古事記・日本書紀・万葉集を読む

コピペで学位は自己責任で。(つまり、そちらの問題なのだ。)

天寿国繍帳銘を読む(PDF版)

2017年01月15日 | 論文
全部まとめました。
「上代語ニュース」「天寿国繍帳銘を読む」(2017/1/10)へ。

(追記)山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館、昭和10年)のタイトルにもなっている「よりて」という語は、「接続副詞の如き形式に用ゐること少からず。これは『よる』といふ動詞に複語尾『て』のつける語なること勿論にして、かくの如く固形的に、しかも、接続副詞の如くに頻繁に用ゐらるるに至れるものはこれ亦漢籍の訓読により馴致せられしものなるべきなり。……即ちその漢文の訓読には、恐らくははじめより簡便を尚びて『よりて』とよみ来りしものなること殆ど疑ふべからざるなり。……これ実に漢文訓読の為に新に按出せられし一種の語遣にしてそれが、普通文に用ゐらるるに至りしものといはざるべからざるなり。」(216~222頁)と説明されている。
 山田先生のお考えにあるとおり、とても便利だから使おうよということで、早い段階からヤマトコトバに侵入していたものと思われる。本稿で「従」字をヨリテと訓じたが、いくつか他の例も挙げておかなければならないと思い、見つけたら次に記すこととした。推古朝の訓点例は見つけにくいかもしれないが、参考にまでして頂ければ幸いである。

 予悪夫涕之無一レ従也。 予(われ)夫(そ)の涕(なみだ)の従(よ)る無きを悪(にく)む。(礼記・檀弓上)
 金剛般若経一切諸佛之所従生。 金剛般若経は一切諸佛の従(よ)りて生れたまふ所なり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝)
 是吾剣之所従墜。 是、吾が剣の従りて墜ちし所なり。(呂氏春秋・察今)
 見漁人、乃大驚、問従来。 漁人(ぎょじん)を見て、乃ち大いに驚き、従りて来たる所を問ふ。(陶潜・桃花源記)

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女鳥王物語 其の四(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月13日 | 論文
(承前)
(注9)身崎、同書に、「メドリの不穏な応答をきいて、天皇はだまってひきさがったというのか。それとも、天皇だけがそのことには気づかずにといを発し、メドリのおもわくに気づかず、たんにメドリの『情を知』っただけだったとすれば、ずいぶんとまのぬけた天皇だということにならないか。どちらの解釈にせよ、そういうふうに天皇像を提示しているとみるべきなのだろうか。そうはおもわない。ここではあくまでも、天皇の『妻問ひ』とそれに対するメドリのあからさまな拒否、という要素をみておくにとどめるべきだ。」(92~93頁)とされている。本稿では、その間の抜けたこと、オソ(遅・鈍)という言葉が、この女鳥王の話を成り立たせる大黒柱であると論じている。天皇“像”がどうなるのか、そのような文脈外どころか本文外のことについて、“話”を言う側も聞く側も関わっていない。なぜなら、“話(咄・噺・譚)”だからである。history と story とは次元が異なる。一回だけ空中を飛んでは消えていく“話”は、言葉(音)だけでできている。話の前提に天皇はかくあろうとか、女鳥王は巫女風に描いているであろうとか、はじめて聞く人にどうやって説明できるのか。一回きりしかしない話の前に、つべこべと講釈を垂れていたとするなら、もはや古事記は伝わっていなかったと考える。長くなれば覚えきれないし、理屈ばって面白くないし、自分には関係ないことは聞くだけ嫌になってしまう。稗田阿礼はその講釈を伝えていない。要らぬ枠組みを設定せず、言葉だけを基準にして聞かなければならない。
(注10)原文の「服」には、ミソ(御衣の意)という古訓もあるが、直後の記67番歌に、「織ろすハタ」とあるから、ハタと訓むべきである。機織り機で織られた布帛をハタといい、機械の方もハタという。岩波書店の日本思想大系本(1982年)、新潮社の日本古典集成本(昭和54年)、西郷信綱『古事記注釈 第七巻』(筑摩書房、(ちくま学芸文庫)、2006年)などに採用されている。地の文で「女鳥王にハタに坐してハタ織れり」とパタパタ言うことで、この話のテーマがハタの頓智からなっていることを示している。なお、面状に作られた布でも、編まれたものとわかる場合、上代にハタとは呼ばなかったかと考える。
(注11)荻原千鶴「記紀歌謡の女性歌人」後藤祥子・今関敏子・宮川葉子・平舘英子編『はじめて学ぶ日本女性文学史【古典編】 シリーズ・日本の文学史⑤』(ミネルヴァ書房、2003年)に、「問いに対する答えとは、問いに従属するものではない。答えとは、一見、問いを受けた受動的なもののようでありながら、実は問いが掬いとった状況の質を判定し、方向づけるものなのである。だからこそ女鳥王の歌は、状況の現実にすら気付いていない仁徳天皇に、状況を判定し現実を突きつけて、以後の状況の方向を決定づけるはたらきをもつ。そこに女性の歌の一つの本質がある。」(11頁)とある。似て非なることを筆者は考える。筆者は、よく問いを発する。状況がわからないからである。方向性を定めてもらうためである。馬鹿なふりして聞いてみた、という言い回しがあるように、答えていただくことはありがたいことである。仁徳天皇は、女鳥王に馬鹿にされている訳であるが、それが特に女性の歌だからそういう展開になっているのではない。問答の本質とは無関係である。ソクラテスのような強者もいる。
(注12)古代の衣装とは一概に比較できないかもしれないが、一般的に、着物を一着仕立てるために必要な布は、反物一反である。基準にしてある。現在の着物の反物は、幅が約37㎝、長さが約12.5mということになっている。丸帯を織る場合には、70cmほどの幅で織って縦方向にふたつに畳み、かがり留めしている。延喜式に「長さ二丈五尺。広さ二幅」とあるのは、長さが約7.5m、広さが約1.32mであるという。さて、どうやって拵えたのであろうか。現在も紬を織るのに用いられている腰機をみると、腰幅よりも少し広めに幅がとれるから、70cmほどに織っていくことは可能である。延喜式に「広さ二幅」という単位があり、「幅」の古訓には、ハタバリともある。それとの兼ね合いから考えるなら、66cm幅のものを7.5mの長さまで織り続け、それを2枚分織りあげてそれを縫いつないで「襲衣」を作ったとするのがいちばん妥当ではなかろうか。織る人に肩幅がなければ梭を横から入れていくのも大変であるし、巻き取りながら作るにしても歪まないようにしなければならないから、この場合、織りの技術に熟達していなければならない。女鳥王の答え方が強い物言いになっていて、「料ろかも」の答えが「御襲料」となっていた。ふつうの着物じゃないことぐらい見ればわかるでしょ! ということは、見ただけで分かりそうな違いが機織り機の上にあったということである。
 すなわち、幅の広い織りを施すのに、狭まっていかないように両端を広げておく工夫があったのであろう。前田亮『図説手織機の研究』(青人社、平成4年)には、「経糸の幅出具[鋸状幅出棒]は日本ではアイヌの織機にしかない」(149頁)、「[天秤腰機では、]現在、緯打ちにも筬が使われているが、本来は幅出用で、長い緯打ち刀か杼を用いていた。」(185頁)とある。筆者は、記68番歌謡を聞くにつけ、ヒバリが唐突に出て来ている以上、伸子によって幅が縮まらないようにしていたと考えている。そして、幅広で厚地の“反物”が織りあげられた。「襲衣」は上着なのだから、生地は分厚かったのであろう。
 機の種類については、用語に混乱が見られるようである。地面に尻もちをつけるタイプを地機と呼んでいるのか、身体で経糸を引っぱるのものを呼んでいるのか不明である。植村和代『織物』(法政大学出版局、2014年)に、「三種類の基本形について、錘を下げて張る織機を『錘機(おもりばた)』……、地面を利用して張る織機を『地機(じばた)』……、人体の腰で張る織機を『腰機(こしばた)』と表記する」(48頁)とある定義が適当であろう。経糸のテンションを何によっているのかの区分である。同書には、その地機の発展型として、インドによく見られる地面に穴を掘って足を入れ、足で綜絖を操作するタイプが現れ、それを木組みにして全体的に地面上へとアップさせたものが高機であろうとされている。ただし日本では、腰で経糸を引っぱる方式の腰機にも、天秤腰機のように機に一体型の腰掛に座って行うものも多い。インドに見られる掘りごたつタイプは、「穴織(あなはとり)」(応神紀三十七年二月条)のことに当たるのではないかと指摘されており、僭越ながら筆者も同意見である。
 ほかに、「漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)及び衣縫(きぬぬひ)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)」(雄略紀十四年条)という記事も見られ、それまでの「呉織」とは別種の「漢織」が来日しているので、あるいはそれが機構をすべて機に委ねて体が解放されたいわゆる高機の移入に当たるのではないかとも推測される。また、「倭文(しつおり、しつり)」といった例が見られる。「倭文神、此には斯図梨俄未(しとりがみ)と云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文部」(垂仁紀三十九年十月条)、「倭文機(しつはた(之都波柂))」(紀93)、「倭文、此には之頭於利(しつおり)と云ふ。」(天武紀十三年十二月条)、「倭文幡(しつはた)」(万431)、「倭文旗帯(しつはたおび)」(万2628)などとある。植村先生は、解釈に難渋されている。筆者も不分明ながら、これまでハタ(機)はパタパタと関係があると述べてきた以上、シツオリのシツは、シヅカ(静)の意と関係があると言わなければならない。梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていく機とは何か。アンギンか、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かとも思われる。機械がパタパタいうことはないからである。ただ、それを積極的に、ハタと呼んだものか定かではない。擬音語とは思われない。パタパタいう機織り機に対して、シツハタと後から名づけたのではなかろうか。

 天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(いま)して、神御衣(かむみそ)を織らしめし時、其の服屋(はたや)の頂(いただき)を穿(うか)ち、天の斑馬(ふちこま)を逆剥ぎに剥ぎて、堕(おと)し入れたる時に、天の服織女(はとりめ)、見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき。(記上)

の例や、本稿の仁徳記の例は、「呉織」の類で、今いう天秤腰機ではないかと推測するが勉強不足でわからない。詳しくは前田亮、前掲書ならびに、同『続図説手織機の研究 日本篇』(青人社、平成8年)といった労作を参照されたい。いずれにせよ、作業上は実は高機とあまり変わりないらしい。腰で経糸を引っぱっていると、張り具合のニュアンスが感じられやすいという利点もあるという。結城紬は今でも腰機で織られている。工業化されないのであれば、使いやすいものや簡便なものを用いて何ら不都合ではなかろう。それでも、天照大御神の機織りの作業場は、母屋とは別棟の「忌服屋」、「服屋」であり、屋根に「頂」のある急峻な造りであったらしいことがわかる。また、雄略紀の織り手、縫い手がペアで渡来しているところも、パタパタ2つ扉のある機殿(機屋)での作業を彷彿させている。
(注13)オスヒの音転、オソヒは、上着ばかりでなく、馬の鞍や屋根の板の押さえのことも表した。「就而熟(つらつら)視れば、皇后(きさき)の御鞍(おそひ)なり」(欽明紀二十三年六月条)とある。紀61番歌に、「梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆かも」とあるのは、高床式建物の急峻な屋根を登った棟のところでまたがるのは、二人ならやすやすとできることだという含意を持っている。「安蓆」とは、やすらかに座ることのできる蓆であり、簡単に作ることのできる蓆であり、屋根の勾配をきつくすればするほど登るのは難しそうだが、屋根葺きは適当にしておいても雨は漏らないから安易な蓆のようなクラ(倉の鞍の座)となる、という意味である。棟持柱形式の建物の様を物語っている。蓆機に蓆が織りあげられていく様は、高床式建物の勾配のきつい屋根が葺かれていくのによく似ている。
莚機(日本民家園展示品)
合掌造の屋根を葺く(安藤邦廣『茅葺きの民俗学』はる書房、1983年、167頁)
(注14)尾崎暢殃「雌鳥の皇女」『国学院雑誌』第83巻第10号(昭和57年10月)に、「……日本書紀ばかりでなく古事記までも、雌鳥の皇女を織り姫として描いたのはなぜか。それは、古典では日の御子……のために、ないし伊勢の大御神のために、機を織る高巫のイメージはすでに固定されていたから、皇女を織り姫としてえがくのに何の支障も無理もなかったからである。むしろそのことが、雌鳥の皇女物語の構想を導く底の力となったと見られる。一体、古代人の観想では、伊勢の国は神人の再生に必要な聖水―常世の浪―の寄せる国(垂仁紀二十五年条……)であったし、この種の聖水による日の御子のみそぎに奉仕した女性は、棚機つ女(め)でもあった。」(21~22頁)とある。また、武部智子「『女鳥王物語』について」『甲南国文』第35号(1988年3月)に、「[日本書紀の玉をめぐる話から]メドリはワニ氏の氏神に仕える巫女であり、仁徳天皇にとっては、ワニ氏を支配する手段であったのではあるまいか。つまりメドリが仁徳天皇の求婚を承知することは、ワニ氏が支配されることを意味したのであり、メドリにとっては拒否するしか、それを防ぐことができなかったのある。この物語には、メドリ=ワニ氏氏神の巫女という事柄が根底にあったのではあるまいか。」(21頁)とある。また、守屋俊彦『古事記研究―古代伝承と歌謡―』(三弥生書店、昭和55年)は、「女鳥王物語の原型」に「女鳥王も本来は巫女であり、彼女が織っていたのは神衣であり、従って、織っていた殿も斎殿だったのではないだろうか。」(239頁)、「本来は大雀王も速総別王も一人の天皇有資格者であり、それが大神の高級巫女である女鳥王の託宣を聞き、神衣を授かり、天皇の地位に即くということだったのではないだろうか。」(249頁)という。
 論理展開が逆転している。「襲衣」というヤッケのような上っ張りは、神事に使われはするが真床覆衾ではないし、旅を急ぐ人が被っていていけないものでもない。ふだん使いの需要があるから巫女さんだけが織っていたのでは足りない。日本書紀に「伊勢神宮」が登場するのは、襲衣がオソの主題から浮かびあがってきたために、旅の目的地として好都合ということで出してきたということなのであろう。辰巳正明監修『古事記歌謡注釈―歌謡の理論から読み解く古代歌謡の全貌―』(新典社、2014年)に、「女が機を織るのは家族のためであるが、もちろんそれ以外に恋人のために織ることもあろう。……万葉集には『夏蔭の房の下に衣裁つ吾妹 心設けてわがため裁たばやや大二裁て』(七・一二七八)という歌がある。心に思う女性が服を裁っているのを前に、それが私のために裁つ服なら、少し大きめに作って欲しいと頼む、大柄な男の歌である。社交の場において、男たちが女性の機織りや裁縫に、このような期待を歌うのは、相手から歌を引き出したり、相手の心を探るためであったに違いない。この『夏蔭の房の下』というのは、夏の暑さを避けるために女性たちが木陰がある妻屋の傍に集まり、糸紡ぎや裁縫仕事をする場所であった。そこへ男たちも涼を求めて集まり、歌の場ともなったのであろう。」(185頁)とある。生活者として当たり前の感性である。
(注15)筆者は、古代において絵巻物が存在していたと主張しているのではない。絵巻物的な思考があったのではないかと構想しているのである。絵巻物そのものや、絵巻物の異時同図法に見られる時間認識がどのようにあったかについて、美術史の分野での研究がほどこされており、文学からは「時」という語を抽象的な概念で捉えたらしい柿本人麻呂の歌があって議論されている。「時」を人類がどのように認識していたかについては、エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族―ナイル系一民族の生業形態と政治制度の調査記録―』(向井元子訳、平凡社(平凡社ライブラリー)、1997年、原著1940年(注23))などから示唆を得た議論も展開されている。そういった大議論について掘り下げる必要は、このパタパタ話には不要かと思われるので割愛する。
(注16)平凡社の日本史大事典に、清水擴先生の解説として、「回転式のいわゆる扉の形式が古く、これには板扉(いたとびら)と桟唐戸(さんからど)とがある。……同じ回転式であるが、扉とは異なって水平方向に回転軸を持つのが蔀戸(しとみど)である。寝殿造(しんでんづくり)では蔀戸に対し、扉形式の戸は妻戸(つまど)と呼ばれた。これは元来、建物の妻(棟の両端の側面)に設けられていたことから生れた名で、出入口として使われた。……引戸は遣戸(やりど)と呼ばれるが、その発生は扉よりも遅れ平安時代後期である。この時代の絵巻物(えまきもの)に見えるのは狭い間隔に横桟を打ったもので、のちに舞良戸(まいらど)と呼ばれる形式である。……平安後期には襖(ふすま)が登場し、明障子(あかりしょうじ)(現在の障子)が現れるのも平安末期である。」(第五巻1頁)とある。
 昔話の「鶴の恩返し」の設定では、三日三晩不眠不休で織り続ける話になっている。そして、夜、隣室で機織りする姿が、灯火で障子に映る。そこに興趣があるのであり、わざわざ夜なべして行うものではない。灯油代と比べて割に合わない。
 高橋康夫『建具のはなし』(鹿島出版会、昭和60年)に、「日本でいちばん古い建具」(2頁)として扉が紹介され、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった」(9頁)と刺激的なキャッチコピーが施されている。弥生時代の農村集落跡、伊豆山木遺跡から、軸釣(枢、とぼそ、くろろ)とみられる作り出しのある扉が出土しており、「古墳時代になると、……扉の出土例が増えるのみならず、扉用の軸受けをもった閾(しきみ)も発掘され、さらに大阪府八尾市美園古墳から出土した埴輪屋には、開口部の上下に扉の軸を受ける穴が作られている。」ことから、「扉はすでに相当普及していたらしい。」(2頁)とある。
(注17)猪股ときわ『異類に成る―歌・舞・遊びの古事記―』(森話社、2016年)には、「女鳥王が機織りをする『殿戸』の外で天皇が歌う場面においても、機殿の中は天皇であっても戸を開き、立ち入ることができない空間として設定されていよう。内側に女がいる『戸』は、外側の男の武力や権力といったものでは開くことができない。女は、『戸』の内側にこもり、歌う男の来訪を待ち、歌が歌われれば『戸』の内側に立って聞き取り、歌によって『戸』を開くかどうかを判断するのである。」(31頁)とある。これはあり得ない設定である。記には、「天皇、直に女鳥王の坐す所に幸して、其の殿戸の閾の上に坐しき。是に、女鳥王、機に坐して服織れり。」とある。天皇は、「閾の上」に座っている。戸が閉まっていれば背を直立させてとても窮屈に「坐しき」していたこととなる。例えてみるなら、混雑する駅の狭いプラットホームに、止むを得ず座面奥行の乏しい尻当てのようなベンチが設置されている。とても「坐しき」気分にはならない。止まり木のようなものである。サザキだから止まり木なのだという発想があったとは考えにくい。古代に最も混雑していたであろう場所は、海石榴市ではないかと思うが、まさか地下にまで人が及ぶとは考えられなかっただろう。対するに、女鳥王は、「機に坐して服織れり」と今まさに機織り仕事真っ最中である。戸を閉めていたら、暗くて仕事にならない。明かりを灯していたとする考え方もなかにはあろうが、電灯はない。蝋燭は輸入品で手に入らず、植物油は猛烈に高い。魚油を使ったかもしれないが、わざわざ暗いところ、ないし、夜間に行う必要があろうか。松明では、布帛が煤けてたり火の粉が飛んでどうにもならない。だからこそ、囲炉裏で火を熾さない別棟の機殿(機屋)を設けている。建物内に間仕切りのなかった時代である。
「ひといきベンチ」(東京メトロ入谷駅)
(注18)矢島泉「『古事記』下巻試論」『日本文学』第40巻第4号(1991年4月)には、「[古事記下巻の反乱物語]では、王権と王族そして臣下の関係に儒教的な論理が持ち込まれ、それに基づきさまざまに問題とされていた。こうした臣下や民衆の立場・行動を問う記事は、反乱以外にも認められる。(7頁)……軸としての位置を占める他ならぬ天皇自身でさえ、人倫という枠から自由ではないということを知る時、『古事記』下巻に特に色濃く現われている儒教的倫理観は、単なる文飾などといったレヴェルに堕して評価すべき問題ではなく、中間における<王化>達成を承ける下巻のテーマに本質するものと見えてくるはずである。」(8頁)とある。
(注19)吉見靜子「近江の民家4 湖東の民家」『湖国と文化』第17巻2号(通号第63号)(㈶滋賀県文化振興事業団、平成5年4月)に、「この[湖東]町の民家にみられる特徴は機織窓の存在である。でいの前面の一間半を四分し、中央の四分の一の二つ分を窓とし外側に縦格子、内側に二枚の引戸をたて、これを『機織窓』と呼んでいる。」(74頁)とある。(注16)参照。
(注20)武田祐吉『記紀歌謡集全講 附琴歌譜歌謡集全講』(明治書院、昭和31年)に、〔評〕として、「鳥によせて意を述べている。はじめの雲雀の叙述は明快であるが、猛禽のはやぶさを出す準備としては、あかるすぎるし、軽すぎる。もっと鬱々たる空気をつくる譬喩を使用すべきであった。高行くや以下は、物語の会話として譬喩によって意を致したまでである。」(156頁)とある。“歌論”として評されるとは、噺家も想定外の出来事である。
(注21)結索法には、結びの用途から次の7つに大別されている。①結節法、②結合法、③結輪法、④結着法、⑤結縮法、⑥結束法、⑦装着法である。このうち、雲雀結びは結着法に当たり、「元」2本に共に同じく力がかかる場合にのみ有効である。
(注22)吉井巖『天皇の系譜と神話 三』(塙書房、1992年)に、「この物語における事の推移は、すべて女鳥王の選択によって進行している。その選択の根拠は、天皇の妻妾となっては、皇后の存在によって、皇女としての自尊も、自由に人を愛するという生き方をも失われてしまう、という判断であった。……一人の皇女・女鳥王が、現実を打開してみずからの前途をひらくためには、死生の間を行動しなければならないと自覚していた心境に触れる。……この物語の死に人間としての感動を受けるのはこのためである。」(107~108頁)とある。この手の主張は、前掲の都倉先生や荻原先生にも見られる。なお、筆者の推測に過ぎないが、日本書紀に仁徳紀四十年のこととして語られているものの、ひょっとすると、この異母兄弟姉妹の喧嘩は、ずっと若い時のことではないかと考えている。天皇が高校生、女鳥王と速総別王は中学生ぐらいの年齢と想定すれば、より理解しやすくなるのではないかと思う。パタパタ、バタバタ話である。
(注23)私事になって恐縮だが、筆者は、翻訳者の向井先生から直々に文化人類学の講義を受けたことがある。今考えると、千載一遇のチャンスにめぐり合え、知的好奇心をいやがうえにも掻き立てられたものであった。エヴァンズ=プリチャードは、「読めばわかる」スタイルの人類学者で、向井先生もその流儀を貫かれており、小理屈を言う研究者を相手にされない。書いてあるのだから、いまさら解説しても仕方がないことである。筆者も、古事記について、読めばわかるように書いてあることをただ読んでいる。古事記は洒落であり、頓智であり、屁理屈である。文字を持たなかったヤマトコトバが、ヤマトコトバをヤマトコトバで説明した、その仕掛けを繙いている。王権論や歌謡論や文学論は、今のところ古事記を読むことから離れていると言わざるを得ない。奇妙なスコラ哲学が行われている。
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女鳥王物語 其の三(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月08日 | 論文
(承前)
(注1)藤澤友祥『古事記構造論―大和王朝の〈歴史〉―』(新典社、平成28年)に、記紀両書の差異として、「①反逆の主導者の違い ②討伐後の宴に登場する皇后の違い の二つが大きな違いであろう。」(213頁)とされて議論が展開されている。本稿では、微視的な差異から記紀の構想の違いを論うことはしない。
 内藤磐「記紀歌謡の織りなす世界―カタリにおけるウタの役割―」古事記学会編『古事記論考』(おうふう、平成15年)に次のようにある。

 大雀(大鷦鷯)・速総別(隼別)・女島(雌鳥)の鳥の名を統一し、こうした意表をつくウタの用法によって語りを構成した古代の語り手は、すぐれた力をもった人物であったのであろう。記紀の編纂に関して古来さまざまに述べられてきているが、記と紀とのそれぞれについては別として、二書の関連についての大多数を納得させるような見解にまだ出会っていない。記は文学性の濃いもので紀は歴史として編まれたものである、というような評言はきまり文句のようになっているが、これではどれほどの説得力もない。並行もしくは雁行する形で、同じ大和朝廷の古[ママ]事来歴を伝えようとする二書が編まれたのはなぜか。ともに大和王朝の祖先神の時代から語り出しながら、持統朝末まで伝える紀に対し、記は実質的には顕宗朝で終っているのはなぜか。合せて二百四十首のウタを含んだ伝承になっていて、その半数近くが二書間で密接な関連を示すのはなぜか。伝えられていることがらは二書ほぼ一致しているのに、ウタとその用い方には多くの異同が認められるのはなぜか。同じことがらの内容であるべきはずであるのに、結果的には趣の異なる書物となっているのはなぜか。これらの素朴な疑問に対して、十分な説明をしてくれているものはまだ出てきていない。
 記紀の語り手たちは、漫然とことがらを綴っているわけではない。大筋の語りごとを伝える中で、語りに真実性を付与すべく構想に意を用いている。古代の歴史も文芸もウタによって担われてきた部分が大きく、ウタを抜きにしては古代は伝えられなかった。格別な意識ももたぬままに、自分の感情を他者に伝えよう訴えようとして、人はことばを発していて、その訴えのこころが強いとき、ことばは自らウタに結晶したのであろう。ことばそのものが素材であり、訴え伝えようとする核を内包したことばがウタとなったのであったろう。(244~245頁)

 根本に勘違いがあるように思える。記紀という記録は、“結果的に”ヤマト朝廷の故事来歴を語っているようになっているだけで、最初からその意図があったのか、わからない。言い伝えて伝えられたものが残っているのであり、伝えられなかったものは残っていない。ウタに記紀間で異同が多いと感じられるのは、伝えた人が違えばちょいと趣向を変えてみようとした心意気が、伝える人、語り部にあったからで、何ら構わぬことであろう。記紀は、結果的に伝わっているだけなのだから、「同じことがらの内容であるべきはずである」などと、教科書検定か何かのように思われては困るのである。天下の日本経済新聞が、景気判断について、昨日と今日とで違う見解を掲載していたとして、経済界や投資家からとやかく言われないのは、“同じようなこと”を伝えているからである。記紀のこの女鳥王の逸話に関しても、筆者には、記紀の間の差に拘泥すべきところは感じられない。話の大筋のどこに違いがあって、何を問題視されているのかわからない。肝心要の“話”を先にきちんと読もうではないか。なお、「格別な意識ももたぬままに、自分の感情を他者に伝えよう訴えようとして、人はことばを発してい」るなどという曖昧模糊なことを、無文字文化の中で言霊信仰に浸されている伝承者が行うことはないと考える。それは、地の文であれ、歌であれ、同じであると考える。
(注2)先行研究についてきちんと検討を加え、それに立脚しながら、あるいは批判を加えながら、新しい解釈を進めるのが作法である。これまでになされてきたいくつかの議論をみておく。結局のところ、言葉を軽視して女鳥王の話が読みきれず、よくわからないままに理屈をこねまわしておられるようである。以下、本稿の論旨とはほとんど関係がない。
 荻原千鶴『日本古代の神話と文学』(塙書房、1998年)は、女性である女鳥王が主導性を担う理由について述べられている。

 『古事記』の女鳥王は、主導性を貫き通す女性として造形されている。結婚相手の選択、結婚の事実の表明、夫の方が天皇より優位であるとの判断とそれを根拠にしての反乱の教唆―これらすべてが女鳥王の発話や歌謡によって呈示され、女鳥王の意思の実現化という形で事件が進行する。(191頁)……『古事記』においては、女鳥王の反乱教唆も女鳥王の意思の結果であり、記六七にみられた天皇への反発の延長線上にあるところの、女鳥王の仁徳天皇への反発とあらがいとして捉えるべきなのだ。そして女鳥王のこのようなあらがいを誘引し、いったんは許容している者、すなわち女鳥王のあらがいの物語自体を可能にしている者が、〝絶対的権力を手中にし、かつ仁恕の徳を備えた王者〟として造形された仁徳天皇にほかならぬことに注意したい。『古事記』にあっては、女鳥王は仁徳に「わが」と親しみと諧謔をこめて呼びかけられなければ、速総別王との結婚を暴露することもないし、仁徳に許容されなければ反乱を教唆することもないのである。『古事記』の女鳥王物語は、決して女性の主導性や行動性をテーマとして『古事記』に在るのではない。女鳥王の常理を超えたあらがいの物語は、仁徳天皇の造形に寄与するために『古事記』に在るのだといえる。「我が国」に君臨する仁徳天皇、その『古事記』の天皇絶対観の枠組みが、結果として女鳥王の生彩ある姿を描き出すことを可能にしている。(261頁)

 寺川真知夫「雌鳥皇女・女鳥王伝承の性格と形成―反逆伝承の公開と氏族―」中村啓信・菅野雅雄・山崎正之・青木周平編『梅澤伊勢三先生追悼記念論集』(続群書類従完成会、平成4年)では、記紀は律令制社会に入ってから作られたと想定し、かつ、氏族の伝承を公開したものであるという極端な立場をとる。反逆氏族の伝承がなにゆえ記されているかについて想いをめぐらされ、女鳥とは何を意味するかに触れられている。

 他方、女鳥王の女鳥が何を意味するかである。『新撰字鏡』には「雌」に「雉乃女鳥(巻八・九丁ウ)」、「鴳」に「女鳥、雀也(巻八・八丁ウ)」とあり、確定できないにしても、紀にみえる鷹狩の獲物の多くが雉であることからすると、女鳥は女雉(荻原千鶴 前掲「女鳥王」)とみて間違いなかろう。したがって鷹(隼)が女鳥(雌雉)を取るというイメージがあり、そうしたイメージとのかかわりで、鷹甘部あたりが物語のモチーフを形成したとすれば、より原形に近いのは……書紀のそれであるということになる。これが仁徳に結びついたのも、すでに鷦鷯を鳥の王とする伝承が存在し、書紀のごとき伝承が育まれていたからであったといえる。隼別皇子の名も鷦鷯に破〔ママ〕れる者として、昔話(動物昔話)とのかかわりで設定されたといえなくもない。したがってこの伝承の形成を隼別皇子の母の出自氏族に求める必要はあるまい。屯倉の中でとくに依網屯倉が鳥の狩と結びついたのは依網池との関係も考慮すべきで、屯倉一般にいい及ばせるかどうか問題が残る。繰り返しになるが、出自氏族にとって反逆伝承は語る意義を見いだし難い伝承であったからである。勝利は最初から鷦鷯の側にあり、敗北・不名誉は隼の側にあったのである。(167頁)……天皇(大王)の権威の確立した氏族制社会の論理からすれば、氏族伝承としては不自然な求婚拒否や皇女の謀反の設定が可能であったのは、……意図的に氏族の不利益を説こうとする、あるいはできあがったものが多少は氏族の利害にかかわることも意に介しない天皇家であり、そこで意図的に作られたといえば不自然ではない。また、仏教思想や律令制の理念の影響下に一部の個我に覚醒した女性たちが、女性のかくあらまほしき願望を、女性の立場から結実させたのが女鳥王の天皇への結婚拒否の言葉であるとみると、その形成が可能であったのは現実の制度や政治的意図に制約されることが比較的少なく、政治的利害にもあまり配慮しないで済む人々の文芸の世界、具体的には和珥氏と無縁の皇后もしくは女帝の支配する宮廷の、より具体的には持統天皇の宮廷に形成されたそれであったと考えたい。……女鳥王の結婚拒否の発言は天皇(男)の自己中心的な行動への反発を基底にすえたものであるとみると、これが着想されたのは、仁徳天皇の行動を権力を握る男の当然の行為として何の疑問もなく是認する男が形成したものというよりは、むしろ男性中心の社会制度に依拠しつつなされる、仁徳天皇の行動に具象化されたような男の独善的行動にたいする女性の怒りに支えられて形成されたものといえよう。それはまた仁徳天皇に対する石之日売の反発の物語を形成した思いと通底するものであった。(172頁)

 山田純「『鷦鷯』という名の天皇―鳥名と易姓革命―」日本文学協会編『日本文学』第57巻2号(2008年2月)には、日本書紀に「鷦鷯」という字で記されている点から出発して、次のようにまで結論されている。

 ……『日本書紀』仁徳紀の鳥名表記が、『日本書紀』における易姓革命の否定に繋がるいわば「革性」の表出であることを見てきた。この「革性」の論理は『日本書紀』冒頭の陰陽論による世界の生成から問題は続いていると推測できるが、より具体的には仁徳紀元年春正月条の、名易えの記事から始まっていると見ていい。何故なら記事の季節は「春」であり、「鷦鷯」と「木菟」の名を「易」えることにより、仁徳は「鷦鷯」の名を負ったことになっているからである。これは鳥が「仁」を感じて変化する「春」に、「木菟」から「鷦鷯」へと「易」わることを、人工的に引き起こしたことを述べているものだからである。この正月条をもって、陰陽五行の変化に則った「革性」の論理が始発したのである。(9頁)

 孫久富『萬葉集と中國古典の比較研究』(新典社、1991年)には、前田本仁徳紀の頭注に、「養老記云、隼鳥昇天兮 飛翔博衝 鷦鷯所執乎」とあることから、紀60番歌について漢詩の翻案の可能性を考えられている。

 「鷦鷯と隼といづれか速き」という二禽の比較……[は、]私の調べるところでは、中国の古籍の中に鷦鷯と隼鳥とどちらが速いかというような比較は見つからないが、鷦鷯と隼鳥それぞれについての描写及び隼鳥と小鳥との関係についての記載が少なくない。(325頁)

 阿部誠「仁徳記・女鳥王の歌謡物語―その表現と構想―」古事記学会編『古事記年報』45(平成15年)では、近代文学を深読みするかのような読解が行われている。

 前半部において語られているのは、王権の力学に翻弄される女鳥王の姿であった。石之日売命への反発から出た女鳥王の速総別王との結合は、反仁徳がその動機であり、女鳥王自身の主体的な選択ではなかったのである。それは大后の嫉妬を是とする王権論理への抵抗に他ならない。それに対し、追われる身とはいえ、後半部のいわば王権の磁場に左右されない空間での女鳥王の意志の表出は、前半部との対照で捉えるべきであろう。つまり、逃避行の山越えという王権世界の外側において、危険を共有する感情の高揚の中で女鳥王は、何ものにもとらわれず初めて主体性をもって速総別王を選択するのであり、仁徳の色好みに従うか否かという王権の力学から解放される形で、自身の心情の所在を確認する。ここに、あたかも自ら王権の論理(天皇の色好み・皇后の嫉妬)を放棄し、その世界を離脱していくかのような形象が、(ウタという時間構造を持たない「場面形成」がモノガタリの線条性の上に複層的に構築されることによって)女鳥王に与えられているのである。(48~49頁)

 都倉義孝「女鳥王物語論―古事記悲劇物語の基本的構造について―」日本文学研究資料刊行会編『古事記・日本書紀Ⅱ』(有精堂、昭和50年)には、古事記の一篇のお話を、文学讃歌へと高めて評価されている。

 個を開発しながらも、その個の本質を抑圧しようとするもの([古代の]近代)と目覚めた個(反近代、それはメトリの場合、古代性の再生とも重層していた)の対立こそ、この女鳥王物語の悲劇の基本構造である。この構造は、また、この時代そのものの生み出した矛盾に、おのれの真実を否応なしにかかわらせずにはいられなかった古代貴族の内面の葛藤と苦悩に対応するもるものであったに違いない。その抗争の中に、個は律令的近代の当代的状況を超克して、未来的な真の近代的個へと物語を超えて享受者の内部において昇華するのである。それは、中国[の儒教倫理の]思想の吸収で遂行された律令的近代の超克の象徴でもあろう。それが敗者メトリが死をもって購った栄光であり、文学の勝利を意味するものであった。享受者がメトリの物語をおのれの悲劇としてメトリとともに生きたとき、それは古事記的世界を、さらに敷衍すれば時代をも超えるものとして、古代の人々の心の中に拡がっていたのではなかったか。(267頁)

 猿田正祝「記紀における歌謡の文学的機能―女鳥王と速総別王の歌謡物語を中心として―」『日本歌謡研究』第30号(平成2年12月)には、歌謡と説話の結び付き方について分類が試みられている。

 歌謡と説話の結び付き方からは物語の筋の上で不可欠な歌謡[(記66・67・68)]と物語の筋の上で特に必要ではない歌謡[(記69・70)]のパターンがあり、(41頁)……記紀歌謡をみると、記では筋の上で不可欠な歌謡50首、特に必要ではない歌謡62首。紀では対象とする101番歌までで、筋の上で不可欠な歌謡52首、特に必要ではない歌謡49首である。(42頁)

(注3)村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』(塙書房、2013年)に「女鳥王が速総別王に好意を寄せていたことは記されない。女鳥王は天皇には恒久に仕えないことを、仲介に来た王に求婚するということで示したのである。それは自由で意志的な選択ではなく、その状況下での究極的な選択といえる。加えて『高行くや 速総別 雀取らさね』(記68)と皇位簒奪を唆したのは、難波を中心とする勢力が興隆する中、そこに不本意な形で参入することを良しとせず、自らの立場を全うすることを望んだからではないか。速総別王もまた同様であり、逃避行中の倉橋山の歌は自らの血統が本流とはならないという女鳥王への共感と、天皇ではなく自分を選んだ彼女への愛情から歌われたものではないだろうか。そこには自由に人を愛する女の姿勢というよりも、後から生まれた愛情をみとめることができるだろう。」(196頁)とある。歴史を語られているのか、文学を語られているのか、人間を語られているのか、不明である。近くに来た異性と行きがかりで結婚することは、村上先生には「究極的な選択」かもしれないが、いたって多くの結婚は、場当たり的なものなのではなかろうか。そしてまた、古代の皇族に血統意識というのがどれほど充満していたのか、筆者は不勉強にして知らない。親の血筋を絶やすことがないようにと思う人もいれば何とも感じない人もいるし、自分が腹を痛めて産んだ子であっても、最初から、またはも長ずるに及んで距離を置きたくなる方もままある。皇室典範に定められたとおり生きることを余儀なくされているからといって、“お気持ち”を持たれることは当たり前ではないかと思う。日本書紀に、「朕、私の恨を以て、親(はらから)を失はまほしみせず、忍びてなり。何ぞ舋ますとして私の事をもて社稷(くに)に及さむ」とあるのは、天皇が勝手にした拡大解釈で、兄弟喧嘩を政争にまくし立てた発言と考えられる。小林真美「雌鳥皇女と隼別皇子」大久間喜一郎・居駒永幸『日本書紀[歌]全注釈』(笠間書院、平成20年)に、「隼別皇子は雌鳥皇女を妻とするべく求婚者としての仁徳から奪う意識はあっても、『天皇』としての仁徳に反逆し、皇位簒奪を狙う意識はなかったものと考えられる。」(218頁)とするのが妥当であろう。むろん、話としての記述を読む限りにおいてであり、歴史としてどうであったかは別問題である。そして、話として聞く限り、速総別王(隼別皇子)と女鳥王(雌鳥皇女)は逃げていっているだけである。事の初めの時点で、深い考えがあって、からかいの歌など歌うものではない。低レベルの話として理解できる。
(注4)有性生殖の生物に異種間の交雑は起こりにくい。皆無ではないけれどとても脆弱な子が生れてもせいぜい数代で滅んでしまうとされている。レオポンに子孫はできない。“自然”が卑近に存在し、それに取り囲まれて、それに従って生きていた古代の人にとって、ハヤブサの♂とキジの♀が番うという発想など、設定されるはずがないであろう。動物の擬人化ではなく、人間の擬動物化した話である。“野生”の思考において、動物は擬人化されることがない。また、イソップ物語にあるような寓話でもない。トーテミズムの根本問題を考えられたい。人間の存在、ダイレクトに生命が、種族が危うくなるからである。
(注5)トル(取)という語のトの甲乙の混在について、以前から議論されている。(以前は、議論されていた。)筆者は、トリ(鳥、トは乙類)との洒落の関係に何か探れないかと考えているが、音韻論者に委ねたい。上代語表記の清濁について、犬養隆『上代文字言語の研究』(笠間書院、平成4年)に、「文字のsystemは、伝達に支障のない限りにおいて、対応する音声言語の諸要素のうち、どこまでを捨象することが許されるか。……実用を旨とする場では、万葉仮名の濁音専用の字体を用いないこと、すなわち音韻の『清濁』を書きわけないことが経済であり、それが平仮名・片仮名への連続面をなす……。……平仮名・片仮名がなぜ濁音専用の字体をもたないsystemとして成立したかという問題は、音韻と文字の両面から考えなくてはならない。本書の筆者[犬養隆]の認識によれば、古代語の『清濁』についての議論は、一九七〇年代から後、基本線において前進していない。亀井孝……濱田敦……馬淵和夫……小松英雄……木田章義……[らの見解を]本書の筆者の理解によって約言すれば、今までのところ、phonemicsのlevel ではなく、prosody あるいは phonetics の level でとらえる説が有力であるということになる。 本書の筆者はprosodyの1evelと考えている。アクセントが統制的な性格を強めるにつれて『清濁』はprosodemeからphonemeに変わって行ったというのが筆者の考えであるが、……ここでは、古代語の音韻における『清濁』の別が、知的・論理的意味を弁別するphonemeではなかった可能性が大きいことを確認するにとどめる。」(344~345頁)とある。
(注6)古訓に、「媒」はナカヒト(ナカビト)、ナカタチ(ナカダチ)ともにある。現在の古事記の解説本にナカタチ(ナカダチ)説を採る例が乏しいが、日本書紀では前田本傍訓にナカタチとあってそれに従っている。筆者は、古事記でもナカタチ(ナカダチ)と訓むのが正しいと考える。今の仲人(なこうど)のことである。結婚相談所の人が依頼人の意向を無視して紹介相手を横取りして結婚してしまうということは、いかに相手方から求められたからといって世間の信用を失うことである。常識というものが欠けている。そのようなことは、ヒト(人)のすることではない。人のようで人でない。木のようで木でないのは、ウドの大木とも言われる山ウドである。ナコウドという言い方は、それを捩ってもいて面白い。本ブログ「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の𣝅は、ウドである」に類例を見た。そして、速総別王は、間に入って両者の関係を断つことをしている。したがって、ナカタチ(ナカダチ)と訓むのが意味を伝達するのにわかりやすく、十分である。
(注7)この部分の「因大后之強」に、別訓の「大后のコハキに因りて」と、コハシという形容詞という訓み方も行われている。小学館の新編日本文学全集本古事記頭注に、「オズキと訓むのが通説だが、『記』の用字法に照らしてコハキと読む。コハキは強くて扱いにくいの意。」(299頁)とある。けれども、音が違えば言葉のニュアンスも異なる。同じ「強」という字を当てても、コハシというのは高句麗騎馬軍が「強(こは)」いことを言うように、馬冑、馬甲、甲冑といった硬さを伴ったつよさを指す。こわいご飯とは、水が足りないかむらす時間が足りないか、硬いご飯のことである。皇后が嫉妬深くて気が強いからといって、高句麗騎馬軍や芯の残ったご飯の“硬さ”を連想することはできない。ねたまれて嫌になるのは気分の問題で、もっとおぞましい、ぞっとする、背筋の寒くなる感情の発露として言葉がなくてはならない。通説のオズキが正しいことがわかる。オソシへと音が通じる点からも確かめられる。
(注8)前掲の山路平四郎『記紀歌謡の世界』には、次のように分析され、推論を重ねた上の結論が示されている。

 この原形とみられる「鳥の妻争い」は、……本来、鳥養部(鳥取部)の芸能を本にしたもので、事の意外性を興味とする古代物語の発想のパタンどおりならば、ハヤブサが逆にサザキに追われるといったものであったかも知れない。いずれにせよ、『古事記』の物語には、台本的な原形が比較的生(なま)な形で現れており『日本書紀』では、より物語的に整理されている。すなわち『古事記』での、天皇と女鳥王との、四句対三句の問答体歌―「女鳥の 我が王」とあるのは天皇の歌として相応しいものではない―は、『日本書紀』では、皇女(女鳥王)の為に織縑(はたお)る女人等の歌う歌として、「ひさかたの 天金機(あめかなばた) 雌鳥(めどり)が 織(お)る金機(かなばた) 隼別(はやぶさわけ)の 御襲料(みおすひがね)」(五九)と六句体歌として掲げられ、天皇を殺せと唆す歌も、隼別皇子の舎人等の歌う歌として、「隼(はやぶさ)は 天(あめ)に上(のぼ)り 飛(と)び翔(かけ)り 斎(いつ)きが上(うへ)の 鷦鷯(さざき)取(と)らさね」(六〇)とあって、神聖な壇上にあるサザキ天皇を倒して、代ってハヤブサワケ皇子が皇位に登ることを庶幾する一層「反乱物語」の様相を帯びたものに整理されている。ここでの反乱の主役は庶弟の隼別皇子とその周囲の舎人等で、女鳥王からは悪女の面影が払拭されている。(363~364頁)……鳥養部、鳥取部の間に、独特の芸能があったかどうかは、もとより明らかではないが、歴史時代に入っても征服された隼人は一面芸能者であったし、同じく黥面の習俗をもった「海人族」には海人の芸能があったらしい。おそらく賤業とみられた鳥取り、鳥養いに従事し、諸国を流転した人々の間に、「誰が料ろかも」「誰をし枕かむ」と第三者に呼びかける芸能があって、それが神武記の天皇成婚譚の下敷となり、仁徳記の、夫のために服を織る。[ママ]女鳥王の物語の下敷となったものではなかろうか。(371頁)

 「『女鳥の 我が王』とあるのは天皇の歌として相応しいものではない」と思われるのは、前提が誤っているからである。鳥養部や鳥取部、海人族らにしても、「賤業」扱いされてかなわないであろう。古代のことなのか、中世のことなのか、時代考証されずに終わっている。また、鳥養部や海人族などが、何らか伝承を伝えたものが、記紀に一つの逸話として完成形として残ることはあり得ない。鳥養部や海人族が伝えているのは、鷹を飼うことや漁を行う術である。話を伝えて術とするのは噺家である。近代になって採集してはじめてわかったのが、“民話”であった。
(つづく)
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女鳥王物語 其の二(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月05日 | 論文
(承前)
 ハタという語は、なぜかは知らないが、「将(はた)~、将(はた)~」という言い方で使う副詞がある。あるいはまた、それともまた、と仮設しておいて、一方を選択するようにする言葉である。AかそれともBかという選択の意味に発し、もし、あるいは、おそらく、などの意へと展開する。漢語の用例では中国六朝時代の俗語として見られるという。ヤマトコトバのこのハタについては、「語源的に端(ハタ)・辺(ホトリ)などに関係のある語であろう。」(三省堂の時代別国語大辞典上代編、580頁)とある。筆者は、語源という立場に立たないものの、上代の語感としては、「鰭(はた)」や「機(はた)」との洒落も見て取れる。左右のどちらにもあって2つあるのが、魚の鰭である。機は、左右のどちらからも梭を入れて反対側の端を通り抜けさせ織り進める。足を踏みかえて経糸を上下させて緯糸をくぐらせるのである。その動きにおいて、パタパタと音がする、ないし、音がしているように思っている。擬音語、擬態語から、ハタという語が生れているような気になっている。機の場合、頭を左右に振りながら見て確かめてやっている(注14)

 汝(いまし)や将(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 為当(はた)此間(ここ)に留らむと欲ふや。為当本郷(もつのくに)に向(い)なむと欲ふや。(欽明紀十六年二月条)
 神(かむ)さぶと 否とにはあらね はたやはた かくして後に さぶしけむかも(万762)
 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻(むなぎ)を捕ると 川に流るな(万3854)

 万3854番歌は、「はたやはた」が魚の鰭を思わせるとともに、「鰻」が「棟木」と同音であることから建物の棟の両サイド、妻のところにある妻戸のことを思わせている。
 どうしてそのようなパタパタする言い方になったのか、由来は謎であるが、2つドアの建物ほど、「将(はた)~、将(はた)~」という言い方にふさわしいものはない。ハタ(服)を織るハタ(機)を置く機殿(機屋)に、2つ扉の建物は言葉の上で似通っている。つまり、天皇は還ったというのは、右側の扉を出て行ったということである。速総別王は、左側の扉から入ってきたということである。扉がパタパタと開け閉てしている。その際、絵巻物の異時同図法が採用されると、出て行った図を描いた右側の扉部分を見てから巻き直して左側の扉部分を見ると入ってきたところであった。それで話を進めている。だから、「時」という語がダブっている。両方を見渡せるように見直してみると、天皇はまだ還りきっておらず、速総別王はすでに入って来てしまっている。そこで歌を歌ってしまったから、天皇は還る間際に聞いてしまい、怒って軍勢をたてて攻めようということになった(注15)
 筆者は冗談を言っているのではない。古事記が冗談を飛ばしているのである。機織りをして飛ばしているものは、梭(杼)(ひ、ヒは甲類)である。同音の日(ひ、ヒは甲類)は毎日、東から昇って西に沈んでいく。機殿(機屋)での機織りは室内作業で、明るくなり、暗くなるの繰り返しである。南を向いて機織り機に座っていると、織り手からみて日は、朝は左の戸、夕は右の戸を行き来している。桐生市の近代に建てられたノコギリ屋根織物工場群のように、採光は北からであったかもしれないから、戸の方角は調べなくてはならない。いずれにせよ、日がな一日織りつづけ、日はどんどん飛ぶように進み、がんばって左へ右へと梭を飛ばしても、なかなか織り上がらない。ヒ(日、梭)は飛ぶように進むのである。つまり、将~将~などという言い方は、パタパタと、どちらかどちらかとばかり言っているだけで、なかなか決められないようなことと同じ意味合いの作業をしている。そこに、ハタというヤマトコトバは概念として構築されているわけである。
家形埴輪の戸ぼそ(江野朋子「美園古墳出土埴輪の保存修理」文化庁文化財部監修『月刊文化財』587号、第一法規、平成24年8月、49頁)
扉の枢(金沢文庫称名寺)
 だから、機屋に扉は2つある。どちらも片扉である。パタパタ言っているばかりの扉である。引戸ではなく開き戸である。土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』(角川書店、1972年)に、「閾」は、「家の入り口の戸をすべらせるために敷いてある横木」(264頁)と検証もせずに記されているが、建築史では、引戸が現れるのは平安時代になってからとされている。敷居に溝を掘ってレールとして走らせることは、“新しい”技法である。襖障子が現れるのはそれ以後である(注16)。つまり、古事記に「閾(しきみ)」とあるのは、建築用語にいう蹴放ちのことである。戸が当たって戸締りになるための下部の押さえである。横は方立、上は楣で囲まれている。そこに扉があって戸が構成されている。枢構造で支えられている。枢構造の扉には他に蔀戸があったが、それは上へ開きあげるもので、おおむね窓として構成されていた。佐佐木隆『古事記歌謡簡注』(おうふう、平成22年)脚注に、「敷居の所にいらっしゃった。家に入らず、入り口のすぐ外にいた、ということ。」(91頁)とあるが、機織りしている小屋へ入ったところで、相手の女性は機織りをしている。単調でありつつ熱心で手を休めない。どういう機構で織り上がっていくのか見ていても理解できず、近くにいても何をしたらいいのかわからないぐらい手持無沙汰になる(注17)
機織女(大安里1号墳壁画、高句麗時代、5世紀後半、고구려『고구려 고분벽화의 세계』전호태, 2004, 238p. 建物の中での作業に見える。)
高機(年中行事絵巻・鷹司本、福山敏男編『新修日本絵巻物全集第24巻 年中行事絵巻』角川書店、昭和53年、図版124頁)
奈良さらし(南都布さらし乃記、寛文元年(1661)、前田一郎氏蔵、奈良市史編集審議会『奈良市史 通史3』吉川弘文館、昭和63年、口絵6頁)
越後織布(蔀関月画・日本山海名産図会)
職人尽絵屏風(狩野吉信(1552~1640)筆、埼玉県川越市喜多院蔵、前田亮『続・図説手織機の研究[日本篇]』京都書院、平成8年、10頁。日本の4例、みな土間での作業と見受けられる。年中行事絵巻のみ、閾(蹴放ち)として描かれるが、残り3例は土台としてのみ見える。)
 儒教では、敷居を踏むことは道徳的に良くないことだから、天皇においてはあるまじきことと考えることもできないことはない(注18)。一方、藤澤友祥『古事記構造論―大和王朝の〈歴史〉―』(新典社、平成28年)には、「『古事記』における儒教思想の取り込みとその影響は、かなり表層的なものにとどまっているといえよう。そしてそれは、『古事記』が、儒教思想の影響を受ける以前の、より古く原型に近い伝承を重視していることの表れであると考えたい。」(157頁)とある。こういった議論は、この「閾」問題について適用するにはあまり有効ではない。そもそも天皇は、敷居を踏んでいるようには書かれていない。「閾に坐して」とあるから、敷居に座っている。山路平四郎『記紀歌謡評釈』(東京堂出版、昭和48年)に、「……万事が『鳥の妻争い』に仕立てられ、『殿戸(とのと)の閾(しきみ)の上に坐しき。』などというのは、人間としてよりもむしろ鳥としての説明である。」(160頁)と説明され、方が付いたように思われている。扉が開いていたのか閉まっていたのか、小さな鳥の話となるとどちらでも良いことになる。そのようなどちらでも良いような設定は、言葉を大切にした上代の人たちの流儀には合わない。言葉には言霊が宿るという考えでは、言=事であるからきちんと言葉を選ぶ。登場人物に鳥の名が冠されているから、鳥論理で描かれていても差し支えないようになっていると考えるべきところである。鳥の巣に、扉や引戸のあるものは勉強不足にして聞かない。鳥の「殿戸の閾」は鳥の巣の縁のことを指すことに当たり、そこに「坐」すように安定的にとまることは、水鳥のように蹼をつけたもの以外、可能である。サザキ(ミソサザイ)は上手に巣を造ることで知られる。
「閾(?)(土台)に坐す」(小松茂美編『日本の絵巻4 信貴山縁起』中央公論社、昭和62年、103頁)
 信貴山縁起の尼公は、糸作り作業中の土間の入口の敷居に座っている。道徳的な違和感も、鳥の様相もまったく感じられない。戸が開いているから、「坐」すことができている。また、古事記に「原初的な思想」なるものがあったのか、筆者には考えが及ばない。およそ思想というものは、文字によって起こされるほどの観念体系であろう。無文字文化における“思想”という捉え方は、論理矛盾を惹起している。宗教生活の原初形態を思想とは呼ばないと考える。経典を持たない宗教が、宗教としては、神道のように何となく居心地の悪いもの、ほとんど思想ではないようなものと思われるのはそのためである。
雲南旱タイ族の腰機(前田亮『続図解手織機の研究[日本篇]』京都書院、平成8年、8頁、新田恭子氏撮影)
 機屋に片扉が2つ離れてあることは、ハタヤという言葉をものの見事に語り尽くしている。これが観音扉である場合、それは、神社の本殿などに採用されて扉を合わせて閉めて海老錠をもって戸締りとした。対して、2つ離れて片扉がある必要は、どうして生れたのであろうか。筆者は、それが機殿(機屋)であるとするなら、機織りは明るくなければできないから明り取りを必要としてドアを開けて織っていたと考える。暑ければ屋外で行うことも考えられ、上の例のように、軒下に機が置かれて織られている例も見られる。終了したら雨風を防ぐためにロールアップスクリーンを下ろして覆いとしているらしい。インドでは、高床式の縁の下という例も見られる。中央アジアから中近東にかけては、雨の心配がほとんどないから完全に屋外で行われている。日本の古代においては、蔀戸をつけた機屋があったかわからない。戸しかないなら、いちばん明かり取り(注19)に都合が良いのは、妻を南に向けてその左右に戸を分けて設けることである。機(はた)の機構は優れていて、大切にしようという意識から、泥棒されない工夫であったのかもしれない。観音開きの大きな開口部の場合、鍵を壊して機をそのまま運び出す不届き者に対処しきれない。そんなこともあり、2つの出入口を左右に備えて明り取りにして、屋内で機織りが行われた。だから、「将(はた)戸が有るや、将戸が有るや」構造の建物、機殿(機屋)が造られていることとなっている。機は部材を持ちこんで、機屋のなかで組み立てられ、戸口から出せない大きさであった可能性もある。推古紀に、建物を建ててから仏像を入れようとしたら戸が狭くて入らなかったという記事がある。どういうテクニックを使ったかは記されていないが、うまいこと納めたという話になっている。なお、以上の2つ片開き扉の建物の用途については、筆者の“語学的”推測であり、考古学の考証によるものではない。また、機のうち、いちばん貴重なのは、繊細にスリットが作られた筬のような部品に限られるのかもしれない。泥棒学と鑑定団の判断に委ねたい。

 又仏像を造ること既に訖(をは)りて、堂(だう)に入るること得ず。諸の工人(たくみ)、計ること能はずして、将に堂の戸を破(こほ)たむとす。然るに汝(い)、戸を破たずして入るること得。(推古紀十四年五月条)

 「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」とある。和名抄に、「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大なり〈比波利(ひばり)〉といふ。楊氏漢語抄に鶬鶊〈倉庚二音、訓上に同じ〉と云ふ」とある。どうして話に雲雀(ひばり、ヒは甲類)が出て来るのか(注20)。女鳥王は、ハヤブサの♀になったと筆者は述べた。やっていたのは、機織りである。襲衣に仕立てるべく機織りをしていた。その際、手先で操るのはヒ(梭、杼)(ヒは甲類)である。特に幅広の生地を織っていたから、幅が狭くならないように安定させる伸子を使っていた。伸子は両端を張って広げる道具である。伸子針とも呼ばれる。だから、ヒバリ(雲雀)となる。洒落である。洒落がなくては聞く人も面白くないし、話す人も覚えられない。「雲雀は 天に翔る」は「高」、ないし、「高行くや」へと掛かっていく序詞とする従来の説で誤りはないと考える。前掲の新編全集本古事記頭注に、「ヒバリだって空を翔る、ましてや天空高く行くハヤブサは…と対比的にハヤブサを引き出す。」(301頁)とあるのは、考えすぎであろう。ヒバリとハヤブサを比べだしたら、焦点がぼけて肝心のサザキのオソシ点が霞んでくる。ヒバリダカ(雲雀鷹)という語もあり、6月頃、ヒバリの羽のはえかわる時に、ヒバリ専用に鷹狩をする鷹のことをいう。日葡辞書に「Fibaridaca」とある。また、ヒバリボネ(雲雀骨)という言い方も生れており、雲雀の脚のように細々した骨格を表わした。ハヤブサは和名抄に、鶻という字を使っている。骨張ったものつながりということであろう。幅が狭くならないように骨で張っているのが、伸子である。
伸子の挿入(下田敦子『無文字社会における染織技術の伝承―タイ北部山岳民族カレン人集落における16年間フィールドサーベイの記録から―』家政教育社、2015年、108頁)
整経と製織の経糸保持具の対応図(同上書、109頁)
織造図(金弘道筆、風俗図帖、李氏朝鮮時代、18世紀後半、『士農工商(사농공상)』의나라조선/구일회、유호선기획・편집―국립중앙박물관―、2010年、95頁。天秤腰機において、織幅の維持のため伸子を用いている。)
洗い張り(年中行事絵巻・京大本、福山敏男編『新修日本絵巻物全集第24巻 年中行事絵巻』角川書店、昭和53年、図版124頁)
 伸子(箴)は、主に、洗い張りの作業に用いられる。本ブログ「和名抄の文選「読」について 其の五」において、和名抄に、「叉 六韜に、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之(ひし)と読む。今案ずるに、簇は即ち鏃の字也〉は、両岐の鉄にして柄の長さ六尺なりと云ふ」とある点に、なぜヒシという訓みがあるのか、という考察から、字鏡集に「簇、シヒシ」とある伸子について論じた。竹製の伸子の両先端は、二股にわかれている。雲雀の脚の骨張りを連想させてくれる。また、機織りで最初に経糸をかける際など、糸のテンションを整えるために雲雀結び(注21)をして確かめていく。輪の中を糸が通るようにした結び方を雲雀結びと呼んでいる。機織りがうまくいくかどうかは、いかにきちんと引っ張り合っておけるかにかかっている。語源のことはもちろん不明であるが、引き張ることからヒキハリ→雲雀結びと呼ばれたのかもしれない。「引く」のヒは甲類である。ここで女鳥王が織っていたのは、襲衣用の、幅の広い厚地の布であった。幅が狭まらないように、織りあげていっている布を伸子で張っていたということを言っている。よって、スズメやセキレイ、ウグイス、メジロ、ムクドリなどではなく、ヒバリが登場している。そして、ハヤブサにはヒバリではなく、サザキを取って欲しいというのが眼目であろう。
 天皇が軍隊を興して殺そうと思った相手は、オソシと軽蔑していた女鳥王が主なのであるが、もはや夫婦一体である。共に逃げるに当たり、倉椅山(くらはしやま)に登っている。どうして倉椅山が出て来るのか。記69・70番歌とつづけて速総別王は歌っている。三句目途中まで同一である。「梯立(はしたて)の 倉椅山を 嶮(さが)し」とある。ハシタテノは「倉椅山」にかかる枕詞とされている。また、「嶮(さが)し」、地名「熊来(くまき)」にもかかるとされている。用例があって、かかり方はわからないが、枕詞であるとされている。このかかり方については、本ブログ「記紀の『諺』其の六」に詳述した。梯子を立てるのは高床式の建物の床へ渡るためではなく、屋根を工事してはじめて高床式の建物はできる。その屋根は、縦横にほとんど梯子状に組んだ木組みからなっている。その屋根のいちばん高いところこそが、クラというに似つかわしい。倉(くら)の鞍(くら)たる座(くら)のところである。だから、枕詞ハシタテノは、言葉上で屋根を意味する倉椅山にかかり、その屋根はとても急峻に造られるからサガシ(嶮)にかかり、屋根の骨組に同じ柵は獰猛な熊を捕まえたり檻にしたりするのに活躍するから、クマキ(熊来)にもかかるのである。
 そして、サガシという語は、同音に、サガシ(干・探)という語があり、やはり屋根の骨組上に組んだ梯子のようなところで、稲を干した。干すとは曝してしまうことで、中のものが見えるようになってくる。干して仕舞うのが倉の機能である。そこから、今日使う、探すという意味につながっている。その干という字は、干支と使う字である。日本書紀では、前田本に「友于」とある個所は、兼右本に「干支」となっている。他の校異個所からも、誤写ではなく、異本が当初から存在していたものと筆者は考えている。書紀集解に、「舒明天皇即位前紀に干支と作るは晋書芸術伝に戴洋曰く、干を君と為(し)、支を臣と為(す)。此に拠りて之れを考ふるに、兄弟に借して干支と称するのみといふ。未だ出る所を詳らかにせず。」とある。舒明前紀には、「吾、汝が言(こと)の非(よくもあらぬこと)を知れども、干支(このかみおとと)の義(ことわり)を以て、害(やぶ)ること得ず。」とある。兄弟のことである。もともと、干は幹、支は枝を示す。考証済みのことで、枕詞との関係だけわかっていなかった。天皇と女鳥王と速総別王とは、みな兄弟姉妹の間柄、つまり、木で言えば幹と枝、つまり、干支である。その間の揉め事の話だから、ハシタテノという枕詞が出て来て、倉椅山だの、サガシだのと言っている。いちばん上のお兄ちゃんが怒りだしちゃったから、「逃げ退(そ)く」しか方法はない。腕力ではかなわないのである。最近は子どもの数が減って、一人っ子などでは兄弟喧嘩の感覚はわからないかもしれない。下の子は上の子、わけてもいちばん上の子のことを内心、馬鹿にしている。上の子を見て育って行っているから、いちばん上の子が鈍くさいことを百も承知している。そうならないようにと反面教師にできる。いちばん上の子は先例がないから、わからずに建前を振りかざすしかない。現在でも、いちばん上の子同士で男女が一緒になると、うまくいくことが多いと聞く。ともに建前で生きている。建前という言葉は、高床式の建物を建てる前、つまり、設計図を当てにしているということである。下の子は、高床式の建物の現物を見て知っているから、いちばん上の子のやっていることはまどろっこしくて馬鹿馬鹿しくなる。そういった事情をよくよく詰め込んだのが、この女鳥王のお話である。ウーマンリブの話でも、愛の讃歌でもない(注22)
 「退(そ)く」のソは乙類である。ソ(背)と同根の語とされる。オソシ(遅、鈍)やオソヒ(襲衣)、オソル(恐)のソも乙類であった。背の高い高床式の建物の屋根のことが念頭にあるのであろう。手を取ったり、一緒に登るから恐いものはないと言っているが、「其地(そこ)より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、御軍追ひ到りて殺しき。」と終っている。ソコ(其地)のソ、地名のソニ(蘇邇)のソ、いずれも乙類である。背の高いのは、いちばん上のお兄ちゃんである。鳥の名つながりの地名でありつつ、ソ(乙類)つながりの音が求められていたようである。
 山路平四郎『記紀歌謡の世界』(笠間書院、1994年)に、「女鳥がどういう鳥の雌かは勿論明らかではないが、『女鳥王』の落ちてゆく先が『蘇迩』であるところからすると、背中や尾が青色で美しく、足の赤い『蘇迩杼理(そにどり)』(翡翠(かはせみ))の雌の面影を、女鳥王の上に感じていたのかも知れない。」(363頁)とある。それは勘違いであるが、山路先生は、『記紀歌謡評釈』(前掲書)に、「宇陀(うだ)の蘇邇(そに)」について、「『書紀』では、ここを逃れて、伊勢の蔣代野(こもしろの)で討たれたことになっている。ウダの野は狩猟の地……であり、ソニは鴗鳥(そにとり)……、コモは獲物を裹む薦(こも)……でいずれも物語に縁を求めての地名であったかも知れない。」(163頁)と指摘されている。前掲書は昭和52年初出なので、駄洒落を説くのが恥ずかしく気弱になられたご様子である。けれども、古事記は、駄洒落である。女鳥王に鴗鳥、つまり、カワセミを感じたのではなく、速総別王ともどもカワセミと化した、という筋になっている。
カワセミ(上野動物園)
 記上に、「翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為(し)」、新撰字鏡に、「△(生偏に鳥) 曽尓(そに)」とある。カワセミのことを指す古語であるが、変な名前である。ソニというのなら、ソ(背)はニ(丹)であって背中は赤いはずである。脚は赤い(アシニ)が、どう見ても背は青く輝いている。何を間違えたのか。ハヤブサがヒバリを捕まえる鷹狩は行われるが、サザキ(ミソサザイ)を捕まえる鷹狩は知られない。人里近くにいるスズメなら捕まえさせることはあるが、小さな鳥は霞網を用いて捕らえれば事足りる。鷹狩の獲物は、通例では、鳥類では、ツルやガン、ハクチョウ、カモ、キジ、ウズラなど、哺乳類では、ノウサギやリス、キツネなどである。わざわざ飼育して捕らえるのだから、ふだんは捕れない大きな獲物を狙うのが醍醐味である。それに、草の枝葉の間を飛んでいるサザキを捕ることは、逆に難しいのではないか。ハヤブサがカワセミの舞うようなステージにあがったら、狩りができなくなったということである。ちなみに、鷹狩に使うタカは短距離向きで、木の多いところでも使えるが、ハヤブサは比較的長距離に使えるが、木の少ないところに適するとされている。どうやら、速総別王なるハヤブサは、長い旅路の鷹狩に使われたはいいが、草の茂みに翼をとられて動けなくなったらしい。結果立場が逆転し、サザキによって退治されることとなったという話にしてある。
 以上が女鳥王のお話である。皇統譜に女鳥王や速総別王の母親が豪族出身者であることから、氏族伝承が組み込まれたのであるかのように説く論者がおられる。けれども、それがどうして、天皇家の3人の兄弟姉妹の喧嘩のことへと発展しているのか、了解できる説明はなされない。歴史学では顧慮すべき事柄かも知れないが、話の内容には関わりがない。記紀のお話は継ぎはぎだらけのパッチワークに見える。ただ、その語り口には一貫性が備わっている。仮に、氏族の祖先伝承がまとめられることがあったとして、余所の家のことなど一度ならずとも聞かされてはかなわない。ましてや、それをまるごと全部覚えるようにと言われて覚えることなど、お勉強屋さんは別としてあり得ないのではなかろうか。新撰姓氏録を覚えていて、科挙の試験問題に出るのであろうか。何の得があるのか。江戸時代の武鑑でも、諳んずるのではなく刊行されたものを閲覧していた。
 上に解いたように、すべてとてもおもしろい洒落である。姓は稗田、名は阿礼、よくぞ伝えてくれたといえる機知に富んだお話(咄・噺・譚)である。わずかに320字ほどの本文からの後講釈で、古代天皇制の反逆物語だの、律令時代の儒教倫理だの、女性の社会的な発言だのと取ってつけて論じても、梯子を外されたら困るのではないか。鈍くさいとか言ってしまった兄弟喧嘩を鳥の話に仕立てて、背比べさせてみただけのことである。それがいわゆる“史実”をもとにしたものかどうなのかは、歴史学に委ねたい。筆者は、きっと古墳時代に天皇家の兄弟姉妹の間でそういうことがあったと思う。しかし、検証できそうもない話に仕立てられてしまっている。なぜそのように諧謔に走ったか。簡単である。歴史とは history、文字で書記してはじめてできるもの、ヘロドトスや司馬遷を見ればわかる。無文字の時代にどうやって残すか、どうやって伝えるか。口伝えに伝えるしかない。その際、どういうことなら覚えられるか、その唯一の手段は、story、お話(咄・噺・譚)である。洒落を数珠つなぎにつなぎあわせて最後に落ちを持ってくる。自然と覚えられて伝えられる。すべてのはじめに言葉がある。言葉という、意味の塗り込められた代物を伝えること、それが無文字文化のほとんど唯一の伝承手法であった。
(つづく)
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女鳥王物語 其の一(パタパタ機(はた)とパタパタ扉、天皇オソ!)

2017年01月04日 | 論文
 仁徳天皇時代の話として、女鳥王(雌鳥皇女)と速総別王(隼別皇子)が天皇との確執の末に敗れる話が残されている。

 亦、天皇、其の弟(おと)速総別王(はやぶさわけのみこ)を以て媒(なかたち)と為(し)て、庶妹(ままいも)女鳥王(めとりのみこ)を乞ひき。爾(しか)くして女鳥王、速総別王に語りて曰く、「大后(おほきさき)の強(おず)きに因りて、八田若郎女(やたのわかいらつめ)を治め賜はず。故(かれ)、仕へ奉らずと思ふ。吾は汝(な)が命(みこと)の妻(め)と為(な)らむ」といひて、即ち相婚(あ)ひき。是を以て、速総別王、復奏(かへりことまを)さず。爾くして、天皇、直(ただ)に女鳥王の坐(いま)す所に幸(いでま)して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。是に、女鳥王、機(はた)に坐して服(はた)織れり。爾くして、天皇、歌ひて曰はく、
 女鳥の 我が大君の 織ろす服(はた) 誰(た)がたねろかも(記66)
女鳥王、答へて歌ひて曰く、
 高行くや 速総別の 御襲衣(みおすひ)料(がね)(記67)
故、天皇、其の情(こころ)を知りて、宮に還り入りき。此の時に、其の夫(を)速総別王の到来(きた)れる時に、其の妻、女鳥王の歌ひて曰く、
 雲雀(ひばり)は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 雀(さざき)取らさね(記68)
天皇、此の歌を聞きて、即ち軍(いくさ)を興し、殺さむと欲(おもほ)す。爾くして、速総別王・女鳥王、共に逃げ退(そ)きて、倉椅山(くらはしやま)に騰(のぼ)りき。是に、速総別王の歌ひて曰く、
 梯立(はしたて)の 倉椅山を 嶮(さが)しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも(記69)
又、歌ひて曰く、
 梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹(いも)と登れば 嶮しくもあらず(記70)
故、其地(そこ)より逃げ亡(う)せて、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、御軍(みいくさ)、追ひ到りて殺しき。(仁徳記)

 日本書紀では、少し言い回しが異なっているが、本筋に変わりはない(注1)

 四十年春二月、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を納(い)れて妃(みめ)に為(せ)むと欲(おもほ)して、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を以て媒(なかだち)としたまふ。時に隼別皇子、密(ひそか)に親ら娶りて、久(ひさ)に復命(かへりごとまを)さず。是に、天皇、夫(をうと)有ることを知りたまはずして、親ら雌鳥皇女の殿(よどの)に臨(いでま)す。時に皇女の為に織縑(はたお)る女人等(をみなども)、歌(うたよみ)して曰く、
 ひさかたの 天金機(あめかなばた) 雌鳥が 織る金機 隼別の 御襲衣料(紀59)
爰に天皇、隼別皇子の密に婚(たは)けたることを知りたまひて、恨みたまふ。然るに皇后(きさき)の言(こと)に重(はばか)り、亦、干支(このかみおとと)の義(ことわり)に敦くまして、忍びて罪せず。俄(しばらく)ありて隼別皇子、皇女の膝に枕して臥せり。乃ち語りて日く、「鷦鷯(さざき)と隼と孰(いづれ)か捷(と)き」といふ。日く、「隼は捷し」といふ。乃ち皇子の日く、「是、我が先(さきだ)てる所なり」といふ。天皇、是の言を聞しめして、更に亦、恨(うらみ)を起したまふ。時に隼別皇子の舎人等、歌して日く、
 隼は 天に上(のぼ)り 飛び翔り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね(紀60)
天皇、是の歌を聞しめして、勃然(はなはだ)大きに怒りて日く、「朕(われ)、私(わたくし)の恨を以て、親(はらから)を失はまほしみせず、忍びてなり。何ぞ舋(きず)ますとして私の事をもて社稷(くに)に及さむ」とのたまひて、則ち隼別皇子を殺さむと欲す。時に皇子、雌鳥皇女を率(ゐ)て、伊勢神宮に納(まゐ)らむと欲ひて馳す。是に、天皇、隼別皇子、逃走(に)げたりと聞しめして、即ち吉備品遅部雄鯽(きびのほむちべのをふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりまのさへきのあたひあがのこ)を遣して曰(のたま)はく、「追ひて逮(し)かむ所に即ち殺せ」とのたまふ。爰に皇后(きさき)、奏言(まを)したまはく、「雌鳥皇女、寔(まこと)に重き罪に当れり。然れども其の殺さむ日に、皇女の身を露(あらは)にせまほしみせず」とまをしたまふ。乃ち因りて雄鯽等に勅したまはく、「皇女の齎(も)たる足玉手玉をな取りそ」とのたまふ。雄鯽等、追ひて菟田(うだ)に至りて、素珥山(そにのやま)に迫む。時に草の中に隠れて、僅(わづか)に兔(まぬか)るること得。急(すみやか)に走(に)げて山を越ゆ。是に、皇子、歌(うたよみ)して曰く、
 梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆(やすむしろ)かも(紀61)
爰に雄鯽等、兔れぬることを知りて、急に伊勢の蔣代野(こもしろのの)に追ひ及(し)きて殺しつ。(仁徳紀四十年二月条)

 本稿では、古事記のお話について中心に考える。女鳥王が天皇ではなく速総別王と結婚し、歌を歌ったら天皇は軍隊を動員して殺害しようとしてきたのでともに逃げ、追いつかれてあえなく殺されるまでの一連のお話である。実際、それしか書かれていない。今日の人の先入観を排して、言い伝えられたお話を、文字がわからないから聞くしかなかった当時の人々に、どのように映っていたかを明らかにする。古事記を、“文学(?)作品”や、古代国家による王権制のプロパガンダとは考えない。
 お話として聞いた時、女鳥王は、いくら多妻制が当たり前で、天皇の妻になれると言っても、元からいる奥さんが嫉妬深いから嫌だと言って仲人として来た隼別王と結婚した。女好きの大雀王(仁徳天皇)が嫌なのか、皇后の石之日売命(いはのひめのみこと)が嫌なのか、さて、二股、三股でも平気な人は平気であるし、嫌な人は嫌であるし、個々の判断に委ねられよう。そういう痴話話が書いてあるかと言えば、そうではない。頓智話(咄・噺・譚)が書いてある。
 言い伝えの話(story)はそれ自体が歴史(history)ではない。面白話でなければ、話として伝わるものではない。覚えられないからである。誰が覚えられないかという点に注意して頂きたいが、暗記の得意な“お勉強屋さん”に限られるのではない。稗田阿礼はよく覚えていたが、勉強が得意で科挙に合格して出世した人ではない。言い伝えをよく諳んじていただけで、おそらく字は書けなかった。また、未だヤマトコトバを漢字で書く方便を得ていなかったから、太安万侶が工夫して書いている。それでも、広く知られていた言い伝えをよく諳んじていた。広く知られなければ、少なくともヤマト朝廷に関係のあるほとんどすべての人々の共通認識にならなければ、そもそも話を伝える意味がない。話を人々が共有してはじめて無文字社会は成り立つ。この“世界”は何か。みなが知っている言い伝えがその存立を意味づけるものである。もちろん、出入りの業者も知らなければ、話を合わさなければ、買ってくれるものも買ってはくれない。今も同じである。現代の文字社会は、法律を知らなかったでは通らないとされる。識字率がほぼ100%だから可能なのである。今日の“世界”は、文字とスマホでできている。文字とスマホ情報で検証されることが、“常識”として社会は成り立っている。
 上代文学や古代史の研究者の手にかかると、不思議な方向へ議論が統制されてしまう。女鳥王(雌鳥皇女)は速総別王(隼別皇子)を天皇にしようと謀反を企てたとか、サザキ、ハヤブサとあったら「女鳥王」は何の鳥を表わしているかとか、古事記の女鳥王の話の原文にして漢字320字ほどが、天皇家との関わりのなかでの氏族の出自の話であるとか、王権論理への抵抗や女性の個我の発露であるとか、日本書紀の「鷦鷯」という表記は漢籍から学んだのだから陰陽五行思想と関係して筋立てされているとか、際限なく議論が組み立てられている。お勉強屋さんの“科目”にされては、無文字文化の“話(咄・噺・譚)”も堪ったものではない。解説書や論文には目に余るものがある(注2)
 記紀に、女鳥王の、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀(さざき)取らさね」(記68)、隼別王の舎人の、「隼は 天に上り 飛び翔り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね」(紀60)という「歌」を天皇が聞いて、二人を殺そうとしている。仁徳記では軍隊を興し、仁徳紀では軍隊ではなく刺客を送っている。女鳥王(雌鳥皇女)、速総別王(隼別皇子)側に謀反の動きは記されていない。天皇がひとり怒って殺しにかかっている。そう記されているのだから、そう捉えなくてはいけない。本当に謀反をおこそうと兵士を募ったりしていたのか。女鳥王(雌鳥皇女)は機を織っているし、速総別王(隼別皇子)は媒酌人のお使いにさせられるほど天皇の“舎人”化している。二人とも、いわば部屋住みの身分である(注3)。虚心坦懐にお話を聞かないと面白いものも面白くなくなる。
 荻原千鶴『日本古代の神話と文学』(塙書房、1998年)に、「『女鳥王』の名は雌の鳥を表示するのみで、どういう鳥なのか具体性を欠く。これは説話の世界では奇妙であり、もし鳥をめぐる原話が存在したのなら、その中でメドリも何らかの鳥を表象したはずである。『日本書紀』天武五年四月条の、
 雌鶏、雄に化れり。
については、古典文学大系本をはじめ『雌鶏』に『メトリ』の訓を採用する。」(198頁)という点を踏まえられたうえで、種々の用例を検討されている。そして出た結論としては、「女鳥王の原像としてのメドリは雌雉であったと考える。鷹狩に用いる鷹・隼は、雄より雌が適するといわれるが、説話上はその精悍さが勇猛な男性を、射ること捕えることが結婚を連想させ、雌雉と隼の婚姻説話が生まれたのではないかと思われる。『雌鳥皇女』の表記は応神紀に一回、仁徳紀に五回登場するが、……『新撰字鏡』(天治本)に『鴜〈雉乃女鳥〉◆(此偏に鳥の此字の匕部分が上)〈上同〉』とあり、『◆』が雌雉を表しているのは興味深く、九世紀末葉に『雉乃女鳥(メトリ)』といった言い方が存したことも同時に注意される。」(201頁)ということに落ち着いている。
 仁徳天皇の名、大雀命(大鷦鷯天皇)(おほさざきのみこと)のサザキについては、新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦加也、久支(くき)、又佐々岐(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)〉は小鳥也、蒿莱の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ」とある。現在いうミソサザイのこととされる。他方、速総別王(隼別皇子)(はやぶさわけのみこ)のハヤブサは、現在いうハヤブサである。和名抄には、「鶻 斐務齊切韻に云はく、鶻〈音骨、波夜布佐(はやぶさ)〉は鷹属也、隼〈音笋、和名上に同じ〉鷙鳥也、大なるは祝鳩と名づくといふ」とある。では、女鳥王の女鳥の鳥の種類は何であろうか。話は、どちらの妻になるかということである。当たり前のことだが、サザキの♂、ハヤブサの♂と番いになれるのは、それぞれサザキの♀、ハヤブサの♀である。ニワトリやキジの♀のはずがない。いくら“お話”であるといっても、自然の摂理に反した設定はされるはずがない(注4)。ラバやレオポンの話ではない。女鳥(王)が何の鳥かという設問は、およそナンセンスなのである。何の種類かわからないが鳥の♀であることを示すから、「女鳥王」となっている。それでどうしたかといえば、女鳥王は、サザキの♀にはならずに、ハヤブサの♀になることを選んだ、そういうお話であろう。とてもわかりやすいと思う。
「隼のハンティング.mpg」
「ミソサザイの鳴き声(日本でいちばん小さな野鳥の鳴き声です)」
 荻原先生は、天武紀のメトリという訓を紹介されている。ならば、「女鳥(王)」はメドリではなくメトリかもしれない。清音の可能性である。女鳥(王)の訓みが、メトリと清音で訓まれれば、なるほど「娶(めと)り」の話であると納得されよう。名義抄に、「娶 メトル」とある。「娶り」とは、妻(め)取りの意であるとされる。トリ(取)のトは甲乙両方あり、トリ(鳥)のトは乙類である。記66番歌の「売杼理」の「杼」の字は、通常ド(乙類)と濁音であるが、「明かして通(とほ)れ(阿加斯弖杼富礼)」(記86)、「言挙げせずとも(許登安氣世受杼母)」(万4124)といった用例がある。乙類のト・ドの両方に当てられたとして解釈し直した方が、適切ではないかと思うが、詳しくは音韻論者に委ねたい(注5)。世の中は澄むと濁るの違いにてという洒落もある。なお、紀59番歌の「謎廼利」はメドリ(ドは乙類)と濁音で訓まれている。いずれにせよ、娶りの話だから、メトリ、ないし、メドリという名前に仕立ててある。笑えるではないか。鳥の種類を言い立てていてはぶち壊しである。
 最初に天皇は、自分の奥さんになってくれないかと、女鳥王にお伺いを立てたとき、異母弟の速総別王を媒(なかたち)(注6)として使いを寄こしてきた。異母妹に対して、自分で求婚に来ないで、弟を媒酌人として立ててくる。叔父さんぐらいを媒酌人として使いに寄こすならともかく、年下の弟を寄こすなど、恥ずかしくないのだろうか。女鳥王は、「大后の強(おず)きに因りて、八田若郎女を治め賜はず」などと理由をつけて断ることをした。古訓の「強(おず)き」は「強(おず)し」という形容詞で、殺伐なほど気の強い様を表わす(注7)。当然、大后の気が絶対的に強いということだけでなく、力関係として、天皇の気が相対的に弱いということを物語っている。継妹の自分に、直接、告ることができない気弱な男など、こちらから願い下げということである。古語拾遺に、「天鈿女命(あめのうずめのみこと)〔古語に、天乃於須女(あめのおずめ)といふ。其の神、強(おず)く悍(あら)く猛く固し。故、以て名と為(す)。今の俗(よ)に、強き女を於須志(おずし)と謂ふは、此の縁なり〕」とある。オズシはまた、オゾシともいう。いま、オゾマシイという形にも展開した。そのオゾシは、人に対して畏怖と嫌悪の思いを持たせるような性格などをいう。とともに、オソシ(遅・鈍、ソは乙類)という形容詞の、頭の働きが鈍いこと、気づくのが遅いこと、愚かなことを表す用法にも通用した。オゾシに上代の文献的用例は見られず、ゾの甲乙を決め難いが、通用していたことから考えて、乙類であろう。つまり、女鳥王は、そもそもからして、天皇が、自分の腹違いとはいえ妹に対して、おっかなびっくり弟を介してしか話ができないような、気の強い皇后にたじたじになって縮みあがっている男に対して、嫌になっているのである。だから、後で何を言って来たってそれはもう、オソシ(遅)であり、言ってくるようなことがあったら、それはもう、オソシ(鈍)なのである。というわけで、それを一気呵成に進めてしまったのが、速総別王と一緒になることであった。だから、総別王と書いてある。わかりやすいように、太安万侶は工夫してくれている。
 時間の進むのが、天皇は遅くて、女鳥王は速い。まどろっこしいことしないでちょうだい。で、速総別王と結婚している。周回遅れで天皇は女鳥王のもとへやって来る。「天皇、直(ただ)に女鳥王の坐す所に幸して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。是に、女鳥王、機(はた)に坐して服(はた)織れり」という状況である。男として、本当にアンポンタンなのであろう。タダニ(直)というのは、直接来たということではあるが、だったら最初からそうすればいい。このタダニは、何の思案もせずに、阿呆面さげて、という意味にとれる。呆れてものも言えない相手だと思ったであろう。その天皇は歌いかけてくる。「女鳥の 我が大君の 織ろす服(はた) 誰(た)が料(たね)ろかも」(記66)。山路平四郎『記紀歌謡の世界』(笠間書院、1994年)には、「『女鳥の 我が王』とあるのは天皇の歌として相応しいものではない」(363頁)とある(注8)。女鳥王のことを「我が王(おほきみ)」とあげ奉るのは天皇位として相応しくないというご意見であろう。対して、身崎壽「ウタとともにカタル―女鳥王物語論―」『萬葉集研究 第二十九集』(塙書房、平成19年)には、「天皇の『妻問ひ』における低姿勢?ぶりをよみとっておく……。……ここもふくめて、このモノガタリには全体として、天皇を戯画的にえがいているふしがみえなくもない。……メドリに対する天皇のひかえめというか、したでにでて、あいての意をむかえようとする姿勢をよくうつしだす効果をになっているだろう。感覚的なものいいになることはいなめないが、ここは、天皇の、この『妻問ひ』における卑屈なまでの求愛の態度([本居宣長・古事記伝にいう]『親しみかしづきて』)と、メドリの堂々とした拒否の態度との対照がめだつ、ということになるのではないか。」(89~90頁)ともある(注9)。筆者は身崎先生のご意見のほうに近いが、はっきりさせておきたいことがある。事は、男女の仲の次元である。必ずしも身分は関係しない。“殿のお手がついた”場合も、逃げられたり、逆に刺し殺されたりする場合もある。地位や名誉や金ですべて何とかなる思ったら大間違いである。ふつうに人生経験をされたらわかることである。
 古事記では、はじめから、鈍な男を語るために、そういう歌い方に仕立てられている。見事な台詞づけである。あなた様が織っていらっしゃるハタ(服)は、どなたのためのものですか? 呆れるではないか。うすのろ間抜け。「高行くや 速総別の 御襲衣料」。この歌について、通説化している解釈として、小学館の新編古典文学全集本古事記頭注に、「速総別王の襲衣を織っているのだ答えるのは結婚したことを明らかにするもの。そこには天皇への反発と、挑発的な語気がある。」(300頁)とされている。そうなのであるが、この挑発的な語気は、馬鹿にしているのである。あんたはずいぶん鈍感ね! 天皇の問い掛けの言葉に、機織りで織られた布帛を指すハタという言葉が使われている(注10)。天皇の、「誰が料(たね)ろかも」に対して、女鳥王は、「速総別の 襲衣(おすひ)料(がね)」と畳みかけ返している(注11)。「速総別の料(たね)」という答えではない。タネ(料)はもと「種」と同じ語、ガネ(料)は、もと「兼」に由来する語である。「種」はまだ芽が出ていないが、「兼」はすでに予定されたことを示す語である。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「国語の『かぬ』には合せる意と予測の意とがある。〔万葉〕『豫▲(兼の旧字体)而知者』〔九四八〕は『豫(あらかじ)め▲(か)ねて知りせば』とよみ、ことを予知する意である。」(239頁)という的の星を射た用例をあげられている。もう行き先は決まっているの。あなたのではないの。ほとんど終わりにさしかかっているでしょ。見ればわかるじゃない。ふつうとは少し違う織り上がりでしょ。スケベ根性丸出しの人の肌着じゃないのよ、ということである。本当にオソシと思うから、仕上げる衣服の名も、襲衣(おそひ、ソは乙類)なのである。襲衣は、旅や神事に使う、衣服の上から被り着る上着のことである。お坊さんの使う袈裟に頭巾までつけたような纏い方をするもののようである。
 延喜式・神宮太神宮式の太神宮装束に、「帛意須比(おすひ)八條〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。広さが「二幅」とあるのは、織物として機織り機で織り上げた布を2つ、倍の幅につなげていることを表すのであろうか。長さが二丈五尺とあるから、それだけ縫いあわせたということか。上着だから厚地の生地で、幅も広く、機織りに相当な時間がかかった。機織りしていた数か月間、もうとっくに速総別王とラブラブにしているのに、今頃になって天皇は現われて、誰のために機織りをしているのかと宣った。ばかばかしくなる。オソシ(遅・鈍)→襲衣である。どんだけー、っていうぐらい長時間の骨の折れる機織り仕事であった(注12)。うまい道具仕立てである。日本書紀では、この衣服のことに焦点を当て、用途が旅と神事にあることから、伊勢神宮へ逃げることにしている。小道具から筋立てを決めていっている。神事用の「襲衣」を伊勢神宮に奉納して、天皇に言い訳して許してもらおうと思ったということらしい(注13)。もちろん、“話”としてのことである。
 さて、それに対して、天皇は還っていく。「故、天皇、其の情(こころ)を知りて、宮に還り入りき。」そのとき、「其の夫、速総別王の到来(きた)れる時に、其の妻、女鳥王の歌ひて曰く、雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」。そう歌うと、天皇は、この歌を聞いて、すぐに軍隊を興して殺そうと思ったと書いてある。どうして「宮に還り入りき」と書いてあるのに「此の歌を聞きて」とあるのか。それは、天皇が、すべてにおいて、オソシ(遅)だからである。お還りになって宮に入られていたと思ったら、まだ、そこいらをうろうろとしていたということであろう。
 天皇がぐずぐずしているとも知らずに女鳥王のところへ速総別王が「到来」した。原文に、「此時、其夫速総別王到来之時、其妻女鳥王歌曰」とある。前掲の新編全集本頭注に、「『時に』が重なるのは異例の構文となる。『到来之』の『之』は文末助辞とみ」(301頁)る解釈をして落ち着かせているが、そうではなく、「時」が俎上に上がっている。オソシ(遅)というのは、時計の針は人によって進み方が違うことを言う言葉である。二つのものを比較する際には、前を基準にして後のものをいうのがオソシ(遅)であり、反対に前のものはハヤシ(速)やトシ(疾・捷)である。日本書紀では、「乃ち語りて日く、『鷦鷯と隼と孰か捷(と)き』といふ。日く、『隼は捷し』といふ。乃ち皇子の日く、『是、我が先(さきだ)てる所なり』といふ」と説明されている。つまり、女鳥王や速総別王タイムでは、あるいは、それがふつうの時間の進み方のように記されているが、天皇はもう宮入りしているはずなのに、まだ残っていたから、「時」がダブって書かれており、歌を天皇に聞かれてしまったことを教えてくれる。太安万侶の書き方はうまい。
 実際に、「時」がダブることはないのではないかとお考えの方もおられるであろう。天皇が還った「時」と速総別王が到来した「時」とが同じだったら、出入口で鉢合わせになるではないか、というご尤もな疑問である。古代の無文字文化のなかに暮らしていた人なら、具体的にあり得ない話は作らないのではないか。まさに正論である。けれども、それは、女鳥王が機織りをしている機殿(機屋)の出入口が1つであったという前提での考えである。2つであったなら、天皇の出て行った口と、速総別王が入ってきた口とが異なり、出くわすことはない。そういう建物があったことは、考古学から検証されている。
 浅川滋男『建築考古学の実証と復元研究』(同成社、2013年)に、「戸口の復元は、これまで高床倉庫で試みられてきたが、平地土間式の大型建物では高床式倉庫の戸口を採用するのが難しく、一般的には突き上げ戸や外し戸などを用いた復元が少なくない。しかし、今回[青谷上寺地遺跡]は幸運にも角柱と戸口の材に恵まれ、本格的な片開戸を復元することができた。」、「青谷上寺地遺跡の蹴放(もしくは楣)は、必ずしも完全な姿をとどめているわけではない。しかし、両端の角柱にはめ込む仕口を備え、扉板両脇の方立を納める决(しゃくり)溝や扉の軸受穴も確認できる。この蹴放(もしくは楣)が角柱と複合しているのはあきらかであり、……蹴放(もしくは楣)の正面側には、同心円状の模様が刻みこまれている。」(70頁)とある。
山陰土着型「長棟建物」の復元全景パース(71頁)
妻側立面図(71頁)
青谷上寺地遺跡・杉板葺大型建物復元 部材対応図(72頁)
 建物の妻の部分になぜかは知らないが、2つの片開きドアがついている。2世帯住宅で真ん中に仕切りとなる壁があるわけではない。内部はワンルームである。復元モデルでは、3.84m×8.12mと広いから、今考えている機殿(機屋)そのものとは俄かには思われないかもしれない。けれども、その他の製糸や織物関連の道具(紡錘車や桛)や材料(麻、苧麻、巻子)が保管されていたとも考えられる。また、棟の短いものでもあれば、十分に機能していたと思われる。なぜなら、建物の「妻」に開き戸となる扉が2つついている。開き戸は、パタパタと開け閉めする。機はハタである。パタパタ織っているからハタという。古代の音韻では、ハタは pata に近いものがあるとされている。高機は古代東アジア世界において、中国を起源として伝わったものである。中国で機(キ)と呼ばれていたものが、ヤマトコトバにハタと言っている。文字がないのだから、これは何ですかと隣村の人に聞かれた時、キですと答えてもそれでは相手には意味が分からない。パタパタして織るものだからハタというのだよ、と新語を造って答えたのではないか。むろん、言葉の語源はわからないし、他の説もある。筆者は、語源説としてよりも、この女鳥王の話において、ハタという言葉をそのように捉えていたという仮説を立てている。
(つづく)
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記紀の「諺」 其の七「神の神庫も樹梯の随に」(はしご論序説 其の四)

2016年12月29日 | 論文
(承前)
(注1)記紀には、ざっと見たところ、「天つ神の御所(みもと)」(記上)、「天照大御神の営田(つくりた)」(記上)、「日神(ひのかみ)の田(みた)」(神代紀第七段一書第三)、「大屋毘古神(おほやびこのかみ)の御所(みもと)」(記上)、「天照大御神・高木神の御所」(記上)、「綿津見神(わたつみのかみ)の宮」(記上)、「海神(わたつみ)の宮」(神代紀第十段本文)、「伊勢大神(いせのおほかみ)の宮」(崇神記)、「諸神の社」(垂仁紀二十七年八月条)、「神の宮」(斉明紀五年是歳条)とある。万葉集でも、「神の宮」(万1740)、「神の社」(万404・558・2660・2662・4011)、「神山」(万2178)、「神岳(かみをか)の山」(万159・1678)、「神宮(かむみや)」(万199)などとある。
(注2)「工匠(たくみ)」の記述は、雄略紀十二年十月条に、「天皇、木工(こだくみ)闘鶏御田(つけのみた)……に命(みことおほ)せて、始めて楼閣(たかどの)を起(つく)りたまふ。是に、御田、楼(たかどの)に登りて、四面(よも)に疾走(はし)ること、飛び行くが若きこと有り。」とある。にある。この記事を表面的に読むと、今日、遺跡に復元されている弥生時代や縄文時代の高殿は何であるか、疑問が浮かぶであろう。筆者は、工匠の登場とは、専門職として仕口をきれいに鑿で穿り、梁や束を伴った建築技法が確立したことを表すと考えている。ロープで棟木や軒などの部材を結わいていただけの場合、楼上で疾走することはできなかったと思われる。大中姫命が怖がっていた棟木の不安定さがなくなったということであろう。
(注3)川添登『伊勢神宮―木と水の建築―』(筑摩書房、2010年)に、「伊勢神宮では妻がころんでいないから、棟持柱の必要はなさそうであるが、そうとばかりはいえない。試みに厚紙を二つに折って屋根型にふせ、上から力を加えると、紙は左右にひらいていくであろう。つまり屋根の重みは、妻側から見た場合、柱や壁体を左右に開く方向に力をあたえる。そこで屋根を棟持柱で支えるとともに、左右の柱に梁をわたして互いに引っぱり合わせてつなぎとめておく必要があるが、この梁は、引っぱり材であるから、一本の通ったものでなければならない。平安時代になると、柱を水平材が貫通する貫(ぬき)の構法が開発されたが、奈良朝以前は、それはなかった。したがって棟持柱と梁とを同一平面におくことが出来なかった。」(79~80頁)と、伊勢神宮の建物を中心に据えて建造物の構法をお考えになっている。「棟持柱は米倉の名残り」であるとされるのはそのとおりであろうが、埴輪に見ると切妻屋根、入母屋屋根、寄棟屋根、片流屋根といろいろある。そのなかで神明造は切妻屋根のものを採用したに過ぎず、その切妻高床式倉庫の屋根が棟持柱によって支えられていたのを、後から梁に束を立てて棟木を支えるようにしたということによって“名残り”となったといえるのではないだろうか。
(注4)兼右本には、神武前紀、天武紀三年八月条はホクラと傍訓があるが、垂仁紀八十八年七月条の「神府」にはミクラとある。それらが必ずホクラと訓まれたかどうか、すなわち、ホクラというヤマトコトバに漢字をあてがったものかどうかはわからない。
(注5)和名抄に、「梁 唐韻に云はく、梁〈音良、宇都波利(うつはり)〉は棟梁也といふ。尓雅注に云はく、杗廇〈亡霤二音〉は大梁也といふ。」、「梲 尓雅に云はく、梁の上の柱、之れを梁〈音拙、和名宇太知(うだち)、楊氏は蜀柱と云ふ〉と謂ふといふ。孫焱曰く、梁の上の柱は侏儒也といふ。」、また、新撰字鏡に、「枘 宇太知(うだち)、又宇豆波利(うつはり)」とある。新撰字鏡の、枘、梲、梁を一緒くたにした記述は、鑿をもって枘穴を抉り、梁や束柱をすえて梲を作ったことが新しいことであったからかもしれない。「卯建が上がらない」という慣用句は、もともと、富の象徴として、妻壁を屋根の高さより一段高くしたことに発するとされ、のち、瓦や土壁で塗り固めるようになって防火壁の機能を持つようになったと言われている。ところが、埴輪に卯建形のものが見られつつ、古字書の解説が不分明なところからは、棟持柱で屋根を吊る方式から、梁の上に立てた束柱で支える方式へと変更したところに画期を見出して、そのような慣用句が生れたものなのかもしれない。ただし、この慣用句の文献上の用例に古いものは見られない。
(注6)稲田愿『梯子・階段の歴史』(井上書院、2013年)に、ハシノコのコは、「〝木の葉〟などと同様、<木>の古形」(22頁)とされている。文献例に乏しく不明である。一般に「梯子」と記され、「梯木」と書かれることは管見にしてみられない。縄梯子もあったと思われるが、どうなのであろうか。
 稲田先生の立論について、筆者にはいくつか疑問点がある。「[梯子という]道具発生の主因は『木登り』にあったと考えられる。」(22頁)とされ、また、梯子の原型として、アノニマス・デザインという概念を導入され、「自然に生えていた立木の枝を、ある長さに切り落としたそのままのもので、見事にそうした形態を示していて興味深いものの一つである。」(27頁)と、石器時代の復原モデルを例示されている。
「梯子の原型(石器時代、デンマーク、火打石鉱山、モデル図)」とされる図(同書、65頁)
 けれども、動物園ならずとも、レッサーパンダは倒れ掛かった木を梯子のように利用していないだろうか。「道具発生の主因」なる観点は、主客が逆転しているように思われる。人間には「文化」があり、他の霊長類の行わないことをして「道具」を獲得していると考える。機能に限って考えれば、眼の延長上にメガネがあり、望遠鏡があり、顕微鏡があり、電子顕微鏡があり、CTスキャナーがあるが、そういう議論をしても始まらないように思われる。仮に、ドラえもんの「どこでも木登り」なるものを考えて梯子を思いつき、立木を石斧で倒して枝先を切ったとして、例えば、大きすぎて重たくてそこから運べなかったとしたらどうなったであろうか。その先にある崖に立てかけて登ろうと思っていたところが、崖下まで行くことさえ阻んで道を塞ぐことになってしまっている。そして、そういうことはままあったであろう。それが人類の発明の歴史である。その時点ではやくも梯子には、登ったり越えたりするための機能ばかりでなく、大捕物や檻の機能が顕在化している。この生易しくない両義性を越えて行ったところに、「道具」という文化的産物が人間の手の中におさまるのである。「アノニマス・デザイン」とは、名のあるデザイナーが関与しないデザイン、集合無意識の産物のことかと思われるが、法政大学出版局のシリーズ本、「ものと人間の文化史」にみられるように、前近代において、世の中のほとんど99%のものは、アノニマス・デザインで成り立っている。今日、モノは規格化された「商品」でしかなくなりつつあるが、そういう視座から考古遺物や民具を捉えても仕方がないであろう。なお、稲田先生が断られているように、「少なくとも日本では、梯子の参考文献は見当たらないのが現状である。これだけ重要な人間のための道具(装置)に関する研究書が見当たらないことは、実に不思議に思えるのである。」(11頁)のは事実である。労を多としたい。なぜないのかについては簡単である。当たり前のことは書かない、それが“作文”の基本だったからである。
(注7)植木久「建物の構造」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学6―人々の暮らしと社会―』(同成社、2013年)に、弥生時代、古墳時代、さらに飛鳥時代へと続く建築形式の変遷が考古学資料から説明されている。「掘立柱建築の構造の変遷」図として、柱跡からみた建物の類型を示されて時代ごとに落とし込まれている。そこには、弥生時代に「独立棟持柱構想」、「内部1本柱構造」、「総束柱構造」がすでにあり、古墳時代になっても「独立棟持柱構想」、「総束柱構造」は続いてゆき、また、「内部棟持柱構造」が加わってくる。古墳時代中期に、「差掛け庇構造」が加わって飛鳥時代へと続いて行き、反対に、「独立棟持柱構造」は古墳時代中期まで、「内部棟持柱構造」は「棟持柱・母屋桁柱構造」という折衷型として残りながら飛鳥時代の初めまでで終わっている。
「掘立柱建築の構造の変遷」(同書、90~91頁)
 筆者は、垂仁紀八十七年条の「神の神庫も樹梯の随に」という諺は、屋根のてっぺんに登るには、覚束なく、もやもやもあらず、の状態であったと考えて行論してきた。わざわざ後世に言葉として語り継ごうという意思があった時期の産物として、この「諺」は捻られたのであろうと考えているのである。その時期は、植木先生の図から考えると、棟持柱だけでは危ないから、母屋桁柱を立てようとし始めた古墳時代中期の建築技法上の画期(の直前)に求められるのではなかろうか。ただし、棟持柱が建物の内部にあるか外部にあるかという分類がどれほど有効なものであるか、筆者は保留したい。むしろ、その弥生時代中期に柱をたくさん立てて建物を造っていくように変化していることにこそ、当時の人々の“気持ち”があらわれているのではないかと思う。そしてそれを「諺」につくって伝えようとした。
 身舎・庇構造の成立について、植木先生は次のように解説されている。

 内部棟持柱が用いられるようになると、構造的により安定化を図るため、あわせて母屋桁柱を用いるようになった。梁行きを拡大化すると棟木と側柱上の側桁を繋ぐ垂木が長大なものとなるため、中間に棟木と平行に母屋桁とよぶ構造材を入れて垂木を中間で支えるようにしたものである。当初は補助的なものであったと思われる。この母屋桁を支えるのが母屋桁柱であり、最初は棟持柱の梁行き方向の両側に立ち、母屋桁の両端を支えていたと思われる。さらに構造的な安定性を高め、また大規模化を図るため、母屋桁の中間を支える位置にも柱が加わったものが現れた。これは柱配置からみると棟持柱と母屋桁柱を身舎、周囲の柱を庇柱とした身舎・庇構造である。この構造が発展して、母屋桁の位置で上下の垂木を別部材として繋ぐことにより身舎の大屋根と庇を別構造とし、身舎・庇構造が成立したのである。この構造では大屋根を小さくし梁を短くすることができ、また垂木も短いものですむことから、屋根の荷重を軽量化することができた。また強風、地震などの横方向の力にも有利であり、合理的な構造であった。6世紀代には棟持柱構造は少なくなるが、6世紀末〜7世紀前期の阿倍丘陵遺跡で破格に巨大な平面の建物を建設するために用いられている。これを最後に、棟持柱構造は用いられなくなる。(92頁)

 解説としてはそういうことであるが、古墳時代というのは長い時代で、3世紀半ば頃から6世紀末頃までを指している。垂仁天皇の時代は、現在考えられている時代区分からすると、古墳時代前期に当たる。該当例が少ないのかわからないが、植木先生の図には、「総束柱構造」においても異様にたくさんの柱の立つ樽味四反地遺跡の例が示されている。筆者の推測に過ぎないが、棟持柱構造の建物に大事故があって、設計の変更を迫られていた時期ではないかと思われる。現在の報道においても、珍しいことは記事になるから殺人事件は全国版でニュースになっているが、半世紀前には殺人事件件数が多くて珍しくなかったから、ローカルニュースにしかならなかった。すなわち、筆者の考えは、「諺」ニュースとするほどの出来事が、「神の神庫も樹梯の随に」という背後にあったであろうとするものである。言葉というものに対する感覚を研ぎ澄まさないと、上代の無文字文化のなかにいる人たちの声は聞こえないように思っている。なお、掘立柱建築物の地域差について筆者は検討していない。考古学の方々にご批判を頂ければ幸いである。
(注8)本文に、「捕熊(くまをとる)〈熊の一名子路。〉 熊は必大樹の洞中に住みてよく眠る物なれば丸木を藤かづらにて格子のごとく結たるを以て洞口を閉塞し、さて木の枝を切て其洞中へ多く入るれば、熊其枝を引入れ引入れして洞中を埋、終におのれと洞口にあらはるを待て、美濃の国にては竹鎗、因幡に鎗、肥後には鉄鉋、北国にてはなたきといへる薙刀のごとき物にて或は切、或は突ころす。何れも月の輪の少上を急所とす。……」とある。これは熊の皮や熊の胆などを得るために殺してしまう狩りである。子熊を飼う場合の檻の形状と異なる。見世物として晒し者にする場合とは、柵の仕方が自ずと異なってくる。
(注9)北夷談の本文には次のようにある。「一、当所に限らず蝦夷地に熊祭と云事あり。夷人の大礼にして、其式を見聞するに、早春熊子を産なり。其子熊を取来りて夷婦乳を呑(ま)せて養ひ育てゝ五、六月に至りぬれば、犬(いぬ)位ひに育ち、夫より指籠(さしこ)を拵へ入置て、干魚等の食物をあたへ育置て、十月、十一月に至り、飼ぬしの親類は初論、知音或は近村の乙名等集り、当日には何れもはれ着をよそひ、銘々弓矢を携へ立井び、夫より飼置し熊を指籠より出し、細引を以くゝり、広場に柱を建、右のはしらにゆひ附置て、飼ぬし初矢を附、夫より親族と順々に矢を射、よわりしを木材以(て)首をしめ殺し、夫より夷宝(たから)と称する器物をかざり、イナヲを建て〈是は本邦の幣帛の類なり。図左のごとし。〉何かとなへ祭るなり。夫より料理して生肉を喰ひ、兼て当日の用意として濁酒を造りおき、銘々持寄て酒盛するなり。已然子熊の時乳を呑(ま)せ養ひ育てしメノコ〈婦人のことなり〉矢を附、殺を見て、泣かなしみ、甚愁傷するゆへ、尤至極なり。しかるに此メノコ料理せし肉を喰ひ酒を呑を見ては、実に興の覚し事どもなり。」(高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成第四巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』三一書房、1969年、83~84頁。漢字は適宜新字体に改めた。)
(注10)和名抄に、「獄 四声字苑に云はく、獄〈語欲反、比度夜(ひとや)〉は罪人を牢する所也といふ。唐韻に云はく、囹圄〈霊語二音〉は獄の名也といふ」とある。また、「檻(をり)穽(ししあな)を造ること、及(また)機槍(ふみはなち)等の類を施(お)くこと莫(まな)」(天武紀四年四月条)とある。ここの檻は、「押機(おし)」(神武記)、「機(おし)」(神武前紀戊午年八月条)のような、石などを括りつけて重くし、倒れ掛かって圧死させる仕掛けを指すものかと思われる(前掲、日本山海名産図会(「早稲田大学古典籍総合データベース」)参照)。
 ヲリ(檻)という語は、ヲリ(居)と同根である。ヲル(居)という語は、自己の動作については卑下、他者の動作については蔑視の意味を込めて使う。「神の神庫」という言い方が、例えば狼の檻のことを指すのは、「神庫、此云保玖羅。」という訓注をわざわざ付していることからも理解される。木村先生のご指摘にあるように、訓注は、「神庫」と書いてホクラとはふつう訓めないことからも存在意義がある。さらに、念の入った記述をして「諺」を発表しているところは、当時の人にとって、話としてどうしようもなく面白かったからであろう。集落や神社にどんなクラがあるかという確定の事実ではなく、概念として、ヲリ(檻)もクラ(倉、庫)であると見なすことができるということである。とても笑える頓智と思われた。それを、今日でなら副詞的な補いを必要とする助詞モによって表している。上代の言語活動の巧みさには感服させられる。
(注11)ニホンオオカミを手なずけて飼っていたかどうか、不明である。猟犬やペットの犬については、東南アジアの方にいたオオカミが共通の祖先と考えられている。
(注12)ハサが歴史上いつからあるか、不明である。類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀を懸曝(かけほ)せり。其の穀の𤍜(かは)くこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機(いなばた)と謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。(原漢文)」とある。
(注13)ホクラにホス(干)+クラ(倉)の究極の義があるかもしれない傍証をあげておく。古今著聞集・巻第十二・四二四話「後鳥羽院御時伊予国の博奕者天竺の冠者が事」に、「後鳥羽院(の)御時、伊与(の)国をふてらの島といふ所に、天竺の冠者といふものありけり。件(くだんの)島に山あり。その山のうへに、家をつくりてすみけり。かしこに又ほこらをかまへて、其(その)内に母が死(しに)たるを、腹のうちの物をとりすてゝほしかためて、うへをうるしにて塗(ぬり)て、いはひてを(お)きたりけり。山のすそに八間の屋をつくりて、拜殿と名付(なづけ)て、八乙女(やをとめ)以下(いげ)、かぐらお(を)とこなどをすへ(ゑ)たりけり。……」と、ミイラを「ほこら」に置いたことが記されている。日本のピラミッドは“ほこら”らしい。
(つづく)

 筆者にとっての新発見事実要約
 1.梯子は登るためだけでなく、捕り物の道具や檻に利用された。
 2.祠(ほこら)の原形ホクラは、乾燥室であった。
 3.カミ(神)はもとは狼のような猛獣の場合も多かった。
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記紀の「諺」 其の六「神の神庫も樹梯の随に」(はしご論序説 其の三)

2016年12月23日 | 論文
(承前)
 問題は、主部と述部をつなぐ助詞のモである。大野晋『係り結びの研究』(岩波書店、1993年)に、「モは上に来ている語を、不確定な、仮定の、未定の、非限定的な対象、つまりこれ一つではない対象として取り扱う。」(47頁)とし、「万葉時代には、ハとモとは助詞だけによって、今日の副詞を伴う意味までも表現していたのである。」(50頁)といい、「古典語のモを見ると題目をそれだけと限定・特定しないだけでなく、不確定として提示するところに特質がある。」(64頁)、「上代ではその題目は、不確定、非限定、仮定的なものであり、他に多くのものが潜在的に存在する中からの不特定の例としての提示であることの方が多い。」(64頁)ながら、なかには、「確かに題目として併立して肯定的に提示する例もある……。これは使用数からは、上代では文中に使われるモの五分の一ほどにあたる。」(87頁)として、万葉集に「モの文末」が「否定・推測・願望など」を表わすものが71%、「肯定・確定など」を表わすものが29%であったのが、「室町時代末……『どちりなきりしたん』では、否定表現に使われたモの割合は二割」(88頁)と増え、現代に至っては、「モは肯定的表現に使われるのが中心となった。」(88頁)とある。
 「神の神庫も樹梯の随に」という上代の用法による「諺」の意味を捉えるとき、試訳するなら、もし神のホクラなどというものがあるとするなら、梯子をたてたものそのままになるように思われる、とか、人のホクラはもとより、神のホクラも梯子をたてたものそのままであることよ、ということになる。小学館の日本国語大辞典第二版に、「(高く近寄りがたい所でも、はしごをかければのぼれるの意から)どんな困難なことでも、適切な手段を用いれば成し遂げることができるということ。」(③975頁)とある語釈は誤りであろう。本文中に、大中姫命の話し言葉として、「天の神庫」とあったのが、諺に、「神の神庫」と変化している。「天の神庫」は眼前に見えている石上神宮の神宝を収める倉庫のことである。「神の神庫」は、仮定のこと、不確定なものであるが、書紀集解には、「架木造之」とあった。神さまを収める倉庫は、木を架けて梯子を組んでできていると解釈されている。一枚の板に刻みをつけて登れるようにした一本梯子のことではなく、屋根に登る際に用いたであろう猿梯子のことを前提としている。
 五十瓊敷命は、大中姫命に対して、神庫は高いと言っても、神庫に合うように梯子をたてるから、神庫に登ることは面倒ではないよ、と説いている。ツカサドル用の梯子とは、屋根に登る梯子である。繰り返すが、高床に登るための一枚の板に刻みをつけた一本梯子のことではなく、屋根に登る際に用いたであろう猿梯子のことを前提としている。梯子のことはハシノコともいい、ハシノコとは、梯子のことと梯子の一段一段のことをともに表す。段々ごとに一定幅のある梯子の印象がある。大中姫命に登ることは容易いと言っているのだから、幅広く作った梯子が想定される。さらに梯子の段の間隔を狭くすれば、ちょこちょこっとずつ上に登って行くことができる。切妻屋根の側面全体にハシ(梯・階)が架かるように幅いっぱいに造ってしまえば、神職が階を登るときにする面倒くさい横向き登りをせずとも、斜めに女坂調に登ればいい。クラの側面がすべて梯子ということである(注6)
 このように「神の神庫」を想定すると、面としてのハシ(梯)になる。これは仮定の話だから助詞モが登場しているわけであるが、けっしておかしな想定ではない。クラの屋根自体、垂木と木舞で面として梯子を組んだように造って上から茅などで葺いている。それが地面から続いているのだから、どんなに高くても実はほとんど誰もが登ることができる。高床式倉庫の屋根の骨組そのものを梯子だと言っている。ただし、その梯子段は猿梯子と呼ばれるように、手足4つを全部使って登るもので、「手弱女人」が使えるようなものとは言いにくい。「手弱女人」にふさわしいのは足だけ使う一本梯子だと言いたいのであろう。そして、棟木が棟持柱に載せ架けてあるだけで、屋根全体それにぶら下がる形だから不安定、不確実なこと極まりないのである。助詞モを使いたくなる場面である(注7)
 枕詞「はしたての」は、①サガシ(険・阻・嶮)や②クラハシ(倉椅)、③クマキ(熊来)にかかる。

 梯立(はしたて)の 嶮(さが)しき山も 我妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば 安蓆(やすむしろ)かも(紀61)
 梯立の 倉椅山(くらはしやま)を 嶮(さが)しみと 岩懸(か)きかねて 我が手取らすも(記70)
 梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず(記71)
 橋立(はしたて)の 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲(万1282)
 橋立の 倉椅川の 石の橋はも 壮子時(をざかり)に 我が渡りてし 石の橋はも(万1283)
 橋立の 倉椅川の 河のしづ菅 余(わ)が刈りて 笠にも編まぬ 川のしづ菅(万1284)
 堦楯(はしたて)の 熊来(くまき)のやらに 新羅斧 落し入れ ……(万3878)
 堦楯の 熊来酒屋に 真罵(まぬ)らる奴(やつこ) ……(万3879)

 三省堂の時代別国語大辞典上代編、「はしたての 枕詞」項の【考】に、「枕詞のかかり方は、①の嶮(サガ)シキ山はすなわち天ノハシタテであり、また②の倉橋(クラハシ)はクラ(倉(クラ)・座(クラ))へ上るハシで、それもハシタテ、すなわち立てられたハシであるから、同義の表現を重ねたものといえよう。③は、クマキの意味がわからないので、かかり方も不明。別に、ハシを特に神のよりしろと考え、その神を祭るためにそれを立てたので、その立てられた場所である①嶮シキ山や、③隈(クマ)にかかり、神のよりしろ、すなわち座(クラ)であるところから②クラハシにかかるとする説もある。」(577~578頁)とされている。小学館の新編古典文学全集本日本書紀②頭注には、記の用例に関して、「この場合の『梯立の』は『倉』にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木(またぎ)で、それを立てて神の宿る神座(かみくら)としたことに基づく。」(58頁)とある。Y字形の叉木に座っているのは明恵上人ぐらいである。途中から二股になった梯子を使っていたのは沖縄の人たちである。梯子の基本は段々になっているところである。股木になっているのは、股矛なのではなかろうか。
 枕詞というのは、言語遊戯である。洒落がわからなければかかり方もわからない。洒落を成り立たせるのは小理屈ではなく、屁理屈である。サガシ(険・阻・嶮)、クラハシ(倉椅)、クマキ(熊来)のすべてのかかり方が解明されなければ、理解されたことには当たらない。洒落の壺がわかっていないことになる。これまで見てきたように、梯立は屋根の骨組に同じ構造であった。峻嶮で急勾配の「神庫」なる倉の屋根に思い致せば、クマキ(熊来)にかかることも容易に理解される。
「洞の中の熊を捕る」(注8)(蔀関月著・法橋関月画図『日本山海名産図会』名著刊行会、昭和54年、108~109頁。「早稲田大学古典籍総合データベース」参照。)
大捕物に活躍する梯子(「徳川幕府刑事図譜本編」『江戸刑罰実録』書誌研究会発行、昭和52年、20頁)
 熊が来たら捕まえるための柵の使い方は、熊の棲む洞穴にあてがって逃げられないようにしておき、鎗などで急所を一突きにして仕留めるのである。クマキ(熊来)にかかるハシタテノとは、この大きな木組であって、それは屋根の骨組に同じである。犯罪者を捕縛する場合にも梯子が使われたことは、時代劇にもお馴染みのところである。梯子とは、登る道具であるだけでなく、逃げられなくする道具であった。そして、クマなどの猛獣を入れておく檻については、アイヌの民俗を描いた絵が残されている。その特徴は、梯子の幅広いものを作っておいて、それを四方の地面からたてて結び、天井にもかけてしまうところである。動物を入れる檻は梯子でできていた。五十瓊敷命考案の梯子は檻ではないかと、大中姫命は嫌がっている。
「子熊を養育する図」(松田伝十郎・北夷談(注9)国立公文書館様)
 すると、カミノホクラ(神の神庫)といっていた「神」とは、オホカミ(狼)のようなカミであるとも捉え得ることが知れる。大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、1974年)に、「かみ【神】……❶《上代以前では、人間に対して威力をふるい、威力をもって臨むものは、すべてカミで、カミは人間の怖れと畏みの対象であった。人間はこれに多くの捧げ物をして、これがおだやかに鎮まっていることを願うのが基本的な対し方であった》①雷・虎・狼・蛇など、荒れると人間に対して猛威をふるうもの。」(327頁)とある。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)には、「かみ〔神〕 神秘な力をもつ神聖なものをいう。すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、神威のものとして神とされた。」(253頁)ととてもシンプルに語釈されている。

 伊香保嶺(いかほね)に 雷(可未(かみ))な鳴りそね 我が上(へ)には 故はなけども 子らによりてそ(万3421)
 天雲の 八重雲隠れ 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ(万2658)
 …… 韓国(からくに)の 虎とふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……(万3885)
 陛下(きみ)、譬へば犲狼(おほかみ)に異(け)なること無し。(雄略紀五年二月条)
 犲狼〈獥附〉 兼名苑に云はく、狼は一名、犲〈音戈〉といふ。説文に云はく、狼〈音良、於保加美(おほかみ)〉は犬に似て銑頭白頬なる者也といふ。尓雅に獥〈音叫〉は狼の子也といふ。(和名抄)
 ……豹尾(なかつかみのを)珥(さ)せる者(ひと)二騎(ふたうま)、……(欽明紀十四年十月条)
 豹 説文に云はく、豹〈補教反、日本紀私記に奈賀豆可美(なかつかみ)と云ふ〉は虎に似て円い文なる者也といふ。(和名抄)
 素戔嗚尊、蛇(をろち)に勅(みことのり)して曰はく、「汝(いまし)は是れ可畏(かしこ)き神なり。敢へて饗(みあへ)せざらむや」とのたまふ。(神代紀第八段一書第二)

などとある。神の神庫とは、狼のような獰猛な獣を入れる檻のことを言っているらしい。
オオカミ(田中芳男編『博物館獣譜』明治時代、東博パネル掲示品)
 枕詞ハシタテノがかかるサガシという語には、サガス(涼)の連用形もある。観智院本名義抄(1241)に、「凉 呂長反、スズシ、コホル、サム(目?)、サムシ、凉上俗、下正、サガス、タスク、カナシフ、和リヤウ」(国会図書館デジタルコレクション(27/67)参照)、書陵部本名義抄(1081頃)に、「清涼 ホシサガサシム」とある。涼(さが)すとは、広げて日に干すことをいう。日に干して晒すことによって、曝け出すようにすることとは、探し物を見つけることができるようになることである。そこから今日の探査、探索の義へと展開した語のようである。干すことに用いる「干」の字は、干渉のようにヲカス(冒)の意、干潟のようにホス(乾)の意、干戈のようにタテ(盾)の意、干支のように兄弟の意、干闌とは南方民族が樹上に作る住居の意(貯貝器上の建物のような類)、また、竿や岸に通ずる。いま、高床式の建物について、兄と妹とが言い争っていて、神宝や神庫の有り難さを冒している。兄はタテル(造)と言っていて、高く稲を干したり、干し柿でも乾かすような桟がたくさんある小屋組の話になっている。妹は支えがないから嫌だと言っている。とても急峻なサガシ(険・阻)い崖(まま)のような屋根をかけることが問題である。ガケをカケる。幅が広すぎて、段々の物干竿のようなものと化している。横倒しして囲ってしまえば、まるで牢屋のようにも見える。
牢獄の中鞘・外鞘(「徳川幕府刑事図譜本編」『江戸刑罰実録』書誌研究会発行、昭和52年、28頁)
 檻や牢を格子状にした場合、縦木と横木を縄で括るのではほどかれてしまう。内側に捕らえた囚人や猛獣が、取っ掛かりとして登られて天上から脱出するかもしれない。江戸期の牢獄などには縦の柱を主にしながら横貫の柵になっていることがある。貫や溶接などの柵でなければ、単なる格子では檻にはむしろ適さないらしい。ここでは、ホクラが高床式住居に近しい倉庫のことであったのが、「天の神庫」→「神の神庫」となって、ヒトヤ(獄、牢)や猛獣の檻の話へと転変しているといえる。狼かなにかわからないが猛獣を入れた「神の神庫」なる檻(注10)では、入れられた猛獣は干されて腹が空いていたことであろう。日葡辞書(1603~04)に、「Farauo fosu.l,nodouo fosu.(腹を干す.または,喉を干す)何ひとつ飲みも食いもしないでいて,からからになっている.」(上掲、『邦訳日葡辞書』、266頁)とある。飲食物を与えないで弱らせながら手なずけて、サーカスにも使うということであろうか。実地に使ったものとして、鷹狩用の鷹や鵜飼用の鵜が知られている(注11)。意味合いとして、梯子状の段々に稲や柿を吊るし干すことと同じことである。落語のような珍問答がこの諺の真骨頂といえる。
高ハサ(須藤功『写真ものがたり 昭和の暮らし1 農村』農山漁村文化協会、2004年、207頁)
岐阜県揖斐郡谷汲村の干し柿作り(『宮本常一とあるいた昭和の日本23―漆・柿渋と木工―』農山漁村文化協会、2012年、148頁)
 「神の神庫」というあり得ない仮定は、特に稲干しのハサ(稲架)(注12)の高くたてられたものから連想されたものと思われる。現在は、機械式の乾燥機が普及してほとんど見られない。一段だけの低いハサは今でもよく行われている。天日干しの美味しさを求める需要や、自然農法を目指す人がおられ、高級品としても扱われている。高ハサに稲の干された様は、まことに高床式建物の屋根に等しく見受けられる。すなわち、この諺が作られた背景には、安定的な水田稲作農耕の技術が高床式の建物、わけてもその倉庫形態と一緒に伝来し、根づいたことを物語っている。色葉字類抄(1177~81)に、「凉 サガス 曝凉米也」とある。サガシ(嶮)なところで稲を干し、おいしい米を得るすべについて、後々まで伝えていく無文字時代のうまいやり方、言葉の中に意味を込めてしまう秘伝法が読み取れるかもしれない。すると、ホクラとは、ホス(干)+クラ(座・鞍・倉)の意とも受け取れ、ハサ(稲架)を含めた干して貯蔵する術の謂いかもしれない。
 濱定史「『干して仕舞う』小屋のかたち」安藤邦廣+筑波大学安藤研究室『小屋と倉―干す・仕舞う・守る 木組のかたち―』(建築資料研究会、平成22年)に、高床式の倉の機能について完璧な著述が行われている。

 木造建築は内部を乾燥させるのに適した「干す」つくりで、日本における民家建築の本質ともいえる。高温多湿のアジアモンスーン気候に属する日本において、湿度の高い夏をいかに過ごすかは重大な問題で、高床にして通風を確保し、窓を開け放つ住宅の形式が伝統的な民家として発展してきた。この問題は食料の貯蔵においても同様である。そのため生産過程における乾燥は重要な作業であり、害虫やカビ等が発生しないよう食料を干してから仕舞うのである。さらに小屋や倉には仕舞っている間、湿度を防ぎ、通風を取るなどの「干す」形が見られる。(49頁)

とあり、「そのまま干す」。「屋根をかけて干す」、「干しながら仕舞う小屋」、「干す小屋」、「干してから仕舞う小屋」といった工夫の諸例が紹介されている。そして、穀類は、

……収穫時の乾燥が不十分であったりすると、穀類の味が落ちるだけでなく、カビが生え、害虫を発生させ腐らせてしまう。また穀類は収穫物そのものが次の栽培の種でもある。腐らせたり、雨にさらして芽が出てしまったりすると、次年度の収穫をなくし、経済的な損失だけではなく生命をつなぐことすら危うくする。そのため風を通してこもらないようにすることが必要であり、高床にして地面から離して湿気を防ぎ、壁面の通気性を持たせた構法を選択している。一方「干しながら仕舞う小屋」には、干すこと以外に貯蔵という重要な役割があり、貯蔵には盗難やネズミに対する構えが必要である。……小屋と倉は高温多湿な気候の中で、干すことと仕舞うことの組み合わせで様々な生業に対応し、開放して通気を確保することと閉鎖して防犯・防鼠することのバランスをとりながら、「干して仕舞う」構法を木材によってつくりあげてきたのである。(50~51頁)

とまとめられている。
コヤモミド内部(山形市柏倉、サス構造の小屋組、軒高4.5mの大空間、最盛期には梁までいっぱいに収穫された稲を積み上げていたとある。同書、35頁。)
 石上神宮の倉は、刀剣などの宝物を収めるものであった。両者の間にずれた頓智を巻き起こして面白味が増す。「神庫」で刀剣を干すとは、鉄器の刀剣を錆びから守るという意味を帯びてくる。刀の虫干しである。蓋を開けてみたら錆びていて使い物にならなかったではお話にならない。武器倉庫の刀剣を管理すること、ツカサドル(掌・主)こととは、クラでホスことが肝要ということになる。だから、ホクラは猛獣の姿のカミを干し晒す倉なのである。高ハサも高床式倉庫の屋根も、江戸時代の罪人の晒し場の小屋掛けにもよく似ている(注13)
晒場所小屋掛の図(「刑罪詳説」『江戸刑罰実録』書誌研究会発行、昭和52年、85頁)
 以上、多義性の中にうごめく頓珍漢な言葉の技について見てきた。今日言う「諺」と上代の「諺」とは示す意味合いが異なる。何か諭す目的があって言い含めているのではない。コト(言・事)+ワザ(技・業)によって何が言いたいのかといった問いは、問い自体が誤りである。言葉の変化球が言葉に戻って来て、言葉自体が自己撞着していること、言葉が腰掛け鎌継ぎのような仕口に納まっているところ、それが上代の「諺」である。それ以上でもそれ以下でもない。「神の神庫も樹梯の随に」という諺の生れた由縁は、確かに五十瓊敷命と大中姫命とのやりとりにおいてであった。そして、その「諺」は“生かされる(?)”ことなく、ただちに大中姫命は申し出を断り、物部十千根に委託してしまっている。なお筆者は、それが「干」字を学んで面白がったことに端を発したのか、金石文などによって確かめることはできなかった。盾の意なのであるが、タテをタテても「干」形では隙間があって攻撃を防ぐことはできない。梯子に同じく隙間だらけである。それでも、四方から、また天井にもめぐらして結いつければ、猛獣としての「神」を入れておいて干させる檻としての機能は果たす。漢字を図として見たのか、後考を俟ちたい。
(つづく)
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記紀の「諺」 其の五「神の神庫も樹梯の随に」(はしご論序説 其の二)

2016年12月18日 | 論文
(承前)
 そうでも考えなければ、神明造の建築様式における棟持柱の残存は、了解されないのではないか。用の美ならともかく、無用の美である。古代日本の高床式建物の構法を稲作文化とのあわせながら、東南アジアの建築技法を探られた著作として、若林弘子『高床式建物の源流』(弘文堂、昭和61年)がある。

 [タイ国の山岳少数民族の倭族の高床式住宅において、]その軸組構法で特筆すべき点は、床・壁を構成する軸部の構造と、小屋組(屋根組)を構成する構造とが分離していることである。というのは、屋根組の骨子である棟木の荷重を軸部としての躯体が受けるのではなく、棟持柱自身が受けていることである。つまり棟持柱は地中に掘っ立てられて独立し、棟木だけを支えている。棟木の方も棟持柱だけに支えられているといえる。その形式の中には棟持柱と併用して叉首(さす)や棟束(真束)を使っているものもあるが、叉首は棟持柱を補助する材で、棟持柱の脇役をしている程度である。(24頁)
 倭族の小屋組の基本は、水平な棟木を垂直な棟持柱が支持するところにあり、わが国古来からの和小屋組の祖形ではないかと思う。叉首(さす)などの斜め材も使われてはいるが、それは棟持柱の補助材である。斜め材の中には、叉首組のものと合掌組のものとがあり、前者は各部族に散見され、後者はラワ族だけに見られた。叉首組とは二本の斜め材を使って梁を底辺とする三角形を組み、その頂部を交差させてできる谷で棟木を支える構法である。合掌組とは叉首が叉首尻を梁の上で桁に突張って立つ形式とは異なり、尻が桁に突っ張らず、垂木状に桁上をのぼる形式で、ここでは叉首と区別する用語として使うことにした。……わが国の小屋組は棟持柱の支え方に大別して二系統があり、一つは斜め材による叉首組、もう一つは垂直材による和小屋組である。これについて叉首組はもともと棟持柱を持たない小屋組、和小屋はもともと棟持柱をもつ小屋組からの変化発展形式だと考えるが、前者は縄文的、後者は弥生的伝統をくむものではないかと思っている。(31頁)
アカ族の高床式倉庫(同書、ⅳ頁)
左:祭祀銅貯貝器(前漢時代、雲南省晋寧県石寨山12号墓出土、高51.0cm、口径30.1cm、中国歴史博物館編『中国の博物館 中国歴史博物館』講談社、1982年、79頁)、右:同蓋の建築模型(田中淡『中国建築史の研究』弘文堂、平成元年、63頁)
 棟持柱があるということは、屋根の棟木をそれで支えようとしていたからである。棟持柱のない寺院建築は、梁のうえに束が立ち、棟木を支えている。躯体が屋根を支えなければ、とても重い瓦を載せることはできない。正倉院にして然りである。前漢時代の高床式建物でも、今日の東南アジアのリゾート地に見られる載せただけのような屋根も、日本に南方から稲作などとともに高床式建物の形式として伝わり、タイの少数民族で誰でもが造るように誰でもが建てたのであろう。それが大型化した際、工夫を凝らして梁に束の立つ仕組みに細工したということではなかろうか。仕口を巧みに仕上げなくてはならないから、手に技を具えた職人としての大工さんが登場したということである。鉄製の鑿をうまく扱う匠(注2)が現れた。今日のプレハブ住宅には失われつつある技術が求められたのである。
 アカ族の高床式倉庫は、見てくれにおいて伊勢神宮の建築様式ととてもよく似ている。つまり、日本において、神社の形式は、それが全般にわたるものかどうかはともかく、クラ(倉)になりうる高床式の建物の形式から出発したものと考えられる。竪穴式の建物とは無関係に成立している。クラ(座・鞍・倉)とは、高い位置に鎮座すべきところを表わしている。すなわち、棟持柱で棟木を支えるところから発生した。埴輪に切妻造で切妻屋根の妻側上方が突き出る、いわゆる妻が転ぶ状態のものがある。突き出しているところが曲線美を描いている。雨の降りこみを防ぐために突出させたとされている。棟持柱だけで棟木を支えれば、屋根を葺いたら荷重で撓み、棟木が反って若干とも両端が高くなることは想定される。ならばいっそのこと、妻を転ばせて大袈裟にする方が、雨除けにも煙出しにも有利であるということになる(注3)。下に示した赤堀茶臼山古墳出土の埴輪は、それがクラであることを印象づけている。馬に装着して人が乗るためのクラ(鞍)の形にとてもよく似ている。ここに、古代建築は、建築学や考古学の推測の域から解き放たれ、語学的論証の領域にたどり着く。クラというヤマトコトバに、意味が内含されている。
家形埴輪・切妻式倉庫(古墳時代、5世紀、伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土、東博展示品)
馬のお土産
 クラ(倉)とは何か。それは、クラ(鞍)であり、クラ(座)である。アグラ(胡坐)をかくことができるような一段高く座れる場所である。地べたに這いつくばる姿勢ではなく、上から目線でものが言える高さである。高床式の上、馬の上、椅子の上である。となれば、倉がクラと呼ばれる限りにおいて、それは、高床式でありつつ、屋根の上が馬の背に当たるかに思われる造りになっていたと考えられる。だから、同じ言葉(音)として通用している。文字を持たない人にとって、訳が分かるようになっている。以上が、垂仁紀八十七年条の前提である。
 五十瓊敷命の言葉に、ツカサドル(掌・主)という語が出てくる。ツカサ(司・宰)とは、高いところを意味するツカ(塚)に接尾辞のサをつけた言葉と考えられている。管掌する者は、高いところから部下に号令をかける。ヒエラルキーで高い位置を占める者という意味合いになる。ただ、言が事である言霊信仰のなかにあったヤマトコトバの時代、観念的に高いところを占めるという意味合いは後付けである。実際に、高いところに登れなければ、ツカサドルことにはならない。神宝を祭ることをツカサドルためには、その神宝を納める倉を具体的にツカサドルことをしなければ、神宝を管理しているとは言えない。言葉がいまだ「具体的操作段階」(J.ピアジェ)にあったからである。つまり、倉のツカサ、高い所を取ることができなければならない。高い所は、屋根の嶺である。馬に鞍を置いて乗るように、モヤ(身舎)に登って跨がれなければ、ツカサドルことには当たらない。けれども、その屋根の建築構法が、棟木を棟持柱で両端を支えるに過ぎなければ、倉を大きくすればするほど棟木は長くなり、棟持柱もあるいは高くなり、ゆらゆら揺れて安定せず、乗れば折れたり倒れたりすることになる。とても登る気にならない。
 大中姫命は言っている。「吾は手弱女人(たわやめ)なり」。この「手弱女」には、古訓にタヲヤメとある。和名抄に、「婦人 日本紀私記に云はく、手弱女人〈太乎夜女(たをやめ)〉は婦人〈婦人、訓は上に同じ〉といふ」とあり、万葉集に、「多和也女(たわやめ)」(万3753)とあるから、どちらで訓まれたか確かではない。小学館の新編日本古典文学全集本日本書紀②はタワヤメとルビを振っている。その頭注に、「『多和也女(たわやめ)』(万三七五三)の仮名書きによる。タヲヤカ(しなやかなの意)なる女がもとの意味。『手弱(たよわ)』の字は、編者の一種の語源解釈による表記。『和名抄』の『太乎夜女(たをやめ)』は少し後世的な語形」(330~331頁)とされている。万葉集にも、「手弱女」(万379・543・935・1982・3223)とあるから、紀の編者一人の語源解釈でもなさそうである。また、万葉集の例から、タワヤメが古い形、タヲヤメは「少し後世的」な形と言えるのか疑問である。万葉集にタワヤメと訓む例は、以下に示す万935番歌と、万3753番歌の仮名書きに負うところが大きい。従って便宜的にそう訓んでいるに過ぎない。述べられているように、タヲヤカなる女がもとの意味なら、タヲヤメが古い形かもしれない。
 不毛の議論は避けよう。話は、梯子をどんどん登って云々、の事柄である。屋根の棟木が両端で支えられているだけなら、跨って荷重をかければ棟木はしない曲がって撓む。古語に、タワム、タヲム、ともに用例がある。また、山の嶺のたわみへこんだ鞍部のことを、タワ、タヲリ、ともにいう。今日、枝に実がたくさん成ってしなうことを、たわわに実るというが、古語では擬声語として、タワタワという形がある。また、女性のなよなよした曲がりしなう様をタヲヤカという語で表す。

 …… 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみ(多和美)て 徘徊(たもとほ)り 吾はそ恋ふる 船梶を無み(万935)
 力ある王(おほきみ)見て、手拍(う)ち攢(たを)みて、石を取りて投ぐ。(霊異記・上三)
 ……山のたわ(多和)より、御船を引き越して逃げ上り行きき。(垂仁記)
 あしひきの 山の(ふ)れれば〈或に云はく、枝もたわたわ(多和多和)〉(万2315)
 婀娜(たをやかにして)……参差(たをやかにして)……依々(たをやかなること)……窈窕(たをやかにして)……逶迤(たをやかにして)(遊仙窟)

 つまり、垂仁紀の「手弱女人」は、タワヤメ、タヲヤメ、いずれであってもヤマトコトバとして論理的に合致する。大中姫命はきっとメタボな女性だったのであろう。手(腕力、握力)が絶対的に弱いのではなく、妊娠しているわけではないがお腹が大きいから相対的に弱くなる。だから、オホナカツヒメにしてタワヤメ(タヲヤメ)である。強いてどちらかといえば、タヲヤメの訓がふさわしい。タ(接頭辞)+ヲヤ(小屋)+メ(女)の意を含意する。ヲヤ(小屋)とは、屋根の小屋組のことを示唆している。吊り橋が渡されているような小屋になっている。今にも壊れそうなボロ屋の意味で、ヲヤ(小屋)という語は使われてもいる。

 彼方(をちかた)の 赤土(はにふ)の少屋(をや)に こさめ降り 床さへ濡れぬ 身に副へ吾妹(わぎも)(万2683)
 玉敷ける 家も何せむ 八重葎(やへむぐら) 覆へる小屋も 妹とし居らば(万2825)
 さし焼かむ 小屋の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて うち折らむ 醜の醜手を さし交へて ……(万3270)

 問題は、高床式倉庫の躯体にあるのではなく、小屋組の頂に架けられた長い棟木にある。とても登る気になれない。家の棟のことは、モヤ(身屋)ともいう。廂を張り出した部分やはなれの隠居所ではなく、母屋(おもや)の主建造物の屋根のことである。今日の建築用語では、小屋組において、棟木や桁と平行に、梁から束を立てた上に載せる材も母屋(もや)と呼んでいる。昔は束が立っておらず木舞にすぎなかったから、そんなところに登るのは、まったくモヤモヤした気分である。古語に、モヤモヤ、ないし、モヤモヤモアラズとは、不安定で落ち着かないという意味である。

 御所(おはしますところ)遠(とほざか)り居(はべ)りては、政(まつりごと)を行はむに不便(もやもや)にして、近き処に御すべし。(天武紀元年六月条)
 其れ永(ひたふる)に狭(せば)き房(むろ)に臥して、久しく老い疾(やまひ)に苦ぶる者は、進止(ふるまひ)不便(もやもや)にして、浄地(いさぎよきところ)亦穢(けが)る。(天武紀八年十月条)

 三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「【考】モもヤも疑問・推量の意の助詞で、これを重ねて心許ない確かでないさまをいう名詞となったものという。『不便・不予』の古訓として、モヤモヤナラズ・モヤモヤモアラズというのもある」として、「不便」(景行紀四年二月条、允恭前紀、顕宗紀元年二月是月条)、「不予」(欽明紀三十二年四月条)の例をあげている。そして、「前掲の例とこれらとを比べると、モヤモヤとモヤモヤナラズ・モヤモヤモアラズと同義であることがわかる。おそらくこの否定は、モヤモヤのもつ不分明・心許ない・不安などの否定的な意をさらに強めるためのもので、モヤモヤを否定したものではあるまい。たとえばケシカリとケシカラズ、オボロケナリとオボロケナラズと同様の関係にある。」(750頁)と解説されている。不確実性を表わすのに、まず、助詞単体でモ・ヤがあり、それを続けてモヤとなり、さらに重ねてモヤモヤとなり、強調するために否定形をつけてモヤモヤモアラズなどに展開している。岩波書店の古典文学大系本日本書紀頭注では、景行紀の部分に、「甚だ不便であるの意。モヤは、疑問・推量の意を表わすモと、質問の意を表わすヤとを重ねた語。不確かなので問い質したい意を表わす。そのモヤモヤすらも不能だの意から、『ああかこうかと問いただすこともできず、不便だ』の意。転じてここでは無用の意」(ワイド版岩波文庫(二)63頁)と解釈されている。大系本では一貫してモヤモヤに否定形のアラズを付けた形で訓んでいる。筆者は時代別国語大辞典上代編の立場による。返事の言葉にハイがあるが、「はい、わかりました」と「はいはい、わかりました」では含意が異なる。後者には反抗の意思が感じられる。だから、「ハイは1回でいい」とさらに叱られることになる。モヤモヤモアラズという畳み掛けには、モヤモヤという言い方に、ハイハイ同様気持ちの裏腹性が感じられ、そこで否定の言葉を続けようと考えた可能性もある。
 いずれにせよ、モヤ(身舎)には、モヤモヤ(=モヤモヤモアラズ)的な不安定さがある。長ければ長いほどモヤモヤ的に不安定化する。両端の棟持柱に架かっているだけだからである。そういう屋根形式から脱するには、躯体に荷重をかける仕組みに改めなければならない。柱・梁・束の軸組の上に棟木を載せるのである。それまでは、束がないから覚束ない。オホツカナシは、心もとないという意味とはっきりしないという意味に用いる言葉であるが、屋根を葺いてしまえば、外見からでは束があるのかないのかわからないから、どちらも同じ意味であるという古代的な解釈が理屈として成り立っている。したがって、屋根の棟木に登るのは物騒である。特に、それが倉庫建築の場合、クラ感をより表そうとして、棟を上へと張り出して、まるで馬上に置くクラ(鞍)のように作られている。一見、馬乗りになるのにふさわしそうであるが、しなりたわんでいて、下手に荷重をかければいつ折れても不思議ではない。登るのは控えた方が賢明ということになる。

 水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなく(於保束無)も 思ほゆるかも(万1451)
 春されば 樹(き)の木(こ)の暮れの 夕月夜(ゆふづくよ) おほつかなし(鬱束無)も 山陰にして(万1875)
 今夜の おほつかなき(於保束無)に 霍公鳥(ほととぎす) 鳴くなる声の 音の遥(はる)けさ(万1952)

 オホニ(疎・鬱・髣髴)という語も、ぼんやりと、いいかげんに、という意味で、内実が見えないことの謂いである。小屋組の内部の束が無ければ、オホ+ツカナシとは、さらに強調された言葉であることがわかる。モヤモヤモアラズと同様に強調語である。以上で、神庫をツカサドルことをオホナカツヒメが固辞した理由がわかった。
米蔵(小松茂美編『日本の絵巻4 信貴山縁起』中央公論社、昭和62年、22頁。この倉は瓦葺で、高床式ではない。)
沖永良部の高倉(鹿児島県大島郡和泊町、寄棟造、茅葺、19世紀後期、桁行2.7m、梁行2.5m、日本民家園。この倉の床は高床だが、床面がすでに屋根下端である。台風でも飛ばないように、屋根を“梯子”が覆っている。)
 また、クラのなかでも特に武器倉庫に当たるホクラ(神庫)に関しても考慮してみよう。河村秀根・益根の書紀集解に、「神庫〈神庫は正殿の右に在り。木を架けて之れを造る。社司曰く、中に唐櫃有り。相伝へて封を発せず、といふ〉」(「書紀集解. 国民精神文化文献5 巻上」(国会図書館デジタルコレクション)(147/220)参照)とある。刀剣類をしまうのに、木製の唐櫃などを用いることは確からしく思われる。倉庫内に棚が設けられ、箱に宝物となる武器刀剣類を入れて棚ごとに置かれていたとも考えられる。それに対して、穀物、なかでも稲籾を収蔵する米蔵の場合、後の時代ならば稲藁を利用した米俵に籾を込めて入れておいたとするのが一般的であろう。しかし、穂首刈りや手扱きで毟っていた時代、藁をどれぐらい利用していたか不明である。また、立体的な円柱状の俵が開発される前に、叺(かます)のような平面的なものを袋として活用していたのかもしれない。それでも、いずれにせよ、米蔵の中に、唐櫃のような木製の角張ったものや、それに収まりきらずに鑓や矛を立てておいたままの状態で収蔵されているわけではなく、植物製の袋の積み上がった状態になっていたと思われる。つまり、屋根に登って棟木が折れて落下した場合でも、クッションが効いてくれる。怪我しなくて済む。他方、武器倉庫はごつごつしたり、尖っているものが多く、必ず怪我をする。刀剣類が剥き出しで収蔵されていた可能性については、神武紀の例があげられる。

 明旦(くつるあした)に、夢の中の教に依りて庫(ほくら)を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒(さかしま)に庫の底板(しきいた)に立てり。(神武前紀戊午年六月条)

 ホクラ(神庫)という語の意味について、ホ(美称)+クラ(倉)とする説が根強い。ホは高くつき出たものを指すから、倉自体の形状を表わすようにも考えられている。筆者は、語源という立場に立たない。垂仁紀が著された当時の人々の語感をこそ大事にしたい。万葉集の言葉遊びは、無文字文化華やかなりし頃の独自な言語活動の傾向であると考えている。木村徳国『上代語にもとづく日本建築史の研究』(中央公論美術出版、昭和63年)に、「[垂仁紀八十七年二月条の『神庫、此をば保玖羅といふ』という]訓注の存在は、『神庫』のみではホクラと訓み難いこと(ホクラ以外のクラが、当時の神社に存在していた?)と、その実体が倉庫にほかならなかったこととを、物語っていたのである。」(494頁)とある。そして、神武前紀戊午年六月条の「高倉下(たかくらじ)」の「庫」、垂仁紀八十八年七月条の「出石(いづし)の「刀子(かたな)の為に祠を立つ」、天武紀三年八月条の「石上神宮(いそのかみのかみのみや)」の「神府」をも、ホクラと訓むことを指摘されている。共通する「内的理由とは、奉祀されるものが刀子であったことである。」(496頁)という。神剣フツノミタマ、出石刀子、石上神宮の神宝だからみなホクラで正しかろうということである(注4)。そして、「イ ホクラは神と直接しており ロ ほこらと転じて、現代なお生きており ハ 建築的実体は高倉であり ニ 『祠』を媒介としてヤシロとも深くかかわる 等の諸点で、古代の神社、特にその神殿建築を考える場合、忘れ得ぬ存在となし得るであろう。」(495頁)という特徴点をあげられている。
 ここまで探究されて、「ホクラの神殿的性格と、その伝統の弥生時代にさかのぼり得るであろう可能性」(同書、498頁)にしか議論を展開されていない。ホクラのホは、イナホ(稲穂)、ナミノホ(波穂)、クニノホ(国秀)、ホノホ(炎・焔)などのホと同じで、高くひいでて目立つところをいうとされている。そのため、ホクラという語をホ+クラという語構成であるとのみ考えてしまいがちである。むろん、間違いではなかろうが、高くつき出た形の倉の形態は、祇園祭に登場する高くつき出たホコ(鉾)、山鉾と見紛うものではなかろうか。ホクラ=ホコ(鉾)+クラ(倉)と考えて何ら不自然ではない。木村先生の仰る「イ ホクラは神と直結しており」という意味合いも重ねてわかりやすくなる。
 そのとき、「神の神庫も樹梯の随に」という言い方の主部と述部が、はじめて理解されることになる。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)には、「〔集韻〕に『鉾は鋒なり』とする。夆(ほう)は神杉のような木の頂に神が降りつくことを意味する。わが国の山鉾(やまぼこ)の類は、山車(だし)の上に高い木の飾りものを樹てるが、それは神を迎えるためのものであろう。銅鉾の類を特に尊んだのも、そのような儀器として用いたものと思われる。……『ほこ』によって神霊の所在を示したものが『ほこら』で、神社形式の発達を、神籬(ひもろき)・桙(ほこ)・祠(ほこら)・社(やしろ)の四段階とみなすような考え方もある。」(675~676頁)とある。日葡辞書に、「Focora.ホコラ(祠) 神(Camis)の乗物〔神輿〕の形をした一種の小さな家で、道のほとりに建っているもの.」(土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年、255頁)とある。今、五十瓊敷命は、神庫のために梯(はし)を造(た)てようと言っている。梯子をたてるにせよ、棟持柱をたてるにせよ、意味合いとしてホクラらしくはなるが、屋根の強度が増すわけではない。江戸時代、白川郷に現われた尖った屋根の合掌造は、雪をすべり落しやすくするとともに、屋根裏を養蚕に利用しようという魂胆から作られたとされる。養蚕棚のために屋根を高くしたとするなら、神宝を収める棚を何段にも拵えるためにホクラも屋根を高くしたのかも知れないともとれる。
 急峻な屋根を設ければ、屋根の面積は同じ高さの倉と比べて大きくなる。切妻造で同じ奥行の建物を想定すると、傾斜が60°の屋根は、45°の屋根に比して高さは1.73倍、屋根面積は1.41倍になる。屋根面積が大きくなれば重量も重くなり、棟木がたわむ。あまり負荷はかけたくない。屋根は掌を合わせたように葺かれており、倉庫管理責任者としてツカサドル(掌・主)こととは、長官に就任するということで、位(くらゐ)に就くとは、クラ(座)+ヰ(居)、つまり、鞍の上に座ること、くらくらしてしまうと言っている。モヤモヤにしてクラクラである。内部に梁があって束で支えられていると主張されても、本当に梁(うつはり)があるのか、偽・詐(いつはり)ではないかと疑いたくなる(注5)。けっして登りたいとは思わない。
 述部のハシダテノママニは、樹梯(梯立)が高床に架けるのと同じ角度で屋根に架け渡す状態を示している。鉾のような高屋根だから同じになる。五十瓊敷命の言い分は、梯子があるのだから、高床に上がるのと同じ角度の梯子で屋根まで上ることも同じことであろう、という含意を入れ込んでいる。「随」字には、傍訓にママニとあり、別の個所でマニマニともある。同じ意味であると思うが、この部分にママニと限る傍訓にはそれなりの意味があるのであろう。ママには、崖、急斜面の意味がある。

 石橋の まま(間々)に生ひたる 貌花(かほばな)の 花にしありけり ありつつ見れば(万2288)
 足柄(あしがり)の 崖(まま、麻万)の小菅(こすげ)の 菅枕(すがまくら) あぜか巻かさむ 子ろせ手枕(たまくら)(万3369)

 万2288番歌のママ(間々)は、枕詞「石橋の」がかかっている。梯子段と飛び石とは同じことである。踏み外さぬように歩を確かめるべき場所である。つまり、神庫の急斜面に梯子が架けられているから、崖を登ることはできるように屋根に登ってツカサドルことはできる、ということである。前漢時代の銅製品に、屋根に架けられた梯子に蛇のからみついた形象が見える。
左:人物家屋銅製品(前漢時代、雲南省晋寧県石寨山6号墓出土、高11.5cm、幅12.5cm、奥行7.5cm、雲南省博物館編『中国の博物館 第二期第2二巻 雲南省博物館』講談社、1988年、34頁)、右:同左図解(若林弘子『高床式建物の源流』弘文堂、昭和61年、317頁)
(つづく)
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記紀の「諺」 其の四「神の神庫も樹梯の随に」(はしご論序説 其の一)

2016年12月14日 | 論文
(承前)
 C.神(かみ)の神庫(ほくら)も樹梯(はしたて)の随(まま)に
 八十七年の春二月の丁亥の朔辛卯に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、妹(いろも)大中姫(おほなかつひめ)に謂りて曰く、「我は老いたり。神宝(かむだから)を掌(つかさど)ること能はず。今より以後(のち)は、必ず汝(いまし)主(つかさど)れ」といふ。大中姫命、辞(いな)びて曰さく、「吾は手弱女人(たわやめ)なり。何ぞ能く天(あめ)の神庫(ほくら)に登らむ」とまをす。神庫、此には保玖羅(ほくら)と云ふ。五十瓊敷命、曰く、「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯(はし)を造(た)てむ。豈、庫(ほくら)に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰く、「神の神庫も樹梯の随に」といふは、此れ其の縁(ことのもと)なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまで石上の神宝を治むるは、是れ其の縁なり。(垂仁紀八十七年二月条)

 小学館の新編古典文学全集本日本書紀①頭注に、「説話どおり解すると、高い神庫でもはしごがあれば昇れる、の意。しかしこの諺は、神の座(くら)もその依代(よりしろ)になる梯(はし)しだいだ、という意で、神はその梯に依り降臨されるということを表現した。『樹梯』は『梯立』に同じ。定本の原文『神之神庫』を、熱田本の『天之神庫』に作るのは後世のさかしらによる改変。」(331頁)と難渋な解釈が施されている。神さま関係の梯子の場合、「天の浮橋」(神代紀第九段本文)、「天の椅立(はしだて)」(丹後風土記逸文)のように「天の」と冠されるのではないか。「天の」ではなく「神の」と冠するとテキストクリティークされていながら、その後の説明がない。「神宮」はカミノミヤ(カムミヤ)で神さまがいらっしゃる場所であるが、「神の神庫」とあるのは、何の謂いであろうか。(注1)
 冷静に考えて、この問答は疑問である。大中姫は「天の神庫」といい、諺では「神の神庫」と言っている。ホクラ違いが生じている。しかも、諺の示唆するとおりには事は運んでいない。諺を無視して大中姫命は物部十千根に業務委託してしまっている。それで話が解決している。あやしいと言わざるを得ない。高い神庫でも梯子さえあれば誰でも登れるという表面上の理解は、古代の「諺」=コト(言・事)+ワザ(技・業)の内実を理解していない可能性が高い。
 新撰字鏡に、「梯 波志(はし)」とあり、和名抄・道路具に、「梯 郭知玄に曰く、梯〈音低、加介波之(かけはし)〉は木の堦にて高きに登る所以也といふ。唐韻に云はく、桟〈音笇、一音賎、訓上に同じ〉は板木、険(さが)しきに構へて道と為(す)る也といふ」、同・屋宅具に、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音皆、俗に階字に為(つく)る、波之(はし)、一に之奈(しな)と訓む〉は堂を登る級也といふ。兼名苑に云はく、砌、一名、階〈砌音細、訓美岐利(みぎり)〉といふ」とある。弥生~古墳時代の高床式倉庫、あるいは、高床式住居のための梯子は、各地の集落跡から数多く出土している。板や丸太に刻みを入れ、片一方から抉り削いだ形状をしている。一本梯子(雁木(がんぎ)梯子)と呼ばれる。長岡京市の雲宮遺跡からは、古墳時代後期の、長さが約3.6m、幅が約20cm、厚さが約5cmのものが見つかっている。板状の表面には木を切り出して作った7段の足かけ部分があって、両端や中央、裏面には穴があるから他の建築部材へと転用されていたらしい。こういった板に刻みを入れた梯子は、高床式の建物用のもので、人が昇り降りするときに使われ、また、荷物を下ろすときには裏面を使ってスロープにして滑らせたと考えられている。高床式の建物がさほど珍しいものでなく、あたりまえに梯子をあてがって生活していた。そのとき、長い梯子さえあれば、いくら高い所でも登れると考えることは安直である。誰でも言える。「諺」という語にはならないであろう。そもそも、女性だからという理由で、梯子をかけても登れそうもない高さの倉庫が造られていたのか疑問である。エベレストにも登頂している。出雲大社の神殿に関するある仮説のように、100メートルも高ければ怖いが、その場合、とび職でなければ男女を問わず怖くて登れない。大中姫命の訴えを注意して聞く必要があろう。
梯子の出土状況(「平成27年度大桷遺跡」様)
 今日、一般的な梯子の形状は、二条の長い材の間に足がかりとなる横木を一定間隔で取り付けたものである。猿梯子とも呼ばれ、木製、竹製、金属製、特に近年はアルミ製が多い。それを折り畳めるようにしてΛ形にしたのが脚立である。金属製で、スライド式に伸ばして高所へ架けて行う作業もケーブル工事などでよく見かける。猿梯子は絵巻物などに描かれているが、古い時代の発掘例はあまり知られない。横木を縄で縛って作ったものなど、縄は残らないから梯子の形で出土することはほぼない。古い例では、銅鐸に絵として残っている。
袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代、東博蔵
菅生寺の梯子(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、39頁)
寿老の髪剃り図(酔月斎栄雅筆、絹本着色、江戸時代、18世紀、東博展示品)
 平凡社の日本史大事典には、「奈良県佐味田宝塚(さみだたからづか)古墳出土の家屋文鏡(かおくもんきょう)に一本梯子がかけられた高床倉庫が鋳出されている。しかし丸太を蔓(つる)などで結びつければ使用できる猿梯子は、これよりも古くから存在していたと考えられる。」(786頁、小泉和子「梯子」)とある。適切なご見解である。なぜなら、高床式建物の地面から高い床に達するための一本梯子が作られるためには、何よりも高床式建物を作らなければならない。高い床どころではない高い屋根に達する梯子がなければ、屋根を葺いたり直したりすることはできない。不安定な高所へ渡すのに、一本梯子では危ないから、猿梯子を架けなければ仕事にならない。ふつうは登らない高い所へも平気で登り、遠いところで遠近法的に小さくなってちょこまか動き回る様は、猿が屋根に登って動き回っている様子とよく似ている。猿梯子という言い方は、うまく言い当てた表現である。猿梯子の二条の棒に横木を取り付けることは、屋根を作る際、幾条もの垂木に一定の間隔で横木(木舞)をわたしていって下地を作ることと同じである。下の今日に伝わる茅葺き屋根の例は近世以降のもので、古代の草葺きと構法技術が連続するものではないかもしれないが、参考にするに十分と考える。
小屋組の類型(左:さす組み、右:おだち組み)(安藤邦廣『茅葺きの民俗学』はる書房、1983年、80頁)
白川村の葺き替え(左:下地の修理、交換、右:茅を葺き上げる)(同上書、166~167頁)
米倉(家屋紋鏡、奈良県佐味田宝塚古墳、古墳前期、4世紀、宮内庁蔵、佐原真・春成秀爾『歴史発掘5―原始絵画―』講談社、1997年、43頁)
同図描き起こし(堀口捨己氏、池浩三『家屋文鏡の世界―古代祭祀建築群の構成原理―』相模書房、昭和58年、48頁)
高床式倉庫か住居(家屋紋鏡、奈良県佐味田宝塚古墳、古墳前期、4世紀、宮内庁蔵、同上書、49頁)
倉(プ)模型(北海道アイヌ、木製、19世紀、ウィーン万国博覧会事務局引継、東博展示品)
家屋模型(メラネシア、ニューギニア島、木製、20世紀初め、田中梅吉氏寄贈、東博展示品)
 岡村渉『弥生集落像の原点を見直す―登呂遺跡―』(新泉社、2014年)に次のようにある。少々長くなり、図版も引用させていただき恐縮であるが、「神庫(ほくら)」とは何かについて検証する立脚点にしたいのでご寛恕願いたい。
図30 図19(33頁) 図31 図32
 これまでにみつかっている掘立柱建物跡の一・五倍以上ある大型の掘立柱建物跡(一間×三間、三・八メートル×六・九メートル)が、居住域の東部でみつかった(図30・図19参照)。そこは区画溝を南側に移し、居住域を広げた部分にあたる。建物の端から北に三メートル離れた主軸線上に、主柱穴より浅い柱穴がある。反対側は戦時中の土取り工事で深く削られているため、柱穴の存在を確かめることができなかったが、近隣の小黒(おぐろ)遺跡や汐入(しおいり)遺跡でみつかった独立棟持柱付き掘立柱建物跡(独立棟持柱建物)と類似することから、同じ独立棟持柱をもつ構造と考えられる。独立棟持柱が建物本体から遠く離れていること、小黒遺跡例での柱穴内の礎板の傾きおよび主軸方向に長い柱穴の形状などから、棟持柱は垂直ではなく内傾していた可能性が高い。銅鐸(どうたく)に描かれた建物の棟持柱は垂直であるが、兵庫県の養久山(やくやま)・前地(まえじ)遺跡出土の絵画土器の建物では棟持柱が傾いて描かれているため、両タイプがあってもよいだろう(図31)。
 柱穴の深さや大きさは倉庫と大差ないが、すべてに礎板が敷かれている。床高は、倉庫と同じなのか、大きさに比例して少し高いのか、それとも別の構造のため低いのか、意見が分かれるところである。別の遺構から幅・厚さとも普通の倍もある大型の板梯子緒が出土しているため、大きさに比例した床高になってもいいように思う。(40~41頁)
 以上、この建物は、規模や構造の特殊性と出土遺物から、祭祀的性格をもつ建物(祭殿)と考えられる(図32)。これまで集落はふだんの生活と生産に関係する住居と倉庫だけで構成されると考えられていたので、このような建物がみつかったことは、集落像に大きな変更をせまるものとなった。こうした祭祀的な建物は、弥生時代後期には登呂のように居住域の内部に配置されていたが、古墳時代になると汐入遺跡や小黒遺跡のように、居住域から完全に独立した空間に配置されるようになると考えられる。(42頁)
祭殿ないし“神庫”(静岡市登呂遺跡復元建物。「wonderyama のマニアックな世界」様。)
享保初年宮社図絵(右:正殿、左:東宝殿、福山敏男『神社建築の研究』中央公論美術出版、昭和59年、100頁。東宝殿について、「続日本紀ニ所謂ル財殿是也」とあり、梯子が転がっている。防犯上から、ふだんは取り外しておいたことを示す意図で描かれている。玉砂利が敷かれるのにも、防犯上の意味があったものと思われる。正殿と宝殿の「鎰」の数を比較されたい。この梯子は組んだもの(猿梯子)で、抉ったもの(一本梯子)ではないように見える。※なお、この図版について、筆者は元をたどることができませんでした。岩波書店の国書総目録第二巻に載る「宮社絵図〈内宮 きゅうしゃえず〉」(神宮文庫蔵)とあるものなのかどうかわかりません。ご存知の方お教え下さい。)
豊受大神宮(外宮)西宝殿(桁行三間、梁間二間、切妻造、茅葺、正面5.91m×奥行3.63m、横山浩一・鈴木嘉吉・辻惟雄・青柳正規編著『日本美術全集第1巻 原始の造形―縄文・弥生・古墳時代の美術―』講談社、1994年、112頁)
森田克行『よみがえる大王墓―今城塚古墳―』新泉社、2011年、4頁。「高槻市インターネット歴史館」様参照。)
 どうやら、古代においては、高床式建物の屋根の棟木は、その両端に位置する掘立柱(棟持柱)によって支えられる構造であったらしい。太田博太郎『日本住宅史の研究―日本建築史論集Ⅱ―』(岩波書店、1984年)は、現代にみられる家屋から検討を始められている。

 屋根の構架法についてみると、市街地の住宅では、切妻でも、寄棟でも、人母屋(いりもや)でも、構造法は同じで、いわゆる和小屋という、梁の上に束を立てる方式である。しかし農家をみると、切妻のものを別として、寄棟のものでは、合掌に構架法をとっている(挿図6)。寄棟に重要な隅木は、この場合そう大きな役目を果していない。このような構造方式の違いは、決して現在に近い時代に生じたものではなく、よほど古い時代からの伝統によるものであろう。……民家における合掌(三本の叉首(さす)によって構成される)型の小屋組は、神社にはみられない。神社は束あるいは柱によって棟木を支える。このような構造方式の違いは、単なる形とは違って、簡単に変わるものではないから、その起源は非常に古いとみなければならない。(12~13頁)
図6 農家の小屋組
 筆者は、太田先生の構造方式不変説に異議を唱えたい。むしろ、表面上の見てくれは同じにして、構造を丈夫にすることは多くあるように思われる。今日、戸建て住宅において都市部では地代がかかるためかハウスメーカーの造る住宅はとても軒が短い。ほとんど雨樋分ぐらいしかないことも多い。建材の防水性能が向上しているから、壁面が雨に濡れても平気なのである。それでも、何となく軒らきしものを残して作られている。2×4住宅や軽量鉄骨造でも、外見上は軸組構法と大差なく仕上げられていることがある。従来の瓦に似せた軽量金属瓦をわざわざ拵えて屋根を葺いていることもある。太陽光パネルも、いかに屋根になじむようにするか見た目にもポイントが置かれている。機能的に条件を整えれば、内部の構法はどうでもいいが、外見は、通念となっている「家」らしくしようと考える癖があるらしい。そういう視点から物事を捉えるなら、神社の屋根が実はその昔、太田先生の示されている「農家の小屋組」であったのが、外からはわからないように中だけ変えて、梁から立つ束に棟木を乗せるように変えたとは言えないだろうか。伊勢神宮に、古くは暴風に倒壊することが頻繁にあった記録が残されており、後世には倒壊しにくくなってきている。先にあげた安藤先生の茅葺き屋根の小屋組でも、「さす組」、「おだち組」に大別され、その折衷型もよく見られるとされている。小屋組の構造は外からはわからない。みな一律に“茅葺き屋根”である。
左:復原された高床式倉庫の小屋裏、右:骨格模型(「九州~列車で行こう~下町親父の珍道中」様ブログ)(大阪歴史博物館、法円坂倉庫群跡
左:中世における内宮正殿梁間推定断面図(丸山茂『神社建築史論―古代王権と祭祀』中央公論美術出版、平成13年、251頁)、右:正倉院宝庫復原断面図(福山敏男『日本建築史研究』墨水書房、改訂版、昭和47年、388頁)
(つづく)
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記紀の「諺」 其の三「雉の頓使」

2016年12月07日 | 論文
(承前)
 B.雉の頓使
 ……即ち天若日子(あめわかひこ)、天つ神の賜へりし天(あめ)のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。……其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下(くだ)したまへば、天若日子が故床(あぐら)に寝(いね)たる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき。〈此れ還矢(かへりや)の本なり。〉亦、其の雉、還らざりき。故、今に諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は是れなり。(記上)

 この諺について、先行研究と呼べるほどの論考は管見にして見られない。西郷信綱『古事記注釈 第三巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)に解説がある。

 雉(キギシ)の頓使(ヒタツカヒ) ヒタツカヒのヒタはヒタスラ、ヒタフルなどのヒタで、まっすぐに一途なこと、おそらく「一(ヒト)」に由来する語。で、行ったきり還って来ぬことを「雉の頓使」といい慣わしたのだろう。「雉の」というのは、飛び立つことあわただしく、翔舞するすべを知らぬこの鳥の習性と関係がある。これは「キギシノ、ヒタツカヒ」と二句構成に読むべきである。コトワザは広くいって詩の一体で、必ずしも定型は踏まないが、きびきびした簡潔さを持たねばならなかった。コトワザが多く二句構成になるのは、それがこうした要求にもっともよく適合する形式であったことを暗示する。(238頁)

 西郷先生の“解説”は当然のことであり、正しい。行ったきりで還らないことを言い表わしている。けれども、古代における「諺」とは何か、について検討されなければならない。わかりやすく言えば、「雉ハ頓使」なる言い方は「諺」とはならず、「雉ノ頓使」は「諺」という概念に該当した。雉は何か、鳥である。助詞のノは、連体修飾語を作ったり、所有・所属、同格、ならびに比喩の、~のようなの意を表す。ここで、「雉」は使者となっている。使者のことをいう名詞「使(つかひ)」は、動詞「使ふ」の連用形であるとされている。「雉が使ふ」を助詞ノによって単に「雉の使」という連体修飾語としたのではない。「使」は行って用を足したら還ってきて報告しなければならない。それができていないことを言い表わしたのが、「雉の頓使」という言葉である。

 天飛ぶ 鳥も使ぞ 鶴(たづ)が音(ね)の 聞えむ時は 我が名問はさね(記84)

 ここに、鶴が「使」に譬えられている。現実に伝書鳩のように手紙を伝えるわけではない。けれども、鶴は、来たら還っていくもの、行ったら還って来るものと認識されていた。なぜなら、渡り鳥だからである。季節の変化に応じて大陸と列島とを飛び渡る。「使」とは往還するものである。毎日、スーパーへ買物に行くことはお使いである。行って買って還ってくる。買った商品を忘れてきてはお使いにはならない。買物は済ませたが、認知機能が低下していて還れなくてはお使いにならない。渡り鳥は「使」となる鳥であると考えていた。スズメのような小鳥や、カラスのような大きな鳥も留鳥としている。キジもその概念で「使」とはならない鳥の仲間にしていればいいところを、なぜか一方的にのみ渡る鳥であると言っている。行ったきりにしか渡らない鳥であると言っている。それは洒落である。その理由は、この雉という鳥の呼び名にある。
ジョン・グールド「アジアの鳥類」(1850~1853年、ロンドン、東洋文庫ミュージアム展示品)
 雉のことは、「きぎし(岐芸斯)」(記2)、「きぎし(枳々始)」(紀110)、「きぎし(吉芸志)」(万3375)といった仮名書きや、歌謡の3音使いから、上代にはキギシ(キ・ギは甲類)の形が多く用いられていたと考えられている。しかし、和名抄に、「雉 広雅に云はく、雉〈音智、上声の重、岐々須(きぎす)、一に岐之(きし)と云ふ〉は野鶏也といふ」とある。神代紀第九段本文の兼方本の傍訓には、「無名雉」箇所に「キシ」とある。一般にキジと濁って訓まれているが、表記からは清音であった可能性も残っている。上代に古語としてキギシ、キギスばかりか、キシと清音で呼ばれていたのではないか。キシ(キは甲類)とは、「来(き、キは甲類)し」と同音である。現代語訳すると、「来た」である。来た鳥は還るはずである。渡り鳥のはずである。ところが「翔舞するすべを知らぬ」から還るに還れない。変な鳥である。つまり、雉は「頓使」なわけだが、「雉ハ頓使」なる命題は、真であるにすぎない。命題を語っているのではない。雉の、雉による、雉のための「頓使」を言わんとしている。属性を修飾限定し、同格、比喩を表わす助詞の用法として、「雉ノ頓使」とあるから、はじめて「諺」と呼ばれるにふさわしい性格の言辞となる。行ったきりで還らないことを「雉(きし)」という言葉自体が表わしている。その同語反復を「諺」化して言い表したのが、「雉の頓使」という言い方である。
 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波国語辞典』(岩波書店、1974年)に、連体助詞「の」に見える古代的心性について明解な解説が載る。

……所有と所属とでは、力の関係は逆であるが、古代的心性の表現としては、所有することと所有されることとはしばしば混同されたので、「の」にも所有と並んで所属の用法が存在する5。また、古代的心性においては、所属しているということは、その所属しているものの属性を保持していることでもあるので、「の」は、属性を持つことを示す用法を展開した。「あはれの鳥」は、「あはれ」に所在する鳥、つまり「あはれ」に所属する鳥であり、「あはれ」という属性を保有する鳥である6
  (5)「み船さす賤男伴は川の瀬申せ」<万四〇六一>「初春はつね今日玉箒手にとるからにゆらく玉の緒」<万四四九三>
  (6)「くれなゐ色も移ろひ」<万四一六〇>「聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれ鳥といはぬ時なし」<万四〇八九>(1443頁)

 すなわち、「雉の頓使」は、「雉」=「来し」に所属する「頓使」であり、「雉」=「来し」という属性を保有する「頓使」であるという滑稽な言辞である。それが成り立っているから、まさに「諺」=コト(言・事)+ワザ(技・業)なのである。そして、助詞ノの用法の広がりに合わせて、「雉の頓使」とは、「雉が頓使ふ」でも、「雉である頓使」でも、「雉のような頓使」でもある。雉とは「来し」だけで還らぬ鳥だからである。
 西郷先生の仰られる「二句構成に読むべき」とするお考えは、後代に諺と呼ばれている言い方、例えば、「犬も歩けば、棒に当たる。」、「論より、証拠。」、「七転び、八起き。」などに当てはまる。ピッチャーが投げたボールがこちらに到達する間に変化球となって曲がって来るものが、後代の諺である。「二句構成」に読まなければバットで打ち返すことはできない。了解することができない。それに対して、古代に「諺」とされた言い方は、コト(言=事)+ワザ(技・業)なのである。言葉自体が意味を語ってしまい、すなわち、言辞の次元に飛躍があって、論理階梯を無視した洒落が存在している。だからこそ、わざわざコトワザという名称をあてがっている。「雉の頓使」とは、「『きし(雉・来し)』の頓使」であり、来た鳥なのに還らない雉という鳥、という何とも腑に落ちない変な言葉ということを言っている。
 西郷、前掲書に、「天若日子の話が『雉の頓使』という諺の本縁譚扱いされているのはなぜか。書紀が一方これを『反矢可畏』という諺の本縁譚にしているところから見て、この話と『雉の頓使』とが最初から結びついていたとは考えにくい。多分、それは古事記において結びついたのだろう。」(同頁)とされている。こういった解説は多く行われている。記紀の歌謡と地の文との関係がわからないと、歌は後からその部分へと挿入されたのであるといったおざなりな解釈である。自分がわからないからといってテキストのせいにしてはならない。この部分、紀に「本縁譚」とされている箇所には、

 此(これ)世人(よのひと)の所謂る、返矢(かへしや)畏(い)むべしといふ縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段本文)
 此、世人の所謂る、返矢(かへしや)畏るべしといふ縁なり。(神代紀第九段一書第一)

とある。「縁」とあるだけで、「諺」とはない。記に、「故、今に諺に『雉の頓使』と曰ふ本は是れなり」などとしらばっくれて言っている。後代の意味の諺と取り違えてはいけない。「石の上にも三年」という後代の諺を座右の銘に刻むのとでは、「諺」という概念が異なる。来た鳥なのに還らない雉という鳥、という変てこな言葉のもともとは天若日子の話に登場しているのですよ、と古事記が話している。何の不思議もない。ネタなのだから、笑うべきところである。「諺」の「起源説話を絶えず求めていた」(西郷、前掲書、同頁)のではなく、「雉」という名の鳥が出てきたところでついでにこの言葉、キシについて面白話をしておこう、というのが古事記のスタンスである。記紀の説話とは、話(咄・噺・譚)である。それ以上でもそれ以下でもない。
(つづく)
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青の洞窟

2016年12月04日 | 無題
 美しいとはこういうことである。(写真は下手だが)
錦鯉(上野公園錦鯉品評会)
瑠璃釉魚藻文鉢(中国、明時代、「大明宣徳年製」銘、高10.2cm、口径15.0cm、松岡美術館展示品。「中国の陶磁 明から清まで」展(~2017年1月15日)
 どうして人はわざわざこういうことをするのか? 誰に頼まれたのだろうか?
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記紀の「諺」 其の二「地得ぬ玉作り」(「上代語ニュース」でPDFにした)

2016年11月28日 | 論文
(承前)
 A.地得ぬ玉作り
 故、其の軍士等(いくさびとども)、還り来て奏言(まを)ししく、「御髪、自(おのづ)から落ち、御衣易(やす)く破れ、亦、御手に纏(ま)かせる玉の緖も便ち絶えぬ。故、御祖(みおや)を獲らずて、御子を取り得まつりき」とまをしき。爾に天皇、悔ひ恨みたまひて、玉作(たまつく)りし人等を悪(にく)みて、其の地(ところ)を皆奪(と)りたまひき。故、諺に「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」と曰ふ。(垂仁記)

 垂仁記では、天皇方が、皇后の沙本毘売命(さほびめのみこと)を奪回しようと力士(ちからひと)を使ってつかませようとしたとき、髪の毛や衣服、環(たまき)がみなすべり抜けて失敗した。それで天皇は、地団駄を踏み、やり場のない怒りを玉作りに向け、玉作りの「地(ところ)」をすべて奪ったという。だから、諺では、「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」というのであると話が締めくくられている。話(咄・噺・譚)のオチになっているはずである。稲城のなかの皇后を奪おうとしたら、奪えなかったから、玉作りの「地(ところ)」を奪ったと言っている。なぜ、皇后を奪えなかったか。表面がぬるぬるしていたからだと軍士は報告している。すべてを玉作りひとりのせいにするのは不思議である。しかも、玉作りを磔・獄門にしたとか、島流しにしたとか、といったことではなく、「地(ところ)」を取り上げたと言っている。だから、諺では「地(ところ)得ぬ玉作」ということになっているというが、玉作部が土地所有を禁止されていたのか、玉作部が漂泊の民であったのか不明である。仮に土地を没収されたとして、それが諺になるであろうか。コト(言・事)+ワザ(技・業)に当たっていると面白がることができるであろうか。腰掛け鎌継ぎのような言葉の技が見られるのであろうか。
 「地(ところ、ト・コ・ロはみな乙類)」には同音に、ヤマノイモのことをいう「薢(ところ、ト・コ・ロはみな乙類)」がある。蔓性植物で、トコロヅラとも呼ばれる。

 薢 崔禹食経に云はく、薢〈音解、度古侶(ところ)、俗に◆(草冠に宅)字を用ゐ、漢語抄に野老二字を用う。今案ずるに並びに未だ詳らかならず。〉は味苦く甘さ少なく毒無し。焼き蒸して粮に充つといふ。兼名苑注に云はく、黄薢は其の根黄白にして味苦き者也といふ」(和名抄)
 なづき田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻(もとほ)ろふ ところづら(登許呂豆良)(記34)
 皇祖神(すめろき)の 神の宮人 冬薯蕷葛(ところづら) さねかつら 弥(いや)とこしくに 吾返り見む(万1133)
 …… 懸け佩きの 小太刀取り佩き 冬▲(草冠に尉の偏に刄)蕷都良(ところづら) 尋(と)め行きければ 親族(うがら)どち ……(万1809)

 和名抄にはまた、「薯蕷 本草に薯蕷は一名に山芋〈夜万乃伊毛(やまのいも)〉と云ふ。兼名苑に藷藇〈音与、暑・預同じ也〉と云ふ」とあって、「芋(いへのいも)」=サトイモと類別されている。出雲風土記・飯石郡条に、「萆薢・……・薯蕷・……」とあって、前者を「ところ」、後者を「やまついも」と振られている。だから異種であると考えられはするが、ヤマノイモ科の植物でよく似ている。現在、トコロと呼ばれる植物は、オニドコロ、ヒメドコロ、タチドコロがあり、ヤマノイモ同様やはり根の肥ったところを食べた(注2)。和名抄にあるとおり、オニドコロやタチドコロは苦みがあるが、あく抜きして食べたり、薬用にしたことがあったようである。両者は似ているから言葉も混用されることがあったであろう。
 なぜ、ヤマノイモ類をトコロというかと言えば、ヤマノイモは山の芋で、採集作物である。夏場は蔓が伸びて行ってハート形の葉によってそれがヤマノイモであるとわかるが、採集するのは晩秋から冬期である。葉が落ちていると、どこにヤマノイモの肥った根があるかわからない。記憶を頼りに、ある一点を掘っていくと、ヤマノイモを収穫することができる。だいたいこのあたりであった、などということでは、土を掘り返すのが大変でとてもやる気にならない。そこのところ、と一点を決めることが肝心である。そのためには、まだ黄葉の残っているときに蔓をたどって掘るか(その場合も蔓が途中で切れていたらもうわからない)、蔓の根元にあらかじめ印をしておくかしておく。麦の種を播いておき、冬場に青々としていることで識別することも行われたという。つまり、ヤマノイモを得るには、場所の特定が欠かせないのである(現在は畑で栽培されており、野生のものを自然薯(じねんじょ)と呼ぶ。ヤマイモは、後に中国から入ってきた近種である。交雑もあるらしい)。したがって、トコロ、トコロヅラと言われたものと考えられる。
 ヤマノイモは食べる時に擂りおろす。卸し金を使っても構わないが、擂鉢ですりおろし、手に持っていたイモが形を留めなくなってからも、さらに山椒などの堅い棒を擂粉木としてとことんこね回すことの方がふさわしい。粘りが出ておいしいからである。古代の土器の擂鉢には、筋目(擂目)がない。今想定するなら、乳鉢の大きなもので、その鉢形の正しいものと思うと近いかもしれない。縄文時代の石皿は叩きつぶすことが主眼であったかもしれないが、それが発展したものと思われる。調理具でありつつ、食膳具でもある。土器のざらざらの器面に当てて擂れば、ヤマノイモのような柔らかいものは簡単に擂りおろせ、ぐるぐる回しているうちに粘りがどんどん出て、終いに鉢を逆さにしても落ちないほどになったであろう(注3)
擂鉢(小松茂美編『日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、昭和62年、85頁)
擂鉢(陶邑TK321号窯跡出土、8世紀、Ⅳ型式1段階、中村浩『泉北丘陵に広がる須恵器窯―陶邑遺跡群―』新泉社、2006年、84頁(注4)
蒲鉾屋(熈代勝覧模本、原本は文化2年(1805)、三越前駅コンコース展示品)
脚付石皿(青森県佐井村出土、縄文時代後期~晩期、前2000年~前400年、東博展示品)と磨石(青森県八戸市南郷区島守字荒谷出土、縄文時代後期~晩期、前2000年~前400年、東博展示品)
 垂仁記の話で、皇后を奪還できなかった理由は、髪も服も玉も皆ぬるぬるしていたからであった。ヤマノイモ状態である。玉作りは、勾玉を作るのだが、勾玉はヤマノイモが蔓茎の葉の腋に作る零余子(むかご)によく似ている。この零余子は食べられる(注5)。秋になるとスーパーでも手に入る。味は地中の芋と同じであるとされるが、筆者は少し劣るように感じる。種は花が咲いてできるが、この零余子もヤマノイモの繁殖に大いに役立っている。イモ類だから、ヤマノイモ自体を切って植えておいても芽が出るし、葉を挿しても芽が出るとも研究されている。自然界においては、零余子の役割は見逃せない。種よりも大きいから育つのが早い。だから、零余子は食べられるからといってどんどん食べてしまえば、肝心のいちばんおいしいヤマノイモの収穫量は減ってしまう。零余子を食べるようとすべて取ってしまい、多くの場合、蔓が伸びて行っているからそれを引っぱって切ってしまうこととなる。冬になってから、もはやどこにヤマノイモの肥った根があるのかわからない。トコロが特定できない。零余子=勾玉ばかり取っていると、薢(ところ)が得られない。「薢(ところ)得ぬ玉作り」である。ぬるぬるについての咎はすべて玉作りにあると思われ、「地(ところ)得ぬ玉作り」とされた。
むかご(10月初旬。11月下旬にこのポイントのむかごはなくなっていた。玉作りが取っていって食べたのであろう。)
むかご(11月下旬、民家の垣根のカナメモチに絡まっている。)
勾玉(硬玉勾玉、大阪府八尾市郡川西塚古墳出土、古墳時代、5~6世紀、桑野與治郎氏寄贈、東博展示品)
玉作り道具と材料(上列:砥石、中列:はずみ車と錐と不明鉄片、下段:硬玉、富山県朝日町浜山遺跡第1号工房址出土、古墳時代中期、朝日町教育委員会蔵)(大田区立郷土博物館編『ものづくりの考古学―原始・古代の人々の知恵と工夫―』東京美術、平成13年、42頁)
 玉作部のことは、タマスリベとも呼ばれる(注6)。勾玉を擂るからである。ヒスイなどの鉱物の形を整えるのに磨り、穴を開けるときには舞錐を使った。鉄器のない時代は、舞錐の先が竹で、細かな砂を散らして砥ぐように使ったとされている。ヤマノイモ同様、穴までもスル(擂・摺)対照なのである。スルことが得意な玉作りは、天皇に胡麻を擂るのが上手だったと考えられていたのであろうか(注7)。ところが、ヤマノイモを擂るのが上手らしい沙本毘古王(さほびこのみこ)側に、してやられたのである。皇后と御子をともに掠め取る、すなわち、掏ろうとしていたのにできなかった。同じスルことの失敗は、スルことの専門職、玉作りにある。だから、垂仁記のこの箇所で、「諺」のコト+ワザとなっている。言葉が無文字であった時代の人の脳の働かせ方である。

(注2)木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年、403~407頁。種の比定に厳しく、万1133番歌の「冬薯蕷葛」の「冬」字に疑問を呈されている。「そもそもヤマノイモの仲間は冬に落葉し蔓も枯れるから、冬季に認識すべき部位は地上になく、また冬に限って掘り採ることもしないから、まったく的外れであるのはいうまでもない」(404頁)とされ、本草経集注の読み間違いから生じたのではないかと指摘されている。けれども、豪雪地帯を除けば、目印をつけておいて掘りに行くことは必ずや行われていたことであろう。食べ物で、しかも、美味しいものに関して、採集者は知恵を働かせたに違いない。枯れた蔓が干乾びて木にまとわりついていて、零余子がぶら下がっていたなら、その根元のトコロには、トコロがある。自然薯の旬は11月中旬から1月である。零余子は、その少し前、10月から11月中旬である。
(注3)同書には、「内面に条痕がみられないのですり鉢とするよりも練り鉢とすべきかもしれない。口縁部に注口がもうけられている」と注釈されている。台座をひと回り大きくして安定させている点や、現在の金属製やプラスチック製のボールとは形状が異なって側面が直線的である点から、ハンバーグを捏ねるような内容物どうしを“練る”作業もさることながら、内容物を容器に当てて“擂る”ことのほうに眼目があったと思われるがいかがであろうか。内容物とは、すなわち、ヤマノイモである。もちろん、ヤマノイモを美味しいとろろ芋に仕上げるためには、擂り、練り、捏ねる、の作業がすべて行われる。あてがい回すことに長けている容器に思われる。筆者は、実際に触れないので、実験考古学の方々からのご教示をお願いしたい。
(注4)スリバチ(擂鉢)という言葉自体は新しいものらしい。中古にも見られない。擂目を入れる技法が確立してから、別してそう呼ばれるようになったのかもしれない。陶器技術の発達がなければ擂目は入れられなかったということであろうか。病草紙の絵は、須恵器の色に見えるが、熈代勝覧の図と体勢は変わらない。絵巻物では他に、慕帰絵(慕帰絵々詞 巻2、慈俊模写、国会図書館デジタルコレクション(13/31))にも描かれている。擂目が入っているかどうか、確かめられたい。小田和利「須恵器擂鉢について」『九州歴史資料館 研究論集』第38号(2013年)に、須恵器擂鉢の特殊な使い方を想定する説がある。鉢形容器を逆さに伏せて底部の刺突孔・線刻をおろし金の突起と同様の役目を担うとする考えである。
(注5)オニドコロやタチドコロは零余子をつけない。「地得ぬ玉作り」という諺が言葉として成り立っていることから出発するなら、ヤマノイモとオニドコロなどとの識別ができていて、あくのない自然薯を得られないオニドコロなどだから、玉作りは勾玉を作ってムカゴ(珠芽)と見立てて葉の腋に添えたのだという話なのかもしれない。けれども、その場合、トコロ(地=薢)という本義の面白味を失うことになる。言葉がコト+ワザとして示されているのだから、本文に述べたような解釈が行われていたと考えるのが妥当であろう。
(注6)寺村光晴『古代玉作形成史の研究』(吉川弘文館、昭和55年)には、「『不地玉作』の語が、特に『諺曰』とあるように、また『古事記』ではここにのみ『玉作』の語が使用されており、他に『玉作』の語がみられないことなどから、本来は別の話であったものが、後に『垂仁記』に挿入されたという疑いが出てくる。とすれば、[古墳時代の]第二期玉作遺跡の消滅という実体が、この伝承に投影されているように思われてならない。」(529頁)とある。記紀の歌謡を地の文と別にあったとする考えも根強い。考古学の研究者からは、前方後円墳の横穴式石室出現が、黄泉国という考え方に与ったとする説も提出されている。記紀のお話に当時の現実がどのように投影されているのか、少なくとも科学的には検証することはできない。むしろ、記紀に載るお話は、“科学”を当て嵌めようとする近代的なものの見方に真っ向から反対しているように思われる。寺村先生のお考えの最大の難点は、「地得ぬ玉作り」という変てこな言い回しがどうして「諺」なのか、説明されない点にある。
(注7)今日、胡麻を擂るという言い方で、上司にこびへつらう意味に用いられる言い方がいつから生れたか定かではないが、近世も後期になってからの用例しか認められない。胡麻を擂っていると油がにじみ出てきてべたべたくっつくことに由来するとする説や、お寺で小坊主が上手に胡麻を擂ると和尚の機嫌が良くなることに由来するとする説がある。胡麻自体は、本邦では縄文時代の遺跡から炭化したものが出土している。養老令・賦役令に、「胡麻油七夕」とあり、つづけて、「麻子油七夕、荏油一合、曼椒(ほそぎ)油一合、猪脂三合」などと油脂類が列挙されている。和名抄に、「胡麻 陶隠居本草注に云はく、胡麻〈音五万(ごま)、訛りて宇古末(うごま)といふ〉は本、大宛に出づるを以て之れを名づくといふ」、また、「油〈擣押附〉 四声字苑に云はく、油〈以周反、和名阿布良(あぶら)〉は麻を迮りて取る脂也といふ。迮〈側陌反、字窄と通ず〉は迫也。狭也。内典に云はく、胡麻は熟し已に子を収め之れを熬りて擣き押す〈俗語に之路無(しろむ)と云ふ〉、然らば則乃ち油の出るを得といふ〈涅槃経文也〉」とある。関根真隆『奈良朝食生活の研究』(吉川弘文館、昭和44年)によれば、正倉院文書には、胡麻は、同じ容量の米の1.5ないし2.5倍の値段であったとされている。上代の油の大方は胡麻油であったらしい。食用ばかりでなく、燈用にも用いられたことが知られている。なお、(注3)との関連にて、ごますりスプーン(商品名:ごますり革命)という逆転の発想による商品が、テレビ東京の番組WBSのトレンドたまごのコーナーで紹介されていた。研究者は、もの→用途へ考えをめぐらすが、実地の人たちは、用途→ものへと考えをめぐらせるようである。
 胡麻の主用途が油であるとして、それが圧搾によってしぼられたものであったとすると、上代においては、スル(擂)という動詞とは結びついていなかったと考えられる。現在目にする擂目の付いた擂鉢が中世に開発されたものであることを考え合わせても、鉢でスル(擂)という行為は、胡麻ではなく、とろろ芋を生み出すヤマノイモのぬるぬる感と密接に結びついているものと考えられる。新撰字鏡には、「▼(手偏に同) 大公反、平、磨也、止支須留(とぎする)也」とある。トグ(研・砥・磨)こととスル(擂・摺・擦・摩・磨)こととの親近性をにおわせる。勾玉、ヤマノイモ、硯に墨、ならびに財布が、スル対象の代表といえるのであろう。誰も論じていないことであるが、スルことには、必ず、対象との間のあてがう角度を気にすることがつきまとう。角度を一定にするのではなく、手に持つ手首を回しながら回すのがうまいスリ方である。なお、善良な市民の方々には、掏摸(すり)の技法は、池波正太郎「女掏摸(めんびき)お富」『鬼平犯科帳2』(文芸春秋(文春文庫)、2000年)を参照されたい。
(つづく)

(追記 2016.12.04)
 擂鉢の利用について、染料を採取する際に用いられていたことを述べておく。植物の花弁や実、樹皮、鉱物をすり潰すのに必要とされた。鉱物の場合、擂鉢に対して擂粉木では当たらないから、乳鉢に乳棒を使うように石製の擂棒を使ったのであろう。土佐光起・本朝画法大伝(元禄3年(1690)成立)に、「緑青製法ハ先鉢に入水と膠(サ)を入石乳木(スリキ)にて軽く少研(スリ)て……」などとある。目黒区美術館「色の博物誌―江戸の色材を視る・読む―」展(~12月18日)に、顔料工房遺跡の遺品が展示されている。その隣の画像展示に、紅花餅(はなもち)製造工程で擂鉢を使う様子も見ることができる。
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印刷美術館「武士と印刷」展 摺られた武士と野生の牛

2016年11月27日 | 無題
「源頼光朝臣丹波國市原野にて四天王の勇士をもちて鬼童丸を退治するの圖」(歌川国芳、大判錦絵3枚続、江戸時代、弘化元~3年(1844~46)、~12月4日(日)まで展示、図版はThe British Museum様サイト)
 印刷美術館「武士と印刷」展(~2017年1月15日(日)迄)にて、鬼童丸の牛皮を被っている図を見ました。大判3枚の真ん中です。鬼童丸(鬼同丸)は、13世紀に成った古今著聞集・巻第九・武勇に、源頼三の話にあり、それを図にしたものです。「[鬼同丸]……くらま(鞍馬)のかたへ向ひて、市原野に辺にて、便宜の所をもとむるに、立ち隠べき所なし。野飼(のがひ)の牛のあまた有りける中に、殊(こと)に大なるを殺して、路頭に引ふせて、牛の腹をかきやぶりて、其の中に入りて、目ばかり見出して待けり。」
 源頼光の先回りをした鬼童丸が、市原野で放し飼いの牛を殺して体内に隠れた様子が描かれています。さて、これは放し飼いの牛であって、野生化した、ないし、半野生化した牛を言っているのではないでしょう。けれども、図には、鼻輪が見られません。特に大きな牛を選んで殺しているので、農耕や牛車用に使っていたなら鼻輪があったはずですし、肉食用だったのでしょうか。(国芳がどう考えていたのかにすぎません。)
 今日、宮崎県の都井岬などには、半野生化した馬がいます。では、牛が日本列島において、野生化したような状態のことがあったかどうか、これがわかりません。平安時代後期に成ったとされる鳥獣人物戯画には、野生の牛、ないしは、放し飼いされている牛が描かれています。これをもって野生牛がいたとは言い切れません。
鳥獣人物戯画乙巻(「Don Panch 橿原日記」様サイト)
 古く日本書紀に、「別(こと)に大連に勅して云はく、『牛を難破(なには)の大隅嶋(おほすみのしま)と媛嶋松原(ひめしまのまつばら)とに放て。冀くは名を後に垂れむ』とのたまふ」(安閑紀二年九月条)とあります。この記事から、牛が放たれて野生化していたなどとわかる由もありません。
 安閑天皇(広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと))は四人の妻がいたけれど子宝に恵まれず、「万歳(よろづとせ)の後に朕が名絶えむ」ことを憂慮し、「物に因りて名を為(な)」そうとして、「屯倉(みやけ)の地(ところ)を建立(た)てて後代(のちのよ)に留めしめ、前(さき)の迹(あと)を顕さしめ」(安閑紀元年十月条)たとされています。名前を残すことと牛を放つことと何の関係があるのでしょうか。この点について、まだ誰も解明した人はいません。「解釈できない」(岩波書店大系本日本書紀)、「不明」(小学館新全集本日本書紀)とされています。
 安閑天皇の名前は、もともと、勾大兄(まがりのおほえ)といいました。曲がっている大きな柄の付いたものとは、犂(からすき)が思い浮かびます。牛に引かせて耕耘するのに使います。だから…………、牛が後の世に生き残っていれば、なるほど、犂を引いたはずの牛がいるのだから、勾大兄という人もいたはずだ、という発想なのであろう、というのが、私の冒険的な仮説です。曲学の徒との批判を恐れることなく主張します。野生化して何代か経ていた後、本土に牛がいなくて難破の大隅嶋と媛嶋松原にいたとして、渡来人が来て、あそこには牛がいるのですね、と言ってきたとき、そうなんですよ、昔、マガリノオホエという人がいたからなのですよ、その名残りなのですよ、という“会話”が成り立つだろうというわけです。鼻輪がないのは牛も代を重ねているからなのです、という話にまとまるだろうという設定です。
牛に犂、馬に馬鍬を引かせるの図(六道絵 畜生道幅・絹本着色模本、中谷求馬写、文政5年(1822)、泉武夫・加須屋誠・山本聡美編著、金井杜道撮影『国宝 六道絵』中央公論美術出版、平成14年、163頁)
 このような仮説を立てつつ、どうやら日本で、牛が代を重ねて野生化、ないし、半野生化したことは、ほぼないであろうと思います。なかなかできなさそうだから、勾大兄という人は、自分の名前を残せるものなら残したいと冀って実験的に牛を放たたせてみたということではないか、と考えます。古墳時代ごろに渡って来させられたらしい牛が、馬以上に日本で野生化しにくそうな点は、羊が日本で野生化しそうもないという点に近いようです。草原が少ない、または、草原は田畑にするから、ごめん、あっちへ行っててね、と人に退かされたら、行き場がありません。鹿が野生化しているのは、山で木の葉を食べて暮らせるからでしょう。
 
 なお、「武士と印刷」展は、徳川家康以降、刷らせた武士がたくさんいて、膨大な資料の一部の、見ていて疲れるほどたくさんの展示がされていました。安土城のVR視聴もできます。お楽しみに。
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記紀の「諺」 其の一(総論)

2016年11月22日 | 論文
 記紀に「諺」と記された語は、全部で7例ある。その7例について、正面から論じられた先行研究はとても少ない。奇妙奇天烈でよくわからない語である。わからないことを考えていくのが“研究”であると思うが、わかることだけで全体像を組み立てることを良しとしているケースが多い。上代文学や神話学、日本古代史では、そうだったのか! という感動よりも、そうなのだ! という自己主張が行われている。弁護士のような人たちが多い。
 河野貴美子「『言』『語』と『文』―諺を記すこと―」河野貴美子・Wiebke DENECKE編『日本における「文」と「ブンガク」』(勉誠出版、2013年)に、漢書・韋賢伝の、「少子玄成、復以明経歴位至丞相。故鄒魯諺曰、『遺子黄金満籝、不如一経』。(少子玄成、復(また)明経を以て位を歴て丞相に至る。故に鄒魯(すうろ)の諺に曰く、『子に黄金満籝(まんえい)を遺すは、一経(いっけい)に如かず』と。)の部分の顔師古の注に括目されている。「これに対して、顔師古はまず『籝』とは陳留で民間に用いられる竹の器であるとする如淳の注を引き、……筺籠の類であるとする。そしていま注目したいのは、……『今書本』において『籝』字を『盈』に作るものがあるが、その場合も『容器いっぱい』の意となり、両方共に通じると述べることである。……『諺』が本来口づてに伝えられるものであるという性格を鑑みれば、これは『諺』のまさにそうした口頭語としての性質と、それが文字に表記される際にまま生じたであろう可変性、流動性を示す注記だとはいえないだろうか」(59頁)と鋭い着眼をされている。感動をそのまま口にされている。
 顔師古は、諺の注の字の説明に納得しているのである。諺が口頭語で飛び交って空中を流れて行ったその先に字に直した時、なるほど確かであったと確認が取れたということである。俗に言われていることのなかにも、確からしいことは結構あるということである。みんなの意見は案外正しい(スロウィッキー)。その点を見ながら、源為憲・世俗諺文の研究をされているのが河野先生の論文の本意なのであるが、筆者は、記紀の「諺」のとり上げ方に興味を覚える。
 古事記では4例、「諺曰」として諺がとり上げられ、そのうち「故諺曰」が3例、「故於今諺曰」が1例である。日本書紀では4例、「諺曰」として諺がとり上げられ、そのうち「故諺曰」が3例、「是以諺曰」が1例である。ダカラ、コレデモッテ、「諺曰」と書いてある。小咄の最後にそうやって諺が登場する。表現として「諺」風なものに、日本書紀には、「古人有云」、「古人有言」、「古人云」、「古人曰」、「古人所謂」、「時人因号」、「時人号」、「時人歌之曰」、「時人曰」などといった例があげられる。「古人」にダカラ、コレデモッテの類の論理記号付与はない。「時人」には、ダカラ(故・因・乃)、コレデモッテ(因此・是以)の冠する例も見られるが、地名の由来を説く場合(「号」、「作」)、以下に歌を歌う場合(「歌」)、人名の由来を説く場合(「曰」、「号」)がほとんどである。例外的に、亡き人の偉大さと死者への冒瀆を糺す場合(「故、時人云はく、『田道(たぢ)既に亡(し)にたりと雖も、遂に讎(あた)を報ゆ。何ぞ死にたる人の知(さとり)無からむや』といふ」(仁徳紀五十五年条))、神の教えの正当性を唱える場合(「故、時人曰く、『二社の神の教へたまへる辞(みことば)、適(まこと)に是なり』といふ」(天武紀元年七月条))といった例があるのみである。人知にまさることを指し示すために「故」と使っている。理由を示しているというより、理屈を示している。この2例で、「時人」は誘導尋問に陥らされている。
 紀の編者は、「諺」とその他(「古人云」や「時人曰」など)とを使い分けている。それは、認識として、言葉のなかでも「諺」とは特異なものであり、他の言葉遣いとは異なる方術と考えていたことを示すと考えられる。「諺」とある言葉は、後掲するように一筋縄では了解できない意味不明のものばかりである。一方、「古人」や「時人」の後に続く言葉に、比較的容易に理解できる。難しいものは、雄略紀の1例(「古人、云へること有り、『娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに(汝人や母似?))。』〈此の古語(ふるごと)未だ詳らかならず。〉」)のみである。「汝人は母似」の意味であることが確からしいのに、「此古語未詳也」なる注がついている。この1例には紀の編纂者の異常ともいえる作為が感じられるのでここでは考慮から除外する。当面の課題である「諺」については、「諺」という特殊な言葉を用いるに当たり、「故諺曰」というように、ダカラ諺でそう言うのだよ、と使われている。曲解せずに受け止めなくてはならない。まず、以下に「諺」の例を列挙する。

 A.地得ぬ玉作り
 故、其の軍士等(いくさびとども)、還り来て奏言(まを)ししく、「御髪、自(おのづ)から落ち、御衣易(やす)く破れ、亦、御手に纏(ま)かせる玉の緖も便ち絶えぬ。故、御祖(みおや)を獲らずて、御子を取り得まつりき」とまをしき。爾に天皇、悔ひ恨みたまひて、玉作(たまつく)りし人等を悪(にく)みて、其の地(ところ)を皆奪(と)りたまひき。故、諺に「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」と曰ふ。(垂仁記)
 B.雉の頓使
 ……即ち天若日子(あめわかひこ)、天つ神の賜へりし天(あめ)のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。……其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下(くだ)したまへば、天若日子が故床(あぐら)に寝(いね)たる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき。〈此れ還矢(かへりや)の本なり。〉亦、其の雉、還らざりき。故、今に諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は是れなり。(記上)
 C.神の神庫も樹梯の随に
 五十瓊敷命(いにしきのみこと)曰く、「神庫(ほくら)高しと雖も、我能く神庫の為に梯(はし)を造(た)てむ。豈、庫(ほくら)に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰く、「神(かみ)の神庫も樹梯(はしだて)の随(まにま)に」といふは、此れ其の縁(ことのもと)なり。(垂仁紀八十七年二月条)
 D.さばあま
 処処(ところどころ)の海人(あま)、訕哤(さばめ)きて命(みこと)に従はず。〈訕哤、此には佐麼売玖(さばめく)と云ふ。〉則ち阿曇連(あづみのむらじ)の祖(おや)大浜宿禰を遣して、其の訕哤(さばめき)を平(たひら)ぐ。因りて海人の宰(みこともち)とす。故、俗人(ときのひと)の諺に曰く、「佐麼阿摩(さばあま)」といふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(応神紀三年十一月条)
 E.堅石も酔人を避く
 故、是の須須許理(すすこり)、大御酒(おほみき)を醸(か)みて献りき。是に天皇、是の献りし大御酒にうらげて、御歌曰(よ)みたまはく、
須須許理が 醸みし御酒に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり(記49)
如此(かく)歌ひて、幸行(い)でましし時、御杖以て大坂の道中(みちなか)の大石(おほしは)を打ちたまへば、其の石走り避(さ)りき。故、諺に「堅石(かたしは)も酔人(ゑひびと)を避く」と曰ふ。(応神記)
 F.海人なれや、己が物から泣く
 是に、大雀命(おほさざきのみこと)と宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)との二柱、各、天下(あめのした)を譲れる間に、海人(あま)、大贄(おほにへ)を貢(たてまつ)りき。爾に、兄(え)は辞(いな)びて弟(おと)に貢らしめ、弟は辞びて兄に貢らしめて、相譲れる間に、既に多(あま)たの日を経ぬ。如此(かく)相譲ること、一二時(ひとたびふたたび)に非ず。故、海人、既に往還(ゆきかへり)に疲れて泣きき。故、諺に曰く、「海人なれや、己(おの)が物から泣く」といふ。(応神記)
 是に、海人(あま)の苞苴(おほにへ)、往還(かよふあひだ)に鯘(あざ)れぬ。更に返りて、他(あた)し鮮魚(あざらけきいを)を取りて献る。譲りたまふこと前(さき)の日の如し。鮮魚、亦鯘れぬ。海人、屢(しばしば)還るに苦(たしな)みて、乃ち鮮魚を棄てて哭く。故、諺に曰く、「海人なれや、己が物から泣く」といふは、其れ是の縁なり。(仁徳前紀)
 G.鳴く牡鹿なれや、相夢の随に
 時に宿れる人、心の裏(うち)に異(あやし)ぶ。未及昧爽(あけぼの)に、猟人(かりびと)有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人の諺に曰く、「鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあはせ)の随(まにま)に」といふ。(仁徳紀三十八年七月条)

 以上が記紀における「諺」のすべてである。飛鳥時代のコトワザの概念に合致するものは、これら以外にないということである。風土記ならびにその逸文や霊異記に、「諺」の語は登場する。一例だけ挙げる。

 国俗(くにぶり)の諺に、水泳(くく)る茨城(うばらき)の国と云ふ。(常陸風土記・茨城郡条)

 記紀の「諺」とこの例との間には、「諺」概念に大きなクレバスのあることを見る。どちらが先かと言えば、記紀の方が先に著されているから先である。そう考えられるが、今日的見解はそうはなっていない。白川静『字訓』(平凡社、1987年)に、「諺とされるものに、〔常陸風土記〕にみえる『風俗(くにぶり)の諺』として地名に冠して用いるものと、〔記〕〔紀〕にみえるような『緣(ことのもと)』のある語とがある。『ことわざ』が呪能をもつ語を意味することからいえば、説話の要約として生れたという世俗的な智を示す『緣』のある語よりも、『風俗の諺』として地名に冠して用いる語の方が、本来的なありかたを示すものであろう。のち序詞や枕詞をして地名に冠していうものはみなこの種のもので、もとは地霊である『祇(くに)つ神』に対してよびかける語であった」(334頁)とされている。筆者はこの考え方に疑問を抱く。コトワザとは、コト(言・事)+ワザ(技・業)という合成語であろう。ワザを使って国つ神に訴えたとすると、天つ神に訴える時の語は、コトワザワザとでも呼ぶのであろうか。
 増井元「わざ」古代語誌刊行会編『古代語を読む』(桜楓社、1988年)も、同じような考えである。少し長くなるが、引用する。

 上代の用例から導かれる<わざ>の語義は、行為・所行・仕事・技術、あるいは行事・事態・次第といったものである。ただし、それらは、「朕(あ)が敬ひ報いまつる和佐(わざ)としてなも」(続日本紀宣命)のように天皇の統治行為であったり、「此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさ)めぬ行事(わざ)」(万、9・一七五九)であったりするように、軽々しく扱えない、重大な意味を持つ行為である。現代でも、「しわざ」「わざと」「わざわざ」などの語群には、意図をもって殊更する行為の意が認められる。また、仕事・職業・技芸の意に解される<わざ>にしても、容易には習得できない重要な技術の意であったと言えよう。さらに、「古(いにし)へにありける和射(わざ)の奇(くす)ばしき事」(万、19・四二一一)のように事態・出来事を意味する場面では、その出来事の意味が問題とされ、あるいは、そうした出来事の背後に、人智を超えたものの意図がはかられようとしている。<わざ>は重大な行為・出来事であり、その現象としての現れの重大さと同時に、それがもたらされた事情や意味が深く問われねばならない事象であった。それを突き詰めれば、<わざ>とは、人間の思惑を超えた力や意図、その発動である。<わざ>は根源的に「神わざ」であった。しかし、そうした<わざ>をなす神々は、記紀においてマイナーな位置を付与されている。(158~159頁)
 「ことわざ」……には幾つかの分類が可能だが、おおまかに、常陸国風土記などに見える風俗諺(くにぶりのことわざ)(握飯(にぎりいひ) 筑波の国」「薦枕(こもまくら) 多珂の国」など)の類と、「堅石(かたしは)も酔人(ゑひひと)を避く」「地(ところ)得ぬ玉作り」のようないわゆる諺・格言の類とに分けられる。言語の機能としては、とりあえず、前者は懸詞や比喩を介した接続関係による称詞、後者は寓意だとしておく。これらが「ことわざ」であり得るのは、共に、日常語とは異なる言語表現として、表面的な意味をたどるだけでは感知し得ない、言語の働きを含んでいると受け取られた点においてである。これらは現代の視点からすれば、レトリックの形態の一つ一つであるが、そうした言語の働きを合理化・論理化せず、神・霊が言わせた言葉、霊がひそむ言葉あるいは言葉にひそむ威力というレベルのままに取り出したものが「ことわざ」であった。ある尋常でない形での言語表現に伴う、不可思議な作用―それが「ことわざ」の<わざ>であり、また、言霊の実体である。これを文学的・詩的な表現についての消極的な認識だと言うこともできる。(160~161頁)

 「ことわざ」とマイナーな神との関係は論じられていない。推し量るに、ことわざは「反文化的なもの」(158頁)らしい。納得がいかない。「<わざ>は根源的に『神わざ』であ」るとの見解も罷り通っている。人がしたのではないようだと思う時、それを神さまがやったように感じる。だから、「神わざ」という言い方を譬えとしてする。古代にそのような言い方をした可能性はゼロである。なぜなら、神さまの行うことは人智では計り知れないから、人間がやっとこさっとこ行う「わざ」と比較することは神さまに対して冒瀆に当たる。人が技巧を駆使して行うことが「わざ」である。どこまでいっても“人わざ”である。「ことわざ」とは、人が技巧を駆使して言葉として発した事柄、つまり、すごく難解ながらズバリと言い当てている言葉のことである。「ことわざ」を見える化するなら、大工さんの柱の継ぎ方、腰掛け鎌継ぎのような言葉の仕掛けが「ことわざ」に当たる。それも、メビウスの輪、クラインの壺のような柱のめぐり方である。言葉が言葉に返って来ていて一本(?)の円環となっていれば、言葉がすごい技を仕掛けていると誰しも思うであろう。しかし、今日まで、記紀の諺の仕掛けが読み解けていないから、からくりがわからないから、諺という語の本来の意味まで誤解されてしまっている。今日使うコトワザという語とは、義が違うというのが筆者の語学的検討である。今日、「おはよう」は挨拶、「開け胡麻」は呪文、「渡りに船」は慣用句、「七転び八起き」は諺であろうが、それと同じ感覚で、「さばあま」という言い方を諺と考えることはできない。上代におけるコトワザ(諺)という語の定義の方を再検討しなければならない。
腰掛け鎌継ぎ(「忘れへんうちに」様サイト
 「諺の誤解史」を繙いてみる。池田弥三郎『日本故事物語 下』(河出書房新社、2009年)に、「『記・紀』に見られる諺[は]……、みな疑ってかかると、諺と本縁譚との間に距離が感じられる。『古事記』や『日本紀(にほんぎ)』のように古い書物でも、日本人の歴史に比べれば、ずっと新しい時代に属するわけだ。日本人には記録以前に長い歴史があって、その間に伝えられていた叙事詩などはいったん崩壊して、断篇(だんぺん)となった歌や諺がさらに別の叙事詩と結びつけられた。記録に載せられているのは、そういう第二次の叙事詩なのであって、したがって、歌や諺とそれを説明する物語との間にくいちがいがあるのが当然なのである。折口信夫(おりくちしのぶ)先生の上代文学に対する解釈はこの点に大きな特色を見せている」(121~122頁)とある。発端は、折口信夫にあるようである。
折口信夫「日本文学の発生 序説」『折口信夫全集4』(中央公論社、1995年)には、次のようにある。

 「ところえぬ玉作」といふ諺があつて、「玉作りの職業者ではないが、ところえぬ」と言ふ風に、ところえぬと言ふ成語に関した語の一種の誹諧なのである。玉作部(タマツクリベ)に限らず、後の所謂職人の類以外の、土地に生業の根拠を持つ者は、職とは言はぬ慣はしである。狭く手工に限らないまでも、広くは土地の生産に関係ない者は、なりはひとは謂はなかつた。神事に関聯深い生業であり乍ら、職人として後代までも分類せられる手人(テビト)は、土地(トコロ)を持つことを許されなかつた。其中の一つなる玉作部を代表として、「ところえぬ」をきかしたのである。さうして又、単に職人に土地なしといふ概念を述べたゞけの語では、又意味がない。恐らく、「玉作りではないが、ところえぬ」と言ふ詞章は、其地位・其職に堪へぬ者即不適任者をさして言ふ擯斥の詞ではなかつたか。ところえずとは、其在る位置の適しない事を言ふ語だからである。かうして見れば、之を垂仁記にとり入れたのは、単に外貌の接近からばかりであつて、詞章の意義すら、深くは酌みとつて居らぬやうである。(126~127頁)

 暴論のように聞こえる。「所得ぬ玉作り」という諺が、「玉作り所得ず」という奇怪な言葉に転化してしまっている。玉作部(玉造部)(たまつくりべ、たますりべ)が職人扱いされたか、奴婢であったのか、いま、問題としない。諺の話をしている。「犬も歩けば棒に当たる」という諺は、「棒に当たる犬」という諺(?)に遷移しない。それは、命題に関してテーマとなる、「すべての……」、「ある……」の違い( every, all, any の性質の違い)といったことによるのではない。諺が諺として成立しているからには、「渡る世間に鬼はなし」が諺である。「渡る世間は鬼ばかり」はそれを捩ったドラマのタイトルである。諺とは決まり文句であり、それが揺らぐようでは力を発揮しない。コトワザとしての言葉の技が「一本」を取れるようなものではなく、「有効」や「効果」でしかなく、「技あり」でさえないということになる。江戸の俳諧ではなく、記紀のコトワザの話をしたい(注1)

(注1)コトワザの話をさせてくれない議論について、比較的近年の議論をみる。コトワザの本義の考察をせずに、屋上屋を築く議論である。山田直巳『古代文学の主題と構想』(おうふう、平成12年)に、

 ……現在我々が目にする『古事記』には[雉の頓使という]諺が付加された形で示されている。……『古事記』原文完成時点で、物語と諺とが何等かの誘因を得て結合し、一つの全体を構成したと見なければなるまい。その誘因たる条件は何かというに、この諺の中に見られる「雉」であり、……むしろ諺という形を採った物語の「索引化」現象だったのではないか、と思われる。「雉の頓使」という一つの成句たる諺を言うことで、耳目にする人々は、その前部に書かれる話の筋全てを知る、といった態を想定するのである。……諺の短章をもって、全体の話を代表させ、話の筋立ても印象付ける。いわば物語のダイジェストを最後尾に付した、という機能を呈していると思われる。即ち、語られた大部の叙事詩の全てを、この極めて短かい言葉に凝縮させて示そうとする表現法としてこの諺を理解したらどうか、と考えるのである。ある意味では長歌に対する反歌のような性格を帯びているとも言えよう。(394~395頁)
 [折口信夫に、]玉作部が土地を持たなかったという事実がはっきりと見据えられており、さらにそこから展じて、その事実を強調することで戯味を出す-俳諧化していたのであった。そこに諺の新たな機能が発見されていたのである。一方で本縁譚めかした諺の成立を信じ、他方ではそれが明らかに強い語りに過ぎないことを知っていた、という実に複雑な心情をそこには予測せしめるのである。そして、そこに文芸意識というか、生活と密着したところからやや余裕を持って物事を見ることのできる新しい意識の覚醒を見ないわけには行かないのである。(400頁)

とある。天動説のように、誤解を正当化されている。また、小林茂文「諺と古代王権」『玉藻』第42号(フェリス女学院大学国文学会、2007年)に、

 「さばめく」の意味が、騒々しくて従わないことだとすると、「サバアマ」だけでは騒々しく従わない海人との意味にはならないだろう。海人の歴史が共有化されていないと、理解されない諺である。むしろ、地名サバの海人の意味と考えられる。周防国佐波郡佐波郷……の海人は、騒々しくて従わないとの海人認識と結びついている。そこには、海人に対する編者の認識と、海人の歴史的背景がある。……推古朝前後に大和政権による海人再編がなされており、「サバアマ」は漁場での活気ある喧噪などではなく、再編にともなう抵抗的言動であろう。決して古い諺ではない。再編は、鮮魚貢納の役割にとどまらず、六世紀以降の緊急課題となった対新羅外交に関連する措置であったことは、言を俟たないであろう。ここでの諺の役割は、海人統轄が古いことを主張することにあった。(22~23頁)
 『海人なれや、己が物から泣(ねな)く』……海人であろうか、海人でもないのに、同じように自分の物が原因で泣くことよ。海人は鮮魚保存に失敗して泣くことが多かったのであろう。応神天皇記にも記載されており、世間で知られていた諺であった。この諺が使われる場面は、持ち物が原因で泣いている人を揶揄するときである。そのとき海人を持ち出して揶揄するように、海人はからかいの対象であった。……[皇位]の譲り合いに翻弄されて右往左往する海人は滑稽であり、海人は揶揄の対象であるが、その揶揄は大雀命らに向かっていないことに注目したい。王権内部の美徳に、海人の滑稽さを対比させることで、過剰な美徳が招く、収拾がつかなくなった王権物語の崩壊の危機を止揚する役割を果たしている。ここでの諺は、王権物語の崩壊を防ぎ、王権の行動の正しさを演出する効果を担っている。その際、滑稽な存在として海人を引き合いにしていることが留意される。構成上の問題に加え、背景には非農業民への差別があった。(23~24頁)
 神代記[の]……『雉(きぎし)の頓使(ひたつかい)』……[は]神代紀第九段と……内容はほぼ同じであるが、紀に諺は紹介されていなかった。雉はアメワカヒコが放った矢で射殺されて、使者として復命を果たせなかった。物語では雉は殺され還らないが、雉が行った切りの鳥であるとの認識がなければ成立しない諺である。しかし、その説明はない。アメワカヒコの葬送儀礼では、雉は泣き女として登場している。鳥が生死にかかわる霊魂の表象であることが、思想基盤にある。中村禎里氏は、アメワカヒコの葬儀に奉仕したトリは一族のトーテムであり、ともに高天原の住人であって、この世界観は北方の大陸から伝わった新しい支配観念とする[中村禎里「カラス」『動物たちの霊力』筑摩書房、1989年]。同じ使者でもヤタカラスは神武天皇の東遷を助け、カラスはその後も熊野の神使いである。雉が使者として「頓使」とされる理由は不明だが、行ったままのことがからかわれ、使命を果たさずに非難されていることを、確認しておく。(27~28頁)
 『地(ところ)得ぬ玉作』[は]……漂泊する技術民を想起させる諺である。……定着している農耕民にとって、不可解な番上部民の生活形態の起源を失敗による結果とし、諺をそのように理解して玉作を非難する。技術民に対する無知と誤解と蔑視がそうさせるのであるが、諺に彼らを登場させることで、それだけに読み手の想像力を掻き立て、物語理解を助ける働きをするのである。(28~29頁)

とある。諺とはヘイトスピーチであるとお考えのようである。(つづく)
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国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」展の唐櫃

2016年11月03日 | 無題
葵祭図屏風(左隻)(西村楠亭(1755~1834)筆、江戸時代、国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」展(~12月4日(日))パンフレット)
 勅使が幣帛など供え物を唐櫃に入れて進んだかとされています。下賀茂神社(賀茂御祖神社)と上賀茂神社(賀茂別雷神社)へ赴くに当たり、3つ唐櫃があります。鈴木聡子先生によれば、祭っている神さまが、前者=賀茂建角身命・玉依姫命、後者=賀茂別雷命の計3柱であるからではないかとのことです。説得力があります。もとより、元禄期に復興されたお祭りを描いているとのことです。
御幣物唐櫃(東京の京にゃんこ&京ねずみの京都観光見聞録様サイト
 平安時代後期とされる年中行事絵巻には、檜箱をかつぐ人は2人に描かれています。軽そうに見えます。
年中行事絵巻・賀茂祭(小松茂美『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社、昭和62年、82頁)
 私には、屏風に描かれた「唐櫃」なるものが、どのように担がれているのかわかりません。ヒツキ(棺)が櫃の原形で、再び運ぶことは念頭になかったろうから、帯のようなもので蓋もろとも結わいつけるのかと思っていたらそうとも限らず、竿通し具が予め備わっている唐櫃もあるようです。宇津保物語・国譲中に、「宮より、七日のは、御屏風、御座よりはじめたまひて、長持の脚つきたる三つ、唐櫃五具(よろひ)に、綾、錦よりはじめて、よろづの物入れさせたまへり」とあります。“脚付き長持”と唐櫃の違いとは何でしょうか。持つ竿を差し込む金物(?)の仕掛けが付いているかどうか? それとも蓋が取り外せるか蝶番式かの違い? はたまた内蓋があるかどうか? 塗ってあるかどうか? 底にだけ台となる脚があるか横づらから伸びているか? どなたか教えてください。



上:和櫃(黒漆塗経櫃、平安時代、49.3×36.5×26.6cm)、中:唐櫃(公験唐櫃、鎌倉時代、62.8×47.7×40.7cm)(奈良国立博物館編『奈良国立博物館名品図録 普及版』同朋舎、昭和55年、86・91頁)、下:車長持(アミューズミュージアム使用例)
 調度の「長持」という言葉の語源説に、持って担いだ時に長方形で長辺を持つから……、参勤交代など長いこと運搬するのに耐える性能だから……、中に入れておくと着物などが長持ちするから……、といった諸説があります。中古以降の言葉のようです。いま、唐櫃の脚先にドリルで穴を開け、ホームセンターでずいぶん安く売っているキャスターをつけたとしたら、それは“車唐櫃”と呼ぶのでしょうか。神輿は担ぐものであったのが、台車に載せて渡る子供神輿(屋台)というのもあります。輿か牛車かといったことかもしれません。“渡る”こと自体に意味はなく、“行列”に意味があるようです。おいしいケーキ屋さんは並ばないと買えません。マーケティング戦略に引っ掛かっています。スクランブル交差点以上に広い広場というものがなくて、本気で集まることをしたことがないのが、この国の特異な点であろうかと思います。
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