀十年八月条)、田植えではなく種を蒔いていたからとする説など、理由づけはいくつか可能である。
 他方、株もとで刈る方法(根刈り法)は、古墳時代から見られはするが、鎌の出現によって一斉に行われたわけではなく、11世紀になってようやく定着するもので、それまでは穂刈りと共存状態であったとされている(寺沢薫「収穫と貯蔵」石野博信・岩崎卓也・河上邦彦・白石太一郎編『古墳時代の研究4 生産と流通Ⅰ』雄山閣出版、1991年、50~69頁)。寺沢先生の本論文には、「穂首を竪臼に入れて舂く作業は、脱穀から脱稃までを一度に行えるといった作業の簡略化以上に、根刈りでは収穫に引き続いて集中して行わねばならない乾燥・結束→脱穀・脱稃の多大な労働力を一気に日常的な消費レベルでの家内労働に分散することができる。また、逆にいえばそうした労働力を集中しなければならないはずの脱穀・調整作業が技術的にみて非能率的な段階であったからこそ頴稲としての収穫・貯蔵も意味をなしえたとみることができよう。」(62~63頁)とある。筆者は、稲積みのニホが乾燥・貯蔵方法として優れていること、選別作業の煩わしいこと、また、竪臼で舂くことがとても時間のかかることから、穎稲での収穫の事情についてそのように理屈づけることに抵抗を覚える。寺沢先生はこの文の前に、生育の度合いが一定でないから根刈りが困難であること、種稲にする際の品種管理に困るから穎(頴)納が求められたり、湿田の直播のために雑草との共存から穂首刈り以外方法がないこと、藁の大量使用の時代を迎えていなかったことなどをあげられている。
 安藤廣太郎『日本古代稲作史雑考』(地球出版、昭和26年)に、「穎稲(束)の制度が平安時代まで及んでゐることは何故であるか。……穂首刈と根刈とその刈取る稲茎の上部であるか下部土ぎはであるかの相違に過ぎないけれども、収穫後の作業に可なりの開きがあることがその主因であると思はれる。即ち根刈では穂首刈に比べて貯蔵上遥かに多くの倉を要することであり、臼で脱穀を行ふことも困難であるから穎稲を臼で舂くより便利な脱穀方法が現れぬ限り旧慣が維持せられることは当然であるまいか。」(79~80頁)、「根刈に進むべき機会は早くからあつたのであるが、脱穀の方法としての籾扱が現れなかつたからその実行が著しく遅れたのであらうと想像せられるのである。」(90頁)(漢字は新字体に改めた。)とされている。また、古島敏雄「日本農業技術史」『古島敏雄著作集第六巻』(東京大学出版会、1975年)には、「『枕草子』に始めて「扱く」という作業を見るのである。」(167頁)として、「……稲と云ふ物多く取り出でて、若き下衆女どもの汚なげならぬ、其の辺の家の娘、をんななどひきゐて来て、五六人して扱(コ)がせ、見も知らぬくるべき物、二人して引かせて、歌謡はせなどするを、珍らしくて笑ふに、……」(枕草子・第104段)といった記事を紹介しておられる。
 比良野貞彦・奥民図彙に、「コキ竹 長サ三寸計 太サ如図 是ハ稲ノ穂ヲコク具ナリ」とある。森山泰太郎・稲見五郎「奥民図彙・解説」山田龍雄・飯沼二郎・岡光夫・守田志郎編『日本農書全集1』(農山漁村文化協会、昭和52年)に、「古代においては、稲は穂首刈をしたので、稲の穂は木製の臼に入れ、木製の杵で搗いて脱穀と籾摺りとを同時に行った。……その後根刈りになってから、『扱(こき)箸』『扱竹』などと呼ばれる脱穀専用の農具が現われて、籾摺りとは別個の作業になった。これは二本の竹の一方の端に節をつけて結び合わせ、これを直立させ、稲株を棒の間に挟んで扱くものである。ふつう棒の長さは四五センチ程度のものである。この図の扱竹は長さが一〇センチていどのものであるから、ふつうの扱竹にくらべて、著しく低能率で実用性にとぼしい。たぶん、農家の片隅に置いてあったものを、見つけ出して紹介したものであろう。」(235~236頁)とある。
コキ竹(奥民図彙、『日本農書全集1』農山漁村文化協会、昭和52年、188頁)
「扱き箸(こきはし)2本の竹棒の一端を藁などで結び、その間に穂先を挟んで籾を扱き落とします。扱き竹とも言いました。割り竹を用いる場合と丸竹のままの場合があったようです。もう少し長いものを二人で用いる方法があって、大コハシと呼ばれていました。能率は高いがやや荒っぽい方法だったようです。長さ484mm・高さ36mm・奥行き35mm」(「株式会社クボタ」様)
 枕草子の「見も知らぬくるべき物」は籾摺臼のことかとされている。そのような先端技術を見るまで、稲扱き具が残っていないからといって、脱穀は竪臼で行った、だから穂首刈り指向にあった、と先学はお考えなのであろうか。民俗に、千歯扱きに先んじて扱き箸があるのだから、道具を使ったとするなら永らくそれを使っていたと考えられないか。和漢三才図会の「稲扱」の項に、「扱竹」と千歯扱きが図示され、千歯扱きは、「其の捷(ちかみち)扱竹の十倍にして、故、孀婆(ごけばば)は業(なりはひ)を失ふ。因りて後家倒しと名づく」(国会図書館デジタルコレクション(8/29))とある。
 飛鳥、奈良、平安時代に根刈りが進まなかった理由は、深い常湛田の場合どうすることもできなかったし、品種が混在して稔りの時期が異なっていたことに大きな理由が求められよう。穂首刈りといっても当然のことながら穂に茎はついていて、そのままに竪臼に入れていては杵を何百回、何千回、何万回も振り下ろす人にとって酷というものである。重さをもって圧としている。ひどい肩こり、腰痛に悩まされる。扱いてから舂くほうがよほど楽に思われる。また、扱き箸をどのくらいの長さにするかや、竹を2本使うヌンチャクタイプにするか、それとも割り竹にするかについて、生産効率から一定の寸法に収斂されると考えるのは誤りである。穂首刈りしたものや落穂拾いをした束ねにくいものには小さな扱き箸が使いやすいし、まとまって大株束になっているものには大きな扱き箸が使いやすい。機械ではなく道具について、標準化されるとは考えにくい。例えば、鑿や台鉋の大きさや形状は、バラエティに富んでいる。使う人が使う場所によって使い勝手の良いものに細工する。扱き箸の場合、相手が竹なのだからものの半時でできてしまう。そして、手でじかに扱くことも容易に想像できるから(サルもしている。手袋を嵌める方法もある。)、脱穀の全行程(稲穂から籾粒を外すこと、籾粒から籾殻を外すこと、玄米から糠層を外す精米)を一緒くたにして、すべて竪臼・竪杵で行ったとなど言えないと考える。
穂首刈り稲穂の束(唐古遺跡稲束、直良信夫『日本古代農業発達史』さえら書房、昭和31年、170頁)
 万葉集などには、「扱(こ)く」(コは甲類)、「扱入(こき)る」(コ・キは甲類)の例がある。

 引き攀(ち)ぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入(こき)れ 染(し)まば染むとも(万1644)
 秋風の 吹き扱(こ)き敷ける 花の庭 清き月夜(つくよ)に 見れど飽かぬかも(万4453)
 椾稲 伊祢古久(いねこく)(新撰字鏡)
 稲舂けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよひ)かも 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ(万3459)

 字書の新撰字鏡(昌泰年間(898~901年))に載るから、古くから行われていたと考えられる。この稲扱きは脱粒である。稲を刈り取り、乾かし、もっぱら家の近くまで運んでから、必要な分だけ米にしてご飯やお酒の原料にする。その最初に行う手順である。作業として、先払いを担っている。動作としても、はらう姿に見える。後代に遺物が残っていない理由は、手でじかに扱いたり、道具としてなら竹でできていたためと思われる。手で直接するとあかぎれができるが、それを詠みこんだ歌が万3459番歌ではないかと考える。「稲舂けば」は「稲[ヲ扱キテ]舂けば」という一連の作業を言うから、手が荒れるのである。竹をつかった扱き箸の場合、それは論理的に言って、挟み竹のこととなる。挟み箱の前身の名称に同じである。オシオシと警蹕の声が聞こえてくる。理屈が循環しており、文字を持たない上代の人の考え方に合致している。言霊信仰にもとづく語学的証明になる。
稲を扱く(たはらかさね耕作絵巻(「東京大学史料編纂所」)様、町田市立博物館編『たはらかさね耕作絵巻・康熙帝御製耕織図』同発行、2000年、41頁。解説文に、「絵師は単純に手で稲扱きしている場面として描いたのであろう。第一一段の詞書の『稲莚、敷き広げて扱き開き』という部分に相当するが、この文章にもとくに農具の記述はない。……天正年間の近江湖東の様子を描いたとみられる堀家本『四季耕作図巻』でも手扱きらしく描かれている。」(41頁)とある。)
稲を扱く(宮崎安貞・農業全書、山田龍雄・井浦徳監修『日本農書全集第十二巻 農業全書巻一~巻五』農山漁村文化協会、昭和53年、41頁)
渓斎英泉・岐阻街道・桶川宿 曠原之景、大判錦絵、天保6~8年(1835~1837)、後藤茂樹編『浮世絵大系15 木曾街道六拾九次』集英社、昭和51年、15頁。石臼の挽木(ハンドル)部分を扱き箸に代えて固定させて利用しているものか。)
稲を扱く(農耕図絵馬、青森県八戸市内丸靇神社、寛政元年(1789)、須藤功、前掲書、133頁)
絵本通宝志(橘守国、享保14年(1729)刊、国文学資料館電子資料館
 なお、“挟み竹”が先払いを果たしそうなモノであることは、法隆寺に残っていた麈尾(しゅび)が物語る。麈尾はオオジカの尾の毛を挟んで団扇のような形にしたもので、オオジカが先導役を務めることから仏法を先導するものとして高僧が手にしていた。もともとは払子同様、ハエやカを払うための道具であったろう。それが威儀を整えるものとなり、大型のものは翳(さしば)、当人が持つのはハンディタイプの麈尾ということになったのではないか。羽子板は羽子を突くものであったが、羽子板に羽が生えた形に見えてくる。なお、オオジカ(麈)がシフゾウ(四不像)に当たるのか、筆者にはわからない。
シフゾウ(♂、アオバ号)
シフゾウ(♀、カオル号)
麈尾(木製漆塗、奈良時代、8世紀、伝聖徳太子勝鬘経講讃時使用、東博展示品、本品は毛がすべて抜け落ちている。柄を竹のように細工してある。)
維摩詰変相図(敦煌莫高窟第二二〇窟、中国、唐時代、642年、「3分鐘入門中國美術史」様)
翳(さしば)(絵因果経、紙本着色、奈良時代、8世紀、渋谷区立松涛美術館編『御法に守られし醍醐寺』同発行、2014年、22頁)
出土した翳の柄部分(弥生末~古墳前期の精製品、「扇の「長さ」、古代の団扇や翳について」様、樋上昇『樹木と暮らす古代人』吉川弘文館、2016年、215頁参照。羽を差し挟んでいたからサシバというのであろうか。)
羽根突き(月次祭礼図屏風、紙本着色、室町時代、16世紀、東博展示品)
(注18)稲作の伝播について、江南からの直接か、朝鮮半島経由かといった議論がある。それは第一次稲作伝来の話である。筆者は、その稲作のやり方の新方式に、新羅の由来の技術があずかっているのではないかと考えている。
(注19)折口信夫に、大嘗祭と真床追(覆)衾との関連が論じられている。『折口信夫全集3』(中央公論社、1995年)に、「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲([ママ])衾(マドコオフフスマ)と申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾(マドコオフフスマ)こそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子(ヒツギノミコ)の物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。」(188頁)とある。大嘗祭の祭式は日本書紀の記述を参考に作られたものかもしれないが、神代紀第九段の記述は、大嘗祭そのものを描いたものではないであろう。紀の解釈としては、早い時期のものとしては、釈日本紀、巻八、述義四に、「真床追衾 私記曰。問。此衾之名、其義如何。答。衾者、臥床之時覆之物也。真者、褒美之辞也。故謂真床追衾。一書文、追字作覆也。訓読相通之故、並用。今世、太神宮以下、諸社神体、奉御衾。是其縁耳。」とある。大嘗祭との関わりについては、岡田荘司『大嘗の祭り』(学生社、1990年)やそれに対する反論として、榎村寛之「古代皇位継承儀礼研究の最新動向をめぐる一考察」『歴史評論』489号(校倉書房、1991年1月)がある。筆者は、大嘗祭について議論するものではない。日本書紀に登場する「真床追(覆)衾」とはどのようなものを指していっているのか、具体物のありさまについて考えている。無文字文化においては、具体的思考しか起こり得ないことは、発達心理学における知見から敷衍されるところである。
(注20)田沼善一・筆の御霊前編巻之六(故実叢書編集部編『新訂増補故実叢書第九』明治図書出版、昭和30年)に、「中右記、台記などにも、夜るの物を、直垂と云ふ事見え、兵範記、保元三年二月九日の条に、聟取の事を記して、男女相伴テ被帳中ニ、下官覆衾、〈直垂也、〉ともみゆ、直垂也とことわり注るは、袖なきふすまとまぎれざらむ為なり 江家次第、新甞祭の条には、内侍率縫司ヲ、供メ寝具ヲ於神座ノ上ニ、退出、〈御衾也、〉とあり、そは直垂ならで、打まかせたる衾なるよしを断れる者なり、」(158頁)とある。
(注21)喜田川守貞・守貞漫稿に、「又小児を負ふ者冬月は半身の掻巻を用ふ者左図の如くす 江戸に有之京阪不之 江俗号之てねんねこ半天と云江俗嬰児赤子をねんねこと云により号之也」(567頁)とある。
守貞漫稿(国会図書館デジタルコレクション(305/315))
(注22)岡田章雄『日本史小百科 動物』(近藤出版社、昭和54年)に、「わが国で猫を飼うようになったのは奈良朝のころからといわれている。野生の山猫は古くから棲息していたようだが、飼猫はもともと朝鮮や中国から渡来したもので、仏教の伝来に伴い、貴重な経典などを鼠の害から防ぐために移入されたのだという説もある。」(32頁)とある。
(注23)「天浮橋」の浮橋とは何かについて、諸説行われている。寺川眞知夫『古事記神話の研究』(塙書房、2009年)にまとめられている。

 Ⅰ 道にあって渡る橋ながら、天地の間なので形態は梯子とする説
1 天地の間を神たちが昇降する道に架かる橋で、天に通う橋なので梯子状であり、神代にはあちこちにあった。〔本居宣長・西宮一民〕
 Ⅱ 基本的には天から地上に降る橋とみる説
2 天から地上に降る橋であった。〔倉野憲司〕
3 高天原から天降る橋であるが、常に「立たして」と表現されているのは、降臨の祭式に由来することを暗示する。〔西郷信綱・荻原浅男〕
4 聖なる世界の辺境には、聖なる世界の一部として俗なる世界に向かってさし出された接点としての構築物で、地上に支える場所がないので浮橋という。〔金井清一〕
5 天に浮く橋で、『古事記』では高天原から地の側に特別な神が天降る、いわば世界関係において、意味をつ特別の場。〔神野志隆光〕
 Ⅲ 天地を結ぶ梯子説
6 天への梯(橋)と観想された大きな岩石。〔松村武雄〕
7 天へ向けてかかる梯子。〔井出至・石母田正他・益田勝実〕
8 古くは二つのものを繋ぐものはすべてハシであるが、ここでは梯子。〔中西進〕
 Ⅳ その他の説
9 戦艦をいう。〔新井白石〕
10 磐船をいう。〔平田篤胤〕
11 虹をいう。〔アストン〕(324~325頁、出典については略した。)

(注24)稲野、前掲書や浅野明『稲干しのすがた』(文芸社、2005年)参照。ハザ(稲架)がいつから行われていたか、不明である。記録としては、類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀を懸曝(かけほ)せり。其の穀の𤍜(かは)くこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機(いなばた)と謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。(原漢文)」とあるのが早い記事ではないかとされている。しているところではしているが、していないところではしていないから、するようにと勧められている。
 立てた木のはざまに、稲の束を挟み懸けるからハザなどと言うのかもしれないが、語源というものはわからないから詮索はしない。
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天孫降臨 其の四

2017年03月28日 | 論文
(承前)
 それが本当に「真床追(覆)衾」なのか。マドコオフフスマのマドコオフは、フスマ(衾)にかかる枕詞なのかもしれない。床(とこ、ト・コは乙類)とは、一段高くしたところのことをいう。オフは、「追」という用字からは先払いのことが思い出され、「覆」という字からは被せておおうことが惹起される。「覆ふ」は「負ふ」と同根の語である。背中におんぶすることである。きちんと「覆」ひながら「負」うためには、二人羽織式にするのがいちばんである。ねんねこである。一段高くしながらおんぶするとは、何のことはない、おしめをあてがって高くしているのである。古代の大人は、ふだん下着を着けなかったらしいが、赤ん坊は別ということである。この状態は、湿田に一段高くしている台(=トコ)を作ったうえにニホに積んでいくのと相同である。穂を内側に、藁部分を外側にしている。稲積みのニホの内に通気孔とすべく穴を開けることがあった。それは、新生児の頭蓋骨にはひよめき部分の穴があって、いまだに接合しておらずひよひよと脈打つことに相同である。カイツブリのニホの子もひよひよ鳴くひよこである。ねんねこで背負われている子どもの姿こそ、皇孫とされる番能邇邇芸命を示していると言える。
ニホの通気孔(稲野、前掲書、124頁)
ひよめき(デズモンド・モリス、日高敏隆・今福道夫監修『赤ちゃんの心と体の図鑑』柊風舎、2009年、17頁)
 ねんねこがねんねこと呼ばれる故は、ねんねこで子どもをおぶったとき、姿形が猫背になっているように映ることによるのであろう。ネコ(猫)という言葉は、和名抄に、「猫 野王案ずるに〈音苗、祢古麻(ねこま)〉、虎に似て小さく能く鼠を捕らへて粮と為る。」とあるものの、上代に用例が乏しい。記紀万葉に用例がなく、ネコを飼っていたのか、家の周辺にいたのかさえ確かめられない。骨の発掘事例としては、弥生時代の壱岐のカラカミ遺跡、奈良時代の観音寺遺跡の例が知られる(注22)。それでも、猫背のことは、背の曲がったお年寄りの姿として卑近なものと思われる。古語に、クグセ(傴)という。新撰字鏡に、「傴 僂也、◆(人偏に弖)頭也、久豆世(くぐせ)也」、「背傴〈世奈加久々世尓(せなかくぐせに)〉」霊異記・下・二十話)といった用例がある。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「クグは、クグマル・カガムなどの語幹と関係ある語であろう。セは背の意。」(253頁)とある。ククムは「褁(くく)む」でおくるみに赤ん坊を包むことである。また、ククルには、屈(くぐ)むことと潜(くぐ)ることの二つの意味がある。水が漏れ出て流れたり、狭いところを通り抜けること、また、水のなかを潜り行くことを表す。

 敷栲(しきたへ)の 枕ゆくくる 涙にそ 浮宿(うきね)をしける 恋の繁きに(万507)
 妹が寝る 床のあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りて寝まくも(万3554)
 水泳(くく)る 玉にまじれる 磯貝の 片恋のみに 年は経につつ(万2796)
 山吹の 繁み飛びくく 鶯の 声を聞くらむ 君はい羨(とも)しも(万3971)
 子の中に、我(あ)が手股(たなまた)よりくきし子ぞ。(記上)
 泳宮(くくりのみや)、此には区玖利能弥揶(くくりのみや)と云ふ。(景行紀四年二月条)

 お年寄りとは、長く久しい間ご存命の方である。枕詞、ミヅカキノ(瑞垣)がヒサシ(久)にかかっていたことが思い出される。そんな久しい人であるお年寄りの背中は曲がっている。ヒサシが廂・庇と同音の言葉であったことを面白がっていた。廂・庇のもともとの発義は日差しのことであった。つまり、日が差すこととは日が向かうことである。方角としてできた言葉は東(ひむかし)であり、それと似た地名に日向(ひむか)がある。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」とあるヒムカ(日向)とは、日差しのことである。音声言語でしかなかったヤマトコトバにとって、話として“わかる”ためには、ヒサシ(日差・廂・久)とは、お年寄りの猫背のこととイコールでなければならない。お年寄りの猫背とは、お年寄りが立っているのだか寝ているのだかわからない姿勢をとっていることである。そんな枯れた人たちと同じ状態にあるのが、刈り取った稲穂をある程度乾かした上で積んだニホの形に同じである。いちばん上は廂(庇)となる蓋で覆われた。もう少しすると、脱穀されて舎利になる。とても失礼な考え方であると思うが、現実問題として、動物として、命あるものとして避けることのできない当然の事実である。そんなお年寄りに与えられている仕事は、孫の子守をしながら落穂拾いをすることである。中心的な農作業の稲刈りは、スピード仕事で忙しいから、動作の遅くなってしまった老人には与えられない。ねんねこで赤ん坊を背負いながら、邪魔にならないところで拾ってもらうしかない。そのような補助的な仕事であっても、集めれば案外量は多い。今日でも、お勤めに出るために、赤ん坊をいかに保育園に預けかが課題とされている。
 ヒサシなのは、日当たりのいい場所に設けられた稲積みのニホに覆蓋を被せて雨除けにすることと悟ることができる。形が猫背と形容して正しいのは、鼠の害を防ぎたいとの願いゆえでもあろう。むろん、完全に防ぐことはできないであろう。それでも猫がいたり、また、鼠落としを設置しておけば、多少はましである。鼠落としはネズミをぺしゃんこに圧死させる。警蹕がオシオシと言いながら先払いをしていたのと同じことである。老人がねんねこを羽織って孫をおんぶしながら散歩をするのは、家の周りである。すなわち、ニホの周りである。孫を猫かわいがりするというのは、猫背でかわいがることでありつつ、ネズミを捕るネコと同じ役割の先払い役を担っている。加齢臭に赤子のおしめが加わって、とてもよくニホう。ニホフ(臭・匂)という語は、色が赤く発色することを指すのが古代には第一の用法である。いま、赤子をおんぶしている。第二の用法は、嗅覚を刺激する香り、臭みが感じられることを表す。本稿の始めのほうで「卆茸(くじふるたけ)」なるキノコは、何ともいえない匂いを伴っていると仮説した。
猫かわいがり(小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年、64頁)

 橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜(よ)の雨の 移ろひぬらむ(万3916)
 万に物の香臭くにほひたるがわびしければ、……(落窪物語・巻一)

 記に「韓国(からくに)」とある伽羅(から)の地を占領したのは新羅である。米をシラグことが想起されていた。新撰字鏡に、「精 米志良久(しらぐ)」、和名抄に、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢(しらげよね)、上傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米也といふ」、「𥽿米 唐韻に云はく、𥽿米〈上臧洛反、作と同じ。漢語抄に末之良介乃与祢(ましらげのよね)〉は精細米也といふ」、「糲米 崔禹食経に云はく、烏米、一名、糲米〈上音剌、比良之良介乃与祢(ひらしらげのよね)〉といふ。烏米は一斛を舂きて八斗の米と成るを謂ふ也」とあって、精白することが記されている。お米を精ぐ際には杵で搗き、食べる方は銀舎利で、食べない残骸は糠、つまり、麩(ふすま)である。飼料や肥料にした。「真床追衾」に戻る仕掛けとなって話が完結しそうである。シラク(白)というと、髪が白くなることである。

 ぬばたまの 黒髪かはり 白髪(しらけ)ても いたき恋には あふ時ありけり(万573)
 若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白斑(しら)けぬ ……(万1740)
 黒髪の 白髪(しらく)るまでと (万2602)

といった例がある。やはり加齢の話である。お年寄りと精米の関係は、ヒサシにしてニホなるものであると検証することができた。
 伝本の信憑性が最も高い真福寺本古事記では、つづけて「真米」とある。米の脱穀、脱稃、精白作業のことを言い表わしていると考えられる。芒(のぎ)のついた籾状態の米粒は、羽根突きの羽子と似て固い実に二つの翼がある姿をしている。「通」字は、トホル、トホスのほか、カヨフの意にも用いられる。カヨフの義に、行き来する、他方へとどく、出入りする、物事に通じる、のほか、意味が通じて似通う、の意がある。説文に、「通は達也。辵に从ひ、甬声。」とある。

 夫婦(をふとめ)の道は、古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月条)

 本稿の端緒として、「真米通笠沙之御前而」を「真(まこと)米(よね)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に通(かよ)ひて」と訓めるか、と提題をした。「真(まこと)」とは、誠尤もなことということである。真偽を問うなら真であるという意味ではなく、よくよく知恵をめぐらせてみたところ、まさに本当に間違いなくそうであったと気づくこと、それを強調するためにマコトという副詞を使っている。

 聞くが如(ごと) まこと貴(たふと)く 奇(くす)しくも 神さび居(を)るか これの水島(万245)
 たらちねの 母を別れて まこと我(われ) 旅の仮廬(かりほ)に やすく寝むかも(万4348)
 譡 丁蕩帝当二反、貞実の辞也。太々志支己止(ただしきこと)、又、万佐之支己止(まさしきこと)、又万己止(まこと)なり。(新撰字鏡)

 同じ稲作とは言っても、熟した稲穂を穂首刈りしていた採集生活の延長にある様相とは異なり、株ごと鋸鎌で刈り取っていく先端的な稲作が一部で始められていた。品種が均一化されており、田植えして育てている。株刈りができて収穫が一気に進められる。食用の米ばかりでなく、藁までも生活資材に活用していく術を身につけた。藁とは製品名である。稲の茎、稲柄(いながら)を水に浸して叩くなどして柔らかくしたものである。藁化することで莚などに加工することができる。その結果、稲作は産業化したことになる。生活全般が田んぼの稲作に絡めとられていくことで、“農耕生活”という新時代が始まった。貯蔵法も、地面に貯蔵穴を掘って埋めておくリスのようなやり方から、ニホという大量の稲束の山積みへと変化した。何より、年間を通じて安定してまずくないお米を食べることができるようになった。そして、田んぼが藁や籾殻を鋤きこんだり、株を踏みにじったりすることで元肥としつつ、田んぼを運営するのに重要な代掻きが可能となる。田んぼが工場となって、循環可能社会という魔法を手に入れた。食べるためには、年間作業のルーチンワークをこなせばよくなった。余剰米も生れて、租税も先払い可能になるほどの技術革新であった。稲作法の大転換を示す言葉が、ニホとオシである。
 天孫降臨の説話に、猿田毘古神や猿女君の話が絡んでいた第一の所以は、本ブログ「猿田毘古神と猿女君」に詳述したように、轡と猿轡のもじりであった。猿と関連する語にサル(戯)があった。周辺の音を見てみると、ジャル(戯)はザレル(戯)の変化形で、方言に、「じらける」といえば、ジャレル(戯)ことを意味する。また、シャル(曝・晒)とは、サレル(曝・晒)の変化形で、長い間風雨にさらされて色褪せること、特に白っぽくなることをいう。つまり、白くことで、白髪混じりになることも含まれる。ニホンザルの毛は、背側は暗褐色であるものの、腹側、特に顔の周りには灰褐色で白っぽいものが多い。子どものことを砂利といい、米粒のことを舎利という。精米のために臼で搗いていると、米粒は杵にまとわりつきながらじゃれ回っている。天孫降臨の話に猿田毘古神や猿女君の話がまとわりつく第二の所以である。
 番能邇々芸命の降臨は、稲穂がニホに積まれることを物語ったものと理解できた。すると、紀本文に、「槵日の二上の天浮橋」(注23)とあるのは、刈り取った稲をハザ(稲架)懸けしている様子を表しているように想定できる。稲架は、ハサ、ハセ、ハデ、ホギ、ハッテ、イナグヒ、イナキ、イネカ、イネカケ、ウシとも呼ばれている。刈り取った稲を天日干しにして乾燥させるために、斜めに組んだ竹竿の足場を間隔をあけて建て、上にもう一本の竹竿を横架させて結びつけ、そこに稲束を渡し懸ける装置である。掘っ立て柱に何段も竿を渡した高いものや、脚をいくつも建てて横に長いもの、畔に並べて植えたトネリコなどの木を利用するものなど、いろいろなバリエーションがある(注24)。そのやぐらのようなハザに懸けるときや外すとき、まるで猿のように高いところを行き来して稲束を操っている。天孫降臨と猿との関わりの第三の所以である。
段重ねの稲架(愛知県設楽郡町田峰、昭和41年、須藤功氏撮影、須藤功『写真ものがたり 昭和の暮らし1 農村』農山漁村文化協会、2004年、207頁)
農耕図絵馬(兵庫県西宮市甑岩越木岩神社、明治19年(1886)、須藤功『大絵馬ものがたり1 稲作の四季』農山漁村文化協会、2009年、135頁)
 「槵日」とは、今でもおいしいと評判の天日干しであるから、クシブ(奇)の連用形に、「日」を当てて乾燥させることを加えて固有名詞にしているらしい。「稜威の道別に道別きて」というのも、稲束を半分に分けるようにして跨らせることの謂いと推察される。記に、「此地は、……朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」とあるのも、天日の下での乾燥・保存に良い場所ということであろう。収穫された稲はハザ懸けしてある程度乾燥させ、ニホに積んで置き、食べる分だけ稲穂から脱穀し、脱稃し、精米し、調理する。「槵触之峯」の譬えであったらしい。
 記では、「天の石位を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋に、うきじまりそりたたして」、紀の本文では、「皇孫、乃ち天磐座を離(おしはな)ち、且、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威の道別に道別きて」とあった。「天の石位」、「天磐座」のイハは堅牢な、の意である。天上世界に堅固な場所を求めようとすると、論理矛盾が生じる。それでも高いところのクラ(座)である。稲穂を高い座に懸けさせることと想定すると、ハザ(稲架)のことと捉えられる。そこから、オシはなち、オシわけて来る。オシオシと警蹕の声が聞こえる。「いつのちわきちわきて」、「稜威の道別に道別きて」とあるのは、段重ねのハザがやぐらのように組まれているところをとび職のように行き交うことの謂いではなかろうか。
 「天の八重たな雲」、「天八重雲(あめのやへたなぐも)」とある。棚になっているとは、稲を段々に干し懸けているところを形容しているようにも受け取ることができる。雲海が棚になっているように見える。「水田種子(たなつもの)」という語は、「陸田種子(はたつもの)」の対義語である。

 乃ち粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稲を以ては水田種子とす。(神代紀第五段一書第十一)

 水稲がタナツモノと呼ばれていたかについて、岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「タナは種。ツは助詞ノにあたる。種のものの意。稲についていう。」(ワイド版岩波文庫①61頁)とあるが、イモ類以外、粟稗麦豆も他の植物も多くは“種のもの”であろう。タナの意は、筆者には段重ねにしたハザ(稲架)のことをタナ(棚)と言っているように感じられる。粟・稗・麦・豆類も乾かすが、本邦において、やぐらのような段重ねの架に懸けて干したことがあるのかよくわからない。大根などではよく見かける。収量がどれほど多いかにかかっている事柄に思われる。
棚(?)懸けの状態(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、206頁)
 稲作に新時代が到来した。それまでとの違いは、弥生時代は穂首刈りをしていたから、稲の茎部分、藁のところが田に残されたままであった。古墳時代、株ごと稲刈りをすることが始まった。積極的に生活資材として藁を活用するようになった。鎌による刈取りと、貯蔵方法の転換により、同時に藁を利用する方法も身についた。藁を編んだり織ったりして使うのである。莚機も伝わったのかもしれない。藁の保温効果は抜群である。莚は藁のストローで保温性が高いし、さらに莚と莚を袷にしてなかに藁屑を詰めれば、現代のダウンジャケット、羽毛布団に匹敵する断熱効果が得られる。空気の層ができれば暖かいのである。ニホによる保管に略奪の危険が少なくなったからという点については、生産力の向上や人口動態、ならびに政治的安定といった歴史学の課題であろう。古墳の副葬品に鉄の武具が多数納められているのは、実際の戦闘が少なくて平和な時代であったからとする説を耳にする。ニホが積まれるに足る条件は揃っていたのであろう。
 5世紀、大陸から新技術がまとまってやってきた。それぞれの要素は相互に絡み合いながら、倭の人、すなわち、ヤマトコトバを母語とする人たちに受け入れられていった。ただし、それは、読み書きすることなく話し聞く能力に長けた人たちでほぼ満たされていた。若干、リテラシーのある人がいて、それも文字という記号に絡め捕られずになぞなぞを十分に駆使できるメタ言語的な頭脳を持っており、記紀の基となる話を構想、構成していったらしい。それが朝廷のほぼ中心にいた聖徳太子や蘇我馬子であったから、話をまとめるに当たって天皇代ごとに寄せ集めて行ったため、表面上、あたかも天皇制の正統性を主張するかに見える結果になった。しかし、事の本質は、技術革新をお話として伝えたものである。文字を持たない人たちが、技術革新の意味するところを共有するには、話として楽しめる仕掛けが冀われたのである。そのことが、文字を持って以降今日に至るまで、長い間、意味がわからないままとなってしまっており、“神話”として片付けられて粗雑に扱われ、比較神話学の素材にまで貶められている。

(注1)いわゆる「天孫降臨」という言い方は、黒板勝美編による国史大系本・日本書紀の章句立てとして便宜的につけられたものかと思われる。「天孫降臨」という熟語をもって何事かを語るようになったのは、かなり最近のことである。また、「神話」という語も、明治以降に造られた漢語である。ギリシャ神話のことをいうMythos(ドイツ語綴り)の訳語として造られたそうである。(国学院大学の渡邉卓先生による。①神々についての物語、②民衆間に信仰をもって語り伝えられた物語、③宗教性・呪術性を存し、社会を規制する力をもった物語、という要件を満たしているものであるという。)したがって、記紀神話という言い方はとても最近の用語である。
(注2)したがって、紀に記される「襲(そ)」、「膂宍の空国を頓丘から国覓ぎ行去る」といった表現については別に論じることとする。
(注3)記の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」については、「高」字をタカと訓む説とコと訓む説がある。保留しておく。
(注4)西郷信綱『古事記注釈 第四巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)に、「この『此地は韓国』にかんしても、同じこと[本文のコラプション]がいえよう。いっそう悪いのは、ここでは本文の乱れと、伝承の間におのずと生じた崩れとがかさなっているらしいことだ。これは記紀時代すでに意味不明の、だがおろそかならぬ聖句として伝えられていた部分であり、そしてその故に本文の乱れをも誘ったのに相違ない。」(78頁)とある。
(注5)尾崎友光『古事記續考と資料』(新典社、平成28年)に、「『真来』については三字を二字として、……『直来』として『直(タダ)に来通りて(通ひて)』と訓じてはどうかと思う。『真』と『直』との異同は多く例のあるところである。」(38頁)とある。当該個所は意味不明として、本文に脱落や竄入があるとする説は多い。以下に示す伊藤先生の著書にまとめられている。
(注6)小学館の新編全集本古事記頭注に、「現実[の地名]との厳密な対応を求めることは問題」(118頁)とされている。
(注7)西郷信綱『古事記注釈 第四巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)は、「賛成」(57頁)されている。先払い役の存在は、紀本文に、「先遣我二神駆除平定」、一書第一に、「先往平之」、「先行駈除」、「先駆者」、一書第四に、「立天孫之前」とあることからも意識されていることがわかる。
(注8)高木英理子「警蹕(警蹕)音楽―数千人による江戸中期春日若宮おん祭神事のチャント―」(三田芸術学会編『芸術学』12号、同発行、2008年)には、「[神道儀式における]『警蹕』とは、現況からの一例として現代日本語の『オ』の音を同音高で長く引いて『オー』と、平伏または馨折して唱える音声のことで、『ミサキオイ』とも称す声のマジックである。神霊や尊い方の入御、出御の際等に唱えて、声を出すことによって、まわりをいましめ先払いをするのである。神道の祭儀中で最も神秘の行事の折に発声され、現在の神社祭式では普通一声または三声唱えるとされる。……又、現況においても、歴史的にも『警蹕』には『オーシー』、『ケーヒー』等、既述以外にも異なる発声音が存在する。」(53頁)とある。
(注9)本ブログ「ヤマトタケル東征後の筑波問答「かがなべて」歌について 其の三」参照。
(注10)本ブログ「三輪山伝説 其の一」以下参照。
(つづく)
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