古事記・日本書紀・万葉集を読む

上代のヤマトコトバについての一人学会誌

天寿国繍帳銘を読む 其の十

2016年09月15日 | 論文
(承前)
(注2)論考において、結論から先に示すことは、筆者の好むところではない。結論から先に話すという業務連絡は、仕事の効率を一見高めるように錯覚されるが、それは、一時代前の言葉で言えば、仕事が物象化されることである。仕事が人間の手からすり抜け、独り歩きし、自己目的化する。仕事がクラインの壺と化し、人はその底に沈んでいる。人間のために仕事があるのではなく、仕事のために人間が控えている状態になる。記紀の説話には、事の次第の後先を転倒させて話を進める例がしばしば見られる。その場合、結論を先に言っているのではなく、出来事の結末とは別の“事の次第”、すなわち、落語のオチ(サゲ)に当たる部分を話の最後に持って行って盛り上げるための仕掛けゆえである。これを史実、近代の見方による歴史として捉えることは不可能である。説話のほうがそれを拒否している。拒否された今日の歴史家は、記紀の説話を、それは説話であって史実ではないが、何らかの傾向を表しているのであろう、などといった隔靴掻痒の解説に終始している。ある思想的な背景があって、政策的になり何なり試行錯誤の結果、最終的にそうなったといった時間的な流れに合わせた理屈っぽい話ばかりされたのでは、古代人はうんざりであろう。記紀の説話の躍動性は、“話(噺・咄・譚)”が中心に据えられている点にある。話が面白いか否か、それが核心である。面白くあれば、記憶に残り、人から人へと伝えられる。なにしろ、文字がなく、記録されることがなかったのである。稗田阿礼の丸暗記のように、覚えられて次に話されてまた覚えられて伝えられていくしかない。その際に、時間的な経過に従って時系列的に確かにこうであったと語られて、覚えられるであろうか。眠くならないであろうか。他の人に話したくなるであろうか。稗田阿礼は、受験勉強の才能があったのではなく、落語家の才能があったに違いあるまい。歴史家や法律家の優等生がどんどん勉強して、さて、円生や志ん朝の芸がわかって越えられるのか。話を聞いていて面白くなって、それでそれで、と聞いて行って、最後に爆笑をもって終わることこそ、人々の記憶に強く深く刻まれて、上代の“歴史”として生きていったであろう。その話のネタをいかに作ったか、記紀万葉研究の本願である。聖徳太子はじめいろいろな知恵が加わって、なるほどと腑に落ちる話が仕上がっている。今日の漫才のネタとは違い、笑わせる自体が目的ではない。伝えるべき事柄の意味合いが隠されている。神話のように聞こえる不思議な話、それは諸外国に聞く神話と比較して、時代的にずいぶん新しく、内容的に滑稽で、大掛かりで持って回った話になっている。なぜ手がこんでいるのか。賢すぎるライターが同時代の事柄を説話化したからであろう。5・6・7世紀当時の最大の関心事は、それまでになかった新技術にあったろう。渡来人のもたらした“特許技術”目白押しによって、日々の生活ぶりが変わっていくのだから、その新事実について伝えようとしたのではないか。政治、政策によることもさることながら、渡来人が教えてくれた新しい暮らし方に、人々の関心は向いていた。それを伝えるために多くの説話が創作された。稀有壮大で荒唐無稽な説話がパッチワーク状に構成されていて、聞いた人々は共通認識として持つことができた。ヤマトコトバを熟成させて話を作っていった。言葉がなければ、話が始まらない。意思の疎通ができない。
 Horse が来たが、それをウマと一語で周知させられなければ、諺にいう群盲象を撫でる状態に陥り、いちいち面倒くさいトリセツを重要事項としてくどくどと言って聞かせる義務を果たさなくてはならず、それをしてもなかなか意味が伝わらない。人を乗せて速く走るうまい乗り物で、草のような苦いものも途方もなく大量に食べるのはうまいと思っているかららしく、漢語ではマというのを訛らせて洒落てみたなど、そういった複合的な要素を絡めながら1つの言葉として立体的に造形してあるとわかりやすい。和訓と呼ばれる訓読語や枕詞など、今日、なぜそういう言葉が拵えられたのか俄かにはわからない。その作業は、上代の人の知恵のなせる業である。言葉を作ることほど人間にとって大切な仕事はない。仏を作って魂を入れていって、ホトケと言うようになった。瓫(ほとき)のように丸く膨らんだ形で中は空洞、それが置かれる寺も実は誰も住んでいない伽藍堂で中身は空っぽであることを表わす際、ホトケなる語はわかりやすい。今日の和製英語などの安易な造語とは訳が違う。筆者は、慎重に言い回しているが、言葉の語源はわからない。造語過程も不明である。実証できるものではない。しかし、無文字文化に生きた人たちが語感をもって言葉を使っていたことは確かであろうから、言葉の連想ゲームとして枕詞を含めてヤマトコトバは存立したと考えている。記紀万葉に記されている言葉であれば、その言葉には当時の人の語感が反映されていると言えるであろう。コフン(古墳)と言って5~6世紀のヤマトの人には通じない。同時代のものだからゲンプン(現墳)と言えば通じたかと言えば、もちろんそのようなことはない。文字を知らない人は、音読みされては困る。ツカ(塚)、つまり、ツキ(築・搗・撞)固めた土盛である。田舎の人が前方後円墳をはじめて見て、これは何ですかと尋ねたとき、築き固めたからツカというのだよと教えれば、容易に長期記憶庫に格納されたであろう。そういうからくりが言葉に仕掛けられて、文字を持たなくとも言葉は発展していったと考えられる。新語を造っても伝わって行かない可能性があるなか、まさにぴったりで誰しもが納得するなら、新たな言葉が定着していく。その納得の過程こそ、“話”である。そして、そのとき、人間のために話があるのであって、話のために人間があるのではない。
(注3)「世間虚仮 唯仏是真」を音読みしたに違いないことを窺わせる語が記されている。「玩味」である。橘大女郎が口のなかで言葉を弄んでいる。何と言っているのかわからないけれど、響きを頼りに味を確かめている。「世間虚仮 唯仏是真」なるガムを噛んでいると思えばよい。ここを訓読みすると、「玩味」という語が生きて来ない。訓読みとは、ヤマトコトバそのままである。ヤマトコトバは分かり切っているから、口のなかで玩具にして味わうことはできない。即座に腑に落ちてしまうからである。胃袋へ直行である。
(注4)ヤマトタケルノミコ→ヤマトタケルノミコトという言葉遊びに思えることは、多くの研究者の方々には、くだらなく議論するに値しないと考えられるらしい。現在出版されている古事記の諸本の校注に、きちんと解説されている例もほとんど見られない。話にならない深刻な事態である。不思議なことに、外国語においてそのような例を知ったとき、当該外国語の研究者は、熱心に勉強され、さまざまなレトリックの一例として著作物に掲載して論述される。
(注5)大橋一章『天寿国繍帳の研究』(吉川弘文館、平成7年)に、「蓮華の中でもっとも注目すべきは、光焔を発する蓮華図であろう。前者は天寿国への往生人が生を受けようとしている直前の姿の蓮華で、後者は往生人が今まさに蓮華の中から天寿国へ生れようとしている場面である。経典によると化生とは四生(化生・胎生・卵生・湿生)の一つで、浄土における生命現象であって、無から忽然と生れる超自然的な出生と考えられていた。……私はこの蓮華化生図こそ、天寿国が無量寿国であることを強く示唆するもっとも重要の図像であると考えている」(136頁)とある。無量寿国であるなら、なぜ「天寿国」と言い換えたのか、筆者には理解できないし、その点を考察された論考も管見にして見られない。むしろ、蓮華化生の考えを方便として、橘大女郎の言う「生於天寿国之中」の「中」を示そうとしただけなのではないか。行政単位としてのクニ(国)の国府、国衙は、クニの境界ではなく、中ほどにある。ヨリユク(従遊)とは連なって逝ったこと、ハス(蓮)の音のレンと同じで、ハスの様子が、周辺の葉、花などが根(レンコン)を通じて続いていることをもって似つかわしいと感じたからデザイン化したのではないか。
(注6)上宮王家で数カ月中に亡くなっているのは、「母王」こと穴穂部間人皇女、膳夫人(干食王后、膳菩岐々美郎女)、「大王」こと太子の3人である。膳夫人は、病の床についた太子の看病にあたったものの、看病疲れから太子の亡くなる前日に亡くなっている。続けざまに亡くなっているという橘大女郎の言い分からすると、むしろ膳夫人を当てる方がふさわしい。そのため、橘大女郎が膳夫人に嫉妬していたための言動であろうという臆説も生じている。石井、前掲書でも、亀の上の銘の名前の配置を検討された三田覚之先生の釈迦三尊像的な塩梅を考慮に入れ、「干食王后に対する、皇女としての強烈な自己主張と見るべきでしょう」(221頁)とされている。太子の本妻は自分であると主張したのだという週刊誌ネタのようなゲスの勘繰りである。なぜなら、繍帳を作らせたのは橘大女郎ではなくて推古天皇だからである。推古天皇が膳夫人をいなかったことにする理由が解かれていない。正妻であったことを太子が亡くなってから推古天皇に訴える理由としては、相続財産の問題がある。しかし、銘文に記されている内容、橘大女郎の主張の主旨は、母王と太子の住む天寿国を見たいということである。嫉妬や財産目当てから、天寿国なる訳の分からぬテーマを持ち出し、事もあろうに天皇にぶつけるのであろうか。園遊会に招かれて、突拍子もない意見を開陳したのではない。自分から小墾田宮を訪れ、恐る恐る庭の手前から、奥の宮殿の御簾の向こうの天皇に申し上げているのである。万に一つあり得ないことではないが、その場合、橘大女郎は、やはり精神を病んでいるとして扱うしかない。財産は後見人が管理することにし、お大事にしていただこう。
 天寿国繍帳は物証である。推古天皇が橘大女郎の言い分をまともに聞いて、その言葉を捉え返して天寿国繍帳を作らせている。天皇は社会秩序を安定させる方へ舵を切る。ゴシップ騒ぎに後追い的に加担したりはしない。憔悴しきった橘大女郎が、錯乱し、太子の亡くなる前日に枕を並べていた膳夫人の亡骸を、殯中で葬らずにいた母王、穴穂部間人皇女だと思いこんでしまったに過ぎない。統合失調症状態である。上宮王家の家来も、橘大女郎の狂気を悟り、近づけないようにしていて、詳細を伝えなかったのかもしれない。推古天皇もさぞかし心配したことであろう。
(注7)鷹の調教の仕方において、宮内省式部職編、上掲書(204/398)、昭和58年再刊)に、「渡り」と「振替」の説明として次のように記されている。

渡(ワタ)り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡(オキワタ)りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡(ワタ)りと云ふ。
振替(フリカヘ) 丸鳩に、忍縄を附し、五六間離れたる処にて他の者に之れを投げしめ、鷹を放ちて之れを掴ます。又離れたる処より餌合子にて呼ばせ、鷹先方に到らば更に当方より餌合子にて呼び戻す。終に鷹に、水縄・忍縄等を附せずして行ふ事を得るに至る。之れを振替仕込と云ふ。(356頁。漢字旧字体は改めた。)

(注8)ワタル(渡る)という語について、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「風・雲・霧などがひと所に起こって徐々に広がり、やがては一面を埋め尽くす動きをいうのが原義。他の動詞と複合した『咲き渡る』『荒れ渡る』などの形で使われることが多い」(須山名保子、1337頁)とあるが、複合動詞の意が原義であるとは考えにくい。白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。『わた』はおそらく海(わた)。『わたす』『わたる』は、海を渡ることが原義であろう。それよりして広く他に及ぶすことをいい、『かけわたす』『みわたす』のように補助動詞として用いる」(805頁)とあるのが穏当であろう。須山先生のご指摘に、他動詞ワタス(渡す)には、「時間的範囲を示す用法はない」(1334頁)と鋭い。タイムトラベルの発想がなかったらしいことが窺える。五十六億七千万年後へと「渡す」という考えはなかったということである。
 渡り鳥という響きには、①季節によって日本へ集団で訪れる鳥(カモやツル、ハクチョウなど)、②外国から珍しいものとしては舶来した鳥(クジャクやオウム、インコなど)の2つのイメージが浮かぶ。百済のクチ、こと、日本にもいるタカが、鷹狩用に飼われた状態で舶来したことをも、「候鳥」=渡り鳥という概念は示している。訓練も“渡り”、その技術も“渡り”職人が伝えた。ひょっとすると、古墳時代後期から飛鳥時代にかけては、新技術を伝える渡来人のことを、“渡り”人などと通称していたのではなかろうか。
(注9)ハナシ(話・咄・噺・譚)という言葉は、自動詞ハナル(放・離)―他動詞ハナス(放・離)の関係のうち、他動詞ハナスの連用形から起こった言葉である点は、趣き深いものがある。ハナシとは、音声自らが離れていっているのではなく、放たれて飛んで行っているものである。話をするのは、人間である。口をついて出てきただけでも言葉となっていれば意味があるものと考えられる。それは当人が意識している、いないに関わらないとされる。「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」(神武紀十年九月条)という「少女(をとめ)」、「童女(わらはめ)」の「歌」にしても、武埴安彦(たけはにやすびこ)とその妻吾田媛(あたひめ)の謀反の兆候であったことになっている。人間が人間であるからには、口から発せられる言葉には意味がある、ないしは、あるものと考えるのが人間の思考である。「誣妄(たはごと)・妖偽(およづれごと)を禁(いさ)ひ断(や)む」(天智紀九年正月条)などとあるのは、騙って詐欺や洗脳するのはいけませんよ、ということであろう。不良の意味で非行という言葉を使うが、精神鑑定によって判断能力を欠いている場合は「非行」という言葉は正しかろうが、夜中の暴走族などは「不良」であろう。言葉として聞こえるものは、良かれ悪しかれ人間の行為である。言い換えれば、狂人はもはや人間ではないものとされる。言語がコードとなってコミュニケーションが成り立ち、人間社会は存立する。
(注10)木村尚志「鷹百首」鈴木健一編『鳥獣虫魚の文学史―日本古典の自然観2 鳥の巻―』(三弥生書房、平成23年)に、「『手放(たはな)す』という鷹詞は、獲物のゆく方へ鷹を手放す、という意味である。その早い用例は、南北朝時代の宗良(むねよし)親王の『宗良千首』の中の1首、
 あふことも又やなからむかり人のたはなす鷹の心しらねば
である。これは『万葉集』巻十七の大伴家持の長歌、……[万4011番歌]の中の「手放(たばな)れ」を踏まえての歌であろう」(171~172頁)とある。せっかく問題の本質に気づかれておりながら、万葉集の訓の方を疑うことはされていない。同書では、鷹の飼育・調養において、鷹を架(ほこ)につなぐこともした(新修鷹経・中・「繫(つな)グ鷹ヲ法」)ことが、「契ても心ゆるさじ箸鷹のほこのきづなの絶人と思へば(『後京極殿鷹三百首』・恋部)という歌では架に鷹を結びつける『絆(きづな)』に、恋人同士の絆の意を掛けている」(175頁)と解説されている。同じ鷹三百首・恋部には、「契のみ朽せぬためしあればこそとしとしかけて鷹わたるらめ」ともある。鷹が野生へと帰ってしまわずに人から人へと“渡る”ことを詠っている。“渡り鳥”と観念されていたことの傍証である。ただ、他の作者の鷹百首和歌の類に、「渡る」の用例の乏しいことは気がかりではある。
(注11)日本三代実録、光孝天皇の仁和元年十二月条に、「七日丁巳。天皇幸神泉苑。放鷹隼。拂水禽。」とある。ミヅノトトリを「水の鳥取」ではないかという当て推量から探索した。けれども、天皇の遊獵記事の場所は、ほとんど「野」である。野行幸ばかりである。江戸時代も将軍家の「御鷹野」が定められている。やはり、鷹狩が素晴らしいことをもって、「瑞の鳥取」と捉えたものとするのがぴったりである。
(注12)トヨミケカシキヤヒメという名について、研究者によってよく分からない議論が行われている。亡くなった後の諡か、生前からの尊号か、に二分している。トヨミケカシキヤヒメという名を現代語訳すると、キッチンガール、台所姉ちゃん、お勝手女、などであろう。トヨ(豊)+ミケ(御食)+カシキヤ(炊屋)+ヒメ(姫)である。最初のトヨは尊称かもしれないが、全体が「尊号」であるというには当たりにくく思われる。「諡」というにはやけに身近でフレンドリーな名前である。すなわち、名とは何か。呼ばれるものに過ぎない。
 東野、前掲書、2004年に、「内題の称号が諡であることは、『気長足姫尊』(神功皇后)について、この称が追尊の号であることを書紀自身が明記していることから明らかである」(151頁)とある。神功皇后の諡の記事は次のとおりである。

是の日に、皇太后(おほきさき)を追ひ尊(たふと)びて、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と曰(まを)す。(神功紀六十九年十月条)

 この記事を読み、紀の巻や章立てのタイトルにあたる「内題」と同じだから、紀の内題はすべて諡なのだとすることはできまい。あるクレタ島の人は嘘つきである、よって、すべてのクレタ島の人は嘘つきである、という論理は成立しない。何年何月何日に、○○と言った、という記事は、その日の出来事を記している。歴史書だからである。法令集、判例集ではない。日本書紀の書き方について、日本書紀自身がすべてに及ぶように記す仕方は、次のようにある。

 至りて貴(たふと)きをば尊(そん)と曰ふ。自(これより)余(あまり)をば命(めい)と曰ふ。並(ならび)に美挙等(みこと)と訓(い)ふ。下(しも)皆(みな)此れに效(なら)へ。(神代紀第一段本文)

 「尊」という称号について、日本書紀全巻で最初の字に注されている。念が入っていて、「下皆效此」と定めている。神功皇后の巻は、日本書紀巻第九である。「追ひ尊」ぶことについても、もし、それぞれの天皇で行われていったとしたら、それぞれの天皇について、「是の日に」という記述が行われないと、つまり、儀式が行われたと記さないと歴史書としては芳しくない。神功紀にしか見られない一例から、紀のすべてに敷衍できるものではない。東野先生もご指摘の、推古天皇の「幼」名記事は、次のとおりである。

 幼くましまししときに額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と曰す。(推古紀即位前紀)

 幼い時、ヌカタベノヒメミコと呼ばれていた。この記事を全面的に信用すると、長じてからはヌカタベノヒメミコとは別の呼び名があったかもしれない気になる。しかし、ヌカタベノヒメミコと呼ばれなくなったとは記されていないから、そう呼ばれなくなったかどうかはわからない。しかし、残念ながら、他にそれらしい名は記されていない。そして、生前、トヨミケカシキヤヒメと呼ばれることはなかった、あるいは、禁止されていた、という文章はどこにもない。生前からの尊号を諡にしてはならないとする規定もない。不吉だからやめるようにとの慣わしも知られない。では、トヨミケカシキヤヒメ(The キッチンガール)という名とはなにか。それは、名前である。呼ばれるものである。The キッチンガールをもって、尊号とする考え方について、筆者には研究者の議論の前提するところの意味がわからない。訳がわからない。紀の内題に何が書いてあるか。名前が書いてある。それだけではないか。「天皇」“号”が特別視されたり、諡“号”が格式付けられたりするためには、文字表記が前提となる。漢字に囚われることがなければ、成立しない概念である。
(注13)「読む」ということは、「訓読する」、「訳す」ということと同じことではない。訳したら終わりというのは、例えば外国語を学習する際、単語の意味を調べ、構文を考え、和訳文を完成させて解答用紙やレポート用紙に記入して提出するということと同じである。それによって外国語ができるようになるかといえば、なかなか難しい。留学が必要である。飛鳥時代へ行く必要がある。もうひとつ例を挙げれば、文学が好きな人が小説を年に300冊読んだとして、さてそれは何をしているのであろうか。それは趣味をしている。享受している。素晴らしいことである。では、その人が小説家になれるかというと、それは別問題である。記紀について言うなら、古事記の真似をして落とし噺をひとつ書いてみると良い。漢語を使わずにヤマトコトバだけで文章を作ることは至難の業であるし、和習万葉仮名混交文など書いていたらばかばかしくなって投げ出したくなること請け合いである。ただし、姿勢としては必要なことであろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

オニ(鬼)考序説

2016年09月02日 | 無題
鬼のパンツは虎の皮?
 鬼のパンツが虎の皮に定着するようになったのは、近世以降、さらには昭和になってからのようです。蔵王権現の引敷、下帯などとされる虎皮(豹皮もある)が現れてから、時代的にかなり下るもので、連動的に考えられていたものではないようです。江戸時代の鬼のパンツがなぜ虎皮なのかについては、艮(うしとら)の方角との関係を推測されたりしていますから、鬼も人間の頭の中の面倒な話に巻き込まれて厄介なことでしょう。宮崎成身『視聴草(みききぐさ)』に、享保年間(1716~36)の落書に地獄の倹約令があって、鬼のパンツも狐や狸にしなさいという件があるようです。
国立公文書館「ようこそ地獄、たのしい地獄」展展示(……一 鬼共豹虎の皮の下帯ハ茨木皇子・石熊童子の外一切無用たるへし 下々の鬼共蜜々に法外之義於有之ハ吃度呵責すへし 但し狸狐等之皮ハ苦るしからさる事……)
十王像(閻魔王)(絹本着色、室町時代、15世紀、東博展示品)
 そんなパンツの鬼も、仏教が中国に入って道教の影響を受けたものが日本へ流れて来て、地獄の獄卒として活躍しているという次第らしく、それ以前から日本に居た(?)、波状的に中国の思想が到来している鬼としては、物の怪とも呼ばれる鬼、鬼やらいの鬼など、いろいろです。オニ(鬼)という言葉は一語でもってとても使い勝手が良いらしく、重宝されて多彩に使われてきているようです。鬼退治、鬼に金棒、鬼の形相、仕事の鬼、鬼嫁、渡る世間に鬼……、銘酒「鬼ころし」、椿鬼奴、……。

オニという和語の語源?
 私は、いわゆる“語源”を探るという立場に立ちません。語源というのはわからないものです。飛鳥時代に、当該語の音の響きを人々がどのように感じ取っていたか、当時の人々の“語感”のようなことは、万葉集の表記などから推測することができますし、それが当時の人たちの心の真相だろうと考えています。助詞のカモを鳥類の「鴨」という字を用いて使っていたら、鳥類のカモという鳥には、もしかしたら、といった意味合いを見て取って洒落として把握していた可能性があると思うのです。
駅ポスター
 日本書紀に、次のようにあります。

 故、時人、改めて其の河を号けて、挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河(いづみがは)と謂ふは訛(よこなば)れるなり。(崇神紀十年九月条)
 故、其の地を堕国(おちくに)と謂ふ。今、弟国(おとくに)と謂ふは訛れるなり。(垂仁紀十五年八月条)

 地名の由来が語られています。訛ったのだと述べられています。こんにち、このような地名譚について、それを地名の“語源”であると真面目に考える人はいないでしょう。笑い話です。何の不都合も生じません。市名が唐突にセントレア市に変更になるようなことではないからです。

和名抄の著者、源順を擁護する
 これと同じノリで、源順(911~983)が和名抄を記していたとしたら、どうなるのでしょうか。

 人神 周易云人神曰鬼〈居傳反和名於邇或説云於邇者隠奇之訛也鬼物隠而不欲顕形故以稱也〉唐韻云呉人曰鬼越人曰◆(糸がしらに人の代わりに鬼、魕の異体字)〈音蟻又音祈〉四聲字苑云鬼人死神魂也(高松本による。「傳」は「偉」の誤りか。)

 人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名於邇(おに)。或説に云はく、於邇(おに)は隠奇(オンキ)の訛れる也といふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は◆〈音蟻又音祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂也といふ。

 オニ(鬼)の語源説として、隠の字音、オンが訛ったものだと言われていているのは、和名抄のこの記事に依るようです。和名抄の諸本のうち、「隠奇」となく、「隠」だけのものがあるので、銭(ゼン→ぜに)、盆(ボン→ぼに)のように思われているようです。彼が言っているのは、「或説云」だけです。「按」じているのではありません。そういう説があると紹介してくれているだけです。
 和名抄に、言葉の謂れを記した記述はたくさんあります。それを、「云」、「謂」、「言」、「云」、「読」などと、なぜか巧みに書き分けられています。本ブログでは、かつて、「和名抄の『文選読』について」、個々の事例を検討したことがありました。文選に登場する語で、なるほど納得、知恵の働いた訓が付けられているものだなあと、源順が感動したものについて、「読」という表記が採られているとわかりました。
 それに対し、ここでは、「或説云」などという無責任な表記が行われています。源順自身、言葉として大して興味をそそられるようなものではなかったのでしょう。オニがどうしてオニと言われるのか? ある説では……、まぁ、どうだっていいや、といったところでしょう。
 今日の我々から振り返ってみると、オニ(鬼)という言葉が多義化して膨らんでいろいろと便利に用いられているから、もうちょっとしっかりした“語源”的なるものがあるような気がしてくるのです。でも、言葉とは、それほど“科学”的にはできていません。「泉河」が「挑河」の訛った形であるということと同列のことと捉えるなら、別に、事を荒立ててオニ(鬼)という言葉が「隠」の字音、オンの訛ったものだと言っていて構わないように思います。しかも、当時の大学者の源順自身のぶち上げた説ではなく、そんなことらしいよ、という話です。

オニ(鬼)語源の新説!
 オニ(鬼)という言葉について、新しい“語源”説を唱えることはいつの日か検証されるかもしれませんから、有意義なことです。でも、和名抄の記述に異議を唱えても今さら仕方がないことに思われます。オニ(鬼)=「隠」の字音「オン」の音訛説は、平安時代にそういう説があったということとして、歴史的事実としてあったわけです。そういう捻くれた(?)考え方をする人たちが当時少なからずいた、そう考えておいたほうが、中古語ばかりでなく上代語についての理解にも近づけるのではないでしょうか。
 困ったことに、私は、オニ(鬼)という言葉について、新説を見つけてしまいました。山口建治『オニ考―コトバでたどる民間信仰―』辺境社発行、勁草書房発売、2016年。私は、山口先生の説のたて方に疑問があります。先生は、新撰字鏡に、

 鬼 九偉反、上。人神曰鬼。慧也、帰也、送身也、遠也。

とあることを取り上げられています。そして、「この『遠』はヲニという音を写していると考えられる。つまりオニを表記する(於邇)の前身に、(遠)という表記があったのである。平安時代にはヲとオが混同されるようになっていたから(6)、ヲニ(遠)がオニ(於邇)となるのに不都合はない。」(36頁)(「注」は、「(6)大坪併治著『改訂訓点語の研究』上、風間書房、平成四年刊。」(51頁))とされています。なお、山口先生の論述では、「瘟」がメインで、「瘧鬼」、「疫鬼」に和語のオニのルーツを求めて考えをめぐらされており、その導入に「遠」字が出てきています。

新撰字鏡という字書
 新撰字鏡は、字書です。漢漢辞典のなかに、パラパラと万葉仮名で和訓が記されています。万葉仮名で記されているのが和訓で、「○○也」と書いてあるのは、漢漢辞典、漢字の字義の説明を漢字でするものです。ここは、「鬼 九偉反、上[声]。人神は鬼(クヰ)と曰ふ。慧也、帰也、身を送る也、遠也」とあって、鬼の説明として、慧(さと)いものであること、(この世に)帰るものであること、身は送って残った霊魂のようなものであること、そして「遠」であるものであること、と記されています。和訓は記されていません。「遠」は、論語・学而に、「曽子曰く、終りを慎み遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。(曽子曰、慎終追遠、民徳帰厚矣。)」とある「遠」の意で、先祖のことです。「人神」を「鬼」と言っているのですから、亡くなったご先祖様のことです。
 中国で道教や民間信仰が盛んであったことは確かでしょうが、儒教が盛んであったことも確かでしょう。なかでも論語は基本です。新撰字鏡の著者、昌住(9世紀に生きていた)はお坊さんのようです。もちろん、学問に通じるお坊さんですから、中国由来の思想、儒・仏・道・陰陽・神仙などのいずれをも視野に入れて字書が作られているものと思います。「遠」はご先祖様のことである「也」と断じられています。「遠」は万葉仮名として記しているのではなく、「也」も衍字ではないでしょう。
 他の例を見ましょう。新撰字鏡の天治本と享和本を校異しながら、

 悠々 思也、遠也。宇加大礼、又大伊々々志久。

とあるのではないかと思う箇所は、「悠々 思也、遠也。宇加太礼(うかだれ)、又、大伊々々志久(おほいおほいしく)」と読んで、書かれてあるのは、悠々の字義は思いやるほどのこと、遠くはなれていることのことで、和訓ではウカダレ、また、オホイオホイシクである、ということではないでしょうか。ウカダレやオオイオオイシクなど、滅多にお目に掛かれない和語を知れる素晴らしい字書です。「太皇太后宮(おほいおほいきさいのみや)」という言い方があります。天皇の祖母でむかし皇后であったおおおばあ様には、悠々自適にお暮しになられることを望みたいものです。「悠々」を和訓でオン、オニと言ったとは、書き方からも意味合いからも考えられません。

斉明紀のオニ(鬼)
 万葉集で「鬼」字はすべてモノと訓まれています。では、当時、オニ(鬼)という言葉はヤマトコトバになかったかと言えば、私はあったと思います。歌語ではないから万葉集ではそう訓まない、ということでしょう。日本書紀に、「鬼」字にオニと古訓が振られています。平安時代に付けられたものだから、飛鳥時代にはそうは呼ばれていなかったと言えないことはありませんが、まずはそう振られているのだから、騙されたつもりであれそう読まなければ話が始まりません。
 斉明天皇は女帝です。舒明天皇の皇后で、後を襲って皇極天皇として位に就き、大化改新時に退位して「皇祖母千尊(すめみおやのみこと)」と呼ばれていました。そんなおばあさんが重祚して斉明天皇となり、悠々自適には過ごされずに、白村江の戦いに臨もうと九州まで来たところ客死されてしまい、「鬼」が出てきます。

 五月の乙未の朔癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居す。是の時に、朝倉社の木を斮(き)り除(はら)ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿(おほとの)を壊(こほ)つ。亦、宮の中に鬼火(おにび)見(あらは)れぬ。是に由りて、大舎人(とねり)及び諸の近侍(ちかくはべるひと)、病みて死(まか)れる者衆(おほ)し。(斉明七年五月条)
 秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子(ひつぎのみこ)、天皇の喪を奉徒(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、(おに)有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。衆(ひとびと)皆嗟怪(あやし)ぶ。(斉明紀七年七月条)

 この部分の「鬼火」を火の玉のこととすると、現代科学では解明されているようですが、よくわからない神秘的な火としてオニビと呼んだのでしょう。モノビという言い方は知られていません。人の前に神が姿を現すことは、雄略天皇の前に葛城の一言主大神が現われたといった記事にあります。和名抄に、「鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也」とありましたから、姿を現した一言主神は「神」です。姿が不明瞭なのをオニと呼んだということでしょう。大物主神という場合、「物(もの)」は物の怪のモノでしょうけれど、それを祀るべく対象として把握できている、つまり、「神(かみ)」として崇めてしまったから、オニではなくなったということかもしれません。諸説あります。

神功皇后の「人神」=「鬼」
 そして、「人神」にして、「隠」れていて「遠」なるものとは、ご先祖様の霊魂のようなものと考えることができます。朝倉宮で人々が怖がった「鬼」とは、斉明天皇のご先祖様でしょう。その場合、儒教では父系をたどるのでしょう。斉明天皇がご先祖様と仰いで同じように朝鮮半島へ派兵しようとしているのは、神功皇后に違いありません。すなわち、神功皇后の霊が、「鬼火」となり、「鬼」となってぼやぼやっと顕れるか顕れないかしたということが活写されています。もちろん、斉明紀の記述においてそうあるというだけです。古代の人びとの一般的、普遍的なものの考え方などわかろうはずはありません。それでも、斉明天皇の行軍の様子は、神功皇后の新羅親征を準えていますから、宮廷社会の人々にとっては、もはや“常識”であったと言えるのではないでしょうか。そして、斉明七年(661)時点におけるオニとは、ご先祖様の亡霊のことを指しているようだと言えそうです。後々、オニという言葉が、いろいろな意味にも転用されるようになる出発点として、初めの一歩はそうであったろうと定められます。和名抄の「人神曰鬼」という説明は当を得ています。

 以上、ヤマトコトバのオニ(鬼)の原初的形態について垣間見ました。興味深いテーマです。歴史は1200年ぐらい続いて今日に至っています。あとはよろしく。
山水鬼神文磚(韓国扶余窺岩面出土、三国時代(百済)、6~7世紀、東博展示品)
鬼面文鬼瓦(奈良県中山町中山瓦窯跡出土、奈良時代、8世紀、奈良文化財研究所、東博展示品)
※林巳奈夫編『漢代の文物』(朋友書店、1996年)に、「[広州龍生崗の鬼瓦の附く屋根(陶製明器)]は鬼瓦の古い形である。その名称は今のところ不明である」(191頁)とあります。平城京の屋根に載せられた鬼瓦を当時の人が何と呼んでいたか、私には今のところ不明です。
※本雑文は、頭書の国立公文書館の企画展に触発を受けて書きました。内容の掘り下げ、展開の巧みさ、背景の確かな解説など、すばらしくてただただ敬服するばかりでした。今後とも国立公文書館の展覧会で、歴史をつかみたいと思います。ご発展のほど、お祈り申し上げます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

天寿国繍帳銘を読む 其の九

2016年08月29日 | 論文
(承前)
 さて、推古天皇の台詞は、二度手間のような重なった言い方になっている。「天皇聞之悽然告曰有一我子所啓誠以為然」とある。発語部分を括弧に入れて返り点を施して示すと、

 天皇聞之、悽然告曰、「有一我子、所啓誠、以為然。」

ということになる。「之」は、橘大女郎の言ってきたことである。橘大女郎の言ってきたこととは、言ってきた言葉と言ってきた内容と言ってきた態度と言ってきた状況をすべて含んでいる。はるばる斑鳩から飛鳥まで歩いてきた(?)ことや、朝から門を叩いて聞いて欲しいと嘆願してきた(?)こと、やつれた顔をしていた(?)こと、声が上ずっていた(?)こと、着物は着の身着のままの風情であった(?)こと、鬼気迫る一点凝視の視線(?)や、言葉がまわりくどい言い方になっていたこと(?)など、状況の設定を含んでいると考えられる。今日の選挙でも、言っている内容が同じでも、演説がうまければ、顔が好かれれば、声がかすれて聞き取りにくければそれだけ頑張っているのだと捉えられ、当選することがある。そういったことをすべて含んで「聞之」と記されている。
 「以為」は、オモフ(思・念)の意で、オモフ、オモミル、オモヘラクなどと訓まれる。紀の例をみると、

 刀子(かたな)は献らじと以為(おも)ひて、……。(垂仁紀八十八年七月条)
 弟媛、以為(おもひみ)るに、夫婦の道は古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月条)
 以為(おもほさく)、祟る所の神を知りて、財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。(神功前紀仲哀九年二月条)、
 天下(あめのした)の万民(おほみたから)と雖も、皆宜しと以為(おも)へり。(允恭即位前紀)

などとある。「然」については、白川静『字訓』(平凡社、1987年)に、「しかり〔然・爾〕 『しか、あり』の約。『しか』『しかく』が『さ』に対してかたい語感をもつものであるように、『しかり』にも訓読語のかたさがある」(381頁)、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「さ・り 【然り】……副詞のサ(然)に、動詞アリ(有り、ラ変)が付いたサアリが約(つづ)まったもの。上に述べたことを受けて、そうである、そのとおりであると納得をしたり、承認したりするときに用いる」(573頁)とある。上に述べたことを受ける漢文訓読系の語として活躍している。白川、前掲書は、「〔神代記上[第八段一書第六]〕『唯然(しかり)』、〔神代紀下[第十段一書第一]〕『然歟(しかるか)』などがみえるが、みな応答の語である」(573頁)と指摘されている。ほかにも、

 大己貴神(おほあなむちのかみ)の曰はく、「唯然(しか)り。廼(すなは)ち知りぬ、汝(いまし)は是吾が幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり。……」とのたまふ。(神代紀第八段一書第六)
 時に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、其の矢を見(みそなは)して曰はく、「是の矢は、昔我が天稚彦(あめわかひこ)に賜ひし矢なり。血、其の矢に染(ぬ)れたり。蓋し国神(くにつかみ)と相戦ひて然(しか)るか」とのたまふ。(神代紀第九段本文)
 「天孫(あめみま)、豈(も)し故郷(もとのくに)に還らむと欲(おもほ)すか」とまをす。対へて曰はく、「然(しか)り」とのたまふ。(神代紀第十段一書第一)
 [神武]天皇……「今我(やつかれ)は是日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向ひて虜(あた)を征つは、此天道(あめのみち)に逆(さか)れり。……」とのたまふ。僉(みな)曰(まを)さく、「然り」とまをす。(神武前紀戊午年四月条)

などとある。同じく応答の言葉に、「諾(う)」、「諾(うべ)なり」といった言葉がある。両者の違いは、ウ・ウベナリが、イナ(否)の対義語であり、英語の yes に当たるのに対し、「然(しか)り」という言葉は、強く言う場合は that’s right、弱く言う場合は that’s so に当たるということであろう。すなわち、橘大女郎のものの考え方として、PならばQ、QならばR、であるならば、PならばRであるという論理演算としては正しいと推古天皇は判断している。そうだねえ、そうだねえ、である。けれども、そもそもの提題のPに勘違いがある。大変な境遇にあって、そう考えるのは仕方がないと思うけれど、傾聴はするけれど、賛同はできない。世界がひっくり返ってしまう。言っていることに虚言妄語はない(「所啓誠」)し、そういう論理展開をしたらそういう結論になるのは尤もだとも思う(「以為然」)と言っている。推古天皇は、「有一我子」と言いかけながら、孫の橘大女郎の誕生から生い立ち、聖徳太子に嫁いだ時のことなどが、走馬灯のように頭を駆け巡っていたことだろう。そして、ヒトリノワガコアリ、マヲセルハマコトニシテ、オモヘラクシカナリと、30字ほどの文言をゆっくりと喋ったように感じられる。感慨を「告曰」していて、繍帳制作を「勅」している。別言になっている。
 以上、天寿国(てむじくに)繍帳の銘文を“読む”こと、すなわち、銘文の内部から、いつ、何のために、繍帳は作られたのかについて論じた。繍帳は、橘大女郎の精神的な危機を救うために、その訴えの言葉をそのままにまるごと受け止めて推古天皇が作らせた、とても心温まるものであった。長々と論じているが、なぞなぞの種明かし、駄洒落の解説に過ぎない。けれども、それは、銘文を“読む”ことそのものである。無文字文化の本質に迫るものであると考える(注13)

(注1)家永三郎・築島裕「上宮聖徳法王帝説」『聖徳太子集』(岩波書店(日本思想大系2)、1975年)に、年月日や干支の表記では音読みを、他の多くは訓読みを重視された読み方が行われている。東野治之校注『上宮聖徳法王帝説』(岩波書店(岩波文庫)、2013年)には次のような訓読文がある。

 斯帰斯麻(しきしま)宮に天の下治(しろ)しめしし天皇、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、巷奇大臣(そがのおおおみ)名は伊奈米足尼(いなめのすくね)の女(むすめ)、名は吉多斯比彌乃彌己等(きたしひめのみこと)を娶(めと)りて大后(おおきさき)と為(な)し、名は多至波奈等已比乃彌己等(たちばなとよひのみこと)、妹名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(とよみけかしきやひめのみこと)を生む。復(ま)た大后の弟、名は乎阿尼乃彌己等(おあねのみこと)を娶りて后と為し、名は孔部間人公主(あなほべのはしひとこうしゅ)を生む。斯帰斯麻天皇の子、名は蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと)、庶妹(しょまい)、名は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)を娶りて大后と為し、乎沙多(おさだ)宮に坐(ま)して天の下治しめしき。名は尾治王(おわりのみこ)を生む。多至波奈等已比乃弥己等、庶妹、名は孔部間人公主を娶りて大后と為し、瀆邊(いけのへ)宮に坐して天の下治しめしき。名は等已刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)を生む。尾治大王の女、名は多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)を娶りて后と為す。歳(ほし)は辛巳(かのとみ)に在る十二月廿一日癸酉(みずのととり)日入(にちちゅう)、孔部間人母王崩ず。明年二月廿二日甲戌(きのえいぬ)夜半、太子崩ず。時に多至波奈大女郎、悲哀嘆息し、白畏天之、「恐(かしこ)しと雖(いえど)も、懐(おも)う心止使(とど)め難し。我が大王(おおきみ)と母王(ははみこ)と、期するが如く従遊(しょうゆう)す。痛酷比(たぐ)い无し。我が大王の告(の)る所、世間は虚仮(こけ)、唯仏のみ是れ真(まこと)なり、と。其の法を玩味(がんみ)するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国(てんじゅこく)の中に生まるべし、と。而(しか)るに彼(そ)の国の形、眼に看(み)叵(がた)き所なり。悕(ねがわ)くは図像に因(よ)り、大王往生の状(さま)を観むと欲す」と。天皇之を聞き、悽状一告りて曰わく、「一(ひとり)の我が子有り、啓する所誠に以て然りと為(な)す」と。諸(もろもろの)釆女(うねめ)等に勅し、繍帷(しゅうい)二張を造らしむ。画(えが)く者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)、令(うなが)す者は椋部秦久麻(くらべのはだくま)なり。(57~58頁)

 知恩院蔵の上宮聖徳法王帝説の定本と、現代語に準ずる訓読である。例えば、「波」という字に、古語のハ、バと限らずに、ワと現代流に訳されている。校注に、繡帳勘点文などから、文中、「十二月廿一日癸酉日入」は「十二月廿一癸酉日入」、「白畏天之」は「白畏天皇前曰啓之」(畏き天皇の前に白(もう)して曰わく、之を啓すは)、「往生」は「住生」、「悽状一」は「悽然」とあるのが正しいとされている。
 東野先生の“訓読文”には、訓読になっていない箇所が多く見られる。「庶妹」はショマイ、「悲哀嘆息し」はヒアイタンソクシ、「期する」はキスル、「従遊す」はショウユウス、「痛酷」はツウコク、「玩味する」はガンミスル、「繍帳」はシュウイと読むらしい。これらは、音読みである。音読みが行われていたことを前提としている。天寿国繍帳銘の書かれた(作成された)時期を決めてしまっているようなものである。そういう自覚のもとに訓読文を提示されているのか、上宮聖徳法王帝説の書かれた時点でのいわば後代の訓読文を提示されているのか、はっきりしない。東野先生には、「天寿国繡帳の図様と銘文」『日本金石文の研究』(岩波書店、2004年)があり、そこでも、「読み下し文」が提示されている。細かいところに違いはあるものの、漢文訓読を行っているだけで、訓読みに徹するとどうなるか、といったことは念頭にないようである。大体意味が分かればいいという態度でなぞっているだけに感じられる。音声言語と文字言語との間の関係について、深く考慮されているようには思われない。飯田先生の訓読文提示の姿勢との間には、大きな開きがあるようである。
 「公主」という語について議論されている。語についての議題には2通りある。一つは、「公主」と同類の、「天皇」、「崩」などに対してである。第二は、「弥己等」という言い方である。前者は、漢語を問題にしている。表意文字の表記を問題にしている。「天皇」号はいつからあるのか、安易な問題設定がされて議論が盛んである。天皇の意味で仮に記せば、上代の字音に「弖牟和有(てむわう)」なる語を問うことはない。本邦において「天皇」と書いてある例を探し、なかなか見つからなくて天寿国繍帳銘に目につくと、天寿国繍帳は後の時代に作られたと推論されてしまう。短絡的な臆断が罷り通ってしまう。漢字の字面を問題にしているだけである。
 後者の「弥己等(みこと)」号(?)は、それとは問題の性質が異なる。ヤマトコトバの発声音を俎上に載せている。前者は、漢語の字面を問題にしている。聴覚と視覚は別次元である。繍帳銘に「天皇」とあるのが、筆者には「号」なるものであるとは理解できない。スメラミコトというヤマトコトバに漢字を当てた、その当て方の一種であろう。今日いわゆる天皇号がいつ始まったか、筆者は知らない。スメラミコトという語は、紀や万葉集の標目に記されているから、それなりに古くからあった。それは、あくまでも、スメラミコトというヤマトコトバであって、字面が問題になるものではない。字面を問題にすると取り決めたとき、万葉集の原文を“読む”ことはできない。「籠毛與美籠母乳……」(万1)の字面が問題となり得るのは、歌の内容が下ネタの可能性があるかも知れないという点に過ぎない。
 「公主」という「号」について、そのように記された例が本邦に乏しい。乏しいから、繍帳は遅れて成立したものであるとの主張が見られる。他に、百済の例があるともされている。ところが、唐代初期に成った芸文類聚に、「公主」の項が立てられ、たくさんの用例が載っている。漢籍のアンチョコに項として載っていくほど近寄りやすい漢語である。意味は、天子の娘のことを指す。ヤマトにおいて、天子とは、アメノコ、つまり、スメラミコト(天皇)のこと、その娘は、ヒメミコ(皇女)のことである。ならば、ヒメミコのことを、「公主」と書いて何ら間違いではない。律令や令義解に定めがあったとして、推古朝のことであるならそもそも時代的に無関係である。書いてはいけないと禁じられていたということがなければ、どう書いても構わない。文科省の常用漢字表などと違う書き方でガス工事店の手書きの領収書に「煙凸代」とあったとき、誰しも「煙突代」のことと認める。上代、ヤマトコトバに漢字を当てた。「公主」をコウシュと読んだのではなく、ヒメミコに「公主」という字を当てた。
 繍帳銘に、「宮治天下天皇名」とある。漢字の意味をとりながら表記されている。表意文字である。それぞれ、「宮」(みや、palace)、「治」(をさむ、reign)、「天下」(あめのした、country)、「天皇」(すめらみこと、emperor)、「名」(な、name)の意味である。それぞれのヤマトコトバの意味を表して、漢字に記している。ヤマトコトバで考えている。「治天下」という表記が漢籍に見られ、それがヤマトコトバにしてみてヤマトコトバに適うならそれを採り入れる。採り入れ方はヤマトコトバが基準である。自己中心的である。自分の国にいて、よその国の書き方に準じなければならないと拘束される筋合いはない。条約でもなければ植民地化されているわけでもない。ヤマトの人の間で互いに通じればいい。「天下」という概念は、神代紀第五段本文に、「天上(あめ)」と対比で「天下(あめのした)」、神代紀第五段一書第六に、「高天原(たかまのはら)」、「滄海原(あをうなはら)の潮(しほ)の八百重(やほへ)」との兼ね合いで位相、範疇を決められていく。アメノシタとは、概ね、大地、地上のことを意味するツチの概念を膨らませた地上全体、そこから派生して、国事、国政のことを指すようになっていく。字で表した時、見た目が和製漢語の状態になっているに過ぎない。ヤマトコトバが母語である。例えば、電気の差し込みはコンセントと言っている。smartphone はスマートフォンだが、それを略したスマホはスマホである。スマフォとは言わない。スマフォと言ってくれと、英米系やアップルの人たちは言って来ているだろうか。余計なお世話である。
 「大王」、「公主」、「天皇」、……といった言葉は、オホキミ、ヒメミコ、スメラミコト、……を表記したものである。表記法について、一般の人に及ぶ規制は知られない。義務教育などない。「『天皇』号」について推古朝にあったかなかったかという議論は、銘文を“読まない”姿勢と裏腹の関係にある。キティちゃんのマンガの吹き出しか、絵本のデザインのような剽軽なカーテンの柄として書いてある言葉が、「号」に当たるような事柄の次元のこととして書かれてあるのだろうか。それは、「吉多斯比弥乃弥己等」、「乎阿尼乃弥己等」にミコト(命)とあったり、「吉多斯比弥乃弥己等」を「太后」と書き表わすことが、太子の伝説化以降のことではないかとの考えにも当てはまる。そういう議論をして欲しいと、繍帳銘400字を捻り出した人は望み、練り上げたものだろうか。“読む”ということは、捻り出し、練り上げた人の心を読むという作業である。漢籍という膨大な文例集によりながら、字を当てているに過ぎない。珍しい書き方だからと見た目で判断することはできない。
 日本書紀には早くから古訓が付されている。漢語で書いたものをヤマトコトバで言い換えたとか、無理やりに訳したと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀の編纂を命じた天武朝は、国粋主義まっただ中にある。国粋主義にあるから、自国の歴史書の編纂に目覚めている。そこで、ヤマトコトバでヤマトの歴史を記すに当たって、あくまでも表記において、漢字、漢語、漢文を用いた。固有の文字を持たないから仕方がない。それが原則である。紀の古訓とされるものは、もともと日本書紀を記すに当たってヤマトコトバで考えていた内容について、再現させてかなり正確なものといえる。小学館の新編全集本日本書紀に、漢籍からのまるごと引用部分とされている文章について、音読みするという暴挙が行われている。古訓は無視されている。母国の歴史は、母語で考えて書こうとする。ちょうどいい文案が見られたから、文例集のように引用している。字面をパクったに過ぎない。ヤマトコトバの読み方、訓読みが行われず、音読みが行われたとする解釈は、事の本質をはき違えている。
 それに遡る推古朝に天寿国繍帳が作られたとするなら、漢字、漢語、漢文で書いてあるからといって、漢語で読んでいてはお話にならない。逆に言うと、漢語でしか読めないなら、推古朝に書かれた銘文ではないと証明できることになる。つまり、“読む”ことで、制作年代はわかる。万葉集のように、ヤマトコトバばかりなのか、続日本紀や律令のように、漢語を音読みしなければ通じないか、確かめれば知れる。漢文訓読に由来する助辞の「所」字をトコロと読むとしか考えられないのであれば、それは奈良時代後期以降のことであると認められる。その点については、本ブログ「上代における漢文訓読に由来する『所(ところ)』訓について」で詳述した。銘文を内部から“読む”ことが求められている。
 石井公成『聖徳太子―実像と伝説の間―』(春秋社、2016年)に載る、中段の「訳」は以下のとおりである。

 辛巳の十二月廿一日癸酉の日入(ひぐれ)に、太子の母である孔部間人王は逝去された。明年の二月廿二日申戌の夜半に太子も逝去された。時に橘大郎女は悲しみ嘆き、天皇(推古天皇)に恐れながら申し上げた。「啓上するのは恐れ多いことですが、心にかかえる思いがやみません。我が大王(おおきみ)(太子)は、母王と約束したようにお亡くなりになりました。辛さはこの上ありません。我が大王は、『世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり』とおっしゃいました。その法を味わってみますに、我が大王は天寿国の中にお生まれになったことと思います。しかし、彼の国の形は眼では看がたいものです。できれば図像を用いて大王が往生された様子をしっかり見たいと思います」と。天皇はこれを聞いて、つらさが身に染みておっしゃった。「一人の我が子がいます。言上するところは、実にもっともです」と。そこで諸の宮女たちに命じ、刺繍の帳を二枚、お造らせになった。(217~218頁)

 そのうえで石井先生は、当然の疑問を呈されている。

 [後代の]偽作であるとすると不思議なのは、紙に書いたり金属板に彫ったりすれば簡単なのに、広げれば縦二メートル、横四メートルになる帳(とばり)を二つも作り、薄地の布の上に色彩豊かな絵柄を刺繍で描き、また多くの亀を刺繡してその背中に銘文を四文字ずつ縫い取りするような面倒なことをする必要がなぜあったのか、という点です。また、奈良時代の高度な工芸品とは比べようもない素朴な絵柄と刺繍技法、銘文の内容も、その古さを示しています。中世には山ほどある太子関連の偽文書のように、聖徳太子との関係を強調して寺の権威を高めたり、聖徳太子によって田を施入されたなどとして寺の権利を主張したり、太子の超人さを強調した文物を作って参詣客を集めたりするなら分かりますが、天寿国繍帳銘はそうした偽文献とは性格が全く異なっているのです。……前半の系図の(ママ)この[下絵を描いた者と監督者の名の]末尾の部分を合わせると、全体の六十一・五パーセントとなります。いったい何のための銘文なのでしょう。……そもそも、この銘文は、太子を尊崇して書かれたものでしょうか。素直に見る限り、前半は、太子と橘大郎女とが、欽明天皇と蘇我稲目の両方の血を引くことを強調した系譜です。肝心な真ん中の部分では、まず母王が十二月二十一日に亡くなったと述べ、その母王と約束したように太子も翌年の二月二十二日に後を追ってしまわれたので悲しくて仕方ない、となっています。確かに十二月二十一日と二月二十二日となれば、約束したかのようにと言えるかもしれませんが、もっと近い人物がいます。釈迦三尊像銘によれば、上宮法皇が正月廿二日に病で倒れ、干食王后が看病したものの自らも病んで並んで床についてしまい、王后は二月廿一日に亡くなり、翌日、法皇も亡くなられた、とありました。こちらこそ、あらかじめの約束通り、最愛の妃が亡くなると太子もすぐ後を追ったように見えます。(215~220頁)

 今日、躍起になって議論されている研究者の言を捨て去り、虚心坦懐に考えてみれば、至極当たり前の疑問であると言える。およそ学術に携わる方々は、主張有りきの議論からは立ち返る必要があろう。
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The fox of Fushimi Inari shrine (伏見稲荷大社, Fushimi Inari Taisha) .

2016年08月20日 | 無題
The fox of Fushimi Inari shrine (伏見稲荷大社, Fushimi Inari Taisha).

Inari shrine is the Shinto god of rice. Inari is written in kanji as '稲荷'. It means the load bag of rice. '稲' is rice and '荷' is load bag. In japanese, the rice is called 'kome' and packing rices to the load bag is expressed as 'komeru'. So, the word of "Inari" was felt to a person of the Middle Ages in Japan with "kome-kome". Japanese hears the cry of the fox with 'kom-kom'. Therefore an errand of Inari shrine is a fox.

The load bag of rice is called ‘tawara(俵)'. It is made of rice plant straws.
Inari-sushi is a sushi in the shape of ‘tawara(俵)'.

This was summarized in the academic paper(Japanese version).

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

天寿国繍帳銘を読む 其の八(「癸酉」=「瑞の鳥取」説)

2016年08月14日 | 論文
(承前)
 次に、論者によって疑問とされている干支部分について考察する。「十二月廿一癸酉日入」の個所である。「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」とある。「歳在辛巳」とは推古29年のことである。金沢英之「天寿国繍帳銘の成立年代について―儀鳳暦による計算結果から―」『国語と国文学』第78巻第11号(936号)(東京大学国語国文学会、平成13年11月)によれば、当時用いられていた元嘉暦では「十二月廿一癸酉」は間違っており、甲戌のはずであるとされる。12月20日が癸酉、21日が甲戌に当たる。そして、後に採用された儀鳳暦においても『日本書紀暦日原典』では同じことになっている。けれども、儀鳳暦の補正値について、複雑な定朔法をマイクロソフト・エクセルのワークシートを使って計算し直してみたところ、推古29年12月朔の干支は一日ずれあがり、21日の干支は「癸酉」になるという。よって、元嘉暦ではなく儀鳳暦が使われた持統朝以降に天寿国繍帳の銘文は記された可能性が高いという。これには批判もあり、野見山、前掲書に、須賀隆先生からの教授として、推古29年12月21日が「癸酉」になることから証明できるのは、進朔を行わない定朔の暦法が用いられたことだけであり、暦相互変換プログラム when では、儀鳳暦やその次の大桁暦によって計算された場合も干支は癸酉になるという。だから、「とりあえず八世紀初めから九世紀半ばまでと幅広い可能性を認めておくのが穏当であろう」(293頁)という。
 話がややこしくなっている。銘文を“読まない”姿勢から起こって、変なところへ関心が向かっている。原文は、違う意味で思った以上に奇妙である。日付の書き方である。亡くなったのは2人ということで銘文の話は進んでいた。2つの日付の記述を比較すると、

 歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩
 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩

となっている。年月日時間を干支で表したいのか、数字で表したいのか、記述者の意図を量りかねる。下の行は、その次の年の明けて2月22日、十干十二支で表すと甲戌(きのえいぬ)の夜半、太子は崩御された、とシンプルである。しかし、上の行は、歳が辛巳(かのとみ)に在る年の12月21、干支で表すと癸酉(みづのととり)の「日入」に孔部間人母王は崩御されたとある。この部分、上宮聖徳法王帝説に、

 歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩

となっている。数字で月日を書く時、通例、「○月○日」と書く。法王帝説を記した人の気持ちは理解できる。けれども、勘点文などから、繍帳銘文は、「○月○癸酉日入」が正しいとされる。干支の後に「日」字が離れ、それが「日入」という熟語として解釈されている。岩波書店の思想大系本では、「十二月廿一(じふにぐわちノにじふいち)ノ癸酉(くゐいう)ノ日入(ひぐれ)に」と訓んでいる。東野、前掲書の校注には、「斉明五年(六五九)七月紀に引く伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこしょ)に『十五日日入之時』と見える」(61頁)とある。けれども、伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこがふみ)は、「十五日(とをかあまりいつかのひ)の日入(とり)の時に」という表し方をしている。「日」字が重なっている。なぜ繍帳銘に「十二月廿一癸酉日入」と「日」字をケチって干支を加えた書き方がされているのか、了解されるに至っていない。疑問さえ提起されていないように見受けられる。干支との間の齟齬にばかり目が行って、「不審」という言葉で議論されている。銘文のほうが審らかでないのか、今日の研究者の頭のなかが審らかでないのか。そもそも、繍帳銘の「日入」を日没時間帯と決めてかかっていいのか疑問である。記述の要諦が不明である。以下、筆者の考えを述べる。
 元嘉暦であれ儀鳳暦であれ、同21日は癸酉の次、甲戌(きのえいぬ)である。“読む”姿勢を持てば、つまり、“書く”立場の気持ちを汲めば、実にあやしい書き方が施されていると知れる。月日の数字の後に「日」字を挟まない書き方は尋常ではない。銘文を記した人との知恵比べである。書いた人の作為を探る必要がある。実際に孔部間人母王が亡くなられたのは、推古29年12月21日のことであろう。時間帯は未明で、死亡診断書としては、それはほとんど前日の12月20日に算入しても構わないということが、「十二月廿一癸酉日入」という書き方から見て取れる。
 なぜ死亡診断書が改竄されなければならないのか。干支を「癸酉」にしたいからである。それは、鎌倉時代に、信如という尼が中宮寺を再考しようとした時、太子の御母堂、穴穂部間人皇女の忌日を知りたがって天寿国繍帳を探したという事柄とリンクしている。聖徳太子の「母王」の名は、「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」(用明紀元年正月条、推古紀元年四月条)、「埿部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)」(欽明紀二年三月条)、「間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)」(欽明記)と記される。アナホベノハシヒトという人の表記は、銘文中で、「孔部間人公主」とある。
 銘文の他の登場人物のうち、「尾治王(おはりのみこ)」の「治」字は表意文字で記されているが、その他は、例えば、「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと)」のように、だらだらと一字一音の仮名書きで記されている。だらだら書きが蔓延している中、「孔部間人」と表意文字で記しているのは、名が、事柄内容を表意しているということであろう。名とは何か。綽名である。呼ばれるものである。
 アナホベノハシヒトさんは、アナホベノハシヒトというからには、穴に穂が入っていて端っこにいる人というイメージが浮かぶ。穴に穂を入れて端っこに人がいる様子とは、鳥を捕まえるために罠を張って待っている人というニュアンスがある。それは古代、鳥取部(ととりべ)、鳥飼部(とりかひべ)と呼ばれた職掌の人たちがしていた。穴を掘ってそこへ餌を置いてよび込み、蓋して出られなくして捕まえる方法は、小鳥に対しては行われない。地面を掘る必要はない。本職が小鳥を捕まえる場合、霞網などで一網打尽、大量捕獲が可能である。今日では鳥獣保護法でやかましい。雁や白鳥は大きくて力が強く、水辺の穴などに餌を置いて誘い込み、編み籠で蓋して捕まえる。
 銘文ではわざわざ、「孔部(あなほべ)」と表記を断っている。「部」とは部曲(かきべ)のことであろう。穴穂天皇(安康天皇)が皇太子時代に設けられた部であるらしい。それが穴穂部間人皇女とどのように関わるか、今となっては実証不可能である。それよりも、ここに、「孔部」と記されてあることに注意を向けたい。説文に、「孔 通る也。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥也。乙至りて子を得、之れを嘉美する也。古人、名は嘉、字は子孔」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に合わせて見られる。ここで、ハクチョウ(白鳥=鵠(くぐひ))やガン(雁(かり))を思い浮かべるのは、まだ素人である。ツバメ(燕)の場合、別の道へ進まれることをお勧めしたい。ヤマトの人が漢字を目にして、その字の解説である説文の解説を“悟る”ことを推し進めたなら、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄が、「孔」という字に必要十分な条件としてあげられていると考えたに相違ない。上代の人たちは知恵が豊かである。そのとき、打ってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
 タカは、鷹狩に利用される。嘴が鋭い。穴を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいの鋭利な鉤状をしている。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。タカは渡り鳥ではないと思われるかもしれないが、“渡り”鳥である。鷹狩に使われるタカは、調教されて、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で、「渡り」と呼ぶ(注7)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは、渡り鳥、候鳥である。
「鷹を馴らす図」(宮内省式部職編『放鷹』吉川弘文館、昭和6年(226/398)(昭和58年再刊)、399頁より)
よこはま動物園ズーラシア・バードショーにて。人から人へ“渡り”ます。選ばれればキャッチもできます。
 本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。

 四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰(まを)さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾(かつ)て是の鳥の類を得ず。故、奇(あやし)びて献る」とまをす。天皇、[百済の王(こきし)の族(やから)、]酒君(さけのきみ)を召して、鳥に示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴(なら)し得てば能く人に従ふ。亦、捷(と)く飛びて諸の鳥を掠(と)る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)と曰ふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴(なつ)くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もづの)に幸(いでま)して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)、多(さは)に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽ち数十(あまた)の雉を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号(なづ)けて、鷹甘邑と曰ふ」(仁徳紀四十三年九月条)

 この記事を読んで、本邦にそれまでタカがいなかった、百済にはいたから連れて来られたことを示すと捉えるのは、国語能力に欠けた人である。記事には、本邦で今まで網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うのを、百済ではクチと言っているという話である。割注に、「是今時鷹也」とあるのは、「今時」、鷹であると言っており、では、往時、何と言っていたかは記していない。クチは百済語である。倭で外来語のクチを採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に“渡り”鳥なばかりか、時間的にも“渡り”鳥である。巧みなレトリック表現として“渡り鳥”であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海(わた)と関係するらしい(注8)。自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らして人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には、鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられている。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、すなわち、鷹を捕まえるところから養い育て馴れさせ思いどおりに操れるようにすることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えてくれている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって1種ではない。言語学者ソシュールの丸山圭三郎先生の解説書『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年、96頁)に、狼と山犬の例があげられていてわかりやすい。鷹狩に使う鳥を、タカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。垂仁記に、

 故、今高く往く鵠(くぐひ)の音(こゑ)を聞きて、始めて阿芸登比(あぎとひ)為(し)き。爾に山辺之大鶙(やまのへのおほたか)〈此れは人の名ぞ〉を遣して其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦、稲羽国(いなばのくに)に追ひ越えて、即ち、旦波国(たにはのくに)・多遅麻国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到りて、乃ち三野国(みののくに)に越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)にして網を張り、其の鳥を取りて持ち上り献りき。故、其の水門を号けて和那美(わなみ)の水門と謂ふ。(垂仁記)

とある。「山辺之大鶙」という人名があるから、タカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名は、ワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに、颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠・網猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが、鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたということであろう。
 鷹狩をする場合、タカを捕まえてから飼い慣らして狩りに使うまでには、かなりの忍耐と努力が必要である。鵜飼に使うウ以上に大変かもしれない。最終的に縄の繋ぎを取り、放ってしまわなければ狩りに用いることはできない。そのとき、野生に帰ってしまわれてはすべての努力は水泡に帰す。捕獲後の扱いは、革製の足皮をつけて拘束し、真っ暗なところで空腹にさせ、人の手から鳩の肉をもらうことから始める。爪も嘴も小刀を使って削り揃える。新修鷹経中に、「攻(ヲサムル)觜法」、「攻(ヲサムル)爪法」などが記されている。人に危害を加えさせないこともあるが、鋭利すぎる嘴を失えば、調教の時も、実際の鷹狩の時も、肉を食べるのに時間がかかるため、訓練に役立ち、狩猟時にも獲物の損傷が少ない。鷹狩で大きなハクチョウを捕まえた時、鷹が食べるのに手間取っている間に人が近づき、代わりに持参した鳩肉を与えれば、鷹はおとなしくそれを食べてくれる。
 つまり、嘴は、離されているのである(注9)。仁徳紀に鷹の百済語クチが紹介されているのは、洒落を言いたかったのであろう。三保忠夫『鷹書の研究 下冊』(和泉書院、2016年)は、万葉集の定訓「手放(たばな)れ」(万4011)に異議を唱えられている。「《手放》は、西園寺入道前太政大臣公経『鷹百首』に、『一よりに手はなしぬれは追さまに鶉むれ立小田のかりつめ』(七一番)と見え、西園寺公経の『鷹百首謌』(後掲、小林祥次郎氏翻字[「西園寺家鷹百首(付注本)」『小山工業高等専門学校研究紀要』第一二号、一九八〇年])には『一よりとは。(中略)荒鷹を合事也。大鷹はへ緒などもさゝざる間たばなすを大事とよくなつくる也。合始をいへり。つねにも手よりはなすをいへども、たばなしと云ははじめて合すると心得べし。(後略)』との注釈がある。臂の鷹を放す意である。右[岩波書店古典文学]『大系』[万4011番歌](その他)は「手放(たばな)れ」と補読するが、「手(た)はなし」(他動詞形)と読むのが穏当だろう」(1901~1902頁)とある。

 …… 鷹はしも 数多あれども 矢形尾の 我が大黒に〔大黒は蒼鷹の名也〕白塗の 鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも[手放毛] をちもかやすき これをおきて またはあり難し さならへる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑まひつつ 渡る間に 狂(たぶ)れたる 醜つ翁の 言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥狩(とがり)すと 名のみを告りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去(い)にきと 帰り来て 咳(しはぶ)れ告ぐれ 招(を)く由(よし)の そこに無ければ ……(万4011)

 万4011番歌は、狩りを好んだ大伴家持の歌である。三保先生のご指摘は、当を得ている(注10)。鷹狩で、鷹匠は鷹を自在に操る。操る主体が鷹匠であり、鷹が勝手に手から離れていったのでは、おそらく鷹は野生に帰っていくであろう。自動詞のはずがない。そして、鷹の鷹たる特徴とは、その嘴である。「山辺之大鶙(やまのべのおほたか)」(垂仁記)の登場する説話の概略は、物を言わない御子、誉津別王のことを案じていたところ、鳥が鳴くのを聞いてモグモグ言ったので、その鳥を捕まえて連れて来ればまた物を言うのではないかと考え、探しに出掛けさせたという話である。記紀により説話の展開は少し異なるが、記では山辺之大鶙という人物が、「和那美之水門」に網を張って捕まえたという話になっている。鳥を捕まえる方法として、「大鶙」=オオタカという人が、罠、網を使っている。鷹狩はまだ行われていなかったことの証左であろう。
 それでも、タカは嘴が特徴的で、それは、言葉を話させるための仕掛けとしても見極められていた。漢字においては鳥は嘴、人は吻であるが、ヤマトコトバにはどちらもクチバシである。鳥のよく響く甲高い鳴き声を、鳥の言葉として認識していたのであろう。だから、言語障害の御子の逸話に、オホタカなる名の人が登場している。嘴という器官の持つ意義を見抜き、言葉として成立させている。口は、物を食べることと、言葉を喋ることの両用の役目を果たす。それを得意ならしめているのが嘴である。そして言葉を喋る意において、クチバシは、口走ることと緊密な関係にろう。新撰字鏡に、「觜 之髄反、上、喙也、鳥口也、久知波志(くちはし)」、「◇(註に匚が間に入る字) 九王反、禱也、◆(言偏に王)也、久知波志留(くちはしる)、又太波己止(たはこと)、又久留比天毛乃云(くるひてもの云)」、和名抄・羽族部・鳥体に、「觜〈嘴附〉 説文に云はく、觜〈音斯、久知波之(くちばし)〉は鳥喙也、喙〈音衛、久知佐岐良(くちさきら)、文選序に鷹礪を曰ふ也〉は鳥口也といふ」(異文多い個所である)、形体部・鼻口類に、「脣吻 説文に、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉と云ふ」ともあり、名義抄には、「呴吽■(牛偏に口) クチサキラ」、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、コトハル、ウツ、カタラフ、ハチ、ウレフ、マコト、合會善言ヽ調ヽ」とある。つまり、クチバシのクチバシたるものの本質までを決定的に表わすのが、鷹の嘴である。鷹狩のために飼い慣らされた鷹の嘴は、爪觜小刀によって丸く鈍く整えられている。離されているのである。ハナシという言葉は、話であり、離(放)しである。口から意図的に放って離れさせるものが、クチサキラから放すサキラ、つまり、ハナシ(話)である。三保先生の「手放」=「手放(たはな)し」という訓の正当性を、語学的に証明するものである。(注10)
 以上の考察から、「孔部間人」と用字において表意的に断っているアナホベノハシヒトという言葉は、鷹の嘴に負っている優れた職掌であることを意味しているとわかる。よくお喋りをする明るい方で、人と人とをつなぐ役割を果たすような存在だったのであろう。そして、人と人との間を渡る渡り鳥が、鷹狩のために調教された鷹である。鳥を捕まえて献上するのは、「鳥取部(ととりべ)」、「鳥飼部(とりかひべ)」と呼ばれた職掌の人たちである。

 是に天皇、其の御子[本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)]に因りて、鳥取部・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむぢべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めき。(垂仁記)
 十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦、鳥取部・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月条)
鷹狩図(彩絵磚、甘粛省嘉峪関四号墓、中国、魏晋時代、中国美術全集編輯委員会編『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』文物出版社、1985年、34頁「縦鷹獵兎」より)
鷹狩埴輪(群馬県太田市オクマン山古墳出土、6世紀末、新田荘歴史博物館蔵、太田市HPより)
 なかでも優秀な人たち、それが「鷹甘部(たかかひべ)」(仁徳紀四十三年九月条)、後の鷹匠である。養老令・職員令、兵部省のなかに、「主鷹司(しゆゐようし) 正一人。〈掌らむこと、鷹犬調習(でうじふ)せむ事。〉令史一人。使部六人。直丁一人。鷹戸(たかかひへ)」、官員令別記に、「鷹養(たかかひ)戸、十七戸。倭・河内・津。右経年毎丁役。為品部、免調役」とある。そんじょそこいらの鳥取部ではない。網や罠のような陳腐な道具で大した鳥も貢げない人たちとは違う。大きなハクチョウも捕まえて来る、珍しい、有り難い鳥取部である。ハクチョウはなかなか捕まえられない。本牟智和気御子(誉津別命)の話に、「今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿藝登比(あぎとひ)為き。爾くして、山辺之大鶙(やまのへのおほたか)を遣して、其の鳥を取らしめき」(垂仁記)、「時に鳴鵠(くぐひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠を観(みそなは)して曰はく、『是何物ぞ』となたまふ。」(垂仁紀二十三年十月条)にあるクグヒ(鵠・鳴鵠)とは、ハクチョウのことである。言葉の話せない御子が、言葉を話せるようになるきっかけを与えるなど、瑞祥中の瑞祥である。そのような鳥を格好よく捕まえる人たちのことを古語で表すなら、「瑞(みづ)の鳥取(ととり)」ということになる(注11)。ミヅノトトリとは、癸酉(みづのととり)に同じ音である。つまり、アナホベノハシヒトさんの忌日は、癸酉の日であって欲しいわけである。それこそ、名を以て体を成すこと、言葉が事柄と同じことになる。言霊信仰の下にある人には、そうであって欲しかった。ところが、「孔部間人公主」という「母王」は、亡くなった日が、少しだけ次の甲戌の日にずれ込んでしまった。1~2時間(?)ぐらいと短いから、まあ、そこは大目に見て、癸酉の日に算入してしまって良いではないか。そのほうが、わかりやすく、覚えやすいし、記念日として供養したくなるじゃないか、亡き人も喜ぶんじゃないか、という発想である。結果、「十二月廿一癸酉日入」なる不思議な表記をもって記されている。
 「日入」を古訓に、トリノトキと訓んでいる。酉の刻の意である。酉の刻は午後6時頃、夕暮れ、日の入り時である。すると、上のずれ込み説は当たらないのではないか、算入の意で他に書いた例があるか、とのご指摘もあろうと思う。筆者は、ここにも、銘文を記した人の知恵を見て取る。「日入」と書くと、トリノトキと訓まれるであろうと知っているのである。それでいい。なおのこと、トリのことが思い浮かぶ。鳥取部のなかでも優秀な鷹飼部のことを思い起こさせる仕掛けになる。銘文の作成者の頭では、孔部間人という人の名は、鷹を使って鳥を捕まえる人のことを表わしているということがすべての先に立っている。それが、アナホベノハシヒトという言葉の、言動一致事項だからである。言霊信仰に従った明晰な表記と言えよう。
 儀鳳暦が何であるとか、「癸酉」をクヰイウなどと読んだり、「日入」を日暮れ時のことであるといった知識積み上げ式の解釈は、すべてナンセンスである。と同時的に、この銘文自体は等閑視して銘文の成立時期を云々しており、およそ形而上学的な当世のお遊びに過ぎない。歴史学の議論が、meta-history、原典の後に来るものとなってしまった。文献の書き方に、今日の人たちとは異なる書き方が行われた可能性を排除し、杜撰な“読み”が行われている。簡潔に言えば、それは、“読まない”姿勢である。銘文自体を、銘文の内部へ踏み込んで、書いた人の意図を汲もうとしないのでは、最初から“読む”気がないのでは、アナホベノハシヒトさんも、トヨトミミノオホキミさんも、タチバナノイラツメさんも、トヨミケカシキヤヒメノミコト(注12)さんも、いないことにしようと思えばいないことになる。哲学の存在論の話ではない。聖徳太子はいなかったという議論は、議論している人の心(頭)の中にいない、ということに他ならない。姥捨ての発想である。挙動「不審」な議論が行われている。
 書いた人は知恵が優っている。上代の人のものの考え方は、今日の人のそれとは多分に異なる。上代のテキストを“読む”姿勢をとる場合、なぞなぞ解読の考え方を習得する必要があるであろう。養老律令が制定され、続日本紀に日記風に歴史が記される頃から、母語である日本語に、漢語を用いた言い方が日常的に採り入れられるようになっていた。それまで文字を意識することが後回しであったヤマトコトバは、あたかも文字を前提にするように衣替えをして行った。平仮名の成立、定着化によって、位相を異にするヤマトコトバ文学、女流文学が起こり、不思議な展開が繰り広げられてはいるが、上代の記紀万葉における言葉の捉え方は、無文字を前提に、音としてしかない言葉を繰り広げること、すなわち、ハナシ(話・咄・噺・譚)ばかりである。話半分で聞かなければ、頓狂な議論を構築しかねないことになる。
 ミヅノトトリを、「瑞の鳥取」と「癸酉」との駄洒落をもって記した。念の入れようは、銘文において重要な要素だから、小咄のオチ(サゲ)だからである。ここで笑えない人は、“話(噺・譚・咄)”の通じない人である。そして、ハナシとは、無文字文化の糧のような存在である。しかも、この部分の重要性は、自己言及的にそれを語っている点にある。名義抄に、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、……」とあった。話とは、サキラである。クチサキラから上手に話されることである。才気の現れた弁舌である。そういう重要な事柄であると、自ずからきちんと自己言及的に記そうと努めている。すなわち、繍帳の銘文は、無文字文化華やかなりし頃に製作されたことが窺える。文字文化の始まった藤原京以降に下るものでは決してない。古今集でも語呂合わせは多いと思われるかもしれないが、万葉集とは桁が違う。干支との語呂合わせに興じた例があるのだろうか。甲子大黒(きのえねだいこく)、丙午の女、庚申信仰の庚待(かのえまち)といった干支にまつわる言い方はあるが、言葉の洒落、○○と掛けまして☓☓と解く、そのこころは、△△という謎掛けの言語遊戯と関係があるのかわからない。ミヅノトトリの洒落、語呂合わせは、文字文化の時代にはなかなか思い着きにくい発想であろう。
 奈良時代に、文字文化の時代の始まっていたことを表す詔が残る。元明天皇代、「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ」(続紀、和銅六年五月条)(713年)とある。いわゆる好字令である。言葉において聴覚を重視する思考が、視覚を重視する思考へと転換していたこと、ないしは、その途上にあることを意味している。両者は文化が違う、という言い方がふさわしいようである。天寿国繍帳の銘文の成立時期は、無文字文化の時代である。大宝律令の制定(701年)や、好字令の詔よりもだいぶ以前である。頭の使い方が違うと見て取れる。次の日だけどミヅノトトリに入れてしまおうよ、ということを考えもし、それを「日入」などと表記してうまいことやってしまうことは、律令官僚から始まって現代の学者に至るまで、住む世界が違うように思われる。町に哲学者あり、の発想である。キティちゃんのようなパッチワークのカーテンを有り難がっていてはいけない。法隆寺の資材帳に繍帳のことが載っていなかったのは、橘大女郎ひとりのために作られた、趣味の民芸品風のものであったからに相違ない。病んでいる人のために急いで作ったから刺繍が塗絵風の直線使いであるし、絹糸なのに風合いを損ねてしまう撚糸を使ったのは、彼女がヨリユクと言っていたからに他ならない。法隆寺は格式が高まって南都七大寺に数えられてしまう大寺院である。仏像を荘厳するための品にして、このような幼稚なものが飾られていたと想定すること自体、美術史的観点からしていかがなことか。(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

天寿国繍帳銘を読む 其の七(「天寿国」=「天竺に」説)

2016年08月09日 | 論文
 天寿国繍張銘を再考する。基本的な捉え方は従来通りであるが、細かい点を補正しつつ、次の2点について以下に述べる。第一に、繍帳の呼び名にもなっている「天寿国」とは何か、第二に、「孔部間人母王」(穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ))の忌日はいつか、銘文中に「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩」とあることの意味について、である。
天寿国繡帳残片(絹製、飛鳥時代、7世紀、東博展示品)
 天寿国繍帳の多くは中宮寺に伝わる。そこに銘文が刺繍されていた。鎌倉時代に、中宮寺の尼僧、信如が、同寺の復興にあたって、寺の本願と伝えられる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の忌日を知りたくなった。夢のお告げに繍帳の銘文に記されていると教えられ、法隆寺綱封蔵の泥棒騒ぎのおかげで調査ができ明らかとなった。繍帳はすでに劣化が始まっていたが、当時の専門家が銘文を解読した。それが、上宮聖徳法王帝説に記され、他に、宮内庁書陵部蔵の中宮寺尼信如祈請等事(定円の解読)、西尾市立図書館内岩瀬文庫蔵の松下見林本天寿国曼荼羅銘文(平野神社兼輔の解読)などがあって、それらの異同を校訂された飯田瑞穗先生の水を漏らさぬ考究の結果、全四百字が復原されている。
 飯田瑞穗『聖徳太子伝の研究』(吉川弘文館、2000年)による原文と訓読文を記す。本文校訂をされただけあってきわめて深く“読む”作業が行われている(注1)。“読む”とは、飯田先生のようにすることであると、ただただ頭が下がる。つづけて筆者による訓読文を提示する(注2)

斯歸斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 比里爾波 乃彌己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比彌乃彌 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃彌 己等妹名 等已彌居 加斯支移 比彌乃彌 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 彌己等為 后生名孔 部間人公 主斯歸斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃彌己 等娶庶妹 名等已彌 居加斯支 移比彌乃 彌己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 尾治王多 至波奈等 已比乃彌 己等娶庶 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆邊宮治 天下生名 等已刀彌 彌乃彌己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰敬 之雖恐懐 心難止使 我大王与 母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王應 生於天壽 國之中而 彼國之形 眼所叵看 悕因圖像 欲観大王 住生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繡帷二張 畫者東漢 末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻
〈書下し文〉
斯帰斯麻宮(しきしまのみや)に天下(あめのした)治(しら)しめしし天皇(すめらみこと)、名(みな)は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと)、巷奇大臣(そがのおほおみ)、名(な)は伊奈米足尼(いなめのすくね)の女(むすめ)、名(な)は吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)を娶(め)して大后(おほきさき)と為(な)したまひ、名(みな)は多至波奈等已比乃弥己等(たちばなのとよひのみこと)、妹(いも)名(みな)は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしぎやひめのみこと)を生(う)みましき。復(また)、大后(おほきさき)の弟(おと)、名(な)は乎阿尼乃弥己等(をあねのみこと)を娶(め)して后(きさき)と為(な)したまひ、名(みな)は孔部間人公主(あなほのはしひとのひめみこ)を生(う)みましき。
斯帰斯麻天皇(しきしまのすめらみこと)の子(みこ)、名(みな)は蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等(ぬなくらのふとだましきのみこと)、庶妹(ままいも)名(みな)は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしぎやひめのみこと)に娶(みあ)ひまして大后(おほきさき)と為(な)したまひ、乎沙多宮(をさだのみや)に坐(ま)して天下(あめのした)治(しら)しめし、名(みな)は尾治王(をはりのみこ)を生(う)みましき。
多至波奈等已比乃弥己等(たちばなのとよひのみこと)、庶妹(ままいも)名(みな)は孔部間人公主(あなほのはしひとのみこ[ママ])に娶(みあ)ひまして大后(おほきさき)と為(な)したまひ、瀆辺宮(いけべのみや)に坐(ま)して天下(あめのした)治(しら)しめし、名(みな)は等已刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)を生(う)みましき。尾治大王(をはりのおほきみ)の女(むすめ)、名(みな)は多至波奈大女郎(たちばなのおほいらつめ)を娶(め)して后(きさき)と為(な)したまひき。
歳(ほし)は辛巳(かのとのみ)に在(やど)る十二月(しはす)廿一(はつかあまりついたち)の癸酉日入(み[ママ]のととりのとりのとき)、孔部間人母王(あなほのはしひとのははみこ)崩(う)せましぬ。明年(あくるとし)二月(きさらぎ)廿二日(はつかあまりふつか)甲戌夜半(きのえいぬのねのとき)、太子(ひつぎのみこ)崩(う)せましぬ。時(とき)に多至波奈大女郎(たちばなのおほいらつめ)悲哀嘆息(かなしびなげき)、畏(かしこ)き天皇(すめらみこと)の前(みまへ)に白(まを)したまはく、啓(まを)すこと恐(おそ)れありと雖(いへど)も、懐心(おもふこころ)止(とど)め難(かね)つ。我(わ)が大王(おほきみ)と母王(ははみこ)と期(ちぎ)りたまへるが如(ごと)く従遊(ゆき)ましぬ、痛酷(いたましきこと)比(たぐひ)无(な)し。我(わ)が大王(おほきみ)告(の)りたまはく、世間虚仮、唯仏是真と、其(そ)の法(みのり)を玩味(あぢはひみる)に、謂(おも)ふに我(わ)が大王(おほきみ)、天寿国の中(うち)に生(うま)れましつらむ。而(しか)れども彼(か)の国(くに)の形(かたち)、眼(め)に看(み)叵(がた)し、悕(ねが)はくは図像(かた)に因り、大王(おほきみ)の住生(すみたまふ)之状(さま)を観(み)たてまつらむと欲(おも)ふと。天皇(すめらみこと)聞(きこ)しめして悽然(かなし)びて告(の)りたまはく、一(ひとり)の我(わ)が子(みこ)有(あ)り、啓(まを)す所(ところ)誠(まこと)に然(しかり)と為(な)す。諸(もろもろ)の釆女等(うねめども)に勅(みことのり)して、繡帷(ぬひもののとばり)二張(ふたはり)を造(つく)らしめたまひき。画者(えがけるもの)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又(また)漢奴加己利(あやのぬかこり)。令者(つかさどれるもの)は椋部秦久麻(くらひとべのはたのくま)。(420~422頁。傍点、傍線は割愛した。)

 〈筆者の訓読文〉
 斯帰斯麻宮(しきしまのみや(磯城嶋宮))に天下(あめのした)治(し)らしめしし天皇(すめらみこと)、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと(天国排開広庭尊)=欽明天皇)、巷奇大臣(そがのおほおみ(蘇我大臣))、名は伊奈米足尼(いなめのすくね(稲目宿禰))が女(むすめ)、名は吉多斯比彌乃彌己等(きたしひめのみこと(堅塩媛命))を娶(ま)きて大后(おほきさき)と為(し)たまひ、名は多至波奈等已比乃彌己等(たちばなとよひのみこと(橘豊日尊)=用明天皇)、妹(いも)、名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(とよみけかしきやひめのみこと(豊御食炊屋姫尊)=推古天皇)を生(う)みたまふ。復(また)、大后が弟(いろど)、名は乎阿尼乃彌己等(をあねのみこと(小姉命))を娶きて后と為たまひ、名は孔部間人公主(あなほべはしひとのひめみこ(穴穂部間人皇女))を生みたまふ。斯帰斯麻天皇(しきしまのすめらみこと(磯城嶋天皇))が子(みこ)、名は蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと(渟中倉太珠敷尊)=敏達天皇)、庶妹(ままいも)、名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等を娶きて大后と為たまひ、乎沙多宮(をさたのみや(訳語田宮))に坐(いま)して天下治らしめし、名は尾治王(をはりのみこ(尾張皇子))を生みたまふ。多至波奈等已比乃彌己等、庶妹、名は孔部間人公主を娶きて大后と為たまひ、瀆邊宮(いけのへのみや(池辺宮))に坐して天下治らしめし、名は等已刀彌彌乃彌己等(とよとみみのみこと(豊聰耳皇子)=聖徳太子)を生みたまふ。尾治大王(をはりのみこ(尾張皇子))が女、名は多至波奈大女郎(たちばなのおほいらつめ(橘大女郎))を娶きて后と為たまふ。
 歳(ほし)辛巳(かのとみ)に在(やど)りし十二月(しはす)の廿一(はつかあまりつきたち)の癸酉(みずのととり)の日入、孔部間人母王(あなほべのはしひとのははのみこ)崩(かむあが)りましぬ。明年(くつるとし)二月(きさらぎ)の廿二日(はつかあまりふつかのひ)の甲戌(きのえいぬ)の夜半(よなか)、太子(ひつぎのみこ)崩りましぬ。時に多至波奈大女郎、悲哀(かなし)び嘆息(なげ)きて白(まを)さく、「畏(かしこ)き天皇(すめらみこと)が前(みまへ)に曰(い)ひて啓(まを)すは恐(かしこ)しと雖(いへど)も、懐(おも)ふ心止(や)み難し。我が大王(おほきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちぎり)しが如(ごと)く従(よ)り遊(ゆ)く。痛く酷(から)きこと比(たぐひ)无(な)し。我が大王、告(の)りたまへらく、『世間虚仮(せーけんこーけー)、唯仏是真(ゆいぶつぜーしん)』とのりたまふ。其の法(のり)を玩味(あぢは)ふに、我が大王は天寿国(てむじくに)の中(なか)に生(あ)れたまふべしと謂(おも)ふ。而(しか)れども彼(そ)の国の形、眼所(めど)に看(み)叵(がた)し。悕(ねが)はくは図像(みかた)に因りて大王が住生(すま)ひし状(さま)を観(み)まく欲(ほ)し」とまをす。天皇、之れを聞こしめして悽然(いた)みたまひて告曰(のりたまは)く、「一(ひとり)の我が子有り。啓(まを)せるは誠にして、以為(おも)へらく然(しか)なり」とのりたまふ。勅(みことのり)して諸の釆女(うねめ)等に繍帷(ぬひもののかたびら)二張(ふたはり)を造らしめたまふ。画(えが)ける者は東漢末賢(やまとのあやのめけ)、高麗加西溢(こまのかせい)、又、漢奴加己利(あやのぬかこり)、令者(つかさひと)は椋部秦久麻(くらひとべのはたのくま)なり。

 「天寿国繍帳銘を読む」ということは、銘文を、頭を捻って作り上げた人の、頭の捻り具合を追体験することである。なぞっていたのでは駄目である。東野治之「天寿国繡帳の図様と銘文」『日本金石文の研究』(岩波書店、2004年)に、「銘文は、聖徳太子のその妃の橘大郎女の系譜を記した前半部と、繡帳制作の経過を述べた後半部に大きく分けられる」(149~150頁)とある。ここで終わって“読まない”で議論を始めると、不毛なことに陥る。野見山由佳「天寿国曼荼羅繡帳の成立」大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)に、「この繡帳の成立時期に関しては、多くの先行研究があり、銘文どおりに推古朝に成立したという意見もあれば、反対に推古朝成立を否定する意見も少なくない」(285頁)とある。内容を“読まない”で、出てくる単語の一言半句をあげつらって、いつ製作されたのかを考証し、聖徳太子はいなかったのではないか、といったことが真面目に論じられている。手が付けられない。
 繍帳は、アニメのような図柄で、しかも約2m☓4mの大画面が2面、そこに亀の背に4文字ずつ漢字が乗って飛んでいる。それが天寿国繍帳銘である。キティちゃんがコスプレして世界を経巡っているような図柄のカーテンである。亀が薄絹地の上に碁石を並べたように配置されていたとも指摘されている。飛んでいる亀の背にへたくそな字が4字ずつあしらわれている。今、飯田先生の大研究によって、その刺繍の文字から銘文400字が確かめられている。
 銘文全体を考えたとき、仮にそれが上代の、飛鳥時代前期、推古朝に書かれた文であるなら、訓読みをもって読まれなければあり得ないと筆者は考える。音読みで意味がわかるとは、漢字を知っていることが前提になるからである。中国人や渡来系の人が作成した文章を訳しているというのでは、主人公ともいえる「多至波奈大女郎(橘大女郎)」が学者か何かの設定になり、文章の大枠が崩れてしまう。会話文中に広く巷間に知られていない音読みの漢語が登場することは、制作年代がいつのものであっても、たとえ後代に下るものであってもあり得ない。作家かコピーライターの端くれが、台詞部分に聞いただけでは意味の通じない発語を挿入していたのでは、デザイナーの側としては、台本がひどすぎるよ、わからないから作らないよ、ということになる。デザイナーは字が読めないからいいのだ、という議論も可能ではあるが、今日、学界において、そのようなことまで周到に検討されているようには思われない。銘文を“読む”ということは、銘文を自分が“書く”つもりになって接しなければならない。今日の研究者の間ではそれが行われていない。文人ではないということらしい。
上:繍仏裂、下:天寿国繍帳(澤田むつ代「天寿国繡帳と法隆寺宝物の刺繡」東京国立博物館『国宝 天寿国繡帳』同発行、平成18年、12頁より。私事で恐縮であるが、繍帳に、なぜ、せっかくの絹の美しさを損なう撚糸が使われているのかという澤田先生のご疑問にはお答えしたつもりであります。その節は活を入れていただきありがとうございました。)
 筆者の訓読による理解では、この銘文は、銘文にあるとおり、橘大女郎が、「孔部間人」という「母王」と、聖徳太子という「我大王」とが相次いで亡くなってしまい、ノイローゼになって、2人してヨリユク(「従遊」)、つまり、糸を撚るようにして逝ってしまったと思った「天寿国」を見たいけれど見えないから、頼りにすべき「図像」が欲しいと、公務に忙しい推古天皇に嘆願してきたため、心配した天皇が「諸采女等」に命じて、患者さんの言葉どおりに糸に撚りをかけて、絹糸の撚糸を使って刺繍させたものである。大丈夫か? 橘大女郎、である。第一に、太子が講義で発していたことかよく分からない「世間虚仮 唯仏是真」なるお経の文句のようなものを唱えている。ここは訓読みすべきところではない。お経は漢語(呉音)棒読みである。聞いていてよくわからない。わからないから奥が深くて意味があるように感じられる。お寺で訳したものを唱えるときがたまにあるが、筆者はげんなりさせられる。「世間虚仮 唯仏是真」はお経のようでありながら、出典が明らかではない。出典が確かではないお経のようなものとは何であろうか。どういう念仏であろうか。きっと、彼女の記憶の混乱、妄想による文句であろう(注3)
 第二に、太子はおそらく、彼女を安心させるためのたとえ話として、「天寿国」なることを語ったのであろうことを、真に受けてしまって本当のことだと勘違いをしている。「天寿国」とは何かについて、今日の研究者は、あるいは偽写経に「天寿国」とあるのを喜んだり、あるいは繍帳の図像が「天寿国」であって、浄土図の1つなのだという考え方に凝り固まっている。そうであろうか。中世の浄土思想のように、上代に天寿国思想は広まっていたのであろうか。浄土という考え方は種々あったかもしれないが、天寿国繍帳の銘文以外に「天寿国」という言葉がなかったら、それも銘文のなかの発語部分、台詞にしか登場していないとなると、台詞を吐いた橘大郎女の頭の中にしか「天寿国」なるものはなかったと考えるべきである。相手は精神を病んでいる。つまり、この繍帳は、“荘厳”する作品ではない。
 「天寿国」とは何かについての諸説のうち、大野達之助『上代の浄土教』(吉川弘文館、昭和47年)に、「天寿国」=天竺説が紹介されている。国語調査委員会編『仮名源流考』(43~44/168)(国定教科書共同販売所発行、明治44年)に、「或はこは浄土にあらで、天竺国の事なりといふ説あり。……天竺国説は、繍帳の図中、日月鬼畜などありて、天国浄土のさまにあらざると、天寿と天竺と今の字音の似通ひたるなどより、思ひ寄れるものなるべし」(59~60頁、旧字体は改めた。)とあり、大野先生も、「六朝時代における天寿と天竺は同じ字音であって、天寿国も本来はインドを指す呼称であったと推測される」(76頁)と述べられている。後漢書・西域伝に、「天竺国一名身毒。在月氏之東南数千里。」とある。銘文のこの部分、橘大女郎の口から「天寿国」という言葉が持ち出されている。「我が大王は天寿国の中に生れたまふべしと謂ふ」。アガオホキミハ天寿国ノウチニアレタマフベシトオモフ、と仮に喋ったとしてみよう。「天寿国」と当てられた元の言葉(発声音)は、可能性として、テンジュコク、テンズコク、テムスクニなどいろいろである。そのような国を想像しているのは、今、彼女1人である。インドのことを表すテンジク(天竺、身毒)については、ヤマトコトバ調に訛ったとしてテムジクぐらいになり得る。太子が生前、彼女に、仏教はテムジクが発祥の地なのだよと語っていたとして、それをそのまま言葉として発したとしたら、母王と太子が逝った先を赴任先の1つのクニ(国)、播磨国、出雲国、尾張国のような行政単位のように思って、テムジクに行った、から、テムジクニ行った、テムジクニの中に生まれた、という助詞接着化による語展開の可能性を見て取れる。そのような例は、景行記にある。これからは名を、ヤマトタケルノミコ言うべし、から、名がヤマトタケルノミコに落ち着いたという話である(注4)

 ……是を以て、吾、御名を献らむ。今より以後(のち)は、倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(たた)ふべし」とまをしき。是の事を白(まを)し訖(をは)るに、即ち熟苽(ほぞち)の如く振り折(さ)きて殺しき。故、其の時より御名を称へて、倭建命(やまとたけるのみこと)と謂ふ。(景行記)

 「天寿国」を浄土の一類型と考えるこれまでの説は、銘文に成り立ちにくい文章となっている。「天寿国中」に「生」ずるとはどういうことであろうか。極楽西方浄土、兜率天浄土など、どんな形であれ、それを「天寿国」という言い方で言っているとするなら、「中」に生まれるという意味合いがつかみにくい。卵生、胎生、湿生、化生の四生の変化を表わす図像が見られるともされている(注5)。その場合、無→有だから、「中」に「生」まれると言えないことはないが、図にあるなら「蓮華中」に生まれると記されてしかるべきである。むしろ、ヤマトコトバの奈良盆地風に、クンナカとでも言えるような表記が行われている点に注目したい。コク(国)ではなく、クニ(国)である。テンジュコクではなく、テンジュクニ、ないし、それに近い、テンジクニのように彼女が言ったのであれば、それを表記するに、天寿国という字をあてがうであろう。彼女の錯乱ぶりをうまく表している。太子は仏の世界、インドへ、つまり、テンジク(天竺)生まれ変わると言っていた。それをテンジク(天寿国)の中へ生まれ変わるものと思っている。
天寿国繍帳・蓮華化生図部分(東京国立博物館編『国宝 天寿国繡帳』同発行、平成18年、7頁より)
 本ブログ「多武峰の観(たかどの)とは何か=両槻宮&天宮考」で述べたように、斉明紀の「天宮」はアマツミヤばかりでなく、テムノミヤと言っていた可能性が高い。そこがタムノミネだからであり、とても近い訛った音構成である。タムノミネのタム(訛)という語を含んだ地名だから、それを意識して洒落てみている。言葉が自己言及的に用いられている。橘大女郎がテムジクニと言ったとすると、ヤマトコトバ的にはそもそもが訛っているように聞こえる語である。外来語に特有の、ン音をム音へと転訛している。「玩味」と断っていることからも推測される。口腔を言葉がめぐっている。玩味ついでに口をついて言葉が出てきた。クチサキラ(吻、嘴)的な語である。名義抄に、「話」字に「サキラ」という訓がある。源氏物語・鈴虫に、「たゞいまの世に、才もすぐれ、ゆたけきさきらをいとゞ心していひつゞけたる、いと尊ければ、皆人しほたれ給ふ」という用例がある。彼女のお話、テムジクニ物語である。“天寿クニ繍張”の研究と呼ばれることを期待したい。流暢に話したことを表すのであろう。例えば、バイオリン、バラエティと平べったく言うのではなく、ヴァイオリン、ヴァラエティとネイティヴ流に喋ったということである。発音ばかり先んじた言葉、意味の付いて来ない言葉であることを確かに示している。
 第三に、事もあろうに、天皇の立場のある推古天皇に直訴している。誰か友だちはいないのか、カウンセラーはいないのか。わざわざ斑鳩から飛鳥まで歩いてきて、警護の者に何とかお目通りを言ってきた。これでは斑鳩宮は、太子を看病して疲れて亡くなった膳夫人(膳大刀自(かしはでのおほとじ)、膳菩岐々美郎女)も含め、さらにもう1人死者が出ることになる。橘大女郎が「従遊」と言っていたのに似つかわしく続けざまに亡くなっているのは、実は膳夫人と太子なのであるが、それすらわからなくなっている(注6)。とても危険である。自死者など出たら堪らない。若い人が先へ逝くのはもう勘弁してほしい。仏教の盛んなその象徴のような斑鳩の里が、文字通り葬式仏教になってしまう。政治面においても、推古朝は仏教推進的に動いてきた。困ったものである。
 そして第四に、橘大女郎の言っていることは、論理的に破綻しているものではなく、「然り」なのではあるが、ラージミステイクに陥っている。論理階梯が混乱している。どんなに説いても諭しても、通じることはないと直感させられる。彼女は、太子の言っていた論理の枠組みを見極められず、単語の切れ目もわからずに、太子の言葉を単線にしか理解できなくなっている。例えば、女「痛っ、何でぶつのよ」、男「棒で」、などといった噛み合わない言い合いがある。こういった会話に笑いが起こるのであれば、それは論理階梯を混ぜこぜにしていることを認めながらの“大人の”ジョークで済まされるが、真顔の場合、お付き合いは止めた方がよい。そのようなジョークの例は、本ブログ「ヤマトタケル東征後の筑波問答「かがなべて」歌について 其の六」の注にあげた東森勲編『メタ表示と語用論』(開拓社、2015年)に興味深い例がいくつも記載されている。それでも、橘大女郎には、一筋の救われる道は見えていたと思う。彼女は、天皇への直訴について、やたらとかしこまっている。「畏」、「恐」。かしこまる相手であるし、かしこまる内容である。そう気づくだけの賢さが残っていたからカシコシと言い、賢いからそういう病に陥るともいえる。「懐(おも)ふ心止(や)み難し」、オモフココロヤミガタシとは、病(やみ)堅(かた)し、すなわち、変な考えを起こす病がひつこく付きまとっているということ、心の風邪をこじらせていることを含意して捉え返されている。
 「繍帳」は刺繍のトバリのこと、寝る時に枕元にかけ立てて熟睡できるようにした仕切りのカーテンのことである。精神を病んでいる人は、①夜よく眠ること、②それにより十分に休養すること、③ふつうにご飯を食べること、④適度な運動をすること、⑤その結果、規則正しい生活を送って生活リズムを取り戻し、ホメオスタシスによって治癒していくのが最善の方法である。夜に亡くなることが続いて、生活リズムも乱れていたのであろう。まずは睡眠薬代わりにトバリが必要である。彼女の願いを最大限聞いてあげよう。「天寿国」とは何かよく分からないが、太子が言っていたらしいことを彼女が真に受けているらしいから、太子はとてもハッピーところへ行ったのだと思わせるようにして、安心して暮らせるようにさせたい。うつらうつら微睡んでいる時に、ハッピーな「天寿国」が見えれば、不安に駆られることなく眠れるだろう。寝返りを打って悪夢に怯えて目が開いても、やはりハッピーな「天寿国」が見えるよう、左右に計二張必要である。緊急事態である。さあ、采女たち、急いで頂戴。
天寿国繍帳・亀の上の字部分(東京国立博物館編、前掲書、4頁より)
 亀の上に字が乗っている。彼女が字を読めたとは思われない。けれども、それが文字であるということはわかるであろう。なぜ、亀の上なのか。「亀」も「噛め」もカメ(メは乙類)だからである。話すのが苦手な人は、よく噛んでしまう。そこで、カンペを用意する。上代の人にとって、祝詞がそれに当たるのかどうか不明ながら、亀の上に何らかの記号が記されているとわかりさえすれば、それは文字であるということは、カメ(噛)というヤマトコトバから理解することができる。已に噛んでしまっている已然形である。病室のカーテンのデザインとしてはそれで良い。もちろん、作る側は適当に字を並べておけばいいかというとそうはいかない。なぜなら、言霊信仰の下にある人たちである。“嘘”、“偽り”、“いいかげん”なことを書(ふみ)にし、それを誰かが読んだとき、言葉に出した時、それはそのまま事柄となる。現実になる。言=事が言霊信仰である。そういう恐れは排除しなければならない。“正しいこと”、“確かなこと”、“真(まこと)”を書く。彼女が訴えてきたことをそのままに書き、その訴えをそのままに捉え返して糸を撚って刺繍にした次第を書く。現実(事)を言(こと)として表している。それが銘文であり、「図像」はそれが彼女の頭の中にだけ存在することを入れ籠構造として表している。ベイトソンの考え方による解説は、すでに、本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の三」で述べた。
 筆者は、この自己言及的な言葉の表現に、銘文の制作は上代にあったと考える。文字文化にどっぷり浸かった後代の人たちに、このような入れ籠構造の文章を捻る理由は見当たらない。依って立つものが文字表記として既存する。漢詩漢文を作ってみればいい。アンチョコを参考にすれば、どんどん書けるではないか。五線譜にオタマジャクシを“作曲”と称して書く時、何長短調か何分の何拍子か、門外漢にはわからない。ところが、それと冒頭部が同じ楽譜、ト音記号の右に♯や♭がいくつついているか、何分の何と書いてあるか、その点が同じ楽譜を探して来て写してしまえば、それはそれで“編曲”になる。音楽の時間の答案として、高得点が期待できる。それが文字文化、記号表記文化というものである。
 他方、無文字文化のなかにいた人たちは、文章を作るに当たって、言葉が言葉だけで自らが自らを定義するように考えを巡らす作業を行う。言葉が音としてしか存在しない。それが当たり前の現実としてあり、それが日常であれば、言葉が言葉自体で説明責任を果たすようでなければならない。なぜなら、聞いた相手がわからないからである。聞いて考えを廻らせた挙句になるほどと納得がいくことが、言葉としてふさわしいことになる。筆者はこれを“なぞなぞ”と言い、古語に、「無端事(あとなしごと)」(天武紀朱鳥元年正月条)と呼んでいる。端が無いとは、ユヱ(由縁・所以)が知られないものである。何かほかに依って立つ根拠があるわけではない。根拠がない事柄なのに、確かであると了解されるのは、言葉が当該の言葉自体で自らを説明しているからである。自己言及である。論理哲学の詳しいところは、ウィトゲンシュタインなどを当たられたい。奇しくも精神を病んだ橘大女郎とのやりとりが、飛鳥時代のヤマトコトバの本性をさらけ出すこととなっている。(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東洋文庫ミュージアムは楽しい

2016年08月06日 | 無題
 東洋文庫ミュージアムは楽しい。
 人間は変なことばかりしていると気づかされる。
アレクサンダー・アームストロング「ラバの輿で孔子の墓まで」(1896年、ロンドン)
 ウマとロバをかけ合せたラバを使い、荷鞍を置き、狭い形式の輿の轅を前後のラバの鞍に結わいつけている。不思議な乗り物である。左右にひっくりかえらないか心配になる。
ジョン・グールド「アジアの鳥類」(1850~1853年、ロンドン)
 よく知られる大きな本である。もともとはペラの絵を、後で本に仕立てたものとのこと。原寸大の鳥が描きたかったから大きなものになったとされる。本当に原寸大なのか、疑問なしとしない。それどころか、遠近法で3羽小さく描かれているように思う。もし遠くのキジも“原寸大”とするなら、ちょっと“定義”が困ったことになる。絵画のような図鑑を目指したということであろう。
萬世師表図(中国、1736~1795年、木版)
 AKBの総選挙のような孔子の弟子たちの人気投票図なのだそうである。センター(?)は孔子である。東の横綱は、顔回である。「賢なる哉、回や」。西の横綱が曾子になっている。「嗚呼、曾ち泰山は林放に如かずと謂へるか」の林放は下の方へ行っている。「宰予、昼寝す」で怒られた宰予のほうが上にいる。みな冕冠を被っている。皇帝に叱られなかったか気になる。笏を持っている。前に名札が立ててある。位牌に見えてくる。皆亡くなっている。誰も咎めはしないだろう。
越南婚葬行列図(作者不詳、19世紀末~20世紀初)
 ベトナムでも儒教が盛んであったことのよくわかる絵とのことである。上に泣き女が描かれている。霊柩車ではなく輿に載せて人が担いでいる。位の高い人のそれと思うが、轜車(きぐるま)でキーキー軋ませる効果音はなかったのだろうか。
梵語千字文(義浄書写、唐時代、9世紀頃、円仁将来、高橋是清旧蔵)
 義浄が千字文を書いて、それに梵字でルビを振ったものという。書道家にお馴染みの千字文のように、4句ずつ書かれていってそれが20回続く。そこまでで80字である。その後、五言四句の詩が一首あらわれる。これで100字である。そのパターンが10回続いて、実際はちょっと雑なところもあるのだが、全部で1000字ほどになっている。それに、すべて梵字のルビが漢字と同じ大きさで振られている。ルビのほうがしっかり描かれている。梵字の方が字数が多くなるから漢字はパラパラと散じており、朱のところもあったりする。
 例として、早稲田大学所蔵の刊本によって漢字の最初の100字についてあげると、

天地日月。陰陽圓矩。晝夜明暗。雷電風雨。星流雲散。來往去取。東西南北。上下相輔。皇臣僕吏。貴賤童豎。刊定品物。策立州主。辨教禮書。置設衛府。父母兄弟。孝義弘撫。甥舅異鄰。伯叔同聚。奉事友明。矜愛貧窶。山庭蔽軒蓋。淨野標華柱。美素竟千秋。嘉聲傳萬古。〈已上麌姥〉。

とある。不確かな読み下しをしてみる。

天地日月、陰陽にして円矩たり。昼夜は明暗にして、雷電風雨あり。星は流れ雲は散り、来たり往きて去り取る。東・西・南・北・上・下は相輔く。皇臣・僕吏・貴賤・童豎、品物を刊定し、州主を策立す。礼書を辨ち教へ、衛府を置き設く。父・母・兄・弟は、孝義、弘く撫づ。甥・舅は隣を異にし、伯・叔は同じく聚る。友の明らかなるに奉事し、貧しく窶れるを矜愛す。
山庭 軒蓋を蔽ひ 浄野 華柱を標にす。美素 千秋を竟へ 嘉声 万古に伝ふ〈已上麌姥〉。

 韻が割注で記されている。平仄も二四不同の原則に適っている。漢詩を作ったよと主張している。けれども、これを梵語に訳してしまったら、せっかくの格調ある中国語の韻文も、梵語では散文になってしまう(ハラバタアウギャダマンダラウシャラヒタサイタラシュシアタビシカナウホシュハサタンバマリシュッタシベイタサンマハタサカサラシャラトクシャラセッタサンサラハラベイダホラダ(?))。井伏鱒二が、漢詩を七五調に訳していたことがあったが(「花発多風雨 人生足別離」→「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」)、そういうことを義浄がしていたのかわからない。ある言語の韻文を、他言語に“訳す”ことほど難しいものはない。
 勉誠出版から出版されている影印本のうたい文句に、「世界に誇る白眉の書物を原寸原色で初公開。『梵語千字文』は、『千字文』にならって著された梵語辞典。華厳経の新訳や仏典の漢訳に関わった唐僧義浄の編による。仏典の翻訳者養成のために作られたとされる。東洋文庫本は九世紀に唐で書写された現存最古写本で、円仁など遣唐使により将来されたものと考えられる。平安中期の片仮名・ヲコト点が附され、古訓点資料として大変貴重」とある。梵字→発音表記(字音を当てた漢字数文字)→意味(漢字一字)が示されていても、梵語のアイウエオ順、部首別ではなくて、義浄の作った千字文の文字順である。使い勝手がわからない。
 中国にいる仏典の翻訳者(翻訳専門のお坊さん)は、梵漢辞典が欲しいであろう。義浄千字文のように、漢梵作例集が欲しいのではあるまい。東京でオリンピックが開かれるまでには、筆者も英語で日本文化の紹介ができたらいいなと思う。そういった類の参考書のように思われる。日本には、お経にちょろちょろっと部分的にヤマトコトバの意味を記したものが残っている。今となっては古いヤマトコトバの辞書が限られているから重宝であるが、反対の和漢辞典、つまり、ヤマトコトバを漢訳したようなものがあるのか、筆者は不勉強で知らない。今でも日本人には和漢辞典は特段必要ではない。大体わかってしまう。梵字で卒塔婆をたてるから、和梵辞典はあるのだろう。かなり遅れて日葡辞書(1603~04年)というのも知っている。けれども、義浄千字文のようなものがあったのだろうか。
 例えば、「きみがよはちよにやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで」という歌を、漢語に訳して、「望君之命続千乃至八千歳如細石化巌生苔」(?)として面白いのか。「あまのはらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも」(阿倍仲麻呂)という歌から、「翹首望東天 神馳奈良辺 三笠山頂上 思又皎月円」へと訳したということなのだろうか。李白らとの漢詩会の後で、やまと歌に翻案したと思うが順序はどちらか。対訳本の内容がポエムとなると、韻や平仄、七五調などなかなかに面倒くさい。崩れてしまったら興醒めである。義浄さんは何がしたかったのか。それがわかったら国宝指定決定なのかもしれない。
 なお、「もっと知ろうよ!儒教」展は、8月7日(日)、つまり明日迄、お見逃しなく。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東博「国宝・餓鬼草紙と六道の美術」講演会へのお誘い

2016年07月28日 | 無題
 東京国立博物館で、東博本の餓鬼草紙が8月21日(日)まで展示されています。7月30日(土)には、土屋貴裕先生による講演会「国宝・餓鬼草紙と六道の美術」(1:30~3:00)も開かれます。正法念処経に基づいて描かれているという解釈が行われておりながら、それぞれの図については、それが何餓鬼を表しているのか諸説あるようです。下に示した場面も、住不浄巷陌餓鬼なのか、食糞餓鬼なのか、諸説あるということのようです。
餓鬼草紙(平安時代、12世紀、東博展示品)
 筆者は、本ブログ「餓鬼について」で、餓鬼とクワイ(慈姑)は似ていると指摘しました。餓鬼はガクワヰ、慈姑はクワヰです。ともにお腹が丸まっていて胴の上は細くなっています。写真で、餓鬼は、田圃の泥の中から何かをまさぐって食べています。筆者は、ウンコのようなものを食べていると睨んでいます。ウンコは本体が丸まっていて、首から上がにょろっと伸びています。クワイ(慈姑)の形に同じです。クワイ(慈姑)は泥の中に育ちます。歯ごたえは、シャリシャリしています。銀シャリではなく仏舎利を食べているのだから罰が当たっていて当然です。舎利容器もクワイ(慈姑)やウンコと同じ形に作られています。上蓋の頭部分の突起は、ストゥーパの名残りか、残糞感かわかりません。また、田圃の周辺にある墓の土盛も、クワイ(慈姑)の塊茎のような形になっていて、卒塔婆が芽のように見えてきます。
関東農政局フォトレポートギャラリーより
舎利容器(銅壺)(大阪府茨木市太田三島廃寺出土、奈良時代、8世紀、平野捨治郎氏・太田治三郎氏寄贈、東博展示品)
 なお、餓鬼草紙は平安時代(12世紀)に描かれたものです。上代に、ひょっとして餓鬼をガクワヰと音読みしたかもしれないとする説がそのまま500年後にも通用していたかわかりません。ただし、民俗の歴史時間は、歴史学の歴史時間とはスケールが違うようなところがあり、定められないほどに興味深くあります。クワイの缶詰を開けて博物館へ行きましょう。
 東博では、室町時代(15世紀)に描かれた往生要集絵巻の巻第三(個人蔵)も8月7日(日)迄、展示されています。
往生要集絵巻巻三巻頭画(室町時代、15世紀、東博展示品)

 本邦では、仏教関係の年中行事として、お彼岸とならびお盆の行事が盛んです。偽経らしい盂蘭盆経などを典拠(?)とする行事が精霊棚まで拵えてオガラをぼやぼやさせたり、京都では大文字焼きなどしています。一方、お釈迦様の誕生をお祝いする四月四日の花祭りは、ほとんどお寺に限られる行事です。仏教行事の一部が選択されて形を変えながら(習合しながら)民俗に根づくことの不思議については、五来重『宗教歳時史』(角川書店(角川ソフィア文庫)、平成22年)などを糸口に、いろいろ考えさせられます。そして、浄土教の思想を記した文章、ならびにその美術品が遺されているからといって、源信の往生要集のお話が中世の人々を洗脳していたかどうかは保留するしかなく、いわゆる鎌倉新仏教についても、信心深い人とそうでもない人、全然意に介さない人などいろいろいたのであろうと思われます。そういったことを思いながら話半分で展示ケースを覗いていくと、人々の息づかいが聞こえるようで嬉しくなります。仏画類の多くは、布教活動という名の営業活動のツールだったのかもしれません。また、餓鬼というモンスターはスマホには写らないけれど身近にもいるようです。ガキモンGO to 東博。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

餓鬼について 其の三

2016年07月19日 | 論文
(承前)
 再び上宮聖徳法王帝説を見る。

 則ち證(あきら)むる歌に曰く、
 斑鳩(いかるが)の 富(とみ)の井の水 生(い)かなくに 食(た)げてましもの 富の井の水
といへり。是の歌は、膳夫人(かしはでのきさき)臥病(みやまひ)して没(し)なむとしたまひし時に、水を乞ひたまひき。然れども聖王(ひじりのおほきみ)許したまはずて遂に夫人卒(みう)せぬ。即ち聖王誅(せ)めて是の歌を詠みたまひき。即ち其の證(あかし)そ。

 岩波書店の思想大系本『聖徳太子集』の補注に、「歌意は『所詮生きていることができなかったのならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを』の意」(421頁)、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)に、「『所詮生きないのであったならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを』の意」(106頁)とある。太子(聖王)が病の床につき、夫人も看病の挙句に床につき、2人並んで床についていた。先に夫人が亡くなり、次の日に太子が亡くなっている。太子の辞世の歌になった。なぜ、病人に井戸水を飲ませたがらないのか。下痢や嘔吐を伴う伝染病であったからかとも思われるが、それならば煮沸して湯冷ましを飲ませるのが科学的合理性というものであろう。古代の人であっても、経験値として知っていたに違いない。
 筆者は、餓鬼という考え方によるものと考える。仏教における餓鬼という概念の変遷について、西義雄「仏教における餓鬼と其の救済―特にその源流を尋ねて―」大正大学真言学智山研究室編『那須正隆博士米寿記念佛教思想論集』(成田山新勝寺、昭和59年)は、仏典を時代的に遡るように検証されている。

 ……(一)最も後世のものでは、「餓鬼」とは、六趣(又は六道)の一趣(又は一道)として、人間趣と全く別個であり、人間趣にとっては、種姓的にも地位的にも全く他的存在と見る如き記録が著しかった。然るに(二)稍々時代が遡る仏典では、餓鬼趣と人間との距離的間隔は消え、相互に交流あるものと見られているものが多くなり、更に古い仏典になれば、餓鬼には餓鬼趣に住するものと、人間中に住するものとありとしている経典群がある。(三)最后に仏教が南北に分派分立以前、正確には漢巴共通の仏典記録になると、人間と全く別種のものとしての餓鬼ではなく、むしろ人間の男女の餓鬼的状態を記録するものと見られる相応部(漢訳雑阿含)経典の存在を検出し得たのである。
 さて、かく古典では餓鬼を人間の悪しき状態と見たとすれば、餓鬼と通訳される preta を、人間の、「人らしさを失ったもの」「人(ひと)でなし」の状態としてその義を現したのが、餓鬼という名称の起ったもとであったと見得ることを推定してきたのである。
換言すれば、現存の仏典中、最も早い時代の経律では、后世の餓鬼に相当するものは、むしろ人間の中の苦難に満ち「人でなし」的な境遇にある男女の衆生を指したのである。(47~48頁)

 餓鬼はどこにいるか。上述のとおり、人間の世界のすぐ近くに見られる。クワイが田圃の泥の中に隠れているようなものである。それが人でなしである。人のように見えて、人ではない。クワイの葉が漢字の「人」字の形に見え、上代前半の人のどのくらいに漢字に対する識字能力があったか検討を要するが、上宮聖徳法王帝説の説話の焦点になっているように思われる。もちろん、クワイは人ではなくて“人でなし”であり、泥のなかで泥を食べているようで、糞を食べている餓鬼にもなぞらえることが可能である。そして、くわいの塊茎を食べるに当たっても、精進料理のために摺身にされて形を変えたのであろう。人擬きの存在、それがくわいであり、つまりは餓鬼である。
 問題なのは、その井戸の名が、「富の井」という点である。餓鬼道に堕ちるとされるのは、生前に贅沢をした者であるとされている。生きながらも渇望する振る舞いを餓鬼とも呼んで戒めた。正法念処経・第十六に、「……女人多生餓鬼道中。何以故。女人之性。心多妬嫉。丈夫未随。便起妬意。以是因縁。女人多生餓鬼道中。復次比丘。知業果報。観餓鬼道。餓鬼所住。在何等処。作是観已。即以聞慧。観諸餓鬼。略有二種。何等為二。一者人中住。二者住於餓鬼世界。是人中鬼。若人夜行。則有見者。餓鬼世界者。住於閻浮提下五百由旬。長三万六千由旬。及余餓鬼悪道眷属。其数無量悪業甚多。住閻浮提。有近有遠。復次比丘。知業果報。観諸餓鬼有無量種。彼以聞慧。略観餓鬼三十六種。……」とある。
 つまり、「富の井の水」を飲むということは、言霊信仰のもとにあっては贅沢なことに当たるから、それを飲むことは、即ち夫人が餓鬼になることと同じことである。「富(とみ)」という地名が引っ掛かったのである。考え方は大乗仏教的で、あの世で餓鬼道に堕ちるというよりも、いま、餓鬼と同じ精神に陥ることになるから止めるようにと諭したということである。太子は、亡くなった膳夫人のあの世でのことを心配していたのではなく、今生のあり方を説いたのであった。
 この歌を歌として論じたものとしては、志田義秀「聖徳太子の歌」『聖徳太子論纂』(平安考古会編・発行、大正10年)がある。少し長くなるが大時代的な捉え方がどのようなものか知れるので、引用しておく。

 大体此歌は、書紀にもなく、補闕記や伝暦にもなく、其他太子に関係の古い方の書類に更に見えないと云ふ事が、先づ考ふべき点であらう。又歌の内容其者が、果して太子の事として是認されるであらうか。歌の内容は、全く通常人が愛妻の臨末に欲した水を与へなかつた事を、妻の没後に悔恨したと云ふ丈の俗情に過ぎない。或人は是を太子の仏教的慈悲心の発露であると観るかも知れないが、其れは俗情から観た慈悲心の誤解であつて、仏教的慈悲心は、斯る俗欲を満足せしめる如き者ではなく、寧ろ俗欲を離れて法悦に浴せしめて、後世菩提を得しめるのが其れである。特に「生かなくに」と云ふ様な不覚悟な言葉は、太子の口から出づべきものとは考へられない。天寿国曼陀羅の文に見える太子は、「世間虚仮、唯仏是真」と大悟した人である。大安寺伽藍縁起は第一史料ではないにしても、猶太子を憶度するに十分であらうと思ふが、同文中推古天皇が太子の病中其遺言を聞かしめる為に遣された田村皇子に対して、太子の奉答された所は、「蒙天皇之頼、無楽思事」唯過去将来の歴代天皇の為に、羆凝の道塲を大寺にしたいと云ふ事であつた。斯の如く厭離欣求の願に生き、断欲思情の念に専らであつた太子は、其妃の臨末に当つて、自己の法味を頒つて臨終の正念を勧め、倶に天寿国に生れて、永劫の快楽を得ようとこそはされようが、虚仮の世の死を悲しんだり、之を悔恨したりする様な事が、有るべき事とは考へられない。従つて、若し太子に膳夫人の死後に歌があつたとすれば、其れは夫人の冥報を祈る意味のものでなければならないと思ふ。斯う考へて来ると、若し帝説の著者が僧であつたとしたならば、自ら其書中に太子の慧慈師事の事を述べて、「能悟涅槃常住、五種仏性之理」と云ひながら、而かも斯る歌を挙げ来つて證歌となすが如きは、其見を疑はざるを得ないばかりでなく、頗る矛盾を感ぜざるを得ぬのである。(144~145頁。漢字の旧字体は改めた。)

 太子の人物像についてドグマにとらわれていると、この歌が何を謂わんとしているのかわからないであろう。そして、上代、それも飛鳥時代前期の人の“あの世”観について、中古・中世とは明らかに異なることを示す好例であると考えられる。上代前半の浄土思想がどのようなものであったか議論されることがあるが、仏教によく通じていたであろう太子が、あの世に餓鬼となることよりもこの世に餓鬼となることを好まなかったこと、さらには、死んでしまうのであれば、この世に餓鬼になることを許さなかった己を後悔していること、そして、病が篤く次の日には自分も死んでしまってこれが辞世の歌となってしまったこと、それらを考えあわせると、生き生きとした精神生活が余りあるほどに営まれていたことが彷彿とされ、悦ばしいことと思うがいかがであろうか。仏教の思想を生きる指針として大局から見据えていたようにも思われる。仏教の思想が方便たり得たのは、仏教流入以前から心の中に、当たり前のこととして、人間としてのあるべき生き方についての弁えがあったからと考えられる。無知蒙昧ではなかった(注11)
 以上のことから、万葉集に登場する「餓鬼」は、精進料理に使うために寺に用意された、クワイのことを比喩にかけていると考えられる。万3840番歌の原文は、「寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播」とあった。寺院に「女餓鬼」、神社に「男餓鬼」と対比されている。新大系本のようなお考えは、寺社の合体、神仏習合のようなことを念頭に置かれているのか筆者にはわからない。少なくとも単なる野合の話とは考えにくい。大神朝臣が返している歌からは、大神朝臣が神社を代表して寺側の「仏造る」ことへの皮肉を言っている。大神朝臣はその名から神社側の立場から歌を作ることは理解できようが、池田朝臣が寺院を代表しているかわからない。池田朝臣の歌から発想して、成り行きから池田朝臣を寺院側の者として作歌していったように思われる。最初の池田朝臣の歌の題詞に「嗤」とあるのは、大神朝臣が痩せていたからといった表層の譬えを語るものではない。「寺寺の 女餓鬼申さく」で始まることに、不思議な面白味がある。「……申さく」とは、神社で行われる祝詞の常套句である。祝詞が寺寺であげられている。形式としては、「申さく、……と申す」とあったとして、あるいは引用句を承ける言葉としての助詞の「と」をもって歌は終わっていると解したい。引用を表す助詞トが、「倒置以外で文末を『と』で終えることは、極めてまれである」(注12)が、文脈から通じるところである。

 漁(あさり)する 海人(あま)の子どもと 人は言へど 見るに知らえぬ 貴人(うまひと)の子と(万853)
 天の川 瀬ごとに幣を 奉(たてまつ)る 心は君を 幸く来ませと(万2069)

 万853番歌は、「貴人の子」と知られてしまうのであり、万2069番歌は、「幸く来ませ」と祈っているのである。この例から考えると、万3840番歌の、「寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播」は、「申さく……と」と終っているのではないだろうか。原文に「其子将播」とあるのを誤写とせずに正しく写すと考えれば、

 寺寺の 女餓鬼(めがき)申(まを)さく 大神(おほみわ)の 男餓鬼(をがき)賜(たば)りて その子播(ま)かむと(万3840)

と訓むことができる。本稿で見てきたのは、餓鬼とクワイの近親性である。寺寺にある餓鬼とは、寺寺で精進料理を作る主材料とするためにごっそり置かれたクワイの塊根を指しているのであろう。
舎利塔(蓮池蒔絵厨子)(後藤程乗作、江戸時代、寛文12年(1672)、東博展示品)
 クワイの食感は、シャリシャリしている。お寺に安置されているのは、仏舎利である。寺が二つ、「寺寺」とあるから、シャリシャリ(舎利舎利)である。舎利容器には、塔の形をしたものが多い。塔の形がクワイの形に見えてくる。和訓語の「くわゐ」が生れた経緯の一端が覗かれるようである。そのくわいを二つ並べれば、女性の乳房にも見える。“女”餓鬼と呼んだ理由である。他方、大神朝臣奥守が大神(おほみわ)という神社の代表に置かれている。神社と餓鬼とは関係がないように思われるが、寺院側の代表に祝詞をあげさせている倒錯からして、これも面白味を狙ったものであろう。大神神社の由来は、いわゆる三輪山伝説として知られる。本ブログ「三輪山伝説について」を参照されたい。
 以上のことから、「大神の 男餓鬼賜りて その子」という言い回しは、大神神社の祭神、大物主神のクワイの葉の形的なものを指していると思われる。クワイの葉は、サトイモの葉同様、食べることもあったらしいことが正倉院文書から推測された。ずいきの一種である。嗤われている対象者は、大神朝臣奥守(おほみわのあそみおきもり)である。奥に置いて守っている。後生大事にしている。そういった語感を秘めた名である。山自体を神と崇めているということであろう。
 京都の北野天満宮、野洲の御上神社には、神輿の屋根を葺くのにずいきが用いられる風習が伝わって、ずいき神輿と呼ばれ、お祭り自体をずいき祭とも称する。そのずいきは、乾燥させて乾物にした。紐のようになるから、ヲ(緒)+ガキ(餓鬼)である。鎌で刈ってまとめて乾しておくわけだから、そのなかには花が終わって種をつけた穂も含まれていたであろう。だから、クワイのずいきを分けてもらって、ワタクリ同様に種子を選って翌年の春に播こうというのである(注13)。そうすれば、塊茎のほうは小芋とて残さず食用とすることができる。
 また、葉にもシュウ酸は含まれ、着けると痒みを伴うため、後には肥後ずいきという徳川将軍献上品にもなった大人の玩具が考案されている。人の世の習いとして、そういう性質のものは古代から知られていたであろう。だから、「女餓鬼」が「男餓鬼」を「賜り」たがろうとする歌が戯れに作られてものであろう。三輪山に坐す神は、大物主神である。なぜペニスをモノと呼ぶかについては、大人の玩具同様、詳しい方が大勢いらっしゃるようなので譲りたい。したがって、「播」を「懐(懷)」字の誤写としてハラムという動詞と捉えようとする考えは起こりうる。けれども、基本的に、クワイの話なので、「播」はマクと考えるのが正解であろう。
 万608番歌に、「相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に 額づくがごと」とあるのは、クワイの塊茎そのものを有り難がるようなことであり、クワイの形を留めているときに有り難がるのは変な話で、摺身にしてうなぎの蒲焼擬きの料理が作られて、初めておいしい料理とされるのである。ガツガツと食べようとするのでは美味しさは得られない。渇望している餓鬼はクワイの美味しさが味わえないということを面白がっている。相思相愛の仲となれば、その頃合いがわかるから、互いにおいしい味わいを楽しむことができるということである。その実、見た目大したことのない男女であっても、得られる幸せは大きいということを裏返して歌っている。無論、くわいの煮含めをお正月に有り難がることへのからかいも含まれている。世の中で芽が出ることよりも、身近な幸せは工夫によって得られるものである。人として生きることを充実させるには、欲望のままに貪るのではなく、知恵を使って一工夫することが大事なのだと教えてくれる。大きなお寺の御利益に与ろうとしてもそれは無駄なことで、自宅にある念持仏の前で毎日のお勤めに励むことの方が、信心としては真っ当で精神生活を豊かにしてくれるということである。

(注1)サトイモの品種分類としては、染色体のセット数から、三倍体のものと二倍体のものとに大別される。三倍体のものに、「土垂(どだれ)」、「石川早生(いしかわわせ)」、「蓮葉芋(はすばいも)」、「蘞芋(えぐいも)」、「黒軸」、「赤芽」(セレベス)など、二倍体のものに、「唐芋」(海老芋)、「八つ頭」、「檳椰心(びんろうしん)」、「筍芋」(京いも)、「沖縄青茎」などがある。野生のサトイモの原産地から少し離れて、三倍体サトイモと二倍体サトイモとがそれぞれ栽培植物として起源して派生したとされている。当然、起源地を厳密に特定することはできないものの、動植物の家畜化、栽培化において、ニワトリ、イヌ、サトイモ、イネが東南アジア周辺である点は、人類史を考えるうえで興味深いものであろう。なお、万葉集にクワイの改名前の「ゑぐ」とされるものが、サトイモの一種の蘞芋(えぐいも)である可能性は存在する。子イモを食べるもので、収穫時の地中での在り方が似ているかもしれない。
 クロクワイは、water chestnut という綽名(?)以外にも呼び方があるらしい。Weblio辞書・英語例文に、‘The black arrowhead tuber (Kuro Kuwai or Karasu-imo) used in Chinese cooking is a big black arrowhead in the Cyperaceae family and is a different variety of plant from the Japanese arrowhead, and is available in cans as water-boiled arrowhead, however there is evidence that this has also been used as a food from ancient times in Japan and has been unearthed from Jomon Period remains in Kameoka, Aomori Prefecture.’(中国料理に使用される黒クワイ(烏芋)はカヤツリグサ科のオオクログワイという日本のクワイとは別種の植物で、水煮の缶詰でも出回るが、日本でも古くから食用としていた形跡があり、青森県亀岡の縄文時代遺跡から出土している。)という例があげられている。
(注2)宮崎安貞・農業全書・巻之五(10/39)、「烏芋」の項に、「唐にてハ多く作りて、凶年にハ粮とすると見えたり」、貝原益軒・大和本草・巻之八(32~33/49)に、「烏芋(クロクハイ) 勃臍トモ云。時珍曰、一茎直ニ上ル上ニ枝葉無く、状龍鬚ノ如し。今按其茎オホ井ニ似テ小也。燈心草ニ煮テ大也。茎ノ内空シ。摂州・河州ニ多シ。根ハ慈姑(クハイ)ニ似テ黒シ。果トシテ生ニテモ煮テモ食ス。救荒本草に、根を採り煮熟して之れを食す。粉を製作して之れを食せば人ノ膓胃ヲ厚ス。飢ゑずトイヘリ。三四月苗生ス。旧根カレス慈姑ノ如シ。花ナシ。食物本草に曰く、又一種、野生なるは小にして香る」、人見必大・本朝食鑑・巻之三(153/168)に、「慈姑〈於毛多和(おもだか)と称す。根を白久和井(くわい)と称す〉〔集解〕慈姑、浅水の中に生ず。或は亦之れを種(う)う。三月、苗を生ぜしめ、青茎中空にして稜有り、葉は燕尾箭鏃の如くして前尖り、後へ岐あり。四五月小さな白花を開きて穂を作す。……」とある。クワイの葉が鏃のようであるとの見立てが行われている。
(注3)クワイが美味しいかどうか、好みによるものだから決めつけられない。筆者の個人的な、また、その周辺の人の意見によると、あまり美味しいものとはいえない。金団がいつからあったかは議論を要するが、古くからあったとするなら、サツマイモのない時代、金団にするのに裏ごしして食べたということであろう。栗の部分にクワイまるごとを使うばかりか、餡の部分にもクワイを使った。クチナシの実を使って黄色く染めた理由について、サツマイモに由来するのか、栗色に由来して時代的に先んじて染めていたのか、難しすぎてわからない。
(注4)正倉院文書に、「芋▼(草冠に至)」、「★(草冠に慈)葉」とあり、前者は芋柄、後者はクワイの葉のことかと思われる。関根真隆『奈良朝食生活の研究』(吉川弘文館、昭和44年)に、「芋▼」は、「蔬菜としては低廉であった」(74頁)、「★葉」は、「価格例によれば下等な菜」、「強いて言えばクワイのことか」(63~64頁)とある。それぞれ大日本古文書巻之六、巻之十四(21・22・125/264)に載る。
(注5)クワイは植物学的にはイモではないが、民俗学的には芋であろう。芋として認識されていたであろうという意味である。サトイモに関して民俗学が品種についてあまり考慮しないで語ることについて、植物に詳しい方面から異議が出ており、それはそれで大切なことながら、料理されて御膳の上に載っかって出てきているものについて、どこまでやかましく言えばいいのかわからない。クワイは、精進料理の材料にされ、くわいの蒲焼なるものがあり、うなぎの蒲焼に似せられている。学問としての民俗学ではなく、一般の生活レベルで、くわいの蒲焼のクワイは、同じ泥水の中に棲息するウナギの仲間、魚類である。
(注6)精進(Virya(サンスクリット語))とは、精進をこめて悪心、悪行を抑え、善行を修めることであり、その一つとして美食せずに粗食であること、魚介肉類を食べずに野菜、根菜、海藻などを食べることが勧められた。殺生をしない戒めとは本来は別の考えから来るものらしい。蛋白源として、豆類は貴重であったろうから、精進料理に豆腐のアレンジは欠かせないことになる。可笑記に、「さるおてら(寺)へ参る、和尚引入給ひて、様々の御ちそう、色々の御料理なるに、きじやき(雉焼)のたぬきじる(狸汁)のとどしめく、こはいかなる事にやと、心空にてみれば、さもなき精進物の御菜なり、寺方のれうりだて(料理立)心得あるべし」(『徳川文芸類聚 第二』国書刊行会、昭和45年、69頁)とある。精進料理で擬きの料理は好まれていたらしい。
 なお、頼住光子「仏教における『食』」『第3回国際日本学コンソーシアム』(お茶の水女子大学、2009年)から、殺生を嫌うことと肉食をしないこととは、仏教の元々の考え方としては別の観点であったという基本的な事柄を教えられた。食において最低限という制限を越えた場合、その欲望は煩悩として否定されるべきもので、煩悩は執着であり、執着は修行を妨げる汚れであるとされている。そして、「上座部仏教(いわゆる小乗仏教)を奉じる東南アジア諸国では、現在でも僧侶は供養されたものであれば肉も食べている。肉食を避けるために調理される精進料理も発達していない」(308頁)とある。
(注7)現在、がんもどきとさつま揚げのちょうど中間に当たるかのように、豆腐と魚肉とを使って摺り練り、揚げたものが大手食品メーカーから販売されている。山芋は含まれていない。頃合いの食感に舌鼓を打つことのできる品となっている。

(注8)現在、古い時代のものでは二巻が遺されている餓鬼草紙のうち、東博本は正法念処経を、京博本はそのうえ救抜焔口餓鬼陀羅尼経と盂蘭盆経を典拠としているとされる。
(注9)鳥のさえずりや獣の吠え声を言葉として捉えようとする考え方がある。そこには、“方言”のようなものがあることも指摘されている。筆者は浅学にしてそれらが述語文の変相を構成するものなのかよくわからない。例えば、「敵が来る」、「敵が来る?」、「敵が来る!」という会話が鳥どうしの間で行われているのであろうか。その有無が、マコトとカタコトの違いなのかもしれない。クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った、という場合、その言葉は本当なのか嘘なのか、俄かには定められないところなど、これは確実に“言葉”であると了解できる。枠組(フレーム)を得たとき、言葉たり得るということである。言葉と言葉でないものとの問答としては、崇神紀十年九月条に、「是に、大彦命(おほびこのみこと)異(あやし)びて、童女(わらはめ)に問ひて曰く、「汝(いまし)が言(いひつること)何辞(なにこと)ぞ」といふ。対へて曰く、「言(ものもい)はず。唯歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひて、忽に見えずなりぬ。」とある。
(注10)表音文字とされるアルファベットであっても、言葉が聞き取れないとき、綴りを聞いて理解の助けにすることはよくあることであろう。イギリスのEU離脱を Brexit、そして後悔することを Regrexit と造語して、なにほどかわかった気になっている。日本ではさらに、大後悔時代などと揶揄している。
(注11)餓鬼について論じているが、本稿では本邦における施餓鬼会について詳しく論じることをしていない。お盆の魂祭行事として、民間に根づいている。精霊祭とも呼ばれ、精霊棚を設えて供物をそなえている。仏教では、盂蘭盆経などに目連が母の倒懸(さかさづり)(ウラバンナ)の苦を観て供養したとするのと相似している。けれども、本邦の民間仏教行事としては、お盆とお彼岸ぐらいしか特段視されていないところを見ると、餓鬼道の餓鬼に施すことと荒魂(新魂)に施すということが習合したと考えるのが妥当であろう。枕詞アラタマノから考えると、7月のお盆とは関係がなくお正月にしなくてはおかしいし、上に論じてきた餓鬼とクワイとの関連からも7月にクワイは得られないとも言えようが、7月に食べられないところが餓鬼の飢餓をよく表していると面白がられたのかもしれない。五来重『五来重著作集第八巻 宗教歳時史』法蔵館、2009年参照。
(注12)小田勝『実例詳解 古典文法総覧』和泉書院、2015年、526頁。
(注13)わたくり(大蔵永常・綿圃要務「蒔(まき)たねにする綿(わた)をくりて俵(へう)ニ入(いれ)、貯(たくハ)ふ図(づ)」)「八尾市立歴史民俗資料館 河内木綿の部屋HP」、岡光夫翻刻解題「綿圃要務」『日本農書全集 第十五巻』農山漁村文化協会、1977年、354頁より。
麻引き機械(竹内淳子『草木布Ⅰ』法政大学出版局、1995年、143頁より)
 筆者は、ワタクリに類する“機械”を、古代に求められていない。(“道具”のみである。)。魚などの調理に当たっては、腸(はらわた)の内臓部分を除去し、身だけを食用とすることが多い。今でもサンマをそのまま焼いて食べる時も、腸を食べるのは新鮮な場合に限られるのではなかろうか。身の方が大切にされる。綿の場合、繊維となるからワタをも大切にはするが、実の方も油が採れて重宝されている。その分別を行うのがワタクリという作業と考えられる。クワイは缶詰にあるとおり、「水栗」である。田栗ともいえ、ワタクリとの洒落が考案されたことと思われる。詳細は、本ブログ「三輪山伝説について」を参照されたい。
 クワイのことは、和泉往来・文治二年(1186)点に、「田豆(クワヒ)」ともある。海の中となれば、海はワタである。クワイは淡水にしか育たないが、水栗と海栗(わたくり?)とを掛けているように思われて面白い。海栗、ウニ(雲丹、海胆)は、食べるところがすべて腸(わた)のようである。ウニのことは別名、カセ、ガゼなどという。すべてがガセネタということであろう。身のない生き物にして食べ物である。クワイの場合は、すべてが実ということであろうか。実は実なのだが真実ではなくて、ちょっとえぐい人でなしということであろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

餓鬼について 其の二

2016年07月14日 | 論文
(承前)
 ここで、クワイと擬きの料理の関係について検討しなければならないこととなる。たいへん迂遠にして、想像の域を出ない部分もあるが、科学的な実証の不可能な点について、今日、学問とされないために議論どころか思考実験さえされなくなっているので、あえて行うこととする。
 阪本寧男「吹田くわい―半栽培植物の例―」吹田くわい保存会編『吹田くわいの本―なにわの伝統野菜―』(創元社、2010年)に、吹田くわいについての現地調査と比較栽培によって得られた結果の要約が載る。

 (1)吹田くわいは、古い文献にも記載され、人々の関心が高かった。(2)くわいのような栽培植物ではなく、水田雑草のオモダカの一品種である。(3)水田を除草するときには除去しないで、残しておいた。(4)1920年頃までは水田の雑草としてたくさん生えていたが、除草剤を水田に散布するようになってから急速にその姿を消した。(5)稲刈りのすんだあとは、誰でも水田に入ってこの植物の塊茎を掘り取ることができた。(6)高湿田のため、採集には「桶沓(おけぐつ)」をはいて田に入り、「くわい掘り」という専用の道具を用いた。(7)掘り取った塊茎は自家用とともに、仲買人の店にも出荷された。(8)普通の人びとはそこで塊茎を入手し、年末に「鴨(かも)」という藁苞(わらづと)に入れて知人に贈ったが、「芽を吹く」といってお正月のおせち料理の素材にされた。(9)明治時代には、約10石の収穫量があったという記録がある。(10)吹田村御料地の農家は毎年春に京都の御所に献上したが、そのための特別の献上籠があった。(11)京都の市場に出荷されたものは、雛まつりに甘煮にして供えられた。(12)オモダカ、吹田くわいならびにくわいを小さなをポットを用いて比較栽培を行なった結果、オモダカと吹田くわいは花茎を形成し開花・結実したが、くわいは花茎をつけなかった。塊茎の数は、くわいがもっとも多く、吹田くわいがそれに次ぎ、オモダカはもっとも少なかった。また塊茎の大きさおよび重さは、くわいがもっとも大きく、吹田くわいがそれに次ぎ、オモダカはもっとも小さかった。(28~29頁)

 古代に食べていたものが、和名抄に「烏芋」と記されたクログワイであるのなら、カヤツリグサ科のそれは、花茎をつけたのであろう。一方、擬きの料理がどのくらい上代にあったか、定かではない。ただし、料理はすべていつも“実験”的であるから、何があってもおかしくはなく、何を作っても頂ければ幸いなことは確かである。現代、さまざまなレシピによりさまざまに食べられているのと根本的な事情に変わりはない。知恵と技を隠し持っているのが人間である。大きな違いは電子レンジがなかったことぐらいである。擬きの料理のうち“もどき”の呼称として最も広まっているものは、がんもどきであろう。どうして「がんもどき」と呼ぶのかについては諸説あってわからない。雁の肉が蛋白部分と脂部分とに二分されているところと、がんもどきの油で揚げてあって油が沁みているまわりと、なかの淡白部分との対照が似ているからとする説、がんもどきの円盤状の表面に現れる材料の模様が、ガンの渡りに見立てられるからとの説、同じものを指す飛龍子(ひりょうす、ひろうす)には、ポルトガル語で小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子filhósから来たとする説も知られる。喜田川季荘・守貞漫稿・第二十八編(234/333)に、「飛龍子 京坂にて『ひりやうす』、江戸にて『がんもどき』と云。雁戻也。豆腐を崩し水を去り、牛房笹搔、麻の実等を加へ、油揚にしたるを云也。価八文十二文ばかり也。京坂には栗△△△等を加へ精製多し。近年三都ともに細工豆腐なとゝ号け豆腐に種々の製をなす物あり。鰻蒲焼の摸製等は片豆腐に紫海苔を皮とし油を付て焼たる形容真の如く味も亦美也」、醒狂道人何必醇・豆腐百珍(18/44)に、「ヒリヤウヅ 豆腐水をしぼりよくすり葛(くづ)の粉つなぎに入れ、加料(かやく)に皮牛蒡の針・銀杏・木耳(きくらげ)・麻子(をのみ)、又小骰(さい)ものにハやき栗子(くり)か慈姑(くわい)か一品(ひとしな)入るへし。○加料を油ニて炒(ゐり)つけ麻子ハ後に入れとうふに包(つつ)ミ大小宜(よろし)きに随(したが)ひ又油にて煠(あぐる)也。又麪粉(うとんのこ)ころもにかくる尤よし。○ゐり酒ニおろし山葵(わさび)或は白醋(しらす)に山葵(わさび)の針をくか又ハ田楽にして青味曽(あをミそ)に罌粟(けし)をふる。○ヒレウヅ一名を豆腐巻(ケン)ともいふ」とある。
 ところが、そのがんもどきというもの自体、そもそも古くどのような材料からできていたのか、よくわからない。料理秘伝記(1773年頃)には、「雁もどき。豆腐をしぼり、うどん粉を加え磨り、麻の実、牛房せん加えよき程につみ入れ、油にて揚げ申す也。さて揚引いて二ノ汁或は煮物、本汁にも用る也」とあって今日に近いものが感じられるが、遡ると、乾只勝・小倉山飲食集(元禄十四年(1701))(松下幸子・吉川誠次・川上行蔵・山下光雄「古典料理の研究(九)―『小倉山飲食集』について」『千葉大学教育学部紀要』第32巻(第2部)昭和58年)に、「一摺身に山芋入 麻実少入まぜ合 つみ入などにしてかや(榧)の油にてあげ 是を鴈もどきと云ふなり」(234頁)とある。美味しく頂ければ何でも構わないのである。豆腐の加工食品として広まったが、それ以前からあったとするのが妥当である。なにか「摺身」を主原料にして油で揚げたものががんもどき(ひりやうす)であり、その形、食感をもってそう呼んでいたということであろう。小出昌洋編、川上行蔵『完本日本料理事物起源』(岩波書店、2006年)では、「[『小倉山飲食集』の著者、江戸の乾乙右衛門只勝]は当時有名な料理人で……あるいはヒリョウズにヒントを得て魚の摺身に山芋を摺りまぜ油で揚げ、雁肉料理に似せたつもりで雁もどきの名をつけたものかもしれない」(600頁)との「空想」を将来の課題とされている。オーソドックスなお考えである。しかし、豆腐でがんもどき(ひりょうす)を作るという発想は、豆腐自体が多くそうであるように、精進料理に由来するものと思われる。しかも、魚の摺身を使った揚げ物には他に、関東で言うさつま揚げがある。蒸し物には蒲鉾や竹輪、茹で物にははんぺんがある。それとは別してがんもどきがあるのだから、豆腐を使う以前、魚を殺生せずにその擬きの料理をすでに考案していたということではなかろうか。何かを主原料にしながら、山芋で粘度をあげて形を作ったものではないかと筆者は“空想”している。そのとき、それが精進料理として考案されたものであったなら、「摺身」に魚はあり得ない。食感もさつま揚げ風ではなく、今日のがんもどきに近いものであったであろう(注7)
 偽物なのだから、信義に悖るところがある。モトル(悖)はモドル(戻)と同根の語とされる。おそらく、それらの語からモドク(擬)の語も生じてきたのであろう。牴牾、抵牾とも記し、他と張り合って事を行ったり、他のものに似せて作ったりすること、まがえることをいう。がんもどきという食べ物は、何の擬きなのかについても、見ても食べてもよくわからない。とはいえ、雁に似て冬に列島に渡ってくる鳥は、少し小形になる鴨が名高い。雁はなかなか捕まえられず、それに似た鴨を常食として誤魔化している。万葉集の用字に助詞のカモに「鴨」と当てることがある。雁“かも”しれないのが鴨である。本物の雁ではないがんもどきとは、カモかもしれない。カモという助詞の意味が擬きであることを語っている。自己言及的な言葉となっている。同様に、ご飯を食べたくてお腹が空いた空いたと、ガン、ガンと訴えるとしたら、それは節操を欠いた人でなしである。欲望の奴隷と化している。そんな餓鬼には、がんもどきを食べさせて誤魔化しておくのが正解であろう。
かもしれないポスター(駅ポスター)
 すなわち、筆者は、その「摺身」の原料は、クワイではないかと疑っている。林春隆『野菜百珍』(中央公論社(中公文庫)、昭和59年、昭和5年初出)に、「鳥擬 くわいの鴨もどきは、すりくわいに片栗粉少し加え、よく摺り合わせて団子に取り、胡麻の油であげる。これに芹、三ツ葉などあしらい、吸物とする。」(295頁)とある。説文に、「芍 鳧茈也。艸に从ひ勺声」、爾雅・釈草に、「芍 鳧茈」の注に、「下田に生え、苗、龍須に似て細く、根、指の頭の如し。黒色は食す可し。」とある。黒くわいのことを指しており、龍の須(ひげ)がどのようなものか定かではないが、オモダカ科の葉は、ハスのように丸くはなく、三角形に尖った形をしている。葉の付き方は里芋のように葉柄から垂れるのではなく、登るようである。(注2)の大和本草にも、クワイの葉を龍の鬚のようであるとある。秋遅くから春先にかけて、渡り鳥が越冬で羽を休めている田の中に、塊根が残っていて取り出すとなれば、夏場に龍が荒れ狂って雨を降らせたときの名残りの子どもであると感じたとしても不思議ではない。本草名に「鳧茈」とあるところは、がんもどきのガン(雁・鴈)に似る渡り鳥がカモ(鴨・鳧)であるということであろう。吹田くわいの史料には、贈答用の藁苞になぜか鴨形のものが使われている。がんもどきの原料としていた時代の記憶の残滓が刻まれているように感じられる。
吹田くわい関連具(吹田くわい保存会編、前掲書、口絵ⅵ頁より。)
 このように仮定を積み重ねていくと、くわいが擬きの食べ物の素材とされたらしく思われる。上述のとおり、餓鬼とくわい(塊茎)との間に形の相似を捉えた。と同時に、くわいが擬きの食べ物となるということは、くわいとは擬きなのだと納得することができる。すなわち、餓鬼とは、“人間擬き”なのである。パーリ語の preta とは、「人らしさを失ったもの」「人(ひと)でなし」の状態である。当然、その姿は鳥獣(畜生)ではなく、人間の形をしているが、人の心を失った存在である。彫像やご遺体が問題なのではなく、動物として生きているホモ・サピエンスであってヒト(人)と見紛うばかりであるけれど、中身が違う、原料が違う、心を失っているということを言いたい。食べ物としては、同じ水田に育ちながら、ご飯(ガン)ではなくてがん擬きになるのがクワイである。クワイの葉っぱは、葉柄から立ち上り三角張って「人」の字のような形をしている。その形が面白がられて、沢瀉紋が作られ好まれている。その地上の穀類ではなく、地中の塊茎を「摺身」にして食べ物を拵えた、それががんもどきなのではないだろうか。
沢瀉図柄鏡(「天下一服□藤重吉」銘、青銅製、江戸時代、17世紀、国学院大学博物館展示品、服部和彦氏寄贈)
 内実を伴わないが見た目や味付けは同じなものが、クワイを材料に精進料理にこしらえた鰻の蒲焼ということであろう。上述の守貞漫稿に、「鰻蒲焼の摸製等」を豆腐と海苔で作っていたとある。豆腐を使う以前には、クワイの摺身を使ったのではないか。鰻を食べていたとする文献初出は万葉集である。

  痩せたる人を嗤咲(わら)へる歌二首
 石麿(いはまろ)に 吾(われ)物申す 夏痩せに よしといふものそ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ〔売世(めせ)の反なり〕(万3853)
 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を取ると 河に流るな(万3854)
  右は、吉田連老といへるもの有り。字を石麿と曰ふ。所謂、仁敬(にんきゃう)の子なり。其の老、為人(ひととなり)身体(み)甚(いた)く痩せたり。多く喫飲すれども、形、飢饉に似たり。此に因りて大伴宿禰家持の、聊かに斯の歌を作りて、戯れ咲(わら)ふことを為せり。

 続いて鰻の蒲焼とその擬き料理について考えなければならなくなっている。
 花咲一男『川柳うなぎの蒲焼』(太平書屋、平成3年)に、次のような例があげられている。

 「山の芋が鰻になる」(天地自然の妙は人知ではかり難いこと、物事の突然の変化の意)という俚諺の伝わることは古く、すでに狂言の「成上者」にも見える所であるが、『松屋筆記』第三巻には、永正九年(一五一二)成立の『体源抄』に、『日蓮本尊供養御書』の中に、この俚諺が引用されていることが見える。
  半分ハうなぎになつてもの思ひ(川評宝八松)……
 この句、この俚諺を詠んだのではあるまいか。
  月令に芋が鰻の事やある(柳樽五十一7ウ)
  うなぎやへのろりと化て山の芋(柳樽九十二18ウ)
  山のいも化して鰻を喰に来る(柳樽七十五4ウ)……
  八ッ目鰻に化シそうな八ッがしら(柳樽百二十四81ウ)
 「花の雲鐘ハ上野の谷中門から、日ぐらしの里にかゝり、茶屋が床几で一盃のミかけ、帰りに茶代を払ながら「この山の芋の田楽ハなんぼじや」「アイ一串六銭でござります」「ハテ安いもの」亭主「それでも、鰻鱺(うなぎ)になると十二銭でござります」(天明『うぐひす笛』日暮の里)(121~123頁)

 花咲先生は、鰻の蒲焼の擬き料理を山の芋で作ってきたことを考えから外されているようである。確かに、五十年、百年の法事は目出度いからと生臭物を禁じないところがある。精進料理の山芋に代わって、本物の鰻の蒲焼が振る舞われることがある。したがって、俚諺から捩られた川柳であると解釈されている。けれども、山の芋と鰻の蒲焼とのつながりは、長細い形状のつながりだけとは考えにくい。山の芋を使った擬きの料理があったればこその面白味が、俚諺そのものにも備わっていたのではないかと考える。
 鰻料理の古記録としては、次のようなものがある。

 上座敷十四人朝振舞、汁……鱣(うなぎ)かは焼・鮒すし・かまぼこ・香物・肴種々台物五つ(鈴鹿家記・応永六年(1399)六月十日条)
 宇治丸 かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也(大草家料理書(16~17世紀))

 「宇治丸」とは、ウナギの寿司や蒲焼、ウナギそのものの別称ともなっていたという。鰻の産地として宇治川が有名で名物であったともされる。いかにもという名称である。万葉集の3853番歌に、人名が「石麿」とあったのは、何か関係があるかも知れない。ウヂは地名でもあろうが、氏のこととも思える。マルは、昔は鰻を割かずに、丸のまま串刺しして焼いたからと考えられている。と同時に、マルは、麿・麻呂、立派な男子の呼び名である。つまり、氏素性のはっきりした良い所のご主人様という名に聞こえる。桶に入って捏ねくり回っている鰻の形態は、夫婦和合を表すとされている。その様子は、虚空蔵菩薩の使者、化身、乗物とされており、京都の三嶋神社や虚空蔵菩薩を祀る寺院や本地とする神社では、鰻を禁食にする信仰も行われている。虚空蔵菩薩は、虚空のように無限の慈悲を表す菩薩であるという。歌の左注に、「所謂仁敬之子也」とある点は、話が勘案された結果であろう。殺生をしない人という意味である。他方、くわいの漢名、慈姑は、慈悲ある姑と記されている。関連を推測させる字面である。上代の知識人がどこまで意識していたか、また、くわいを使って鰻の蒲焼擬きの料理を通例として作っていたか、残念ながら証拠を見つけることはできない。それでも、「宇治丸」などという呼び名を付けるということは、反対に、紛い物の鰻があったということを示唆してくれている。すなわち、擬きの料理の鰻の蒲焼があったということである。
 丸のままの串焼きには、別に蒲鉾があった。

 かまぼこハなまず本也、蒲のほこに、にせたる物なり(大草家料理書(16~17世紀))

 ナマズを摺身にして竹串に回し塗りつけた竹輪やきりたんぽ様のものが、蒲鉾の原形であった。これをがんもどきのように“もどき”という名にしない語学的意味合いは、原材料が魚肉だからであろう。精進料理ではない。カバヤキを蒲焼、カマボコを蒲鉾と書くが、蒲の穂のような形に由来するのではないかと説かれている。カバ、カマ、ガマと音に揺れがある点について、不明と言わざるを得ないが、蒲焼をカマヤキと言えば、釜焼なる料理が連想され、植物のガマの古音はカマと清音であった。
蒲の穂(府中市にて)
 さて、餓鬼については、仏典中、preta を餓鬼と呼ぶ近所に、「鬼」とだけ記す個所もある。妙法蓮華経・譬喩品に、「……復有諸鬼 其身長大 裸形黒痩 常住其中 発大悪声 叫呼求食 復有諸鬼 其咽如針 復有諸鬼 首如牛頭 或食人肉 或復噉狗 頭髪蓬乱 残害凶険 飢渇所逼 叫喚馳走 夜叉餓鬼 諸悪鳥獣 飢急四向 窺看窓牖……」とある。鬼を訓でオニというのは、「隠」の字音 on に読みやすいように i をつけて oni としたからとされている。銭が zeni 、盆が boni というのと同様である。鬼はどこに隠れているか。人の身近にいる。京博本の餓鬼草紙にも、人のそばにいながら誰も気づかない様子が描かれている(注8)。上に仮説として餓鬼とクワイとの関連を見たが、クワイは田圃の泥の中にある。クワイの塊茎は泥田から採取される。あるいはお正月に縁起物として食べたくわいの煮含めは、芽が出て目出度いから食べたというばかりではなく、人のなかに隠れている鬼性を封じ込める意味で食べたものかもしれない。淵源を短絡的な合理性から理解しようとすることは、かえって民俗の風習を知ることから離れてしまう。
餓鬼(京博本・餓鬼草紙より)
 くわいの金団が喉に詰まるのは、喉が針のように狭いからである。ガンやカモの喉首は細く狭い。餓鬼のキ音は、カキ(垣・籬)ばかりか、キ(酒)に同じく甲類であると考えることができた。餓鬼の正体としては、キ(酒)に飢えている禁断症状なのであろうか。あるいは、飲酒後、何杯水を飲んでもなかなか喉の渇きが癒されないことでもよくわかる。そうやって、餓鬼という言葉がヤマトコトバとして人々に了解されたのである。そうでなければ、早い時期に国語化されて万葉集に登場することなどなかったと想定される。了解され合わない言葉とは、マコト(真言・誠)ではなくカタコト(片言)であり、それは言葉とは言い難い(注9)。字音をもって了解されるためには、字が読めなければならない。今、発音だけでわからない術語を聞かされた時、どういう字を書くのですかと確かめることがある。漢字のように表意性を重く備えているとなおさらである。文字によって理解の助けにできるのである(注10)。共通認識として文字が使われるようになるには、上代後半、律令や続日本紀の時代まで俟つことになるであろう。
 「餓鬼」という語を、比喩表現として子どもになずらえた理由は、無財餓鬼との関係で言われたとされているが、上代に行われていたかわからない。ご飯ご飯と言ってがつがつ食べたがる子どもの譬えとして用いたかどうか、文献上の用例が見られない。今日でもあまり印象の良くない言葉である。上代にあったとして口の悪い人たちによって使われた口語の俗語表現であろう。聖徳太子がませた餓鬼に譬えられていたとする考えを、本ブログ「厩戸皇子の『戸』の秘密」ですでに論じた。証拠はないが、力強い傍証は2つある。第一に、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第四に、「母は小腕(こがひな)引つ立てて、エヽ卑怯(ひけふ)なの、人やら水やら知れもせぬおなかな餓鬼めがそほどに惜しいか、餓鬼めが父(てて)に名残(なごり)が惜しいか。忽(たちま)ち親が迷惑するが、親が大事か、子が大事か。夫がかはいか、親がかはいか、ちつと世上も思へかし。鰓骨(ゑらぼね)をわつてなりとも、飲まさにやおかぬと責めけるは、地獄(ぢごく)の呵責(かしやく)もかくならん。」とある。この例は、ひょっとすると、巷間に厩戸皇子のことを「餓鬼」と呼んでいた伝承が反映されているのかもしれない。第二に、俗語をよく伝える日葡辞書に、「Gaqi.ガキ(餓鬼) ゼンチョ(gentios 異教徒)の説によれば,インヘルノ(Inferno 地獄)にいるという飢えた亡霊.¶また,比喩.飢えて痩せこけ,やつれて色青ざめた人.¶また,人を叱り,けなす言葉.例,Ano gaqimega.(あの餓鬼めが)あのみじめで不仕合せな奴が,とか,飢えた奴が,などの意.」(土田忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年、292頁)とある。「青ざめた人」という形容が、厩戸皇子について、「更(また)は名(なづ)けて豊耳聡聖徳(とよみみとしゃうとこ)といふ」(用明紀元年正月条)と綽名されたことと通じている。この箇所は、「豊聡耳(とよとみみ)」の誤写という説が根強い。しかし、伝本はどの写本にもそのようにあって確かである。本ブログ「聖徳太子の名前」で論じたように、トヨミミトとは、トヨミ(響)+ミト(水門)の意で、ミトサギが鳴いていること、今いうアオサギ(青鷺)のことである。厩戸皇子の特徴の一つは、ザビエル形のてっぺん禿であった点、第二は、顔色が青白い人であった点、また、沈思黙考する人であった点が押さえられている。青鷺と綽名されるほど青いから、ませた餓鬼と呼んで何ら違和感がないということであろう。
てっぺん禿のアオサギ(井の頭自然文化園にて)
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

餓鬼について 其の一

2016年07月07日 | 論文
 餓鬼(がき)という語が万葉集にも見える。関連個所を原文についてもあげる。

 相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後(しりへ)に 額(ぬか)づくがごと(万608)
  池田朝臣の大神朝臣奥守を嗤(わら)へる歌一首〔池田朝臣の名は忘失せり〕
 寺寺の 女餓鬼(めがき)申(まを)さく 大神(おほみわ)の 男餓鬼(をがき)賜(たば)りて その子はらまむ(万3840)
  大神朝臣奥守の報へ嗤ふ歌一首
 仏造る 真朱(まそ)足らずは 水たまる 池田の朝臣が 鼻の上を掘れ(万3841)

 不相念 人乎思者 大寺之 餓鬼之後尓 額衝如(608)
  池田朝臣嗤大神朝臣奥守歌一首〈池田朝臣名忘失也〉
 寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播(3840)
  大神朝臣奥守報嗤歌一首
 佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼(3841)

 万608番歌について、佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』(岩波書店(岩波文庫)、2013年)に、「思ってもくれない人を恋い慕うのは、大寺の餓鬼像のおしりにぬかずき拝むような馬鹿馬鹿しいことです。▽『餓鬼』は仏教語。ここは、餓鬼道に落ちた亡者の痩せこけた像を言う。『額つく』は『叩頭(こうとう)』。地に額を突き当てる拝み方。この頃の『大寺』は、大安寺・薬師寺元興寺・興福寺の四寺が当たる。」(381頁)とある。また、万3840・3841番歌について、同『万葉集(五)』(同、2014年)に、「◆池田朝臣が大神朝臣奥守をからかった歌一首〈池田朝臣の名は失念した〉寺々の女餓鬼が願い申すには、大神の男餓鬼を賜わってその子を宿したいと。▽『寺々』とは、七大寺などの諸寺を念頭に置くのであろう。痩せている大神奥守を『男餓鬼』と戯れた。大神奥守は天平宝字八年に正六位下より従五位下になった官人。池田朝臣は未詳。『餓鬼』に男女の別があったこと、『餓鬼女』(四分律二十三)、『餓鬼男』(四分律十一)と見える。結句の『はらまむ』の諸本の原文は『将播』、訓は『はらまむ』。『播』は『懐』の誤りか。『懐 ハラム』(名義抄)」(289頁)とある。3840番歌の結句「其子将播」については定訓を得ていない。
 餓鬼という語について、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)の語釈として、「①貪欲の報いで飢渇に苦しむ亡者。……②餓鬼道。……③人を卑しめて言う語。……④特に子供を卑しめていう語。」(312~313頁)の4つがあげられている。上の万葉集の例では、寺院に彫像されていたものを指して言っているとされている。契沖・万葉代匠記(53/59)に、「昔ハ伽藍とある所にハ慳貪の悪報を志めさん為に餓鬼をつくりおけるなるへし」などとある。今日、どこの寺院に餓鬼の像があるのか、管見ならなのか知らない。四天王像の足の下に這いつくばっているのは邪鬼であって餓鬼ではない。後述する。
餓鬼(小松茂美編『日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、昭和62年、6頁より)
 三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「がき【餓鬼】(名) 餓鬼道に落ちた亡者。逝去者・父祖の意を持つ梵語を意訳した字音語で、それがそのまま日本語の中に取り入れられた。貪慾の報いとして飢渇に苦しむもので、寺には貪慾の戒めとして餓鬼の像が置かれていた」、「【考】餓鬼については、楞厳経・正法念経・法華経功徳品などに記述がある。「『鬼』の字は字音としてはいわゆる合拗音となる文字である。和名抄で和名をガキとしている点からみて、かなり早い時期に国語化したと考えられる。キの甲乙については、韻鏡で同じ第一〇転三等の『尾・斐』は乙類の仮名に用いられ、同転中にはこのほかに『非・肥・微・未・帰・貴』など乙類仮名として用いられる文字が多数含まれている点からみれば、これも乙類であったといえよう」(176頁)とある。上代におけるガキのキ音について、積極的な判断が行われている。仮名書きの例は見られないから、甲乙の判断は簡単にはできない。ヤマトコトバのガキを、字音そのままの訳と捉えると、なぜ「かなり早い時期に」字音により国語となった例が「双六(すぐろく)」、「壇檀(だにをち)」など、とても限られているのか、説明できないことにつながる。特殊な扱いを受けた語の特殊化の法則について、考慮されていない点が気になる。
 二十巻本和名抄に、「餓鬼 孫愐切韻に云はく、餓鬼は鬼也、餓は五箇反といふ。訓みは飢と同じ。久しく飢ゆる也。内典に云はく、餓鬼〈和名、加岐(がき)〉は其の喉、針の如くして水を飲み得ず。水を見れば則ち変りて火と成るといふ」とある。和名抄は源順によって成ったもので、平安時代にはキの甲乙は失われているから手掛かりにならない。ただ、「餓鬼」の「餓」のみ反切を記し、「鬼」の方は記さない。「鬼」の字音をそのままヤマトコトバとした訳ではないことを示唆するものかもしれない。何か裏がありそうな記述である。名義抄に、「鬼 谷[俗]今正、居委反、オニ 禾[和]ク井」とある。和音にクヰであるということである。キ(乙類)と一音化することに、名義抄段階でもためらいがあるらしい。上代に、「餓鬼」は確かにガキであってガクヰではないが、「鬼」の音がクヰということだから、「餓鬼」の「鬼」が字音の合拗音の訛りのままではないと考えた方が良さそうである。
観智院本名義抄
 康煕字典に、「唐韻・集韻・韻会」を引き、「鬼」は「从居偉切。音詭。」とある。「詭」は、過委切である。ヤマトコトバに直すと、「過」は「過所」をクワソ、「悔過」をケクワと言ったようにクワの音、「委」はヰの音である。つまり、クワヰである。この音をヤマトコトバに一音でキ(乙類)としたと決めつけるのは早計であろう。なにしろ、そういうものが本邦にある。「くわゐ(慈姑)」はお正月に煮含められて下の方の重箱に入っている。くわい煮である。芽が出ているから目出度いという意味や、世間で芽が出るようにという願いが込められているらしい。芽の部分を損じないように料理しなければならない。丸く横に皮を剥くのではなく、縦に六角形に剥くと長寿を表す亀甲模様になり、しかも芽を損じにくい。くわいの煮物の様は、腹が膨らんでいて、芽に当たる部分は胴首と捉えることができる。餓鬼のイメージにそのままである。
クワイ(「越谷っ子」サイト様より。埼玉県はクワイの生産が盛んであり、本稿においても、埼玉県農林部経営普及課編『クワイの史料とその栽培』同発行、昭和62年を参考とした。)
クワイ(神代植物公園にて)
サトイモ(世田谷区にて)
 和名抄に、「烏芋 蘓敬本草注に云はく、烏芋〈久和為(くわゐ)〉は水中に生え、沢舄の類也といふ」とある。クログワイ(黒慈姑)のことを指すとされるが、細かな種の同定は他の植物同様むずかしい。とりわけクワイの類については、江戸時代まで多くの混同が見られる。いかなる種かはともかく、奈良時代には存在が知られていたから、平安初期の字書に載っているという。紀元前1000年頃の縄文時代の亀ヶ岡遺跡から、クログワイを収めた土器が見つかっているという。本草和名には、「烏芋 一名籍姑。一名水☆(サンズイに芋)。鳧茨。〈仁諝音に上、府。下、在此反。陶景注に出づ。〉一名槎牙。〈仁諝音に錫加反。〉一名茨菰、〈沢潟の類也。已上蘇敬注に出づ。〉烏茈。〈崔禹に出づ。〉一名水芋。〈兼名苑に出づ。〉一名王銀。〈雑要訣に出づ。〉和名、於毛多加(おもだか)。一名久呂久和為(くろくわゐ)。」とある。大陸伝来か、本邦に自生していたか、わからない。オモダカ科の植物で、生物学的にはサトイモ(注1)の親戚ではない。多少のえぐみがある。クログワイ、クワイ(普通くわい)、スイタクワイ(吹田くわい、豆くわい、姫くわい)と品種は限られる。クログアイはカヤツリグサ科であるという。中華料理の具材とされるものは water chestnut の名で缶詰で売られている。スライスして炒め物などに用いられる。スイタグワイは、二期作でイネの後に塊茎を植えて正月前には収穫できる。田圃に雑草のように勝手に生えているものを放っておき、取って食べることもあった。春に種子を播いて育てることもできる。イネの雑草だからと安易に抜かなかったのは、救荒植物にもなったためであろう(注2)
クワイの缶詰(原材料名にオオクログワイ、原産国タイ国とある。)
 万葉集に、「ゑぐ」とあるのはクログワイのことではないかとされている。味にえぐみを感じて言葉になっているらしい。仮にそうであるとするなら、もともとヱグと呼ばれていた植物が、クワヰへと名称変更したことになる。クワヰという語は、和訓の類なのかもしれない。ヤマトコトバに不思議な発音である。歌はともに女性の詠んだ歌で、用字に「採」が用いられている。地中の芋状のものを掘り取ることに、ツムというヤマトコトバを嵌めることに違和感を覚える。ここでは一般的な訓のとおりあげておく。

 君がため 山田の沢に ゑぐ(恵具)採(つ)むと 雪消(ゆきげ)の水に 裳の裾濡れぬ(万1839)
 あしひきの 山沢ゑぐ(佪具)を 採みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責めても(万2760)

 餓鬼の「餓」の字は、飢えてひもじい意である。「ひもじい」という言葉は、ヒ+モジ(文字)+イ(形容詞語尾)の構成である。もとは、「ひだるし」という語であった。ヒダルシは、おそらく、ヒダリ(左)に関係のある語であろう。ヒダリという語は、大工や石工が左手に鑿を持って仕事をするところから、「呑み」にかけて酒のことや酒を呑むこと、左党のことをいう。名詞「鑿」と動詞「呑む」に関連があろうことは、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年、600頁)に指摘されている。数ある欲望のなかでも、食欲や性欲は動物であるから当然存在し、程度の差の範囲内であるうちはいいものの、異常な食欲(過食、拒食)、異常な性欲というのも起こる。また、麻薬や覚醒剤、ギャンブル、煙草とならび、飲酒したがる欲求は、他の動物にはほぼ存せず人間に特有で、しかも常習性があって中毒になりやすい。アル中は手が付けられない。そうなると、料理が主ではなく、酒が主となり、何でもいいからアテがあればいいだけになる。
 落語・百川に、くわい(慈姑)の金団(きんとん)(注3)の話が出てくる。この、くわいの金団という慣用句は、理解できないことをいう。栗の代わりにクワイで金団を作ると、見かけは似ているが呑み込むには大きすぎる。くわいの金団という言葉は、そこから、事情を呑み込めず、納得できない事柄を譬えるのに用いられている。つまり、クワイは喉にとっては通せんぼをする埒に似ている。埒が開かないことを、くわいの金団と言っている。喉を通りにくいのは、餓鬼に同じである。二十巻本和名抄に、仏典のとおり、「其の喉、針の如くして」とあった。くわいの金団で溜飲を下げることは難しい。人見必大・本朝食鑑・巻三(53/67)に、「慈姑 ……煮熟して食すれば則ち麻渋して人の咽(のど)に戟せず」、寺島良安・和漢三才図会・巻第九十一(563/921)に、「慈姑 ……灰(あく)湯を須(もつ)て煮熟し皮を去りて食はば乃ち麻渋、人の咽を戟せざる也。嫩茎も亦煠(ゆ)でて食ふ可し」とあり、クワイと喉との関係は、そのえぐみにもよるらしい。餓鬼的になったとき、食べようと焦るが、シュウ酸を抜くために十分な調理が求められる。まったくひだるい限りである。狭いところにつかえてしまって入って行かない、ないし、出ても来れないものこそ、厩におけるマセ・マセボウ・マセガキに相当する。狭いところ、マ(間)+セ(狭)だから、ちょっとしたことでつかえてしまう。ノド(喉)とは、ノミ(呑)+ト(戸・門)の訳である。さらに餓鬼的な呑みこみたい欲求の対象、酒は、古語にキ(甲類)である。本ブログ「厩戸皇子の『戸』の秘密」で触れたように、八岐大蛇退治の話では、蟒蛇(うわばみ)のような酒呑みを演じ、コ(甲類、児)を呑もうとしてト(甲類、戸)というにはお粗末なコ(甲類、籠)に当たって、キ(甲類、酒)を呑んで酔っ払って眠りこけ斬られてしまった。出入口が狭くなっているから1~数本のマセ棒という単純なカキ(キは甲類、籬・垣)で十分であった。そして、酒を呑んだ後は、無性に水が欲しくなる。水を求めるも火となって消えていく様子は仏典に見られる。
左:クワイ、右:ヤツガシラ(岩崎灌園『本草図譜』同朋舎、1981年(影印本)より)
 八岐大蛇の話になぜくわいが関連するかと言えば、話の設定が、くわい(慈姑)v.s. やつがしら(八頭)の芋対決(注4)だからであろう。八岐大蛇的な芋はヤツガシラである。素戔嗚尊的な芋はクワイである。新年の賀を祝うために煮含める。ガ(賀)+クワヰ(慈姑)、つまり、餓鬼である。年が改まるから、年に冠する枕詞はアラタマノである。慈姑とは、丸っこい玉のようなものでありながら芽角が出ており、「荒魂(あらたま)」に当たり、ガクワヰこそ荒魂にふさわしい。まるで如意宝珠のような形をしている。「荒魂(あらみたま)は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」(神功前紀仲哀九年九月条)とある。出ている芽角を敵に見せつけるのである。
 他方、対になる「和魂(にきたま)」は里芋のうちでもヤツガシラのことをいうのであろう。茎はずいきとしてもよく食べられる。他のサトイモやクワイの茎も食べたのであろう(注5)が、最も太いものはヤツガシラであり、ずいき芋とも称される。ズイキ(随喜)とは法華経のキーワードである。良いことを見て、喜びの心が芽生えること、それが世界にどんどん広がっていくことである。妙法蓮華経・随喜功徳品に、「……阿逸多。如来滅後。若比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。及餘智者。若長若幼。聞是経随喜已。従法会出。至於餘処。若在僧坊。若空閑地。若城邑巷陌。聚落田里。如其所聞。為父母宗親。善友知識。随力演説。是諸人等。聞已随喜。復行転教。餘人聞已。亦随喜転教。如是展転。至第五十。阿逸多。其第五十。善男子善女人。隨喜功徳。我今説之。汝当善聴。……」とある。ヤツガシラは、親イモと子イモが合体して、怪獣のようななりをしている。丸い親芋に同じぐらい大きい子芋がくっついて団塊となっている。末広がりの「八」字と、子孫繁栄を表す「頭」字を使って書き表し、親子がくっついているから家庭円満も表す。御目出度いからお正月料理とされる。かたまりのままかぶりつく風習のあるところもある。カシライモといい、人の頭(かしら)になるほど出世して欲しいとの願いが込められているとも言われている。
ヤツガシラ剥製(国立科学博物館展示品)
 また、同名の鳥に、漢名、「載勝」(史記・司馬相如列伝)がある。ブッポウソウ目ヤツガシラ科の鳥で、列島には旅鳥として見られる。神功前紀同上条に、「和魂(にきみたま)は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ」とある。船に載せて新羅親征を試みたということであろう。鳥の漢名でも縁起がいい。「『王身』の古訓ミツイデのミは、敬称の接頭語。ツイデは、序の意であろうが、王身を、何故ミツイデと訓むのか不明」(岩波書店の大系本日本書紀頭注(ワイド版岩波文庫(二)149頁))とされている。小学館の新編全集本日本書紀①頭注には、「『大御身(おほみみ)』の意。古訓ミツイテ。ミは敬語。ツイテ(継手)で、皇位の継承者の意か。ここは神功皇后」(426頁)と誤解されており、本文「王身」に「おほみみ」と振られている。親イモから子イモへと接(継)いでいるからミツイデなのであるし、神功皇后の新羅親征の話では、お腹の中に後に応神天皇となる赤子を宿しながら鎮懐石を当てて生まれないようにしていた。「王身」は次の天皇を身籠っている。親イモ子イモの合体物を表す言葉がミツイデである。その姿をよく具体化しているのが、芋のヤツガシラである。
 上宮聖徳法王帝説に所載の法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の注に、

 鬼前大后(かむさきのおほきさき)は、即ち聖王(ひじりのみこ)の母、穴太部間人王(あなほべのはしひとのひめみこ)そ。鬼前と云ふは此れ神(かむ)そ。何が故に神前皇后(かむさきのおほきさき)と言ふとならば、此の皇后の同母弟(いろど)、長谷部天皇(はつせべのすめらみこと)、石寸(いはれ)の神前宮(かむさきのみや)に天下(あめのした)治しめしき。若し疑ふらくは、其の姉、穴太部王(あなほべのひめみこ)、即ち其の宮に坐(ま)す故に、神前皇后と称(い)ひしか。(鬼前大后者、即聖王母、穴太部間人王也。云鬼前者、此神也。何故言神前皇后者、此皇后同母弟、長谷部天皇、石寸神前宮治天下。若疑其姉、穴太部王、即其宮坐故称神前皇后也。)

とある。東野治之『上宮聖徳法王帝説』(岩波書店(岩波文庫)、2013年)に次のように注されている。

 鬼前と云うは此れ神也 「神」の下、あるいは「前」脱か。鬼前をカムサキと読み、穴太部間人皇后は、同母弟崇峻天皇の石寸神前宮に居たので鬼前大后と言うとの解釈。証注[狩谷▲(手偏に夜)斎『上宮聖徳法王帝説証注』]が詳しく述べたように、石寸の「寸」は古代しばしば用いられた「村」の省画文字で、石寸はイワレ。……ただ、石寸神前宮は史料に全く見えず、ここの解釈は疑わしい。「干食王后」と同様、文字に即さない特殊な表記の可能性が高いであろう。鬼は死者の霊魂があるから、あるいはその前に奉仕する泥部(ハシヒト、土師)を、鬼前で表記したか。(55頁)

 解釈に難渋されている。「鬼前」≒「神前」でカムサキと訓むというのは、かなり正しいと筆者は考える。ヤマトコトバ的な反切を表記している。いちばん上の音と一番下の音を合体させて途中を飛ばし、カキと言っている。「石寸神前宮」とは、イハレのカキミヤである。崇峻天皇が都したのは、「倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)」(崇峻記)である。倉椅は紀に「倉梯」とある奈良県桜井市倉橋は、「磐余(いはれ)」の地にある。つまり、「石寸」は磐余、「神前宮」は垣宮のこと、磐余に垣根を廻らせた宮を作ったということである。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後、須賀に八重垣を廻らせて宮を作ったのにとてもよく似ている。崇神天皇代に、磯城瑞籬宮(師木水垣宮)、垂仁天皇代に、師木玉垣宮があった。上代の人は、言い伝えを準える形で生きていた。文字を持たない時代の生活の知恵の特徴である。
 垣根にはいろいろな形態がある。額田巌『垣根』(法政大学出版局、1984年)に、次のようにある。

 垣のうちで、もっとも永い歴史をもっているのは柴垣であろう。柴粗朶(しばそだ)(樹木の枝など)や萩を集めて、それを立てならべたもっとも素朴な垣である。これには二つの種類がある。一つは、……柴を単に立てならべただけのものであり、いま一つが柴を二列にして、少々離れたところからお互いを斜めにして、上部で交叉させたもの……である。柴垣は比較的身分の低い人の居宅の垣に用いられたようである。これは家を防禦するのが目的ではなく、風をさえぎるとか、目かくしにする程度であった。「垣のぞき」は古い時代の一つの風習であったという。(76~77頁)
柴垣(小松茂美編『一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、113頁より)
 では、「神前」と「鬼前」がまったく同じかと言うと、少し違うらしい。「鬼前」は、ガムサキと訓み、反切だからガキ、餓鬼のことであろう。前(さき、キは甲類)とあるからには、餓鬼のキは甲類であることが確かめられる。「云鬼前者、此神也。」部分、「神」字の下に「前」字の脱落はない。ガムサキトイフハコレカムソ。反切で読めば、ガキトイフハコレカムソ。餓鬼というのは神の一種である、ということである。その場合、カミ(神、ミは乙類)ではなく、カム(神)と訛るところが、垣(かき、キは甲類)が餓鬼(がき、キは甲類)と濁ることを示しつつ、カム(噛・醸)ことによって醗酵醸造を促して酒を造ったことを含意している。「醸(か)みし御酒(みき)」(応神記)、「此の御酒を 醸みけむ人は」(神功紀十三年二月条・仲哀記)とある。八岐大蛇に酒を呑ませるためには、準備段階にカムことが必要であった。その差配を、垣ならぬ餓鬼が行った。脚摩乳・手摩乳は、男餓鬼・女餓鬼に当たるのであろうか。真ん中に奇稲田姫がいるということは、田圃の光景として、稲が中央に、クワイやクログワイがその周りに生えていたということから連想された説話かもしれない。そうであると言えそうなのは、発語の失敗をカム(噛)というからである。言葉自体がエッシャーの絵のように循環して説明されている。説話という揺り籠のなかで育てられている。
エッシャー「言葉(地、空、水)」(Julius Wiedemann 編・Michihiro Sato 訳『M.C.エッシャー』2006年、58頁より)
 鬼と神との違いとは、食品の姿かたちの違いでもある。クワイは確かに縁起物でおせち料理にそのままの形で登場する。けれども、くわいの金団のように、その餡の部分に裏ごしされたものとしても登場する。そして、おそらくかなり早い段階から、寺院での精進料理(注5)の主材料にクワイは用いられ、「摺身」にして擬(もど)きの料理としてもこしらえられたのであろう。噛むよりも前(さき)に摺られており、咀嚼に手間取ることはない。「噛(か)む前(さき)」とは口が空足を踏むようなこと、よって、ガキと言ったのであろう。
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

クワヰの研究をしています

2016年07月01日 | 無題
クワイ(神代植物公園にて)
サトイモ(江戸東京たてもの園にて)
 クワイについて調べています。詳細はいずれご報告できれば幸いです。私は、クワイは季節物だから、6月に調べることは愚かであると思っていました。ところが、上のサトイモの写真(葉っぱの形が下のドクダミと変わらないので面白かった。)を撮影している時に、とても親切な方に恵まれました。
 クワイを調べているけれどわからないんですよ……、小さなイモから二期作もできるし種からも育てられて……、田圃の雑草だけど抜かないでおいて……、里芋の仲間ではなくてオモダカの類というんです……、オモダカっていうのは家紋の沢潟で、よっ澤瀉屋って奴です……、おせち料理では芽が出てるから目出度いとか……、野生種でも栽培種でもなくて半栽培植物だっていうんです……、などとぼやいていると、
 とても流暢な native ではないかと思われる英語で、それは water chestnut のことではないのですか、と教えていただきました。hearing ができませんから spell を伺って書きとめました。親切な方は、おせちのくわいの煮含めのことではなく、中華料理を America で食べていた時、炒め物のなかにシャリシャリとした食感のものがあり、缶詰で売られているのを slice して具材にしているのがそれではないか、とのことでした。
 私のようなヤマトのことしかわからず、外国と言えば隋・唐、百済、新羅、高句麗(あとは天竺)しか知らない者にとって、international なご指摘は恐れ入ります。シログワイ(イヌクログワイ(カヤツリグサ科))が缶詰で輸入されていることを知りました。突破口が見つかりました。ありがとうございました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

厩戸皇子の「戸」の秘密 其の三

2016年06月22日 | 論文
(承前)
(注1)
藤田嗣治「聖誕 於巴里」(油彩、カンヴァス、1918年、松岡美術館展示品)
 石井、同書に、「その[物部守屋と蘇我馬子の]争いに関する記述が、中国文献の表現を多く用いて潤色されていることは事実ですが、大幅に潤色されているからといって、すべて机上の作文であってその元となる史実など無かったと説くのは、古代における史書の書き方を無視した議論です」(84~85頁)と批判されている。厩戸皇子が誕生した際の記述も、仏伝によって潤色されて厩の戸のところで出産したということに落ち着いたとお考えのようである。「間人皇女か用明天皇と関わりの深い氏族の厩のところで出産した」(60頁)という史実があったと推定、納得されるに至っている。厩付近で出産したことを、どうして厩の“戸”のところで出産したことに加工しなければならなかったのかについては、検討されていない。学界の議論は上っ面に終始しているように思われる。もとより、筆者は観点が異なる。
 「厩戸」という名については他に、地名に由来するとする説(家永三郎、坂本太郎)、生年の干支の午年生まれに基づく可能性が高いとする説(大山誠一「『聖徳太子』研究の再検討(上)」『弘前大学国史研究』第100号、1996年3月)、大和国高市郡の厩坂宮(舒明紀十二年四月条)に由来するとする説(古市晃「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史』768号、2012年5月)、養育した額田部(湯坐)が深くかかわった馬匹に由来するとする説(渡里恒信「上宮と厩戸」『古代史の研究』第18号、2013年3月)、捜神記など中国の志怪小説の影響とする説(前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59巻、2016年1月)などがある。ほかに、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第五に、「御誕生の若宮を、厩戸(むまやど)の王子と名付け参らせらる、これ駒繫(こまつな)ぎのほとりにて降誕(がうたん)なりし故ならし」ともある。「駒繫ぎ」とは草の名である。
(注2)『日本史大辞典1』(平凡社、1992年)に、「厩(うまや) 馬を飼っておく独立した建物や家屋内の馬(ときには牛)を飼う部屋で、馬屋とも書き、『まや』とも呼ぶ。……乗馬用の馬を飼う武家屋敷や神社・寺院の馬屋と農耕馬を飼う農家の馬屋とでは構造が異なる」(781頁)と、建築史の宮沢智士先生の解説がある。解説としてはそれに尽きるが、かなり違うものを一緒にしていて良いものか、戸惑うばかりである。鎌倉時代、御家人が、いざ鎌倉へ、と乗ってきた馬は、必ず乗馬用の馬であったか、ふだんは農耕に使っている馬の荷鞍を取り替えて、チャグチャグ馬子のようなことをした貧乏武士もいたのではないか。○○時代の馬はどれぐらいの大きさであったか、といった話が巷間に語られるようであるが、乗馬用と農耕用では鍛えている筋肉が違い、何を大切にすべきかで厩の形態も変わってくるように思われる。
(注3)2015年10月17日放送分 滋賀経済NOW(びわこ放送)(1:01~19:10)参照。
(注4)和名抄に、「戸 野王案ふるに、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとかむがふ。〈和名、度(と)〉」とある。白川静『字訓 新装版』(平凡社、1995年)に、「と〔門・戸(△(戸の旧字))〕 内外の間や、区画相互の間を遮断し、その出入口のために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう。戸は開き戸にするのが普通であった。トは甲類」(531頁)とある。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、白井清子先生の解説として、「と【戸・門】名……両側から迫っていて狭くなっている所。その狭い部分でのみ、水が流れたり、人や物が通ったりできる。また、建造物で人の出入りする所やそこの建具」(821頁)とされている。「厩戸」という言葉を考える際、第一に馬小屋の出入口の戸のことであると考えるべきであろう。ト(甲類)としては、「所(処)(と、トは甲類)」、「外(と、トは甲類)」もある。外という語は、戸(門)と語源的に関連があるらしい。所(処)という語はそれらとは異なる義で、それを「厩戸皇子」に当てはめると、万葉仮名の訓仮名の当て字ということになり、「戸」字に表意性がなくなる。管見ではあるが、「厩戸」を厩の外(そと)のことと解釈する向きは見られない。馬が厩の外でお産をしたという変な話は、皇后が外でお産をしたという話とリンクする。ウマヤ(厩)とウブヤ(産屋)とが洒落として考えられているなら、外でのお産をもって名の由来譚とすることは噺として興味深くはある。けれども、「厩の戸に当りて」という文章が捻られているのだから、基本的に、開き戸との衝突のことを念頭に検討すべきであろう。「厩皇子」、「馬皇子」、「馬子皇子」、「馬養(うまかひ)皇子」、「馬部(うまべ)皇子」、「厩門(うまやかど)皇子」という名が問題ではない。
 厩の後ろ側についている扉(b・c図参照)をもって、「厩戸」と捉えることも、方法論的には可能である。春日権現記絵の場合は、前(?)ないし横(?)上部が蔀になっているようにも見える。「廐作飼方之次第」(松尾信一・白水完児・村井秀夫校注・執筆『日本農書全集60』農山漁村文化協会、1996年)に、「一、後ノ方、小キヒラキ戸ノ入口ヲ求ルコト有。是ハ極テ明クルコトニハ非ス。其厩ノ様子ニヨルヘキ也。後ノ方小キ戸ハ、急変・急火ノ時、前ヘ難出時ニ此口ヨリ馬ヲ出サン為ナレハ、其厩ニヨリ便利宜シキナラハ明ルニ不及也。又ハ前後サシ支ヘ等有リテ、アカリ入少キ厩ナラハ、夏向ナト掃除ノタメニモ宜シ。故実作法ト云ニアラス。其時ノ頭入ノ功ニヨルヘシ。大サ寸法ハ極ナケレハ、馬ノ出入成程ニスヘシ。大方五尺、或五尺五寸宜也。」(133頁、文字の大きさは同じにした。)などとある。その前の項に、厩舎後方は羽目板にして上方は無双窓を付けることが望ましいと記されている。推古紀の記述においては、皇后は、厩舎の後ろ側へ回って戸にぶつかったとは思われない。なぜなら、彼女は、「巡行禁中監察諸司至于馬官」である。身重の皇后が、監察して回っていて、こそこそと裏から探りを入れる、それも馬に対して、という設定はなかなか難しい。ごくふつうに考えて、「厩戸」というのは形容矛盾であると捉えるのが適切である。
 乗馬用であれ農耕用であれ、馬の健康面を考えて厩は作られた。中国では早くは呉子・治兵に、「夫(そ)れ馬は必ず其の処(を)る所を安んず。……冬は則ち厩を温かにし、夏は則ち廡(ひさし)を涼しくす」とある。本邦では、佐瀬与次右衛門の会津農書・下巻・厩囲に、「馬屋ハ内厩に居なから見るようにしてよく、外厩ハ寒くして馬瘠る。馬屋を広く穴を深く掘るへし。……」(庄司吉之助翻刻ほか『日本農書全集19』農山漁村文化協会、1982年、195頁。漢字の字体は改めた。)、また、百姓伝記・巻四・屋敷構善悪・樹木集に、「土民、馬屋を間ひろく作り、しつけ(湿気)すくなき処をハ、ふかくほりて、わら草を多く入てふますへし。……冬ハさむくなきやうに、わらにて外をかこひ、夏ハ冷しきやうにして馬をたてよ。……しつけの地にハ屋棟をたかくして、腰板をうち、竹を以垣をするかして、わら草なとの飼やう、多く入やうにすへし」(岡光夫・守田史郎校注・執筆『日本農書全集16』農山漁村文化協会、昭和54年、123頁。)とあり、農業に必要な馬肥を得る方法も記されている。また、比良野貞彦・奥民図彙には、夏の夜に涼しく過ごせるように、木で埒を結った囲いを設けて夏馬屋とすることが描かれている。この厩には、戸どころか壁すらない。
「田舎之馬屋」(比良野貞彦、森山泰太郎・稲見五郎解説「奥民図彙」『日本農書全集1』農山漁村文化協会、昭和52年、157頁より)
屋根はある例(東海道名所図会・梅木(竹原春泉斎ら画)、駅家(うまや)であろうか。)
(注5)康煕字典に、楊氏方言註を引き、「棖 ……傾きを救ふ法なり。門の楔(ほゝだて)也」と述べている。説文に、「棖 杖(つゑ)也」ともあり、門が頬杖をついているように見立てたところに由来するものらしい。
(注6)マグサ(秣)が下でなく上でもなく真ん中ぐらいに台に載せてある例として、例えば、日光東照宮の神馬の厩の例がある。何を企てているのであろうか。
神厩舎
(注7)前掲の「廐作飼方之次第」に、「廐四節心得ノコト」として、四季の気候に応じて「戸ヲ開キ」、「前後ヲ取払」、「幕ヲ張ル」、「戸ヲ垂テ」などとあって、「戸」のことが記されているが、門戸のことをいうのではなく、窓の意味のことを言っている。通風や保温、採光の話である。
(注8)狩谷◆斎のいう「伊勢神宮屋舎」のそれが何のことを指しているのか、筆者は不勉強で知らない。ご存知の方、お教え下さい。
(注9)古い時代の牧に、外周が囲われていたか、疑問視する議論もある。今日は、土地所有の問題や周囲にご迷惑をかけることから設けられている。家畜として馴らされたウマが、自ら逃げて野生化することのメリット・デメリットなど、多くを考えなければ理解することは難しいようである。牧が人に放棄された場合はその限りではない。ウマも生きるのに必死になる。
(注10)棒は、歴史的仮名遣いをボウとする説もあるが、鎌倉・室町期の資料からバウであるともされている。呉音にボウなるも、広韻に歩項切、集韻に部項切である。坊(バウ)や房(バウ)といった区切られた区画、部屋のことに引きずられて漢音をとった可能性がある。マセによって空間を仕切る際、直線的に仕切ることになり、四角い坊(房)が形成される。和名抄に、「房 釈名に云はく、房〈音防、俗に音にて望と云ふ〉は旁也。室に在る両方也といふ」、「坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音方、又音房、末智(まち)〉は別屋也、又た村坊といふ。四声字苑に云はく、村〈音尊、無良(むら)〉は野外の聚居也といふ」とある。
(注11)本ブログ「『餓鬼』について」参照。
(注12)埒とは、馬場の周りに逃げないように設けられた柵のことをいう。駒くらべ(競馬)では、埒が左右に設けられる。ウマはまっすぐに走るのがあまり得意ではなく、目印にして走っているとされる。ヒトも、ラインが引いてなければ100m走で10秒を切ることはないであろう。おそらく、人を乗せて走るなどということは、ウマにとって不自然極まりないことであり、また、鞭で叩かれながら全速力でひた走るなど不条理もいいところである。和名抄に、「馬埒 四声字苑に云はく、埒〈乃輟反、劣と同じ。世間に良智(らち)と云ふ〉は、戯馬、封道也といふ」とある。ラチというラ行で始まる言葉がヤマトコトバにもとからあったとは思われず、用例も9世紀のものしか知られないが、馬の到来とともに本邦に伝わった技術として、飛鳥時代にも存した言葉であろう。口語表現をよく伝える日葡辞書に、「Rachi. ラチ(埒) 柵・垣.¶比喩.rachiuo aquru.(埒を開くる)物事をうまく解明する.¶Rachino aita fito.(埒の開いた人)素直で,道理にはすぐ服する人.¶Rachiuo coyuru, l, yaburu.(埒を越ゆる,または,破る)規則や禁制条項を破る,または,道理に背く.」(土井忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』(岩波書店、1980年、523頁)とある。マセボウ、マセガキと綽名された聖徳太子は、埒を開けて物事の道理を説く人であったことは、憲法十七条に記されているとおりである。憲法十七条が推古朝に作られたものではないという説も提出されているが、そういう議論に参加しても埒が開かないので、筆者は遠慮させていただく。
(注13)本ブログ「稲荷信仰と狐 其の三」参照。
(注14)コマ(コは甲類)という語については、上代にどこまで洒落とされていたかは不明である。「細(こま)けし(コは甲類)」という語が新撰字鏡に、「壌 古万介志(こまけし)」と見える。粒状、粉状のものを「細(こま)」と称したように感じられる。芝居や映画、マンガの齣(こま)という語は近代になってからの語のようであるが、「細」という語ばかりでなく、将棋の「駒」という語の連想から形成されたものであろう。将棋の駒は入るマス目が区切られている。また、小間使いという語の文字面からも連想が働いたのではなかろうか。さらに、高麗(こま)という語については、万葉集に、「巨麻尓思吉(こまにしき)」(万3465)という仮名書きがあり、コはあるいは乙類とされるが、東歌の唯一例である。「高麗」をなぜコマと訓むかについては諸説あってわからない。とはいえ、「高」の字がためらいなく用いられているので、コは甲類である可能性もある。大野晋編、前掲の『古典基礎語辞典』、「こま【高麗・狛】」の項に、「†*koma」と記され、甲類を推定されている。
 和名抄に、「王仁煦に曰く、駒〈音倶、古万(こま)〉は馬子也といふ」とある。駒(こま、コは甲類)は子馬の状態で船に載せられて本邦に連れられてきた。騎馬民族、高麗の人によってである。飼育技術が伴わなければ、連れてきても意味がない。連れてきたのは子馬である。まるで狛犬のように小さい。そんなものに人が乗って、早く馳せるのであろうか。倭の人は不思議に思っていると、彼らは手を拱いて見ているばかりではなく、飼葉を与えて上手に育て、かつ人に馴らしてよく言うことを聞かせ、人が乗っても猛スピードで走らせることをやってのけた。古語に「拱(こまぬ)く」という。貫(ぬき)のマセを柵として活用していたことが、言葉の端々に感じられる。儒者のする挨拶のポーズ、拱手(キョウシュ)は、胸の前で通せんぼの形になる。「是に、古人大兄、座(しきゐ)を避(さ)りて逡巡(しりぞ)きて、手を拱(こまぬ)きて辞(いな)びて曰(まを)さく」(孝徳前紀皇極四年六月条)とある。古人大兄のポーズは、両手を腕の前で重ねて行う礼のような、しかし、それは倭の人にとって、挨拶ではなくて厩のマセのように見えるから、拒絶の様を表すことになっている。
 なお、推古紀元年四月条の、「内教を高麗の僧慧慈に習ひ」とある点について、「高麗の僧慧慈帰化(まうおもぶ)く。則ち皇太子(ひつぎのみこ)、師(のりのし)としたまふ」(推古紀三年五月条)と後述される点や、蘇我氏が百済と関係が深かったことなどから、石井、前掲書(70~74頁)には、本当に「高麗」なのか疑問視されている。来訪して師匠にしたとされる僧侶の慧慈の朝鮮半島でのもとの国籍が、当時においてどれほどの意味を持ち、それが日本書紀のなかで種明かしされているのか、不勉強の筆者には読み解けない。厩戸皇子の話(噺・咄・噺)としてなら、コマ(駒≒高麗)である点は、面白いから重要な要素であるように思われる。
(注15)法隆寺献物帳にサインの残る葛木戸主は、ヘヌシである。律令に「戸(こ)」とあるのが推古朝にあるはずはないから、後人の修文、潤色であると説明したがる向きもあろう。しかし、そう片付けてしまうには、このなぞなぞのレベルはあまりにも高い。
(注16)市村弘正『名づけの精神史』(みすず書房、1987年)に、「綽名をつける能力の衰退は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているだろう」(12頁)とある。今日、為人(ひととなり)への関心は薄れ、文化水準は飛鳥時代とは雲泥の差が見られるほどに低迷している。現在、日本書紀を、史料そのものをそのものの中から読むのではなく、史料批判に基づいて外側から議論されることが多い。それが歴史学の主流、正統な歴史学であるというのなら、もはや人の学ではないであろう。終いにコンピューターにとって代わられるのではないか。“批判”は容易く耳目を集めるが、終わると忘れられ、“批評”は高等で難しくなかなか理解が広まらないが、思想となって後世まで残る。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

厩戸皇子の「戸」の秘密 其の二

2016年06月18日 | 論文
(承前)
 その欄額、柱貫の間に戸(扉)ではなく、マセをつけて囲いとした。戸(扉)のない厩といい、装飾するためでないのに欄額を作ることといい、矛盾した方立(=「矛盾」)の出来事であることを表現している。和名抄に、「籬〈栫字附〉 釈名に云はく、籬〈音離、字亦▲(木偏に離)に作る。末加岐(まかき)、一に末世(ませ)と云ふ〉は柴を以て之れを作るといふ。疎なるを離々と言ふ也。説文に云はく、栫〈七見反、加久布(かくふ)〉は柴を以て之れを壅ぐといふ」とある。竹や柴で作った粗い目の垣根である。マセには、籬、馬柵、馬塞、間狭などといった字を当てる。牧の柵、横木を渡して作った垣の棒のこともマセ棒、ウマセ、マセンなどといい、厩に用途、仕様が同じである(注9)。馬が出なければそれでいいのだから、一般の垣根と比べるとほとんど開いているような状態で、ただ横に1~2本、棒が渡してある。このマセが、厩においては「戸」に当たるものである。万4429番歌の「厩なる 縄断つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも」の侘しさは、駒を曳き立てる縄(=夫)がいなくなって厩に閉じ込められたままにされたとき、外の景色が見えて他にいい男が見えるのに、マセがあるために出て行くことができない(=浮気はしない)、でもとても寂しいよと訴えたことが身に染みるという歌であった。
甲斐の黒駒(紺紙金字一字宝塔法華経(法師品断簡、太秦切)巻頭、平安時代、12世紀、東博展示品)
 皇后が厩の戸に当たって生まれた皇子は、どのような能力を持っていたのであろうか。「生而能言、有聖智。」である。頓智好きにはたまらない設定である。すぐれた人が厩で生れていることから、後に、聖徳太子伝暦などに、甲斐の黒駒に乗って富士山を駆け登ったとする伝承が成立しそうなことは予感されよう。石井、前掲書(62頁)には、粗末な馬小屋はないとお考えであるが、厩の戸の造りには言及されていない。筆者は、全然戸(扉)がないよりは、戸(扉)の代わりにマセが渡されている方がマシであると思う。「厩戸」とは、このマセ、マセボウ、マセンボウ、マセガキのことを言っている。早熟で大人びた子どものことをマセという。ねびる、およすくことである。上代にそのような名詞形があったか知られないが、四段動詞マス(増・益)の語意に、他に比べて優っていることをいうことがあり、また、敬語の動詞マス(坐・居)の義にも適うから、その已然形を名詞として捉え、生まれながらにして既に優っていらっしゃったことの意として使われたのではないか。マセルという動詞は名詞マセから後で作られたものと推測される。すなわち、ませた餓鬼だからませ籬、ませた坊やだからませ棒なのである。良家の小児のことを、坊や、お坊ちゃん、と呼ぶことがいつからあるか、口語表現にしてわからない。それでも、厩戸皇子の場合、「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ」(推古紀元年四月条)とあって、坊(房)を与えて住まわせている。坊やに違いない(注10)。また、子どものことを餓鬼という言い方がいつから一般にあるか、これも不明である。食べ物を貪ることから言われた比喩のようである(注11)。いずれも仏教から伝えられた言葉であり、早期幼児教育のおかげか仏教に精通した人物を表すにはもってこいの命名となっている。ませた餓鬼、ませた坊やは、一言に集約すれば、語用論的形容矛盾表現として、「厩戸」のこととなる。
 さて、「厩の戸に当りて」の「当りて」について、石井、前掲書では、「ちょうどそのところで、ということ」(58頁)と説明されている。場所としてアタルという語をお考えのようである。「戸に当りて」の部分、小学館の新編全集本日本書紀②頭注に、「まさしく戸(入口)の所での意」(530頁)とある。井上光貞監訳『日本書紀 下』(中央公論社、昭和62年)に、「廐(うまや)の戸につき当たり」(125頁)、宇治谷孟『全現代語訳日本書紀 下』(講談社(講談社学術文庫)、1988年)に、「厩(うまや)の戸(と)にあたられた拍子に」(87頁)と訳されている。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「あたる[当](動四) アツ(下二段)に対する自動詞。もとは……あてられる、の意。①あるものが他の何かに触れる。あるいはぶつかる。……②あたる。相当する。二つのものごとの力・価値・意味などが対応しあう。……③ちょうどその時にあう。」(27頁)とある。語釈の③は、時についてアタルと使うことを示している。中古に、状況や方角について、同様のアタルという語意は見られる。上代には見られない。アタリ(辺)とアタル(当)は同根の語であろうが、ウマヤノトニアタリテ(当厩戸而)のアタリを、アタリ(辺)という名詞と捉えることには無理がある。原文の「而」は、接続助詞のテと訓んでいる。
 原文は、「皇后、懐姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃当厩戸而不労忽産之。」である。主語は、「皇后」、述語は、「巡行」、「至」、「当」、「産」である。いつ当たったか、「乃」である。どこで当たったか、「馬官」でである。誰が当たったか、「皇后」である。何に当たったか、「厩戸」にである。いかに当たったか、結果として「不労忽産之」にである。4W1Hがはっきりしている。皇后が、ふらふらっと「厩戸」にぶつかった、ないし、戸のほうからあてられたと明記されている。上に述べたように、面(plane)としての戸(扉)はない。柵となるマセにあてられるような“小咄”に仕上がっている。柵という語が縦なるものだから、厳密には横なるもの、埒(らち)といえば良いのであろう。すなわち、埒が開いた(注12)。問題解決、安産である。案ずるより産むが易し。
埒(賀茂競馬図屏風、久隅守景筆、紙本淡彩、江戸時代、馬の博物館蔵、同編前掲書、38頁より)
 出産とフェンスとの関連を示す例は言い伝えに既出である。

 二(ふたはしら)の神、教(みこと)の随(まにま)に酒を設(まう)く。産(こう)む時に至りて、必(へへもかなら)ず彼(そ)の大蛇(をろち)、戸(と)に当りて児(こ)を呑まむとす。(至産時、必彼大蛇、当戸将呑児焉。)(神代紀第八段一書第二)

 この部分、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのをろち)を退治する場面である。本文に、「乃ち脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)をして八醞酒(やしほをりのさけ)を醸(か)み、并(あは)せて仮庪(さずき)仮庪、此には佐受枳(さずき)と云ふ。八間(やま)を作り、各(おのもおのも)一口(ひとつ)の槽(さかふね)を置き、酒を盛らしめて待ちたまふ」とある。飼葉桶のような大きな容器8個に酒を入れ、8つ設けた桟敷、すなわち、籠のように編んだ台に置いて、八岐大蛇の8つの頭がそれぞれの籠台の編目の隙間から入って槽の酒を飲むようにさせている。一書第二では、「児を呑まむとす」る時、編目の隙間から伸び入ってきている8つの頭ごとに酒を飲ませている。「児」の代わりに「酒」を呑ませた。八岐大蛇は、児(こ、コは甲類)を呑もうとして頭を伸ばしてきている。そうするとわかっているから、仮庪(桟敷)を編んで作る。編み方は籠(こ、コは甲類)に同じである。八岐大蛇は、児(こ)を呑もうとして籠(こ)に誘導され、酒を飲んで酔っ払ってしまう。
上から右下へ生垣、柴垣、間垣(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、179頁より)
 つまり、ここでも、「戸(と、トは甲類)」とあるのは、平面を形成する一枚板の杉戸などではなく、適当に編まれた柴垣や籬のような籠のような戸、その隙間のゆるやかなもの、マセ棒、マセ籬によって仕切られたところを暗示しているのであろう。脚摩乳・手摩乳の「二(ふたはしら)」によって準備が整えられている。柱が2つあるから戸はできるが、欄額(柱貫)によって支えられたマセに他ならない。マセのこちら側に飼葉桶、槽(ふね)がそれぞれに1つずつある様子は、厩に同じである。動物園でも、ヒツジ類は1つの餌場からみな仲良く食べているが、ヤギ類は喧嘩になるから頭数によって分けて餌を与えている。ウマは首を出して秣を食む。つまり、ウマヤ(厩)をもってウブヤ(産屋)に譬えられている。棒(バウ)が坊(バウ)・房(バウ)を示すことは、一区画のことをいうことによって確かめられる。坊やとは、坊屋のことと思われ、マセ籬によって区割りされた厩のような分譲地区画の謂いであろう。八岐大蛇に応じて8区画整備している。児(こ)のために籠(こ)で囲われた坊があてがわれる。養われるのは、駄馬ではなく、良馬、コマ(駒、コは甲類、もと子馬の約とされる)であろう。ただし、八岐大蛇の話では、マセによって出られないようにしているのであり、厩図屏風などにあるように、手綱で繋がれているわけではない。それでも、馬が腹帯で吊られている点は、産屋の力綱を連想させる(注13)
七間廐の図(京都将軍御所絵図、鎌倉御殿図)(西ヶ谷恭弘「城郭解体学第37回 廐」『歴史と旅』27巻8号、秋田書店、2000年6月、241頁より。古事類苑・居処部の722~723頁にも同図が載る。)
彦根城の厩(同上書、243頁より)
二条城の厩(舟木本洛中洛外図屏風、東博ミュージアムシアター前パネル展示より。ミュージアムシアターは気づかぬことを見せてくれます。)
 1棟の厩で何区画(馬立(うまだち))にするか、いろいろ例があるようである。八岐大蛇を入れるのに、“蛇立”なるものを思考実験したのであろう。コマは駒であり、細切(こまぎ)れの細であり、小さな間のことを言うのであろうか(注14)。「八間(やま)」、すなわち、8コマ作るというのは不自然である。脚摩乳・手摩乳にはすでに「八箇(やたり)の少女(をとめ)」(神代紀第八段本文)があって、年毎に既に呑まれたという。八岐大蛇がその頭数の8人を呑んだのだから、9人目の奇稲田姫(くしいなだひめ)は呑まれるはずがないように思われる。頓智話なのだから、何でだろう? と不思議がる必要がある。“八間厩”のように並列を想定するのがいいのか、四角い空間に井桁状に仕切りを入れて9コマに分け、「囲」という字に象形されるように想像するのがいいのか、想像をたくましくしなければならない。「囲」形の場合、中央1マスには仮庪(さずき)となる籠編みを作らず、すなわち、マセ棒を渡さす、周囲の8コマに籠台を設けて槽を置き、八醞酒を入れておいたということになる。八岐大蛇が酔っ払い、寝ぼけて編み籠に絡んでいる時を見計らって、中央の通路に素戔嗚尊は自由に入って上側へ抜け、周囲の大蛇の首をぐるりと斬って回ったということとなる。反対に、下側へ行って切った時、1つにカチッと鳴り当たったのが、いわゆる草薙剣である。
 上代に、「囲(かく)む」という。上述の和名抄の「籬〈栫附字〉」項に、「栫〈七見反、加久布〉以柴壅之」とあった。万葉集には、

 …… 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ ……(万892)
 …… 妻も子どもも 遠近(をちこち)に 多(さは)に囲(かく)み居(ゐ) 春鳥の ……(万4408)

とあり、八方塞を示している。素戔嗚尊は、その八方塞状態に自ら陥る形をとって、逆に八岐大蛇を近い場所に酔っ払わせて眠らせ、一網打尽(?)に斬り殺したということなのではなかろうか。「中区(うちつくに)の蕃屏(かくみ)」(成務紀四年二年条、別訓カクシ)の出典は、左伝・僖公二十四年条の疏に、「蕃屏者、分地以建諸侯、使京師蕃籬屏扞也」とある。(注11)にあげた本ブログ「『餓鬼』について」で触れた芋のヤツガシラは、漢語に九面芋とある。親イモのまわりに子イモが8つ、親イモと同じぐらいに大きく成長して、しかも癒着した状態にできている。譬え話として、中央の親イモのところが素戔嗚尊に当たるのだということも連想されて生まれた説話ではなかろうか。
九面芋(やつかしら)(岩崎灌園・本草図譜巻之五十(同朋舎、1981年復刻版より))
 さて、「戸」はヤマトコトバにト(甲類)である。万葉仮名としても訓仮名で「戸(と、トは甲類)」は常用されている。音読みでは、漢音にコ、呉音にグ・ゴ、上顎音である。広韻に、「戸」は侯古切である。音仮名の万葉仮名では、コ(甲類)に「古」があり、広韻に公古切、ゴ(甲類)に「侯」があり、戸鉤切である。仮に戸(コ)という音が音仮名に当てられたとすれば、甲類と感じられたであろう。戸(こ)の意味は、律令制で、戸令に里を構成する単位とされ、「凡そ戸(へ)は、五十戸(ごじふこ)を以て里(さと)と為よ」とあり、家父長のことを戸主、独立家屋のことを戸建て住宅などと言う。田令でも、「其れ牛は、一戸(いちこ)をして一頭(いちづ)養(か)はしめよ」とある。さらに、「戸(こ)」は、酒の量をいう語でもある。呑む量が多い人は、「上戸(じゃうご)」、少ない人は、「下戸(げこ)」という。つまり、八岐大蛇の話は、戸(と)に当って児(こ)を呑まずに、戸(と)ならぬ籠(こ)状のところから、一戸(いちこ)ずつ、全部で八戸(はちこ)について頭を覗き込み、上戸か下戸か知らないが、それぞれ戸(こ)という一丁前の酒量を呑んだということである。伊呂波字類抄に、「戸 コ〈酒戸也。上戸・中戸・下戸〉」とある。厩戸皇子は、ウマヤノミコなのだと、漢字のわかるインテリたちには面白がられていたのかもしれない(注15)。呑むほどに青くなる人であったらしい。
 以上から、厩戸皇子という名は、厩に戸(と)などないのに、戸の代わりをするマセバウ、マセガキに当ってませた餓鬼やませた坊やが生まれ、坊どころか「上殿(かみつみや)」を作って愛育したことを物語る、洒落となぞなぞと知恵の押し詰まった命名譚、面白小咄として仕上がっていたのである。古代における名とは何か、それは呼ばれるもの、綽名である(注16)
(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

蓋の頭二題

2016年06月15日 | 無題
 目黒にある美術館へ行って蓋の頭を見てきました。

 東京都庭園美術館「メディチ家の至宝―ルネサンスのジュエリーと名画―」展(~2016.7.5)では、二重の杯(フィレンツェの金工家作、15世紀、グリーンジャスパー、加熱鍍金し打ち出しにより浮彫や彫刻が施された銀、七宝、高さ30.5cm、下の杯にぐるりと間延びして「・LAV・R・MED」銘、ウフィツィ美術館(銀器博物館)蔵)を見ました。

 杯自体は15世紀、フレームは15世紀後半とあり、納品後に再発注されて再加工したのか、工房に材料として置かれていて金工家の手隙を待っていたのか、知りません。蓋の先端の宝珠のようになっている部分の、中の球体は、メディチ家のエンブレムを表しているとありました。さて、この球体は、“くるみ”のように動くのでしょうか。外枠は3方から閉じているものだったと思います。金でできているのだから、ひょっとして“くるみ”式の場合、動かすと鳴る鈴の仕掛けなのでしょうか。もっとも、金のメッキの鈴しか私は知りません。純金で作って鳴るのか、どんな音になるのか、わかりません。

 松岡美術館「中国の陶磁―宋から元まで―」展(~2016.7.10)では、青磁刻花蓮華文壺(北宋、龍泉窯、総高31.0cm、胴径13.7cm、松岡美術館蔵)を見ました。

 龍泉窯のものは、日本では、南宋時代からの青みの特徴的なものが砧青磁と呼ばれて茶道に好まれたようです。この品は北宋時代のものです。毛彫り風の花の模様、蓮弁の象り、それが上へ向かって幾重にも重なっていくところなど、えもいわれぬ意匠に酔いしれることができます。2つある下の丸襟部分から上が蓋だろうと思います。蓋のいちばん上の部分が丸くありません。蓮の蕾が開き始めたところを模したものでしょうか。その部分の丸襟は、蓮の葉を表しているようにも見えます。もちろん、実際のハスの花はそのようにはつきません。まさか、蓋の上の部分は貫通していて、穴から煙が出るような仕掛けなのでしょうか。細長~い香炉。さて、どうでしょうか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加