古事記・日本書紀・万葉集を読む

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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の二

2016年05月27日 | 論文
承前
 日本書紀に付されている訓は、いわゆる古訓である。平安時代以降にそう訓むであろうと考えられて付けられている。昔の人が、さらに昔の人のことを慮って、頑張って研究した結果である。上に見るように、「所」字には、トコロという訓が多い。とはいえ、それが必ずしも伝本の全てに付されたものではないことも事実であるし、上にあげた訓み方以外にも例があることは断っておく。第一例に、「所乞(こはし)」、第二例に、「所言(まをすこと)」、第三例に、「所言(まをし)」、第四例に、「所称(まを)す」、第六例に、「〔所〕訴言(まを)す」、第七例に、「有所言(ものもを)さむ」、第八例に、「所談(ものがたりこと)」、第十例に、「所語(かたらひ)」、第十四例に、「所噵(い)ふならく」、第十六例に、「〔所〕必ず褒め讃(あ)げられ」、第二十三例に、「所記(のたま)へる」、第二十四例に、「所須(もち)ゐむ」などとある。また、第五例は、「事(こと)辞(いな)ぶる所無し」とも訓まれている。今日の言い方では、言い逃れる余地がないという意味から、抽象的な比喩表現に「所」にトコロと当てて何ら不自然に感じない。これが厄介な“ところ”である。
 今日的な印象として、関係代名詞風に用いられている「所(ところ)」という語は、少し奥まったことを表しているようである。「その点」、「その折」、「すなわちその」などと「その」と指事される。下接の事柄をまとめて指し示す役割を果たしているといえる。受身や使役、尊敬に当てる場合も、(自)動詞の直接性からすれば捻られている感じがある。その訓として、「所言」を言フトコロと訓めば、言ったことそのままではなく、言ったことの内容、趣旨、という意味にとることができる。例えば、「あいうえお」と言ったとして、それの言フトコロは、ア行音を言っていた、というように、ある種のフィルターがかかっていても構わないことになっている。「竹藪焼けた」の所とは、回文のの一例を示した、「赤パジャマ、……」の所とは、早口言葉の一例を言っている、といった趣旨が同じであることに力点が置かれている。上にあげた例の最後の孝徳紀の例は、宣言したことの意味を悟れ、と天皇自ら言っているように受け取れてしまう。言っていることその言葉一言半句が問題なのではなく、言わんとしている趣旨、趣意、要旨が重要ということになる。旨(むね)のことである。言葉を発するには、口、唇、喉、鼻などが関わってくるが、そもそもの呼気を司るのは肺部分であるし、心(意(こころ))があるのも胸部であったと思われていたから、ムネが肝心のこととなる。
 そもそも、言うこと自体には誤謬が付いて回る。同じことを言っていても人によって言っているニュアンスが異なることがある。同じことを聞いていても人によって受け取るニュアンスが異なることもある。神武前紀戊午年八月条の例は、図らずもそのことを示してしまっている例なのかもしれない。この部分の訓については後に触れる。
 「所言」他の訓み方として、言フトコロといった言い回ししかできないのであろうか。できないのであれば、場所を表すのではない、連体修飾格を作ったり、指事にしたり、受身を表したり、関係代名詞であったり、「所謂(いはゆる)ところ」と重ねて訓んだりするトコロという語が、ヤマトコトバに古くからあったと認められ、上代語は大幅な見直しを余儀なくされる。神武前紀の例から、弁解の余地がないという比喩が罷り通っていて、トコロと言っていたに違いないと考えて良いのであろうか。雄略紀に、イヘルコトアリの例がある。

 古(いにしへ)の人、云(い)へること有り。匹夫(いやしきひと)の志も、奪ふべきこと難しといへるは、方(まさ)に臣(やつこ)に属(あた)れり。(古人有云、匹夫之志難奪、方属乎臣。)(即位前紀安康三年八月条)
 古の人、云へること有り、娜▲(田偏に比)騰耶皤麼珥(なひとやはばに)。〈此の古語(ふること)、未だ詳(つばひらか)ならず。(古人有云、娜▲騰耶皤麼珥。〈此古語未詳。〉)(元年三月条)
 古の人、言へること有り。臣(やつこ)を知るは君に若くは莫し、子を知るは父(かぞ)に若くは莫しと。(古人有言、知臣莫君、知子莫父。)(二十三年八月条)

 雄略紀を記した紀の編者は、なかなかの知恵者である。関係代名詞に当たる文字を記さずに、ヤマトコトバにイヘルコトと訓ませるべく工夫されている。英文和訳でも、関係代名詞をトコロと訳さないで伝えるようにした方がわかりやすい。イヘルコトとは、言(云)ってしまわれて完了している“こと”、である。言ってしまって完了しているのは、言葉が事柄に転化しているような“こと”である。だから、「古人有云」とだけ書けば、イヘルコトとしか訓めないことになっている。古人の言ったことは確かめることはできないが、繰り返し暗誦されるような文言だから、イヘルコトなのである。しかし、第2例の「娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)」は「汝人や母似」の意であろうと解されながら、「此古語未詳」なる割注も入れている。何故このような語を持ち出したのか、後代の読者は不思議がらなければならない。わからなくなってしまっている言葉は、言霊信仰において、言=事とする際、どのように作用するのであろうか。大問題であると思うが、言葉というものは実際問題としてわからなくなるものである。それを趣旨さえわかればよろしいという発想から、「所」字はないが、イヘルトコロと訓じてしまうことも今となっては受け入れられる。トコロという語に慣れてしまっている。けれども、言霊信仰は、言葉の主旨が問題なのではなく、言葉そのものが重要なのである。ナヒトヤハバニが「云へる“こと”」であり、「古“こと”」であるのはそういう事情からである。そうでなければ、コトという語に、言葉と事柄とを含めてしまうヤマトコトバ的な発想は生きて来ない。word と thing の間に何ら通用する“ところ”はない。
 雄略紀元年三月条にある、「咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(咸言、如卿所噵。)」は、コトのオンパレードなのであろう。みんなが言っていることは、あなたが言っていることと同じようなことである、の意で、「咸言ふコト、卿が噵ふコトの如(ゴト)し」と畳みかけているとすれば、発語としての面白味と現実味がある。「如(ごと)し」という語は、同一を意味するコトに形容詞の語尾シが付いた形である。つまり、ここで雄略天皇が言っているのは、この状況について、皆もあなたも言っていることは、「ことごと(尽・悉)くごと(如)し」である。ここにトコロなどという合い間を入れてしまったら、小咄は頓挫、場は白けてしまう。笑劇場は閉鎖であろう。
 舒明前紀の例に、推古天皇が何と言っていたか、天皇の遺勅の言葉尻が問題とされている。曖昧な遺勅の言葉尻によって、趣旨、すなわち、次期天皇に誰を指名する気だったのかが違ってくるからである。山背大兄王は、推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)」の一言半句について、「少少違」うと主張している。それは、趣旨が違うという主張であるより先に、言葉(尻)そのものが違うと言っている。曖昧な遺勅の解釈の問題以前に、曖昧な遺勅の原語の一言半句を問題にしている。一言半句によって事柄が変わってくるということを、山背大兄王はよく理解しているように感じられる。今日のように、遺言書の形態がなかったとき、遺勅は重要である。遺言書の形態があっても、法的拘束力を持つかどうかは時の政権による。豊臣秀吉はどうしようもなかった。翻って、上代に遺言書はない。そもそも「書(ふみ)」というものがとてつもなく珍しい。遺された人が読めないものを書かれても、何の役にも立たない。では、何の頼りもないかといえば、そういうことはないであろう。なぜなら、仮にそうであるとすると、無秩序状態に陥ってしまうからである。無文字社会は始終アノミーであったという考えは当たらない。文字社会の方が、かなり“野蛮”である。無文字社会において社会を成り立たせる規範とは何か。ヤマトの場合、それは、言=事とする言霊信仰にあった。事柄をそのままに言うようにするとともに、言ったことは事柄となるようにする。そう決める。だから、推古天皇の遺勅の言葉尻のようなことが山背大兄王と蘇我蝦夷側とで争われ、揉めることになる。山背大兄王の言うことはマジである。采女が聞いたとすることと大の大人の、それも聖徳太子の息子で聡明とされた人が言い争うなど恥ずかしくないかと思うが、決して形骸化していない。言霊信仰の下にあったからであろう。
 舒明前紀の、「群卿所噵」と「我之所聆」の「所」が、趣旨の意とは解されていないとわかった。推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)の一言半句が問題であった。オホミコトとは、オホ(大)+ミ(御)+コト(言)の意である。オホ(大)やミ(御)は尊敬の称である。コト(言)がコト(事)となり、次期天皇となる。したがって、「所噵」をイフトコロ、「所聆」をキクトコロという冗漫な訓は、少々違うようである。言葉が事柄に直結するから、言葉そのものが問題なのである。トコロが問題ではなく、コトが問題である。「所噵」はイフコト、「所聆」をキキシコトという訓みが正しいものと考えられる。確実に自分は聞いた、という意であるから、キケルコトではなく、キキシコトである。
 事柄の内容、趣旨を示すために「所」字を使っている場合もあるのではないかとの反論もあるであろう。一例をあげる。

 式(も)ちて呈奏(いたせるまをしごと)を聞(き)きて、爰(ここ)に憂(うれ)ふる所(ところ)を覿(み)れば、日本府(やまとのみこともち)と安羅(あら)と、隣(となり)の難(わざはひ)を救(すく)はざること、亦(また)朕(わ)が疾(いた)む所なり。(式聞呈奏、爰覿憂、日本府与安羅、不隣難、亦朕所疾也。)」(欽明紀九年四月条)

 この部分、小学館の新編全集本日本書紀△量に、「爰覿憂」を「その憂慮の内容を考えてみると」(411頁)とされている。「所」を、内容のことと解釈されているのである。ここに、とても珍しい「覿」字が用いられている。何から引いたものか筆者は勉強不足でわからないが、天罰覿面というように、目の当たりに直面することを示す字である。内容を頭でよくよく考えてみたらわかったということではなく、憂い極まる上奏と直に向き合うと、の意味であろう。「式(も)て呈奏を聞きて、爰に憂(うれ)ふるを覿れば、日本府と安羅と、隣の難を救はざること、亦朕も疾(うれ)ふ。」と直説話法で捉えるのが正しいのではなかろうか。百済から派遣されている使者、中部杆率掠葉礼(ちうほうかんそちけいせふれい)等を謁見していて、その悩める表情をつぶさに見ているから、このような詔が発せられたものと思われる。「憂(うれ)ふ」る様を「覿(み)」て、「朕(われ)も亦」、同じように「疾(うれ)ふ」と同調したのである。「爰」とその場であること、「亦」と同じであることが明記されている。「憂」と「疾」と別の字があてがわれているが、ヤマトコトバとしては同じウレフを表したものであろう。字義の違いを表現に及ぼした巧みな書き方といえる。そして、冗漫で奥まったトコロ訓では意味が通じないとわかる。残念ながら伝本にそのように訓まれた傍訓は残らないが、字を選びながら的確に記されていると考えられるので、筆者はこの訓みが正解であると思う。
 雄略紀八年二月条の例、「説其所語」の「所語」には、カタラヒ、と兼右本に傍訓がある。また、皇極紀三年正月条の「便以所語」の「語」に、カタラフ、と岩崎本に傍訓がある。雄略紀八年の例からみて正しいといえようが、カタルではなくカタラフと訓むべきであると思われたのには、動詞語尾フを接して、カタリ(語)+アフ(合)という相互的な意味を強調したかったからであろう。遊仙窟に、名詞形の「朝聞烏鵲語(カタラヒ)」と訓まれている。小学館の新編全集本日本書紀の「語(かた)らふ所(ところ)を以ちて皇子に陳(まを)す」とある個所の頭注に、「鎌子が語った言葉。『家伝』上に『舎人、語ラヒヲ軽皇子ニ伝フ。皇子大ニ悦ブ』。」(85頁)と注されている。鎌子(中臣鎌足)が語った趣旨の意なら、「語(かた)る所(ところ)」と訓むべきである。鎌子と舎人が相語り合うこと、仲睦まじく会話すること、カタラフことのなかで出てきた言葉だから、カタラフ、カタラヒという訓が現れるのではなかろうか。鎌子の言葉は直前に、「便(すなは)ち遇(めぐ)まるるに感(かま)けて舎人に語りて曰く、『……』」とあって、『……』ときちんと示され、「舎人を宛てて馳使(つかひ)とせるを謂ふなり」という割注が付けられている。鎌子が中大兄と仲睦まじく親交するに至る伏線としての話である。鎌子は軽皇子とではなく、その宮に仕える舎人と仲睦まじいらしい。だから、鎌子は軽皇子に直接言わずに、舎人を介している。それはまた、直接言ってしまったら約束のようなことになってしまうし、舎人を介して言っている限り、噂話のようなものだからであろう。言=事、言霊信仰の下にある人の性格上そのようになりやすい。今日においても、直接は言わずに蔭で言う感覚はわかるのではないか。つまり、ここは、鎌子が本心から語った言葉かどうかは確かにはわからないような、その場に「感(かま)け」た雰囲気的なカタラヒのことであると考えなければならない。鎌子が感けている。「所語」は、カタラヒと訓むのが正しいのであろう。カタラフトコロなる冗漫な訓を、話し合った内容、趣旨の意と考えようにも、鎌子と舎人が四方山話を繰り広げたなかでの一部分であろうから、適切な訓とはならない。語り合いのなかの断片を舎人は軽皇子に陳述したのである。遊仙窟の「語(カタラヒ)」も、鳥(ヒトカラス・マラウドカラス)の鳴き声を、言葉としては断片であると捉えることで譬えている。鳥“論語”を指しているのではない。
聖徳太子絵伝(部分)(絹本着色、南北朝時代、14世紀、川合玉堂氏寄贈、東博展示品。鎌子だから鎌で入鹿の首を飛ばしている。)
 崇峻前紀の「此の犬、世に希聞しき所なり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある。すぐ近くに、「養(か)へる白犬(養白犬)」、「養へる犬(所養之犬)」とある。「所」字があろうがなかろうが、ヤマトコトバとしては同じらしい。すると、「此の犬、世に希聞(めづら)し」と訓んで構わない。また、後ろの文とあわせて、「此の犬、世に希聞(めづら)しきこと、後に観(しめ)すべし。(此犬、世所希聞、可於後。)」と訓むことも可能である。筆者にはそれが正解であるように思われる。
 他に、崇峻紀五年十月条のついでの例、「朕所嫌之人」に、「朕(あ)が嫌(ねたしとおも)へる人」、「朕(み)が嫌(そね)む人」といった別訓もある。「朕(あ)が所嫌之人(そねむひと)を断る」と訓まれたらしい。白川先生ご指摘の、古事記の「所持之生大刀(もたるいくたち)」のようにである。紀でも例えば、「所問(と)ふ意趣(こころ)を知(しろ)しめさずして(不知所問之意趣)」(垂仁紀四年九月条)、「嶋の神の所請(こは)する珠(嶋神所請之珠)」(允恭紀十四年九月条)、「天皇の所宣(のたま)ふ詔(天皇所宣之詔)」(欽明紀五年二月条)、「所乞之意(まをすこころ)」(斉明紀六年十二月条)などとある。するとそこに近い、「天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(聞天皇所詔、恐嫌於己。)」の「所詔」も、「天皇のミコトノレルを聞きて」と訓めば良いと知れる。蘇我馬子は漢文表現で難しい詔の内容を解釈するのに熟考したのではなく、イノシシを殺す譬えが自分に向いているらしいと気づいたに過ぎない。ならばドミノ式に、欽明紀二年四月条A、崇峻紀四年八月条、孝徳紀大化二年三月条の「所詔」も、内容的には大したことを詔していないことから、トコロと訓む漢文訓読は似合わないとわかる。ミコトノレル、ノタマヘルなどと訓めばふさわしい。欽明紀二年四月条Aの、「日本の天皇の詔(のたま)へるは、全(もは)ら、任那を復建(かへした)てよといふを以てせり」とあるのは、ぶっちゃけた話、日本の天皇の詔は、もっぱら任那を復建せよといっているだけだ、といった感じである。だから、「全」という語が登場している。詔に複雑に入り組んだところがあって晦渋にしてわからないということではなく、ちょっと長いだけで話は簡単で、端的にいえば(=「全ら」)、任那の再建せよということだ、という意味である。そういった個所の「所詔」にトコロという訓が登場しては、表現の雑駁感が損なわれてしまっていただけないことになる。
 また、仁賢紀の「即ち言ふ所(ところ)を知れり」も、「諾(せ)」という言葉(音)が、「兄(せ)」という言葉(音)と合致する洒落であることに話の焦点があるから、「即知所言矣。」は、ズバッと、「即ちイヘルコト知れり。」と訓まなければ意味が十全に通じないことになる。「即」字が生きて来ない。継体紀の、「推問所奏、和解相疑」についても、「奏す所(ところ)を推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓むのでは、双方の言い分を弁護士を介して聞くことになり兼ねない。実際、記事では、新羅、百済の両国は使者を派遣しただけだったので、毛野臣は天皇の勅を伝えなかった。その結果、新羅は軍勢を率いて勅を聞きたいとし、なお応じなかったことから四村で掠奪されるに至っている。「或(あるひと)」の言葉として、毛野臣の外交的な「過(あやまち)」であると総括されている。けれども、「奏すトコロ」を推問するのではなく、「奏すコト」を推問せよとの詔であったから、近江の毛野臣は両国の王の言葉を直接聞こうと思ったのであろう。使者しか送って来なかったからと言って怒っていては話にならないのは確かである。けれども、なぜ話にならないかといえば、「詔を伝える体面と手段にこだわ」(小学館新編全集本日本書紀318頁頭注)った点にあるのではない。ヤマトコトバを話し、ヤマトコトバしかわからない毛野臣が、朝鮮語しか知らず、朝鮮語しか話さない新羅王や百済王の言葉を直接聞いても、推問にはならないからである。通訳、古語にヲサを介する融通が利かなかったから、事態をヲサ(収)めることができなかった。全体の文脈を読み解けば、当該部分は、「奏(まを)すことを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓まなければ、言(こと)=事(こと)であるとする言霊信仰が、ヤマトコトバにしか通用しないこと、つまりはそれが、外交的には何の役にも立たないことを語る記事になっていることを伝えない。日本書紀記者の深意を表わさないことになる。
 同様のことは、欽明紀五年十月条にも言える。「奏(まを)す所(ところ)の……が事は、報勅(かへりみことのり)無し(所奏……事無報勅也)」の……部分は人名である。「所奏事」を真っ直ぐに訓めば、「奏(まを)せる事」である。その訓みが正しそうなことは、コトと訓むことによって、「報勅(かへりみことのり)」のミコトノリ=ミ(御)+コト(言)+ノリ(宣)と対照する。トコロと訓むのは、まごろっこしいと知れる。
 欽明紀五年三月条の、「朕曾(いむさき)より聞きし所(ところ)なり(朕所曾聞)」という訓には、どっちつかずの中途半端さがある。長い百済王の上表文の一文である。キキシと言っているのなら、前から確かに聞いていた、とはっきりしているのに、トコロと漠然とした感じをつけられては、実際に聞いていたのか、間接的に聞き知っていたのか、わからなくなる。例えば、キケルトコロナリ、ならば、聞いていたような気がすることだ、という意味にはなる。しかし、そうなると、最後にナリと断定する矛盾に遭遇する。百済王が、新羅は的臣等が往来したことで、農耕ができたということを前から聞いている、と言おうとしている箇所である。百済王が、新羅のかつての農耕事情について研究したり講義を受けていたりしているとは考えにくいので、伝聞として、あるいは食客から、以前、聞いたことがあるということであろう。奈良時代までの伝聞の助動詞ナリを、断定の助動詞ととり誤ったのではないか。「朕(われ)曾(いむさき)より聞こゆなり」、私には以前より、噂話で耳に入ってきていた、の意味である。「夫れ葦原中国は猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。」(神武前紀戊午年六月条)とある。万葉集では、「所聞」に下二段動詞「聞こゆ」(万238・930他)の例が活用形を含めて25例ほどある。「聞こゆ」だけで伝聞を表すから、さらに活字化されていない伝聞の助動詞ナリを加えるのは屋上屋を構築するような言い回しである。「朕(われ)曾(いむさき)に聞こゆ」で良いのではないかと思われるが、原文語順に「朕所曾聞」とあり、「朕曾所聞」とはなく、「曾」に紀特有の訓、イムサキニの展開形、イムサキヨリと伝本傍訓から訓まれるらしい点から考えて、含むところがあるように見受けられる。イムサキニは、「去(い)にし先に」の約とされる。過ぎ去った先に、である。それをさらに強めた表現が、過ぎ去った先より、イムサキヨリである。ならば、受ける側も、キコユ(伝聞の動詞)+ナリ(伝聞の助動詞)と強調されているのであろう。(つづく)
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上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について 其の一

2016年05月22日 | 論文
 「所」という字について、指事用法として漢文訓読でトコロと訓むことがあり、ヤマトコトバ本来のトコロという語(注1)の拡張として捉えられることが多い。ヤマトコトバでは、本来、トコロに場所以外の意味はなかった。地点、箇所、区域などの空間的な範囲を示す語である。“ところ”が、築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』(東京大学出版会、1963年)に、「本来の日本語のトコロとは合はない例もある。例へば、 所得 所言 所感 所期 などは、『得ルコト』『言フコト』『感ズルコト』『期スルコト』などの意味である。即ち『所』は動詞に冠して体言を形作つてゐるわけであつて、この場合には場所・区域・箇所といふやうな空間的な意味は全く認められない。従つて本来の日本語のトコロとは全く別の意味である。それを『所』の字に引かれてトコロと訓じたのであつて、かやうなトコロの用法は訓読特有である」(381〜382頁。漢字の旧字体は改めた。)とある。
 上代に、トコロ(ト・コ・ロはともに乙類)という語が、場所の意以外に使われたとは考えにくい。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「ところ[所・処]」の語義に、「‐貊蝓6間上の一点をさす。……⊇数詞」としかなく、漢文訓読風に言っていたとは知れないのである。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、古事記の「用字法には、かなりの一貫性がみられる」とし、「所は百数十例の大部分が『所遊(あそびませる)』『所生(うみませる)』のような助動詞の用法か、あるいは関係代名詞としての、『其の汝(いまし)の所持之生大刀(もたるいくたち)』のような用法が四例。特定の場所をいうものは『王子(みこ)の坐(いま)す所(ところ)』〔記、応神〕の一例があるのみである」(536頁)とある。どうやら、太安万侶の辞書に、漢文訓読語「所(ところ)」はないようである。それが太安万侶の時代に共通することか、彼一人にかかっていることか、どこまで研究されているのかさえ筆者にはわからない。
 何が問題かといえば、もし上代に、漢文訓読調のトコロなる言葉があった、使われていた、話されていた、と想定されると、日本書紀などの会話体の中にも言葉として登場することになる。上代語にすでに漢文訓読語のトコロが蔓延していたことになる。上代語の概念を根底から変えなければならなくなる。第一に、トコロが場所を指す言葉としてヤマトコトバに概念形成されているのに、別の言葉、コトの代替として使われていることがあったら、範疇を定める言葉そのものの意義が怪しくなってしまう(注2)。それが大問題に発展するのは、言葉が事柄と同じことであるとする言(こと)=事(こと)、即ち、言霊信仰自体が揺らいでいたことになってしまうからである。第二に、漢文に見られる「所」字に引かれてトコロと訓むことが、即ち、漢文訓読語が生れていたとすると、大勢の人たちが漢字を日常的に読んでいたことにつながりかねない。初期万葉の作品に口承性が指摘されていることと相矛盾する。たとえ漢文訓読語の「蓋(けだ)し」という語が額田王歌に見られるにしても、他の言葉の概念範疇に牴触する問題にはならず、新概念の話のみで済むものかとも思われる。しかし、コト(事)、トキ(時)、ヒト(人)という語と牴触してしてトコロ(所)という語が用いられ始めると、コト、トキ、ヒトなどそれぞれの語が厳密に定められていたヤマトコトバの決めごとが揺らいでしまうことになる。曖昧模糊になっていく。本稿では、テキストを手掛かりに、“読む”という作業を行って、果して漢文訓読語「所(ところ)」が上代、それも飛鳥時代にあり得るかを明らかにしようと思う。念のために断っておくと、表記の字面が問題なのではなく、表記されているものが漢文訓読に使う助辞のトコロという語を書き記すために用いられた文字(漢字)であるかどうかを確かめようとするものである。
 万葉集においては、漢文の訓読によってもたらされたと思われる「所(ところ)」という訓み方は知られない。沖森卓也『日本古代の文字と表記』(吉川弘文館、2009年)に、「万葉集に『連体形+トコロノ』の訓みが考えられないことによって、上代における『所』の連体修飾格が完了の助動詞リの連体形ルで訓まれてきたようであるが、仮に万葉集の表記に助動詞ル表記の類推が少なからず働いていたとすれば、万葉集の訓法を根拠として『連体形+トコロノ』の訓みがなかったとは言えないであろう」(109〜110頁)という適切な指摘がなされている。「言えない」だけで、「あった」とも「なかった」とも仰られていない。筆者は“ずるい”と思うが、仕方がないことである。沖森先生のお考えでは、「所」字には、「一 場所の意」、「二 助動詞ユ、ラユ、ル、ラル」、「三 ル音節表記(連体修飾格表示)」、「四 ヤ行エ・レ音節表記」、「五 敬語表示」、「六 熟合、義訓、音仮名ソ乙類」というように、ヤマトコトバの音を基軸の1つとしてあげられている。文法的に何かという解説から、実際に言葉を使う立場へと足を踏み入れられている。初めに音声としての言葉ありき、へと歩を進められている。
 とはいえ、「所」字をトコロと訓むべき例のなかに、本来の場所の意と形式名詞の例とを一緒にして、あまり考察されていない点は、筆者には不満である。「言葉の中には《差異 différence》しかない」というソシュールの思想をもとに、ヤマトコトバを一語一語考えていく場合、形式名詞のトコロが現れた現れ方が気になるのである。沖森先生が場所の意の中にあげられている形式名詞の用例は、続日本紀の宣命である(注3)

 何志岐止志氐加然将為(第18詔)(何(なに)を怨(うらめ)しき所(ところ)としてか然(しか)将為(せむ)(天平宝字元年(757))
 知所押勝(第26詔)(知(し)る所(ところ)も無(な)く怯(つたな)く劣(をぢな)き押勝(おしかつ)が)(天平宝字四年(760))
 天授賜方牟(第31詔)(天(あめ)の授(さづ)け賜(たま)はむ所(ところ)は)(天平宝字八年(764))

 筆者も、これは漢文訓読によって作られたトコロという語であり、トコロと訓んでいたと考える。コトやヒトという訓みを当てる方もおられる(注4)。また、

 是以令文所載多流乎跡止為而(第2詔)(是(ここ)を以(もち)て令(のり)の文(ふみ)に載(の)せたるを跡(あと)と為(し)て)(慶雲四年(707))

について、「この『所』字はノルに対する他動詞ノスを表わすのではなく、漢文表記に影響された、いわゆる『指事之詞』の用法であり、ノセタルトコロというほどの意味であると見られる。興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点には、
 経所載宝荘厳〈経(ニ)(に)(ノ)セタル所ノ宝荘厳ノ〉(巻十49)
と訓読した例がある(築島裕『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文篇』東京大学出版会、一九六五年による)」(122頁)とも記されている。
 この第2詔の「所」を「ノセタルトコロというほどの意味」とするのは当たらないと考える。訓み下すと、「是(ここ)を以(もち)て令(のり)の文(ふみ)に載(の)せたるを跡(あと)として」である。意味は、藤原不比等が天皇(文武天皇)に仕えてくれたのは今に始まったことではなく、天武・持統天皇のときからである。藤原鎌足が孝徳天皇に仕えてくれた様が建内宿禰が天皇に仕えたのと同じ事だと詔して大錦冠を授けて増封したことがあった。そういう次第で大宝令の条文に載せてあるのを基準として、禄令に従って食封を授けよう、ということである。大宝令に載っている条文をただ適用する、ということを言っているのではなく、大宝令の条文の成立に、父親の藤原鎌足の事績が関わっていること、だから大宝令にそのような条文を載せた。それと同じように、藤原不比等も仕えてくれた。だから、よく仕えるのと令の条文を適用するのとは一時的な関係ではなく、連続的なスパイラルであると言っている。そのため、そこに続く詔は、

 随令長遠、始今而次々被賜将往物叙止(令(のり)の随(まにま)に長(なが)く遠(とほ)く、今(いま)を始(はじ)めて次々(つぎつぎ)に賜(たま)はり往(ゆ)かむ物(もの)ぞと)

となっている。禄を賜われば、不比等の子もまたよく天皇に仕え、それでまた禄を賜わり、さらにまたその子もまたよく天皇に仕え、を繰り返すであろうから、という意味である。このスパイラルを言いたいとき、「載せたるを」の助詞ヲは、強い意を持った接続助詞である。助詞のヲは感動詞の「諾(を)」に始まるとされ、その意の流れを汲んだ使い方といえる。そして、「令文」に「所載」したのは、藤原鎌足が伝説にいわれる建内宿禰のようによく仕えたことがもととなっている。たまたま「令文」に載っているのではなく、不比等のお父さんの鎌足が原因で「令文」に載せたのである。よって、「ノセタルトコロというほどの意味」ではなく、宣命の訓み方どおり、ノセタルヲと訓まなければならず、他動詞ノスを表したかったために「所」字が冠されているといえる。なお、以上の読み方によって、「跡(あと)」という語が、基準でありつつ先例であることの語義がつかめると思う。
孝謙天皇宣命(正倉院古文書正集第四十四巻(奈良国立博物館編『第五十四回正倉院展目録』同発行、平成14年、68頁)より。)
 さて、日本書紀に見える「所」の例を見てみることにする。古事記同様、「所帯(はかせる)」、「所生(うめらむ)」、「所謂・所云(いはゆる)」のような助動詞の用法(「所」は連体修飾格を形成する)も多く、「所以・所由(ゆゑ)」とヤマトコトバ一語に相当する例もある。「所由」のような字面から、ヨンドコロなる漢文訓読語があるが、それが上代にヨルトコロなどと言われていたのかどうか、にわかには信じがたいため、ここに一席設けようとしている。まず、築島先生の指摘される、「〜コト」を表す「所」の好材料として、筆者は、日本書紀における「所」+発語に関する動詞、の例をいくつか見ることにする。

 猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、(随猨田彦神所乞、)(神代紀第九段一書第一)
 今、汝(いまし)が所言(まをすこと)を聞くに、深く其の理(ことわり)有り。(今者聞汝所言、深有其理。)(神代紀第九段一書第二)
 故、天孫(あめみま)、鰐(わに)の所言(まをし)の随(まにま)に留り居(ま)して、相待つこと已に八日なり。(故、天孫随鰐所言留居、相待已八日矣。)(神代紀第十段一書第四)
 狭野(さの)と所称(まを)すは、是れ年(みとし)少(わか)くまします時の号(みな)なり。(所-称狭野者、是年少時之号也。)(神代紀第十一段一書第一)
 事(こと)辞(まをしさ)る所(ところ)無し。(事無辞。)(神武前紀戊午年八月条)
 日(ひる)に夜に懐悒(いきどほ)りて、え訴言(まを)すまじ。(日夜懐悒、無訴言。)(垂仁紀五年十月条)
 川上梟帥(かはかみのたける)叩頭(の)みて曰(まを)さく、「且(しばし)待ちたまへ。吾(やつかれ)有所言(ものもを)さむ」とまをす。(川上梟帥叩頭曰、且待之。吾有所言。)(景行紀二十七年十二月条)
 悉(ふつく)に所談(ものがたりこと)を聞きつ。(悉聞所談。)(雄略前紀安康三年八月条)
 此れを見る者(ひと)、咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(見此者、咸言、如卿所一レ噵。)(雄略紀元年三月条)
 遂に国に逃げ入りて、其の所語(かたらひ)を説く。(遂逃-入国、説其所語。)(雄略紀八年二月条)
 鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言ふ所(ところ)を知れり。(鹿父曰、諾。即知言矣。)(仁賢紀六年是秋条)
 并せて任那(みまな)に在る近江毛野臣(あふみのけなのおみ)に詔(みことのり)すらく、「奏(まを)す所(ところ)を推(たづ)ね問ひて、相疑ふことを和解(あまな)はしめよ」とのたまふ。(并詔任那近江毛野臣、推-問所一レ奏、和-解相疑。」(継体紀二十三年四月是月条)
 日本(やまと)の天皇(すめらみこと)の詔(のたま)ふ所(ところ)は、全(もは)ら任那(みまな)を復(かへ)し建てよといふを以てせり。(日本天皇所詔者、全以-建任那。)(欽明紀二年四月条A)
 別(こと)に汝(いまし)の噵(い)ふならく、卓淳(とくじゅ)等の禍(わざはひ)を致さむことを恐るといふは、……。(別汝所噵、恐卓淳等禍、……。(欽明紀二年四月B)
 是れ天皇の為(みため)に必ず褒め讃(あ)げられ、汝(いまし)の身のために賞禄(たまひもの)せられむ。(是為天皇必褒讃、汝身所当賞禄。)(欽明紀二年七月条)
 乃(すなは)ち追(め)して天皇の宣(のたま)ふ所を問はしむ。(乃追遣天皇所一レ宣。)(欽明紀五年二月条)
 ……的臣(いくはのおみ)等の新羅に往来(かよ)ふに由りて、方(まさ)に耕種(なりはひ)すること得たるは、朕(われ)曾(いむさき)より聞きし所なり。……(……由的臣等往-来新羅、方得耕種、朕所曾聞。……)(欽明紀五年三月条)
 ……日本(やまと)より還りて曰へらく、奏(まを)す所(ところ)の河内直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都等(まつら)が事は、報勅(かへりみことのり)無しといへりといふ。(還日本曰、所奏河内直・移那斯・麻都等事、無報勅也。)(欽明紀五年十月条)
 請(まを)す所の兵士(いくさびと)(所請兵士)……請す所の軍(いくさ)(所請軍)(欽明紀五年十一月条・十四年六月条)
 乞ふ所の救軍(すくひのいくさ)(所乞救軍)……乞ふ所の救兵(すくひのいくさ)(所乞救兵)……乞ふ所の軍(いくさ)(所乞軍)(欽明紀九年正月条・十年六月条)
 大王(きみ)の述べたまふ所の三つの策(はかりごと)、亦愚(わ)が情(こころ)に協(かな)へり。(大王所述三策、亦協愚情而已。)(欽明紀五年十一月条)
 仏の、我が法(のり)は東(ひむかし)に流(つたは)らむ、と記(のたま)へるを果すなり。(果仏所一レ我法東流。)(欽明紀十三年十月条)
 王(こきし)の須(もち)ゐむ随(まま)ならむ。(随王所一レ須。)(欽明紀十四年六月)
 大舎(ださ)、国に還りて、其の言ひし所を告ぐ。(大舎還国、告其所一レ言。)(欽明紀二十二年是歳条)
 此の犬、世に希聞(めづら)しき所なり。(此犬世所希聞。)(崇峻前紀用明二年七月)
 群臣(まへつきみたち)奏(まを)して言(まを)さく、「任那の官家(みやけ)を建つべきこと、皆(みな)陛下(きみ)の詔したまふ所(ところ)に同じ」とまをす。(群臣奏言、可任那官家、皆同陛下所一レ詔。)(崇峻紀四年八月条)
 天皇、猪(ゐ)を指(ゆびさ)して詔して曰はく、「何(いづれ)の時にか此の猪の頸を断(き)るが如く、朕が嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人を断らむ」とのたまふ。……蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(天皇指猪詔曰、何時如此猪之頸、断朕所嫌之人。……蘇我馬子宿禰、聞天皇所一レ詔、恐於己。)(崇峻紀五年十月条)
 ……然るに、今し群卿(まへつきみたち)の噵(い)ふ所(ところ)の天皇(すめらみこと)の遺命(のちのおほみこと)は、少少(すこ)し我(おのれ)の聆(き)きし所(ところ)に違(たが)へり。……(然、今群卿所噵天皇遺命者、少少違我之所一レ聆。)(舒明前紀推古三十六年九月条)
 卿(いまし)が噵(い)ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ずや然らむ。(如卿所一レ噵、其勝必然。)(皇極紀二年十一月条)
 舎人(とねり)、便ち語らふ所を以て、皇子(みこ)に陳(まを)す。(舎人、便以語、陳於皇子。)(皇極紀三年正月条)
 果して言ふ所(ところ)の如くに、治めて差(い)えずといふこと無し。(果如言、治無差。)(皇極紀四年四月条)
 若し其の伴造(とものみやつこ)・尊長(ひとごのかみ)、訴ふる所を審(あきら)かにせずして牒(ふみ)を収め匱(ひつ)に納(い)れば、其の罪を以て罪せむ。(若其伴造・尊長、不訴収牒納匱、以其罪々之。)(孝徳紀大化元年八月条)
 ……臣(やつかれ)、即ち恭(つつし)みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく、……。(臣、即恭承詔、奉答而曰、……。)(孝徳紀大化二年三月条)
 ……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当-解此所一レ宣。)(孝徳紀大化二年八月条)(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の五

2016年05月08日 | 論文
承前
(注1)1字目は「台」で「治」の省画字、5・6・7・56字目は削れていて見えず、36字目は「六」または「九」か、43字目は見えるようで見えず見えないようで見えるような字、70字目は「和」か「加」かとされる。
(注2)列島に鉄製鋳造釜は根づかなかった。土器の長甕を支脚にのせて立て、隙間を粘土で塞いで固めてしまった。そこは常に湯が沸いており、水が追加されながら甑を載せて蒸し料理が行われた。鉄の釜は中世に至るまでかなりの間、一部寺院などを除いて広範には用いられなかった。文化の違いであった。
五綴鉢(ごてつのはち)(鉄製鍛造、奈良時代、8世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
(注3)「讞」という字は聖徳太子の憲法十七条の第五条に、コトワリマウスとある。礼記・文王世子に、「獄成れば、有司(いうし)、公に讞(げち)す」の鄭注に、「讞 之れ言ひ白す也」、説文に、「讞 罪を議る也」とある。訴訟を裁決するの意である。
(注4)白川静、前掲『字通』に、「于」は「象形」とし、「字形は、曲がった形を作るためのそえ木。また刃の長い曲刀の形」(47頁)とある。説文には、「于 於(ああ)也。气の舒(おもむ)ろに♯(一の下に丂)(まが)れるに象る。丂(かう)に从ひ、一に从ふ。一は其の气の平らかなる也。凡そ于の属、皆、于に从ふ」とある。食べ過ぎてもう嫌だと横を向いてゲップをしている様子については、本稿の終わりのほうで触れている。
 なお、狩谷★(木偏に夜)斎は箋注倭名抄で、「戟 楊雄方言云、戟〈几劇反、保古〉或謂之于、或謂之戈〈古禾反〉」とある「于(ウ)」字を「干(カン)」と見ている。箋注に、「方言云、楚謂戟為孑、此干当孑然諸本及伊呂波字類抄皆作干、按干即盾、非此用、蓋源君所見方言、写者以干戈経典熟用字、又孑干字形相近、誤干戈一物、遂改孑為干、源君襲之也、源君所見若是、孑字必当其音、而此無音則知干字非後人伝写本書者之誤、故今不径改、而弁其誤」としている。林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』(勉誠出版、平成14年、269頁)でも「干」と見ている。
高松宮本和名抄より(『倭名類聚抄―国立歴史民俗博物館貴重典籍叢書 文学篇 第二十二巻 辞書―』臨川書店、1999年、251頁より)
 戟の活用として、虎退治もあげられる。追記しておく。
画像石(中国山東省孝堂山下石祠、後漢、1〜2世紀、東博展示品)より
 また、戟によく似た斧・鉞の用途は、木こり、薪割りである。塩を焼くためには大量の薪が必要である。(注16)もあわせて参照されたい。
大原御幸図屏風(長谷川久蔵(1568〜93)筆、紙本金地着色、安土桃山時代、16世紀、東博展示品)より
(注5)石村真一『桶・樽供戞法政大学出版局、1997年)に、「大桶の底用定規」(286頁)、「桶用定規」・「型板」(290頁)などとあるものもL字状の板になっている。ヨーロッパではコンパスが用いられているが、本邦では塑型にあてがわれて作られたらしく記されている。規(ぶんまわし)は使われずに矩(さしがね)が用いられたということで正しいのであろうか。誰のさしがねでやっているんだ、といった形容に使われるように、誰かの回し者という悪いイメージが、曲がれるもの、鎌には付いて回っている。そういった理解で構わないのか、ご存知の方、お教えください。
(注6)稲荷山古墳出土鉄剣銘文には、「七月中」とある。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣は、表に「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」、裏に「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」と判読されている。「中」については、岸俊男『日本古代文物の研究』(塙書房、昭和63年)に、秦代の竹簡に「四月中」、漢代の木簡に「七月中」、新羅の銀合杅に「三月中」、石碑に「九月中」、高句麗の碑文に「五月中」などとさまざまな例をあげ、小川環樹先生のアルタイ語の処格・与格の後置詞を表わす代わりに書かれたとする考えを否定されている。そして、「…月中」は「…月じゅう」の意味ではなく、「…月に」という時格を表わす用法で、「わが国の『中』字の用法は、朝鮮三国から渡来した人々が、その才をもって文筆の業に起用され、自国の文字遣いを反映させつつ撰したものと思われる」(216頁)とされている。藤本幸夫「古代朝鮮の言語と文字文化」岸俊男編『ことばと文字 日本の古代 第14巻』(中央公論社、1988年)には、百済の例のなきことを倭の例から補おうとまでされている。
 そういった結果、小学館の新全集本日本書紀‘注に、「古訓ナカノトヲカ(中旬の意)は誤り。『〜月中』は『〜月というその月のうちで』の意を表す中国の俗語的用法。中国出土秦代竹簡や『史記』『漢書』『三国志』などまれに例がある。日本では稲荷山古墳出土鉄剣銘の『七月中』ほか二例。紀ではほかに応神紀に一例」(451頁)とされてしまっている。「七月中(ふみつきのなかのとをか)」(神功紀四十六年三月条)、「九月中(ながつきのなかのとをか)」(応神紀十三年九月条)とある。中旬の11日〜20日まで、the middle ten days of a month を指している。「四月上旬(うづきのかみのとをか)」(神功摂政前紀仲哀九年四月条)という表記もある。ヤマトコトバの表記として「…月中」を「…月ノナカノトヲカ」と訓み慣わされるには訳がある。(訳がないのに古訓は生じない。突っ込まれたら恥ずかしいではないか。)
 旧暦だから月の満ち欠けによっている。神功紀の例は、百済人が卓淳国へやって来て、日本への海路を尋ねられたとき、海路は遠く、波浪は険しいから大船が必要だと答えたところ、大船を用意して出直してくると言って帰って行ったという。つまり、遠路はるばる船で来ている。基本的に昼間、航行するのであろうが、天候によっては夜も航行したのであろう。夜、月明かりのもとで沿岸を進むためには、ある程度の明るさが確保できる満月を中心とした10日間を選ぶのはきわめて合理的である。応神紀の例も、髪長媛が日向から来たときのことである。船に乗ってきたのであろう。続く割注に「一云」の伝があり、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)が髪長媛を貢上しに数十艘の小船で瀬戸内海を来たことが記されている。現代の“研究”は、古訓の知恵を顧みないことで得意になっている。
 江田船山古墳出土大刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘に、「八月中」、「七月中」とあるのも、ナカノトヲカ(中の十日)の意であろう。晴れていれば月(moon)明かりによって象嵌を識別しやすくなる。太陽光では光が強すぎてまぶしく作業にならない。電気はない。窓ガラスもない。灯明では光が一定しなし、散乱光では一目瞭然に見極めることができない。かなう光の条件は、明るい月のもとである。金属面を反射させて象嵌の輝きを確かめた。仕事は夜行われた。そして、江田船山古墳出土大刀の場合、「八月中」は、羽釜の羽が尽きて竈に落ちたことを表したから、竈のことを鍛冶屋の窯のことと見立ててその「中」で焼き直されたという意も含意しているものと思われる。巧みで知恵ある表現に敬意を表したい。
江田船山銀象嵌有銘大刀(東博展示品。見えますか? 作れますか? 作りたいですか?)
(注7)佐藤長門「有銘刀剣の下賜・顕彰」平川南・沖森卓也・栄原永遠男・山中章編『文字と古代日本1―支配と文字―』(吉川弘文館、2004年)に、「[川口勝康]の下賜説に対しては、すでに亀井正道によって、江田船山古墳の副葬品には『治天下』銘大刀と同一作者・同一工房によって製作されたと考えられる直刀が二口ふくまれており、この大刀を下賜刀とするなら二口の直刀も同時に移動・副葬されたとみなければならず、下賜説にはなお証明すべきいくつかの問題があるとの疑問が提示されている〔亀井―一九七九〕。しかし、たとえ『治天下』銘大刀と直刀二口が同時に製作・移動したものであったとしても、そのことがどうして下賜の否定につながるのか理解できず、また川口も有銘刀剣のみが下賜刀であると主張しているわけではないことからすれば、あまり有効な批判であるとは思われない。むしろ川口説を批判するのであれば、この大刀の銘文解釈に立ち返ることこそ肝要であろうと思われる」(34頁)とある。10年以上前のことである。筆者には、亀井先生の論文にそのような趣旨のことが書かれてあるのか読解できなかった。あるいは、川口先生の下賜説に対して反論する人がいて、亀井先生のこの論文を持ち出したため、佐藤先生が川口先生を擁護するために、今読むと訳のわからない論証が行われているものであろうか。筆者は、佐藤先生が「肝要」とされる「銘文解釈」しか行っていない。亀井先生のすぐれた鑑識眼は、「三寸」をミキダニシテと訓むことを証明していると考えている。大刀が下賜されたものであるかどうかについては、正確な「銘文解釈」の上でしか議論しても始まらないことと考える。
(注8)三省堂の時代別国語大辞典上代編では、日本国語大辞典第二版に,箸靴討泙箸瓩蕕譴討い襦◆崕淑に。ねんごろに。」と「巧妙に。じょうずに。」を分けている。後者の例として、「我が命の 長く欲しけく 偽りを 好(よく)する人を 執(とら)ふばかりを」(万2943)をあげている。十分に、ねんごろに、一生懸命にしたからといって、うまいこといくとは限らないから、巧妙に、上手に、という語釈を別立てにするのは、一理あることである。その場合、ヨクという副詞の意にずる賢さ、悪辣さを秘める結果につながる。ヨクがアシク、ワルクへと向かっていく。ヤマトコトバの原義からしてすでに反義語に結びつくところは、言葉というものの奥深さを示すものであり、とても興味深い。
(注9)鎌が曲がれるもの、刀が真っ直ぐのものというテーマについては、神武記、熊野において、大きな熊に悩まされる話として逸話化されている。詳細は、本ブログ「神武記の『大熊髪』について 其の一」以下を参照されたい。
ツキノワグマの首の鎌形(上野動物園のおみやげのぬいぐるみ)
(注10)4字目の「獲」については、草冠のない異体字とみる説が有力ながら、亀井、前掲論文に、隹とするには縦画を欠いているように見えるので、「α」(獣偏に「丿一」の下に「E」、その下に「又」)とあるように見えるとする。しかし、福山敏男の「蝮」字の獣偏化説のようにとるには、下部の又との釣り合いがとれない。
「獲」王僧墓誌(東魏・天平三年(536)刻、『石刻史料新編第三輯(三)漢魏南北朝墓誌集釈(上)』新文豊出版公司より)
 似た例を探したが、管見にて上の例しか見つからなかった。東野、前掲書、2004年に、「異体字の場合、時代が下る例であっても、その発生が新しいとはいえず、傍証とすべきである。あるいは象嵌の省略ともみられよう。また隹の横画が三本の異体は、古くから例がある。この文字は『獲』の異体字と断定してよいであろう」(98頁)とする説には同意できない。東野先生があげられている引用の、藤沢一夫先生のご指摘による日本書紀巻十四の古写本中に縦画のない形の「獲」の字は、次のものかと思われる。同巻中の他の4例も示す。
「獲」(『宮内庁書陵部本影印集成2 日本書紀二』八木書店、2006年、20頁より)
(左から同上書、19頁、24頁、77頁、78頁、いちばん右は、京都国立博物館編『国宝岩崎本日本書紀』勉誠出版、2013年、77頁より)
 当該文字に関しては、書陵部本では、「隹」の左縦画を伸ばし、中軸縦画から「又」の左払いへと続ける字で、「又」の横画は記さない。その中軸縦画は、筆が浮いてかすれているに過ぎない。他の4例も含めて見れば、草冠の位置が全体を覆うか旁だけを覆うか、また、草冠の三画目の左払いが獣偏の一画目に続くこともある。「隹」部分の中軸縦画から「又」の左払いへと続ける際、上から始まるか途中(「隹」の横画の2本目ぐらい)から始めるかといった違いはあるが、中軸縦画は有るものとして筆記されている。筆記者の意識に縦画が無いものとしては筆記されていない。しかも、草冠も有る。「傍証」とはならない例と考える。そして、岩崎本のように、嫌に横画数が少なくても「獲」の字としてためらわれていない。大刀銘の「α」以上に横画を省いている。紙本墨書で技術的に難しいわけではない。“傍証”とするのに気づかうのは、縦画、横画の本数よりも、全体的なバランス、“字体”であるように思われる。似ているという印象を受けない。
(注11)「問。書字不美読。其由如何。答。師説、昔新羅所上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲地而踏。自其後、訓云文美也。今案、蒼頡見鳥踏地而所往之跡、作文字。不美云訓、依此而起歟。」(京都大学附属図書館所蔵平松文庫『釈日本紀』
(注12)額縁がなければそれが絵であるということがわからない。絵を描くことと額縁を作ることを同時作業で行ってしまったのが、江田船山古墳出土の大刀銘であったり、天寿国繍帳銘であったりする。天寿国繍帳銘については、本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の一」以下を参照されたい。自己言及的に言葉を紡いでいった構想、構造は、江田船山古墳出土の大刀銘と一致している。人間の精神の有り立ちを見るうえで、とても興味深い事案である。
(注13)田辺昭三『陶村古窯址群機戞癖唇続惘犢邑迭悒ラブ、1966年)によるもので、「陶器山15型式」(『須恵器大成』角川書店、1981年)ともされており、中村浩『和泉陶邑窯の歴史的研究』(芙蓉書房出版、2001年)に「況深1段階」、山田邦和「須恵器編年\焼本」一瀬和夫・福永慎哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学1―古墳時代史の枠組み―』(同成社、2011年)に「陶器山15窯式」とされている。
(注14)本ブログ「隋書・倭国伝『日出処天子致書日没処天子無恙云々』を読む」を参照されたい。
(注15)森博達「稲荷山鉄剣銘とアクセント」小川良祐・狩野久・吉村武彦編『ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳―』山川出版社、2003年。アクセントまで引き写す識字能力が仮にあったとしたら、筆者が上述したようなヤマトコトバの表記能力などあって当たり前である。なにしろ母語である。
(注16)土器製塩については、考古学のさまざまな研究が行われているので当たられたい。筆者は、古代の塩づくりの技術について、単一のやり方へと収斂させようとする研究姿勢に多少の疑問を感じる。結果的にできればいいわけで、海沿いの家庭では塩水自体を調味料に汁を作ることもあったのではないか。それはそれで言葉の上ではシホ(塩)なのではないか、などと憶測している。税金にしたら生産効率を求めることが促進される。漁師が船上で作るうしお汁に、塩を持参したとは考えにくいのである。言葉の上では、シホ(塩)、ウシホ(潮、ウミ(海)+シホ(塩)の約か)は同系で、キタシ(堅塩)は新たなる造語のように感じられる。正倉院文書で、「顆」と数えることがあるのは、塊になっていたからであろう。語学的にいって、シホ→キタシには、製塩技術に何らかの変化があったらしいことを窺わせている。「藻塩(もしほ)」(万935、常陸風土記行方郡条)法には諸説あるが、前段階の塩析出法であったようである。考古学研究が進むことを期待したい。
 近藤義郎『土器製塩の研究』(青木書店、1984年)に、「越前茂原の塩焼きと焼き塩―三木謙三翁の話―」という昔話が付されている。興味のある方は参照されたい。筆者が注目するのは、その地が継体天皇の出身地、越前で、米ヶ脇遺跡に土器製塩の遺構がある点である。塩田法発明以降も民俗的に塩焼きが営まれていた由来は、あるいは、継体天皇の故事ゆえからではなかろうか。
 武烈紀に、「詛(とご)ふ時に唯、角鹿海(つぬがのうみ)の塩(うしほ)をのみ忘れて詛はず。是に由りて角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす」(武烈即位前紀仁賢十一年十一月条)とある個所、岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「角鹿は敦賀(つるが)。敦賀の塩だけが特に天皇御料となることは、後世に見当たらない」(ワイド場岩波文庫『日本書紀(三)』153頁)とある。「角鹿」は越の国にある。継体天皇の故事と関わりがあるように思われてならない。
 「石川県埋蔵文化財情報」第23号(石川県埋蔵文化財センター、2010年3月)に、「日本海域の土器製塩」が特集されている。さて、古代の人たちは、北陸地方〜若狭湾沿岸にかけての塩のことを、どのように思っていたか、キタシホ(北塩、堅塩(キタシ)の代表?)であろうか。支脚のことは何と呼んでいたか、例えば、コシ(腰&層&輿)であろうか。製塩土器のことは、例えば、シホカメ(塩甕)か。貯蔵用と同じになるのであろうか。本邦の竃では、カメ(甕)が支脚の上に載せられ、粘土で隙間を埋めて据え付けられており、湯を常時沸かして甑を被せて蒸し料理をしていたとされる。甕が洗えない作りである。外山政子「三ッ寺彊篝廚離マドと煮炊」『群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調査報告書第93集 三ッ寺彊篝廖従絮杰郡汗関係埋蔵文化財発掘調査報告第13集―』同事業団発行、平成3年)に、「いわば『はめころし』の状態」(176頁)と形容されている。ときどき壊していた形跡もあるとされる。筆者はここに、電気ポット内の様子を思い浮かべる。塩の析出である。(水道水ではカルシウム分が多いようである。洗浄にはクエン酸が効果的なようである。)つまり、火にかけられる甕の甕たる本質とは、塩の析出にあるのではないか。本文に述べたとおり、竃に釜ではなく甕を採用した点は、製塩土器と共通するところがあるように感じられる。想像力をたくましくして検討されるべき課題は多い。
(注17)古代の塩釜の記録としては、「熬塩鉄釜」(筑前国観世音寺資材帳、和銅二年(709))、「煎塩鉄釜」(長門国正税帳、天平九年(727))、「塩釜」(周防国正税帳、天平十年(738))があげられている。生塩を鉄板の上で煎って脱水したようである。ただし、類例が少なく、比較的短期間しか用いられていない点を考慮すれば、当時の人々において、釜文化は甕文化に劣るとの評価もあったかもしれない。
(注18)本ブログ「稲荷山古墳出土鉄剣銘を読む」を参照されたい。
(注19)継体紀の最後には、継体天皇が亡くなって年次について、割注形式で「或本(あるふみ)」の異伝として二十八年(534)の薨去を伝えている。百済本紀によって、「太歳辛亥の三月」「是の月」に「又聞く」こととして、継体二十五年に亡くなったことになっている。紀では、「二月」になっている。そして、「辛亥の歳は、二十五年に当る。後に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知らむ」とある。何を意味するか、筆者にはわからない。歴史学は形而上学に遊ばずに「勘校」えてほしい。
(注20)「酷毒流於民庶」(雄略紀二十三年八月条)の「流」字、古訓に「ホトコリナム」とあることについて、神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」に、他の「被」、「連延」、「延」ともども「諸訓は、その引申義なること殆ど論證を要せざるべし」(『神田喜一郎全集供抛永舎出版、昭和58年、370頁)とある。
(注21)平安文学に、「来し方」と記される事柄を、キシカタと訓めば時間的に過ぎ去った過去を、コシカタなら空間的に通り過ぎて来た場所のことと区別されていたが、平安末期に不分明になり、過去のこともコシカタというようになったと解説されている。過去回想の助動詞キがカ変動詞「来(く)」を受ける場合、終止形のキは付かず、連体形のシ、已然形のシカが、「来」の未然形のコないし連用形のキに付くとされる。「きし方行く末」(竹取物語・蓬莱の玉の枝)という例がある。ところが、管見では、万葉集には、仮名書きの例から、「来(こ)し」、「来(こ)しか」と読み慣わされており、「来(き)し」、「来(き)しか」の例は見られない。大伴家持の万3957番歌に、「出でて来(こ)し」、「来(こ)し日の極み」とあり、用字は「許(こ、コは乙類)」で、時間、場所の両用に用いられている。和文語「来(く)」と、漢文訓読語「来(く)る」、「来(きた)る」との関係から、その謎は解かれるかもしれない。次注も参照されたい。
(注22)「獲加多支鹵」の義訓によって、キタシ(堅塩)の一義に、キタシ(来たし)と読むことがわかった。「来(きた)す」は、来させる、もたらす、の意で、「来(きた)る」の他動詞形である。「来(きた)る」は、キ(来)+イタル(至)の約とされ、漢文訓読系で使われ、平安時代、女流文学には「来(く)」を用いた。ところが、万葉集に、「来(きた)る」は20例を超える。持統天皇御製の、「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり 天の香具山」(万28)は早い例である。万葉集に登場する語が、どうして女流文学に排除されることになったのか、筆者は不勉強で納得できていない。言葉の歴史を文化史として捉え返せていない。
 本稿では、「安也」をイヅクニカと義訓で読むとする点もあげた。これら漢文訓読体に特有に見られる言葉が、偶然の一致や、筆者の思い過ごしによるものでなく、継体二十五年(531)からすでに用いられていたとするなら、ヤマトコトバの歴史は、今日考えられているほど“新しい”ものではなく、漢文・漢語との接触混淆を伴いながら程よく醸成されていたことを窺わせて興味深い。それは、ピジン・クレオールでも、カタカナ語乱発でも、和製英語短縮化のいずれの状況とも非なるものである。音→音への交雑ではなく、文字(「書(ふみ)」)→言葉への交換過程での発明に依った語である。言葉とはもともと音であるが、その音を理解するために言葉があるというからくりが、きちんとからくりとして成立している、それが上代のヤマトコトバなのである。母語以外の他言語を返り点などを施しながら和訓語などを生じさせつつ母語並みに扱ってしまい、尽くして余りある(なぞなぞとして楽しめる)ことは、他言語においてどの程度まであり得たのであろうか。language 能力にもいろいろあることは言うまでもないながら、存外に深刻に受け止められていない。キタシが、来たし、北し、堅塩、の意味を兼ねていて、それらが互いに意味的に絡まるように“作られている”といった状況が、他の言語Aにおいて、それ以外の言語Bからの影響を受けながらも、混ぜっ返してなるほどと納得できるように、A言語内で言葉を練り上げてしまうようなことが実例としてあるのであろうか。A言語内でと断ったのは、キタシ(来たし、北し、堅塩)と言って、中国大陸や朝鮮半島の人にはどの意味も通じないからである。混乱を避けるためにさらに注すると、「謎」が問題なのではなく、なぞなぞが問題なのである。
 筆者は、オリジナルのヤマトコトバと、漢文訓読を含めた漢字文化の受容の際に生じたベストマッチング、つまり、高度ななぞなぞ文化について考究している。なぞなぞ、頓智が、既存のヤマトコトバを変革して行くうちに生じさせようとした意図的な創意工夫に重きを置くものか、はじめからヤマトコトバのうちにオリジナリティとして発揮されていたものなのか、およそ勘違いの別世界であるため、同定すべき位置を見出せていない。例えば、枕詞“とは何か”について、明瞭な答えが見つからないのである。枕詞とは言語遊戯であると定義できたとして、なぜそのようなことをするに至ったのか、いまだに「何やってんの?」としか言い得ない。個々の枕詞の“語源”について考究されることはあっても、誰一人答えようと取り組まれていない。本稿では、それが6世紀前半に遡ると知り、驚きを禁じ得ないのである。言語をもって文明たらんとしている上代のヤマトコトバ“とは何か”、謎ではなく、なぞなぞが問題である。
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の四

2016年05月02日 | 論文
承前
 塩が出来あがっていく過程を見ていると、まるで、嗽をしているようである。ヨード水溶液以前、嗽をするのに塩水を使うことがあった。現在の医学的知識でも、健常時は塩水を使った方が良いとされているらしい。ガラガラとあぶくを立てて嗽をするのと、グツグツと塩が煮え上って行くのとはよく似ている。そして、鵜飼の仕方は、鵜の喉の下部に紐をゆるく結い、ペリカン様の喉に獲物を入れはするが飲み込めなくし、その手綱を5〜10数本ぐらい鵜匠が操るものである。その様子は、ホドヅラ(百部根)の芋の出来具合とよく似ている。本草和名に、「百部根 欬薬」とある。根を乾燥させてうがい薬にした。名義抄に、「嗽 クチススグ、ウガヒス」、下学集に、「鵜飼 ウガイ、嗽(クチススグ)也」とある。嗽(うがひ、ヒの甲乙未詳)という語は、早くからその語源について、鵜飼(うかひ、ヒは甲類)との関係が取り沙汰されている。鵜が魚をのんでは吐き出すこととの連想を見たようである。そこまでは従来から言われてきたことである。筆者は、百部根が「欬薬」とされている点に注目する。ホドツラの根の、手綱が広がるようになったその先に張り膨らんで塊となっているところに、まるで、喉を膨らませた鵜につけた手綱を、鵜匠が操っているかのような光景を見てとる。鵜も、百部根も、のんでは吐き出すのに長けている。魚を獲るのに鵜を使っている。痰を取るのに百部根を使っている。鵜も百部根も、吐き出させられている。鵜飼に必要とされる技能とは、上手に引き寄せる手綱さばきである。銘文に、「其の統ぶる所を失はず(不失其所統)」と読まれているのは、鵜飼の手綱さばきに似ていて、ホドツラのたくさんの根の先に太った根があり、それを切らないように手繰り寄せられたことを指している。「統(す)ぶ」という語は、一つにすること、まとめることが原義で、支配の意に用いられるのは展開形のように感じられる。糸偏の字が好まれて当てられ、また、「すべて(凡・都)」という副詞化した語に、政治的な統一の義を感じ取れない。統一した領地を失わない意としか解さないのでは、読みが浅いという誹りを受けねばならないだろう。

 海神(わたつみ)、是に、海の魚(いをども)を統(す)べ集(つど)へて、其の鉤(ち)を覓(と)め問ふ。(神代紀第十段一書第一)
 機衡(よろどのまつりごと)を綢繆(すべをさ)めたまひて、神祇(かみつかみくにつかみ)を礼祭(ゐやま)ひたまふ。(垂仁紀二十五年二月条)
 皇太子(ひつぎのみこ)、乃ち皇祖母尊(すめみおやのみこと)、間人皇后(はしひとのきさき)を率(ゐてまつ)り、并(あはせ)て皇弟等(すめいろどたち)を率(すべ)て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に居(ま)します。(孝徳紀白雉四年是歳条)

 万葉集には、越中守大伴家持の歌が載る。

 毎年(としのは)に 鮎し走らば 辟田河(さきたがは) 鵜(う)八頭(やつ)潜(かづ)けて 河瀬尋ねむ(万4158)

 紐のような根を手繰り寄せて天皇に据えたというのが、継体天皇即位のお話であった。何羽もの鵜が同時に鵜飼にかり出されて喉を膨らませるのと、何甕もの製塩土器が一つの炉(火処)に焚かれて塩の泡を立てるのと、何本もの百部根が一株に膨れるのとは、類推されるに足るだけの共通項を持っていたといえる。
 結果、釜文化 v.s. 甕文化の戦いが、筑紫国造磐井の乱であったということになる。勝利した側は、製塩土器に由来した甕文化を竈に融合させ、普及させた。そのトップに君臨すべく、ヲホド大王は越(こし、コは甲類)の国から連れて来られた。それが鹹水を濾(こ)す(コの甲乙未詳)ことと関係し、中古に「塩ごし」という語になったのか、上代に「藻塩」とあるのが海藻を積み重ねて上から海水を注いで鹹水を得て、それを製塩土器で煮詰めて塩づくりをしたと考えられていることと関係があることなのか、不明である。濾過する意味のコス(濾・漉)という言葉が上代に見られないようである。また、中古の「塩ごしの樋」の語から、越す筧、向こう側へ潮水を遣り水として送ることを表すとする説も根強い。しかし、それを上代に遡らせるとすると、樋(ひ、ヒは乙類)と火(ひ、ヒは乙類)の洒落をもってすると仮定して、火を越(こ)す(コは甲類)ことになりはするが、それを表わす具象的な遺物は古代に見られない。むしろ、応神紀三十一年条の例から、塩を焼くこと(堅塩づくり)とホドコシ(施、ド・コは乙類)という語に関連を見てとっているようである。筆者の考えは後述する。
 「α加多支鹵大王」とは、取り来たし大王、得難き大王のことを暗示している。継体天皇は、ほとんど拉致されて連れて来られた。その際には、厳重な警備が求められた。威儀を高めなければ正統性も確保されないから、武装した大行列で迎えに行くことになる。

 臣連等を遣(まだ)して、節(しるし)を持ちて法駕(みこし)を備へて、[越前国坂井郡]三国(みくに)に迎へ奉る。兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駆(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月条)

 礼節を守って誠実に熱心に天皇になってもらおうと説くが、疑問をいだき知人に助言を求め、2泊3日話し合ってようやく大臣や大連の本意がわかったという。自由にのんびり田舎暮らしをしていたのが、急に兵隊さんに囲まれたら、守られているというよりも囚われて窮屈だと感じるのは当り前であろう。自宅に監視カメラを設置すると、自分が監視されているような気分になる。兵隊さんの儀仗の行列は、「鹵簿(みゆきのつら)」(雄略記、天武紀七年四月条)という。「前駆警蹕」とは、鹵簿を整えることである。塩(鹽)の製造量を帳簿につけたり、荷札にして都へ貢物として送ることについて、鹵簿という語が関連させられて考えられていたかはわからない。
 はるばる都からやって来たのは、味方かどうか知れないのである。稲荷山古墳鉄剣銘によって補われる3文字の、「加多支」はカタキ(キは甲類)と仮名として訓めた。カタキは堅い意味のほかに、難しい、厳重な、の意がある。そんなに仰々しくしなくても、事を難しくしなくても、都へ行けと言われれば行くことは可能である。けれども、天一坊事件のようになっては困るから、有力豪族側は配慮している訳である。また、敵(仇)(かたき、キは甲類)の意もある。カタキ(敵・仇)のキは人の意で、オミナ(嫗)の対とされるオキナ(翁)のキのように、男性を表わすとされる。イザナミとイザナキの対でも、キ(甲類)は男の人を表わす(注18)。片+キの意である。確かに、突然現れた軍勢は、もとを辿れば先祖を追いやった豪族の末裔だから、親の親の親の親の親の仇のような存在に当たる。男大迹王は、「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)、彦主人王(ひこうしのおほきみ)の子(みこ)」(継体即位前紀)である。
 以上いろいろ検討した結果、「獲加多支鹵大王」とは、カタキを鹵獲(「獲鹵」)せし大王、堅塩(きたし=来たし)を獲し大王のことから、ヲホドノオホキミ(男大迹王)、継体天皇のことを指すと知れた。ひげが切れないように芋を掘り取った。ホドは「百部」と書く芋である。「部(べ)」は、大化改新前に、朝廷や豪族に仕えたさまざまな職能集団を指す。「部曲(かきべ)」などともいう。それが百も連なるようなことだと、漢方薬にする百部根という字面は語っている。部の民を百も連ねることができるのは、天皇ぐらいであろう。そして、ヲホドだから小さな塊状の芋である。それを“象徴天皇”を失ったヤマト朝廷側は手繰り寄せた。小さな手がかりをつかんで、宮都へ連れ帰った。裏返せば、皇統の血筋とは、ホドツラ(百部根)が地中で根を広げてそれぞれ張り膨らみ太っているように、実は案外どこにでも隠れて広まっているということになる。
 継体天皇の都した場所は、

 [元年(507)正月……]樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)りたまふ。…河内国交野郡葛葉郷(大阪府枚方市楠葉付近)
 五年(511)の冬十月に、都を山背の筒城(つつき)に遷す。…山城国綴喜郡(京都府京田辺市多々羅都谷付近)
 十二年(518)の春三月……に、遷りて弟国(おとくに)に都す。…山城国乙訓郡(京都府長岡京市今里付近)
 二十年(526)の秋九月……に、遷りて磐余の玉穂に都す。…大和国式上郡(奈良県桜井市池之内付近)

である。稲荷山鉄剣の銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の「斯鬼宮」とは、最後の磐余玉穂宮のことを指すとわかる。磐余は磯城にある。稲荷山古墳出土鉄剣銘が、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と記しているのは、継体20年(526)の遷都以降、没する継体25年(531)までのことである点を明記するものである。そして、稲荷山古墳出土鉄剣銘に「辛亥年」とあるのは、西暦471年ではなく、継体二十五年(531)に当たる(注19)
「和?」(東京国立博物館編、前掲書、図版5より)
「加」史晨碑(『書籍名品叢刊第八五回配本 漢 史晨前後碑』二玄社、1962年)より
 最後に、もう一人、銘文に名が示された「伊太(和)」について考える。「和」ではないかとする字は、「加」とする説もある。これは、「加」であろう。イタカである。イタカとは、通例、板書き、あるいは板書きの略かとされる。居鷹・為多加・異高とも表記される。功徳、善根、供養のために小さな板の卒塔婆に経文、戒名などを書き、流れ灌頂を行って読経をして銭を乞う乞食坊主をいう。この語が古代にさかのぼるとする証拠はない。けれども、卒塔婆のような細長い大刀の嶺に文字を刻むという仕業は、何か特別な行いとして人々の注目に値したことと思われる。七十一番職人歌合には、「穢多」と歌を競い合っている。描かれている「いたか」は覆面をしており、社会から排除された賤民、非人の部類であろう。記されている「いたか」の歌に、「文字はよし見えもみえずも夜めぐるいたかの経の月のそら読」とある。月の光の下で象嵌を施す作業を行っていたとする解釈は、「八月中」のナカノトヲカの解釈において(注6)に述べた。
「いたか」(公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫編『前田育徳会尊経閣文庫所蔵 七十一番職人歌合』勉誠出版、2013年、83頁より)
 そんなイタカの仕事にふさわしい人物が、継体紀に記されている。

 十二月に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父(かぞ)[筑紫国造磐井]のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献りて、死罪(しぬるつみ)贖はむことを求む。(継体紀二十二年十二月条)

 命乞いをしている。乞食僧に等しい。この葛子(コは甲類)という言葉は、葛粉(コは甲類)に同じである。葛の根を何回もさらすことによってデンプンをとり出したものである。葛餅、葛切、葛湯などに用いられているが、労多くして功少ない食材である。古代にはむしろ救荒植物であった。命乞いを意味する。筑紫君であったはずである。ツクシ誰の子、スギナの子、のはずである。いつからクズの子に成り下がり、晒し者になったのか。クズは屑でもある。吉野葛を久助葛といい、久助とはできそこないのことを指している。献納している屯倉の名の、糟屋のカスは滓をも指す。いかにもとってつけたような紀の記事は、人間のくず、かす、と呼ばれるような所業を示唆しているらしく思われる。反乱が鎮圧されたら、一族郎党皆殺しが必定で、所領地を一部差し出して許されるものではない。源頼朝も伊豆へと遠島、義経は鞍馬寺で小坊主になっている。「筑紫君葛子」なる人も、出家した坊主のなかでもさらに命乞いをしているから、イタカと呼ばれるように落ち着いたのではなかろうか。仏門に下ることとは、本来、命を捨てることを意味する。そこで、「作刀者名伊太加書者張安也」となった。(そんなに大昔からイタカがいたか? とする反論に、筆者は甘んじて受けるので、どしどしやられたい。)
 上に、「書者」の「者」について、△侶措位昌貪用法ではないと捉えた。,猟鷦用法に、書くことは張り安んずることである、の意とした解釈も示した。中世のイタカという職人は、この作刀者にして銘を刻んだ人物をこのように綽名したことに始まるのであろう。そのうえで、の仮設用法とも解釈される可能性が考えられる。なぜなら、銘を刻まされているイタカ、こと、筑紫葛子は、敗北者側の捕らえられた囚人であるからである。書けと言われて訳も分からず言われるがままに書いたのではなく、屈辱的な文言を刻まされたということではなかろうか。
 「張」は弓を張るように長大にすることをいう。詩経・小雅・吉日に、「既に我が弓を張る(既張我弓)」とあり、張って大きくする意に用いる。張り出して来て大きくなった勢力に、筑紫国造側は滅ぼされた。その名は、ヲホド(「男大迹」)であった。「旡我弖」こと、既に我が弓を張った“吉日”気取りで「弖」の字を使っている物部麁鹿火に敗北した。もともとは、越(こし、コは甲類)の国にいた。一筋のアナスヱを手掛かりに手繰り寄せられたヲホド=ヲ(小)+ホド(塊、ドは乙類)であった。それがあれよあれよという間に勢力を拡大し、版図を広げた。ホドツラ(百部)が蔓延ったというのである。たくさんの塊根を生じたということに準えている。ヤマトコトバに、ホドコス(ド・コは乙類)という。ホドコスは、ホドコルの他動詞形である。広く及ぶようにする、延び広がるようにする、広く行き渡らせる、意であり、延びた先で肥え太って張って大きくなっていることに着眼した語である。上にあげた「則ち[塩を]施して周く諸国に賜ふ」(応神紀三十一年八月条)以外の諸例をあげる。

 夫の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこ)し生う」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 凡て此の三の神、亦能く木種を分布(まきほどこ)す。(神代紀第八段一書第五)
 縦使(たとひ)星川、志を得て、共に国家(くにいへ)を治めば、必ず当に戮辱(はぢ)、臣連に遍くして、酷毒(からきこと)、民庶(おほみたから)に流(ほどこ)りなむ。(雄略紀二十三年八月条)
 馬、野に被(ほどこ)れり。(顕宗紀二年十月条)
 汝是れ微(いや)しと雖も、譬へば小火(いささかなるひ)の山野を焼焚(や)きて、村邑(むらさと)に連延(ほどこ)るが猶し。(欽明紀五年二月条)
 忍壁皇子の宮より失火(みづながれ)延(ほどこ)りて民部省(かきべのつかさ)を焼けり。(天武紀朱鳥元年七月条)
 北戸の間に分張(ほどこ)せり。(遊仙窟)
 妙る宝を貧き人に分ち施(ほどこ)し、……(三宝絵序)
 ☆(肉偏に亰) 張也、脹也、又分脹也、波留(はる)、又布止留(ふとる)、又久佐留(くさる)、又保止去留(ほどこる)(新撰字鏡)

などとある(注20)。名義抄では、措、播、誇、班、宣、広、施、矢、散などにホドコスという訓を与えている。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「トの清濁および甲乙を古い例によって証することはできない。ホドコス・ホドコルは、ハダク(下二段、ただし古い例ではない)・ハダカル(四段、ただし古い例ではない)と対応するのではなかろうか。この推定に立つならば、トは、ア列音との転換が常に行なわれる乙類オ列音だったという想定も可能である」(657頁)とある。神代紀の例は、植物の繁茂の用例で、ホドヅラ(百部)の譬えによく適っている。
 ホドコシのコは乙類である。コシ(越、コは甲類)とは異なる。ホド(塊)が越えていったということではない。コシ(層、コは乙類)と関係する語であろう。五重塔などの屋根と屋根の間のくびれの階層のことをいう。腰(こし、コは乙類)と関係する語かともされている。新撰字鏡に、「層 子恒反、重居也、重也、累也、級也、重屋也、高也、志奈(しな)、又、塔乃己志(たふのこし)也」とある。法隆寺五重塔は、上から瓦葺屋根が五重、その下に板葺でもう一重、裳層(もこし)一枚と呼んでいる。塔の初層は、元来、仏陀の棺を納める場所で、龕(喪輿)(もこし、コは乙類)に当たる。塑像で凸凹に造られるのは、説文にいう「鹵 西方の鹹地也」の光景を再現しているようである。ここに、中古のシホゴシ(塩ごし)と上代のモシホ(藻塩)という語の間に接点を見出すことができる。モ(裳)とはスカートのこと、コシ(層)である。塩焼きは、土器に海水か鹹水を足しながら、薪を足しながら作られる。何層にもわたって塩が結晶化していき、薪の灰も積み重なっていく。助詞のモの意の and also を正確に表すように、製塩土器の内側でも外側でも同じように積み重なりが起こっている。結果、カチカチの堅塩(きたし)が出来上がった。それが到来物となった。キタシシホ=「来(きた)し塩」である。漢文訓読調でなければ、「来(こ)し塩」=コ(カ変動詞「来(く)」の未然形、コは乙類)+シ(過去の助動詞「き」の連体形)+シホ(名詞、塩)である(注21)。層塩(龕塩)(こししほ、コは乙類)なる概念を想定して検討された言葉であろう。かたまりの塩だからホド(塊)というにふさわしく、継体天皇の御名に合致している。
法隆寺五重塔初層北面涅槃像土(塑像、奈良時代(711))
 「伊太加(いたか)」こと、筑紫葛子は銘を刻まされた。第一の意味に、「張」にホドコシの訓を潜められていたのであろう。「男大迹(をほど)」こと、継体天皇というもとは小さな塊は、延び広がって行き渡らせて、あまねく及ぼすほどに蔓延るように増えたのである。三宝絵の例に見えるように、筑紫葛子は憐れと思ってお恵みを与えてほしい、と命乞いをしていることを表わしているようであろう。富の再配分細分化は、富者にとっては微分的にゼロに見えるかもしれないが、貧者にとっては無限大に思えるものである。臨時給付金に、投票行動は左右されるのではないか。そこに、ホドコシという語が展開された経緯がある。
 「安」は本来の位置ではないが、漢文訓読に用いられる助字のイヅクンゾ(イヅクニゾ)、「也」は疑問の助字で、カ・ヤと訓める。つまり、「書者張安也」は、「書ケバホドコシイヅクニカ」と訓める。書けば施しはあると思うかもしれないが、どうしてそのようなことがあろうか、の意である。さらにはまた、ホドコシという語についての駄洒落でもあろう。「書クハホドコシイヅクニカ」である。書いたものは、ホド、つまり、男大迹天皇のことであるが、そのもといた越とは何処の国であろうか、という謎掛けである。なんと、九州にまで遠く覇を唱えている。そのことを顕彰する文章に仕上がっている。最後のわずか3文字によって、冒頭の「獲□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)=男大迹天皇(継体天皇)に始まった銘文内容をまとめ上げているのである。
 紀に「安」を漢文訓読の助辞に訓む例は、偏在的ではあるが例がある。「安(いづく)にぞ欺くべけむ(安可欺乎)」(清寧前紀雄略二十三年八月条)、「安にぞ異(け)なるべけむ(安可異)」(清寧紀三年七月条)、「安にぞ自ら独り軽(かろみ)せむ(安自独軽)」(顕宗即位前紀清寧五年十二月条)、「安にぞ輙(たやす)く疑を生したまひて(安輙生疑)」(雄略紀元年三月条)、「安にぞ能く膝養(ひだしまつ)ること得む(安能得膝養)」(継体前紀)、「安にぞ空爾(むな)しとして答へ慰むること無けむ(安得空爾答慰乎)」(継体紀八年正月条)、「安にぞ率爾(にはか)に使となりて、余(われ)をして儞(い)が前に自伏(したが)はしめむ(安得率爾為使、俾余自伏儞前)」(継体紀二十一年六月条)、「安にぞ輙く改めて隣の国に賜ふこと得む(安得輙改賜隣国)」(継体紀二十三年三月是月条)、「夫婦(いもせ)に配合(あは)せて、安(いづく)にか更に離(さ)くること得む(配合夫婦、安得更離)」(継体紀二十三年三月是月条)、「婦女(めのこ)安にぞ預らむ(婦女安預)」(欽明前紀)、「新羅、安にぞ独り任那を滅さむや(新羅安独滅任那乎)」(欽明紀二年四月条)、「安にぞ君に逆ふることを構へむ(安構於君)」(孝徳紀大化五年三月条)、「安にぞ父に孝(したが)ふることを失はむ(安失於父)」(孝徳紀大化五年三月条)などとある。
 すべて会話体で用いられている。イズクニゾが常訓であるが、継体紀二十三年三月是月条の2例目に、イズクニカと訓んでいる。万葉集に、「いづくにか(何所尓可) 船泊てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」(万58)とある。築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』(東京大学出版会、1963年)に、「訓読では、…カの形と…ゾの形とでは、使用上の区別があるらしい。即ち、『イヅクニカ』『イヅクンカ』『イズコニカ』『イヅコンカ』『イドコンカ』などの、『…カ』を伴つた形は、多くは場所を示すもので、陳述副詞のやうに用ゐられるものは例が少いのであるが、これに対して『イヅクニゾ』『イヅクンゾ』『イヅコンゾ』『イドコンゾ』のやうに、『…ゾ』を伴ふ形には、場所を示す用法は無くて、陳述副詞[『何故に』『どうして』『何としてか』]のやうに用ゐられた例ばかりのやうである」(451頁、漢字の旧字体は新字体に改めたが仮名遣いはそのままとした。)とされている。つまり、銘文に「書者張安也」とあるように「安也」と続けることによって、イヅクニカと「…カ」と訓む指示がなされているらしいのである。なお、イヅクニという言い方は見られない(注22)

(銘文)
 台天下α□□□鹵大王世奉事典曹人名旡我弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(均)刀服此刀者長壽子孫汪々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(加)書者張安也

(釈訓)
 天の下治らしめししα□□□鹵大王(α加多支鹵大王、こと、男大迹大王(をほどのおほきみ))の世(みよ)、典曹(うたへのつかさ)に奉事(つかへまつ)る人の名、旡我弖(キガテ、こと、物部麁鹿火)、八月(はつき)の中(なかのとをか)、大鐵釜(おほきなるしろがねのかま)并びに四尺(よさか)の廷刀(にはのかま)を用ゐ、八十(やそ)たび練り、九十(ここのそ)たび捃(あつ)む。三寸(みきだ)にし上(うへ)、好(よく)刀に均(ととの)ふ。此の刀を服(はか)せる者は、長寿(いのちなが)くして子孫(うみのこ)汪〃(さか)え、□恩(□のみうつくしび)を得る也。其の統(すぶ)る所を失はず。刀を作る者の名、伊太加(イタカ、こと、筑紫葛子)、書(か)くは張りて安(さだ)むる也(書けばホドコシイヅクニカ、書くはホドコシイヅクニカ)。
(つづく)
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の三

2016年04月25日 | 論文
承前
 そこで、この銘文の歴史的事項について次に考える。
 白石太一郎「船山古墳の墓主は誰か」白石太一郎監修、玉名歴史研究会編『東アジアと江田船山古墳』(雄山閣、2002年)に、「この銀象嵌銘を持った江田船山大刀は、須恵器の編年の物差しで申しますと、[田辺昭三氏が]MT15と呼ばれている須恵器の時期のものであるということが想定される。少なくともそれより古いとは考えられないということになるのです。……銀象嵌銘を持った江田船山大刀は、新相の遺物を伴った二番目の被葬者の持ち物であった可能性がきわめて高いということになるわけです」(37頁)とある。田辺昭三先生の須恵器編年グラフにおいて、「MT15」(注13)は西暦520年頃のことかと思われる。
 この科学的鑑識は、現在、「獲□□□鹵大王」(江田船山古墳出土大刀銘)、「獲加多支鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣銘)をワカタケル大王、すなわち、雄略天皇のことであると定説化されている歴史的認識に違和感を覚えさせないだろうか。白石先生ご自身は、稲荷山鉄剣の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」とあるのを、定説化している岸俊男・田中稔・狩野久・他『埼玉稲荷山古墳辛亥銘鉄剣修理報告書』(埼玉県教育委員会、1982年)の解説にあるとおりに考えられている。「辛亥年」は471年、倭王武が宋に使いを送る478年であるから年代がほぼ合うとされている。
 北九州で歴史的にインパクトのある事件といえば、筑紫国造磐井の乱(継体二十一〜二十二年(527〜528))である。須恵器編年のMT15の時期で当たっている。紀には、

 [継体]天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、[物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の]大連(おほむらじ)に授けて曰はく、「長門より東をば朕(われ)制(かと)らむ。筑紫より西をば汝(いまし)制れ。専(たくめ)賞罰(たまひものつみ)を行へ。頻(しきり)に奏(まを)すことに勿(な)煩(わづら)ひそ」とのたまふ。(継体紀二十一年八月条)

とある。ここに「斧鉞」とあるのが「四尺廷刀」なる戈戟類であろう。上に、東博展示品の漢代の鉄鉞戟を見た。また、「専行賞罰」が刑罰を職とする刑部卿に相当するであろう。江田船山古墳出土の大刀銘にある「奉事典曹人名无利弖」である。それは、物部麁鹿火その人なのではないか。物部氏は、姓氏録や旧事記には、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)から出たとされている。継体記には、「荒甲(あらかひ)」とあるが、紀に「麁鹿火(あらかひ、ヒは乙類)」と記されている。新手の鹿火のことかと想像される。鹿火とは、野営の際などに獣や蚊が襲ってくるのを防ぐために焚き火を焚いて煙や臭いを出して寄せ付けないようにした仕掛けであった。万葉集には、「鹿火屋(かひや)」(万2265)とある。
「无利弖」→「旡我弖」(東京国立博物館編、前掲書、61頁より)
 「奉事典曹人名」、銘文の18〜20字目に判読されている「无利弖」は「旡我弖」に見えてくる。「旡」は、「既」の旁で、説文に、「旡 飲食の气、屰(ぎゃく)にして息するを得ざるを旡という」とあり、嫌になるほど食べて咽ぶほどになって顔をそむける象形である。アゴエ(距)から連想される顎の鎌形が目立ってくる。名義抄に、「旡 既に同じ、ツクス」とある。つまり、猛獣に襲われそうになったら、狩りでとった獲物を惜しみなく与えてしまえば良い。猛獣に尽くしてあげれば猛獣は食べ尽くして飽きてしまい、人を襲うことなく去って行く。新手の鹿火である。「我」は一人称で用いられることの多い字であるが、旁は戈である。白川、前掲書に、「我は鋸。嵯峨・齟齬のように、ぎざぎざに刻む音」(102頁)と「戈」の「語系」が示されている。説文に、「我 身を施すを自ら謂ふ也。或に説(いは)く、我頃は頓(つまづ)く也といふ。戈に从ひ◆(我の左側)(すい)に从ふ。◆は或に説く、古の垂の字也といふ。一に曰く、古の殺の字は凡そ我の属にして皆我に从ふといふ」とあり、名義抄に、「我 吾可反 禾レ、イタツキ、カタヰ、禾ガア」とある。イタツキとは、和名抄に、「平題箭 揚雄方言に云はく、鏃の鋭かざる者は之れを平題〈伊太都岐(いたつき)〉と謂ふといふ。郭璞に曰く、題は猶ほ頭の如き也。今の戯射箭也といふ」とある。先が尖っていて殺生能力がある鏃ではなく、犬追物で使われるような鳴鏑、蟇目の類を指すようである。鹿火は獣を殺すのではなく、遠ざけることに特化している。イタツキは新手の鹿火である。「弖」字は、「氐」の異体字である。名義抄に、「氐 羌也、ヲカス」、「羌 ツツガ」とある。憂いがないの意の、つつがなし、のツツガに当てる「恙」と同意である。万葉集の「恙無」(万3253)は、他の仮名書きの用例(万894・1020・1021・4408)とともに、ツツミナクと訓まれている。障害のことをツツミ(ミは甲類)と言っている。堤(塘・隄)(つつみ、ミは甲類)とアクセントこそ違え、同音で同じような意味の言葉である。土を盛って流れの障壁とした。動物園で見物客の柵の向こう側に、空堀を含めて堀が設けられていることがある。襲って来ないようにした新手の鹿火である。環濠集落の柵と溝の順については検討を見送りたい(注14)
犬追物の矢(犬追物図屏風(部分)(紙本金地着色、江戸時代、馬事文化財団馬の博物館編『所蔵品選集 増補版』馬事文化財団、2001年、42頁より))
「弖」=「氐」=「羌」=「恙」=「堤」(多摩動物公園のアフリカゾウのゲージ)
 以上から、銘文の18〜20字目に「旡我弖」と見た筆者は、「旡我弖」がアラカヒ(ヒは乙類)を指す。万葉集に見られる義訓の類であることが知れた。「奉事典曹人名旡我弖」とは、刑部卿に相当する物部大連麁鹿火(?〜宣化元年(536))のことである。北部九州を制圧した物部麁鹿火のとった政策は、朝鮮半島からの直輸入垂れ流しを止め、ヤマトに合った形での技術導入を図ることにあったように見受けられる。すなわち、竃は受け入れるが鉄製の釜は受け入れない、といったことである。筑紫国造磐井が採り入れて行っていた技術や制度は、当時のヤマト朝廷から見れば異文化的で、民族的アイデンティティに戸惑うほど認められない人たちに思えて脅威だったのであろう。
 冒頭の大王名「獲□□□鹵大王」(稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」)も、ワカタケル大王(雄略天皇)ではないということになる。以前、「治天下■(犭偏に蝮の旁)□□□歯大王世」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説(福山敏男)もあった。それが稲荷山古墳から銘のある鉄剣が見つかり、「獲加多支鹵大王」をワカタケル大王とするようになった。しかし、銘文は、万葉集に見られるような義訓が行われていた。この部分だけ仮名書きで記すとは考えにくい。白石先生ご指摘のとおり、大刀が江田船山古墳の2番目の被葬者の副葬品として埋納されたのは520年頃のことである。ワカタケル大王=雄略天皇(在位、457〜479年)代ではなく、継体天皇(在位、507〜531年)代、ヲホド大王(「男大迹天皇」(継体紀即位前紀)、「袁本抒命」(継体記)、ドは乙類)の御世である。19〜21字目の「旡我弖」が(物部)麁鹿火のこととわかったから、1〜11字目の「(台)天下獲□□□鹵大王世」が継体天皇の時代のことであると解釈できれば整合する。
 矛盾点は、被葬者の副葬品の年代ばかりではない。稲荷山鉄剣の銘文中に、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」とある。通説では、「ワカタケル大王の寺[役所の意かとされる]が磯城宮(しきのみや)に在りましし時」と無理矢理よんでいた。「斯鬼宮」はシキノミヤで間違いないであろう。雄略天皇の泊瀬朝倉宮を“広域磯城”の域内だからそう記されていると解釈するのには無理がある。また、記紀によれば、雄略天皇は都を遷していないから、わざわざ宮都の場所を特定して断る必要もない。崇神天皇の都した磯城瑞籬宮は桜井市金屋に、欽明天皇の都した磯城嶋金刺宮は桜井市慈恩寺に、継体天皇が二十年九月に遷った磐余玉穂宮は桜井市池之内にあったものと推定されている。これらは確実に磯城に所在する。「獲加多支鹵大王」が継体天皇のことを指すとすれば、大王名と宮都名との矛盾も解消する。
 「獲□□□鹵」において、「獲鹵」という言い方は、今日、特に三国志のゲームの世界で行われる。敵の軍用品・兵器などをぶんどることを、鹵獲という。史記・楽毅伝に、「是に於て燕の昭王、齊の鹵獲を収めて以て帰る」とある。継体紀に記されたことと、これまで見てきたことを綜合すると、物部麁鹿火は筑紫国造磐井と戦って、相手方の持っていた物品、「大鐵釜」を戦利品として接収し、大刀を製作している。「大鐵釜」はヤマト朝廷側にはなかなかなかったものであろう。そういう文化にないのである。朝鮮半島文化を受け入れていた北部九州の磐井側にしかなかった。敵方の兵器や利器、物資、わけても鉄をぶんどって自分のものとした。
 歴史書である日本書紀によれば、継体天皇が皇位を継いだ過程は、皇位継承者がほとんどいないなか、豪族による合議制で決められていったように描かれている。国王が不在になると、激烈な権力闘争が行われても不思議ではない。それが平和裏に決まって落ち着いている。なぜ大伴氏や物部氏は、自らがトップに立つことを試みなかったのか。それは歴史学ならびに政治学の課題であろう。と同時に、戦において物資的に不足している側が勝利するためには、鹵獲の術こそ大切であったことは理解されよう。昨今の中東情勢を見てもよくわかる。
 継体天皇は、連れて来られた天皇である。捕虜の天皇である。大王自体が“鹵獲”されている。「鹵」は「虜」に通じ、説文に、「虜 獲たるもの也。毋に从ひ力に从ひ虍声」とある。「獲□□□鹵大王」(「獲加多支鹵大王」)とは、捕虜の大王の意にとれる。それが巡り巡って筑紫国磐井の乱では、鹵獲した物品で大刀を作らせる側のいちばん大本に立っている。まことにふさわしい文字面といえる。鹵獲→「獲鹵」と本末が転倒している。
「獲?(■?、◇(草冠を伴わない獲)?)」(東京国立博物館編、前掲書、図版3より)
 稲荷山古墳出土鉄剣銘によって補われた「◇加多支鹵」の字をそれぞれ見ると、「◇」を「獲」の異体字とするとされている。しかし、その字をワと読む例を、筆者は勉強不足で他に知らない。吏読によるのであろうか。漢音にクワク、呉音にワク、入声陌韻である。仏典にギヤク、梵語の pratilambha 、西蔵語の thob-pa の訳、得の一種とする。稲荷山鉄剣の銘文では、アクセントまで引き写してあるとまで論じられている(注15)
 「加」はカ、「多」はタ、また、記紀万葉などの古代文献の多くに、「支」はキ(甲類)と訓む。「鹵」は呉音でル、漢音でロで、本来の意味は岩塩、シホである。塩の旧字は鹽である。説文に、「鹵 西方の鹹地也。西の省に从ひ、鹽の形に象る。安定に鹵県有り。東方に之れを◎(广に屰)(せき)と謂ひ、西方にては之れを鹵と謂ふ。凡そ鹵の属、皆鹵に从ふ」とある。
 「獲」字はウ(下二段、エ・エ・ウ・ウル・ウレ・エヨ)、トル(四段)の意である。説文に、「獲 獵の獲(う)る所也。犬に从ひ蒦声」とある。白川、前掲書によれば、「犬は猟犬を意味する。獲得の初文である隻は、あるいは鷹を用いたものであろうか」(167頁)と推測されている。けれども、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)では、「蒦(かく)は本来は鳥を捕ることであるから、狩猟の獲物より収穀の穫の義となったものであろう」(138頁)ともされている。漢字の成り立ちについては、白川先生が迷われているのであるから、筆者にわかろうはずがない。上代のヤマトコトバでいかに受け取ったかが検討課題である。そして、銘文に「α」と記した。
 「獲」という字は、ヤマトコトバに、トル、ウ、エなどと訓まれるであろう。もちろん、倭人の頭の中では、ヤマトコトバが先にあって、それにあてる漢字として見えている。獲物を獲ることが字に表わされていると考えていたであろう。この箇所のみであるが、白川先生の迷いを払拭する考えとしては、動詞トル(取・執・獲・捕・採)の連用形がトリ(万葉集に防人歌など特定の場合を除きトは乙類)で、トリ(鳥・隹・鶏、トは乙類)に同じで点があげられよう。銘文の「α」に見える字はどんな鳥か。まず、草冠がない。草の生えているところにいる雉や鶉や雀や、それを狙う鷲や鷹などではない。水鳥であろう。獣偏ははっきりしているし、「又」部も明らかである。よって、狩りをする水禽類である。パンをちぎって貰っている鴨など平たい嘴の鳥ではない。字形からは頭の毛が寝ており、中軸の縦画がなく、横画も1本足りない。羽が折られている鳥と思われる。そのような鳥は唯一、ウ(鵜)である。捕われた鳥で魚を獲る鳥である。
カワウ(?)(洗足池にて)
 ウは鵜飼に使われる。彼らは猟をするが、獲物を吐き出して鵜匠に捧げる。捕まえられた当初、慣れるまで、逃げないように羽を折ることも行われた。江田船山古墳出土大刀銘にある不思議な「α」字に、「獲」の縦画、横画から1本ずつ足りないのは、羽の折られて飛べない状態の鳥であることを示唆するものであろう。「獲」の訓に、ウ、トル(トリ)とあるのだから、これは鵜を表わしていること間違いない。無理やりでも言うことを聞かされる鳥が、ウである。ヤマトコトバの感動詞にウ(諾)とある。本ブログ「事代主神の応諾について 其の二」以下でも触れたように、ウという言葉は、ウン、と承諾するしか選択の余地がないことを表している。そういう意味合いを込めた記述言語として「α」という字を用いている。「α」は、鵜飼の鵜のことを示す鳥と同音のトリという意味の孤例の“国字”である。
木曽路名所図会、長柄川より(日本歴史地理学会校訂『大日本地誌大系第十二冊 諸国叢書木曽之壹』大日本地誌大系刊行会、大正5年、252〜253頁)
 そして、続く「加多支鹵」は、カタキシホ(堅塩、キは甲類)とふつうに訓めば、これは古語にキタシ(堅塩、キは甲類)のこととわかる。

 堅塩媛(きたしひめ)と曰ふ。堅塩 此には岐拕志(きたし)と云ふ。(欽明紀二年三月条)
 所以(このゆゑ)に、造姫(みやつこひめ)に近く侍(つかへまつ)る者、塩の名称(い)はむことを諱みて、改めて堅塩(きたし)と曰ふ。(孝徳紀大化五年三月条)
 黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名、白塩、又、黒塩〈今案ずるに俗に黒塩と呼ぶは堅塩と為(す)。日本紀私記に堅塩〈木多師(きたし)と云ふは是也〉有りといふ。(和名抄)

とある。小学館の日本国語大辞典い痢屬たし【堅塩】」の「語誌」に、「固くする意の動詞『きたす』があって、その連用形『きたし』に『しほ』の付いた『きたししほ』の下略とする説がある。この説によれば、苦汁(にがり)を取り除くために塩を煙でいぶし固めたのが堅塩であり、挙例の『十巻本和名抄』にあるように色は黒となる」(154頁)とある。当時、塩の生産は、製塩土器を用いて水分を蒸発させていたのであり、カマの話であることのつながりを思わせる。考古学においては、土器製塩について、正確な製法はなお確かめられていない(注16)。塩田法が採り入れられて古代の製塩技法そのものが不明となり、推測するしかなくなっている。大略は、海水から鹹水を得、さらに煮沸して、さらには苦汁(にがり)分を焼ききって(MgCl2→MgO)、黒く堅い塊になる。それを堅塩(黒塩)と呼んでいるようである。ヤマトコトバの意味的解釈は後に触れる。その製塩土器には先の尖ったものがあり、それが分離して支脚となり、また、煮詰めるに当たって1つの炉にいくつも並べられて注ぎ足されながら焚かれ続けたらしい点を指摘したい。製塩土器の先の尖り、ないしその分離は、本邦における竈において、羽釜に代わって土器製の長胴甕が用いられ、据え付けるために支脚を置いたのととてもよく似ている。鉄物資が不足している列島で、鉄製の羽釜ではなく、長胴甕を利用すればいいのであると気づくヒントは、この製塩土器の形態に由来したのではなかろうか(注17)。仮にそうであるとすれば、言葉の上では、カマ(釜)→カメ(甕)へと言い換えたということになる。言い間違えて噛んでしまった。カタキシホと言えずに、キタシシホと言ったということになる。
浦入遺跡の製塩土器支脚?(平安時代、850年頃)(舞鶴市HPより)
甕三個かけカマド想定図(外山政子「群馬県地域の土師器甑について」群馬県埋蔵文化財調査事業団編『研究紀要6』同発行、1989年3月、109頁より)
 つまり、「獲加多支鹵大王」とは、堅き塩を獲た大王のこと、すなわち、キタシ(来、キは甲類)、来させることを獲た大王である。方角的にも北(キは甲類)である。方角のことをシというから、ヒムカシ(日向(ひむか)し=東)という。北方から来させた。越前出身である。継体天皇は、皇統が絶えたのでお迎えした天皇である。どういう伝手で来てもらったかというと、「枝孫(みあなすゑ)」(継体紀元年正月条)、「趺萼(みあなすゑ)」(継体紀元年二月条)を辿ってふさわしい人物を選んでいる。ミアナスヱは御足末の意である。穴の末にあるものとも洒落ができる。継体天皇の名は、ヲホド(男大迹・袁本抒)である。岩波書店の大系本日本書紀補注にあるように、「ヲホドは小さいホド(塊)の意」(ワイド版岩波文庫(三)、382頁)である。和名抄に、「百部 保止豆良(ほどつら)、一種以て百部有り、故に以て之れを名づく」とある。マメ科の多年草植物で、根に塊を多数生じて繁殖する。漢方に百部根である。サツマイモ風の出来栄えである。つまり、芋蔓式に見つけたのがヲホド天皇である。上手く引かないと切れてしまって掘り取ることはできない。実際、継体前紀には、当初、「足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)倭彦王(やまとひこのおほきみ)」を丹波国桑田郡に見つけて来てもらおうとしたが、迎えようとした兵士の軍勢に恐れをなして逃げられてしまっている。2番目に白羽の矢が当たったのが、男大迹王である。
百部(北村四郎監修、岩崎灌園『本草図譜』蔓草廿八、同朋舎出版、昭和55年より)
タチビャクブ(市村塘著、難波恒雄校訂『日本薬用植物図譜』科学書院、1980年、23頁より)
 百部根の様子を見れば、それがホドと言うに適当であることがわかる。薪を集めて煮炊きや製塩のために土器を熱している場所、ホド(火処)によく似ている。ホドという語は上代に見られないが、火処(火床)の義であるとするなら、「蘿(ひかげ)を以て手繦(たすき)に為て火処(ほところ)焼き」(神代紀第七段本文)とあることから、ドは乙類である。古語拾遺の相当個所に、「庭燎(にはひ)を挙(とも)して」と、焚き火であることを表している。色は赤褐色、炎のようであるとも、赤く燃えた薪のようであるとも見える。タキギ(薪)という語は焚き木の意であり、紀に、

 ……其の船の材(き)を取りて、薪(たきぎ)と為(し)て塩を焼かしむ。是に、五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施(ほどこ)して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ふ。(応神紀三十一年八月条)

とある。製塩の話になっている。他方、マキ(薪)という語は、新撰字鏡に「△(木偏に斯) 素嵆反、▽(手偏にマダレに卑)也、小樹也、万木(まき)、又己曽木(こそぎ)也」とある。木のキは甲類である。これは種を播(ま)くのマクの連用形マキ(キは甲類)と関係がある語と考えられ、播の字には、名義抄にホドコスの訓がある。この点はさらに後述する。火処の火を拡がらせるようにどんどんとくべていく。まるで、百部根のような塩梅に火処が張っていっている。ハル(張)という語において、張り巡らすことと脹らむこととを兼ね備えた語が、ホドコス(ホドコル)という語であろう。その上に製塩土器は置かれ、海水は濃度を増して鹹水、さらには、堅塩(きたし)に仕上がっていく。海水(鹹水)が注ぎ足されるとともに、薪もつぎつぎに足されていく。最終的に、口を上に開けた製塩土器に堅塩が固まっている。丸い土器に塊になって肥っている。
土器製塩の様子(「かまがり古代土器製塩体験施設」広島観光ナビより)
つづく
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の二

2016年04月19日 | 論文
承前
 諸先生方の解釈では、冒頭に記したように前段・中段・後段に分けたとき、中段の後半の方に動詞が見られない。「用」いてどうしたのか、シンプルに考えれば、動詞として表されているものであろう。すると、東野先生が仮に「刊」と見ておられる43字目は動詞であって、「刀」をツクルといった意味の文字であるはずになる。43字目については、「利」(末永雅雄)、「長」(福宿孝夫)、「挍」(福山敏男)といった説もある。釜と鎌とを用いて「八十練(九or六)十(捃or振)」して、それから「三寸上好(刊)刀」したわけである。「三寸上好」については、鈴木・福井、前掲書によれば、意味を考えたとき、「三寸」を長さと見るのは難しいとされる。「三寸上(くわ)え」説(福宿孝夫)や「上(切先)から三寸のところに焼き入れをした」説(石井昌國)は文脈上成り立たないとされている。そして、「三才上好」説(東野治之)、「三等上好」説(鈴木勉、福井卓造)、「三時上好」説(徳光久也、町田章)、「三均九和」説(本田二郎)、「三†(寸偏にリットウ)上好」説(王仲殊)などがあげられている。
 これらの説に依ってしまうと、不明の43字目が動詞にならない。筆者には、銘文の漢文が中国人の作った漢文であるように見えない。教養あるヤマトコトバとして記紀万葉読みをするなら、「三寸」はミタビキダキダ、ミキダニシテ、などと読める。「寸」は寸断の意である。紀に、

 時に素戔嗚尊、乃ち所帯(はか)せる十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、寸(きだきだ)に其の蛇(をろち)を斬る。(神代紀第八段本文、私記乙本訓「寸〈岐陁々々(きだきだ)〉」)

と、刀剣にまつわる言葉として登場している。この部分、諸本にはツダツダと訓んでいる。名義抄に、「寸 キダキダ ツダツダ」とある。ずたずた、きざきざ、に同じく擬声語である。キダ(分・段)は、「刻む」の語幹キザに同じとされている。「寸」は長さの単位でも、何かの簡体字でもなく、寸断したということであろう。また、以下の例に見るとおり、三つにスパッと切り分けることは、ミキダ(「三寸(三段)」)にすると表現されていたことがわかる。ミツダとは言わなかったということである。

 遂に所帯(はか)せる十握剣を抜きて、軻遇突智(かぐつち)を斬りて三段(みきだ)に為す。(神代紀第五段一書第六)
 仍(なほ)、持たる剣を以て、三(みきだ)に其の弓を截(うちき)る。(崇峻即位前紀用明二年七月条)
 ……「八段(やきだ)に斬りて、八つの国に散(ちら)し梟(くしさ)せ」とのたまふ。(同上条)
 寸(きだきだ)に斬らるとも亦た心甘なひなむ。(遊仙窟)
 愁への腸(はらわた)寸(きだきだ)に断ゆ。(遊仙窟)

 つまり、釜と鎌を并せて用いて80回鍛錬し、60回か90回、捃したか振るったかしたものを3つに切り分けたのである。3分割だから、断ち分けた箇所は2ヶ所である。大刀(たち)にするために断っている。だから、キダキダと2回繰り返すヤマトコトバに成長している。これはもう、「三寸」と書き表わしたくなる。的確な言葉遣いである。そのうち1本だけ念入りに銘文を施した。江田船山古墳から出土した大刀のうち、3口が非常によく似ていることは、亀井正道「船山古墳と銀象嵌大刀」『MUSEUM』340号(東京国立博物館、1979年7月)によって、早くから指摘されている。

 船山古墳出土の直刀の中で、これ[銀象嵌大刀]に形態・大きさの頗る似たものが他に二口ある。一は長さ一一三・九センチ(大刀A)、二は一一一・八センチ(大刀B)で、茎の長さは各々二一・五センチ、二〇・九センチ、茎には三個の目釘穴を穿っている。この両者から推定すると、銀象嵌を施した刀の長さは約一〇五センチとなろう。しかもこの三口は、同時発見の他の直刀に比べて遺存状態が一段とよい。特に環頭大刀二口とは、銹化の工合に明らかに差違があると言ってよい。狭い石棺内では、副葬位置による銹の程度の差を考えるのは不適当で、埋葬時期を異にする複数の被葬者のうち、もっとも新しい副葬を示すものと推定することも可能である。……船山古墳出土の大刀A・Bには、茎の刃関に近い部分に小さい方形の刳り込みが存在する。改めて銀象嵌大刀の茎を見ると、残存部に認められる不整形の凹みは単なるきずや銹による欠損ではなく、拡大してみると明らかにタガネ状のもので削った状態を呈している。この刳り込み方は三者共似ているが、大刀B、大刀A、銀象嵌大刀の順に雑になっている。つまり他の二口にも存在する小さい刳り込みを、同様の方法で作ったと見るのが妥当である。言うまでもなく茎に作られたこの小さい刳り込みは、柄に装着する勾金を通す孔として作られたものであるから、銀象嵌大刀を含めた船山古墳の三口の木装大刀は、玉纏大刀である可能性が強いと言えるのである。
 この三口の太刀はあらゆる点で似ているので、同一作者または同一工房による製作と考えられる。もしこの推定が正しければ、銀象嵌大刀の製作地、製作後の移動の問題と関係して、その歴史的評価に重要な意味をもつことになる。(7〜8頁)(注7)

 現物を目の当たりにし、銘文中の「三寸」は、ミキダニシテと訓むのがジャストミートと確かめられる。「大鐵釜并四尺廷刀」の両者を「用」いてできあがった1本である。食品表記などでも、量の多いものから表示する決まりになっている。「大鐵釜」のほうが「四尺廷刀」よりも分量が多かったものと思われる。3本分できて3分割した。
 それに続く「上好」という語については、諸先生方は、用例がないにもかかわらず熟語と捉えられている。疑問である。3分割した1本の鉄の棒から刀をつくったのである。「三寸上」=ミキダニシウヘ、三つに刻んだ上でさらに「好□刀」としたのであろう。43〜44字目を作刀することと考えるなら、42字目の「好」は、副詞ヨクに相違あるまい。うまく刀を作ったのである。小学館の日本国語大辞典第二版に、「よく」は、「―淑に。念を入れて。また、巧みに。うまく。……ずて颪覆海箸鬚覆型襪欧浸、あたりまえでは考えられないような結果を得た時、喜ばしいことにでくわしたときなども感嘆・賞賛・喜悦あるいは羨望の気持を表わす。よくもまあ。本当にまあ。よくぞ。」と語釈されている(注8)。万葉集に例を見れば、

 仝磴聞きし 耳に好似(よくにる) 葦のうれの 足痛(ひ)く吾が背 勤めたぶべし(万128)
 すヅ蓮覆茲わたる) 人は年にも ありといふを 何時の間にそも 吾が恋ひにける(万523)

といった例が挙げられよう。万128番歌では、噂どおりだったという意味を、足と葦との駄洒落まじりに歌っている。万523番歌の例では、よくもまあ耐え忍んで渡ってきた人は、という意味である。江田船山古墳出土銘文付大刀が、釜と鎌から刀を作ったことは、駄洒落まじりでありつつほどに巧妙であり念入りでありながら、よくもまあと感嘆するに足るほど鍛冶屋さんのご苦労を偲ばせている。以上の,鉢い箸鬚箸發亡泙鵑生豕舛らして、42字目の「好」の字は、副詞のヨクと訓む。
「好□刀」(エミシオグラム)(三浦定俊「エミシオグラフィによる調査」東京国立博物館編、前掲書、72頁より)
「□」(いずれも東京国立博物館編、前掲書より、左から、図版4、図版14、51頁(古谷毅「象嵌の観察」)より)
「均」興福寺断碑(東晋、王羲之、『中国法書選17』二玄社、1988年、11頁より)
「均」鄭羲下碑(北魏、鄭道昭、『中国法書選22』二玄社、1988年、左から77頁、74頁より)
 象嵌の文字を判読しかねている43字目は、東野先生の仰るように手偏と定まるかどうか、なお不明である。筆者は、ここに手偏かと目されているのは、土偏の下に少し突き出てしまったものと見、「均」の字ではないかと考える。「好均刀」、ヨクカタナヲトトノフ、ヨクカタナトヒトシクス、などの意である。うまい具合に刀として整えたのである。カマ→カタナとするのは、鈴木先生らが仰る素材の問題だけでなく、言葉の意味からもとても難題であった。カマという語とカタナという語とは、意味的に相反する。カマは曲がれるもの、カタナは真っ直ぐなものの意を持っている。鎌は柄と刃との付き方が直角、戈は援部分によって刃自体が直角に曲がれるものである。他方、刀は一直線である(注9)。羽釜のハ(羽)はぐるりと曲がり切ってめぐっており、刀のハ(刃)は一直線である。それほど違うものへと、よくもまあうまい具合にできましたわねぇ、というのが、「好均刀」の意味である。刀に反りが生じてきたのは平安時代中期からで、奈良時代の直刀は今も輝いている。
直刀(奈良時代、8世紀、号水龍剣、伝聖武天皇御料、東博展示品)
 また、銘文の最後、「書者張安也」については、諸説が行われている。刀鍛冶と象嵌者が別人で流れ作業を行ったから「伊太(和)」と「張安」が併記されているとする説、コピーライターが字を知らない「伊太(和)」に刻ませたとする説、「名」と記さない「張安」は漢人名で一般的だから記さず、仮名書きの「无利弖」や「伊太(和)」は名か何かわからなくなるから「名」と記したとする説、「張安」しか文字を知らないから尊大で、その部分の文字も立派で大きく、そのうえ「也」と付けて威張っているという説も唱えられている。一理ある説が多い。けれども、上に述べた仮説が正しいのであれば、中国系のチヤウアンなる人物が、ヤマトコトバのなぞなぞだらけのコノハナノサクヤビメ説話を理解していたとは思われない。
 「獲□□□鹵」も仮名書きの名の表記とされるが、「(台)天下獲□□□鹵大王世」とは記されていない。わかるから良いと言えば良い。けれども、固有名詞の出てくる箇所は、「(台)天下獲□□□鹵大王世」、「典曹人名无利弖」、「作刀者名伊太(和)」、「書者張安也」であると考えられている。誰がこの大刀を作った“当事者”か。作らせたのはムリテで、作ったのはイタ(ワ)である。銘文を書き込んだのは「張安」であると読まれているが、馬や魚や鳥や花の絵も象嵌されている。馬や魚や鳥や魚の絵は誰が刻んだのであろうか。イタ(ワ)か張安か。絵を「書」でいいのか、よくわからない。銘文の文案だけを考えた人が中国人の「張安」であるとする説もある。実際に手を動かして大刀の嶺に字を掻き刻んだ人と、「書」いた人とが別人ということになる。そのとき、絵のデザイン素案は誰が考えたのだろうか。味わいがあってとても素敵である。芸術的センスに富んでいる。銘文の書風のほうは、「隷書・楷書の混交した書風を示す」(東野、前掲書、2004年、93頁)らしいが、倣製鏡などと同等で評価の下しようがない。書道の時間なら5段階評価で2であろう(注10)。それが、「書」と断っているので、この「書」とは何かを糺さなければならない。「三寸」をミキダとヤマトコトバで考えるのが妥当であったから、「書」もヤマトコトバで了解されなければならない。ヤマトコトバの文字表記らしいことから、もはや張安中国人説は揺らいでいるのだが、なお仮にそれを続けてみる。「書」をフミと訓んで文章のことを指す名詞であると仮定してみると、文字を刻んだにせよ文案を考えただけにせよ、張安という中国系の人は中国系なればこそ、「作書者張安也」、「書記者張安也」、「史者張安也」といった表し方にしたくなるように思われる。後ろへ続く「者〜也」字もくせものである。後述する。
有銘環頭大刀(「不畏れ也□令此刀主富貴高遷財物多也」銘、朝鮮、三国時代、5世紀、東博展示品)
 「書(ふみ)」というヤマトコトバについて検討すると、例えば、紀に出てくる「書」の多くは「一書云」で、アルフミニイハクである。伝書であって、誰がいつ書いたかわからない。「何書(いづれのふみ)」(欽明紀二年三月条)も同様である。「図籍文書(しるしのふみ)」(神功前紀仲哀九年十月条)は目録のことである。「詔書印綬(せうしょいんじゅ)」はいわゆる親魏倭王の印綬を授けた際の親書、「勅書(みことのりのふみ)」(雄略紀七年是歳条他)、「詔書(みことのりのふみ)」(欽明紀二年四月条他)も偉い人の公の文書で政治的効力をもつ。「印書(しるしのふみ)」(欽明紀二十三年七月是月条)は機密文書である。「高麗の上れる表▲(ふみ)、烏の羽に書けり」(敏達紀元年五月条)とあるのは外交文書である。なかなか解読できなかったことは、フミという語の持つ性質をよく表す逸話である。音声言語と文字言語では利用する脳の領野が異なり、無文字文化のなかで育ってしまった人には難題であった。それを小咄に仕立てている。推古紀十六年条の小野妹子の「書(ふみ)」も外交文書である。「書信(ふみのつかひ)」(欽明紀五年三月条)は伝言役のお使いである。これは実際には文書(文字)を持たない。暗記者が手紙(文書)代わりになる。この使者が殺されると、内容は失われる。歩いて行く時の足跡が、文字のように見えるとする浜千鳥の足跡=文字説は、こんなところにも潜んでいるようである(注11)
 ほかに、「書函(ふみはこ)」(天武紀元年三月条)というのもあり、これは信書(親書)の入った箱であって、書いた(右筆に書かせた)人が遠くにいて、また、書いた時点も見た時点よりも時間的に遡ることを示す。ヤマトコトバのフミという語には、そういった時間的空間的な遠隔性が備わっている。書物の意で「書」を使うのは日本書紀でも後ろの方である。なぜか。書物はなかったし、あっても読めなかった、読みこなせなかったからである。無文字文化にあった。日本書紀という書名も、もとは日本紀であったらしいことが万葉集の左注からわかっている。
 ところが、古墳時代の5〜6世紀とされる江田船山古墳出土の大刀の銘文に、「書」とある。これをフミと訓む限り、次のような奇妙なことが起こる。紀の例に多い「一書」ほか「書(ふみ)」の例は、既に書かれたものであった点を前置きにして、それが伝えられていくことを「一書云」という形にして用いられている。文書の既存性が、「書(ふみ)」という語には内含されている。銘文の場合、どこかよそで中国人か中国系の人によって作成された文案があり、遠隔操作されてその指示通りに象嵌されたことになる。「書」の原本が他にあるということである。けれども、対象物に固有の銘であるとしか考えられない。あるいは、これはコノハナノサクヤビメにまつわる伝説を書いたのだから、「書(ふみ)」の内容は遠隔的な代物なのだと考えられなくもない。当時の集合無意識の産物であって、降って湧いたような「書(ふみ)」であると想定できなくはない。「古事記」をフルゴトフミと訓むようなものである。フミという語とフルという語に関連を見ようとするのである。音声言語を文字言語へとコード変換したのは天から降ってきたようなものであるとするのである。しかし、「書」であり「記」とはない。そもそも、抽象的な概念操作によって、ヤマトコトバは作られてもいなければ使われてもいない。言=事とする言霊信仰のもとに、きわめて具体的でありつつ自己癒着的、自己完結的に作られ使われている。側に下書きがあるから「書(ふみ)」と記したとする場合、「伊吉連博徳書曰」(斉明紀五年七月条)のように、「張安書謂也」にならないといけなくなるように思われる。そして、下書をとって置かなければならない。
 大刀に銘として、コノハナノサクヤビメ説話の“カマ”の話の内容が刻まれている。そのことの事の次第が記されていると素直に受け取るのが、なぜ銘が刻まれたのかについても含めた、figure と ground とを区分けする frame の表示でもあるという了解に近づくことができることになる(注12)。「書者張安也」は、この大刀銘の記したいわば式次第的な文句ではないかということである。
 「A者B也」という構文については、「者」や「也」という字の用いられ方が当たり前すぎてかえって理解しにくいところがある。「者」字の使われ方について、瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』(おうふう、平成6年)は、漢籍、古代朝鮮半島、金石文・木簡、古事記の用例について検証され、…鷦用法、形式名詞的用法、条件強調用法、な庫用法に分類されている。わかりやすい例を1つずつあげるなら、 崟Ъ堊霪畄歿径臈疚蕁弊Д倭霪畄櫃梁臈疚蕁法廖↓◆岷大穴牟遅神負袋、為従者率往(大穴牟遅神に袋を負せて、従者(ともビト)と為て率て往きき)」、「然者、汝心之清明何以知(然らバ、汝が心の清く明きは何を以てか知る)」、ぁ崟Ш5娘毀蕁弊Г貂の橘ゾ)」といったところであろうか。
 まず、「者」という“用字”についての基本姿勢を確認する。上代の人はヤマトコトバを表わすために、適当な漢語(漢字)を探していたら、「者」という字を見つけ、それをヤマトコトバに宛がったということである。漢語(漢字)「者」の訳、ないし、「者」という字に新たに和訓と呼ばれる新語、漢文訓読のための特殊な言葉を拵えたということではない。どういうときに「者」字を用いるかというと、瀬間先生の 銑い里箸である。言葉を使う現場では、勘を働かせて使うものである。三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』(文学社、大正14年)(42〜44/100)にあげられているように、「○○ト云フコトハ」、「○○トハ」、「○○ソノ者ハ」、「○○ト云フコトナリ」、「○○ト云フ者」、「○○ハ」、「○○ソノ者」、「○○ソレナリ」、ク語法の如きもの(「○○タマハク」、「○○ラクハ」、「○○スラク」、「○○スルニ」)、「○○レバ」、「○○ルハ」、「ソノ時ニハ」といったときに使われている。山崎孝雄「古事記における『者』と『也』について」『国学院雑誌』第五十六巻第五号(国学院大学、昭和31年2月)に、「A者B也」という表記は、「言語の形にあらはし得ない」「気息、即ち術語格としての陳述と連体修飾語としての独立格的詠嘆との綜合を表意文字の形式を以て表現した」(森重敏「結合語格補説」国語学第二輯)ものであると適切な解釈が引用されている。Aというものは則ちBであるのである、の意として用いられる。デアルノデアルと2回繰り返しているのは、「AはBである」と確かならしめるために、「『A』というもの『は』則ち『Bである』のである」と言って“様”になるようにしている。そこに、「A者B也」という表記が導かれる。
 逆に言うと、気息がないところに、「A者B也」のような表記は生まれない。近代に、「本日は晴天なり」という用法が見られるが、これは無線の電波が届いているかどうかの試験信号として使用されている。気息がなければ無線は音が聞きとれないということらしいが、効果的な発声音ではないとも指摘されている。いずれにせよ、面前で言う文言ではない。
 裴学海『古書虚字集釈』(広文書局、民国60年(重印))によれば、漢語の「者」と「也」と「則」は、同じような概念を共有している。それは、ヤマトコトバのハ、バ、ゾにも当てはまる。そして、瀬間先生のあげられている形式名詞的用法も、「従者」とは、「従フソノ者ハ」の意味である。銘文の「書者張安也」を、通説のように、書いた人は張安という人であると考えるためには、「書者」を△侶措位昌貪用法ととり、続くはずの「名」の一字が脱落していると考えたうえ、「也」を衍字とでも考えるしかない。「書者名張安也」という字面でもおさまりが悪いのである。「書クソノ者ノ名ハ張安ナリ」と打電されているのであろうか。
 古事記には、

 此稲羽之素菟者也。(←此れ、稲羽の素菟ぞ。)
 於今者謂菟神也。(←今には菟神と謂ふ。)

とある。「也」は現代語の「だ」に相当し、断定の意味になる。これがあの有名な稲羽の素菟だよ、今では菟神と言っているんだ、という意味である。そう話を聞かされて、聞かされた方が納得しなければ、そこには会話が成立していないことになる。お話にならない。言い伝えの時代、稲羽の素菟という言葉はよく知られていたであろうから、話を聞いて、あぁ、そうか、これがあの稲羽の素菟のことなんだね、と了解できることになる。
 もともとのヤマトコトバに、「書ケル者ノ名、張安ゾ」と言われてしまうと、チヤウアンって誰? 何? という話になる。長州小力って、誰? というか何? という話である。かのタレントさんが何をしたいのかわからない、と感じたのは、物真似の自乗のようなことになっているからである。道化が自乗されると、存在の根拠がわからなくなる。物真似がひとり歩きを始めることを狙っておられるようである。唐突に先鋭化した名を、銘文の題目にあげるはずはない。あるいは、「乃木坂って、どこ?」という番組名は、乃木坂46の大活躍をもってして陳述として全国的に受け容れられていたのであった。すなわち、名とは何かについて、深く考究する必要がある。
 以上の反例から、「書者張安也」の「者」が、△侶措位昌貪用法ではなさそうであることがわかる。古事記以前の銘文だから特殊用法であると捉えることはできようが、それ以前に、他の用法で記されている可能性を考える必要がある。,猟鷦用法とするなら、「書クト云フコトハ張リ安ンズルコト也」、の条件強調用法と考えれば、「書ケバ張リ安ンズル也」といった解釈が可能である。前者は、容易に通釈できる。鉄の上に文字を掻き刻もうとするとき、刻んだだけでは錆びたらすぐに見えなくなってしまう。羽が錆びたから「大鐵釜」は使えなくなったのであった。「書クト云フコト」とは、言葉を定着させることである。消えたら意味がない。書いたことにならない。だから、「書クト云フコト」は、則ち、銀線を張って安定化させることであるのだ、という気息をもって語る定義のような文面ととれる。過不足なく把握できる。「A者B也」には、発展型の「A者B者也」があり、記に、「此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也」、「其登岐士玖能木実者是今橘者也」など、「『AはBである』ことは真である」というさらに力説した言説になっている。すなわち、「書(か)ク」ということは「掻(か)ク」ということが本来の義であるが、鉄の上に掻いたからといって、それは「書(ふみ)」として定着されるものではない。なぜなら、錆びて判読できなくなるからである。となれば、書くことによって書(ふみ)として半永久的に残すということは、すなわち、銀線をもって象嵌に張ることで安定化させて遺すということに他ならないのである。そういった定義を宣言しているのが、銘文のこの部分である。frame 自体の提示である。「A者B也」と定義をする際、Aが動詞であることによってB→Aへと再定義することにもなる。時として、他を排除しようとする試みにも用いられる。例えば、「貼るは、サロンパス(貼者撒隆巴斯也)」といったキャッチコピーである。大人の事情によりこれ以上書けない点はお許しいただきたい。
 の条件強調用法は、一見、今述べた,硫鮗瓩般圭發靴董意味を成さないように見える。けれども、「書者張安也」を「書ケバ張安也」と捉えることには十分な意味がある。この点については、 ↓の用法に解釈した際に、「書」の主語が「作刀者伊太(和)」となる点と密接に関わってくるので、後述することとする。いずれにせよ、銘の「書」は、中国人のチヤウアンが作成したのでも、中国の皇帝から贈られたものでも、それに擬したものでもない。
 なお、銘文中にある「不失其所統」は、コノハナノサクヤビメ説話の読みの文意からすると、統治の意味ではなく、皇統のように言う血筋の続くことを表しているように思われる。記では、「天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)」についての話として、コノハナノサクヤビメの話(石長比売と木花之佐久夜毘売についての大山津見神のウケヒの話)は語られている。この点も、銘文に「(台)獲□□□鹵大王世」と記入した意味と関わるので、後述する。それがなぜ熊本県の江田船山古墳から出土しているのかについては、歴史研究からは、天皇家の末裔か分家か何かが肥の国へ行っていてお墓に葬られたという話についての事柄になるのかもしれない。言語文化研究の側からは、なぞなぞ小咄の記紀説話が存外に早く、広く営まれていたことを重く受け止めなければならない。たいへんな難題に対峙させられることになる。ヤマト朝廷の版図拡大とは、記紀説話の地方への波及拡散であったのかもしれない。文字表記を考える表記史の研究には、表記するとはそもそもいかなる営みであるかについての検討が必須である。そして、当時の人たちにとって、釜と鎌とを窯を使ってトンチントンチンかま(囂・喧)しくして一構え作ったという話は、歴史的なインパクトある事件を契機として同時的に発生した“こと”であったろう。なぜ銘文を刻むまでして何事かを伝えようとしたのか、当時の人々の考え方の枠組みまでを含めてまるごと解釈されることを、銀象嵌銘は待ち望んでいたように見える。(つづく
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江田船山古墳大刀銘を読む 其の一

2016年04月16日 | 論文
 江田船山古墳出土の大刀の銀象嵌銘に、

 台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖
 八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀
 服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

とある。上の文字の判読は、東野治之「釈文の解釈」東京国立博物館編『江田船山古墳出土 国宝銀象嵌銘大刀』(吉川弘文館、平成5年)による(注1)。東野先生は、「天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鐵釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振(う)つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書する者は張安也。」(66頁。東野治之『日本古代金石文の研究』(岩波書店、2004年、102頁)に再録)と読み下されている。
 東博の考古展示室の解説パネルには、「75文字の長大な銘文をもつ大刀で、5世紀の政治・社会や世界観を伝える日本古代史上の第一級の文字資料です。古代東アジアの有銘刀剣には、中国製と朝鮮半島・日本列島製があります。中国・後漢時代以降の銅鏡や鉄製刀剣の銘文は、基本的に『紀年』および『吉祥句(きっしょうく)・常套句(じょうとうく)』を中心に構成されます。その後、3〜5世紀頃には辟邪除災(へきじゃじょさい)を願う四神(ししん)思想を軸とした世界観を表現するようになります。これに対し、5〜7世紀に日本列島で製作された有銘刀剣は、人名を古代日本語で表記していることや製作の事情を述べた内容が含まれるなどの独自性が認められます。また、『治天下〜』の表現は中国の影響を受けた世界観を示すものとして注目されます。一方、大陸では銘文を記す対象は石碑のような大型のいわゆる記念物であることが多いのに対して、日本列島では身につけて持ち運ぶことができる鉄製刀剣であることも大きな特徴です。日本列島で鉄製刀剣が弥生時代以降も重視され、東アジアの中で特異なまでに発達することと、古墳時代の有銘刀剣の盛行は深く関係すると考えられます。」とあり、現代語訳では、「ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文章を司る役所に仕えた人、その名はムリテが、八月に、精錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1m余り)の立派な大刀を製作した。八十回、九十回に至るほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、その支配地を失うこともない。命じられて大刀を製作した者の名はイタワで、銘文を書き記した者は張安である。」となっている。以下において、文字の判読に、随時筆者の観察で改めている。
江田船山古墳出土大刀(部分々々)(古墳時代、5〜6世紀、東博展示品)
 意味として、「大鉄釜」は精錬炉のことと捉えられている。精錬炉は耐火レンガなどで作らなければならない。「釜」が鉄製だと精錬中に融けてしまう。他の金石文や文献などの引用と捉えられているようである。仏典に、大叫喚地獄の様として、「何故名為大叫喚地獄、其諸獄卒取彼罪、人著大鐵釜中、熱湯涌沸而煮罪人」(長阿含経)などと用例がある。地獄の釜の譬えについては後にも検討する。また、「并」をナラビニと訓むと意が通じないから、アハスと訓むとされている。けれども、「并」の字のアハスという意は、併合などという場合の一緒にすること、品詞は違ってもナラビニということと同じ意味であると思われる。アハスと訓むことでは問題は解消されていない。
地獄釜茹で(矢田地蔵縁起絵巻より)
 鈴木勉・福井卓三「江田船山古墳出土大刀銀象嵌銘『三寸』と古墳時代中期の鉄の加工技術〈付説:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の『尺寸』と『ろう製原型鋳造法』について〉」『橿原考古学研究所紀要考古学論攷』第25冊(奈良県立橿原考古学研究所発行、平成14年3月)に、銘文の中段(上掲2行目)は作刀技術を語ったものとし、卸し鉄(おろしがね)製鋼の技術が記されていて、「大鐵釜并四尺廷刀」は材料であって、「大鐵釜」と「四尺廷刀」とを一緒にして新たに長い刀に鍛造したとされている。復元研究プロジェクトチーム編「福島県内出土古墳時代象嵌資料の研究復元制作」『研究紀要2003』(福島県文化振興財団福島県文化財センター白河館まほろん発行、2003年)を参照されたい。
 「大鐵釜」は鋳つぶされ、「四尺廷刀」に加えられて鍛えられた。そう単純に読むことに特に支障はない。佐々木稔「古代の鉄と刀剣」石井昌國・佐々木稔『増補版 古代刀と鉄の科学』(雄山閣、2006年)に、「……硬鋼の素材が流通しているのに、なぜ鋳釜を壊して精錬し、鋼を製造したのであろうか。しかしそれを銘文に記しているのである。これは、もはや技術的解釈が可能な範囲を超えた問題と言わざるをえない」(194頁)とされている。「技術的解釈を超えた問題」は、本稿(「コノハナノサクヤビメ考 其の一」以下)によって、不細工な石長比売が返し送られたと説話化された由来として解明されつつある(注2)。すると、江田船山古墳出土の大刀は、大山津見神のウケヒの言葉に適うように製作され、石長比売と木花佐久夜毘売を二人とも併せて留めたから、「此の刀を服(はか)せば、長寿(みいのちなが)くして……」というお呪いの言葉が記された、と推理できる。なぜなら、すべては、カマの話に読めるからである。
 「四尺廷刀」について、「廷刀」という例が見られなかった時は疑問視されていた。千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した鉄剣銀象嵌銘に、表面「王賜□□敬(安)」、裏面「此廷刀□□□」とあるところから、「廷刀」という言い方がされていたに違いないと推測されるようになった(平川南「銘文の解釈と意義」市原市教育委員会他編『「王賜」銘鉄剣概報』吉川弘文館、1988年)。孤例が2例(?)になると定説化されるらしい。平川南『出土文字に新しい古代史を求めて』(同成社、2014年)に、「[稲荷台1号墳出土鉄剣の]「銘文の主旨は、『王賜□□(剣の意)』にあり、王から鉄剣を授けたこと(下賜(かし))を表現したと考えられる」(107頁)とされている。説文に、「廷は平也」とあるから、「廷刀」は「鉄鋌」のことである(宮崎市定)とか、広雅・釈室に「廷は官也」とあるから、「廷刀」は「官刀」の意である(福山敏男)とか、「廷」は「挺」の省画で、集韻に「挺は直也」とあるから、「廷刀」はそびえ立つほどに長大な刀である(鈴木勉)といった考えが行われている。そして、鈴木・福井、前掲書では、「『廷』の文字だけの解釈によって含有炭素量の低い普通の『鉄鋌』を当てるというわけにはいかない」(7頁)のであり、「廷」から「刀剣用鉄鋌」か「刀剣」そのものを指しているとされている。どうも持って回った議論がなされている。
 また、東野、前掲書、2004年に、「奉事典曹人」は、「『奉事せし典曹人』とも読めるが、『典曹に奉事せし人』とも解せられる。『典曹人』の存在を考える説は、埼玉県[行田市の]稲荷山古墳鉄剣銘の『杖刀人』との関係で有力であるが、……杖刀と典曹では語の性格も異なるから、強いて双方を関連づける必要はあるまい。『典曹に奉事せし人、名は』と読めば、後段の『刀を作る者、名は』という構文とよく合致する」(103〜104頁)と述べられている。典曹という語は、後漢書志第二十四・百官一に、「令史及御属二十三人。本注曰、漢旧注、公令史百石、自中興以後、注不石数。御属主公御。閤下令史主閤下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其余令史、各典-曹文書。」と見える。三国志・蜀書にも、「典曹都尉」という役職があり、典曹というのは文字を記録する役人であるとされ、官吏名、職名であると説かれてしまっている。しかし、後漢書では、「各(おのおの)文書を典曹する」と動詞である。「上章表報書記」などとは違う内容で文書を書いている。文官にもいろいろあった。財務省も文科省も多くは文官であるが、作成する文書内容はいろいろである。文官でも武官でもない技官というのも古代からいる。筆者は当たり前のことを言っている。大刀銘の「典曹」とは何か。
 「典」は、法典などという意でヤマトコトバにノリである。「曹」は、法曹などという裁判官のことである。「奉事典曹人」とは、刑部省の役人、獄訟のつかさを言うのではなかろうか。平野邦雄『大化前代政治過程の研究』(吉川弘文館、昭和60年)に、「あえて推定すれば、断獄・非違検察を任とする職掌ではないかと思う。『典曹人』とは、その下級の実務官である。いわば文官ではあるが、武官としての将軍府のそれにおなじく、警察力などの“威嚇的手段”をもっていたのであって、この両者に共通する面も多い」(127頁)とされている。養老令・職員令に、「刑部省(ぎやうぶしやう)〈司二を管(す)ぶ。〉卿一人。掌らむこと、獄(ごく)鞫(と)はむこと、刑名(ぎやうみやう)定めむこと、疑讞(ぎげち)決(くゑち)せむこと、良賤(らうせん)の名籍(みやうじやく)、囚禁(しゆきむ)、債負(さいふ)の事。……」、二十巻本和名抄に、「刑部省 宇多倍多々須都加佐(うたへただすつかさ)」とある(注3)。判事のムリテが鍛冶屋さんのイタワ(カ)に材料を提供して刀を作らせた。裁判官が提供した材料が、「大鐵釜并四尺廷刀」である。あの世での裁判官といえば、良く知られるのは閻魔大王、上代では「閻羅王(えんらわう)」(霊異記・中)である。地獄で釜茹での刑に処したりする。「大鐵釜」の持ち主に相違ない。では、「四尺廷刀」とは何か。「尺」は長さの単位ではあるが、親指と人差指とをL字形に広げた際のサイズをいう。二十巻本和名抄に、「尺 魏武雑物▲(足偏に流の旁部)に云はく、象牙尺といふ。弁色立成に云はく、尺は竹量也〈太加波可利(たかばかり)〉といふ」とある。尺、タカバカリ(竹量)に、矩尺(かねじゃく)、曲尺(まがりがね)があるのは、竹でどうやって作るかといえば実は簡単で、キューブ状のスイカができるのと原理は同じである。理屈としては、親指と人差指を広げた形からして事の必然である。「廷」は、法廷のこと、 court である。法廷に「刀」があるとすれば、縛り上げてお白州に引きづり出された罪人を震え上がらせ、威儀を整えるためのものと推測される。打ってつけの刀としては鉄戈や鉄戟であろう。反抗や逃亡を企てると、引っかけ刺され倒されて痛い目に遭わせされる。
左:鉄戟、右:鉄矛(奈良県宇陀市榛原上井足出土、古墳時代、5世紀、東博展示品。鉄矛は刃部分が欠損したものか。)
馬頭羅刹(地獄草紙より)(小松茂美編『日本の絵巻7 餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、昭和62年、70頁より)
 説文に、「戈 平頭の戟也。弋に从ふ。一に横の象形。凡そ戈の属は皆戈に从ふ」、「戟 枝有る兵(つはもの)也。戈に从ひ戟声。周礼に戟、長さ丈六尺、棘の如しと読む」とある。礼記・曲礼上には、「剣を進(おく)る者は首を左にし、戈を進る者は其の鐏(いしづき)を前にし、其の刃を後にし、矛戟を進る者は其の鐓(いしづき)を前にす」とある。尖った石づきが鐏、尖っていない石づきが鐓である。戈は、長い柄の先端に直角に短剣状のものを取り付けて、敵の首に撃ちかけて斬りつけたり引き倒したりするもの、戟は、戈にさらに矛を合わせた形で、一体式と異体式とがある。戈の撃刺、ひっかけ斬る機能に、矛の突くという働きまで兼ねたものである。すなわち、戟には木製の柄と同じ方向の刃と、直角方向の刃(援)がついている。銘文に「四尺」とあるのは、柄を取り付けた時の柄を含めた長さか、「周礼に戟、長さ丈六尺」の1/4サイズと見たか、あるいは鎌刃が両側に2個ずつ、計4つのL字になっている方天画戟の類を表したものかもしれない。「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(垂仁紀八十七年二月条)とあるのが、実寸ではなく、勾玉が大きいことやぐにゃっとよく曲がっていることを表すのと同様な形容である。
右:鉄鉞戟(鉄、中国、前漢〜後漢、前2〜後3世紀、東博展示品)と左:鐏(青銅他、中国、戦国時代、前5〜前3世紀、東博展示品)
戈(青銅、中国、戦国〜秦、前4〜前3世紀、東博展示品)
 徐鍇の説文解字繋伝に、「一に戟の偏距(かたかま)を戈と為す」とある。戈は矛部分を伴わず、戟のように先に伸びる部分がないから片鎌といっている。それを「距」と表している。新撰字鏡に、「距 其呂反、上、足角也、阿古江(あごえ)也」とある。「距」は、距離というように足で長さを測るわけであるが、和名抄に、「距 蒋魴切韻に云はく〈音巨、訓阿古江(あごえ)〉は鶏雉脛に有る岐也といふ」とある。鶏の蹴爪のことである。前爪と蹴爪の両方をあわせ持っており、戟の風情を彷彿させる。親指と人差指の間にできたL字形が後爪と蹴爪のところにもできている。「廷刀」は、法廷の刀のことと想定して探求してきたが、「廷」は「庭」に通じ、ニハと訓まれる。ニハトリ(鶏)の爪の話になっている。鶏の足のアゴエの場合、3次元立体であるため、強力な武器に見えることは間違いない。そして、アゴエという言葉は、ア(足)+コエ(蹴の古語)の意とされるが、古い用例は確かめられないものの、アゴ(顎・頤)という語と関連がありそうである。正面からでは不確かながら、横から見て鎌形をしていることがよくわかる。魚のアギト(鰓)とよく似た構造である。
 庭園で刀を使うとすれば、草刈り鎌であろう。「廷」の字は、名義抄に、銘文にある旁が「手」の字を載せ、「▼(延繞に手) ムカフ、サカフ、ヲトル、アフ、マサル、ツヒニ」とある。戟の古文が屰、ないしは、戟は屰に通じ、屰は逆の初文である。突いて使うのとは逆の、引っぱって有効なのが戈や戟であり、形的には鎌である。説文にいうように、戈は横さまに刃がついている。名義抄に、「戈 過に同じの平声、ホコ、カマ、ヒトシホコ、ツハモノ、イル、※(俣の旁)々、過」、「戟 居逆反、ミツマタナルホコ、ホコ、ホコニサキ、ハヤク、禾客」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈几劇反、保古(ほこ)〉は、或は之れを于と謂ひ、或は之れを戈〈古禾反〉と謂ふをいふ」とある(注4)。すると、「四尺廷刀」という「四尺」という形容は、ヤマトコトバにヨサカ(ヨは乙類)であろうから、横(よこ、ヨ・コは乙類)+逆(さか)の意味を含むと知れる。捻くれた性格の曲がれるもの、鎌なるものの意がよく表現されている。白川静『字通』(平凡社、1996年)に、「戈 kuai は割裂の音をしめすものらし」(102〜103頁)いとしている。
片鎌槍(朱銘 加藤清正息女 瑤林院様御入輿之節御持込)(室町時代、16世紀、東博展示品、徳川茂承氏寄贈、参考図)
 実戦において、戈や戟が有効だったのは騎馬や馬車での戦いではなかったかと思われる。本邦で刀剣類の武器としては、独自に発達した日本刀が大勢を占め、他に槍、長刀が思い浮かぶ程度である。しかし、法廷で戈や戟のような姿形を見せられると、ちょっとビビってしまう。そのため、犯人はつい自白へと向かう。戈や戟というおどろおどろしい鎌形の武器に誘導されてしまう。鎌をかけられるわけである。この「かまをかける」という不思議な語句がいかに生まれたかについては、いくつかの説があげられている。上代に遡る俗語表現であるかは不明である。〜蠎蠅砲笋ましく、かしましく喋らせて、そこから引っ掛けるようにこちらの聞き出したいことをうまく引き出すことから、カマ(囂)をかけるというようになったとする説、甑を作る際に、寸法を測る道具をカマと呼び、カマで寸法を確認することをカマをかけるといっており、思いどおりに導いて白状させることをカマをかけるといったという説、3の先で引っ掛けるように、相手をこちらに都合の良いように引き寄せるようにした際に、引っ掛けたのを憚って言ったとする説、せ馨討の時、火打金のことをいうカマを火打石にかけ当て、付け木にうまく火をかけることから譬えられたとする説、ゥマキリのカマの手繰り寄せる動きから見立てたとする説などがある。戈戟類に由来するとする説も、Δ寮發箸靴討△欧蕕譴茲Α7椶竜(あごえ)によるとする説も、Г箸靴討△欧蕕譴茲Α
 △痢甑を作る時の寸法を測るコンパスかノギスのような道具について、筆者は勉強不足で知らない(注5)が、そういう曲尺(矩尺)のものが古くから用いられていたのであるなら、非常に興味深い説であると思う。曲尺(矩尺)は鎌形で、L字状をなす。すなわち、「大鐵釜并四尺廷刀」において、釜と鎌の結合が、釜と甑にまつわるカマとの融合を表しており、石長比売と木花之佐久夜毘売の両者をともに使うことになり、記の大山津見神のウケヒにある、「我之女二竝立奉由者、使石長比売者、天神御子之命、雖雪零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘売者、如木花之栄栄坐、宇気比弖〈自宇下四字以音。〉貢進」という言葉に呼応してくる。両者を使った刀を製作したのだから、「服此刀者長壽子孫汪〃得□恩也」と言えるのも確かになる。釜と、釜にかけるのが本来の姿であるはずの甑の、それを作る時の鎌のような形の道具とを合体させた刀を持っていれば、長寿繁栄間違えなしということである。もちろん、そのような上手い話については、真実であるかどうかといった次元の話ではなかろう。そうあって欲しいと願われているだけに違いない。ウケヒの文句を具現化したに過ぎない。それを現代の研究者は「威信財」という術語に呼ぶかもしれないが、筆者同様憶測の域を出ていない。
 始めに言葉ありき、から出発すると、大山津見神のウケヒの文句など、そもそもが信を置けるようなものではない。そうあってくれるといいなと思って2人の娘を貢進したと言っている。言っていることが大袈裟で、カマをかけたような話である。カマをかけるという慣用句の語源説に、さらに、┳を竈に架けることも付け加えたい。大陸で鉄製であった釜は、それに合わせて設けられた竈に架ければ十分役に立つはずであった。本稿の「コノハナノサクヤビメ考 其の一」以下において、筆者は、大陸から鉄器として釜がもたらされたのが本邦での釜の始源である可能性が高いと指摘した。それまで、煮炊きには、効率の悪い囲炉風の火処(ほど、ドは乙類)を使っていたが、竈を作って釜をかけるという新技術が伝来した。まことにうまい具合にできている。火も煙も見えないから、ご飯はまだ炊けていないだろうと思っていたら、すでにおいしく出来上がっていた。騙されたような仕掛けである。この説の焦点は、まんまと乗る、とするところが、飯(まんま)を炊くために釜を乗せることと絡んでいる点である。カマをかけるという慣用句の語源新解釈である。
五徳に鍋に薪の炎、横に戟のようなヨキ(斧)(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1991年、86頁より)
 けれども、羽釜の羽(鍔)が錆などで欠け損じてしまうとうまく竈に架からない。通常の容器において最大の欠陥は、穴が開いて中に入れる液状の物質が漏れ出すことであるが、釜の場合は羽(鍔)部分の損傷も大きな欠陥とされる。竈から落下してしまって役に立たない。まんま(飯)と乗せることができなくなる。それはいつか。ハ(羽)+ツキ(尽、キは乙類)=葉月(はつき、キは清音で乙類)、つまり、八月である。大刀の銘文に書いてある。「八月中用大鐵釜并四尺廷刀……」。なぜ「八月」と記されてあるかについては、これまで吉祥句や鍛冶屋のならわしによるのではないかとの説があげられている。筆者は、八月は羽釜のハがすり減り尽きて竈に埋没するようになったため、役に立たないから鋳つぶしてしまおうという次第に相成ったと考える(注6)。その結果、釜は落下転倒し、灰神楽になってかまびすしい大きな音をあげた。江田船山古墳出土の銘文を伴う大刀は、カマとカマがあわさってできたやかましいもの、75文字にも及ぶうるさい銘文を持ったものであることを自ら記銘している。自己言及の筆致は、無文字文化の感性に適っている。そのしるしが、長文の銘文である。(つづく
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コノハナノサクヤビメ考 其の三(付足 注 其の三(比況・甑落とし他))

2016年03月30日 | 論文
承前
 助詞のノミ(ノ・ミはともに乙類)は、万葉集ではしばしば借訓で鑿の字を用いる。工具の鑿は、弥生時代から鉄製で、古墳時代には鍛造でいろいろな形のものが現れている。白川静、前掲『字訓』の「のみ〔鑿〕」の項に、「漢字の鑿は名詞・動詞に用いる。『のみ』も名詞形の語らしく思われるものであるが、その動詞形の有無は知られない。おそらく『呑(の)む』と関係のある語であろう」(600頁)とある。ヤマトコトバでは動詞形は知られないものの、呑むと関係があると鋭い指摘がなされている。そして、ただノムといえば、ふつう酒を飲むことを指す。酒を呑むと、酔っぱらって頭が斜めになる。首を斜めに傾がないと呑むことはできないから、呑の字は天+口ではなく、夭+口なのであると、字の形が納得できる。
鉄鑿(山梨県中央市大塚古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
 工具の鑿の刃も、必ず片刃である。斜めになっている。鑿によって物が加工される最たるものは、仏像のような彫刻である。木の塊を彫ることで、神や仏の像に化けるのである。轂に輻を嵌めることは、矧(は)くといった。人や神を紛らわすために姿が変わるのは、化(ば)くである。米が酒になるのも、劇的な変化であり、そう言って構わないであろう。また、酒を適量呑めばほろ酔いになり、神憑りしたかのような化けた状態にひたることができる。しかし、呑みすぎた場合は化くどころか一転、吐(は)くことになる。神代紀第十段一書第四に、海幸・山幸の話の呪詛の場面が紹介されている。釣針を返すときに呪いのことばを言い、その後で「三(みたび)下唾(つはき)」、つまり、三度唾を吐いてから返している。また、相手がそれを使って釣りを再開したら、「風招(かざをき)」のための「嘯(うそぶき)」、つまり、口をすぼめて息を強く吐いている。この呪術の結果、兄は溺れて死にそうになる。そこで、「善き術(ばけ)」を使って助けて欲しいと懇願している。術の古訓にバケとあるのは、吐くこと(「下唾」、「嘯」)と対だからである。そして、話は命ごいである。上述のとおり、命のイは息のことで、呼吸というように先に吐くから吸えて生き長らえる。息を呑むというと、死にそうになるほどびっくりすることである。人は死ぬと神や仏になるとされていた。鑿という道具の真髄は、片刃で斜めであるゆえ、「化く」と見なすことができる。「吐く」道具が何に当たるか。「箒」は候補であろう。殯の際、「箒持(ははきもち)」(記上、鷺)、「持帚者(ははきもち)」(神代紀第九段本文、川鴈)が登場している。息を吐くことからの連想で、掃く道具が持ち出されているのではないか。当然ながら、由縁は不明である。
 「吐く」ほどの酒につ(いては、上田誠之助、前掲書によれば、糵はもともと芽米であったが、実際に芽米を作る際、麹菌に汚染されると室のなかに麹菌の胞子が充満し、九世紀の延喜式の頃には麹菌汚染蒸米、つまり、米散麴づくりになってしまっていたのではないかとあった。
 醴酒(コは甲類、ケは乙類)は、和名抄には「一日一宿の酒なり」と記される。令集解には、周礼の注に甘酒のことであるとし、古記という大宝令の伝を引き、「麹を多くし米を少なくして作る。一夜にして熟(う)むなり」としている。どろどろを呑む、濃酒(こさけ)の意であるが、正倉院文書に「粉酒」とある。延喜式に、「醴酒は米四升、糵(よねのもやし)二升、酒三升を和合醸造し、醴九升を得」とある。ただし、その頃には糵をつくるときに黄麹菌が繁殖しており、米散麹(こめばらこうじ)(米蒔麹)になっていたということである。蒸米に米麹を混ぜ、すでに出来上がっている酒を加えて作ったカクテルであり、白酒のような甘い飲み物のようである。あるいは、濁り酒に似ている酒の子(コは甲類)ども、付け足して増した利子のような酒の意を含んでいるのかもしれない。そして、糵と麹とを混同している。あるいは、黴が生えることも、芽が出ることも、ヤマトコトバではともに「かび(ビは乙類)」と言っており、概念的に同じことであったと言ったほうがよく、それを「もやし」と呼んだらしい。
 礼(禮)を尽くす酒が、醴である。豊(レイ)は醴の初文で、古代中国では、臣下に醴を賜う礼があった。わが国の民俗でも、甘酒祭りとは、供物とする甘酒を作って神に捧げ、後でそれを下げてきて飲むことを重視した祭りの呼び名であろう。いずれにせよ、礼酒とは賜酒のことである。「賜(たま)ひ」はタ(手)+マヒ(幣)のこと、「あまひ」に似て非である。似て非なるとは、「似非(えせ)」である。違うけれどよく似ているとは、「似(たうば)れり」(応神紀九年四月、雄略紀元年三月条)である。タウバルは、タマハル(賜)の転かとされる。岩波書店の大系本日本書紀に、「タウバルは、似るの意。語源は『賜はる』か。本質的なものをいただく意から、似る意となる。……多く天皇などの貴人に似ている場合に使う」(ワイド版岩波文庫(二)、199頁)とある。似ているが違う紛らわしいものの形容に、アマヒという語はあるようである。吉野の国樔人は天皇にお酒を献上している。お酒はお酒でも、立場が逆である。饗宴があれば、主人側が酒を用意しもてなすのがふつうである。紀にも、蝦夷などに「饗(あへ)たまふ」という記事は、時代が下るとしばしば見られる。王化思想である。周礼・天官・酒正に、「酒の賜頒(しはん)を掌(つかさど)る」とある。
 漢書・楚元王伝には、「醴酒を設けず」の故事が載っており、客として待遇する礼が衰えたことを表している。楚王は、食客として申公や穆生を招いていた。「初め元王、申公等を敬礼す。穆生酒を耆(たしな)まず。元王、置酒する毎に常に穆生が為に醴を設く。王戊が位に即くに及びて常に設く。後に設くを忘る。穆生退きて曰く、以て逝くべし。醴酒設けず。王の意怠らめり。去らずんば、楚の人将に我をして市に鉗せん」。醴の切れ目が禮の切れ目という話である。本邦での例としては、「置酒(おほみきをめ)して群臣(まへつきみたち)に宴(とよのあかり)す」(天武紀二年正月条)とある。また、礼記・喪大記にも記述があり、喪礼にも使われている(注13)。早死にしそうな雰囲気も漂ってくる。禮は「うやまひ」で、やはり「あまひ」に似て非である。醴は甘酒だから、「あまひ」酒であると洒落たらしい。
 大山津見神は、二人の娘を奉じるとき、「百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物」を持たせていた。贈り物の品を示しているとされる。紀には、「百机飲食(ももとりのつくえもの)を持たしめて奉進(たてまつ)る」とある。類例に、第五段では、「百机(ももとりのつくえ)に貯(あさ)へて饗(みあへ)たてまつる」、第十段に、「饌百机(ももとりのつくえもの)を設けて、主人(あるじ)の礼(ゐや)を尽す」とある。また、「…… 小螺(しただみ)を …… 高杯(たかつき)に盛り 机に立てて 母に奉りつや 愛(め)づ児(こ)の刀自(とじ) ……」(万3880)とも見える。机の上に食べ物が載っている様は、神饌をお供えするときのようである。机とは、御食机、御贄机、御饌奉机などと見えるものである。食物を載せているから、折敷(おしき)のような風情であろう。折敷は、片木(へぎ)を四方に折りまわして作った角盆である。材質としては、一般的に杉が用いられる。酒造りに当たり、蒸しあがった米を杉の台に広げる光景を髣髴させる(注14)
 麹糵(キクゲツ)はコウジとされている。糵はコウジ、また、モヤシである。糵に似た字の蘖(ゲツ)はひこばえである。孫のこともヒコといい、番能邇邇芸命は天孫であった。また、蘖に似た孽(ゲツ)はわざわいである。わざわいは、天に災といい、地に祅という。祅は妖に通じる。笑や咲に見える夭の字が出ている。少しだけ芽生えさせて実らせることがないから、種にとっては中途半端で祅である。また、麹(麴)は和名抄に、「麹 釈名に云はく、麹〈音菊、加无太知(かむたち)〉は朽つ也、鬱の使生、衣を朽ち敗る也といふ」とある。黴(かび)立ちの意をいっている。カムチ、カムシがコウジに転訛した。そして、麹は説文に正字を▼(竹冠に左が幸、右が匊)に作る。似た字の▲(草冠に左が幸、右が匊)は菊の初文で、「日精なり。秋を以て華さく」とある。天照大御神が日神なら、菊を御紋にするのは当然となる(注15)。そのうえ、天孫の邇邇芸命が米を握(掬)って降臨したとされている。麹に関係する氏族であるのもまた然なりである。蒸した米に種麹、すなわち、黄麹かび菌の胞子を植えつけて繁殖させ、花が咲くように膨らんだら麹のできあがりである。糀という国字は後代の作である。
 現在、日本酒に使うのは粳米である。醸造技術が進歩し、また酒造用に稲の品種改良が行われて粳米となっている。中国では紹興酒などの醸造用には今でも糯米を用いている。醗酵には、小麦や米を粉砕したあと固めて一旦水に浸け、かびを生やした餅麹を使う。餅麹は保存が利く。糯米は収量が粳米より約一割少なく、高価であったとされるから、ハレの日に餅を食べるようにしか作付けされていなかったという。応神記には、大陸から新酒造法を伝えた須須許理(すすこり)の名が見える。その名については、コリが朝鮮語マッコリのコリで漉す、濾過するの意、酒造りのことをいうのであろうとされている。ただ、木花之佐久夜毘売の説話では、醴酒が主役で扱われており、澄んだ酒や度数の高い酒は当面のテーマではないようである。また、須須許理が伝えた醸造法も、どのようなものであったか記載がない。稲麹のついた稲穂が糯系の稲に見られ、それを用いて麹糵を作ったと想定する(注16)のが、ことばのなぞなぞからは整合性が高いことになる。稲穂にはまれに、濃緑色の大豆のように見える病原菌の菌叢ができることがあり、そのなかに黄麹かび菌が混ざって生息している。それを稲麹という。
稲麹標本(国立科学博物館展示品)
 本稿の初めのほうで、番能邇邇芸命の名義は、賑やかなことと握々することとに関係すると提示した。麹かびに侵されていた糯種のイネがあったら、とても賑やかで握るのにもふさわしい。彼の父は忍穂耳命(おしほみみのみこと)である。「此の御子は、高木神(たかぎのかみ)の女、万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあ)ひまして生(あ)れし子、天火明命(あめのほあかりのみこと)、次に日子番能邇邇芸命、二柱(ふたはしら)なり」とある。万幡豊秋津師比売命は、一説に秋津、つまり、蜻蛉の羽のように精細な布を織る機織の神と考えられている。逆に、機織の技を以て大量生産したようなたくさんの蜻蛉が飛び交う秋の神ともいえる。水田が作られたからトンボが大発生した。秋津師のシは風のことかという。天火明命は、穂が火の燃えるように実るさまを表すとされ、その弟に当たる神だから黄麹かびの繁殖した稲穂と考えられる。番能邇邇芸命が釜こと、石長比売と関わらなかった理由は、稲麹ばかりでは炊飯してもおいしいご飯を炊き上げることはなかったという意味合いがあったのかもしれない。
 天が斜めになると夭になるという洒落は、おそらく、天にある月が斜めになっているということであろう。月の字は、満月ではなく上弦の月を表している。斜めに段梯子、つまり、階が懸かっているような形である。現在ではツキもニクヅキも同じタイプフェイスで示されるが、以前は別であった。月(つき、キは乙類)は尽きるからそう言い、望(もち)とは尽き始めである。命もどうしても尽きる。「幣(まひ)」は神への捧げ物である。幣帛というように、絹を神に捧げた。偉い人に捧げて便益をはかってもらうことは、「賄(まひなひ)」である。月の字がなかに斜めになって含まれている。つまり、「あまひ」がアマ(天)+マヒ(幣)であるとするなら、天神からの幣ではなくて、天神への幣だから、斜めになった夭の字が導かれることになる。高いところで斜めに網をかけているのは、木の花の咲いたように見えてそうではない。妖しげに化けた蜘蛛の網であった。

※(注1)〜(注9)は、「コノハナノサクヤビメ考 其の四」、「同 其の五」に掲載してある。
(注10)山口佳紀、前掲書に、「○天つ神御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐(いま)さむ(古事記)○其(そ)の生めらむ児(みこ)は、必ず木(こ)の花(はな)の如に、移(ちり)落(お)ちなむ(日本書紀)の二文は、それぞれの文章において占める文脈的な位置が全く異なると言わなければならない。したがって、この両文から〈アマヒ=如〉の等式を導き出すことは、甚だ短絡的なやり方だということになる」(179頁)とある。文脈が違うから違う言葉であるに違いないと導き出すことも、やはり短絡的と言わざるを得ず、また、山口先生は日本書紀の「如」について、ゴトと訓むことに黙然されているように見える。
 比況表現に使われた古典語としては、ゴトシ、ゴトクナリ、ヤウナリなどが挙げられる。万葉集では、ゴト、ゴトシ、ゴトク、ゴトキといった活用がある。白川、前掲字訓に、「『ごと』『ごとし』の語源は明らかでない。類似したさまをいう朝鮮語 kat や満州語 gese と同源とする説もあるが疑わしく、『こと愛(め)では』『こと放(さ)けば』の形でみえる『こと』と同源とする説もあり、その方が穏当のようである。橋本進吉〔上代語の研究〕に詳論がある。……如・若いずれも『ごとし』とよむ。『ごとし』とはさながらであること、神と一体となることで、神の憑(よ)りつく意。すなわちエクスタシーの状態になることである。『ごと』『ごとし』もそのことと一体となる意で、そのことから比況の意を生ずる。それは重要な『こと』が『ことごと』となり、『ごとに』に転じてゆくのと相似た関係といえよう。……『ごと』とは、本来はその『こと』と一体化することであり、如・若には『この』『かくのごとき』という強い指示的性格をもつ語である」(330〜331頁)とある。
 つまり、雑駁にいえば、ゴト(如)という語は、コト(言=事)の進化形である。そして、いま語られているのは、ウケヒの文脈である。「こう言えば、こうなる」という命題のひっくり返しの呪術場面である。完全なる等号が求められるなか、ゴトシなどという比況表現が現れることに、戸惑いを隠せなかったであろう。言と事とはどうしたって違うという内実がばれてしまうのである。それは言霊信仰を揺るがしかねないゆゆしき事態である。さらに、その比況表現たるや、等式よりも不等式に近いようなものであった。例示するなら、
 XはYのようだ。(XはYの如し。)
 Xは「YのようであってYではない何か」のようだ。(XはYあまひに坐す。)
の関係ではなかろうか。直喩ではなく、反(半?)直喩である。提題しているのは、イノチである。イノチという言葉のニュアンスについては本文に述べたとおりである。山口、前掲書に、「天つ神御子の御寿は、木の花のアマヒのみ坐さむ。という一文は、〈天つ神御子の命は、木の花のように満ち足りることだけがおありになるだろう〉という意味になる。そして同時に、助詞ノミの働きによって、〈岩石のように満ち足りることはおありにならないだろう〉ということが含意されるのである」(184頁)とされている。文意から語義を捻くり出した結果、さて、この比喩は通じるであろうか。イノチと掛けまして、木の花(岩石)と解く、そのココロは、何であろうか。三百歳まで生きた武内宿禰のことでも念頭に置いた比喩なのであろうか。さざれ石をイメージしているのであろうか。それはまた、言=事の言霊信仰や、対偶は真であることを活用したウケヒと、どのように関係するものであろうか。言葉の発せられた状況設定、言語空間から切り離し、何のための比喩かわからなくなっている。イノチを木の花や岩石に譬える必要性も十分性も感じられない。アスファルト舗装を剥がした時に見られるさざれ石を貴ぶ考えが、上代のどの文献に見られるのか、管見にして不明である。
 イノチといった抽象的で捉えにくいものを具体的なイメージとして捉えようとする際、すなわち、「語り得ぬもの」(ウィトゲンシュタイン)を語ろうとするとき、私たちは類比させることで表そうとする。その方法は、“概念メタファー”(ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン、渡部昇一・楠瀬淳三訳『レトリックと人生』大修館書店、1986年)と名づけられている。そして、状態を容器の比喩で捉えることを私たちは頻繁に行っている。“イメージスキーマ(image schema)”(M・ジョンソン、菅野盾樹・中村雅之訳『心のなかの身体―想像力へのパラダイム転換―』紀伊國屋書店、1991年)が形作られている。イノチは、量として計り得るものと捉えれば、器に盛られた嵩高として比喩表現されることが容易に了解される。漲っていたイノチが漏れ出して、器に残った油が少なくなるようにイノチが風前の灯火となる、といった表現が可能である。結論を言えば、
 イノチは巌のようだ。
 イノチは木の花のようだ。
と言っているのではなく、
 イノチは巌のようであって巌ではない羽釜のようだ。
 イノチは木の花のようであって木の花ではないコシキのようだ。
と器を以て譬えているのである。そういう饒舌な表現を簡潔化させるため、アマヒという語を考案し、その一語のなかに閉じ込めてしまっているのであろう。アマヒという語には、論理階梯を撞着させた意味が含意されていると考えられる。言=事の進化形のゴト(如)の意味の背面を示している。羽釜のようなイノチとは、溜まっている水量は多いが常温からたぎるまでに時間がかかる。まさに、ゴトゴトとじっくり煮込むしかない。じれったい持って回っただらだら人生である。甑のようなイノチとは、水嵩はなくなっているが、上に置けば水蒸気によって100℃の高温加熱がすぐ可能である。瞬間湯沸器、電子レンジ的な人生である。もちろん、濡れたネコを電子レンジで乾かそうとしてはいけない。コメの調理法の煮て食べるか、蒸して食べるか、について、番能邇邇芸命というお米の象徴らしき神さまのイノチ、なる抽象的な話をでっち上げて論じているのである。
 以上、「如」という文字で表す義において、カクノゴトシという指示の強調された和訓では表し得ない義、……に似ているけれど非なること、について、アマヒという言葉で語ろうとしていると提起した。似ている点よりも似て非なる点に力点が置かれた語である。比況とは、ふつうは似ている点に注目が行くが、似ているが同じではない点、似非の方について関心が向いている。そんな言葉が作られていたと知れば、記であれ紀であれその記述者は、アマヒというヤマトコトバ(その言葉が、いつ作られたものかは不明ながら)をなんとか巧みに写し取ろうとしたものと思われる。一語一語の言葉に対する情熱に、文字を持たなかった上代人と文字に甘んじて暮らすその後の人たちとでは開きがある。言葉に対する緊張感が違うように感じられる。
(注11)甑につく「耳」の機能的意味は、取っ手兼引っ掛かりなのかもしれないが、上向きのU字J字のフック形態がどのような造形的意味合いを有するのか、筆者にはわからない。大陸からの伝来関係も不勉強で知らない。なぜこのようなパスタのコンキリエみたいな形状を表すに至ったか、納得がいかない。示唆を頂けると幸いである。いずれにせよそれは「耳」であるから、2つしかなく、座りは定まらず、傾ぐ(→炊ぐ)ことになる。そのなぞなぞだけは理解できる。
双耳壺(奈良県北葛城郡王寺町大字王子西安寺出土、奈良時代、8世紀、東博展示品)
(注12)甑落としの習俗については、徒然草や平家物語に記述があり、山塊記などから実際にあったことと確かめられ、永昌記の天治元年(1124)五月廿八日条(「……大夫属宗房奉仰団甑御所上……」)から記されている。後産についての呪い事で「御胞衣とゞこほる」ことを防ぐことのように徒然草にあるが、それを鵜呑みにする気になれない。筆者は、上代の研究をしている。上代、お産に関する話として最もユニークなものは、神功皇后が鎮懐石によって応神天皇の生まれるのを新羅親征後へと先送りした話である。当たり前のことであるが、実際にあったことではない。人々に親しまれた話のレベルである。どのようにして生まれないようにしたか、「其の懐妊(はら)めるを産むときに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纏(ま)きて」(仲哀記)とある。湯たんぽではないから、パンツのような形であてがったと想定したのであろう。そのような石器(玉器)は、中国ではともかく本邦では発掘されていない。それに似た石器らしきものは、甑である。それが実用的な土師器のような赤っぽい色彩なら、甑は胞衣のようでさえある。胎盤のありようについて、観察眼に長けた古代に知識がないはずはあるまい。
胞衣図(刑死者解剖図、1800年、1842年複写、東洋文庫ミュージアムデジタルブック、「解体新書展」(〜2016.4.10迄)にて。本展覧会出品解説の1行キャッチコピーはどれも当を得ている。広告業界人必見であろう。)
 甑落しをこの応神天皇の誕生譚に関連するものと考えると、甑を割ることが「其の御子は、あれ坐しき」(仲哀記)に相当する。山塊記、治承二年十一月十二日条の割書きに、「兼ねて之れを破り、麻を以て仮に之れを結び、落した後破らせしむ也。召使之れを持ちて兼ねて棟北に在り、其の告げるに随ひて之れを落とす可き由、誡仰すと云ふ。……件の甑、社所有の大原より内膳に渡り、大炊、之れを用ゐせし後庁に渡り、庁に於て破り結ぶ云々」とあって、予め割っておいたことが知られる。割らないと生まれないのは、神功皇后のお産に始まる。すなわち、お産の習俗であって、後産の習俗となったのは後の時代のことであろう。本ブログ「中大兄の三山歌 其の八」では、征西途中の船上で、大伯皇女誕生の際、甑落としの行事が行われたのではないかと推論した。
甑落とし(?)(小松茂美編『続日本の絵巻19 彦火々出見尊絵巻 浦島明神縁起』中央公論社、1992年、41頁より。原本は12世紀末成立かとされる。かわらけを踏み割っているが、妊婦はまだ出産していない。)
(注13)礼記・喪大記に、「君の喪には、……祥して……、始めて酒を飲むには、先づ醴酒を飲む」、「既に葬りて、……若し酒醴有れば則ち辞す」などとある。竹内照夫『礼記 中』(明治書院、昭和52年)に、「醴酒」は「一夜酒・甘酒の類」(672頁)、「酒醴」は「『濃い(強い)酒』と解しておく」(674頁)とある。
(注14)本ブログの姿勢としては、「机」とは何か、について深く考究しなければならないが、収拾がつかなくなるので稿を改めることにしたい。
(注15)天皇家が菊の御紋であることに違和感を覚えるという意見を耳にしたことがある。菊をキクと読むのは音読みで、外来種を紋所にするのが気に入らないといった内容であったと記憶する。植物としては和名抄に記載のようにカハラヨモギにあてるかもしれないが、麹→菊→ chrysanthemum(略称 mum)という流れによっているものと考えられる。
(注16)小泉武夫「米麴の発生から日本の酒造り―稲麴の周辺からの一考察―」石毛直道編『論集 酒と飲酒の文化』平凡社、1998年。(つづく)
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コノハナノサクヤビメ考 其の五(注 其の二、羽釜・酒造り他)

2016年03月25日 | 論文
(承前)
(注4)本邦における最初の羽釜が金属製であったか、土器製であったか、よくわからない。羽釜は竈とともに渡来人によってもたらされたと言われているおり、移動式カマドとともに使われていた形跡や、古墳から副葬品として出てくるミニチュア竈に、竈・釜・甑がセットで出てくる。これらの釜は土器としての例であるけれども、それらが列島での原初的な形態であったか不明である。そもそも“原初的”な形態を追い求めること自体が設問として誤りであるのかもしれない。寺での大掛かりな炊事例は正倉院文書から確認されるものの、それぞれの家々で幅広く実用に供されたわけではない。以下、事典等に見てみる。

 平凡社『日本史事典 第二巻』1993年。
 炊飯や湯沸しに用いる蓋(ふた)つきの器具。釜を「かま」とよむのは、古代朝鮮の音によるとも、竈(かまど)から転じたともいう。「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」「延喜式(えんぎしき)」などの記録をみると、釜と竈はしばしば混同されていたようである。「倭名抄(わみょうしょう)」では釜を加奈閉(かなへ)・末路賀奈倍(まろかなへ)と訓じ、足のない底の丸い釜としている。古くは土器で、古墳(こふん)の副葬品としては、竈、釜、甑(こしき)がひとそろいで発掘されている。金属製の釜は、中国古代に現れた三本足の鼎(てい)を祖型として発達したものと考えられ、日本への渡来時期は不明だが、奈良時代にはさかんに用いられていた。多くは鋳鉄製(ちゅうてつせい)で、銅製もあった。(大角幸枝)(347〜348頁)
 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』(角川書店角川書店、昭和57年)。
 釜 一/羯用具の一。「かなへ」が金属製の炊事用具一般をさすのに対し、土製・金属製を問わず湯を沸かすための用具を呼ぶ名であったが、「釜 カナヘ、カマ(前田本字類抄)」など同じ字にこの両訓を付しているものもある。㋑湯を沸かしたり、製塩したりする場合に用いる大型の炊事用具。湯沸し用は、初め土器、次いで金属製のものが普通になった。「かまど」の上の穴に下半分を差し入れて用いるので、これを支えるための鍔が腰の周囲にある。後に炊飯の用具をこの名で呼ぶようになったが、これは、元来、湯を沸かす釜の上に甑(こしき)を載せて米を入れ、蒸して飯を製したのが、釜の中にじかに米と水とを入れて煮る形が普通になったのでこの呼称が成立したのであろう。製塩用の塩釜(しほがま)は鉄製の大きい皿型である。(860頁)
 小野正敏・佐藤信・舘野和己・田辺征夫編『歴史考古学大辞典』(吉川弘文館、2007年)。
 かま 釜 煮炊容器の一つ。鍋が基本的に囲炉裏で使われるのに対し、釜は竈(かまど)に架けて使われる。口縁下の外側に落下を防ぐための鍔(つば)(羽)が廻らされているので、羽釜(はがま)ともいう。したがって胴部径は鍔の径よりも小さくなければならない。釜の淵源は古墳時代の長胴甕で、もとは米を蒸すための甑(こしき)(蒸籠(せいろう))と組み合わせて使われる湯沸し容器として始まり、のちこれで直接米を炊くようになった。羽釜としては鋳鉄製が最も古く、製品の遺存例こそ少ないが、鋳型に八世紀末から九世紀初頭の出土例がいくつかある。また鉄釜を模したとみられる須恵器製品が、十世紀前半ごろの群馬から長野にかけて分布する。長胴甕は十世紀後半から十一世紀にかけて近畿から東海を中心に丈夫な口縁部が横に短く伸びる形態に移行して終焉を迎え、代わって出現した土釜が中世後期まで存続する。陶器では十二世紀前半から十三世紀後半にかけて、常滑を中心とした東海諸窯に製品がある。このほか湯沸し用の土製茶釜が中世後期各地に出てくるが、これは囲炉裏にかけられるものである。なお中世後期の東国に鍔の径よりも胴部径の大きい土器煮炊具が普及し、これを「鍔釜」と称したりもするが、正しくは「鍔鍋」とすべきであろう。(馬淵和雄)(266〜267頁)
 田中椓・佐原真『日本考古学事典』(三省堂、2002年)
 釜(かま) 縄文土器から弥生土器・土師器(はじき)まで、煮炊きには深鉢や甕(かめ)と呼ぶ深い器を使っていた。7世紀後半になって、大きく開いた口径が器高をしのぐ丸底の浅鍋が朝鮮半島から伝来、近畿地方から普及しはじめ、現在の鍋につながる器がはじまる。『正倉院文書』ほかにみえる堝(なべ)が浅鍋にあたり、瓮(ほとぎ)には深鉢と甕の系譜につながる。しかし、これよりさき、5世紀以降、米など穀物を蒸す甑(こしき)の下に重ねて湯沸し用に使った土師器の長手の甕があり、5世紀後半には外反する口縁部の下に鍔(つば)がつく羽釜(はがま)状の甕が大阪猪ノ木塚古墳などにある。6・7世紀には米を甑で蒸すことも広まるが、羽釜状の甕は少なく、甑の下におく湯沸し用には長甕を使用する。8・9世紀には、米を蒸すよりも土師器の甕・鍋で煮ることが一般化する。多人数が飲食する平城・平安宮などでは大型の鉄釜も使用し、これに木製の甑をのせて蒸すこともあり、容量2石(約146l)の釜や甑がある。鉄釜は京から農村有力層にも普及している。近畿中央部では、8世紀末〜9世紀前半には緑釉陶(りょくゆうとう)や須恵器の現在の釜につながる形の羽釜につながる形の羽釜があり、9世紀後半〜10世紀初めには丸い体部の土師器の羽釜が、12世紀以降には瓦器(がき)の羽釜が普及し、米の焦げつきからすると、羽釜で飯を炊くことが定着したとみてよい。蒸すことが有力だった関東その他でも10世紀以降土師器の羽釜が普及する。鎌倉・室町時代には、口縁部がほぼ直立し、その下に鍔がめぐる現在の鉄釜に似た土師器・瓦器系の羽釜が鉄釜とともに普及する。中国では7000年前の初期農耕遺跡の浙江省河姆渡遺跡では米を煮ており、仰韶・龍山文化には三足の鬲(れき)と甑とを組合わせて蒸し、漢代には土・鉄・銅製の釜を甑と組合わせて使用したが、唐代には鍋が煮炊具の主流となる。(木下正)(145頁)
 三好玄「古墳暦と食膳」一瀬和夫・福永伸哉・北条芳隆編『古墳時代の考古学6 人々の暮らしと社会』(同成社、2013年)。
 [大阪府蔀屋北遺跡においては、]煮炊具として古墳時代前期以来の球胴甕に加えて、多くの韓式系土器が出土しており、それらのなかには長胴甕、甑、中国の明器に見るような二連式のものを含む移動式カマド、小型平底鉢といった布留式土器の組成にはない器種が多く含まれている(図1[大阪府教育委員会『蔀屋北遺跡機2010年])。また、多くの竪穴建物に造り付けカマドがともなう。大庭重信らの使用痕分析によれば、球胴甕では、主に炊く調理がなされたのに対し、韓式土器の長胴甕および甑では、蒸す調理が行われたという(大庭ほか2006[大庭重信・杉山拓己・中久保辰夫「スス・コゲからみた長原遺跡古墳時代中期の煮炊具の使用法―小型鍋(平底鍋)を中心に―」『大阪歴史博物館研究紀要』第5号、2006年]。弥生時代の有孔鉢が甑であるか否かについては、議論のあるところだが、少なくとも古墳時代前期にこれに該当する器種はなく、中期における甑およびカマドの普及が食膳に与えた影響はきわめて大きなものであったと考えられる。(75頁)

 以上見てきたところから、大陸における竈使いが、竈・釜・甑のセットであるのに対し、本邦では、竈・甕・甑にすり替わっている。(朝鮮半島での仕様が、地域によって竃・長胴甕・甑であったこととその中国から、また、列島への伝播については、庄田慎矢「蒸し調理伝来―東アジアと日本―」奈良文化財研究所編『文化財論叢検戞米曳行、2012年)を参照されたい。)甕を支える支柱や、嵌め殺しの粘土固めの行なわれていた点から、明らかに仕様が異なっている。半島での調理の仕方を見ると、尹瑞石、佐々木道雄訳『韓国食生活文化の歴史』(明石書店、2005年)に、

 韓国では紀元前四世紀頃に、中国の鉄器文化を導入することによって鉄器文化が始まったが、それ以前にはかなり発達した青銅技術を持っていた。亜鉛や青銅の優れた合金技術が、新羅や高麗に続き朝鮮朝時代まで引き継がれ、「高麗銅」と呼ばれる名産品になった。この合金技術は、中国のものとは異なる特殊なものである。この優れた合金技術があるところに鉄器文化が入ってきた。加えて慶尚南道一帯から鉄が生産されたことで、鉄の冶金・加工技術がいっそう伸長した。こうした状況から、鉄製農具が広く用いられ、厨房用具が早くから普及するようになった。この鉄製厨房用具の普及は、食生活文化を高度に伸ばす要件となった。『三国遺事』“真定師孝善双美”に、鋳鉄釜が一般化されたことを教えてくれる次のような話しがある。「法師の真定(シンジョン)は新羅人であった。家が貧しくて妻も娶らず、賦役の合間に労力を売ってやもめの母を養っていた。家の財産には脚の折れた釜が一つあるだけだった。ある日、僧が戸口に来て、寺を建てるための鉄物を布施に求めたので、真定の母は釜を与えた。しばらくして真定が帰ってくると、母がそのわけを話し、子の気持ちを探った。真定はうれしそうな顔をしながら“仏事に布施することはどんなに良いことでしょう。たとえ釜がなくてもかまいません”と言って、釜に代えて素焼きの陶器で料理を煮て、母に食べさせた。」真定は新羅の名僧・義湘(ウィサン)の弟子になった法僧で、七世紀の人である。この話では、彼が仏門に入る前の家がひどく貧しく、鉄製品としては脚の折れた鋳鉄釜が一つあるだけで、これが飯を炊く平素の道具であったことがわかる。このように、この時期にすでに、鉄製の釜が飯を炊くための基本用具として、きわめて一般的なものであった。それ以降最近に至るまで、韓国の厨房の基本用具は鋳鉄釜であった。鋳鉄釜は蓋が密着するように作られているので、飯を炊くときの水分の蒸発が少なく、とてもおいしく炊くことができる。(276〜277頁)
 ……韓国は鉄の生産と鉄製用具の製作技術が早くから発達して、三国時代後期頃には鋳鉄釜……が一般に普及した。こうして、早くから鋳鉄釜を用いて、腰があり艶やかな飯を炊くことができた。(284頁)

などとある。
 日本の文献資料としては、三宝絵・中に、「七大寺、古は室に釜・甑を置かず」、更級日記に、「いなや心も知らぬ人を宿し奉りて、釜ばしも引き抜かれなば、いかにすべきぞと思て、え寝でまはり歩くぞかし」とある。竈が導入された当初の古墳時代、ならびに記紀の書かれた飛鳥時代に、釜について記録が残されていない。筆者は、本稿で、その理由が、釜をそのままの羽(鍔)によって落ちずに煙のも逃がさない物として受け入れずに、甕で代用したことによるのではないかと論考している。その技術的要因は、第一に、鉄素材が乏しく、鉄器として渡来人によってもたらされた釜が、もったないからと土器の甕を据え付けることで対応したこと、第二に、鉄鍛造技術は優れていたが鋳造技術がさほど根づいていなかった可能性があって、それは製鉄技術が未発達であったことと相俟って自ら進んで鋳造製作しなかったのではないかと思われること、第三に、原理的に構わないと知れば、土器によって代用し、何も鍔をつけた形態にこだわることなく、竈に湯沸し用の甕を置くために支脚を設けたり粘土で隙間を塞いでしまうことで十分に役に立ったことによると考えられる。第四に、翻って考えるならば、鉄の鍋釜を使わずに土器を使っていた点は、古代日本の文化の特徴であると言える。多くの民族が最初の容器として瓢箪を使っていたのに対して、先んじて土器であったことと何らかのつながりがあるのかもしれない。さらに随筆的感想としては、その文化的伝統が、後々の茶の湯の美意識において土くさい器を志向した点につながっているものかもしれない。
 すなわち、列島において鉄器とは、鍛造製の剣や甲冑の類であった。朝岡康二、前掲書に、

 考古学の研究結果によると、日本列島に鉄器がもたらされたのは弥生時代で、青銅器とほぼ同時期に伝来したものらしい。しかし、この場合の鉄器とは、青銅器が「鋳造」によるものであったのに対して、「鍛造」によるものに限られていた。すなわち、当時の鉄器は「鍛冶屋」が作るものであった、ということになる。したがって、ここで問題にする鋳造鉄器、「鉄鋳物師」による製品はそれよりもはるかに遅れて伝えられたものである。古い時代にも鋳造鉄器の出土例がいくらかあるようだが、それは日本で鋳造されたものではなく、大陸で作られたものが舶来したのではないかと考えられる。考古学で鉄器鋳造技術の伝来がいつごろに想定されているのか私は知らないが、先行する青銅器鋳造技術に重なって奈良時代あたりから実用されるようになったものと推測できる。(23頁)
 韓国は日本に比べて、はるかに早い段階で鉄器文化に入った。なかでも、鉄鋳造については相当の時間的な落差があったように思われる。韓国の場合、三国時代の遺跡からすでに、現代のものとほとんど変わらない鉄の湯釜が出土しているのである。(119頁)

と述べられている。舶来しても使われなかったらしい。そして、当時の遺跡から鉄鋳造品である鉄の釜、鍑は出土してもみな伝来品とされている。ヤマトの人たちには、鉄器=鍛造品の武具や馬具という想念があって、渡来する鍋・釜は土器で代用できるから、もったいない鉄器は鉄素材としてリサイクルしてしまおうという鍛冶屋勢力の強かったことも理解されよう。鉄斧などは農具として使われたばかりでなく、愛玩されたという説もある。鉄釜も鑑賞用だったのであろうか。日本では、青銅器時代と鉄器時代が同時に起るだけでなく、鉄器時代の隆盛と同時に須恵器や瓦といった窯業技術も流入しており、安くて済むものはそうしようという発想が起こっても何ら不思議ではないように思われる。より正しさを求めるなら、文化の違いであると言われている。技術的に可能であるかどうかではなく、文化にないものは作らないということである。南部鉄器まで俟つということらしい。本ブログ「江田船山古墳大刀銘を読む」を参照されたい。
鉄斧(山梨県甲府市大丸山古墳出土、古墳時代、4世紀、東博展示品)
(注5)釜の蓋については木とは限らなかった点、反りを防ぐために太い摘み部分をつけたとの意見、縁べりのない蓋のある点など、さまざまな問題が残されており、議論も錯綜していて筆者の理解できる範囲を超えており、記紀万葉とのつながりも今のところ見出せないため深入りしないことにする。
(注6)池田博明編『クモの巣と網の不思議―多様な網とクモの面白い生活』(文葉社、2003年)に、「閉こしき closed hub」、「開こしき open hub」、「無こしき no hub」といった類型化が行われている。網の張り替えについても同書に負っている。
(注7)東博の解説板につづいて、「横穴式石室から出土する竈(かまど)形土器をはじめとする小型の炊飯具形土器は、葬送儀礼における食物供献儀礼を示すと考えられています。8世紀の『記紀』には、死者が『黄泉戸喫(よもつへぐひ)』を行うと冥界に留まらなければならないとする神話がみえ、これらの土器群との関係を説く見方もあります」とある。英語表記は正しいが、記紀を素直に読んで、桃の実や筍の出てくる「黄泉国」はそのまま死後の世界を表していると言い切れるのか疑問である。ミニチュア埴輪を墳墓のなかに置き、死者に対して黄泉戸喫をしなさいよ、2度とこの世へは戻って来ないでくださいね、という葬り方をしたと推定する考え方まで考古学会では“考えられている”。はたして、人が弔うという精神上の営みは生まれるのであろうか。死や死後の世界についての観念は、時代とともに大きく変わるものではあるものの、あの世でも困らないようにと副葬したと考えるほうが無難に思われる。現世と死後世界との峻別に力点を置いたとする考え方は、むしろ近代以降、とくに現代において、科学的思考によって死後世界は存在しない、いわゆる死を隠蔽する傾向によっているのではないかと考える。横穴式石室と黄泉国とを関連づける見解は、一つの説に過ぎないので、博物館の表記には、「副葬品のおもちゃ竈」とだけ提示して頂けることを希望する。古代の精神史については、モノだけではなく、言葉への詳細なアプローチが欠かせないからである。
(注8)魏志倭人伝に、喪中の期間、「他人は歌舞・飲酒す」とある。また、集りは無礼講で、「人性酒を嗜む」とある。そして、跪いて拝する相手というのは、長生きの人で、百年近くも生きるといっている。これがどんな酒であったか、正確なところはわからない。大隅風土記逸文に、酒の醸造法についての記述がある。「一家に水と米とを設(まう)けて、村に告げて回(めぐ)らせば、男女一所(ひとところ)に集りて、米を嚼みて、酒槽(さかぶね)に吐き入れて、散々(ちりぢり)に帰りぬ。酒の香(か)の出でくるとき、又集りて、嚼みて吐き入れし人等(ひとども)、これを飲む。名づけて口嚼(くちか)みの酒と云ふと、云々」とある。噛んでは吐いてできたのが酒であった。これは、粢(しとぎ)を材料にした神酒ではないかとされている。粢とは、水に浸した米を臼で潰してできた粉を丸め固めたものである。今日も各地で神饌にされており、神酒を作ったと口伝されている神社も残っている。これがもともとの一夜酒であったらしい。
 穀物酒は、澱粉を糖に変え、さらにアルコール発酵させてできる。唾液にはアミラーゼが含まれるから糖化し、酵母があればアルコールになる。糖化剤としては、古くから米を発芽させた糵(ゲツ)という芽米が利用された。糵は和名抄に「よねのもやし」とある。これを使って醴酒(レイシュ)を作った。応神紀には、吉野の国樔人(くずひと)が来朝したときの様子が記されている。

 時に国樔人来朝(まう)けり。因りて醴酒(こさけ)を以て、天皇に献りて、歌(うたよみ)して曰(まを)さく、
  橿(かし)の生(ふ)に 横臼(よくす)を作り 横臼に 醸(か)める大御酒(おほみき) うまらに 聞(きこ)し持ち食(を)せ まろが父(ち)(紀三九)
 歌既に訖(をは)りて、則ち口を打ちて仰ぎて笑ふ。今国樔(くずひと)土毛(くにつもの)献る日に、歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ笑ふは、蓋し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。(応神紀十九年十月条)

とある。そのあとは、未開の人々の暮らしぶりが紹介されている。記には、「国主等(くずども)」とあり、延喜式には「国栖(くず)」とあって、大嘗祭で古風を奏することになっている。
 なお、石毛直道『飲食文化論文集』(清水弘文堂書房、2009年)には、「日本への稲作の伝来はただ一度の出来事ではなく、長江下流地域や朝鮮半島南部からの、何度もくりかえした移民の波にともなって導入されたものである。……酒器などの出土例から、長江下流域では新石器時代から酒造がなされている。歴史時代から現在にいたるまで、稲作地帯である長江下流域ではコメを原料として酒をつくってきた。したがって、日本や朝鮮半島南部には、稲作と一緒にコメのバラコウジを使用する酒造技術が長江下流域から伝来したと推定される。……この稲作文化にともなう酒つくりが、現在につながる日本酒のルーツであると考える。『大隅國風土記逸文』にあらわれる口嚙み酒が日本におけるコメを原料とする最初の酒であり、のちの時代になってバラコウジを利用する技術が適用されるようになったと考えることもできよう。それは、単純な技術を古い時代に、複雑な技術をあたらしい時代に位置づける考えかたであって、一見自然な発想であるようにみえる。しかしながら、日本に稲作が導入された時期における中国や朝鮮半島における稲作地帯での酒つくりが、口噛み酒の段階にあったとは考えづらい。稲作にともなって、バラコウジで酒を作る技術が最初から日本に伝えられたものと考えるべきであろう」(313頁)とあり、技術的に複雑であることと歴史的に経過していることとを短絡的に結び付けることは慎むべきことが指摘されている。
(注9)外山政子「群馬県地域の土師器甑について」㈶群馬県埋蔵文化財調査事業団編『研究紀要』6(同発行、1989年3月)に、「甑が盛行する時期や出土状況は東日本という単位で同一の様相がとらえられるようで、その背景を考える上で重要である。甑の盛行時期には米を常食とできたのか、米を蒸したとしてその米は『うるち』なのか『もち』なのか、問題は多い。いずれもすぐには答えが出せないが、現在栽培されている陸稲はほとんど『もち』種であるという事実は参考に出来ないか。古墳時代中期から後期にかけて、東日本では新しい灌漑技術の導入による水田の耕作地拡大がおこなわれたとされている。群馬県地域では集落立地が沖積地近辺から台地内部へ変化していく過程と、生産域の拡大を明確に分析した見解が示め[ママ]されている(注43)[小島敦子「初期農耕集落の立地条件とその背景」「群馬県史研究」24 ]群馬県史編纂委員会1986/10]。私は、水田耕作地の拡大とともに稲作指向がさらに強まり、畠作にも技術的革新がおよび、陸田が拡大し、その基盤の上にさらに水田の拡大があると予測したい。推測に推測を重ねることになるが、陸田で栽培された陸稲が『もち』種であったとはいえないだろうか」(112頁)といった仮説も立てられている。(つづく)
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コノハナノサクヤビメ考 其の二

2016年03月24日 | 論文
承前
 羽釜のように歯が出ていて、あるいは唾を飛ばすような女性は、醜女である。石長比売とは、この羽釜を表している。大山津見神は、羽釜は便利だからと授けようとした。朝鮮半島と日本列島での釜の違いの一つに、大きく括って蓋が鉄か木かの違いがある(注5)。木の蓋をして釜を使う用途は、何よりも炊飯である。佐原真『食の考古学』(東京大学出版会、1996年)に、次のようにある。

 いま、実在する考古資料からいえることは、弥生時代以来、古墳・奈良・平安時代を通して、煮炊きの主流が直接的な煮炊き、米でいえば姫飯をたくことが一般的であって、米を蒸すこと、つまり強飯を作ることは、それにくらべて頻度が少なかった公算が大きいということまでである。炊飯と蒸飯の違いは、日常のケの煮炊きと、祭儀と係わるハレの煮炊きと関連するだろう。現在でも、米を蒸すのは、餅・赤飯など祝いごとの際にである。酒を造るためにも米を蒸す。酒作りもまた、かつては、祭りに際しておこなった。東日本の一部のある期間を例外として古代以来、人びとは、常日頃は米を直接煮て食べ、祭りには蒸した、という理解で大過ない、と思う。……東日本では、毎日、糯(もちごめ)を蒸して食べ、西日本では毎日粳(うるち)を炊いて食べ、祭りのとき―酒造り、お赤飯、餅―には蒸していた、と想像できる。……そうすると、山上憶良の「貧窮問答歌」に、貧しくて米なく、甑(こしき)(蒸器)にクモの巣が張る、とあるのは、ろくに米の飯も食べられない、という意味ではなく、祭りにも酒米が蒸せずに酒が飲めない、というなげきかもしれない。(102頁)

とある。民俗的には、列島のなかで、東日本では鍋と囲炉裏が一般的であったが、西日本では釜と竈が重用されることになったとされる。この文化的差異がなぜ生じたかについて、歴史的経緯ばかりか気候や住居形態、家畜との関係も視野に入れつつ理解されなければならないであろう。その際に、コメの品種にも注意しなければならないということらしい。ここでは、木花之佐久夜毘売と石長比売について考慮しており、古代における煮炊き具の画期としての竈出現に絞って考察したい。記紀の説話のなかで、稲穂の神さまとされる番能邇邇芸命は石長比売こと羽釜の将来を断った。「返し送り」ている。そして、「兄弟(はらから)」のうち、コノハナノサクヤビメだけを「留めて」いる。
 木花之佐久夜毘売という名義の、木の花のように見えるけれどそうではないものとは、木の枝に張られた蜘蛛の巣(網(い))のことであろう。錯覚で木の花かと思うが、まさか花ではない、ご冗談でしょうと呼べるものである。蜘蛛の巣は放射線と同心円のような渦巻きからできている。オニグモ類やコガネグモ類は、巣を張った最後に中心部分の糸をかみ切り、穴を開け、その後再びそこに糸を張り直して閉じている。張ったばかりの円網の糸の張力を補正しているのではないかという。できあがった姿は、ちょうど車輪のようで、その真ん中の糸の円は車輪のハブ、轂(こしき)のようである。そこで、このような蜘蛛の巣のことはコシキ型と呼んでいる(注6)。特に軒端にいるオニグモ類は、毎晩網を張り替えている。夕方や明け方に旧糸を食べて網をたたみ、続けて新しい網を張っていく。子どもたちはこの巣を竹棒につけた輪にとって、小さな昆虫を捕まえるのに使った。
轂図(寺島良安編・和漢三才図会刊行委員会編『和漢三才図会 上』東京美術、昭和45年、406頁より)
轂図(片輪車螺鈿手箱より。鎌倉時代、13世紀、東博展示品)
 車輪のつくりとしては、轂にシャーシ、輻(や)が集って車輪を支え、真ん中を車軸が貫いてそれと轂とを轄(たが)でとめて回転することになる。轂に輻を嵌めていくことは、上述した言葉「矧(は)く」ことに類似している。轂こそ、車体と車輪とを接合させる基幹である。その轂という語は、「炊飯具のコシキとの形の類似からつけられた名か」(『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1990年、292頁)とされており、甑のほうは、「コシキの語は炊(カシ)キからできたといわれる」(同書、同頁)とされている。いずれの語もコは乙類、キは甲類であるが、どちらの語が先なのか、また、土師器の甑の穴は適当につけられており、車の轂と形が似ていて言葉が醸成されたと言い切れるのか、筆者には判断できない。上に見たように、甑は土器製の米などを蒸す道具である。左右に把手の付いた円い鉢形の土器で、底に穴が開いており、そこから蒸気が上がってくるようになっている。藁などを使った簀を敷き、その上に布を敷いて食物をくるむなどして蒸した。稲穂の神さまはこの甑と一夜を共にしたという話が構成されている。一夜で畳まれるオニグモのコシキ型の網の話である。
 東日本に典型的に見られる古墳時代の調理法では、蒸気の発生源に、竈に甕を据えて隙間を土で埋めて固定し、その上に甑を重ねたと考えられている。甕付き竈・甑のセットで蒸す調理が行われていた。延喜式に、「贄土師……竈二口、高一尺五寸。竈子十口、受一斗。甑十口、受六升」とある。竈子(かまこ)とは、蒸気発生源となる水を入れて湯を沸かす釜を指している。カマド、カマコ、コシキの三つが一体となって蒸している。甕が竈子(釜)に代わって竃と分離し、「竈子」が生れている。延喜式の記述は、おそらく、移動式カマドでの様子を指し示すものなのであろう。その様子を示すものは、古墳からミニチュア埴輪がたくさんの事例をもって出土している。
「黄泉国(よみのくに)の炊飯具(すいはんぐ)(Cooking Tools to be Used after Death(Models))」(小型置カマド・小型羽釜・小型甑、奈良県葛城市笛吹遊ケ岡出土、古墳時代、6世紀、奈良県葛城市笛吹遊ケ岡出土、東博展示品(注7)
 蒸し器のうち木製のコシキは、特に、橧と書かれ、水を入れた釜や甕の上に載せられた。蒸籠の原型といえる。播磨風土記に、「国占めましし神、此処(ここ)に炊(いひかし)きたまひき。故、飯戸阜(いひべをか)と曰ふ。阜の形も橧・箕(み)・竈(かまど)等(ども)に似たり」とある。法隆寺伽藍縁起并流記資材帳には、「橧参口 一口径三尺五寸・高三尺五寸、二口各径一尺三寸・高二尺一寸」とあり、大型のものは醸造用に大量に蒸したものではなかったかと指摘されている。木花之佐久夜毘売の名は「亦の名」で、記に、「神阿多都比売(かむあたつひめ)」とある。紀ではさらに詳しく、「神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)」(神代紀第九段一書第二)とある。熱く炊くことを暗示しているのであろう。また、塔などの一つ一つの層のことをコシ(コは乙類)といい、最下層の差掛は特に裳層(もこし)という。フェイク・ルーフを形成している。すなわち、層状に重なっているものをコシと呼んでいる。何層にも重ねた蒸籠は、コシキと呼ぶにふさわしく、土器製の甑は穴が開いていて水が溜まらない点で、似非甕である。オソ(遅・鈍)―アサ(浅)―エセ(似非)の母音交替については上に見た。
甑(奈良県御所市南郷遺跡群出土、古墳時代中期、5世紀、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
蒸籠(川崎市立日本民家園にて)
 白川、前掲『字訓』の「こしき〔甑〕」の項に、「甑(そう)は曾(そう)声。曾はこしきの形で甑の初文。瓦は土器であることを示す限定符である。〔新撰字鏡〕に見える橧は、木製のこしきの意であろう。〔和名抄〕には、甑を木器の部に属している。〔説文〕一二下に「甗(こしき)なり」とあり、青銅器の自名の器には獻(甗(げん))の字を用いている。殷周(いんしゅう)の遺器が多い。〔周礼(しゅらい)・陶人(とうじん)〕にその器制のことをしるしているから、日用の器は土器であったのであろう。曾の字の最下部は湯をわかす釜の部分、その上が米などを入れるこしきの部分、上部は湯気のさかんに洩れる形である。重ねる器であるから増(ぞう)・層(そう)の意となり、また甑の字が作られたのである」(326頁)とある。木製のコシキは、蒸籠の一種である。井桁状のものばかりでなく、曲げ物で作られたことも推測される。
饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11〜10世紀、東博展示品、坂本キク氏寄贈)
釜・甑(青銅製、中国、後漢時代、1〜2世紀、東博展示品)
釜や蒸籠をかけた竈(中国山東省出土画像石、後漢、1〜2世紀、東博展示品)
 佐原先生のご指摘に、米を蒸すのは酒造りのためでもあったとされていた。では、米は蒸されてどのように酒が造られたのであろうか。本邦の古代における酒造法については、なお不明な点が多い。上田誠之助『日本酒の起源;カビ・麴・酒の系譜』(八坂書房、1999年)には、次のように概説され、実験による検証が行われている。少し長くなるが引用する。

 ……紀元前三世紀頃までの醴酒(一夜酒)は縄文人、弥生人による口嚙み酒であって、紀元三、四世紀、百済などからの渡来人の来日が盛んな時代になってから、醴酒(一夜酒)は糵(芽米)を糖化剤にしたものにかわっていったと思われる。ところが、紀元八五九年ないし八七七年頃に書かれた、日本の酒づくりの古典ともいえる『令集解』の「造酒司」の項には、
 正一人。掌醸酒。醴。謂醴甜酒。…古記云。醴甘酒。多麴少米作。一宿熟也。
とあって、この場合の麴は明らかに米バラ麴である。なぜなら、……この麴が餅麴なら、その中に繁殖している酵母やカビがアルコール発酵するので、麴の量が多くなればなるほど、甘みの少ない、アルコール濃度の高い、辛い酒になるはずである。ところが、ここには「麴が多いと甘くなる」とあるので、この麴は中国系や朝鮮系の米餅麴ではなく、米バラ麴である。それゆえ、紀元三、四世紀頃、朝鮮からの渡来人によって、糵による醴や餅麴によるカビ酒(麴酒)の技術が導入されたと仮定すると、紀元九世紀までの間に、糵の意味が芽米から米バラ麴へかわった可能性が考えられる。『令集解』についで、紀元九〇五年ないし九二七年にあらわされた『延喜式』の酒づくりの個所では、いくつもの糵の字があらわれ、「よねのもやし」と振りがなが付してある。しかし、この糵は中国での穀芽や芽米など穀物の種子の発芽したものを意味する糵とはまったく異なり、米バラ麴のことである。というのは、『延喜式』の中の糵では、そのつくり方のところに、蒸米に一〇パーセントの糵を加えて、糵をつくるとあって、この場合には、糵が蒸米に麴菌を繁殖させるための種麴のようなものでないと、米と糵から糵はできない。すなわち、『延喜式』にいう糵は米バラ麴に他ならないのである。つまり、紀元四〜五世紀頃、百済などから導入された糵製造法では、籾を発芽させてつくられていた糵が、一〇世紀の頃には、黄麴菌が繁殖した米バラ麴にかわったものと思われる。……糵はもともと芽米であったのが、実際の芽米づくりでは、数百年の過程の間に、麴菌による汚染が起こり、それが一度起きると、糵づくりの室の中には麴菌の胞子が充満し、次回の糵づくりでは、麴菌の汚染がさらにひどくなる。そして、糵づくりが麴菌汚染芽米づくり、ついには、麴菌汚染蒸米、すなわち、米バラ麴づくりへと変遷したものではないかと推理される。(108〜111頁)

 古事記のまとめられたとき、どのような酒造法であったかは不明ながら、麹菌による醗酵が行われていた可能性は高い(注8)。麹による酒造のために、米が蒸され、そのために湯が沸かされ、竈に火が熾されていた。和名抄に、「麹 釈名に云はく、麹〈音菊、加无太知(かむたち)〉は朽つ也、之れを鬱し衣に生え使めば朽ち敗る也といふ」、「糵 説文に云はく、糵〈魚列反、與弥乃毛夜之(よねのもやし)〉は牙米也といふ。本草に云はく、糵は米味苦く毒無し、又麦糵有るかといふ」とある。カムタチという語については、中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典第一巻』(角川書店、昭和57年)に、「『糟捌斛(正倉院文書・天平九年・但馬国正税帳)』の『糟』の字の傍訓『加末多知』が同じものをさすとすれば、さらに古くは『かまたち』と称したらしい」(682頁)とある。孤例ではあるが、そう仮定できるのであれば、それは、カマ(釜)+タチ(立)のこと、竈に釜をかけて甑を立てて米を蒸すことをも含意する語であったのかもしれない。
 考古学の知見によれば、5世紀前半、朝鮮半島南部の人たちによって、須恵器、移動式の竈、大型の蒸し器である甑が同時期に入ってきたと推測されている。北九州での出土が多い。列島では、甑は土師器で作られることが多くなっていった。また、出土する蒸し器(甑)の数と、直接火にかけて煮る器(鍋・釜)の数では、圧倒的に後者が多いという。そのうえ、それ以前の弥生土器からは、ご飯の焦げついた痕がたくさん報告されている。どうやら、この列島では米食のはじめは煮て食べた、すなわち、姫飯(ひめいい)であったらしく、その後も煮て食べるのが主流であったらしい。そんななか、番能邇邇芸命が甑を好んだ。佐原先生ご指摘のとおり、現在でも正月には餅を食べるように、祭事や儀式においては、糯米を蒸して食べた、すなわち、強飯(こわいい)であったのであろう。天孫降臨の話は、稲作農耕の伝来そのままを伝える話ではない。甑が到来して蒸す調理が行われるようになったこと、それが米を原料にした酒づくりの画期であったと伝えているのであろう(注9)
 番能邇邇芸命は依怙贔屓した。そこで、大山津見神は呪詛の言葉を投げかけている。石長比売を使ったら、天つ神の御子の命は石のように不動であろうし、木花之佐久夜比売を使ったら、木の花のように栄えるであろうと誓約(うけい)をして差し上げた。それなのに、「此、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留むるが故に、天神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」、だから、今日まで、天皇たちの命は長くはないのだ、と言っている。ここから、「誓(うけひ)」はすぐに「詛(とごひ)」へと転化する。言霊信仰に従うと、言ったことがそのまま事柄になり、片方だけ「使」ったから片方だけ事実になり、大山津見神の願った充足は得られないということになる。栄えはするが、いつも堅牢ということはなくなってしまった。記に、「白(まを)し送りて言ひしく」としている箇所の、神代紀第九段一書第二の該当箇所には、「磐長姫」の「詛ひて曰く」として語られている。呪詛の言葉としては、記では、海幸・山幸の物語や秋山之下氷壮夫・春山之霞壮夫の物語に記されている。いずれも兄弟間の争いに関わっている。呪詛の言葉は大げさで、曰くありげで、意味深長である。言霊信仰で、言が事となるとき、どのように現実化するかは、先に言葉に表した際、どのように意図したかに係っている。
 さて、アマヒノミの語義の探索に戻ろう。「あまひ」に似て非なることばに「笑(ゑまひ)」がある。木花が咲くとあったから、笑むことと関係があるのであろう。花が咲くことは、中国では開の字を使うのがもっぱらで、古く笑の字も見られる。一方、本邦では開、咲の字を用いる。万葉集では、開が93例、咲が66例ある。「道の辺(へ)の 草深百合(くさふかゆり)の 花咲(ゑ)みに 咲(ゑま)ひしからに 妻と云ふべしや(道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也)」(万1257)とあるのは、咲の字を、開花と笑顔の両用に使ったものである。中国で咲の字はわらうことにのみ用いる。本来、咲は笑の異文で、「笑」字は、「巫女が手をあげ、首を傾けて舞う形」(白川静『字通』平凡社、1996年、797頁)を表している。
 「笑まひ」は笑みに反復・継続の接尾語が付いた形である。雄略紀二年十月条に、「朕(われ)、豈(あに)汝(いまし)が妍咲(よきゑまひ)を覩(み)まく欲(ほ)りせじや」とある。「豈……や」は反語の形で、文末のヤの用法の一例である。万葉集には、「咲比(ゑまひ)」(万478)、「咲儛(ゑまひ)」(万718)、「恵麻比(ゑまひ)」(万804、万4011)、「咲(ゑまひ)」(万3137)、「恵末比(ゑまひ)」(万4114)とある。「笑(ゑみ)」は、顔が花やかににこやかにほころぶことである。「笑(わらひ)」は口を開け、声を出して哄笑することである。紀には、雄略天皇や蘇我入鹿の豪快な笑い声が記されている。石長比売は大口を開けて歯茎まで見せて笑うブスなのであろう。羽釜にはハがあり、ごとごとぐつぐつと音を立てていた。カム(噛)からカマ(釜)、カマシ(囂)からカマ(釜)、というなぞなぞ的語義形成の正当化も可能である。その対が甑である。蜘蛛が轂のような蜘蛛の「網(い)」を編むことは、歯も音もない。「笑まひ」の際には歯が見えず、音を立てることもない。それを「あまひ」と造語した模様である。甘いものを口に入れると力が抜け、ゆるんでいく感じがする。現代人の顔に顎が退化する傾向があるのは、食べ物が柔らかく加工され、噛まなくて済むからである。コノハナノサクヤビメ化して短命に終わる兆候かもしれない。
 蜘蛛の網に関連して、海人(あま)が魚を掬い上げる網は、持網(もちあみ)という。四手網(よつであみ)もそのひとつで、罾と書く。甑の字にも見られた曾(曽)の形があらわれている。万葉集に見える「小網(さで)」(万1717)のことも、和名抄に、「纚 文選注に云はく、纚〈所買反、師説に佐天(さで)〉は、網、箕の形の如し、後ろに狭く、前を広げる者也といふ」とあって、四手網のひとつのようである。海人が舞うように持網をふるうことと、アマヒという語は関連させて考えられているのであろう。
 「あまひ」は尼とも関係があろう。尼は女の僧である。斎宮忌詞に尼のことを「女髪長(をみなかみなが)」という。アマヒという語を尼が舞うことと関連すると仮定すれば、髪長の舞である。巫女のことはカムナギ、男の巫は覡(をとこかむなぎ)といった。尼は、カムナギに似て非なるものである。実際の髪はおかっぱ風で、途中で切れている。「あまひ」に当たる箇所は、神代紀第九段一書第二に、「如」、「有如」とある。古訓にアマヒニとあるものの、語義未詳のためか、図書寮本南北朝期点や兼方本などの傍訓は記を見てつけた可能性が高いとされている。それを言い出すと今日常識的な訓と思われているものもすべてカンニングしたということになり兼ねない。如の字は、「巫女が祝禱を前にして祈る形」(白川、前掲『字通』、780頁)とされている。巫女の祈りの動作は、舞うような素振りを見せる。神と一体になり、神が憑りつく意である。アル(有)+マヒ(如≒舞)(ヒは甲類)=アマヒ(阿摩比)(ヒは甲類)である。意を汲んだ字の用い方になっている。
 用字の「如」は、説文に、「如 従随也。女に从ひ口に从ふ」とある。ゴトシとは、……のようである、の意である。……のようであるとは、……そのものではないけれども……にとてもよく似ているという意味である。それは、……にとてもよく似ているに過ぎないのであって、まったく同じかといえば違うものである。木花之佐久夜毘売の名が、木の花の咲くようでありながら実は違うのと同じ言い回しをするのに適った語である。木の花の咲いたかと見紛うが同じではなくて、蜘蛛の網であってコシキ型であった。となれば、紀に「如」、「有如」とある点についても、記からのカンニング訓ではなく、紀の記述者はきちんと字義(わかりやすく記せば「≒」の意)を考えて用いているものと考えられる。言語が論理学的に論理的すぎて、今日の人にはかえってわかりづらい用字となっている。等号(=)ではなく、不等号(≠)でもない(注10)
 「あまひ」に似て非なることばには「すまひ(ヒは甲類)」もある。住居の意は、礼記・礼運に、昔の住居として、「冬則ち営窟に居り、夏則ち橧巣に居る」とある。この橧は、木の枝や粗朶(そだ)を積み重ねてその上で住むようにした住居のことである。鳥の巣のようだから橧巣という。石長比売が「営窟」、木花佐久耶毘売は「橧巣」に当たるのであろう。そんな橧巣の状態のところに蒸気が上がれば、蒸籠、甑と同じことだとして、本邦では「橧」を木製の甑の意に当てた。よほど夏が暑かったらしい。そして、猟に利用する蜘蛛の巣は、槍や矢のように刃物で殺傷するでもなく、圧機(おし)のように音を立てるでもなく、ベタベタとくっつき絡まって逃れられなくなり動きが鈍くなって捕獲される。昆虫採集の網に使った仕組みは、鳥黐のそれと同じである。そして、橧巣に当たるような仮宮は、遷都の多かった古代宮都の様に似通っている。「天つ神御子の御寿」というのは比喩で、あるいは宮都は華やかではあるが永続年数の短いことを譬えたものかもしれない。
 「天神の御子の御寿」、「天皇命等の御命」(記上)について語られている。イノチという言葉は、白川、前掲『字訓』に、「『生(い)の霊(ち)』の意であろう。『い』は『生き』『息吹(いぶ)き』の『い』。生命の直接的なあかしの息吹きを以て、生命の義とする。それは各民族語の間で共通する観念で、spirit や animal は、みな『いきするもの』を意味した。『いき』がつづくことを〔万葉〕に『いきのを』という。ノは乙類」(125頁)、土橋、前掲書に、「今日の生命観では、イノチは存在するか、しないか、長いか短いか、という形で観念されていて、完全か不完全かという形では考えられていない。……[記31歌謡]の『命の全けむ人』は、イノチが完全な人という意味で、それは生命力の強い若者のことである。人間は年をとるにつれてイノチは次第に衰えて行き、その最後に死があるという生命観である。イノチの枕詞は『タマキハル』であるが、タマは霊魂、キハルは『霊』『玉切』と表記されていることからも分かるように、タマが磨り減り、消耗することで(『正字通』に『剋、損削也』とある)、生命というものは年が経つにつれて磨り減ってゆくものだという観念、つまり『命の全けむ人』と同じ観念である」(198頁)などとある。生命のことは、ヲ(緒、絃)ともいう。「己(おの)が命(を)を」(記22・万3535)とある。撚り合わせた繊維が一筋に続いていくからである。緒の丈夫なものは、縄である。楮(栲)の繊維を縒って丈夫な縄にする。「栲縄(たくなは)」は長いことの譬えとされ、記に「栲縄(たくなは)の千尋縄(ちひろなは)打ち延(は)へ」(記上)、紀に「千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐(ももむすびあまりやそむすび)にせむ」(神代紀第九段一書第二)などとある。枕詞に、「栲縄の」があり、「栲縄の 長き命を」(万217・704)、また、「水沫(みなわ)なす 微(いやし)き命も 栲縄の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ」(万902)とある。
 そんな命の形容語のタクナハに関連して、音の似たタケナハ(酣)という語がある。酒宴の席で盛り上がった最高潮時、ないし、それを少し過ぎた頃をいう。酒をのんで甘美にして楽しいときを指している。他方、夭折することは「夭(なかなは)」といい、縄が途中で切れることで表している。夭の字は、「人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう」(白川、前掲『字通』、1555頁)である。夭折とは命の腰折れ状態を言っている。夭は笑や咲の字にも入っており、途中で中断することを示唆している。
 天神の御子であれば天寿を全うするはずであるのに、夭折するとはどういうことか。それが、この説話の出発点であったのであろう。夭の字は天の字に似ている。しかし、天と違って少し首を傾けている。釜ならば鍔がついているから傾くことはないが、左右に耳(注11)が取って付けられただけの甑だと斜めになることがある。傾(かし)ぎながら炊(かし)いでいる。どうだろうかと首を傾けたのは、木の花が咲いたものなのかどうなのか怪しかったことに始まった。怪しい女は妖しい。妖しい女は科をつくって誘ってくる。科をつくると体は斜めになっている。シナは坂や階段をいい、層もシナと訓むのは、甑や塔の小屋根やスカートが斜めになっていることと関係するのであろう。パンチラは昔から気を引く所作であったらしい。
 お産のときのお呪いに、甑を落とす、甑をまろばかす、といわれる習俗がある。宮中では、産後のひだちがよいように、御殿の棟から甑を転がり落とした。皇子の場合は南へ、皇女の場合は北へ落としたという。コシキの音が腰気に通じるからとも、甑は蒸すもので産(む)すことに通じるからともいう(注12)。蒸気で蒸してシューシューいっている様が、ラマーズ法によったにせよお産の際の激しい息づかい、息の吐き方に似ていることも関係するのかもしれない。あるいは、産婦は息を思いっきり吐き出すのと同時に赤ん坊を産道から吐き出すのではなかろうか。無事に生まれてきた赤ん坊も、息を思いっきり吐き出してオギャーと産声をあげる。都合、3箇所で吐き出し切って新しい命は誕生する。その瞬間を際立たせるために相似した特徴を表現した儀礼が、甑落としではなかろうか。甑を竈から落して割れば、シューシューいう音はなくなる。お産の終了ということに譬えられよう。炊ぐ器が傾ぎきって転倒すること、まろばかされることである。なにしろ、前近代において人が命を最も落としやすいのは、出産の時であった。息を吐き出し切らせること、それを屋根から甑を落して仰々しく表したのではなかろうか。(つづく)

(補遺.2016.5.14)片輪車蒔絵螺鈿手箱(平安時代、12世紀、東博展示品。今回は、2016年7月18日(月)まで展示。)に見える、“描かれた轂”は、どうしても角度が不自然になることはさておき、すばらしいと思います。車輪を水に漬けることは、木組みの軋みを防ぐことから実際に行われていたらしく、そこから意匠がとられているといわれています。螺鈿で表したところに、木目のような刻み目を入れている車輪があったり、留め具の金具も車輪を象っていることから、車輪尽くし絵に徹していることがわかります。解説に、“手箱”と称されるが経箱であったろうと記されてありました。法輪水没して仏教伝来す、ということでしょうか。どこの誰から日本へ伝わったかというと、百済の聖明王からです。古朝鮮語に、「王」はコキシです。日本書紀の古訓に記されています。コキシからコシキが伝えられたのです。外国語であるコキシ(王)のコやキの甲乙は不明です。言葉として、車輪のように音が転がっています。経箱の図柄は、対馬海峡の想定かもしれません。
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ウケヒ考(コノハナノサクヤビメ考 其の四(注 其の一))他

2016年03月19日 | 論文
承前※便宜的に本文に注をさしはさんでいる。)
(注1)ウケヒについては、1つのテーマとして検討されるべき課題である。論考としては、須佐之男命(素戔嗚尊)と天照大御神(天照大神)の子生みのウケヒの場面を中心に多数論じられている。筆者は、ウケヒそのものについて論理学的に理解したため、それらの考究について特段に参考にしていない。ご叱責を賜われば幸いである。
 土橋寛『日本古代の呪禱と説話―土橋寛論文集 下―』(塙書房、平成元年)に、「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない『真実』(『神意』ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を『真実』なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、『もしAならば、A´ならむ』という形式は、『こう言えば、こうなる』という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを『真実』でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に『祈』『禱』などの漢字表記に惑わされたためである」(55〜56頁)と記されている。岩波書店の大系本日本書紀補注に、「神意の所在を判断すること」(ワイド版岩波文庫(一)、347頁)とあるのを批判されている。
 ウケヒの基本的な位置づけは、「こう言えば、こうなる」というのが“言霊信仰”とは言えないものの、ほぼその通りであろう。しかし、「スサノヲの尊の心が潔白(A)であるなら、生まれる子は男神(A´)であろう。スサノヲの尊の心が邪悪(B)であるなら、生まれる子は女神(B´)であろう」(土橋寛『日本語に探る古代信仰』中央公論社(中公文庫)、1990年、180頁)ということが、「男尊女卑の観念に基づくものであることは言うまでもない」(182頁)ことなのかどうか疑問である。そういった評価以前に、ウケヒが、「もしAならば、A´ならむ」ということは、「『もしAならば、A´である』『もしBならば、B´である』という形式をもつ二者択一的な言語呪術である」(山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年)ものなのかどうか、疑問である。論理学的に成り立たないからである。
 万葉集にある4例(万767・2433・2497・2589)のウケヒの語は、希望に反した結果を示しているだけで、実態まで把握できるものではない。記紀には、大山津見神の例以外、いくつかの例が載る。

 〜背嗚尊と天照大神の天真名井のウケヒ
 [素戔嗚尊]対へて曰はく、「請ふ、姉と共に誓(うけ)はむ。夫れ誓約(うけひ)の中に、誓約之中、此には宇気譬能美儺箇(うけひのみなか)と云ふ。必ず当に子を生むべし。如し吾が所生(う)めらむ、是女ならば、濁き心有りと以為(おもほ)せ。若し是男ならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。(神代紀第六段本文)
 ¬擴岾耶姫が出産する際のウケヒ
 木花開耶姫、甚だ慙恨(は)ぢて、乃ち無戸室(うつむろ)を作りて、誓(うけ)ひて曰く、「吾が所娠(はら)める、是れ若し他神(あたしかみ)の子ならば、必ず不幸(さいはひな)けむ。是れ実に天孫の子ならば、必ず当に全く生きたまへ」といひて、則ち其の室の中に入りて、火を以(つ)けて室を焚(や)く。(神代紀第九段一書第二)
 神武天皇の夢占のウケヒ
 天皇悪みたまひ、是夜、自ら祈(うけ)ひて寝ませり。夢に天神有して訓へまつりて曰はく、……(神武即位前紀戊午年九月条)
 つ悩津彦の行き過ぎるウケヒ
 時に、椎根津彦、乃ち祈(うけ)ひて曰く、「我が皇(きみ)、能く此の国を定めたまふべきものならば、行かむ路自づからに通れ。如し能はじとならば、賊(あた)必ず防禦(ふさ)がむ」といふ。言ひ訖りて径(ただ)に去ぬ。(神武即位前紀戊午年九月条)
 タ隻霤傾弔療群縞芯蠅硫槌櫃離Ε吋
 天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当(まさ)に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴(たがね)を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮らずして、坐ながらに天下を平(む)けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ。又祈ひて曰はく、「吾今当に厳瓮(いつへ)を以て、丹生之川(にふのかは)に沈めむ。如し魚大きなり小しと無く、悉に酔ひて流れむこと、譬へば福覆泙)の葉の浮き流るるが猶(ごと)くあらば、福∈,砲亘甬(まき)と云ふ。吾必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ爾らずは、終(はた)して成る所無けむ」とのたまひて、乃ち瓮(いつへ)を川に沈む。其の口、下に向けり。頃(しばらく)ありて、魚皆浮き出でて、水の随に噞喁(あぎと)ふ。(神武即位前紀戊午年九月条)
 λ槎驚厦袖じ羯劼里燭瓩僚弍聖嫁劼慮能試しのウケヒ
 故、曙立王(あけたつのみこ)に科(おほ)せて、宇気比(うけひ)白さしめしく、宇気比の三字は音を以てす。「此の大神を拝むに因りて、誠に験(しるし)有らば、是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺や、宇気比落ちよ」と如此(かく)詔ひし時に、其の鷺、地に堕ちて死にき。又、詔ひしく、「宇気比活きよ」とのりたまひき。爾くして、更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)を宇気比枯れしめ、亦、宇気比生かしめき。(垂仁記)
 Э眇療傾弔硫多輿遇のウケヒ
 天皇、茲(ここ)に、矛を執りて祈(うけ)ひて曰はく、「必ず其の佳人(かほよきをみな)に遇はば、道路(みち)に瑞(みつ)見えよ」とのたまふ。行宮(かりみや)に至ります比(ころほひ)に、大亀、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。忽に石に化為(な)りぬ。左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰はく、「此の物に因りて推(おしはか)るに、必ず験有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺(かにはたとべ)を喚して、後宮(うちつみや)に納(めしい)る。(垂仁紀三十四年三月条)
 ┠聞堙傾弔療效懃畭犲のウケヒ
 天皇祈(うけ)ひて曰はく、「朕、土蜘蛛(つちぐも)を滅ぼすこと得むとならば、将に茲(こ)の石を蹶(く)ゑむに、柏の葉(ひらで)の如くして挙れ」とのたまふ。因りて蹶(ふ)みたまふ。則ち柏の如くして大虚(おほぞら)に上りぬ。(景行紀十二年十月条)
 神功皇后の征西の志を固くするウケヒ
 是に、皇后、針を勾げて鉤(ち)を為(つく)り、粒(いひぼ)を取りて餌にして、裳の縷(いと)を抽取(と)りて緡(つりのを)にして、河の中の石(いそ)の上に登りて、鉤を投げて祈(うけ)ひて曰はく、「朕、西、財(たから)の国を求めむと欲す。若し事を成すこと有らば、河の魚(いを)鉤飲(く)へ」とのたまふ。因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚(あゆ)を獲つ。……皇后、橿日浦(かしひのうら)に還り詣りて、髪(みぐし)を解きて海に臨みて曰はく、「……是を以て、頭を海水に滌がしむ。若し験有らば、髪自づからに分れて両に為れ」とのたまふ。即ち海に入りて洗ぎたまふに、髪自づからに分れぬ。皇后、便ち髪を結分(あ)げたまひて、髻(みづら)にしたまふ。(神功摂政前紀仲哀九年四月条)
 麛坂・忍熊の二王が謀反を起こした時のウケヒ
 時に麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、共に菟餓野(とがの)に出でて、祈狩(うけひがり)して曰く、祈狩、此には于気比餓利(うけひがり)と云ふ。「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲む」といふ。二の王、各仮庪(さずき)に居します。赤き猪忽に出でて仮庪に登りて、麛坂王を咋ひて殺しつ。軍士(いくさびと)、悉(ふつく)に慄(お)づ。忍熊王、倉見別(くらみわけ)に謂りて曰く、「是の事、大きなる怪(しるまし)なり。此にしては敵を待つべからず」といふ。則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯(いは)む。(神功摂政元年二月条)

 ウケヒという語は、上に述べたように、ある事が起こるならその兆しがあると決めたことを予め言っておいて、その予兆をもとに本当かどうかを判断しようとしたものである。何のために占うかといえば、願い祈るからである。毎朝テレビで星占いをチェックして、その日の行動に若干反映させるといった安易なものではない。本来は、どうしよう? と困った時にするものである。しかし、実際は祈り願う占いなのだから、ウケヒと称していても、単なる祈りや単なる願いや単なる占いに変らないことが起こる。万葉集の例は単なる願いに、の「ウケヒ寝」は夢占に近いものであろう。また、い猟悩津彦のウケヒは、敵中を通過する時に自ら気合いを入れるために行われたものに思われる。そういう性格もウケヒは持っている。
 ,料背嗚尊のウケヒ中に必ず子どもを生んで、自分が生んだ子が女の子だったら濁い心があると思ってくれていい、男の子だったら清き心があると思って欲しい、という提題をしている。心の中などわからない。その分からないことをウケヒによって知れようとする素戔嗚尊の魂胆たるや、凄まじいトリックである。まんまと騙されてウケヒに付き合わされている天照大神も情けない。紀にはきちんとそれがウケヒそのものではないことが記されている。訓注に、「誓約之中、此云宇気譬能美儺箇」とある。ウケヒの最中と言っている。ウケヒとして言立てて、それから試してみて、結果が出て、ウケヒの言葉からしるしを判断をする。ところが、ウケヒノミナカということは、試している時、子生みをしているときもウケヒノミナカであるから、解釈は変更可能になる。試験の結果は出ているのに、合格ラインは決めていないのである。出来事の括り方、括弧のつけ方がそのままではなく、外から後からなされることに含みを残すごまかしがある。この「中」という添付語には、心の中に及んでいることを含意するものがあろう。女の子を生んだら濁い心がある、男の子を生んだら清い心がある、という断定ではなく、そう思ってくれればよい(「以為」)と言っている。心の中を探るのに、「以為」以上のものがあるかどうかは、完璧なモラリストどうし以外にはわからない。表情をよむということはあっても、自白の任意性、信憑性などなかなか定かならない。わからないことをわからない手段でわかろうと(わからせてあげようと)したのが、このウケヒノミナカのウケヒである。印象操作のマニピュレーター須佐之男命(素戔嗚尊)の詭弁に活用されている所以であり、記紀に異伝の多い結果にもつながっている。
 従来の、女の子→濁き心、男の子→清い心、といった表面をなぞった解釈は、役に立たない。土橋、『日本語に探る古代信仰』にあげる、「スサノヲの尊の心が潔白(A)であるなら、生まれる子は男神(A´)であろう。スサノヲの尊の心が邪悪(B)であるなら、生まれる子は女神(B´)であろう」は、条件文の仮定と結論とを取り違えた杜撰な読み方である。また、男でもない女でもないオネエはいないのか、潔白でも邪悪でもない凡夫のようなのばかりがふつうの人であって、一点の曇りもないはずはないのではなかろうか。
 △量擴岾耶姫の自分の子の素性を証明するためのウケヒは、「甚以慙恨」とあり、嘘偽りのないことをウケヒで表そうとしたものである。すなわち、疑う方が間違っていると訴えるための方便で、事実無根の疑いを晴らすために行っている。木花開耶姫の思うとおりに事が進むのは当たり前なのである。ウケヒという形式を借りた自己弁護である。今も昔も、あらぬ疑いをかけられた際、身の潔白を証明するほど難しく面倒くさいことはない。電車内の痴漢冤罪に対して、ウケヒで対抗できるのか筆者は知らない。
 イ凌隻霤傾弔離Ε吋劼砲弔い董∪錣錣困靴討療群縞芯蠅魑Г蝓奇妙な占いを実践している。水なしで泥団子(「飴」)を作ろうとしたり、素焼きの器を川に沈めて魚を中毒死させようとしている。これが呪術であるのか、土壌に詳しくて土の組成を熟知していることを語るのか、不明である。ウケヒとしてのみ考えても、泥団子はできたし魚は中毒死したが、天下平定という“結果”につながる話としては続いていない。それでも苦しい行軍の途上、希望の光を求めようとウケヒをした気持ちだけは伝わってくる。地質調査と神武天皇との関係については、稿を改めて論ずることとする。
 Δ僚賣王について、彼はウケヒマジシャンではないのか。命題の提示の仕方において、,料背嗚尊やイ凌隻霤傾弔痢峺戟ァ廚離Ε吋劼慮世なを模倣するなら、霊験あらたかならば鷺は落ちよ、霊験あらたかでないならば鷺は活きよ、と言うべきなのではないか。しかしそうはなっていない。霊験あらたかなら落ちよ、活きよ、枯れよ、生きよ。その場その場で言い換えている。自分の言うとおりになるなら霊験はあらたかであると言っているに過ぎない。来てます、来てます、の、ハンドパワーの持ち主である。たまたま手品師が任命されたのである。彼は、任務を遂行して報酬、報奨を得たい。途中解約されたくない。術を使えば訳ないこと、目の前で演じて見せて、出雲大神は霊験あらたかであるはずだと示したまでである。彼の名が、曙立王であることは、出雲への明け方の旅立ちを志向していることを暗に示しているのではなかろうか。すると、このΔ領磴蓮▲Ε吋辧繁寨茲痢瓢僂箸聾世い砲いように思われる。
 Г離Ε吋劼蓮√左擁佞箸いθ人を顕彰するためのお話に思われる。顔が美人でスタイルの抜群な、千年に1人といわれる天使すぎる美少女に遇うことと、亀が石に変わる瑞祥に遇うことを絡めて論っている。どちらのほうがより珍しいか、比べたくなってくる。出会いを願っているし、祈ってもいるが、占っても仕方のないことに思われる。話の顛末としても、瑞祥からしてウキウキだね、といって後宮に入れただけに終わっている。ウケヒという占いを借りた食レポのような評論であろう。だから、「行宮(かりみや)に至ります比」になってようやく見つけているのであろう。仮の話に借りて宮まで行宮である。さらに深いなぞなぞが隠されていると想像されるが、その点については稿を改めて論じたい。
 ┐離Ε吋劼蓮土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴ったら柏の葉のようにあがれ、とウケヒとして言っておいて蹴ったら大空にあがった、というものである。“本来の”ウケヒの姿であろう。もし柏の葉のように上がらなかった時、全然上がらなかった時はもとより、例えば、椎の葉ぐらいしか上がらなかった時などについて、前もって言明はしていない。けれども、ウケヒを条件文として読むと、柏の葉のように上がらなかったときはすべて、土蜘蛛を滅ぼすことはできないことになる。かといって、土蜘蛛によってこちらが滅ぼされるかといえば、そのような言明は行っていない。引き分けは可、という予防線を張っておいてあるのが、このウケヒの特徴であるように思われる。
 の神功皇后の、征西がうまくいくのなら、河の魚は釣針にかかれ、とウケヒとして言ったらアユが釣れた、というのも、本来のウケヒの姿であろう。┐汎韻献織ぅ廚任△襦I垰弋弔覆里蓮一度ウケヒをして大丈夫とわかっていながら、2度目がある。頭を海水につけ、確かな証拠があるなら、髪は自然に五分五分に分かれよ、と言ってみたらそうなったから、結果、ツイン髻に結ったというのである。男装できて戦闘態勢が整ったという解釈にはなるが、それは、「こう言えば、こうなる」式に順々に仕事が運んで行ったというだけのことではなかろうか。2度目の洗髪儀式がいわゆるウケヒかどうか、筆者には疑問である。1度目は、「祈ひて曰はく」とあり、2度目は、「曰はく」としかない。ウケヒをするよ、という言明がないとなると、ウケヒかどうかわからない。言霊信仰にどっぷりと浸かっていたとしても、すべての発話が言った通りに事がなると思っていたとは思われない。嘘をつくな、嘘をついたら秩序が大混乱になる、というのが言霊信仰の根源に、反面教師として常に控えていたということではなかろうか。なぜなら、言葉に、文字がなかったからである。証文、契約書、念書がとれない。言ったことがその通りに履行されないと、言ったか言わなかったかさえ録音テープ(ICレコーダー)がなかったから、すべてが空理空論になる。訳が分からなくなる。言葉が声でしかないのは、そもそもが空理空論であるから、それを確かならしめる手段はただ一つ、言=事としてみんなで守ろう、とする共通認識に依ったのである。そうしなければすべてが出鱈目になる。社会は維持できない。安心して暮らせない。オレオレ詐欺が横行、蔓延して手が付けられない。神功皇后の2回目の髪の話は、ウケヒと改まった形式を踏んでいない。また、2回目の念押しのウケヒと捉えると、ウケヒそのものの信憑性を自ら否定することになり兼ねない。したがって、2回目はウケヒの“原型”とは少し外れていると考えられる。また、1回目のウケヒの結果で分かったこと、河の魚が釣針にかかったことは、征西がうまくいくことを絶対に保証するとは言えない点である。逆は必ずしも真ならず、である。この点は次のにおいて説明する。
 のウケヒ狩りはウケヒの“原型”に当て嵌まるであろう。もし今度の謀反事がうまくいくのなら、いま、狩りをして良い獲物が獲られるであろう、と言って狩りに臨んだら、逆にイノシシに殺されてしまった。そこで、これは悪い兆候であると考えている。将来のことを現在の事案で占っている。この命題の提起の仕方は、まず今の仮定、p:狩りをして良い獲物が獲られない、そして将来の結論、q:謀反を起こしてうまくいかない、を結んだ「pならばqである(p→q)」という条件文の対偶「qでないならばpでない(〜q→〜p)」である。謀反を起こしてうまくいかないのでないならば、狩りをして良い獣は獲られないのではない、を解き起こした条件文がウケヒの言葉になっている。将来の予測として現在のウケヒという占いが存在するのは、対偶が真であるからに他ならない。逆や裏は必ずしも真ではない。言葉を操るうえで、条件文の対偶は真であると知ることによって、将来のことなど分かりはしないが、条件文の対偶は必ず真であるから、それを活用して占ってみようという気持ちが起こっている。それがウケヒである。(p→q)を真とすると、(〜q→〜p)も真ということになる。そして、将来のことが今わかる、とは、いま、仮にわかるということ、仮にわかるから「狩り」なのである。ウケヒがウケヒ狩りという形態をとった理由はそこにある。
 将来の征西や謀反がうまくいくならば、今からする釣りや狩りがうまくいく、と言立てているのであり、今からする釣りや狩りがうまくいくならば、将来の征西や謀反がうまくいく、とは言っていない。論理学を用いた占いだからである。その点が、「こう言えば、こうなる」式の考え方と次元が異なる。「こう言えば、こうなる」がすべて当てはまるなら、何もウケヒなどしなくても、わあわあと言い立てればすべてその通り思いのまま実現してしまう。それでは世の中が無秩序状態、アノミーに陥る。言霊信仰とは、「こう言ったら、こうするようにする」、「こうなっていたら、こう言うようにする」こと、すなわち、言葉というものの本質、前提を表している。秩序化を目指すのが言霊信仰であって、近代の用語に準えるなら、法の支配、ならぬ、言葉の支配を促すものである。
 本論の大山津見神のウケヒについては、「我が女二たり並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如くに、常はに堅はに動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進りき。此くて、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひき。故、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」という大山津見神の“話”として構成されている。ウケヒをしたときに内容が公表されていない。番能邇邇芸命がその内容を聞き及んでいない。実はこれこれこういう事情で、などと後で訴えられても困るのである。それさあ、早く言ってよ〜、の気分であろう。それは、一方的なウケヒであって、ウケヒ“本来の”姿ではない。公言性がないなら、いくらでも嘘が罷り通るように思われる。言=事とする前提がひっくり返されるし、ウケヒの濫発は信用収縮に陥る。何のためのウケヒなのか、立脚点を失うことになる。
 話としては、石長比売を使ったら、天神の御子の命は、風雪に耐える石のように堅く動かない。木花之佐久夜毘売を使ったら、木の花の栄えるように栄えている、とウケヒの言葉として言って差し上げたのだから、石長比売を返して木花之佐久夜毘売だけを留めた結果は、天神の御子の命は、木の花のあまひのみありましょう、というものである。石長比売と木花之佐久夜毘売とが、男と女のように対立する二者択一の概念、ないし、集合と補集合の関係にあるとは考えにくい。一般的に考えて、女性をブスと美人に二分できるものではない。ふつう、並、中ぐらい、まあまあ、それなり、お好みで、といった表現の当てはまる方々がとても多いのではなかろうか。(この箇所、今日的な考え方では差別的な表現に当たるが、歴史的な表現として理解されるべき事項であり、筆者はあえてわかりやすい書き方を行っているのでご寛恕願いたい。)けれども、結論として、大山津見神の言葉に、「木の花のあまひのみ坐さむ」という感慨が浮かんでいる。ならば、木花之佐久夜毘売を返して石長比売だけを留めたら、どうなっていたのであろうか。「石長のあまひのみ坐さむ」となっていたのではないか。若いころからずっと苔むしたような老成家で、梅や鶴を愛して枯れていたのでは困ってしまう。終生未婚独身の長生きほど現代高齢化社会の敵である。木花之佐久夜毘売だけでも石長比売だけでも良くないから、「二たり並べて立て奉」ったのであろう。
 筆者は本稿本文のなかで、石長比売は羽釜の譬え、木花之佐久夜毘売は甑の譬えではないかと推定している。すなわち、お米を羽釜で炊いてご飯を食べることと、甑で蒸してそれをお酒にして呑むことと、両方するといいよというのが、大山津見神という調理器具を司る土間の神さまの提言、つまり、ウケヒであったと考える。ご飯にしていつもながらに食べていれば力にはなるが堅物のしみったれた人生になる。といって、お酒に作って呑んでばかりいては、その時は気分よくなって楽しいけれど身にはつかず、アル中か肝硬変で短命に終わるということである。狩猟採集の時代から農耕に酒造の加わる時代へと大きく舵を切った飲食生活の劇的変化と、その調理法への対応のうち、ヤマトの人たちが鉄製の釜を利用しなかった事情が説話化されているのである。
 ウケヒという概念を用いた大山津見神の“話”である。石長比売を使ったら……坐さむ、木花之佐久夜毘売を使ったら……坐さむ、というウケヒの結果、「坐(ま)さむ」「坐さむ」で終わっている。推量が推量に終わるのは、他人事だからといえる。他人事とは噂話のように“話”である。番能邇邇芸命の面前でウケヒが行われたわけではなく、後になって聞かされている。言ってくれなければわからない。わからないことを前提にして、“話”が進んで行っている。“話”というのは尾鰭がつく。いくらでも架空を仮構できるのが“話”である。推量である。マサムマサムと重ねているのは、場所の設定が「笠沙(かささ)」であることと関係があるのであろう。水嵩がますます増すところが、嵩々の地、カササに違いない。そして、推し量る升(ます)ようなものの具体的な物、容器の外見をしたもの、満たされる底のある釜と抜け落ちてしまう甑という器物のことを暗示していると本文で論じた。
(注2)アマヒという語についての説としては他に、物のアハヒ(間)の義とする説(飯田武郷『日本書紀通釈』(134/392))、余る、遍し、数多などの語根アマとアヒ(合)とが結んだとする説(神田秀夫・太田善麿校注『日本古典全書 古事記 上』朝日新聞社、1962年)、アマアヒ(雨間)の約とする説(尾崎知光『全注古事記』桜楓社、昭和47年、98頁頭注)などがある。
(注3)笹森紀己子「かまど出現の背景」(早稲田大学考古学会編『古代』72号、1982年)に、「……古代における米の調理方法には、『煮る』と『蒸す』の二つの方法があり、煮た米は『粥』、蒸した米は『強飯(こわいひ)』と呼ばれていた。常食は粥であったが、糒生産には粥では極めて具合が悪く、強飯が適していた。換言すれば、糒生産には『蒸す』必要があったのである。多量の蒸し米が必要であり、そのためには、弥生時代以来の炉において小形甑で蒸していたのでは無理であり、熱効率が良く、大形甑がかけられる堅牢なかまどが必要であったわけである。かまどの出現を熱効率という側面から解こうとするならば、まず、この糒生産が考えられねばならないであろう。まさに、かまどが関東地方で出現する五世紀後半は、大形の前方後円墳が地方にまで普及し、畿内王権の政治秩序下に組み込まれてゆく段階であり、労働力貢納が盛んに行なわれ始め、それに伴う携行食としての大量の糒生産が必要とされる時期に相当するのである」(39頁)と述べられている。
 「糒(ほしいひ、ほしひ)」は「乾飯(かれいひ)」ともいう。糯米を蒸して乾燥させたものである。和名抄に、「糒 野王案ずるに、糒〈孚秘反、備と同じ、和名保之以比(ほしいひ)〉は、乾飯也とあんず」、養老令・軍防令に、「凡そ兵士は、人別(ひとごと)に糒(ほしひ)六斗、塩二升備へよ」、同・倉庫令に「凡そ倉蔵に貯(つ)み積まむことは、稲、穀、粟は九年支へよ。雑種は二年支へよ。糒は廿年支へよ」などとある。笹森先生は、労働力貢納のために糒が携行食として存在し、東国の人々は搾取されていたとお考えなのか筆者には不明である。粥から糒ができそうもないことはわかるが、逆に、糒から今日のカップ麺のようにうまい具合に戻るのか、はなはだ疑問である。寺島良安・和漢三才図会に、「糯を用ひて、飯に煮て、晒乾し、粗く磨りて頭末を去り、中等の者を取りて用す。夏月、冷水に浸し、之れを噀る。奥州仙台、河州道明寺に作る所の者、最も佳し。多食すべからず。腹に在りて甚だ膨張す多く食ふ可からず。腹に在りて甚だ膨張す」などとあり、筆者には、糒は忍者の携行食に近いものがあると思える。糒を食べながら峠を越えることはあったであろうが、大規模古墳を造営するのにかり出されて腹をすかせ、糒をばくついたらどういうことになるか、寺島良安は注意喚起している。かといって“適度”に糒をのみ食べたとして、力仕事ができるのであろうか。工事をする仕事師の皆さんには、炊き出しをして握り飯を作るのではなかろうか。ふやかし飯では働けまい。シベリアの強制収容所の話ではないと思う。
糒(寺島良安編、和漢三才図会刊行委員会編『和漢三才図会 下』東京美術、昭和45年、1466頁より)(つづく
(補記)(注1)のウケヒ考に¬擴岾耶姫の例を追加した。(2016.3.28)
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コノハナノサクヤビメ考 其の一

2016年03月18日 | 論文
 木花之佐久夜毘売(木花之開耶姫)(このはなのさくやびめ)の逸話は、記紀ともに、番能邇邇芸命(火瓊瓊杵尊)(ほのににぎのみこと)との婚姻譚に語られている。ここでは、記の話を中心に据えて、その話の謂わんとするところを探る。筆者は、記紀に語られる“神話”は、技術革新の世紀5世紀の技術伝播を、わかりやすく伝承するためにつくられた創作話であるとの立場をとるものである。話の前半部分、番能邇邇芸命(火瓊瓊杵尊)が木花之佐久夜毘売(木花開耶姫)とは結びながら、石長比売(磐長姫)は返し送った話について考える。

 是に、天津日高日子番能邇邇芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に、麗しき美人(をとめ)に遇ひたまふ。爾に「誰が女(むすめ)ぞ」と問ひたまへば、答へ白ししく、「大山津見神(おほやまつみのかみ)の女、名は神阿多都比売(かむあたつひめ)、亦の名は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と謂ふ」とまをしき。又「汝(いまし)の兄弟(はらから)有りや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売(いはながひめ)在り」と答へ白しき。爾に詔りたまひしく、「吾、汝に目合(まぐはひ)せむと欲ふは奈何(いか)に」とのりたまへば、「僕(やつかれ)は得(え)白(まを)さじ。僕が父、大山津見神ぞ白さむ」と答へ白しき。故、其の父、大山津見神に、乞ひに遣はしたまひし時、大(いた)く歓喜(よろこ)びて、其の姉、石長比売を副(そ)へ、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を持たしめて、奉り出しき。故、爾に其の姉は甚(いと)凶醜(みにく)きに因りて、見畏みて返し送りて、唯其の弟(おと)、木花之佐久夜毘売を留めて、一宿(ひとよ)婚(まぐはひ)為(し)たまひき。爾に大山津見神、石長比売を返したまひしに因りて、大く恥じて、白し送りて言ひしく、「我が女二たり並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神(あまつかみ)の御子の命は、雪零(ふ)り風吹くとも、恒に石(いは)の如くに、常(とき)はに堅(かき)はに動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進(たてまつ)りき。此くて、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひき。故、天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。故、是を以て今に至るまで、天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長くまさざるなり。(記上)
 時に皇孫(すめみま)、因りて宮殿(みや)を立てて、是に遊息(やす)みます。後に海浜(うみへた)に遊幸(いでま)して、一の美人(をとめ)を見(みしなは)す。皇孫問ひて曰はく、「汝(いまし)は是誰が子(むすめ)ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「妾(やつこ)は是大山祇神(おほやまつみのかみ)の子。名は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、亦の名は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)」とまをす。因りて白さく、「亦吾が姉磐長姫(いはながひめ)在(はべ)り」とまをす。皇孫の曰はく、「吾汝を妻とせむと欲ふ、如之何(いかに)。」とのたまふ。「妾(やつこ)が父(かぞ)大山祇神在り。請(ねが)はくは垂問(と)ひたまへ」とまをす。皇孫、因りて大山祇神に謂(かた)りて曰はく、「吾、汝が女子(むすめ)に見す。以て妻とせむと欲ふ」とのたまふ。是に、大山祇神、乃ち二の女をして、百机飲食(ももとりのつくゑもの)を持たしめて奉進(たてまつ)る。時に皇孫、姉は醜しと謂(おもほ)して、御(め)さずして罷(ま)けたまふ。妹(おとと)は有国色(かほよし)として、引(め)して幸(みとあたは)しつ。則ち一夜(ひとよ)に有身(はら)みぬ。故、磐長姫、大きに慙(は)ぢて詛(とご)ひて曰く、「仮使(たとひ)天孫(あめみま)、妾を斥(しりぞ)けたまはずして御(め)さましかば、生めらむ児(みこ)は寿(みいのち)永くして、磐石(ときはかちは)に有如(あまひ)に常存(とばにまたか)らまし。今既に然らずして、唯弟(いろど)をのみ独(ひとり)見御(め)せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花の如(あまひ)に、移落(ちりお)ちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、唾(つは)き泣(いさ)ちて曰く、「顕見蒼生(うつしきあをきひとくさ)は、木の花の如(あまひ)に、俄に遷転(うつろ)ひて衰去(おとろ)へなむ」といふ。此(これ)世人(ひと)の短折(いのちもろ)き縁(ことのもと)なりといふ。(神代紀第九段一書第二)

 岩波書店の思想大系本古事記頭注に、「紀の一書第二には『此世人短折之縁也』。大山津見神の誓約の結果、歴代の天皇の寿命が長くないという話は、紀では、人間一般の寿命の短いこととしての説話になっている。この種の話は、バナナタイプの神話とされ、南方諸島に広く分布し、たとえば中央セレベスのボソ族の神話、すなわち部族最初の夫婦が、天地創造の神に、石よりもバナナの欲しいと願ったため、石のように永久不変ではなく、バナナのごとくはかない寿命になったという神話がそれである」(102〜103頁)。バナナタイプ神話による解釈は、松村武雄『日本神話の研究 第三巻(個分的研究篇下)』(培風館、1955年)、福島秋穗『記紀神話伝説の研究』(六興出版、1988年)によっている。バナナが木花之佐久夜毘売、石が石長比売に相当するという解釈のようである。そして、神話学にいう死の起源神話が、神婚神話に変形することで、後半の服属神話と結びついたとされている。筆者には、このような比較神話学の解釈によって、記紀の説話から何が得られるのか疑問である。木花之佐久夜毘売が具体的に果実を表すのならまだしも、人(神)名であってフルーツ感がない。木花之佐久夜毘売はサクランボなどと解釈されているのであろうか。しかも、記では、天皇の寿命の話であって、さらに、その仮定は、大山津見神によって行われたウケヒによっている。大山津見神は絶対神ではあり得ず、端役の神さまが行った一種の占いごとである。ウケヒ(注1)は言ったことが現実の事となるという言霊信仰に基づいた決め事である。神が世界を創造したといった神話と同一視しようとしたり、あるいは、比較検討の対象とされること自体、筋違いの考えと言わざるを得ない。そもそも筆者は、記紀の説話は「神話」ではないと考える。記紀自身には、「伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)に迄(いた)るまで、是を神世七代(かみよななよ)と謂ふ」(神代紀第三段本文)と明記されている。伊奘諾尊、伊奘冉尊の誕生までが神話で、それ以降はいわゆる神話ではないと紀が訴えている、
 木花之佐久夜毘売の名義の起こりを、花を愛でたことに求める発想が通説となっている。小学館の新編全集本古事記頭注には、「『木花』は特に桜の花を指す。『佐久夜』はサク(咲)に、状態化の接尾語ヤの付いた形。桜の花が咲くように美しい女神」(121頁)とある。桜の花を今日のように愛でたのは、豊臣秀吉の醍醐の桜や吉野の桜によく知られる。日本文化において桜を愛でることの決定打は、小野小町の和歌「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」を“文化的に”本歌取りしていった点にある。しかるに、多くの論者に指摘されているとおり、万葉集に桜を花として愛でる風雅を見ることはできない。また、本ブログ「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍/倉(蔵)) 其の一」以下で述べたとおり、桜はその樹皮が特に実用材で、曲げ物を綴じるための綴じ皮として重んじられている。万葉集に、中国に cherry に同定されない「櫻」という字を用いており、キノコ、サルノコシカケをイメージさせる。サクラという言葉は、飛鳥時代には、サル(猿)+クラ(鞍)→サクラと感じとられて洒落を飛ばしていたことがわかった。
 西郷信綱『古事記注釈第四巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)には、「木花之佐久夜毘売は説話上の名である。スサノヲの系譜の条に『大山津見神の女、木花知流(チル)比売』……というのがあった。そこでいったように花は乙女を象徴する。万葉にも、『つつじ花、香少女(ニホエ[ママ]ヲトメ)、桜花、栄少女(サカエヲトメ)』(一三・三三〇五)と見える。とくにコノハナノサクヤビメという名は美女を彷彿させるものがある。サクヤヒメのヤは、『難波津に、さくやこの花』(『古今集』序)のヤと同じく間投詞。それが何の花であるかを特に詮索する必要はない。花が山の神のものであることは、人麿の歌に、『山神(ヤマツミ)の、奉る御調(ミツキ)と、春べは、花かざし持ち』(万、一・三八)とあるのによって知りうる」(104頁)とある。筆者には、この主張も不思議である。柿本人麻呂が比喩表現としてたまたま使ったがために、花がすべからく山の神の持物とされては困ってしまう。また、石長比売はブスかもしれないが、老女ではなく乙女であると思われる。また、ヤが間投詞かどうか、疑問が残る。
 橋本利光「木花之佐久夜毗賣の神話;石長比賣と短命起源譚」古事記学会編『古事記年報37』(同発行、平成7年)に、「コノハナノサクヤヒメが登場する伝承[(記、紀本文・一書第二・一書第六・一書第八)]にはニニギノミコトも登場する。そして、コノハナノサクヤヒメが登場しない伝承にはニニギノミコトも登場しない」(72頁)、「『日本書紀』本書、第八の一書は、コノハナノサクヤヒメが登場しているのにもかかわらず、天皇の短命起源譚がない伝承である。このことも、短命起源譚がコノハナノサクヤヒメとは関係が薄く、イハナガヒメとは濃厚であるということを言い表しているものと思われる」(75頁)とある。伝書から丹念に説話を解析し、交雑した原型を読み解こうとするものである。花が散るから短命だとする前提は、鵜呑みにはできないということである。記紀で話の構成に多少の違いがあるものの、神代紀第九段一書第二の「短折」はイノチモロキ、イノチミジカキと訓まれており、命というものはステンレス製の物干し竿ではなく、いつ錆びて折れるかも知れないステン巻きの安物という言い方をしている。
 木花之佐久夜毘売の名義の謎にせまるために、木花知流比売(このはなちるひめ)があげられている。須佐之男命(すさのおのみこと)の系譜に、「大山津見神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)」として名前だけ出てくる。一方は咲くほうで、他方は散るほうとされている。しかし、コノハナチルの対が、コノハナサクとあるのは不自然である。コノハナサクヒメとせずにもったいぶっている。言霊信仰によっていて、言葉一語一語を大切にした古代の人たちは、そうするにはそうするなりの理由があったに違いないと考えられる。「木花+の+咲く+や+姫」のノは格助詞であり、ヤは間投助詞、状態化の接尾語とする通説には問題点がある。ノを投入した理由を示し得ない。
 大野晋『係り結びの研究』(岩波書店、1993年)に、「係助詞のヤと、いわゆる間投助詞のヤは、根源的に同一のものと見られる」(295頁)とありながら、「まったく歌の音韻律に合わせるためだけのもの」(293頁)として、「天(あま)飛(と)ぶ軽少女(かるをとめ)(書紀歌謡七一) 天(あま)飛(と)ぶ軽の道(万葉二〇七)……さを鹿の伏す草むら(万葉三五三〇)」(293〜294頁)といった例を挙げられ、四音を五音、六音を七音にととのえるためと説明されている。大野先生は、「『事態がすでに成立していると見込んでいて、その判断を下し、きっとそうだと相手に問いただす』のがヤの役割なのである」(272頁)、「ヤを用いた場合、話し手は『自分の一つの見込み、あるいは確信を持っている』ということを示す。ヤはそうした確信を相手につきつける。答えを期待する形をとりながら実は自分の持つ意向を表明する」(277頁)、「ヤの用法は、……承ける言葉を確実であるとする、あるいは確定的・既定的であるとする、あるいは旧情報であるとするという性格を、奈良時代にはそのまま具現していたことを示すといえる」(281頁)、「……ヤに反語を形成する場合がある。……反語とは、相手の判断を逆につきつけることによって、実はそんな判断はあり得ないと相手に向って否定の主張をする方法である」(292頁)と述べられている。間投詞的に見えるヤについても、「天飛ぶや軽の道」の「天飛ぶや」が枕詞として常套句になっていることは、ヤに既定性の表明が含意されているからに他ならないといえるであろう。また、「さを鹿の伏すや草むら」と「さを鹿伏す草むら」との違いは、前者の「伏す」は終止形、後者のそれは連体形で、前者は饒舌な序詞として機能しているということになる。
 翻って、わざわざノやヤを投入した「木花之佐久夜毘売=木の花の咲くや姫」という名に関して、「木の花の咲くや」の既定性とは、相手の判断を逆につきつける反語の用法であると理解することができる。木の花の咲く様子は、旧情報となっており、それはもはやあり得ないことを意図している。ヤは、動詞「咲く」の終止形に付いて、一度完結した事柄に対して、ほんまかいなと相手に問いただす役割を果たしている。すなわち、「『木の花が咲いている』ですって、ウッソー、姫」である。木の花が咲いているか咲いていないかの問題ではなく、木の花が咲いているように見えるのは、実は木の花ではない、錯視、錯覚であるという意味を表す命名なのであろう。それが、同じ大山津見神の娘として挙げられる「木花知流比売=木の花散る姫」との語学的対比である。
 コノハナという語彙は、この説話によって、最終的に、「木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(まさ)む」とある。「阿摩比能微」には「此五字は音を以てす」と訓注がついている。この言葉は語義未詳とされる。五字すべてわからないながらも、ノミは助詞であるとされる。……だけ、という意味であろう。そして、アマヒという語はよくわからないながら、西郷、前掲書に、「アマヒが脆く、はかなく、堅固ならぬ意であることは確かで、甘(アマ)いことをいう、甘いことでは行かぬ、甘い奴じゃ等の俗語と関係づけ、これを『甘き状(サマ)を云る辞か』と『記伝』はいう」(109頁)とある(注2)。作りがあまい、鈍(なまくら)、鈍いという意味になる。「[『鈍(おそし)』は、]『淺し』『薄し』と同根の語で、その母音交替形である」(白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年、179頁)とされる。同時に、「似非(えせ)」という語とも関係するという説がある。似非は、まったく形ばかりで、ひどくまやかしであること、似て非なるもので質がひどく劣ることをいう。木の花のようであるけれど、まったくの贋物でがっかりさせられるものであると遠まわしに言っている。そういう巧みな表現技法を、上代のヤマトコトバは持っていたと考えられる。以下に述べる。
 番能邇邇芸命は、木花之佐久夜毘売に、まず、どこの娘だい? と聞き、次に、「兄弟(はらから)」はいるか? と不思議な問い掛けをしている。彼女は、お姉ちゃんに、石長比売がいるわ、と答えている。その兄弟問答を無視する形で、エッチしない? と誘ってきている。対して、お父さんに聞かなきゃわからないわ、と答えている。そして結局、番能邇邇芸命に捧げられた姉妹のうち、石長比売はとても醜いから見にくいと、石長比売だけ返送されてしまう。セットで考えられるべきものの片方だけを採用したということを示しているのであろう。
 名は体を表すから、石長比売が返し送られた理由は、名を聞いただけではじめから触手を伸ばすに値しないと感じられたであろう。美人の女性の形容には、応神記に「髪長比売」とある。カミナガ、つまり、髪が長いだけで美人かどうかは判断できかねるが、一応認めるとしよう。それがイハナガとなると、これはもう不細工に決まっている。イハという形容に関して顔のつくりで言えば、出っ歯が連想される。あるいは、歯が大きくて、その土手の部分まで剥き出しになっているのかもしれない。歯茎のことは古語に齗(はじし)という。和名抄に、「齗 玉篇に云はく、齗〈魚斤反、波之々(はしし)〉は、歯の肉也といふ」とある。歯の肉(しし)(宍)の意である。ハジシに似た音に、埴(はに)、土師(はにし、はじ)がある。イハナガは石を思わせる名だから、アマヒノミという難語には、何か土器と関係するなぞなぞがあるらしい。歯自体は肉ではなく骨に近い。当時の焼き物のなかで考えれば、赤っぽい土師器ではなく、白っぽい灰色の須恵器や、その製法に影響を与えもした瓦に似ている。新しい焼き方のための窖窯(あながま)の登場である。登り窯に近い形態をとり、燃えている最中に穴を塞いで酸素を絶ち、還元焼成する。焼き物の製作者は、土師器であれ須恵器であれ、製造者の名は土師(はにし)である。そして、時代的に少し下るかもしれないが、新しい葬り方は火葬である。瓦の焼けたように骨が残る。全身が歯と同じ色になる。それを、須恵器とは限らないが、骨壺へ納めるなどして墓所へ葬る。さらに、漢字の歯は齢に通用してヨハイと訓み、年齢のことをいう。「歯(みよはひ)且(また)長(ひととな)りたまへり」(仁徳前紀)とある。歯がなくなると人は食べることに支障をきたし、体力が一気に低下し、老け込み、亡くなってしまう。点滴も胃ろうもない時代である。以上から、石長比売が長命の象徴にされた理由が納得できる。不慮の事故死、行方不明などではなく、歯が丈夫でよく咀嚼し、大往生を遂げてきちんと火葬されることが、石長比売という名義に隠されているようである。
 石長比売は sister のうち elder である。話なのであるから、石長比売が younger の方になることはけっしてない。適当に組み立てられているわけではない。それは、イハの音が、況やの音に通じるからである。太安万侶は、「兄弟」という用字で記している。況の字は、イハムヤ、マスマスと訓む。藤堂明保編『学研漢和大辞典』(学習研究社、昭和53年)の「況」の「解字」に、「兄は、頭の大きい子どもを描いた象形文字で、きょうだいのうち、比較して大きい者を意味する。況は『水+音符兄』の会意兼形声文字で、水が前に比べてますます大きくふえること」(719頁)とする。説話の舞台の地名は笠沙(かささ)であった。カサ(嵩)+カサ(嵩)の約をイメージでき、水嵩の増す岬らしい。また、イハムヤと訓む字に、「矧」がある。矢を引くようにたたみかける意という。矧の字はまた、歯茎をも表し、「笑ひて矧(しん)に至らず」(礼記・曲礼上)と使う。きれいで立派な出っ歯のことは、ミツハ(ミヅハ)(瑞歯、稚歯、ミは甲類)という。瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)(反正天皇)は「生れましながら歯、一骨の如し」(反正即位前紀)と形容されている。記では、「此[水歯別命]の天皇は、御身の長(たけ)、九尺二寸半ぞ。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等(ひと)しく斉(ととの)ひて、既に珠に貫けるが如し」と記されている。同音のミツハ(罔象、魍魎、ミは甲類)は、水の神である。「水神(みづのかみ)罔象女(みつはのめ)」(神代紀第五段一書第二)、「水を号けて厳罔象女(いつのみつはのめ)と為(い)ひ、罔象女、此には瀰菟破廼迷(みつはのめ)と云ふ」(神武前紀戊午年九月条)とある。番能邇邇芸命と木花之佐久夜毘売、石長比売の登場する話が、水嵩が増す場所に状況設定されている理由が明らかとなる。出っ歯や歯茎を強調したいということである。また、矧の字は、本邦特有の用法として、ハクと訓んで鏃や羽をはめて矢をつくることもいった。この点は後に触れる。
 番能邇邇芸命は、長い名前では、「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)」といい、天にも国にも親しくて、天の日を高く仰ぎ見るように尊くてある、稲穂が賑やかに稔るところの神さまという意味である。紀には、「天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)」とある。小学館の新編全集本古事記頭注に、「『番』はホ(穂)、『能』はノ(連体助詞)、『邇々芸』はニ(丹)+ニギ(賑)の意で、稲穂が赤らみ豊かに実ることを表す」(113頁)、西郷、前掲書に、「ホはいうまでもなく稲の穂であり、それがニギニギしく豊穣であるのをホノニニギとたたえ」(13頁)ているとする。岩波書店の大系本日本書紀補注に、「ホノニニギのホは穂。ニニギはニギニギの意。ニギはニギヤカ、ニギハフのニギ。稲穂が賑やかに実る意」(ワイド版岩波文庫(一)368頁)、小学館の新編全集本日本書紀頭注に、「稲穂が賑々(にぎにぎ)しい」(,110頁)と同じようなことが書かれている。単一の義をもって名にした神さまは、事=言とする言霊信仰から、名に負うことが凡庸にして大根の端役に甘んじると思われるがいかがであろうか。別の義として、ホノ(ホは乙類)は、ホノカニ、などという語幹のホノ、ニニギ(ギは甲類)のニギニギには、握握の意もあるのではないか。固くぎゅっとではなく、柔らかくかすかに握るようにすることである。ホノの義が、ニコ(和、柔)の語に掛かっており、掛詞的連続性をもって出来上がっていて、名前全体の格調が高まっている。ほのかに握るのは、天孫は赤ちゃんで、ニギニギしている様に適っている。すると、ホノニニギを、転々と転がる、今朝の午前中、ゆっくり休む、といった自己撞着的に二重に意味を重ねたものと考えることができる。あまり固く握らないのが、握り寿司やおにぎりの定法であることが思い起こされる。逆に言うと、握ることができるということは、粥ではないということになる。
 常陸風土記に一例だけながら枕詞が載る。「風俗(くにぶり)の諺に、握飯(にぎりいひ)筑波国といふ」(常陸風土記筑波郡条)とあるのが、それを乾燥させ、保存携行食である糒にする(注3)かどうかはともかく、炊けたご飯を握り飯にすることにまつわるのであれば、「羽」が「付く」から「筑波」に掛かるのではなかろうか。羽釜の羽である。その枕詞的字義が正しいとすると、握り飯を作るのに、まずご飯が羽釜で炊かれなければならないが、今日までのところ考古学的根拠は乏しい。
 稲穂、米、ご飯に関係する物語として、譬え話が展開されているようである。その番能邇邇芸命が大山津見神の娘のうち、木花之佐久夜毘売を選び、石長比売は受けなかった。歯のあるのを嫌い、花のように見えるけれどそうではないものを好んで一緒になった。すなわち、これは炊飯器具の話が譬え話として練り上げられている。台所にまつわる物だから、国つ神の娘なのである。大山津見神のウケヒの言葉に、石長比売を「使はさば」、木花之佐久夜毘売を「使はさば」とあって、ツカフ(使)という言葉が用いられている。人(や擬人化された神)を使うのであれば、使役や使者の意であろうが、マグハヒ(「目合」、「婚」)をツカフ(使)という感覚は、AVによる自慰行為ではないのだから、なかなかに考えにくい言葉の選び方である。物を使用する意としか考えられない。台所道具を使うのである。
 歯(羽)の出っ張った炊飯器具は、羽釜である。器の腰の部分につばが付いており、別名、鍔釜とも呼ばれる。鍔の出っ張りがあるから、竈の穴にすっぽりと入りながらも落ちず、火力を逃さず、煙や煤の漏れも少ない。そのうえ、釜の噴きこぼれが竈のなかに入らず、火が消えたり灰神楽になることも防げる。この釜は、定着こそしなかったものの鉄器として渡来人のもたらしたものが初めである(注4)。すぐに土師器製のものが出回るが、羽釜の羽の部分が一番出っ張っていなければ用を足さないはずのところが、胴の方が太い代物も焼かれるようになっている(中島和彦「南都出土の土師器甕・羽釜の検討」立命館大学考古学論集刊行会編『立命館大学考古学論集1』同会発行、1997年、443〜457頁)。竈にかけたのではなく、五徳を使って使用されたものであろう。浅岡康二『鍋・釜』(法政大学出版局、1993年)に、

 ……鉄器の普及は米飯の調理方法になんらかの変化を与えたものと思われる。鉄器は土器に比べて耐火性がはるかに優れており、その上で大きなものを製作することも比較的容易である。こうしてできた鉄器を用いるならば、多量の米飯を一度に「炊く」技術が容易に成り立つ。こうして、おそらく集団食から「炊き飯」が起こり、「蒸す」から「炊く」への移行が始まったのだと考えられる。「蒸す」と「煮る」、すなわち「蒸し飯」と「粥・雑炊」のあいだに「炊き飯」が新しく加えられていく、というわけである。……釜の機能は第一に湯沸しであるとして、そこから派生して茹でる・蒸すなどに拡大してきたのだと考えて、これに対する煮る・煎るなどのほうは、鍋の利用技術である……。ここでは、それに加えて、釜には「炊く」方法が追加されなければならないことになる。私たちの日常的な感覚では、釜といえば「飯炊き釜」を思い出すが、それは米を「炊く」ことが釜に結びついた結果である。(76〜77頁)

とある。日本での鋳造鉄器の普及は、朝鮮半島からはるかに遅れて中世のことである。絵巻などの図からは、竈は寺社の風呂、ないし、厨のような大掛かりな調理に用いられたように思われる。こじんまりした調理では、七輪の登場を願いたいところである。狩野敏次『かまど』(法政大学出版局、2004年)に、「移動式カマドは古代の韓竈を濫觴(らんしょう)とし、さまざまに改良を加えられながら最後は七厘に落ち着いた」(76頁)とある。ざっくりとした解釈でわかりやすい。
竃に羽釜と五徳に鍋(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1991年、86頁より)
竃に羽釜と五徳(川崎市立日本民家園展示品)
鉄釜と鉄蓋(韓国梁山夫婦塚出土、三国時代(新羅)、6世紀初頭、東博展示品)
加彩釜(明器)(中国、土製、前漢時代、前2〜1世紀、東博展示品、横河民輔氏寄贈品)
土師器の羽釜(高槻市井尻遺跡、平安後期〜鎌倉初期、大阪府立近つ飛鳥博物館展示品)
(つづく)
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海老錠(京都市考古資料館)について

2016年03月04日 | 無題
 京都市考古資料館速報展「平安京東京極大路の発掘調査」(平成28年1月21日〜3月6日)に、平安時代後期の作かと思われる海老錠の断片が展示されていました。
写真パネル
参考展示
 ガリ版の解説には、

 東京極大路に面した宅地である調査区西半……第4期の土坑146から出土した『海老錠(えびじょう)』と呼ばれる和錠がある……。出土例の極めて少ない遺物であるが、その中でも優品で、銅製で全面に鍍金がほどこされる。残存長は8.0cmあり、断面8角形の筒部の一方向に弦受部が付く。筒部には大きく宝相華文が毛彫りされ、文様の間に魚々子(ななこ)が打たれる。厨子(ずし)や唐櫃(からびつ)などに取り付けられていたものと考えられる。同じ第4期の遺構からは平安時代後期から鎌倉時代の軒瓦が多数出土しており、海老錠とともに、上流階層の貴族邸宅が存在したことを示す資料として評価できる。


とありました。
 これはやがて国の重要文化財に指定されるのではないか、と思ってよくよく見ましたが、復原したらこうなるであろうという全体の想像図はなく、上のような参考品が横に展示されておりました。錠は銅製でも、鍵は鉄製で硬くしてあります。そうしないとカチャカチャ鍵を差し込んでいるうちに鍵が曲がったら開かなくなってしまうということが示されています。
 どうしても錠前としての形がわからないため、質問をしてしまいました。京都市考古資料館の山本雅和先生は、おもむろに合田芳正『古代の鍵』(ニューサイエンス社、平成10年)をとり出され、また、現在も使われている双龍型の例もお示し下さいまして、どういうところに使うものなのかという実践的なお話まで丁寧に教えて頂きました。装飾性の強い錠で防犯上の強靭さをそれほど求めているものではないというお話でした。たいへんありがとうございました。そして、なかなか適切な模式図がないとのこと、遺されている物が少ないのと研究者の少ない点を挙げられておられました。私は不躾にも、オリジナルで模式図を描いて欲しい旨、申し上げてしまいました。あるいは、展示室にはすでに掲載されているやも知れません。なお、例えば、「神社の錠前の話」に海老錠の原理は紹介されています。もっと知りたい方は、「秋山小兵衛」ブログもあります。
 前掲の合田先生の本の「あとがき」に、「[稲生典太郎]先生はカギ研究が未知の領域であるらしいこと,中国での出土例との比較が可能であること,中国の錠前が日本のみならず広く世界の錠前と関連するらしいこと,当然日本の錠前もそうした一連のものの中に位置付けられるであろうことなどをあげて,錠前研究の大切さを説かれ,私[=合田先生]に調べてみるようにと力説された」(118頁)とあります。その成果が同書で、たいへんよくまとまっている名著です。ここまで名著を出されると、追随する著作が出にくくなるのかもしれません。
錠前の構造図
施錠の模式図
形態の分類図
出土品の実測図
 今回展示されている海老錠がどのように使われていたのか、自分なりに考えてみました。
 まず、この海老錠の断片には、ラフレシアか宝相華か何かのデザインがほどこされています。後の時代の双龍型の腹が弓なりになっているのは龍を示すために鱗文をほどこしているというデザインなのでしょう。今回の残存長8cmが真っ直ぐに伸びているところに、龍(魚)を見立てるデザインはほどこされません。また、展示品の穴から向かって左側は引きちぎられており、右側の筒の先には窄まりが見られません。模写でみると、引きちぎられた部分は2mmほどズレています。「筒部」をのぞきこんだ図では、穴の向こうに四角い「バネ受板」があるようです。
蔵の錠前(小松茂美編『日本の絵巻4 信貴山縁起』中央公論社、昭和62年、3頁より)
 用途については、議論が分かれるでしょう。私は、合田先生の施錠の模式図のうち、1のタイプ、すなわち、唐櫃用ではなく厨子用で、錠は縦長ではなく横長の状態で用いられたに相違ないと考えます。毛彫りされている宝相華に上下感が見られません。3のように縦方向に筒が向いていたら、どうしても筒が花を咲かせる草木の茎(幹)に準じて見えてしまい、文様に重力が影響を与えて花弁に違い(上下感)が生れるような気がします。この遺品ではそのようなことが見られないように思うので、錠前としては横使いが似合うと思います。2ではないのは、宝相華文が中心ラインから外れるように思うからです。大きさからしても厨子などの扉を左右に横断してとめるためのものであったと考えます。「赤漆文欟木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし)」につけられている「鏁子」もわかりやすい例でしょう。
「漆仏龕扉(うるしぶつがんのとびら)」(縦102、幅26.5、厚1、杉、黒漆塗、金銀泥絵・彩色、押出仏 銅製金箔押し、銅釘金具。正倉院事務所編『正倉院宝物9 南倉掘毎日新聞社、平成9年、112頁より)
 そう仮定してみたとき、左側が2mmほど引っ込んで(中央が出っ張って)いるのは、観音開きの扉の合わせ部分の木の厚みに引っ掛かることになりはしないかと危惧されます。引きちぎられた部分の引きちぎられ個所は、解説にあるように「牡金具」の「弦受け部」でしょう。木の扉の合わせ部分が宝相華の描かれた筒部と同じ5cm幅と考えれば、きれいな宝相華が正面を向いて真ん中に見えます。「バネ受板」の形から、合田先生の分類に況a類と思われます。けれども、ちょうど扉の合わせの出っ張りと「弦受け部」とが重なってしまい、カギの開け閉めに必ず当たって、中のバネが「筒部」にぶつかり続け、正面に穴が開いたり「バネ軸」がぶれて2mmのズレが生じてしまったりしたのではないでしょうか。それが結局、強度の弱い「弦受け部」の屈曲部分に力が加わることとなり、断ち切れてしまったのかもしれません。宝相華文の中心ラインが扉の合わせ部にぴったり合うようにレイアウトされていたという想定です。
 長岡京の錠前の復原品の写真とは左右が反対の構成です。左右という点からすれば、平城京跡から出土鍵(海老錠)(ゆんフリー写真素材集13965)に近いように思えます。そこには、「弦受け部」と「筒部」との間に穴が見られ、今回の展示品と似ていますが、それはあくまで、「牡金具」と「牝金具」とのゆるみによって生じている穴のようです。また、「鍵穴」は「バネ受板」とは「筒部」の反対側に位置するものですから、今回の展示品の穴とは関係ありません。結局、上に述べたとおり、ロックするための「バネ」が鉄製で銅製の「筒部」を傷つけてできた穴と捉えるのが妥当性が高いように思います。正倉院南倉167「鏁子(さす)」第2号に見られる構成です。
「鏁子」第2号(金銅、バネは鉄、紐は新補。牝金具長15.6、牡金具長9.5、匙長10.5。正倉院事務所編、前掲書、50頁より)
 そして錠前の中央のデザインが花なので、左右へと拡散する絵柄としては茎や蔓が連想されますが、引きちぎられた部分に弁状に見える毛彫りが確認されるので、すべてが宝相華文の連続であったと思われます。金銅宝相華文磬、金銅宝相華文経箱、金銅宝相華文如意など、国宝級の例がいろいろあります。平城京跡SD2700や海老名本郷1の例のように、鍵穴が正面に見えてはきれいな宝相華文をぶち壊しかねないので、飛鳥京跡や久我台の例のように横から鍵を差し込むように鍵穴がついていたものと思われます。よって、折れ残った「筒部」残欠の右側に、鍵穴の痕跡が認められず、「弦部」へと続くその部分はとても弱くなるから、断面のように切れているのではないでしょうか。
 ちょっと手慰みにマンガを描いてみました。ご批判のある方は、ご自身の考える図をお描きになって山本先生のところへ持って行ってください。専門家で責任をもってコーディネートされている方へぶつけることが、世のため、人のため、日本文化全体のためになると思います。描いていると、宝相華文の文様は細いところになると花弁だけの表現になり、そこから鱗文の発想が生まれ、やがて左右対称になる双龍型へとアイデアが成熟していったであろうことが感得されました。
偽称復元イメージ
 さて、屋上屋を重ねるように話を進めます。厨子の扉の鼻に当たる個所に鍵があります。すなわち、金(かね)で扉の鼻(端)を花(華)でくくったようなカギということです。
 カギ(ギは仮名書きの例がなく、甲乙を決められない)という語は、朝鮮語の karkuri と通じるとの説や、「『鉤(かぎ)』が『くぎ』との関連もあって、『曲がれるもの』の意であろうかと思われる」(白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年、208頁)という説もあります。鉄瓶を懸ける自在鉤や猿落としの鉤の形状のように、曲がっていて懸けられるようになることと関係があるようです。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)には、「カク(懸く)と同根。最も古い意味は『懸け金』の意」(312頁)(石井千鶴子先生の解説)とあります。掛け“金”は鉄器であれ青銅器であれ、縄文時代にはありません。縄文時代にはカギという言葉はなかった、と断定していることになります。私も、言葉として古来(縄文時代)からあるものではなく、いわゆる和訓とまでは言えないものの、カギの必要性と有効性が確立した少なくとも弥生時代以降に作られた新しいヤマトコトバではないかと考えます。曲がれるもので引っ懸けるものには釣針があり、古来から「鉤(ち)」と呼んでいます。海幸・山幸の話に出てきます。骨角器の釣針に使われていた「チ」という言葉が、なぜ同じく曲がれるもので引っ懸けるものに転用されなかったのかについては、チになくてカギにある性格に、ハナ(端、鼻)に付けられるものであるという意味合いがあることを指摘したいと思います。木の柄の先端に曲がった金具を取り付けて、引っ懸ける道具にしました。チは釣糸の先に付けられはしますが、糸がくねったり絡まったりすることは容易に想像でき、先端性が担保されるわけではありません。金属の到来まで待たなければ、大きく曲がれるものは作ることができなかった(作ってもすぐに割れた)から、「チ」とは異次元の性格をはじめて見て、「カギ」という新しい言葉を作ることになったのでしょう。まさに、最先端文化です(追記1)
 海老錠は、曲がれるものであり、金属製ですからカギと呼ぶのにふさわしいものです。腰の曲がりと長いひげが海老錠と呼ばれる所以です。その曲がれる性格を強調して表したデザインが、双龍型の海老錠です。一方、ハナ(端、鼻)の性格を強調して表したデザインが、今回出土の宝相華文の毛彫りではないでしょうか。観音扉の鼻に当たるところに、顔の鼻のようにくっついているものです。目立つように金ピカです。ハナだから宝相華なる花を咲かせました。
観音堂(小松茂美編『日本の絵巻5 粉河寺縁起』中央公論社、昭和62年、表紙より)
 観音扉は観音様をお祀りする祠の扉ですが、わざわざ観音扉と言うからには、観音という「音を観る」神通力を思わせるものがあるのでしょう。ふつう、音は耳で聞くものです。その扉の「鼻」は何を聞いているのでしょうか。お線香の香りを聞いているのでしょう。香道では聞いています。でも、香りはふつう嗅ぐものです。鼻は嗅ぐのが本来の仕事です。観音扉の鼻に当たるところには、キク、ミル、カグことが求められています。下のほうに隠した「猿」ではなく、裏側で見えない「閂」でもなく、よく見えて目立つように懸けられています。弦部の棹になっているところを受ける扉側の座金は左右についていて、2つある目のようです。目をつぶって耳を澄ますとよく聞くことができますが、視覚的な情報が多い海老錠ながらロックの機能は効(き)いており、特定のキーしか合わないように巧妙に細工されたからくりです。鍵穴が鼻の穴です。合致する鍵でコチョコチョとすると、くしゃみを起こしてカシャカシャと錠が外れます。まこと鼻に同じです。カグ(嗅)と同根とは言えないまでも、なぞなぞ的には同類の語であると考えられます。仮にこの仮説どおり、「嗅ぐ」という語と意味的連関を上代に見ていたなら、カギのギはカグの連用形と推定され、甲類と定められます。日本書紀や万葉集にカギという語は出て来るので、なぞなぞの隆盛期であった飛鳥時代には好まれていた言葉であったと思われます。出土品のある長岡京時代にも、まだ上代特殊仮名遣いは残っていたことでしょう。
猿(法隆寺金堂、扉内側から)
閂(西本願寺唐門、内側から)
 「猿」や「閂」は扉の後ろにあるものです。海老錠のようなものは扉の前にあるから、「錠前」と呼ぶのでしょうか。それにしても、建築関連の用語に重箱読みが多いのはなぜでしょうか。ご存知の方が居られましたら是非ともお教えください。
 もちろん、これらは後講釈の言葉遊びにも捉えられます。木の柄の先に、U字型、J字型の金属が付いたものがカギの原義でしょう。それがロックやキーの意にも使われながら進化していったとき、観音扉の真中につけるものとして、カギという言葉が道具のデザインに影響を与えた可能性があったかもしれないということを述べております。もはや人間の神秘である“観念”についてのお話です。都市伝説と呼んでもかまいません。伝説、伝承こそ、古事記や日本書紀に書いてある言い伝えのお話です。言葉だけでなるほどと納得できなければ、伝わるものも伝わりません。なにしろ文字がなかったのです。音だけでそうだ、そうだ、カギという言葉でよくわかった、ということです。それは“語源”という考え方とは少し離れます。頓智の世界です。私は、カギのカギ的なる本質を、今回の出土例の文様に頓智的に見たわけです。
 そんな話(噺、咄、譚)に対して近代の“歴史”という概念を当て嵌めると、史実か否かといった洒落のわからないナンセンスな議論になります。発掘したら日本書紀の記述通りのものが出てきたとか、太安万侶の墓誌が出てきたから古事記は偽書ではなかったといった“証明”は、頓智とはおよそ無縁で、昔の人の心に近づこうとする気がないままに昔のことを考えるという不思議なことになっています。そんなことよりもまず先に、どうしてロックもキーもヤマトコトバでカギの一語なのか、昔の人は何を考えていたのか、といった素朴な疑問から始めることが実は本道であると考えます。古代の人に聞いてみないとわからないようなテーマ設定はとても大事です。そういった姿勢を揶揄される方もおられますが、夜な夜な小野篁のように会いに行っている本物の研究者もおられます。「古代」を現代の目で見るか、「古代」を古代の目で見て「同時代」のこととして分かろうとするか、私は後者の、文化人類学的な見方が確かであろうと考えます。無文字文化は文字文化とは別文化であることはたやすく察せられると思いますが、“勉強”のできる方とは文字文化に慣れ親しんで達者な方ばかりですから、“律令”風な問題解決ばかりが目立ちます。法律の条文から、宝相華文の錠前のからくりが解釈できるとは思えません。文学部系の人たちが亜流の法学部生に堕してはいけません。古代へのフィールドワークを試みなければなりません。想像の翼を広げましょう。実験考古学というジャンルがあるそうですが、昔の人に成り切ることが大事です。体験考古学です。書を捨ててムラに出よう、です。
 以上、特筆の出土品の海老錠から、身をくねらせるようになっている上代語というカギを解いたことになります。頓智や洒落という鍵はあるのだから、そしてカギという同じ言葉を受け継いで来ているのだから、近代の歴史学という枠組みで「古代」を引きちぎらないで欲しいと願っております。古代という語に括弧をつけたのは、私は、何世紀の話かといった難しいこと、時代考証は専門家に任せて、すべて“むかしむかしのお話よ”の感覚を大切にしたいからです。あしからずご了承ください(注1)

(注1)観音扉に海老錠がいつから懸けられていたか確実なところといえば、聖徳太子時代から救世観音が秘仏としてしまわれていたころからでしょう。

(追記1 2016.3.21)骨角器の釣針(「鉤(ち)」)は見たことがあるが、石器のそれは見たことがありません。技術的にできないということではなく(勾玉ばかりか玦状耳飾といったものがあるのだから、できないことはない)、そうまでして作っても魚に糸を切られて持って行かれる可能性があるから、さすがに奴隷をこき使うようなことはしないであろうと思いました。もし、20年ごとの遷宮は技術を伝達するための方便であったという理屈が通るのであれば、勾玉に穴を開けるほど手間のかかることも、手先の器用さを伝承してボケ予防の実践をしていたという屁理屈も通用するでしょう。

(追記2 2016.5.10)施錠される場所と錠の形とが関係ないものと思われる縦使いの例。
朽木菱形木画箱についた金銅製鏁子(奈良国立博物館編『第五十六回正倉院展目録』同館発行、平成16年、96頁)
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上野動物園のコビトカバ、昭平(ショウヘイ)について

2016年02月20日 | 無題
 左の後ろ足が痛々しくて見ていると辛くなります。古傷とのことです。年末に訪れたときは、左頬にも傷ができていました。3本では支えきれずに転倒した際に穴が開いたのでしょうか。
昭平(昭和と平成の世に盛んなることを願って命名されたのではないであろう。)
 ボランティアガイドの方に、いろいろなことを教えていただきました。少しでも楽なように、コンクリートゲージから土のあるゲージへ引っ越したところで、(今月再訪したところ、さらに草を敷き詰めてもらっていました。頬は治っていました。脚は相変わらずです。)もう少し環境に慣れさせたいのと、カバは脂肪層が厚くて注射針が刺しにくいこと、また、実例が少ないため麻酔の効き具合がわからず、なかなか手術には踏み切れないことなど、諸事情があるようです。コビトと付いていても関取同等以上の巨体です。麻酔が効かなければ抑え込むことはできません。(絶対にできないかどうかは曙のその後を見てしまったのでわかりません。)
 動物園の飼育員の方にとって辛いことは、もちろん動物に死なれることは辛いに決まっていますが、それ以上に、動物に怪我を負わされること、動物に逃げられることであるとも教えていただきました。飼育している動物との間に、信頼関係が確立していたと思っていたのに、それが覆されるのは堪らないでしょう。見学するにしても、その動物をまるごと観察するようにしないと、信義に悖るように思えてきました。(決して他の見方を否定するわけではありません。個人的な感想です。信義に悖ることがとみに多くなった現代の人間社会に嫌気がさしているに過ぎません。)
 昭平が怪我していて、痛々しそうなのを公開して見せるようにしているのは、それも「命」というものであるからと、深いお話も教えていただきました。そのような方針を日本で最初にとったのは、旭山動物園であるとのことです。昭平なら昭平と名前の付いた個体に会いに来ているお客さんがいるのだから、病気であれ見せることができるのであれば見せるし、動物が見られるのを嫌がって病状が定まらなくなるなら“隔離”する、ということのようです。手前勝手にきれいごとで決めるのではなく、すべてに向き合おうということのようです。
 そこからまた、動物園生まれの動物がはたして野生へ返して生きて行けるのか、という重い課題についても考えさせられます。今年は申年で、上野動物園にいる下北半島由来のニホンザルは、おそらく、北海道の山へ放しても生きていって農作物を荒らすなど、人々を困らせるでしょうが、コビトカバでどうなのか、よくわかりません。わからないのは私だけでなく、コビトカバの関係者、研究者でもそうでしょう。ジャイアントパンダ、オカピとともに三大珍獣と呼ばれており、詳しい生態はわかっていません。
 ところで、コビトカバという和名は、pygmy hippopotamus の“直訳”(注1)ですが、動物学的にそれでうまく伝えているのか、また、この言葉にまつわる問題を勘案してふさわしいのか、よくわかりません。私は、アボカドカバと呼んだ方が、素敵に聞こえると思います。和歌山アドベンチャーワールドでは、ミニカバと呼んでいます(注2)
アボカド
 それはともかく、昭平の名誉のために付け加えると、たいへん優秀なオス個体(25歳位)です。冬の午後、お天道さんの高いところにあるのに、飼育ゲージを日陰にしてしまっている無粋な高層建造物には、不忍池にいるカワウが引っ越して高巣を作ってくれることを御破算で願いました。
モノレール(地方出身者にとっては、県庁所在地でさえなかなか採り入れられていない乗り物が園内を走ることに、さすが東京だと実感したなどという評価を頂戴している代物である。)

(注1)河馬という表記も、オランダ語にある nijlpaard(ナイル川の馬)を直訳したものとされる。それをカバと訓み慣わそうとした発起人が誰なのか、不明である。オランダ語の感覚として、なぜヒポポタマスを“馬”とみたのか、不思議である。筆者にはその体形は馬よりも牛や豚に近しく見える。マレーバクが絶滅しなかった理由に、その姿が豚に似ており、イスラームが食べなかったことも影響があろうという見解がある。筆者は、美味しくなかったからではないかと疑っている。漢字表記に河馬とある点については、河の牛は水牛で、河の豚はフグという専売特許があったから、消去法的にそれで良しとしたのかもしれない。
(注2)古典語において、濁音化によって蔑称、貶称の類とする言葉の例は多く、それについて人々は無意識のうちに気づいているためか、チビカバという言い方は行われていない。チヒサシ(小)→チビである。チヒサシの方が音便化してチイサイになってチビのほうがハ(バ)行に取り残されている。
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玉藻の歌(麻続王関連歌) 其の三

2016年02月11日 | 論文
承前
(注1)ヤマトコトバのコタフは、コト(言・事)+アフ(合)の約とされている。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に西郷喜久子先生の解説として、「『日本書紀』の中では、『答』『対』『応』『報』『和』の五つの漢字をコタヘ、コタフと訓んでいる。『答』『対』は日常生活から公事に至るさまざまの事柄・出来事・心情などの問いかけに応じてする説明・回答を意味する。特に『対』は問者と向きあった形で問いただされたことに答えることもいう。『報』は戦況報告や騒乱の状況を告げる場合もみられる。『応』は反響する、反応する、手ごたえを感じる意で、山彦の声にも使っている。『和』の字のコタフは、唱和することの意。……『和』の字のコタフとは、事が合いすべて丸くおさまるということを意味する」(495頁)と記されている。この日本書紀の使い分けは万葉集の題詞や左注の使い方に通じるものがあると思われる。ヤマトコトバのコタフの多義性に、漢字のニュアンスを合わせて用いている。「和歌」とある場合、先に歌われたものが主、後から唱和されたものが従の印象が生じていることに適っている。それは、歌が「和」されて歌われ、唱和されて歌どうしが和合している意と解される。(注5)参照。
(注2)小島憲之『上代日本文学と中国文学』(塙書房、昭和39年)に、「会稽郡(浙江省)白水郷(地方)の漁民達が有名であり、やがてその漁業を生業とする者の代名として『白水郎』の名をもつてするやうになつたと思はれる。上代人がこの文字を使用し始めたのは、渡唐南路に当つて活躍した『白水郎』を実地に見聞した結果かと思はれる。従つてこのアマの文字表現『白水郎』は、必ずしも文献にのみよつたものとは断定できない。つまりこれは耳より聞く口頭語を背景としたとみる方が可能性が大である。萬葉文字表現の背後には、一語一語にその由来する複雑な経路をもつもののあることは、これによつてその一端が知られる。……『白水郎』の如き例は、恐らく中国文献を経ない例の一つかとも思はれ、萬葉集文字表記の複雑性を示すものと云へるであらう」(855頁、漢字の旧字体は新字体に改めた。)とある。文献を経ないで「白水郎」という字を書いている点について、筆者には完全に腑に落ちる説明とは言えないが、現在までのところ、これに代わる有力な説を見出せていない。そして小島先生の物言いはとても慎重であられる。解説文に扱いの杜撰なものが散見されるのは遺憾である。
(注3)山崎良幸『和歌の表現』表現学大系各論篇第一巻(教育出版センター、1986年)に、「麻續王に関する二首の唱和の歌は、口から口へと歌い継がれることによって練り上げられたに違いない、そういう表現のまるみと磨き上げがなされているように思うのである。それはしかし、もともと一人の即興詩人によって詠じられたものであったはずであるが、それが民衆の前で演じ歌われているうちに、個としての感情の表現から、いわば抽象的人間の情感へと昇華されて行ったのであろう。しかもそこでは、一般に動作的イメージを喚起する表現を伴ったようである。そのことこそ初期万葉の中に見られる古代歌謡的性格と解されるのである」(16頁)とある。筆者は、23番歌について、“即興詩人”などといった洒落た存在ではなく、洒落は洒落でもきつい洒落を言う「時の人」の、世相諷刺の題材にされた要素が強いと考えるが、口承の歌である点について、山崎先生と意見を共にする。
(注4)万葉集の表記法のなかに、戯書や義訓と呼ばれる機智を働かせた文字遣いがある。どこまでが正しい書き方で、どこからが戯れの書き方かの線引きは、後代の人の思考回路にしたがって恣意的に成されている。ここに、いくつか例をあげる。脳味噌の使いっぷりを検証して頂きたい。 嶌険Α覆泙如法廖碧34・180・230)、◆峙醉茵覆い供法廖碧10・44・63)、「三五月(もちづき)」(万196)、ぁ峩睇(あきかぜ)」(万1700・2013・2301)とある。
  嶌険Α廚鬟泪任鳩韻爐海箸蓮∧唇損代の源順(911〜983)にとって難しいことであった。石山寺縁起にその逸話が載っている。馬引きが両手を使って「待て」と言っているのを耳にし、悟った、という場面が描かれている。一方の手が片手(かたて)、左右両方の手が両手(まて)である。揃っているのがマ(真)、2つセットのうち1つしかないのがカタ(片)である。音声言語を聞かないと、理解に至るものではない。
 △痢峙醉茵廚砲弔い討蓮陶淵明の帰去来辞の、「帰りなん去来(いざ)、田園将に荒れなんとす」という句を知っているから慣れっこになっている。文選の知識に裏打ちされたものであるということはできるが、かといって、漢籍の知識にべったりかというと、そうでもない。「去来」を訳すと、ヤマトコトバのサア、ドレ、イザといった言葉に当たるだろうというところに由来している。ここで、サア、ドレとは訓まずにイザとしか訓まない理由は、対立、対抗、反抗を表すイサカヒ(諍)、イザコザ(諍)などの語幹イザが、一方の言い分と他方の言い分が行ったり来たりする点に準え得るからであろう。「去来」に、去ったり来たりすると書いてある。漢籍の知識があれば確実に訓めるというものではなく、ヤマトコトバに慣れ親しんでいないとわからないということである。漢語、朝鮮語を話す人たちにとっては、万葉集は遠いところにかけ離れている。
 の「三五月」は、今日の人ならすぐに気づくであろう。掛け算の九九である。十五夜の日は望月だからモチヅキである。しかし、掛け算の九九は、いま、漢字の音読みで成立している。訓読みで、ミィ×イツがトアマリイツ(十あまり五)とはしなかったと思う。面倒くさい。掛け算の九九は、中国文明直輸入であったらしい。ヤマトコトバのモチヅキへの変換は、単純な逐語的な訳、2進法的な訳である。“知識”偏重で“知恵”に乏しい。い痢峩睇」は、今日の人は訓めないであろう。五行思想で「金」は方位では「秋」に当たるからアキカゼと訓む。完全に漢籍に負っており、“知識”がなければ訓むことはできない。逆に、“知識”があれば簡単に訓むことができる。そこにいう“知識”とは、易経にたくさん見られるような単なる記号変換である。“知恵”はまったく介在しない。屋上屋の“知”である。深意というものがない。
 い蓮∧源を知っている人が漢籍に慣れ親しんでいて、賢しらに記している。「白風」(万2016)もアキカゼと訓む。五行思想の決め事によるクイズである。歌の内容に、陰陽五行の思想は含まれていない。は、小学校低学年の児童に算数を教えるのにも役立つ。△蓮高校で漢文を習う時に悟ることができる。,蓮△い銚腓譴襪。馬引きを見たときであろう。学校とは関係しない。そして、マデと訓むのだと知っているからと言って、あまり自慢にならない。なぞなぞの世界である。
 万葉集の筆記という作業は、ほぼ音声言語としてのみあったヤマトコトバにとって衝撃であった。かくて、無文字文化の“文化”が文字文化に出会うことによって不思議な現象、文字化のなぞなぞが生じている。文字文化以前の無文字文化の特徴が、なぞなぞにあることを示唆してくれている。なぜ“示唆”しかしてくれないかといえば、なぞなぞは記号変換ではないからである。駄洒落や地口は説明されるものではない。解説をつけると同時に興がさめてしまう。a comic stage dialogue(大喜利)がしらけてしまう。それまでは音声でしかなかったから、「人」や「麻続王」が歌を歌った時、当然、音声言語として歌が歌われたであろう。それは、無文字文化の“文化”に基づいて、裏打ちされて歌が歌われている。その無文字文化の常識として、記紀にさまざまな説話が残されている。偉大なるわれらがヤマトコトバの無文字文化の結晶である。日本の古代がどのようなものであったのかを知るためには、中国文明との交渉ばかりに捕われずに、なぞなぞ文化を解き明かしていくことが急務ではなかろうか。
(注5)万葉集に、「応歌」に類した「応詔歌」などや、「答歌」に類した「答御歌」などがある。それぞれの特徴について、研究すべき課題は多い。促されて応じたり、問われて答えたりしたことを意味する用字ではないかと推測するが、筆者は検証していない。仮にそうであるとすると、それらはコタフルことが予定されていた歌ということになる。一方、俎上の「和歌」は、影山先生のご指摘にあるとおり、自然発生的に唱和して和合したという意味合いを帯びていると考えられる。
(注6)「打麻乎」をウチソヲと訓むべきか、ウツソヲと訓むべきか、どちらでも「歌の解釈に直接影響を与えるほどではない」(村田、前掲書、282頁)とする説がある。ヤマトコトバが文字を持たなかった時代に、言葉は音声言語としてのみ存在した。現代人の頭で解釈することにおいて差がなかろうが、飛鳥時代の言葉としては、必ず1つの音で歌われたに違いない。2つの理由による。第1に、「麻(そ)」という名詞、すなわち、体言に動詞が掛かっているので基本的に連体形であろうと思われる。小田勝『実例詳解古典文法総覧』(和泉書院、2015年)の334頁、「終止形・連用形による連体修飾」の項に、「終止形が直接名詞に続くことがある」例として、「射ゆ獣(しし)を」(紀歌謡117)、「萎(な)ゆ竹の」(万420)、「流る水沫(みなわ)」(万1382・4106)、「流る辟田(さきた)の」(万4156)、「田に立ち疲る君」(万1285)、「新室を踏み鎮む児し」(万2352)、「連用形が直接名詞に続くことがある」例として、「恋忘れ貝」(万3711)、「植ゑ小水葱(こなぎ)」(万3415)の例があげられている。「打麻乎」をウチソヲと訓むとする考えは、連用形が直接名詞に続くことの一例とされるのであろうか。小田先生があげられている例に限れば、どちらも東歌であるように思われ、文法的に破格なのではないかと憶測される。(連用形が直接名詞に続く他の例については、文法研究者の指摘を仰ぎたい。)
 第2の理由として、23・24番歌は、題詞にあるとおり、「和歌」として綴られている。影山先生の「即和歌」の検討に、「鸚鵡返し」的な性格があるとの指摘があった。この23・24番歌についても、鸚鵡返し的に同じ言葉、同じ音をもって返しているところに、「歌」としての特徴が見出されるものと考えられる。24番歌の歌い出しが、ウツセミノとあるのは、23番歌がウツソヲとあったから、そのウツの音を捉え返して「和ふる歌」を歌ったものととるのが妥当であろう。今日の人にとって何となく心地よいと理由でウチソヲと訓んでいるに過ぎず、そう訓まれるべき根拠は見当たらない。以上から、「打麻乎」はウツソヲと訓む。(元暦校本萬葉集古河家旧蔵本の左側墨書傍訓、西本願寺本右側不思議な色傍訓にウツアサヲともある。他にウテルヲヲとする伝本もある。「麻続王」をミノオホキミと訓むなら、ウツヲヲかもしれない。いずれにせよ、「打」の訓は、ウツでなければならない。)
「ウツアサヲ」(小松茂美監修『元暦校本萬葉集 巻第一』(二玄社、1983年)10頁より。
(注7)「天武天皇」は漢風諡号である。生前の“名前”としては、オホアマさんであったろう。
(注8)後漢書・輿服志に、「冕服広七寸、長尺二寸、前円後方、朱緑裏、衣上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠、為十二施、以其綬采色組纓」、「爵弁一名冕、広八寸、長尺二寸、如爵形前小後大、繪其上爵頭色」などとある。
(注9)沈従文・王▼(予偏に予)編著、古田真一・栗城延江訳『増補版 中国古代の服飾研究』(京都書院、1995年)に、「[歴代帝王図巻の]画中で表現された服装は、隋・唐時代の画家が、ただ漢代の輿服志の三礼六冕の旧説および晋・南北朝時代の絵画や彫刻中の冕服を踏襲して描いた皇帝の冕服と侍臣の朝服の形式であり、漢や魏の本来の服装とは符合していない。しかし、この種の冕服形式および服飾の文様は後世に影響を及ぼし、封建社会の晩期においてもなお役立ち、宋(および遼・金)元・明の約1000年にわたって踏襲されたのであった」(215頁)とある。
「玉藻」のついた冕冠図(3:沂南漢代画像石墓の冕冠、4;司馬金龍墓出土の漆画屏風に描かれた楚王の冕冠、5;集安高句麗壁画の仙人が戴く冕冠(上書、216頁、王亜容挿図より)
 似た形状に、孝明天皇の礼冠があるが、旒は周囲にめぐらせてある。
孝明天皇の冕冠(米田雄介『正倉院宝物の歴史と保存』吉川弘文館、平成10年、妻任茲蝓
 旒に用いたのではないかとされるものが、正倉院に残っている。
礼服御冠残欠(正倉院北倉157、真珠・瑠璃玉垂飾)(正倉院事務所編『正倉院宝物 北倉供毎日新聞社、1996年、55頁より)
 米田、前掲書によれば、この礼服御冠残欠は、聖武天皇・光明皇后が、天平勝宝四年(752年)四月九日、東大寺大仏開眼会において身に着けたものとされる。続日本紀、同日条に、「盧舎那大仏の像(みかた)成りて、始めて開眼す。是の日、東大寺に行幸(みゆき)したまふ。天皇、親(みづか)ら文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ。其の儀、一(もは)ら元日(ぐゑんにち)に同じ」とあって、儀場の雰囲気(装束や施設、音楽や舞)が同様であったとされている。「元日朝賀の儀とは、元日に天皇が大極殿において群臣から賀を受ける儀式である。当日大極殿前庭に礼服を着た群臣らの居並ぶ中、天皇は冕服(べんぷく)を着して大極殿中央に設けられた高御座(たかみくら)に上り、群臣の再拝を受け、ついで前年に起こった祥瑞(しょうずい)の奏上を、さらに群臣の代表者が賀詞を奏上するのを聞かれ、新年の宣命(せんみょう)を宣下する。ここで群臣らは称唯(しょうい)再拝し、舞踏再拝する。この時、武官は立って旗を振り、万歳を唱える。かくして儀式は終了し、天皇は退出される」(30頁)とある。
赤漆八角小櫃(正倉院北倉157、丹慶55.5cm、高49.0cm、杉製漆塗、縁は黒漆塗)(正倉院事務所編前掲書、180頁より)
冠架(正倉院北倉157、赤漆六角小櫃付属、左:台縦30.6cm、横30.4cm、矢竹長43.5cm、基台と支柱は檜製、四隅支柱は矢竹製、右:高27.6cm、縦32.5cm、檜製)(同書、180〜181頁より)
 けれども、冠を納めたとされる櫃は四角いものを納める容器とは思われない。もはや、“残欠”から復元できはしない。なお、この品は第54回正倉院展(2002年)に出展されたことがある。
(注10)左注、天武紀四年条とも、「三位麻續王」と記されている。「續」字は「績」字の通用である。中国でもわずかにそのような例がある。「續」字は、今日、「続」字をもって常用としている。麻(を)を績(う)むことは、麻の繊維をとり出して撚ったり結んだりして継いでいくことだから、糸として続(續)くことになる。意味的な連関がある。また、「売(賣)」は常訓として、ウルと訓む。ウムとウルで語幹を共にする。と同時に、麻続王一家は連座させられている。芋蔓式に罪に問われた。績んだ麻は芋蔓のようである。また、ヲミノオホキミは三位であるはずが、降下させられて四位になるほどの罪を犯したという意味にもとれる。どういう罪かといえば、冠にまつわり天皇の位を冒するものであった。よって、「續」なる「四」の字が混入した字、「賣」の字が入っている字が好まれていると考えられる。筆者は、紀や初期万葉における異体字の形成について、筆記者の熟慮の跡が見て取れると感じられることがある。異体字研究に、一字=一音=一義の中国に倣って、一字=一訓=一義のヤマトカンジを創作しているふしがあると提言しておく。
(注11)「婦女の馬に乗ること男夫の如きは、其れ是の日に起れり」との記事は、注目に値する。女性が乗馬する風がこの日からというのではなく、男性のような乗り方、すなわち、跨って乗るのがこの日からとするものかもしれないからである。それまでは横座りであったかとも考えられるのである。本ブログ「太刀魚と馬の鬣、sword、「発掘された日本列島2015」展の形象埴輪について」に触れた項目である。古墳から出土する埴輪の横座り用の鞍は、実際にあったかもしれない。出土を俟ちたい。
(注12)志摩国が伊勢国から分立したのは、「……及び伊賀(いが)・伊勢(いせ)・志摩(しまのくに)の国造(くにのみやつこ)等(ども)に冠位(かうぶり)を賜ひ……」(持統紀六年三月条)とあるところから7世紀後半頃かとされている。記紀の説話上で問題なのは、「嶋の速贄」なる語句と、「モズの早贄」という常套句との関係である。また、「百舌鳥耳原(もずのみみはら)」(仁徳紀六十七年十月条)という言葉も検討に値しよう。これらについては別に論じる。
(注13)公出挙の場合、aを貸し付けられると、1年後に完済するための返済額は計算上3/2×a(=1.5a)である。これは借金の返済だけであり、公租公課は別であったと思われる。養老令・雑令に、「凡そ稲粟を以て出挙(すいこ)せらば、任(ほしいまま)に私(わたくし)の契(けい)に依れ。官、理すること為ず。仍つて一年を以て断(さだ)むること為よ。一倍に過すこと得じ。其れ官は半倍(はんべ)せよ。並に旧本(くほん)に因りて、更に利(り)生(な)さしめ、及び利を廻らして本と為ること得ず。若し家資(けし)尽きなば、亦上の条に准へよ」、同・賦役令に、「凡そ調物(でふもち)及び地租(ぢそ)、雑税(ざふぜい)は、皆明らかに、輸(いだ)すべき物の数を写して、牌(ひ)を坊里に立てて、衆庶(しゆしよ)をして同じく知らしめよ」の「雑税」の個所、義解に、「謂、出挙稲及義倉等、是也」とあり、地租とは別に出挙稲という借金の返済があった。ただし、地租負担は3%程度と軽かったそうである。結局、公出挙をa受けて、班田の収量をbとすると、1.5a+0.03bを“税”として納めることとされていた。一粒万倍には今日でもならず、300倍程度であろうか。仮に飛鳥時代の標準的な収量が1粒50倍であったとして、まるごと種籾を公出挙で借り受けていると、10000粒獲れても200粒借りているから300粒(公出挙分)+300粒(地租分)で計600粒納める計算になる。手取りは9400粒である。政府の側からすると、豊作不作の別なく基本料のように毎年入ってくるのが公出挙の返済分ということになる。200粒借りて、不作の年で5000粒しか獲れなくても、公出挙分は変わらず300粒、地租分は150粒、計450粒納めることになる。手取りは4550粒である。出挙の重税感は否めないであろう。豊作の年には翌年の種籾を確保して出挙で借りないようにしておかないと、不作で堪らない年が来ることになる。(以上は取らぬ狸の皮算用にすぎない。とはいえ、近世に稲を作付せずに畑にしてしまったり、現代に減反補助金を当てにしながらの三ちゃん農家が増えてしまったり、後継者不足で自家作以外放棄されるなど農政が難しいのは、取らぬ狸の皮算用がある程度利いてしまうせいであろう。)
(注14)藤田省三『天皇制国家の支配原理』(みすず書房、2012年)参照。なお、「玉藻(ぎょくそう)」のついた冕冠を天武天皇が被ったとして、それをタマモと呼んだとは限らないではないか、という設題に対しては、非常に高い精度をもってタマモという訓をあてたであろうと考える。政治史において、純粋な意味での“天皇制”は歴史上2回しかなかったとされる。近代天皇制と古代天皇制である。いずれも科学技術や文化芸術を先進的な外国に負いながらも、精神的支柱を自らの内に求めようとするため、近代においては敵性語である英語を使わずに不思議な言い換えが行われた。古代においても然りであろう。事は精神論である。先進的な外国文化に憧れ実用しながら、外国語は使わないという矛盾した行いをしている。言葉を拠りどころとするのが、“民族”という幻想を抱かせるのに最も適した方法といえる。藤田先生の仰る“天皇制”の真髄は、言語学的にも確かであると考える。筆者には、“天皇制”成立の基礎のひとつではないかと思われる。ただし、麻続王の「玉藻」のような語は、ほぼヤマトコトバで成り立つ万葉集においては、例外的な言葉といえる。歪んだ国粋主義を諷刺した歌が23番歌である。タマモという言葉を使うこと自体が、語用論的にシニカルである。他のいわゆる訓読語(ケダシ(蓋)、イマダ(未)、ホリス(欲)といった語)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期に作られたと思われる新語ではあるが外来語ではない。economy を「経済」、battery を「電池」と言って日本語化したことの古代版かとも見紛うが、近代に主に名詞が造語されている。両者の共通点、相違点について検討すべき課題は多く、とても興味深いものがあるが、本稿の主旨からは離れるので問題提起に止めておく。
(注15)万22番歌、「常処女の歌」について、訓は定まっているといえるのであろうか。稿を改めて別に論じる。
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