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ほぼヤマトコトバにまつわる論文です。文化万歳!

厩戸皇子の「戸」の秘密 其の三

2016年06月22日 | 論文
(承前)
(注1)
藤田嗣治「聖誕 於巴里」(油彩、カンヴァス、1918年、松岡美術館展示品)
 石井、同書に、「その[物部守屋と蘇我馬子の]争いに関する記述が、中国文献の表現を多く用いて潤色されていることは事実ですが、大幅に潤色されているからといって、すべて机上の作文であってその元となる史実など無かったと説くのは、古代における史書の書き方を無視した議論です」(84~85頁)と批判されている。厩戸皇子が誕生した際の記述も、仏伝によって潤色されて厩の戸のところで出産したということに落ち着いたとお考えのようである。「間人皇女か用明天皇と関わりの深い氏族の厩のところで出産した」(60頁)という史実があったと推定、納得されるに至っている。厩付近で出産したことを、どうして厩の“戸”のところで出産したことに加工しなければならなかったのかについては、検討されていない。学界の議論は上っ面に終始しているように思われる。もとより、筆者は観点が異なる。
 「厩戸」という名については他に、地名に由来するとする説(家永三郎、坂本太郎)、生年の干支の午年生まれに基づく可能性が高いとする説(大山誠一「『聖徳太子』研究の再検討(上)」『弘前大学国史研究』第100号、1996年3月)、大和国高市郡の厩坂宮(舒明紀十二年四月条)に由来するとする説(古市晃「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史』768号、2012年5月)、養育した額田部(湯坐)が深くかかわった馬匹に由来するとする説(渡里恒信「上宮と厩戸」『古代史の研究』第18号、2013年3月)、捜神記など中国の志怪小説の影響とする説(前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59巻、2016年1月)などがある。ほかに、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第五に、「御誕生の若宮を、厩戸(むまやど)の王子と名付け参らせらる、これ駒繫(こまつな)ぎのほとりにて降誕(がうたん)なりし故ならし」ともある。「駒繫ぎ」とは草の名である。
(注2)『日本史大辞典1』(平凡社、1992年)に、「厩(うまや) 馬を飼っておく独立した建物や家屋内の馬(ときには牛)を飼う部屋で、馬屋とも書き、『まや』とも呼ぶ。……乗馬用の馬を飼う武家屋敷や神社・寺院の馬屋と農耕馬を飼う農家の馬屋とでは構造が異なる」(781頁)と、建築史の宮沢智士先生の解説がある。解説としてはそれに尽きるが、かなり違うものを一緒にしていて良いものか、戸惑うばかりである。鎌倉時代、御家人が、いざ鎌倉へ、と乗ってきた馬は、必ず乗馬用の馬であったか、ふだんは農耕に使っている馬の荷鞍を取り替えて、チャグチャグ馬子のようなことをした貧乏武士もいたのではないか。○○時代の馬はどれぐらいの大きさであったか、といった話が巷間に語られるようであるが、乗馬用と農耕用では鍛えている筋肉が違い、何を大切にすべきかで厩の形態も変わってくるように思われる。
(注3)2015年10月17日放送分 滋賀経済NOW(びわこ放送)(1:01~19:10)参照。
(注4)和名抄に、「戸 野王案ふるに、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとかむがふ。〈和名、度(と)〉」とある。白川静『字訓 新装版』(平凡社、1995年)に、「と〔門・戸(△(戸の旧字))〕 内外の間や、区画相互の間を遮断し、その出入口のために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう。戸は開き戸にするのが普通であった。トは甲類」(531頁)とある。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、白井清子先生の解説として、「と【戸・門】名……両側から迫っていて狭くなっている所。その狭い部分でのみ、水が流れたり、人や物が通ったりできる。また、建造物で人の出入りする所やそこの建具」(821頁)とされている。「厩戸」という言葉を考える際、第一に馬小屋の出入口の戸のことであると考えるべきであろう。ト(甲類)としては、「所(処)(と、トは甲類)」、「外(と、トは甲類)」もある。外という語は、戸(門)と語源的に関連があるらしい。所(処)という語はそれらとは異なる義で、それを「厩戸皇子」に当てはめると、万葉仮名の訓仮名の当て字ということになり、「戸」字に表意性がなくなる。管見ではあるが、「厩戸」を厩の外(そと)のことと解釈する向きは見られない。馬が厩の外でお産をしたという変な話は、皇后が外でお産をしたという話とリンクする。ウマヤ(厩)とウブヤ(産屋)とが洒落として考えられているなら、外でのお産をもって名の由来譚とすることは噺として興味深くはある。けれども、「厩の戸に当りて」という文章が捻られているのだから、基本的に、開き戸との衝突のことを念頭に検討すべきであろう。「厩皇子」、「馬皇子」、「馬子皇子」、「馬養(うまかひ)皇子」、「馬部(うまべ)皇子」、「厩門(うまやかど)皇子」という名が問題ではない。
 厩の後ろ側についている扉(b・c図参照)をもって、「厩戸」と捉えることも、方法論的には可能である。春日権現記絵の場合は、前(?)ないし横(?)上部が蔀になっているようにも見える。「廐作飼方之次第」(松尾信一・白水完児・村井秀夫校注・執筆『日本農書全集60』農山漁村文化協会、1996年)に、「一、後ノ方、小キヒラキ戸ノ入口ヲ求ルコト有。是ハ極テ明クルコトニハ非ス。其厩ノ様子ニヨルヘキ也。後ノ方小キ戸ハ、急変・急火ノ時、前ヘ難出時ニ此口ヨリ馬ヲ出サン為ナレハ、其厩ニヨリ便利宜シキナラハ明ルニ不及也。又ハ前後サシ支ヘ等有リテ、アカリ入少キ厩ナラハ、夏向ナト掃除ノタメニモ宜シ。故実作法ト云ニアラス。其時ノ頭入ノ功ニヨルヘシ。大サ寸法ハ極ナケレハ、馬ノ出入成程ニスヘシ。大方五尺、或五尺五寸宜也。」(133頁、文字の大きさは同じにした。)などとある。その前の項に、厩舎後方は羽目板にして上方は無双窓を付けることが望ましいと記されている。推古紀の記述においては、皇后は、厩舎の後ろ側へ回って戸にぶつかったとは思われない。なぜなら、彼女は、「巡行禁中監察諸司至于馬官」である。身重の皇后が、監察して回っていて、こそこそと裏から探りを入れる、それも馬に対して、という設定はなかなか難しい。ごくふつうに考えて、「厩戸」というのは形容矛盾であると捉えるのが適切である。
 乗馬用であれ農耕用であれ、馬の健康面を考えて厩は作られた。中国では早くは呉子・治兵に、「夫(そ)れ馬は必ず其の処(を)る所を安んず。……冬は則ち厩を温かにし、夏は則ち廡(ひさし)を涼しくす」とある。本邦では、佐瀬与次右衛門の会津農書・下巻・厩囲に、「馬屋ハ内厩に居なから見るようにしてよく、外厩ハ寒くして馬瘠る。馬屋を広く穴を深く掘るへし。……」(庄司吉之助翻刻ほか『日本農書全集19』農山漁村文化協会、1982年、195頁。漢字の字体は改めた。)、また、百姓伝記・巻四・屋敷構善悪・樹木集に、「土民、馬屋を間ひろく作り、しつけ(湿気)すくなき処をハ、ふかくほりて、わら草を多く入てふますへし。……冬ハさむくなきやうに、わらにて外をかこひ、夏ハ冷しきやうにして馬をたてよ。……しつけの地にハ屋棟をたかくして、腰板をうち、竹を以垣をするかして、わら草なとの飼やう、多く入やうにすへし」(岡光夫・守田史郎校注・執筆『日本農書全集16』農山漁村文化協会、昭和54年、123頁。)とあり、農業に必要な馬肥を得る方法も記されている。また、比良野貞彦・奥民図彙には、夏の夜に涼しく過ごせるように、木で埒を結った囲いを設けて夏馬屋とすることが描かれている。この厩には、戸どころか壁すらない。
「田舎之馬屋」(比良野貞彦、森山泰太郎・稲見五郎解説「奥民図彙」『日本農書全集1』農山漁村文化協会、昭和52年、157頁より)
屋根はある例(東海道名所図会・梅木(竹原春泉斎ら画)、駅家(うまや)であろうか。)
(注5)康煕字典に、楊氏方言註を引き、「棖 ……傾きを救ふ法なり。門の楔(ほゝだて)也」と述べている。説文に、「棖 杖(つゑ)也」ともあり、門が頬杖をついているように見立てたところに由来するものらしい。
(注6)マグサ(秣)が下でなく上でもなく真ん中ぐらいに台に載せてある例として、例えば、日光東照宮の神馬の厩の例がある。何を企てているのであろうか。
神厩舎
(注7)前掲の「廐作飼方之次第」に、「廐四節心得ノコト」として、四季の気候に応じて「戸ヲ開キ」、「前後ヲ取払」、「幕ヲ張ル」、「戸ヲ垂テ」などとあって、「戸」のことが記されているが、門戸のことをいうのではなく、窓の意味のことを言っている。通風や保温、採光の話である。
(注8)狩谷◆斎のいう「伊勢神宮屋舎」のそれが何のことを指しているのか、筆者は不勉強で知らない。ご存知の方、お教え下さい。
(注9)古い時代の牧に、外周が囲われていたか、疑問視する議論もある。今日は、土地所有の問題や周囲にご迷惑をかけることから設けられている。家畜として馴らされたウマが、自ら逃げて野生化することのメリット・デメリットなど、多くを考えなければ理解することは難しいようである。牧が人に放棄された場合はその限りではない。ウマも生きるのに必死になる。
(注10)棒は、歴史的仮名遣いをボウとする説もあるが、鎌倉・室町期の資料からバウであるともされている。呉音にボウなるも、広韻に歩項切、集韻に部項切である。坊(バウ)や房(バウ)といった区切られた区画、部屋のことに引きずられて漢音をとった可能性がある。マセによって空間を仕切る際、直線的に仕切ることになり、四角い坊(房)が形成される。和名抄に、「房 釈名に云はく、房〈音防、俗に音にて望と云ふ〉は旁也。室に在る両方也といふ」、「坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音方、又音房、末智(まち)〉は別屋也、又た村坊といふ。四声字苑に云はく、村〈音尊、無良(むら)〉は野外の聚居也といふ」とある。
(注11)本ブログ「『餓鬼』について」参照。
(注12)埒とは、馬場の周りに逃げないように設けられた柵のことをいう。駒くらべ(競馬)では、埒が左右に設けられる。ウマはまっすぐに走るのがあまり得意ではなく、目印にして走っているとされる。ヒトも、ラインが引いてなければ100m走で10秒を切ることはないであろう。おそらく、人を乗せて走るなどということは、ウマにとって不自然極まりないことであり、また、鞭で叩かれながら全速力でひた走るなど不条理もいいところである。和名抄に、「馬埒 四声字苑に云はく、埒〈乃輟反、劣と同じ。世間に良智(らち)と云ふ〉は、戯馬、封道也といふ」とある。ラチというラ行で始まる言葉がヤマトコトバにもとからあったとは思われず、用例も9世紀のものしか知られないが、馬の到来とともに本邦に伝わった技術として、飛鳥時代にも存した言葉であろう。口語表現をよく伝える日葡辞書に、「Rachi. ラチ(埒) 柵・垣.¶比喩.rachiuo aquru.(埒を開くる)物事をうまく解明する.¶Rachino aita fito.(埒の開いた人)素直で,道理にはすぐ服する人.¶Rachiuo coyuru, l, yaburu.(埒を越ゆる,または,破る)規則や禁制条項を破る,または,道理に背く.」(土井忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』(岩波書店、1980年、523頁)とある。マセボウ、マセガキと綽名された聖徳太子は、埒を開けて物事の道理を説く人であったことは、憲法十七条に記されているとおりである。憲法十七条が推古朝に作られたものではないという説も提出されているが、そういう議論に参加しても埒が開かないので、筆者は遠慮させていただく。
(注13)本ブログ「稲荷信仰と狐 其の三」参照。
(注14)コマ(コは甲類)という語については、上代にどこまで洒落とされていたかは不明である。「細(こま)けし(コは甲類)」という語が新撰字鏡に、「壌 古万介志(こまけし)」と見える。粒状、粉状のものを「細(こま)」と称したように感じられる。芝居や映画、マンガの齣(こま)という語は近代になってからの語のようであるが、「細」という語ばかりでなく、将棋の「駒」という語の連想から形成されたものであろう。将棋の駒は入るマス目が区切られている。また、小間使いという語の文字面からも連想が働いたのではなかろうか。さらに、高麗(こま)という語については、万葉集に、「巨麻尓思吉(こまにしき)」(万3465)という仮名書きがあり、コはあるいは乙類とされるが、東歌の唯一例である。「高麗」をなぜコマと訓むかについては諸説あってわからない。とはいえ、「高」の字がためらいなく用いられているので、コは甲類である可能性もある。大野晋編、前掲の『古典基礎語辞典』、「こま【高麗・狛】」の項に、「†*koma」と記され、甲類を推定されている。
 和名抄に、「王仁煦に曰く、駒〈音倶、古万(こま)〉は馬子也といふ」とある。駒(こま、コは甲類)は子馬の状態で船に載せられて本邦に連れられてきた。騎馬民族、高麗の人によってである。飼育技術が伴わなければ、連れてきても意味がない。連れてきたのは子馬である。まるで狛犬のように小さい。そんなものに人が乗って、早く馳せるのであろうか。倭の人は不思議に思っていると、彼らは手を拱いて見ているばかりではなく、飼葉を与えて上手に育て、かつ人に馴らしてよく言うことを聞かせ、人が乗っても猛スピードで走らせることをやってのけた。古語に「拱(こまぬ)く」という。貫(ぬき)のマセを柵として活用していたことが、言葉の端々に感じられる。儒者のする挨拶のポーズ、拱手(キョウシュ)は、胸の前で通せんぼの形になる。「是に、古人大兄、座(しきゐ)を避(さ)りて逡巡(しりぞ)きて、手を拱(こまぬ)きて辞(いな)びて曰(まを)さく」(孝徳前紀皇極四年六月条)とある。古人大兄のポーズは、両手を腕の前で重ねて行う礼のような、しかし、それは倭の人にとって、挨拶ではなくて厩のマセのように見えるから、拒絶の様を表すことになっている。
 なお、推古紀元年四月条の、「内教を高麗の僧慧慈に習ひ」とある点について、「高麗の僧慧慈帰化(まうおもぶ)く。則ち皇太子(ひつぎのみこ)、師(のりのし)としたまふ」(推古紀三年五月条)と後述される点や、蘇我氏が百済と関係が深かったことなどから、石井、前掲書(70~74頁)には、本当に「高麗」なのか疑問視されている。来訪して師匠にしたとされる僧侶の慧慈の朝鮮半島でのもとの国籍が、当時においてどれほどの意味を持ち、それが日本書紀のなかで種明かしされているのか、不勉強の筆者には読み解けない。厩戸皇子の話(噺・咄・噺)としてなら、コマ(駒≒高麗)である点は、面白いから重要な要素であるように思われる。
(注15)法隆寺献物帳にサインの残る葛木戸主は、ヘヌシである。律令に「戸(こ)」とあるのが推古朝にあるはずはないから、後人の修文、潤色であると説明したがる向きもあろう。しかし、そう片付けてしまうには、このなぞなぞのレベルはあまりにも高い。
(注16)市村弘正『名づけの精神史』(みすず書房、1987年)に、「綽名をつける能力の衰退は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているだろう」(12頁)とある。今日、為人(ひととなり)への関心は薄れ、文化水準は飛鳥時代とは雲泥の差が見られるほどに低迷している。現在、日本書紀を、史料そのものをそのものの中から読むのではなく、史料批判に基づいて外側から議論されることが多い。それが歴史学の主流、正統な歴史学であるというのなら、もはや人の学ではないであろう。終いにコンピューターにとって代わられるのではないか。“批判”は容易く耳目を集めるが、終わると忘れられ、“批評”は高等で難しくなかなか理解が広まらないが、思想となって後世まで残る。
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厩戸皇子の「戸」の秘密 其の二

2016年06月18日 | 論文
(承前)
 その欄額、柱貫の間に戸(扉)ではなく、マセをつけて囲いとした。戸(扉)のない厩といい、装飾するためでないのに欄額を作ることといい、矛盾した方立(=「矛盾」)の出来事であることを表現している。和名抄に、「籬〈栫字附〉 釈名に云はく、籬〈音離、字亦▲(木偏に離)に作る。末加岐(まかき)、一に末世(ませ)と云ふ〉は柴を以て之れを作るといふ。疎なるを離々と言ふ也。説文に云はく、栫〈七見反、加久布(かくふ)〉は柴を以て之れを壅ぐといふ」とある。竹や柴で作った粗い目の垣根である。マセには、籬、馬柵、馬塞、間狭などといった字を当てる。牧の柵、横木を渡して作った垣の棒のこともマセ棒、ウマセ、マセンなどといい、厩に用途、仕様が同じである(注9)。馬が出なければそれでいいのだから、一般の垣根と比べるとほとんど開いているような状態で、ただ横に1~2本、棒が渡してある。このマセが、厩においては「戸」に当たるものである。万4429番歌の「厩なる 縄断つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも」の侘しさは、駒を曳き立てる縄(=夫)がいなくなって厩に閉じ込められたままにされたとき、外の景色が見えて他にいい男が見えるのに、マセがあるために出て行くことができない(=浮気はしない)、でもとても寂しいよと訴えたことが身に染みるという歌であった。
甲斐の黒駒(紺紙金字一字宝塔法華経(法師品断簡、太秦切)巻頭、平安時代、12世紀、東博展示品)
 皇后が厩の戸に当たって生まれた皇子は、どのような能力を持っていたのであろうか。「生而能言、有聖智。」である。頓智好きにはたまらない設定である。すぐれた人が厩で生れていることから、後に、聖徳太子伝暦などに、甲斐の黒駒に乗って富士山を駆け登ったとする伝承が成立しそうなことは予感されよう。石井、前掲書(62頁)には、粗末な馬小屋はないとお考えであるが、厩の戸の造りには言及されていない。筆者は、全然戸(扉)がないよりは、戸(扉)の代わりにマセが渡されている方がマシであると思う。「厩戸」とは、このマセ、マセボウ、マセンボウ、マセガキのことを言っている。早熟で大人びた子どものことをマセという。ねびる、およすくことである。上代にそのような名詞形があったか知られないが、四段動詞マス(増・益)の語意に、他に比べて優っていることをいうことがあり、また、敬語の動詞マス(坐・居)の義にも適うから、その已然形を名詞として捉え、生まれながらにして既に優っていらっしゃったことの意として使われたのではないか。マセルという動詞は名詞マセから後で作られたものと推測される。すなわち、ませた餓鬼だからませ籬、ませた坊やだからませ棒なのである。良家の小児のことを、坊や、お坊ちゃん、と呼ぶことがいつからあるか、口語表現にしてわからない。それでも、厩戸皇子の場合、「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ」(推古紀元年四月条)とあって、坊(房)を与えて住まわせている。坊やに違いない(注10)。また、子どものことを餓鬼という言い方がいつから一般にあるか、これも不明である。食べ物を貪ることから言われた比喩のようである(注11)。いずれも仏教から伝えられた言葉であり、早期幼児教育のおかげか仏教に精通した人物を表すにはもってこいの命名となっている。ませた餓鬼、ませた坊やは、一言に集約すれば、語用論的形容矛盾表現として、「厩戸」のこととなる。
 さて、「厩の戸に当りて」の「当りて」について、石井、前掲書では、「ちょうどそのところで、ということ」(58頁)と説明されている。場所としてアタルという語をお考えのようである。「戸に当りて」の部分、小学館の新編全集本日本書紀②頭注に、「まさしく戸(入口)の所での意」(530頁)とある。井上光貞監訳『日本書紀 下』(中央公論社、昭和62年)に、「廐(うまや)の戸につき当たり」(125頁)、宇治谷孟『全現代語訳日本書紀 下』(講談社(講談社学術文庫)、1988年)に、「厩(うまや)の戸(と)にあたられた拍子に」(87頁)と訳されている。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「あたる[当](動四) アツ(下二段)に対する自動詞。もとは……あてられる、の意。①あるものが他の何かに触れる。あるいはぶつかる。……②あたる。相当する。二つのものごとの力・価値・意味などが対応しあう。……③ちょうどその時にあう。」(27頁)とある。語釈の③は、時についてアタルと使うことを示している。中古に、状況や方角について、同様のアタルという語意は見られる。上代には見られない。アタリ(辺)とアタル(当)は同根の語であろうが、ウマヤノトニアタリテ(当厩戸而)のアタリを、アタリ(辺)という名詞と捉えることには無理がある。原文の「而」は、接続助詞のテと訓んでいる。
 原文は、「皇后、懐姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃当厩戸而不労忽産之。」である。主語は、「皇后」、述語は、「巡行」、「至」、「当」、「産」である。いつ当たったか、「乃」である。どこで当たったか、「馬官」でである。誰が当たったか、「皇后」である。何に当たったか、「厩戸」にである。いかに当たったか、結果として「不労忽産之」にである。4W1Hがはっきりしている。皇后が、ふらふらっと「厩戸」にぶつかった、ないし、戸のほうからあてられたと明記されている。上に述べたように、面(plane)としての戸(扉)はない。柵となるマセにあてられるような“小咄”に仕上がっている。柵という語が縦なるものだから、厳密には横なるもの、埒(らち)といえば良いのであろう。すなわち、埒が開いた(注12)。問題解決、安産である。案ずるより産むが易し。
埒(賀茂競馬図屏風、久隅守景筆、紙本淡彩、江戸時代、馬の博物館蔵、同編前掲書、38頁より)
 出産とフェンスとの関連を示す例は言い伝えに既出である。

 二(ふたはしら)の神、教(みこと)の随(まにま)に酒を設(まう)く。産(こう)む時に至りて、必(へへもかなら)ず彼(そ)の大蛇(をろち)、戸(と)に当りて児(こ)を呑まむとす。(至産時、必彼大蛇、当戸将呑児焉。)(神代紀第八段一書第二)

 この部分、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのをろち)を退治する場面である。本文に、「乃ち脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)をして八醞酒(やしほをりのさけ)を醸(か)み、并(あは)せて仮庪(さずき)仮庪、此には佐受枳(さずき)と云ふ。八間(やま)を作り、各(おのもおのも)一口(ひとつ)の槽(さかふね)を置き、酒を盛らしめて待ちたまふ」とある。飼葉桶のような大きな容器8個に酒を入れ、8つ設けた桟敷、すなわち、籠のように編んだ台に置いて、八岐大蛇の8つの頭がそれぞれの籠台の編目の隙間から入って槽の酒を飲むようにさせている。一書第二では、「児を呑まむとす」る時、編目の隙間から伸び入ってきている8つの頭ごとに酒を飲ませている。「児」の代わりに「酒」を呑ませた。八岐大蛇は、児(こ、コは甲類)を呑もうとして頭を伸ばしてきている。そうするとわかっているから、仮庪(桟敷)を編んで作る。編み方は籠(こ、コは甲類)に同じである。八岐大蛇は、児(こ)を呑もうとして籠(こ)に誘導され、酒を飲んで酔っ払ってしまう。
上から右下へ生垣、柴垣、間垣(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、179頁より)
 つまり、ここでも、「戸(と、トは甲類)」とあるのは、平面を形成する一枚板の杉戸などではなく、適当に編まれた柴垣や籬のような籠のような戸、その隙間のゆるやかなもの、マセ棒、マセ籬によって仕切られたところを暗示しているのであろう。脚摩乳・手摩乳の「二(ふたはしら)」によって準備が整えられている。柱が2つあるから戸はできるが、欄額(柱貫)によって支えられたマセに他ならない。マセのこちら側に飼葉桶、槽(ふね)がそれぞれに1つずつある様子は、厩に同じである。動物園でも、ヒツジ類は1つの餌場からみな仲良く食べているが、ヤギ類は喧嘩になるから頭数によって分けて餌を与えている。ウマは首を出して秣を食む。つまり、ウマヤ(厩)をもってウブヤ(産屋)に譬えられている。棒(バウ)が坊(バウ)・房(バウ)を示すことは、一区画のことをいうことによって確かめられる。坊やとは、坊屋のことと思われ、マセ籬によって区割りされた厩のような分譲地区画の謂いであろう。八岐大蛇に応じて8区画整備している。児(こ)のために籠(こ)で囲われた坊があてがわれる。養われるのは、駄馬ではなく、良馬、コマ(駒、コは甲類、もと子馬の約とされる)であろう。ただし、八岐大蛇の話では、マセによって出られないようにしているのであり、厩図屏風などにあるように、手綱で繋がれているわけではない。それでも、馬が腹帯で吊られている点は、産屋の力綱を連想させる(注13)
七間廐の図(京都将軍御所絵図、鎌倉御殿図)(西ヶ谷恭弘「城郭解体学第37回 廐」『歴史と旅』27巻8号、秋田書店、2000年6月、241頁より。古事類苑・居処部の722~723頁にも同図が載る。)
彦根城の厩(同上書、243頁より)
二条城の厩(舟木本洛中洛外図屏風、東博ミュージアムシアター前パネル展示より。ミュージアムシアターは気づかぬことを見せてくれます。)
 1棟の厩で何区画(馬立(うまだち))にするか、いろいろ例があるようである。八岐大蛇を入れるのに、“蛇立”なるものを思考実験したのであろう。コマは駒であり、細切(こまぎ)れの細であり、小さな間のことを言うのであろうか(注14)。「八間(やま)」、すなわち、8コマ作るというのは不自然である。脚摩乳・手摩乳にはすでに「八箇(やたり)の少女(をとめ)」(神代紀第八段本文)があって、年毎に既に呑まれたという。八岐大蛇がその頭数の8人を呑んだのだから、9人目の奇稲田姫(くしいなだひめ)は呑まれるはずがないように思われる。頓智話なのだから、何でだろう? と不思議がる必要がある。“八間厩”のように並列を想定するのがいいのか、四角い空間に井桁状に仕切りを入れて9コマに分け、「囲」という字に象形されるように想像するのがいいのか、想像をたくましくしなければならない。「囲」形の場合、中央1マスには仮庪(さずき)となる籠編みを作らず、すなわち、マセ棒を渡さす、周囲の8コマに籠台を設けて槽を置き、八醞酒を入れておいたということになる。八岐大蛇が酔っ払い、寝ぼけて編み籠に絡んでいる時を見計らって、中央の通路に素戔嗚尊は自由に入って上側へ抜け、周囲の大蛇の首をぐるりと斬って回ったということとなる。反対に、下側へ行って切った時、1つにカチッと鳴り当たったのが、いわゆる草薙剣である。
 上代に、「囲(かく)む」という。上述の和名抄の「籬〈栫附字〉」項に、「栫〈七見反、加久布〉以柴壅之」とあった。万葉集には、

 …… 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ ……(万892)
 …… 妻も子どもも 遠近(をちこち)に 多(さは)に囲(かく)み居(ゐ) 春鳥の ……(万4408)

とあり、八方塞を示している。素戔嗚尊は、その八方塞状態に自ら陥る形をとって、逆に八岐大蛇を近い場所に酔っ払わせて眠らせ、一網打尽(?)に斬り殺したということなのではなかろうか。「中区(うちつくに)の蕃屏(かくみ)」(成務紀四年二年条、別訓カクシ)の出典は、左伝・僖公二十四年条の疏に、「蕃屏者、分地以建諸侯、使京師蕃籬屏扞也」とある。(注11)にあげた本ブログ「『餓鬼』について」で触れた芋のヤツガシラは、漢語に九面芋とある。親イモのまわりに子イモが8つ、親イモと同じぐらいに大きく成長して、しかも癒着した状態にできている。譬え話として、中央の親イモのところが素戔嗚尊に当たるのだということも連想されて生まれた説話ではなかろうか。
九面芋(やつかしら)(岩崎灌園・本草図譜巻之五十(同朋舎、1981年復刻版より))
 さて、「戸」はヤマトコトバにト(甲類)である。万葉仮名としても訓仮名で「戸(と、トは甲類)」は常用されている。音読みでは、漢音にコ、呉音にグ・ゴ、上顎音である。広韻に、「戸」は侯古切である。音仮名の万葉仮名では、コ(甲類)に「古」があり、広韻に公古切、ゴ(甲類)に「侯」があり、戸鉤切である。仮に戸(コ)という音が音仮名に当てられたとすれば、甲類と感じられたであろう。戸(こ)の意味は、律令制で、戸令に里を構成する単位とされ、「凡そ戸(へ)は、五十戸(ごじふこ)を以て里(さと)と為よ」とあり、家父長のことを戸主、独立家屋のことを戸建て住宅などと言う。田令でも、「其れ牛は、一戸(いちこ)をして一頭(いちづ)養(か)はしめよ」とある。さらに、「戸(こ)」は、酒の量をいう語でもある。呑む量が多い人は、「上戸(じゃうご)」、少ない人は、「下戸(げこ)」という。つまり、八岐大蛇の話は、戸(と)に当って児(こ)を呑まずに、戸(と)ならぬ籠(こ)状のところから、一戸(いちこ)ずつ、全部で八戸(はちこ)について頭を覗き込み、上戸か下戸か知らないが、それぞれ戸(こ)という一丁前の酒量を呑んだということである。伊呂波字類抄に、「戸 コ〈酒戸也。上戸・中戸・下戸〉」とある。厩戸皇子は、ウマヤノミコなのだと、漢字のわかるインテリたちには面白がられていたのかもしれない(注15)。呑むほどに青くなる人であったらしい。
 以上から、厩戸皇子という名は、厩に戸(と)などないのに、戸の代わりをするマセバウ、マセガキに当ってませた餓鬼やませた坊やが生まれ、坊どころか「上殿(かみつみや)」を作って愛育したことを物語る、洒落となぞなぞと知恵の押し詰まった命名譚、面白小咄として仕上がっていたのである。古代における名とは何か、それは呼ばれるもの、綽名である(注16)
(つづく)
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蓋の頭二題

2016年06月15日 | 無題
 目黒にある美術館へ行って蓋の頭を見てきました。

 東京都庭園美術館「メディチ家の至宝―ルネサンスのジュエリーと名画―」展(~2016.7.5)では、二重の杯(フィレンツェの金工家作、15世紀、グリーンジャスパー、加熱鍍金し打ち出しにより浮彫や彫刻が施された銀、七宝、高さ30.5cm、下の杯にぐるりと間延びして「・LAV・R・MED」銘、ウフィツィ美術館(銀器博物館)蔵)を見ました。

 杯自体は15世紀、フレームは15世紀後半とあり、納品後に再発注されて再加工したのか、工房に材料として置かれていて金工家の手隙を待っていたのか、知りません。蓋の先端の宝珠のようになっている部分の、中の球体は、メディチ家のエンブレムを表しているとありました。さて、この球体は、“くるみ”のように動くのでしょうか。外枠は3方から閉じているものだったと思います。金でできているのだから、ひょっとして“くるみ”式の場合、動かすと鳴る鈴の仕掛けなのでしょうか。もっとも、金のメッキの鈴しか私は知りません。純金で作って鳴るのか、どんな音になるのか、わかりません。

 松岡美術館「中国の陶磁―宋から元まで―」展(~2016.7.10)では、青磁刻花蓮華文壺(北宋、龍泉窯、総高31.0cm、胴径13.7cm、松岡美術館蔵)を見ました。

 龍泉窯のものは、日本では、南宋時代からの青みの特徴的なものが砧青磁と呼ばれて茶道に好まれたようです。この品は北宋時代のものです。毛彫り風の花の模様、蓮弁の象り、それが上へ向かって幾重にも重なっていくところなど、えもいわれぬ意匠に酔いしれることができます。2つある下の丸襟部分から上が蓋だろうと思います。蓋のいちばん上の部分が丸くありません。蓮の蕾が開き始めたところを模したものでしょうか。その部分の丸襟は、蓮の葉を表しているようにも見えます。もちろん、実際のハスの花はそのようにはつきません。まさか、蓋の上の部分は貫通していて、穴から煙が出るような仕掛けなのでしょうか。細長~い香炉。さて、どうでしょうか。
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厩戸皇子の「戸」の秘密 其の一

2016年06月12日 | 論文
 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。

 夏四月の庚午の朔己卯に、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす。仍りて録摂政(まつりごとをふさねつかさど)らしむ。万機(よろづのまつりごと)を以て悉に委ぬ。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと[用明天皇])の第二子(ふたはしらにあたりたまふみこ)なり。母(いろは)の皇后(きさき)を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と曰す。皇后、懐姙開胎(みこあれま)さむとする日に、禁中(みやのうち)に巡行(おはしま)して、諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。馬官(うまのつかさ)に至りたまひて、乃ち厩の戸に当りて、労(なや)みたまはずして忽(たちまち)に産(あ)れませり。生(あ)れましながら能く言(ものい)ふ。聖(ひじり)の智(さとり)有り。壮(をとこさかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うたへ)を聞きたまひて、失(あやま)ちたまはずして能く弁(わきま)へたまふ。兼ねて未然(ゆくさきのこと)を知ろしめす。且、内教(ほとけのみのり)を高麗の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習ひ、外典(とつふみ)を博士(はかせ)覚(かくか)に学びたまふ。並に悉に達(さと)りたまふ。父(かぞ)の天皇、愛みたまひて、宮(おほみや)の南の上殿(かみつみや)に居(はべ)らしめたまふ。故、其の名を称(たた)へて、上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まを)す。(推古紀元年四月条)

 話の内容は、母親の皇后である穴穂部間人皇女が懐姙し、出産した日にどうしていたかというと、役所を巡って仕事ぶりを監て回っていた。馬官のところへ来たときすぐに、厩の戸に当たって難なく出産した。生れて能く言葉を喋り、聖の知恵がある人であった、というものである。そこから、厩戸皇子という名前が導き出されたような口ぶりである。
 この逸話について、石井公成『聖徳太子』(春秋社、2016年)は、「この誕生場面を要素ごとに分けると、(1)皇后が、(2)臨月の際、(3)あちこち歩き回って、(4)監察し、(5)馬の役所に至り、(6)厩の戸のところで、(7)「不労(苦しまない)」の状態で産み、(8)その子は生まれるとすぐ話し賢かった、ということにな」るとし、仏本行集経・樹下誕生品の記述に、「『王の夫人が』、『臨月の身で』、あちこちの樹を『観看し』て回り、ある樹の下に『至り』、その樹の『ところで』枝を握ると、『苦しむことなく子を生んだ』。その子、すなわち後の如来は、悟ってからは疲れ飽きることがなく、『生まれるとすぐ話した』、という流れ」があり、「状況が似すぎていることは明らかでしょう」(59~60頁)とされている。お腹の大きな妊婦がふらふらと出歩くことは特に珍しいことではなく、外で産気づいて難なく生んでしまうこともないことではない。記述の仕方が仏典に範をとったものであるとされるのであれば、その通りであろう。だからといって、どうして厩の戸のことが取り沙汰されるに至ったのか、肝心要のところは不明のままである。珍しいのは、厩の戸に衝突して安産だったという点ではないか。それが同じであれば、「状況が似すぎていることは明らか」であろうが、それが「樹」と「厩戸」で違うし、厩戸皇子が皇后の右脇から生れたとも記されていないのだから、状況は大して似ていない。状況は似ていないが、文章が似ているのである。漢籍や仏典をアンチョコにして記したに過ぎない。石井先生は、井上薫先生による厩戸部(うまやとべ)出身の乳母が養育に当たったとする説は、早い記録が見られないから当たらないであろうとされ、また、久米邦武先生によるキリスト降誕説話の伝承が伝来したとする説は、歴史時間的に見てあり得ないことを論じられている。そして、良い馬を飼う技術を持っていた渡来系氏族と関係が深かったことを憶測され、その関係から「厩戸」と名づけられたことは事実と思われると述べられている(注1)
a.厩図屏風(紙本金地着色、桃山時代、馬の博物館蔵、同編『所蔵品選集増補版』馬事文化財団、2001年、29頁より)
b.一遍聖絵(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、269頁より)
c.春日権現験記絵(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1993年、42頁より)
d.堅田図(伝土佐光茂筆、室町時代、16世紀、東博蔵、同編『室町時代の美術』同発行、平成元年、237頁より)
e.厩(馬繋ぎ)跡(渉成園内)
f.土佐派農耕屏風(『日本農書全集72 絵農書2』農山漁村文化協会、1999年、49頁より)
g.曲家の厩(和井田登撮影、須藤功『写真ものがたり 昭和の暮らし1 農村』農山漁村文化協会、2004年、88頁より)
h.絵馬を掲げる厩(萩原秀三郎撮影、塚本学「歴史と民俗にみる近世の馬」『日本民俗文化大系6 漂泊と定着』小学館、昭和59年、518頁より)
 冷静に考えれば、「厩戸」とは不思議な言葉である。上に「厩(馬屋)」の図をあげた。a~c図は、乗馬用の馬を飼っておくために、板敷のしつらえとなっている。梁から吊るされた腹綱で引き揚げ、大事な脚を休ませる工夫もしていた。手綱は柱やそこに取り付けられた環(橡金(とちがね))につながれている。公家や武家、寺社が飼っていた駿馬であろう。d・e図は、あるいは来客者が乗ってきた馬を停めるための厩かもしれない。f~h図は、農家の耕作・運搬用の馬が飼われていた様子である。土間にせいぜい藁を敷いてあるぐらいである。g・h図では手綱が外されている。曲家のように人の家と合体している馬小屋もあれば、独立して馬が外を眺められる馬小屋もある。すべて厩である。
 今日でいえば、乗用車と、耕運機兼軽トラックの格納場所を、“厩”と一括りにして言葉としている。ガレージであって、同じく馬を飼う屋だからウマヤなのである。和名抄に、「厩 四声字苑に云はく、厩〈音救、上声之重、无万夜(むまや)〉は牛馬の舎也といふ」とある。しかし、雰囲気はまるで別物であるように思える。筆者は、「日本における厩の展開」なる研究論文があるかと期待して探したが、見つけられなかった(注2)。厩とは何か、について、分野が跨るためかじっくりとは研究されていないようである。多くの方々は、馬を飼うための専用の小屋ということで納得されているらしい。万葉集の厩の例をあげる。

 赤駒を 厩に立て 黒駒を 廐に立てて そを飼ひ 吾が行くが如(ごと) 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目(いめ)立てて しし待つが如 床敷きて 我が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 百小竹(ももしの)の 三野(みの)の王(おほきみ) 西の厩に 立てて飼ふ駒 東の厩に 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いばえ立ちつる(万3327)
 鈴が音の 早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井の 水を給へな 妹が直手(ただて)よ(万3439)
 今日(けふ)もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩(みまや)の 外(と)に立てらまし(万3776)
 厩なる 縄断つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも(万4429)

 3278番歌の「床敷きて(床敷而)」は、「とこしくに」と訓んで永遠の意ともされる。筆者は、板敷の厩の連想から、この句は成っている考える。3776番歌で、遠い都の彼女を思うのに、どうして厩の外に立っていたかについては、逢引していた場所が廐の外だったからではなく、馬が超特急で都へと連れて行ってくれる乗物だったからであろう。作者の中臣宅守(なかとみのやかもり)は越前配流にあり、国府の東の厩よりも、西の厩の方が、都に近いためであろう。馬に乗る際、まず、馬を厩から引き出して、厩の外で馬の右側から乗ったようである。4429番歌について、防人に出掛けてしまう夫に対して、縄をはずされたウマはじっとしてはいませんよ、という解釈は通じない。厩では縄を外して寛がせるが、厩に閉じ込められたままに残されることへの不満を訴えたもので、そう捉える方が切なさが身に染みてくる。万葉集から厩の種類について推量することは特にできない。
 確かに形状でも、両者の共通点は多い。共通点の第一にあげられることは、前面に戸がないことである。板敷の上の駿馬は繋がれているから逃げ出すことはない。土間にせいぜい藁の敷かれたところのお馬さんは、横木が渡されていて柵となっており、出て行くことはない。そこに戸はない。厩に、馬の前方に当たる方に厳重な戸を設けることがあったかどうか、歴史的な変遷を知ることはできないが、競馬のレース直前に、ゲートのなかで暴れ出してゲート入りを全馬やり直すことがある。ストレスがかかるのである。運搬する場合にも、トラックでは十分な注意が払われている(注3)。一部に、馬は閉所を嫌う動物であるとの指摘もある。ただそれよりも、馬を飼う場合、厩は休ませるところだから、健康的に休める環境を整えてあげることが必要である。馬は暑いのが苦手で、また、湿度が高いのを嫌うようである。体温は38℃ほどで、触るとあたたかい。発汗性動物で、汗をかいて体熱を放散させている。今日の日本の夏の暑さは堪えるであろう。風通しを良くしてあげないといけない。極寒時期でなければ、わざわざ厩に戸をたてる(?)必要はないのである。犬小屋に戸がないように、防犯用の意味の戸はなく、牧で高い塀を築かずとも逃げないように、厩は牢獄ではない。厩に戸というのは矛盾した形容の言葉である(注4)
 この自己矛盾、自己撞着の語が名前として記されていることは、上代の言語論理によく合致している。語用論的パラドックスによる、なぞなぞ、頓智の世界である。f~h図の厩の例に、横木が渡されている。今ではすっかり民俗語彙になってしまったが、それをマセ、マセボウ、マセンボウ、マセカキなどと呼ぶ。
 仮にa~c図のような立派な厩に戸をつけるとしよう。扉は、建築上、もともと円柱形をしていた柱に直接取り付けるものではない。円柱に角材をつけてそこへ扉を納めるようにする。建築用語では、その小柱を方立(ほうだて)という。まことに建築用語らしく、重箱読みである。中古以降に生まれた語であろう。上代には、棖(矛立・桙立)(ほこだち)という。和名抄に、「棖 爾雅注に云はく、棖〈音唐、保古多知(ほこたち) 弁色立成に戸類を云ふ〉は門の両旁の木也といふ」とある。ホコダチの語源は知られない(注5)が、威儀を示すことと関係があるのではないかとの説があり、つまり、矛(方立部分)と盾(扉部分)とを設けることを表すのではないかということである。話に矛盾があることを臭わせている。
門柱・方立・扉(世田谷区の無量寺山門)
 また、戸を閉めた時にぶらぶらにならないために、扉の上下の部分にも当たりがなければならない。家屋の内外を隔てるところでは、下部は土台部分でもともとあり、敷居は踏んで行けないと躾けられる。古語には、閾(しきみ)である。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音域〉は門限也。兼名苑に云はく、一名閫〈苦本反、之岐美(しきみ)、俗に度之岐美(としきみ)〉といふ」とある。曲屋のように厩が人家のなかに設けられている場合はその限りではない。一方、上部は、建てあげてから後、戸の大きさとの兼ね合いを考えながら設置される。楣(まぐさ)という。楣は和名抄に、「楣 爾雅に曰く、楣〈音眉、万久佐(まぐさ)〉は門戸の上の横梁也といふ」、新撰字鏡に「門眉 万久佐(まぐさ)」とある。秣(馬草)(まぐさ)との洒落が登場し、厩に「戸」を仮定すると、それはマグサに違いないと面白がられよう。和名抄に、「秣 漢書注に云はく、秣〈音末、万久佐(まぐさ)〉は粟米を以て飼ふを謂ふ也といふ」とある。この秣という語は、古く清音でマクサと言っていたされるが、濁っていけないこともなく、世の中は澄むと濁るの違いにて、の小咄かも知れない。厩にマグサはない。あるのはマクサだけだ、といったことである。あるいは、用もなく楣が付いているが、肝心なのは秣である、という洒落かもしれない。戸をつけないのにわざわざ楣を拵えることは、民俗の慣習としてお札や絵馬を掲げたいがために行われることはあり得ることである(図h参照)。おそらく、洒落としての巧妙さを考えた場合、上にあるべきマグサ(楣)が下にマグサ(秣)としてあるところが、人屋ではなく馬屋の特色であると言いたいのであろう(注6)
 基本的に、厩に戸(扉)はない(注7)。だから、戸(扉)を取り付けるための方立も必要ない。ところが、方立のようなものが付けられている。マセ、マセボウ、マセガキとなる横木を渡して抜けないようにするためのものである。柱貫という。和名抄に、「欄額 弁色立成に云はく、欄額〈波之良沼岐(はしらぬき)〉は柱貫也といふ」とある。柱と柱とを架け渡すために横に貫いているからそのようにいう。「欄額」という字の示す通り、柱と柱の間に楣、欄間など、立派な装飾物を渡しかけるための仕掛けとして考案された。狩谷◆(手偏に夜)斎の箋注倭名抄には、「欄額を按ずるに、柱の上方の貫く所の材を謂ひ、其の状、楯闌の如く上に在る。故に欄額を名づく。今、伊勢神宮屋舎に之れ有り」などとある(注8)。ところが、厩の場合、その柱貫に取り外し可能な粗野な棒がかけられることになる。横に棒を貫いて柵となり、障害物となって馬は外へ出られない。マセは、機能的には塀や垣、柵と同じことである。柵(サク)という語は地面から垂直に立った障壁を指す語のようである。和名抄に、「柵 説文に云はく、柵〈音索〉は竪木を編む也といふ」とある。また、建造物で直立して立てて上部の荷重を支えるものは柱(はしら)である。和名抄に、「柱 説文に云はく、柱〈音注、波之良(はしら)。功程式に束柱を豆賀波師良(つかはしら)と云ふ〉は楹也といふ。唐韻に云はく、楹〈音盈〉は柱也といふ」とある。それに穴を穿って棒を貫くようにしてあるから柱貫である。その柱という語は、上代に、神さまや高貴な人を数える助数詞に用いられる。厩戸皇子も、用明天皇の「第二子(ふたはしらにあたりたまふみこ)」とハシラ扱いされている。次男坊でフタハシラに当たることに興味が向いているのであろう。ヒトハシラ(一柱)では戸は作れない。諏訪大社の御柱に戸(扉)は付いていない。フタハシラだから、2つの柱の間が戸になる。そして、神さまどうしは一緒にすると喧嘩をするとされ、集会を開くに当たっても「天安河辺(あまのやすのかはら)」(神代紀第七段本文)で集まっている。岩波書店の大系本日本書紀の補注に、「古語拾遺に『天八湍河原』とあるので、ヤスはヤセ(八瀬)の転であろう」(ワイド版岩波文庫①341頁)とあり、州(す)の多いところで川をはさんで対面している情景を想い起させる。同根の語かとされるセ(狭)なるセ(瀬)が幾筋もあるらしい。柱をまとめて束ねることは、ふつうしないものである。東大寺大仏殿のそれは、束ねたものを1柱として何本も立てて建物を構築している。
東大寺大仏殿
(つづく)
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吉野宮蒔絵書棚について

2016年06月08日 | 無題
 東博に新収蔵のゴージャスな調度品です。
吉野宮蒔絵書棚(江戸時代、18世紀、東博展示品)
 東博の平成館の考古室の向かいで、「特集『平成27年度新収品展II』のみどころ」コーナーとして展示されていました。
 「博物館でお花見を」のときは、本館の2階に展示されていたかと思います。
 解説には、「書棚は巻子(かんす)や冊子(さっし)などの書物を飾る棚。蒔絵の他に珊瑚(さんご)象嵌や彫金金具を嵌め込むなど様々な技法を交え、桜が満開の山水や舎殿、庭園を表わし、豪華に飾っている。画中に歌文字を散らしており、持統天皇が吉野へ行幸した際、柿本人麻呂が詠んだ歌を主題にしたものとわかる。」とあって、万葉集の巻1・36番歌が読み下し文で参考表示されています。
 私が見た限りでは、いわゆる葦手で散らされている字は、「秋」「津」「野」「邊」「耳」と見える5文字のようです。他にもあるかも知れません。ところが、万葉集の巻1・36番歌の人麻呂の歌の原文に、「耳」という字はありません。

  幸吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可問

①同部分
②同部分
 下手な写真①の左下のほうに、「耳」の字が見えます。江戸時代の版本などに、「尓」を「に」の変体仮名「耳」で記すようなものがあったということでしょうが、そういう版について調べる気になれませんでした。
 下手な写真②の扉あわせ部の右側に見える字はきっと、「邊」の変体仮名でしょう。もしこれが「過」の草書体に見えるなら、万葉集の巻4・693番歌に、

  大伴宿禰千室謌一首〈未レ詳〉
 如此耳 戀哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二

とあって、訓み下し文では、

 かくのみし 恋ひや渡らむ 秋津野に たなびく雲の 過ぐとは無しに

とされています。大意は、このように恋い続けるのであろうか、秋津野にたなびく雲の過ぎ去ることがないように、といったことだと思います。蒔絵に出てくる「秋」「津」「野」「耳」字があります。693番歌を主題にした作品であるとすると、この豪勢な蒔絵の書棚は、大伴千室なるよく知られない人の、かつ、後ろ髪を引かれるような恋心の未練がましい歌の、単に比喩表現として登場させられているにすぎない「秋津野」を表したいがため、取ってつけたように吉野宮の柄を拵えたということになります。693番歌に、作歌の背景を知る題詞、左注などは見られません。何を歌ったものかといえば、恋の未練にすぎません。それを本歌として書棚がデザインされているとすれば、注文主が片思いをしていた相手に贈った家具であるということになります。この説は、「邊」の字が動かないのでハズレです。
 美術や書道に暗いとこのような邪推をして見てしまいます。これも一つの楽しみ方として、お笑いくださいませ。葦手といわれるものは、仮名(に採用されているもの)については変体仮名の崩し字が多く、漢字についてはあまり崩さないものなのかも知れないと、一つ学びました。
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熈代勝覧レプリカの馬のこと

2016年06月04日 | 無題
 三越日本橋本店地下中央口に掲げられている熈代勝覧(きだいしょうらん)レプリカで、江戸時代後期、文化年間の街なかの馬の様子を見ました。全部で13頭いるのだそうですが、また今度にしましょう。
裃を着けたお侍さんが乗っています。従者が後ろを気にしています。何があったのでしょうか。
上のよりもラフなスタイルです。登城するわけではないようです。それでも両刀を帯びています。
これもお侍さんが乗るためのもののようです。鬣が結われて切り揃えられ、布が掛けられています。寒い時季でしょうか。
荷物を載せる馬のようです。障泥に「舎」の字が染め抜かれています。何屋さんでしょうか。
荷物を下ろした時のようです。大安売りの品物を運ばされたみたいです。ご苦労さまでした。
旅にでも出掛けるのでしょうか、行李をぶら下げたうえで女の人が乗っています。ヨーロッパでは、女の人は跨らなかったそうです。
米俵3つ(60×3=180)です。200㎏ぐらいは載せたようです。尤も、中身が何かはわかりません。

 今のところ、馬の草鞋は見つけられていません。日本の馬は蹄が丈夫なそうです。草鞋を履かせるのは、滑り止めが主な目的のようです。重い物を載せて石段や雪の凍ったところを行かせるのは危険です。時代劇の合戦のシーンでパカパカ効果音を付けるのは、どうやら違うらしく、草鞋を履かせていたのでバサバサいっていたとのことです。
 貞丈雑記の、「馬を養う本意心得」の項に、「厩の馬に、冬は綿入れたる衾(ふすま)を着せておく事有り。馬は野にある時、衾をきる物にあらず。衾などきせて馬の身をおごらすれば、弱くなりて軍用に立ちがたし。能く馬の天性を知るべし」(平凡社東洋文庫④、34頁)とあります。3番目の例に、布が掛けられていますが、少し弱っているようなので、そうしているのかもしれません。

 熈代勝覧について、詳しいことは研究書が出ていますし、ブログで紹介しておられる方もいますから、そちらを当たってください。地下コンコースで、無料で、現物の1.4倍に拡大されて見やすく、楽しい筆致に気分も弾みます。ところで、江戸の街で運送用に使われていた馬は、どこで寝泊まりしていたのですか。クロネコヤマトの営業所のようなところがいくつもあったということですか。運送業者が、伊勢屋、江戸屋、中島屋、大阪屋、山田屋、和泉屋、伏見屋に寡占されていて、駄馬を頼むと1日いくらというような公定価格システムだったのでしょうか。荷主が馬を選ぶとか、馬によって値段が違うとか、大安の日は値段が高いとか、馬が暴れて第三者を怪我させたり大切な荷物を壊した場合の補償など、どうなっていたのでしょうか。ご存知の方、お教えください。
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の三

2016年06月01日 | 論文
承前
 欽明紀に見られる救軍については、マヲス所のいくさ、コフ所のいくさ、といった訓が施されている。要請があって派兵していることを表したいから、「所請」「所乞」といった形が「兵士」、「軍」、「救軍」、「救兵」といった語に冠されている。領土的野心があったわけではないことを示したいからなのか、不明である。この両者を、マヲス、コフと別々に訓むべき特段の理由はない。また、「所」字をトコロと訓まずに、コハセルイクサ、コハセシイクサ、コハレルイクサ、コハユルイクサなどと訓むことに何ら不都合はない。確かなる保証はないが、筆者にはコハユルという訓みが適当であるように感じられる。第一に、「所謂」をイハユルと訓む。同じように、奈良時代までに特有の助動詞を用いて、コハユルと訓まれたとすることに抵抗がない。第二に、欽明紀には、百済が高句麗の攻撃を受けて困っていることが記されている。その際、高句麗軍のことを「強敵(こはきあた)」(二年七月条・五年十一月条・十四年八月条)と言っている。コフ(請・乞)、コハシ(強)のコはいずれも乙類である。コハキアタ(強敵)に対抗するには、コハユルイクサ(所請軍)ということになるであろう。無論、百済語で言っているのではなく、ヤマトコトバに訳した時、そういう話らしいと理解するのに役立つというに過ぎない。それでもヤマトの人にとっては、“わかる”ことだから援軍を送ることになる。わからないことには人も金も出さないであろう。
 高句麗軍のことをヤマトコトバにコハキアタと呼んで納得するのには、甲冑の様子からよく見て取れる。白川、前掲書に、「こはし〔強・剛〕 表面が堅くて弾力性のない状態をいう。『皮(かは)』と同源の語で皮の堅さを示し、その形容詞形とみてよい。それより人の剛強なることをいう」(336頁)とある。そして、「かは〔皮・革・韋〕」の項には、「すべてかたい外皮をいう」(241頁)とある。金属製の甲冑が馬にまで施されている高句麗騎馬兵(注5)に襲撃されては、怖いのである。恐怖感を表すコハシという語は、名義抄で「凌」字の訓に見えるものの、上代に用例は見られない。それでも、語源は同じであろうから、強(こは)い人と喧嘩するのは怖(こは)いという印象は持っていたであろう。あるいは口語表現としてのみあったかもしれない。それに対抗するためには、兵を乞うようにする、コハユルより方法はあるまい。イハユル(所謂)という語が普遍的に謂われていることを指すように、コハユル(所請・所乞)とあれば、全般的に当たり前のこととして請(乞)われていると考えてよいであろう。海外派兵を拒む理由は見当たらない、多国籍軍に参加した方が良さそうだ、という判断材料になると同時にそのように示されている。そのように言われているからそのようにした。言=事とする言霊信仰下における、上代のヤマトコトバである。
攻城図(三室塚、5世紀初、朝鮮画報社出版部編『高句麗古墳壁画』朝鮮画報社、1985年より)
 皇極紀二年十月条の「如卿所噵、其勝必然。」は、山背大兄王が蘇我入鹿に攻めれた時、三輪文屋(みわのふみや)に戦術を提案されたのに対して答えた言葉である。三輪文屋は、「深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移向(ゆ)きて、茲(ここ)より馬に乗りて東国(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)と為て師(いくさ)を興して、還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」と請うている。この部分、小学館の新編古典文学全集本日本書紀③には、「卿(いまし)が噵(い)ふ所(ところ)の如(ごと)く其の勝たむこと必ず然(しか)らむ。」(81頁)と訓じている。その訓では、山背大兄王の言う「卿所噵」が、三輪文屋の言う戦術のことだけでなく、その戦術を採ったら必勝であろうという予想までも含んでいる。そして、念を押して、その通り勝つことは必然であると答えていることになる。旧訓の、「卿が噵ふ所の如くならば、……」と訓むと、「卿所噵」とは、三輪文屋の戦術のことだけを示し、まったくそのようにしたら、勝つことは必然である、と「対へて曰」っているということになる。筆者は、捉え方としては小学館本に賛同したい。山背大兄王は、あなたが言うのと同じようにしたら、あなたの言うように戦いに勝つことも必ずやその通りであろう。だけれども、私は戦いということをそもそもしない。なぜなら、「万民(おほみたから)」に犠牲を強いることになるからだ、と記されている。山背大兄王の念頭には、戦うという発想がない。勝ち負けのことが問題なのではない。そこへ三輪文屋の提案があった。まったくの仮定の話として、思考実験として聞くと、あなたの言う通りに戦いをすれば、「其勝必然」と言っている。三輪文屋の「其勝必矣」を受けて、「『其勝必』然」と言っている。「然り」とは、that’s right. の意である。「諾(うべ)なり」=yes ではない。山背大兄王は、三輪文屋に、その論理展開を逐一辿って行って、あなたは理屈も通っていて、私はあなたのことを認める。理路整然としているし、戦略を考える才能も素晴らしい。だけれども、あなたの請求には応えられない、ということを言おうとしている。よって、「卿(いまし)が噵(い)へるが如(ごと)く、其の勝たむこと必ず然(しか)らむ」と訓むのであろう。「所」字をトコロと訓むと、応答の逐一辿る感がなくなって、論理の話ではなく勝敗の話になってしまう。読めていないということになる。
 大化二年八月条の、「……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当聞解此所宣。)」は、大化二年三月条と併せて見れば、「聞」にウケタマハルの訓があてがわれていることに気づく。「所宣」を承諾して理解せよ、と言っている。「即ち恭みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく(即恭承所詔奉答而曰)」(大化二年三月条)という言い方は、過剰である。何を承けるのか、それは、天皇のお言葉である。お言葉とは、コト(言)である。上に見たとおりである。コトを承けて、理解して実践したり、奉答したりする。何をするか、やはり、コト(事・言)をする。コトのキャッチボールである。「所宣」は、「宣(の)りたまふこと」、「宣たまはむこと」、「所詔」は、「詔りしたまふこと」、「詔りしたまはむこと」、「詔れること」と訓むのがかなっている。大化改新のなかで人々を諭すためには、人々が悟れるように話さなければならないから、相手のふだん喋っている言葉で喋ったに違いあるまい。実際にそう行われたかどうかではなく、台詞として似つかわしく記されているに違いないと思われるからである。大化二年八月条の詔には、「若是(かく)宣ふ所を聞きて(聞若是所一レ宣)」、「朕(わ)が懐(おも)ふ所を聴き知らしめむ(使知朕所一レレ懐)」、「如此(かく)宣(の)たまはむことを奉(うけたまは)れ(如此奉宣)」ともある。「所」字があるかないかは、書き手の気分次第、アンチョコ次第という面も否めないであろう。それをヤマトコトバに戻す際、字があるからトコロと訓を付け、字がなければトコロとは訓付けしないと機械的に表わすのでは、原形の復元には近づかないであろう(注6)
 以上(注7)のことから、日本書紀の「所」+発語に関する動詞のもとの言葉、もともとヤマトコトバで表したかった言葉は、後代に漢文訓読で広まったトコロという言葉ではなく、イヘルコト、マヲセルコト、カタラヒ、イフコト、キキシコト、キコユナリ、ミコトノレル、ノリタマハムコト、ノタマヒシコト、ノタマヘルコト、ノレルコト、マヲサレルコトなどといった訓がかなっているといえる。
 漢文訓読によって新しくトコロという和訓が成立した時期は、記紀万葉に見る限り、飛鳥時代に成ったものでないといえる。多くの先生方の仰るとおり、漢文に見られる「所」字に、場所の意味のトコロの用法と、助辞としての用法があり、そのため、ヤマトコトバのトコロという語を当ててみてトコロという言葉の語意を拡張させて理解するようになっていったということである。早くて奈良時代半ばに、確実に平安時代初期に成り立っていることであろうかと思われる。上代には、古事記のように、選択的に「所」字の使用を控えているやり方と、日本書紀のように(巻により執筆者が異なるから偏りが見られるが、)ためらいなく使われるやり方があったようである。日本書紀の執筆者は、漢文の助辞である「所」をどのように捉えたのであろうか。同じ言葉であるのに、「所」字が脱落している、ないしは、「所」字を添加していない例が近いところに混じっている。案外、その感覚を理解するのは簡単かもしれない。教科書文法ではないということである。万葉集の表記を見ればわかる。どう書いても、通じれば良い。同じ「所念」で、オモホユ(万7)、オボホシ(万29)、オボホス(万50)、オボホエ(万191)、オボホセ(万206)、オモヘ(万635)などと細かく異なる。太安万侶は悩みを打ち明けている。「文(ふみ)に敷き句(ことば)を構ふること、字(もじ)に於ては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述べたるは、詞心に逮(およ)ばす。全く音(こゑ)を以て連ねたるは、事の趣(おもぶき)更に長し」(記序)とある。いろいろなやり方が試みられ、記紀万葉のなかにいろいろなやり方が交差している。最終的な目標は一つである。確かにその言葉(「訓(よみ)と「音(こゑ)」)とわかればいい、それだけである。それしか方法がないからである。「所念」と「所」を添加した理由は、沖森先生ほか述べられているように、オモフとは訓まないよ、という符号、符牒、標識と捉えられて使われたものであろう。「所念之○○」とあるなら、連体修飾格として使っているという意識が強いと解釈されようが、「所」字を上に冠しただけでは、文法的、構文的な意識が高かったとまでは言えないのではないかと思われる。今日、「所」と頭にあるからとして、安易愚直にトコロと訓んでしまっている。今日の言葉の感覚では、それで理解できてしまうからである。その点、反省が求められているようである。万葉集に「所念」とあって、「念(おも)ふ所(ところ)」と訓む例が一例も見られない。沖森先生の、万葉集に見られないからと言ってそういう言い方がなかっとは言えないというご見解はその通りではあるが、歌の七文字に入れようと思えば入るし、表現として面白いかもしれないのにというのが筆者の印象である。同時代の表記において、記紀万葉のなかにたいへんな齟齬、乖離がある。どう書くか迷っていた時代である。どう言うか迷っていたのではない。ヤマトコトバ10万年(?)の歴史がある。今日の人は、言葉に対して鈍感になってしまっているように感じられる。ヤマトコトバは文字を持たなかった。文字を持たないヤマトコトバが人々の間でやり取りされて十全の機能を果たせたのは、言葉が神経質なほど正確であったからではないか。一言半句について、何を言っているか、いちいち定められるから、互いにわかり、通じたのであろう。今日のように字面を頼りにでき、あてがありながら話すのとは、言葉というものの性格が異なることを、肝に銘じなければならない。
 余談であるが、山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館、昭和10年)に、「ところ」という語の「現今の普通文」での濫用とも見える例を、福地源一郎「明治今日の文章」から24例ほど引いている。そして、「今の『ところ』といふ語の起源は漢文中の『所』字の訓読に基づくものなるは争ふべからざるものと思はる」(299頁)とされている。築島、前掲書に同じであるが、「然る所」、「何々に候ふ所」、「何々であつたところ」、「ところで」、「ところが」などとどんどん用法が発展していったもののもとを糺そうとされている。つまり、漢文を訓読するに当たって、「所」字をすべてトコロと訓んで構わないようになってしまった不思議さを、漢文の用例の列挙から探ろうとして、途中で終わっている。動詞の上にある例、助動詞「不」・「勿」等に冠する例、体言を用言として取り扱えるようにする例、それが主格になる例、「有」・「無」の支配を受ける例、国語に訳すと連体格になる例、国語に訳すと「ヲ」格・「ニ」格等の補語になる例、国語に訳すと「に」・「にて」・「なり」・「たり」の賓格になる例を挙げられている。筆者としてもいつ頃、誰ぐらいが、この「所(ところ)」なる和訓を広めたのか興味津々であるが、簡単には収拾が尽きそうもなく、また、奈良時代半ばから平安時代初期のことらしく見当がついたことを(注3)に触れるぐらいで深入りはしないこととする。
 以上、飛鳥時代に「所」字にトコロ訓を当てない排除的な理由を述べた。繰り返しになるが、「所」+発語に関する動詞、の形をとる「所」字に~コトと当てる選択的な理由としては、それが言葉に当たるからである。言葉も事柄もコトであった。それが同じことにならないと訳が分からなくなってしまうから、同じになるように心掛けたのが、言霊信仰の根源である。「所」+発語に関する動詞という形は、発せられた言葉を括弧で括る作用を字面的にはもたらしている。上にトコロと訓む場合、奥まった感じがあると述べた。発語された言葉を括弧で括ってしまって鎮座ましませることに由来するのであろう。その例について、実は本稿では例示していないので、(注3)を参照されたいが、一度発語されたものを括弧で括って、さて、どういう意味であろうか、と受け止めてからそれに対する応答をする場合がある。発語が時間的にかなり前であったり、空間的にかなり離れている場合もある。そういったケースでは、言葉が再現、再生されるとき、ノイズが入るのは仕方のないことである。それでも言葉は言葉に違いないから、本来的にはコトなのである。ご飯大盛りと注文して、意外に少なかったり、軽くしてと頼んで、予想外に多かったりするのは、言葉自体が違っているということではないし、言葉が通じていないのでもなく、その店のコト(盛られたご飯の量)としては“正しい”のである。仲居さんには、「お言葉どおりです」などと差し出す方が居られる。ここに、言葉というものが、言葉として単独に成立しているのではなく、媒介的役割を兼ね備えていること(それがなければ成り立たないのだが、)が浮き彫りになろう。崇峻紀四年の例は、群臣が奏上しているのは、任那の官家を再建することについて、全員、陛下の仰っていることに同じであると言っている。全体主義である。任那の再建に、遅れることもなければ先んずることもない。それが、「奏して言さく」といった二重の言い回しに現れているのかどうかについては、別に論じることにする。「所詔」、つまり、詔に翼賛している。あまり意見というものを持たないのが群臣には身のためになったようである。群臣のみであるが、崇峻朝の時代精神について、この記述からわかる。そうした空気に図に乗った天皇は、軽率な行動から暗殺されてしまう。実にわかりやすいと思うのは、筆者だけであろうか。“読む”ことの醍醐味である。歴史は“読む”ことに始まり、“読む”ことに終わるのであるが、無文字時代、無文字文化のことを記したところは、実は“聞く”ことが大事となる。(注6)を参照されたい。

(注1)ヤマトコトバ本来のトコロという語意については、白川、前掲書に、「『床(とこ)』『底(そこ)』を語根として、神聖の居るところを意味するもので、永遠なるものの意味をもつ語であり、処・所の字義にまさしく対応する」(536頁)とある。本稿では、この点について何ら検討することができなかった。
(注2)丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年)に、「《chien(犬)》という語は、《loup(狼)》なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように、語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである」(96頁)という有名な例示がある。言葉とは、箱の中に入っている饅頭か、圧搾空気の入った風船かという議論である。漢文訓読に由来する「所(ところ)」なる語がないとき、どうであったろうかと仮定しながら議論を進めている。
「言葉の中には《差異 différence》しかない」(同書、同頁より)
(注3)沖森先生は、本論文において、基本的に万葉集と続日本紀の宣命、金光明最勝王経古点の例から検討されている。筆者に疑問なのは、続日本紀の詔を記した宣命の扱いについてである。宣命体と呼ばれる詔の記し方によって、訓みが確かとわかるわけであるが、60以上ある宣命の、まず文武天皇の①文武元年(697)、②慶雲四年(707)、次に元明天皇の③同年、④和銅元年(708)、の次が聖武天皇の⑤神亀元年(724)である。④と⑤の間に16年の開きがあり、都が藤原京から平城京へ遷っている。都が平安京へ遷った時、ヤマトコトバは甲類と乙類の区別がなくなる大変化を起している。平城京へ遷都した時、それほどではなくても、少なからず変化があったのではないかと思われる。なのに、宣命の表記について一律に、同じような言葉遣いであると見て良いのであろうか。(おそらくそうはされていないと思うが、当該論文には触れられていなかった。)
 沖森先生は、春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』(春日政治著作集別巻、勉誠社、昭和60年)から、「~ノトコロ」と補加して訓む点が、諸仏の尊位に関わる例なので、一種の敬語として取り扱われたのではないか、という説を引いている。「敬語表示」としての「所」との関係を導き出している。(注1)に見た白川先生が仰るトコロの本義との関係については触れられていない。
 筆者の想像話で恐縮であるが、真筆が残っていて漢籍や仏典を書写していた聖武天皇や光明皇后は、仏典に「所」字を見て、「~トコロ」と訓んで敬語表示と考えることがあったかもしれないと思うが、宣命の漢文訓読に由来する「所(ところ)」の変遷について、また、「所(ところ)」語義の“世俗化”が起こったといえるのか、本ブログの守備範囲から離れていくので見送ることにする。ご存知の方、お教えください。他方、宣命の①~④詔において、文武天皇や元明天皇に、仏典の教養(?)、漢籍の素養(?)があったか否か不明である。①~④詔に現われる「所」字は、「所知」、「所思」、「所念」といった慣用例ばかりで、「所載(のせ)」のみ珍しい。この「所載」の例は本文で見た。つまり、「所」字は、慣用句的にしか①~④宣命詔には出てきていない。
 そういったなか、藤原京時代、宣命以外の一般の「所」字に、漢文訓読のトコロという訓をつけるだけの“勇気”というか、“慣れ”のようなものがあったのか、想像しにくいところである。それまで、ヤマトコトバで、トコロといえば決まった場所のことで、具体的な場所、その一地点を指していた。それが相対的な位置関係、漠然とした抽象的な意味へまでも拡張しているのである。お経のようななんとも壮大な表現がたとえ話として多く登場してくることに“慣れ”ないと、トコロってどこよ? と聞き返したくなったに違いない。トコロってその辺のことよ、その辺ってどのあたりよ? 無量無辺のトコロよ、といった話に流れて押し問答になってしまう。壮大表現と抽象的な概念は、ともに生身の現実からははずれた meta-な関係にあるように思われ、両者はいっぺんに悟られる事柄のようにも思われる。そのような仮定をした時、さて、それに遡ることおよそ100年の聖徳太子は、漢籍や仏典の「所」字をどのように認識していたか、筆者は勉強不足で想像の翼が羽ばたかない。
(注4)例えば、久米幹文『続日本紀宣命略解』吉川半七、明治26年。また、トコロという語によって、時間に幅を持たせることができることについて、コトという語とのかかわりで述べられている不思議な解説が、福田定良『落語としての哲学』(法政大学出版局、1973年)の「天下之愚著『ことのしらへ』」(225頁以下)に出ている。参考にされたい。
(注5)中国人民革命軍歴史博物館のHPに、南北朝期の馬甲図が紹介されている。本邦に伝えられ、古墳から出土することのある蛇行状鉄器は、もとは馬甲の背に付けられた寄生のことかとされる。強(こわ)くて怖(こわ)いものである。本邦でも金銅製の馬の鞍飾りの上につけられてハタボーとして異形を放ったとする説もあるが、筆者は、鉄器をつけると鞍飾りの金ピカのメッキが傷んでしまうから、実際に旗竿をさすために用いられたことはなかったと考える。蛇行状鉄器は、古墳内の出土個所が他の馬具とは別であるところもあり、なまはげ的なグッズではなかったかと推測している。ご批判を賜わりたい。
蛇行状鉄器(奈良県磯城郡田原本町団栗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
(注6)原形の復元とは何かについては、あまりにも大掛かりな議論になるのでここでは触れない。日本書紀の執筆者が、何を書こうとしていたか、といった程度のこととして捉えていただければここでは十分である。勘のいい方はお察しと思うが、本当は不十分である。
(注7)斉明紀四年八月条の割注に、「或所云授位二階使檢戸口」とある部分、「所」字は、「本」の誤写ではないかと疑われている。ひょっとすると、「或(あるふみ)に、所云(いはゆる)位(くらゐ)二階(ふたしな)を授くによりて、戸口(へひと)を検(かむが)へしむるなり」と訓み、訳も分からない蝦夷の懐柔に当たって、位二階の授与が方便であることがすでに定着しており、イハユルことであったのを示したものかもしれない。
 当然のことであるが、日本書紀の「所」用字例は、本稿であげたものに限らずとても多い。「所」+発語に関する動詞の例としても漏れがあることもあるであろう。後考を俟ちたい。
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の二

2016年05月27日 | 論文
承前
 日本書紀に付されている訓は、いわゆる古訓である。平安時代以降にそう訓むであろうと考えられて付けられている。昔の人が、さらに昔の人のことを慮って、頑張って研究した結果である。上に見るように、「所」字には、トコロという訓が多い。とはいえ、それが必ずしも伝本の全てに付されたものではないことも事実であるし、上にあげた訓み方以外にも例があることは断っておく。第一例に、「所乞(こはし)」、第二例に、「所言(まをすこと)」、第三例に、「所言(まをし)」、第四例に、「所称(まを)す」、第六例に、「〔所〕訴言(まを)す」、第七例に、「有所言(ものもを)さむ」、第八例に、「所談(ものがたりこと)」、第十例に、「所語(かたらひ)」、第十四例に、「所噵(い)ふならく」、第十六例に、「〔所〕必ず褒め讃(あ)げられ」、第二十三例に、「所記(のたま)へる」、第二十四例に、「所須(もち)ゐむ」などとある。また、第五例は、「事(こと)辞(いな)ぶる所無し」とも訓まれている。今日の言い方では、言い逃れる余地がないという意味から、抽象的な比喩表現に「所」にトコロと当てて何ら不自然に感じない。これが厄介な“ところ”である。
 今日的な印象として、関係代名詞風に用いられている「所(ところ)」という語は、少し奥まったことを表しているようである。「その点」、「その折」、「すなわちその」などと「その」と指事される。下接の事柄をまとめて指し示す役割を果たしているといえる。受身や使役、尊敬に当てる場合も、(自)動詞の直接性からすれば捻られている感じがある。その訓として、「所言」を言フトコロと訓めば、言ったことそのままではなく、言ったことの内容、趣旨、という意味にとることができる。例えば、「あいうえお」と言ったとして、それの言フトコロは、ア行音を言っていた、というように、ある種のフィルターがかかっていても構わないことになっている。「竹藪焼けた」の所とは、回文のの一例を示した、「赤パジャマ、……」の所とは、早口言葉の一例を言っている、といった趣旨が同じであることに力点が置かれている。上にあげた例の最後の孝徳紀の例は、宣言したことの意味を悟れ、と天皇自ら言っているように受け取れてしまう。言っていることその言葉一言半句が問題なのではなく、言わんとしている趣旨、趣意、要旨が重要ということになる。旨(むね)のことである。言葉を発するには、口、唇、喉、鼻などが関わってくるが、そもそもの呼気を司るのは肺部分であるし、心(意(こころ))があるのも胸部であったと思われていたから、ムネが肝心のこととなる。
 そもそも、言うこと自体には誤謬が付いて回る。同じことを言っていても人によって言っているニュアンスが異なることがある。同じことを聞いていても人によって受け取るニュアンスが異なることもある。神武前紀戊午年八月条の例は、図らずもそのことを示してしまっている例なのかもしれない。この部分の訓については後に触れる。
 「所言」他の訓み方として、言フトコロといった言い回ししかできないのであろうか。できないのであれば、場所を表すのではない、連体修飾格を作ったり、指事にしたり、受身を表したり、関係代名詞であったり、「所謂(いはゆる)ところ」と重ねて訓んだりするトコロという語が、ヤマトコトバに古くからあったと認められ、上代語は大幅な見直しを余儀なくされる。神武前紀の例から、弁解の余地がないという比喩が罷り通っていて、トコロと言っていたに違いないと考えて良いのであろうか。雄略紀に、イヘルコトアリの例がある。

 古(いにしへ)の人、云(い)へること有り。匹夫(いやしきひと)の志も、奪ふべきこと難しといへるは、方(まさ)に臣(やつこ)に属(あた)れり。(古人有云、匹夫之志難奪、方属乎臣。)(即位前紀安康三年八月条)
 古の人、云へること有り、娜▲(田偏に比)騰耶皤麼珥(なひとやはばに)。〈此の古語(ふること)、未だ詳(つばひらか)ならず。(古人有云、娜▲騰耶皤麼珥。〈此古語未詳。〉)(元年三月条)
 古の人、言へること有り。臣(やつこ)を知るは君に若くは莫し、子を知るは父(かぞ)に若くは莫しと。(古人有言、知臣莫君、知子莫父。)(二十三年八月条)

 雄略紀を記した紀の編者は、なかなかの知恵者である。関係代名詞に当たる文字を記さずに、ヤマトコトバにイヘルコトと訓ませるべく工夫されている。英文和訳でも、関係代名詞をトコロと訳さないで伝えるようにした方がわかりやすい。イヘルコトとは、言(云)ってしまわれて完了している“こと”、である。言ってしまって完了しているのは、言葉が事柄に転化しているような“こと”である。だから、「古人有云」とだけ書けば、イヘルコトとしか訓めないことになっている。古人の言ったことは確かめることはできないが、繰り返し暗誦されるような文言だから、イヘルコトなのである。しかし、第2例の「娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)」は「汝人や母似」の意であろうと解されながら、「此古語未詳」なる割注も入れている。何故このような語を持ち出したのか、後代の読者は不思議がらなければならない。わからなくなってしまっている言葉は、言霊信仰において、言=事とする際、どのように作用するのであろうか。大問題であると思うが、言葉というものは実際問題としてわからなくなるものである。それを趣旨さえわかればよろしいという発想から、「所」字はないが、イヘルトコロと訓じてしまうことも今となっては受け入れられる。トコロという語に慣れてしまっている。けれども、言霊信仰は、言葉の主旨が問題なのではなく、言葉そのものが重要なのである。ナヒトヤハバニが「云へる“こと”」であり、「古“こと”」であるのはそういう事情からである。そうでなければ、コトという語に、言葉と事柄とを含めてしまうヤマトコトバ的な発想は生きて来ない。word と thing の間に何ら通用する“ところ”はない。
 雄略紀元年三月条にある、「咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(咸言、如卿所噵。)」は、コトのオンパレードなのであろう。みんなが言っていることは、あなたが言っていることと同じようなことである、の意で、「咸言ふコト、卿が噵ふコトの如(ゴト)し」と畳みかけているとすれば、発語としての面白味と現実味がある。「如(ごと)し」という語は、同一を意味するコトに形容詞の語尾シが付いた形である。つまり、ここで雄略天皇が言っているのは、この状況について、皆もあなたも言っていることは、「ことごと(尽・悉)くごと(如)し」である。ここにトコロなどという合い間を入れてしまったら、小咄は頓挫、場は白けてしまう。笑劇場は閉鎖であろう。
 舒明前紀の例に、推古天皇が何と言っていたか、天皇の遺勅の言葉尻が問題とされている。曖昧な遺勅の言葉尻によって、趣旨、すなわち、次期天皇に誰を指名する気だったのかが違ってくるからである。山背大兄王は、推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)」の一言半句について、「少少違」うと主張している。それは、趣旨が違うという主張であるより先に、言葉(尻)そのものが違うと言っている。曖昧な遺勅の解釈の問題以前に、曖昧な遺勅の原語の一言半句を問題にしている。一言半句によって事柄が変わってくるということを、山背大兄王はよく理解しているように感じられる。今日のように、遺言書の形態がなかったとき、遺勅は重要である。遺言書の形態があっても、法的拘束力を持つかどうかは時の政権による。豊臣秀吉はどうしようもなかった。翻って、上代に遺言書はない。そもそも「書(ふみ)」というものがとてつもなく珍しい。遺された人が読めないものを書かれても、何の役にも立たない。では、何の頼りもないかといえば、そういうことはないであろう。なぜなら、仮にそうであるとすると、無秩序状態に陥ってしまうからである。無文字社会は始終アノミーであったという考えは当たらない。文字社会の方が、かなり“野蛮”である。無文字社会において社会を成り立たせる規範とは何か。ヤマトの場合、それは、言=事とする言霊信仰にあった。事柄をそのままに言うようにするとともに、言ったことは事柄となるようにする。そう決める。だから、推古天皇の遺勅の言葉尻のようなことが山背大兄王と蘇我蝦夷側とで争われ、揉めることになる。山背大兄王の言うことはマジである。采女が聞いたとすることと大の大人の、それも聖徳太子の息子で聡明とされた人が言い争うなど恥ずかしくないかと思うが、決して形骸化していない。言霊信仰の下にあったからであろう。
 舒明前紀の、「群卿所噵」と「我之所聆」の「所」が、趣旨の意とは解されていないとわかった。推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)の一言半句が問題であった。オホミコトとは、オホ(大)+ミ(御)+コト(言)の意である。オホ(大)やミ(御)は尊敬の称である。コト(言)がコト(事)となり、次期天皇となる。したがって、「所噵」をイフトコロ、「所聆」をキクトコロという冗漫な訓は、少々違うようである。言葉が事柄に直結するから、言葉そのものが問題なのである。トコロが問題ではなく、コトが問題である。「所噵」はイフコト、「所聆」をキキシコトという訓みが正しいものと考えられる。確実に自分は聞いた、という意であるから、キケルコトではなく、キキシコトである。
 事柄の内容、趣旨を示すために「所」字を使っている場合もあるのではないかとの反論もあるであろう。一例をあげる。

 式(も)ちて呈奏(いたせるまをしごと)を聞(き)きて、爰(ここ)に憂(うれ)ふる所(ところ)を覿(み)れば、日本府(やまとのみこともち)と安羅(あら)と、隣(となり)の難(わざはひ)を救(すく)はざること、亦(また)朕(わ)が疾(いた)む所なり。(式聞呈奏、爰覿憂、日本府与安羅、不隣難、亦朕所疾也。)」(欽明紀九年四月条)

 この部分、小学館の新編全集本日本書紀②の訳に、「爰覿憂」を「その憂慮の内容を考えてみると」(411頁)とされている。「所」を、内容のことと解釈されているのである。ここに、とても珍しい「覿」字が用いられている。何から引いたものか筆者は勉強不足でわからないが、天罰覿面というように、目の当たりに直面することを示す字である。内容を頭でよくよく考えてみたらわかったということではなく、憂い極まる上奏と直に向き合うと、の意味であろう。「式(も)て呈奏を聞きて、爰に憂(うれ)ふるを覿れば、日本府と安羅と、隣の難を救はざること、亦朕も疾(うれ)ふ。」と直説話法で捉えるのが正しいのではなかろうか。百済から派遣されている使者、中部杆率掠葉礼(ちうほうかんそちけいせふれい)等を謁見していて、その悩める表情をつぶさに見ているから、このような詔が発せられたものと思われる。「憂(うれ)ふ」る様を「覿(み)」て、「朕(われ)も亦」、同じように「疾(うれ)ふ」と同調したのである。「爰」とその場であること、「亦」と同じであることが明記されている。「憂」と「疾」と別の字があてがわれているが、ヤマトコトバとしては同じウレフを表したものであろう。字義の違いを表現に及ぼした巧みな書き方といえる。そして、冗漫で奥まったトコロ訓では意味が通じないとわかる。残念ながら伝本にそのように訓まれた傍訓は残らないが、字を選びながら的確に記されていると考えられるので、筆者はこの訓みが正解であると思う。
 雄略紀八年二月条の例、「説其所語」の「所語」には、カタラヒ、と兼右本に傍訓がある。また、皇極紀三年正月条の「便以所語」の「語」に、カタラフ、と岩崎本に傍訓がある。雄略紀八年の例からみて正しいといえようが、カタルではなくカタラフと訓むべきであると思われたのには、動詞語尾フを接して、カタリ(語)+アフ(合)という相互的な意味を強調したかったからであろう。遊仙窟に、名詞形の「朝聞烏鵲語(カタラヒ)」と訓まれている。小学館の新編全集本日本書紀③の「語(かた)らふ所(ところ)を以ちて皇子に陳(まを)す」とある個所の頭注に、「鎌子が語った言葉。『家伝』上に『舎人、語ラヒヲ軽皇子ニ伝フ。皇子大ニ悦ブ』。」(85頁)と注されている。鎌子(中臣鎌足)が語った趣旨の意なら、「語(かた)る所(ところ)」と訓むべきである。鎌子と舎人が相語り合うこと、仲睦まじく会話すること、カタラフことのなかで出てきた言葉だから、カタラフ、カタラヒという訓が現れるのではなかろうか。鎌子の言葉は直前に、「便(すなは)ち遇(めぐ)まるるに感(かま)けて舎人に語りて曰く、『……』」とあって、『……』ときちんと示され、「舎人を宛てて馳使(つかひ)とせるを謂ふなり」という割注が付けられている。鎌子が中大兄と仲睦まじく親交するに至る伏線としての話である。鎌子は軽皇子とではなく、その宮に仕える舎人と仲睦まじいらしい。だから、鎌子は軽皇子に直接言わずに、舎人を介している。それはまた、直接言ってしまったら約束のようなことになってしまうし、舎人を介して言っている限り、噂話のようなものだからであろう。言=事、言霊信仰の下にある人の性格上そのようになりやすい。今日においても、直接は言わずに蔭で言う感覚はわかるのではないか。つまり、ここは、鎌子が本心から語った言葉かどうかは確かにはわからないような、その場に「感(かま)け」た雰囲気的なカタラヒのことであると考えなければならない。鎌子が感けている。「所語」は、カタラヒと訓むのが正しいのであろう。カタラフトコロなる冗漫な訓を、話し合った内容、趣旨の意と考えようにも、鎌子と舎人が四方山話を繰り広げたなかでの一部分であろうから、適切な訓とはならない。語り合いのなかの断片を舎人は軽皇子に陳述したのである。遊仙窟の「語(カタラヒ)」も、鳥(ヒトカラス・マラウドカラス)の鳴き声を、言葉としては断片であると捉えることで譬えている。鳥“論語”を指しているのではない。
聖徳太子絵伝(部分)(絹本着色、南北朝時代、14世紀、川合玉堂氏寄贈、東博展示品。鎌子だから鎌で入鹿の首を飛ばしている。)
 崇峻前紀の「此の犬、世に希聞しき所なり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある。すぐ近くに、「養(か)へる白犬(養白犬)」、「養へる犬(所養之犬)」とある。「所」字があろうがなかろうが、ヤマトコトバとしては同じらしい。すると、「此の犬、世に希聞(めづら)し」と訓んで構わない。また、後ろの文とあわせて、「此の犬、世に希聞(めづら)しきこと、後に観(しめ)すべし。(此犬、世所希聞、可於後。)」と訓むことも可能である。筆者にはそれが正解であるように思われる。
 他に、崇峻紀五年十月条のついでの例、「朕所嫌之人」に、「朕(あ)が嫌(ねたしとおも)へる人」、「朕(み)が嫌(そね)む人」といった別訓もある。「朕(あ)が所嫌之人(そねむひと)を断る」と訓まれたらしい。白川先生ご指摘の、古事記の「所持之生大刀(もたるいくたち)」のようにである。紀でも例えば、「所問(と)ふ意趣(こころ)を知(しろ)しめさずして(不知所問之意趣)」(垂仁紀四年九月条)、「嶋の神の所請(こは)する珠(嶋神所請之珠)」(允恭紀十四年九月条)、「天皇の所宣(のたま)ふ詔(天皇所宣之詔)」(欽明紀五年二月条)、「所乞之意(まをすこころ)」(斉明紀六年十二月条)などとある。するとそこに近い、「天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(聞天皇所詔、恐嫌於己。)」の「所詔」も、「天皇のミコトノレルを聞きて」と訓めば良いと知れる。蘇我馬子は漢文表現で難しい詔の内容を解釈するのに熟考したのではなく、イノシシを殺す譬えが自分に向いているらしいと気づいたに過ぎない。ならばドミノ式に、欽明紀二年四月条A、崇峻紀四年八月条、孝徳紀大化二年三月条の「所詔」も、内容的には大したことを詔していないことから、トコロと訓む漢文訓読は似合わないとわかる。ミコトノレル、ノタマヘルなどと訓めばふさわしい。欽明紀二年四月条Aの、「日本の天皇の詔(のたま)へるは、全(もは)ら、任那を復建(かへした)てよといふを以てせり」とあるのは、ぶっちゃけた話、日本の天皇の詔は、もっぱら任那を復建せよといっているだけだ、といった感じである。だから、「全」という語が登場している。詔に複雑に入り組んだところがあって晦渋にしてわからないということではなく、ちょっと長いだけで話は簡単で、端的にいえば(=「全ら」)、任那の再建せよということだ、という意味である。そういった個所の「所詔」にトコロという訓が登場しては、表現の雑駁感が損なわれてしまっていただけないことになる。
 また、仁賢紀の「即ち言ふ所(ところ)を知れり」も、「諾(せ)」という言葉(音)が、「兄(せ)」という言葉(音)と合致する洒落であることに話の焦点があるから、「即知所言矣。」は、ズバッと、「即ちイヘルコト知れり。」と訓まなければ意味が十全に通じないことになる。「即」字が生きて来ない。継体紀の、「推問所奏、和解相疑」についても、「奏す所(ところ)を推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓むのでは、双方の言い分を弁護士を介して聞くことになり兼ねない。実際、記事では、新羅、百済の両国は使者を派遣しただけだったので、毛野臣は天皇の勅を伝えなかった。その結果、新羅は軍勢を率いて勅を聞きたいとし、なお応じなかったことから四村で掠奪されるに至っている。「或(あるひと)」の言葉として、毛野臣の外交的な「過(あやまち)」であると総括されている。けれども、「奏すトコロ」を推問するのではなく、「奏すコト」を推問せよとの詔であったから、近江の毛野臣は両国の王の言葉を直接聞こうと思ったのであろう。使者しか送って来なかったからと言って怒っていては話にならないのは確かである。けれども、なぜ話にならないかといえば、「詔を伝える体面と手段にこだわ」(小学館新編全集本日本書紀②318頁頭注)った点にあるのではない。ヤマトコトバを話し、ヤマトコトバしかわからない毛野臣が、朝鮮語しか知らず、朝鮮語しか話さない新羅王や百済王の言葉を直接聞いても、推問にはならないからである。通訳、古語にヲサを介する融通が利かなかったから、事態をヲサ(収)めることができなかった。全体の文脈を読み解けば、当該部分は、「奏(まを)すことを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓まなければ、言(こと)=事(こと)であるとする言霊信仰が、ヤマトコトバにしか通用しないこと、つまりはそれが、外交的には何の役にも立たないことを語る記事になっていることを伝えない。日本書紀記者の深意を表わさないことになる。
 同様のことは、欽明紀五年十月条にも言える。「奏(まを)す所(ところ)の……が事は、報勅(かへりみことのり)無し(所奏……事無報勅也)」の……部分は人名である。「所奏事」を真っ直ぐに訓めば、「奏(まを)せる事」である。その訓みが正しそうなことは、コトと訓むことによって、「報勅(かへりみことのり)」のミコトノリ=ミ(御)+コト(言)+ノリ(宣)と対照する。トコロと訓むのは、まごろっこしいと知れる。
 欽明紀五年三月条の、「朕曾(いむさき)より聞きし所(ところ)なり(朕所曾聞)」という訓には、どっちつかずの中途半端さがある。長い百済王の上表文の一文である。キキシと言っているのなら、前から確かに聞いていた、とはっきりしているのに、トコロと漠然とした感じをつけられては、実際に聞いていたのか、間接的に聞き知っていたのか、わからなくなる。例えば、キケルトコロナリ、ならば、聞いていたような気がすることだ、という意味にはなる。しかし、そうなると、最後にナリと断定する矛盾に遭遇する。百済王が、新羅は的臣等が往来したことで、農耕ができたということを前から聞いている、と言おうとしている箇所である。百済王が、新羅のかつての農耕事情について研究したり講義を受けていたりしているとは考えにくいので、伝聞として、あるいは食客から、以前、聞いたことがあるということであろう。奈良時代までの伝聞の助動詞ナリを、断定の助動詞ととり誤ったのではないか。「朕(われ)曾(いむさき)より聞こゆなり」、私には以前より、噂話で耳に入ってきていた、の意味である。「夫れ葦原中国は猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。」(神武前紀戊午年六月条)とある。万葉集では、「所聞」に下二段動詞「聞こゆ」(万238・930他)の例が活用形を含めて25例ほどある。「聞こゆ」だけで伝聞を表すから、さらに活字化されていない伝聞の助動詞ナリを加えるのは屋上屋を構築するような言い回しである。「朕(われ)曾(いむさき)に聞こゆ」で良いのではないかと思われるが、原文語順に「朕所曾聞」とあり、「朕曾所聞」とはなく、「曾」に紀特有の訓、イムサキニの展開形、イムサキヨリと伝本傍訓から訓まれるらしい点から考えて、含むところがあるように見受けられる。イムサキニは、「去(い)にし先に」の約とされる。過ぎ去った先に、である。それをさらに強めた表現が、過ぎ去った先より、イムサキヨリである。ならば、受ける側も、キコユ(伝聞の動詞)+ナリ(伝聞の助動詞)と強調されているのであろう。(つづく)
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の一

2016年05月22日 | 論文
 「所」という字について、指事用法として漢文訓読でトコロと訓むことがあり、ヤマトコトバ本来のトコロという語(注1)の拡張として捉えられることが多い。ヤマトコトバでは、本来、トコロに場所以外の意味はなかった。地点、箇所、区域などの空間的な範囲を示す語である。“ところ”が、築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』(東京大学出版会、1963年)に、「本来の日本語のトコロとは合はない例もある。例へば、 所得 所言 所感 所期 などは、『得ルコト』『言フコト』『感ズルコト』『期スルコト』などの意味である。即ち『所』は動詞に冠して体言を形作つてゐるわけであつて、この場合には場所・区域・箇所といふやうな空間的な意味は全く認められない。従つて本来の日本語のトコロとは全く別の意味である。それを『所』の字に引かれてトコロと訓じたのであつて、かやうなトコロの用法は訓読特有である」(381~382頁。漢字の旧字体は改めた。)とある。
 上代に、トコロ(ト・コ・ロはともに乙類)という語が、場所の意以外に使われたとは考えにくい。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「ところ[所・処]」の語義に、「①場所。空間上の一点をさす。……②助数詞」としかなく、漢文訓読風に言っていたとは知れないのである。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、古事記の「用字法には、かなりの一貫性がみられる」とし、「所は百数十例の大部分が『所遊(あそびませる)』『所生(うみませる)』のような助動詞の用法か、あるいは関係代名詞としての、『其の汝(いまし)の所持之生大刀(もたるいくたち)』のような用法が四例。特定の場所をいうものは『王子(みこ)の坐(いま)す所(ところ)』〔記、応神〕の一例があるのみである」(536頁)とある。どうやら、太安万侶の辞書に、漢文訓読語「所(ところ)」はないようである。それが太安万侶の時代に共通することか、彼一人にかかっていることか、どこまで研究されているのかさえ筆者にはわからない。
 何が問題かといえば、もし上代に、漢文訓読調のトコロなる言葉があった、使われていた、話されていた、と想定されると、日本書紀などの会話体の中にも言葉として登場することになる。上代語にすでに漢文訓読語のトコロが蔓延していたことになる。上代語の概念を根底から変えなければならなくなる。第一に、トコロが場所を指す言葉としてヤマトコトバに概念形成されているのに、別の言葉、コトの代替として使われていることがあったら、範疇を定める言葉そのものの意義が怪しくなってしまう(注2)。それが大問題に発展するのは、言葉が事柄と同じことであるとする言(こと)=事(こと)、即ち、言霊信仰自体が揺らいでいたことになってしまうからである。第二に、漢文に見られる「所」字に引かれてトコロと訓むことが、即ち、漢文訓読語が生れていたとすると、大勢の人たちが漢字を日常的に読んでいたことにつながりかねない。初期万葉の作品に口承性が指摘されていることと相矛盾する。たとえ漢文訓読語の「蓋(けだ)し」という語が額田王歌に見られるにしても、他の言葉の概念範疇に牴触する問題にはならず、新概念の話のみで済むものかとも思われる。しかし、コト(事)、トキ(時)、ヒト(人)という語と牴触してしてトコロ(所)という語が用いられ始めると、コト、トキ、ヒトなどそれぞれの語が厳密に定められていたヤマトコトバの決めごとが揺らいでしまうことになる。曖昧模糊になっていく。本稿では、テキストを手掛かりに、“読む”という作業を行って、果して漢文訓読語「所(ところ)」が上代、それも飛鳥時代にあり得るかを明らかにしようと思う。念のために断っておくと、表記の字面が問題なのではなく、表記されているものが漢文訓読に使う助辞のトコロという語を書き記すために用いられた文字(漢字)であるかどうかを確かめようとするものである。
 万葉集においては、漢文の訓読によってもたらされたと思われる「所(ところ)」という訓み方は知られない。沖森卓也『日本古代の文字と表記』(吉川弘文館、2009年)に、「万葉集に『連体形+トコロノ』の訓みが考えられないことによって、上代における『所』の連体修飾格が完了の助動詞リの連体形ルで訓まれてきたようであるが、仮に万葉集の表記に助動詞ル表記の類推が少なからず働いていたとすれば、万葉集の訓法を根拠として『連体形+トコロノ』の訓みがなかったとは言えないであろう」(109~110頁)という適切な指摘がなされている。「言えない」だけで、「あった」とも「なかった」とも仰られていない。筆者は“ずるい”と思うが、仕方がないことである。沖森先生のお考えでは、「所」字には、「一 場所の意」、「二 助動詞ユ、ラユ、ル、ラル」、「三 ル音節表記(連体修飾格表示)」、「四 ヤ行エ・レ音節表記」、「五 敬語表示」、「六 熟合、義訓、音仮名ソ乙類」というように、ヤマトコトバの音を基軸の1つとしてあげられている。文法的に何かという解説から、実際に言葉を使う立場へと足を踏み入れられている。初めに音声としての言葉ありき、へと歩を進められている。
 とはいえ、「所」字をトコロと訓むべき例のなかに、本来の場所の意と形式名詞の例とを一緒にして、あまり考察されていない点は、筆者には不満である。「言葉の中には《差異 différence》しかない」というソシュールの思想をもとに、ヤマトコトバを一語一語考えていく場合、形式名詞のトコロが現れた現れ方が気になるのである。沖森先生が場所の意の中にあげられている形式名詞の用例は、続日本紀の宣命である(注3)

 何志岐止志氐加然将為(第18詔)(何(なに)を怨(うらめ)しき所(ところ)としてか然(しか)将為(せむ)(天平宝字元年(757))
 知所押勝(第26詔)(知(し)る所(ところ)も無(な)く怯(つたな)く劣(をぢな)き押勝(おしかつ)が)(天平宝字四年(760))
 天授賜方牟(第31詔)(天(あめ)の授(さづ)け賜(たま)はむ所(ところ)は)(天平宝字八年(764))

 筆者も、これは漢文訓読によって作られたトコロという語であり、トコロと訓んでいたと考える。コトやヒトという訓みを当てる方もおられる(注4)。また、

 是以令文所載多流乎跡止為而(第2詔)(是(ここ)を以(もち)て令(のり)の文(ふみ)に載(の)せたるを跡(あと)と為(し)て)(慶雲四年(707))

について、「この『所』字はノルに対する他動詞ノスを表わすのではなく、漢文表記に影響された、いわゆる『指事之詞』の用法であり、ノセタルトコロというほどの意味であると見られる。興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点には、
 経所載宝荘厳〈経(ニ)(に)(ノ)セタル所ノ宝荘厳ノ〉(巻十49)
と訓読した例がある(築島裕『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文篇』東京大学出版会、一九六五年による)」(122頁)とも記されている。
 この第2詔の「所」を「ノセタルトコロというほどの意味」とするのは当たらないと考える。訓み下すと、「是(ここ)を以(もち)て令(のり)の文(ふみ)に載(の)せたるを跡(あと)として」である。意味は、藤原不比等が天皇(文武天皇)に仕えてくれたのは今に始まったことではなく、天武・持統天皇のときからである。藤原鎌足が孝徳天皇に仕えてくれた様が建内宿禰が天皇に仕えたのと同じ事だと詔して大錦冠を授けて増封したことがあった。そういう次第で大宝令の条文に載せてあるのを基準として、禄令に従って食封を授けよう、ということである。大宝令に載っている条文をただ適用する、ということを言っているのではなく、大宝令の条文の成立に、父親の藤原鎌足の事績が関わっていること、だから大宝令にそのような条文を載せた。それと同じように、藤原不比等も仕えてくれた。だから、よく仕えるのと令の条文を適用するのとは一時的な関係ではなく、連続的なスパイラルであると言っている。そのため、そこに続く詔は、

 随令長遠、始今而次々被賜将往物叙止(令(のり)の随(まにま)に長(なが)く遠(とほ)く、今(いま)を始(はじ)めて次々(つぎつぎ)に賜(たま)はり往(ゆ)かむ物(もの)ぞと)

となっている。禄を賜われば、不比等の子もまたよく天皇に仕え、それでまた禄を賜わり、さらにまたその子もまたよく天皇に仕え、を繰り返すであろうから、という意味である。このスパイラルを言いたいとき、「載せたるを」の助詞ヲは、強い意を持った接続助詞である。助詞のヲは感動詞の「諾(を)」に始まるとされ、その意の流れを汲んだ使い方といえる。そして、「令文」に「所載」したのは、藤原鎌足が伝説にいわれる建内宿禰のようによく仕えたことがもととなっている。たまたま「令文」に載っているのではなく、不比等のお父さんの鎌足が原因で「令文」に載せたのである。よって、「ノセタルトコロというほどの意味」ではなく、宣命の訓み方どおり、ノセタルヲと訓まなければならず、他動詞ノスを表したかったために「所」字が冠されているといえる。なお、以上の読み方によって、「跡(あと)」という語が、基準でありつつ先例であることの語義がつかめると思う。
孝謙天皇宣命(正倉院古文書正集第四十四巻(奈良国立博物館編『第五十四回正倉院展目録』同発行、平成14年、68頁)より。)
 さて、日本書紀に見える「所」の例を見てみることにする。古事記同様、「所帯(はかせる)」、「所生(うめらむ)」、「所謂・所云(いはゆる)」のような助動詞の用法(「所」は連体修飾格を形成する)も多く、「所以・所由(ゆゑ)」とヤマトコトバ一語に相当する例もある。「所由」のような字面から、ヨンドコロなる漢文訓読語があるが、それが上代にヨルトコロなどと言われていたのかどうか、にわかには信じがたいため、ここに一席設けようとしている。まず、築島先生の指摘される、「~コト」を表す「所」の好材料として、筆者は、日本書紀における「所」+発語に関する動詞、の例をいくつか見ることにする。

 猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、(随猨田彦神所乞、)(神代紀第九段一書第一)
 今、汝(いまし)が所言(まをすこと)を聞くに、深く其の理(ことわり)有り。(今者聞汝所言、深有其理。)(神代紀第九段一書第二)
 故、天孫(あめみま)、鰐(わに)の所言(まをし)の随(まにま)に留り居(ま)して、相待つこと已に八日なり。(故、天孫随鰐所言留居、相待已八日矣。)(神代紀第十段一書第四)
 狭野(さの)と所称(まを)すは、是れ年(みとし)少(わか)くまします時の号(みな)なり。(所-称狭野者、是年少時之号也。)(神代紀第十一段一書第一)
 事(こと)辞(まをしさ)る所(ところ)無し。(事無辞。)(神武前紀戊午年八月条)
 日(ひる)に夜に懐悒(いきどほ)りて、え訴言(まを)すまじ。(日夜懐悒、無訴言。)(垂仁紀五年十月条)
 川上梟帥(かはかみのたける)叩頭(の)みて曰(まを)さく、「且(しばし)待ちたまへ。吾(やつかれ)有所言(ものもを)さむ」とまをす。(川上梟帥叩頭曰、且待之。吾有所言。)(景行紀二十七年十二月条)
 悉(ふつく)に所談(ものがたりこと)を聞きつ。(悉聞所談。)(雄略前紀安康三年八月条)
 此れを見る者(ひと)、咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(見此者、咸言、如卿所一レ噵。)(雄略紀元年三月条)
 遂に国に逃げ入りて、其の所語(かたらひ)を説く。(遂逃-入国、説其所語。)(雄略紀八年二月条)
 鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言ふ所(ところ)を知れり。(鹿父曰、諾。即知言矣。)(仁賢紀六年是秋条)
 并せて任那(みまな)に在る近江毛野臣(あふみのけなのおみ)に詔(みことのり)すらく、「奏(まを)す所(ところ)を推(たづ)ね問ひて、相疑ふことを和解(あまな)はしめよ」とのたまふ。(并詔任那近江毛野臣、推-問所一レ奏、和-解相疑。」(継体紀二十三年四月是月条)
 日本(やまと)の天皇(すめらみこと)の詔(のたま)ふ所(ところ)は、全(もは)ら任那(みまな)を復(かへ)し建てよといふを以てせり。(日本天皇所詔者、全以-建任那。)(欽明紀二年四月条A)
 別(こと)に汝(いまし)の噵(い)ふならく、卓淳(とくじゅ)等の禍(わざはひ)を致さむことを恐るといふは、……。(別汝所噵、恐卓淳等禍、……。(欽明紀二年四月B)
 是れ天皇の為(みため)に必ず褒め讃(あ)げられ、汝(いまし)の身のために賞禄(たまひもの)せられむ。(是為天皇必褒讃、汝身所当賞禄。)(欽明紀二年七月条)
 乃(すなは)ち追(め)して天皇の宣(のたま)ふ所を問はしむ。(乃追遣天皇所一レ宣。)(欽明紀五年二月条)
 ……的臣(いくはのおみ)等の新羅に往来(かよ)ふに由りて、方(まさ)に耕種(なりはひ)すること得たるは、朕(われ)曾(いむさき)より聞きし所なり。……(……由的臣等往-来新羅、方得耕種、朕所曾聞。……)(欽明紀五年三月条)
 ……日本(やまと)より還りて曰へらく、奏(まを)す所(ところ)の河内直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都等(まつら)が事は、報勅(かへりみことのり)無しといへりといふ。(還日本曰、所奏河内直・移那斯・麻都等事、無報勅也。)(欽明紀五年十月条)
 請(まを)す所の兵士(いくさびと)(所請兵士)……請す所の軍(いくさ)(所請軍)(欽明紀五年十一月条・十四年六月条)
 乞ふ所の救軍(すくひのいくさ)(所乞救軍)……乞ふ所の救兵(すくひのいくさ)(所乞救兵)……乞ふ所の軍(いくさ)(所乞軍)(欽明紀九年正月条・十年六月条)
 大王(きみ)の述べたまふ所の三つの策(はかりごと)、亦愚(わ)が情(こころ)に協(かな)へり。(大王所述三策、亦協愚情而已。)(欽明紀五年十一月条)
 仏の、我が法(のり)は東(ひむかし)に流(つたは)らむ、と記(のたま)へるを果すなり。(果仏所一レ我法東流。)(欽明紀十三年十月条)
 王(こきし)の須(もち)ゐむ随(まま)ならむ。(随王所一レ須。)(欽明紀十四年六月)
 大舎(ださ)、国に還りて、其の言ひし所を告ぐ。(大舎還国、告其所一レ言。)(欽明紀二十二年是歳条)
 此の犬、世に希聞(めづら)しき所なり。(此犬世所希聞。)(崇峻前紀用明二年七月)
 群臣(まへつきみたち)奏(まを)して言(まを)さく、「任那の官家(みやけ)を建つべきこと、皆(みな)陛下(きみ)の詔したまふ所(ところ)に同じ」とまをす。(群臣奏言、可任那官家、皆同陛下所一レ詔。)(崇峻紀四年八月条)
 天皇、猪(ゐ)を指(ゆびさ)して詔して曰はく、「何(いづれ)の時にか此の猪の頸を断(き)るが如く、朕が嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人を断らむ」とのたまふ。……蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(天皇指猪詔曰、何時如此猪之頸、断朕所嫌之人。……蘇我馬子宿禰、聞天皇所一レ詔、恐於己。)(崇峻紀五年十月条)
 ……然るに、今し群卿(まへつきみたち)の噵(い)ふ所(ところ)の天皇(すめらみこと)の遺命(のちのおほみこと)は、少少(すこ)し我(おのれ)の聆(き)きし所(ところ)に違(たが)へり。……(然、今群卿所噵天皇遺命者、少少違我之所一レ聆。)(舒明前紀推古三十六年九月条)
 卿(いまし)が噵(い)ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ずや然らむ。(如卿所一レ噵、其勝必然。)(皇極紀二年十一月条)
 舎人(とねり)、便ち語らふ所を以て、皇子(みこ)に陳(まを)す。(舎人、便以語、陳於皇子。)(皇極紀三年正月条)
 果して言ふ所(ところ)の如くに、治めて差(い)えずといふこと無し。(果如言、治無差。)(皇極紀四年四月条)
 若し其の伴造(とものみやつこ)・尊長(ひとごのかみ)、訴ふる所を審(あきら)かにせずして牒(ふみ)を収め匱(ひつ)に納(い)れば、其の罪を以て罪せむ。(若其伴造・尊長、不訴収牒納匱、以其罪々之。)(孝徳紀大化元年八月条)
 ……臣(やつかれ)、即ち恭(つつし)みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく、……。(臣、即恭承詔、奉答而曰、……。)(孝徳紀大化二年三月条)
 ……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当-解此所一レ宣。)(孝徳紀大化二年八月条)(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の五

2016年05月08日 | 論文
承前
(注1)1字目は「台」で「治」の省画字、5・6・7・56字目は削れていて見えず、36字目は「六」または「九」か、43字目は見えるようで見えず見えないようで見えるような字、70字目は「和」か「加」かとされる。
(注2)列島に鉄製鋳造釜は根づかなかった。土器の長甕を支脚にのせて立て、隙間を粘土で塞いで固めてしまった。そこは常に湯が沸いており、水が追加されながら甑を載せて蒸し料理が行われた。鉄の釜は中世に至るまでかなりの間、一部寺院などを除いて広範には用いられなかった。文化の違いであった。
五綴鉢(ごてつのはち)(鉄製鍛造、奈良時代、8世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
(注3)「讞」という字は聖徳太子の憲法十七条の第五条に、コトワリマウスとある。礼記・文王世子に、「獄成れば、有司(いうし)、公に讞(げち)す」の鄭注に、「讞 之れ言ひ白す也」、説文に、「讞 罪を議る也」とある。訴訟を裁決するの意である。
(注4)白川静、前掲『字通』に、「于」は「象形」とし、「字形は、曲がった形を作るためのそえ木。また刃の長い曲刀の形」(47頁)とある。説文には、「于 於(ああ)也。气の舒(おもむ)ろに♯(一の下に丂)(まが)れるに象る。丂(かう)に从ひ、一に从ふ。一は其の气の平らかなる也。凡そ于の属、皆、于に从ふ」とある。食べ過ぎてもう嫌だと横を向いてゲップをしている様子については、本稿の終わりのほうで触れている。
 なお、狩谷★(木偏に夜)斎は箋注倭名抄で、「戟 楊雄方言云、戟〈几劇反、保古〉或謂之于、或謂之戈〈古禾反〉」とある「于(ウ)」字を「干(カン)」と見ている。箋注に、「方言云、楚謂戟為孑、此干当孑然諸本及伊呂波字類抄皆作干、按干即盾、非此用、蓋源君所見方言、写者以干戈経典熟用字、又孑干字形相近、誤干戈一物、遂改孑為干、源君襲之也、源君所見若是、孑字必当其音、而此無音則知干字非後人伝写本書者之誤、故今不径改、而弁其誤」としている。林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』(勉誠出版、平成14年、269頁)でも「干」と見ている。
高松宮本和名抄より(『倭名類聚抄―国立歴史民俗博物館貴重典籍叢書 文学篇 第二十二巻 辞書―』臨川書店、1999年、251頁より)
 戟の活用として、虎退治もあげられる。追記しておく。
画像石(中国山東省孝堂山下石祠、後漢、1~2世紀、東博展示品)より
 また、戟によく似た斧・鉞の用途は、木こり、薪割りである。塩を焼くためには大量の薪が必要である。(注16)もあわせて参照されたい。
大原御幸図屏風(長谷川久蔵(1568~93)筆、紙本金地着色、安土桃山時代、16世紀、東博展示品)より
(注5)石村真一『桶・樽Ⅱ』(法政大学出版局、1997年)に、「大桶の底用定規」(286頁)、「桶用定規」・「型板」(290頁)などとあるものもL字状の板になっている。ヨーロッパではコンパスが用いられているが、本邦では塑型にあてがわれて作られたらしく記されている。規(ぶんまわし)は使われずに矩(さしがね)が用いられたということで正しいのであろうか。誰のさしがねでやっているんだ、といった形容に使われるように、誰かの回し者という悪いイメージが、曲がれるもの、鎌には付いて回っている。そういった理解で構わないのか、ご存知の方、お教えください。
(注6)稲荷山古墳出土鉄剣銘文には、「七月中」とある。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣は、表に「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」、裏に「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」と判読されている。「中」については、岸俊男『日本古代文物の研究』(塙書房、昭和63年)に、秦代の竹簡に「四月中」、漢代の木簡に「七月中」、新羅の銀合杅に「三月中」、石碑に「九月中」、高句麗の碑文に「五月中」などとさまざまな例をあげ、小川環樹先生のアルタイ語の処格・与格の後置詞を表わす代わりに書かれたとする考えを否定されている。そして、「…月中」は「…月じゅう」の意味ではなく、「…月に」という時格を表わす用法で、「わが国の『中』字の用法は、朝鮮三国から渡来した人々が、その才をもって文筆の業に起用され、自国の文字遣いを反映させつつ撰したものと思われる」(216頁)とされている。藤本幸夫「古代朝鮮の言語と文字文化」岸俊男編『ことばと文字 日本の古代 第14巻』(中央公論社、1988年)には、百済の例のなきことを倭の例から補おうとまでされている。
 そういった結果、小学館の新全集本日本書紀①頭注に、「古訓ナカノトヲカ(中旬の意)は誤り。『~月中』は『~月というその月のうちで』の意を表す中国の俗語的用法。中国出土秦代竹簡や『史記』『漢書』『三国志』などまれに例がある。日本では稲荷山古墳出土鉄剣銘の『七月中』ほか二例。紀ではほかに応神紀に一例」(451頁)とされてしまっている。「七月中(ふみつきのなかのとをか)」(神功紀四十六年三月条)、「九月中(ながつきのなかのとをか)」(応神紀十三年九月条)とある。中旬の11日~20日まで、the middle ten days of a month を指している。「四月上旬(うづきのかみのとをか)」(神功摂政前紀仲哀九年四月条)という表記もある。ヤマトコトバの表記として「…月中」を「…月ノナカノトヲカ」と訓み慣わされるには訳がある。(訳がないのに古訓は生じない。突っ込まれたら恥ずかしいではないか。)
 旧暦だから月の満ち欠けによっている。神功紀の例は、百済人が卓淳国へやって来て、日本への海路を尋ねられたとき、海路は遠く、波浪は険しいから大船が必要だと答えたところ、大船を用意して出直してくると言って帰って行ったという。つまり、遠路はるばる船で来ている。基本的に昼間、航行するのであろうが、天候によっては夜も航行したのであろう。夜、月明かりのもとで沿岸を進むためには、ある程度の明るさが確保できる満月を中心とした10日間を選ぶのはきわめて合理的である。応神紀の例も、髪長媛が日向から来たときのことである。船に乗ってきたのであろう。続く割注に「一云」の伝があり、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)が髪長媛を貢上しに数十艘の小船で瀬戸内海を来たことが記されている。現代の“研究”は、古訓の知恵を顧みないことで得意になっている。
 江田船山古墳出土大刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘に、「八月中」、「七月中」とあるのも、ナカノトヲカ(中の十日)の意であろう。晴れていれば月(moon)明かりによって象嵌を識別しやすくなる。太陽光では光が強すぎてまぶしく作業にならない。電気はない。窓ガラスもない。灯明では光が一定しなし、散乱光では一目瞭然に見極めることができない。かなう光の条件は、明るい月のもとである。金属面を反射させて象嵌の輝きを確かめた。仕事は夜行われた。そして、江田船山古墳出土大刀の場合、「八月中」は、羽釜の羽が尽きて竈に落ちたことを表したから、竈のことを鍛冶屋の窯のことと見立ててその「中」で焼き直されたという意も含意しているものと思われる。巧みで知恵ある表現に敬意を表したい。
江田船山銀象嵌有銘大刀(東博展示品。見えますか? 作れますか? 作りたいですか?)
(注7)佐藤長門「有銘刀剣の下賜・顕彰」平川南・沖森卓也・栄原永遠男・山中章編『文字と古代日本1―支配と文字―』(吉川弘文館、2004年)に、「[川口勝康]の下賜説に対しては、すでに亀井正道によって、江田船山古墳の副葬品には『治天下』銘大刀と同一作者・同一工房によって製作されたと考えられる直刀が二口ふくまれており、この大刀を下賜刀とするなら二口の直刀も同時に移動・副葬されたとみなければならず、下賜説にはなお証明すべきいくつかの問題があるとの疑問が提示されている〔亀井―一九七九〕。しかし、たとえ『治天下』銘大刀と直刀二口が同時に製作・移動したものであったとしても、そのことがどうして下賜の否定につながるのか理解できず、また川口も有銘刀剣のみが下賜刀であると主張しているわけではないことからすれば、あまり有効な批判であるとは思われない。むしろ川口説を批判するのであれば、この大刀の銘文解釈に立ち返ることこそ肝要であろうと思われる」(34頁)とある。10年以上前のことである。筆者には、亀井先生の論文にそのような趣旨のことが書かれてあるのか読解できなかった。あるいは、川口先生の下賜説に対して反論する人がいて、亀井先生のこの論文を持ち出したため、佐藤先生が川口先生を擁護するために、今読むと訳のわからない論証が行われているものであろうか。筆者は、佐藤先生が「肝要」とされる「銘文解釈」しか行っていない。亀井先生のすぐれた鑑識眼は、「三寸」をミキダニシテと訓むことを証明していると考えている。大刀が下賜されたものであるかどうかについては、正確な「銘文解釈」の上でしか議論しても始まらないことと考える。
(注8)三省堂の時代別国語大辞典上代編では、日本国語大辞典第二版に①としてまとめられている、「十分に。ねんごろに。」と「巧妙に。じょうずに。」を分けている。後者の例として、「我が命の 長く欲しけく 偽りを 好(よく)する人を 執(とら)ふばかりを」(万2943)をあげている。十分に、ねんごろに、一生懸命にしたからといって、うまいこといくとは限らないから、巧妙に、上手に、という語釈を別立てにするのは、一理あることである。その場合、ヨクという副詞の意にずる賢さ、悪辣さを秘める結果につながる。ヨクがアシク、ワルクへと向かっていく。ヤマトコトバの原義からしてすでに反義語に結びつくところは、言葉というものの奥深さを示すものであり、とても興味深い。
(注9)鎌が曲がれるもの、刀が真っ直ぐのものというテーマについては、神武記、熊野において、大きな熊に悩まされる話として逸話化されている。詳細は、本ブログ「神武記の『大熊髪』について 其の一」以下を参照されたい。
ツキノワグマの首の鎌形(上野動物園のおみやげのぬいぐるみ)
(注10)4字目の「獲」については、草冠のない異体字とみる説が有力ながら、亀井、前掲論文に、隹とするには縦画を欠いているように見えるので、「α」(獣偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)とあるように見えるとする。しかし、福山敏男の「蝮」字の獣偏化説のようにとるには、下部の又との釣り合いがとれない。
「獲」王僧墓誌(東魏・天平三年(536)刻、『石刻史料新編第三輯(三)漢魏南北朝墓誌集釈(上)』新文豊出版公司より)
 似た例を探したが、管見にて上の例しか見つからなかった。東野、前掲書、2004年に、「異体字の場合、時代が下る例であっても、その発生が新しいとはいえず、傍証とすべきである。あるいは象嵌の省略ともみられよう。また隹の横画が三本の異体は、古くから例がある。この文字は『獲』の異体字と断定してよいであろう」(98頁)とする説には同意できない。東野先生があげられている引用の、藤沢一夫先生のご指摘による日本書紀巻十四の古写本中に縦画のない形の「獲」の字は、次のものかと思われる。同巻中の他の4例も示す。
「獲」(『宮内庁書陵部本影印集成2 日本書紀二』八木書店、2006年、20頁より)
(左から同上書、19頁、24頁、77頁、78頁、いちばん右は、京都国立博物館編『国宝岩崎本日本書紀』勉誠出版、2013年、77頁より)
 当該文字に関しては、書陵部本では、「隹」の左縦画を伸ばし、中軸縦画から「又」の左払いへと続ける字で、「又」の横画は記さない。その中軸縦画は、筆が浮いてかすれているに過ぎない。他の4例も含めて見れば、草冠の位置が全体を覆うか旁だけを覆うか、また、草冠の三画目の左払いが獣偏の一画目に続くこともある。「隹」部分の中軸縦画から「又」の左払いへと続ける際、上から始まるか途中(「隹」の横画の2本目ぐらい)から始めるかといった違いはあるが、中軸縦画は有るものとして筆記されている。筆記者の意識に縦画が無いものとしては筆記されていない。しかも、草冠も有る。「傍証」とはならない例と考える。そして、岩崎本のように、嫌に横画数が少なくても「獲」の字としてためらわれていない。大刀銘の「α」以上に横画を省いている。紙本墨書で技術的に難しいわけではない。“傍証”とするのに気づかうのは、縦画、横画の本数よりも、全体的なバランス、“字体”であるように思われる。似ているという印象を受けない。
(注11)「問。書字不美読。其由如何。答。師説、昔新羅所上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲地而踏。自其後、訓云文美也。今案、蒼頡見鳥踏地而所往之跡、作文字。不美云訓、依此而起歟。」(京都大学附属図書館所蔵平松文庫『釈日本紀』
(注12)額縁がなければそれが絵であるということがわからない。絵を描くことと額縁を作ることを同時作業で行ってしまったのが、江田船山古墳出土の大刀銘であったり、天寿国繍帳銘であったりする。天寿国繍帳銘については、本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の一」以下を参照されたい。自己言及的に言葉を紡いでいった構想、構造は、江田船山古墳出土の大刀銘と一致している。人間の精神の有り立ちを見るうえで、とても興味深い事案である。
(注13)田辺昭三『陶村古窯址群Ⅰ』(平安学園考古学クラブ、1966年)によるもので、「陶器山15型式」(『須恵器大成』角川書店、1981年)ともされており、中村浩『和泉陶邑窯の歴史的研究』(芙蓉書房出版、2001年)に「Ⅱ型式1段階」、山田邦和「須恵器編年①西日本」一瀬和夫・福永慎哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学1―古墳時代史の枠組み―』(同成社、2011年)に「陶器山15窯式」とされている。
(注14)本ブログ「隋書・倭国伝『日出処天子致書日没処天子無恙云々』を読む」を参照されたい。
(注15)森博達「稲荷山鉄剣銘とアクセント」小川良祐・狩野久・吉村武彦編『ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳―』山川出版社、2003年。アクセントまで引き写す識字能力が仮にあったとしたら、筆者が上述したようなヤマトコトバの表記能力などあって当たり前である。なにしろ母語である。
(注16)土器製塩については、考古学のさまざまな研究が行われているので当たられたい。筆者は、古代の塩づくりの技術について、単一のやり方へと収斂させようとする研究姿勢に多少の疑問を感じる。結果的にできればいいわけで、海沿いの家庭では塩水自体を調味料に汁を作ることもあったのではないか。それはそれで言葉の上ではシホ(塩)なのではないか、などと憶測している。税金にしたら生産効率を求めることが促進される。漁師が船上で作るうしお汁に、塩を持参したとは考えにくいのである。言葉の上では、シホ(塩)、ウシホ(潮、ウミ(海)+シホ(塩)の約か)は同系で、キタシ(堅塩)は新たなる造語のように感じられる。正倉院文書で、「顆」と数えることがあるのは、塊になっていたからであろう。語学的にいって、シホ→キタシには、製塩技術に何らかの変化があったらしいことを窺わせている。「藻塩(もしほ)」(万935、常陸風土記行方郡条)法には諸説あるが、前段階の塩析出法であったようである。考古学研究が進むことを期待したい。
 近藤義郎『土器製塩の研究』(青木書店、1984年)に、「越前茂原の塩焼きと焼き塩―三木謙三翁の話―」という昔話が付されている。興味のある方は参照されたい。筆者が注目するのは、その地が継体天皇の出身地、越前で、米ヶ脇遺跡に土器製塩の遺構がある点である。塩田法発明以降も民俗的に塩焼きが営まれていた由来は、あるいは、継体天皇の故事ゆえからではなかろうか。
 武烈紀に、「詛(とご)ふ時に唯、角鹿海(つぬがのうみ)の塩(うしほ)をのみ忘れて詛はず。是に由りて角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす」(武烈即位前紀仁賢十一年十一月条)とある個所、岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「角鹿は敦賀(つるが)。敦賀の塩だけが特に天皇御料となることは、後世に見当たらない」(ワイド場岩波文庫『日本書紀(三)』153頁)とある。「角鹿」は越の国にある。継体天皇の故事と関わりがあるように思われてならない。
 「石川県埋蔵文化財情報」第23号(石川県埋蔵文化財センター、2010年3月)に、「日本海域の土器製塩」が特集されている。さて、古代の人たちは、北陸地方~若狭湾沿岸にかけての塩のことを、どのように思っていたか、キタシホ(北塩、堅塩(キタシ)の代表?)であろうか。支脚のことは何と呼んでいたか、例えば、コシ(腰&層&輿)であろうか。製塩土器のことは、例えば、シホカメ(塩甕)か。貯蔵用と同じになるのであろうか。本邦の竃では、カメ(甕)が支脚の上に載せられ、粘土で隙間を埋めて据え付けられており、湯を常時沸かして甑を被せて蒸し料理をしていたとされる。甕が洗えない作りである。外山政子「三ッ寺Ⅱ遺跡のカマドと煮炊」『群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調査報告書第93集 三ッ寺Ⅱ遺跡―上越新幹線関係埋蔵文化財発掘調査報告第13集―』同事業団発行、平成3年)に、「いわば『はめころし』の状態」(176頁)と形容されている。ときどき壊していた形跡もあるとされる。筆者はここに、電気ポット内の様子を思い浮かべる。塩の析出である。(水道水ではカルシウム分が多いようである。洗浄にはクエン酸が効果的なようである。)つまり、火にかけられる甕の甕たる本質とは、塩の析出にあるのではないか。本文に述べたとおり、竃に釜ではなく甕を採用した点は、製塩土器と共通するところがあるように感じられる。想像力をたくましくして検討されるべき課題は多い。
(注17)古代の塩釜の記録としては、「熬塩鉄釜」(筑前国観世音寺資材帳、和銅二年(709))、「煎塩鉄釜」(長門国正税帳、天平九年(727))、「塩釜」(周防国正税帳、天平十年(738))があげられている。生塩を鉄板の上で煎って脱水したようである。ただし、類例が少なく、比較的短期間しか用いられていない点を考慮すれば、当時の人々において、釜文化は甕文化に劣るとの評価もあったかもしれない。
(注18)本ブログ「稲荷山古墳出土鉄剣銘を読む」を参照されたい。
(注19)継体紀の最後には、継体天皇が亡くなって年次について、割注形式で「或本(あるふみ)」の異伝として二十八年(534)の薨去を伝えている。百済本紀によって、「太歳辛亥の三月」「是の月」に「又聞く」こととして、継体二十五年に亡くなったことになっている。紀では、「二月」になっている。そして、「辛亥の歳は、二十五年に当る。後に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知らむ」とある。何を意味するか、筆者にはわからない。歴史学は形而上学に遊ばずに「勘校」えてほしい。
(注20)「酷毒流於民庶」(雄略紀二十三年八月条)の「流」字、古訓に「ホトコリナム」とあることについて、神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」に、他の「被」、「連延」、「延」ともども「諸訓は、その引申義なること殆ど論證を要せざるべし」(『神田喜一郎全集Ⅱ』同朋舎出版、昭和58年、370頁)とある。
(注21)平安文学に、「来し方」と記される事柄を、キシカタと訓めば時間的に過ぎ去った過去を、コシカタなら空間的に通り過ぎて来た場所のことと区別されていたが、平安末期に不分明になり、過去のこともコシカタというようになったと解説されている。過去回想の助動詞キがカ変動詞「来(く)」を受ける場合、終止形のキは付かず、連体形のシ、已然形のシカが、「来」の未然形のコないし連用形のキに付くとされる。「きし方行く末」(竹取物語・蓬莱の玉の枝)という例がある。ところが、管見では、万葉集には、仮名書きの例から、「来(こ)し」、「来(こ)しか」と読み慣わされており、「来(き)し」、「来(き)しか」の例は見られない。大伴家持の万3957番歌に、「出でて来(こ)し」、「来(こ)し日の極み」とあり、用字は「許(こ、コは乙類)」で、時間、場所の両用に用いられている。和文語「来(く)」と、漢文訓読語「来(く)る」、「来(きた)る」との関係から、その謎は解かれるかもしれない。次注も参照されたい。
(注22)「獲加多支鹵」の義訓によって、キタシ(堅塩)の一義に、キタシ(来たし)と読むことがわかった。「来(きた)す」は、来させる、もたらす、の意で、「来(きた)る」の他動詞形である。「来(きた)る」は、キ(来)+イタル(至)の約とされ、漢文訓読系で使われ、平安時代、女流文学には「来(く)」を用いた。ところが、万葉集に、「来(きた)る」は20例を超える。持統天皇御製の、「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり 天の香具山」(万28)は早い例である。万葉集に登場する語が、どうして女流文学に排除されることになったのか、筆者は不勉強で納得できていない。言葉の歴史を文化史として捉え返せていない。
 本稿では、「安也」をイヅクニカと義訓で読むとする点もあげた。これら漢文訓読体に特有に見られる言葉が、偶然の一致や、筆者の思い過ごしによるものでなく、継体二十五年(531)からすでに用いられていたとするなら、ヤマトコトバの歴史は、今日考えられているほど“新しい”ものではなく、漢文・漢語との接触混淆を伴いながら程よく醸成されていたことを窺わせて興味深い。それは、ピジン・クレオールでも、カタカナ語乱発でも、和製英語短縮化のいずれの状況とも非なるものである。音→音への交雑ではなく、文字(「書(ふみ)」)→言葉への交換過程での発明に依った語である。言葉とはもともと音であるが、その音を理解するために言葉があるというからくりが、きちんとからくりとして成立している、それが上代のヤマトコトバなのである。母語以外の他言語を返り点などを施しながら和訓語などを生じさせつつ母語並みに扱ってしまい、尽くして余りある(なぞなぞとして楽しめる)ことは、他言語においてどの程度まであり得たのであろうか。language 能力にもいろいろあることは言うまでもないながら、存外に深刻に受け止められていない。キタシが、来たし、北し、堅塩、の意味を兼ねていて、それらが互いに意味的に絡まるように“作られている”といった状況が、他の言語Aにおいて、それ以外の言語Bからの影響を受けながらも、混ぜっ返してなるほどと納得できるように、A言語内で言葉を練り上げてしまうようなことが実例としてあるのであろうか。A言語内でと断ったのは、キタシ(来たし、北し、堅塩)と言って、中国大陸や朝鮮半島の人にはどの意味も通じないからである。混乱を避けるためにさらに注すると、「謎」が問題なのではなく、なぞなぞが問題なのである。
 筆者は、オリジナルのヤマトコトバと、漢文訓読を含めた漢字文化の受容の際に生じたベストマッチング、つまり、高度ななぞなぞ文化について考究している。なぞなぞ、頓智が、既存のヤマトコトバを変革して行くうちに生じさせようとした意図的な創意工夫に重きを置くものか、はじめからヤマトコトバのうちにオリジナリティとして発揮されていたものなのか、およそ勘違いの別世界であるため、同定すべき位置を見出せていない。例えば、枕詞“とは何か”について、明瞭な答えが見つからないのである。枕詞とは言語遊戯であると定義できたとして、なぜそのようなことをするに至ったのか、いまだに「何やってんの?」としか言い得ない。個々の枕詞の“語源”について考究されることはあっても、誰一人答えようと取り組まれていない。本稿では、それが6世紀前半に遡ると知り、驚きを禁じ得ないのである。言語をもって文明たらんとしている上代のヤマトコトバ“とは何か”、謎ではなく、なぞなぞが問題である。
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の四

2016年05月02日 | 論文
(承前)
嗽のような製塩土器(たばこと塩の博物館シオラマ)
 塩が出来あがっていく過程を見ていると、まるで、嗽をしているようである。ヨード水溶液以前、嗽をするのに塩水を使うことがあった。現在の医学的知識でも、健常時は塩水を使った方が良いとされているらしい。ガラガラとあぶくを立てて嗽をするのと、グツグツと塩が煮え上って行くのとはよく似ている。そして、鵜飼の仕方は、鵜の喉の下部に紐をゆるく結い、ペリカン様の喉に獲物を入れはするが飲み込めなくし、その手綱を5~10数本ぐらい鵜匠が操るものである。その様子は、ホドヅラ(百部根)の芋の出来具合とよく似ている。本草和名に、「百部根 欬薬」とある。根を乾燥させてうがい薬にした。名義抄に、「嗽 クチススグ、ウガヒス」、下学集に、「鵜飼 ウガイ、嗽(クチススグ)也」とある。嗽(うがひ、ヒの甲乙未詳)という語は、早くからその語源について、鵜飼(うかひ、ヒは甲類)との関係が取り沙汰されている。鵜が魚をのんでは吐き出すこととの連想を見たようである。そこまでは従来から言われてきたことである。筆者は、百部根が「欬薬」とされている点に注目する。ホドツラの根の、手綱が広がるようになったその先に張り膨らんで塊となっているところに、まるで、喉を膨らませた鵜につけた手綱を、鵜匠が操っているかのような光景を見てとる。鵜も、百部根も、のんでは吐き出すのに長けている。魚を獲るのに鵜を使っている。痰を取るのに百部根を使っている。鵜も百部根も、吐き出させられている。鵜飼に必要とされる技能とは、上手に引き寄せる手綱さばきである。銘文に、「其の統ぶる所を失はず(不失其所統)」と読まれているのは、鵜飼の手綱さばきに似ていて、ホドツラのたくさんの根の先に太った根があり、それを切らないように手繰り寄せられたことを指している。「統(す)ぶ」という語は、一つにすること、まとめることが原義で、支配の意に用いられるのは展開形のように感じられる。糸偏の字が好まれて当てられ、また、「すべて(凡・都)」という副詞化した語に、政治的な統一の義を感じ取れない。統一した領地を失わない意としか解さないのでは、読みが浅いという誹りを受けねばならないだろう。

 海神(わたつみ)、是に、海の魚(いをども)を統(す)べ集(つど)へて、其の鉤(ち)を覓(と)め問ふ。(神代紀第十段一書第一)
 機衡(よろどのまつりごと)を綢繆(すべをさ)めたまひて、神祇(かみつかみくにつかみ)を礼祭(ゐやま)ひたまふ。(垂仁紀二十五年二月条)
 皇太子(ひつぎのみこ)、乃ち皇祖母尊(すめみおやのみこと)、間人皇后(はしひとのきさき)を率(ゐてまつ)り、并(あはせ)て皇弟等(すめいろどたち)を率(すべ)て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に居(ま)します。(孝徳紀白雉四年是歳条)

 万葉集には、越中守大伴家持の歌が載る。

 毎年(としのは)に 鮎し走らば 辟田河(さきたがは) 鵜(う)八頭(やつ)潜(かづ)けて 河瀬尋ねむ(万4158)

 紐のような根を手繰り寄せて天皇に据えたというのが、継体天皇即位のお話であった。何羽もの鵜が同時に鵜飼にかり出されて喉を膨らませるのと、何甕もの製塩土器が一つの炉(火処)に焚かれて塩の泡を立てるのと、何本もの百部根が一株に膨れるのとは、類推されるに足るだけの共通項を持っていたといえる。
 結果、釜文化 v.s. 甕文化の戦いが、筑紫国造磐井の乱であったということになる。勝利した側は、製塩土器に由来した甕文化を竈に融合させ、普及させた。そのトップに君臨すべく、ヲホド大王は越(こし、コは甲類)の国から連れて来られた。それが鹹水を濾(こ)す(コの甲乙未詳)ことと関係し、中古に「塩ごし」という語になったのか、上代に「藻塩」とあるのが海藻を積み重ねて上から海水を注いで鹹水を得て、それを製塩土器で煮詰めて塩づくりをしたと考えられていることと関係があることなのか、不明である。濾過する意味のコス(濾・漉)という言葉が上代に見られないようである。また、中古の「塩ごしの樋」の語から、越す筧、向こう側へ潮水を遣り水として送ることを表すとする説も根強い。しかし、それを上代に遡らせるとすると、樋(ひ、ヒは乙類)と火(ひ、ヒは乙類)の洒落をもってすると仮定して、火を越(こ)す(コは甲類)ことになりはするが、それを表わす具象的な遺物は古代に見られない。むしろ、応神紀三十一年条の例から、塩を焼くこと(堅塩づくり)とホドコシ(施、ド・コは乙類)という語に関連を見てとっているようである。筆者の考えは後述する。
 「α加多支鹵大王」とは、取り来たし大王、得難き大王のことを暗示している。継体天皇は、ほとんど拉致されて連れて来られた。その際には、厳重な警備が求められた。威儀を高めなければ正統性も確保されないから、武装した大行列で迎えに行くことになる。

 臣連等を遣(まだ)して、節(しるし)を持ちて法駕(みこし)を備へて、[越前国坂井郡]三国(みくに)に迎へ奉る。兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駆(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月条)

 礼節を守って誠実に熱心に天皇になってもらおうと説くが、疑問をいだき知人に助言を求め、2泊3日話し合ってようやく大臣や大連の本意がわかったという。自由にのんびり田舎暮らしをしていたのが、急に兵隊さんに囲まれたら、守られているというよりも囚われて窮屈だと感じるのは当り前であろう。自宅に監視カメラを設置すると、自分が監視されているような気分になる。兵隊さんの儀仗の行列は、「鹵簿(みゆきのつら)」(雄略記、天武紀七年四月条)という。「前駆警蹕」とは、鹵簿を整えることである。塩(鹽)の製造量を帳簿につけたり、荷札にして都へ貢物として送ることについて、鹵簿という語が関連させられて考えられていたかはわからない。
 はるばる都からやって来たのは、味方かどうか知れないのである。稲荷山古墳鉄剣銘によって補われる3文字の、「加多支」はカタキ(キは甲類)と仮名として訓めた。カタキは堅い意味のほかに、難しい、厳重な、の意がある。そんなに仰々しくしなくても、事を難しくしなくても、都へ行けと言われれば行くことは可能である。けれども、天一坊事件のようになっては困るから、有力豪族側は配慮している訳である。また、敵(仇)(かたき、キは甲類)の意もある。カタキ(敵・仇)のキは人の意で、オミナ(嫗)の対とされるオキナ(翁)のキのように、男性を表わすとされる。イザナミとイザナキの対でも、キ(甲類)は男の人を表わす(注18)。片+キの意である。確かに、突然現れた軍勢は、もとを辿れば先祖を追いやった豪族の末裔だから、親の親の親の親の親の仇のような存在に当たる。男大迹王は、「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)、彦主人王(ひこうしのおほきみ)の子(みこ)」(継体即位前紀)である。
 以上いろいろ検討した結果、「獲加多支鹵大王」とは、カタキを鹵獲(「獲鹵」)せし大王、堅塩(きたし=来たし)を獲し大王のことから、ヲホドノオホキミ(男大迹王)、継体天皇のことを指すと知れた。ひげが切れないように芋を掘り取った。ホドは「百部」と書く芋である。「部(べ)」は、大化改新前に、朝廷や豪族に仕えたさまざまな職能集団を指す。「部曲(かきべ)」などともいう。それが百も連なるようなことだと、漢方薬にする百部根という字面は語っている。部の民を百も連ねることができるのは、天皇ぐらいであろう。そして、ヲホドだから小さな塊状の芋である。それを“象徴天皇”を失ったヤマト朝廷側は手繰り寄せた。小さな手がかりをつかんで、宮都へ連れ帰った。裏返せば、皇統の血筋とは、ホドツラ(百部根)が地中で根を広げてそれぞれ張り膨らみ太っているように、実は案外どこにでも隠れて広まっているということになる。
 継体天皇の都した場所は、

 [元年(507)正月……]樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)りたまふ。…河内国交野郡葛葉郷(大阪府枚方市楠葉付近)
 五年(511)の冬十月に、都を山背の筒城(つつき)に遷す。…山城国綴喜郡(京都府京田辺市多々羅都谷付近)
 十二年(518)の春三月……に、遷りて弟国(おとくに)に都す。…山城国乙訓郡(京都府長岡京市今里付近)
 二十年(526)の秋九月……に、遷りて磐余の玉穂に都す。…大和国式上郡(奈良県桜井市池之内付近)

である。稲荷山鉄剣の銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の「斯鬼宮」とは、最後の磐余玉穂宮のことを指すとわかる。磐余は磯城にある。稲荷山古墳出土鉄剣銘が、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と記しているのは、継体20年(526)の遷都以降、没する継体25年(531)までのことである点を明記するものである。そして、稲荷山古墳出土鉄剣銘に「辛亥年」とあるのは、西暦471年ではなく、継体二十五年(531)に当たる(注19)
「和?」(東京国立博物館編、前掲書、図版5より)
「加」史晨碑(『書籍名品叢刊第八五回配本 漢 史晨前後碑』二玄社、1962年)より
 最後に、もう一人、銘文に名が示された「伊太(和)」について考える。「和」ではないかとする字は、「加」とする説もある。これは、「加」であろう。イタカである。イタカとは、通例、板書き、あるいは板書きの略かとされる。居鷹・為多加・異高とも表記される。功徳、善根、供養のために小さな板の卒塔婆に経文、戒名などを書き、流れ灌頂を行って読経をして銭を乞う乞食坊主をいう。この語が古代にさかのぼるとする証拠はない。けれども、卒塔婆のような細長い大刀の嶺に文字を刻むという仕業は、何か特別な行いとして人々の注目に値したことと思われる。七十一番職人歌合には、「穢多」と歌を競い合っている。描かれている「いたか」は覆面をしており、社会から排除された賤民、非人の部類であろう。記されている「いたか」の歌に、「文字はよし見えもみえずも夜めぐるいたかの経の月のそら読」とある。月の光の下で象嵌を施す作業を行っていたとする解釈は、「八月中」のナカノトヲカの解釈において(注6)に述べた。
「いたか」(公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫編『前田育徳会尊経閣文庫所蔵 七十一番職人歌合』勉誠出版、2013年、83頁より)
 そんなイタカの仕事にふさわしい人物が、継体紀に記されている。

 十二月に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)[筑紫国造磐井]のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献りて、死罪(しぬるつみ)贖はむことを求む。(継体紀二十二年十二月条)

 命乞いをしている。乞食僧に等しい。この葛子(コは甲類)という言葉は、葛粉(コは甲類)に同じである。葛の根を何回もさらすことによってデンプンをとり出したものである。葛餅、葛切、葛湯などに用いられているが、労多くして功少ない食材である。古代にはむしろ救荒植物であった。命乞いを意味する。筑紫君であったはずである。ツクシ誰の子、スギナの子、のはずである。いつからクズの子に成り下がり、晒し者になったのか。クズは屑でもある。吉野葛を久助葛といい、久助とはできそこないのことを指している。献納している屯倉の名の、糟屋のカスは滓をも指す。いかにもとってつけたような紀の記事は、人間のくず、かす、と呼ばれるような所業を示唆しているらしく思われる。反乱が鎮圧されたら、一族郎党皆殺しが必定で、所領地を一部差し出して許されるものではない。源頼朝も伊豆へと遠島、義経は鞍馬寺で小坊主になっている。「筑紫君葛子」なる人も、出家した坊主のなかでもさらに命乞いをしているから、イタカと呼ばれるように落ち着いたのではなかろうか。仏門に下ることとは、本来、命を捨てることを意味する。そこで、「作刀者名伊太加書者張安也」となった。(そんなに大昔からイタカがいたか? とする反論に、筆者は甘んじて受けるので、どしどしやられたい。)
四季花鳥図巻 巻上(酒井抱一(1761~1828)筆、絹本着色、江戸時代、文化15年(1818)、東博展示品)
 上に、「書者」の「者」について、②の形式名詞的用法ではないと捉えた。①の提示用法に、書くことは張り安んずることである、の意とした解釈も示した。中世のイタカという職人は、この作刀者にして銘を刻んだ人物をこのように綽名したことに始まるのであろう。そのうえで、③の仮設用法とも解釈される可能性が考えられる。なぜなら、銘を刻まされているイタカ、こと、筑紫葛子は、敗北者側の捕らえられた囚人であるからである。書けと言われて訳も分からず言われるがままに書いたのではなく、屈辱的な文言を刻まされたということではなかろうか。
 「張」は弓を張るように長大にすることをいう。詩経・小雅・吉日に、「既に我が弓を張る(既張我弓)」とあり、張って大きくする意に用いる。張り出して来て大きくなった勢力に、筑紫国造側は滅ぼされた。その名は、ヲホド(「男大迹」)であった。「旡我弖」こと、既に我が弓を張った“吉日”気取りで「弖」の字を使っている物部麁鹿火に敗北した。もともとは、越(こし、コは甲類)の国にいた。一筋のアナスヱを手掛かりに手繰り寄せられたヲホド=ヲ(小)+ホド(塊、ドは乙類)であった。それがあれよあれよという間に勢力を拡大し、版図を広げた。ホドツラ(百部)が蔓延ったというのである。たくさんの塊根を生じたということに準えている。ヤマトコトバに、ホドコス(ド・コは乙類)という。ホドコスは、ホドコルの他動詞形である。広く及ぶようにする、延び広がるようにする、広く行き渡らせる、意であり、延びた先で肥え太って張って大きくなっていることに着眼した語である。上にあげた「則ち[塩を]施して周く諸国に賜ふ」(応神紀三十一年八月条)以外の諸例をあげる。

 夫の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこ)し生う」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 凡て此の三の神、亦能く木種を分布(まきほどこ)す。(神代紀第八段一書第五)
 縦使(たとひ)星川、志を得て、共に国家(くにいへ)を治めば、必ず当に戮辱(はぢ)、臣連に遍くして、酷毒(からきこと)、民庶(おほみたから)に流(ほどこ)りなむ。(雄略紀二十三年八月条)
 馬、野に被(ほどこ)れり。(顕宗紀二年十月条)
 汝是れ微(いや)しと雖も、譬へば小火(いささかなるひ)の山野を焼焚(や)きて、村邑(むらさと)に連延(ほどこ)るが猶し。(欽明紀五年二月条)
 忍壁皇子の宮より失火(みづながれ)延(ほどこ)りて民部省(かきべのつかさ)を焼けり。(天武紀朱鳥元年七月条)
 北戸の間に分張(ほどこ)せり。(遊仙窟)
 妙る宝を貧き人に分ち施(ほどこ)し、……(三宝絵序)
 ☆(肉偏に亰) 張也、脹也、又分脹也、波留(はる)、又布止留(ふとる)、又久佐留(くさる)、又保止去留(ほどこる)(新撰字鏡)

などとある(注20)。名義抄では、措、播、誇、班、宣、広、施、矢、散などにホドコスという訓を与えている。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「トの清濁および甲乙を古い例によって証することはできない。ホドコス・ホドコルは、ハダク(下二段、ただし古い例ではない)・ハダカル(四段、ただし古い例ではない)と対応するのではなかろうか。この推定に立つならば、トは、ア列音との転換が常に行なわれる乙類オ列音だったという想定も可能である」(657頁)とある。神代紀の例は、植物の繁茂の用例で、ホドヅラ(百部)の譬えによく適っている。
 ホドコシのコは乙類である。コシ(越、コは甲類)とは異なる。ホド(塊)が越えていったということではない。コシ(層、コは乙類)と関係する語であろう。五重塔などの屋根と屋根の間のくびれの階層のことをいう。腰(こし、コは乙類)と関係する語かともされている。新撰字鏡に、「層 子恒反、重居也、重也、累也、級也、重屋也、高也、志奈(しな)、又、塔乃己志(たふのこし)也」とある。法隆寺五重塔は、上から瓦葺屋根が五重、その下に板葺でもう一重、裳層(もこし)一枚と呼んでいる。塔の初層は、元来、仏陀の棺を納める場所で、龕(喪輿)(もこし、コは乙類)に当たる。塑像で凸凹に造られるのは、説文にいう「鹵 西方の鹹地也」の光景を再現しているようである。ここに、中古のシホゴシ(塩ごし)と上代のモシホ(藻塩)という語の間に接点を見出すことができる。モ(裳)とはスカートのこと、コシ(層)である。塩焼きは、土器に海水か鹹水を足しながら、薪を足しながら作られる。何層にもわたって塩が結晶化していき、薪の灰も積み重なっていく。助詞のモの意の and also を正確に表すように、製塩土器の内側でも外側でも同じように積み重なりが起こっている。結果、カチカチの堅塩(きたし)が出来上がった。それが到来物となった。キタシシホ=「来(きた)し塩」である。漢文訓読調でなければ、「来(こ)し塩」=コ(カ変動詞「来(く)」の未然形、コは乙類)+シ(過去の助動詞「き」の連体形)+シホ(名詞、塩)である(注21)。層塩(龕塩)(こししほ、コは乙類)なる概念を想定して検討された言葉であろう。かたまりの塩だからホド(塊)というにふさわしく、継体天皇の御名に合致している。
法隆寺五重塔初層北面涅槃像土(塑像、奈良時代(711))
 「伊太加(いたか)」こと、筑紫葛子は銘を刻まされた。第一の意味に、「張」にホドコシの訓を潜められていたのであろう。「男大迹(をほど)」こと、継体天皇というもとは小さな塊は、延び広がって行き渡らせて、あまねく及ぼすほどに蔓延るように増えたのである。三宝絵の例に見えるように、筑紫葛子は憐れと思ってお恵みを与えてほしい、と命乞いをしていることを表わしているようであろう。富の再配分細分化は、富者にとっては微分的にゼロに見えるかもしれないが、貧者にとっては無限大に思えるものである。臨時給付金に、投票行動は左右されるのではないか。そこに、ホドコシという語が展開された経緯がある。
 「安」は本来の位置ではないが、漢文訓読に用いられる助字のイヅクンゾ(イヅクニゾ)、「也」は疑問の助字で、カ・ヤと訓める。つまり、「書者張安也」は、「書ケバホドコシイヅクニカ」と訓める。書けば施しはあると思うかもしれないが、どうしてそのようなことがあろうか、の意である。さらにはまた、ホドコシという語についての駄洒落でもあろう。「書クハホドコシイヅクニカ」である。書いたものは、ホド、つまり、男大迹天皇のことであるが、そのもといた越とは何処の国であろうか、という謎掛けである。なんと、九州にまで遠く覇を唱えている。そのことを顕彰する文章に仕上がっている。最後のわずか3文字によって、冒頭の「獲□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)=男大迹天皇(継体天皇)に始まった銘文内容をまとめ上げているのである。
 紀に「安」を漢文訓読の助辞に訓む例は、偏在的ではあるが例がある。「安(いづく)にぞ欺くべけむ(安可欺乎)」(清寧前紀雄略二十三年八月条)、「安にぞ異(け)なるべけむ(安可異)」(清寧紀三年七月条)、「安にぞ自ら独り軽(かろみ)せむ(安自独軽)」(顕宗即位前紀清寧五年十二月条)、「安にぞ輙(たやす)く疑を生したまひて(安輙生疑)」(雄略紀元年三月条)、「安にぞ能く膝養(ひだしまつ)ること得む(安能得膝養)」(継体前紀)、「安にぞ空爾(むな)しとして答へ慰むること無けむ(安得空爾答慰乎)」(継体紀八年正月条)、「安にぞ率爾(にはか)に使となりて、余(われ)をして儞(い)が前に自伏(したが)はしめむ(安得率爾為使、俾余自伏儞前)」(継体紀二十一年六月条)、「安にぞ輙く改めて隣の国に賜ふこと得む(安得輙改賜隣国)」(継体紀二十三年三月是月条)、「夫婦(いもせ)に配合(あは)せて、安(いづく)にか更に離(さ)くること得む(配合夫婦、安得更離)」(継体紀二十三年三月是月条)、「婦女(めのこ)安にぞ預らむ(婦女安預)」(欽明前紀)、「新羅、安にぞ独り任那を滅さむや(新羅安独滅任那乎)」(欽明紀二年四月条)、「安にぞ君に逆ふることを構へむ(安構於君)」(孝徳紀大化五年三月条)、「安にぞ父に孝(したが)ふることを失はむ(安失於父)」(孝徳紀大化五年三月条)などとある。
 すべて会話体で用いられている。イズクニゾが常訓であるが、継体紀二十三年三月是月条の2例目に、イズクニカと訓んでいる。万葉集に、「いづくにか(何所尓可) 船泊てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」(万58)とある。築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』(東京大学出版会、1963年)に、「訓読では、…カの形と…ゾの形とでは、使用上の区別があるらしい。即ち、『イヅクニカ』『イヅクンカ』『イズコニカ』『イヅコンカ』『イドコンカ』などの、『…カ』を伴つた形は、多くは場所を示すもので、陳述副詞のやうに用ゐられるものは例が少いのであるが、これに対して『イヅクニゾ』『イヅクンゾ』『イヅコンゾ』『イドコンゾ』のやうに、『…ゾ』を伴ふ形には、場所を示す用法は無くて、陳述副詞[『何故に』『どうして』『何としてか』]のやうに用ゐられた例ばかりのやうである」(451頁、漢字の旧字体は新字体に改めたが仮名遣いはそのままとした。)とされている。つまり、銘文に「書者張安也」とあるように「安也」と続けることによって、イヅクニカと「…カ」と訓む指示がなされているらしいのである。なお、イヅクニという言い方は見られない(注22)

(銘文)
 台天下α□□□鹵大王世奉事典曹人名旡我弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(均)刀服此刀者長壽子孫汪々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(加)書者張安也

(釈訓)
 天の下治らしめししα□□□鹵大王(α加多支鹵大王、こと、男大迹大王(をほどのおほきみ))の世(みよ)、典曹(うたへのつかさ)に奉事(つかへまつ)る人の名、旡我弖(キガテ、こと、物部麁鹿火)、八月(はつき)の中(なかのとをか)、大鐵釜(おほきなるしろがねのかま)并びに四尺(よさか)の廷刀(にはのかま)を用ゐ、八十(やそ)たび練り、九十(ここのそ)たび捃(あつ)む。三寸(みきだ)にし上(うへ)、好(よく)刀に均(ととの)ふ。此の刀を服(はか)せる者は、長寿(いのちなが)くして子孫(うみのこ)汪〃(さか)え、□恩(□のみうつくしび)を得る也。其の統(すぶ)る所を失はず。刀を作る者の名、伊太加(イタカ、こと、筑紫葛子)、書(か)くは張りて安(さだ)むる也(書けばホドコシイヅクニカ、書くはホドコシイヅクニカ)。
(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の三

2016年04月25日 | 論文
(承前)
 そこで、この銘文の歴史的事項について次に考える。
 白石太一郎「船山古墳の墓主は誰か」白石太一郎監修、玉名歴史研究会編『東アジアと江田船山古墳』(雄山閣、2002年)に、「この銀象嵌銘を持った江田船山大刀は、須恵器の編年の物差しで申しますと、[田辺昭三氏が]MT15と呼ばれている須恵器の時期のものであるということが想定される。少なくともそれより古いとは考えられないということになるのです。……銀象嵌銘を持った江田船山大刀は、新相の遺物を伴った二番目の被葬者の持ち物であった可能性がきわめて高いということになるわけです」(37頁)とある。田辺昭三先生の須恵器編年グラフにおいて、「MT15」(注13)は西暦520年頃のことかと思われる。
 この科学的鑑識は、現在、「獲□□□鹵大王」(江田船山古墳出土大刀銘)、「獲加多支鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣銘)をワカタケル大王、すなわち、雄略天皇のことであると定説化されている歴史的認識に違和感を覚えさせないだろうか。白石先生ご自身は、稲荷山鉄剣の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」とあるのを、定説化している岸俊男・田中稔・狩野久・他『埼玉稲荷山古墳辛亥銘鉄剣修理報告書』(埼玉県教育委員会、1982年)の解説にあるとおりに考えられている。「辛亥年」は471年、倭王武が宋に使いを送る478年であるから年代がほぼ合うとされている。
 北九州で歴史的にインパクトのある事件といえば、筑紫国造磐井の乱(継体二十一~二十二年(527~528))である。須恵器編年のMT15の時期で当たっている。紀には、

 [継体]天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、[物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の]大連(おほむらじ)に授けて曰はく、「長門より東をば朕(われ)制(かと)らむ。筑紫より西をば汝(いまし)制れ。専(たくめ)賞罰(たまひものつみ)を行へ。頻(しきり)に奏(まを)すことに勿(な)煩(わづら)ひそ」とのたまふ。(継体紀二十一年八月条)

とある。ここに「斧鉞」とあるのが「四尺廷刀」なる戈戟類であろう。上に、東博展示品の漢代の鉄鉞戟を見た。また、「専行賞罰」が刑罰を職とする刑部卿に相当するであろう。江田船山古墳出土の大刀銘にある「奉事典曹人名无利弖」である。それは、物部麁鹿火その人なのではないか。物部氏は、姓氏録や旧事記には、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)から出たとされている。継体記には、「荒甲(あらかひ)」とあるが、紀に「麁鹿火(あらかひ、ヒは乙類)」と記されている。新手の鹿火のことかと想像される。鹿火とは、野営の際などに獣や蚊が襲ってくるのを防ぐために焚き火を焚いて煙や臭いを出して寄せ付けないようにした仕掛けであった。万葉集には、「鹿火屋(かひや)」(万2265)とある。
「无利弖」→「旡我弖」(東京国立博物館編、前掲書、61頁より)
 「奉事典曹人名」、銘文の18~20字目に判読されている「无利弖」は「旡我弖」に見えてくる。「旡」は、「既」の旁で、説文に、「旡 飲食の气、屰(ぎゃく)にして息するを得ざるを旡という」とあり、嫌になるほど食べて咽ぶほどになって顔をそむける象形である。アゴエ(距)から連想される顎の鎌形が目立ってくる。名義抄に、「旡 既に同じ、ツクス」とある。つまり、猛獣に襲われそうになったら、狩りでとった獲物を惜しみなく与えてしまえば良い。猛獣に尽くしてあげれば猛獣は食べ尽くして飽きてしまい、人を襲うことなく去って行く。新手の鹿火である。「我」は一人称で用いられることの多い字であるが、旁は戈である。白川、前掲書に、「我は鋸。嵯峨・齟齬のように、ぎざぎざに刻む音」(102頁)と「戈」の「語系」が示されている。説文に、「我 身を施すを自ら謂ふ也。或に説(いは)く、我頃は頓(つまづ)く也といふ。戈に从ひ◆(我の左側)(すい)に从ふ。◆は或に説く、古の垂の字也といふ。一に曰く、古の殺の字は凡そ我の属にして皆我に从ふといふ」とあり、名義抄に、「我 吾可反 禾レ、イタツキ、カタヰ、禾ガア」とある。イタツキとは、和名抄に、「平題箭 揚雄方言に云はく、鏃の鋭かざる者は之れを平題〈伊太都岐(いたつき)〉と謂ふといふ。郭璞に曰く、題は猶ほ頭の如き也。今の戯射箭也といふ」とある。先が尖っていて殺生能力がある鏃ではなく、犬追物で使われるような鳴鏑、蟇目の類を指すようである。鹿火は獣を殺すのではなく、遠ざけることに特化している。イタツキは新手の鹿火である。「弖」字は、「氐」の異体字である。名義抄に、「氐 羌也、ヲカス」、「羌 ツツガ」とある。憂いがないの意の、つつがなし、のツツガに当てる「恙」と同意である。万葉集の「恙無」(万3253)は、他の仮名書きの用例(万894・1020・1021・4408)とともに、ツツミナクと訓まれている。障害のことをツツミ(ミは甲類)と言っている。堤(塘・隄)(つつみ、ミは甲類)とアクセントこそ違え、同音で同じような意味の言葉である。土を盛って流れの障壁とした。動物園で見物客の柵の向こう側に、空堀を含めて堀が設けられていることがある。襲って来ないようにした新手の鹿火である。環濠集落の柵と溝の順については検討を見送りたい(注14)
犬追物の矢(犬追物図屏風(部分)(紙本金地着色、江戸時代、馬事文化財団馬の博物館編『所蔵品選集 増補版』馬事文化財団、2001年、42頁より))
「弖」=「氐」=「羌」=「恙」=「堤」(多摩動物公園のアフリカゾウのゲージ)
 以上から、銘文の18~20字目に「旡我弖」と見た筆者は、「旡我弖」がアラカヒ(ヒは乙類)を指す。万葉集に見られる義訓の類であることが知れた。「奉事典曹人名旡我弖」とは、刑部卿に相当する物部大連麁鹿火(?~宣化元年(536))のことである。北部九州を制圧した物部麁鹿火のとった政策は、朝鮮半島からの直輸入垂れ流しを止め、ヤマトに合った形での技術導入を図ることにあったように見受けられる。すなわち、竃は受け入れるが鉄製の釜は受け入れない、といったことである。筑紫国造磐井が採り入れて行っていた技術や制度は、当時のヤマト朝廷から見れば異文化的で、民族的アイデンティティに戸惑うほど認められない人たちに思えて脅威だったのであろう。
 冒頭の大王名「獲□□□鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」)も、ワカタケル大王(雄略天皇)ではないということになる。以前、「治天下■(犭偏に蝮の旁)□□□歯大王世」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説(福山敏男)もあった。それが稲荷山古墳から銘のある鉄剣が見つかり、「獲加多支鹵大王」をワカタケル大王とするようになった。しかし、銘文は、万葉集に見られるような義訓が行われていた。この部分だけ仮名書きで記すとは考えにくい。白石先生ご指摘のとおり、大刀が江田船山古墳の2番目の被葬者の副葬品として埋納されたのは520年頃のことである。ワカタケル大王=雄略天皇(在位、457~479年)代ではなく、継体天皇(在位、507~531年)代、ヲホド大王(「男大迹天皇」(継体紀即位前紀)、「袁本抒命」(継体記)、ドは乙類)の御世である。19~21字目の「旡我弖」が(物部)麁鹿火のこととわかったから、1~11字目の「(台)天下獲□□□鹵大王世」が継体天皇の時代のことであると解釈できれば整合する。
 矛盾点は、被葬者の副葬品の年代ばかりではない。稲荷山鉄剣の銘文中に、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」とある。通説では、「ワカタケル大王の寺[役所の意かとされる]が磯城宮(しきのみや)に在りましし時」と無理矢理よんでいた。「斯鬼宮」はシキノミヤで間違いないであろう。雄略天皇の泊瀬朝倉宮を“広域磯城”の域内だからそう記されていると解釈するのには無理がある。また、記紀によれば、雄略天皇は都を遷していないから、わざわざ宮都の場所を特定して断る必要もない。崇神天皇の都した磯城瑞籬宮は桜井市金屋に、欽明天皇の都した磯城嶋金刺宮は桜井市慈恩寺に、継体天皇が二十年九月に遷った磐余玉穂宮は桜井市池之内にあったものと推定されている。これらは確実に磯城に所在する。「獲加多支鹵大王」が継体天皇のことを指すとすれば、大王名と宮都名との矛盾も解消する。
 「獲□□□鹵」において、「獲鹵」という言い方は、今日、特に三国志のゲームの世界で行われる。敵の軍用品・兵器などをぶんどることを、鹵獲という。史記・楽毅伝に、「是に於て燕の昭王、齊の鹵獲を収めて以て帰る」とある。継体紀に記されたことと、これまで見てきたことを綜合すると、物部麁鹿火は筑紫国造磐井と戦って、相手方の持っていた物品、「大鐵釜」を戦利品として接収し、大刀を製作している。「大鐵釜」はヤマト朝廷側にはなかなかなかったものであろう。そういう文化にないのである。朝鮮半島文化を受け入れていた北部九州の磐井側にしかなかった。敵方の兵器や利器、物資、わけても鉄をぶんどって自分のものとした。
 歴史書である日本書紀によれば、継体天皇が皇位を継いだ過程は、皇位継承者がほとんどいないなか、豪族による合議制で決められていったように描かれている。国王が不在になると、激烈な権力闘争が行われても不思議ではない。それが平和裏に決まって落ち着いている。なぜ大伴氏や物部氏は、自らがトップに立つことを試みなかったのか。それは歴史学ならびに政治学の課題であろう。と同時に、戦において物資的に不足している側が勝利するためには、鹵獲の術こそ大切であったことは理解されよう。昨今の中東情勢を見てもよくわかる。
 継体天皇は、連れて来られた天皇である。捕虜の天皇である。大王自体が“鹵獲”されている。「鹵」は「虜」に通じ、説文に、「虜 獲たるもの也。毋に从ひ力に从ひ虍声」とある。「獲□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)とは、捕虜の大王の意にとれる。それが巡り巡って筑紫国磐井の乱では、鹵獲した物品で大刀を作らせる側のいちばん大本に立っている。まことにふさわしい文字面といえる。鹵獲→「獲鹵」と本末が転倒している。
「獲?(■?、◇(草冠を伴わない獲)?)」(東京国立博物館編、前掲書、図版3より)
 稲荷山古墳出土鉄剣銘によって補われた「◇加多支鹵」の字をそれぞれ見ると、「◇」を「獲」の異体字とするとされている。しかし、その字をワと読む例を、筆者は勉強不足で他に知らない。吏読によるのであろうか。漢音にクワク、呉音にワク、入声陌韻である。仏典にギヤク、梵語の pratilambha 、西蔵語の thob-pa の訳、得の一種とする。稲荷山鉄剣の銘文では、アクセントまで引き写してあるとまで論じられている(注15)
 「加」はカ、「多」はタ、また、記紀万葉などの古代文献の多くに、「支」はキ(甲類)と訓む。「鹵」は呉音でル、漢音でロで、本来の意味は岩塩、シホである。塩の旧字は鹽である。説文に、「鹵 西方の鹹地也。西の省に从ひ、鹽の形に象る。安定に鹵県有り。東方に之れを◎(广に屰)(せき)と謂ひ、西方にては之れを鹵と謂ふ。凡そ鹵の属、皆鹵に从ふ」とある。
 「獲」字はウ(下二段、エ・エ・ウ・ウル・ウレ・エヨ)、トル(四段)の意である。説文に、「獲 獵の獲(う)る所也。犬に从ひ蒦声」とある。白川、前掲書によれば、「犬は猟犬を意味する。獲得の初文である隻は、あるいは鷹を用いたものであろうか」(167頁)と推測されている。けれども、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)では、「蒦(かく)は本来は鳥を捕ることであるから、狩猟の獲物より収穀の穫の義となったものであろう」(138頁)ともされている。漢字の成り立ちについては、白川先生が迷われているのであるから、筆者にわかろうはずがない。上代のヤマトコトバでいかに受け取ったかが検討課題である。そして、銘文に「α」と記した。
 「獲」という字は、ヤマトコトバに、トル、ウ、エなどと訓まれるであろう。もちろん、倭人の頭の中では、ヤマトコトバが先にあって、それにあてる漢字として見えている。獲物を獲ることが字に表わされていると考えていたであろう。この箇所のみであるが、白川先生の迷いを払拭する考えとしては、動詞トル(取・執・獲・捕・採)の連用形がトリ(万葉集に防人歌など特定の場合を除きトは乙類)で、トリ(鳥・隹・鶏、トは乙類)に同じで点があげられよう。銘文の「α」に見える字はどんな鳥か。まず、草冠がない。草の生えているところにいる雉や鶉や雀や、それを狙う鷲や鷹などではない。水鳥であろう。獣偏ははっきりしているし、「又」部も明らかである。よって、狩りをする水禽類である。パンをちぎって貰っている鴨など平たい嘴の鳥ではない。字形からは頭の毛が寝ており、中軸の縦画がなく、横画も1本足りない。羽が折られている鳥と思われる。そのような鳥は唯一、ウ(鵜)である。捕われた鳥で魚を獲る鳥である。
カワウ(?)(洗足池にて)
 ウは鵜飼に使われる。彼らは猟をするが、獲物を吐き出して鵜匠に捧げる。捕まえられた当初、慣れるまで、逃げないように羽を折ることも行われた。江田船山古墳出土大刀銘にある不思議な「α」字に、「獲」の縦画、横画から1本ずつ足りないのは、羽の折られて飛べない状態の鳥であることを示唆するものであろう。「獲」の訓に、ウ、トル(トリ)とあるのだから、これは鵜を表わしていること間違いない。無理やりでも言うことを聞かされる鳥が、ウである。ヤマトコトバの感動詞にウ(諾)とある。本ブログ「事代主神の応諾について 其の二」以下でも触れたように、ウという言葉は、ウン、と承諾するしか選択の余地がないことを表している。そういう意味合いを込めた記述言語として「α」という字を用いている。「α」は、鵜飼の鵜のことを示す鳥と同音のトリという意味の孤例の“国字”である。
木曽路名所図会、長柄川より(日本歴史地理学会校訂『大日本地誌大系第十二冊 諸国叢書木曽之壹』大日本地誌大系刊行会、大正5年、252~253頁)
 そして、続く「加多支鹵」は、カタキシホ(堅塩、キは甲類)とふつうに訓めば、これは古語にキタシ(堅塩、キは甲類)のこととわかる。

 堅塩媛(きたしひめ)と曰ふ。堅塩 此には岐拕志(きたし)と云ふ。(欽明紀二年三月条)
 所以(このゆゑ)に、造姫(みやつこひめ)に近く侍(つかへまつ)る者、塩の名称(い)はむことを諱みて、改めて堅塩(きたし)と曰ふ。(孝徳紀大化五年三月条)
 黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名、白塩、又、黒塩〈今案ずるに俗に黒塩と呼ぶは堅塩と為(す)。日本紀私記に堅塩〈木多師(きたし)と云ふは是也〉有りといふ。(和名抄)

とある。小学館の日本国語大辞典④の「きたし【堅塩】」の「語誌」に、「固くする意の動詞『きたす』があって、その連用形『きたし』に『しほ』の付いた『きたししほ』の下略とする説がある。この説によれば、苦汁(にがり)を取り除くために塩を煙でいぶし固めたのが堅塩であり、挙例の『十巻本和名抄』にあるように色は黒となる」(154頁)とある。当時、塩の生産は、製塩土器を用いて水分を蒸発させていたのであり、カマの話であることのつながりを思わせる。考古学においては、土器製塩について、正確な製法はなお確かめられていない(注16)。塩田法が採り入れられて古代の製塩技法そのものが不明となり、推測するしかなくなっている。大略は、海水から鹹水を得、さらに煮沸して、さらには苦汁(にがり)分を焼ききって(MgCl2→MgO)、黒く堅い塊になる。それを堅塩(黒塩)と呼んでいるようである。ヤマトコトバの意味的解釈は後に触れる。その製塩土器には先の尖ったものがあり、それが分離して支脚となり、また、煮詰めるに当たって1つの炉にいくつも並べられて注ぎ足されながら焚かれ続けたらしい点を指摘したい。製塩土器の先の尖り、ないしその分離は、本邦における竈において、羽釜に代わって土器製の長胴甕が用いられ、据え付けるために支脚を置いたのととてもよく似ている。鉄物資が不足している列島で、鉄製の羽釜ではなく、長胴甕を利用すればいいのであると気づくヒントは、この製塩土器の形態に由来したのではなかろうか(注17)。仮にそうであるとすれば、言葉の上では、カマ(釜)→カメ(甕)へと言い換えたということになる。言い間違えて噛んでしまった。カタキシホと言えずに、キタシシホと言ったということになる。
浦入遺跡の製塩土器支脚?(平安時代、850年頃)(舞鶴市HPより)
甕三個かけカマド想定図(外山政子「群馬県地域の土師器甑について」群馬県埋蔵文化財調査事業団編『研究紀要6』同発行、1989年3月、109頁より)
 つまり、「獲加多支鹵大王」とは、堅き塩を獲た大王のこと、すなわち、キタシ(来、キは甲類)、来させることを獲た大王である。方角的にも北(キは甲類)である。方角のことをシというから、ヒムカシ(日向(ひむか)し=東)という。北方から来させた。越前出身である。継体天皇は、皇統が絶えたのでお迎えした天皇である。どういう伝手で来てもらったかというと、「枝孫(みあなすゑ)」(継体紀元年正月条)、「趺萼(みあなすゑ)」(継体紀元年二月条)を辿ってふさわしい人物を選んでいる。ミアナスヱは御足末の意である。穴の末にあるものとも洒落ができる。継体天皇の名は、ヲホド(男大迹・袁本抒)である。岩波書店の大系本日本書紀補注にあるように、「ヲホドは小さいホド(塊)の意」(ワイド版岩波文庫(三)、382頁)である。和名抄に、「百部 保止豆良(ほどつら)、一種以て百部有り、故に以て之れを名づく」とある。マメ科の多年草植物で、根に塊を多数生じて繁殖する。漢方に百部根である。サツマイモ風の出来栄えである。つまり、芋蔓式に見つけたのがヲホド天皇である。上手く引かないと切れてしまって掘り取ることはできない。実際、継体前紀には、当初、「足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)倭彦王(やまとひこのおほきみ)」を丹波国桑田郡に見つけて来てもらおうとしたが、迎えようとした兵士の軍勢に恐れをなして逃げられてしまっている。2番目に白羽の矢が当たったのが、男大迹王である。
百部(北村四郎監修、岩崎灌園『本草図譜』蔓草廿八、同朋舎出版、昭和55年より)
タチビャクブ(市村塘著、難波恒雄校訂『日本薬用植物図譜』科学書院、1980年、23頁より)
 百部根の様子を見れば、それがホドと言うに適当であることがわかる。薪を集めて煮炊きや製塩のために土器を熱している場所、ホド(火処)によく似ている。ホドという語は上代に見られないが、火処(火床)の義であるとするなら、「蘿(ひかげ)を以て手繦(たすき)に為て火処(ほところ)焼き」(神代紀第七段本文)とあることから、ドは乙類である。古語拾遺の相当個所に、「庭燎(にはひ)を挙(とも)して」と、焚き火であることを表している。色は赤褐色、炎のようであるとも、赤く燃えた薪のようであるとも見える。タキギ(薪)という語は焚き木の意であり、紀に、

 ……其の船の材(き)を取りて、薪(たきぎ)と為(し)て塩を焼かしむ。是に、五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施(ほどこ)して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ふ。(応神紀三十一年八月条)

とある。製塩の話になっている。他方、マキ(薪)という語は、新撰字鏡に「△(木偏に斯) 素嵆反、▽(手偏にマダレに卑)也、小樹也、万木(まき)、又己曽木(こそぎ)也」とある。木のキは甲類である。これは種を播(ま)くのマクの連用形マキ(キは甲類)と関係がある語と考えられ、播の字には、名義抄にホドコスの訓がある。この点はさらに後述する。火処の火を拡がらせるようにどんどんとくべていく。まるで、百部根のような塩梅に火処が張っていっている。ハル(張)という語において、張り巡らすことと脹らむこととを兼ね備えた語が、ホドコス(ホドコル)という語であろう。その上に製塩土器は置かれ、海水は濃度を増して鹹水、さらには、堅塩(きたし)に仕上がっていく。海水(鹹水)が注ぎ足されるとともに、薪もつぎつぎに足されていく。最終的に、口を上に開けた製塩土器に堅塩が固まっている。丸い土器に塊になって肥っている。
土器製塩の様子(「かまがり古代土器製塩体験施設」広島観光ナビより)
(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の二

2016年04月19日 | 論文
(承前)
 諸先生方の解釈では、冒頭に記したように前段・中段・後段に分けたとき、中段の後半の方に動詞が見られない。「用」いてどうしたのか、シンプルに考えれば、動詞として表されているものであろう。すると、東野先生が仮に「刊」と見ておられる43字目は動詞であって、「刀」をツクルといった意味の文字であるはずになる。43字目については、「利」(末永雅雄)、「長」(福宿孝夫)、「挍」(福山敏男)といった説もある。釜と鎌とを用いて「八十練(九or六)十(捃or振)」して、それから「三寸上好(刊)刀」したわけである。「三寸上好」については、鈴木・福井、前掲書によれば、意味を考えたとき、「三寸」を長さと見るのは難しいとされる。「三寸上(くわ)え」説(福宿孝夫)や「上(切先)から三寸のところに焼き入れをした」説(石井昌國)は文脈上成り立たないとされている。そして、「三才上好」説(東野治之)、「三等上好」説(鈴木勉、福井卓造)、「三時上好」説(徳光久也、町田章)、「三均九和」説(本田二郎)、「三†(寸偏にリットウ)上好」説(王仲殊)などがあげられている。
 これらの説に依ってしまうと、不明の43字目が動詞にならない。筆者には、銘文の漢文が中国人の作った漢文であるように見えない。教養あるヤマトコトバとして記紀万葉読みをするなら、「三寸」はミタビキダキダ、ミキダニシテ、などと読める。「寸」は寸断の意である。紀に、

 時に素戔嗚尊、乃ち所帯(はか)せる十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、寸(きだきだ)に其の蛇(をろち)を斬る。(神代紀第八段本文、私記乙本訓「寸〈岐陁々々(きだきだ)〉」)

と、刀剣にまつわる言葉として登場している。この部分、諸本にはツダツダと訓んでいる。名義抄に、「寸 キダキダ ツダツダ」とある。ずたずた、きざきざ、に同じく擬声語である。キダ(分・段)は、「刻む」の語幹キザに同じとされている。「寸」は長さの単位でも、何かの簡体字でもなく、寸断したということであろう。また、以下の例に見るとおり、三つにスパッと切り分けることは、ミキダ(「三寸(三段)」)にすると表現されていたことがわかる。ミツダとは言わなかったということである。

 遂に所帯(はか)せる十握剣を抜きて、軻遇突智(かぐつち)を斬りて三段(みきだ)に為す。(神代紀第五段一書第六)
 仍(なほ)、持たる剣を以て、三(みきだ)に其の弓を截(うちき)る。(崇峻即位前紀用明二年七月条)
 ……「八段(やきだ)に斬りて、八つの国に散(ちら)し梟(くしさ)せ」とのたまふ。(同上条)
 寸(きだきだ)に斬らるとも亦た心甘なひなむ。(遊仙窟)
 愁への腸(はらわた)寸(きだきだ)に断ゆ。(遊仙窟)

 つまり、釜と鎌を并せて用いて80回鍛錬し、60回か90回、捃したか振るったかしたものを3つに切り分けたのである。3分割だから、断ち分けた箇所は2ヶ所である。大刀(たち)にするために断っている。だから、キダキダと2回繰り返すヤマトコトバに成長している。これはもう、「三寸」と書き表わしたくなる。的確な言葉遣いである。そのうち1本だけ念入りに銘文を施した。江田船山古墳から出土した大刀のうち、3口が非常によく似ていることは、亀井正道「船山古墳と銀象嵌大刀」『MUSEUM』340号(東京国立博物館、1979年7月)によって、早くから指摘されている。

 船山古墳出土の直刀の中で、これ[銀象嵌大刀]に形態・大きさの頗る似たものが他に二口ある。一は長さ一一三・九センチ(大刀A)、二は一一一・八センチ(大刀B)で、茎の長さは各々二一・五センチ、二〇・九センチ、茎には三個の目釘穴を穿っている。この両者から推定すると、銀象嵌を施した刀の長さは約一〇五センチとなろう。しかもこの三口は、同時発見の他の直刀に比べて遺存状態が一段とよい。特に環頭大刀二口とは、銹化の工合に明らかに差違があると言ってよい。狭い石棺内では、副葬位置による銹の程度の差を考えるのは不適当で、埋葬時期を異にする複数の被葬者のうち、もっとも新しい副葬を示すものと推定することも可能である。……船山古墳出土の大刀A・Bには、茎の刃関に近い部分に小さい方形の刳り込みが存在する。改めて銀象嵌大刀の茎を見ると、残存部に認められる不整形の凹みは単なるきずや銹による欠損ではなく、拡大してみると明らかにタガネ状のもので削った状態を呈している。この刳り込み方は三者共似ているが、大刀B、大刀A、銀象嵌大刀の順に雑になっている。つまり他の二口にも存在する小さい刳り込みを、同様の方法で作ったと見るのが妥当である。言うまでもなく茎に作られたこの小さい刳り込みは、柄に装着する勾金を通す孔として作られたものであるから、銀象嵌大刀を含めた船山古墳の三口の木装大刀は、玉纏大刀である可能性が強いと言えるのである。
 この三口の太刀はあらゆる点で似ているので、同一作者または同一工房による製作と考えられる。もしこの推定が正しければ、銀象嵌大刀の製作地、製作後の移動の問題と関係して、その歴史的評価に重要な意味をもつことになる。(7~8頁)(注7)

 現物を目の当たりにし、銘文中の「三寸」は、ミキダニシテと訓むのがジャストミートと確かめられる。「大鐵釜并四尺廷刀」の両者を「用」いてできあがった1本である。食品表記などでも、量の多いものから表示する決まりになっている。「大鐵釜」のほうが「四尺廷刀」よりも分量が多かったものと思われる。3本分できて3分割した。
 それに続く「上好」という語については、諸先生方は、用例がないにもかかわらず熟語と捉えられている。疑問である。3分割した1本の鉄の棒から刀をつくったのである。「三寸上」=ミキダニシウヘ、三つに刻んだ上でさらに「好□刀」としたのであろう。43~44字目を作刀することと考えるなら、42字目の「好」は、副詞ヨクに相違あるまい。うまく刀を作ったのである。小学館の日本国語大辞典第二版に、「よく」は、「①十分に。念を入れて。また、巧みに。うまく。……④困難なことをなし遂げた時、あたりまえでは考えられないような結果を得た時、喜ばしいことにでくわしたときなども感嘆・賞賛・喜悦あるいは羨望の気持を表わす。よくもまあ。本当にまあ。よくぞ。」と語釈されている(注8)。万葉集に例を見れば、

 ①吾が聞きし 耳に好似(よくにる) 葦のうれの 足痛(ひ)く吾が背 勤めたぶべし(万128)
 ④好渡(よくわたる) 人は年にも ありといふを 何時の間にそも 吾が恋ひにける(万523)

といった例が挙げられよう。万128番歌では、噂どおりだったという意味を、足と葦との駄洒落まじりに歌っている。万523番歌の例では、よくもまあ耐え忍んで渡ってきた人は、という意味である。江田船山古墳出土銘文付大刀が、釜と鎌から刀を作ったことは、駄洒落まじりでありつつほどに巧妙であり念入りでありながら、よくもまあと感嘆するに足るほど鍛冶屋さんのご苦労を偲ばせている。以上の①と④とをともに含んだ語義からして、42字目の「好」の字は、副詞のヨクと訓む。
「好□刀」(エミシオグラム)(三浦定俊「エミシオグラフィによる調査」東京国立博物館編、前掲書、72頁より)
「□」(いずれも東京国立博物館編、前掲書より、左から、図版4、図版14、51頁(古谷毅「象嵌の観察」)より)
「均」興福寺断碑(東晋、王羲之、『中国法書選17』二玄社、1988年、11頁より)
「均」鄭羲下碑(北魏、鄭道昭、『中国法書選22』二玄社、1988年、左から77頁、74頁より)
 象嵌の文字を判読しかねている43字目は、東野先生の仰るように手偏と定まるかどうか、なお不明である。筆者は、ここに手偏かと目されているのは、土偏の下に少し突き出てしまったものと見、「均」の字ではないかと考える。「好均刀」、ヨクカタナヲトトノフ、ヨクカタナトヒトシクス、などの意である。うまい具合に刀として整えたのである。カマ→カタナとするのは、鈴木先生らが仰る素材の問題だけでなく、言葉の意味からもとても難題であった。カマという語とカタナという語とは、意味的に相反する。カマは曲がれるもの、カタナは真っ直ぐなものの意を持っている。鎌は柄と刃との付き方が直角、戈は援部分によって刃自体が直角に曲がれるものである。他方、刀は一直線である(注9)。羽釜のハ(羽)はぐるりと曲がり切ってめぐっており、刀のハ(刃)は一直線である。それほど違うものへと、よくもまあうまい具合にできましたわねぇ、というのが、「好均刀」の意味である。刀に反りが生じてきたのは平安時代中期からで、奈良時代の直刀は今も輝いている。
直刀(奈良時代、8世紀、号水龍剣、伝聖武天皇御料、東博展示品)
 また、銘文の最後、「書者張安也」については、諸説が行われている。刀鍛冶と象嵌者が別人で流れ作業を行ったから「伊太(和)」と「張安」が併記されているとする説、コピーライターが字を知らない「伊太(和)」に刻ませたとする説、「名」と記さない「張安」は漢人名で一般的だから記さず、仮名書きの「无利弖」や「伊太(和)」は名か何かわからなくなるから「名」と記したとする説、「張安」しか文字を知らないから尊大で、その部分の文字も立派で大きく、そのうえ「也」と付けて威張っているという説も唱えられている。一理ある説が多い。けれども、上に述べた仮説が正しいのであれば、中国系のチヤウアンなる人物が、ヤマトコトバのなぞなぞだらけのコノハナノサクヤビメ説話を理解していたとは思われない。
 「獲□□□鹵」も仮名書きの名の表記とされるが、「(台)天下獲□□□鹵大王世」とは記されていない。わかるから良いと言えば良い。けれども、固有名詞の出てくる箇所は、「(台)天下獲□□□鹵大王世」、「典曹人名无利弖」、「作刀者名伊太(和)」、「書者張安也」であると考えられている。誰がこの大刀を作った“当事者”か。作らせたのはムリテで、作ったのはイタ(ワ)である。銘文を書き込んだのは「張安」であると読まれているが、馬や魚や鳥や花の絵も象嵌されている。馬や魚や鳥や魚の絵は誰が刻んだのであろうか。イタ(ワ)か張安か。絵を「書」でいいのか、よくわからない。銘文の文案だけを考えた人が中国人の「張安」であるとする説もある。実際に手を動かして大刀の嶺に字を掻き刻んだ人と、「書」いた人とが別人ということになる。そのとき、絵のデザイン素案は誰が考えたのだろうか。味わいがあってとても素敵である。芸術的センスに富んでいる。銘文の書風のほうは、「隷書・楷書の混交した書風を示す」(東野、前掲書、2004年、93頁)らしいが、倣製鏡などと同等で評価の下しようがない。書道の時間なら5段階評価で2であろう(注10)。それが、「書」と断っているので、この「書」とは何かを糺さなければならない。「三寸」をミキダとヤマトコトバで考えるのが妥当であったから、「書」もヤマトコトバで了解されなければならない。ヤマトコトバの文字表記らしいことから、もはや張安中国人説は揺らいでいるのだが、なお仮にそれを続けてみる。「書」をフミと訓んで文章のことを指す名詞であると仮定してみると、文字を刻んだにせよ文案を考えただけにせよ、張安という中国系の人は中国系なればこそ、「作書者張安也」、「書記者張安也」、「史者張安也」といった表し方にしたくなるように思われる。後ろへ続く「者~也」字もくせものである。後述する。
有銘環頭大刀(「不畏れ也□令此刀主富貴高遷財物多也」銘、朝鮮、三国時代、5世紀、東博展示品)
 「書(ふみ)」というヤマトコトバについて検討すると、例えば、紀に出てくる「書」の多くは「一書云」で、アルフミニイハクである。伝書であって、誰がいつ書いたかわからない。「何書(いづれのふみ)」(欽明紀二年三月条)も同様である。「図籍文書(しるしのふみ)」(神功前紀仲哀九年十月条)は目録のことである。「詔書印綬(せうしょいんじゅ)」はいわゆる親魏倭王の印綬を授けた際の親書、「勅書(みことのりのふみ)」(雄略紀七年是歳条他)、「詔書(みことのりのふみ)」(欽明紀二年四月条他)も偉い人の公の文書で政治的効力をもつ。「印書(しるしのふみ)」(欽明紀二十三年七月是月条)は機密文書である。「高麗の上れる表▲(ふみ)、烏の羽に書けり」(敏達紀元年五月条)とあるのは外交文書である。なかなか解読できなかったことは、フミという語の持つ性質をよく表す逸話である。音声言語と文字言語では利用する脳の領野が異なり、無文字文化のなかで育ってしまった人には難題であった。それを小咄に仕立てている。推古紀十六年条の小野妹子の「書(ふみ)」も外交文書である。「書信(ふみのつかひ)」(欽明紀五年三月条)は伝言役のお使いである。これは実際には文書(文字)を持たない。暗記者が手紙(文書)代わりになる。この使者が殺されると、内容は失われる。歩いて行く時の足跡が、文字のように見えるとする浜千鳥の足跡=文字説は、こんなところにも潜んでいるようである(注11)
 ほかに、「書函(ふみはこ)」(天武紀元年三月条)というのもあり、これは信書(親書)の入った箱であって、書いた(右筆に書かせた)人が遠くにいて、また、書いた時点も見た時点よりも時間的に遡ることを示す。ヤマトコトバのフミという語には、そういった時間的空間的な遠隔性が備わっている。書物の意で「書」を使うのは日本書紀でも後ろの方である。なぜか。書物はなかったし、あっても読めなかった、読みこなせなかったからである。無文字文化にあった。日本書紀という書名も、もとは日本紀であったらしいことが万葉集の左注からわかっている。
 ところが、古墳時代の5~6世紀とされる江田船山古墳出土の大刀の銘文に、「書」とある。これをフミと訓む限り、次のような奇妙なことが起こる。紀の例に多い「一書」ほか「書(ふみ)」の例は、既に書かれたものであった点を前置きにして、それが伝えられていくことを「一書云」という形にして用いられている。文書の既存性が、「書(ふみ)」という語には内含されている。銘文の場合、どこかよそで中国人か中国系の人によって作成された文案があり、遠隔操作されてその指示通りに象嵌されたことになる。「書」の原本が他にあるということである。けれども、対象物に固有の銘であるとしか考えられない。あるいは、これはコノハナノサクヤビメにまつわる伝説を書いたのだから、「書(ふみ)」の内容は遠隔的な代物なのだと考えられなくもない。当時の集合無意識の産物であって、降って湧いたような「書(ふみ)」であると想定できなくはない。「古事記」をフルゴトフミと訓むようなものである。フミという語とフルという語に関連を見ようとするのである。音声言語を文字言語へとコード変換したのは天から降ってきたようなものであるとするのである。しかし、「書」であり「記」とはない。そもそも、抽象的な概念操作によって、ヤマトコトバは作られてもいなければ使われてもいない。言=事とする言霊信仰のもとに、きわめて具体的でありつつ自己癒着的、自己完結的に作られ使われている。側に下書きがあるから「書(ふみ)」と記したとする場合、「伊吉連博徳書曰」(斉明紀五年七月条)のように、「張安書謂也」にならないといけなくなるように思われる。そして、下書をとって置かなければならない。
 大刀に銘として、コノハナノサクヤビメ説話の“カマ”の話の内容が刻まれている。そのことの事の次第が記されていると素直に受け取るのが、なぜ銘が刻まれたのかについても含めた、figure と ground とを区分けする frame の表示でもあるという了解に近づくことができることになる(注12)。「書者張安也」は、この大刀銘の記したいわば式次第的な文句ではないかということである。
 「A者B也」という構文については、「者」や「也」という字の用いられ方が当たり前すぎてかえって理解しにくいところがある。「者」字の使われ方について、瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』(おうふう、平成6年)は、漢籍、古代朝鮮半島、金石文・木簡、古事記の用例について検証され、①提示用法、②形式名詞的用法、③条件強調用法、④文末用法に分類されている。わかりやすい例を1つずつあげるなら、①「是者草那芸之大刀也(是ハ草那芸の大刀也)」、②「於大穴牟遅神負袋、為従者率往(大穴牟遅神に袋を負せて、従者(ともビト)と為て率て往きき)」、③「然者、汝心之清明何以知(然らバ、汝が心の清く明きは何を以てか知る)」、④「是今橘者也(是れ今の橘ゾ)」といったところであろうか。
 まず、「者」という“用字”についての基本姿勢を確認する。上代の人はヤマトコトバを表わすために、適当な漢語(漢字)を探していたら、「者」という字を見つけ、それをヤマトコトバに宛がったということである。漢語(漢字)「者」の訳、ないし、「者」という字に新たに和訓と呼ばれる新語、漢文訓読のための特殊な言葉を拵えたということではない。どういうときに「者」字を用いるかというと、瀬間先生の①~④のときである。言葉を使う現場では、勘を働かせて使うものである。三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』(文学社、大正14年)(42~44/100)にあげられているように、「○○ト云フコトハ」、「○○トハ」、「○○ソノ者ハ」、「○○ト云フコトナリ」、「○○ト云フ者」、「○○ハ」、「○○ソノ者」、「○○ソレナリ」、ク語法の如きもの(「○○タマハク」、「○○ラクハ」、「○○スラク」、「○○スルニ」)、「○○レバ」、「○○ルハ」、「ソノ時ニハ」といったときに使われている。山崎孝雄「古事記における『者』と『也』について」『国学院雑誌』第五十六巻第五号(国学院大学、昭和31年2月)に、「A者B也」という表記は、「言語の形にあらはし得ない」「気息、即ち術語格としての陳述と連体修飾語としての独立格的詠嘆との綜合を表意文字の形式を以て表現した」(森重敏「結合語格補説」国語学第二輯)ものであると適切な解釈が引用されている。Aというものは則ちBであるのである、の意として用いられる。デアルノデアルと2回繰り返しているのは、「AはBである」と確かならしめるために、「『A』というもの『は』則ち『Bである』のである」と言って“様”になるようにしている。そこに、「A者B也」という表記が導かれる。
 逆に言うと、気息がないところに、「A者B也」のような表記は生まれない。近代に、「本日は晴天なり」という用法が見られるが、これは無線の電波が届いているかどうかの試験信号として使用されている。気息がなければ無線は音が聞きとれないということらしいが、効果的な発声音ではないとも指摘されている。いずれにせよ、面前で言う文言ではない。
 裴学海『古書虚字集釈』(広文書局、民国60年(重印))によれば、漢語の「者」と「也」と「則」は、同じような概念を共有している。それは、ヤマトコトバのハ、バ、ゾにも当てはまる。そして、瀬間先生のあげられている②形式名詞的用法も、「従者」とは、「従フソノ者ハ」の意味である。銘文の「書者張安也」を、通説のように、書いた人は張安という人であると考えるためには、「書者」を②の形式名詞的用法ととり、続くはずの「名」の一字が脱落していると考えたうえ、「也」を衍字とでも考えるしかない。「書者名張安也」という字面でもおさまりが悪いのである。「書クソノ者ノ名ハ張安ナリ」と打電されているのであろうか。
 古事記には、

 此稲羽之素菟者也。(←此れ、稲羽の素菟ぞ。)
 於今者謂菟神也。(←今には菟神と謂ふ。)

とある。「也」は現代語の「だ」に相当し、断定の意味になる。これがあの有名な稲羽の素菟だよ、今では菟神と言っているんだ、という意味である。そう話を聞かされて、聞かされた方が納得しなければ、そこには会話が成立していないことになる。お話にならない。言い伝えの時代、稲羽の素菟という言葉はよく知られていたであろうから、話を聞いて、あぁ、そうか、これがあの稲羽の素菟のことなんだね、と了解できることになる。
 もともとのヤマトコトバに、「書ケル者ノ名、張安ゾ」と言われてしまうと、チヤウアンって誰? 何? という話になる。長州小力って、誰? というか何? という話である。かのタレントさんが何をしたいのかわからない、と感じたのは、物真似の自乗のようなことになっているからである。道化が自乗されると、存在の根拠がわからなくなる。物真似がひとり歩きを始めることを狙っておられるようである。唐突に先鋭化した名を、銘文の題目にあげるはずはない。あるいは、「乃木坂って、どこ?」という番組名は、乃木坂46の大活躍をもってして陳述として全国的に受け容れられていたのであった。すなわち、名とは何かについて、深く考究する必要がある。
 以上の反例から、「書者張安也」の「者」が、②の形式名詞的用法ではなさそうであることがわかる。古事記以前の銘文だから特殊用法であると捉えることはできようが、それ以前に、他の用法で記されている可能性を考える必要がある。①の提示用法とするなら、「書クト云フコトハ張リ安ンズルコト也」、③の条件強調用法と考えれば、「書ケバ張リ安ンズル也」といった解釈が可能である。前者は、容易に通釈できる。鉄の上に文字を掻き刻もうとするとき、刻んだだけでは錆びたらすぐに見えなくなってしまう。羽が錆びたから「大鐵釜」は使えなくなったのであった。「書クト云フコト」とは、言葉を定着させることである。消えたら意味がない。書いたことにならない。だから、「書クト云フコト」は、則ち、銀線を張って安定化させることであるのだ、という気息をもって語る定義のような文面ととれる。過不足なく把握できる。「A者B也」には、発展型の「A者B者也」があり、記に、「此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也」、「其登岐士玖能木実者是今橘者也」など、「『AはBである』ことは真である」というさらに力説した言説になっている。すなわち、「書(か)ク」ということは「掻(か)ク」ということが本来の義であるが、鉄の上に掻いたからといって、それは「書(ふみ)」として定着されるものではない。なぜなら、錆びて判読できなくなるからである。となれば、書くことによって書(ふみ)として半永久的に残すということは、すなわち、銀線をもって象嵌に張ることで安定化させて遺すということに他ならないのである。そういった定義を宣言しているのが、銘文のこの部分である。frame 自体の提示である。「A者B也」と定義をする際、Aが動詞であることによってB→Aへと再定義することにもなる。時として、他を排除しようとする試みにも用いられる。例えば、「貼るは、サロンパス(貼者撒隆巴斯也)」といったキャッチコピーである。大人の事情によりこれ以上書けない点はお許しいただきたい。
 ③の条件強調用法は、一見、今述べた①の解釈と矛盾して、意味を成さないように見える。けれども、「書者張安也」を「書ケバ張安也」と捉えることには十分な意味がある。この点については、①、③の用法に解釈した際に、「書」の主語が「作刀者伊太(和)」となる点と密接に関わってくるので、後述することとする。いずれにせよ、銘の「書」は、中国人のチヤウアンが作成したのでも、中国の皇帝から贈られたものでも、それに擬したものでもない。
 なお、銘文中にある「不失其所統」は、コノハナノサクヤビメ説話の読みの文意からすると、統治の意味ではなく、皇統のように言う血筋の続くことを表しているように思われる。記では、「天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)」についての話として、コノハナノサクヤビメの話(石長比売と木花之佐久夜毘売についての大山津見神のウケヒの話)は語られている。この点も、銘文に「(台)獲□□□鹵大王世」と記入した意味と関わるので、後述する。それがなぜ熊本県の江田船山古墳から出土しているのかについては、歴史研究からは、天皇家の末裔か分家か何かが肥の国へ行っていてお墓に葬られたという話についての事柄になるのかもしれない。言語文化研究の側からは、なぞなぞ小咄の記紀説話が存外に早く、広く営まれていたことを重く受け止めなければならない。たいへんな難題に対峙させられることになる。ヤマト朝廷の版図拡大とは、記紀説話の地方への波及拡散であったのかもしれない。文字表記を考える表記史の研究には、表記するとはそもそもいかなる営みであるかについての検討が必須である。そして、当時の人たちにとって、釜と鎌とを窯を使ってトンチントンチンかま(囂・喧)しくして一構え作ったという話は、歴史的なインパクトある事件を契機として同時的に発生した“こと”であったろう。なぜ銘文を刻むまでして何事かを伝えようとしたのか、当時の人々の考え方の枠組みまでを含めてまるごと解釈されることを、銀象嵌銘は待ち望んでいたように見える。(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の一

2016年04月16日 | 論文
 江田船山古墳出土の大刀の銀象嵌銘に、

 台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖
 八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀
 服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

とある。上の文字の判読は、東野治之「釈文の解釈」東京国立博物館編『江田船山古墳出土 国宝銀象嵌銘大刀』(吉川弘文館、平成5年)による(注1)。東野先生は、「天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鐵釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振(う)つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書する者は張安也。」(66頁。東野治之『日本古代金石文の研究』(岩波書店、2004年、102頁)に再録)と読み下されている。
 東博の考古展示室の解説パネルには、「75文字の長大な銘文をもつ大刀で、5世紀の政治・社会や世界観を伝える日本古代史上の第一級の文字資料です。古代東アジアの有銘刀剣には、中国製と朝鮮半島・日本列島製があります。中国・後漢時代以降の銅鏡や鉄製刀剣の銘文は、基本的に『紀年』および『吉祥句(きっしょうく)・常套句(じょうとうく)』を中心に構成されます。その後、3~5世紀頃には辟邪除災(へきじゃじょさい)を願う四神(ししん)思想を軸とした世界観を表現するようになります。これに対し、5~7世紀に日本列島で製作された有銘刀剣は、人名を古代日本語で表記していることや製作の事情を述べた内容が含まれるなどの独自性が認められます。また、『治天下~』の表現は中国の影響を受けた世界観を示すものとして注目されます。一方、大陸では銘文を記す対象は石碑のような大型のいわゆる記念物であることが多いのに対して、日本列島では身につけて持ち運ぶことができる鉄製刀剣であることも大きな特徴です。日本列島で鉄製刀剣が弥生時代以降も重視され、東アジアの中で特異なまでに発達することと、古墳時代の有銘刀剣の盛行は深く関係すると考えられます。」とあり、現代語訳では、「ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文章を司る役所に仕えた人、その名はムリテが、八月に、精錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1m余り)の立派な大刀を製作した。八十回、九十回に至るほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、その支配地を失うこともない。命じられて大刀を製作した者の名はイタワで、銘文を書き記した者は張安である。」となっている。以下において、文字の判読に、随時筆者の観察で改めている。
江田船山古墳出土大刀(部分々々)(古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
 意味として、「大鉄釜」は精錬炉のことと捉えられている。精錬炉は耐火レンガなどで作らなければならない。「釜」が鉄製だと精錬中に融けてしまう。他の金石文や文献などの引用と捉えられているようである。仏典に、大叫喚地獄の様として、「何故名為大叫喚地獄、其諸獄卒取彼罪、人著大鐵釜中、熱湯涌沸而煮罪人」(長阿含経)などと用例がある。地獄の釜の譬えについては後にも検討する。また、「并」をナラビニと訓むと意が通じないから、アハスと訓むとされている。けれども、「并」の字のアハスという意は、併合などという場合の一緒にすること、品詞は違ってもナラビニということと同じ意味であると思われる。アハスと訓むことでは問題は解消されていない。
地獄釜茹で(矢田地蔵縁起絵巻より)
 鈴木勉・福井卓三「江田船山古墳出土大刀銀象嵌銘『三寸』と古墳時代中期の鉄の加工技術〈付説:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の『尺寸』と『ろう製原型鋳造法』について〉」『橿原考古学研究所紀要考古学論攷』第25冊(奈良県立橿原考古学研究所発行、平成14年3月)に、銘文の中段(上掲2行目)は作刀技術を語ったものとし、卸し鉄(おろしがね)製鋼の技術が記されていて、「大鐵釜并四尺廷刀」は材料であって、「大鐵釜」と「四尺廷刀」とを一緒にして新たに長い刀に鍛造したとされている。復元研究プロジェクトチーム編「福島県内出土古墳時代象嵌資料の研究復元制作」『研究紀要2003』(福島県文化振興財団福島県文化財センター白河館まほろん発行、2003年)を参照されたい。
 「大鐵釜」は鋳つぶされ、「四尺廷刀」に加えられて鍛えられた。そう単純に読むことに特に支障はない。佐々木稔「古代の鉄と刀剣」石井昌國・佐々木稔『増補版 古代刀と鉄の科学』(雄山閣、2006年)に、「……硬鋼の素材が流通しているのに、なぜ鋳釜を壊して精錬し、鋼を製造したのであろうか。しかしそれを銘文に記しているのである。これは、もはや技術的解釈が可能な範囲を超えた問題と言わざるをえない」(194頁)とされている。「技術的解釈を超えた問題」は、本稿(「コノハナノサクヤビメ考 其の一」以下)によって、不細工な石長比売が返し送られたと説話化された由来として解明されつつある(注2)。すると、江田船山古墳出土の大刀は、大山津見神のウケヒの言葉に適うように製作され、石長比売と木花佐久夜毘売を二人とも併せて留めたから、「此の刀を服(はか)せば、長寿(みいのちなが)くして……」というお呪いの言葉が記された、と推理できる。なぜなら、すべては、カマの話に読めるからである。
 「四尺廷刀」について、「廷刀」という例が見られなかった時は疑問視されていた。千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した鉄剣銀象嵌銘に、表面「王賜□□敬(安)」、裏面「此廷刀□□□」とあるところから、「廷刀」という言い方がされていたに違いないと推測されるようになった(平川南「銘文の解釈と意義」市原市教育委員会他編『「王賜」銘鉄剣概報』吉川弘文館、1988年)。孤例が2例(?)になると定説化されるらしい。平川南『出土文字に新しい古代史を求めて』(同成社、2014年)に、「[稲荷台1号墳出土鉄剣の]「銘文の主旨は、『王賜□□(剣の意)』にあり、王から鉄剣を授けたこと(下賜(かし))を表現したと考えられる」(107頁)とされている。説文に、「廷は平也」とあるから、「廷刀」は「鉄鋌」のことである(宮崎市定)とか、広雅・釈室に「廷は官也」とあるから、「廷刀」は「官刀」の意である(福山敏男)とか、「廷」は「挺」の省画で、集韻に「挺は直也」とあるから、「廷刀」はそびえ立つほどに長大な刀である(鈴木勉)といった考えが行われている。そして、鈴木・福井、前掲書では、「『廷』の文字だけの解釈によって含有炭素量の低い普通の『鉄鋌』を当てるというわけにはいかない」(7頁)のであり、「廷」から「刀剣用鉄鋌」か「刀剣」そのものを指しているとされている。どうも持って回った議論がなされている。
 また、東野、前掲書、2004年に、「奉事典曹人」は、「『奉事せし典曹人』とも読めるが、『典曹に奉事せし人』とも解せられる。『典曹人』の存在を考える説は、埼玉県[行田市の]稲荷山古墳鉄剣銘の『杖刀人』との関係で有力であるが、……杖刀と典曹では語の性格も異なるから、強いて双方を関連づける必要はあるまい。『典曹に奉事せし人、名は』と読めば、後段の『刀を作る者、名は』という構文とよく合致する」(103~104頁)と述べられている。典曹という語は、後漢書志第二十四・百官一に、「令史及御属二十三人。本注曰、漢旧注、公令史百石、自中興以後、注不石数。御属主公御。閤下令史主閤下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其余令史、各典-曹文書。」と見える。三国志・蜀書にも、「典曹都尉」という役職があり、典曹というのは文字を記録する役人であるとされ、官吏名、職名であると説かれてしまっている。しかし、後漢書では、「各(おのおの)文書を典曹する」と動詞である。「上章表報書記」などとは違う内容で文書を書いている。文官にもいろいろあった。財務省も文科省も多くは文官であるが、作成する文書内容はいろいろである。文官でも武官でもない技官というのも古代からいる。筆者は当たり前のことを言っている。大刀銘の「典曹」とは何か。
 「典」は、法典などという意でヤマトコトバにノリである。「曹」は、法曹などという裁判官のことである。「奉事典曹人」とは、刑部省の役人、獄訟のつかさを言うのではなかろうか。平野邦雄『大化前代政治過程の研究』(吉川弘文館、昭和60年)に、「あえて推定すれば、断獄・非違検察を任とする職掌ではないかと思う。『典曹人』とは、その下級の実務官である。いわば文官ではあるが、武官としての将軍府のそれにおなじく、警察力などの“威嚇的手段”をもっていたのであって、この両者に共通する面も多い」(127頁)とされている。養老令・職員令に、「刑部省(ぎやうぶしやう)〈司二を管(す)ぶ。〉卿一人。掌らむこと、獄(ごく)鞫(と)はむこと、刑名(ぎやうみやう)定めむこと、疑讞(ぎげち)決(くゑち)せむこと、良賤(らうせん)の名籍(みやうじやく)、囚禁(しゆきむ)、債負(さいふ)の事。……」、二十巻本和名抄に、「刑部省 宇多倍多々須都加佐(うたへただすつかさ)」とある(注3)。判事のムリテが鍛冶屋さんのイタワ(カ)に材料を提供して刀を作らせた。裁判官が提供した材料が、「大鐵釜并四尺廷刀」である。あの世での裁判官といえば、良く知られるのは閻魔大王、上代では「閻羅王(えんらわう)」(霊異記・中)である。地獄で釜茹での刑に処したりする。「大鐵釜」の持ち主に相違ない。では、「四尺廷刀」とは何か。「尺」は長さの単位ではあるが、親指と人差指とをL字形に広げた際のサイズをいう。二十巻本和名抄に、「尺 魏武雑物▲(足偏に流の旁部)に云はく、象牙尺といふ。弁色立成に云はく、尺は竹量也〈太加波可利(たかばかり)〉といふ」とある。尺、タカバカリ(竹量)に、矩尺(かねじゃく)、曲尺(まがりがね)があるのは、竹でどうやって作るかといえば実は簡単で、キューブ状のスイカができるのと原理は同じである。理屈としては、親指と人差指を広げた形からして事の必然である。「廷」は、法廷のこと、 court である。法廷に「刀」があるとすれば、縛り上げてお白州に引きづり出された罪人を震え上がらせ、威儀を整えるためのものと推測される。打ってつけの刀としては鉄戈や鉄戟であろう。反抗や逃亡を企てると、引っかけ刺され倒されて痛い目に遭わせされる。
左:鉄戟、右:鉄矛(奈良県宇陀市榛原上井足出土、古墳時代、5世紀、東博展示品。鉄矛は刃部分が欠損したものか。)
馬頭羅刹(地獄草紙より)(小松茂美編『日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、昭和62年、70頁より)
 説文に、「戈 平頭の戟也。弋に从ふ。一に横の象形。凡そ戈の属は皆戈に从ふ」、「戟 枝有る兵(つはもの)也。戈に从ひ戟声。周礼に戟、長さ丈六尺、棘の如しと読む」とある。礼記・曲礼上には、「剣を進(おく)る者は首を左にし、戈を進る者は其の鐏(いしづき)を前にし、其の刃を後にし、矛戟を進る者は其の鐓(いしづき)を前にす」とある。尖った石づきが鐏、尖っていない石づきが鐓である。戈は、長い柄の先端に直角に短剣状のものを取り付けて、敵の首に撃ちかけて斬りつけたり引き倒したりするもの、戟は、戈にさらに矛を合わせた形で、一体式と異体式とがある。戈の撃刺、ひっかけ斬る機能に、矛の突くという働きまで兼ねたものである。すなわち、戟には木製の柄と同じ方向の刃と、直角方向の刃(援)がついている。銘文に「四尺」とあるのは、柄を取り付けた時の柄を含めた長さか、「周礼に戟、長さ丈六尺」の1/4サイズと見たか、あるいは鎌刃が両側に2個ずつ、計4つのL字になっている方天画戟の類を表したものかもしれない。「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(垂仁紀八十七年二月条)とあるのが、実寸ではなく、勾玉が大きいことやぐにゃっとよく曲がっていることを表すのと同様な形容である。
右:鉄鉞戟(鉄、中国、前漢~後漢、前2~後3世紀、東博展示品)と左:鐏(青銅他、中国、戦国時代、前5~前3世紀、東博展示品)
戈(青銅、中国、戦国~秦、前4~前3世紀、東博展示品)
 徐鍇の説文解字繋伝に、「一に戟の偏距(かたかま)を戈と為す」とある。戈は矛部分を伴わず、戟のように先に伸びる部分がないから片鎌といっている。それを「距」と表している。新撰字鏡に、「距 其呂反、上、足角也、阿古江(あごえ)也」とある。「距」は、距離というように足で長さを測るわけであるが、和名抄に、「距 蒋魴切韻に云はく〈音巨、訓阿古江(あごえ)〉は鶏雉脛に有る岐也といふ」とある。鶏の蹴爪のことである。前爪と蹴爪の両方をあわせ持っており、戟の風情を彷彿させる。親指と人差指の間にできたL字形が後爪と蹴爪のところにもできている。「廷刀」は、法廷の刀のことと想定して探求してきたが、「廷」は「庭」に通じ、ニハと訓まれる。ニハトリ(鶏)の爪の話になっている。鶏の足のアゴエの場合、3次元立体であるため、強力な武器に見えることは間違いない。そして、アゴエという言葉は、ア(足)+コエ(蹴の古語)の意とされるが、古い用例は確かめられないものの、アゴ(顎・頤)という語と関連がありそうである。正面からでは不確かながら、横から見て鎌形をしていることがよくわかる。魚のアギト(鰓)とよく似た構造である。
 庭園で刀を使うとすれば、草刈り鎌であろう。「廷」の字は、名義抄に、銘文にある旁が「手」の字を載せ、「▼(延繞に手) ムカフ、サカフ、ヲトル、アフ、マサル、ツヒニ」とある。戟の古文が屰、ないしは、戟は屰に通じ、屰は逆の初文である。突いて使うのとは逆の、引っぱって有効なのが戈や戟であり、形的には鎌である。説文にいうように、戈は横さまに刃がついている。名義抄に、「戈 過に同じの平声、ホコ、カマ、ヒトシホコ、ツハモノ、イル、※(俣の旁)々、過」、「戟 居逆反、ミツマタナルホコ、ホコ、ホコニサキ、ハヤク、禾客」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈几劇反、保古(ほこ)〉は、或は之れを于と謂ひ、或は之れを戈〈古禾反〉と謂ふをいふ」とある(注4)。すると、「四尺廷刀」という「四尺」という形容は、ヤマトコトバにヨサカ(ヨは乙類)であろうから、横(よこ、ヨ・コは乙類)+逆(さか)の意味を含むと知れる。捻くれた性格の曲がれるもの、鎌なるものの意がよく表現されている。白川静『字通』(平凡社、1996年)に、「戈 kuai は割裂の音をしめすものらし」(102~103頁)いとしている。
片鎌槍(朱銘 加藤清正息女 瑤林院様御入輿之節御持込)(室町時代、16世紀、東博展示品、徳川茂承氏寄贈、参考図)
 実戦において、戈や戟が有効だったのは騎馬や馬車での戦いではなかったかと思われる。本邦で刀剣類の武器としては、独自に発達した日本刀が大勢を占め、他に槍、長刀が思い浮かぶ程度である。しかし、法廷で戈や戟のような姿形を見せられると、ちょっとビビってしまう。そのため、犯人はつい自白へと向かう。戈や戟というおどろおどろしい鎌形の武器に誘導されてしまう。鎌をかけられるわけである。この「かまをかける」という不思議な語句がいかに生まれたかについては、いくつかの説があげられている。上代に遡る俗語表現であるかは不明である。①相手にやかましく、かしましく喋らせて、そこから引っ掛けるようにこちらの聞き出したいことをうまく引き出すことから、カマ(囂)をかけるというようになったとする説、②甑を作る際に、寸法を測る道具をカマと呼び、カマで寸法を確認することをカマをかけるといっており、思いどおりに導いて白状させることをカマをかけるといったという説、③鎌の先で引っ掛けるように、相手をこちらに都合の良いように引き寄せるようにした際に、引っ掛けたのを憚って言ったとする説、④山焼きの時、火打金のことをいうカマを火打石にかけ当て、付け木にうまく火をかけることから譬えられたとする説、⑤カマキリのカマの手繰り寄せる動きから見立てたとする説などがある。戈戟類に由来するとする説も、⑥の説としてあげられよう。鶏の距(あごえ)によるとする説も、⑦としてあげられよう。
 ②の、甑を作る時の寸法を測るコンパスかノギスのような道具について、筆者は勉強不足で知らない(注5)が、そういう曲尺(矩尺)のものが古くから用いられていたのであるなら、非常に興味深い説であると思う。曲尺(矩尺)は鎌形で、L字状をなす。すなわち、「大鐵釜并四尺廷刀」において、釜と鎌の結合が、釜と甑にまつわるカマとの融合を表しており、石長比売と木花之佐久夜毘売の両者をともに使うことになり、記の大山津見神のウケヒにある、「我之女二竝立奉由者、使石長比売者、天神御子之命、雖雪零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘売者、如木花之栄栄坐、宇気比弖〈自宇下四字以音。〉貢進」という言葉に呼応してくる。両者を使った刀を製作したのだから、「服此刀者長壽子孫汪〃得□恩也」と言えるのも確かになる。釜と、釜にかけるのが本来の姿であるはずの甑の、それを作る時の鎌のような形の道具とを合体させた刀を持っていれば、長寿繁栄間違えなしということである。もちろん、そのような上手い話については、真実であるかどうかといった次元の話ではなかろう。そうあって欲しいと願われているだけに違いない。ウケヒの文句を具現化したに過ぎない。それを現代の研究者は「威信財」という術語に呼ぶかもしれないが、筆者同様憶測の域を出ていない。
 始めに言葉ありき、から出発すると、大山津見神のウケヒの文句など、そもそもが信を置けるようなものではない。そうあってくれるといいなと思って2人の娘を貢進したと言っている。言っていることが大袈裟で、カマをかけたような話である。カマをかけるという慣用句の語源説に、さらに、⑧釜を竈に架けることも付け加えたい。大陸で鉄製であった釜は、それに合わせて設けられた竈に架ければ十分役に立つはずであった。本稿の「コノハナノサクヤビメ考 其の一」以下において、筆者は、大陸から鉄器として釜がもたらされたのが本邦での釜の始源である可能性が高いと指摘した。それまで、煮炊きには、効率の悪い囲炉風の火処(ほど、ドは乙類)を使っていたが、竈を作って釜をかけるという新技術が伝来した。まことにうまい具合にできている。火も煙も見えないから、ご飯はまだ炊けていないだろうと思っていたら、すでにおいしく出来上がっていた。騙されたような仕掛けである。この説の焦点は、まんまと乗る、とするところが、飯(まんま)を炊くために釜を乗せることと絡んでいる点である。カマをかけるという慣用句の語源新解釈である。
五徳に鍋に薪の炎、横に戟のようなヨキ(斧)(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1991年、86頁より)
 けれども、羽釜の羽(鍔)が錆などで欠け損じてしまうとうまく竈に架からない。通常の容器において最大の欠陥は、穴が開いて中に入れる液状の物質が漏れ出すことであるが、釜の場合は羽(鍔)部分の損傷も大きな欠陥とされる。竈から落下してしまって役に立たない。まんま(飯)と乗せることができなくなる。それはいつか。ハ(羽)+ツキ(尽、キは乙類)=葉月(はつき、キは清音で乙類)、つまり、八月である。大刀の銘文に書いてある。「八月中用大鐵釜并四尺廷刀……」。なぜ「八月」と記されてあるかについては、これまで吉祥句や鍛冶屋のならわしによるのではないかとの説があげられている。筆者は、八月は羽釜のハがすり減り尽きて竈に埋没するようになったため、役に立たないから鋳つぶしてしまおうという次第に相成ったと考える(注6)。その結果、釜は落下転倒し、灰神楽になってかまびすしい大きな音をあげた。江田船山古墳出土の銘文を伴う大刀は、カマとカマがあわさってできたやかましいもの、75文字にも及ぶうるさい銘文を持ったものであることを自ら記銘している。自己言及の筆致は、無文字文化の感性に適っている。そのしるしが、長文の銘文である。(つづく)
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コノハナノサクヤビメ考 其の三(付足 注 其の三(比況・甑落とし他))

2016年03月30日 | 論文
承前
 助詞のノミ(ノ・ミはともに乙類)は、万葉集ではしばしば借訓で鑿の字を用いる。工具の鑿は、弥生時代から鉄製で、古墳時代には鍛造でいろいろな形のものが現れている。白川静、前掲『字訓』の「のみ〔鑿〕」の項に、「漢字の鑿は名詞・動詞に用いる。『のみ』も名詞形の語らしく思われるものであるが、その動詞形の有無は知られない。おそらく『呑(の)む』と関係のある語であろう」(600頁)とある。ヤマトコトバでは動詞形は知られないものの、呑むと関係があると鋭い指摘がなされている。そして、ただノムといえば、ふつう酒を飲むことを指す。酒を呑むと、酔っぱらって頭が斜めになる。首を斜めに傾がないと呑むことはできないから、呑の字は天+口ではなく、夭+口なのであると、字の形が納得できる。
鉄鑿(山梨県中央市大塚古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
 工具の鑿の刃も、必ず片刃である。斜めになっている。鑿によって物が加工される最たるものは、仏像のような彫刻である。木の塊を彫ることで、神や仏の像に化けるのである。轂に輻を嵌めることは、矧(は)くといった。人や神を紛らわすために姿が変わるのは、化(ば)くである。米が酒になるのも、劇的な変化であり、そう言って構わないであろう。また、酒を適量呑めばほろ酔いになり、神憑りしたかのような化けた状態にひたることができる。しかし、呑みすぎた場合は化くどころか一転、吐(は)くことになる。神代紀第十段一書第四に、海幸・山幸の話の呪詛の場面が紹介されている。釣針を返すときに呪いのことばを言い、その後で「三(みたび)下唾(つはき)」、つまり、三度唾を吐いてから返している。また、相手がそれを使って釣りを再開したら、「風招(かざをき)」のための「嘯(うそぶき)」、つまり、口をすぼめて息を強く吐いている。この呪術の結果、兄は溺れて死にそうになる。そこで、「善き術(ばけ)」を使って助けて欲しいと懇願している。術の古訓にバケとあるのは、吐くこと(「下唾」、「嘯」)と対だからである。そして、話は命ごいである。上述のとおり、命のイは息のことで、呼吸というように先に吐くから吸えて生き長らえる。息を呑むというと、死にそうになるほどびっくりすることである。人は死ぬと神や仏になるとされていた。鑿という道具の真髄は、片刃で斜めであるゆえ、「化く」と見なすことができる。「吐く」道具が何に当たるか。「箒」は候補であろう。殯の際、「箒持(ははきもち)」(記上、鷺)、「持帚者(ははきもち)」(神代紀第九段本文、川鴈)が登場している。息を吐くことからの連想で、掃く道具が持ち出されているのではないか。当然ながら、由縁は不明である。
 「吐く」ほどの酒につ(いては、上田誠之助、前掲書によれば、糵はもともと芽米であったが、実際に芽米を作る際、麹菌に汚染されると室のなかに麹菌の胞子が充満し、九世紀の延喜式の頃には麹菌汚染蒸米、つまり、米散麴づくりになってしまっていたのではないかとあった。
 醴酒(コは甲類、ケは乙類)は、和名抄には「一日一宿の酒なり」と記される。令集解には、周礼の注に甘酒のことであるとし、古記という大宝令の伝を引き、「麹を多くし米を少なくして作る。一夜にして熟(う)むなり」としている。どろどろを呑む、濃酒(こさけ)の意であるが、正倉院文書に「粉酒」とある。延喜式に、「醴酒は米四升、糵(よねのもやし)二升、酒三升を和合醸造し、醴九升を得」とある。ただし、その頃には糵をつくるときに黄麹菌が繁殖しており、米散麹(こめばらこうじ)(米蒔麹)になっていたということである。蒸米に米麹を混ぜ、すでに出来上がっている酒を加えて作ったカクテルであり、白酒のような甘い飲み物のようである。あるいは、濁り酒に似ている酒の子(コは甲類)ども、付け足して増した利子のような酒の意を含んでいるのかもしれない。そして、糵と麹とを混同している。あるいは、黴が生えることも、芽が出ることも、ヤマトコトバではともに「かび(ビは乙類)」と言っており、概念的に同じことであったと言ったほうがよく、それを「もやし」と呼んだらしい。
 礼(禮)を尽くす酒が、醴である。豊(レイ)は醴の初文で、古代中国では、臣下に醴を賜う礼があった。わが国の民俗でも、甘酒祭りとは、供物とする甘酒を作って神に捧げ、後でそれを下げてきて飲むことを重視した祭りの呼び名であろう。いずれにせよ、礼酒とは賜酒のことである。「賜(たま)ひ」はタ(手)+マヒ(幣)のこと、「あまひ」に似て非である。似て非なるとは、「似非(えせ)」である。違うけれどよく似ているとは、「似(たうば)れり」(応神紀九年四月、雄略紀元年三月条)である。タウバルは、タマハル(賜)の転かとされる。岩波書店の大系本日本書紀に、「タウバルは、似るの意。語源は『賜はる』か。本質的なものをいただく意から、似る意となる。……多く天皇などの貴人に似ている場合に使う」(ワイド版岩波文庫(二)、199頁)とある。似ているが違う紛らわしいものの形容に、アマヒという語はあるようである。吉野の国樔人は天皇にお酒を献上している。お酒はお酒でも、立場が逆である。饗宴があれば、主人側が酒を用意しもてなすのがふつうである。紀にも、蝦夷などに「饗(あへ)たまふ」という記事は、時代が下るとしばしば見られる。王化思想である。周礼・天官・酒正に、「酒の賜頒(しはん)を掌(つかさど)る」とある。
 漢書・楚元王伝には、「醴酒を設けず」の故事が載っており、客として待遇する礼が衰えたことを表している。楚王は、食客として申公や穆生を招いていた。「初め元王、申公等を敬礼す。穆生酒を耆(たしな)まず。元王、置酒する毎に常に穆生が為に醴を設く。王戊が位に即くに及びて常に設く。後に設くを忘る。穆生退きて曰く、以て逝くべし。醴酒設けず。王の意怠らめり。去らずんば、楚の人将に我をして市に鉗せん」。醴の切れ目が禮の切れ目という話である。本邦での例としては、「置酒(おほみきをめ)して群臣(まへつきみたち)に宴(とよのあかり)す」(天武紀二年正月条)とある。また、礼記・喪大記にも記述があり、喪礼にも使われている(注13)。早死にしそうな雰囲気も漂ってくる。禮は「うやまひ」で、やはり「あまひ」に似て非である。醴は甘酒だから、「あまひ」酒であると洒落たらしい。
 大山津見神は、二人の娘を奉じるとき、「百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物」を持たせていた。贈り物の品を示しているとされる。紀には、「百机飲食(ももとりのつくえもの)を持たしめて奉進(たてまつ)る」とある。類例に、第五段では、「百机(ももとりのつくえ)に貯(あさ)へて饗(みあへ)たてまつる」、第十段に、「饌百机(ももとりのつくえもの)を設けて、主人(あるじ)の礼(ゐや)を尽す」とある。また、「…… 小螺(しただみ)を …… 高杯(たかつき)に盛り 机に立てて 母に奉りつや 愛(め)づ児(こ)の刀自(とじ) ……」(万3880)とも見える。机の上に食べ物が載っている様は、神饌をお供えするときのようである。机とは、御食机、御贄机、御饌奉机などと見えるものである。食物を載せているから、折敷(おしき)のような風情であろう。折敷は、片木(へぎ)を四方に折りまわして作った角盆である。材質としては、一般的に杉が用いられる。酒造りに当たり、蒸しあがった米を杉の台に広げる光景を髣髴させる(注14)
 麹糵(キクゲツ)はコウジとされている。糵はコウジ、また、モヤシである。糵に似た字の蘖(ゲツ)はひこばえである。孫のこともヒコといい、番能邇邇芸命は天孫であった。また、蘖に似た孽(ゲツ)はわざわいである。わざわいは、天に災といい、地に祅という。祅は妖に通じる。笑や咲に見える夭の字が出ている。少しだけ芽生えさせて実らせることがないから、種にとっては中途半端で祅である。また、麹(麴)は和名抄に、「麹 釈名に云はく、麹〈音菊、加无太知(かむたち)〉は朽つ也、鬱の使生、衣を朽ち敗る也といふ」とある。黴(かび)立ちの意をいっている。カムチ、カムシがコウジに転訛した。そして、麹は説文に正字を▼(竹冠に左が幸、右が匊)に作る。似た字の▲(草冠に左が幸、右が匊)は菊の初文で、「日精なり。秋を以て華さく」とある。天照大御神が日神なら、菊を御紋にするのは当然となる(注15)。そのうえ、天孫の邇邇芸命が米を握(掬)って降臨したとされている。麹に関係する氏族であるのもまた然なりである。蒸した米に種麹、すなわち、黄麹かび菌の胞子を植えつけて繁殖させ、花が咲くように膨らんだら麹のできあがりである。糀という国字は後代の作である。
 現在、日本酒に使うのは粳米である。醸造技術が進歩し、また酒造用に稲の品種改良が行われて粳米となっている。中国では紹興酒などの醸造用には今でも糯米を用いている。醗酵には、小麦や米を粉砕したあと固めて一旦水に浸け、かびを生やした餅麹を使う。餅麹は保存が利く。糯米は収量が粳米より約一割少なく、高価であったとされるから、ハレの日に餅を食べるようにしか作付けされていなかったという。応神記には、大陸から新酒造法を伝えた須須許理(すすこり)の名が見える。その名については、コリが朝鮮語マッコリのコリで漉す、濾過するの意、酒造りのことをいうのであろうとされている。ただ、木花之佐久夜毘売の説話では、醴酒が主役で扱われており、澄んだ酒や度数の高い酒は当面のテーマではないようである。また、須須許理が伝えた醸造法も、どのようなものであったか記載がない。稲麹のついた稲穂が糯系の稲に見られ、それを用いて麹糵を作ったと想定する(注16)のが、ことばのなぞなぞからは整合性が高いことになる。稲穂にはまれに、濃緑色の大豆のように見える病原菌の菌叢ができることがあり、そのなかに黄麹かび菌が混ざって生息している。それを稲麹という。
稲麹標本(国立科学博物館展示品)
 本稿の初めのほうで、番能邇邇芸命の名義は、賑やかなことと握々することとに関係すると提示した。麹かびに侵されていた糯種のイネがあったら、とても賑やかで握るのにもふさわしい。彼の父は忍穂耳命(おしほみみのみこと)である。「此の御子は、高木神(たかぎのかみ)の女、万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあ)ひまして生(あ)れし子、天火明命(あめのほあかりのみこと)、次に日子番能邇邇芸命、二柱(ふたはしら)なり」とある。万幡豊秋津師比売命は、一説に秋津、つまり、蜻蛉の羽のように精細な布を織る機織の神と考えられている。逆に、機織の技を以て大量生産したようなたくさんの蜻蛉が飛び交う秋の神ともいえる。水田が作られたからトンボが大発生した。秋津師のシは風のことかという。天火明命は、穂が火の燃えるように実るさまを表すとされ、その弟に当たる神だから黄麹かびの繁殖した稲穂と考えられる。番能邇邇芸命が釜こと、石長比売と関わらなかった理由は、稲麹ばかりでは炊飯してもおいしいご飯を炊き上げることはなかったという意味合いがあったのかもしれない。
 天が斜めになると夭になるという洒落は、おそらく、天にある月が斜めになっているということであろう。月の字は、満月ではなく上弦の月を表している。斜めに段梯子、つまり、階が懸かっているような形である。現在ではツキもニクヅキも同じタイプフェイスで示されるが、以前は別であった。月(つき、キは乙類)は尽きるからそう言い、望(もち)とは尽き始めである。命もどうしても尽きる。「幣(まひ)」は神への捧げ物である。幣帛というように、絹を神に捧げた。偉い人に捧げて便益をはかってもらうことは、「賄(まひなひ)」である。月の字がなかに斜めになって含まれている。つまり、「あまひ」がアマ(天)+マヒ(幣)であるとするなら、天神からの幣ではなくて、天神への幣だから、斜めになった夭の字が導かれることになる。高いところで斜めに網をかけているのは、木の花の咲いたように見えてそうではない。妖しげに化けた蜘蛛の網であった。

※(注1)~(注9)は、「コノハナノサクヤビメ考 其の四」、「同 其の五」に掲載してある。
(注10)山口佳紀、前掲書に、「○天つ神御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐(いま)さむ(古事記)○其(そ)の生めらむ児(みこ)は、必ず木(こ)の花(はな)の如に、移(ちり)落(お)ちなむ(日本書紀)の二文は、それぞれの文章において占める文脈的な位置が全く異なると言わなければならない。したがって、この両文から〈アマヒ=如〉の等式を導き出すことは、甚だ短絡的なやり方だということになる」(179頁)とある。文脈が違うから違う言葉であるに違いないと導き出すことも、やはり短絡的と言わざるを得ず、また、山口先生は日本書紀の「如」について、ゴトと訓むことに黙然されているように見える。
 比況表現に使われた古典語としては、ゴトシ、ゴトクナリ、ヤウナリなどが挙げられる。万葉集では、ゴト、ゴトシ、ゴトク、ゴトキといった活用がある。白川、前掲字訓に、「『ごと』『ごとし』の語源は明らかでない。類似したさまをいう朝鮮語 kat や満州語 gese と同源とする説もあるが疑わしく、『こと愛(め)では』『こと放(さ)けば』の形でみえる『こと』と同源とする説もあり、その方が穏当のようである。橋本進吉〔上代語の研究〕に詳論がある。……如・若いずれも『ごとし』とよむ。『ごとし』とはさながらであること、神と一体となることで、神の憑(よ)りつく意。すなわちエクスタシーの状態になることである。『ごと』『ごとし』もそのことと一体となる意で、そのことから比況の意を生ずる。それは重要な『こと』が『ことごと』となり、『ごとに』に転じてゆくのと相似た関係といえよう。……『ごと』とは、本来はその『こと』と一体化することであり、如・若には『この』『かくのごとき』という強い指示的性格をもつ語である」(330~331頁)とある。
 つまり、雑駁にいえば、ゴト(如)という語は、コト(言=事)の進化形である。そして、いま語られているのは、ウケヒの文脈である。「こう言えば、こうなる」という命題のひっくり返しの呪術場面である。完全なる等号が求められるなか、ゴトシなどという比況表現が現れることに、戸惑いを隠せなかったであろう。言と事とはどうしたって違うという内実がばれてしまうのである。それは言霊信仰を揺るがしかねないゆゆしき事態である。さらに、その比況表現たるや、等式よりも不等式に近いようなものであった。例示するなら、
 XはYのようだ。(XはYの如し。)
 Xは「YのようであってYではない何か」のようだ。(XはYあまひに坐す。)
の関係ではなかろうか。直喩ではなく、反(半?)直喩である。提題しているのは、イノチである。イノチという言葉のニュアンスについては本文に述べたとおりである。山口、前掲書に、「天つ神御子の御寿は、木の花のアマヒのみ坐さむ。という一文は、〈天つ神御子の命は、木の花のように満ち足りることだけがおありになるだろう〉という意味になる。そして同時に、助詞ノミの働きによって、〈岩石のように満ち足りることはおありにならないだろう〉ということが含意されるのである」(184頁)とされている。文意から語義を捻くり出した結果、さて、この比喩は通じるであろうか。イノチと掛けまして、木の花(岩石)と解く、そのココロは、何であろうか。三百歳まで生きた武内宿禰のことでも念頭に置いた比喩なのであろうか。さざれ石をイメージしているのであろうか。それはまた、言=事の言霊信仰や、対偶は真であることを活用したウケヒと、どのように関係するものであろうか。言葉の発せられた状況設定、言語空間から切り離し、何のための比喩かわからなくなっている。イノチを木の花や岩石に譬える必要性も十分性も感じられない。アスファルト舗装を剥がした時に見られるさざれ石を貴ぶ考えが、上代のどの文献に見られるのか、管見にして不明である。
 イノチといった抽象的で捉えにくいものを具体的なイメージとして捉えようとする際、すなわち、「語り得ぬもの」(ウィトゲンシュタイン)を語ろうとするとき、私たちは類比させることで表そうとする。その方法は、“概念メタファー”(ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン、渡部昇一・楠瀬淳三訳『レトリックと人生』大修館書店、1986年)と名づけられている。そして、状態を容器の比喩で捉えることを私たちは頻繁に行っている。“イメージスキーマ(image schema)”(M・ジョンソン、菅野盾樹・中村雅之訳『心のなかの身体―想像力へのパラダイム転換―』紀伊國屋書店、1991年)が形作られている。イノチは、量として計り得るものと捉えれば、器に盛られた嵩高として比喩表現されることが容易に了解される。漲っていたイノチが漏れ出して、器に残った油が少なくなるようにイノチが風前の灯火となる、といった表現が可能である。結論を言えば、
 イノチは巌のようだ。
 イノチは木の花のようだ。
と言っているのではなく、
 イノチは巌のようであって巌ではない羽釜のようだ。
 イノチは木の花のようであって木の花ではないコシキのようだ。
と器を以て譬えているのである。そういう饒舌な表現を簡潔化させるため、アマヒという語を考案し、その一語のなかに閉じ込めてしまっているのであろう。アマヒという語には、論理階梯を撞着させた意味が含意されていると考えられる。言=事の進化形のゴト(如)の意味の背面を示している。羽釜のようなイノチとは、溜まっている水量は多いが常温からたぎるまでに時間がかかる。まさに、ゴトゴトとじっくり煮込むしかない。じれったい持って回っただらだら人生である。甑のようなイノチとは、水嵩はなくなっているが、上に置けば水蒸気によって100℃の高温加熱がすぐ可能である。瞬間湯沸器、電子レンジ的な人生である。もちろん、濡れたネコを電子レンジで乾かそうとしてはいけない。コメの調理法の煮て食べるか、蒸して食べるか、について、番能邇邇芸命というお米の象徴らしき神さまのイノチ、なる抽象的な話をでっち上げて論じているのである。
 以上、「如」という文字で表す義において、カクノゴトシという指示の強調された和訓では表し得ない義、……に似ているけれど非なること、について、アマヒという言葉で語ろうとしていると提起した。似ている点よりも似て非なる点に力点が置かれた語である。比況とは、ふつうは似ている点に注目が行くが、似ているが同じではない点、似非の方について関心が向いている。そんな言葉が作られていたと知れば、記であれ紀であれその記述者は、アマヒというヤマトコトバ(その言葉が、いつ作られたものかは不明ながら)をなんとか巧みに写し取ろうとしたものと思われる。一語一語の言葉に対する情熱に、文字を持たなかった上代人と文字に甘んじて暮らすその後の人たちとでは開きがある。言葉に対する緊張感が違うように感じられる。
(注11)甑につく「耳」の機能的意味は、取っ手兼引っ掛かりなのかもしれないが、上向きのU字J字のフック形態がどのような造形的意味合いを有するのか、筆者にはわからない。大陸からの伝来関係も不勉強で知らない。なぜこのようなパスタのコンキリエみたいな形状を表すに至ったか、納得がいかない。示唆を頂けると幸いである。いずれにせよそれは「耳」であるから、2つしかなく、座りは定まらず、傾ぐ(→炊ぐ)ことになる。そのなぞなぞだけは理解できる。
双耳壺(奈良県北葛城郡王寺町大字王子西安寺出土、奈良時代、8世紀、東博展示品)
(注12)甑落としの習俗については、徒然草や平家物語に記述があり、山塊記などから実際にあったことと確かめられ、永昌記の天治元年(1124)五月廿八日条(「……大夫属宗房奉仰団甑御所上……」)から記されている。後産についての呪い事で「御胞衣とゞこほる」ことを防ぐことのように徒然草にあるが、それを鵜呑みにする気になれない。筆者は、上代の研究をしている。上代、お産に関する話として最もユニークなものは、神功皇后が鎮懐石によって応神天皇の生まれるのを新羅親征後へと先送りした話である。当たり前のことであるが、実際にあったことではない。人々に親しまれた話のレベルである。どのようにして生まれないようにしたか、「其の懐妊(はら)めるを産むときに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纏(ま)きて」(仲哀記)とある。湯たんぽではないから、パンツのような形であてがったと想定したのであろう。そのような石器(玉器)は、中国ではともかく本邦では発掘されていない。それに似た石器らしきものは、甑である。それが実用的な土師器のような赤っぽい色彩なら、甑は胞衣のようでさえある。胎盤のありようについて、観察眼に長けた古代に知識がないはずはあるまい。
胞衣図(刑死者解剖図、1800年、1842年複写、東洋文庫ミュージアムデジタルブック、「解体新書展」(~2016.4.10迄)にて。本展覧会出品解説の1行キャッチコピーはどれも当を得ている。広告業界人必見であろう。)
 甑落しをこの応神天皇の誕生譚に関連するものと考えると、甑を割ることが「其の御子は、あれ坐しき」(仲哀記)に相当する。山塊記、治承二年十一月十二日条の割書きに、「兼ねて之れを破り、麻を以て仮に之れを結び、落した後破らせしむ也。召使之れを持ちて兼ねて棟北に在り、其の告げるに随ひて之れを落とす可き由、誡仰すと云ふ。……件の甑、社所有の大原より内膳に渡り、大炊、之れを用ゐせし後庁に渡り、庁に於て破り結ぶ云々」とあって、予め割っておいたことが知られる。割らないと生まれないのは、神功皇后のお産に始まる。すなわち、お産の習俗であって、後産の習俗となったのは後の時代のことであろう。本ブログ「中大兄の三山歌 其の八」では、征西途中の船上で、大伯皇女誕生の際、甑落としの行事が行われたのではないかと推論した。
甑落とし(?)(小松茂美編『続日本の絵巻19 彦火々出見尊絵巻 浦島明神縁起』中央公論社、1992年、41頁より。原本は12世紀末成立かとされる。かわらけを踏み割っているが、妊婦はまだ出産していない。)
(注13)礼記・喪大記に、「君の喪には、……祥して……、始めて酒を飲むには、先づ醴酒を飲む」、「既に葬りて、……若し酒醴有れば則ち辞す」などとある。竹内照夫『礼記 中』(明治書院、昭和52年)に、「醴酒」は「一夜酒・甘酒の類」(672頁)、「酒醴」は「『濃い(強い)酒』と解しておく」(674頁)とある。
(注14)本ブログの姿勢としては、「机」とは何か、について深く考究しなければならないが、収拾がつかなくなるので稿を改めることにしたい。
(注15)天皇家が菊の御紋であることに違和感を覚えるという意見を耳にしたことがある。菊をキクと読むのは音読みで、外来種を紋所にするのが気に入らないといった内容であったと記憶する。植物としては和名抄に記載のようにカハラヨモギにあてるかもしれないが、麹→菊→ chrysanthemum(略称 mum)という流れによっているものと考えられる。
(注16)小泉武夫「米麴の発生から日本の酒造り―稲麴の周辺からの一考察―」石毛直道編『論集 酒と飲酒の文化』平凡社、1998年。(つづく)
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