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上代のヤマトコトバについての論文を発表しています。

餓鬼について 其の三

2016年07月19日 | 論文
(承前)
 再び上宮聖徳法王帝説を見る。

 則ち證(あきら)むる歌に曰く、
 斑鳩(いかるが)の 富(とみ)の井の水 生(い)かなくに 食(た)げてましもの 富の井の水
といへり。是の歌は、膳夫人(かしはでのきさき)臥病(みやまひ)して没(し)なむとしたまひし時に、水を乞ひたまひき。然れども聖王(ひじりのおほきみ)許したまはずて遂に夫人卒(みう)せぬ。即ち聖王誅(せ)めて是の歌を詠みたまひき。即ち其の證(あかし)そ。

 岩波書店の思想大系本『聖徳太子集』の補注に、「歌意は『所詮生きていることができなかったのならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを』の意」(421頁)、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)に、「『所詮生きないのであったならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを』の意」(106頁)とある。太子(聖王)が病の床につき、夫人も看病の挙句に床につき、2人並んで床についていた。先に夫人が亡くなり、次の日に太子が亡くなっている。太子の辞世の歌になった。なぜ、病人に井戸水を飲ませたがらないのか。下痢や嘔吐を伴う伝染病であったからかとも思われるが、それならば煮沸して湯冷ましを飲ませるのが科学的合理性というものであろう。古代の人であっても、経験値として知っていたに違いない。
 筆者は、餓鬼という考え方によるものと考える。仏教における餓鬼という概念の変遷について、西義雄「仏教における餓鬼と其の救済―特にその源流を尋ねて―」大正大学真言学智山研究室編『那須正隆博士米寿記念佛教思想論集』(成田山新勝寺、昭和59年)は、仏典を時代的に遡るように検証されている。

 ……(一)最も後世のものでは、「餓鬼」とは、六趣(又は六道)の一趣(又は一道)として、人間趣と全く別個であり、人間趣にとっては、種姓的にも地位的にも全く他的存在と見る如き記録が著しかった。然るに(二)稍々時代が遡る仏典では、餓鬼趣と人間との距離的間隔は消え、相互に交流あるものと見られているものが多くなり、更に古い仏典になれば、餓鬼には餓鬼趣に住するものと、人間中に住するものとありとしている経典群がある。(三)最后に仏教が南北に分派分立以前、正確には漢巴共通の仏典記録になると、人間と全く別種のものとしての餓鬼ではなく、むしろ人間の男女の餓鬼的状態を記録するものと見られる相応部(漢訳雑阿含)経典の存在を検出し得たのである。
 さて、かく古典では餓鬼を人間の悪しき状態と見たとすれば、餓鬼と通訳される preta を、人間の、「人らしさを失ったもの」「人(ひと)でなし」の状態としてその義を現したのが、餓鬼という名称の起ったもとであったと見得ることを推定してきたのである。
換言すれば、現存の仏典中、最も早い時代の経律では、后世の餓鬼に相当するものは、むしろ人間の中の苦難に満ち「人でなし」的な境遇にある男女の衆生を指したのである。(47~48頁)

 餓鬼はどこにいるか。上述のとおり、人間の世界のすぐ近くに見られる。クワイが田圃の泥の中に隠れているようなものである。それが人でなしである。人のように見えて、人ではない。クワイの葉が漢字の「人」字の形に見え、上代前半の人のどのくらいに漢字に対する識字能力があったか検討を要するが、上宮聖徳法王帝説の説話の焦点になっているように思われる。もちろん、クワイは人ではなくて“人でなし”であり、泥のなかで泥を食べているようで、糞を食べている餓鬼にもなぞらえることが可能である。そして、くわいの塊茎を食べるに当たっても、精進料理のために摺身にされて形を変えたのであろう。人擬きの存在、それがくわいであり、つまりは餓鬼である。
 問題なのは、その井戸の名が、「富の井」という点である。餓鬼道に堕ちるとされるのは、生前に贅沢をした者であるとされている。生きながらも渇望する振る舞いを餓鬼とも呼んで戒めた。正法念処経・第十六に、「……女人多生餓鬼道中。何以故。女人之性。心多妬嫉。丈夫未随。便起妬意。以是因縁。女人多生餓鬼道中。復次比丘。知業果報。観餓鬼道。餓鬼所住。在何等処。作是観已。即以聞慧。観諸餓鬼。略有二種。何等為二。一者人中住。二者住於餓鬼世界。是人中鬼。若人夜行。則有見者。餓鬼世界者。住於閻浮提下五百由旬。長三万六千由旬。及余餓鬼悪道眷属。其数無量悪業甚多。住閻浮提。有近有遠。復次比丘。知業果報。観諸餓鬼有無量種。彼以聞慧。略観餓鬼三十六種。……」とある。
 つまり、「富の井の水」を飲むということは、言霊信仰のもとにあっては贅沢なことに当たるから、それを飲むことは、即ち夫人が餓鬼になることと同じことである。「富(とみ)」という地名が引っ掛かったのである。考え方は大乗仏教的で、あの世で餓鬼道に堕ちるというよりも、いま、餓鬼と同じ精神に陥ることになるから止めるようにと諭したということである。太子は、亡くなった膳夫人のあの世でのことを心配していたのではなく、今生のあり方を説いたのであった。
 この歌を歌として論じたものとしては、志田義秀「聖徳太子の歌」『聖徳太子論纂』(平安考古会編・発行、大正10年)がある。少し長くなるが大時代的な捉え方がどのようなものか知れるので、引用しておく。

 大体此歌は、書紀にもなく、補闕記や伝暦にもなく、其他太子に関係の古い方の書類に更に見えないと云ふ事が、先づ考ふべき点であらう。又歌の内容其者が、果して太子の事として是認されるであらうか。歌の内容は、全く通常人が愛妻の臨末に欲した水を与へなかつた事を、妻の没後に悔恨したと云ふ丈の俗情に過ぎない。或人は是を太子の仏教的慈悲心の発露であると観るかも知れないが、其れは俗情から観た慈悲心の誤解であつて、仏教的慈悲心は、斯る俗欲を満足せしめる如き者ではなく、寧ろ俗欲を離れて法悦に浴せしめて、後世菩提を得しめるのが其れである。特に「生かなくに」と云ふ様な不覚悟な言葉は、太子の口から出づべきものとは考へられない。天寿国曼陀羅の文に見える太子は、「世間虚仮、唯仏是真」と大悟した人である。大安寺伽藍縁起は第一史料ではないにしても、猶太子を憶度するに十分であらうと思ふが、同文中推古天皇が太子の病中其遺言を聞かしめる為に遣された田村皇子に対して、太子の奉答された所は、「蒙天皇之頼、無楽思事」唯過去将来の歴代天皇の為に、羆凝の道塲を大寺にしたいと云ふ事であつた。斯の如く厭離欣求の願に生き、断欲思情の念に専らであつた太子は、其妃の臨末に当つて、自己の法味を頒つて臨終の正念を勧め、倶に天寿国に生れて、永劫の快楽を得ようとこそはされようが、虚仮の世の死を悲しんだり、之を悔恨したりする様な事が、有るべき事とは考へられない。従つて、若し太子に膳夫人の死後に歌があつたとすれば、其れは夫人の冥報を祈る意味のものでなければならないと思ふ。斯う考へて来ると、若し帝説の著者が僧であつたとしたならば、自ら其書中に太子の慧慈師事の事を述べて、「能悟涅槃常住、五種仏性之理」と云ひながら、而かも斯る歌を挙げ来つて證歌となすが如きは、其見を疑はざるを得ないばかりでなく、頗る矛盾を感ぜざるを得ぬのである。(144~145頁。漢字の旧字体は改めた。)

 太子の人物像についてドグマにとらわれていると、この歌が何を謂わんとしているのかわからないであろう。そして、上代、それも飛鳥時代前期の人の“あの世”観について、中古・中世とは明らかに異なることを示す好例であると考えられる。上代前半の浄土思想がどのようなものであったか議論されることがあるが、仏教によく通じていたであろう太子が、あの世に餓鬼となることよりもこの世に餓鬼となることを好まなかったこと、さらには、死んでしまうのであれば、この世に餓鬼になることを許さなかった己を後悔していること、そして、病が篤く次の日には自分も死んでしまってこれが辞世の歌となってしまったこと、それらを考えあわせると、生き生きとした精神生活が余りあるほどに営まれていたことが彷彿とされ、悦ばしいことと思うがいかがであろうか。仏教の思想を生きる指針として大局から見据えていたようにも思われる。仏教の思想が方便たり得たのは、仏教流入以前から心の中に、当たり前のこととして、人間としてのあるべき生き方についての弁えがあったからと考えられる。無知蒙昧ではなかった(注11)
 以上のことから、万葉集に登場する「餓鬼」は、精進料理に使うために寺に用意された、クワイのことを比喩にかけていると考えられる。万3840番歌の原文は、「寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播」とあった。寺院に「女餓鬼」、神社に「男餓鬼」と対比されている。新大系本のようなお考えは、寺社の合体、神仏習合のようなことを念頭に置かれているのか筆者にはわからない。少なくとも単なる野合の話とは考えにくい。大神朝臣が返している歌からは、大神朝臣が神社を代表して寺側の「仏造る」ことへの皮肉を言っている。大神朝臣はその名から神社側の立場から歌を作ることは理解できようが、池田朝臣が寺院を代表しているかわからない。池田朝臣の歌から発想して、成り行きから池田朝臣を寺院側の者として作歌していったように思われる。最初の池田朝臣の歌の題詞に「嗤」とあるのは、大神朝臣が痩せていたからといった表層の譬えを語るものではない。「寺寺の 女餓鬼申さく」で始まることに、不思議な面白味がある。「……申さく」とは、神社で行われる祝詞の常套句である。祝詞が寺寺であげられている。形式としては、「申さく、……と申す」とあったとして、あるいは引用句を承ける言葉としての助詞の「と」をもって歌は終わっていると解したい。引用を表す助詞トが、「倒置以外で文末を『と』で終えることは、極めてまれである」(注12)が、文脈から通じるところである。

 漁(あさり)する 海人(あま)の子どもと 人は言へど 見るに知らえぬ 貴人(うまひと)の子と(万853)
 天の川 瀬ごとに幣を 奉(たてまつ)る 心は君を 幸く来ませと(万2069)

 万853番歌は、「貴人の子」と知られてしまうのであり、万2069番歌は、「幸く来ませ」と祈っているのである。この例から考えると、万3840番歌の、「寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播」は、「申さく……と」と終っているのではないだろうか。原文に「其子将播」とあるのを誤写とせずに正しく写すと考えれば、

 寺寺の 女餓鬼(めがき)申(まを)さく 大神(おほみわ)の 男餓鬼(をがき)賜(たば)りて その子播(ま)かむと(万3840)

と訓むことができる。本稿で見てきたのは、餓鬼とクワイの近親性である。寺寺にある餓鬼とは、寺寺で精進料理を作る主材料とするためにごっそり置かれたクワイの塊根を指しているのであろう。
舎利塔(蓮池蒔絵厨子)(後藤程乗作、江戸時代、寛文12年(1672)、東博展示品)
 クワイの食感は、シャリシャリしている。お寺に安置されているのは、仏舎利である。寺が二つ、「寺寺」とあるから、シャリシャリ(舎利舎利)である。舎利容器には、塔の形をしたものが多い。塔の形がクワイの形に見えてくる。和訓語の「くわゐ」が生れた経緯の一端が覗かれるようである。そのくわいを二つ並べれば、女性の乳房にも見える。“女”餓鬼と呼んだ理由である。他方、大神朝臣奥守が大神(おほみわ)という神社の代表に置かれている。神社と餓鬼とは関係がないように思われるが、寺院側の代表に祝詞をあげさせている倒錯からして、これも面白味を狙ったものであろう。大神神社の由来は、いわゆる三輪山伝説として知られる。本ブログ「三輪山伝説について」を参照されたい。
 以上のことから、「大神の 男餓鬼賜りて その子」という言い回しは、大神神社の祭神、大物主神のクワイの葉の形的なものを指していると思われる。クワイの葉は、サトイモの葉同様、食べることもあったらしいことが正倉院文書から推測された。ずいきの一種である。嗤われている対象者は、大神朝臣奥守(おほみわのあそみおきもり)である。奥に置いて守っている。後生大事にしている。そういった語感を秘めた名である。山自体を神と崇めているということであろう。
 京都の北野天満宮、野洲の御上神社には、神輿の屋根を葺くのにずいきが用いられる風習が伝わって、ずいき神輿と呼ばれ、お祭り自体をずいき祭とも称する。そのずいきは、乾燥させて乾物にした。紐のようになるから、ヲ(緒)+ガキ(餓鬼)である。鎌で刈ってまとめて乾しておくわけだから、そのなかには花が終わって種をつけた穂も含まれていたであろう。だから、クワイのずいきを分けてもらって、ワタクリ同様に種子を選って翌年の春に播こうというのである(注13)。そうすれば、塊茎のほうは小芋とて残さず食用とすることができる。
 また、葉にもシュウ酸は含まれ、着けると痒みを伴うため、後には肥後ずいきという徳川将軍献上品にもなった大人の玩具が考案されている。人の世の習いとして、そういう性質のものは古代から知られていたであろう。だから、「女餓鬼」が「男餓鬼」を「賜り」たがろうとする歌が戯れに作られてものであろう。三輪山に坐す神は、大物主神である。なぜペニスをモノと呼ぶかについては、大人の玩具同様、詳しい方が大勢いらっしゃるようなので譲りたい。したがって、「播」を「懐(懷)」字の誤写としてハラムという動詞と捉えようとする考えは起こりうる。けれども、基本的に、クワイの話なので、「播」はマクと考えるのが正解であろう。
 万608番歌に、「相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に 額づくがごと」とあるのは、クワイの塊茎そのものを有り難がるようなことであり、クワイの形を留めているときに有り難がるのは変な話で、摺身にしてうなぎの蒲焼擬きの料理が作られて、初めておいしい料理とされるのである。ガツガツと食べようとするのでは美味しさは得られない。渇望している餓鬼はクワイの美味しさが味わえないということを面白がっている。相思相愛の仲となれば、その頃合いがわかるから、互いにおいしい味わいを楽しむことができるということである。その実、見た目大したことのない男女であっても、得られる幸せは大きいということを裏返して歌っている。無論、くわいの煮含めをお正月に有り難がることへのからかいも含まれている。世の中で芽が出ることよりも、身近な幸せは工夫によって得られるものである。人として生きることを充実させるには、欲望のままに貪るのではなく、知恵を使って一工夫することが大事なのだと教えてくれる。大きなお寺の御利益に与ろうとしてもそれは無駄なことで、自宅にある念持仏の前で毎日のお勤めに励むことの方が、信心としては真っ当で精神生活を豊かにしてくれるということである。

(注1)サトイモの品種分類としては、染色体のセット数から、三倍体のものと二倍体のものとに大別される。三倍体のものに、「土垂(どだれ)」、「石川早生(いしかわわせ)」、「蓮葉芋(はすばいも)」、「蘞芋(えぐいも)」、「黒軸」、「赤芽」(セレベス)など、二倍体のものに、「唐芋」(海老芋)、「八つ頭」、「檳椰心(びんろうしん)」、「筍芋」(京いも)、「沖縄青茎」などがある。野生のサトイモの原産地から少し離れて、三倍体サトイモと二倍体サトイモとがそれぞれ栽培植物として起源して派生したとされている。当然、起源地を厳密に特定することはできないものの、動植物の家畜化、栽培化において、ニワトリ、イヌ、サトイモ、イネが東南アジア周辺である点は、人類史を考えるうえで興味深いものであろう。なお、万葉集にクワイの改名前の「ゑぐ」とされるものが、サトイモの一種の蘞芋(えぐいも)である可能性は存在する。子イモを食べるもので、収穫時の地中での在り方が似ているかもしれない。
 クロクワイは、water chestnut という綽名(?)以外にも呼び方があるらしい。Weblio辞書・英語例文に、‘The black arrowhead tuber (Kuro Kuwai or Karasu-imo) used in Chinese cooking is a big black arrowhead in the Cyperaceae family and is a different variety of plant from the Japanese arrowhead, and is available in cans as water-boiled arrowhead, however there is evidence that this has also been used as a food from ancient times in Japan and has been unearthed from Jomon Period remains in Kameoka, Aomori Prefecture.’(中国料理に使用される黒クワイ(烏芋)はカヤツリグサ科のオオクログワイという日本のクワイとは別種の植物で、水煮の缶詰でも出回るが、日本でも古くから食用としていた形跡があり、青森県亀岡の縄文時代遺跡から出土している。)という例があげられている。
(注2)宮崎安貞・農業全書・巻之五(10/39)、「烏芋」の項に、「唐にてハ多く作りて、凶年にハ粮とすると見えたり」、貝原益軒・大和本草・巻之八(32~33/49)に、「烏芋(クロクハイ) 勃臍トモ云。時珍曰、一茎直ニ上ル上ニ枝葉無く、状龍鬚ノ如し。今按其茎オホ井ニ似テ小也。燈心草ニ煮テ大也。茎ノ内空シ。摂州・河州ニ多シ。根ハ慈姑(クハイ)ニ似テ黒シ。果トシテ生ニテモ煮テモ食ス。救荒本草に、根を採り煮熟して之れを食す。粉を製作して之れを食せば人ノ膓胃ヲ厚ス。飢ゑずトイヘリ。三四月苗生ス。旧根カレス慈姑ノ如シ。花ナシ。食物本草に曰く、又一種、野生なるは小にして香る」、人見必大・本朝食鑑・巻之三(153/168)に、「慈姑〈於毛多和(おもだか)と称す。根を白久和井(くわい)と称す〉〔集解〕慈姑、浅水の中に生ず。或は亦之れを種(う)う。三月、苗を生ぜしめ、青茎中空にして稜有り、葉は燕尾箭鏃の如くして前尖り、後へ岐あり。四五月小さな白花を開きて穂を作す。……」とある。クワイの葉が鏃のようであるとの見立てが行われている。
(注3)クワイが美味しいかどうか、好みによるものだから決めつけられない。筆者の個人的な、また、その周辺の人の意見によると、あまり美味しいものとはいえない。金団がいつからあったかは議論を要するが、古くからあったとするなら、サツマイモのない時代、金団にするのに裏ごしして食べたということであろう。栗の部分にクワイまるごとを使うばかりか、餡の部分にもクワイを使った。クチナシの実を使って黄色く染めた理由について、サツマイモに由来するのか、栗色に由来して時代的に先んじて染めていたのか、難しすぎてわからない。
(注4)正倉院文書に、「芋▼(草冠に至)」、「★(草冠に慈)葉」とあり、前者は芋柄、後者はクワイの葉のことかと思われる。関根真隆『奈良朝食生活の研究』(吉川弘文館、昭和44年)に、「芋▼」は、「蔬菜としては低廉であった」(74頁)、「★葉」は、「価格例によれば下等な菜」、「強いて言えばクワイのことか」(63~64頁)とある。それぞれ大日本古文書巻之六、巻之十四(21・22・125/264)に載る。
(注5)クワイは植物学的にはイモではないが、民俗学的には芋であろう。芋として認識されていたであろうという意味である。サトイモに関して民俗学が品種についてあまり考慮しないで語ることについて、植物に詳しい方面から異議が出ており、それはそれで大切なことながら、料理されて御膳の上に載っかって出てきているものについて、どこまでやかましく言えばいいのかわからない。クワイは、精進料理の材料にされ、くわいの蒲焼なるものがあり、うなぎの蒲焼に似せられている。学問としての民俗学ではなく、一般の生活レベルで、くわいの蒲焼のクワイは、同じ泥水の中に棲息するウナギの仲間、魚類である。
(注6)精進(Virya(サンスクリット語))とは、精進をこめて悪心、悪行を抑え、善行を修めることであり、その一つとして美食せずに粗食であること、魚介肉類を食べずに野菜、根菜、海藻などを食べることが勧められた。殺生をしない戒めとは本来は別の考えから来るものらしい。蛋白源として、豆類は貴重であったろうから、精進料理に豆腐のアレンジは欠かせないことになる。可笑記に、「さるおてら(寺)へ参る、和尚引入給ひて、様々の御ちそう、色々の御料理なるに、きじやき(雉焼)のたぬきじる(狸汁)のとどしめく、こはいかなる事にやと、心空にてみれば、さもなき精進物の御菜なり、寺方のれうりだて(料理立)心得あるべし」(『徳川文芸類聚 第二』国書刊行会、昭和45年、69頁)とある。精進料理で擬きの料理は好まれていたらしい。
 なお、頼住光子「仏教における『食』」『第3回国際日本学コンソーシアム』(お茶の水女子大学、2009年)から、殺生を嫌うことと肉食をしないこととは、仏教の元々の考え方としては別の観点であったという基本的な事柄を教えられた。食において最低限という制限を越えた場合、その欲望は煩悩として否定されるべきもので、煩悩は執着であり、執着は修行を妨げる汚れであるとされている。そして、「上座部仏教(いわゆる小乗仏教)を奉じる東南アジア諸国では、現在でも僧侶は供養されたものであれば肉も食べている。肉食を避けるために調理される精進料理も発達していない」(308頁)とある。
(注7)現在、がんもどきとさつま揚げのちょうど中間に当たるかのように、豆腐と魚肉とを使って摺り練り、揚げたものが大手食品メーカーから販売されている。山芋は含まれていない。頃合いの食感に舌鼓を打つことのできる品となっている。

(注8)現在、古い時代のものでは二巻が遺されている餓鬼草紙のうち、東博本は正法念処経を、京博本はそのうえ救抜焔口餓鬼陀羅尼経と盂蘭盆経を典拠としているとされる。
(注9)鳥のさえずりや獣の吠え声を言葉として捉えようとする考え方がある。そこには、“方言”のようなものがあることも指摘されている。筆者は浅学にしてそれらが述語文の変相を構成するものなのかよくわからない。例えば、「敵が来る」、「敵が来る?」、「敵が来る!」という会話が鳥どうしの間で行われているのであろうか。その有無が、マコトとカタコトの違いなのかもしれない。クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った、という場合、その言葉は本当なのか嘘なのか、俄かには定められないところなど、これは確実に“言葉”であると了解できる。枠組(フレーム)を得たとき、言葉たり得るということである。言葉と言葉でないものとの問答としては、崇神紀十年九月条に、「是に、大彦命(おほびこのみこと)異(あやし)びて、童女(わらはめ)に問ひて曰く、「汝(いまし)が言(いひつること)何辞(なにこと)ぞ」といふ。対へて曰く、「言(ものもい)はず。唯歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひて、忽に見えずなりぬ。」とある。
(注10)表音文字とされるアルファベットであっても、言葉が聞き取れないとき、綴りを聞いて理解の助けにすることはよくあることであろう。イギリスのEU離脱を Brexit、そして後悔することを Regrexit と造語して、なにほどかわかった気になっている。日本ではさらに、大後悔時代などと揶揄している。
(注11)餓鬼について論じているが、本稿では本邦における施餓鬼会について詳しく論じることをしていない。お盆の魂祭行事として、民間に根づいている。精霊祭とも呼ばれ、精霊棚を設えて供物をそなえている。仏教では、盂蘭盆経などに目連が母の倒懸(さかさづり)(ウラバンナ)の苦を観て供養したとするのと相似している。けれども、本邦の民間仏教行事としては、お盆とお彼岸ぐらいしか特段視されていないところを見ると、餓鬼道の餓鬼に施すことと荒魂(新魂)に施すということが習合したと考えるのが妥当であろう。枕詞アラタマノから考えると、7月のお盆とは関係がなくお正月にしなくてはおかしいし、上に論じてきた餓鬼とクワイとの関連からも7月にクワイは得られないとも言えようが、7月に食べられないところが餓鬼の飢餓をよく表していると面白がられたのかもしれない。五来重『五来重著作集第八巻 宗教歳時史』法蔵館、2009年参照。
(注12)小田勝『実例詳解 古典文法総覧』和泉書院、2015年、526頁。
(注13)わたくり(大蔵永常・綿圃要務「蒔(まき)たねにする綿(わた)をくりて俵(へう)ニ入(いれ)、貯(たくハ)ふ図(づ)」)「八尾市立歴史民俗資料館 河内木綿の部屋HP」、岡光夫翻刻解題「綿圃要務」『日本農書全集 第十五巻』農山漁村文化協会、1977年、354頁より。
麻引き機械(竹内淳子『草木布Ⅰ』法政大学出版局、1995年、143頁より)
 筆者は、ワタクリに類する“機械”を、古代に求められていない。(“道具”のみである。)。魚などの調理に当たっては、腸(はらわた)の内臓部分を除去し、身だけを食用とすることが多い。今でもサンマをそのまま焼いて食べる時も、腸を食べるのは新鮮な場合に限られるのではなかろうか。身の方が大切にされる。綿の場合、繊維となるからワタをも大切にはするが、実の方も油が採れて重宝されている。その分別を行うのがワタクリという作業と考えられる。クワイは缶詰にあるとおり、「水栗」である。田栗ともいえ、ワタクリとの洒落が考案されたことと思われる。詳細は、本ブログ「三輪山伝説について」を参照されたい。
 クワイのことは、和泉往来・文治二年(1186)点に、「田豆(クワヒ)」ともある。海の中となれば、海はワタである。クワイは淡水にしか育たないが、水栗と海栗(わたくり?)とを掛けているように思われて面白い。海栗、ウニ(雲丹、海胆)は、食べるところがすべて腸(わた)のようである。ウニのことは別名、カセ、ガゼなどという。すべてがガセネタということであろう。身のない生き物にして食べ物である。クワイの場合は、すべてが実ということであろうか。実は実なのだが真実ではなくて、ちょっとえぐい人でなしということであろう。
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餓鬼について 其の二

2016年07月14日 | 論文
(承前)
 ここで、クワイと擬きの料理の関係について検討しなければならないこととなる。たいへん迂遠にして、想像の域を出ない部分もあるが、科学的な実証の不可能な点について、今日、学問とされないために議論どころか思考実験さえされなくなっているので、あえて行うこととする。
 阪本寧男「吹田くわい―半栽培植物の例―」吹田くわい保存会編『吹田くわいの本―なにわの伝統野菜―』(創元社、2010年)に、吹田くわいについての現地調査と比較栽培によって得られた結果の要約が載る。

 (1)吹田くわいは、古い文献にも記載され、人々の関心が高かった。(2)くわいのような栽培植物ではなく、水田雑草のオモダカの一品種である。(3)水田を除草するときには除去しないで、残しておいた。(4)1920年頃までは水田の雑草としてたくさん生えていたが、除草剤を水田に散布するようになってから急速にその姿を消した。(5)稲刈りのすんだあとは、誰でも水田に入ってこの植物の塊茎を掘り取ることができた。(6)高湿田のため、採集には「桶沓(おけぐつ)」をはいて田に入り、「くわい掘り」という専用の道具を用いた。(7)掘り取った塊茎は自家用とともに、仲買人の店にも出荷された。(8)普通の人びとはそこで塊茎を入手し、年末に「鴨(かも)」という藁苞(わらづと)に入れて知人に贈ったが、「芽を吹く」といってお正月のおせち料理の素材にされた。(9)明治時代には、約10石の収穫量があったという記録がある。(10)吹田村御料地の農家は毎年春に京都の御所に献上したが、そのための特別の献上籠があった。(11)京都の市場に出荷されたものは、雛まつりに甘煮にして供えられた。(12)オモダカ、吹田くわいならびにくわいを小さなをポットを用いて比較栽培を行なった結果、オモダカと吹田くわいは花茎を形成し開花・結実したが、くわいは花茎をつけなかった。塊茎の数は、くわいがもっとも多く、吹田くわいがそれに次ぎ、オモダカはもっとも少なかった。また塊茎の大きさおよび重さは、くわいがもっとも大きく、吹田くわいがそれに次ぎ、オモダカはもっとも小さかった。(28~29頁)

 古代に食べていたものが、和名抄に「烏芋」と記されたクログワイであるのなら、カヤツリグサ科のそれは、花茎をつけたのであろう。一方、擬きの料理がどのくらい上代にあったか、定かではない。ただし、料理はすべていつも“実験”的であるから、何があってもおかしくはなく、何を作っても頂ければ幸いなことは確かである。現代、さまざまなレシピによりさまざまに食べられているのと根本的な事情に変わりはない。知恵と技を隠し持っているのが人間である。大きな違いは電子レンジがなかったことぐらいである。擬きの料理のうち“もどき”の呼称として最も広まっているものは、がんもどきであろう。どうして「がんもどき」と呼ぶのかについては諸説あってわからない。雁の肉が蛋白部分と脂部分とに二分されているところと、がんもどきの油で揚げてあって油が沁みているまわりと、なかの淡白部分との対照が似ているからとする説、がんもどきの円盤状の表面に現れる材料の模様が、ガンの渡りに見立てられるからとの説、同じものを指す飛龍子(ひりょうす、ひろうす)には、ポルトガル語で小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子filhósから来たとする説も知られる。喜田川季荘・守貞漫稿・第二十八編(234/333)に、「飛龍子 京坂にて『ひりやうす』、江戸にて『がんもどき』と云。雁戻也。豆腐を崩し水を去り、牛房笹搔、麻の実等を加へ、油揚にしたるを云也。価八文十二文ばかり也。京坂には栗△△△等を加へ精製多し。近年三都ともに細工豆腐なとゝ号け豆腐に種々の製をなす物あり。鰻蒲焼の摸製等は片豆腐に紫海苔を皮とし油を付て焼たる形容真の如く味も亦美也」、醒狂道人何必醇・豆腐百珍(18/44)に、「ヒリヤウヅ 豆腐水をしぼりよくすり葛(くづ)の粉つなぎに入れ、加料(かやく)に皮牛蒡の針・銀杏・木耳(きくらげ)・麻子(をのみ)、又小骰(さい)ものにハやき栗子(くり)か慈姑(くわい)か一品(ひとしな)入るへし。○加料を油ニて炒(ゐり)つけ麻子ハ後に入れとうふに包(つつ)ミ大小宜(よろし)きに随(したが)ひ又油にて煠(あぐる)也。又麪粉(うとんのこ)ころもにかくる尤よし。○ゐり酒ニおろし山葵(わさび)或は白醋(しらす)に山葵(わさび)の針をくか又ハ田楽にして青味曽(あをミそ)に罌粟(けし)をふる。○ヒレウヅ一名を豆腐巻(ケン)ともいふ」とある。
 ところが、そのがんもどきというもの自体、そもそも古くどのような材料からできていたのか、よくわからない。料理秘伝記(1773年頃)には、「雁もどき。豆腐をしぼり、うどん粉を加え磨り、麻の実、牛房せん加えよき程につみ入れ、油にて揚げ申す也。さて揚引いて二ノ汁或は煮物、本汁にも用る也」とあって今日に近いものが感じられるが、遡ると、乾只勝・小倉山飲食集(元禄十四年(1701))(松下幸子・吉川誠次・川上行蔵・山下光雄「古典料理の研究(九)―『小倉山飲食集』について」『千葉大学教育学部紀要』第32巻(第2部)昭和58年)に、「一摺身に山芋入 麻実少入まぜ合 つみ入などにしてかや(榧)の油にてあげ 是を鴈もどきと云ふなり」(234頁)とある。美味しく頂ければ何でも構わないのである。豆腐の加工食品として広まったが、それ以前からあったとするのが妥当である。なにか「摺身」を主原料にして油で揚げたものががんもどき(ひりやうす)であり、その形、食感をもってそう呼んでいたということであろう。小出昌洋編、川上行蔵『完本日本料理事物起源』(岩波書店、2006年)では、「[『小倉山飲食集』の著者、江戸の乾乙右衛門只勝]は当時有名な料理人で……あるいはヒリョウズにヒントを得て魚の摺身に山芋を摺りまぜ油で揚げ、雁肉料理に似せたつもりで雁もどきの名をつけたものかもしれない」(600頁)との「空想」を将来の課題とされている。オーソドックスなお考えである。しかし、豆腐でがんもどき(ひりょうす)を作るという発想は、豆腐自体が多くそうであるように、精進料理に由来するものと思われる。しかも、魚の摺身を使った揚げ物には他に、関東で言うさつま揚げがある。蒸し物には蒲鉾や竹輪、茹で物にははんぺんがある。それとは別してがんもどきがあるのだから、豆腐を使う以前、魚を殺生せずにその擬きの料理をすでに考案していたということではなかろうか。何かを主原料にしながら、山芋で粘度をあげて形を作ったものではないかと筆者は“空想”している。そのとき、それが精進料理として考案されたものであったなら、「摺身」に魚はあり得ない。食感もさつま揚げ風ではなく、今日のがんもどきに近いものであったであろう(注7)
 偽物なのだから、信義に悖るところがある。モトル(悖)はモドル(戻)と同根の語とされる。おそらく、それらの語からモドク(擬)の語も生じてきたのであろう。牴牾、抵牾とも記し、他と張り合って事を行ったり、他のものに似せて作ったりすること、まがえることをいう。がんもどきという食べ物は、何の擬きなのかについても、見ても食べてもよくわからない。とはいえ、雁に似て冬に列島に渡ってくる鳥は、少し小形になる鴨が名高い。雁はなかなか捕まえられず、それに似た鴨を常食として誤魔化している。万葉集の用字に助詞のカモに「鴨」と当てることがある。雁“かも”しれないのが鴨である。本物の雁ではないがんもどきとは、カモかもしれない。カモという助詞の意味が擬きであることを語っている。自己言及的な言葉となっている。同様に、ご飯を食べたくてお腹が空いた空いたと、ガン、ガンと訴えるとしたら、それは節操を欠いた人でなしである。欲望の奴隷と化している。そんな餓鬼には、がんもどきを食べさせて誤魔化しておくのが正解であろう。
かもしれないポスター(駅ポスター)
 すなわち、筆者は、その「摺身」の原料は、クワイではないかと疑っている。林春隆『野菜百珍』(中央公論社(中公文庫)、昭和59年、昭和5年初出)に、「鳥擬 くわいの鴨もどきは、すりくわいに片栗粉少し加え、よく摺り合わせて団子に取り、胡麻の油であげる。これに芹、三ツ葉などあしらい、吸物とする。」(295頁)とある。説文に、「芍 鳧茈也。艸に从ひ勺声」、爾雅・釈草に、「芍 鳧茈」の注に、「下田に生え、苗、龍須に似て細く、根、指の頭の如し。黒色は食す可し。」とある。黒くわいのことを指しており、龍の須(ひげ)がどのようなものか定かではないが、オモダカ科の葉は、ハスのように丸くはなく、三角形に尖った形をしている。葉の付き方は里芋のように葉柄から垂れるのではなく、登るようである。(注2)の大和本草にも、クワイの葉を龍の鬚のようであるとある。秋遅くから春先にかけて、渡り鳥が越冬で羽を休めている田の中に、塊根が残っていて取り出すとなれば、夏場に龍が荒れ狂って雨を降らせたときの名残りの子どもであると感じたとしても不思議ではない。本草名に「鳧茈」とあるところは、がんもどきのガン(雁・鴈)に似る渡り鳥がカモ(鴨・鳧)であるということであろう。吹田くわいの史料には、贈答用の藁苞になぜか鴨形のものが使われている。がんもどきの原料としていた時代の記憶の残滓が刻まれているように感じられる。
吹田くわい関連具(吹田くわい保存会編、前掲書、口絵ⅵ頁より。)
 このように仮定を積み重ねていくと、くわいが擬きの食べ物の素材とされたらしく思われる。上述のとおり、餓鬼とくわい(塊茎)との間に形の相似を捉えた。と同時に、くわいが擬きの食べ物となるということは、くわいとは擬きなのだと納得することができる。すなわち、餓鬼とは、“人間擬き”なのである。パーリ語の preta とは、「人らしさを失ったもの」「人(ひと)でなし」の状態である。当然、その姿は鳥獣(畜生)ではなく、人間の形をしているが、人の心を失った存在である。彫像やご遺体が問題なのではなく、動物として生きているホモ・サピエンスであってヒト(人)と見紛うばかりであるけれど、中身が違う、原料が違う、心を失っているということを言いたい。食べ物としては、同じ水田に育ちながら、ご飯(ガン)ではなくてがん擬きになるのがクワイである。クワイの葉っぱは、葉柄から立ち上り三角張って「人」の字のような形をしている。その形が面白がられて、沢瀉紋が作られ好まれている。その地上の穀類ではなく、地中の塊茎を「摺身」にして食べ物を拵えた、それががんもどきなのではないだろうか。
沢瀉図柄鏡(「天下一服□藤重吉」銘、青銅製、江戸時代、17世紀、国学院大学博物館展示品、服部和彦氏寄贈)
 内実を伴わないが見た目や味付けは同じなものが、クワイを材料に精進料理にこしらえた鰻の蒲焼ということであろう。上述の守貞漫稿に、「鰻蒲焼の摸製等」を豆腐と海苔で作っていたとある。豆腐を使う以前には、クワイの摺身を使ったのではないか。鰻を食べていたとする文献初出は万葉集である。

  痩せたる人を嗤咲(わら)へる歌二首
 石麿(いはまろ)に 吾(われ)物申す 夏痩せに よしといふものそ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ〔売世(めせ)の反なり〕(万3853)
 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を取ると 河に流るな(万3854)
  右は、吉田連老といへるもの有り。字を石麿と曰ふ。所謂、仁敬(にんきゃう)の子なり。其の老、為人(ひととなり)身体(み)甚(いた)く痩せたり。多く喫飲すれども、形、飢饉に似たり。此に因りて大伴宿禰家持の、聊かに斯の歌を作りて、戯れ咲(わら)ふことを為せり。

 続いて鰻の蒲焼とその擬き料理について考えなければならなくなっている。
 花咲一男『川柳うなぎの蒲焼』(太平書屋、平成3年)に、次のような例があげられている。

 「山の芋が鰻になる」(天地自然の妙は人知ではかり難いこと、物事の突然の変化の意)という俚諺の伝わることは古く、すでに狂言の「成上者」にも見える所であるが、『松屋筆記』第三巻には、永正九年(一五一二)成立の『体源抄』に、『日蓮本尊供養御書』の中に、この俚諺が引用されていることが見える。
  半分ハうなぎになつてもの思ひ(川評宝八松)……
 この句、この俚諺を詠んだのではあるまいか。
  月令に芋が鰻の事やある(柳樽五十一7ウ)
  うなぎやへのろりと化て山の芋(柳樽九十二18ウ)
  山のいも化して鰻を喰に来る(柳樽七十五4ウ)……
  八ッ目鰻に化シそうな八ッがしら(柳樽百二十四81ウ)
 「花の雲鐘ハ上野の谷中門から、日ぐらしの里にかゝり、茶屋が床几で一盃のミかけ、帰りに茶代を払ながら「この山の芋の田楽ハなんぼじや」「アイ一串六銭でござります」「ハテ安いもの」亭主「それでも、鰻鱺(うなぎ)になると十二銭でござります」(天明『うぐひす笛』日暮の里)(121~123頁)

 花咲先生は、鰻の蒲焼の擬き料理を山の芋で作ってきたことを考えから外されているようである。確かに、五十年、百年の法事は目出度いからと生臭物を禁じないところがある。精進料理の山芋に代わって、本物の鰻の蒲焼が振る舞われることがある。したがって、俚諺から捩られた川柳であると解釈されている。けれども、山の芋と鰻の蒲焼とのつながりは、長細い形状のつながりだけとは考えにくい。山の芋を使った擬きの料理があったればこその面白味が、俚諺そのものにも備わっていたのではないかと考える。
 鰻料理の古記録としては、次のようなものがある。

 上座敷十四人朝振舞、汁……鱣(うなぎ)かは焼・鮒すし・かまぼこ・香物・肴種々台物五つ(鈴鹿家記・応永六年(1399)六月十日条)
 宇治丸 かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也(大草家料理書(16~17世紀))

 「宇治丸」とは、ウナギの寿司や蒲焼、ウナギそのものの別称ともなっていたという。鰻の産地として宇治川が有名で名物であったともされる。いかにもという名称である。万葉集の3853番歌に、人名が「石麿」とあったのは、何か関係があるかも知れない。ウヂは地名でもあろうが、氏のこととも思える。マルは、昔は鰻を割かずに、丸のまま串刺しして焼いたからと考えられている。と同時に、マルは、麿・麻呂、立派な男子の呼び名である。つまり、氏素性のはっきりした良い所のご主人様という名に聞こえる。桶に入って捏ねくり回っている鰻の形態は、夫婦和合を表すとされている。その様子は、虚空蔵菩薩の使者、化身、乗物とされており、京都の三嶋神社や虚空蔵菩薩を祀る寺院や本地とする神社では、鰻を禁食にする信仰も行われている。虚空蔵菩薩は、虚空のように無限の慈悲を表す菩薩であるという。歌の左注に、「所謂仁敬之子也」とある点は、話が勘案された結果であろう。殺生をしない人という意味である。他方、くわいの漢名、慈姑は、慈悲ある姑と記されている。関連を推測させる字面である。上代の知識人がどこまで意識していたか、また、くわいを使って鰻の蒲焼擬きの料理を通例として作っていたか、残念ながら証拠を見つけることはできない。それでも、「宇治丸」などという呼び名を付けるということは、反対に、紛い物の鰻があったということを示唆してくれている。すなわち、擬きの料理の鰻の蒲焼があったということである。
 丸のままの串焼きには、別に蒲鉾があった。

 かまぼこハなまず本也、蒲のほこに、にせたる物なり(大草家料理書(16~17世紀))

 ナマズを摺身にして竹串に回し塗りつけた竹輪やきりたんぽ様のものが、蒲鉾の原形であった。これをがんもどきのように“もどき”という名にしない語学的意味合いは、原材料が魚肉だからであろう。精進料理ではない。カバヤキを蒲焼、カマボコを蒲鉾と書くが、蒲の穂のような形に由来するのではないかと説かれている。カバ、カマ、ガマと音に揺れがある点について、不明と言わざるを得ないが、蒲焼をカマヤキと言えば、釜焼なる料理が連想され、植物のガマの古音はカマと清音であった。
蒲の穂(府中市にて)
 さて、餓鬼については、仏典中、preta を餓鬼と呼ぶ近所に、「鬼」とだけ記す個所もある。妙法蓮華経・譬喩品に、「……復有諸鬼 其身長大 裸形黒痩 常住其中 発大悪声 叫呼求食 復有諸鬼 其咽如針 復有諸鬼 首如牛頭 或食人肉 或復噉狗 頭髪蓬乱 残害凶険 飢渇所逼 叫喚馳走 夜叉餓鬼 諸悪鳥獣 飢急四向 窺看窓牖……」とある。鬼を訓でオニというのは、「隠」の字音 on に読みやすいように i をつけて oni としたからとされている。銭が zeni 、盆が boni というのと同様である。鬼はどこに隠れているか。人の身近にいる。京博本の餓鬼草紙にも、人のそばにいながら誰も気づかない様子が描かれている(注8)。上に仮説として餓鬼とクワイとの関連を見たが、クワイは田圃の泥の中にある。クワイの塊茎は泥田から採取される。あるいはお正月に縁起物として食べたくわいの煮含めは、芽が出て目出度いから食べたというばかりではなく、人のなかに隠れている鬼性を封じ込める意味で食べたものかもしれない。淵源を短絡的な合理性から理解しようとすることは、かえって民俗の風習を知ることから離れてしまう。
餓鬼(京博本・餓鬼草紙より)
 くわいの金団が喉に詰まるのは、喉が針のように狭いからである。ガンやカモの喉首は細く狭い。餓鬼のキ音は、カキ(垣・籬)ばかりか、キ(酒)に同じく甲類であると考えることができた。餓鬼の正体としては、キ(酒)に飢えている禁断症状なのであろうか。あるいは、飲酒後、何杯水を飲んでもなかなか喉の渇きが癒されないことでもよくわかる。そうやって、餓鬼という言葉がヤマトコトバとして人々に了解されたのである。そうでなければ、早い時期に国語化されて万葉集に登場することなどなかったと想定される。了解され合わない言葉とは、マコト(真言・誠)ではなくカタコト(片言)であり、それは言葉とは言い難い(注9)。字音をもって了解されるためには、字が読めなければならない。今、発音だけでわからない術語を聞かされた時、どういう字を書くのですかと確かめることがある。漢字のように表意性を重く備えているとなおさらである。文字によって理解の助けにできるのである(注10)。共通認識として文字が使われるようになるには、上代後半、律令や続日本紀の時代まで俟つことになるであろう。
 「餓鬼」という語を、比喩表現として子どもになずらえた理由は、無財餓鬼との関係で言われたとされているが、上代に行われていたかわからない。ご飯ご飯と言ってがつがつ食べたがる子どもの譬えとして用いたかどうか、文献上の用例が見られない。今日でもあまり印象の良くない言葉である。上代にあったとして口の悪い人たちによって使われた口語の俗語表現であろう。聖徳太子がませた餓鬼に譬えられていたとする考えを、本ブログ「厩戸皇子の『戸』の秘密」ですでに論じた。証拠はないが、力強い傍証は2つある。第一に、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第四に、「母は小腕(こがひな)引つ立てて、エヽ卑怯(ひけふ)なの、人やら水やら知れもせぬおなかな餓鬼めがそほどに惜しいか、餓鬼めが父(てて)に名残(なごり)が惜しいか。忽(たちま)ち親が迷惑するが、親が大事か、子が大事か。夫がかはいか、親がかはいか、ちつと世上も思へかし。鰓骨(ゑらぼね)をわつてなりとも、飲まさにやおかぬと責めけるは、地獄(ぢごく)の呵責(かしやく)もかくならん。」とある。この例は、ひょっとすると、巷間に厩戸皇子のことを「餓鬼」と呼んでいた伝承が反映されているのかもしれない。第二に、俗語をよく伝える日葡辞書に、「Gaqi.ガキ(餓鬼) ゼンチョ(gentios 異教徒)の説によれば,インヘルノ(Inferno 地獄)にいるという飢えた亡霊.¶また,比喩.飢えて痩せこけ,やつれて色青ざめた人.¶また,人を叱り,けなす言葉.例,Ano gaqimega.(あの餓鬼めが)あのみじめで不仕合せな奴が,とか,飢えた奴が,などの意.」(土田忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年、292頁)とある。「青ざめた人」という形容が、厩戸皇子について、「更(また)は名(なづ)けて豊耳聡聖徳(とよみみとしゃうとこ)といふ」(用明紀元年正月条)と綽名されたことと通じている。この箇所は、「豊聡耳(とよとみみ)」の誤写という説が根強い。しかし、伝本はどの写本にもそのようにあって確かである。本ブログ「聖徳太子の名前」で論じたように、トヨミミトとは、トヨミ(響)+ミト(水門)の意で、ミトサギが鳴いていること、今いうアオサギ(青鷺)のことである。厩戸皇子の特徴の一つは、ザビエル形のてっぺん禿であった点、第二は、顔色が青白い人であった点、また、沈思黙考する人であった点が押さえられている。青鷺と綽名されるほど青いから、ませた餓鬼と呼んで何ら違和感がないということであろう。
てっぺん禿のアオサギ(井の頭自然文化園にて)
(つづく)
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餓鬼について 其の一

2016年07月07日 | 論文
 餓鬼(がき)という語が万葉集にも見える。関連個所を原文についてもあげる。

 相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後(しりへ)に 額(ぬか)づくがごと(万608)
  池田朝臣の大神朝臣奥守を嗤(わら)へる歌一首〔池田朝臣の名は忘失せり〕
 寺寺の 女餓鬼(めがき)申(まを)さく 大神(おほみわ)の 男餓鬼(をがき)賜(たば)りて その子はらまむ(万3840)
  大神朝臣奥守の報へ嗤ふ歌一首
 仏造る 真朱(まそ)足らずは 水たまる 池田の朝臣が 鼻の上を掘れ(万3841)

 不相念 人乎思者 大寺之 餓鬼之後尓 額衝如(608)
  池田朝臣嗤大神朝臣奥守歌一首〈池田朝臣名忘失也〉
 寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播(3840)
  大神朝臣奥守報嗤歌一首
 佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼(3841)

 万608番歌について、佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』(岩波書店(岩波文庫)、2013年)に、「思ってもくれない人を恋い慕うのは、大寺の餓鬼像のおしりにぬかずき拝むような馬鹿馬鹿しいことです。▽『餓鬼』は仏教語。ここは、餓鬼道に落ちた亡者の痩せこけた像を言う。『額つく』は『叩頭(こうとう)』。地に額を突き当てる拝み方。この頃の『大寺』は、大安寺・薬師寺元興寺・興福寺の四寺が当たる。」(381頁)とある。また、万3840・3841番歌について、同『万葉集(五)』(同、2014年)に、「◆池田朝臣が大神朝臣奥守をからかった歌一首〈池田朝臣の名は失念した〉寺々の女餓鬼が願い申すには、大神の男餓鬼を賜わってその子を宿したいと。▽『寺々』とは、七大寺などの諸寺を念頭に置くのであろう。痩せている大神奥守を『男餓鬼』と戯れた。大神奥守は天平宝字八年に正六位下より従五位下になった官人。池田朝臣は未詳。『餓鬼』に男女の別があったこと、『餓鬼女』(四分律二十三)、『餓鬼男』(四分律十一)と見える。結句の『はらまむ』の諸本の原文は『将播』、訓は『はらまむ』。『播』は『懐』の誤りか。『懐 ハラム』(名義抄)」(289頁)とある。3840番歌の結句「其子将播」については定訓を得ていない。
 餓鬼という語について、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)の語釈として、「①貪欲の報いで飢渇に苦しむ亡者。……②餓鬼道。……③人を卑しめて言う語。……④特に子供を卑しめていう語。」(312~313頁)の4つがあげられている。上の万葉集の例では、寺院に彫像されていたものを指して言っているとされている。契沖・万葉代匠記(53/59)に、「昔ハ伽藍とある所にハ慳貪の悪報を志めさん為に餓鬼をつくりおけるなるへし」などとある。今日、どこの寺院に餓鬼の像があるのか、管見ならなのか知らない。四天王像の足の下に這いつくばっているのは邪鬼であって餓鬼ではない。後述する。
餓鬼(小松茂美編『日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、昭和62年、6頁より)
 三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「がき【餓鬼】(名) 餓鬼道に落ちた亡者。逝去者・父祖の意を持つ梵語を意訳した字音語で、それがそのまま日本語の中に取り入れられた。貪慾の報いとして飢渇に苦しむもので、寺には貪慾の戒めとして餓鬼の像が置かれていた」、「【考】餓鬼については、楞厳経・正法念経・法華経功徳品などに記述がある。「『鬼』の字は字音としてはいわゆる合拗音となる文字である。和名抄で和名をガキとしている点からみて、かなり早い時期に国語化したと考えられる。キの甲乙については、韻鏡で同じ第一〇転三等の『尾・斐』は乙類の仮名に用いられ、同転中にはこのほかに『非・肥・微・未・帰・貴』など乙類仮名として用いられる文字が多数含まれている点からみれば、これも乙類であったといえよう」(176頁)とある。上代におけるガキのキ音について、積極的な判断が行われている。仮名書きの例は見られないから、甲乙の判断は簡単にはできない。ヤマトコトバのガキを、字音そのままの訳と捉えると、なぜ「かなり早い時期に」字音により国語となった例が「双六(すぐろく)」、「壇檀(だにをち)」など、とても限られているのか、説明できないことにつながる。特殊な扱いを受けた語の特殊化の法則について、考慮されていない点が気になる。
 二十巻本和名抄に、「餓鬼 孫愐切韻に云はく、餓鬼は鬼也、餓は五箇反といふ。訓みは飢と同じ。久しく飢ゆる也。内典に云はく、餓鬼〈和名、加岐(がき)〉は其の喉、針の如くして水を飲み得ず。水を見れば則ち変りて火と成るといふ」とある。和名抄は源順によって成ったもので、平安時代にはキの甲乙は失われているから手掛かりにならない。ただ、「餓鬼」の「餓」のみ反切を記し、「鬼」の方は記さない。「鬼」の字音をそのままヤマトコトバとした訳ではないことを示唆するものかもしれない。何か裏がありそうな記述である。名義抄に、「鬼 谷[俗]今正、居委反、オニ 禾[和]ク井」とある。和音にクヰであるということである。キ(乙類)と一音化することに、名義抄段階でもためらいがあるらしい。上代に、「餓鬼」は確かにガキであってガクヰではないが、「鬼」の音がクヰということだから、「餓鬼」の「鬼」が字音の合拗音の訛りのままではないと考えた方が良さそうである。
観智院本名義抄
 康煕字典に、「唐韻・集韻・韻会」を引き、「鬼」は「从居偉切。音詭。」とある。「詭」は、過委切である。ヤマトコトバに直すと、「過」は「過所」をクワソ、「悔過」をケクワと言ったようにクワの音、「委」はヰの音である。つまり、クワヰである。この音をヤマトコトバに一音でキ(乙類)としたと決めつけるのは早計であろう。なにしろ、そういうものが本邦にある。「くわゐ(慈姑)」はお正月に煮含められて下の方の重箱に入っている。くわい煮である。芽が出ているから目出度いという意味や、世間で芽が出るようにという願いが込められているらしい。芽の部分を損じないように料理しなければならない。丸く横に皮を剥くのではなく、縦に六角形に剥くと長寿を表す亀甲模様になり、しかも芽を損じにくい。くわいの煮物の様は、腹が膨らんでいて、芽に当たる部分は胴首と捉えることができる。餓鬼のイメージにそのままである。
クワイ(「越谷っ子」サイト様より。埼玉県はクワイの生産が盛んであり、本稿においても、埼玉県農林部経営普及課編『クワイの史料とその栽培』同発行、昭和62年を参考とした。)
クワイ(神代植物公園にて)
サトイモ(世田谷区にて)
 和名抄に、「烏芋 蘓敬本草注に云はく、烏芋〈久和為(くわゐ)〉は水中に生え、沢舄の類也といふ」とある。クログワイ(黒慈姑)のことを指すとされるが、細かな種の同定は他の植物同様むずかしい。とりわけクワイの類については、江戸時代まで多くの混同が見られる。いかなる種かはともかく、奈良時代には存在が知られていたから、平安初期の字書に載っているという。紀元前1000年頃の縄文時代の亀ヶ岡遺跡から、クログワイを収めた土器が見つかっているという。本草和名には、「烏芋 一名籍姑。一名水☆(サンズイに芋)。鳧茨。〈仁諝音に上、府。下、在此反。陶景注に出づ。〉一名槎牙。〈仁諝音に錫加反。〉一名茨菰、〈沢潟の類也。已上蘇敬注に出づ。〉烏茈。〈崔禹に出づ。〉一名水芋。〈兼名苑に出づ。〉一名王銀。〈雑要訣に出づ。〉和名、於毛多加(おもだか)。一名久呂久和為(くろくわゐ)。」とある。大陸伝来か、本邦に自生していたか、わからない。オモダカ科の植物で、生物学的にはサトイモ(注1)の親戚ではない。多少のえぐみがある。クログワイ、クワイ(普通くわい)、スイタクワイ(吹田くわい、豆くわい、姫くわい)と品種は限られる。クログアイはカヤツリグサ科であるという。中華料理の具材とされるものは water chestnut の名で缶詰で売られている。スライスして炒め物などに用いられる。スイタグワイは、二期作でイネの後に塊茎を植えて正月前には収穫できる。田圃に雑草のように勝手に生えているものを放っておき、取って食べることもあった。春に種子を播いて育てることもできる。イネの雑草だからと安易に抜かなかったのは、救荒植物にもなったためであろう(注2)
クワイの缶詰(原材料名にオオクログワイ、原産国タイ国とある。)
 万葉集に、「ゑぐ」とあるのはクログワイのことではないかとされている。味にえぐみを感じて言葉になっているらしい。仮にそうであるとするなら、もともとヱグと呼ばれていた植物が、クワヰへと名称変更したことになる。クワヰという語は、和訓の類なのかもしれない。ヤマトコトバに不思議な発音である。歌はともに女性の詠んだ歌で、用字に「採」が用いられている。地中の芋状のものを掘り取ることに、ツムというヤマトコトバを嵌めることに違和感を覚える。ここでは一般的な訓のとおりあげておく。

 君がため 山田の沢に ゑぐ(恵具)採(つ)むと 雪消(ゆきげ)の水に 裳の裾濡れぬ(万1839)
 あしひきの 山沢ゑぐ(佪具)を 採みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責めても(万2760)

 餓鬼の「餓」の字は、飢えてひもじい意である。「ひもじい」という言葉は、ヒ+モジ(文字)+イ(形容詞語尾)の構成である。もとは、「ひだるし」という語であった。ヒダルシは、おそらく、ヒダリ(左)に関係のある語であろう。ヒダリという語は、大工や石工が左手に鑿を持って仕事をするところから、「呑み」にかけて酒のことや酒を呑むこと、左党のことをいう。名詞「鑿」と動詞「呑む」に関連があろうことは、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年、600頁)に指摘されている。数ある欲望のなかでも、食欲や性欲は動物であるから当然存在し、程度の差の範囲内であるうちはいいものの、異常な食欲(過食、拒食)、異常な性欲というのも起こる。また、麻薬や覚醒剤、ギャンブル、煙草とならび、飲酒したがる欲求は、他の動物にはほぼ存せず人間に特有で、しかも常習性があって中毒になりやすい。アル中は手が付けられない。そうなると、料理が主ではなく、酒が主となり、何でもいいからアテがあればいいだけになる。
 落語・百川に、くわい(慈姑)の金団(きんとん)(注3)の話が出てくる。この、くわいの金団という慣用句は、理解できないことをいう。栗の代わりにクワイで金団を作ると、見かけは似ているが呑み込むには大きすぎる。くわいの金団という言葉は、そこから、事情を呑み込めず、納得できない事柄を譬えるのに用いられている。つまり、クワイは喉にとっては通せんぼをする埒に似ている。埒が開かないことを、くわいの金団と言っている。喉を通りにくいのは、餓鬼に同じである。二十巻本和名抄に、仏典のとおり、「其の喉、針の如くして」とあった。くわいの金団で溜飲を下げることは難しい。人見必大・本朝食鑑・巻三(53/67)に、「慈姑 ……煮熟して食すれば則ち麻渋して人の咽(のど)に戟せず」、寺島良安・和漢三才図会・巻第九十一(563/921)に、「慈姑 ……灰(あく)湯を須(もつ)て煮熟し皮を去りて食はば乃ち麻渋、人の咽を戟せざる也。嫩茎も亦煠(ゆ)でて食ふ可し」とあり、クワイと喉との関係は、そのえぐみにもよるらしい。餓鬼的になったとき、食べようと焦るが、シュウ酸を抜くために十分な調理が求められる。まったくひだるい限りである。狭いところにつかえてしまって入って行かない、ないし、出ても来れないものこそ、厩におけるマセ・マセボウ・マセガキに相当する。狭いところ、マ(間)+セ(狭)だから、ちょっとしたことでつかえてしまう。ノド(喉)とは、ノミ(呑)+ト(戸・門)の訳である。さらに餓鬼的な呑みこみたい欲求の対象、酒は、古語にキ(甲類)である。本ブログ「厩戸皇子の『戸』の秘密」で触れたように、八岐大蛇退治の話では、蟒蛇(うわばみ)のような酒呑みを演じ、コ(甲類、児)を呑もうとしてト(甲類、戸)というにはお粗末なコ(甲類、籠)に当たって、キ(甲類、酒)を呑んで酔っ払って眠りこけ斬られてしまった。出入口が狭くなっているから1~数本のマセ棒という単純なカキ(キは甲類、籬・垣)で十分であった。そして、酒を呑んだ後は、無性に水が欲しくなる。水を求めるも火となって消えていく様子は仏典に見られる。
左:クワイ、右:ヤツガシラ(岩崎灌園『本草図譜』同朋舎、1981年(影印本)より)
 八岐大蛇の話になぜくわいが関連するかと言えば、話の設定が、くわい(慈姑)v.s. やつがしら(八頭)の芋対決(注4)だからであろう。八岐大蛇的な芋はヤツガシラである。素戔嗚尊的な芋はクワイである。新年の賀を祝うために煮含める。ガ(賀)+クワヰ(慈姑)、つまり、餓鬼である。年が改まるから、年に冠する枕詞はアラタマノである。慈姑とは、丸っこい玉のようなものでありながら芽角が出ており、「荒魂(あらたま)」に当たり、ガクワヰこそ荒魂にふさわしい。まるで如意宝珠のような形をしている。「荒魂(あらみたま)は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」(神功前紀仲哀九年九月条)とある。出ている芽角を敵に見せつけるのである。
 他方、対になる「和魂(にきたま)」は里芋のうちでもヤツガシラのことをいうのであろう。茎はずいきとしてもよく食べられる。他のサトイモやクワイの茎も食べたのであろう(注5)が、最も太いものはヤツガシラであり、ずいき芋とも称される。ズイキ(随喜)とは法華経のキーワードである。良いことを見て、喜びの心が芽生えること、それが世界にどんどん広がっていくことである。妙法蓮華経・随喜功徳品に、「……阿逸多。如来滅後。若比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。及餘智者。若長若幼。聞是経随喜已。従法会出。至於餘処。若在僧坊。若空閑地。若城邑巷陌。聚落田里。如其所聞。為父母宗親。善友知識。随力演説。是諸人等。聞已随喜。復行転教。餘人聞已。亦随喜転教。如是展転。至第五十。阿逸多。其第五十。善男子善女人。隨喜功徳。我今説之。汝当善聴。……」とある。ヤツガシラは、親イモと子イモが合体して、怪獣のようななりをしている。丸い親芋に同じぐらい大きい子芋がくっついて団塊となっている。末広がりの「八」字と、子孫繁栄を表す「頭」字を使って書き表し、親子がくっついているから家庭円満も表す。御目出度いからお正月料理とされる。かたまりのままかぶりつく風習のあるところもある。カシライモといい、人の頭(かしら)になるほど出世して欲しいとの願いが込められているとも言われている。
ヤツガシラ剥製(国立科学博物館展示品)
 また、同名の鳥に、漢名、「載勝」(史記・司馬相如列伝)がある。ブッポウソウ目ヤツガシラ科の鳥で、列島には旅鳥として見られる。神功前紀同上条に、「和魂(にきみたま)は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ」とある。船に載せて新羅親征を試みたということであろう。鳥の漢名でも縁起がいい。「『王身』の古訓ミツイデのミは、敬称の接頭語。ツイデは、序の意であろうが、王身を、何故ミツイデと訓むのか不明」(岩波書店の大系本日本書紀頭注(ワイド版岩波文庫(二)149頁))とされている。小学館の新編全集本日本書紀①頭注には、「『大御身(おほみみ)』の意。古訓ミツイテ。ミは敬語。ツイテ(継手)で、皇位の継承者の意か。ここは神功皇后」(426頁)と誤解されており、本文「王身」に「おほみみ」と振られている。親イモから子イモへと接(継)いでいるからミツイデなのであるし、神功皇后の新羅親征の話では、お腹の中に後に応神天皇となる赤子を宿しながら鎮懐石を当てて生まれないようにしていた。「王身」は次の天皇を身籠っている。親イモ子イモの合体物を表す言葉がミツイデである。その姿をよく具体化しているのが、芋のヤツガシラである。
 上宮聖徳法王帝説に所載の法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の注に、

 鬼前大后(かむさきのおほきさき)は、即ち聖王(ひじりのみこ)の母、穴太部間人王(あなほべのはしひとのひめみこ)そ。鬼前と云ふは此れ神(かむ)そ。何が故に神前皇后(かむさきのおほきさき)と言ふとならば、此の皇后の同母弟(いろど)、長谷部天皇(はつせべのすめらみこと)、石寸(いはれ)の神前宮(かむさきのみや)に天下(あめのした)治しめしき。若し疑ふらくは、其の姉、穴太部王(あなほべのひめみこ)、即ち其の宮に坐(ま)す故に、神前皇后と称(い)ひしか。(鬼前大后者、即聖王母、穴太部間人王也。云鬼前者、此神也。何故言神前皇后者、此皇后同母弟、長谷部天皇、石寸神前宮治天下。若疑其姉、穴太部王、即其宮坐故称神前皇后也。)

とある。東野治之『上宮聖徳法王帝説』(岩波書店(岩波文庫)、2013年)に次のように注されている。

 鬼前と云うは此れ神也 「神」の下、あるいは「前」脱か。鬼前をカムサキと読み、穴太部間人皇后は、同母弟崇峻天皇の石寸神前宮に居たので鬼前大后と言うとの解釈。証注[狩谷▲(手偏に夜)斎『上宮聖徳法王帝説証注』]が詳しく述べたように、石寸の「寸」は古代しばしば用いられた「村」の省画文字で、石寸はイワレ。……ただ、石寸神前宮は史料に全く見えず、ここの解釈は疑わしい。「干食王后」と同様、文字に即さない特殊な表記の可能性が高いであろう。鬼は死者の霊魂があるから、あるいはその前に奉仕する泥部(ハシヒト、土師)を、鬼前で表記したか。(55頁)

 解釈に難渋されている。「鬼前」≒「神前」でカムサキと訓むというのは、かなり正しいと筆者は考える。ヤマトコトバ的な反切を表記している。いちばん上の音と一番下の音を合体させて途中を飛ばし、カキと言っている。「石寸神前宮」とは、イハレのカキミヤである。崇峻天皇が都したのは、「倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)」(崇峻記)である。倉椅は紀に「倉梯」とある奈良県桜井市倉橋は、「磐余(いはれ)」の地にある。つまり、「石寸」は磐余、「神前宮」は垣宮のこと、磐余に垣根を廻らせた宮を作ったということである。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後、須賀に八重垣を廻らせて宮を作ったのにとてもよく似ている。崇神天皇代に、磯城瑞籬宮(師木水垣宮)、垂仁天皇代に、師木玉垣宮があった。上代の人は、言い伝えを準える形で生きていた。文字を持たない時代の生活の知恵の特徴である。
 垣根にはいろいろな形態がある。額田巌『垣根』(法政大学出版局、1984年)に、次のようにある。

 垣のうちで、もっとも永い歴史をもっているのは柴垣であろう。柴粗朶(しばそだ)(樹木の枝など)や萩を集めて、それを立てならべたもっとも素朴な垣である。これには二つの種類がある。一つは、……柴を単に立てならべただけのものであり、いま一つが柴を二列にして、少々離れたところからお互いを斜めにして、上部で交叉させたもの……である。柴垣は比較的身分の低い人の居宅の垣に用いられたようである。これは家を防禦するのが目的ではなく、風をさえぎるとか、目かくしにする程度であった。「垣のぞき」は古い時代の一つの風習であったという。(76~77頁)
柴垣(小松茂美編『一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、113頁より)
 では、「神前」と「鬼前」がまったく同じかと言うと、少し違うらしい。「鬼前」は、ガムサキと訓み、反切だからガキ、餓鬼のことであろう。前(さき、キは甲類)とあるからには、餓鬼のキは甲類であることが確かめられる。「云鬼前者、此神也。」部分、「神」字の下に「前」字の脱落はない。ガムサキトイフハコレカムソ。反切で読めば、ガキトイフハコレカムソ。餓鬼というのは神の一種である、ということである。その場合、カミ(神、ミは乙類)ではなく、カム(神)と訛るところが、垣(かき、キは甲類)が餓鬼(がき、キは甲類)と濁ることを示しつつ、カム(噛・醸)ことによって醗酵醸造を促して酒を造ったことを含意している。「醸(か)みし御酒(みき)」(応神記)、「此の御酒を 醸みけむ人は」(神功紀十三年二月条・仲哀記)とある。八岐大蛇に酒を呑ませるためには、準備段階にカムことが必要であった。その差配を、垣ならぬ餓鬼が行った。脚摩乳・手摩乳は、男餓鬼・女餓鬼に当たるのであろうか。真ん中に奇稲田姫がいるということは、田圃の光景として、稲が中央に、クワイやクログワイがその周りに生えていたということから連想された説話かもしれない。そうであると言えそうなのは、発語の失敗をカム(噛)というからである。言葉自体がエッシャーの絵のように循環して説明されている。説話という揺り籠のなかで育てられている。
エッシャー「言葉(地、空、水)」(Julius Wiedemann 編・Michihiro Sato 訳『M.C.エッシャー』2006年、58頁より)
 鬼と神との違いとは、食品の姿かたちの違いでもある。クワイは確かに縁起物でおせち料理にそのままの形で登場する。けれども、くわいの金団のように、その餡の部分に裏ごしされたものとしても登場する。そして、おそらくかなり早い段階から、寺院での精進料理(注5)の主材料にクワイは用いられ、「摺身」にして擬(もど)きの料理としてもこしらえられたのであろう。噛むよりも前(さき)に摺られており、咀嚼に手間取ることはない。「噛(か)む前(さき)」とは口が空足を踏むようなこと、よって、ガキと言ったのであろう。
(つづく)
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クワヰの研究をしています

2016年07月01日 | 無題
クワイ(神代植物公園にて)
サトイモ(江戸東京たてもの園にて)
 クワイについて調べています。詳細はいずれご報告できれば幸いです。私は、クワイは季節物だから、6月に調べることは愚かであると思っていました。ところが、上のサトイモの写真(葉っぱの形が下のドクダミと変わらないので面白かった。)を撮影している時に、とても親切な方に恵まれました。
 クワイを調べているけれどわからないんですよ……、小さなイモから二期作もできるし種からも育てられて……、田圃の雑草だけど抜かないでおいて……、里芋の仲間ではなくてオモダカの類というんです……、オモダカっていうのは家紋の沢潟で、よっ澤瀉屋って奴です……、おせち料理では芽が出てるから目出度いとか……、野生種でも栽培種でもなくて半栽培植物だっていうんです……、などとぼやいていると、
 とても流暢な native ではないかと思われる英語で、それは water chestnut のことではないのですか、と教えていただきました。hearing ができませんから spell を伺って書きとめました。親切な方は、おせちのくわいの煮含めのことではなく、中華料理を America で食べていた時、炒め物のなかにシャリシャリとした食感のものがあり、缶詰で売られているのを slice して具材にしているのがそれではないか、とのことでした。
 私のようなヤマトのことしかわからず、外国と言えば隋・唐、百済、新羅、高句麗(あとは天竺)しか知らない者にとって、international なご指摘は恐れ入ります。シログワイ(イヌクログワイ(カヤツリグサ科))が缶詰で輸入されていることを知りました。突破口が見つかりました。ありがとうございました。
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厩戸皇子の「戸」の秘密 其の三

2016年06月22日 | 論文
(承前)
(注1)
藤田嗣治「聖誕 於巴里」(油彩、カンヴァス、1918年、松岡美術館展示品)
 石井、同書に、「その[物部守屋と蘇我馬子の]争いに関する記述が、中国文献の表現を多く用いて潤色されていることは事実ですが、大幅に潤色されているからといって、すべて机上の作文であってその元となる史実など無かったと説くのは、古代における史書の書き方を無視した議論です」(84~85頁)と批判されている。厩戸皇子が誕生した際の記述も、仏伝によって潤色されて厩の戸のところで出産したということに落ち着いたとお考えのようである。「間人皇女か用明天皇と関わりの深い氏族の厩のところで出産した」(60頁)という史実があったと推定、納得されるに至っている。厩付近で出産したことを、どうして厩の“戸”のところで出産したことに加工しなければならなかったのかについては、検討されていない。学界の議論は上っ面に終始しているように思われる。もとより、筆者は観点が異なる。
 「厩戸」という名については他に、地名に由来するとする説(家永三郎、坂本太郎)、生年の干支の午年生まれに基づく可能性が高いとする説(大山誠一「『聖徳太子』研究の再検討(上)」『弘前大学国史研究』第100号、1996年3月)、大和国高市郡の厩坂宮(舒明紀十二年四月条)に由来するとする説(古市晃「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史』768号、2012年5月)、養育した額田部(湯坐)が深くかかわった馬匹に由来するとする説(渡里恒信「上宮と厩戸」『古代史の研究』第18号、2013年3月)、捜神記など中国の志怪小説の影響とする説(前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59巻、2016年1月)などがある。ほかに、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第五に、「御誕生の若宮を、厩戸(むまやど)の王子と名付け参らせらる、これ駒繫(こまつな)ぎのほとりにて降誕(がうたん)なりし故ならし」ともある。「駒繫ぎ」とは草の名である。
(注2)『日本史大辞典1』(平凡社、1992年)に、「厩(うまや) 馬を飼っておく独立した建物や家屋内の馬(ときには牛)を飼う部屋で、馬屋とも書き、『まや』とも呼ぶ。……乗馬用の馬を飼う武家屋敷や神社・寺院の馬屋と農耕馬を飼う農家の馬屋とでは構造が異なる」(781頁)と、建築史の宮沢智士先生の解説がある。解説としてはそれに尽きるが、かなり違うものを一緒にしていて良いものか、戸惑うばかりである。鎌倉時代、御家人が、いざ鎌倉へ、と乗ってきた馬は、必ず乗馬用の馬であったか、ふだんは農耕に使っている馬の荷鞍を取り替えて、チャグチャグ馬子のようなことをした貧乏武士もいたのではないか。○○時代の馬はどれぐらいの大きさであったか、といった話が巷間に語られるようであるが、乗馬用と農耕用では鍛えている筋肉が違い、何を大切にすべきかで厩の形態も変わってくるように思われる。
(注3)2015年10月17日放送分 滋賀経済NOW(びわこ放送)(1:01~19:10)参照。
(注4)和名抄に、「戸 野王案ふるに、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとかむがふ。〈和名、度(と)〉」とある。白川静『字訓 新装版』(平凡社、1995年)に、「と〔門・戸(△(戸の旧字))〕 内外の間や、区画相互の間を遮断し、その出入口のために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう。戸は開き戸にするのが普通であった。トは甲類」(531頁)とある。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、白井清子先生の解説として、「と【戸・門】名……両側から迫っていて狭くなっている所。その狭い部分でのみ、水が流れたり、人や物が通ったりできる。また、建造物で人の出入りする所やそこの建具」(821頁)とされている。「厩戸」という言葉を考える際、第一に馬小屋の出入口の戸のことであると考えるべきであろう。ト(甲類)としては、「所(処)(と、トは甲類)」、「外(と、トは甲類)」もある。外という語は、戸(門)と語源的に関連があるらしい。所(処)という語はそれらとは異なる義で、それを「厩戸皇子」に当てはめると、万葉仮名の訓仮名の当て字ということになり、「戸」字に表意性がなくなる。管見ではあるが、「厩戸」を厩の外(そと)のことと解釈する向きは見られない。馬が厩の外でお産をしたという変な話は、皇后が外でお産をしたという話とリンクする。ウマヤ(厩)とウブヤ(産屋)とが洒落として考えられているなら、外でのお産をもって名の由来譚とすることは噺として興味深くはある。けれども、「厩の戸に当りて」という文章が捻られているのだから、基本的に、開き戸との衝突のことを念頭に検討すべきであろう。「厩皇子」、「馬皇子」、「馬子皇子」、「馬養(うまかひ)皇子」、「馬部(うまべ)皇子」、「厩門(うまやかど)皇子」という名が問題ではない。
 厩の後ろ側についている扉(b・c図参照)をもって、「厩戸」と捉えることも、方法論的には可能である。春日権現記絵の場合は、前(?)ないし横(?)上部が蔀になっているようにも見える。「廐作飼方之次第」(松尾信一・白水完児・村井秀夫校注・執筆『日本農書全集60』農山漁村文化協会、1996年)に、「一、後ノ方、小キヒラキ戸ノ入口ヲ求ルコト有。是ハ極テ明クルコトニハ非ス。其厩ノ様子ニヨルヘキ也。後ノ方小キ戸ハ、急変・急火ノ時、前ヘ難出時ニ此口ヨリ馬ヲ出サン為ナレハ、其厩ニヨリ便利宜シキナラハ明ルニ不及也。又ハ前後サシ支ヘ等有リテ、アカリ入少キ厩ナラハ、夏向ナト掃除ノタメニモ宜シ。故実作法ト云ニアラス。其時ノ頭入ノ功ニヨルヘシ。大サ寸法ハ極ナケレハ、馬ノ出入成程ニスヘシ。大方五尺、或五尺五寸宜也。」(133頁、文字の大きさは同じにした。)などとある。その前の項に、厩舎後方は羽目板にして上方は無双窓を付けることが望ましいと記されている。推古紀の記述においては、皇后は、厩舎の後ろ側へ回って戸にぶつかったとは思われない。なぜなら、彼女は、「巡行禁中監察諸司至于馬官」である。身重の皇后が、監察して回っていて、こそこそと裏から探りを入れる、それも馬に対して、という設定はなかなか難しい。ごくふつうに考えて、「厩戸」というのは形容矛盾であると捉えるのが適切である。
 乗馬用であれ農耕用であれ、馬の健康面を考えて厩は作られた。中国では早くは呉子・治兵に、「夫(そ)れ馬は必ず其の処(を)る所を安んず。……冬は則ち厩を温かにし、夏は則ち廡(ひさし)を涼しくす」とある。本邦では、佐瀬与次右衛門の会津農書・下巻・厩囲に、「馬屋ハ内厩に居なから見るようにしてよく、外厩ハ寒くして馬瘠る。馬屋を広く穴を深く掘るへし。……」(庄司吉之助翻刻ほか『日本農書全集19』農山漁村文化協会、1982年、195頁。漢字の字体は改めた。)、また、百姓伝記・巻四・屋敷構善悪・樹木集に、「土民、馬屋を間ひろく作り、しつけ(湿気)すくなき処をハ、ふかくほりて、わら草を多く入てふますへし。……冬ハさむくなきやうに、わらにて外をかこひ、夏ハ冷しきやうにして馬をたてよ。……しつけの地にハ屋棟をたかくして、腰板をうち、竹を以垣をするかして、わら草なとの飼やう、多く入やうにすへし」(岡光夫・守田史郎校注・執筆『日本農書全集16』農山漁村文化協会、昭和54年、123頁。)とあり、農業に必要な馬肥を得る方法も記されている。また、比良野貞彦・奥民図彙には、夏の夜に涼しく過ごせるように、木で埒を結った囲いを設けて夏馬屋とすることが描かれている。この厩には、戸どころか壁すらない。
「田舎之馬屋」(比良野貞彦、森山泰太郎・稲見五郎解説「奥民図彙」『日本農書全集1』農山漁村文化協会、昭和52年、157頁より)
屋根はある例(東海道名所図会・梅木(竹原春泉斎ら画)、駅家(うまや)であろうか。)
(注5)康煕字典に、楊氏方言註を引き、「棖 ……傾きを救ふ法なり。門の楔(ほゝだて)也」と述べている。説文に、「棖 杖(つゑ)也」ともあり、門が頬杖をついているように見立てたところに由来するものらしい。
(注6)マグサ(秣)が下でなく上でもなく真ん中ぐらいに台に載せてある例として、例えば、日光東照宮の神馬の厩の例がある。何を企てているのであろうか。
神厩舎
(注7)前掲の「廐作飼方之次第」に、「廐四節心得ノコト」として、四季の気候に応じて「戸ヲ開キ」、「前後ヲ取払」、「幕ヲ張ル」、「戸ヲ垂テ」などとあって、「戸」のことが記されているが、門戸のことをいうのではなく、窓の意味のことを言っている。通風や保温、採光の話である。
(注8)狩谷◆斎のいう「伊勢神宮屋舎」のそれが何のことを指しているのか、筆者は不勉強で知らない。ご存知の方、お教え下さい。
(注9)古い時代の牧に、外周が囲われていたか、疑問視する議論もある。今日は、土地所有の問題や周囲にご迷惑をかけることから設けられている。家畜として馴らされたウマが、自ら逃げて野生化することのメリット・デメリットなど、多くを考えなければ理解することは難しいようである。牧が人に放棄された場合はその限りではない。ウマも生きるのに必死になる。
(注10)棒は、歴史的仮名遣いをボウとする説もあるが、鎌倉・室町期の資料からバウであるともされている。呉音にボウなるも、広韻に歩項切、集韻に部項切である。坊(バウ)や房(バウ)といった区切られた区画、部屋のことに引きずられて漢音をとった可能性がある。マセによって空間を仕切る際、直線的に仕切ることになり、四角い坊(房)が形成される。和名抄に、「房 釈名に云はく、房〈音防、俗に音にて望と云ふ〉は旁也。室に在る両方也といふ」、「坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音方、又音房、末智(まち)〉は別屋也、又た村坊といふ。四声字苑に云はく、村〈音尊、無良(むら)〉は野外の聚居也といふ」とある。
(注11)本ブログ「『餓鬼』について」参照。
(注12)埒とは、馬場の周りに逃げないように設けられた柵のことをいう。駒くらべ(競馬)では、埒が左右に設けられる。ウマはまっすぐに走るのがあまり得意ではなく、目印にして走っているとされる。ヒトも、ラインが引いてなければ100m走で10秒を切ることはないであろう。おそらく、人を乗せて走るなどということは、ウマにとって不自然極まりないことであり、また、鞭で叩かれながら全速力でひた走るなど不条理もいいところである。和名抄に、「馬埒 四声字苑に云はく、埒〈乃輟反、劣と同じ。世間に良智(らち)と云ふ〉は、戯馬、封道也といふ」とある。ラチというラ行で始まる言葉がヤマトコトバにもとからあったとは思われず、用例も9世紀のものしか知られないが、馬の到来とともに本邦に伝わった技術として、飛鳥時代にも存した言葉であろう。口語表現をよく伝える日葡辞書に、「Rachi. ラチ(埒) 柵・垣.¶比喩.rachiuo aquru.(埒を開くる)物事をうまく解明する.¶Rachino aita fito.(埒の開いた人)素直で,道理にはすぐ服する人.¶Rachiuo coyuru, l, yaburu.(埒を越ゆる,または,破る)規則や禁制条項を破る,または,道理に背く.」(土井忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』(岩波書店、1980年、523頁)とある。マセボウ、マセガキと綽名された聖徳太子は、埒を開けて物事の道理を説く人であったことは、憲法十七条に記されているとおりである。憲法十七条が推古朝に作られたものではないという説も提出されているが、そういう議論に参加しても埒が開かないので、筆者は遠慮させていただく。
(注13)本ブログ「稲荷信仰と狐 其の三」参照。
(注14)コマ(コは甲類)という語については、上代にどこまで洒落とされていたかは不明である。「細(こま)けし(コは甲類)」という語が新撰字鏡に、「壌 古万介志(こまけし)」と見える。粒状、粉状のものを「細(こま)」と称したように感じられる。芝居や映画、マンガの齣(こま)という語は近代になってからの語のようであるが、「細」という語ばかりでなく、将棋の「駒」という語の連想から形成されたものであろう。将棋の駒は入るマス目が区切られている。また、小間使いという語の文字面からも連想が働いたのではなかろうか。さらに、高麗(こま)という語については、万葉集に、「巨麻尓思吉(こまにしき)」(万3465)という仮名書きがあり、コはあるいは乙類とされるが、東歌の唯一例である。「高麗」をなぜコマと訓むかについては諸説あってわからない。とはいえ、「高」の字がためらいなく用いられているので、コは甲類である可能性もある。大野晋編、前掲の『古典基礎語辞典』、「こま【高麗・狛】」の項に、「†*koma」と記され、甲類を推定されている。
 和名抄に、「王仁煦に曰く、駒〈音倶、古万(こま)〉は馬子也といふ」とある。駒(こま、コは甲類)は子馬の状態で船に載せられて本邦に連れられてきた。騎馬民族、高麗の人によってである。飼育技術が伴わなければ、連れてきても意味がない。連れてきたのは子馬である。まるで狛犬のように小さい。そんなものに人が乗って、早く馳せるのであろうか。倭の人は不思議に思っていると、彼らは手を拱いて見ているばかりではなく、飼葉を与えて上手に育て、かつ人に馴らしてよく言うことを聞かせ、人が乗っても猛スピードで走らせることをやってのけた。古語に「拱(こまぬ)く」という。貫(ぬき)のマセを柵として活用していたことが、言葉の端々に感じられる。儒者のする挨拶のポーズ、拱手(キョウシュ)は、胸の前で通せんぼの形になる。「是に、古人大兄、座(しきゐ)を避(さ)りて逡巡(しりぞ)きて、手を拱(こまぬ)きて辞(いな)びて曰(まを)さく」(孝徳前紀皇極四年六月条)とある。古人大兄のポーズは、両手を腕の前で重ねて行う礼のような、しかし、それは倭の人にとって、挨拶ではなくて厩のマセのように見えるから、拒絶の様を表すことになっている。
 なお、推古紀元年四月条の、「内教を高麗の僧慧慈に習ひ」とある点について、「高麗の僧慧慈帰化(まうおもぶ)く。則ち皇太子(ひつぎのみこ)、師(のりのし)としたまふ」(推古紀三年五月条)と後述される点や、蘇我氏が百済と関係が深かったことなどから、石井、前掲書(70~74頁)には、本当に「高麗」なのか疑問視されている。来訪して師匠にしたとされる僧侶の慧慈の朝鮮半島でのもとの国籍が、当時においてどれほどの意味を持ち、それが日本書紀のなかで種明かしされているのか、不勉強の筆者には読み解けない。厩戸皇子の話(噺・咄・噺)としてなら、コマ(駒≒高麗)である点は、面白いから重要な要素であるように思われる。
(注15)法隆寺献物帳にサインの残る葛木戸主は、ヘヌシである。律令に「戸(こ)」とあるのが推古朝にあるはずはないから、後人の修文、潤色であると説明したがる向きもあろう。しかし、そう片付けてしまうには、このなぞなぞのレベルはあまりにも高い。
(注16)市村弘正『名づけの精神史』(みすず書房、1987年)に、「綽名をつける能力の衰退は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているだろう」(12頁)とある。今日、為人(ひととなり)への関心は薄れ、文化水準は飛鳥時代とは雲泥の差が見られるほどに低迷している。現在、日本書紀を、史料そのものをそのものの中から読むのではなく、史料批判に基づいて外側から議論されることが多い。それが歴史学の主流、正統な歴史学であるというのなら、もはや人の学ではないであろう。終いにコンピューターにとって代わられるのではないか。“批判”は容易く耳目を集めるが、終わると忘れられ、“批評”は高等で難しくなかなか理解が広まらないが、思想となって後世まで残る。
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厩戸皇子の「戸」の秘密 其の二

2016年06月18日 | 論文
(承前)
 その欄額、柱貫の間に戸(扉)ではなく、マセをつけて囲いとした。戸(扉)のない厩といい、装飾するためでないのに欄額を作ることといい、矛盾した方立(=「矛盾」)の出来事であることを表現している。和名抄に、「籬〈栫字附〉 釈名に云はく、籬〈音離、字亦▲(木偏に離)に作る。末加岐(まかき)、一に末世(ませ)と云ふ〉は柴を以て之れを作るといふ。疎なるを離々と言ふ也。説文に云はく、栫〈七見反、加久布(かくふ)〉は柴を以て之れを壅ぐといふ」とある。竹や柴で作った粗い目の垣根である。マセには、籬、馬柵、馬塞、間狭などといった字を当てる。牧の柵、横木を渡して作った垣の棒のこともマセ棒、ウマセ、マセンなどといい、厩に用途、仕様が同じである(注9)。馬が出なければそれでいいのだから、一般の垣根と比べるとほとんど開いているような状態で、ただ横に1~2本、棒が渡してある。このマセが、厩においては「戸」に当たるものである。万4429番歌の「厩なる 縄断つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも」の侘しさは、駒を曳き立てる縄(=夫)がいなくなって厩に閉じ込められたままにされたとき、外の景色が見えて他にいい男が見えるのに、マセがあるために出て行くことができない(=浮気はしない)、でもとても寂しいよと訴えたことが身に染みるという歌であった。
甲斐の黒駒(紺紙金字一字宝塔法華経(法師品断簡、太秦切)巻頭、平安時代、12世紀、東博展示品)
 皇后が厩の戸に当たって生まれた皇子は、どのような能力を持っていたのであろうか。「生而能言、有聖智。」である。頓智好きにはたまらない設定である。すぐれた人が厩で生れていることから、後に、聖徳太子伝暦などに、甲斐の黒駒に乗って富士山を駆け登ったとする伝承が成立しそうなことは予感されよう。石井、前掲書(62頁)には、粗末な馬小屋はないとお考えであるが、厩の戸の造りには言及されていない。筆者は、全然戸(扉)がないよりは、戸(扉)の代わりにマセが渡されている方がマシであると思う。「厩戸」とは、このマセ、マセボウ、マセンボウ、マセガキのことを言っている。早熟で大人びた子どものことをマセという。ねびる、およすくことである。上代にそのような名詞形があったか知られないが、四段動詞マス(増・益)の語意に、他に比べて優っていることをいうことがあり、また、敬語の動詞マス(坐・居)の義にも適うから、その已然形を名詞として捉え、生まれながらにして既に優っていらっしゃったことの意として使われたのではないか。マセルという動詞は名詞マセから後で作られたものと推測される。すなわち、ませた餓鬼だからませ籬、ませた坊やだからませ棒なのである。良家の小児のことを、坊や、お坊ちゃん、と呼ぶことがいつからあるか、口語表現にしてわからない。それでも、厩戸皇子の場合、「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ」(推古紀元年四月条)とあって、坊(房)を与えて住まわせている。坊やに違いない(注10)。また、子どものことを餓鬼という言い方がいつから一般にあるか、これも不明である。食べ物を貪ることから言われた比喩のようである(注11)。いずれも仏教から伝えられた言葉であり、早期幼児教育のおかげか仏教に精通した人物を表すにはもってこいの命名となっている。ませた餓鬼、ませた坊やは、一言に集約すれば、語用論的形容矛盾表現として、「厩戸」のこととなる。
 さて、「厩の戸に当りて」の「当りて」について、石井、前掲書では、「ちょうどそのところで、ということ」(58頁)と説明されている。場所としてアタルという語をお考えのようである。「戸に当りて」の部分、小学館の新編全集本日本書紀②頭注に、「まさしく戸(入口)の所での意」(530頁)とある。井上光貞監訳『日本書紀 下』(中央公論社、昭和62年)に、「廐(うまや)の戸につき当たり」(125頁)、宇治谷孟『全現代語訳日本書紀 下』(講談社(講談社学術文庫)、1988年)に、「厩(うまや)の戸(と)にあたられた拍子に」(87頁)と訳されている。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「あたる[当](動四) アツ(下二段)に対する自動詞。もとは……あてられる、の意。①あるものが他の何かに触れる。あるいはぶつかる。……②あたる。相当する。二つのものごとの力・価値・意味などが対応しあう。……③ちょうどその時にあう。」(27頁)とある。語釈の③は、時についてアタルと使うことを示している。中古に、状況や方角について、同様のアタルという語意は見られる。上代には見られない。アタリ(辺)とアタル(当)は同根の語であろうが、ウマヤノトニアタリテ(当厩戸而)のアタリを、アタリ(辺)という名詞と捉えることには無理がある。原文の「而」は、接続助詞のテと訓んでいる。
 原文は、「皇后、懐姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃当厩戸而不労忽産之。」である。主語は、「皇后」、述語は、「巡行」、「至」、「当」、「産」である。いつ当たったか、「乃」である。どこで当たったか、「馬官」でである。誰が当たったか、「皇后」である。何に当たったか、「厩戸」にである。いかに当たったか、結果として「不労忽産之」にである。4W1Hがはっきりしている。皇后が、ふらふらっと「厩戸」にぶつかった、ないし、戸のほうからあてられたと明記されている。上に述べたように、面(plane)としての戸(扉)はない。柵となるマセにあてられるような“小咄”に仕上がっている。柵という語が縦なるものだから、厳密には横なるもの、埒(らち)といえば良いのであろう。すなわち、埒が開いた(注12)。問題解決、安産である。案ずるより産むが易し。
埒(賀茂競馬図屏風、久隅守景筆、紙本淡彩、江戸時代、馬の博物館蔵、同編前掲書、38頁より)
 出産とフェンスとの関連を示す例は言い伝えに既出である。

 二(ふたはしら)の神、教(みこと)の随(まにま)に酒を設(まう)く。産(こう)む時に至りて、必(へへもかなら)ず彼(そ)の大蛇(をろち)、戸(と)に当りて児(こ)を呑まむとす。(至産時、必彼大蛇、当戸将呑児焉。)(神代紀第八段一書第二)

 この部分、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのをろち)を退治する場面である。本文に、「乃ち脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)をして八醞酒(やしほをりのさけ)を醸(か)み、并(あは)せて仮庪(さずき)仮庪、此には佐受枳(さずき)と云ふ。八間(やま)を作り、各(おのもおのも)一口(ひとつ)の槽(さかふね)を置き、酒を盛らしめて待ちたまふ」とある。飼葉桶のような大きな容器8個に酒を入れ、8つ設けた桟敷、すなわち、籠のように編んだ台に置いて、八岐大蛇の8つの頭がそれぞれの籠台の編目の隙間から入って槽の酒を飲むようにさせている。一書第二では、「児を呑まむとす」る時、編目の隙間から伸び入ってきている8つの頭ごとに酒を飲ませている。「児」の代わりに「酒」を呑ませた。八岐大蛇は、児(こ、コは甲類)を呑もうとして頭を伸ばしてきている。そうするとわかっているから、仮庪(桟敷)を編んで作る。編み方は籠(こ、コは甲類)に同じである。八岐大蛇は、児(こ)を呑もうとして籠(こ)に誘導され、酒を飲んで酔っ払ってしまう。
上から右下へ生垣、柴垣、間垣(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、179頁より)
 つまり、ここでも、「戸(と、トは甲類)」とあるのは、平面を形成する一枚板の杉戸などではなく、適当に編まれた柴垣や籬のような籠のような戸、その隙間のゆるやかなもの、マセ棒、マセ籬によって仕切られたところを暗示しているのであろう。脚摩乳・手摩乳の「二(ふたはしら)」によって準備が整えられている。柱が2つあるから戸はできるが、欄額(柱貫)によって支えられたマセに他ならない。マセのこちら側に飼葉桶、槽(ふね)がそれぞれに1つずつある様子は、厩に同じである。動物園でも、ヒツジ類は1つの餌場からみな仲良く食べているが、ヤギ類は喧嘩になるから頭数によって分けて餌を与えている。ウマは首を出して秣を食む。つまり、ウマヤ(厩)をもってウブヤ(産屋)に譬えられている。棒(バウ)が坊(バウ)・房(バウ)を示すことは、一区画のことをいうことによって確かめられる。坊やとは、坊屋のことと思われ、マセ籬によって区割りされた厩のような分譲地区画の謂いであろう。八岐大蛇に応じて8区画整備している。児(こ)のために籠(こ)で囲われた坊があてがわれる。養われるのは、駄馬ではなく、良馬、コマ(駒、コは甲類、もと子馬の約とされる)であろう。ただし、八岐大蛇の話では、マセによって出られないようにしているのであり、厩図屏風などにあるように、手綱で繋がれているわけではない。それでも、馬が腹帯で吊られている点は、産屋の力綱を連想させる(注13)
七間廐の図(京都将軍御所絵図、鎌倉御殿図)(西ヶ谷恭弘「城郭解体学第37回 廐」『歴史と旅』27巻8号、秋田書店、2000年6月、241頁より。古事類苑・居処部の722~723頁にも同図が載る。)
彦根城の厩(同上書、243頁より)
二条城の厩(舟木本洛中洛外図屏風、東博ミュージアムシアター前パネル展示より。ミュージアムシアターは気づかぬことを見せてくれます。)
 1棟の厩で何区画(馬立(うまだち))にするか、いろいろ例があるようである。八岐大蛇を入れるのに、“蛇立”なるものを思考実験したのであろう。コマは駒であり、細切(こまぎ)れの細であり、小さな間のことを言うのであろうか(注14)。「八間(やま)」、すなわち、8コマ作るというのは不自然である。脚摩乳・手摩乳にはすでに「八箇(やたり)の少女(をとめ)」(神代紀第八段本文)があって、年毎に既に呑まれたという。八岐大蛇がその頭数の8人を呑んだのだから、9人目の奇稲田姫(くしいなだひめ)は呑まれるはずがないように思われる。頓智話なのだから、何でだろう? と不思議がる必要がある。“八間厩”のように並列を想定するのがいいのか、四角い空間に井桁状に仕切りを入れて9コマに分け、「囲」という字に象形されるように想像するのがいいのか、想像をたくましくしなければならない。「囲」形の場合、中央1マスには仮庪(さずき)となる籠編みを作らず、すなわち、マセ棒を渡さす、周囲の8コマに籠台を設けて槽を置き、八醞酒を入れておいたということになる。八岐大蛇が酔っ払い、寝ぼけて編み籠に絡んでいる時を見計らって、中央の通路に素戔嗚尊は自由に入って上側へ抜け、周囲の大蛇の首をぐるりと斬って回ったということとなる。反対に、下側へ行って切った時、1つにカチッと鳴り当たったのが、いわゆる草薙剣である。
 上代に、「囲(かく)む」という。上述の和名抄の「籬〈栫附字〉」項に、「栫〈七見反、加久布〉以柴壅之」とあった。万葉集には、

 …… 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ ……(万892)
 …… 妻も子どもも 遠近(をちこち)に 多(さは)に囲(かく)み居(ゐ) 春鳥の ……(万4408)

とあり、八方塞を示している。素戔嗚尊は、その八方塞状態に自ら陥る形をとって、逆に八岐大蛇を近い場所に酔っ払わせて眠らせ、一網打尽(?)に斬り殺したということなのではなかろうか。「中区(うちつくに)の蕃屏(かくみ)」(成務紀四年二年条、別訓カクシ)の出典は、左伝・僖公二十四年条の疏に、「蕃屏者、分地以建諸侯、使京師蕃籬屏扞也」とある。(注11)にあげた本ブログ「『餓鬼』について」で触れた芋のヤツガシラは、漢語に九面芋とある。親イモのまわりに子イモが8つ、親イモと同じぐらいに大きく成長して、しかも癒着した状態にできている。譬え話として、中央の親イモのところが素戔嗚尊に当たるのだということも連想されて生まれた説話ではなかろうか。
九面芋(やつかしら)(岩崎灌園・本草図譜巻之五十(同朋舎、1981年復刻版より))
 さて、「戸」はヤマトコトバにト(甲類)である。万葉仮名としても訓仮名で「戸(と、トは甲類)」は常用されている。音読みでは、漢音にコ、呉音にグ・ゴ、上顎音である。広韻に、「戸」は侯古切である。音仮名の万葉仮名では、コ(甲類)に「古」があり、広韻に公古切、ゴ(甲類)に「侯」があり、戸鉤切である。仮に戸(コ)という音が音仮名に当てられたとすれば、甲類と感じられたであろう。戸(こ)の意味は、律令制で、戸令に里を構成する単位とされ、「凡そ戸(へ)は、五十戸(ごじふこ)を以て里(さと)と為よ」とあり、家父長のことを戸主、独立家屋のことを戸建て住宅などと言う。田令でも、「其れ牛は、一戸(いちこ)をして一頭(いちづ)養(か)はしめよ」とある。さらに、「戸(こ)」は、酒の量をいう語でもある。呑む量が多い人は、「上戸(じゃうご)」、少ない人は、「下戸(げこ)」という。つまり、八岐大蛇の話は、戸(と)に当って児(こ)を呑まずに、戸(と)ならぬ籠(こ)状のところから、一戸(いちこ)ずつ、全部で八戸(はちこ)について頭を覗き込み、上戸か下戸か知らないが、それぞれ戸(こ)という一丁前の酒量を呑んだということである。伊呂波字類抄に、「戸 コ〈酒戸也。上戸・中戸・下戸〉」とある。厩戸皇子は、ウマヤノミコなのだと、漢字のわかるインテリたちには面白がられていたのかもしれない(注15)。呑むほどに青くなる人であったらしい。
 以上から、厩戸皇子という名は、厩に戸(と)などないのに、戸の代わりをするマセバウ、マセガキに当ってませた餓鬼やませた坊やが生まれ、坊どころか「上殿(かみつみや)」を作って愛育したことを物語る、洒落となぞなぞと知恵の押し詰まった命名譚、面白小咄として仕上がっていたのである。古代における名とは何か、それは呼ばれるもの、綽名である(注16)
(つづく)
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蓋の頭二題

2016年06月15日 | 無題
 目黒にある美術館へ行って蓋の頭を見てきました。

 東京都庭園美術館「メディチ家の至宝―ルネサンスのジュエリーと名画―」展(~2016.7.5)では、二重の杯(フィレンツェの金工家作、15世紀、グリーンジャスパー、加熱鍍金し打ち出しにより浮彫や彫刻が施された銀、七宝、高さ30.5cm、下の杯にぐるりと間延びして「・LAV・R・MED」銘、ウフィツィ美術館(銀器博物館)蔵)を見ました。

 杯自体は15世紀、フレームは15世紀後半とあり、納品後に再発注されて再加工したのか、工房に材料として置かれていて金工家の手隙を待っていたのか、知りません。蓋の先端の宝珠のようになっている部分の、中の球体は、メディチ家のエンブレムを表しているとありました。さて、この球体は、“くるみ”のように動くのでしょうか。外枠は3方から閉じているものだったと思います。金でできているのだから、ひょっとして“くるみ”式の場合、動かすと鳴る鈴の仕掛けなのでしょうか。もっとも、金のメッキの鈴しか私は知りません。純金で作って鳴るのか、どんな音になるのか、わかりません。

 松岡美術館「中国の陶磁―宋から元まで―」展(~2016.7.10)では、青磁刻花蓮華文壺(北宋、龍泉窯、総高31.0cm、胴径13.7cm、松岡美術館蔵)を見ました。

 龍泉窯のものは、日本では、南宋時代からの青みの特徴的なものが砧青磁と呼ばれて茶道に好まれたようです。この品は北宋時代のものです。毛彫り風の花の模様、蓮弁の象り、それが上へ向かって幾重にも重なっていくところなど、えもいわれぬ意匠に酔いしれることができます。2つある下の丸襟部分から上が蓋だろうと思います。蓋のいちばん上の部分が丸くありません。蓮の蕾が開き始めたところを模したものでしょうか。その部分の丸襟は、蓮の葉を表しているようにも見えます。もちろん、実際のハスの花はそのようにはつきません。まさか、蓋の上の部分は貫通していて、穴から煙が出るような仕掛けなのでしょうか。細長~い香炉。さて、どうでしょうか。
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厩戸皇子の「戸」の秘密 其の一

2016年06月12日 | 論文
 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。

 夏四月の庚午の朔己卯に、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす。仍りて録摂政(まつりごとをふさねつかさど)らしむ。万機(よろづのまつりごと)を以て悉に委ぬ。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと[用明天皇])の第二子(ふたはしらにあたりたまふみこ)なり。母(いろは)の皇后(きさき)を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と曰す。皇后、懐姙開胎(みこあれま)さむとする日に、禁中(みやのうち)に巡行(おはしま)して、諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。馬官(うまのつかさ)に至りたまひて、乃ち厩の戸に当りて、労(なや)みたまはずして忽(たちまち)に産(あ)れませり。生(あ)れましながら能く言(ものい)ふ。聖(ひじり)の智(さとり)有り。壮(をとこさかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うたへ)を聞きたまひて、失(あやま)ちたまはずして能く弁(わきま)へたまふ。兼ねて未然(ゆくさきのこと)を知ろしめす。且、内教(ほとけのみのり)を高麗の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習ひ、外典(とつふみ)を博士(はかせ)覚(かくか)に学びたまふ。並に悉に達(さと)りたまふ。父(かぞ)の天皇、愛みたまひて、宮(おほみや)の南の上殿(かみつみや)に居(はべ)らしめたまふ。故、其の名を称(たた)へて、上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まを)す。(推古紀元年四月条)

 話の内容は、母親の皇后である穴穂部間人皇女が懐姙し、出産した日にどうしていたかというと、役所を巡って仕事ぶりを監て回っていた。馬官のところへ来たときすぐに、厩の戸に当たって難なく出産した。生れて能く言葉を喋り、聖の知恵がある人であった、というものである。そこから、厩戸皇子という名前が導き出されたような口ぶりである。
 この逸話について、石井公成『聖徳太子』(春秋社、2016年)は、「この誕生場面を要素ごとに分けると、(1)皇后が、(2)臨月の際、(3)あちこち歩き回って、(4)監察し、(5)馬の役所に至り、(6)厩の戸のところで、(7)「不労(苦しまない)」の状態で産み、(8)その子は生まれるとすぐ話し賢かった、ということにな」るとし、仏本行集経・樹下誕生品の記述に、「『王の夫人が』、『臨月の身で』、あちこちの樹を『観看し』て回り、ある樹の下に『至り』、その樹の『ところで』枝を握ると、『苦しむことなく子を生んだ』。その子、すなわち後の如来は、悟ってからは疲れ飽きることがなく、『生まれるとすぐ話した』、という流れ」があり、「状況が似すぎていることは明らかでしょう」(59~60頁)とされている。お腹の大きな妊婦がふらふらと出歩くことは特に珍しいことではなく、外で産気づいて難なく生んでしまうこともないことではない。記述の仕方が仏典に範をとったものであるとされるのであれば、その通りであろう。だからといって、どうして厩の戸のことが取り沙汰されるに至ったのか、肝心要のところは不明のままである。珍しいのは、厩の戸に衝突して安産だったという点ではないか。それが同じであれば、「状況が似すぎていることは明らか」であろうが、それが「樹」と「厩戸」で違うし、厩戸皇子が皇后の右脇から生れたとも記されていないのだから、状況は大して似ていない。状況は似ていないが、文章が似ているのである。漢籍や仏典をアンチョコにして記したに過ぎない。石井先生は、井上薫先生による厩戸部(うまやとべ)出身の乳母が養育に当たったとする説は、早い記録が見られないから当たらないであろうとされ、また、久米邦武先生によるキリスト降誕説話の伝承が伝来したとする説は、歴史時間的に見てあり得ないことを論じられている。そして、良い馬を飼う技術を持っていた渡来系氏族と関係が深かったことを憶測され、その関係から「厩戸」と名づけられたことは事実と思われると述べられている(注1)
a.厩図屏風(紙本金地着色、桃山時代、馬の博物館蔵、同編『所蔵品選集増補版』馬事文化財団、2001年、29頁より)
b.一遍聖絵(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、269頁より)
c.春日権現験記絵(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1993年、42頁より)
d.堅田図(伝土佐光茂筆、室町時代、16世紀、東博蔵、同編『室町時代の美術』同発行、平成元年、237頁より)
e.厩(馬繋ぎ)跡(渉成園内)
f.土佐派農耕屏風(『日本農書全集72 絵農書2』農山漁村文化協会、1999年、49頁より)
g.曲家の厩(和井田登撮影、須藤功『写真ものがたり 昭和の暮らし1 農村』農山漁村文化協会、2004年、88頁より)
h.絵馬を掲げる厩(萩原秀三郎撮影、塚本学「歴史と民俗にみる近世の馬」『日本民俗文化大系6 漂泊と定着』小学館、昭和59年、518頁より)
 冷静に考えれば、「厩戸」とは不思議な言葉である。上に「厩(馬屋)」の図をあげた。a~c図は、乗馬用の馬を飼っておくために、板敷のしつらえとなっている。梁から吊るされた腹綱で引き揚げ、大事な脚を休ませる工夫もしていた。手綱は柱やそこに取り付けられた環(橡金(とちがね))につながれている。公家や武家、寺社が飼っていた駿馬であろう。d・e図は、あるいは来客者が乗ってきた馬を停めるための厩かもしれない。f~h図は、農家の耕作・運搬用の馬が飼われていた様子である。土間にせいぜい藁を敷いてあるぐらいである。g・h図では手綱が外されている。曲家のように人の家と合体している馬小屋もあれば、独立して馬が外を眺められる馬小屋もある。すべて厩である。
 今日でいえば、乗用車と、耕運機兼軽トラックの格納場所を、“厩”と一括りにして言葉としている。ガレージであって、同じく馬を飼う屋だからウマヤなのである。和名抄に、「厩 四声字苑に云はく、厩〈音救、上声之重、无万夜(むまや)〉は牛馬の舎也といふ」とある。しかし、雰囲気はまるで別物であるように思える。筆者は、「日本における厩の展開」なる研究論文があるかと期待して探したが、見つけられなかった(注2)。厩とは何か、について、分野が跨るためかじっくりとは研究されていないようである。多くの方々は、馬を飼うための専用の小屋ということで納得されているらしい。万葉集の厩の例をあげる。

 赤駒を 厩に立て 黒駒を 廐に立てて そを飼ひ 吾が行くが如(ごと) 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目(いめ)立てて しし待つが如 床敷きて 我が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 百小竹(ももしの)の 三野(みの)の王(おほきみ) 西の厩に 立てて飼ふ駒 東の厩に 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いばえ立ちつる(万3327)
 鈴が音の 早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井の 水を給へな 妹が直手(ただて)よ(万3439)
 今日(けふ)もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩(みまや)の 外(と)に立てらまし(万3776)
 厩なる 縄断つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも(万4429)

 3278番歌の「床敷きて(床敷而)」は、「とこしくに」と訓んで永遠の意ともされる。筆者は、板敷の厩の連想から、この句は成っている考える。3776番歌で、遠い都の彼女を思うのに、どうして厩の外に立っていたかについては、逢引していた場所が廐の外だったからではなく、馬が超特急で都へと連れて行ってくれる乗物だったからであろう。作者の中臣宅守(なかとみのやかもり)は越前配流にあり、国府の東の厩よりも、西の厩の方が、都に近いためであろう。馬に乗る際、まず、馬を厩から引き出して、厩の外で馬の右側から乗ったようである。4429番歌について、防人に出掛けてしまう夫に対して、縄をはずされたウマはじっとしてはいませんよ、という解釈は通じない。厩では縄を外して寛がせるが、厩に閉じ込められたままに残されることへの不満を訴えたもので、そう捉える方が切なさが身に染みてくる。万葉集から厩の種類について推量することは特にできない。
 確かに形状でも、両者の共通点は多い。共通点の第一にあげられることは、前面に戸がないことである。板敷の上の駿馬は繋がれているから逃げ出すことはない。土間にせいぜい藁の敷かれたところのお馬さんは、横木が渡されていて柵となっており、出て行くことはない。そこに戸はない。厩に、馬の前方に当たる方に厳重な戸を設けることがあったかどうか、歴史的な変遷を知ることはできないが、競馬のレース直前に、ゲートのなかで暴れ出してゲート入りを全馬やり直すことがある。ストレスがかかるのである。運搬する場合にも、トラックでは十分な注意が払われている(注3)。一部に、馬は閉所を嫌う動物であるとの指摘もある。ただそれよりも、馬を飼う場合、厩は休ませるところだから、健康的に休める環境を整えてあげることが必要である。馬は暑いのが苦手で、また、湿度が高いのを嫌うようである。体温は38℃ほどで、触るとあたたかい。発汗性動物で、汗をかいて体熱を放散させている。今日の日本の夏の暑さは堪えるであろう。風通しを良くしてあげないといけない。極寒時期でなければ、わざわざ厩に戸をたてる(?)必要はないのである。犬小屋に戸がないように、防犯用の意味の戸はなく、牧で高い塀を築かずとも逃げないように、厩は牢獄ではない。厩に戸というのは矛盾した形容の言葉である(注4)
 この自己矛盾、自己撞着の語が名前として記されていることは、上代の言語論理によく合致している。語用論的パラドックスによる、なぞなぞ、頓智の世界である。f~h図の厩の例に、横木が渡されている。今ではすっかり民俗語彙になってしまったが、それをマセ、マセボウ、マセンボウ、マセカキなどと呼ぶ。
 仮にa~c図のような立派な厩に戸をつけるとしよう。扉は、建築上、もともと円柱形をしていた柱に直接取り付けるものではない。円柱に角材をつけてそこへ扉を納めるようにする。建築用語では、その小柱を方立(ほうだて)という。まことに建築用語らしく、重箱読みである。中古以降に生まれた語であろう。上代には、棖(矛立・桙立)(ほこだち)という。和名抄に、「棖 爾雅注に云はく、棖〈音唐、保古多知(ほこたち) 弁色立成に戸類を云ふ〉は門の両旁の木也といふ」とある。ホコダチの語源は知られない(注5)が、威儀を示すことと関係があるのではないかとの説があり、つまり、矛(方立部分)と盾(扉部分)とを設けることを表すのではないかということである。話に矛盾があることを臭わせている。
門柱・方立・扉(世田谷区の無量寺山門)
 また、戸を閉めた時にぶらぶらにならないために、扉の上下の部分にも当たりがなければならない。家屋の内外を隔てるところでは、下部は土台部分でもともとあり、敷居は踏んで行けないと躾けられる。古語には、閾(しきみ)である。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音域〉は門限也。兼名苑に云はく、一名閫〈苦本反、之岐美(しきみ)、俗に度之岐美(としきみ)〉といふ」とある。曲屋のように厩が人家のなかに設けられている場合はその限りではない。一方、上部は、建てあげてから後、戸の大きさとの兼ね合いを考えながら設置される。楣(まぐさ)という。楣は和名抄に、「楣 爾雅に曰く、楣〈音眉、万久佐(まぐさ)〉は門戸の上の横梁也といふ」、新撰字鏡に「門眉 万久佐(まぐさ)」とある。秣(馬草)(まぐさ)との洒落が登場し、厩に「戸」を仮定すると、それはマグサに違いないと面白がられよう。和名抄に、「秣 漢書注に云はく、秣〈音末、万久佐(まぐさ)〉は粟米を以て飼ふを謂ふ也といふ」とある。この秣という語は、古く清音でマクサと言っていたされるが、濁っていけないこともなく、世の中は澄むと濁るの違いにて、の小咄かも知れない。厩にマグサはない。あるのはマクサだけだ、といったことである。あるいは、用もなく楣が付いているが、肝心なのは秣である、という洒落かもしれない。戸をつけないのにわざわざ楣を拵えることは、民俗の慣習としてお札や絵馬を掲げたいがために行われることはあり得ることである(図h参照)。おそらく、洒落としての巧妙さを考えた場合、上にあるべきマグサ(楣)が下にマグサ(秣)としてあるところが、人屋ではなく馬屋の特色であると言いたいのであろう(注6)
 基本的に、厩に戸(扉)はない(注7)。だから、戸(扉)を取り付けるための方立も必要ない。ところが、方立のようなものが付けられている。マセ、マセボウ、マセガキとなる横木を渡して抜けないようにするためのものである。柱貫という。和名抄に、「欄額 弁色立成に云はく、欄額〈波之良沼岐(はしらぬき)〉は柱貫也といふ」とある。柱と柱とを架け渡すために横に貫いているからそのようにいう。「欄額」という字の示す通り、柱と柱の間に楣、欄間など、立派な装飾物を渡しかけるための仕掛けとして考案された。狩谷◆(手偏に夜)斎の箋注倭名抄には、「欄額を按ずるに、柱の上方の貫く所の材を謂ひ、其の状、楯闌の如く上に在る。故に欄額を名づく。今、伊勢神宮屋舎に之れ有り」などとある(注8)。ところが、厩の場合、その柱貫に取り外し可能な粗野な棒がかけられることになる。横に棒を貫いて柵となり、障害物となって馬は外へ出られない。マセは、機能的には塀や垣、柵と同じことである。柵(サク)という語は地面から垂直に立った障壁を指す語のようである。和名抄に、「柵 説文に云はく、柵〈音索〉は竪木を編む也といふ」とある。また、建造物で直立して立てて上部の荷重を支えるものは柱(はしら)である。和名抄に、「柱 説文に云はく、柱〈音注、波之良(はしら)。功程式に束柱を豆賀波師良(つかはしら)と云ふ〉は楹也といふ。唐韻に云はく、楹〈音盈〉は柱也といふ」とある。それに穴を穿って棒を貫くようにしてあるから柱貫である。その柱という語は、上代に、神さまや高貴な人を数える助数詞に用いられる。厩戸皇子も、用明天皇の「第二子(ふたはしらにあたりたまふみこ)」とハシラ扱いされている。次男坊でフタハシラに当たることに興味が向いているのであろう。ヒトハシラ(一柱)では戸は作れない。諏訪大社の御柱に戸(扉)は付いていない。フタハシラだから、2つの柱の間が戸になる。そして、神さまどうしは一緒にすると喧嘩をするとされ、集会を開くに当たっても「天安河辺(あまのやすのかはら)」(神代紀第七段本文)で集まっている。岩波書店の大系本日本書紀の補注に、「古語拾遺に『天八湍河原』とあるので、ヤスはヤセ(八瀬)の転であろう」(ワイド版岩波文庫①341頁)とあり、州(す)の多いところで川をはさんで対面している情景を想い起させる。同根の語かとされるセ(狭)なるセ(瀬)が幾筋もあるらしい。柱をまとめて束ねることは、ふつうしないものである。東大寺大仏殿のそれは、束ねたものを1柱として何本も立てて建物を構築している。
東大寺大仏殿
(つづく)
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吉野宮蒔絵書棚について

2016年06月08日 | 無題
 東博に新収蔵のゴージャスな調度品です。
吉野宮蒔絵書棚(江戸時代、18世紀、東博展示品)
 東博の平成館の考古室の向かいで、「特集『平成27年度新収品展II』のみどころ」コーナーとして展示されていました。
 「博物館でお花見を」のときは、本館の2階に展示されていたかと思います。
 解説には、「書棚は巻子(かんす)や冊子(さっし)などの書物を飾る棚。蒔絵の他に珊瑚(さんご)象嵌や彫金金具を嵌め込むなど様々な技法を交え、桜が満開の山水や舎殿、庭園を表わし、豪華に飾っている。画中に歌文字を散らしており、持統天皇が吉野へ行幸した際、柿本人麻呂が詠んだ歌を主題にしたものとわかる。」とあって、万葉集の巻1・36番歌が読み下し文で参考表示されています。
 私が見た限りでは、いわゆる葦手で散らされている字は、「秋」「津」「野」「邊」「耳」と見える5文字のようです。他にもあるかも知れません。ところが、万葉集の巻1・36番歌の人麻呂の歌の原文に、「耳」という字はありません。

  幸吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可問

①同部分
②同部分
 下手な写真①の左下のほうに、「耳」の字が見えます。江戸時代の版本などに、「尓」を「に」の変体仮名「耳」で記すようなものがあったということでしょうが、そういう版について調べる気になれませんでした。
 下手な写真②の扉あわせ部の右側に見える字はきっと、「邊」の変体仮名でしょう。もしこれが「過」の草書体に見えるなら、万葉集の巻4・693番歌に、

  大伴宿禰千室謌一首〈未レ詳〉
 如此耳 戀哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二

とあって、訓み下し文では、

 かくのみし 恋ひや渡らむ 秋津野に たなびく雲の 過ぐとは無しに

とされています。大意は、このように恋い続けるのであろうか、秋津野にたなびく雲の過ぎ去ることがないように、といったことだと思います。蒔絵に出てくる「秋」「津」「野」「耳」字があります。693番歌を主題にした作品であるとすると、この豪勢な蒔絵の書棚は、大伴千室なるよく知られない人の、かつ、後ろ髪を引かれるような恋心の未練がましい歌の、単に比喩表現として登場させられているにすぎない「秋津野」を表したいがため、取ってつけたように吉野宮の柄を拵えたということになります。693番歌に、作歌の背景を知る題詞、左注などは見られません。何を歌ったものかといえば、恋の未練にすぎません。それを本歌として書棚がデザインされているとすれば、注文主が片思いをしていた相手に贈った家具であるということになります。この説は、「邊」の字が動かないのでハズレです。
 美術や書道に暗いとこのような邪推をして見てしまいます。これも一つの楽しみ方として、お笑いくださいませ。葦手といわれるものは、仮名(に採用されているもの)については変体仮名の崩し字が多く、漢字についてはあまり崩さないものなのかも知れないと、一つ学びました。
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熈代勝覧レプリカの馬のこと

2016年06月04日 | 無題
 三越日本橋本店地下中央口に掲げられている熈代勝覧(きだいしょうらん)レプリカで、江戸時代後期、文化年間の街なかの馬の様子を見ました。全部で13頭いるのだそうですが、また今度にしましょう。
裃を着けたお侍さんが乗っています。従者が後ろを気にしています。何があったのでしょうか。
上のよりもラフなスタイルです。登城するわけではないようです。それでも両刀を帯びています。
これもお侍さんが乗るためのもののようです。鬣が結われて切り揃えられ、布が掛けられています。寒い時季でしょうか。
荷物を載せる馬のようです。障泥に「舎」の字が染め抜かれています。何屋さんでしょうか。
荷物を下ろした時のようです。大安売りの品物を運ばされたみたいです。ご苦労さまでした。
旅にでも出掛けるのでしょうか、行李をぶら下げたうえで女の人が乗っています。ヨーロッパでは、女の人は跨らなかったそうです。
米俵3つ(60×3=180)です。200㎏ぐらいは載せたようです。尤も、中身が何かはわかりません。

 今のところ、馬の草鞋は見つけられていません。日本の馬は蹄が丈夫なそうです。草鞋を履かせるのは、滑り止めが主な目的のようです。重い物を載せて石段や雪の凍ったところを行かせるのは危険です。時代劇の合戦のシーンでパカパカ効果音を付けるのは、どうやら違うらしく、草鞋を履かせていたのでバサバサいっていたとのことです。
 貞丈雑記の、「馬を養う本意心得」の項に、「厩の馬に、冬は綿入れたる衾(ふすま)を着せておく事有り。馬は野にある時、衾をきる物にあらず。衾などきせて馬の身をおごらすれば、弱くなりて軍用に立ちがたし。能く馬の天性を知るべし」(平凡社東洋文庫④、34頁)とあります。3番目の例に、布が掛けられていますが、少し弱っているようなので、そうしているのかもしれません。

 熈代勝覧について、詳しいことは研究書が出ていますし、ブログで紹介しておられる方もいますから、そちらを当たってください。地下コンコースで、無料で、現物の1.4倍に拡大されて見やすく、楽しい筆致に気分も弾みます。ところで、江戸の街で運送用に使われていた馬は、どこで寝泊まりしていたのですか。クロネコヤマトの営業所のようなところがいくつもあったということですか。運送業者が、伊勢屋、江戸屋、中島屋、大阪屋、山田屋、和泉屋、伏見屋に寡占されていて、駄馬を頼むと1日いくらというような公定価格システムだったのでしょうか。荷主が馬を選ぶとか、馬によって値段が違うとか、大安の日は値段が高いとか、馬が暴れて第三者を怪我させたり大切な荷物を壊した場合の補償など、どうなっていたのでしょうか。ご存知の方、お教えください。
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の三

2016年06月01日 | 論文
承前
 欽明紀に見られる救軍については、マヲス所のいくさ、コフ所のいくさ、といった訓が施されている。要請があって派兵していることを表したいから、「所請」「所乞」といった形が「兵士」、「軍」、「救軍」、「救兵」といった語に冠されている。領土的野心があったわけではないことを示したいからなのか、不明である。この両者を、マヲス、コフと別々に訓むべき特段の理由はない。また、「所」字をトコロと訓まずに、コハセルイクサ、コハセシイクサ、コハレルイクサ、コハユルイクサなどと訓むことに何ら不都合はない。確かなる保証はないが、筆者にはコハユルという訓みが適当であるように感じられる。第一に、「所謂」をイハユルと訓む。同じように、奈良時代までに特有の助動詞を用いて、コハユルと訓まれたとすることに抵抗がない。第二に、欽明紀には、百済が高句麗の攻撃を受けて困っていることが記されている。その際、高句麗軍のことを「強敵(こはきあた)」(二年七月条・五年十一月条・十四年八月条)と言っている。コフ(請・乞)、コハシ(強)のコはいずれも乙類である。コハキアタ(強敵)に対抗するには、コハユルイクサ(所請軍)ということになるであろう。無論、百済語で言っているのではなく、ヤマトコトバに訳した時、そういう話らしいと理解するのに役立つというに過ぎない。それでもヤマトの人にとっては、“わかる”ことだから援軍を送ることになる。わからないことには人も金も出さないであろう。
 高句麗軍のことをヤマトコトバにコハキアタと呼んで納得するのには、甲冑の様子からよく見て取れる。白川、前掲書に、「こはし〔強・剛〕 表面が堅くて弾力性のない状態をいう。『皮(かは)』と同源の語で皮の堅さを示し、その形容詞形とみてよい。それより人の剛強なることをいう」(336頁)とある。そして、「かは〔皮・革・韋〕」の項には、「すべてかたい外皮をいう」(241頁)とある。金属製の甲冑が馬にまで施されている高句麗騎馬兵(注5)に襲撃されては、怖いのである。恐怖感を表すコハシという語は、名義抄で「凌」字の訓に見えるものの、上代に用例は見られない。それでも、語源は同じであろうから、強(こは)い人と喧嘩するのは怖(こは)いという印象は持っていたであろう。あるいは口語表現としてのみあったかもしれない。それに対抗するためには、兵を乞うようにする、コハユルより方法はあるまい。イハユル(所謂)という語が普遍的に謂われていることを指すように、コハユル(所請・所乞)とあれば、全般的に当たり前のこととして請(乞)われていると考えてよいであろう。海外派兵を拒む理由は見当たらない、多国籍軍に参加した方が良さそうだ、という判断材料になると同時にそのように示されている。そのように言われているからそのようにした。言=事とする言霊信仰下における、上代のヤマトコトバである。
攻城図(三室塚、5世紀初、朝鮮画報社出版部編『高句麗古墳壁画』朝鮮画報社、1985年より)
 皇極紀二年十月条の「如卿所噵、其勝必然。」は、山背大兄王が蘇我入鹿に攻めれた時、三輪文屋(みわのふみや)に戦術を提案されたのに対して答えた言葉である。三輪文屋は、「深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移向(ゆ)きて、茲(ここ)より馬に乗りて東国(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)と為て師(いくさ)を興して、還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」と請うている。この部分、小学館の新編古典文学全集本日本書紀③には、「卿(いまし)が噵(い)ふ所(ところ)の如(ごと)く其の勝たむこと必ず然(しか)らむ。」(81頁)と訓じている。その訓では、山背大兄王の言う「卿所噵」が、三輪文屋の言う戦術のことだけでなく、その戦術を採ったら必勝であろうという予想までも含んでいる。そして、念を押して、その通り勝つことは必然であると答えていることになる。旧訓の、「卿が噵ふ所の如くならば、……」と訓むと、「卿所噵」とは、三輪文屋の戦術のことだけを示し、まったくそのようにしたら、勝つことは必然である、と「対へて曰」っているということになる。筆者は、捉え方としては小学館本に賛同したい。山背大兄王は、あなたが言うのと同じようにしたら、あなたの言うように戦いに勝つことも必ずやその通りであろう。だけれども、私は戦いということをそもそもしない。なぜなら、「万民(おほみたから)」に犠牲を強いることになるからだ、と記されている。山背大兄王の念頭には、戦うという発想がない。勝ち負けのことが問題なのではない。そこへ三輪文屋の提案があった。まったくの仮定の話として、思考実験として聞くと、あなたの言う通りに戦いをすれば、「其勝必然」と言っている。三輪文屋の「其勝必矣」を受けて、「『其勝必』然」と言っている。「然り」とは、that’s right. の意である。「諾(うべ)なり」=yes ではない。山背大兄王は、三輪文屋に、その論理展開を逐一辿って行って、あなたは理屈も通っていて、私はあなたのことを認める。理路整然としているし、戦略を考える才能も素晴らしい。だけれども、あなたの請求には応えられない、ということを言おうとしている。よって、「卿(いまし)が噵(い)へるが如(ごと)く、其の勝たむこと必ず然(しか)らむ」と訓むのであろう。「所」字をトコロと訓むと、応答の逐一辿る感がなくなって、論理の話ではなく勝敗の話になってしまう。読めていないということになる。
 大化二年八月条の、「……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当聞解此所宣。)」は、大化二年三月条と併せて見れば、「聞」にウケタマハルの訓があてがわれていることに気づく。「所宣」を承諾して理解せよ、と言っている。「即ち恭みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく(即恭承所詔奉答而曰)」(大化二年三月条)という言い方は、過剰である。何を承けるのか、それは、天皇のお言葉である。お言葉とは、コト(言)である。上に見たとおりである。コトを承けて、理解して実践したり、奉答したりする。何をするか、やはり、コト(事・言)をする。コトのキャッチボールである。「所宣」は、「宣(の)りたまふこと」、「宣たまはむこと」、「所詔」は、「詔りしたまふこと」、「詔りしたまはむこと」、「詔れること」と訓むのがかなっている。大化改新のなかで人々を諭すためには、人々が悟れるように話さなければならないから、相手のふだん喋っている言葉で喋ったに違いあるまい。実際にそう行われたかどうかではなく、台詞として似つかわしく記されているに違いないと思われるからである。大化二年八月条の詔には、「若是(かく)宣ふ所を聞きて(聞若是所一レ宣)」、「朕(わ)が懐(おも)ふ所を聴き知らしめむ(使知朕所一レレ懐)」、「如此(かく)宣(の)たまはむことを奉(うけたまは)れ(如此奉宣)」ともある。「所」字があるかないかは、書き手の気分次第、アンチョコ次第という面も否めないであろう。それをヤマトコトバに戻す際、字があるからトコロと訓を付け、字がなければトコロとは訓付けしないと機械的に表わすのでは、原形の復元には近づかないであろう(注6)
 以上(注7)のことから、日本書紀の「所」+発語に関する動詞のもとの言葉、もともとヤマトコトバで表したかった言葉は、後代に漢文訓読で広まったトコロという言葉ではなく、イヘルコト、マヲセルコト、カタラヒ、イフコト、キキシコト、キコユナリ、ミコトノレル、ノリタマハムコト、ノタマヒシコト、ノタマヘルコト、ノレルコト、マヲサレルコトなどといった訓がかなっているといえる。
 漢文訓読によって新しくトコロという和訓が成立した時期は、記紀万葉に見る限り、飛鳥時代に成ったものでないといえる。多くの先生方の仰るとおり、漢文に見られる「所」字に、場所の意味のトコロの用法と、助辞としての用法があり、そのため、ヤマトコトバのトコロという語を当ててみてトコロという言葉の語意を拡張させて理解するようになっていったということである。早くて奈良時代半ばに、確実に平安時代初期に成り立っていることであろうかと思われる。上代には、古事記のように、選択的に「所」字の使用を控えているやり方と、日本書紀のように(巻により執筆者が異なるから偏りが見られるが、)ためらいなく使われるやり方があったようである。日本書紀の執筆者は、漢文の助辞である「所」をどのように捉えたのであろうか。同じ言葉であるのに、「所」字が脱落している、ないしは、「所」字を添加していない例が近いところに混じっている。案外、その感覚を理解するのは簡単かもしれない。教科書文法ではないということである。万葉集の表記を見ればわかる。どう書いても、通じれば良い。同じ「所念」で、オモホユ(万7)、オボホシ(万29)、オボホス(万50)、オボホエ(万191)、オボホセ(万206)、オモヘ(万635)などと細かく異なる。太安万侶は悩みを打ち明けている。「文(ふみ)に敷き句(ことば)を構ふること、字(もじ)に於ては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述べたるは、詞心に逮(およ)ばす。全く音(こゑ)を以て連ねたるは、事の趣(おもぶき)更に長し」(記序)とある。いろいろなやり方が試みられ、記紀万葉のなかにいろいろなやり方が交差している。最終的な目標は一つである。確かにその言葉(「訓(よみ)と「音(こゑ)」)とわかればいい、それだけである。それしか方法がないからである。「所念」と「所」を添加した理由は、沖森先生ほか述べられているように、オモフとは訓まないよ、という符号、符牒、標識と捉えられて使われたものであろう。「所念之○○」とあるなら、連体修飾格として使っているという意識が強いと解釈されようが、「所」字を上に冠しただけでは、文法的、構文的な意識が高かったとまでは言えないのではないかと思われる。今日、「所」と頭にあるからとして、安易愚直にトコロと訓んでしまっている。今日の言葉の感覚では、それで理解できてしまうからである。その点、反省が求められているようである。万葉集に「所念」とあって、「念(おも)ふ所(ところ)」と訓む例が一例も見られない。沖森先生の、万葉集に見られないからと言ってそういう言い方がなかっとは言えないというご見解はその通りではあるが、歌の七文字に入れようと思えば入るし、表現として面白いかもしれないのにというのが筆者の印象である。同時代の表記において、記紀万葉のなかにたいへんな齟齬、乖離がある。どう書くか迷っていた時代である。どう言うか迷っていたのではない。ヤマトコトバ10万年(?)の歴史がある。今日の人は、言葉に対して鈍感になってしまっているように感じられる。ヤマトコトバは文字を持たなかった。文字を持たないヤマトコトバが人々の間でやり取りされて十全の機能を果たせたのは、言葉が神経質なほど正確であったからではないか。一言半句について、何を言っているか、いちいち定められるから、互いにわかり、通じたのであろう。今日のように字面を頼りにでき、あてがありながら話すのとは、言葉というものの性格が異なることを、肝に銘じなければならない。
 余談であるが、山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館、昭和10年)に、「ところ」という語の「現今の普通文」での濫用とも見える例を、福地源一郎「明治今日の文章」から24例ほど引いている。そして、「今の『ところ』といふ語の起源は漢文中の『所』字の訓読に基づくものなるは争ふべからざるものと思はる」(299頁)とされている。築島、前掲書に同じであるが、「然る所」、「何々に候ふ所」、「何々であつたところ」、「ところで」、「ところが」などとどんどん用法が発展していったもののもとを糺そうとされている。つまり、漢文を訓読するに当たって、「所」字をすべてトコロと訓んで構わないようになってしまった不思議さを、漢文の用例の列挙から探ろうとして、途中で終わっている。動詞の上にある例、助動詞「不」・「勿」等に冠する例、体言を用言として取り扱えるようにする例、それが主格になる例、「有」・「無」の支配を受ける例、国語に訳すと連体格になる例、国語に訳すと「ヲ」格・「ニ」格等の補語になる例、国語に訳すと「に」・「にて」・「なり」・「たり」の賓格になる例を挙げられている。筆者としてもいつ頃、誰ぐらいが、この「所(ところ)」なる和訓を広めたのか興味津々であるが、簡単には収拾が尽きそうもなく、また、奈良時代半ばから平安時代初期のことらしく見当がついたことを(注3)に触れるぐらいで深入りはしないこととする。
 以上、飛鳥時代に「所」字にトコロ訓を当てない排除的な理由を述べた。繰り返しになるが、「所」+発語に関する動詞、の形をとる「所」字に~コトと当てる選択的な理由としては、それが言葉に当たるからである。言葉も事柄もコトであった。それが同じことにならないと訳が分からなくなってしまうから、同じになるように心掛けたのが、言霊信仰の根源である。「所」+発語に関する動詞という形は、発せられた言葉を括弧で括る作用を字面的にはもたらしている。上にトコロと訓む場合、奥まった感じがあると述べた。発語された言葉を括弧で括ってしまって鎮座ましませることに由来するのであろう。その例について、実は本稿では例示していないので、(注3)を参照されたいが、一度発語されたものを括弧で括って、さて、どういう意味であろうか、と受け止めてからそれに対する応答をする場合がある。発語が時間的にかなり前であったり、空間的にかなり離れている場合もある。そういったケースでは、言葉が再現、再生されるとき、ノイズが入るのは仕方のないことである。それでも言葉は言葉に違いないから、本来的にはコトなのである。ご飯大盛りと注文して、意外に少なかったり、軽くしてと頼んで、予想外に多かったりするのは、言葉自体が違っているということではないし、言葉が通じていないのでもなく、その店のコト(盛られたご飯の量)としては“正しい”のである。仲居さんには、「お言葉どおりです」などと差し出す方が居られる。ここに、言葉というものが、言葉として単独に成立しているのではなく、媒介的役割を兼ね備えていること(それがなければ成り立たないのだが、)が浮き彫りになろう。崇峻紀四年の例は、群臣が奏上しているのは、任那の官家を再建することについて、全員、陛下の仰っていることに同じであると言っている。全体主義である。任那の再建に、遅れることもなければ先んずることもない。それが、「奏して言さく」といった二重の言い回しに現れているのかどうかについては、別に論じることにする。「所詔」、つまり、詔に翼賛している。あまり意見というものを持たないのが群臣には身のためになったようである。群臣のみであるが、崇峻朝の時代精神について、この記述からわかる。そうした空気に図に乗った天皇は、軽率な行動から暗殺されてしまう。実にわかりやすいと思うのは、筆者だけであろうか。“読む”ことの醍醐味である。歴史は“読む”ことに始まり、“読む”ことに終わるのであるが、無文字時代、無文字文化のことを記したところは、実は“聞く”ことが大事となる。(注6)を参照されたい。

(注1)ヤマトコトバ本来のトコロという語意については、白川、前掲書に、「『床(とこ)』『底(そこ)』を語根として、神聖の居るところを意味するもので、永遠なるものの意味をもつ語であり、処・所の字義にまさしく対応する」(536頁)とある。本稿では、この点について何ら検討することができなかった。
(注2)丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年)に、「《chien(犬)》という語は、《loup(狼)》なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように、語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである」(96頁)という有名な例示がある。言葉とは、箱の中に入っている饅頭か、圧搾空気の入った風船かという議論である。漢文訓読に由来する「所(ところ)」なる語がないとき、どうであったろうかと仮定しながら議論を進めている。
「言葉の中には《差異 différence》しかない」(同書、同頁より)
(注3)沖森先生は、本論文において、基本的に万葉集と続日本紀の宣命、金光明最勝王経古点の例から検討されている。筆者に疑問なのは、続日本紀の詔を記した宣命の扱いについてである。宣命体と呼ばれる詔の記し方によって、訓みが確かとわかるわけであるが、60以上ある宣命の、まず文武天皇の①文武元年(697)、②慶雲四年(707)、次に元明天皇の③同年、④和銅元年(708)、の次が聖武天皇の⑤神亀元年(724)である。④と⑤の間に16年の開きがあり、都が藤原京から平城京へ遷っている。都が平安京へ遷った時、ヤマトコトバは甲類と乙類の区別がなくなる大変化を起している。平城京へ遷都した時、それほどではなくても、少なからず変化があったのではないかと思われる。なのに、宣命の表記について一律に、同じような言葉遣いであると見て良いのであろうか。(おそらくそうはされていないと思うが、当該論文には触れられていなかった。)
 沖森先生は、春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』(春日政治著作集別巻、勉誠社、昭和60年)から、「~ノトコロ」と補加して訓む点が、諸仏の尊位に関わる例なので、一種の敬語として取り扱われたのではないか、という説を引いている。「敬語表示」としての「所」との関係を導き出している。(注1)に見た白川先生が仰るトコロの本義との関係については触れられていない。
 筆者の想像話で恐縮であるが、真筆が残っていて漢籍や仏典を書写していた聖武天皇や光明皇后は、仏典に「所」字を見て、「~トコロ」と訓んで敬語表示と考えることがあったかもしれないと思うが、宣命の漢文訓読に由来する「所(ところ)」の変遷について、また、「所(ところ)」語義の“世俗化”が起こったといえるのか、本ブログの守備範囲から離れていくので見送ることにする。ご存知の方、お教えください。他方、宣命の①~④詔において、文武天皇や元明天皇に、仏典の教養(?)、漢籍の素養(?)があったか否か不明である。①~④詔に現われる「所」字は、「所知」、「所思」、「所念」といった慣用例ばかりで、「所載(のせ)」のみ珍しい。この「所載」の例は本文で見た。つまり、「所」字は、慣用句的にしか①~④宣命詔には出てきていない。
 そういったなか、藤原京時代、宣命以外の一般の「所」字に、漢文訓読のトコロという訓をつけるだけの“勇気”というか、“慣れ”のようなものがあったのか、想像しにくいところである。それまで、ヤマトコトバで、トコロといえば決まった場所のことで、具体的な場所、その一地点を指していた。それが相対的な位置関係、漠然とした抽象的な意味へまでも拡張しているのである。お経のようななんとも壮大な表現がたとえ話として多く登場してくることに“慣れ”ないと、トコロってどこよ? と聞き返したくなったに違いない。トコロってその辺のことよ、その辺ってどのあたりよ? 無量無辺のトコロよ、といった話に流れて押し問答になってしまう。壮大表現と抽象的な概念は、ともに生身の現実からははずれた meta-な関係にあるように思われ、両者はいっぺんに悟られる事柄のようにも思われる。そのような仮定をした時、さて、それに遡ることおよそ100年の聖徳太子は、漢籍や仏典の「所」字をどのように認識していたか、筆者は勉強不足で想像の翼が羽ばたかない。
(注4)例えば、久米幹文『続日本紀宣命略解』吉川半七、明治26年。また、トコロという語によって、時間に幅を持たせることができることについて、コトという語とのかかわりで述べられている不思議な解説が、福田定良『落語としての哲学』(法政大学出版局、1973年)の「天下之愚著『ことのしらへ』」(225頁以下)に出ている。参考にされたい。
(注5)中国人民革命軍歴史博物館のHPに、南北朝期の馬甲図が紹介されている。本邦に伝えられ、古墳から出土することのある蛇行状鉄器は、もとは馬甲の背に付けられた寄生のことかとされる。強(こわ)くて怖(こわ)いものである。本邦でも金銅製の馬の鞍飾りの上につけられてハタボーとして異形を放ったとする説もあるが、筆者は、鉄器をつけると鞍飾りの金ピカのメッキが傷んでしまうから、実際に旗竿をさすために用いられたことはなかったと考える。蛇行状鉄器は、古墳内の出土個所が他の馬具とは別であるところもあり、なまはげ的なグッズではなかったかと推測している。ご批判を賜わりたい。
蛇行状鉄器(奈良県磯城郡田原本町団栗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
(注6)原形の復元とは何かについては、あまりにも大掛かりな議論になるのでここでは触れない。日本書紀の執筆者が、何を書こうとしていたか、といった程度のこととして捉えていただければここでは十分である。勘のいい方はお察しと思うが、本当は不十分である。
(注7)斉明紀四年八月条の割注に、「或所云授位二階使檢戸口」とある部分、「所」字は、「本」の誤写ではないかと疑われている。ひょっとすると、「或(あるふみ)に、所云(いはゆる)位(くらゐ)二階(ふたしな)を授くによりて、戸口(へひと)を検(かむが)へしむるなり」と訓み、訳も分からない蝦夷の懐柔に当たって、位二階の授与が方便であることがすでに定着しており、イハユルことであったのを示したものかもしれない。
 当然のことであるが、日本書紀の「所」用字例は、本稿であげたものに限らずとても多い。「所」+発語に関する動詞の例としても漏れがあることもあるであろう。後考を俟ちたい。
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の二

2016年05月27日 | 論文
承前
 日本書紀に付されている訓は、いわゆる古訓である。平安時代以降にそう訓むであろうと考えられて付けられている。昔の人が、さらに昔の人のことを慮って、頑張って研究した結果である。上に見るように、「所」字には、トコロという訓が多い。とはいえ、それが必ずしも伝本の全てに付されたものではないことも事実であるし、上にあげた訓み方以外にも例があることは断っておく。第一例に、「所乞(こはし)」、第二例に、「所言(まをすこと)」、第三例に、「所言(まをし)」、第四例に、「所称(まを)す」、第六例に、「〔所〕訴言(まを)す」、第七例に、「有所言(ものもを)さむ」、第八例に、「所談(ものがたりこと)」、第十例に、「所語(かたらひ)」、第十四例に、「所噵(い)ふならく」、第十六例に、「〔所〕必ず褒め讃(あ)げられ」、第二十三例に、「所記(のたま)へる」、第二十四例に、「所須(もち)ゐむ」などとある。また、第五例は、「事(こと)辞(いな)ぶる所無し」とも訓まれている。今日の言い方では、言い逃れる余地がないという意味から、抽象的な比喩表現に「所」にトコロと当てて何ら不自然に感じない。これが厄介な“ところ”である。
 今日的な印象として、関係代名詞風に用いられている「所(ところ)」という語は、少し奥まったことを表しているようである。「その点」、「その折」、「すなわちその」などと「その」と指事される。下接の事柄をまとめて指し示す役割を果たしているといえる。受身や使役、尊敬に当てる場合も、(自)動詞の直接性からすれば捻られている感じがある。その訓として、「所言」を言フトコロと訓めば、言ったことそのままではなく、言ったことの内容、趣旨、という意味にとることができる。例えば、「あいうえお」と言ったとして、それの言フトコロは、ア行音を言っていた、というように、ある種のフィルターがかかっていても構わないことになっている。「竹藪焼けた」の所とは、回文のの一例を示した、「赤パジャマ、……」の所とは、早口言葉の一例を言っている、といった趣旨が同じであることに力点が置かれている。上にあげた例の最後の孝徳紀の例は、宣言したことの意味を悟れ、と天皇自ら言っているように受け取れてしまう。言っていることその言葉一言半句が問題なのではなく、言わんとしている趣旨、趣意、要旨が重要ということになる。旨(むね)のことである。言葉を発するには、口、唇、喉、鼻などが関わってくるが、そもそもの呼気を司るのは肺部分であるし、心(意(こころ))があるのも胸部であったと思われていたから、ムネが肝心のこととなる。
 そもそも、言うこと自体には誤謬が付いて回る。同じことを言っていても人によって言っているニュアンスが異なることがある。同じことを聞いていても人によって受け取るニュアンスが異なることもある。神武前紀戊午年八月条の例は、図らずもそのことを示してしまっている例なのかもしれない。この部分の訓については後に触れる。
 「所言」他の訓み方として、言フトコロといった言い回ししかできないのであろうか。できないのであれば、場所を表すのではない、連体修飾格を作ったり、指事にしたり、受身を表したり、関係代名詞であったり、「所謂(いはゆる)ところ」と重ねて訓んだりするトコロという語が、ヤマトコトバに古くからあったと認められ、上代語は大幅な見直しを余儀なくされる。神武前紀の例から、弁解の余地がないという比喩が罷り通っていて、トコロと言っていたに違いないと考えて良いのであろうか。雄略紀に、イヘルコトアリの例がある。

 古(いにしへ)の人、云(い)へること有り。匹夫(いやしきひと)の志も、奪ふべきこと難しといへるは、方(まさ)に臣(やつこ)に属(あた)れり。(古人有云、匹夫之志難奪、方属乎臣。)(即位前紀安康三年八月条)
 古の人、云へること有り、娜▲(田偏に比)騰耶皤麼珥(なひとやはばに)。〈此の古語(ふること)、未だ詳(つばひらか)ならず。(古人有云、娜▲騰耶皤麼珥。〈此古語未詳。〉)(元年三月条)
 古の人、言へること有り。臣(やつこ)を知るは君に若くは莫し、子を知るは父(かぞ)に若くは莫しと。(古人有言、知臣莫君、知子莫父。)(二十三年八月条)

 雄略紀を記した紀の編者は、なかなかの知恵者である。関係代名詞に当たる文字を記さずに、ヤマトコトバにイヘルコトと訓ませるべく工夫されている。英文和訳でも、関係代名詞をトコロと訳さないで伝えるようにした方がわかりやすい。イヘルコトとは、言(云)ってしまわれて完了している“こと”、である。言ってしまって完了しているのは、言葉が事柄に転化しているような“こと”である。だから、「古人有云」とだけ書けば、イヘルコトとしか訓めないことになっている。古人の言ったことは確かめることはできないが、繰り返し暗誦されるような文言だから、イヘルコトなのである。しかし、第2例の「娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)」は「汝人や母似」の意であろうと解されながら、「此古語未詳」なる割注も入れている。何故このような語を持ち出したのか、後代の読者は不思議がらなければならない。わからなくなってしまっている言葉は、言霊信仰において、言=事とする際、どのように作用するのであろうか。大問題であると思うが、言葉というものは実際問題としてわからなくなるものである。それを趣旨さえわかればよろしいという発想から、「所」字はないが、イヘルトコロと訓じてしまうことも今となっては受け入れられる。トコロという語に慣れてしまっている。けれども、言霊信仰は、言葉の主旨が問題なのではなく、言葉そのものが重要なのである。ナヒトヤハバニが「云へる“こと”」であり、「古“こと”」であるのはそういう事情からである。そうでなければ、コトという語に、言葉と事柄とを含めてしまうヤマトコトバ的な発想は生きて来ない。word と thing の間に何ら通用する“ところ”はない。
 雄略紀元年三月条にある、「咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(咸言、如卿所噵。)」は、コトのオンパレードなのであろう。みんなが言っていることは、あなたが言っていることと同じようなことである、の意で、「咸言ふコト、卿が噵ふコトの如(ゴト)し」と畳みかけているとすれば、発語としての面白味と現実味がある。「如(ごと)し」という語は、同一を意味するコトに形容詞の語尾シが付いた形である。つまり、ここで雄略天皇が言っているのは、この状況について、皆もあなたも言っていることは、「ことごと(尽・悉)くごと(如)し」である。ここにトコロなどという合い間を入れてしまったら、小咄は頓挫、場は白けてしまう。笑劇場は閉鎖であろう。
 舒明前紀の例に、推古天皇が何と言っていたか、天皇の遺勅の言葉尻が問題とされている。曖昧な遺勅の言葉尻によって、趣旨、すなわち、次期天皇に誰を指名する気だったのかが違ってくるからである。山背大兄王は、推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)」の一言半句について、「少少違」うと主張している。それは、趣旨が違うという主張であるより先に、言葉(尻)そのものが違うと言っている。曖昧な遺勅の解釈の問題以前に、曖昧な遺勅の原語の一言半句を問題にしている。一言半句によって事柄が変わってくるということを、山背大兄王はよく理解しているように感じられる。今日のように、遺言書の形態がなかったとき、遺勅は重要である。遺言書の形態があっても、法的拘束力を持つかどうかは時の政権による。豊臣秀吉はどうしようもなかった。翻って、上代に遺言書はない。そもそも「書(ふみ)」というものがとてつもなく珍しい。遺された人が読めないものを書かれても、何の役にも立たない。では、何の頼りもないかといえば、そういうことはないであろう。なぜなら、仮にそうであるとすると、無秩序状態に陥ってしまうからである。無文字社会は始終アノミーであったという考えは当たらない。文字社会の方が、かなり“野蛮”である。無文字社会において社会を成り立たせる規範とは何か。ヤマトの場合、それは、言=事とする言霊信仰にあった。事柄をそのままに言うようにするとともに、言ったことは事柄となるようにする。そう決める。だから、推古天皇の遺勅の言葉尻のようなことが山背大兄王と蘇我蝦夷側とで争われ、揉めることになる。山背大兄王の言うことはマジである。采女が聞いたとすることと大の大人の、それも聖徳太子の息子で聡明とされた人が言い争うなど恥ずかしくないかと思うが、決して形骸化していない。言霊信仰の下にあったからであろう。
 舒明前紀の、「群卿所噵」と「我之所聆」の「所」が、趣旨の意とは解されていないとわかった。推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)の一言半句が問題であった。オホミコトとは、オホ(大)+ミ(御)+コト(言)の意である。オホ(大)やミ(御)は尊敬の称である。コト(言)がコト(事)となり、次期天皇となる。したがって、「所噵」をイフトコロ、「所聆」をキクトコロという冗漫な訓は、少々違うようである。言葉が事柄に直結するから、言葉そのものが問題なのである。トコロが問題ではなく、コトが問題である。「所噵」はイフコト、「所聆」をキキシコトという訓みが正しいものと考えられる。確実に自分は聞いた、という意であるから、キケルコトではなく、キキシコトである。
 事柄の内容、趣旨を示すために「所」字を使っている場合もあるのではないかとの反論もあるであろう。一例をあげる。

 式(も)ちて呈奏(いたせるまをしごと)を聞(き)きて、爰(ここ)に憂(うれ)ふる所(ところ)を覿(み)れば、日本府(やまとのみこともち)と安羅(あら)と、隣(となり)の難(わざはひ)を救(すく)はざること、亦(また)朕(わ)が疾(いた)む所なり。(式聞呈奏、爰覿憂、日本府与安羅、不隣難、亦朕所疾也。)」(欽明紀九年四月条)

 この部分、小学館の新編全集本日本書紀②の訳に、「爰覿憂」を「その憂慮の内容を考えてみると」(411頁)とされている。「所」を、内容のことと解釈されているのである。ここに、とても珍しい「覿」字が用いられている。何から引いたものか筆者は勉強不足でわからないが、天罰覿面というように、目の当たりに直面することを示す字である。内容を頭でよくよく考えてみたらわかったということではなく、憂い極まる上奏と直に向き合うと、の意味であろう。「式(も)て呈奏を聞きて、爰に憂(うれ)ふるを覿れば、日本府と安羅と、隣の難を救はざること、亦朕も疾(うれ)ふ。」と直説話法で捉えるのが正しいのではなかろうか。百済から派遣されている使者、中部杆率掠葉礼(ちうほうかんそちけいせふれい)等を謁見していて、その悩める表情をつぶさに見ているから、このような詔が発せられたものと思われる。「憂(うれ)ふ」る様を「覿(み)」て、「朕(われ)も亦」、同じように「疾(うれ)ふ」と同調したのである。「爰」とその場であること、「亦」と同じであることが明記されている。「憂」と「疾」と別の字があてがわれているが、ヤマトコトバとしては同じウレフを表したものであろう。字義の違いを表現に及ぼした巧みな書き方といえる。そして、冗漫で奥まったトコロ訓では意味が通じないとわかる。残念ながら伝本にそのように訓まれた傍訓は残らないが、字を選びながら的確に記されていると考えられるので、筆者はこの訓みが正解であると思う。
 雄略紀八年二月条の例、「説其所語」の「所語」には、カタラヒ、と兼右本に傍訓がある。また、皇極紀三年正月条の「便以所語」の「語」に、カタラフ、と岩崎本に傍訓がある。雄略紀八年の例からみて正しいといえようが、カタルではなくカタラフと訓むべきであると思われたのには、動詞語尾フを接して、カタリ(語)+アフ(合)という相互的な意味を強調したかったからであろう。遊仙窟に、名詞形の「朝聞烏鵲語(カタラヒ)」と訓まれている。小学館の新編全集本日本書紀③の「語(かた)らふ所(ところ)を以ちて皇子に陳(まを)す」とある個所の頭注に、「鎌子が語った言葉。『家伝』上に『舎人、語ラヒヲ軽皇子ニ伝フ。皇子大ニ悦ブ』。」(85頁)と注されている。鎌子(中臣鎌足)が語った趣旨の意なら、「語(かた)る所(ところ)」と訓むべきである。鎌子と舎人が相語り合うこと、仲睦まじく会話すること、カタラフことのなかで出てきた言葉だから、カタラフ、カタラヒという訓が現れるのではなかろうか。鎌子の言葉は直前に、「便(すなは)ち遇(めぐ)まるるに感(かま)けて舎人に語りて曰く、『……』」とあって、『……』ときちんと示され、「舎人を宛てて馳使(つかひ)とせるを謂ふなり」という割注が付けられている。鎌子が中大兄と仲睦まじく親交するに至る伏線としての話である。鎌子は軽皇子とではなく、その宮に仕える舎人と仲睦まじいらしい。だから、鎌子は軽皇子に直接言わずに、舎人を介している。それはまた、直接言ってしまったら約束のようなことになってしまうし、舎人を介して言っている限り、噂話のようなものだからであろう。言=事、言霊信仰の下にある人の性格上そのようになりやすい。今日においても、直接は言わずに蔭で言う感覚はわかるのではないか。つまり、ここは、鎌子が本心から語った言葉かどうかは確かにはわからないような、その場に「感(かま)け」た雰囲気的なカタラヒのことであると考えなければならない。鎌子が感けている。「所語」は、カタラヒと訓むのが正しいのであろう。カタラフトコロなる冗漫な訓を、話し合った内容、趣旨の意と考えようにも、鎌子と舎人が四方山話を繰り広げたなかでの一部分であろうから、適切な訓とはならない。語り合いのなかの断片を舎人は軽皇子に陳述したのである。遊仙窟の「語(カタラヒ)」も、鳥(ヒトカラス・マラウドカラス)の鳴き声を、言葉としては断片であると捉えることで譬えている。鳥“論語”を指しているのではない。
聖徳太子絵伝(部分)(絹本着色、南北朝時代、14世紀、川合玉堂氏寄贈、東博展示品。鎌子だから鎌で入鹿の首を飛ばしている。)
 崇峻前紀の「此の犬、世に希聞しき所なり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある。すぐ近くに、「養(か)へる白犬(養白犬)」、「養へる犬(所養之犬)」とある。「所」字があろうがなかろうが、ヤマトコトバとしては同じらしい。すると、「此の犬、世に希聞(めづら)し」と訓んで構わない。また、後ろの文とあわせて、「此の犬、世に希聞(めづら)しきこと、後に観(しめ)すべし。(此犬、世所希聞、可於後。)」と訓むことも可能である。筆者にはそれが正解であるように思われる。
 他に、崇峻紀五年十月条のついでの例、「朕所嫌之人」に、「朕(あ)が嫌(ねたしとおも)へる人」、「朕(み)が嫌(そね)む人」といった別訓もある。「朕(あ)が所嫌之人(そねむひと)を断る」と訓まれたらしい。白川先生ご指摘の、古事記の「所持之生大刀(もたるいくたち)」のようにである。紀でも例えば、「所問(と)ふ意趣(こころ)を知(しろ)しめさずして(不知所問之意趣)」(垂仁紀四年九月条)、「嶋の神の所請(こは)する珠(嶋神所請之珠)」(允恭紀十四年九月条)、「天皇の所宣(のたま)ふ詔(天皇所宣之詔)」(欽明紀五年二月条)、「所乞之意(まをすこころ)」(斉明紀六年十二月条)などとある。するとそこに近い、「天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(聞天皇所詔、恐嫌於己。)」の「所詔」も、「天皇のミコトノレルを聞きて」と訓めば良いと知れる。蘇我馬子は漢文表現で難しい詔の内容を解釈するのに熟考したのではなく、イノシシを殺す譬えが自分に向いているらしいと気づいたに過ぎない。ならばドミノ式に、欽明紀二年四月条A、崇峻紀四年八月条、孝徳紀大化二年三月条の「所詔」も、内容的には大したことを詔していないことから、トコロと訓む漢文訓読は似合わないとわかる。ミコトノレル、ノタマヘルなどと訓めばふさわしい。欽明紀二年四月条Aの、「日本の天皇の詔(のたま)へるは、全(もは)ら、任那を復建(かへした)てよといふを以てせり」とあるのは、ぶっちゃけた話、日本の天皇の詔は、もっぱら任那を復建せよといっているだけだ、といった感じである。だから、「全」という語が登場している。詔に複雑に入り組んだところがあって晦渋にしてわからないということではなく、ちょっと長いだけで話は簡単で、端的にいえば(=「全ら」)、任那の再建せよということだ、という意味である。そういった個所の「所詔」にトコロという訓が登場しては、表現の雑駁感が損なわれてしまっていただけないことになる。
 また、仁賢紀の「即ち言ふ所(ところ)を知れり」も、「諾(せ)」という言葉(音)が、「兄(せ)」という言葉(音)と合致する洒落であることに話の焦点があるから、「即知所言矣。」は、ズバッと、「即ちイヘルコト知れり。」と訓まなければ意味が十全に通じないことになる。「即」字が生きて来ない。継体紀の、「推問所奏、和解相疑」についても、「奏す所(ところ)を推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓むのでは、双方の言い分を弁護士を介して聞くことになり兼ねない。実際、記事では、新羅、百済の両国は使者を派遣しただけだったので、毛野臣は天皇の勅を伝えなかった。その結果、新羅は軍勢を率いて勅を聞きたいとし、なお応じなかったことから四村で掠奪されるに至っている。「或(あるひと)」の言葉として、毛野臣の外交的な「過(あやまち)」であると総括されている。けれども、「奏すトコロ」を推問するのではなく、「奏すコト」を推問せよとの詔であったから、近江の毛野臣は両国の王の言葉を直接聞こうと思ったのであろう。使者しか送って来なかったからと言って怒っていては話にならないのは確かである。けれども、なぜ話にならないかといえば、「詔を伝える体面と手段にこだわ」(小学館新編全集本日本書紀②318頁頭注)った点にあるのではない。ヤマトコトバを話し、ヤマトコトバしかわからない毛野臣が、朝鮮語しか知らず、朝鮮語しか話さない新羅王や百済王の言葉を直接聞いても、推問にはならないからである。通訳、古語にヲサを介する融通が利かなかったから、事態をヲサ(収)めることができなかった。全体の文脈を読み解けば、当該部分は、「奏(まを)すことを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓まなければ、言(こと)=事(こと)であるとする言霊信仰が、ヤマトコトバにしか通用しないこと、つまりはそれが、外交的には何の役にも立たないことを語る記事になっていることを伝えない。日本書紀記者の深意を表わさないことになる。
 同様のことは、欽明紀五年十月条にも言える。「奏(まを)す所(ところ)の……が事は、報勅(かへりみことのり)無し(所奏……事無報勅也)」の……部分は人名である。「所奏事」を真っ直ぐに訓めば、「奏(まを)せる事」である。その訓みが正しそうなことは、コトと訓むことによって、「報勅(かへりみことのり)」のミコトノリ=ミ(御)+コト(言)+ノリ(宣)と対照する。トコロと訓むのは、まごろっこしいと知れる。
 欽明紀五年三月条の、「朕曾(いむさき)より聞きし所(ところ)なり(朕所曾聞)」という訓には、どっちつかずの中途半端さがある。長い百済王の上表文の一文である。キキシと言っているのなら、前から確かに聞いていた、とはっきりしているのに、トコロと漠然とした感じをつけられては、実際に聞いていたのか、間接的に聞き知っていたのか、わからなくなる。例えば、キケルトコロナリ、ならば、聞いていたような気がすることだ、という意味にはなる。しかし、そうなると、最後にナリと断定する矛盾に遭遇する。百済王が、新羅は的臣等が往来したことで、農耕ができたということを前から聞いている、と言おうとしている箇所である。百済王が、新羅のかつての農耕事情について研究したり講義を受けていたりしているとは考えにくいので、伝聞として、あるいは食客から、以前、聞いたことがあるということであろう。奈良時代までの伝聞の助動詞ナリを、断定の助動詞ととり誤ったのではないか。「朕(われ)曾(いむさき)より聞こゆなり」、私には以前より、噂話で耳に入ってきていた、の意味である。「夫れ葦原中国は猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。」(神武前紀戊午年六月条)とある。万葉集では、「所聞」に下二段動詞「聞こゆ」(万238・930他)の例が活用形を含めて25例ほどある。「聞こゆ」だけで伝聞を表すから、さらに活字化されていない伝聞の助動詞ナリを加えるのは屋上屋を構築するような言い回しである。「朕(われ)曾(いむさき)に聞こゆ」で良いのではないかと思われるが、原文語順に「朕所曾聞」とあり、「朕曾所聞」とはなく、「曾」に紀特有の訓、イムサキニの展開形、イムサキヨリと伝本傍訓から訓まれるらしい点から考えて、含むところがあるように見受けられる。イムサキニは、「去(い)にし先に」の約とされる。過ぎ去った先に、である。それをさらに強めた表現が、過ぎ去った先より、イムサキヨリである。ならば、受ける側も、キコユ(伝聞の動詞)+ナリ(伝聞の助動詞)と強調されているのであろう。(つづく)
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の一

2016年05月22日 | 論文
 「所」という字について、指事用法として漢文訓読でトコロと訓むことがあり、ヤマトコトバ本来のトコロという語(注1)の拡張として捉えられることが多い。ヤマトコトバでは、本来、トコロに場所以外の意味はなかった。地点、箇所、区域などの空間的な範囲を示す語である。“ところ”が、築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』(東京大学出版会、1963年)に、「本来の日本語のトコロとは合はない例もある。例へば、 所得 所言 所感 所期 などは、『得ルコト』『言フコト』『感ズルコト』『期スルコト』などの意味である。即ち『所』は動詞に冠して体言を形作つてゐるわけであつて、この場合には場所・区域・箇所といふやうな空間的な意味は全く認められない。従つて本来の日本語のトコロとは全く別の意味である。それを『所』の字に引かれてトコロと訓じたのであつて、かやうなトコロの用法は訓読特有である」(381~382頁。漢字の旧字体は改めた。)とある。
 上代に、トコロ(ト・コ・ロはともに乙類)という語が、場所の意以外に使われたとは考えにくい。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「ところ[所・処]」の語義に、「①場所。空間上の一点をさす。……②助数詞」としかなく、漢文訓読風に言っていたとは知れないのである。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、古事記の「用字法には、かなりの一貫性がみられる」とし、「所は百数十例の大部分が『所遊(あそびませる)』『所生(うみませる)』のような助動詞の用法か、あるいは関係代名詞としての、『其の汝(いまし)の所持之生大刀(もたるいくたち)』のような用法が四例。特定の場所をいうものは『王子(みこ)の坐(いま)す所(ところ)』〔記、応神〕の一例があるのみである」(536頁)とある。どうやら、太安万侶の辞書に、漢文訓読語「所(ところ)」はないようである。それが太安万侶の時代に共通することか、彼一人にかかっていることか、どこまで研究されているのかさえ筆者にはわからない。
 何が問題かといえば、もし上代に、漢文訓読調のトコロなる言葉があった、使われていた、話されていた、と想定されると、日本書紀などの会話体の中にも言葉として登場することになる。上代語にすでに漢文訓読語のトコロが蔓延していたことになる。上代語の概念を根底から変えなければならなくなる。第一に、トコロが場所を指す言葉としてヤマトコトバに概念形成されているのに、別の言葉、コトの代替として使われていることがあったら、範疇を定める言葉そのものの意義が怪しくなってしまう(注2)。それが大問題に発展するのは、言葉が事柄と同じことであるとする言(こと)=事(こと)、即ち、言霊信仰自体が揺らいでいたことになってしまうからである。第二に、漢文に見られる「所」字に引かれてトコロと訓むことが、即ち、漢文訓読語が生れていたとすると、大勢の人たちが漢字を日常的に読んでいたことにつながりかねない。初期万葉の作品に口承性が指摘されていることと相矛盾する。たとえ漢文訓読語の「蓋(けだ)し」という語が額田王歌に見られるにしても、他の言葉の概念範疇に牴触する問題にはならず、新概念の話のみで済むものかとも思われる。しかし、コト(事)、トキ(時)、ヒト(人)という語と牴触してしてトコロ(所)という語が用いられ始めると、コト、トキ、ヒトなどそれぞれの語が厳密に定められていたヤマトコトバの決めごとが揺らいでしまうことになる。曖昧模糊になっていく。本稿では、テキストを手掛かりに、“読む”という作業を行って、果して漢文訓読語「所(ところ)」が上代、それも飛鳥時代にあり得るかを明らかにしようと思う。念のために断っておくと、表記の字面が問題なのではなく、表記されているものが漢文訓読に使う助辞のトコロという語を書き記すために用いられた文字(漢字)であるかどうかを確かめようとするものである。
 万葉集においては、漢文の訓読によってもたらされたと思われる「所(ところ)」という訓み方は知られない。沖森卓也『日本古代の文字と表記』(吉川弘文館、2009年)に、「万葉集に『連体形+トコロノ』の訓みが考えられないことによって、上代における『所』の連体修飾格が完了の助動詞リの連体形ルで訓まれてきたようであるが、仮に万葉集の表記に助動詞ル表記の類推が少なからず働いていたとすれば、万葉集の訓法を根拠として『連体形+トコロノ』の訓みがなかったとは言えないであろう」(109~110頁)という適切な指摘がなされている。「言えない」だけで、「あった」とも「なかった」とも仰られていない。筆者は“ずるい”と思うが、仕方がないことである。沖森先生のお考えでは、「所」字には、「一 場所の意」、「二 助動詞ユ、ラユ、ル、ラル」、「三 ル音節表記(連体修飾格表示)」、「四 ヤ行エ・レ音節表記」、「五 敬語表示」、「六 熟合、義訓、音仮名ソ乙類」というように、ヤマトコトバの音を基軸の1つとしてあげられている。文法的に何かという解説から、実際に言葉を使う立場へと足を踏み入れられている。初めに音声としての言葉ありき、へと歩を進められている。
 とはいえ、「所」字をトコロと訓むべき例のなかに、本来の場所の意と形式名詞の例とを一緒にして、あまり考察されていない点は、筆者には不満である。「言葉の中には《差異 différence》しかない」というソシュールの思想をもとに、ヤマトコトバを一語一語考えていく場合、形式名詞のトコロが現れた現れ方が気になるのである。沖森先生が場所の意の中にあげられている形式名詞の用例は、続日本紀の宣命である(注3)

 何志岐止志氐加然将為(第18詔)(何(なに)を怨(うらめ)しき所(ところ)としてか然(しか)将為(せむ)(天平宝字元年(757))
 知所押勝(第26詔)(知(し)る所(ところ)も無(な)く怯(つたな)く劣(をぢな)き押勝(おしかつ)が)(天平宝字四年(760))
 天授賜方牟(第31詔)(天(あめ)の授(さづ)け賜(たま)はむ所(ところ)は)(天平宝字八年(764))

 筆者も、これは漢文訓読によって作られたトコロという語であり、トコロと訓んでいたと考える。コトやヒトという訓みを当てる方もおられる(注4)。また、

 是以令文所載多流乎跡止為而(第2詔)(是(ここ)を以(もち)て令(のり)の文(ふみ)に載(の)せたるを跡(あと)と為(し)て)(慶雲四年(707))

について、「この『所』字はノルに対する他動詞ノスを表わすのではなく、漢文表記に影響された、いわゆる『指事之詞』の用法であり、ノセタルトコロというほどの意味であると見られる。興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点には、
 経所載宝荘厳〈経(ニ)(に)(ノ)セタル所ノ宝荘厳ノ〉(巻十49)
と訓読した例がある(築島裕『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文篇』東京大学出版会、一九六五年による)」(122頁)とも記されている。
 この第2詔の「所」を「ノセタルトコロというほどの意味」とするのは当たらないと考える。訓み下すと、「是(ここ)を以(もち)て令(のり)の文(ふみ)に載(の)せたるを跡(あと)として」である。意味は、藤原不比等が天皇(文武天皇)に仕えてくれたのは今に始まったことではなく、天武・持統天皇のときからである。藤原鎌足が孝徳天皇に仕えてくれた様が建内宿禰が天皇に仕えたのと同じ事だと詔して大錦冠を授けて増封したことがあった。そういう次第で大宝令の条文に載せてあるのを基準として、禄令に従って食封を授けよう、ということである。大宝令に載っている条文をただ適用する、ということを言っているのではなく、大宝令の条文の成立に、父親の藤原鎌足の事績が関わっていること、だから大宝令にそのような条文を載せた。それと同じように、藤原不比等も仕えてくれた。だから、よく仕えるのと令の条文を適用するのとは一時的な関係ではなく、連続的なスパイラルであると言っている。そのため、そこに続く詔は、

 随令長遠、始今而次々被賜将往物叙止(令(のり)の随(まにま)に長(なが)く遠(とほ)く、今(いま)を始(はじ)めて次々(つぎつぎ)に賜(たま)はり往(ゆ)かむ物(もの)ぞと)

となっている。禄を賜われば、不比等の子もまたよく天皇に仕え、それでまた禄を賜わり、さらにまたその子もまたよく天皇に仕え、を繰り返すであろうから、という意味である。このスパイラルを言いたいとき、「載せたるを」の助詞ヲは、強い意を持った接続助詞である。助詞のヲは感動詞の「諾(を)」に始まるとされ、その意の流れを汲んだ使い方といえる。そして、「令文」に「所載」したのは、藤原鎌足が伝説にいわれる建内宿禰のようによく仕えたことがもととなっている。たまたま「令文」に載っているのではなく、不比等のお父さんの鎌足が原因で「令文」に載せたのである。よって、「ノセタルトコロというほどの意味」ではなく、宣命の訓み方どおり、ノセタルヲと訓まなければならず、他動詞ノスを表したかったために「所」字が冠されているといえる。なお、以上の読み方によって、「跡(あと)」という語が、基準でありつつ先例であることの語義がつかめると思う。
孝謙天皇宣命(正倉院古文書正集第四十四巻(奈良国立博物館編『第五十四回正倉院展目録』同発行、平成14年、68頁)より。)
 さて、日本書紀に見える「所」の例を見てみることにする。古事記同様、「所帯(はかせる)」、「所生(うめらむ)」、「所謂・所云(いはゆる)」のような助動詞の用法(「所」は連体修飾格を形成する)も多く、「所以・所由(ゆゑ)」とヤマトコトバ一語に相当する例もある。「所由」のような字面から、ヨンドコロなる漢文訓読語があるが、それが上代にヨルトコロなどと言われていたのかどうか、にわかには信じがたいため、ここに一席設けようとしている。まず、築島先生の指摘される、「~コト」を表す「所」の好材料として、筆者は、日本書紀における「所」+発語に関する動詞、の例をいくつか見ることにする。

 猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、(随猨田彦神所乞、)(神代紀第九段一書第一)
 今、汝(いまし)が所言(まをすこと)を聞くに、深く其の理(ことわり)有り。(今者聞汝所言、深有其理。)(神代紀第九段一書第二)
 故、天孫(あめみま)、鰐(わに)の所言(まをし)の随(まにま)に留り居(ま)して、相待つこと已に八日なり。(故、天孫随鰐所言留居、相待已八日矣。)(神代紀第十段一書第四)
 狭野(さの)と所称(まを)すは、是れ年(みとし)少(わか)くまします時の号(みな)なり。(所-称狭野者、是年少時之号也。)(神代紀第十一段一書第一)
 事(こと)辞(まをしさ)る所(ところ)無し。(事無辞。)(神武前紀戊午年八月条)
 日(ひる)に夜に懐悒(いきどほ)りて、え訴言(まを)すまじ。(日夜懐悒、無訴言。)(垂仁紀五年十月条)
 川上梟帥(かはかみのたける)叩頭(の)みて曰(まを)さく、「且(しばし)待ちたまへ。吾(やつかれ)有所言(ものもを)さむ」とまをす。(川上梟帥叩頭曰、且待之。吾有所言。)(景行紀二十七年十二月条)
 悉(ふつく)に所談(ものがたりこと)を聞きつ。(悉聞所談。)(雄略前紀安康三年八月条)
 此れを見る者(ひと)、咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(見此者、咸言、如卿所一レ噵。)(雄略紀元年三月条)
 遂に国に逃げ入りて、其の所語(かたらひ)を説く。(遂逃-入国、説其所語。)(雄略紀八年二月条)
 鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言ふ所(ところ)を知れり。(鹿父曰、諾。即知言矣。)(仁賢紀六年是秋条)
 并せて任那(みまな)に在る近江毛野臣(あふみのけなのおみ)に詔(みことのり)すらく、「奏(まを)す所(ところ)を推(たづ)ね問ひて、相疑ふことを和解(あまな)はしめよ」とのたまふ。(并詔任那近江毛野臣、推-問所一レ奏、和-解相疑。」(継体紀二十三年四月是月条)
 日本(やまと)の天皇(すめらみこと)の詔(のたま)ふ所(ところ)は、全(もは)ら任那(みまな)を復(かへ)し建てよといふを以てせり。(日本天皇所詔者、全以-建任那。)(欽明紀二年四月条A)
 別(こと)に汝(いまし)の噵(い)ふならく、卓淳(とくじゅ)等の禍(わざはひ)を致さむことを恐るといふは、……。(別汝所噵、恐卓淳等禍、……。(欽明紀二年四月B)
 是れ天皇の為(みため)に必ず褒め讃(あ)げられ、汝(いまし)の身のために賞禄(たまひもの)せられむ。(是為天皇必褒讃、汝身所当賞禄。)(欽明紀二年七月条)
 乃(すなは)ち追(め)して天皇の宣(のたま)ふ所を問はしむ。(乃追遣天皇所一レ宣。)(欽明紀五年二月条)
 ……的臣(いくはのおみ)等の新羅に往来(かよ)ふに由りて、方(まさ)に耕種(なりはひ)すること得たるは、朕(われ)曾(いむさき)より聞きし所なり。……(……由的臣等往-来新羅、方得耕種、朕所曾聞。……)(欽明紀五年三月条)
 ……日本(やまと)より還りて曰へらく、奏(まを)す所(ところ)の河内直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都等(まつら)が事は、報勅(かへりみことのり)無しといへりといふ。(還日本曰、所奏河内直・移那斯・麻都等事、無報勅也。)(欽明紀五年十月条)
 請(まを)す所の兵士(いくさびと)(所請兵士)……請す所の軍(いくさ)(所請軍)(欽明紀五年十一月条・十四年六月条)
 乞ふ所の救軍(すくひのいくさ)(所乞救軍)……乞ふ所の救兵(すくひのいくさ)(所乞救兵)……乞ふ所の軍(いくさ)(所乞軍)(欽明紀九年正月条・十年六月条)
 大王(きみ)の述べたまふ所の三つの策(はかりごと)、亦愚(わ)が情(こころ)に協(かな)へり。(大王所述三策、亦協愚情而已。)(欽明紀五年十一月条)
 仏の、我が法(のり)は東(ひむかし)に流(つたは)らむ、と記(のたま)へるを果すなり。(果仏所一レ我法東流。)(欽明紀十三年十月条)
 王(こきし)の須(もち)ゐむ随(まま)ならむ。(随王所一レ須。)(欽明紀十四年六月)
 大舎(ださ)、国に還りて、其の言ひし所を告ぐ。(大舎還国、告其所一レ言。)(欽明紀二十二年是歳条)
 此の犬、世に希聞(めづら)しき所なり。(此犬世所希聞。)(崇峻前紀用明二年七月)
 群臣(まへつきみたち)奏(まを)して言(まを)さく、「任那の官家(みやけ)を建つべきこと、皆(みな)陛下(きみ)の詔したまふ所(ところ)に同じ」とまをす。(群臣奏言、可任那官家、皆同陛下所一レ詔。)(崇峻紀四年八月条)
 天皇、猪(ゐ)を指(ゆびさ)して詔して曰はく、「何(いづれ)の時にか此の猪の頸を断(き)るが如く、朕が嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人を断らむ」とのたまふ。……蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(天皇指猪詔曰、何時如此猪之頸、断朕所嫌之人。……蘇我馬子宿禰、聞天皇所一レ詔、恐於己。)(崇峻紀五年十月条)
 ……然るに、今し群卿(まへつきみたち)の噵(い)ふ所(ところ)の天皇(すめらみこと)の遺命(のちのおほみこと)は、少少(すこ)し我(おのれ)の聆(き)きし所(ところ)に違(たが)へり。……(然、今群卿所噵天皇遺命者、少少違我之所一レ聆。)(舒明前紀推古三十六年九月条)
 卿(いまし)が噵(い)ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ずや然らむ。(如卿所一レ噵、其勝必然。)(皇極紀二年十一月条)
 舎人(とねり)、便ち語らふ所を以て、皇子(みこ)に陳(まを)す。(舎人、便以語、陳於皇子。)(皇極紀三年正月条)
 果して言ふ所(ところ)の如くに、治めて差(い)えずといふこと無し。(果如言、治無差。)(皇極紀四年四月条)
 若し其の伴造(とものみやつこ)・尊長(ひとごのかみ)、訴ふる所を審(あきら)かにせずして牒(ふみ)を収め匱(ひつ)に納(い)れば、其の罪を以て罪せむ。(若其伴造・尊長、不訴収牒納匱、以其罪々之。)(孝徳紀大化元年八月条)
 ……臣(やつかれ)、即ち恭(つつし)みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく、……。(臣、即恭承詔、奉答而曰、……。)(孝徳紀大化二年三月条)
 ……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当-解此所一レ宣。)(孝徳紀大化二年八月条)(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の五

2016年05月08日 | 論文
承前
(注1)1字目は「台」で「治」の省画字、5・6・7・56字目は削れていて見えず、36字目は「六」または「九」か、43字目は見えるようで見えず見えないようで見えるような字、70字目は「和」か「加」かとされる。
(注2)列島に鉄製鋳造釜は根づかなかった。土器の長甕を支脚にのせて立て、隙間を粘土で塞いで固めてしまった。そこは常に湯が沸いており、水が追加されながら甑を載せて蒸し料理が行われた。鉄の釜は中世に至るまでかなりの間、一部寺院などを除いて広範には用いられなかった。文化の違いであった。
五綴鉢(ごてつのはち)(鉄製鍛造、奈良時代、8世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
(注3)「讞」という字は聖徳太子の憲法十七条の第五条に、コトワリマウスとある。礼記・文王世子に、「獄成れば、有司(いうし)、公に讞(げち)す」の鄭注に、「讞 之れ言ひ白す也」、説文に、「讞 罪を議る也」とある。訴訟を裁決するの意である。
(注4)白川静、前掲『字通』に、「于」は「象形」とし、「字形は、曲がった形を作るためのそえ木。また刃の長い曲刀の形」(47頁)とある。説文には、「于 於(ああ)也。气の舒(おもむ)ろに♯(一の下に丂)(まが)れるに象る。丂(かう)に从ひ、一に从ふ。一は其の气の平らかなる也。凡そ于の属、皆、于に从ふ」とある。食べ過ぎてもう嫌だと横を向いてゲップをしている様子については、本稿の終わりのほうで触れている。
 なお、狩谷★(木偏に夜)斎は箋注倭名抄で、「戟 楊雄方言云、戟〈几劇反、保古〉或謂之于、或謂之戈〈古禾反〉」とある「于(ウ)」字を「干(カン)」と見ている。箋注に、「方言云、楚謂戟為孑、此干当孑然諸本及伊呂波字類抄皆作干、按干即盾、非此用、蓋源君所見方言、写者以干戈経典熟用字、又孑干字形相近、誤干戈一物、遂改孑為干、源君襲之也、源君所見若是、孑字必当其音、而此無音則知干字非後人伝写本書者之誤、故今不径改、而弁其誤」としている。林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』(勉誠出版、平成14年、269頁)でも「干」と見ている。
高松宮本和名抄より(『倭名類聚抄―国立歴史民俗博物館貴重典籍叢書 文学篇 第二十二巻 辞書―』臨川書店、1999年、251頁より)
 戟の活用として、虎退治もあげられる。追記しておく。
画像石(中国山東省孝堂山下石祠、後漢、1~2世紀、東博展示品)より
 また、戟によく似た斧・鉞の用途は、木こり、薪割りである。塩を焼くためには大量の薪が必要である。(注16)もあわせて参照されたい。
大原御幸図屏風(長谷川久蔵(1568~93)筆、紙本金地着色、安土桃山時代、16世紀、東博展示品)より
(注5)石村真一『桶・樽Ⅱ』(法政大学出版局、1997年)に、「大桶の底用定規」(286頁)、「桶用定規」・「型板」(290頁)などとあるものもL字状の板になっている。ヨーロッパではコンパスが用いられているが、本邦では塑型にあてがわれて作られたらしく記されている。規(ぶんまわし)は使われずに矩(さしがね)が用いられたということで正しいのであろうか。誰のさしがねでやっているんだ、といった形容に使われるように、誰かの回し者という悪いイメージが、曲がれるもの、鎌には付いて回っている。そういった理解で構わないのか、ご存知の方、お教えください。
(注6)稲荷山古墳出土鉄剣銘文には、「七月中」とある。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣は、表に「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」、裏に「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」と判読されている。「中」については、岸俊男『日本古代文物の研究』(塙書房、昭和63年)に、秦代の竹簡に「四月中」、漢代の木簡に「七月中」、新羅の銀合杅に「三月中」、石碑に「九月中」、高句麗の碑文に「五月中」などとさまざまな例をあげ、小川環樹先生のアルタイ語の処格・与格の後置詞を表わす代わりに書かれたとする考えを否定されている。そして、「…月中」は「…月じゅう」の意味ではなく、「…月に」という時格を表わす用法で、「わが国の『中』字の用法は、朝鮮三国から渡来した人々が、その才をもって文筆の業に起用され、自国の文字遣いを反映させつつ撰したものと思われる」(216頁)とされている。藤本幸夫「古代朝鮮の言語と文字文化」岸俊男編『ことばと文字 日本の古代 第14巻』(中央公論社、1988年)には、百済の例のなきことを倭の例から補おうとまでされている。
 そういった結果、小学館の新全集本日本書紀①頭注に、「古訓ナカノトヲカ(中旬の意)は誤り。『~月中』は『~月というその月のうちで』の意を表す中国の俗語的用法。中国出土秦代竹簡や『史記』『漢書』『三国志』などまれに例がある。日本では稲荷山古墳出土鉄剣銘の『七月中』ほか二例。紀ではほかに応神紀に一例」(451頁)とされてしまっている。「七月中(ふみつきのなかのとをか)」(神功紀四十六年三月条)、「九月中(ながつきのなかのとをか)」(応神紀十三年九月条)とある。中旬の11日~20日まで、the middle ten days of a month を指している。「四月上旬(うづきのかみのとをか)」(神功摂政前紀仲哀九年四月条)という表記もある。ヤマトコトバの表記として「…月中」を「…月ノナカノトヲカ」と訓み慣わされるには訳がある。(訳がないのに古訓は生じない。突っ込まれたら恥ずかしいではないか。)
 旧暦だから月の満ち欠けによっている。神功紀の例は、百済人が卓淳国へやって来て、日本への海路を尋ねられたとき、海路は遠く、波浪は険しいから大船が必要だと答えたところ、大船を用意して出直してくると言って帰って行ったという。つまり、遠路はるばる船で来ている。基本的に昼間、航行するのであろうが、天候によっては夜も航行したのであろう。夜、月明かりのもとで沿岸を進むためには、ある程度の明るさが確保できる満月を中心とした10日間を選ぶのはきわめて合理的である。応神紀の例も、髪長媛が日向から来たときのことである。船に乗ってきたのであろう。続く割注に「一云」の伝があり、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)が髪長媛を貢上しに数十艘の小船で瀬戸内海を来たことが記されている。現代の“研究”は、古訓の知恵を顧みないことで得意になっている。
 江田船山古墳出土大刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘に、「八月中」、「七月中」とあるのも、ナカノトヲカ(中の十日)の意であろう。晴れていれば月(moon)明かりによって象嵌を識別しやすくなる。太陽光では光が強すぎてまぶしく作業にならない。電気はない。窓ガラスもない。灯明では光が一定しなし、散乱光では一目瞭然に見極めることができない。かなう光の条件は、明るい月のもとである。金属面を反射させて象嵌の輝きを確かめた。仕事は夜行われた。そして、江田船山古墳出土大刀の場合、「八月中」は、羽釜の羽が尽きて竈に落ちたことを表したから、竈のことを鍛冶屋の窯のことと見立ててその「中」で焼き直されたという意も含意しているものと思われる。巧みで知恵ある表現に敬意を表したい。
江田船山銀象嵌有銘大刀(東博展示品。見えますか? 作れますか? 作りたいですか?)
(注7)佐藤長門「有銘刀剣の下賜・顕彰」平川南・沖森卓也・栄原永遠男・山中章編『文字と古代日本1―支配と文字―』(吉川弘文館、2004年)に、「[川口勝康]の下賜説に対しては、すでに亀井正道によって、江田船山古墳の副葬品には『治天下』銘大刀と同一作者・同一工房によって製作されたと考えられる直刀が二口ふくまれており、この大刀を下賜刀とするなら二口の直刀も同時に移動・副葬されたとみなければならず、下賜説にはなお証明すべきいくつかの問題があるとの疑問が提示されている〔亀井―一九七九〕。しかし、たとえ『治天下』銘大刀と直刀二口が同時に製作・移動したものであったとしても、そのことがどうして下賜の否定につながるのか理解できず、また川口も有銘刀剣のみが下賜刀であると主張しているわけではないことからすれば、あまり有効な批判であるとは思われない。むしろ川口説を批判するのであれば、この大刀の銘文解釈に立ち返ることこそ肝要であろうと思われる」(34頁)とある。10年以上前のことである。筆者には、亀井先生の論文にそのような趣旨のことが書かれてあるのか読解できなかった。あるいは、川口先生の下賜説に対して反論する人がいて、亀井先生のこの論文を持ち出したため、佐藤先生が川口先生を擁護するために、今読むと訳のわからない論証が行われているものであろうか。筆者は、佐藤先生が「肝要」とされる「銘文解釈」しか行っていない。亀井先生のすぐれた鑑識眼は、「三寸」をミキダニシテと訓むことを証明していると考えている。大刀が下賜されたものであるかどうかについては、正確な「銘文解釈」の上でしか議論しても始まらないことと考える。
(注8)三省堂の時代別国語大辞典上代編では、日本国語大辞典第二版に①としてまとめられている、「十分に。ねんごろに。」と「巧妙に。じょうずに。」を分けている。後者の例として、「我が命の 長く欲しけく 偽りを 好(よく)する人を 執(とら)ふばかりを」(万2943)をあげている。十分に、ねんごろに、一生懸命にしたからといって、うまいこといくとは限らないから、巧妙に、上手に、という語釈を別立てにするのは、一理あることである。その場合、ヨクという副詞の意にずる賢さ、悪辣さを秘める結果につながる。ヨクがアシク、ワルクへと向かっていく。ヤマトコトバの原義からしてすでに反義語に結びつくところは、言葉というものの奥深さを示すものであり、とても興味深い。
(注9)鎌が曲がれるもの、刀が真っ直ぐのものというテーマについては、神武記、熊野において、大きな熊に悩まされる話として逸話化されている。詳細は、本ブログ「神武記の『大熊髪』について 其の一」以下を参照されたい。
ツキノワグマの首の鎌形(上野動物園のおみやげのぬいぐるみ)
(注10)4字目の「獲」については、草冠のない異体字とみる説が有力ながら、亀井、前掲論文に、隹とするには縦画を欠いているように見えるので、「α」(獣偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)とあるように見えるとする。しかし、福山敏男の「蝮」字の獣偏化説のようにとるには、下部の又との釣り合いがとれない。
「獲」王僧墓誌(東魏・天平三年(536)刻、『石刻史料新編第三輯(三)漢魏南北朝墓誌集釈(上)』新文豊出版公司より)
 似た例を探したが、管見にて上の例しか見つからなかった。東野、前掲書、2004年に、「異体字の場合、時代が下る例であっても、その発生が新しいとはいえず、傍証とすべきである。あるいは象嵌の省略ともみられよう。また隹の横画が三本の異体は、古くから例がある。この文字は『獲』の異体字と断定してよいであろう」(98頁)とする説には同意できない。東野先生があげられている引用の、藤沢一夫先生のご指摘による日本書紀巻十四の古写本中に縦画のない形の「獲」の字は、次のものかと思われる。同巻中の他の4例も示す。
「獲」(『宮内庁書陵部本影印集成2 日本書紀二』八木書店、2006年、20頁より)
(左から同上書、19頁、24頁、77頁、78頁、いちばん右は、京都国立博物館編『国宝岩崎本日本書紀』勉誠出版、2013年、77頁より)
 当該文字に関しては、書陵部本では、「隹」の左縦画を伸ばし、中軸縦画から「又」の左払いへと続ける字で、「又」の横画は記さない。その中軸縦画は、筆が浮いてかすれているに過ぎない。他の4例も含めて見れば、草冠の位置が全体を覆うか旁だけを覆うか、また、草冠の三画目の左払いが獣偏の一画目に続くこともある。「隹」部分の中軸縦画から「又」の左払いへと続ける際、上から始まるか途中(「隹」の横画の2本目ぐらい)から始めるかといった違いはあるが、中軸縦画は有るものとして筆記されている。筆記者の意識に縦画が無いものとしては筆記されていない。しかも、草冠も有る。「傍証」とはならない例と考える。そして、岩崎本のように、嫌に横画数が少なくても「獲」の字としてためらわれていない。大刀銘の「α」以上に横画を省いている。紙本墨書で技術的に難しいわけではない。“傍証”とするのに気づかうのは、縦画、横画の本数よりも、全体的なバランス、“字体”であるように思われる。似ているという印象を受けない。
(注11)「問。書字不美読。其由如何。答。師説、昔新羅所上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲地而踏。自其後、訓云文美也。今案、蒼頡見鳥踏地而所往之跡、作文字。不美云訓、依此而起歟。」(京都大学附属図書館所蔵平松文庫『釈日本紀』
(注12)額縁がなければそれが絵であるということがわからない。絵を描くことと額縁を作ることを同時作業で行ってしまったのが、江田船山古墳出土の大刀銘であったり、天寿国繍帳銘であったりする。天寿国繍帳銘については、本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の一」以下を参照されたい。自己言及的に言葉を紡いでいった構想、構造は、江田船山古墳出土の大刀銘と一致している。人間の精神の有り立ちを見るうえで、とても興味深い事案である。
(注13)田辺昭三『陶村古窯址群Ⅰ』(平安学園考古学クラブ、1966年)によるもので、「陶器山15型式」(『須恵器大成』角川書店、1981年)ともされており、中村浩『和泉陶邑窯の歴史的研究』(芙蓉書房出版、2001年)に「Ⅱ型式1段階」、山田邦和「須恵器編年①西日本」一瀬和夫・福永慎哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学1―古墳時代史の枠組み―』(同成社、2011年)に「陶器山15窯式」とされている。
(注14)本ブログ「隋書・倭国伝『日出処天子致書日没処天子無恙云々』を読む」を参照されたい。
(注15)森博達「稲荷山鉄剣銘とアクセント」小川良祐・狩野久・吉村武彦編『ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳―』山川出版社、2003年。アクセントまで引き写す識字能力が仮にあったとしたら、筆者が上述したようなヤマトコトバの表記能力などあって当たり前である。なにしろ母語である。
(注16)土器製塩については、考古学のさまざまな研究が行われているので当たられたい。筆者は、古代の塩づくりの技術について、単一のやり方へと収斂させようとする研究姿勢に多少の疑問を感じる。結果的にできればいいわけで、海沿いの家庭では塩水自体を調味料に汁を作ることもあったのではないか。それはそれで言葉の上ではシホ(塩)なのではないか、などと憶測している。税金にしたら生産効率を求めることが促進される。漁師が船上で作るうしお汁に、塩を持参したとは考えにくいのである。言葉の上では、シホ(塩)、ウシホ(潮、ウミ(海)+シホ(塩)の約か)は同系で、キタシ(堅塩)は新たなる造語のように感じられる。正倉院文書で、「顆」と数えることがあるのは、塊になっていたからであろう。語学的にいって、シホ→キタシには、製塩技術に何らかの変化があったらしいことを窺わせている。「藻塩(もしほ)」(万935、常陸風土記行方郡条)法には諸説あるが、前段階の塩析出法であったようである。考古学研究が進むことを期待したい。
 近藤義郎『土器製塩の研究』(青木書店、1984年)に、「越前茂原の塩焼きと焼き塩―三木謙三翁の話―」という昔話が付されている。興味のある方は参照されたい。筆者が注目するのは、その地が継体天皇の出身地、越前で、米ヶ脇遺跡に土器製塩の遺構がある点である。塩田法発明以降も民俗的に塩焼きが営まれていた由来は、あるいは、継体天皇の故事ゆえからではなかろうか。
 武烈紀に、「詛(とご)ふ時に唯、角鹿海(つぬがのうみ)の塩(うしほ)をのみ忘れて詛はず。是に由りて角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす」(武烈即位前紀仁賢十一年十一月条)とある個所、岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「角鹿は敦賀(つるが)。敦賀の塩だけが特に天皇御料となることは、後世に見当たらない」(ワイド場岩波文庫『日本書紀(三)』153頁)とある。「角鹿」は越の国にある。継体天皇の故事と関わりがあるように思われてならない。
 「石川県埋蔵文化財情報」第23号(石川県埋蔵文化財センター、2010年3月)に、「日本海域の土器製塩」が特集されている。さて、古代の人たちは、北陸地方~若狭湾沿岸にかけての塩のことを、どのように思っていたか、キタシホ(北塩、堅塩(キタシ)の代表?)であろうか。支脚のことは何と呼んでいたか、例えば、コシ(腰&層&輿)であろうか。製塩土器のことは、例えば、シホカメ(塩甕)か。貯蔵用と同じになるのであろうか。本邦の竃では、カメ(甕)が支脚の上に載せられ、粘土で隙間を埋めて据え付けられており、湯を常時沸かして甑を被せて蒸し料理をしていたとされる。甕が洗えない作りである。外山政子「三ッ寺Ⅱ遺跡のカマドと煮炊」『群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調査報告書第93集 三ッ寺Ⅱ遺跡―上越新幹線関係埋蔵文化財発掘調査報告第13集―』同事業団発行、平成3年)に、「いわば『はめころし』の状態」(176頁)と形容されている。ときどき壊していた形跡もあるとされる。筆者はここに、電気ポット内の様子を思い浮かべる。塩の析出である。(水道水ではカルシウム分が多いようである。洗浄にはクエン酸が効果的なようである。)つまり、火にかけられる甕の甕たる本質とは、塩の析出にあるのではないか。本文に述べたとおり、竃に釜ではなく甕を採用した点は、製塩土器と共通するところがあるように感じられる。想像力をたくましくして検討されるべき課題は多い。
(注17)古代の塩釜の記録としては、「熬塩鉄釜」(筑前国観世音寺資材帳、和銅二年(709))、「煎塩鉄釜」(長門国正税帳、天平九年(727))、「塩釜」(周防国正税帳、天平十年(738))があげられている。生塩を鉄板の上で煎って脱水したようである。ただし、類例が少なく、比較的短期間しか用いられていない点を考慮すれば、当時の人々において、釜文化は甕文化に劣るとの評価もあったかもしれない。
(注18)本ブログ「稲荷山古墳出土鉄剣銘を読む」を参照されたい。
(注19)継体紀の最後には、継体天皇が亡くなって年次について、割注形式で「或本(あるふみ)」の異伝として二十八年(534)の薨去を伝えている。百済本紀によって、「太歳辛亥の三月」「是の月」に「又聞く」こととして、継体二十五年に亡くなったことになっている。紀では、「二月」になっている。そして、「辛亥の歳は、二十五年に当る。後に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知らむ」とある。何を意味するか、筆者にはわからない。歴史学は形而上学に遊ばずに「勘校」えてほしい。
(注20)「酷毒流於民庶」(雄略紀二十三年八月条)の「流」字、古訓に「ホトコリナム」とあることについて、神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」に、他の「被」、「連延」、「延」ともども「諸訓は、その引申義なること殆ど論證を要せざるべし」(『神田喜一郎全集Ⅱ』同朋舎出版、昭和58年、370頁)とある。
(注21)平安文学に、「来し方」と記される事柄を、キシカタと訓めば時間的に過ぎ去った過去を、コシカタなら空間的に通り過ぎて来た場所のことと区別されていたが、平安末期に不分明になり、過去のこともコシカタというようになったと解説されている。過去回想の助動詞キがカ変動詞「来(く)」を受ける場合、終止形のキは付かず、連体形のシ、已然形のシカが、「来」の未然形のコないし連用形のキに付くとされる。「きし方行く末」(竹取物語・蓬莱の玉の枝)という例がある。ところが、管見では、万葉集には、仮名書きの例から、「来(こ)し」、「来(こ)しか」と読み慣わされており、「来(き)し」、「来(き)しか」の例は見られない。大伴家持の万3957番歌に、「出でて来(こ)し」、「来(こ)し日の極み」とあり、用字は「許(こ、コは乙類)」で、時間、場所の両用に用いられている。和文語「来(く)」と、漢文訓読語「来(く)る」、「来(きた)る」との関係から、その謎は解かれるかもしれない。次注も参照されたい。
(注22)「獲加多支鹵」の義訓によって、キタシ(堅塩)の一義に、キタシ(来たし)と読むことがわかった。「来(きた)す」は、来させる、もたらす、の意で、「来(きた)る」の他動詞形である。「来(きた)る」は、キ(来)+イタル(至)の約とされ、漢文訓読系で使われ、平安時代、女流文学には「来(く)」を用いた。ところが、万葉集に、「来(きた)る」は20例を超える。持統天皇御製の、「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり 天の香具山」(万28)は早い例である。万葉集に登場する語が、どうして女流文学に排除されることになったのか、筆者は不勉強で納得できていない。言葉の歴史を文化史として捉え返せていない。
 本稿では、「安也」をイヅクニカと義訓で読むとする点もあげた。これら漢文訓読体に特有に見られる言葉が、偶然の一致や、筆者の思い過ごしによるものでなく、継体二十五年(531)からすでに用いられていたとするなら、ヤマトコトバの歴史は、今日考えられているほど“新しい”ものではなく、漢文・漢語との接触混淆を伴いながら程よく醸成されていたことを窺わせて興味深い。それは、ピジン・クレオールでも、カタカナ語乱発でも、和製英語短縮化のいずれの状況とも非なるものである。音→音への交雑ではなく、文字(「書(ふみ)」)→言葉への交換過程での発明に依った語である。言葉とはもともと音であるが、その音を理解するために言葉があるというからくりが、きちんとからくりとして成立している、それが上代のヤマトコトバなのである。母語以外の他言語を返り点などを施しながら和訓語などを生じさせつつ母語並みに扱ってしまい、尽くして余りある(なぞなぞとして楽しめる)ことは、他言語においてどの程度まであり得たのであろうか。language 能力にもいろいろあることは言うまでもないながら、存外に深刻に受け止められていない。キタシが、来たし、北し、堅塩、の意味を兼ねていて、それらが互いに意味的に絡まるように“作られている”といった状況が、他の言語Aにおいて、それ以外の言語Bからの影響を受けながらも、混ぜっ返してなるほどと納得できるように、A言語内で言葉を練り上げてしまうようなことが実例としてあるのであろうか。A言語内でと断ったのは、キタシ(来たし、北し、堅塩)と言って、中国大陸や朝鮮半島の人にはどの意味も通じないからである。混乱を避けるためにさらに注すると、「謎」が問題なのではなく、なぞなぞが問題なのである。
 筆者は、オリジナルのヤマトコトバと、漢文訓読を含めた漢字文化の受容の際に生じたベストマッチング、つまり、高度ななぞなぞ文化について考究している。なぞなぞ、頓智が、既存のヤマトコトバを変革して行くうちに生じさせようとした意図的な創意工夫に重きを置くものか、はじめからヤマトコトバのうちにオリジナリティとして発揮されていたものなのか、およそ勘違いの別世界であるため、同定すべき位置を見出せていない。例えば、枕詞“とは何か”について、明瞭な答えが見つからないのである。枕詞とは言語遊戯であると定義できたとして、なぜそのようなことをするに至ったのか、いまだに「何やってんの?」としか言い得ない。個々の枕詞の“語源”について考究されることはあっても、誰一人答えようと取り組まれていない。本稿では、それが6世紀前半に遡ると知り、驚きを禁じ得ないのである。言語をもって文明たらんとしている上代のヤマトコトバ“とは何か”、謎ではなく、なぞなぞが問題である。
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の四

2016年05月02日 | 論文
(承前)
嗽のような製塩土器(たばこと塩の博物館シオラマ)
 塩が出来あがっていく過程を見ていると、まるで、嗽をしているようである。ヨード水溶液以前、嗽をするのに塩水を使うことがあった。現在の医学的知識でも、健常時は塩水を使った方が良いとされているらしい。ガラガラとあぶくを立てて嗽をするのと、グツグツと塩が煮え上って行くのとはよく似ている。そして、鵜飼の仕方は、鵜の喉の下部に紐をゆるく結い、ペリカン様の喉に獲物を入れはするが飲み込めなくし、その手綱を5~10数本ぐらい鵜匠が操るものである。その様子は、ホドヅラ(百部根)の芋の出来具合とよく似ている。本草和名に、「百部根 欬薬」とある。根を乾燥させてうがい薬にした。名義抄に、「嗽 クチススグ、ウガヒス」、下学集に、「鵜飼 ウガイ、嗽(クチススグ)也」とある。嗽(うがひ、ヒの甲乙未詳)という語は、早くからその語源について、鵜飼(うかひ、ヒは甲類)との関係が取り沙汰されている。鵜が魚をのんでは吐き出すこととの連想を見たようである。そこまでは従来から言われてきたことである。筆者は、百部根が「欬薬」とされている点に注目する。ホドツラの根の、手綱が広がるようになったその先に張り膨らんで塊となっているところに、まるで、喉を膨らませた鵜につけた手綱を、鵜匠が操っているかのような光景を見てとる。鵜も、百部根も、のんでは吐き出すのに長けている。魚を獲るのに鵜を使っている。痰を取るのに百部根を使っている。鵜も百部根も、吐き出させられている。鵜飼に必要とされる技能とは、上手に引き寄せる手綱さばきである。銘文に、「其の統ぶる所を失はず(不失其所統)」と読まれているのは、鵜飼の手綱さばきに似ていて、ホドツラのたくさんの根の先に太った根があり、それを切らないように手繰り寄せられたことを指している。「統(す)ぶ」という語は、一つにすること、まとめることが原義で、支配の意に用いられるのは展開形のように感じられる。糸偏の字が好まれて当てられ、また、「すべて(凡・都)」という副詞化した語に、政治的な統一の義を感じ取れない。統一した領地を失わない意としか解さないのでは、読みが浅いという誹りを受けねばならないだろう。

 海神(わたつみ)、是に、海の魚(いをども)を統(す)べ集(つど)へて、其の鉤(ち)を覓(と)め問ふ。(神代紀第十段一書第一)
 機衡(よろどのまつりごと)を綢繆(すべをさ)めたまひて、神祇(かみつかみくにつかみ)を礼祭(ゐやま)ひたまふ。(垂仁紀二十五年二月条)
 皇太子(ひつぎのみこ)、乃ち皇祖母尊(すめみおやのみこと)、間人皇后(はしひとのきさき)を率(ゐてまつ)り、并(あはせ)て皇弟等(すめいろどたち)を率(すべ)て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に居(ま)します。(孝徳紀白雉四年是歳条)

 万葉集には、越中守大伴家持の歌が載る。

 毎年(としのは)に 鮎し走らば 辟田河(さきたがは) 鵜(う)八頭(やつ)潜(かづ)けて 河瀬尋ねむ(万4158)

 紐のような根を手繰り寄せて天皇に据えたというのが、継体天皇即位のお話であった。何羽もの鵜が同時に鵜飼にかり出されて喉を膨らませるのと、何甕もの製塩土器が一つの炉(火処)に焚かれて塩の泡を立てるのと、何本もの百部根が一株に膨れるのとは、類推されるに足るだけの共通項を持っていたといえる。
 結果、釜文化 v.s. 甕文化の戦いが、筑紫国造磐井の乱であったということになる。勝利した側は、製塩土器に由来した甕文化を竈に融合させ、普及させた。そのトップに君臨すべく、ヲホド大王は越(こし、コは甲類)の国から連れて来られた。それが鹹水を濾(こ)す(コの甲乙未詳)ことと関係し、中古に「塩ごし」という語になったのか、上代に「藻塩」とあるのが海藻を積み重ねて上から海水を注いで鹹水を得て、それを製塩土器で煮詰めて塩づくりをしたと考えられていることと関係があることなのか、不明である。濾過する意味のコス(濾・漉)という言葉が上代に見られないようである。また、中古の「塩ごしの樋」の語から、越す筧、向こう側へ潮水を遣り水として送ることを表すとする説も根強い。しかし、それを上代に遡らせるとすると、樋(ひ、ヒは乙類)と火(ひ、ヒは乙類)の洒落をもってすると仮定して、火を越(こ)す(コは甲類)ことになりはするが、それを表わす具象的な遺物は古代に見られない。むしろ、応神紀三十一年条の例から、塩を焼くこと(堅塩づくり)とホドコシ(施、ド・コは乙類)という語に関連を見てとっているようである。筆者の考えは後述する。
 「α加多支鹵大王」とは、取り来たし大王、得難き大王のことを暗示している。継体天皇は、ほとんど拉致されて連れて来られた。その際には、厳重な警備が求められた。威儀を高めなければ正統性も確保されないから、武装した大行列で迎えに行くことになる。

 臣連等を遣(まだ)して、節(しるし)を持ちて法駕(みこし)を備へて、[越前国坂井郡]三国(みくに)に迎へ奉る。兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駆(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月条)

 礼節を守って誠実に熱心に天皇になってもらおうと説くが、疑問をいだき知人に助言を求め、2泊3日話し合ってようやく大臣や大連の本意がわかったという。自由にのんびり田舎暮らしをしていたのが、急に兵隊さんに囲まれたら、守られているというよりも囚われて窮屈だと感じるのは当り前であろう。自宅に監視カメラを設置すると、自分が監視されているような気分になる。兵隊さんの儀仗の行列は、「鹵簿(みゆきのつら)」(雄略記、天武紀七年四月条)という。「前駆警蹕」とは、鹵簿を整えることである。塩(鹽)の製造量を帳簿につけたり、荷札にして都へ貢物として送ることについて、鹵簿という語が関連させられて考えられていたかはわからない。
 はるばる都からやって来たのは、味方かどうか知れないのである。稲荷山古墳鉄剣銘によって補われる3文字の、「加多支」はカタキ(キは甲類)と仮名として訓めた。カタキは堅い意味のほかに、難しい、厳重な、の意がある。そんなに仰々しくしなくても、事を難しくしなくても、都へ行けと言われれば行くことは可能である。けれども、天一坊事件のようになっては困るから、有力豪族側は配慮している訳である。また、敵(仇)(かたき、キは甲類)の意もある。カタキ(敵・仇)のキは人の意で、オミナ(嫗)の対とされるオキナ(翁)のキのように、男性を表わすとされる。イザナミとイザナキの対でも、キ(甲類)は男の人を表わす(注18)。片+キの意である。確かに、突然現れた軍勢は、もとを辿れば先祖を追いやった豪族の末裔だから、親の親の親の親の親の仇のような存在に当たる。男大迹王は、「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)、彦主人王(ひこうしのおほきみ)の子(みこ)」(継体即位前紀)である。
 以上いろいろ検討した結果、「獲加多支鹵大王」とは、カタキを鹵獲(「獲鹵」)せし大王、堅塩(きたし=来たし)を獲し大王のことから、ヲホドノオホキミ(男大迹王)、継体天皇のことを指すと知れた。ひげが切れないように芋を掘り取った。ホドは「百部」と書く芋である。「部(べ)」は、大化改新前に、朝廷や豪族に仕えたさまざまな職能集団を指す。「部曲(かきべ)」などともいう。それが百も連なるようなことだと、漢方薬にする百部根という字面は語っている。部の民を百も連ねることができるのは、天皇ぐらいであろう。そして、ヲホドだから小さな塊状の芋である。それを“象徴天皇”を失ったヤマト朝廷側は手繰り寄せた。小さな手がかりをつかんで、宮都へ連れ帰った。裏返せば、皇統の血筋とは、ホドツラ(百部根)が地中で根を広げてそれぞれ張り膨らみ太っているように、実は案外どこにでも隠れて広まっているということになる。
 継体天皇の都した場所は、

 [元年(507)正月……]樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)りたまふ。…河内国交野郡葛葉郷(大阪府枚方市楠葉付近)
 五年(511)の冬十月に、都を山背の筒城(つつき)に遷す。…山城国綴喜郡(京都府京田辺市多々羅都谷付近)
 十二年(518)の春三月……に、遷りて弟国(おとくに)に都す。…山城国乙訓郡(京都府長岡京市今里付近)
 二十年(526)の秋九月……に、遷りて磐余の玉穂に都す。…大和国式上郡(奈良県桜井市池之内付近)

である。稲荷山鉄剣の銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の「斯鬼宮」とは、最後の磐余玉穂宮のことを指すとわかる。磐余は磯城にある。稲荷山古墳出土鉄剣銘が、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と記しているのは、継体20年(526)の遷都以降、没する継体25年(531)までのことである点を明記するものである。そして、稲荷山古墳出土鉄剣銘に「辛亥年」とあるのは、西暦471年ではなく、継体二十五年(531)に当たる(注19)
「和?」(東京国立博物館編、前掲書、図版5より)
「加」史晨碑(『書籍名品叢刊第八五回配本 漢 史晨前後碑』二玄社、1962年)より
 最後に、もう一人、銘文に名が示された「伊太(和)」について考える。「和」ではないかとする字は、「加」とする説もある。これは、「加」であろう。イタカである。イタカとは、通例、板書き、あるいは板書きの略かとされる。居鷹・為多加・異高とも表記される。功徳、善根、供養のために小さな板の卒塔婆に経文、戒名などを書き、流れ灌頂を行って読経をして銭を乞う乞食坊主をいう。この語が古代にさかのぼるとする証拠はない。けれども、卒塔婆のような細長い大刀の嶺に文字を刻むという仕業は、何か特別な行いとして人々の注目に値したことと思われる。七十一番職人歌合には、「穢多」と歌を競い合っている。描かれている「いたか」は覆面をしており、社会から排除された賤民、非人の部類であろう。記されている「いたか」の歌に、「文字はよし見えもみえずも夜めぐるいたかの経の月のそら読」とある。月の光の下で象嵌を施す作業を行っていたとする解釈は、「八月中」のナカノトヲカの解釈において(注6)に述べた。
「いたか」(公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫編『前田育徳会尊経閣文庫所蔵 七十一番職人歌合』勉誠出版、2013年、83頁より)
 そんなイタカの仕事にふさわしい人物が、継体紀に記されている。

 十二月に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)[筑紫国造磐井]のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献りて、死罪(しぬるつみ)贖はむことを求む。(継体紀二十二年十二月条)

 命乞いをしている。乞食僧に等しい。この葛子(コは甲類)という言葉は、葛粉(コは甲類)に同じである。葛の根を何回もさらすことによってデンプンをとり出したものである。葛餅、葛切、葛湯などに用いられているが、労多くして功少ない食材である。古代にはむしろ救荒植物であった。命乞いを意味する。筑紫君であったはずである。ツクシ誰の子、スギナの子、のはずである。いつからクズの子に成り下がり、晒し者になったのか。クズは屑でもある。吉野葛を久助葛といい、久助とはできそこないのことを指している。献納している屯倉の名の、糟屋のカスは滓をも指す。いかにもとってつけたような紀の記事は、人間のくず、かす、と呼ばれるような所業を示唆しているらしく思われる。反乱が鎮圧されたら、一族郎党皆殺しが必定で、所領地を一部差し出して許されるものではない。源頼朝も伊豆へと遠島、義経は鞍馬寺で小坊主になっている。「筑紫君葛子」なる人も、出家した坊主のなかでもさらに命乞いをしているから、イタカと呼ばれるように落ち着いたのではなかろうか。仏門に下ることとは、本来、命を捨てることを意味する。そこで、「作刀者名伊太加書者張安也」となった。(そんなに大昔からイタカがいたか? とする反論に、筆者は甘んじて受けるので、どしどしやられたい。)
四季花鳥図巻 巻上(酒井抱一(1761~1828)筆、絹本着色、江戸時代、文化15年(1818)、東博展示品)
 上に、「書者」の「者」について、②の形式名詞的用法ではないと捉えた。①の提示用法に、書くことは張り安んずることである、の意とした解釈も示した。中世のイタカという職人は、この作刀者にして銘を刻んだ人物をこのように綽名したことに始まるのであろう。そのうえで、③の仮設用法とも解釈される可能性が考えられる。なぜなら、銘を刻まされているイタカ、こと、筑紫葛子は、敗北者側の捕らえられた囚人であるからである。書けと言われて訳も分からず言われるがままに書いたのではなく、屈辱的な文言を刻まされたということではなかろうか。
 「張」は弓を張るように長大にすることをいう。詩経・小雅・吉日に、「既に我が弓を張る(既張我弓)」とあり、張って大きくする意に用いる。張り出して来て大きくなった勢力に、筑紫国造側は滅ぼされた。その名は、ヲホド(「男大迹」)であった。「旡我弖」こと、既に我が弓を張った“吉日”気取りで「弖」の字を使っている物部麁鹿火に敗北した。もともとは、越(こし、コは甲類)の国にいた。一筋のアナスヱを手掛かりに手繰り寄せられたヲホド=ヲ(小)+ホド(塊、ドは乙類)であった。それがあれよあれよという間に勢力を拡大し、版図を広げた。ホドツラ(百部)が蔓延ったというのである。たくさんの塊根を生じたということに準えている。ヤマトコトバに、ホドコス(ド・コは乙類)という。ホドコスは、ホドコルの他動詞形である。広く及ぶようにする、延び広がるようにする、広く行き渡らせる、意であり、延びた先で肥え太って張って大きくなっていることに着眼した語である。上にあげた「則ち[塩を]施して周く諸国に賜ふ」(応神紀三十一年八月条)以外の諸例をあげる。

 夫の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこ)し生う」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 凡て此の三の神、亦能く木種を分布(まきほどこ)す。(神代紀第八段一書第五)
 縦使(たとひ)星川、志を得て、共に国家(くにいへ)を治めば、必ず当に戮辱(はぢ)、臣連に遍くして、酷毒(からきこと)、民庶(おほみたから)に流(ほどこ)りなむ。(雄略紀二十三年八月条)
 馬、野に被(ほどこ)れり。(顕宗紀二年十月条)
 汝是れ微(いや)しと雖も、譬へば小火(いささかなるひ)の山野を焼焚(や)きて、村邑(むらさと)に連延(ほどこ)るが猶し。(欽明紀五年二月条)
 忍壁皇子の宮より失火(みづながれ)延(ほどこ)りて民部省(かきべのつかさ)を焼けり。(天武紀朱鳥元年七月条)
 北戸の間に分張(ほどこ)せり。(遊仙窟)
 妙る宝を貧き人に分ち施(ほどこ)し、……(三宝絵序)
 ☆(肉偏に亰) 張也、脹也、又分脹也、波留(はる)、又布止留(ふとる)、又久佐留(くさる)、又保止去留(ほどこる)(新撰字鏡)

などとある(注20)。名義抄では、措、播、誇、班、宣、広、施、矢、散などにホドコスという訓を与えている。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「トの清濁および甲乙を古い例によって証することはできない。ホドコス・ホドコルは、ハダク(下二段、ただし古い例ではない)・ハダカル(四段、ただし古い例ではない)と対応するのではなかろうか。この推定に立つならば、トは、ア列音との転換が常に行なわれる乙類オ列音だったという想定も可能である」(657頁)とある。神代紀の例は、植物の繁茂の用例で、ホドヅラ(百部)の譬えによく適っている。
 ホドコシのコは乙類である。コシ(越、コは甲類)とは異なる。ホド(塊)が越えていったということではない。コシ(層、コは乙類)と関係する語であろう。五重塔などの屋根と屋根の間のくびれの階層のことをいう。腰(こし、コは乙類)と関係する語かともされている。新撰字鏡に、「層 子恒反、重居也、重也、累也、級也、重屋也、高也、志奈(しな)、又、塔乃己志(たふのこし)也」とある。法隆寺五重塔は、上から瓦葺屋根が五重、その下に板葺でもう一重、裳層(もこし)一枚と呼んでいる。塔の初層は、元来、仏陀の棺を納める場所で、龕(喪輿)(もこし、コは乙類)に当たる。塑像で凸凹に造られるのは、説文にいう「鹵 西方の鹹地也」の光景を再現しているようである。ここに、中古のシホゴシ(塩ごし)と上代のモシホ(藻塩)という語の間に接点を見出すことができる。モ(裳)とはスカートのこと、コシ(層)である。塩焼きは、土器に海水か鹹水を足しながら、薪を足しながら作られる。何層にもわたって塩が結晶化していき、薪の灰も積み重なっていく。助詞のモの意の and also を正確に表すように、製塩土器の内側でも外側でも同じように積み重なりが起こっている。結果、カチカチの堅塩(きたし)が出来上がった。それが到来物となった。キタシシホ=「来(きた)し塩」である。漢文訓読調でなければ、「来(こ)し塩」=コ(カ変動詞「来(く)」の未然形、コは乙類)+シ(過去の助動詞「き」の連体形)+シホ(名詞、塩)である(注21)。層塩(龕塩)(こししほ、コは乙類)なる概念を想定して検討された言葉であろう。かたまりの塩だからホド(塊)というにふさわしく、継体天皇の御名に合致している。
法隆寺五重塔初層北面涅槃像土(塑像、奈良時代(711))
 「伊太加(いたか)」こと、筑紫葛子は銘を刻まされた。第一の意味に、「張」にホドコシの訓を潜められていたのであろう。「男大迹(をほど)」こと、継体天皇というもとは小さな塊は、延び広がって行き渡らせて、あまねく及ぼすほどに蔓延るように増えたのである。三宝絵の例に見えるように、筑紫葛子は憐れと思ってお恵みを与えてほしい、と命乞いをしていることを表わしているようであろう。富の再配分細分化は、富者にとっては微分的にゼロに見えるかもしれないが、貧者にとっては無限大に思えるものである。臨時給付金に、投票行動は左右されるのではないか。そこに、ホドコシという語が展開された経緯がある。
 「安」は本来の位置ではないが、漢文訓読に用いられる助字のイヅクンゾ(イヅクニゾ)、「也」は疑問の助字で、カ・ヤと訓める。つまり、「書者張安也」は、「書ケバホドコシイヅクニカ」と訓める。書けば施しはあると思うかもしれないが、どうしてそのようなことがあろうか、の意である。さらにはまた、ホドコシという語についての駄洒落でもあろう。「書クハホドコシイヅクニカ」である。書いたものは、ホド、つまり、男大迹天皇のことであるが、そのもといた越とは何処の国であろうか、という謎掛けである。なんと、九州にまで遠く覇を唱えている。そのことを顕彰する文章に仕上がっている。最後のわずか3文字によって、冒頭の「獲□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)=男大迹天皇(継体天皇)に始まった銘文内容をまとめ上げているのである。
 紀に「安」を漢文訓読の助辞に訓む例は、偏在的ではあるが例がある。「安(いづく)にぞ欺くべけむ(安可欺乎)」(清寧前紀雄略二十三年八月条)、「安にぞ異(け)なるべけむ(安可異)」(清寧紀三年七月条)、「安にぞ自ら独り軽(かろみ)せむ(安自独軽)」(顕宗即位前紀清寧五年十二月条)、「安にぞ輙(たやす)く疑を生したまひて(安輙生疑)」(雄略紀元年三月条)、「安にぞ能く膝養(ひだしまつ)ること得む(安能得膝養)」(継体前紀)、「安にぞ空爾(むな)しとして答へ慰むること無けむ(安得空爾答慰乎)」(継体紀八年正月条)、「安にぞ率爾(にはか)に使となりて、余(われ)をして儞(い)が前に自伏(したが)はしめむ(安得率爾為使、俾余自伏儞前)」(継体紀二十一年六月条)、「安にぞ輙く改めて隣の国に賜ふこと得む(安得輙改賜隣国)」(継体紀二十三年三月是月条)、「夫婦(いもせ)に配合(あは)せて、安(いづく)にか更に離(さ)くること得む(配合夫婦、安得更離)」(継体紀二十三年三月是月条)、「婦女(めのこ)安にぞ預らむ(婦女安預)」(欽明前紀)、「新羅、安にぞ独り任那を滅さむや(新羅安独滅任那乎)」(欽明紀二年四月条)、「安にぞ君に逆ふることを構へむ(安構於君)」(孝徳紀大化五年三月条)、「安にぞ父に孝(したが)ふることを失はむ(安失於父)」(孝徳紀大化五年三月条)などとある。
 すべて会話体で用いられている。イズクニゾが常訓であるが、継体紀二十三年三月是月条の2例目に、イズクニカと訓んでいる。万葉集に、「いづくにか(何所尓可) 船泊てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」(万58)とある。築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』(東京大学出版会、1963年)に、「訓読では、…カの形と…ゾの形とでは、使用上の区別があるらしい。即ち、『イヅクニカ』『イヅクンカ』『イズコニカ』『イヅコンカ』『イドコンカ』などの、『…カ』を伴つた形は、多くは場所を示すもので、陳述副詞のやうに用ゐられるものは例が少いのであるが、これに対して『イヅクニゾ』『イヅクンゾ』『イヅコンゾ』『イドコンゾ』のやうに、『…ゾ』を伴ふ形には、場所を示す用法は無くて、陳述副詞[『何故に』『どうして』『何としてか』]のやうに用ゐられた例ばかりのやうである」(451頁、漢字の旧字体は新字体に改めたが仮名遣いはそのままとした。)とされている。つまり、銘文に「書者張安也」とあるように「安也」と続けることによって、イヅクニカと「…カ」と訓む指示がなされているらしいのである。なお、イヅクニという言い方は見られない(注22)

(銘文)
 台天下α□□□鹵大王世奉事典曹人名旡我弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(均)刀服此刀者長壽子孫汪々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(加)書者張安也

(釈訓)
 天の下治らしめししα□□□鹵大王(α加多支鹵大王、こと、男大迹大王(をほどのおほきみ))の世(みよ)、典曹(うたへのつかさ)に奉事(つかへまつ)る人の名、旡我弖(キガテ、こと、物部麁鹿火)、八月(はつき)の中(なかのとをか)、大鐵釜(おほきなるしろがねのかま)并びに四尺(よさか)の廷刀(にはのかま)を用ゐ、八十(やそ)たび練り、九十(ここのそ)たび捃(あつ)む。三寸(みきだ)にし上(うへ)、好(よく)刀に均(ととの)ふ。此の刀を服(はか)せる者は、長寿(いのちなが)くして子孫(うみのこ)汪〃(さか)え、□恩(□のみうつくしび)を得る也。其の統(すぶ)る所を失はず。刀を作る者の名、伊太加(イタカ、こと、筑紫葛子)、書(か)くは張りて安(さだ)むる也(書けばホドコシイヅクニカ、書くはホドコシイヅクニカ)。
(つづく)
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