古事記・日本書紀・万葉集を読む

コピペで学位は自己責任で。(つまり、そちらの問題なのだ。)

応神記の名易え 其の二

2017年02月21日 | 論文
(承前)
 さて、それでは、「胎中天皇」とも記されることのあった太子(応神天皇)の元の名は、何であろうか。ふつうなら生れていて乳母に抱っこされ、名前が付けられて呼ばれていたであろうときに、お腹の中にいるのだから名前が付けられていない。これは異常事態である。あるべき名がない。名がない子どもとしてお腹の中にいた。ナ(名)はナ(無)かった。ナ(腹、中)にあった。ナ(己)にはどうすることもできない。それをどうにかしたいとき、決意・希望の助詞ナが使われよう。それらすべてが実情である。すなわち、太子の元の名とは、ナ?&ナ!である。
 ナ(己)については、次のような例がある。

 大己貴神(おほなむちのかみ)(紀)=大汝神(おほなむちのかみ)(播磨風土記飾磨郡条)=大汝(おほなむち)(万4106)=大穴道(おほなむち)(万1247)=大名持神(おほなもちのかみ)(出典未詳)
 常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣刀(つるぎたち) 己(な)が心から 鈍(おそ)やこの君(万1741)
 …… 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず ……(万1755)
 …… 己(な)が母を 取らくを知らに 己(な)が父を 取らくを知らに ……(万3239)

 第2例の万1741番歌は、「剣刀」はナ(刃)の意でナにかかる枕詞である。常世の国辺に住んで安楽に居られるものを、自分で間抜けなことをしでかしているよと歌っている。その「己(な)」を二人称と見る説もあるが、一人称と二人称の呼び方が重なる例は数多い。問答をする際に、相手の立場に立って言えば、ワレ(吾)もワタシ(私)もボク(僕)もジブン(自分)も二人称となる。第3・4例も同様である。
 実際、古事記において、応神天皇は太子時代、名前をもって呼ばれていない。「御子」、「其の太子」、「其の御子」とされている。どう呼ばれていたか。ナであろう。彼は幼少のころ、ナと呼ばれていた。ナという語に名と魚の両義性を求めていたのではなく、ナという語の根本概念、自己撞着を起した状態をもって、綽名とされてそう呼ばれている。したがって、彼は、角鹿(つぬが)において、ナに包括されている呪縛から抜け出そうとしていた。そういう洒落を言っている。ナ(腹、中)とナ(名)とナ(無)とナ(魚)などの多義性を面白がっている。
 魚のことをナという例は、万葉集にも見られる。

 帯日姫(たらしひめ) 神の命(みこと)の 魚(な)釣らすと 御(み)立たしせりし 石を誰(たれ)見き(万869)

 この歌は、記紀の逸話に依っている。仲哀記には、帯日売命(たらしひめのみこと)(神功皇后)がご飯粒でアユを釣ったとする話になっている。

 亦、筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り坐して、其の河の辺(へ)に御食(みをし)せし時は、四月(うづき)の上旬(はじめ)に当りき。爾くして、其の河中の磯に坐して、御裳(みも)の糸を抜き取り、飯粒(いひぼ)を以て餌(ゑ)と為て、其の河の年魚(あゆ)を釣りき。其の河の名は、小河と謂ふ。亦、其の磯の名は、勝門比売(かちとひめ)と謂ふぞ。故、四月の上旬の時に、女人(をみな)の裳の糸を抜き、粒(いひぼ)を以て餌と為て、年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)

 どうしてこのような釣りの逸話が作られているのか。それは、彼女のお腹のなかにいた御子のことをナと呼んでいたからであろう。釣ったナ(魚)はアユ(年魚)である。このアユという語は、アユ(肖)と同じ言葉である。ナ(中)、ナ(魚)、ナ(名)のそれぞれの似ていること、写像としてあることを言いたいから、アユ(鮎、肖)という語をもって示している。仲哀紀には、「皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。」と、きちんと「肖ゆ」という言葉を使って述べている。記に、時期は「四月之上旬」としている。ウヅキノハジメノコロとは、陣痛の我慢から解放された時のことだから、「疼(うづ)き」と同音の時期に設定されているのであろう。さほどに、ナと神功皇后のナ(お腹の中)とは密接な結びつきを孕んでいる。
 「お腹(なか)」という語は、日葡辞書(1603~04)に、「Vonaca. ヲナカ(御中)」とあり、婦人語とされている。古い文献例は見られないようで、腹の内部のことはただハラというのがふつうであったらしい。今でも、胃腸が痛いことをハライタと言っている。ただし、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「はら〔腹〕 人や動物などの腹部をいう。『原(はら)』『平(ひら)』などと同源。身体の中で最も広く平らなところである。」(631頁)とある。すると、脹らんだお腹のことは、ハラの概念と異なってくる。最も象徴的な膨らんだお腹は、臨月の妊婦のそれである。問題は、腹の中身である。中身についてとやかく言おうとしているから、記に「腹中」、紀に「胎中」という特異な表記が出現している。口語としてナカ、または、ナという言い方があったのではないか。それは、この話でいえば、水族でありながら哺乳類で胎生のイルカを持ち出して語られていることからも窺える。妊娠中のイルカであれば、ナ(魚)でありつつ、ナ(中=腹・胎)にナ(魚)(児の魚)を包んでいる。タナゴ的な様相になっている。配役にイルカを登場させた第一の理由である。このからくりによって、お腹の大きな女性(雌イルカ)は、妊娠しているのかメタボなのかわからないことになる。神功皇后のお腹の中の胎児であった応神天皇がナ(胎中)として入っていたのが、代わりとして胃袋にナ(食物)を詰め込むことで同じ状態を保つことができる。これは、ナ(中)とナ(魚)との交換である。御子(応神天皇)は、ナ(己、自分)のナ(名前)において弄ばれていることに気がついた。無理して胎中にあったのだから、出て行きたくてたまらなかったのである。古語に、動詞イヅ(出)である。

 越の海の 角鹿(つぬが)の浜ゆ 大船に 真梶(まかぢ)貫きおろし 鯨魚(いさな)取り 海路(うなぢ)に出でて あへきつつ ……(万366)

 「いで」という語には、感動詞の、さあ、の意がある。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「動詞イヅ(出づ、ダ下二)の古い命令形イデから出た語。上代から例があり、中古を中心によく使われている。」(130頁)としている。上代の使用例としては、相手に向って呼びかけるときの場合(さあ。どうぞ。)、自分が行動を起そうとするときの場合(いざ。それっ。どれ。)、自分に対してであるが承服しがたい場合(いや。さあどうだか。)といった分類が行われている。三省堂の時代別国語大辞典上代編では、「①他に対して何らかの行動を乞い求める場合。……②自己の意志を強調する場合。……③自分に対して問いかけ、疑いをこめる場合。」と分類され、「【考】類語にイザがあり、イデと同じとみる説がある。②にはイザと重なる面があるけれども、①と③はイザにはない。」(84頁)とある。それぞれ1つずつ例をあげる。
 
 圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)。(允恭紀二年二月条)
 この川に 朝菜洗ふ子 汝れも我れも よちをぞ持てる いで子給(たば)りに(万3440)
 いで如何に ここだはなはだ 利心(とごころ)の 失するまで思ふ 恋ふらくのゆゑ(万2400)

 時代別国語大辞典にいう①の意と同じ用例として、「…… 夕(ゆふべ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり ……」(万904)の「いざ」という例があると思うがどうなのであろうか。大野編、前掲書に、感動詞の「いざ」は、「動詞イザナフ(誘ふ)の語幹。勧誘・行動開始の時などに発する語で、上代から確例がある。」(109頁)とある。また、イデの③の使い方は、さあどうだかわからない、と言いよどむ言葉のイサによく似ている。

…… 愛(は)しきやし 今日やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある ……(万3791)

 すると、イデという語は、イザとイサとによってまかなわれることになる。語の由来としてイザとイサは異なると、目鯨を立てる方もおられようが、鯨のことは古語にイサである。「俗(くにひと)、鯨を云ひて伊佐(いさ)と為す。」(壹岐風土記逸文)とある。ここで筆者は半分冗談を言っている訳であるが、口語の発語の言葉について、用法が異なると峻別できるものなのか、はなはだ疑わしい。もとより、上代の人たちが、言葉遊びに興じていたとして、何も咎めたてられることではあるまい。
 現代語で、「さあ」と言った時、「さあ、やるか」は自分がやるのか、相手にやらせるのか、どちらでも構わないし、やるものか、という拒絶の言としても成り立っている。そのような義の古語イザには、「さあ」の短縮形のサという語もある。それらを連結させたイザサという語は、自らを奮い立たせて何か新しい境地へと向かう際の掛け声を表すことになるし、相手に誘いかける時の重々しい働きかけの掛け声とも捉えられる。はたまた、どうしたらよいのか躊躇、逡巡するときの発語ともなり得るであろう。
 「御子」は、わざわざ越の国へ赴いて何をしようとしていたのか。一般に成人式、成年儀礼の意味があるとされている(注3)。そういう言い方をするならばそのとおりであろう。母親の庇護から離れ、独立した一人前の人間として生きて行こうとしていた。そのためには、負っているナ(中、腹)というナ(名)をどうにかしなければならない。母親あっての「御子」なのであるが、「御子」でありつつ独り立ちしたい。ダブルバインドから抜け出すにはどうしたらいいのか。そのとき、気比大神が夢に現れて、うまいことを提案してくれたのである。その名は、笥飯(けひ)である。食べ物のことである。お腹の子どもの代わりに、お腹に食べ物を入れればいい。そうすれば、あなたはナ(中、腹)という名を負ったままでも、ナ(己)として一人前になれる。だからさっそく、ナ(魚)を献上しましょう、ということとなっている。
蚊帳のある御殿(春日権現験記絵巻七(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1991年)
 イルカ(「入鹿魚」)であった理由の第二は、太子と武内宿禰とは、出張先で仮宮を建てて泊まっているからである。いつもの御殿ではない。ボンボンはふだん宮殿で暮らしている。蚊帳で囲われているから、母胎に包まれているのと同じ境遇にある。蚊に食われることはない。しかし、出先の仮宮では、蚊帳がないから蚊取線香になるような松葉などを燻べて凌ぐわけだが、どうしても部屋の中に蚊が入ってきてしまう。イルカ(「入る蚊」)である(注4)。夜、なかなか熟睡できない。今日、レム睡眠とノンレム睡眠とが循環して眠りが構成されていることが知られ、レム睡眠の際に頭脳が活動して夢を見ることが多いことが知られている。(ノンレム睡眠中でも夢を見ることはあるらしく、夢に濃淡もあるらしいが、本稿とは関係ないので深入りしない。)蚊が入って熟睡できないから、夢を見がちになる。付き添いの建内宿禰とて同様である。刺されたら痒いから、バチバチ叩く。叩かれて死ぬ蚊は、鼻を人の体の中に入れたまま潰されるから、鼻がへし折られて血まみれの状態になる。だから、角鹿の海岸に打ち寄せられていたイルカは、「鼻を毀てる」こととなり、その浦は「血浦」と名付けられている。地震が関係してイルカが浜に打ち上げられている例が知られ、また、イルカを捕獲するには、追い込み漁を伴いながら頭部を銛で突くこともある。神奈川県横浜市稲荷山貝塚(縄文時代)からは、イルカの骨が多数出土している(注5)。しかし、実際の漁法や解体作業と、「鼻を毀てる」という表現とは結びつかないと思われる。なお、イルカの呼吸器は、ハナ(端)と呼ばれる口先の部分にではなく、頭の上にある。
バンドウイルカ頭骨(横浜市金沢区称名寺貝塚、縄文時代中期末~後期初頭、横浜市歴史博物館展示品)
バンドウイルカ?(新江ノ島水族館)
「海豚漁法」(三重県水産図解データベース様、48頁)
 なるほどである。御殿暮らしばかりでは知り得ない体験である。世の中には蚊がいて、食うか食われるかの自然の営みをしている。食べ物が手に入るのは当たり前だと思っていてはいけない。「御食(みけ)の魚(な)」はそういう自然の営み、民百姓の生業をもって生れている。飛躍的な悟りである。それは成人儀礼に当たると言えばそのとおりである。ただし、儀式化した行事を意味するのではなく、本当に体験して理解したということを示している。体験を経験としてフレーミングし、物語へと昇華している。それを言葉として表しているのが、この名易えの話である。ナ(中、腹)というナ(名)は普通名詞だから変えられないが、それをナ(魚、菜)であると捉え返せば呪縛から逃れられるのである。嫌な綽名を付けられても、意味を読み替えて克服する人は生きる力の強い人である。
 胎中にあるままの坊やは、世間知らずである。与えられた過保護の呪縛から解き放たれなくてはならない。抜け出すには、イザ、サ、と掛け声をかけて発奮し、自ら鼓舞して生きようとしなければならない。そんな状況の時に、イザ+サという神さまが夢に現れた。あなた、名前、易えようか? まったくもって「恐(かしこ)し」、賢いことである。頓智が冴えわたっている。翌朝、浦へ行ってみると、「御食の魚」が「依」っていた。依っているのだからそれに依って何とでも考えればいい。これは、「御食の魚」なのだ、自分の名のナ(中、腹)は、これからは、ナ(魚、菜)に当たるものにしよう。それはまるで、クラインの壺(クラインの瓶)(注6)をぐるりとめぐったも同じであるが、ナ(己)を相対化して鳥瞰することができたのである。雌イルカのお腹の中に子イルカのいるのを見て悟ったものと思われる。
鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
鞆(幅12cm、厚6.3cm、奈良国立博物館編『第六十六回「正倉院展」目録』同発行、平成26年、66頁)
鞆形のクラインの壺(山下正勝「3次元の幾何学的トポロジー」本間龍雄ほか『幾何学的トポロジー』共立出版、1999年、9頁)
 ホムタノスメラミコトのホムタ(鞆)は、トモ(鞆)のことである。紀の分注に、「上古時俗、号鞆謂褒武多」とある。今はトモ(鞆)といい、昔はホムタと言ったとする。弓を射る時に左手に当てておいて、弓弦が手を痛めないようにする防具である。黒漆塗りの皮製で、正税帳からすると鹿ないし馬の皮を使うようである(注7)。正倉院に残るものは、牡鹿の白い毛やマコモなどの詰め物を入れて膨らませてあるという(注8)。鹿は、雌鹿はメカ、子鹿はカゴ、牡鹿をシカと呼び分けていた。記に、「角鹿(つぬが)」という設定をことさらにしているのは、シカ(牡鹿)にしか角が生えないため、その毛皮を使った鞆のことが念頭にあるからである。鞆は外皮に牡鹿の皮、なかに牡鹿の白毛を入れている。シカ(牡鹿)の毛皮を剥いで、裏返してくるりと丸めまとめたようなものである。シカは「然(しか)」と同音である。鞆とはすべてシカ(牡鹿)でできた然なるものである。
シカ(♂、奈良公園、2月)
「白鞆之図」
「鞆製作裁革表之図」
「同 裏之図」(高木正朝・日本古義(入江康平編『近世弓術関係刊行物資料その二 弓道資料集第九巻』いなほ書房発行、平成七年、257~259頁。国会図書館デジタルコレクション(65~67/87)参照。)
鞆の図(吉部秘訓抄を引く伴信友「鞆考補証」国書刊行会編『伴信友全集 巻五』(ぺりかん社、昭和52年、243頁)(国立国会図書館デジタルコレクション(127/270)、又は参照)
 話に唐突にイルカが出てきていた。浦に打ち上げられていたのが他の魚ではなくイルカだった第三の理由は、鞆が入れ子のシカ(牡鹿)ゆえである。牡鹿が子を孕むことはないから、面白味が増している。御子が胎内に宿った時、「我が大神」が「天照大神の御心」として、また、「底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神」だと称して教えてくれている。

 ……亦、建内宿禰、沙庭に居て神の命(みこと)を請ひき。是に教へ覚したまふ状(さま)、具(つぶさ)に先の日の如く、「凡そ此の国は、汝命の御腹(みはら)に坐す御子の知らさむ国ぞ」とさとしめたまひき。爾に建内宿禰白さく、「恐(かしこ)し。我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何(いづ)れの子(こ)ぞ」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子(をのこご)ぞ」とのりたまひき。(仲哀記)

 わざわざ建内宿禰が問い掛けて、大神が答える問答となっている。話として性別を確かにしたい点は、シカ(牡鹿、然)を強調する伏線となる。そして、「入鹿魚」と記している。当て字に魚類であることを示すために添え字が付けられている。手紙が入っている魚のことは、中国の故事に鯉素という。鹿が入っている魚のような形をしたものとは、鞆であろう。太安万侶は字が読めたから、そのような当て字をしているのであるが、イルカ=イル(入)+カ(鹿)という語感は識字能力とは無関係に、人々に共有され得る。みなヤマトコトバである。これは語源という意味ではない。古代の人は連想ゲームを楽しんでいたということである。イルカという水族は、カ(鹿)がイル(入)状態、入れ子構造状態のものであると洒落を言っているのである。そして、「鼻を毀てる入鹿魚」とは、イルカの鼻先に穴をあけてくるりと尾を回し通したら、まるで鞆のような形になると空想している。(その際、位相幾何学的な曲面まで考慮していたかは定かではないが、ナという言葉の循環を楽しんでいることから、概念としては理解していたように思われる。)
 鞆とは、外身も中身もトモ(共、伴)にシカ(牡鹿)であるから確かなものである。新撰字鏡に、「切々 敬也、憂也、太志加尓(たしかに)」などとある。タ+シカ(然)+ニの語構成であろう。確かなものとは、田において、然(しか)と確実な収量が見込まれる田のこと、すなわち、美田を指す。ホムタを「誉田」と記したときの義は、おいしいお米をたくさん収穫できる確かな田のことである。種籾を蒔いておいて秋に確かに一粒万倍に稔りを得ることができる田こそ、ホムタ(誉田)である。外もシカ(牡鹿の皮)、中もシカ(牡鹿の毛)なるものは鞆である。よって、ホムタというのは、御食(みけ)の謂いでありつつ鞆(とも)の謂いである。そして、ムタやトモという語は、~と一緒、という意味である。ナ(名)において、ナ(中、腹)とナ(魚、菜)とが一緒なことを自己循環的に表わす語としてふさわしい。
 ムタという語は、助詞のノやガをともなう連体修飾をうけて、副詞句を作る。~とともに、~のままに、~につれて、の意である。「波のむた」(万133)、「風のむた」(万119)、「神のみた」(万1804)、「君がむた」(万3773)、「人のむた」(万3871)などとある。波や風や神や君や人に包まれ懐かれて一緒になってもまれていくことになる。「波のむた」という言い方によく表れているように、波は寄せては返すもので、ぐるりと循環することを可とすることをいう。
 つまり、ナ(中)というだけのナ(名)であった御子は、ナのままでありながらナ(魚)と易えて、ナ(己)たるものとして、いろいろなナと一緒にもまれて行ったということである。この名易えの話は、日本書紀の分注の謎掛けにあるとおり、「然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。」として詳らかである。太子の名はナ(中)でありつつ、「いざ、さ」と「角鹿」まで出掛けてきている。大神の名はナ(魚)でありつつ、そうそうと答える「しか(然)」であり、「ほむた」でも「とも」でもあるような鹿が中に入っているようなものである。
埴輪 鞆(群馬県伊勢崎市上植木本町恵下2622出土、古墳時代、東京国立博物館情報アーカイブ様)
 以上、ナというヤマトコトバの位相幾何学を述べた。鞆という弓の防具がシカの毛皮を裏返してくるりと丸めて端を貫き通す作業を実地に行ってみれば、「然(しか)」なりと納得されることであろう(注9)。上代の人にとって、世界はヤマトコトバでできていた。これほど頓智の利いた言葉を喋っていながらただやり過ごすことはなかろう。人々は興趣を覚え、わざわざ鞆を単独の形として面白がって埴輪にして遊んでいる。形象埴輪とは何か。考古学では出土するモノを出発点として当時の人々のことを考えようとするが、残るものについては考え、無いものについては考えない。あるものについても、なぜそれがあるのか、現代人の視点、歴史学や民俗学からしか考えが及ばない。籠手形埴輪は乏しいのに、なぜ鞆形埴輪があるのか、素朴な疑問さえ浮上していないように思われる。しかし、古代の人は、鞆を埴輪に作って悦に入っていた。その所以について、名易えの話として古事記は雄弁に語ってくれている。古代の人は、ヤマトコトバで考えていたのである。
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「春日大社」展の籠手(こて)+板橋区立郷土館「武具繚乱」展

2017年02月19日 | 無題
籠手(鎌倉時代、13世紀、春日大社蔵、「義経籠手」、東博「春日大社展」2月12日迄展示。写真は『春日大社古神宝宝物図録』春日大社社務所発行、昭和48年)
両方の手に嵌める両籠手(もろごて)です。
南北朝時代から戦闘形態が接近打撃戦に変化して、両方の手にするようになったとされています。
その最古の残存例とのことです。

盛装の男子(埴輪、栃木県下都賀郡壬生町ナナシ塚古墳出土、古墳時代、6世紀、高山政之助氏寄贈、東博展示品)
古墳時代の埴輪でも、両方の手にしているように見えます。
その際、左手(弓手)に鞆(とも)を着けている例も見えます。
(埴輪には、鞆を腰にぶら下げているものもあります。鞆“単独”の作品がありますが、籠手“単独”のものはあるのでしょうか。)
その後に、籠手を左手だけにするようになったらしいのです。
絵巻物の絵でも左手だけに着けている例があります。
どうして左手だけになったのか、専門家による解説があったら教えてください。

古墳時代の甲冑の様子が展示されている横浜市歴史博物館にてお尋ねしたところ、
籠手については「ミッシングリンク」ではないでしょうか?
とお答えいただきました。
さすがプロの使う言葉は違い、英語が登場してきて驚きました。
“歴史”博物館だから“歴史”的にみることに貫かれています。

鞆はどこへ行ってしまったのかとか、
古墳時代の埴輪にありながら遺物としては鉄器でたまにしか見られないとか、(ほぼほぼ革製だったから残らなかった)
その辺までは良しとしても、物がないものを考えても仕方がない、というか
資料の途切れているものは科学的には考えようがないということのようです。
籠手(岡山県倉敷市真備町天狗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、團伊能氏寄贈、東博展示品)

思うに、(=非科学的に)
弓を持った人が馬に乗るようになって騎射になったとき、
右手で手綱を操りたいから籠手を嵌めていては動かしにくくて邪魔なので、(落馬しては意味がない)
籠手は左手だけにするようになった……、とか、
当てて音を鳴らして楽しむ(「ますらをの 鞆の音すなり」(万76))ために鞆をつけることがあった……、とか
戦以外の武装する必要のない芸事の弓の場合は鎧も兜も籠手もしていない……、とか、
それでも弓弦が左手に当ったら痛いから素手に鞆をつけることがあった……、とか
いろいろ考えては楽しんでおります。

小手先では謎が解けそうもないので本格的に研究(=道楽)しようと思っております。
(大いなる疑問→「籠手単独埴輪はなく、鞆単独埴輪があるのはなぜか?」)

なお、春日権現験記絵を絵巻大成などで予習してから行けばよかったと後悔しております。
その巻十三に描かれている灯火の燃料は、さて何でしょうか。胡麻油でしょうか?
灯明皿(横浜市金沢区上行寺東やぐら群遺跡、鎌倉時代、玉川文化財研究所所蔵、横浜市歴史博物館展示品)
さらにわからなかったのは、琴箱(緑地彩絵琴箱、本宮御料古神宝類、平安時代、12世紀、春日大社蔵)です。檜板の曲物で樺で綴じられていると説明されていますが、つなぎ目が見えませんでした。曲物は塗られてしまうととてもわかりにくいです。そして、その職人技について、人に聞くのも憚られます。愛好家にとっては「国宝」ですし、職人さんにとっては当たり前のことのようです。
(以上が、2017-01-30に記したことです。)

(以下は、2017-02-19に記したことです。)
板橋区立郷土資料館「武具繚乱」展(~3/26)へ行ってきました。
関谷弘道氏の遺された甲冑刀剣類コレクションが寄託されてたくさん展示されています。
江戸時代のものがほとんどです。

左から、鉄黒漆塗五本篠籠手(細長い鉄板を並べたものを篠といいます)、鉄黒漆塗三枚筒籠手(一の腕の筒のところが紅糸菱綴で繋がれています)、鉄錆地三枚筒籠手(3枚の筒板を蝶番繫としています)、鉄錆地七本篠籠手(四入り鎖で繫いでいます)です。
揃えで陳列されているものに、
 
左から、展示されていた鉄黒漆塗萌黄糸威五枚胴具足、鉄錆地塗紺糸威菱綴桶側二枚胴具足、鉄錆地縹糸威腰取五枚胴具足、ならびにポスターに使われている鉄潤色塗紅糸威二枚胴具足、金箔押仏二枚胴具足のそれぞれ籠手部分を撮ってみました。甲冑と小具足がもとからセットとして残るものは少なく、また誰が着用したのか(いま、籠手のことばかり考えていますから、誰が袖を通したのか、と言った方がふさわしいでしょう)、確かなものは少ないそうです。

鉄に漆が塗ってあるものを保存するとなると大変だろうと思って伺ったところ、湿度が高いと鉄が錆び、逆に低いと漆が剥げるとのことでした。昔の高床式倉庫や土蔵の知恵はすごいそうです。

江戸時代も末になると、鎧の着方がわからないお侍さんがたくさんいたようです。籠手は、褌を締めてから始めて最初のほうで着けます。
甲冑着用備双六(歌川芳貞画、江戸時代、安政年間、板橋区立郷土資料館所蔵)

展示解説」なるギャラリートークが、次回は3月11日(土)に13:30~(公称40分程度)予定されています。まず15時まではするだろうと思ってご参加ください。歴史が大好きだということは、トークができることが嬉しくて仕方がないわけでありましょうし、それがまた素人にもとてもわかりやすく的確に説明していただけますし、素朴な疑問、質問も大歓迎でいくらでもお話しされてしまうというとても有り難い事態が出来していました。聞きたいことがあったら箇条書きでたくさんメモしておいてどんどん聞いてしまいましょう。閉館時間は17時ですから、それまでならいくらでも、関係のあまりないようなことでも日本史のことなら何でも教えてくださると思います。
入館無料です。質疑応答も際限なく無料です。日本甲冑武具研究保存評議員の、甲冑を見ながら歴史を研究されている方のお話を聞くことのできる格好の機会と思います。

なお、常設展示は外の民家のみです。白い毛のテンの剥製などが甲冑展示により隅に追いやられていて、ガラス越しでなく見れて嬉しいものがありました。源氏物語・末摘花に「ふるき」(たぶん、古着の謂い。和名抄に「黒貂」)などとあるのは、渤海などからの輸入品らしいとのことです。日本に棲息しているテンの毛が、古くなったものと思っての命名ではないかと考えられるのです。籠手のことばかり思い詰めていると、テンの胴を抜いて筒にすれば、アームウォーマーにそのまま行けるのではないか、などと宜しくないことを考えてしまったのでした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

応神記の名易え 其の一

2017年02月18日 | 論文
 応神天皇に名易えの話が載る。

 故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)

 日本書紀に、名前を取り替えたのならば、元の名がそれぞれであったはずなのに、そうはなっていない。よって、「未詳」であるとしている。

 初め天皇、在孕(はらま)れたまひて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)、三韓(みつのからくに)に授けたまへり。既に産(あ)れませるときに、宍(しし)、腕(ただむき)の上に生(お)ひたり。其の形、鞆(ほむた)の如し。是、皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。肖、此には阿叡(あえ)と云ふ。故、其の名(みな)を称へて誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と謂(まを)す。上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。一に云はく、初め天皇、太子(ひつぎのみこ)と為りて、越国(こしのくに)に行(いでま)して、角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拜祭(をが)みたてまつりたまふ。時に大神と太子、名を相易へたまふ。故、大神を号けて去来紗別神と曰(まを)す。太子を誉田別尊と名くといふ。然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。然れども見る所無くして、未だ詳らかならず。(応神即位前紀)

 この分注記事から、紀を編纂した当時の人にとっても、すでに意味が理解できなくなっていたとされている。ずいぶん幼稚な解釈である。当時、過去数百年以上の歴史をまとめ、日本書紀を編纂してしまうほどの人たちが、その程度の人たちであったとは考えられない。筆者は、晦渋な編纂者が、事実を知りつつ、ここは謎掛け部分ですよと記したいがために、無用な注をつけていると考えている。わからなければわからないままにしておけばいいし、小賢しい輩なら記述自体を改竄すればいい。確かに、当時も、頓智のきかない人にはわからなかったであろう。それをからかっているとしか思われない。

 古事記に、「以吾名、欲御子之御名。」というのは、夢の中の話である。夢に現れたのは、「伊奢沙和気大神」か、「伊奢沙和気大神之命」である。「大神之命」という神名の呼び方は他に見えない。ミコトは名前の尊称であるとともに、ミ(御)+コト(言)の意でもある。偉い人の言うことは、そのとおり実現することが多いから、言=事であるとする言霊信仰に適うことになる。そこで、伊耶那岐命(いざなきのみこと)とか、倭建命(やまとたけるのみこと)という名前ができあがっている。しかし、「天照大御神之命以」(記上)とあるのは、「天照大御神の命(みこと=仰ること)を以て」の意である。すぐ後ろにも、「恐、随命易奉」とある「命」は、御言(みこと)の意である。「亦其神詔」とあって「亦其神之命詔」とはない。したがって、この部分の訓みは、

 爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢に見えて云ひしく、……(爾坐其地伊奢沙和気大神之命、見於夜夢云、……)

となければならない。小学館の新編古典文学全集本古事記には、「爾(しか)くして、其地(そこ)に坐(いま)す伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)、夜(よる)の夢(いめ)に見(み)えて云(い)ひしく、……」(253頁)とあり、頭注に、「気比大神の名だが、神名の下に『命』をつけるのは異例であり、問題が残る。ミコトは神名でなく、夢の託宣の言葉を指すとする説もあるが、言葉の意とするのでは『夢に見え』ということと合わない。」(252頁)とされている。「夢(いめ、メは乙類)」という語は、イ(寐)+メ(目)とする捉え方から、目で見るものだから静止画なり動画なり、映像であろうとお考えのようである。するとそもそも、夢のお告げという言い方は成り立たなくなる。そうではあるまい。お告げで神さまが伝えてくれていることも、やはり夢に見るという言い方で表現していると考えられる。後述の神武記の高倉下の見た夢、垂仁記の御夢の覚しの話も同様である。
 電気のない時代、「夜」の「夢」に「伊奢沙和気大神」が「見」えて「命(みこと)」=御言を「云」っている。この夢で大切なのは、伊奢沙和気大神の姿かたちや立ち居振る舞いではない。伊奢沙和気大神の云っている言葉である。だから、「命(みこと)」という語を丁寧に使っている。夢に見えたのは神の姿ではないのか、という反論もあろうかと思われるが、この逸話のテーマは、名前のことである。名前とは、言葉である。無文字文化にあって、言葉とは声である。「云」っていることが「命(みこと)」として発せられ、それを恭しく聞いているのが、付添い人で神の託宣を聞く役目の武内宿禰である。武内宿禰が神さまのお言葉を聞いて、それを太子に伝達している。仰られたことを伝えていく言葉とは、御言(「命」)である。大切なのは、神さまの仰ることをきちんと聞いてきちんと伝えることである(注1)

 其の横刀(たち)を獲し所由を問ひしに、高倉下(たかくらじ)が答へて曰ひしく、「己が夢(いめ)に云ひしく、『天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)を以て、建御雷神を召して詔はく、「葦原中国は、……」とのりたまふ。……』といふ。……」といひき。(神武記)
 爾くして天皇の愁へ歎きて神牀(かむどこ)に坐しし夜に、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰ひしく、「是は我が御心ぞ。……」といひき。(崇神記)
 是に、天皇患ひ賜ひて、御寝(みね)しませる時、御夢に覚(さと)して曰さく、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくりをさ)めたまはば、御子必ず真事問はむ」とまをす。(垂仁記)
真福寺本古事記
 神武記の例の「高倉下答曰『己夢云、「天照大神・……」』」部分の「云」字は、諸本に「云」とあるのを「之」と校異するテキストが多い。しかし、真福寺本の当該字は、「之」にも「云」にもとれる曖昧な字体である。筆者には、どちらかといえば「云」に見える。内容的にも、夢に見たのは神さまの間の会話のやり取りである。「天照大神・高木神二柱之神命以」とあるように、「命」は御言のことである。二柱の神が仰られたことを伝えていって建御雷神を招集している。最終的に、「故、夢の教の如く、旦に己が倉を見れば……」とある。教えとは夢のお告げのことである。すべて言っていることばかりだから、夢の中で神さまたちが「云」っているとするのが適当であろう。夢は見るものであるけれど、神さまどうしの会話を聞いているのだから「云」と考えるのがふさわしい。
 小学館の新編古典文学全集本古事記頭注に、「原文『夢之』とあり、「之」は不読で、夢に見たことにはの意。『夢云』の本文を採用し、夢で建御雷神(たけみかずちのかみ)が言うことにはの意とする説があるが、この段階ではまだ建御雷神の名は出てきておらず、無理がある。」(146頁)とされている。建御雷神の言葉だけが夢に「云」われているわけではなく、天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)、すなわち、言うことを以て建御雷神が登場している。結論の建御雷神の言葉だけを取り出すこと自体、ナンセンスと言わざるを得ない。夢の中で神さまたちがいうことにはの意と考えるのに何の支障もないであろう。その夢に映像は重要ではなく、音声だけで十分である。ラジオの夢を高倉下は見ている。
 仲哀記に、「以吾名、欲御子之御名。」→「於我給御食之魚。」へと展開している。それを、ナ(名)とナ(魚)との交換であろうかとする説は従来より指摘されている。「我に御食(みけ)の魚(な)を給へり。」と訓むテキストも存在する。岩波書店の日本古典文学大系本古事記(昭和33年)、日本思想大系本古事記(1982年)、小学館の日本古典文学全集本古事記(昭和48年)、尾崎友光編『全注 古事記』(桜楓社、昭和47年)、次田真幸『古事記(注)』(講談社(講談社学術文庫)、昭和55年)、中村啓信『新版 古事記』(角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年)などである。一方、どうしても納得がいかないということで、「魚」をウヲ(イヲ)と訓むテキストも多い。新潮社の日本古典集成本古事記(昭和54年)、小学館の新編日本古典文学全集本古事記(1997年)、沖森卓也編『新校古事記』(おうふう、2015年)などである。
 藤澤友祥『古事記構造論―大和王権の〈歴史〉―』(新典社、2016年)に、論点が整理されている。「大神の申し出は『以吾名御子之御名。』というものであり、これについては以下の三通りの解釈が考えられる。
 〔一〕吾が名と太子の名を交換したい。(大神←→太子)
 〔二〕吾が名を太子に差し上げたい。 (大神―→太子)
 〔三〕吾が名に太子の名を賜りたい。 (大神←―太子)」(44頁)
としている。〔一〕説に、岩波書店の日本思想大系本古事記、〔二〕説に、小学館の新編日本古典文学全集本古事記、〔三〕説に、本居宣長・古事記伝があるとされている(注2)
 この名易えの場面は、太子の命名の由来とも関わるとする坂下圭八『古事記の語り口―起源・命名・神話―』(笠間書院、平成14年)は、ナという一語の名と魚との両義性が話の肝腎な点であるとされている。

 この説話全体の意味から肝腎なのは、太子の言葉の「魚(ナ)」がすでに食物化したイルカをさすにとどまらず、謎かけとして示された神託への見事な解答となっていることであろう。それは、「神は私に御食の魚(ナ)を下さった。(神のいう「吾名(ワガナ)」は名(ナ)ではなくてこの魚(ナ)だったのだ)」と補うことができる。実は太子はナの両義性、名(ナ)と魚(ナ)の変換関係をはっきりよみ解いたとして差支えなく、そのこと自体、太子の成年への到達を語るものであった。かくして太子が神をたたえてみずから「御食津大神」と命名するに及び、魚(ナ)と名(ナ)の交換・贈与は完了する。結局、大神は「御子之御名」ではなく、太子からあらたな名を贈られたことになる。古代における命名・賜名は命名者と被名者(物) との関係更新のしるしであった。それよりすれば、太子の名を負うことと太子に命名されることとは全く同一の意義を示すものとしてよい。(22頁)

 そして、「気比(けひ)」という大神の名は、「易(かへ)」という語の音転であることによっているとされている。西郷信綱『古事記注釈 第六巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年、243頁)も踏襲されている。仮に「気比(けひ)」という言葉が「易(かへ)」ることと関係するなら、宇佐八幡が嘘八幡であるかのような逸話が、もっと多く伝えられて良いように思われるが他に見られない。そして、日本書紀の分注にあげられている疑問点は、これまでの諸説同様、解消されていない。大神の本の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)でなくてはならないのではないか、という問いに答えられていない。
 太子の元の名は何であったか。応神記を遡ってみていくと、上にあげた「御子」、「其の太子」、「其の御子」とあり、仲哀記の皇統譜に出生譚が記されている。

 又、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)是は大后なり。を娶りて生ませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともわけのみこと)、亦の名は品陀和気命(ほむたわけのみこと)。二柱。此の太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、初め生れまししし時、鞆(とも)の如き宍(しし)、御腕(みただむき)に生(な)りき。故、其の御名に著(つ)けき。是を以て腹の中に坐して国を知らすぞ。(仲哀記)
鞆をつけた射手(小松茂美編『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社、昭和62年、22頁)
鞆をつけた挂甲武人埴輪(群馬県太田市飯塚町出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
 わざわざ、「此太子之御名、所-以負大鞆和気命者、」とされて説明が付されている。特異な「負」字が記されて説明されている。名負いの者として、「大鞆和気命」はあった。そして、そのことによって、「是以知腹中也。」とある。その名前が付されていることから、お腹の中にありながら国を治めた。そう理解されなければ、上代の人と共通の認識に立ったとは言えない。名は体を表していると述べられている。そして、この皇統譜以降、名は語られていない。
 応神天皇の出生の経緯は、神功皇后の新羅親征の話として語り継がれてきている。「神の命(みこと)」として、「凡そ此の国は、汝(な)が命(みこと)の御腹に坐す御子の知らさむ国なり。」と武内宿禰に教え覚らせている。「此の国」は倭の国のことである。本居宣長『古事記伝・坤』(吉川弘文館、1935年)(国会図書館デジタルコレクション(202/577))にも、「此ノ国は、上文に、玆(コノ)天ノ下者(ハ)とありしと同くて、皇国なり、【書紀に、汝不(ジ)其国ヲ、唯今云々、其ノ子有獲とあるに依れば、三韓を指るが如くにも聞ゆれど、然には非ず、かの書紀の汝ハ不其国ヲも、此記には玆(コノ)天ノ下者(ハ)云々とこそはあれ、】」(1570頁)とある。そこで、お腹の中に身籠ったまま、いわゆる鎮懐石をあてて産まれないようにしておいて新羅(「其の国」)へ親征した。そのようなことが現実に、ないし、科学的に可能かどうか、「話」とは無関係である。そういう「話」として聞かされ伝えられ知られているから、そういうものとして認められていた。
 皇統譜に「腹中」とある個所を、今日までハラヌチ(腹の内)という訓み方をしている。しかし、太安万侶は、「中」という用字で記している。紀には、ホムタノスメタミコトに「胎中誉田天皇」・「胎中之帝」(継体紀六年四月条)、「胎中天皇」(継体紀二十三年四月条)と記されている。近似の用法であろう。ウチ(内)ではなく、ナカ(中)であることが特別な事柄なのではないか。
 記の用字法において、「中」と「内」とは峻別されていると考える。それぞれ、固有名詞に使われている。

 「中」…天御中主神、中津綿津見神、中筒之男命(中筒男)、胸形之中津宮、倭田中直、葦原中国、中臣連、田中臣、剣池之中岡、大中津日子命、須売伊呂大中日子王、帯中津日子命、息長真若中比売、大中比売命(大中津比売命)、中日売命、額田大中日子命、忍坂大中比売、田井之中比売、田宮之中比売、中日子王、忍坂之大中津比売命、墨江之中津王、田井中比売、橘之中比売命、春日中若子、中津王
 「内」…凡川内国造、内色許男命、内色許売命、河内青玉、味師内宿禰、建内宿禰(建内宿禰命)、河内(川内)、川内之若子比売

 この両者の間に、ナカ(中)とウチ(内)の言葉の交ることはない。「中」と書いたらナカ、「内」と書いたらウチ(uti)と決めている。そうしているのなら、一般名詞に使う際にも、「中」はナカ、「内」はウチと区別していると考えられる。例えば、「宮の中を臨むこと得ず」(仁徳記)と、「宮の内に参ゐ入りし時」(神武記)、「仍りて宮の内に召し入れて」(顕宗記)とでは、はっきりとニュアンスの違いがあることを知る。「宮内」は、その内部に入ることを言っており、囲いの内側へ入ることを指す。それは、「殿内」(記上、神武記)という記し方に同じである。他方、「宮中」は、内部に入ることがない。それは、「国の中に烟(けぶり)発(た)たず」、「後に国の中を見るに」(仁徳記)にある「国中」同様、傍観している。その場合、隔てがあっては見ることができない。隔てがないところ、戸や垣根、障害物がないところから見ている。つまり、「外(そと)」に対する「内(うち)」ではない。
 他の例の、「衣中服鎧」(応神記)、「其衣中甲」(応神記)、「衣中服甲」(安康記)といった一連の表現について、防弾チョッキを内装しているから、「中」をウチと読んでいるテキストが多い。内側に隠してという印象をつけたいためであろう。しかし、「衣」を重ね着する場合、上着と下着の間に着るのなら、ナカ(中)に着ていると考えればいいのではないか。それは、「頂髪中」(仲哀記)とある個所を、「頂髪(たきふさ)の中(なか)」と読んで違和感のないことに同じである。「海中」(記上)、「火中」(垂仁記)、「野中」(垂仁記、景行記)、「庭中」(仁徳記)の「中」もナカと読んで問題ない。
 以上の検討から、仲哀記の当該「腹中」箇所は、ハラ(腹)のナカ(中)と読むべきであると知れる。

 大津渟中倉之長峡(おほつのぬなくらのながを)(神功紀元年二月条)
 三国の坂中井〈中、此には那(な)と云ふ。〉に聘(むか)へて、……(継体前紀)
 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)(欽明紀十五年正月条、後の敏達天皇)
 天渟中〈渟中、此には農難(ぬな)と云ふ〉原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)(天武前紀)
 遠近(をちこち)の 磯の中(なか)なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも(万1300) 

 第1~4例で、仮名遣いとして、「中」をナと訓んでいる。ナカ(中)はナ+カ(処)の意であろうとされている。類義語のウチ(内)は、ソト(外)に対して、ある範囲に包まれている内部をいい、ナカ(中)は本来、ものの中間、中くらい、その間柄のことを言っていたとされている。ただし、ものとものとの間にあることとは、両側のものが大きければ包み囲まれる様子となり、容易にナカ(中)にウチ(内)のような義が生じ得る。それが第5例である。磯の大きな巌の間に白玉があると言っている。応神記に連続する例として、「山谷之中」、「山谷之間」という表記がなされており、同じ意味であると考えられる。
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

仁徳天皇の名、オホサザキの秘密

2017年02月12日 | 論文
 仁徳天皇の生前の名、オホサザキについて、その名の由来は、①鳥の名サザキによるものであるとする説、②御陵のことをいうミサザキによるものであるとする説が唱えられている。仁徳紀にそれぞれ論拠となりそうな記述があり、どちらも「異(あや)し」という言葉が出てくる因縁譚である(注1)。「異(あや)し」い出来事で、「異し」い言葉ができている。
 では、オホサザキという天皇の名前は、そのどちらに由来するものか。その正統性を問おうとするのは、はなはだ愚かである。異しい“都市伝説”に翻弄されてはならない。サザキという名前は、いまに佐々木さんであろう。とてもたくさんいらっしゃる。佐々木さんの名の由来を問うて限定させてどうなるのか、筆者には不可解である。古い時代に名づけられてあったこと、そのことについて検討が加えられなければならない。
 先行研究をいくつか見てみる。①の鳥名由来説に傾いているものとして、古市晃「王名サザキについて」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』(塙書房、2010年)は、他にサザキの名のついた武烈、崇峻天皇のことから考えると、「王名サザキは巨大な王陵ではなく、鳥の名に因む。」(66頁)とする立場に立つ。また、川崎保・梶田学「古代天皇陵をなぜミササギと呼ぶか」『古代学研究』181号(古代学研究会、2009年)では、鷦鷯=ウグイス説を唱えられ、「……古墳時代に、古墳に葬られるような貴人が小鳥になるという考え方があったためではないか。」(24頁)とされている。一方、②の陵の語由来説に傾いているものとして、和田萃「日本古代・中世の陵墓」『天皇陵古墳』(大巧社、1996年)は、「『古事記』『日本書紀』では、仁徳のオホサザキという名を鳥と結びつけているが、あるいはミサザキという言葉に関連があるかもしれない。仁徳紀には、仁徳陵が寿陵(じゅりょう)(生前から造っておく山陵)として造営されたことを伝えており、また巨大な墳丘をオホミサザキとよんで、それが仁徳のオホサザキという名となった可能性はある。」(62頁)(注2)とする。また、三浦祐之『古事記を旅する』(文芸春秋(文春文庫)、2011年)は、「仁徳というのは後世の呼称で、ほんとうの名前はオホサザキ(古事記では大雀命、日本書紀では大鷦鷯尊)という。サザキというのは、漢字表記からもわかるようにミソサザイという小鳥の名とされているが、大きなミソサザイというのでは言語矛盾をきたす。たぶんこの説明は後から加えられたもので、もとは『大きな墓=オホサザキ』という意味だった。生存中から築造が行われていたのか、死後の呼び名かはわからないが、大墓を意味するオホサザキは、いつのまにやら、大きなミソサザイという意味の大王オホサザキになった。」(233頁)とする。
 新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦 加也久支(かやくき)、又佐々支(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)は小鳥也。蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。他方、御陵のことは、「山陵〈埴輪附〉 日本紀私記に云はく、山陵〈美佐々岐(みさざき)〉といふ。埴輪〈波迩和(はにわ)〉は山陵の縁辺に埴人形を作り、車輪の如く立てる者也といふ。」とある。上代において、なにゆえか、サザキという言葉をもって、鳥類のミソサザイと大王などの墓のことが、同じサザキという言葉で表現されている。すでにそのように表現されている。2つのほとんど関わりがないように思われる事柄が、同じ言葉(音)で表わされている。それは、一方から他方へ意味があてがわれたのかもしれないが、そのあてがわれた時点は、けっして仁徳天皇が大きな寿陵を作ったときに求められるものではない。それ以前から、天皇が葬られるお墓も、ミソサザイという鳥も、ともにサザキと呼ばれていたと考えられる。無文字文化のなかにあって、人々が互いに納得し合うためには、既定の事実として、言葉(音)が前提として存在しなければならない。言葉が音でしかなかったのだから、そうでなければ混乱をきたす。オホサザキという人がいるから、大きな御陵(みさざき)を作ってあげようじゃないか、と皆の意見が一致している。そうすれば逆に、オホサザキ(大御陵)に葬られた人は、オホサザキ(「大雀命」(記)・「大鷦鷯」(紀))という人であったことは間違いないことになる。言葉がそのとおり事柄となり、反対に事柄が言葉になる。それこそが言霊信仰である。言葉が音でしか存在しないから、言霊信仰を行わなければ世界の秩序は崩れてしまう。詐欺だらけの世の中になる。
 鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれるのか、その語源を探ることは不可能である。小学館の日本国語大辞典第二版に、tsa =ツァと鳴く鳴き声から名づけられた擬声語+接尾語とする説が載る。しかし、ツァと鳴いていると思う鳥はたくさんいる。そのように聞けばそのように聞けるし、そうでないと思えばそうでない。犬の鳴き声は、日本人にワンワンでも、英米の人には bowwow らしい。dog のことを表す日本語に、①イヌ、②ワンワン(幼児語)の2種があり、②は鳴き声によるものと“推定”されている。①のイヌについて、エヌからの転とする不可思議な説がある。なるほど dog が甘える声で、エヌと鳴いているように聞こえることがある。では、エヌ→イヌが“語源”であるかと言えば、冗談でならともかく、確かなことはわからない。当然、鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれたのか、わかろうはずはない。わかっていることは、古墳時代に、おそらくは今いうミソサザイという鳥がサザキと呼ばれ、陵墓のこともサザキと呼ばれていたということである。呼ばれるもの、それが名である(注3)
 和名抄には、鷦鷯のひとつ前に、「巧婦」の項がある。「巧婦 兼名苑に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好く葦皮を割きて中の虫を食べる、故に亦蘆児と名くといふ。」とある。狩谷棭斎の箋注倭名抄に、「鷦鷯、巣を造るに人の髪、或は馬の尾を以て蘆花を綴り、其の形、襪(したぐつ)の如し。巧緻を愛す可し。是、巧婦の名を有する所以なり。剖葦は則ち然らず。稲稈、蘆を縛り以て巣と為し已りて観るに足らざること絶ゆ。然らば則ち太久美止利(たくみどり)は、以て鷦鷯を訓ずる可くして、剖葦を訓ずること得ざる也。」とある。狩谷棭斎は、鷦鷯の項で、「陳蔵器に曰く、林藪の間に在りて窠を為(つく)り、窠は小嚢の如しといふ。埤雅に云はく、其の喙の尖利なること錐の如し。茅秀を取りて巣と為す。巣は精密に至し、麻を以て之れを紩(ぬ)ふこと韈を刺すが如し。故に又一名、韈雀といふ。」などとしている。巣を造るのが巧みなタクミドリという鳥がいて、それは鷦鷯と記すサザキ、今のミソサザイのことであると言っている。
 この考えは正しいであろう。林良博監修・小海途銀次郎著『決定版日本の野鳥巣と卵図鑑』(世界文化社、2011年)によれば、ミソサザイの「巣の特徴:岩の陰など薄暗い場所にコケで球形(壺形)の巣を作る。外側に小枝、枯れ葉などを張りつける場合もある。産座には特に何も敷かない。大きさ:外径約13×11cm、高さ約15cm、出入り口の広さ約3×3cm、深さ(奥行き)約7cm。」(124頁)とある。ミソサザイはとても小さな鳥でありながら、とても上手に巣をつくっている。外敵に襲われないように、立ち入れないようなところに巧みに拵えている。足場、櫓(やぐら)でも仮設しなければつくれないものを、それすら立てられそうもない場所につくっている。高所作業もする宮大工のことを「木工(こだくみ)」(雄略紀十三年九月条)というのだから、これをタクミドリと呼ばずして、他に候補となる鳥はいるのであろうか。
ミソサザイの巣(左:抱卵の様子、右:沢(滝?)づたいの立地)(和田剛一「雌雄で分担するミソサザイの巣づくり」朝日新聞社編『科学朝日』39-6(459号)朝日新聞社、1979年6月)
 巣の周りに水がある。近寄れないようになっている。どこかで見たことがある。御陵(ミサザキ)である。濠をめぐらせて中に古墳が築かれている。仁徳天皇陵ともされる大仙古墳は、濠がめぐらされたとても大きな古墳である。ミソサザイの巣の形は、壺型であることが多くあり、それを横に倒して見れば、前方後円墳にとても似通っている(注4)。生前に、オホサザキと呼ばれた人が、亡くなった後に暮らす巣をつくるとするなら、とても大きな前方後円墳にして、周囲に濠がめぐらされているところがふさわしいということになる。ヤマトコトバでそう言われているのだから、そうすることが言霊信仰に適う。皆が納得する事柄となる。大きなサザキ(ミソサザイ)とあるのは言語矛盾であるとする解釈は、無文字文化時代のヤマトコトバの論理が理解されていないとの誹りを免れない。
大仙陵絵図(享保年間)(一瀬和夫『古墳時代のシンボル‐仁徳陵古墳‐』新泉社、2009年、11頁)
樋部分の現在の様子
山陵図(天治元年(1864)、百舌鳥耳原中陵荒蕪、公文書館蔵、堺市博物館パネル展示、“文久の修陵”工事前で拝所なし)
仁徳天皇正辰祭(2017.2.8)
大仙陵(昭和5年(1930)、谷村為海氏撮影ガラス乾板写真、堺市博物館蔵、同パネル展示品)
州の描き方(松平伊予守(池田綱政)作成、備前国絵図、元禄十三年(1700)、「岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム」様)
 ヤマトコトバにおいて、鳥の巣のスという言葉は、鳥が巣食うところである。それは卵を産んで雛をかえし、少しして巣立っていったら打ち捨てられるものである。鳥の巣は、役目を終えたら放置される。そう認識されていたことは、同音の語、「す(州・洲)」が、川の中州(中洲)や河口に見られる州(洲)などの意味であり、水面上に出ていたと思っていたら川や潮の流れによって水面下に消えてしまい、再び現れるときには違う場所であったりするのと同じであることから確かめられる。同じスという言葉(音)を以てして、状態を形容したことから「す」(巣、州(洲))という言葉は成り立っている。仁徳天皇は、陵墓に埋葬されて儀式を済ませたら、その大土木工事のレガシーは、ほとんど放置されるだけのものとなった。「す」だからそれがふさわしい。江戸時代の絵図に見る大仙陵にも水門がついている。灌漑用溜池として利用されていたのであろうか。開ければ水が抜かれて濠は空堀となり、地続きの古墳となる。そうなったとき、もはやミサザキ(御陵)ではないということになる。それは、ツカ(塚)である。つき固められてできている。和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ。豆賀(つか)〉は塚塋地也といふ。広雅に云はく、塚塋〈𠖥營二音〉は葬地也といふ。大言するに、土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉は並の塚の名也。」とある(注5)
 以上で、「異(あや)し」い話はおしまいである。サザキという言葉は、ミソサザイという鳥が水をまわりにめぐらせておいて守りとするように巧みに作る巣のことの謂いであり、そのことを観察した結果として、上代の人はサザキとその鳥を呼んでいる。それは、周濠のある陵墓の造りと同じことであるから、御陵のことも同じ言葉で呼び、尊称ミ(御、美)を付けてミサザキとしている。当該の鳥の名における語、サザキ→ミソサザイへの変遷については、語史の検討課題である(注6)。ミゾ(溝)という語が接頭しているのは、濠のことが頭から離れなかったためであるらしい。

(注1)サザキがササキと清音のみの構成で言われていたこともあったかとおもわれるが、清濁について議論しない。仁徳紀に名の謂れと思われる個所を提示しておく。

 初め天皇(すめらみこと)の生れます日に、木菟(つく)、産殿(うぶとの)に入(とびい)れり。明旦(くるつあした)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうちのすくね)を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣対へて言さく、「吉き祥(さが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻(め)の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)産屋(うぶや)に入れり。是亦異(あや)し」とまをす。爰に天皇曰はく、「今し朕(わ)が子と大臣の子と、同じ日に共に産れたり。並びに瑞有り。是天(あま)つ表(しるし)なり。以為(おも)へらく、其の鳥の名を取りて、各(おのもおのも)相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて太子(みこ)に名け、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰(まを)し、木菟の名を取りて大臣の子に号け、木菟宿禰(つくのすくね)と曰ふ。是、平群臣(へぐりのおみ)が始祖(はじめのおや)なり。(仁徳紀元年正月条)
 ……河内(かふち)の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、陵地(みさざきのところ)を定めたまふ。丁酉(ひのとのとりのひ)に、始めて陵を築(つ)く。是の日、鹿(か)有りて、忽ちに野の中に起りて走りて役民(えたみ)の中に入りて仆(たふ)れ死ぬ。時に其の忽ちに死ぬることを異(あや)しびて、其の痍(きず)を探(もと)む。即ち百舌鳥(もず)、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに咋ひ割(か)き剥(は)げり。故、其の処を号けて百舌鳥耳原(もずのみみから)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(仁徳紀六十七年十月条)
(注2)和田、同書では、「『陵』は、元来、大きな丘の意で、転じて天使の墓を意味した。『山陵』は山岳と丘陵の意で、天子の墓を秦(しん)では『山』、漢代には『陵』といったところから、通じて『山稜』というようになった(『水経注(すいけいちゅう)』渭水(いすい)注)。」(62頁)と字義解説され、「記紀にみえる山稜と御墓」については、古事記は「御陵」、「陵」ばかりであり、日本書紀では歴代の天皇には「陵」、それ以外は、「日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)之墓」(垂仁紀三十二年七月条)、「皇祖母命(すめみおやのみこと)之墓」(皇極紀二年九月条)、「玖賀媛(くがひめ)之墓」(仁徳紀十六年七月条)、「武内宿禰(たけしうちのすくね)之墓域(はかのうち)」(允恭紀五年七月条)、「桃原(ももはら)墓」(推古紀三十四年五月条)といった例をあげ、基本的には区別されているとする。そして、例外として、蘇我蝦夷・入鹿のつくった寿陵、「双墓(ならびのはか)」を、「大陵(おほみさざき)」、「小陵(こみさざき)」と呼ばせたこと、日本武尊(やまとたけるのみこと)の「能褒野陵(のぼののみさざき)」、「白鳥陵(しらとりのみさざき)」(景行紀四十年是歳条)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の「箸墓(はしのみはか)」(崇神紀十年九月条)が「箸陵(はしのはか)」(天武前紀元年七月条)と記されていることをあげられている。これは表記研究である。
 森浩一「考古学と天皇陵」同編『天皇陵古墳』(大巧社、1996)に、「〝ミササキ〟を地名とするものは、その当否はともかく今日宮内庁の管理下にある大型の前方後円墳が多い。重要なものでも百舌鳥陵山(もずみささぎやま)(履中(りちゅう))とかだ佐紀陵山(さきみささぎやま)(日葉酢媛(ひばすひめ))のほか、〝ミサンザイ〟も〝ミササキ〟に由来するとすれば、岡ミサンザイ(仲哀(ちゅうあい))、土師(はぜ)ニ(ミ)サンザイ(参考地)、鳥屋(とりや)ミサンザイ(宣化(せんか))などがある。ただしこれらの古墳の地名がいつまでさかのぼって確認できるかは明らかではなく、……藤ノ木古墳の中世での使用例[ミササキ]はその意味でも価値が高い。」(28頁)とある。これは地名研究である。
(注3)名について、個々の語源をたどろうと探究されるのは、あまり生産的なことではない。何とかして言葉として成り立たせるべく知恵を捻ってある形に落ち着いた、それが名であるという基本原則に立ち戻る必要がある。うまい綽名が定着するのは、なるほどうまいことを言うなぁと、誰もが感心するほどの造語力をもってしての力作だからである。上代において、名詞に動詞の連用形として知られるものがある。反対に、名詞にサ変のス(スル)(為)を付けて動詞化したものは、後の時代の産物である。(筆者は、はじめて「チンする」という言葉に接した時、言い知れぬ言語感覚を味わった。けれども、相手に恋心を「コクる(告)」という言葉に接した時はそうでもなかった。)記紀に登場する神々の名も、何かを連ねあわせて形作られているとはわかりつつ、その名の意味するところが多義的で俄かには決め難いものが多い。これは何を意味するか。呼び表わす深度が、上代において異様に深いことである。どうしても名前の語源を探りたい方には、同じように、ある動詞の語源を探っていただきたいと願う。「真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。」(夏目漱石「日記」三好行雄編『漱石文明論集』(岩波書店(岩波文庫)、1986年、306頁)である。
(注4)筆者は、前方後円墳全般において、その周濠を伴ったものについて、このサザキという言葉によって説明できると主張するものではない。仁徳紀にサザキという語で謂れが書いてあるのは、(注1)に見るとおり、仁徳天皇の名易えの話と、仁徳天皇の陵墓の話である。本稿では、その話からサザキという言葉の深奥について探ったまでである。また、他の天皇の陵墓や蘇我氏の墓をミサザキと称したことについて、日本書紀に“話(咄・噺・譚)”として書いてあるようには思われない。(もう一度読み返したら、“話(咄・噺・譚)”として書いてあるように読めるかもしれないからその可能性を排除するつもりはない。)確かに言えることは、仁徳紀のこの部分は、“話(咄・噺・譚)”として書いてあり、“話(咄・噺・譚)”として具現化されていることである。歴史学や考古学では、仁徳天皇の御陵は大仙陵ではないのではないか、といった問題提起がされている。筆者の「読む」立場からは、おそらく、この書き方からして、河内平野のモズ(百舌鳥)地域の最も大きな陵墓こそ、仁徳天皇陵であろうと考える。仁徳紀の御陵の記述は、古代における古墳や陵墓のこと全般を語るものではなく、仁徳天皇の御陵のことしか述べていない。ツカ、ハカ、ミサザキという呼称の区別について、仁徳紀以外のことは“話(咄・噺・譚)”のネタにされていないのだから、わからないということである。
 古墳には、周濠のあるもの、その形のさまざま、2重、3重になるもの、空堀すらないものなどいろいろある。考古学では、自然地形を利用して多少整形を加えたものを「井辺八幡山型」、平地に人工の墳丘をつくったものを「百舌鳥御廟山型」と呼んで大別しようとする試みも行われた。周りを掘って高く積み上げて築(つ)いて作った結果として周濠のある古墳ができたとする素朴な視点は大切にされながらも、丘陵をそのまま活用したようなものも多くあって、それらを言葉の上でどう区別していたのか説明できない。記紀万葉に出てくるヤマトコトバからは、何か証明となるような企てがあったとは(今のところ)思われない。仁徳紀において、サザキとスの2語によって言い表したかったことからは、逆にそれ以上には言い表そうとしていないことが窺い知れる。古墳時代は、古墳という独特のお墓が築かれているからそう呼ばれているが、当時の人にとって、関心の中心が特に古墳にあったわけではないことは、認めなければならないであろう。
(注5)和名抄のこの部分、諸本に、「墳墓(つか)……大言土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクション(70/71))とあるが、狩谷棭斎は、「方言云墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクション(81/84))としている。筆者は、源順の「大言」として、「土墳」や「壟」は、程度でいえば「並」であると評していると解釈した。「山陵(みさざき)」とのランクの違いを壮語して説明したものと捉えた。
 なお、前方後円墳の形態について、長頸壺を横倒しした形に似ているとの説がある。先人の知恵であり、形の相同性を検討して頂きたいために下に例をあげておく。ミソサザイの巣が壺形(「其の形、襪(したぐつ)の如し」)で(まわりに水が)あることとの関連性について、サザキ(陵墓)にはサザキ(ミソサザイの巣)を以て当てようとする思考経路が、仁徳天皇時代においてあったことは確かであろう。ただし、弥生時代に遡る棺において、ミソサザイが小さな鳥であることから、小さな子供や小さな犬の遺骨を入れることから始まったようにも思われる。そして、古墳の淵源は前方後円墳とは別しているように考えられていることもあり、考古学との接点はかなり遠いように思われる。筆者は、ツカ(塚)やハカ(塋)一般の議論をしているのではなく、ミサザキ(御陵)に限っての話をしている。源順の「大言」を襲う者である。逆言すれば、古墳時代にすでになぞなぞが流行っていたと主張するものである。
子供を埋葬した壺(長頸壺、日明山式土器、弥生文化博物館展示品)
犬の棺(長頸壺、弥生時代後期、2世紀、桜井市大福遺跡、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
(注6)佐藤武義「『鷦鷯(みそさざい)』の語史」『語文』109号(2001年3月)参照。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

多摩動物公園 インドサイ

2017年02月11日 | 無題
2017年2月11日午後3時ごろの光景です。
さっき、かなり積極的にアプローチして、大げんかをしていたと家族連れは言っています。
ネット情報では、「まれに嫌がるメスとの間に戦いが起こることもあります。」

オスのビクラム(左)は、角のつけ根に血をにじませて、それでも性懲りもなくまた近寄って来て、見合っていました。

メスのナラヤニ(右)は鼻をブンブン言わせています。
アラカシを間に、近づかざれとあらむかし。

ネット情報では、「交尾を拒否したメスのサイがオスに殺されることは稀にあり」ます。「発情したオスのサイは、メスを追いかけ回して突進します。メスがダウンしたところで交尾が始まり」ます。ということなのですが、

草食男子のビクラムは、ナラヤニの剣幕に諦めたのか、1周まわって右奥の石垣のところで暖をとることになりました。

やくもたつ 多摩一重垣 妻拒みに 一重垣隔つ その石垣ゑ

私は、動物園へ、ブッダのことばの「犀の角のようにただ独り歩め」とは実際にはどういうものなのか、見に行っただけです。
比喩、方便を実地で“確かめる”ことの遠回り(たぶんそれはブッダの一生の時間)を知った一日でした。





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

和船と海運の展覧会(センター北 & 白楽 & 東大島)

2017年02月02日 | 無題
横浜市歴史博物館「津々浦々百千舟」展(~3月17日)と神奈川大学日本常民文化研究所「順風満帆千石船」展(~3月20日)とで、主に近世の和船と海運についての連携展覧会が行われています。

歴史博物館は、歴史の視点が中心です。
歌川広重「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」
展示関連講座もあります(500円とのことですが、入館料なしで受けられるのでしょうか?)。
フロアレクチャーもあります。
ボートツアーは定員に達した模様です。

神奈川大学は、技術の視点が中心です。
板をスリアワセノコできれいに切って釘打ってつないで(どうしてそんなにピタッと合わさるの?)、
     ↓
熱とお湯をかけて曲げる(最大厚12cm(?)までの杉板を曲げて水押で合体)。
このオーバースペックぶりは、ガラパゴス的だと思います。中国の船の作り方と対比できる展示ですから、とてもよくわかります。

なお、航海には磁石が必要で、子丑寅卯……を逆回りにした逆針(さかばり)磁石(Old Japanese Compass)なるものが日本にありますが、私のような素人でも、まあ、そういうものは創るだろうと思います。とり立てて言うほどのことはないでしょう。けれど、根付磁石のようなものに出くわすと、これはガラパゴス的だ! と嬉しくなってしまいます。
船磁石(江戸時代、東京海洋大学明治丸海事ミュージアム蔵、中川船番所資料館「江戸の海運と江東」展(~3月5日)展示品)

(追記 2017.2.12)船の模型の古いものとしては、
菱垣廻船模型(元禄5年(1692)、元禄五壬申歳二月吉日棟梁戎嶋町淡路屋□□衛門、堺市博物館展示品)



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「西アジア遊牧民の染織」展(~4月9日)と「掛袱紗」展(~2月19日)

2017年01月24日 | 無題
キリムの塩袋(たばこと塩の博物館「西アジア遊牧民の染織;塩袋と旅するじゅうたん」展チラシ)
丸山繁先生のコレクションが展示されている。
キリムというのは、基本的に綴れ織りのようである。
展示室には、その綴れ織りでできた塩袋と、パイルのある絨毯とが展示されている。
かなり幅の広い絨毯も展示されていて模様ともども圧倒される。
地面に杭を立てて横棒を渡し、経糸を張っておいて綴れ織りとか絨毯織りとかしている。

気が遠くならないだろうか?
腰が痛くならないだろうか?

キリムの柄は緯糸で作られている。
経糸は見えないほど叩き込まれている。
私たちは知っている、経糸が見えない織物を。
畳である。

2020TOKYOでは、プールサイドや表彰台など、全部、青畳でおもてなしをしよう。
どこかの旅館でも以前からそうしているし、
ヨーロッパのスポーツ貴族にも「田舎侍」と侮られることがなくなる。

(追記 2017.1.28)東博でおさらいをいたしました。
綴れ織りは色の変わり目のところで緯糸が引き返してしまうので、その引き返しのところで「把釣孔(はつりめ)」と呼ばれる隙間が空きます。下手な写真ですがわかりますでしょうか。
袱紗裂(浅葱地菊花束波模様、江戸時代、19世紀、東博展示品)
また、綴れ織りのどこかで緯糸が切れてとれてしまうと、模様が抜けるようになります。この場合、経糸は残っておりますから、その部分だけ繕い縫いをすればもとに近く戻すことができるわけでございます。
敷物(菱幾何文様綴織、イラン、20世紀前半、渡部順子氏寄贈、東博展示品、幅約150cm×長さ約3m。“キリム”と呼ばれるものでしょうか。)

私は、ですます調に恐れ入りましたのでございます。欧米でサテンと呼ばれます繻子(しゅす)の解説文に、
例えば、日本で一番よく使われている経(たて)五枚繻子ですと、経糸が緯(よこ)糸4本分浮き越して1本分下に沈むという織り方を繰り返します。
東京国立博物館「掛袱紗」展」展示解説「掛袱紗―祝う心を模様にたくす―」東京国立博物館、2016年12月20日。文字カラー化は私。)とありました。

まるで女房詞のようなのを目にいたしますと、博物館へ来ているのか貴族の館へ参上しているのか、わからなくなるのでございます。1日がかりで展示品を見に行くのですが、「では、」ではなくて、「ですと、」を見てしまいますと、奥床しさに居ても立ってもいられず、展示がちっとも頭に入らなくなるのでございます。(揚げ足を取るとかそういうつもりではないのでして、「ますと、」は有りでも「ですと、」は変ですと思う心が私の言語感覚にあるのが新発見なのでございます。本来、2つにすべき文章なのに、口先敬語を使ってうまいこと1つにまとめはりましたなぁと感心するテクニックです。言い回し一つで、もうはや私には幸せが訪れてしまいました。)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

万葉「音訓仮名」 「乃」と「杼」のこと 其の二

2017年01月23日 | 論文
(承前)
 次に、「杼」について考える。呉音にヂョ、漢音にチョである。魚韻で dǐo のような発音がド乙類になる理由は、大野透、前掲書に、「杼は中間層の仮名である。〔魚〕韻舌音字が乙類オ列の仮名に適する様になつて、〔魚〕韻澄母では比較的少画で、古代では親しみ深い字であつた杼が、ドの常用仮名として用ゐられる様になつたのは不思議ではない。……杼の仮名の使用に漢韓の字音表記の影響は考へられない。」(172頁)と説明されている。古事記でどうしてわざわざそういう字を選んでいるのか、ひょっとして「音訓仮名」ではないかと疑ってかかってみる。「杼」の意味は、機織りに使う「梭(ひ、ヒは甲類)」である。杼(梭)とは、緯糸をおさめた道具である。張られた経糸を互い違いに上げ下げした間を、左に右に互い違いに通していって、織物を織りあげていく。和名抄に、「杼 通俗文に云はく、緯を受けるを▲(竹冠に宁)〈今案ずるに、即ち杼字也。比(ひ)〉と曰ふといふ。亦之れを梭〈蘓末反、莎と同じ〉と謂ふ。説文に云はく、杼は機の緯(よこいと)を持する者也といふ」とある。中に糸巻きが入っていて、船のような形をしている。
杼(中村惕斎編・訓蒙図彙(寛文6年(1666))、国会図書館デジタルコレクション(10/35))
大きな杼(金沢千秋著、亀井協従挿絵・越能山都登、寛政12年(1800))
3:梭(模型、滑石製機織具、群馬県前橋市上細井稲荷山古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
 杼という道具を誰でも使うかといえば、そうでもない。機織りをする人しか手にすることはない。機織りができなければ嫁に行けないとされた地域もあるが、子だくさんであっても一家に何台も機があったとは考えにくい。特に、上質な布帛を織るためには熟練が必要である。専門の職工さんは、ハタ+オリの約から、ハトリと呼ばれている。「織部(はとりべ)」(応神紀二十二年九月条)、「呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)」(応神紀三十七年二月条)、「漢織(あやはとり)・呉織」(雄略紀十四年正月条)、「……亦、呉服(くれはとり)の西素(さいそ)の二人を貢上(たてまつ)りき。」(応神記)などとある。ハトリのトは、仮名書きの例がないから甲乙を確定できないが、語構成からする音韻の法則からは、トは乙類と推測されている。すると、ハトリという人は、ひょっとすると新種の「鳥(とり、トは乙類)」なのではないかと思えてくる(注6)。確かに、手先に操っている道具は杼である。新撰字鏡に、「杼・▲ 同、除呂反、機の緯を持する者、絹織。比伊(ひい)」とあり、長く伸ばす音で示されていたこともあったらしい。上代のヒ(甲類)音は fi、いまに pi 音に近い。新撰字鏡のヒイは piː である。鳥が鳴いている。鳥が経糸の間を piːpiː 鳴きながら飛んでいる。仁徳記には、「売杼理(めどり(めとり))」(記66)とあり、女鳥王(めどりのひめみこ(めとりのひめみこ))の謂いである。鳥(とり)を仮名で表す際、「杼理」などと一度書いたことがあったら、その字面を見た人は、なるほどうまいこと書くなあと感心したことであろう。鳴き声のpiːpiː をも表わしている。そうなると、この「杼」という字は、はたして「音仮名」であると言い切れるか、疑念がわいてくる。日本書紀では持統紀に、「土師連富杼(はじのむらじほど)」(持統紀五年十月条)という人名がある。おそらくは「陰(ほど、ドは乙類)」というヤマトコトバの音のド乙類を「杼」字で表わそうとしたのであろうから、「音仮名」であると言って満足していても構わない。けれども、日本書紀に「杼」字はここに限られる。古事記や万葉集には、「杼」字がたくさん出てくる。そして、ド乙類だけならまだしも、清音のト乙類に用いているケースがたびたび見られる。ピイピイ鳴く鳥が、アトリなのか、ニハツトリなのか、チドリなのか、ニホドリなのか、清濁どちらにでも対応可能な字音ヂョ、チョ両方を持っていることはありがたい。当を得ている。このようなことを上代の人が考えたことがあったとしたら、それはもはや「音仮名」の範疇におさまると定め切ることはできないと言える。「音訓仮名」であると主張したい。
纜(ともづな)の繰り出し(「器用貧乏な世界!」様)
 ちなみに、機織りに使う杼は、船のような形をしていて、中の糸巻きから糸を出して行っている。糸は進行方向の後ろ側、船の船尾から出て行っていることに相当する。船尾から出すロープは、纜(艫綱、ともづな)である。船首が舳(へ)、船尾が艫(とも、トは乙類)である。上代語の接続助詞トモは、ト、ド、ドモなどと一緒に説明されている。再び、岩波書店の古語辞典を引く。用例は省くので当たられたい。

 とも 動詞型活用の終止形、形容詞型活用の連用形を承けて仮定条件を示し、下文に接続する助詞である。本来、指示する副詞の「と」と、不確実・不確定の意を表わす係助詞「も」の複合した語で、「と」が仮定の条件を指示し、それを「も」が承けて、「…ても」とその仮定条件すらも不確実であることを示す。その結果、終結部が、不確定判断で終止するものである。つまり、下に肯定の普通の終止が来ることはなく、放任とか、命令とか、意志、欲望、 推量、否定などの不確定な判断で終止する。なお、「既に…しているが…していても」と既に起ってしまった事を仮定形で述べる場合に使うこともある。この語法を修辞的仮定ということがある。……
 ど・ども 活用語の已然形について逆接の既定条件を示す。これは、指示する副詞の「と」、またはその「と」に係助詞「も」のついた「とも」が已然形を承けて、条件を指示する用法が生じ、後にその「とも」の語頭が濁音化したものと思われる。「ど」と「ども」とのどちらが先に成立したかといえば、「ど」よりも「ども」の方が先に成立したものであろう。それは、この助詞は承ける用言の已然形の内容を否定する文章を導くのが役目であるから、そうした否定の役目を果すには、元来、指示する副詞の「と」だけでは不足で、その下に不確実・不確定・否定の意を表わす係助詞「も」を添える必要があったと思われるからである。それ故「ども」という濁音の語が成立した後になって、「も」が無くても逆接の条件を示しうるようになり、「ど」の形が成立したものであろう。……「ども」は已然形によって既に成立している条件から当然次に起る順当な結果とは逆の状態を導く。……当然、満足という結果が起るはずであるのに、「ども」が介入することによってその当然の結果を否定して、「不満足な今日だ」という句を導く。「ど」は「ども」と意味は全く同様である。(1455頁)

 機織りの杼は、左に右に往き来することが繰り返される。右手から放たれたものを左手が受け取り、受け取ったらそれで終了ではなく、足でもって綜絖を違えて経糸の上下を変え、今度は左手から右手方向へと反対に放つのである。これがほとんど永遠に続く。助詞のトモなどが、前にある已然形の言葉を承けつつそれを肯定するのではなく、逆になる言葉が続いていくのと同じ関係になる。反対へ送り返すのが杼なのであるから、助詞ト・ドなどの用法と漢字「杼」とは対応関係にあると類推思考が働く。古事記の用例は、次の35例である。

 蹈登杼呂許志(蹈み轟こし)(記上)
 和杼理邇阿良米(我鳥にあらめ)(記3)
 那杼理爾阿良牟遠(汝鳥にあらむを)(記3)
 蘇邇杼理能(鴗鳥の)(記4)
 袁佐閇比迦礼杼(緒さへ光れど)(記7)
 袁登売杼母(媛女ども)(記15)
 知杼理麻斯登々(千鳥真鵐)(記17)
 那杼佐祁流斗米(など黥ける利目)(記17)
 蠅伊呂杼(はへいろど(弟))(2)(神武記)
 伊杼美(いどみ(挑))(崇神記)
 阿礼波須礼杼(吾はすれど)(記27)
 阿礼波意母閇杼(吾は思へど)(記27)
 邇本杼理能(鳰鳥の)(記38)
 美本杼理能(鳰鳥の)(記42)
 伊耶古杼母(いざ子ども)(記43)
 岐許延斯迦杼母(聞えしかども)(記45)
 許々呂波母閇杼(心は思へど)(2)(記51)
 意富々杼王(おほほどのみこ)(2)(応神記)
 売杼理能(女鳥の)(記66)
 佐賀斯祁杼(嶮しけど)(記70)
 意富本杼王(おほほどのみこ)(允恭記)
 志多杼比爾(下訪ひに)(記78)
 加流袁登売杼母(軽嬢子ども)(記83)
 阿加斯弖杼富礼(明して通れ)(記86)
 都麻杼比(つまどひ(妻問))(雄略記)
 袁杼比売(をどひめ)(3)(雄略記)
 袁本杼命(をほどのみこと)(2)(継体記)
 泥杼王(ねどのみこ)(欽明記)
 須売伊呂杼(すめいろど)(欽明記)

 助詞のド(ドモ)に6例、「鳥」に7例であり、また、piːpiː 鳴きそうな「子ども」、「軽嬢子ども」の例がそれぞれ見られる。計15例だけでは、古事記の「杼」の用字に上の類推が底辺にあったか何とも言えない。他方、万葉集の歌の部分に使われる「杼」字では、助詞ト・ド(ドモ)に使われる例とそれ以外に使われる例は、それぞれ94例、69例であり(重出等は除く)、率にして57%ということになる。これを高い確率と考えるかどうか判断は分かれようが、(ヤマトコトバのト乙類、ド乙類全数を母数に勘定しないといけない。)筆者には、この字を当初から選択的に用字した人の頭の中では、「音訓仮名」であったのではないかと考える。その後、ド乙類=「杼」と棒暗記した人にとっては、それは「音仮名」に堕したということであろう。
 以上、万葉仮名の音仮名と訓仮名の間の闇について垣間見た。言葉を文字化する際に、奇妙な現象が起こった点について少しだけあげた。網羅的に調査する必要があろうが、本稿は、あくまでも序論である。なぞなぞのできる、洒落のわかる音韻論者の登場を待ちたい。
 ヤマトの人は、ヤマトコトバを熟成させておきながら文字を持たなかった。文字化しようとした時、よりによってお隣に表意兼表音文字の漢字を使う文明があり、それを借りることで文字化を達成した。そして、返り点を付けて外国語を読んでしまうことや、漢文風にヤマトコトバを表記することに成功している。日本書紀の漢文は、正格な漢文ではなくて間違いのある倭習であると呼ばれているが、ヤマトコトバを漢訳しようとしたのではなく、ヤマトコトバを表記しようとしただけだから、古事記や万葉集同様、何ら不都合なことはない。現在、記紀万葉を読む際には、うまいことヤマトコトバを写し取ったなあと、褒めて育てるのが正解であろう。往古の人たちの苦労を思うと頭が下がるばかりである。

(注1)オモ、コメ、オニといったヤマトコトバがいつ頃、どのように成り立ったかについてと、ヤマトコトバにおける漢字の文字採用との関係をも考慮しなくてはならない。その際には、朝鮮半島における吏読というよみ方のこともあわせて考えなければならないだろう。その場合、ウマ(馬)という語がマ音の訛りでムマ、ウマと呼ばれたのだといった素朴な議論は排除されなければならない。ほとんどの人が文字を知らないなか、新しい言葉を根づかせるためには、地域を越えて皆が納得できる音を持った語でなければ浸透しない。その際、どのような技を用いたのかについて研究することが大切である。道のりは遠く険しいが、本ブログはそれを進めている。
(注2)科学的な態度から、存在するテキストから検証可能な次元でしか物事を考えなくなって久しい。ひと時代前には、上代語について不思議で奇抜な議論が繰り広げられ、それはそれなりに成果としてあり、いくつかの辞書が残されている。辞書だから、あまり説明が変わって行っても困るが、この言葉の意味はもっと深いところにあるはずだ! というように、言葉について考えを究めようとする姿勢を放棄してはならない。それが“科学”かと問われれば、それは“科学”ではない。なにしろ、言葉は科学ではない。どこで、だれが、どのくらい、その言葉を使っているか、例えば、現在、言葉の使われ方が変わっていっているとか、源氏物語で○○という言葉は△巻で使われるが、▽巻では使われないのは紫式部の……といったことは“科学”的研究である。しばらくすれば、すべてが人工知能によって取って代わられるものであろう。
 研究者のなかには、誰が最初に研究したかというプライオリティをとやかく言う人がいる。業績に関わる一大事らしい。しかし、相手は、言葉である。戦前の日本では、ドイツ語を使う人が少なく、ドイツ語が科学の勉強のために必要とされた時代があり、ドイツ語ができるというだけで凄いとか、偉いとかいうことがあった。けれども、当時も、ドイツへ行けば、小学生でもドイツ語ができた。当たり前である。ヤマトコトバも同じで、今となっては、枕詞について感触すらほとんどわからなくなっているけれど、当時の人は子どもでもヤマトコトバを使っていた。その子どもでもできたことを、今の研究者が勉強して、新たにわかったからと言って純真から喜ぶのはともあれ、研究成果として得意になるのは何か気がおかしいのではないかと思う。
 古事記について、古代国家の正統性を謂わんとして構想されているといった議論がかまびすしい。しかし、古事記は、基本的にお話である。話された音声言語がもとである。稗田阿礼が諳んじていた。ならば、その真髄に迫るには、声として聞くのがいちばんの近道であろう。幸いなことに、中村吉右衛門朗読『古事記』(新潮社、2006年)がCDで発売されている。先入観なく聞いてみて、古事記は古代天皇制のために編纂されたものであるに違いないと思える人は、どれほどいるのだろうか。皇統譜ばかりを聞くか、皇統譜を聞き流してお話部分を聞くか、常識的な聞き方をして頂きたい。話されていることだから、ねぇ、いまのところもう一回やって、というのは有りだが、メモを取ってはならない。文字を持たず、“歴史”時代ではなかった。すべては story で、 history ではなかった。だから逆に、言葉だけで口伝えに伝えることができた。つまりは、小学生でもわかることしか残らない。それが古事記のお話である。
(注3)助詞のノについて、記紀万葉では「之」字をもって記されることがとても多く見られる。例えば、「八尺勾璁五百津美須麻流珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)」、「竺紫日向高千穂久士布流多気(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)」などとある。この「之」は正訓字とされ、万葉仮名の一覧表のノ乙類欄に、「之」字を見ることはない。シの「音仮名」とはされている。また、「者」字についても、助詞のハ(バ)とよんでいるけれど、万葉仮名とはされていない。(例外的に、万732番歌に、「今時者四(今しはし」とよんでいるケースのみ、万葉仮名と捉えられている。)正訓字とは、「国」をクニ、「山」をヤマとよむのと同じく、漢字本来の意味にもとづくよみ方であるとされる。といって、「唐長安大雁塔」といった記し方を漢文にしているのか、不勉強でわからない。どうも仮名的な発想に基づいて漢字を当てているように思われる。ヤマトコトバの文字化のために漢文を真似て用いたから倭習といった現象が起こっている。矢島、前掲書にも、「和語が前提とされているからこそ、しばしば漢文とは異なるシンタクスが現れると考えられる。」(256頁)とある。漢文訓読からヤマトコトバの助詞ノやハ、バが生れたのではない。ヤマトコトバは大部分がもとからあり、またそのつど新しい言葉も作られ、さらに、漢文訓読から生れた語が加わった。ゴトシ(如)、イハク(曰)、シカリ(然)などである。助詞のノやハ(バ)はもともとあって、それを書き表わすために、漢文に見られた助辞の「之」や「者」、ほかにも「而(て)」や「耶(や)」の用法を無断で使ったのがヤマトの人たちである。筆者は「之」や「者」、「而」、「耶」も、「万葉仮名」であると考えたほうが古代の人の感覚に近いと考える。そうなると、概念規定において、大幅な変更を余儀なくされることになる。ちなみに、万葉仮名という概念以外の中古や中世の「仮名」としては認められているようである。
(注4)矢島、前掲書では、「二神の名は、
 意富=斗=能=地神
 大  =斗=乃=弁神
という語構成であること、同時に神名の核は「斗(ト))」であることもしめされているのである。」(271頁)とあるが、食い足りない。反対に、
 意富=斗==地神
 大  =斗==弁神
と記される可能性がなかったことこそ、「乃」が連体助詞ノに密接な字義となっていることによるものであったと考えられなくてはならない。
(注5)日本書紀では、「乃」字が使われず、代わりに「廼」字が用いられている。爾雅・釈詁に、「廼 乃也」、玉篇に、「廼 与乃同」、正字通に、「廼・乃 音義並同、故経伝雑-用之」とある。この「廼」(迺)の字は、日本書紀にド乙類、ノ乙類の仮名として歌謡や訓注に用いられている。漢音にダイ、呉音にナイ、咍韻とされる。森博達先生の日本書紀巻別では、β群にしか現れないので、「述作者」があまり気にしないで当てているものなのかもしれない。しかし、歌謡の音に当てる文字について、漢字の音を借りて書いた際に、後で読み返して誤謬が生じかねないままにしておくのは杜撰である。現代語の例であてにはならないかもしれないが、試験に受かったのは「運な……」と「運な……」では、後に続く「……」の意味合いが正反対になる。運なであったから授業についていけずに今は留年している、運なではなく実力であったから首席で卒業した、といった具合である。校閲としてどうなのであろうか。

 句句廼馳(くくのち)(神代紀第五段本文)
 贈廼夜覇餓岐廻(その八重垣ゑ)(紀1)
 乙登多奈婆多廼(弟織女の)(紀2)
 多磨廼弥素磨屢廼(玉の御統の)(紀2)
 避奈菟謎廼(鄙つ女の)(紀3)
 阿軻娜磨廼(赤玉の)(紀6)
 飫悶廼奇(おものき)(神武前紀戊午年四月条)
 比鄧誤廼伽瀰(魁帥(ひとごのかみ))(神武前紀戊午年八月条)
 未廼那鶏句塢(実の無けくを)(紀7)
 未廼於朋鶏句塢(実の多けくを)(紀7)
 瀰菟破廼迷(罔象女(みつはのめ))(神武前紀戊午年九月条)
 於佐箇廼(おさかの)(紀9)
 比苔破易陪廼毛(人は云へども)(紀11)
 曾廼餓毛苔(其のが本)(紀13)
 飫迺餓烏塢(己が命(を)を)(紀18)
 迺務(叩頭(のむ))(崇神紀十年九月条)
 菟芸廼煩例屢(継ぎ登れる)(紀19)
 珥倍廼利能(鳰鳥の)(紀29)
 異枳廼倍呂之茂(いきどほろしも)(紀30)
 枳虚曳之介廼(聞えしかど)(紀37)
 瑳用廼虚烏(さ夜床を)(紀47)
 謎廼利餓(雌鳥が)(紀59)

 日本書紀の「廼(迺)」字の「ノ乙類」に、古事記の「乃」字に一貫して見られた相即性の表明は見られない。ノ乙類とド乙類の両方に当てるぐらい適当といえる。
 上に述べたとおり、筆者は、筆記するという作業に、言葉(音)→文字、と、文字→言葉という正反対の2つの側面が、あるときには離れて、あるときには表裏一体となって起きていると考えている。この日本書紀β群の筆録者は、どうも、言葉→文字として歌謡を書き記し、そのまま校閲せずに終了したということに思われる。「廼」と「迺」とが顧慮されずに混在しているとか、ノ乙類とド乙類とが同じ文字で表わされているのを見過ごしてしまう、といった点である。森博達先生の考究によると、日本書紀α群の歌謡は、唐代北方音によって音訳されて日本語の音韻が区別できるように工夫されているとされている。ほかに、α群の漢文に倭習は少なく、正格漢文が多く、原史料の利用も透けて見えるとされている。そして、結論として、日本書紀α群の「述作者」は「渡来唐人」(森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』(中央公論新社(中公新書)、1999年、173頁)ということになっている。筆者は、「述作者」ではなく、「筆録者」に過ぎず、書いた後、校閲を受けたか受けていないかの違いではないかと考えている。(β群とされる巻にも、α群で活躍した書き手が“追加記事”的に参加しているように思える部分が見える。別に論じる。また、本ブログ「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の𣝅は、ウドである」を参照。)なぜなら、歌謡にもヤマトコトバの洒落、それは、枕詞という、今となっては当の日本人さえ意味不明な言葉遣いを平気でやってのけているものを、外国人がいかにヤマトコトバに通暁したからといって、聞いた音を記すことはできても、己が力のみで作るのは至難の業であると思うからである。我々が、英語のジョークを理解することはできても、乱発するほどにはなかなかなれず、ましてや無文字文化の極度に発達したヤマトコトバ(それはガラパゴス的でもあるし、オートロジックを目指したからでもある)は、ヤマトの人ファーストであったからである。万葉集に、外国人や渡来一世の歌人がほとんど見られないことは、自国民中心主義ではなく、使っている言葉がなぞなぞだからである。なぞなぞの経験は、みなさんご承知のとおり、幼稚園から小学校低学年がピークである。その言語学習の時期に、ヤマトコトバ浸けの生活を送らなければ習得は難しい。少なくとも現代の文字文化のなかにあっては、大人になってからでは馬鹿馬鹿しくてできないように感じられる。
(注6)「倭文織」をシツオリ、シツリの他に、シトリとよむ例が、廿巻本和名抄の地名表記に見られる。だからシトリも鳥の一種だと考えることもできるかもしれない。ただ、筆者は、「倭文織」を積極的にシトリとよんでいない点に目が行く。本ブログ「女鳥王物語 其の四(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)」でも触れたように、紀や万葉集に、シツオリ、シツハタ、シツタマキなどとある。ハタオリ→ハトリというようには直結していかない。古代の人はそこには“鳥”のことだと強く主張していないように思われるのである。それでも、織物の歴史はとても古いと推測され、そのことは、言葉の上でも、杼に当たるものがヒ甲類、綜絖に当たるものがヘ乙類(経)と一音節のごとく短い言葉であったことから確かめられる。ヒイと音を立てていたのか、ヘエと答えていたらしい原始機(それを機と呼んでいいのかわからないが)の復元を期待したい。命名に当たって、なぞなぞとして、日を経てもなかなか織り上がらないという洒落がいかほどか関与していたと考えている。シツオリは静かな織り、つまり、梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていったことらしい。アンギンか、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かとも思われる。パタパタいうことはない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

万葉「音訓仮名」 「乃」と「杼」のこと 其の一

2017年01月19日 | 論文
 ヤマトコトバを表記するのに、漢字の音読みや訓読みを当て字として用いたものを、万葉仮名と呼んでいる。万葉集の歌は、原文で、「籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 ……」(万1)と始まるが、「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ ……」と現代に通じるように漢字仮名混じり文に改められている。最初の「籠」という字は意味を伝えても、次の「毛」という字はただ音を伝えるだけである。音読みのモウからモとよむ。この歌には、「根」という字の訓読みから、ネとよんでいる。前者を「音仮名」、後者を「訓仮名」と呼び、そろえて「万葉仮名」と称している。音を借りているだけで、字の意味はとらないという約束である。
 本稿では、その「音仮名」と「訓仮名」の境界線にひそむ闇について考える。たくさんの万葉仮名があるから、本来ならたくさん考えなければならないところであるが、筆者は、“闇”についてしか興味がないので、思いついたところしか述べない。広範に研究されたい方は、別に当たって頂けると幸いである。考察するためのベースとして、矢島泉『古事記の文字世界』(吉川弘文館、2011年)に作られている、古事記において用いられている単音節を表す音仮名一覧表を用いることにする。矢島先生は、古事記に使われる音仮名の使用頻度に着目して考究されているが、本稿ではあまり頻度について考慮しないので、そこにあげられた音仮名をただ網羅することにする。片仮名の後に甲乙とあるのは、上代に2種類の音があったその区別を指している。日本人がお米のつもりでライスと言っても、虱のことだと笑われるのは、英語のラに2種類(ra , la)あるからだというふうに思っていただければいい。

 ア(阿)、イ(伊)、ウ(宇、汙)、エe(愛、亜)、オ(意、淤、於、隠)、カ(加、迦、訶、甲、賀、可)、ガ(賀、何、加、我)、キ(岐、吉、伎、棄)、ギ(芸、岐)、キ(紀、貴、幾、記、疑)、ギ(疑)、ク(久、玖)、グ(具)、ケ(祁)、ゲ(下、牙)、ケ(気)、ゲ(宜、気)、コ(古、高、故)、ゴ(胡)、コ(許)、ゴ(碁、其)、サ(佐、沙、左)、ザ(耶、奢)、シ(斯、志、師、紫、色、新、芝)、ジ(士、自)、ス(須、州、主、周)、ズ(受)、セ(勢、世)、ゼ(是)、ソ(蘓、宗、素)、ソ(曽)、ゾ(叙、存)、タ(多、当、他)、ダ(陁、㐌、太)、チ(知、智)、ヂ(遅、治、地、知)、ツ(都、豆)、ヅ(豆)、テ(弖、帝)、デ(伝、殿、弖)、ト(斗、刀、土、兎)、ド(度)、ト(登、等、杼)、ド(杼、縢、騰)、ナ(那)、ニ(迩、尓、仁)、ヌ(奴)、ネ(泥、祢、尼)、ノ(怒、濃、努)、ノ(能、乃)、ハ(波、婆、芳、貝)、バ(婆、波)、ヒ(比、卑)、ビ(毗)、ヒ(斐、肥)、ビ(備)、フ(布、賦)、ブ(夫、服)、ヘ(弊、幣、平)、ベ(弁)、ヘ(閇、倍)、ベ(倍)、ホ(富、本、番、菩、蕃、品)、ボ(煩)、マ(麻、摩)、ミ(美、弥)、ミ(微、味)、ム(牟、武、无)、メ(売、咩)、メ(米)、モ(毛)、モ(母、木)、ヤ(夜)、ユ(由)、エje(延)、ヨ(用)、ヨ(余、与、豫)、ラ(良、羅)、リ(理)、ル(流、琉、留)、レ(礼)、ロ(漏、路、楼、廬)、ロ(呂、侶)、ワ(和、丸)、ヰ(韋)、ヱ(恵)、ヲ(袁、遠)。

 ちなみに、ここで矢島先生は、2音節以上の音仮名については別に検討されている。古事記で地名のツクシ(筑紫)のことを「竺紫」と表しているのは、「竺」という2音節音仮名ツクによっている。当て字の意味を深謀すると面白いことがわかるが、本稿の主旨とは離れてしまうので別の機会に譲る。ここでは、いわゆる音仮名といわれるものと、訓仮名といわれるものの境目の曖昧さについて見てみたい。
 古事記には、矢島先生の一覧表にある音仮名ばかりでなく、訓仮名といわれるものもある。万葉集と同様である。日本書紀の歌謡の場合、すべて音仮名で表記されていることになっている。(なぜそうしたかについて、ここでは突っ込んだ議論は避ける。紀122番歌謡は明らかに訓仮名が混じっていると思うが、やはり別の機会に譲る。)必然的に、日本書紀のほうが古事記よりも音仮名の種類は多い。そんななか、古事記にあって日本書紀にはない音仮名もある。矢島先生の一覧を基準にしてみると、
 エe(愛、亜)、オ(隠)、ガ(何)、キ(伎)、ギ(岐)、ゲ(宜)、コ(高)、ゴ(碁、其)、ザ(耶、奢)、ス(州)、ゼ(是)、ソ(宗)、ゾ(存)、タ(他)、ヂ(地)、デ(伝、殿)、ド(縢)、ノ(乃)、ビ(毗)、ホ(本、番、菩、蕃)、ム(无)、メ(米)、ル(琉)、ロ(路)、ワ(丸)、ヲ(袁)
などである。このうち、音の清濁によっては日本書紀に見られる例として、「伎」はギ甲類、「岐」はキ甲類でよんでいる。偏などの追加削除変更で日本書紀に見られる例として、「州」に近い「洲」をスとよんでいる。そういった例を除いて、古事記に特有の音仮名の文字をあげると、
 「愛」、「亜」、「隠」、「何」、「宜」、「高」、「碁」、「其」、「耶」、「奢」、「是」、「宗」、「存」、「他」、「地」、「伝」、「殿」、「縢」、「乃」、「本」、「番」、「菩」、「蕃」、「无」、「米」、「路」、「丸」、「袁」
となる。
居酒屋看板
 問題は、古事記には音仮名以外に訓仮名があり、解釈を混乱させる点である。今日、「坐・和民」と看板が出ていれば、それはきっと「The 和民」をもじった店名のつけ方であろう、だからタイトルバックに za・watami とあって、車座に坐って飲める居酒屋で、ざわざわ感が出ていて宴会にもってこいであろうとわかる。つまり、「坐」の字は音仮名でザとよむに違いないと思っている。ところが、古事記に「坐」は訓仮名であり、ヱとよむ。据える意味の自動詞形が座るだから、古語に「すゑ」、そこから頭を略してヱに当てている。「額田部湯坐連」(記上)という人名の、「湯坐」をユヱとよむ。貴人の出産の際、産湯をつかわせる仕事をする人の意味である。もし古事記に「坐和民」とあったら、「和民に坐(いま)しき」の可能性も高いが、「ヱヤマトノオホミタカラ」、愛しいヤマトの国の人民たちよ、の意かもしれないのである。
 上に例外とした「洲」について、日本書紀にスとよむのは、日本書紀のなかで音の表記に音仮名を採用している傾向から、字音からスとよんでいると思っている。「州」は日本書紀でツである。そういう万葉仮名ということになっている。「汶洲王(もんすわう)」(雄略紀二十一年三月条)、「弥州流(みつる)」(神功紀四十六年三月条)、「州流須祇(つるすき)」(神功紀四十九年三月条)、「州利即爾将軍(つりそにしゃうぐん)」(継体紀七年六月条)、「州利即次将軍(つりそししゃうぐん)」(継体紀十年九月条)などとある。けれども、ヤマトコトバに川の中洲をいう洲は、スである。日本書紀でも人名表記の「日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)」(景行前紀)は、字訓づらをしている。「日」「葉」「媛」「命」、みな訓読みである。この人は、「日葉酢媛命」(垂仁紀十五年八月条)と同一人物である。「洲」=「酢」をスとよむのは、「訓仮名」に当たるように思われてならない。ましてや、「洲」や「州」という字をスと古事記や万葉集などでよんだ場合、それをはたして「音仮名」であると言い切れるのか、疑問ということになる。
「す」看板(深川江戸資料館「江戸の看板」展展示品、木下大門氏蔵)
 同じことは、記紀万葉に使われる「母」をモとよむ場合にもいえる。日本書紀では音仮名と言えても、古事記や万葉集では、母親のことを意味するオモというヤマトコトバに多くを負っているのかもしれない。漢字のよみ方のアンチョコ記憶法として、「母」→オモ→モという語呂合わせ記憶法があったかもしれないことは、誰も否定できない。筆者は、ここに、「音訓仮名」という新しい概念定義を導入したい。音韻論にそういうことを論じたことがあるのか、不勉強でわからない。漢字の成り立ちに関して、会意兼形声文字というのがあるように、仮名に「音訓仮名」があって何ら不思議ではない。「洲(州)」という字が、字音(ス)と字訓(す)にたまたまであろうが一致をみて、ヤマトの人がそれに興味を持つことはけっして不自然なことではない。catalog に「型録」、dictionary に「字引く書也」と日本語を当てた先人のことを彷彿させる。
 別の例をあげよう。「米」という字は、字音のメイからメとよむから音仮名であるとされている。けれども、ヤマトコトバにコメ(米、メは乙類)と呼ばれるものは、いつからコメと呼ばれるようになったのか。稲作が始まってからということであろうから、縄文時代晩期以降ということであろう。たかだか2000年ぐらいにすぎない言葉らしい。それでもコメと言っているからには、古事記に「米」とあるのが、字音ばかりではなく、字訓のコメの後ろの発音に依っている可能性も捨てるわけにはいかない。日本書紀ではメ乙類に「米」字は使われず、古事記には見られない「迷」字を使っている。太安万侶が何かを思って「迷」字を避けて「米」字を使ったのか、あるいは逆に、日本書紀編纂者が万葉集にも使われる「米」字を避けて「迷」字を使ったのか、聞いてみなければならない。日本書紀の音仮名指向からすれば、メ乙類に確実な字音でありつつ字訓ではない「迷」を意識的に選択したとも考えられる。
 他の例として、「隠」という字は、字音のオンからオとよむから音仮名であるとされている。けれども、ヤマトコトバにオニ(鬼)と呼ばれるものは、この「隠」の字音が言いづらいから on → oni というようになったとする説がある。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名於邇(おに)。或説に云はく、於邇(おに)は隠奇(オンキ)の訛れる也といふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は◆(糸がしらに人の代わりに鬼、魕の異体字)〈音蟻又音祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂也といふ。」とある。語源というものはもはやたどることはできない。たどることはできないが、当時の人の語源感覚のようなものが垣間見られる。オニ(鬼)という言葉が「隠」という字と関わりがあると思って早くから馴染んでいたとするなら、ヤマトコトバのオニの頭一音をとってオとよむべく、仮名として使われたと考えることができる。その正否はわからないが、仮定の上ではこういった例は、やはり一種の「音訓仮名」であると認められることになる。以上は話の前座である(注1)
 筆者の主張は、文字→言葉というこれまでの議論に修正を迫るものである。古代の人は、考え方として、言葉(音)→文字として仮名文字を考え書いたのであろうと考える。ワープロソフトに慣れてしまうと、文字→言葉という枠組みから抜け出せなくなる。しかし、俳句を捻っている人を見ていると、ぼそぼそと口ずさみながら指を折って数えている。進行方向は、確実に言葉→文字である。それが推敲の段階になると、文字→言葉へと返ってくる。MBSのテレビ番組「プレバト!!」で、夏井いつき先生が毒舌を吐きながら添削されていることは、その両方向を同時進行で行う高度な言語活動である。万葉仮名の研究は、書き表わされたテキストを分析的に取り扱うため、文字→言葉ばかりを俎上に載せることになる。けれども、最初の、文字に写し取る段階では、言葉→文字の過程があったはずである。もともとは文字がなかったのだから間違いない。言葉と文字の間の往ったり来たりの思考を無視しては、古代の人々の言語活動の総合的な全体像は見えないことになる(注2)
 日本書紀の歌謡の表記は、一字一音の音仮名表記に限られる。定説であるし、その通りであろう。けれども、いろは47文字、あいうえお50音に、それが平らな音、上っていく音、下がっていく音などと声点のような意識があったとして、1つの音シに、子、之、芝、伺、嗣、斯、志、思、時、詩、師、旨、指、始、施、絁、矢、玆、試、資、辞、尸といった数多くの漢字を用いたのはなぜであろうか。用いていけないのではなく、方針は貫かれてはいるが統制がとれていない。その点に着目しなければならない。言葉→文字のことを考えないと肩透かしをくらうことになる。
 ここでは、「乃」と「杼」について考える。
 「乃」の音は、呉音でナイ、漢音でダイである。これが、ヤマトコトバのノ乙類に当てられている。咍韻で上古音に nəŋ といった発音であったからとされている。大野透『萬葉仮名の研究―古代日本語の表記の研究―』(明治書院、昭和37年)には、「乃は古層の仮名で、奈良時代を通じて常用され、平安時代では片仮名・平仮名の字原となつてゐる。……ノの仮名に適する〔咍〕韻泥母の字の内で最も少画の普通字乃がノの最古の常用仮名に用ゐられる様になつたのは不思議ではない。」(175頁。漢字旧字体は改めた。)とされている。ノ乙類は、日本書紀では、「能」、「廼」という字で表わしている。万葉集では、「乃」、「能」以外に、訓仮名として、「箆」、「笶」、「荷」といった字が用いられている。矢の柄のことを「の(ノ乙類)」といったことや、「荷(に)」の古形が「の(ノ乙類)」だからその字を当てている(注3)
 筆者は、日本書紀に「乃」字が見られない点に不審を感じている。古事記や万葉集で頻りに登場する「乃」字が、日本書紀の歌謡表記で「音仮名」として採用されなかったのには、ノ乙類に確実な字音とは確定しきれないものと捉え、「乃」字を意識的に排除したとも考えられる。すなわち、古事記でノ乙類の「乃」字は、上に提示した「音訓仮名」に当たるものではないかと考える。ヤマトコトバの「の(ノ乙類)」とは、代表的な言葉として、連体助詞の「の(ノ乙類)」がある。大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『古語辞典』(岩波書店、1974年)の詳細な解説を引く。用例は省くので当たられたい。

 「つ」「が」に比較して用例も多く、用法も広い。しかし、連体助詞としての「の」の最も基本的な意味は、「右の歌」「須磨の海人」などのように存在の場所を示すことにあると認められる。これは現代ならば「…にある」というところである。この用法から転じて、行為・生産の行なわれる場所を意味し、そこから転じて、生産者・作者を意味する用法が発展した。一方、存在する場所を示す用法から、所有する人を意味した。また、所有と所属とでは、力の関係は逆であるが、古代的心性の表現としては、所有することと所有されることとはしばしば混同されたので、「の」にも所有と並んで所属の用法が存在する。また、古代的心性においては、所属しているということは、その所属しているものの属性を保持していることでもあるので、「の」は、属性を持つことを示す用法を展開した。「あはれの鳥」は、「あはれ」に所在する鳥、つまり「あはれ」に所属する鳥であり、「あはれ」という属性を保有する鳥である。こうした属性を示す用法から、「一杯の濁れる酒」「千万の軍」など、体言を修飾限定する「の」の用法が発展し、さらに「朝露の如、タ霧の如」のように、「ごと」(同一の意)を修飾する用法もあらわれている。なお、存在の場所を示す「吉野の山」のような用法から、「大和の国」のように、命名・指名の用法(「…という」と訳される)が現われ、「わが背の君」のような資格を示す用法に広まった。このようにして、「の」は「…にある」意から起り、「…である」と属性を示す用法に広まり、「…という」と資格を示す用法を併せ持つようになった。(1443頁)

 「古代的心性」について、疑われる方もおられるだろうが、大野晋先生の仰られていることに間違いはない。その部分にあげられている用例は、

 み船さす賤男伴は川の瀬申せ(万4061)
 初春はつね今日玉箒手にとるからにゆらく玉の緒(万4493)
 くれなゐ色も移ろひ(万4160)
 聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれ鳥といはぬ時なし(万4089)

である。「賤男の伴」を「伴の賤男」と言い換えても言い換えられそうである。「今日のはつねの初春の」でもかまわない気がする。つまり、ノという助詞、「AのB」は、本来的に、含み含まれる関係で、「A⊃B」でありつつ、「A⊂B」であるようなことになっている。これは、相即、「A=B」であること、つまるところ、「すなわち」ということである。漢文では、「乃」という字を使うことがある。とすると、「乃」という字は、字音をもってノ乙類に当てた音仮名であるといえるばかりでなく、字訓をもってノ乙類に当てた訓仮名であるともいえるのである。これを、筆者は上に、「音訓仮名」と称した。
 矢島先生の、古事記の音仮名の複用の研究では、ノ乙類には、主用仮名の「能」字362例に対して、「乃」字3例は非-主用仮名とされ、「必ずしも理解が容易とはいいがたい面」のある個所に、文節の区切りとなる指標として「連体助詞ノと結合度の高い非-主用の『乃』に着目」(127頁)させるために置かれているとされている。前提として、古事記では、連体助詞ノにほとんど「能」が使われているからとされている。
 上で筆者は、連体助詞ノの究極的なあり方は、「AのB」が、「A⊃B」∧「A⊂B」⇒「A=B」であると考えた。古事記の用例は、

「次、意富斗能地神。次、妹大斗乃弁神。(次に、意富斗能地神(おほどのぢのかみ)。次に、妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ))。」(記上)
「阿麻陁牟加流乃袁登売(天(あま)だむ 軽(かる)の嬢子(をとめ))」(記83)
「麻岐牟久能比志呂乃美夜波阿佐比能比伝流美夜(纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮)」(記99)

の3例である。
 第1例は、「此二神名亦以音。」と分注がついていながら、「大」字はオホと訓じているから、必ずしも「以音」ではない。わざとらしい洒落が効いている。矢島先生は、「素知らぬふり」(前掲書、271頁)と表現されている。「意富斗能地神」の助詞ノに「能」、「大斗乃弁神」の助詞ノに「乃」とある。「乃」が純粋に「音」であるとは限られないことを示唆しつつ、「オホト⊃ベ(ヘ)」∧「オホト⊂ベ(ヘ)」⇒「オホト=ベ(ヘ)」であることを表しているのではないか(注4)。オホトノヘ(ホ、ノは乙類、ト・ヘは甲類)は、「大戸の重」、立派な戸の外のこと、ヘ甲類は隔てになるものの意である。大きな戸は隔てとなるものであるに決まっている。ト甲類(戸、門、外)とヘ甲類(重、辺)とは同義語関係にある。だから、「乃」字の本義に適っている。対するオホトノヂ(チ)は、「大戸の内」のことと捉えることができるが、その場合、ト(戸、外)とチ(内)とは反対語関係になるから、「乃」字の意に当たらず使いたくなくなる。
 この伝でいくと、第2例目の「加流乃袁登売」とは、「カル⊃ヲトメ」∧「カル⊂ヲトメ」⇒「カル=ヲトメ」であると自明であることを、「乃」字によって表しているということになる。垂仁紀八十七年条に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)が歳をとったから、石上神宮の神宝を管掌することができなくなった。ついては、妹の大中姫命(おほなかつひめのみこと)よ、あなたが代わりを務めてくれ、と頼む場面がある。兄妹なのだから、どっこいどっこいで年老いている。大中姫命は、「吾は手弱女人(たをやめ)なり。何ぞ能く天神庫(あめのほくら)に登らむ」と言って固辞している。女性が年齢を重ねると、腕力が弱くなるばかりではなく、メタボな体型になって懸垂はできないということでもあろう。今日では、特に欧米系やそのほかの女性にその傾向は見られるようである。つまり、若い未婚女性は身軽なのである。また、ヲトメという語は、特に宮廷に仕える若い官女のことにもいう。指図すればすぐに立ち働いてくれる女性である。腰の重い、なかなか言うことを聞かないお局様とは異なる。だから、言葉の上で、カルといえばヲトメが思い浮かび、ヲトメといえばカルが思い浮かぶ構図が成り立っている。「乃」字の本義に適っている。
 第3例目の、「麻岐牟久能比志呂乃美夜」について、矢島先生は、「<纏向の日代>=の=宮」ではなく、「纏向=の=<日代の宮>」(128頁)という固定、修飾する関係を示そうとしたものと推定されている。けれども、「夜麻志呂能都々紀能美夜(山代の筒木の宮)」(記62)という例があり、「<山代の筒木>=の=宮」なのか、「山代=の=<筒木の宮>」なのか、書き分けていない。そこでは太安万侶に固定する気がなかったといえばそれまでだが、そうなると、どうして「麻岐牟久能比志呂乃美夜」は固定したかったか説明されなければならない。反証に値する例であろう。
 ここも上と同様に考えることができる。「ヒシロ⊃ミヤ」∧「ヒシロ⊂ミヤ」⇒「ヒシロ=ミヤ」である。神さまのいらっしゃるところは、ヤシロ(社、屋代)である。天皇、つまり、日の御子のいらっしゃるところは、ヒシロ(日代)である。それをミヤ(宮、御屋)とも称したから、両者は等価の語であって、互いに互いを説明する自問自答、互訓である。よって、助詞ノの本義に適った「乃」字を用いている。「ヒシロノミヤ(日代宮)」なる地名は、普通名詞の固有名詞化したもの、例えば、「京都」といっているのと同じである。「京の都」という場合、「京都」と記せば、太安万侶は我が意を得たりと慶ぶのではないかと思う。後ろに続く「阿佐比能比伝流美夜(朝日の日照る宮)」の場合、この部分の助詞ノは、「夕日の日照る宮」でもあり得て相即の関係にはならないから、「乃」字は用いずに「能」字を用いている。
 この傾向が、古事記の他の「能」の用例の助詞ノにおいて、絶対に「A⊃B」∧「B⊂A」、よって「A=B」ではないのか、筆者は検証していない。古事記の表記論の方にはご批判を賜わりたい。なお、万葉集の助詞ノの表記において、「乃」が使われる際、必ずしも相即の関係にはないことは、少し例をみればわかる。「奈加弭乃音為奈利(中弭(なかはず)の音すなり)」(万3)とある。音など、弓に限らずいくらでも転がっている。万葉集の「乃」字は、音仮名に堕している(注5)
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

天寿国繍帳銘を読む(PDF版)

2017年01月15日 | 論文
全部まとめました。
「上代語ニュース」「天寿国繍帳銘を読む」(2017/1/10)へ。

(追記)山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館、昭和10年)のタイトルにもなっている「よりて」という語は、「接続副詞の如き形式に用ゐること少からず。これは『よる』といふ動詞に複語尾『て』のつける語なること勿論にして、かくの如く固形的に、しかも、接続副詞の如くに頻繁に用ゐらるるに至れるものはこれ亦漢籍の訓読により馴致せられしものなるべきなり。……即ちその漢文の訓読には、恐らくははじめより簡便を尚びて『よりて』とよみ来りしものなること殆ど疑ふべからざるなり。……これ実に漢文訓読の為に新に按出せられし一種の語遣にしてそれが、普通文に用ゐらるるに至りしものといはざるべからざるなり。」(216~222頁)と説明されている。
 山田先生のお考えにあるとおり、とても便利だから使おうよということで、早い段階からヤマトコトバに侵入していたものと思われる。本稿で「従」字をヨリテと訓じたが、いくつか他の例も挙げておかなければならないと思い、見つけたら次に記すこととした。推古朝の訓点例は見つけにくいかもしれないが、参考にまでして頂ければ幸いである。

 予悪夫涕之無一レ従也。 予(われ)夫(そ)の涕(なみだ)の従る無きを悪(にく)む。(礼記・檀弓上)
 金剛般若経一切諸佛之所従生。 金剛般若経は一切諸佛の従りて生れたまふ所なり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝)
 是吾剣之所従墜。 是、吾が剣の従りて墜ちし所なり。(呂氏春秋・察今)
 見漁人、乃大驚、問従来。 漁人(ぎょじん)を見て、乃ち大いに驚き、従りて来たる所を問ふ。(陶潜・桃花源記)
 所由入者隘、所従帰者迂、彼寡可以撃吾之衆者、為囲地。 由(よ)りて入る所の者隘(せま)く、従りて帰る所の者迂(う)にして、彼れ寡(か)にして以て吾の衆を撃つ可き者を、囲地(ゐち)と為す。(孫氏・九地)
 無以聴其説、則所従来者遠而貴之耳。 以て其の説を聴くこと無ければ、則ち従りて来たる所の者遠くして之れを貴ぶのみ。(淮南子・修務訓)
 従此観之、齊楚之事、豈不哀哉。 此れに従りて之れを観れば、齊楚の事、豈(あに)哀しからずや。(文選・上林賦)
 業不縁生、不非縁。 業は縁に従りても生ぜず、非縁に従りても生ぜず。(中観論・観業品)
 我等所従来 五百万億国 我等が従り来る所は 五百万億国なり(妙法蓮華経・化城喩品)

(別追記)天寿国繍帳の銘文の前半に、長たらしい縁故関係が記されている。なぜそのように綿密に記されているのかについて、橘大女郎の血筋の正統性を明かすためであるといった考え方も呈されている。筆者は、そのような立場に立たない。近親者の死に打ちのめされている人に対しては、何もしてあげられないのが現実である。(打ちのめされたことのない人にはわからないことであろうし、打ちのめされていない人には何でもしてあげられるものである。)打ちのめされている橘大女郎には、筆者の解説の代わりに、詩を一篇を贈りたい。このことを言うために、繍帳銘の前半は費やされている。

  喪のある景色  山之口貘

 うしろを振りむくと
 親である
 親のうしろがその親である
 その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに
 親の親の親ばつかりが
 むかしの奥へとつづいてゐる
 まへを見ると
 まへは子である
 子のまへはその子である
 その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに
 子の子の子の子の子ばつかりが
 空の彼方へ消えいるやうに
 未来の涯へとつづいてゐる
 こんな景色のなかに
 神のバトンが落ちてゐる
 血にそまつた地球が落ちてゐる

 (以上の点については、いずれPDF版の論文に入れ込むつもりである。2017.1.23)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

女鳥王物語 其の四(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月13日 | 論文
(承前)
(注9)身崎、同書に、「メドリの不穏な応答をきいて、天皇はだまってひきさがったというのか。それとも、天皇だけがそのことには気づかずにといを発し、メドリのおもわくに気づかず、たんにメドリの『情を知』っただけだったとすれば、ずいぶんとまのぬけた天皇だということにならないか。どちらの解釈にせよ、そういうふうに天皇像を提示しているとみるべきなのだろうか。そうはおもわない。ここではあくまでも、天皇の『妻問ひ』とそれに対するメドリのあからさまな拒否、という要素をみておくにとどめるべきだ。」(92~93頁)とされている。本稿では、その間の抜けたこと、オソ(遅・鈍)という言葉が、この女鳥王の話を成り立たせる大黒柱であると論じている。天皇“像”がどうなるのか、そのような文脈外どころか本文外のことについて、“話”を言う側も聞く側も関わっていない。なぜなら、“話(咄・噺・譚)”だからである。history と story とは次元が異なる。一回だけ空中を飛んでは消えていく“話”は、言葉(音)だけでできている。話の前提に天皇はかくあろうとか、女鳥王は巫女風に描いているであろうとか、はじめて聞く人にどうやって説明できるのか。一回きりしかしない話の前に、つべこべと講釈を垂れていたとするなら、もはや古事記は伝わっていなかったと考える。長くなれば覚えきれないし、理屈ばって面白くないし、自分には関係ないことは聞くだけ嫌になってしまう。稗田阿礼はその講釈を伝えていない。要らぬ枠組みを設定せず、言葉だけを基準にして聞かなければならない。
(注10)原文の「服」には、ミソ(御衣の意)という古訓もあるが、直後の記67番歌に、「織ろすハタ」とあるから、ハタと訓むべきである。機織り機で織られた布帛をハタといい、機械の方もハタという。岩波書店の日本思想大系本(1982年)、新潮社の日本古典集成本(昭和54年)、西郷信綱『古事記注釈 第七巻』(筑摩書房、(ちくま学芸文庫)、2006年)などに採用されている。地の文で「女鳥王にハタに坐してハタ織れり」とパタパタ言うことで、この話のテーマがハタの頓智からなっていることを示している。なお、面状に作られた布でも、編まれたものとわかる場合、上代にハタとは呼ばなかったかと考える。
(注11)荻原千鶴「記紀歌謡の女性歌人」後藤祥子・今関敏子・宮川葉子・平舘英子編『はじめて学ぶ日本女性文学史【古典編】 シリーズ・日本の文学史⑤』(ミネルヴァ書房、2003年)に、「問いに対する答えとは、問いに従属するものではない。答えとは、一見、問いを受けた受動的なもののようでありながら、実は問いが掬いとった状況の質を判定し、方向づけるものなのである。だからこそ女鳥王の歌は、状況の現実にすら気付いていない仁徳天皇に、状況を判定し現実を突きつけて、以後の状況の方向を決定づけるはたらきをもつ。そこに女性の歌の一つの本質がある。」(11頁)とある。似て非なることを筆者は考える。筆者は、よく問いを発する。状況がわからないからである。方向性を定めてもらうためである。馬鹿なふりして聞いてみた、という言い回しがあるように、答えていただくことはありがたいことである。仁徳天皇は、女鳥王に馬鹿にされている訳であるが、それが特に女性の歌だからそういう展開になっているのではない。問答の本質とは無関係である。ソクラテスのような強者もいる。
(注12)古代の衣装とは一概に比較できないかもしれないが、一般的に、着物を一着仕立てるために必要な布は、反物一反である。基準にしてある。現在の着物の反物は、幅が約37㎝、長さが約12.5mということになっている。丸帯を織る場合には、70cmほどの幅で織って縦方向にふたつに畳み、かがり留めしている。延喜式に「長さ二丈五尺。広さ二幅」とあるのは、長さが約7.5m、広さが約1.32mであるという。さて、どうやって拵えたのであろうか。現在も紬を織るのに用いられている腰機をみると、腰幅よりも少し広めに幅がとれるから、70cmほどに織っていくことは可能である。延喜式に「広さ二幅」という単位があり、「幅」の古訓には、ハタバリともある。それとの兼ね合いから考えるなら、66cm幅のものを7.5mの長さまで織り続け、それを2枚分織りあげてそれを縫いつないで「襲衣」を作ったとするのがいちばん妥当ではなかろうか。織る人に肩幅がなければ梭を横から入れていくのも大変であるし、巻き取りながら作るにしても歪まないようにしなければならないから、この場合、織りの技術に熟達していなければならない。女鳥王の答え方が強い物言いになっていて、「料ろかも」の答えが「御襲料」となっていた。ふつうの着物じゃないことぐらい見ればわかるでしょ! ということは、見ただけで分かりそうな違いが機織り機の上にあったということである。
 すなわち、幅の広い織りを施すのに、狭まっていかないように両端を広げておく工夫があったのであろう。前田亮『図説手織機の研究』(青人社、平成4年)には、「経糸の幅出具[鋸状幅出棒]は日本ではアイヌの織機にしかない」(149頁)、「[天秤腰機では、]現在、緯打ちにも筬が使われているが、本来は幅出用で、長い緯打ち刀か杼を用いていた。」(185頁)とある。筆者は、記68番歌謡を聞くにつけ、ヒバリが唐突に出て来ている以上、伸子によって幅が縮まらないようにしていたと考えている。そして、幅広で厚地の“反物”が織りあげられた。「襲衣」は上着なのだから、生地は分厚かったのであろう。
 機の種類については、用語に混乱が見られるようである。地面に尻もちをつけるタイプを地機と呼んでいるのか、身体で経糸を引っぱるのものを呼んでいるのか不明である。植村和代『織物』(法政大学出版局、2014年)に、「三種類の基本形について、錘を下げて張る織機を『錘機(おもりばた)』……、地面を利用して張る織機を『地機(じばた)』……、人体の腰で張る織機を『腰機(こしばた)』と表記する」(48頁)とある定義が適当であろう。経糸のテンションを何によっているのかの区分である。同書には、その地機の発展型として、インドによく見られる地面に穴を掘って足を入れ、足で綜絖を操作するタイプが現れ、それを木組みにして全体的に地面上へとアップさせたものが高機であろうとされている。ただし日本では、腰で経糸を引っぱる方式の腰機にも、天秤腰機のように機に一体型の腰掛に座って行うものも多い。インドに見られる掘りごたつタイプは、「穴織(あなはとり)」(応神紀三十七年二月条)のことに当たるのではないかと指摘されており、僭越ながら筆者も同意見である。
 ほかに、「漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)及び衣縫(きぬぬひ)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)」(雄略紀十四年条)という記事も見られ、それまでの「呉織」とは別種の「漢織」が来日しているので、あるいはそれが機構をすべて機に委ねて体が解放されたいわゆる高機の移入に当たるのではないかとも推測される。また、「倭文(しつおり、しつり)」といった例が見られる。「倭文神、此には斯図梨俄未(しとりがみ)と云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文部」(垂仁紀三十九年十月条)、「倭文機(しつはた(之都波柂))」(紀93)、「倭文、此には之頭於利(しつおり)と云ふ。」(天武紀十三年十二月条)、「倭文幡(しつはた)」(万431)、「倭文旗帯(しつはたおび)」(万2628)などとある。植村先生は、解釈に難渋されている。筆者も不分明ながら、これまでハタ(機)はパタパタと関係があると述べてきた以上、シツオリのシツは、シヅカ(静)の意と関係があると言わなければならない。梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていく機とは何か。アンギンか、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かとも思われる。機械がパタパタいうことはないからである。ただ、それを積極的に、ハタと呼んだものか定かではない。擬音語とは思われない。パタパタいう機織り機に対して、シツハタと後から名づけたのではなかろうか。

 天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(いま)して、神御衣(かむみそ)を織らしめし時、其の服屋(はたや)の頂(いただき)を穿(うか)ち、天の斑馬(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて、堕(おと)し入れたる時に、天の服織女(はとりめ)、見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき。(記上)

の例や、本稿の仁徳記の例は、「呉織」の類で、今いう天秤腰機ではないかと推測するが勉強不足でわからない。詳しくは前田亮、前掲書ならびに、同『続図説手織機の研究 日本篇』(青人社、平成8年)といった労作を参照されたい。いずれにせよ、作業上は実は高機とあまり変わりないらしい。腰で経糸を引っぱっていると、張り具合のニュアンスが感じられやすいという利点もあるという。結城紬は今でも腰機で織られている。工業化されないのであれば、使いやすいものや簡便なものを用いて何ら不都合ではなかろう。それでも、天照大御神の機織りの作業場は、母屋とは別棟の「忌服屋」、「服屋」であり、屋根に「頂」のある急峻な造りであったらしいことがわかる。また、雄略紀の織り手、縫い手がペアで渡来しているところも、パタパタ2つ扉のある機殿(機屋)での作業を彷彿させている。
(注13)オスヒの音転、オソヒは、上着ばかりでなく、馬の鞍や屋根の板の押さえのことも表した。「就而熟(つらつら)視れば、皇后(きさき)の御鞍(おそひ)なり」(欽明紀二十三年六月条)とある。紀61番歌に、「梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆かも」とあるのは、高床式建物の急峻な屋根を登った棟のところでまたがるのは、二人ならやすやすとできることだという含意を持っている。「安蓆」とは、やすらかに座ることのできる蓆であり、簡単に作ることのできる蓆であり、屋根の勾配をきつくすればするほど登るのは難しそうだが、屋根葺きは適当にしておいても雨は漏らないから安易な蓆のようなクラ(倉の鞍の座)となる、という意味である。棟持柱形式の建物の様を物語っている。蓆機に蓆が織りあげられていく様は、高床式建物の勾配のきつい屋根が葺かれていくのによく似ている。
莚機(日本民家園展示品)
合掌造の屋根を葺く(安藤邦廣『茅葺きの民俗学』はる書房、1983年、167頁)
(注14)尾崎暢殃「雌鳥の皇女」『国学院雑誌』第83巻第10号(昭和57年10月)に、「……日本書紀ばかりでなく古事記までも、雌鳥の皇女を織り姫として描いたのはなぜか。それは、古典では日の御子……のために、ないし伊勢の大御神のために、機を織る高巫のイメージはすでに固定されていたから、皇女を織り姫としてえがくのに何の支障も無理もなかったからである。むしろそのことが、雌鳥の皇女物語の構想を導く底の力となったと見られる。一体、古代人の観想では、伊勢の国は神人の再生に必要な聖水―常世の浪―の寄せる国(垂仁紀二十五年条……)であったし、この種の聖水による日の御子のみそぎに奉仕した女性は、棚機つ女(め)でもあった。」(21~22頁)とある。また、武部智子「『女鳥王物語』について」『甲南国文』第35号(1988年3月)に、「[日本書紀の玉をめぐる話から]メドリはワニ氏の氏神に仕える巫女であり、仁徳天皇にとっては、ワニ氏を支配する手段であったのではあるまいか。つまりメドリが仁徳天皇の求婚を承知することは、ワニ氏が支配されることを意味したのであり、メドリにとっては拒否するしか、それを防ぐことができなかったのある。この物語には、メドリ=ワニ氏氏神の巫女という事柄が根底にあったのではあるまいか。」(21頁)とある。また、守屋俊彦『古事記研究―古代伝承と歌謡―』(三弥生書店、昭和55年)は、「女鳥王物語の原型」に「女鳥王も本来は巫女であり、彼女が織っていたのは神衣であり、従って、織っていた殿も斎殿だったのではないだろうか。」(239頁)、「本来は大雀王も速総別王も一人の天皇有資格者であり、それが大神の高級巫女である女鳥王の託宣を聞き、神衣を授かり、天皇の地位に即くということだったのではないだろうか。」(249頁)という。
 論理展開が逆転している。「襲衣」というヤッケのような上っ張りは、神事に使われはするが真床覆衾ではないし、旅を急ぐ人が被っていていけないものでもない。ふだん使いの需要があるから巫女さんだけが織っていたのでは足りない。日本書紀に「伊勢神宮」が登場するのは、襲衣がオソの主題から浮かびあがってきたために、旅の目的地として好都合ということで出してきたということなのであろう。辰巳正明監修『古事記歌謡注釈―歌謡の理論から読み解く古代歌謡の全貌―』(新典社、2014年)に、「女が機を織るのは家族のためであるが、もちろんそれ以外に恋人のために織ることもあろう。……万葉集には『夏蔭の房の下に衣裁つ吾妹 心設けてわがため裁たばやや大二裁て』(七・一二七八)という歌がある。心に思う女性が服を裁っているのを前に、それが私のために裁つ服なら、少し大きめに作って欲しいと頼む、大柄な男の歌である。社交の場において、男たちが女性の機織りや裁縫に、このような期待を歌うのは、相手から歌を引き出したり、相手の心を探るためであったに違いない。この『夏蔭の房の下』というのは、夏の暑さを避けるために女性たちが木陰がある妻屋の傍に集まり、糸紡ぎや裁縫仕事をする場所であった。そこへ男たちも涼を求めて集まり、歌の場ともなったのであろう。」(185頁)とある。生活者として当たり前の感性である。
(注15)筆者は、古代において絵巻物が存在していたと主張しているのではない。絵巻物的な思考があったのではないかと構想しているのである。絵巻物そのものや、絵巻物の異時同図法に見られる時間認識がどのようにあったかについて、美術史の分野での研究がほどこされており、文学からは「時」という語を抽象的な概念で捉えたらしい柿本人麻呂の歌があって議論されている。「時」を人類がどのように認識していたかについては、エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族―ナイル系一民族の生業形態と政治制度の調査記録―』(向井元子訳、平凡社(平凡社ライブラリー)、1997年、原著1940年(注23))などから示唆を得た議論も展開されている。そういった大議論について掘り下げる必要は、このパタパタ話には不要かと思われるので割愛する。
(注16)平凡社の日本史大事典に、清水擴先生の解説として、「回転式のいわゆる扉の形式が古く、これには板扉(いたとびら)と桟唐戸(さんからど)とがある。……同じ回転式であるが、扉とは異なって水平方向に回転軸を持つのが蔀戸(しとみど)である。寝殿造(しんでんづくり)では蔀戸に対し、扉形式の戸は妻戸(つまど)と呼ばれた。これは元来、建物の妻(棟の両端の側面)に設けられていたことから生れた名で、出入口として使われた。……引戸は遣戸(やりど)と呼ばれるが、その発生は扉よりも遅れ平安時代後期である。この時代の絵巻物(えまきもの)に見えるのは狭い間隔に横桟を打ったもので、のちに舞良戸(まいらど)と呼ばれる形式である。……平安後期には襖(ふすま)が登場し、明障子(あかりしょうじ)(現在の障子)が現れるのも平安末期である。」(第五巻1頁)とある。
 昔話の「鶴の恩返し」の設定では、三日三晩不眠不休で織り続ける話になっている。そして、夜、隣室で機織りする姿が、灯火で障子に映る。そこに興趣があるのであり、わざわざ夜なべして行うものではない。灯油代と比べて割に合わない。
 高橋康夫『建具のはなし』(鹿島出版会、昭和60年)に、「日本でいちばん古い建具」(2頁)として扉が紹介され、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった」(9頁)と刺激的なキャッチコピーが施されている。弥生時代の農村集落跡、伊豆山木遺跡から、軸釣(枢、とぼそ、くろろ)とみられる作り出しのある扉が出土しており、「古墳時代になると、……扉の出土例が増えるのみならず、扉用の軸受けをもった閾(しきみ)も発掘され、さらに大阪府八尾市美園古墳から出土した埴輪屋には、開口部の上下に扉の軸を受ける穴が作られている。」ことから、「扉はすでに相当普及していたらしい。」(2頁)とある。
(注17)猪股ときわ『異類に成る―歌・舞・遊びの古事記―』(森話社、2016年)には、「女鳥王が機織りをする『殿戸』の外で天皇が歌う場面においても、機殿の中は天皇であっても戸を開き、立ち入ることができない空間として設定されていよう。内側に女がいる『戸』は、外側の男の武力や権力といったものでは開くことができない。女は、『戸』の内側にこもり、歌う男の来訪を待ち、歌が歌われれば『戸』の内側に立って聞き取り、歌によって『戸』を開くかどうかを判断するのである。」(31頁)とある。これはあり得ない設定である。記には、「天皇、直に女鳥王の坐す所に幸して、其の殿戸の閾の上に坐しき。是に、女鳥王、機に坐して服織れり。」とある。天皇は、「閾の上」に座っている。戸が閉まっていれば背を直立させてとても窮屈に「坐しき」していたこととなる。例えてみるなら、混雑する駅の狭いプラットホームに、止むを得ず座面奥行の乏しい尻当てのようなベンチが設置されている。とても「坐しき」気分にはならない。止まり木のようなものである。サザキだから止まり木なのだという発想があったとは考えにくい。古代に最も混雑していたであろう場所は、海石榴市ではないかと思うが、まさか地下にまで人が及ぶとは考えられなかっただろう。対するに、女鳥王は、「機に坐して服織れり」と今まさに機織り仕事真っ最中である。戸を閉めていたら、暗くて仕事にならない。明かりを灯していたとする考え方もなかにはあろうが、電灯はない。蝋燭は輸入品で手に入らず、植物油は猛烈に高い。魚油を使ったかもしれないが、わざわざ暗いところ、ないし、夜間に行う必要があろうか。松明では、布帛が煤けてたり火の粉が飛んでどうにもならない。だからこそ、囲炉裏で火を熾さない別棟の機殿(機屋)を設けている。建物内に間仕切りのなかった時代である。
「ひといきベンチ」(東京メトロ入谷駅)
名称不明(都営地下鉄飯田橋駅)
(JR東日本府中本町駅)
(注18)矢島泉「『古事記』下巻試論」『日本文学』第40巻第4号(1991年4月)には、「[古事記下巻の反乱物語]では、王権と王族そして臣下の関係に儒教的な論理が持ち込まれ、それに基づきさまざまに問題とされていた。こうした臣下や民衆の立場・行動を問う記事は、反乱以外にも認められる。(7頁)……軸としての位置を占める他ならぬ天皇自身でさえ、人倫という枠から自由ではないということを知る時、『古事記』下巻に特に色濃く現われている儒教的倫理観は、単なる文飾などといったレヴェルに堕して評価すべき問題ではなく、中間における<王化>達成を承ける下巻のテーマに本質するものと見えてくるはずである。」(8頁)とある。
(注19)吉見靜子「近江の民家4 湖東の民家」『湖国と文化』第17巻2号(通号第63号)(㈶滋賀県文化振興事業団、平成5年4月)に、「この[湖東]町の民家にみられる特徴は機織窓の存在である。でいの前面の一間半を四分し、中央の四分の一の二つ分を窓とし外側に縦格子、内側に二枚の引戸をたて、これを『機織窓』と呼んでいる。」(74頁)とある。(注16)参照。
(注20)武田祐吉『記紀歌謡集全講 附琴歌譜歌謡集全講』(明治書院、昭和31年)に、〔評〕として、「鳥によせて意を述べている。はじめの雲雀の叙述は明快であるが、猛禽のはやぶさを出す準備としては、あかるすぎるし、軽すぎる。もっと鬱々たる空気をつくる譬喩を使用すべきであった。高行くや以下は、物語の会話として譬喩によって意を致したまでである。」(156頁)とある。“歌論”として評されるとは、噺家も想定外の出来事である。
(注21)結索法には、結びの用途から次の7つに大別されている。①結節法、②結合法、③結輪法、④結着法、⑤結縮法、⑥結束法、⑦装着法である。このうち、雲雀結びは結着法に当たり、「元」2本に共に同じく力がかかる場合にのみ有効である。
(注22)吉井巖『天皇の系譜と神話 三』(塙書房、1992年)に、「この物語における事の推移は、すべて女鳥王の選択によって進行している。その選択の根拠は、天皇の妻妾となっては、皇后の存在によって、皇女としての自尊も、自由に人を愛するという生き方をも失われてしまう、という判断であった。……一人の皇女・女鳥王が、現実を打開してみずからの前途をひらくためには、死生の間を行動しなければならないと自覚していた心境に触れる。……この物語の死に人間としての感動を受けるのはこのためである。」(107~108頁)とある。この手の主張は、前掲の都倉先生や荻原先生にも見られる。なお、筆者の推測に過ぎないが、日本書紀に仁徳紀四十年のこととして語られているものの、ひょっとすると、この異母兄弟姉妹の喧嘩は、ずっと若い時のことではないかと考えている。天皇が高校生、女鳥王と速総別王は中学生ぐらいの年齢と想定すれば、より理解しやすくなるのではないかと思う。パタパタ、バタバタ話である。
(注23)私事になって恐縮だが、筆者は、翻訳者の向井先生から直々に文化人類学の講義を受けたことがある。今考えると、千載一遇のチャンスにめぐり合え、知的好奇心をいやがうえにも掻き立てられたものであった。エヴァンズ=プリチャードは、「読めばわかる」スタイルの人類学者で、向井先生もその流儀を貫かれており、小理屈を言う研究者を相手にされない。書いてあるのだから、いまさら解説しても仕方がないことである。筆者も、古事記について、読めばわかるように書いてあることをただ読んでいる。古事記は洒落であり、頓智であり、屁理屈である。文字を持たなかったヤマトコトバが、ヤマトコトバをヤマトコトバで説明した、その仕掛けを繙いている。王権論や歌謡論や文学論は、今のところ古事記を読むことから離れていると言わざるを得ない。奇妙なスコラ哲学が行われている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

女鳥王物語 其の三(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月08日 | 論文
(承前)
(注1)藤澤友祥『古事記構造論―大和王朝の〈歴史〉―』(新典社、平成28年)に、記紀両書の差異として、「①反逆の主導者の違い ②討伐後の宴に登場する皇后の違い の二つが大きな違いであろう。」(213頁)とされて議論が展開されている。本稿では、微視的な差異から記紀の構想の違いを論うことはしない。
 内藤磐「記紀歌謡の織りなす世界―カタリにおけるウタの役割―」古事記学会編『古事記論考』(おうふう、平成15年)に次のようにある。

 大雀(大鷦鷯)・速総別(隼別)・女島(雌鳥)の鳥の名を統一し、こうした意表をつくウタの用法によって語りを構成した古代の語り手は、すぐれた力をもった人物であったのであろう。記紀の編纂に関して古来さまざまに述べられてきているが、記と紀とのそれぞれについては別として、二書の関連についての大多数を納得させるような見解にまだ出会っていない。記は文学性の濃いもので紀は歴史として編まれたものである、というような評言はきまり文句のようになっているが、これではどれほどの説得力もない。並行もしくは雁行する形で、同じ大和朝廷の古[ママ]事来歴を伝えようとする二書が編まれたのはなぜか。ともに大和王朝の祖先神の時代から語り出しながら、持統朝末まで伝える紀に対し、記は実質的には顕宗朝で終っているのはなぜか。合せて二百四十首のウタを含んだ伝承になっていて、その半数近くが二書間で密接な関連を示すのはなぜか。伝えられていることがらは二書ほぼ一致しているのに、ウタとその用い方には多くの異同が認められるのはなぜか。同じことがらの内容であるべきはずであるのに、結果的には趣の異なる書物となっているのはなぜか。これらの素朴な疑問に対して、十分な説明をしてくれているものはまだ出てきていない。
 記紀の語り手たちは、漫然とことがらを綴っているわけではない。大筋の語りごとを伝える中で、語りに真実性を付与すべく構想に意を用いている。古代の歴史も文芸もウタによって担われてきた部分が大きく、ウタを抜きにしては古代は伝えられなかった。格別な意識ももたぬままに、自分の感情を他者に伝えよう訴えようとして、人はことばを発していて、その訴えのこころが強いとき、ことばは自らウタに結晶したのであろう。ことばそのものが素材であり、訴え伝えようとする核を内包したことばがウタとなったのであったろう。(244~245頁)

 根本に勘違いがあるように思える。記紀という記録は、“結果的に”ヤマト朝廷の故事来歴を語っているようになっているだけで、最初からその意図があったのか、わからない。言い伝えて伝えられたものが残っているのであり、伝えられなかったものは残っていない。ウタに記紀間で異同が多いと感じられるのは、伝えた人が違えばちょいと趣向を変えてみようとした心意気が、伝える人、語り部にあったからで、何ら構わぬことであろう。記紀は、結果的に伝わっているだけなのだから、「同じことがらの内容であるべきはずである」などと、教科書検定か何かのように思われては困るのである。天下の日本経済新聞が、景気判断について、昨日と今日とで違う見解を掲載していたとして、経済界や投資家からとやかく言われないのは、“同じようなこと”を伝えているからである。記紀のこの女鳥王の逸話に関しても、筆者には、記紀の間の差に拘泥すべきところは感じられない。話の大筋のどこに違いがあって、何を問題視されているのかわからない。肝心要の“話”を先にきちんと読もうではないか。なお、「格別な意識ももたぬままに、自分の感情を他者に伝えよう訴えようとして、人はことばを発してい」るなどという曖昧模糊なことを、無文字文化の中で言霊信仰に浸されている伝承者が行うことはないと考える。それは、地の文であれ、歌であれ、同じであると考える。
(注2)先行研究についてきちんと検討を加え、それに立脚しながら、あるいは批判を加えながら、新しい解釈を進めるのが作法である。これまでになされてきたいくつかの議論をみておく。結局のところ、言葉を軽視して女鳥王の話が読みきれず、よくわからないままに理屈をこねまわしておられるようである。以下、本稿の論旨とはほとんど関係がない。
 荻原千鶴『日本古代の神話と文学』(塙書房、1998年)は、女性である女鳥王が主導性を担う理由について述べられている。

 『古事記』の女鳥王は、主導性を貫き通す女性として造形されている。結婚相手の選択、結婚の事実の表明、夫の方が天皇より優位であるとの判断とそれを根拠にしての反乱の教唆―これらすべてが女鳥王の発話や歌謡によって呈示され、女鳥王の意思の実現化という形で事件が進行する。(191頁)……『古事記』においては、女鳥王の反乱教唆も女鳥王の意思の結果であり、記六七にみられた天皇への反発の延長線上にあるところの、女鳥王の仁徳天皇への反発とあらがいとして捉えるべきなのだ。そして女鳥王のこのようなあらがいを誘引し、いったんは許容している者、すなわち女鳥王のあらがいの物語自体を可能にしている者が、〝絶対的権力を手中にし、かつ仁恕の徳を備えた王者〟として造形された仁徳天皇にほかならぬことに注意したい。『古事記』にあっては、女鳥王は仁徳に「わが」と親しみと諧謔をこめて呼びかけられなければ、速総別王との結婚を暴露することもないし、仁徳に許容されなければ反乱を教唆することもないのである。『古事記』の女鳥王物語は、決して女性の主導性や行動性をテーマとして『古事記』に在るのではない。女鳥王の常理を超えたあらがいの物語は、仁徳天皇の造形に寄与するために『古事記』に在るのだといえる。「我が国」に君臨する仁徳天皇、その『古事記』の天皇絶対観の枠組みが、結果として女鳥王の生彩ある姿を描き出すことを可能にしている。(261頁)

 寺川真知夫「雌鳥皇女・女鳥王伝承の性格と形成―反逆伝承の公開と氏族―」中村啓信・菅野雅雄・山崎正之・青木周平編『梅澤伊勢三先生追悼記念論集』(続群書類従完成会、平成4年)では、記紀は律令制社会に入ってから作られたと想定し、かつ、氏族の伝承を公開したものであるという極端な立場をとる。反逆氏族の伝承がなにゆえ記されているかについて想いをめぐらされ、女鳥とは何を意味するかに触れられている。

 他方、女鳥王の女鳥が何を意味するかである。『新撰字鏡』には「雌」に「雉乃女鳥(巻八・九丁ウ)」、「鴳」に「女鳥、雀也(巻八・八丁ウ)」とあり、確定できないにしても、紀にみえる鷹狩の獲物の多くが雉であることからすると、女鳥は女雉(荻原千鶴 前掲「女鳥王」)とみて間違いなかろう。したがって鷹(隼)が女鳥(雌雉)を取るというイメージがあり、そうしたイメージとのかかわりで、鷹甘部あたりが物語のモチーフを形成したとすれば、より原形に近いのは……書紀のそれであるということになる。これが仁徳に結びついたのも、すでに鷦鷯を鳥の王とする伝承が存在し、書紀のごとき伝承が育まれていたからであったといえる。隼別皇子の名も鷦鷯に破〔ママ〕れる者として、昔話(動物昔話)とのかかわりで設定されたといえなくもない。したがってこの伝承の形成を隼別皇子の母の出自氏族に求める必要はあるまい。屯倉の中でとくに依網屯倉が鳥の狩と結びついたのは依網池との関係も考慮すべきで、屯倉一般にいい及ばせるかどうか問題が残る。繰り返しになるが、出自氏族にとって反逆伝承は語る意義を見いだし難い伝承であったからである。勝利は最初から鷦鷯の側にあり、敗北・不名誉は隼の側にあったのである。(167頁)……天皇(大王)の権威の確立した氏族制社会の論理からすれば、氏族伝承としては不自然な求婚拒否や皇女の謀反の設定が可能であったのは、……意図的に氏族の不利益を説こうとする、あるいはできあがったものが多少は氏族の利害にかかわることも意に介しない天皇家であり、そこで意図的に作られたといえば不自然ではない。また、仏教思想や律令制の理念の影響下に一部の個我に覚醒した女性たちが、女性のかくあらまほしき願望を、女性の立場から結実させたのが女鳥王の天皇への結婚拒否の言葉であるとみると、その形成が可能であったのは現実の制度や政治的意図に制約されることが比較的少なく、政治的利害にもあまり配慮しないで済む人々の文芸の世界、具体的には和珥氏と無縁の皇后もしくは女帝の支配する宮廷の、より具体的には持統天皇の宮廷に形成されたそれであったと考えたい。……女鳥王の結婚拒否の発言は天皇(男)の自己中心的な行動への反発を基底にすえたものであるとみると、これが着想されたのは、仁徳天皇の行動を権力を握る男の当然の行為として何の疑問もなく是認する男が形成したものというよりは、むしろ男性中心の社会制度に依拠しつつなされる、仁徳天皇の行動に具象化されたような男の独善的行動にたいする女性の怒りに支えられて形成されたものといえよう。それはまた仁徳天皇に対する石之日売の反発の物語を形成した思いと通底するものであった。(172頁)

 山田純「『鷦鷯』という名の天皇―鳥名と易姓革命―」日本文学協会編『日本文学』第57巻2号(2008年2月)には、日本書紀に「鷦鷯」という字で記されている点から出発して、次のようにまで結論されている。

 ……『日本書紀』仁徳紀の鳥名表記が、『日本書紀』における易姓革命の否定に繋がるいわば「革性」の表出であることを見てきた。この「革性」の論理は『日本書紀』冒頭の陰陽論による世界の生成から問題は続いていると推測できるが、より具体的には仁徳紀元年春正月条の、名易えの記事から始まっていると見ていい。何故なら記事の季節は「春」であり、「鷦鷯」と「木菟」の名を「易」えることにより、仁徳は「鷦鷯」の名を負ったことになっているからである。これは鳥が「仁」を感じて変化する「春」に、「木菟」から「鷦鷯」へと「易」わることを、人工的に引き起こしたことを述べているものだからである。この正月条をもって、陰陽五行の変化に則った「革性」の論理が始発したのである。(9頁)

 孫久富『萬葉集と中國古典の比較研究』(新典社、1991年)には、前田本仁徳紀の頭注に、「養老記云、隼鳥昇天兮 飛翔博衝 鷦鷯所執乎」とあることから、紀60番歌について漢詩の翻案の可能性を考えられている。

 「鷦鷯と隼といづれか速き」という二禽の比較……[は、]私の調べるところでは、中国の古籍の中に鷦鷯と隼鳥とどちらが速いかというような比較は見つからないが、鷦鷯と隼鳥それぞれについての描写及び隼鳥と小鳥との関係についての記載が少なくない。(325頁)

 阿部誠「仁徳記・女鳥王の歌謡物語―その表現と構想―」古事記学会編『古事記年報』45(平成15年)では、近代文学を深読みするかのような読解が行われている。

 前半部において語られているのは、王権の力学に翻弄される女鳥王の姿であった。石之日売命への反発から出た女鳥王の速総別王との結合は、反仁徳がその動機であり、女鳥王自身の主体的な選択ではなかったのである。それは大后の嫉妬を是とする王権論理への抵抗に他ならない。それに対し、追われる身とはいえ、後半部のいわば王権の磁場に左右されない空間での女鳥王の意志の表出は、前半部との対照で捉えるべきであろう。つまり、逃避行の山越えという王権世界の外側において、危険を共有する感情の高揚の中で女鳥王は、何ものにもとらわれず初めて主体性をもって速総別王を選択するのであり、仁徳の色好みに従うか否かという王権の力学から解放される形で、自身の心情の所在を確認する。ここに、あたかも自ら王権の論理(天皇の色好み・皇后の嫉妬)を放棄し、その世界を離脱していくかのような形象が、(ウタという時間構造を持たない「場面形成」がモノガタリの線条性の上に複層的に構築されることによって)女鳥王に与えられているのである。(48~49頁)

 都倉義孝「女鳥王物語論―古事記悲劇物語の基本的構造について―」日本文学研究資料刊行会編『古事記・日本書紀Ⅱ』(有精堂、昭和50年)には、古事記の一篇のお話を、文学讃歌へと高めて評価されている。

 個を開発しながらも、その個の本質を抑圧しようとするもの([古代の]近代)と目覚めた個(反近代、それはメトリの場合、古代性の再生とも重層していた)の対立こそ、この女鳥王物語の悲劇の基本構造である。この構造は、また、この時代そのものの生み出した矛盾に、おのれの真実を否応なしにかかわらせずにはいられなかった古代貴族の内面の葛藤と苦悩に対応するもるものであったに違いない。その抗争の中に、個は律令的近代の当代的状況を超克して、未来的な真の近代的個へと物語を超えて享受者の内部において昇華するのである。それは、中国[の儒教倫理の]思想の吸収で遂行された律令的近代の超克の象徴でもあろう。それが敗者メトリが死をもって購った栄光であり、文学の勝利を意味するものであった。享受者がメトリの物語をおのれの悲劇としてメトリとともに生きたとき、それは古事記的世界を、さらに敷衍すれば時代をも超えるものとして、古代の人々の心の中に拡がっていたのではなかったか。(267頁)

 猿田正祝「記紀における歌謡の文学的機能―女鳥王と速総別王の歌謡物語を中心として―」『日本歌謡研究』第30号(平成2年12月)には、歌謡と説話の結び付き方について分類が試みられている。

 歌謡と説話の結び付き方からは物語の筋の上で不可欠な歌謡[(記66・67・68)]と物語の筋の上で特に必要ではない歌謡[(記69・70)]のパターンがあり、(41頁)……記紀歌謡をみると、記では筋の上で不可欠な歌謡50首、特に必要ではない歌謡62首。紀では対象とする101番歌までで、筋の上で不可欠な歌謡52首、特に必要ではない歌謡49首である。(42頁)

(注3)村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』(塙書房、2013年)に「女鳥王が速総別王に好意を寄せていたことは記されない。女鳥王は天皇には恒久に仕えないことを、仲介に来た王に求婚するということで示したのである。それは自由で意志的な選択ではなく、その状況下での究極的な選択といえる。加えて『高行くや 速総別 雀取らさね』(記68)と皇位簒奪を唆したのは、難波を中心とする勢力が興隆する中、そこに不本意な形で参入することを良しとせず、自らの立場を全うすることを望んだからではないか。速総別王もまた同様であり、逃避行中の倉橋山の歌は自らの血統が本流とはならないという女鳥王への共感と、天皇ではなく自分を選んだ彼女への愛情から歌われたものではないだろうか。そこには自由に人を愛する女の姿勢というよりも、後から生まれた愛情をみとめることができるだろう。」(196頁)とある。歴史を語られているのか、文学を語られているのか、人間を語られているのか、不明である。近くに来た異性と行きがかりで結婚することは、村上先生には「究極的な選択」かもしれないが、いたって多くの結婚は、場当たり的なものなのではなかろうか。そしてまた、古代の皇族に血統意識というのがどれほど充満していたのか、筆者は不勉強にして知らない。親の血筋を絶やすことがないようにと思う人もいれば何とも感じない人もいるし、自分が腹を痛めて産んだ子であっても、最初から、またはも長ずるに及んで距離を置きたくなる方もままある。皇室典範に定められたとおり生きることを余儀なくされているからといって、“お気持ち”を持たれることは当たり前ではないかと思う。日本書紀に、「朕、私の恨を以て、親(はらから)を失はまほしみせず、忍びてなり。何ぞ舋ますとして私の事をもて社稷(くに)に及さむ」とあるのは、天皇が勝手にした拡大解釈で、兄弟喧嘩を政争にまくし立てた発言と考えられる。小林真美「雌鳥皇女と隼別皇子」大久間喜一郎・居駒永幸『日本書紀[歌]全注釈』(笠間書院、平成20年)に、「隼別皇子は雌鳥皇女を妻とするべく求婚者としての仁徳から奪う意識はあっても、『天皇』としての仁徳に反逆し、皇位簒奪を狙う意識はなかったものと考えられる。」(218頁)とするのが妥当であろう。むろん、話としての記述を読む限りにおいてであり、歴史としてどうであったかは別問題である。そして、話として聞く限り、速総別王(隼別皇子)と女鳥王(雌鳥皇女)は逃げていっているだけである。事の初めの時点で、深い考えがあって、からかいの歌など歌うものではない。低レベルの話として理解できる。
(注4)有性生殖の生物に異種間の交雑は起こりにくい。皆無ではないけれどとても脆弱な子が生れてもせいぜい数代で滅んでしまうとされている。レオポンに子孫はできない。“自然”が卑近に存在し、それに取り囲まれて、それに従って生きていた古代の人にとって、ハヤブサの♂とキジの♀が番うという発想など、設定されるはずがないであろう。動物の擬人化ではなく、人間の擬動物化した話である。“野生”の思考において、動物は擬人化されることがない。また、イソップ物語にあるような寓話でもない。トーテミズムの根本問題を考えられたい。人間の存在、ダイレクトに生命が、種族が危うくなるからである。
(注5)トル(取)という語のトの甲乙の混在について、以前から議論されている。(以前は、議論されていた。)筆者は、トリ(鳥、トは乙類)との洒落の関係に何か探れないかと考えているが、音韻論者に委ねたい。上代語表記の清濁について、犬養隆『上代文字言語の研究』(笠間書院、平成4年)に、「文字のsystemは、伝達に支障のない限りにおいて、対応する音声言語の諸要素のうち、どこまでを捨象することが許されるか。……実用を旨とする場では、万葉仮名の濁音専用の字体を用いないこと、すなわち音韻の『清濁』を書きわけないことが経済であり、それが平仮名・片仮名への連続面をなす……。……平仮名・片仮名がなぜ濁音専用の字体をもたないsystemとして成立したかという問題は、音韻と文字の両面から考えなくてはならない。本書の筆者[犬養隆]の認識によれば、古代語の『清濁』についての議論は、一九七〇年代から後、基本線において前進していない。亀井孝……濱田敦……馬淵和夫……小松英雄……木田章義……[らの見解を]本書の筆者の理解によって約言すれば、今までのところ、phonemicsのlevel ではなく、prosody あるいは phonetics の level でとらえる説が有力であるということになる。 本書の筆者はprosodyの1evelと考えている。アクセントが統制的な性格を強めるにつれて『清濁』はprosodemeからphonemeに変わって行ったというのが筆者の考えであるが、……ここでは、古代語の音韻における『清濁』の別が、知的・論理的意味を弁別するphonemeではなかった可能性が大きいことを確認するにとどめる。」(344~345頁)とある。
(注6)古訓に、「媒」はナカヒト(ナカビト)、ナカタチ(ナカダチ)ともにある。現在の古事記の解説本にナカタチ(ナカダチ)説を採る例が乏しいが、日本書紀では前田本傍訓にナカタチとあってそれに従っている。筆者は、古事記でもナカタチ(ナカダチ)と訓むのが正しいと考える。今の仲人(なこうど)のことである。結婚相談所の人が依頼人の意向を無視して紹介相手を横取りして結婚してしまうということは、いかに相手方から求められたからといって世間の信用を失うことである。常識というものが欠けている。そのようなことは、ヒト(人)のすることではない。人のようで人でない。木のようで木でないのは、ウドの大木とも言われる山ウドである。ナコウドという言い方は、それを捩ってもいて面白い。本ブログ「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の𣝅は、ウドである」に類例を見た。そして、速総別王は、間に入って両者の関係を断つことをしている。したがって、ナカタチ(ナカダチ)と訓むのが意味を伝達するのにわかりやすく、十分である。
(注7)この部分の「因大后之強」に、別訓の「大后のコハキに因りて」と、コハシという形容詞という訓み方も行われている。小学館の新編日本文学全集本古事記頭注に、「オズキと訓むのが通説だが、『記』の用字法に照らしてコハキと読む。コハキは強くて扱いにくいの意。」(299頁)とある。けれども、音が違えば言葉のニュアンスも異なる。同じ「強」という字を当てても、コハシというのは高句麗騎馬軍が「強(こは)」いことを言うように、馬冑、馬甲、甲冑といった硬さを伴ったつよさを指す。こわいご飯とは、水が足りないかむらす時間が足りないか、硬いご飯のことである。皇后が嫉妬深くて気が強いからといって、高句麗騎馬軍や芯の残ったご飯の“硬さ”を連想することはできない。ねたまれて嫌になるのは気分の問題で、もっとおぞましい、ぞっとする、背筋の寒くなる感情の発露として言葉がなくてはならない。通説のオズキが正しいことがわかる。オソシへと音が通じる点からも確かめられる。
(注8)前掲の山路平四郎『記紀歌謡の世界』には、次のように分析され、推論を重ねた上の結論が示されている。

 この原形とみられる「鳥の妻争い」は、……本来、鳥養部(鳥取部)の芸能を本にしたもので、事の意外性を興味とする古代物語の発想のパタンどおりならば、ハヤブサが逆にサザキに追われるといったものであったかも知れない。いずれにせよ、『古事記』の物語には、台本的な原形が比較的生(なま)な形で現れており『日本書紀』では、より物語的に整理されている。すなわち『古事記』での、天皇と女鳥王との、四句対三句の問答体歌―「女鳥の 我が王」とあるのは天皇の歌として相応しいものではない―は、『日本書紀』では、皇女(女鳥王)の為に織縑(はたお)る女人等の歌う歌として、「ひさかたの 天金機(あめかなばた) 雌鳥(めどり)が 織(お)る金機(かなばた) 隼別(はやぶさわけ)の 御襲料(みおすひがね)」(五九)と六句体歌として掲げられ、天皇を殺せと唆す歌も、隼別皇子の舎人等の歌う歌として、「隼(はやぶさ)は 天(あめ)に上(のぼ)り 飛(と)び翔(かけ)り 斎(いつ)きが上(うへ)の 鷦鷯(さざき)取(と)らさね」(六〇)とあって、神聖な壇上にあるサザキ天皇を倒して、代ってハヤブサワケ皇子が皇位に登ることを庶幾する一層「反乱物語」の様相を帯びたものに整理されている。ここでの反乱の主役は庶弟の隼別皇子とその周囲の舎人等で、女鳥王からは悪女の面影が払拭されている。(363~364頁)……鳥養部、鳥取部の間に、独特の芸能があったかどうかは、もとより明らかではないが、歴史時代に入っても征服された隼人は一面芸能者であったし、同じく黥面の習俗をもった「海人族」には海人の芸能があったらしい。おそらく賤業とみられた鳥取り、鳥養いに従事し、諸国を流転した人々の間に、「誰が料ろかも」「誰をし枕かむ」と第三者に呼びかける芸能があって、それが神武記の天皇成婚譚の下敷となり、仁徳記の、夫のために服を織る。[ママ]女鳥王の物語の下敷となったものではなかろうか。(371頁)

 「『女鳥の 我が王』とあるのは天皇の歌として相応しいものではない」と思われるのは、前提が誤っているからである。鳥養部や鳥取部、海人族らにしても、「賤業」扱いされてかなわないであろう。古代のことなのか、中世のことなのか、時代考証されずに終わっている。また、鳥養部や海人族などが、何らか伝承を伝えたものが、記紀に一つの逸話として完成形として残ることはあり得ない。鳥養部や海人族が伝えているのは、鷹を飼うことや漁を行う術である。話を伝えて術とするのは噺家である。近代になって採集してはじめてわかったのが、“民話”であった。
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

女鳥王物語 其の二(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月05日 | 論文
(承前)
 ハタという語は、なぜかは知らないが、「将(はた)~、将(はた)~」という言い方で使う副詞がある。あるいはまた、それともまた、と仮設しておいて、一方を選択するようにする言葉である。AかそれともBかという選択の意味に発し、もし、あるいは、おそらく、などの意へと展開する。漢語の用例では中国六朝時代の俗語として見られるという。ヤマトコトバのこのハタについては、「語源的に端(ハタ)・辺(ホトリ)などに関係のある語であろう。」(三省堂の時代別国語大辞典上代編、580頁)とある。筆者は、語源という立場に立たないものの、上代の語感としては、「鰭(はた)」や「機(はた)」との洒落も見て取れる。左右のどちらにもあって2つあるのが、魚の鰭である。機は、左右のどちらからも梭を入れて反対側の端を通り抜けさせ織り進める。足を踏みかえて経糸を上下させて緯糸をくぐらせるのである。その動きにおいて、パタパタと音がする、ないし、音がしているように思っている。擬音語、擬態語から、ハタという語が生れているような気になっている。機の場合、頭を左右に振りながら見て確かめてやっている(注14)

 汝(いまし)や将(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 為当(はた)此間(ここ)に留らむと欲ふや。為当本郷(もつのくに)に向(い)なむと欲ふや。(欽明紀十六年二月条)
 神(かむ)さぶと 否とにはあらね はたやはた かくして後に さぶしけむかも(万762)
 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻(むなぎ)を捕ると 川に流るな(万3854)

 万3854番歌は、「はたやはた」が魚の鰭を思わせるとともに、「鰻」が「棟木」と同音であることから建物の棟の両サイド、妻のところにある妻戸のことを思わせている。
 どうしてそのようなパタパタする言い方になったのか、由来は謎であるが、2つドアの建物ほど、「将(はた)~、将(はた)~」という言い方にふさわしいものはない。ハタ(服)を織るハタ(機)を置く機殿(機屋)に、2つ扉の建物は言葉の上で似通っている。つまり、天皇は還ったというのは、右側の扉を出て行ったということである。速総別王は、左側の扉から入ってきたということである。扉がパタパタと開け閉てしている。その際、絵巻物の異時同図法が採用されると、出て行った図を描いた右側の扉部分を見てから巻き直して左側の扉部分を見ると入ってきたところであった。それで話を進めている。だから、「時」という語がダブっている。両方を見渡せるように見直してみると、天皇はまだ還りきっておらず、速総別王はすでに入って来てしまっている。そこで歌を歌ってしまったから、天皇は還る間際に聞いてしまい、怒って軍勢をたてて攻めようということになった(注15)
 筆者は冗談を言っているのではない。古事記が冗談を飛ばしているのである。機織りをして飛ばしているものは、梭(杼)(ひ、ヒは甲類)である。同音の日(ひ、ヒは甲類)は毎日、東から昇って西に沈んでいく。機殿(機屋)での機織りは室内作業で、明るくなり、暗くなるの繰り返しである。南を向いて機織り機に座っていると、織り手からみて日は、朝は左の戸、夕は右の戸を行き来している。桐生市の近代に建てられたノコギリ屋根織物工場群のように、採光は北からであったかもしれないから、戸の方角は調べなくてはならない。いずれにせよ、日がな一日織りつづけ、日はどんどん飛ぶように進み、がんばって左へ右へと梭を飛ばしても、なかなか織り上がらない。ヒ(日、梭)は飛ぶように進むのである。つまり、将~将~などという言い方は、パタパタと、どちらかどちらかとばかり言っているだけで、なかなか決められないようなことと同じ意味合いの作業をしている。そこに、ハタというヤマトコトバは概念として構築されているわけである。
家形埴輪の戸ぼそ(江野朋子「美園古墳出土埴輪の保存修理」文化庁文化財部監修『月刊文化財』587号、第一法規、平成24年8月、49頁)
扉の枢(金沢文庫称名寺)
 だから、機屋に扉は2つある。どちらも片扉である。パタパタ言っているばかりの扉である。引戸ではなく開き戸である。土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』(角川書店、1972年)に、「閾」は、「家の入り口の戸をすべらせるために敷いてある横木」(264頁)と検証もせずに記されているが、建築史では、引戸が現れるのは平安時代になってからとされている。敷居に溝を掘ってレールとして走らせることは、“新しい”技法である。襖障子が現れるのはそれ以後である(注16)。つまり、古事記に「閾(しきみ)」とあるのは、建築用語にいう蹴放ちのことである。戸が当たって戸締りになるための下部の押さえである。横は方立、上は楣で囲まれている。そこに扉があって戸が構成されている。枢構造で支えられている。枢構造の扉には他に蔀戸があったが、それは上へ開きあげるもので、おおむね窓として構成されていた。佐佐木隆『古事記歌謡簡注』(おうふう、平成22年)脚注に、「敷居の所にいらっしゃった。家に入らず、入り口のすぐ外にいた、ということ。」(91頁)とあるが、機織りしている小屋へ入ったところで、相手の女性は機織りをしている。単調でありつつ熱心で手を休めない。どういう機構で織り上がっていくのか見ていても理解できず、近くにいても何をしたらいいのかわからないぐらい手持無沙汰になる(注17)
機織女(大安里1号墳壁画、高句麗時代、5世紀後半、고구려『고구려 고분벽화의 세계』전호태, 2004, 238p. 建物の中での作業に見える。)
高機(年中行事絵巻・鷹司本、福山敏男編『新修日本絵巻物全集第24巻 年中行事絵巻』角川書店、昭和53年、図版124頁)
奈良さらし(南都布さらし乃記、寛文元年(1661)、前田一郎氏蔵、奈良市史編集審議会『奈良市史 通史3』吉川弘文館、昭和63年、口絵6頁)
越後織布(蔀関月画・日本山海名産図会)
職人尽絵屏風(狩野吉信(1552~1640)筆、埼玉県川越市喜多院蔵、前田亮『続・図説手織機の研究[日本篇]』京都書院、平成8年、10頁。日本の4例、みな土間での作業と見受けられる。年中行事絵巻のみ、閾(蹴放ち)として描かれるが、残り3例は土台としてのみ見える。)
 儒教では、敷居を踏むことは道徳的に良くないことだから、天皇においてはあるまじきことと考えることもできないことはない(注18)。一方、藤澤友祥『古事記構造論―大和王朝の〈歴史〉―』(新典社、平成28年)には、「『古事記』における儒教思想の取り込みとその影響は、かなり表層的なものにとどまっているといえよう。そしてそれは、『古事記』が、儒教思想の影響を受ける以前の、より古く原型に近い伝承を重視していることの表れであると考えたい。」(157頁)とある。こういった議論は、この「閾」問題について適用するにはあまり有効ではない。そもそも天皇は、敷居を踏んでいるようには書かれていない。「閾に坐して」とあるから、敷居に座っている。山路平四郎『記紀歌謡評釈』(東京堂出版、昭和48年)に、「……万事が『鳥の妻争い』に仕立てられ、『殿戸(とのと)の閾(しきみ)の上に坐しき。』などというのは、人間としてよりもむしろ鳥としての説明である。」(160頁)と説明され、方が付いたように思われている。扉が開いていたのか閉まっていたのか、小さな鳥の話となるとどちらでも良いことになる。そのようなどちらでも良いような設定は、言葉を大切にした上代の人たちの流儀には合わない。言葉には言霊が宿るという考えでは、言=事であるからきちんと言葉を選ぶ。登場人物に鳥の名が冠されているから、鳥論理で描かれていても差し支えないようになっていると考えるべきところである。鳥の巣に、扉や引戸のあるものは勉強不足にして聞かない。鳥の「殿戸の閾」は鳥の巣の縁のことを指すことに当たり、そこに「坐」すように安定的にとまることは、水鳥のように蹼をつけたもの以外、可能である。サザキ(ミソサザイ)は上手に巣を造ることで知られる。
「閾(?)(土台)に坐す」(小松茂美編『日本の絵巻4 信貴山縁起』中央公論社、昭和62年、103頁)
 信貴山縁起の尼公は、糸作り作業中の土間の入口の敷居に座っている。道徳的な違和感も、鳥の様相もまったく感じられない。戸が開いているから、「坐」すことができている。また、古事記に「原初的な思想」なるものがあったのか、筆者には考えが及ばない。およそ思想というものは、文字によって起こされるほどの観念体系であろう。無文字文化における“思想”という捉え方は、論理矛盾を惹起している。宗教生活の原初形態を思想とは呼ばないと考える。経典を持たない宗教が、宗教としては、神道のように何となく居心地の悪いもの、ほとんど思想ではないようなものと思われるのはそのためである。
雲南旱タイ族の腰機(前田亮『続図解手織機の研究[日本篇]』京都書院、平成8年、8頁、新田恭子氏撮影)
 機屋に片扉が2つ離れてあることは、ハタヤという言葉をものの見事に語り尽くしている。これが観音扉である場合、それは、神社の本殿などに採用されて扉を合わせて閉めて海老錠をもって戸締りとした。対して、2つ離れて片扉がある必要は、どうして生れたのであろうか。筆者は、それが機殿(機屋)であるとするなら、機織りは明るくなければできないから明り取りを必要としてドアを開けて織っていたと考える。暑ければ屋外で行うことも考えられ、上の例のように、軒下に機が置かれて織られている例も見られる。終了したら雨風を防ぐためにロールアップスクリーンを下ろして覆いとしているらしい。インドでは、高床式の縁の下という例も見られる。中央アジアから中近東にかけては、雨の心配がほとんどないから完全に屋外で行われている。日本の古代においては、蔀戸をつけた機屋があったかわからない。戸しかないなら、いちばん明かり取り(注19)に都合が良いのは、妻を南に向けてその左右に戸を分けて設けることである。機(はた)の機構は優れていて、大切にしようという意識から、泥棒されない工夫であったのかもしれない。観音開きの大きな開口部の場合、鍵を壊して機をそのまま運び出す不届き者に対処しきれない。そんなこともあり、2つの出入口を左右に備えて明り取りにして、屋内で機織りが行われた。だから、「将(はた)戸が有るや、将戸が有るや」構造の建物、機殿(機屋)が造られていることとなっている。機は部材を持ちこんで、機屋のなかで組み立てられ、戸口から出せない大きさであった可能性もある。推古紀に、建物を建ててから仏像を入れようとしたら戸が狭くて入らなかったという記事がある。どういうテクニックを使ったかは記されていないが、うまいこと納めたという話になっている。なお、以上の2つ片開き扉の建物の用途については、筆者の“語学的”推測であり、考古学の考証によるものではない。また、機のうち、いちばん貴重なのは、繊細にスリットが作られた筬のような部品に限られるのかもしれない。泥棒学と鑑定団の判断に委ねたい。

 又仏像を造ること既に訖(をは)りて、堂(だう)に入るること得ず。諸の工人(たくみ)、計ること能はずして、将に堂の戸を破(こほ)たむとす。然るに汝(い)、戸を破たずして入るること得。(推古紀十四年五月条)

 「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」とある。和名抄に、「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大なり〈比波利(ひばり)〉といふ。楊氏漢語抄に鶬鶊〈倉庚二音、訓上に同じ〉と云ふ」とある。どうして話に雲雀(ひばり、ヒは甲類)が出て来るのか(注20)。女鳥王は、ハヤブサの♀になったと筆者は述べた。やっていたのは、機織りである。襲衣に仕立てるべく機織りをしていた。その際、手先で操るのはヒ(梭、杼)(ヒは甲類)である。特に幅広の生地を織っていたから、幅が狭くならないように安定させる伸子を使っていた。伸子は両端を張って広げる道具である。伸子針とも呼ばれる。だから、ヒバリ(雲雀)となる。洒落である。洒落がなくては聞く人も面白くないし、話す人も覚えられない。「雲雀は 天に翔る」は「高」、ないし、「高行くや」へと掛かっていく序詞とする従来の説で誤りはないと考える。前掲の新編全集本古事記頭注に、「ヒバリだって空を翔る、ましてや天空高く行くハヤブサは…と対比的にハヤブサを引き出す。」(301頁)とあるのは、考えすぎであろう。ヒバリとハヤブサを比べだしたら、焦点がぼけて肝心のサザキのオソシ点が霞んでくる。ヒバリダカ(雲雀鷹)という語もあり、6月頃、ヒバリの羽のはえかわる時に、ヒバリ専用に鷹狩をする鷹のことをいう。日葡辞書に「Fibaridaca」とある。また、ヒバリボネ(雲雀骨)という言い方も生れており、雲雀の脚のように細々した骨格を表わした。ハヤブサは和名抄に、鶻という字を使っている。骨張ったものつながりということであろう。幅が狭くならないように骨で張っているのが、伸子である。
伸子の挿入(下田敦子『無文字社会における染織技術の伝承―タイ北部山岳民族カレン人集落における16年間フィールドサーベイの記録から―』家政教育社、2015年、108頁)
整経と製織の経糸保持具の対応図(同上書、109頁)
織造図(金弘道筆、風俗図帖、李氏朝鮮時代、18世紀後半、『士農工商(사농공상)』의나라조선/구일회、유호선기획・편집―국립중앙박물관―、2010年、95頁。天秤腰機において、織幅の維持のため伸子を用いている。)
洗い張り(年中行事絵巻・京大本、福山敏男編『新修日本絵巻物全集第24巻 年中行事絵巻』角川書店、昭和53年、図版124頁)
 伸子(箴)は、主に、洗い張りの作業に用いられる。本ブログ「和名抄の文選「読」について 其の五」において、和名抄に、「叉 六韜に、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之(ひし)と読む。今案ずるに、簇は即ち鏃の字也〉は、両岐の鉄にして柄の長さ六尺なりと云ふ」とある点に、なぜヒシという訓みがあるのか、という考察から、字鏡集に「簇、シヒシ」とある伸子について論じた。竹製の伸子の両先端は、二股にわかれている。雲雀の脚の骨張りを連想させてくれる。また、機織りで最初に経糸をかける際など、糸のテンションを整えるために雲雀結び(注21)をして確かめていく。輪の中を糸が通るようにした結び方を雲雀結びと呼んでいる。機織りがうまくいくかどうかは、いかにきちんと引っ張り合っておけるかにかかっている。語源のことはもちろん不明であるが、引き張ることからヒキハリ→雲雀結びと呼ばれたのかもしれない。「引く」のヒは甲類である。ここで女鳥王が織っていたのは、襲衣用の、幅の広い厚地の布であった。幅が狭まらないように、織りあげていっている布を伸子で張っていたということを言っている。よって、スズメやセキレイ、ウグイス、メジロ、ムクドリなどではなく、ヒバリが登場している。そして、ハヤブサにはヒバリではなく、サザキを取って欲しいというのが眼目であろう。
 天皇が軍隊を興して殺そうと思った相手は、オソシと軽蔑していた女鳥王が主なのであるが、もはや夫婦一体である。共に逃げるに当たり、倉椅山(くらはしやま)に登っている。どうして倉椅山が出て来るのか。記69・70番歌とつづけて速総別王は歌っている。三句目途中まで同一である。「梯立(はしたて)の 倉椅山を 嶮(さが)し」とある。ハシタテノは「倉椅山」にかかる枕詞とされている。また、「嶮(さが)し」、地名「熊来(くまき)」にもかかるとされている。用例があって、かかり方はわからないが、枕詞であるとされている。このかかり方については、本ブログ「記紀の『諺』其の六」に詳述した。梯子を立てるのは高床式の建物の床へ渡るためではなく、屋根を工事してはじめて高床式の建物はできる。その屋根は、縦横にほとんど梯子状に組んだ木組みからなっている。その屋根のいちばん高いところこそが、クラというに似つかわしい。倉(くら)の鞍(くら)たる座(くら)のところである。だから、枕詞ハシタテノは、言葉上で屋根を意味する倉椅山にかかり、その屋根はとても急峻に造られるからサガシ(嶮)にかかり、屋根の骨組に同じ柵は獰猛な熊を捕まえたり檻にしたりするのに活躍するから、クマキ(熊来)にもかかるのである。
 そして、サガシという語は、同音に、サガシ(干・探)という語があり、やはり屋根の骨組上に組んだ梯子のようなところで、稲を干した。干すとは曝してしまうことで、中のものが見えるようになってくる。干して仕舞うのが倉の機能である。そこから、今日使う、探すという意味につながっている。その干という字は、干支と使う字である。日本書紀では、前田本に「友于」とある個所は、兼右本に「干支」となっている。他の校異個所からも、誤写ではなく、異本が当初から存在していたものと筆者は考えている。書紀集解に、「舒明天皇即位前紀に干支と作るは晋書芸術伝に戴洋曰く、干を君と為(し)、支を臣と為(す)。此に拠りて之れを考ふるに、兄弟に借して干支と称するのみといふ。未だ出る所を詳らかにせず。」とある。舒明前紀には、「吾、汝が言(こと)の非(よくもあらぬこと)を知れども、干支(このかみおとと)の義(ことわり)を以て、害(やぶ)ること得ず。」とある。兄弟のことである。もともと、干は幹、支は枝を示す。考証済みのことで、枕詞との関係だけわかっていなかった。天皇と女鳥王と速総別王とは、みな兄弟姉妹の間柄、つまり、木で言えば幹と枝、つまり、干支である。その間の揉め事の話だから、ハシタテノという枕詞が出て来て、倉椅山だの、サガシだのと言っている。いちばん上のお兄ちゃんが怒りだしちゃったから、「逃げ退(そ)く」しか方法はない。腕力ではかなわないのである。最近は子どもの数が減って、一人っ子などでは兄弟喧嘩の感覚はわからないかもしれない。下の子は上の子、わけてもいちばん上の子のことを内心、馬鹿にしている。上の子を見て育って行っているから、いちばん上の子が鈍くさいことを百も承知している。そうならないようにと反面教師にできる。いちばん上の子は先例がないから、わからずに建前を振りかざすしかない。現在でも、いちばん上の子同士で男女が一緒になると、うまくいくことが多いと聞く。ともに建前で生きている。建前という言葉は、高床式の建物を建てる前、つまり、設計図を当てにしているということである。下の子は、高床式の建物の現物を見て知っているから、いちばん上の子のやっていることはまどろっこしくて馬鹿馬鹿しくなる。そういった事情をよくよく詰め込んだのが、この女鳥王のお話である。ウーマンリブの話でも、愛の讃歌でもない(注22)
 「退(そ)く」のソは乙類である。ソ(背)と同根の語とされる。オソシ(遅、鈍)やオソヒ(襲衣)、オソル(恐)のソも乙類であった。背の高い高床式の建物の屋根のことが念頭にあるのであろう。手を取ったり、一緒に登るから恐いものはないと言っているが、「其地(そこ)より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、御軍追ひ到りて殺しき。」と終っている。ソコ(其地)のソ、地名のソニ(蘇邇)のソ、いずれも乙類である。背の高いのは、いちばん上のお兄ちゃんである。鳥の名つながりの地名でありつつ、ソ(乙類)つながりの音が求められていたようである。
 山路平四郎『記紀歌謡の世界』(笠間書院、1994年)に、「女鳥がどういう鳥の雌かは勿論明らかではないが、『女鳥王』の落ちてゆく先が『蘇迩』であるところからすると、背中や尾が青色で美しく、足の赤い『蘇迩杼理(そにどり)』(翡翠(かはせみ))の雌の面影を、女鳥王の上に感じていたのかも知れない。」(363頁)とある。それは勘違いであるが、山路先生は、『記紀歌謡評釈』(前掲書)に、「宇陀(うだ)の蘇邇(そに)」について、「『書紀』では、ここを逃れて、伊勢の蔣代野(こもしろの)で討たれたことになっている。ウダの野は狩猟の地……であり、ソニは鴗鳥(そにとり)……、コモは獲物を裹む薦(こも)……でいずれも物語に縁を求めての地名であったかも知れない。」(163頁)と指摘されている。前掲書は昭和52年初出なので、駄洒落を説くのが恥ずかしく気弱になられたご様子である。けれども、古事記は、駄洒落である。女鳥王に鴗鳥、つまり、カワセミを感じたのではなく、速総別王ともどもカワセミと化した、という筋になっている。
カワセミ(上野動物園)
 記上に、「翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為(し)」、新撰字鏡に、「△(生偏に鳥) 曽尓(そに)」とある。カワセミのことを指す古語であるが、変な名前である。ソニというのなら、ソ(背)はニ(丹)であって背中は赤いはずである。脚は赤い(アシニ)が、どう見ても背は青く輝いている。何を間違えたのか。ハヤブサがヒバリを捕まえる鷹狩は行われるが、サザキ(ミソサザイ)を捕まえる鷹狩は知られない。人里近くにいるスズメなら捕まえさせることはあるが、小さな鳥は霞網を用いて捕らえれば事足りる。鷹狩の獲物は、通例では、鳥類では、ツルやガン、ハクチョウ、カモ、キジ、ウズラなど、哺乳類では、ノウサギやリス、キツネなどである。わざわざ飼育して捕らえるのだから、ふだんは捕れない大きな獲物を狙うのが醍醐味である。それに、草の枝葉の間を飛んでいるサザキを捕ることは、逆に難しいのではないか。ハヤブサがカワセミの舞うようなステージにあがったら、狩りができなくなったということである。ちなみに、鷹狩に使うタカは短距離向きで、木の多いところでも使えるが、ハヤブサは比較的長距離に使えるが、木の少ないところに適するとされている。どうやら、速総別王なるハヤブサは、長い旅路の鷹狩に使われたはいいが、草の茂みに翼をとられて動けなくなったらしい。結果立場が逆転し、サザキによって退治されることとなったという話にしてある。
 以上が女鳥王のお話である。皇統譜に女鳥王や速総別王の母親が豪族出身者であることから、氏族伝承が組み込まれたのであるかのように説く論者がおられる。けれども、それがどうして、天皇家の3人の兄弟姉妹の喧嘩のことへと発展しているのか、了解できる説明はなされない。歴史学では顧慮すべき事柄かも知れないが、話の内容には関わりがない。記紀のお話は継ぎはぎだらけのパッチワークに見える。ただ、その語り口には一貫性が備わっている。仮に、氏族の祖先伝承がまとめられることがあったとして、余所の家のことなど一度ならずとも聞かされてはかなわない。ましてや、それをまるごと全部覚えるようにと言われて覚えることなど、お勉強屋さんは別としてあり得ないのではなかろうか。新撰姓氏録を覚えていて、科挙の試験問題に出るのであろうか。何の得があるのか。江戸時代の武鑑でも、諳んずるのではなく刊行されたものを閲覧していた。
 上に解いたように、すべてとてもおもしろい洒落である。姓は稗田、名は阿礼、よくぞ伝えてくれたといえる機知に富んだお話(咄・噺・譚)である。わずかに320字ほどの本文からの後講釈で、古代天皇制の反逆物語だの、律令時代の儒教倫理だの、女性の社会的な発言だのと取ってつけて論じても、梯子を外されたら困るのではないか。鈍くさいとか言ってしまった兄弟喧嘩を鳥の話に仕立てて、背比べさせてみただけのことである。それがいわゆる“史実”をもとにしたものかどうなのかは、歴史学に委ねたい。筆者は、きっと古墳時代に天皇家の兄弟姉妹の間でそういうことがあったと思う。しかし、検証できそうもない話に仕立てられてしまっている。なぜそのように諧謔に走ったか。簡単である。歴史とは history、文字で書記してはじめてできるもの、ヘロドトスや司馬遷を見ればわかる。無文字の時代にどうやって残すか、どうやって伝えるか。口伝えに伝えるしかない。その際、どういうことなら覚えられるか、その唯一の手段は、story、お話(咄・噺・譚)である。洒落を数珠つなぎにつなぎあわせて最後に落ちを持ってくる。自然と覚えられて伝えられる。すべてのはじめに言葉がある。言葉という、意味の塗り込められた代物を伝えること、それが無文字文化のほとんど唯一の伝承手法であった。
(つづく)

(付記 2017.1.22)現地の事情をご存知の方にお聞きしたところ、上に見た雲南旱タイ族の腰機の写真にある頭上の巻物は、下に敷く茣蓙のようなものであると教えられた。また、機織り機を泥棒するよりも、織り上がった製品を泥棒した方が賢いのではないか、さらに、腰機の場合など、農閑期に組立式で作業して、農繁期には解体されて納屋に仕舞われてしまうものがあるという。つまり、簡単に解体して持ち出せるから、出入口の大きさとは関係がないという。その上、自分の身体に合っていたものが他人の身体に合うとは言えそうもないから、出入口が泥棒のことを念頭に作られたとは想定しにくいとのことであった。当然のご指摘である。棟持柱があるから妻側にドアを作ろうとしたら2つドア(「パタパタ扉パタパタに」←「つらつら椿つらつらに」の言い換え)になるのは必然であろうということである。ご意見を賜わりありがとうございました。現地調査に赴かれるとの由、事故のないことをお祈り申し上げます。みやげ話、楽しみにしております。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

女鳥王物語 其の一(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月04日 | 論文
 仁徳天皇時代の話として、女鳥王(雌鳥皇女)と速総別王(隼別皇子)が天皇との確執の末に敗れる話が残されている。

 亦、天皇、其の弟(おと)速総別王(はやぶさわけのみこ)を以て媒(なかたち)と為(し)て、庶妹(ままいも)女鳥王(めとりのみこ)を乞ひき。爾(しか)くして女鳥王、速総別王に語りて曰く、「大后(おほきさき)の強(おず)きに因りて、八田若郎女(やたのわかいらつめ)を治め賜はず。故(かれ)、仕へ奉らずと思ふ。吾は汝(な)が命(みこと)の妻(め)と為(な)らむ」といひて、即ち相婚(あ)ひき。是を以て、速総別王、復奏(かへりことまを)さず。爾くして、天皇、直(ただ)に女鳥王の坐(いま)す所に幸(いでま)して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。是に、女鳥王、機(はた)に坐して服(はた)織れり。爾くして、天皇、歌ひて曰はく、
 女鳥の 我が大君の 織ろす服(はた) 誰(た)がたねろかも(記66)
女鳥王、答へて歌ひて曰く、
 高行くや 速総別の 御襲衣(みおすひ)料(がね)(記67)
故、天皇、其の情(こころ)を知りて、宮に還り入りき。此の時に、其の夫(を)速総別王の到来(きた)れる時に、其の妻、女鳥王の歌ひて曰く、
 雲雀(ひばり)は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 雀(さざき)取らさね(記68)
天皇、此の歌を聞きて、即ち軍(いくさ)を興し、殺さむと欲(おもほ)す。爾くして、速総別王・女鳥王、共に逃げ退(そ)きて、倉椅山(くらはしやま)に騰(のぼ)りき。是に、速総別王の歌ひて曰く、
 梯立(はしたて)の 倉椅山を 嶮(さが)しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも(記69)
又、歌ひて曰く、
 梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹(いも)と登れば 嶮しくもあらず(記70)
故、其地(そこ)より逃げ亡(う)せて、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、御軍(みいくさ)、追ひ到りて殺しき。(仁徳記)

 日本書紀では、少し言い回しが異なっているが、本筋に変わりはない(注1)

 四十年春二月、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を納(い)れて妃(みめ)に為(せ)むと欲(おもほ)して、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を以て媒(なかだち)としたまふ。時に隼別皇子、密(ひそか)に親ら娶りて、久(ひさ)に復命(かへりごとまを)さず。是に、天皇、夫(をうと)有ることを知りたまはずして、親ら雌鳥皇女の殿(よどの)に臨(いでま)す。時に皇女の為に織縑(はたお)る女人等(をみなども)、歌(うたよみ)して曰く、
 ひさかたの 天金機(あめかなばた) 雌鳥が 織る金機 隼別の 御襲衣料(紀59)
爰に天皇、隼別皇子の密に婚(たは)けたることを知りたまひて、恨みたまふ。然るに皇后(きさき)の言(こと)に重(はばか)り、亦、干支(このかみおとと)の義(ことわり)に敦くまして、忍びて罪せず。俄(しばらく)ありて隼別皇子、皇女の膝に枕して臥せり。乃ち語りて日く、「鷦鷯(さざき)と隼と孰(いづれ)か捷(と)き」といふ。日く、「隼は捷し」といふ。乃ち皇子の日く、「是、我が先(さきだ)てる所なり」といふ。天皇、是の言を聞しめして、更に亦、恨(うらみ)を起したまふ。時に隼別皇子の舎人等、歌して日く、
 隼は 天に上(のぼ)り 飛び翔り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね(紀60)
天皇、是の歌を聞しめして、勃然(はなはだ)大きに怒りて日く、「朕(われ)、私(わたくし)の恨を以て、親(はらから)を失はまほしみせず、忍びてなり。何ぞ舋(きず)ますとして私の事をもて社稷(くに)に及さむ」とのたまひて、則ち隼別皇子を殺さむと欲す。時に皇子、雌鳥皇女を率(ゐ)て、伊勢神宮に納(まゐ)らむと欲ひて馳す。是に、天皇、隼別皇子、逃走(に)げたりと聞しめして、即ち吉備品遅部雄鯽(きびのほむちべのをふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりまのさへきのあたひあがのこ)を遣して曰(のたま)はく、「追ひて逮(し)かむ所に即ち殺せ」とのたまふ。爰に皇后(きさき)、奏言(まを)したまはく、「雌鳥皇女、寔(まこと)に重き罪に当れり。然れども其の殺さむ日に、皇女の身を露(あらは)にせまほしみせず」とまをしたまふ。乃ち因りて雄鯽等に勅したまはく、「皇女の齎(も)たる足玉手玉をな取りそ」とのたまふ。雄鯽等、追ひて菟田(うだ)に至りて、素珥山(そにのやま)に迫む。時に草の中に隠れて、僅(わづか)に兔(まぬか)るること得。急(すみやか)に走(に)げて山を越ゆ。是に、皇子、歌(うたよみ)して曰く、
 梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆(やすむしろ)かも(紀61)
爰に雄鯽等、兔れぬることを知りて、急に伊勢の蔣代野(こもしろのの)に追ひ及(し)きて殺しつ。(仁徳紀四十年二月条)

 本稿では、古事記のお話について中心に考える。女鳥王が天皇ではなく速総別王と結婚し、歌を歌ったら天皇は軍隊を動員して殺害しようとしてきたのでともに逃げ、追いつかれてあえなく殺されるまでの一連のお話である。実際、それしか書かれていない。今日の人の先入観を排して、言い伝えられたお話を、文字がわからないから聞くしかなかった当時の人々に、どのように映っていたかを明らかにする。古事記を、“文学(?)作品”や、古代国家による王権制のプロパガンダとは考えない。
 お話として聞いた時、女鳥王は、いくら多妻制が当たり前で、天皇の妻になれると言っても、元からいる奥さんが嫉妬深いから嫌だと言って仲人として来た隼別王と結婚した。女好きの大雀王(仁徳天皇)が嫌なのか、皇后の石之日売命(いはのひめのみこと)が嫌なのか、さて、二股、三股でも平気な人は平気であるし、嫌な人は嫌であるし、個々の判断に委ねられよう。そういう痴話話が書いてあるかと言えば、そうではない。頓智話(咄・噺・譚)が書いてある。
 言い伝えの話(story)はそれ自体が歴史(history)ではない。面白話でなければ、話として伝わるものではない。覚えられないからである。誰が覚えられないかという点に注意して頂きたいが、暗記の得意な“お勉強屋さん”に限られるのではない。稗田阿礼はよく覚えていたが、勉強が得意で科挙に合格して出世した人ではない。言い伝えをよく諳んじていただけで、おそらく字は書けなかった。また、未だヤマトコトバを漢字で書く方便を得ていなかったから、太安万侶が工夫して書いている。それでも、広く知られていた言い伝えをよく諳んじていた。広く知られなければ、少なくともヤマト朝廷に関係のあるほとんどすべての人々の共通認識にならなければ、そもそも話を伝える意味がない。話を人々が共有してはじめて無文字社会は成り立つ。この“世界”は何か。みなが知っている言い伝えがその存立を意味づけるものである。もちろん、出入りの業者も知らなければ、話を合わさなければ、買ってくれるものも買ってはくれない。今も同じである。現代の文字社会は、法律を知らなかったでは通らないとされる。識字率がほぼ100%だから可能なのである。今日の“世界”は、文字とスマホでできている。文字とスマホ情報で検証されることが、“常識”として社会は成り立っている。
 上代文学や古代史の研究者の手にかかると、不思議な方向へ議論が統制されてしまう。女鳥王(雌鳥皇女)は速総別王(隼別皇子)を天皇にしようと謀反を企てたとか、サザキ、ハヤブサとあったら「女鳥王」は何の鳥を表わしているかとか、古事記の女鳥王の話の原文にして漢字320字ほどが、天皇家との関わりのなかでの氏族の出自の話であるとか、王権論理への抵抗や女性の個我の発露であるとか、日本書紀の「鷦鷯」という表記は漢籍から学んだのだから陰陽五行思想と関係して筋立てされているとか、際限なく議論が組み立てられている。お勉強屋さんの“科目”にされては、無文字文化の“話(咄・噺・譚)”も堪ったものではない。解説書や論文には目に余るものがある(注2)
 記紀に、女鳥王の、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀(さざき)取らさね」(記68)、隼別王の舎人の、「隼は 天に上り 飛び翔り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね」(紀60)という「歌」を天皇が聞いて、二人を殺そうとしている。仁徳記では軍隊を興し、仁徳紀では軍隊ではなく刺客を送っている。女鳥王(雌鳥皇女)、速総別王(隼別皇子)側に謀反の動きは記されていない。天皇がひとり怒って殺しにかかっている。そう記されているのだから、そう捉えなくてはいけない。本当に謀反をおこそうと兵士を募ったりしていたのか。女鳥王(雌鳥皇女)は機を織っているし、速総別王(隼別皇子)は媒酌人のお使いにさせられるほど天皇の“舎人”化している。二人とも、いわば部屋住みの身分である(注3)。虚心坦懐にお話を聞かないと面白いものも面白くなくなる。
 荻原千鶴『日本古代の神話と文学』(塙書房、1998年)に、「『女鳥王』の名は雌の鳥を表示するのみで、どういう鳥なのか具体性を欠く。これは説話の世界では奇妙であり、もし鳥をめぐる原話が存在したのなら、その中でメドリも何らかの鳥を表象したはずである。『日本書紀』天武五年四月条の、
 雌鶏、雄に化れり。
については、古典文学大系本をはじめ『雌鶏』に『メトリ』の訓を採用する。」(198頁)という点を踏まえられたうえで、種々の用例を検討されている。そして出た結論としては、「女鳥王の原像としてのメドリは雌雉であったと考える。鷹狩に用いる鷹・隼は、雄より雌が適するといわれるが、説話上はその精悍さが勇猛な男性を、射ること捕えることが結婚を連想させ、雌雉と隼の婚姻説話が生まれたのではないかと思われる。『雌鳥皇女』の表記は応神紀に一回、仁徳紀に五回登場するが、……『新撰字鏡』(天治本)に『鴜〈雉乃女鳥〉◆(此偏に鳥の此字の匕部分が上)〈上同〉』とあり、『◆』が雌雉を表しているのは興味深く、九世紀末葉に『雉乃女鳥(メトリ)』といった言い方が存したことも同時に注意される。」(201頁)ということに落ち着いている。
 仁徳天皇の名、大雀命(大鷦鷯天皇)(おほさざきのみこと)のサザキについては、新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦加也、久支(くき)、又佐々岐(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)〉は小鳥也、蒿莱の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ」とある。現在いうミソサザイのこととされる。他方、速総別王(隼別皇子)(はやぶさわけのみこ)のハヤブサは、現在いうハヤブサである。和名抄には、「鶻 斐務齊切韻に云はく、鶻〈音骨、波夜布佐(はやぶさ)〉は鷹属也、隼〈音笋、和名上に同じ〉鷙鳥也、大なるは祝鳩と名づくといふ」とある。では、女鳥王の女鳥の鳥の種類は何であろうか。話は、どちらの妻になるかということである。当たり前のことだが、サザキの♂、ハヤブサの♂と番いになれるのは、それぞれサザキの♀、ハヤブサの♀である。ニワトリやキジの♀のはずがない。いくら“お話”であるといっても、自然の摂理に反した設定はされるはずがない(注4)。ラバやレオポンの話ではない。女鳥(王)が何の鳥かという設問は、およそナンセンスなのである。何の種類かわからないが鳥の♀であることを示すから、「女鳥王」となっている。それでどうしたかといえば、女鳥王は、サザキの♀にはならずに、ハヤブサの♀になることを選んだ、そういうお話であろう。とてもわかりやすいと思う。
「隼のハンティング.mpg」
「ミソサザイの鳴き声(日本でいちばん小さな野鳥の鳴き声です)」
 荻原先生は、天武紀のメトリという訓を紹介されている。ならば、「女鳥(王)」はメドリではなくメトリかもしれない。清音の可能性である。女鳥(王)の訓みが、メトリと清音で訓まれれば、なるほど「娶(めと)り」の話であると納得されよう。名義抄に、「娶 メトル」とある。「娶り」とは、妻(め)取りの意であるとされる。トリ(取)のトは甲乙両方あり、トリ(鳥)のトは乙類である。記66番歌の「売杼理」の「杼」の字は、通常ド(乙類)と濁音であるが、「明かして通(とほ)れ(阿加斯弖杼富礼)」(記86)、「言挙げせずとも(許登安氣世受杼母)」(万4124)といった用例がある。乙類のト・ドの両方に当てられたとして解釈し直した方が、適切ではないかと思うが、詳しくは音韻論者に委ねたい(注5)。世の中は澄むと濁るの違いにてという洒落もある。なお、紀59番歌の「謎廼利」はメドリ(ドは乙類)と濁音で訓まれている。いずれにせよ、娶りの話だから、メトリ、ないし、メドリという名前に仕立ててある。笑えるではないか。鳥の種類を言い立てていてはぶち壊しである。
 最初に天皇は、自分の奥さんになってくれないかと、女鳥王にお伺いを立てたとき、異母弟の速総別王を媒(なかたち)(注6)として使いを寄こしてきた。異母妹に対して、自分で求婚に来ないで、弟を媒酌人として立ててくる。叔父さんぐらいを媒酌人として使いに寄こすならともかく、年下の弟を寄こすなど、恥ずかしくないのだろうか。女鳥王は、「大后の強(おず)きに因りて、八田若郎女を治め賜はず」などと理由をつけて断ることをした。古訓の「強(おず)き」は「強(おず)し」という形容詞で、殺伐なほど気の強い様を表わす(注7)。当然、大后の気が絶対的に強いということだけでなく、力関係として、天皇の気が相対的に弱いということを物語っている。継妹の自分に、直接、告ることができない気弱な男など、こちらから願い下げということである。古語拾遺に、「天鈿女命(あめのうずめのみこと)〔古語に、天乃於須女(あめのおずめ)といふ。其の神、強(おず)く悍(あら)く猛く固し。故、以て名と為(す)。今の俗(よ)に、強き女を於須志(おずし)と謂ふは、此の縁なり〕」とある。オズシはまた、オゾシともいう。いま、オゾマシイという形にも展開した。そのオゾシは、人に対して畏怖と嫌悪の思いを持たせるような性格などをいう。とともに、オソシ(遅・鈍、ソは乙類)という形容詞の、頭の働きが鈍いこと、気づくのが遅いこと、愚かなことを表す用法にも通用した。オゾシに上代の文献的用例は見られず、ゾの甲乙を決め難いが、通用していたことから考えて、乙類であろう。つまり、女鳥王は、そもそもからして、天皇が、自分の腹違いとはいえ妹に対して、おっかなびっくり弟を介してしか話ができないような、気の強い皇后にたじたじになって縮みあがっている男に対して、嫌になっているのである。だから、後で何を言って来たってそれはもう、オソシ(遅)であり、言ってくるようなことがあったら、それはもう、オソシ(鈍)なのである。というわけで、それを一気呵成に進めてしまったのが、速総別王と一緒になることであった。だから、総別王と書いてある。わかりやすいように、太安万侶は工夫してくれている。
 時間の進むのが、天皇は遅くて、女鳥王は速い。まどろっこしいことしないでちょうだい。で、速総別王と結婚している。周回遅れで天皇は女鳥王のもとへやって来る。「天皇、直(ただ)に女鳥王の坐す所に幸して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。是に、女鳥王、機(はた)に坐して服(はた)織れり」という状況である。男として、本当にアンポンタンなのであろう。タダニ(直)というのは、直接来たということではあるが、だったら最初からそうすればいい。このタダニは、何の思案もせずに、阿呆面さげて、という意味にとれる。呆れてものも言えない相手だと思ったであろう。その天皇は歌いかけてくる。「女鳥の 我が大君の 織ろす服(はた) 誰(た)が料(たね)ろかも」(記66)。山路平四郎『記紀歌謡の世界』(笠間書院、1994年)には、「『女鳥の 我が王』とあるのは天皇の歌として相応しいものではない」(363頁)とある(注8)。女鳥王のことを「我が王(おほきみ)」とあげ奉るのは天皇位として相応しくないというご意見であろう。対して、身崎壽「ウタとともにカタル―女鳥王物語論―」『萬葉集研究 第二十九集』(塙書房、平成19年)には、「天皇の『妻問ひ』における低姿勢?ぶりをよみとっておく……。……ここもふくめて、このモノガタリには全体として、天皇を戯画的にえがいているふしがみえなくもない。……メドリに対する天皇のひかえめというか、したでにでて、あいての意をむかえようとする姿勢をよくうつしだす効果をになっているだろう。感覚的なものいいになることはいなめないが、ここは、天皇の、この『妻問ひ』における卑屈なまでの求愛の態度([本居宣長・古事記伝にいう]『親しみかしづきて』)と、メドリの堂々とした拒否の態度との対照がめだつ、ということになるのではないか。」(89~90頁)ともある(注9)。筆者は身崎先生のご意見のほうに近いが、はっきりさせておきたいことがある。事は、男女の仲の次元である。必ずしも身分は関係しない。“殿のお手がついた”場合も、逃げられたり、逆に刺し殺されたりする場合もある。地位や名誉や金ですべて何とかなる思ったら大間違いである。ふつうに人生経験をされたらわかることである。
 古事記では、はじめから、鈍な男を語るために、そういう歌い方に仕立てられている。見事な台詞づけである。あなた様が織っていらっしゃるハタ(服)は、どなたのためのものですか? 呆れるではないか。うすのろ間抜け。「高行くや 速総別の 御襲衣料」。この歌について、通説化している解釈として、小学館の新編古典文学全集本古事記頭注に、「速総別王の襲衣を織っているのだ答えるのは結婚したことを明らかにするもの。そこには天皇への反発と、挑発的な語気がある。」(300頁)とされている。そうなのであるが、この挑発的な語気は、馬鹿にしているのである。あんたはずいぶん鈍感ね! 天皇の問い掛けの言葉に、機織りで織られた布帛を指すハタという言葉が使われている(注10)。天皇の、「誰が料(たね)ろかも」に対して、女鳥王は、「速総別の 襲衣(おすひ)料(がね)」と畳みかけ返している(注11)。「速総別の料(たね)」という答えではない。タネ(料)はもと「種」と同じ語、ガネ(料)は、もと「兼」に由来する語である。「種」はまだ芽が出ていないが、「兼」はすでに予定されたことを示す語である。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「国語の『かぬ』には合せる意と予測の意とがある。〔万葉〕『豫▲(兼の旧字体)而知者』〔九四八〕は『豫(あらかじ)め▲(か)ねて知りせば』とよみ、ことを予知する意である。」(239頁)という的の星を射た用例をあげられている。もう行き先は決まっているの。あなたのではないの。ほとんど終わりにさしかかっているでしょ。見ればわかるじゃない。ふつうとは少し違う織り上がりでしょ。スケベ根性丸出しの人の肌着じゃないのよ、ということである。本当にオソシと思うから、仕上げる衣服の名も、襲衣(おそひ、ソは乙類)なのである。襲衣は、旅や神事に使う、衣服の上から被り着る上着のことである。お坊さんの使う袈裟に頭巾までつけたような纏い方をするもののようである。
 延喜式・神宮太神宮式の太神宮装束に、「帛意須比(おすひ)八條〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。広さが「二幅」とあるのは、織物として機織り機で織り上げた布を2つ、倍の幅につなげていることを表すのであろうか。長さが二丈五尺とあるから、それだけ縫いあわせたということか。上着だから厚地の生地で、幅も広く、機織りに相当な時間がかかった。機織りしていた数か月間、もうとっくに速総別王とラブラブにしているのに、今頃になって天皇は現われて、誰のために機織りをしているのかと宣った。ばかばかしくなる。オソシ(遅・鈍)→襲衣である。どんだけー、っていうぐらい長時間の骨の折れる機織り仕事であった(注12)。うまい道具仕立てである。日本書紀では、この衣服のことに焦点を当て、用途が旅と神事にあることから、伊勢神宮へ逃げることにしている。小道具から筋立てを決めていっている。神事用の「襲衣」を伊勢神宮に奉納して、天皇に言い訳して許してもらおうと思ったということらしい(注13)。もちろん、“話”としてのことである。
 さて、それに対して、天皇は還っていく。「故、天皇、其の情(こころ)を知りて、宮に還り入りき。」そのとき、「其の夫、速総別王の到来(きた)れる時に、其の妻、女鳥王の歌ひて曰く、雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」。そう歌うと、天皇は、この歌を聞いて、すぐに軍隊を興して殺そうと思ったと書いてある。どうして「宮に還り入りき」と書いてあるのに「此の歌を聞きて」とあるのか。それは、天皇が、すべてにおいて、オソシ(遅)だからである。お還りになって宮に入られていたと思ったら、まだ、そこいらをうろうろとしていたということであろう。
 天皇がぐずぐずしているとも知らずに女鳥王のところへ速総別王が「到来」した。原文に、「此時、其夫速総別王到来之時、其妻女鳥王歌曰」とある。前掲の新編全集本頭注に、「『時に』が重なるのは異例の構文となる。『到来之』の『之』は文末助辞とみ」(301頁)る解釈をして落ち着かせているが、そうではなく、「時」が俎上に上がっている。オソシ(遅)というのは、時計の針は人によって進み方が違うことを言う言葉である。二つのものを比較する際には、前を基準にして後のものをいうのがオソシ(遅)であり、反対に前のものはハヤシ(速)やトシ(疾・捷)である。日本書紀では、「乃ち語りて日く、『鷦鷯と隼と孰か捷(と)き』といふ。日く、『隼は捷し』といふ。乃ち皇子の日く、『是、我が先(さきだ)てる所なり』といふ」と説明されている。つまり、女鳥王や速総別王タイムでは、あるいは、それがふつうの時間の進み方のように記されているが、天皇はもう宮入りしているはずなのに、まだ残っていたから、「時」がダブって書かれており、歌を天皇に聞かれてしまったことを教えてくれる。太安万侶の書き方はうまい。
 実際に、「時」がダブることはないのではないかとお考えの方もおられるであろう。天皇が還った「時」と速総別王が到来した「時」とが同じだったら、出入口で鉢合わせになるではないか、というご尤もな疑問である。古代の無文字文化のなかに暮らしていた人なら、具体的にあり得ない話は作らないのではないか。まさに正論である。けれども、それは、女鳥王が機織りをしている機殿(機屋)の出入口が1つであったという前提での考えである。2つであったなら、天皇の出て行った口と、速総別王が入ってきた口とが異なり、出くわすことはない。そういう建物があったことは、考古学から検証されている。
 浅川滋男『建築考古学の実証と復元研究』(同成社、2013年)に、「戸口の復元は、これまで高床倉庫で試みられてきたが、平地土間式の大型建物では高床式倉庫の戸口を採用するのが難しく、一般的には突き上げ戸や外し戸などを用いた復元が少なくない。しかし、今回[青谷上寺地遺跡]は幸運にも角柱と戸口の材に恵まれ、本格的な片開戸を復元することができた。」、「青谷上寺地遺跡の蹴放(もしくは楣)は、必ずしも完全な姿をとどめているわけではない。しかし、両端の角柱にはめ込む仕口を備え、扉板両脇の方立を納める决(しゃくり)溝や扉の軸受穴も確認できる。この蹴放(もしくは楣)が角柱と複合しているのはあきらかであり、……蹴放(もしくは楣)の正面側には、同心円状の模様が刻みこまれている。」(70頁)とある。
山陰土着型「長棟建物」の復元全景パース(71頁)
妻側立面図(71頁)
青谷上寺地遺跡・杉板葺大型建物復元 部材対応図(72頁)
 建物の妻の部分になぜかは知らないが、2つの片開きドアがついている。2世帯住宅で真ん中に仕切りとなる壁があるわけではない。内部はワンルームである。復元モデルでは、3.84m×8.12mと広いから、今考えている機殿(機屋)そのものとは俄かには思われないかもしれない。けれども、その他の製糸や織物関連の道具(紡錘車や桛)や材料(麻、苧麻、巻子)が保管されていたとも考えられる。また、棟の短いものでもあれば、十分に機能していたと思われる。なぜなら、建物の「妻」に開き戸となる扉が2つついている。開き戸は、パタパタと開け閉めする。機はハタである。パタパタ織っているからハタという。古代の音韻では、ハタは pata に近いものがあるとされている。高機は古代東アジア世界において、中国を起源として伝わったものである。中国で機(キ)と呼ばれていたものが、ヤマトコトバにハタと言っている。文字がないのだから、これは何ですかと隣村の人に聞かれた時、キですと答えてもそれでは相手には意味が分からない。パタパタして織るものだからハタというのだよ、と新語を造って答えたのではないか。むろん、言葉の語源はわからないし、他の説もある。筆者は、語源説としてよりも、この女鳥王の話において、ハタという言葉をそのように捉えていたという仮説を立てている。
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

記紀の「諺」 其の七「神の神庫も樹梯の随に」(はしご論序説 其の四)

2016年12月29日 | 論文
(承前)
(注1)記紀には、ざっと見たところ、「天つ神の御所(みもと)」(記上)、「天照大御神の営田(つくりた)」(記上)、「日神(ひのかみ)の田(みた)」(神代紀第七段一書第三)、「大屋毘古神(おほやびこのかみ)の御所(みもと)」(記上)、「天照大御神・高木神の御所」(記上)、「綿津見神(わたつみのかみ)の宮」(記上)、「海神(わたつみ)の宮」(神代紀第十段本文)、「伊勢大神(いせのおほかみ)の宮」(崇神記)、「諸神の社」(垂仁紀二十七年八月条)、「神の宮」(斉明紀五年是歳条)とある。万葉集でも、「神の宮」(万1740)、「神の社」(万404・558・2660・2662・4011)、「神山」(万2178)、「神岳(かみをか)の山」(万159・1678)、「神宮(かむみや)」(万199)などとある。
(注2)「工匠(たくみ)」の記述は、雄略紀十二年十月条に、「天皇、木工(こだくみ)闘鶏御田(つけのみた)……に命(みことおほ)せて、始めて楼閣(たかどの)を起(つく)りたまふ。是に、御田、楼(たかどの)に登りて、四面(よも)に疾走(はし)ること、飛び行くが若きこと有り。」とある。にある。この記事を表面的に読むと、今日、遺跡に復元されている弥生時代や縄文時代の高殿は何であるか、疑問が浮かぶであろう。筆者は、工匠の登場とは、専門職として仕口をきれいに鑿で穿り、梁や束を伴った建築技法が確立したことを表すと考えている。ロープで棟木や軒などの部材を結わいていただけの場合、楼上で疾走することはできなかったと思われる。大中姫命が怖がっていた棟木の不安定さがなくなったということであろう。
(注3)川添登『伊勢神宮―木と水の建築―』(筑摩書房、2010年)に、「伊勢神宮では妻がころんでいないから、棟持柱の必要はなさそうであるが、そうとばかりはいえない。試みに厚紙を二つに折って屋根型にふせ、上から力を加えると、紙は左右にひらいていくであろう。つまり屋根の重みは、妻側から見た場合、柱や壁体を左右に開く方向に力をあたえる。そこで屋根を棟持柱で支えるとともに、左右の柱に梁をわたして互いに引っぱり合わせてつなぎとめておく必要があるが、この梁は、引っぱり材であるから、一本の通ったものでなければならない。平安時代になると、柱を水平材が貫通する貫(ぬき)の構法が開発されたが、奈良朝以前は、それはなかった。したがって棟持柱と梁とを同一平面におくことが出来なかった。」(79~80頁)と、伊勢神宮の建物を中心に据えて建造物の構法をお考えになっている。「棟持柱は米倉の名残り」であるとされるのはそのとおりであろうが、埴輪に見ると切妻屋根、入母屋屋根、寄棟屋根、片流屋根といろいろある。そのなかで神明造は切妻屋根のものを採用したに過ぎず、その切妻高床式倉庫の屋根が棟持柱によって支えられていたのを、後から梁に束を立てて棟木を支えるようにしたということによって“名残り”となったといえるのではないだろうか。
(注4)兼右本には、神武前紀、天武紀三年八月条はホクラと傍訓があるが、垂仁紀八十八年七月条の「神府」にはミクラとある。それらが必ずホクラと訓まれたかどうか、すなわち、ホクラというヤマトコトバに漢字をあてがったものかどうかはわからない。
(注5)和名抄に、「梁 唐韻に云はく、梁〈音良、宇都波利(うつはり)〉は棟梁也といふ。尓雅注に云はく、杗廇〈亡霤二音〉は大梁也といふ。」、「梲 尓雅に云はく、梁の上の柱、之れを梁〈音拙、和名宇太知(うだち)、楊氏は蜀柱と云ふ〉と謂ふといふ。孫焱曰く、梁の上の柱は侏儒也といふ。」、また、新撰字鏡に、「枘 宇太知(うだち)、又宇豆波利(うつはり)」とある。新撰字鏡の、枘、梲、梁を一緒くたにした記述は、鑿をもって枘穴を抉り、梁や束柱をすえて梲を作ったことが新しいことであったからかもしれない。「卯建が上がらない」という慣用句は、もともと、富の象徴として、妻壁を屋根の高さより一段高くしたことに発するとされ、のち、瓦や土壁で塗り固めるようになって防火壁の機能を持つようになったと言われている。ところが、埴輪に卯建形のものが見られつつ、古字書の解説が不分明なところからは、棟持柱で屋根を吊る方式から、梁の上に立てた束柱で支える方式へと変更したところに画期を見出して、そのような慣用句が生れたものなのかもしれない。ただし、この慣用句の文献上の用例に古いものは見られない。
(注6)稲田愿『梯子・階段の歴史』(井上書院、2013年)に、ハシノコのコは、「〝木の葉〟などと同様、<木>の古形」(22頁)とされている。文献例に乏しく不明である。一般に「梯子」と記され、「梯木」と書かれることは管見にしてみられない。縄梯子もあったと思われるが、どうなのであろうか。
 稲田先生の立論について、筆者にはいくつか疑問点がある。「[梯子という]道具発生の主因は『木登り』にあったと考えられる。」(22頁)とされ、また、梯子の原型として、アノニマス・デザインという概念を導入され、「自然に生えていた立木の枝を、ある長さに切り落としたそのままのもので、見事にそうした形態を示していて興味深いものの一つである。」(27頁)と、石器時代の復原モデルを例示されている。
「梯子の原型(石器時代、デンマーク、火打石鉱山、モデル図)」とされる図(同書、65頁)
 けれども、動物園ならずとも、レッサーパンダは倒れ掛かった木を梯子のように利用していないだろうか。「道具発生の主因」なる観点は、主客が逆転しているように思われる。人間には「文化」があり、他の霊長類の行わないことをして「道具」を獲得していると考える。機能に限って考えれば、眼の延長上にメガネがあり、望遠鏡があり、顕微鏡があり、電子顕微鏡があり、CTスキャナーがあるが、そういう議論をしても始まらないように思われる。仮に、ドラえもんの「どこでも木登り」なるものを考えて梯子を思いつき、立木を石斧で倒して枝先を切ったとして、例えば、大きすぎて重たくてそこから運べなかったとしたらどうなったであろうか。その先にある崖に立てかけて登ろうと思っていたところが、崖下まで行くことさえ阻んで道を塞ぐことになってしまっている。そして、そういうことはままあったであろう。それが人類の発明の歴史である。その時点ではやくも梯子には、登ったり越えたりするための機能ばかりでなく、大捕物や檻の機能が顕在化している。この生易しくない両義性を越えて行ったところに、「道具」という文化的産物が人間の手の中におさまるのである。「アノニマス・デザイン」とは、名のあるデザイナーが関与しないデザイン、集合無意識の産物のことかと思われるが、法政大学出版局のシリーズ本、「ものと人間の文化史」にみられるように、前近代において、世の中のほとんど99%のものは、アノニマス・デザインで成り立っている。今日、モノは規格化された「商品」でしかなくなりつつあるが、そういう視座から考古遺物や民具を捉えても仕方がないであろう。なお、稲田先生が断られているように、「少なくとも日本では、梯子の参考文献は見当たらないのが現状である。これだけ重要な人間のための道具(装置)に関する研究書が見当たらないことは、実に不思議に思えるのである。」(11頁)のは事実である。労を多としたい。なぜないのかについては簡単である。当たり前のことは書かない、それが“作文”の基本だったからである。
(注7)植木久「建物の構造」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学6―人々の暮らしと社会―』(同成社、2013年)に、弥生時代、古墳時代、さらに飛鳥時代へと続く建築形式の変遷が考古学資料から説明されている。「掘立柱建築の構造の変遷」図として、柱跡からみた建物の類型を示されて時代ごとに落とし込まれている。そこには、弥生時代に「独立棟持柱構想」、「内部1本柱構造」、「総束柱構造」がすでにあり、古墳時代になっても「独立棟持柱構想」、「総束柱構造」は続いてゆき、また、「内部棟持柱構造」が加わってくる。古墳時代中期に、「差掛け庇構造」が加わって飛鳥時代へと続いて行き、反対に、「独立棟持柱構造」は古墳時代中期まで、「内部棟持柱構造」は「棟持柱・母屋桁柱構造」という折衷型として残りながら飛鳥時代の初めまでで終わっている。
「掘立柱建築の構造の変遷」(同書、90~91頁)
 筆者は、垂仁紀八十七年条の「神の神庫も樹梯の随に」という諺は、屋根のてっぺんに登るには、覚束なく、もやもやもあらず、の状態であったと考えて行論してきた。わざわざ後世に言葉として語り継ごうという意思があった時期の産物として、この「諺」は捻られたのであろうと考えているのである。その時期は、植木先生の図から考えると、棟持柱だけでは危ないから、母屋桁柱を立てようとし始めた古墳時代中期の建築技法上の画期(の直前)に求められるのではなかろうか。ただし、棟持柱が建物の内部にあるか外部にあるかという分類がどれほど有効なものであるか、筆者は保留したい。むしろ、その弥生時代中期に柱をたくさん立てて建物を造っていくように変化していることにこそ、当時の人々の“気持ち”があらわれているのではないかと思う。そしてそれを「諺」につくって伝えようとした。
 身舎・庇構造の成立について、植木先生は次のように解説されている。

 内部棟持柱が用いられるようになると、構造的により安定化を図るため、あわせて母屋桁柱を用いるようになった。梁行きを拡大化すると棟木と側柱上の側桁を繋ぐ垂木が長大なものとなるため、中間に棟木と平行に母屋桁とよぶ構造材を入れて垂木を中間で支えるようにしたものである。当初は補助的なものであったと思われる。この母屋桁を支えるのが母屋桁柱であり、最初は棟持柱の梁行き方向の両側に立ち、母屋桁の両端を支えていたと思われる。さらに構造的な安定性を高め、また大規模化を図るため、母屋桁の中間を支える位置にも柱が加わったものが現れた。これは柱配置からみると棟持柱と母屋桁柱を身舎、周囲の柱を庇柱とした身舎・庇構造である。この構造が発展して、母屋桁の位置で上下の垂木を別部材として繋ぐことにより身舎の大屋根と庇を別構造とし、身舎・庇構造が成立したのである。この構造では大屋根を小さくし梁を短くすることができ、また垂木も短いものですむことから、屋根の荷重を軽量化することができた。また強風、地震などの横方向の力にも有利であり、合理的な構造であった。6世紀代には棟持柱構造は少なくなるが、6世紀末〜7世紀前期の阿倍丘陵遺跡で破格に巨大な平面の建物を建設するために用いられている。これを最後に、棟持柱構造は用いられなくなる。(92頁)

 解説としてはそういうことであるが、古墳時代というのは長い時代で、3世紀半ば頃から6世紀末頃までを指している。垂仁天皇の時代は、現在考えられている時代区分からすると、古墳時代前期に当たる。該当例が少ないのかわからないが、植木先生の図には、「総束柱構造」においても異様にたくさんの柱の立つ樽味四反地遺跡の例が示されている。筆者の推測に過ぎないが、棟持柱構造の建物に大事故があって、設計の変更を迫られていた時期ではないかと思われる。現在の報道においても、珍しいことは記事になるから殺人事件は全国版でニュースになっているが、半世紀前には殺人事件件数が多くて珍しくなかったから、ローカルニュースにしかならなかった。すなわち、筆者の考えは、「諺」ニュースとするほどの出来事が、「神の神庫も樹梯の随に」という背後にあったであろうとするものである。言葉というものに対する感覚を研ぎ澄まさないと、上代の無文字文化のなかにいる人たちの声は聞こえないように思っている。なお、掘立柱建築物の地域差について筆者は検討していない。考古学の方々にご批判を頂ければ幸いである。
(注8)本文に、「捕熊(くまをとる)〈熊の一名子路。〉 熊は必大樹の洞中に住みてよく眠る物なれば丸木を藤かづらにて格子のごとく結たるを以て洞口を閉塞し、さて木の枝を切て其洞中へ多く入るれば、熊其枝を引入れ引入れして洞中を埋、終におのれと洞口にあらはるを待て、美濃の国にては竹鎗、因幡に鎗、肥後には鉄鉋、北国にてはなたきといへる薙刀のごとき物にて或は切、或は突ころす。何れも月の輪の少上を急所とす。……」とある。これは熊の皮や熊の胆などを得るために殺してしまう狩りである。子熊を飼う場合の檻の形状と異なる。見世物として晒し者にする場合とは、柵の仕方が自ずと異なってくる。
(注9)北夷談の本文には次のようにある。「一、当所に限らず蝦夷地に熊祭と云事あり。夷人の大礼にして、其式を見聞するに、早春熊子を産なり。其子熊を取来りて夷婦乳を呑(ま)せて養ひ育てゝ五、六月に至りぬれば、犬(いぬ)位ひに育ち、夫より指籠(さしこ)を拵へ入置て、干魚等の食物をあたへ育置て、十月、十一月に至り、飼ぬしの親類は初論、知音或は近村の乙名等集り、当日には何れもはれ着をよそひ、銘々弓矢を携へ立井び、夫より飼置し熊を指籠より出し、細引を以くゝり、広場に柱を建、右のはしらにゆひ附置て、飼ぬし初矢を附、夫より親族と順々に矢を射、よわりしを木材以(て)首をしめ殺し、夫より夷宝(たから)と称する器物をかざり、イナヲを建て〈是は本邦の幣帛の類なり。図左のごとし。〉何かとなへ祭るなり。夫より料理して生肉を喰ひ、兼て当日の用意として濁酒を造りおき、銘々持寄て酒盛するなり。已然子熊の時乳を呑(ま)せ養ひ育てしメノコ〈婦人のことなり〉矢を附、殺を見て、泣かなしみ、甚愁傷するゆへ、尤至極なり。しかるに此メノコ料理せし肉を喰ひ酒を呑を見ては、実に興の覚し事どもなり。」(高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成第四巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』三一書房、1969年、83~84頁。漢字は適宜新字体に改めた。)
(注10)和名抄に、「獄 四声字苑に云はく、獄〈語欲反、比度夜(ひとや)〉は罪人を牢する所也といふ。唐韻に云はく、囹圄〈霊語二音〉は獄の名也といふ」とある。また、「檻(をり)穽(ししあな)を造ること、及(また)機槍(ふみはなち)等の類を施(お)くこと莫(まな)」(天武紀四年四月条)とある。ここの檻は、「押機(おし)」(神武記)、「機(おし)」(神武前紀戊午年八月条)のような、石などを括りつけて重くし、倒れ掛かって圧死させる仕掛けを指すものかと思われる(前掲、日本山海名産図会(「早稲田大学古典籍総合データベース」)参照)。
 ヲリ(檻)という語は、ヲリ(居)と同根である。ヲル(居)という語は、自己の動作については卑下、他者の動作については蔑視の意味を込めて使う。「神の神庫」という言い方が、例えば狼の檻のことを指すのは、「神庫、此云保玖羅。」という訓注をわざわざ付していることからも理解される。木村先生のご指摘にあるように、訓注は、「神庫」と書いてホクラとはふつう訓めないことからも存在意義がある。さらに、念の入った記述をして「諺」を発表しているところは、当時の人にとって、話としてどうしようもなく面白かったからであろう。集落や神社にどんなクラがあるかという確定の事実ではなく、概念として、ヲリ(檻)もクラ(倉、庫)であると見なすことができるということである。とても笑える頓智と思われた。それを、今日でなら副詞的な補いを必要とする助詞モによって表している。上代の言語活動の巧みさには感服させられる。
(注11)ニホンオオカミを手なずけて飼っていたかどうか、不明である。猟犬やペットの犬については、東南アジアの方にいたオオカミが共通の祖先と考えられている。
(注12)ハサが歴史上いつからあるか、不明である。類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀を懸曝(かけほ)せり。其の穀の𤍜(かは)くこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機(いなばた)と謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。(原漢文)」とある。
(注13)ホクラにホス(干)+クラ(倉)の究極の義があるかもしれない傍証をあげておく。古今著聞集・巻第十二・四二四話「後鳥羽院御時伊予国の博奕者天竺の冠者が事」に、「後鳥羽院(の)御時、伊与(の)国をふてらの島といふ所に、天竺の冠者といふものありけり。件(くだんの)島に山あり。その山のうへに、家をつくりてすみけり。かしこに又ほこらをかまへて、其(その)内に母が死(しに)たるを、腹のうちの物をとりすてゝほしかためて、うへをうるしにて塗(ぬり)て、いはひてを(お)きたりけり。山のすそに八間の屋をつくりて、拜殿と名付(なづけ)て、八乙女(やをとめ)以下(いげ)、かぐらお(を)とこなどをすへ(ゑ)たりけり。……」と、ミイラを「ほこら」に置いたことが記されている。日本のピラミッドは“ほこら”らしい。
(つづく)

 筆者にとっての新発見事実要約
 1.梯子は登るためだけでなく、捕り物の道具や檻に利用された。
 2.祠(ほこら)の原形ホクラは、乾燥室であった。
 3.カミ(神)はもとは狼のような猛獣の場合も多かった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加