古事記・日本書紀・万葉集を読む

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十握剣(とつかのつるぎ)を逆(さかしま)に立てる事

2017年08月16日 | 論文
 十握剣(十掬剣)(とつかのつるぎ)が「逆(さかしま)」に立つ例は、次の3例である。はじめに、今日、ほぼ定訓とされている形で示す。

 二(ふたはしら)の神、是に、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)りて、則ち十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、倒(さかしま)に地(つち)に植(つきた)てて、其の鋒端(さき)に踞(うちあぐみにゐ)て、大己貴神(おほあなむちのかみ)に問ひて曰はく、……(神代紀第九段本文)
 是を以て、此の二(ふたはしら)の神、出雲国の伊那佐(いざさ)の小浜(をはま)に降(くだ)り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、其の剣の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ゐ)て、其の大国主神(おほくにぬしのかみ)に言ひしく、……(記上)
 明旦(くるつあした)、夢(いめ)の中の教へに依りて、庫(ほくら)を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒(さかしま)に庫の底板(しきいた)に立てり。即ち取りて進(たてまつ)る。(神武前紀戊午年六月)

 上2例は、国譲り場面で、大国主神を脅す際に立てられている。第3例は、神武天皇の東征で、熊野において霊験あらたかな剣が夢のお告げどおりに立っている。
 大国主神への慎重な脅し方は、「倒」状態で見せることである。大系本補注に、「神武即位前紀戊午年六月条の高倉下の条に武甕雷が韴霊(ふつのみたま)の剣を下し、倒しまに庫の底板に立ったことが出ており、武甕槌系の剣霊の出現の仕方として、尖端を上にして立つ剣が考えられていたのであろう。」(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀 上』岩波書店、1967年、568頁)とある。
 尖端を上にするというこの説は、広く認められた考え方である。新編全集本頭注には、「剣を逆さに立てることは、武甕雷神が韴霊(ふつのみたま)の剣を下す(神武即位前紀戊午年六月条……)例にもみられ、刀剣神の出現を意味する。その先に趺坐(ふざ)する行法は、本来神の出現を願う司霊者の行為。「踞」はすわりこむ意。ここは「趺」に同じく、足を組む、あぐらをかく意。アグムは古訓。」(小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年、117頁)とある。また、西郷信綱『古事記注釈 第三巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)には、「「逆に」というのは、剣は鋒(サキ)で刺すものであるのに、ここは柄の方を波頭に刺してたてたからである。高倉(タカクラジ)が天照大神から霊剣を得る書紀の条……[も]おそらく神剣の示現形式であったのだろう。「逆に」つまり剣鋒を上に刺し立て云々というこの建御雷の姿も、剣を属性とする神の示現の形に他なるまい。」(265頁)とある(注1)
 剣の先を上とするのが「逆」であるとする考えは、本居宣長にすでに見られる。古事記伝に、「○逆刺立(サカサマニサシタテ)とは、剣は、鋒(サキ)を以テ刺(サス)ものなるに、是レは柄の方を刺立(サシタツ)る故に、逆(サカサマ)と云り、」、「○剣前(ツルギノサキ)は鋒なり、上にも御刀前(ミハカシノサキ)などあり、【延佳本に、前を麻閇(マヘ)と訓るは、いみしきひがことなり、こは剣ノ鋒に趺坐むは、甚(イト)あるまじきことなり、と思へるからの強事(シヒゴト)なり、凡て近キ世の人の、漢籍(カラブミ)にへつらへる、なまさかしら心は、みなかくの如し、】書紀には、抜十握剣ヲ、倒-植(サカサマニサシタテテ)於地(ツチニ)、踞テ其ノ鋒端(サキニ)とあり、【是レをさへ白井氏などが、其ノ前(マヘ)に踞る由に註したるは、いかにぞや、さては鋒ノ字は何の用ぞ、いと可笑(ヲカシ)くこそ、】」(大野晋編『本居宣長全集 第十巻』筑摩書房、昭和43年、96頁、旧字体は改めた。「国会図書館デジタルコレクション」(342/600)参照。)、「然れば書紀に踞其鋒端ニとあるは、剣ノ鋒に腰(コシ)を懸坐(カケヲル)を云る」(同、97頁)とある。
 文中に白井氏とあるのは、白井宗因・日本書紀神代私説(延宝二年)のことか。本居宣長は、自身、「鋒」の字をもって「漢籍(カラブミ)にへつらへる、なまさかしら心」があったように思う。見慣れている刀(かたな)、それは片方に刃がついていて、他方が嶺となっているものの場合、「鋒」とあれば確実に先端部を指すと知れよう(注2)。ところが、今問題にしているのは、両刃の剣である。先っぽで刺したり突いたりすることが、この“武器”の活用方であったとは思われない。刺し突くものとして指向するなら、もっと尖ったものを作ればいいと思う。剣は、そうではなく、全身が“刃”であり、刃がまわり連なって巡っていることが特徴である。牙のような刃がめぐり連なっているからツルキ(ギ)と呼ばれたのではなかろうか(注3)
 すると、「鋒」という字で表意しているところは、実は全身につるんでいる、どこの“刃”の端でもかまわないことなのかもしれない。すべてが鋒となっているものこそ、剣であると言えるのである。
通説のように、剣の刃のあるところに腰掛け坐ると、当然のことながら尻は切り裂けよう。結跏趺坐によるヨーガの先達だから、浮遊するとでもいうのであろうか。武甕槌神(建御雷之神)(たけみかづちのかみ)や経津主神(ふつぬしのかみ)、または天鳥船神(あめのとりふねのかみ)らは、カルト集団の教祖ということなのか。神武紀の例でも、刃の先の方を上にし、例えば頭椎(くぶつち)の方を土や床板に刺さるような状態を指すとされている。木製の把(柄、つか)が外れて、茎(なかご)が剥き出しになって刺さったとでも言うのであろうか。考古遺物に、稲荷山鉄剣の銘文の向きは、剣の刃の切っ先を上にして書かれている。その位置づけが「逆(さかしま)」であると当時の人に認識されていたとは想像しづらい。
金錯銘鉄剣(埼玉県行田市稲荷山古墳出土、古墳時代後期、471年、「さきたま史跡の博物館」
剣(つるぎ)(さきたま稲荷山古墳出土金象嵌銘鉄剣復元品、「工芸文化研究所」様)
 筆者は、反対であると考える。なぜなら、神代紀の例で、椎(槌)(つち)と土(つち)は同音であり、一致していたら「倒」ではないからである。語学的証明である。「二神」(経津主神・武甕槌神)は、「踞其鋒端」したとある。二神が蹲踞しているとは、「鋒端」、つまり、両刃の剣の刃の両サイドに控えていることであろう。横綱土俵入りの際、西方か東方か、登場した横綱の両サイドには2力士が控えている。神武前紀戊午年六月条でも、底板に突き刺さっているのを「即取以進之」とある。柄頭が上にあるから「即」抜き取れる。柄が底板を抜いて立っていたら、刃ばかりで取るのに手を拱いてしまう。
 記上に、「逆刺立于浪穂」とある。わざわざ「刺」と接頭して書いてあるものを、柄頭を波頭に入れると考えるのは困難である。「刺」ことができるのは、先が尖っているからである。波頭に刺し立てることが「逆」であると感じられるのは、波頭を「浪穂」と表現したように、青い波の上の方に砕けはじめの白さがある。反対に、「十掬剣」は、木製漆塗りか、革で覆われた把(柄)の黒い部分を上、白い刃の部分が下を向いている。そして、これは両刃剣である。
 神代紀に「鋒端」とある。古訓には「鋒端」にサキとしかない。切っ先のことと解されているが、両刃の剣の切れるところは、至るところ牙のような刃がめぐり連なっていてどこでも切れる。すなわち、至るところ「鋒」である。新撰字鏡に、「鋒鏠 二作同、孚共反、鋭端、支利(きり)」とある。錐のように刺さり尖るところは、正面から見ているとどこにもないようでありながら、横から見ると刃の尖端ばかりあることに気づく。古事記では、続く場面で、建御名方神が建御雷神の手を取る。

 ……故、我、先(ま)づ其の御手を取らむと欲ふ」といひき。故、其の御手を取らしむれば、即ち立氷(たつひ)に取り成し、亦、剣の刃に取り成しき。故、爾に懼(お)ぢて退き居(を)りき。(記上)

 手には建御雷神の本地神の姿、十掬剣が顕れていた。立氷は、垂氷(たるひ)、すなわち、つららの上下反対の形である。

 十二月廿四日、……日ごろ降りつる雪の今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷(たるひ)いみじうしだり、地(つち)などこそむらむら白き所がちなれ、……(枕草子、302)
朝日さす 軒のたるひは 解けながら などかつらゝの むすぼゝるらむ(源氏物語・末摘花)

 日本書紀では、「端」字について、ハシと確実に訓む例が多い。「瓊端(たまのはし)」(神代紀第六段一書第二)、「甲端(よろひのはし)」(允恭紀五年七月条)、「縄端(なはのはし)」(顕宗紀元年二月是月条)、「大きなる木の端(はし)……小(すこし)きなる木の端(はし)」(継体紀二十三年四月是月条)、「鐶(みみかね)の端(はし)无(な)きが如し」(推古紀十二年四月、憲法十条)、「床席(しきゐ)の頭端(はし)」(天智紀三年十二月是月条)などとある。また、一定の幅をもって両側に端(はし)に有するところから、布の単位としてムラとも訓まれている。究極の使われ方として、「無端事(あとなしごと)」(天武紀朱鳥元年正月条)といった例もある。言=事のつながりに端緒がないことの問い、すなわち、なぞなぞのことである。正解は知識としてあるのではなく、お題を提示した人の思考の巡りをどこかでほどいて見極め、答えを導くものである。
 ハシの訓が多いなか、「鋒端」をサキとばかり固執してはいけないようである。剣の名所の切っ先のことであるとは言い切れない。それに対応する古事記の「剣前」についてみると、一般に、ツルギノサキと訓まれている。「前」をサキと訓んでいることによって、日本書紀のほうも「鋒端」をサキと訓んでいる。ドミノ式理解である。しかし、記にある「剣前」の「前」をサキと訓んでいて良いのかわからない。
 古事記では、「前」字にサキ、マヘと訓む例が多い。場所を表す場合、「御刀之前(みはかしのさき)」、「気多之前(けたのさき)」、「笠沙之御前(かささのみさき)」、「訶夫羅前(かぶらさき)」、「甜白檮之前(あまかしのさき)」といった使われ方をしている。細長い物の先端部分、地形の岬の部分など、空間に突き出たところを表している。他方、神さまを祭る場合、「墨江之三前大神(すみのゑのみまへのおほかみ)」、「いつく三前(みまへ)の大神」、「御前(みまへ)に仕へ奉る」、「吾が前(みまへ)に」といった使われ方をしている。神さまの前のところでお祭りをすることが求められている。
 場所以外の時間に用いられる場合、「以前(さき)」といい、また、「其の媛女(をとめ)等の前(さき)に」、「最前(いやさき)」というように、列の先頭にいることもサキという。すると、サキとマヘとの間に、語意の違いが見て取れる。front にいて向こうを向いているのがサキ、対面してこちらを向いているのがマヘということになる。
 記の「其剣前」は場所性を表しているからサキとしか考えられないと思われている。しかし、その根拠とされる「前」のマヘ・サキ論には盲点がある。古事記で、「前」字には別の訓み方がある。「高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つのが)」、「床前(とこのへ)」である。越前国について、その「前」字の意味合いは、都に近いところである。諸国は、都のヤマト朝廷に仕え奉ることと想定されていた。当然、都の方を向いていなければならない。都の要求に、ハイハイと答えなければならない。そっぽを向かれては困る。だから、都から赴く場合、越の国の列としては一番後方にあるけれど、先頭ではないのに「前」と記され、ミチノクチと訓まれている。
 もうひとつの、「床前(とこのへ)」については、縦穴式住居においても、寝るために一段高くした「床(とこ)」(ベッド状遺構)が設えられていたとされている(注4)。用例は三輪山伝説中にある。

 赤土(はに)以て床前(とこのへ)に散し、へその紡麻(うみを)を以て針に貫き、其の衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ。(崇神記)

 「床」のどこが「前」なのか、サキでもマヘでもない。床を取った藁布団か何かの周囲、周辺、辺りということである。その場合、「前(ヘ、ヘは甲類)」を表す。「上(へ、ヘは乙類)」とは別語である。

 明星(あかほし)の 明くる朝(あした)は 敷栲(しきたへ)の 床の辺(へ)去らず 立てれども ……(万904)
 蟋蟀(こほろぎ)の 吾が床の辺(へ)に 鳴きつつもとな 起き居つつ 君に恋ふるに 寝(い)ねかてなくに(万2310)
 里遠み 恋ひうらぶれぬ 真澄鏡(まそかがみ) 床の辺(へ)去らず 夢(いめ)に見えこそ(万2501)
 頭辺、此には摩苦羅陛(まくらへ)と云ふ。脚辺、此には阿度陛(あとへ)と云ふ。(神代紀第五段一書第七)

 近いところ、あたり、ほとりのことを言う「辺」のことをヘ(甲類)と言っている。

 十握剣(十掬剣)の「鋒端」=「剣前」とはどこかが明らかとなった。すなわち、剣を刺した部分のヘ(甲類)のところである(注5)。記紀ともに、ヘ(乙類)の部分を表すとすると、辺りに当たるところであると述べていることになる。ちょうど「地」や「浪穂」や「底板」にぴったり当たっているのだから、辺りと考えるのは当たりであると確かめられて明解となる。これこそ語学的検証と言える。すなわち、

 其の鋒端(くちさきら)に踞(うちあぐみにゐ)て、(神代紀第九段本文)
 其の剣の前(へ)に趺(あぐ)み坐(ゐ)て、(記上)

ということになる。紀の「端」字にはヘ(乙類)という訓が他に見られないため、近縁語のクチサキラとした。
 クチサキラという語は、新訳華厳経音義私記に、「吻 無粉反、脣の両角の頭辺を謂ふ也。口左岐良(くちさきら)」とある。和名抄に、「脣吻 説文に云はく、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉といふ。」、「觜〈喙附〉 説文に云はく、觜〈音斯、久知波之(くちばし)〉は鳥の喙也、喙〈音衛、久知佐岐良(くちさきら)、文選序、鷹の礪の曰ひ也〉は鳥の口也といふ。」とある。名義抄で、「話 サキラ」とあるのは、巧みな言葉の義で、意味が拡張している。もともとの意味は、口の端、口の脇、鳥のくちばしを言っていた。
 ラは接尾語で、辺りのことをいう。中村幸彦・阪倉篤義・岡見正雄編『角川古語大辞典 第五巻』(角川書店、平成11年)に、「ら【等】接尾」に、「②一般的な体言に付いて、ややぼかした表現とする。そのものだけに限らず、同類のものを含めたり、周辺のものにまで及ぼしたりする。」(882頁)と解説する。

 …… 香ぐはし 花橘(はなたちばな) 下枝(しづえ)らは 人皆取り 上枝(ほつえ)は 鳥居(とりゐ)枯(が)らし ……(紀35)
 荒野(あらの)らに 里はあれども 大王(おほきみ)の 敷き座(ま)す時は 都と成りぬ(万929)
 大野らに 小雨降りしく 木(こ)の本(もと)に 時と寄り来ね 我が思(も)へる人(万2457)
 吾妹子(わぎめこ)と 二人わが見し うち寄(え)する 駿河の嶺(ね)らは 恋(くふ)しくめあるか(万4345)
 ひさかたの 天の河津に 舟浮(う)けて 君待つ夜(よ)らは 明けずもあらぬか(万2070)
 富人(とみひと)の 家の子どもの 着る身無み 腐(くた)し棄つらむ 絁綿(きぬわた)らはも(万900)

 クチサキラは、クチサキのどこらへんのことを指すかと言えば、さきらへん、辺りのことを指す。それは、先端というよりも、口角のところを言っているようである。和名抄に、形体部・鼻口類と、羽族部・鳥体に記載されている。口先の達者なのは、おしゃべり上手のことを言う。剣(つるぎ)に近い音の鳥にツルがいる。「鶴の鳴き声」(「m nehanaha」様)でご覧のとおり、しっかり上を向いて鳴いており、剣の上下の「逆」とは餌をついばんだ時のことと知れる。
ツル(丹頂鶴自然公園、「メデタイ・ツルタ」様)
 今、両刃の剣について見ている。鳥のくちばしは2つ合わさってできている。同じように、刀の背(嶺)を合せたような姿が、両刃の剣である。クチサキラと訓むことの正しさの傍証の一である。その二は、クチサキラの最後の二音、キラにある。「鋒端」の「端」字は、日本書紀で、「端正(きらぎらし)」(神代紀第十段一書第第三)、「端麗(きらぎらし)」(雄略紀二年十月条)、「端厳(きらぎらし)」(欽明紀十三年十月条)などと訓む。キラが2つ合わさった語として成っている。刀の光の反射は振り回すに1度のきらめきであるが、剣の光の反射は、2度である。きらぎらしい(注6)。クチサキラという語は、よく考えられた語であると言える。そして、布が幅を持っているがためにその単位には、「端(むら)」という助数詞を用いる。同じくラという音が接尾しているのがその三である。
 つまり、剣のあまり尖っていない突端を上にするのではなく、ふつうに地面や波頭に上から下へと突き刺して、その突き刺された場所の付近、辺りに、二神は蹲踞したり、趺坐していたということになる。宙に浮くようなことを、「踞」や「趺坐」と書き表すことはない。刃の上に「踞」や「趺坐」することももちろんできない。
「逆手」(「日本護身協会公式ブログ」様)
 殊更に「逆(さかしま)」と言っている。第一に考えられるのは、持ち手のあり方の違いである。順手でなく逆手のことが念頭にあるのであろう。ヤクザ映画に“どす”を逆手に持って乗り込んだ先の事務所の机に突き刺すシーンがある。「どす」という語については、脅すの略ではないかとされている。あいくちのことをいう。十握剣も、同様に用いられている。実用品というよりも、脅しの材料に用いられている。古事記の「浪の穂」に上から剣を突き刺す場合、波頭の上昇するのとは反対の方向へ、すなわち垂直方向で下へと剣は向かうこととなる。本来の威儀具としての剣の用法の「逆」ということになる。
 神武紀の例では、「庫(ほくら)の底板(しきいた)」に逆さに突き刺さっている。これが「逆」である所以は、そこが「庫(ほくら)」、つまり、神庫のことを指すからであろう。「庫(ほくら)」については、「神庫、此には保玖羅(ほくら)と云ふ。」(垂仁紀八十七年二月条)とあり、ホコラ(祠)へと音転する語である。名義抄に、「秀倉 ホクラ、一云神殿」とある。ホクラのホは、「浪の穂」のホに同じである。高く抜きんでていて人目に立つ部分である。そして、ホクラは高床式倉庫である。
 剣の各部の名称は、刃のある部分が身、それに鞘で包んで保護し、手で握るところは把(柄)(つか)である。顕示するために輝く身を上に掲げる。ツカは下にくる。高床式倉庫も、倉庫の空間に宝物や穀物を納める。そこがクラの身(み、ミは乙類)の部分となり、実(み、ミは乙類)を入れておくわけである。そして、「底板」の下には、たくさんの束柱が立っている。
「掘立柱建築の構造の変遷」(植木久「建物の構造」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学6―人々の暮らしと社会―』同成社、2013年、90~91頁)
 日葡辞書に、次のようにある。

 Tçuca. l, tçucabavira. ツカ.または,ツカバシラ(束,または,束柱) 床板などの下に,それを支えるために立てる小さな柱,すなわち,支柱.¶Tçucauo cǒ.(束を支ふ)ある材の下にこの支柱を立てる.
 Tcuca. ツカ(柄) 刀の柄,または,小刀などの柄.(土井忠生・森田武・長南実編・訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、622頁)

 ものの上下として、ツカ(束、把)が下、ミ(身、実)が上である。それが、いま、ツカが上、ミが下に「逆」に突き刺さっていると言っている。
 以上、ヤマトコトバに書かれてある事柄について、ヤマトコトバによって解釈した。「倒植」は漢語であるとか、神話学的小理屈を捏ね回すことはしていない。ヤマトコトバしか知らない人が語り聞く言い伝えに、それ以外の何らの知識による伝承はあり得ない。わからないからである。わからなければ、一代限りの話として消えていく。消えずに残されて記紀に記されているのは、ヤマトコトバの話(咄・噺・譚)として理解でき、共感できたからである。面白がって伝えている。仮に、今日の記紀研究で流行しているように、天皇制の正統性をそこでいくら一生懸命に訴えてみても、その場限りに消えて行ったに違いない。つまらないからである。今日のいわゆる“学界”は、基本的なスタンスを踏み誤っている。

(注1)最近論じられたものとして、岩田芳子『古代における表現の方法』(塙書房、2017年)がある。考え方は基本的に踏襲されている。

 [記紀]両伝とも、十掬(握)剣を抜き、逆さまにして、その上に「趺坐(踞)」(あぐみ)をして坐したとある。「前」は、空間的にはある位置を中心に据えた、その前方部を指すが、『古事記』では、「御刀之前」(神代記 迦具土殺害)、「甜白檮之前」(垂仁記)など細長い「もの」の尖端を表わす意が見られる。「気多之前」(神代記  稲羽素菟)、「御大之前」(同 少名毘古那)、「笠沙之御前」(同天孫降臨)、「訶夫羅前」(神武記)は岬の意で、空間において突き出した先端部をいうと考えられる。逆さまというのは、刃の先端を上に向けて立てたということ。その上に座ることは、通常なら考えられない行為である。『古事記」ではさらに、それが「浪の穂」の上で行われたとある。(44頁)

 「通常なら考えられない行為」が想定されていることが、十掬剣や建御雷神の凄さであると仮定して検証されている。当たり前の話であるが、「通常なら考えられない行為」は、通常考えられないのだから、上代においても考えられない。1人の人が考えたとしても、話として伝わることはない。わからないからである。わからない話が残されているのは、今日の人にとってわからない話であり、当時の人にはわかっていた話である。冷静になってきちんと読み直す必要がある、ただそれだけである。「逆(さかしま)」という強調や、「端」や「前」と記されている意味合いについて検討すればよい。
 岩田先生は、「「剣」で「もの」を刺す行為は本来、刃を対象に向けて行使する。それが「逆」であることは力が対象とは逆、この場合は上方に向かっていることを意味する。」、「「剣」の刃が上を向いている状態であることを示す「逆(さか)しま」という表現は、「剣」の霊威が対象(建御雷神の場面では刺し立てる場所)とは逆の方向に向くことを意味する。」(52頁)とされている。その前提にしたがって、「もの」の表現方法について議論を展開されている。「もの」をいかに表現するかといった、言葉が後付けされるとのお考えは本末転倒である。言葉が切り取ることによって世界は存在している。初めに言葉ありきである。無文字文化において、抽象的な思考が行われて形而上学たることはあり得ない。
(注2)刀の名所については、「王曰、天子之剣何如。曰、天子之剣、以燕谿・石城鋒、齊代為鍔、晋衛為脊、周宋為鐔、韓魏為夾。……」(荘子・雑篇・説剣第三十)の高山寺本鎌倉初期訓点に、「鋒」にサキ、「鍔」にヤキハ、「脊」にミネ、「鐔」にツミハ、「夾」にツカとある。これは、片側に刃の付いた刀である。両刃剣に「脊(背)」となる峰は見えない。日葡辞書に、「mine.ミネ(嶺・峰) 山の頂上.¶catanano mine. (刀の峰)刀(catana)の背のとがった所.」(上掲書、407頁)とある。
(注3)拙稿「剣大刀(つるぎたち)考」参照。
(注4)小泉和子『室内と家具の歴史』(中央公論社(中公文庫)、2005年)参照。
(注5)大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、1974年)に、「へ【辺・端・方】(一)〘名詞〙《最も古くは、「おき(沖)」に対して、身近な海浜の意。また、奥深い所に対して、端(はし)・境界となる所。或るものの付近。また、イヅヘ(何方)・ユクヘ(行方)など行く先・方面・方向の意に使われ、移行の動作を示す動詞と共に用いられて助詞「へ」へと発展した》①海の岸辺。……②端(はし)にあたる場所。……③近い所。ほとり。あたり。……(二)〘接尾〙①…の方。方向。……②《時間に用いて》大体その頃。」(1146頁)とある。
(注6)推古天皇が、「姿色(みかほ)端麗(きらぎら)しく、進止(みふるまひ)軌制(をさをさ)し。」(推古前紀)と形容されるのは、右から見ても左から見ても美人であり、秩序立って乱れないことを言っている。豪族間の左派、右派どちらからみても同じであって、ヲサ(長)たる人としてふさわしかったということになる。
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剣大刀(つるぎたち)について

2017年08月12日 | 論文
 万葉集のなかで、ツルギタチの語があるのは、次の22例である。ツルギの字には、釼(13例)、剱(1例)、𠝏(3例)、劔(2例)、また、仮名書きで、都流伎(2例)、都流藝(1例)と用いられている。枕詞とされている「剣大刀(つるぎたち)」として万葉集中に、それがかかる語は、(a)「身に添(副)ふ」(万194・217・2637・3485)、(b)「磨(と)ぐ」(万3326・4467)、(c)「斎(いは)ふ」(万3227)、(d)「名(な)」(万616・2499・2984)、「己(な)」(万1741)である。剣や大刀は、身に添えて佩くもので、砥石を使って磨いでおくもので、大切にして斎うものであり、また、刀(かたな)の刃(な)に通じるものだからナ(名、己)にかかるとされている。

(a)群
 …… 嬬(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 釼刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寐(ね)ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ ……(万194)
 …… しきたへの 手枕(たまくら)纏(ま)きて 釼刀 身に副(そ)へ寐(ね)ねば ……(万217)
 𠝏(剱の旁が刀)大刀(つるぎたち) 身に取り副ふと 夢(いめ)に見つ 何如(いか)なる怪(け)そも 君に相(あ)はせむ(万604)
 釼刀 身に佩き副ふる 大夫(ますらを)や 恋とふものを 忍びかねてむ(万2635)
 うち鼻ひ 鼻をそひつる 釼刀 身に副ふ妹し 思ひけらしも(万2637)
 都流伎多知(つるぎたち) 身に副ふ妹を とり見がね 哭(ね)をそ泣きつる 手児(てご)にあらなくに(万3485)
(b)群
 …… 釼刀 磨ぎし心を 天雲に 念ひはぶらし ……(万3326)
 都流藝多知(つるぎたち) いよよ磨ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(万4467)
(c)群
 …… 釼刀 斎ひ祭れる 神にし座(ま)せば(万3227)
(d)群
 𠝏大刀 名の惜しけくも 吾は無し 君に相はずて 年の経ぬれば(万616)
 吾妹子(わぎもこ)に 恋ひし渡れば 釼刀 名の惜しけくも 念(おも)ひかねつも(万2499)
 𠝏大刀 名の惜しけくも 吾は無し このころの間の 恋の繁きに(万2984)
 常世辺(とこのへ)に 住むべきものを 釼刀 己(な)が心から おそや是の君(万1741)

 そのほか、紀には、「風の音の如くに大虚(おほそら)に呼ばふもの有りて曰く、『剣刀(つるぎたち)太子王(ひつぎのみこ)や』といふ」(履中紀5年9月)なる、枕詞かと推量される言葉が載っている。
枕詞とされない実体を伴った例には、以下のものがある。

(e)群
 釼刀 諸刃の利きに 足踏みて 死なば死ぬとも 君に依りなむ(万2498)
 釼刀 諸刃の上に ゆき触れて 死にかも死なむ 恋ひつつ有らずは(万2636)
(f)群
 釼(つるぎたち) 鞘ゆ納野(いりの)に 葛引く吾妹(わぎも) 真袖もち 着せてむとかも 夏草苅るも(万1272)
 …… 釼刀 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡山(いかごやま) 如何にか吾が為む 往辺(ゆくへ)知らずて(万3240)
(g)群
 …… 大夫(ますらを)の 心振り起し 劔刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 梓弓 靫(ゆぎ)取り負ひて ……(万478)
 …… 大夫(ますらを)の 男子(をとこ)さびすと 都流伎多智(つるぎたち) 腰に取り佩き 猟弓(さつゆみ)を 手握(たにぎ)り持ちて ……(万804)
 …… 梓弓 手に取り持ちて 剱大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り ……(万4094)
 大夫や 空しくあるべき 梓弓 末振り起こし 投矢もち 千尋(ちひろ)射渡し 劔刀 腰に取り佩き ……(万4164)
(h)群
 虎に乗り 古屋を越えて 青淵に 鮫龍(みづち)とり来む 釼刃(つるぎたち)もが(3833)

 他に実体としてのツルギとして、

(コマツルギ)群
 …… 狛釼(こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に ……(万199)
 高麗釼(こまつるぎ) 己が心から 外(よそ)のみに 見つつや君を 恋ひ渡りなむ(万2983)

があり、地名として、

(ツルギノイケ)群
 御佩(みはかし)を 釼池(つるぎのいけ)の 蓮葉に ……(万3289)

の例があり、刃物のタチとしては、以下のような例がある。

(タチ)群
 …… 大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り佩かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし ……(万199)
 絶ゆと云はば わびしみせむと 焼大刀(やきたち)の 辺付(へつ)かふことは 幸くや吾が君(万641)
 焼刀(やきたち)の 稜(かど)打ち放ち 大夫の 禱(ほ)く豊御酒(とよみき)に 吾酔(ゑ)ひにけり(万989)
 …… 懸佩(かけはき)の 小釼(をだち)取り佩き ……(万1809)
 …… 焼大刀の 手柄(たかみ)押しねり 白檀弓(しらまゆみ) 靫取り負ひて ……(万1809)
 劔(たち)の後(しり) 玉纏(たままき)田居(たゐ)に 何時(いつ)までか 妹を相(あひ)見ず 家恋ひ居らむ(万2245)
 他国(ひとくに)に 結婚(よばひ)に行きて 大刀(たち)が緒も 未だ解かねば さ夜そ明けにける(万2906)
 家にして 恋ひつつあらずは 汝が佩ける 多知(たち)になりても 斎ひてしかも(万4347)
 夜伎多知乎(やきたちを) 砺波(となみ)の関に 明日よりは 守部遣り添へ 君を留めむ(万4085)
 麻久良多之(まくらたし) 腰に取り佩き ま愛(かな)しき 背ろがめき来む 月(つく)の知らなく(万4413)
 大夫と 思へるものを 多知(たち)佩きて かにはの田居に 芹そ摘みける(万4456)
 朝夕(あさよひ)に 哭のみし泣けば 夜伎多知能(やきたちの) 利心(とごころ)も我(あれ)は 思ひかねつも(万4479)

 ツルギタチの(a)群の「身に副ふ」とのつながりは、(タチ)群には見られない。(b)群の「磨ぐ」とのつながりは、(タチ)群には見られない。ただし、「磨ぐ」と同根の言葉とされる「利し」は(e)群の万2498番歌、(タチ)群の万4479番歌に見られる。(c)群の「斎ひ祭る」は、(タチ)群には見られない。(d)群の「名(な)」、「汝(な)」とのつながりは、(コマツルギ)群に見られ、(タチ)群の方では、万4347番歌に「汝(な)が取り佩き」から続いているものの、前置きであるから関係がないといえる。(e)群の「諸刃」は、ツルギに唯一の特徴であり、(タチ)群には見られない。(f)群の「鞘」は、タチ全般にあっておかしくないはずであるが、(タチ)群には見られない。ただし、万2245番歌の「劔の後」は鞘のことかともいわれる。(g)群の「取り佩く」とのつながりは、(タチ)群にも見られる。
 以上から、タチのなかでのツルギに特徴的な言葉遣いは、身に副い、ナが重要要素で、諸刃であり、鞘が目立ち、磨ぐべきもので、斎い祭るものであるらしい。そして、特別に取り佩くものではないといえる。ツルギ(ツルキ)の語源について、「吊る+佩き」とする旧説があったが、音転に無理があるとされている。語義自体にもそぐわないものがあるといえる(注1)
 今日、枕詞と呼ばれる概念が、上代の人たちにどのようにあったか謎である。例えば、古墳に当たる言葉はツカ、ミサザキなどとあげられる。だが、枕詞に該当する上代語が何であったか不明である。落語の小噺の洒落を後から説明するのは不調法とされるから、そのレベルのことなのかもしれない。
刀2本で剣1本(直刀、奈良時代、8世紀、物打から切先、東京国立博物館研究情報アーカイブズから作成)
 拙稿「鞘の歌」でも述べたとおり、剣の特徴は両刃(諸刃)にある。和名抄に、

 刀 四声字苑に云はく、剣に似て一刃なるを刀と曰ふといふ。〈都窂反、大刀、太知(たち)、小刀、加太奈(かたな)。〉
 長刀 唐令に云はく、銀装の長刀といふ。又云はく、細刀といふ。〈之路加禰都久利乃奈加太知(しろかねつくりのなかたち、細刀、保曽太知(ほそたち)〉
 短刀 兼名苑に云はく、刺刀〈能太知(のたち)〉といふ。短刀也。
 剣 四声字苑に云はく、刀に似て両刃なるを剣と曰ふといふ。〈挙欠反、今案ずるに僧家の持たる是れ也。〉
 属鏤 広雅に云はく、属鏤〈刀朱反、文選に豆流岐(つるぎ)と読む。〉は剣也といふ。

とあり、刀と剣を一刃(かたな)、両刃(もろは)と対して記されている。片刃の対語は真刃(まな)である。剣は、刀身の両方に刃がついている。刀身が「身」である。どちらから見ても、身は刃(な)を着けている。したがって、「身に副ふ」や、「名(己)(な)」という表現がくっついてくる。人間が「身に副ふ」から、枕詞にかかっているとだけ考えるのでは、言葉として面白味に欠ける。それを“枕詞”で表す必要はない。刀(片刃)の場合、身を背とすれば置いた時に刃をこぼつことはないが、剣は諸刃だから背をもたず、剥き出しはふさわしくない。必ず鞘に納める必要がある。斎い祭るべきなのは、剣の霊性、神聖性ではなく、ツルギが真刃(まな)だからである。すなわち、マナとは真魚、今もまな板とよばれるマナである。適当につくろった食事ではなく、おいしく贅沢な食事である。それはまず、神さまへのお供えとして作られ、後でおろしてきて皆で食する饗の御馳走である。したがって、「斎ひ祭る」につながり、御馳走のことは、マウケともいう。座を設けるのである。材料を前もって各地から取り寄せ、下拵えをして入念に準備して、豊明節会の宴席で供される。設けるからマウケであり、あらかじめ準備して設定しておく次の天皇のことを、「儲君(まうけのきみ)」という。したがって、履中紀のように、ツルギタチは「太子王(ひつぎのみこ)」を導くとも考えられて然るべきである。直接的に、ヒツギノミコという音へかかる理由については、拙稿「逆(さかしま)に十握剣(とつかのつるぎ)をたてる事」を参照されたい。
 ツルギということばの語源を問う試みとしては、なお、「吊る+キ(ギ)」とする説が有力とされている。武井睦雄「「ツルギ」と「タチ」―古代刀剣名義考―」(『築島裕博士傘寿記念国語学論集』汲古書院、平成17年)は、ツルキのキをカムロキ、スメロキ、ヒモロキのような、霊威あるもの、神聖なものを指す語尾、タチを「手+チ」として、チはイカヅチ、ノツチ、カグツチ、ミツチ、ヲロチのような、霊威あるもの、神聖なものを表す語尾と捉えている。そして、タチとツルギとは同一のものを表す場合があるから、霊威の位取りとして格別なものをツルギとしていったとする説を説いている。
 語源を探ることは容易ではないが、タチを「手+チ」としてハンドパワーを語に形成しているとは信じがたい。タチ(大刀)を「断ち」と解釈する従来からの説に違和感はない(注2)。長く続いているものを途中で断ち切ること全般を表す語が、動詞のタツ(断・絶・裁)である。和名抄・征戦具に、「大刀(たち)」が記され、実戦で敵兵の身体を切断するのに使われることが少ないとして、「大刀」と「断ち」とは無関係であると考えることは不自然である。斬首に使われたのは「大刀(たち)」であったろう(注3)。和名抄の解説に、その霊性については一切触れられていない。形状ばかりを説明している。言葉の認識に霊性を示さないのは、そのような考えがなかったからであろう。結果的に現代人が霊性を感じるように思っているだけではないか。
 和名抄にあげた最後の項目、属鏤(しょくる)が興味深い。属鏤は、呉王夫差が伍子胥に死ぬように与えたとされる名剣の名である。史記・呉太伯世家に、「子胥に属鏤之劔を賜ふ」とあり、春秋左氏伝・哀公十一年にも記事が載る。文選には、張衡の呉都賦に「属鏤を扶(ぬ)き揄(ひ)く」とある「属鏤」は、「ショクルのツルギ」という読みがいわゆる文選読みである(注4)。しかし、どうして数ある名剣のなかで、わざわざ和名抄は取りあげたのか。それにはそれなりの理由、すなわち、属鏤という字面から、ツルキと訓ずべき意を読み取ったからと思われる。属は旧字に屬、尾+蜀、牝牡相連なることを示す。説文に、「属 連なる也、尾に从ひ蜀声。」、また、「鏤 剛鉄なり。以て刻み鏤(ゑ)る可し。金に从ひ婁声。夏書に曰く、梁州、鏤を貢ぐといふ。一に曰く、鏤釜也といふ。」とあって、はがねのことを指す。したがって、固有名詞のはずの属鏤が、刃が刀身のまわりを連なっている剣の様子をよく捉えている。そう認めたから載せているものと考えられる。すなわち、連なるのツルと、牙のキの意、それがツルキである。
  剣(つるぎ)(さきたま稲荷山古墳出土金象嵌銘鉄剣復元品、「工芸文化研究所」様)
チェーンソー(「リョービ株式会社」様)
 牙(き)は仮名書きの例がなく、キ音の甲乙の区別がつけられていない。大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、1974年)には、「ki」(348頁) と甲類扱いしてあるものの、三省堂の『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、1967年)、白川静『字訓』(平凡社、1987年)には、甲乙不明とする。ただし、白川先生は、「「きさ[象]」の「き」はあるいは「牙(き)」の意であろう」(268頁)とされている。また、「「きさ」とは象牙の文理をいう語であったかも知れない。」、「「牙」が「木」と同根ならば[キは]乙類である。」(同頁)、「牙と芽との関係は、牙(き)と芽(きざ)すとの関係に同じ。両者類想の語である。」(266頁)とある。しかし、仮に植物にキザシがあっても、木にならずに「葦牙(あしかび)」のように草になるかもしれず、また、木(き)の特徴を木目文様のみに還元することも難しい。
 名義抄に、「牙、キバ・キ・キザス」とある。関連しそうな語句として、古文献や古辞書に使用されている漢字を示すと、

 キザシ 兆・牙・芽・萌・剋
 キザム(キサム) 刻・銘・尅・劃・剋・刊・鏤・彫・黥
 キサグ 刮
 キサゲ 鐫
 キル 切・断・斬・伐・割・剔・截・鋋・戮・誅・翦・鑽・燧
 キリ 錐
 キダ 段・分・常
 キダキダ 寸
 ヱル 雕・琱・鐫・剜・刻・鏤
 ウカツ(ウガツ) 穿・鑽・貫・穴・掘・鑿
 ケヅル 削・刮・梳・劂・剔・剽・剥・斬・銛・省・刻
 クジル 抉・挑・剜・掘・鑽・削
 コズ 抉・掘

となる。このうち、キサグ、キル、キダ、キダキダについては仮名書きがあり、キは甲類である。名詞形のキサゲ、キリも同じである。枕詞タマキハルのキは甲類で、「霊尅」(万897)、「玉切」(万678)と書かれ、「年切(としきはる)」(万2398)という語から、キハルは刻の意かとされる。
 記上に、「𧏛貝比売(きさかひひめ)きさぎ集めて」とある。𧏛は字書に見えない字であるが、和名抄に、「蚶 唐韻に云はく、蚶〈手談反、弁色立成に岐佐(きさ)と云ふ〉は蚶の属、状、蛤の如く円くして厚く外に理、縦横に有り、即ち今の魽也といふ。」とある。石に張り付いた大穴牟遅神をこそげ取るために派遣されたと考えられている。掻きこそぎ削る意味の「刮(きさ)ぐ」のキは、記に「岐佐宜集而」とあって甲類である。音の洒落としか考えにくいので、アカガイを表す蚶(きさ)のキも甲類であろう。
 和名抄には、「橒 唐韻に云はく、橒〈音雲。漢語抄に云はく、岐佐(きさ)といふ。或(あるひと)説きて、岐佐は蚶の和名也、此れ木の文と蚶貝の文と相似れり。故、名を取るとととく。今案ずるに和名は義を取りて相近し。以て此の字を木の名と為(す)あんず。未だ詳らかならず。〉は木の文也といふ。」とある。また、「象 四声字苑に云はく、◆(象の上部に寫の下部)〈祥両反、上声の重、字亦象に作る。岐佐(きさ)〉は獣の名なり。水牛に似て大なる耳、長き鼻、眼細く、牙長き者也といふ。」とある。同じキサに、象・木目・蚶貝の三者がある。象牙は文目が目立ち、アカガイの殻も縦横の文目が特徴的である。本邦に elephant が知られたわけではなく、象牙のみ知られていた。他に、けば立っていることがあるのが共通点である。したがって、キサのキはいずれも甲類と定められる。
 象(きさ)のキは、牙(き)の意と捉えて間違いないであろう。鋭利な牙状のものによって刮ぎ、その文様が橒である。よって、牙のキも甲類であろう。同様に、牙状のもので「刻(きざ)む」のキも甲類らしい。「刻む」のキザは、「階(きざはし)」のキザで、細かく線を加え、「段(きだ)」をつけること、また、入墨することをいう。「段(きだ)」のキも甲類である。「寸(きだきだ)」は、遊仙窟の訓にキザキザともある。「兆(きざし)」についても、「牙+サシ」と解されており、キは甲類であろう。
 新撰字鏡に、「鏤 力豆反、刻也。益也。蓋し金(くがね)の知利波女(ちりばめ)」、名義抄に、「鏤、キザム・ヌル・ホリハム・チリバム・ヱル・ツルキ」とある。名詞としては、透かすように彫ることができるほど、先端が鋭利な金属製のものを指しているように思われる。したがって、属鏤は、たくさんの鋭利な牙が連なっているさま、剣の、かます切っ先の様子が復元されたことになる。すなわち、カマスの口のようにたくさん歯(刃)が並んで連なりついていて、どこでもドアならぬどこでも刃なのである。見た目、これほどこわいものはない。
 以上、ツルギタチという語、ならびに、ツルキ(ギ)について見てきた。ツルキ(ギ)のキ(ギ)は甲類で、牙(き、キは甲類)が連なっている様をもってツルキ(ギ)という語は形成されていると考証した。どこでもドアならぬどこでも刃なるものが剣の本性であるとの理解が、ツルキ(ギ)という語として人々の間に認められていた。言葉は共有されてはじめてコミュニケーションツールとなる。無文字文化の人が言葉を知るには、その言葉について、なるほどと納得行くことが条件である。共通認識が言葉を支えている。はじめて double-edged sword を目にした人が、それは何だと問うたとき、これはツルキ(ギ)というものだ、牙がつるつるつるんで連なっているだろうと言った時、アハ体験で悟ることで言葉は言葉として定まり広がっていく。無文字時代、ヤマトコトバは、具体的操作的なものであった。

(注1)ツルギは、権力の象徴として玉・鏡とともに掲げられるものであった。「……、予め五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜(こ)じ取りて、九尋(ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝(かみつえ)には白銅鏡(ますのかがみ)を掛(とりか)け、中枝(なかつえ)には十握剣を掛け、下枝(しもつえ)には八尺瓊(やさかに)を掛け、周芳(すは)の沙麼(さば)の浦に参迎(まうむか)ふ。」(仲哀紀八年正月)、「……五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(あなと)の引嶋(ひこしま)に参迎へて献る。」(同)とあって、キラキラ反射させて見せたに違いない。
(注2)拙稿「太刀魚と馬の鬣、sword、「発掘された日本列島2015」展の形象埴輪について」参照。
(注3)「即ち子麻呂等と共に、出其不意(ゆくりもな)く、剣(たち)を以て入鹿が頭肩を傷(やぶ)りつ。」(皇極紀四年六月)、「是に、二田塩(ふつたのしほ)、仍(すなは)ち大刀(たち)を抜きて、其の宍(しし)を刺し挙げて、叱咤(たけ)びて啼叫(さけ)びて、始(いま)し斬りつ。」(孝徳紀大化五年三月)とあり、実際に斬るにはタチが使われている。
(注4)中村宗彦『九条本文選古訓集』(風間書房、1983年)、小林芳規『平安鎌倉時代における漢籍訓読の国語史的研究』(東京大学出版会、1967年)参照。「鏤」一字ではヱルの意だからツルギとは訓めず、「属鏤」という熟語を以てツルギと訓むとされる。

※本稿は、「剣太刀について 其の一」・「同 其の二」(2013年1月)に加筆、訂正を加えたものである。
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「族(うがら)負けじ」について 其の二

2017年08月11日 | 論文
(承前)
 また、天秤棒の場合も、両側が釣り合うように荷や錘をかけている。荷を担ぐに際しては真ん中に人の肩がくる。鵜飼いの場合も、鵜籠を前と後ろに掛け、それぞれの籠に多ければ4羽ずつ鵜を入れて鵜舟へ運んでいる。この場合、必ず天秤棒の前と後ろに籠を掛ける。2羽だけ運ぶ場合にも、前籠、後籠に1羽ずつ入れて運ぶ。バランスがとれていなければ天秤棒は担げない。釣り合いのないチギリはあり得ない。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」(日本国憲法第24条)と謳われている。「維持されな」い婚姻が、今日、3組に1組あると言われるが、チキリ(チギリ)の決め方にアンバランスがあって支障を来たす場合も多い。無理やり担がなくてもいい時代になっているから、ちきり棒をすぐに下ろしてしまう。
鵜飼籠と天秤棒(「長良川鵜飼」様)
 菊理媛については、何と述べたのか記されないままに伊奘諾神は喜んでほめている。我が意を得たり、であろう。何と述べたのか書いてないのは、情報開示の際の海苔弁のためか、書かなくてもわかることかのいずれかの理由による。日本書紀ではほかに、「曰、云々。」という慣用表現がある。「天豊財重日足姫天皇、中大兄に位(みくらゐ)を伝へたまはむと思欲(おもほ)して詔して曰はく、云々(しかしかいへり)。」(孝徳前紀)といった記述である。発語したことはわかるが、言葉が聞き取れなかったか伏せられている。そういう記述と、当該記述、「白すこと有り。」で終わるのとでは、気持ちが異なる。おそらく、「菊理媛神」という他に見えない神が登場してきたら、もはや説明する事柄は、その名前に包含されていると考えられる。
 すなわち、ククリヒメという名義は、ククルことをする神を表すものであろう。ククルとは、括(くく)ることと漏(くく)ることが同じ言葉ですよ、そう教えてくれる神である。神が顕れたことによって名が現され、そのことだけで、事柄、内容はすべて表されている。鵜は、首を括られつつ、水を潜(くく)る。潜(くく)るという語は、水が漏れ出る意として使われることが多いが、密にあるものの隙間をぬって移行する意である。鵜が潜って獲物をねらう際の、潜水艦か魚雷のような進み方は、川の中の障害物となる岩石や藻の隙間をくぐり抜けていく様子によく適合している。
 菊理媛神が言っていたことは、その存在自体において既に表明されている(注8)。上位概念から下位概念を総括すること、ククル(括)こともしている。締め括りである。相手側代理人の泉守道者(よもつちもりびと)という者に対しても、同等に、その存在自体の矛盾の指摘へと向かう。道とあるからには通じている。そこをモリビトたるモル(守)という人がいる。同音のモル(漏)ことに同じであるというのである。だから、モル(漏)義のククル(潜)という名を負った神として、導かれるように菊理媛神は登場している。泉守道者がいかにモル(守)ことをしっかりやっても、そもそも道が通じているから守る役目を担っている。道が通じている限りにおいて、どうしたって通したくない犯罪者や謀反人が通ってしまう。モル(漏)ことは避けられない。道が通じていないのであればモル(漏)ことは起こらないが、そのとき、モル(守)必要はなく、最初から泉守道者などは存在しないということになる。
 この哲学によって、黄泉国からの脱出は終結する。離婚調停が成立して、伊奘諾尊は伊奘冉尊の束縛から解放され、「散去(あら)けぬ」こととして終わる。単に両者が別れましたという次元にとどまるのではなく、離婚劇そのものが幕を閉じ、舞台が滅失して完了している。枠組自体が霧消する(注9)。このような手際が記紀の話には頻繁に見られる。無文字文化に暮らした人々の言語能力の高さに感心させられる。
 ウガラ(族)という語を、「汝」に当てるような言葉の分解、拡張、頒布、拡散はできなかった。つまり、種蒔きをしようとしてもできなかった。だから、ウガラマケジである。「蒔(播)(ま)く」は下二段活用動詞である。伊奘冉尊のウガラ(族)概念の拡張は、離婚裁判で否定された。ウガラ(族)とは、親族の関係にある者をまとめていう語であって、その対象者のうちの1人に対しての呼称とするのは間違いであると認定された。uncountable な名詞である。菊理媛神の存在による表明により、括(くく)り潜(くく)ることの全肯定が確かならしめられた。ウが鵜であり、諾(う)であって正しいのである。
 同じくカラとついて同族関係を表す語に、ヤカラ、ハラカラがある。ヤカラのヤは屋の意、ハラカラのハラは腹の意である。お宅訪問をしたとき、一つ屋根の下からぞろぞろと出てきて紹介される家族がヤカラという一族、一人の女性のお腹から産まれたのがハラカラという兄弟姉妹である。その伝でいくと、ウガラとは、一つ鵜から出てきたのがウガラであろう。鵜は鵜飼漁にたくさんの魚を飲み込んでは吐き出している。今日でこそ観光鵜飼船にアユばかりを対象としているが、古くはボラの大きめの幼魚、イナにおいても多く行われていた(注10)。同じ鵜から出てきたのが、ウ(諾)という意とは反対のイナ(否)である点に、この頓知話の眼目はある。ウガラと言って紹介されるのが、イナ、イナ、イナ、……ばかり続いていくとなると、ウガラなる族はそもそも無いのだということになる。それがウガラマケジの証明に当たる。結婚によって成り立つのがウガラ、離婚によって成り立たなくなるのがウガラ、そういう語の設定である。実体としてより、関係性の中での仮構的存在として位置づけられる。
イナの大量発生(「伊勢志摩経済新聞」様)
 ウガラという語については、鵜の首結いにつけるウ(鵜)+ガラ(柄)のことであると洒落で見立てられたらしい。鵜飼の発祥地とされる日本や中国において、大きな獲物を飲み込めなくする首結いには、稲藁が用いられていた。これは、鵜飼人が引き操る手縄とは別仕立てである。放ち鵜飼の場合でも、首結いだけはしておく。大きな獲物が食べられるのに、何も人の管理下に入って小魚をねだる必要はなくなる。この首結いには、農家から調達しておいた稲藁を水に浸して柔らかくし、うまい具合に窒息せず、指が入るぐらいに緩めに苦しくないように結わいつけられる(注11)
鵜の首結いに稲がら(中国江西省、卯田宗平『鵜飼いと現代中国―人と動物、国家のエスノグラフィー―』東京大学出版会、2014年、61頁)
 稲藁のことは、古語に、単にワラ(藁)といい、また、イナガラ(稲幹)という。

 なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)(景行記、記34歌謡)

 常湛田の稲の、穂摘み刈りが終わった後の茎に、トコロイモの蔓が巻きついている有様を描いている。ヤマノイモの蔓は、どこから延びているのだろうかと不思議なほど途方もなく長く延びる。泥田の畦に太くなった根があるのかもしれない。
 カラという語は多様に用いられる。三省堂の時代別国語大辞典では、「から【柄】」、「から【韓・漢・唐】」、「から【柄】」、「から(助詞)」の4項目、大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、1974年)では、「から【族・柄】」、「から【萁・幹】」、「から【殻・軀】」、「から【韓・唐】」、「から【枯・涸・空・虚】[接頭語]」、「から[助詞]」という6項目を立てている。
 他方、白川静『字訓』(平凡社、1987年)では、「から〔殻(殼)・幹・茎(莖)・柄(◇(柄の旧字)〕」の1項目にまとめている。「「から」は外皮・外殻を意味するもの、草木の幹茎など、ものの根幹をなすもの、血縁や身分についてそのものに固有の本質をなすものなどをいう。みな同源の系列語である。このような基本語には、それぞれ語義に対応する漢字が選択されている。人には「からだ」という。……「から」は空(から)なるもの、枯れたるもの、茎の形のものなどを意味する語。それに対応するものとして殻・幹・茎・柄の四字をあげておく。」(258頁)とある。
 そんなイナガラ(稲幹)が稲藁である。それを鵜の首結いに用いる。すると、ウガラという語は、イナガラのことを指しているのではないかとも考えられる。鵜飼いは、鵜を10羽、20羽と飼っている。今日の鵜匠に、1人で12羽操る。ウガラよ、出ておいで、と呼んだとき、首結いをつけて準備の整った鵜が、小屋からぞろぞろと出てきたとして、それはまさしくウガラという語にふさわしい。それがみなイナガラをつけている。やはり、イナ、イナ、イナ、……ばかり続いている。
 ウガラが、鵜飼に用いられる鵜一族と洒落られたのかもしれない。日本の鵜飼の中国のそれとの違いは、今日見る限り、ウミウを使うことが多いことと、鵜飼いが鵜を繁殖させるわけではない点である。鵜飼小屋の鵜は、自然界の鵜を捕獲してきたもので、ほとんど「他人」ばかりのところを十把一絡げに集めてきている。そして、鵜小屋は一区画に2羽入れられペアとされている。そのペアリングは、カタリアイと呼ばれている(注12)。つがいのカップルのように思われているが、鵜の雌雄を見分けることは至難の業で、雌雄とは限らない。すなわち、ウガラ(族)なる概念を押しつけて来たのは鵜飼人の勝手で、鵜にしてみれば冗談じゃないと反発するであろう。伊奘諾尊も伊奘冉尊に惚れたときは女だと思っていたが、ひょっとしてあれはオネエではないかと感じたのである。「始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」と後悔の弁が述べられている。ウガラという語で一括りにされることは大きな間違いで、たまたま同部屋に入れられて、揃いの支度として首結いして決まっているだけなのであった。
 最後に、ウガラがウガラと濁っていて、ウカラと澄んでいない点について考慮しておく。イナガラ(稲柄)などを思わせる語である。人柄、家柄、国柄といったガラと濁る点は、本来のカラの意からは外れるかもしれない拡張概念の指標とされよう。だから、伊奘冉尊が猫なで声で、「族也、勿看吾矣。」と品を作って言い始めたのである。伊奘諾尊の反論は、語の状況設定、言葉を用いる際の枠組への反駁であった。ウガラなる概念を持ち出したとしても、それはほとんど役割語に傾斜している。この問答は、ウガラという語は、婚姻関係に伴って生じている虹のような言葉なのだ、と言い負かしきった話であった。関係性とは、実体としてはカラ(空)である。上代のヤマトコトバの、言葉によって言葉を定義して解釈する自己循環の美しい例を知ることができた。

(注1)白川、前掲書は、「まくら〔枕〕」について、「「枕(ま)く」に接尾語「ら」をそえて、その物をあらわす。「ら」は愛称的な語である。さらに動詞化して「まくらく」「まくらまく」というそれぞれ四段の動詞がある。」(693頁)としている。また、「枕(ま)く」と同じ語とする「娶(ま)く」について、「もとは「目(ま)く」で、目を動詞化した語であろう。」(691頁)としている。ただし、万葉集に、「枕(ま)く」、「枕(まくら)」関係の語、枕詞の「草枕(くさまくら)」などを含めて、仮名書きに「目」字を用いた例は見られない。
(注2)問題はわずかに存在する。「負く」は下二段動詞だから、否定推量の助動詞ジを承ける未然形にして「負けじ」となる。「巻く」や「枕く」、「娶く」系統の語は四段動詞だから、「巻(枕)かじ」、あるいは、「巻(枕)かれじ」、「巻き得(え)じ」などの形を取らなければならない。けれども、自動詞としての用法に、下二段動詞の存在した痕跡が見られる。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「「眉間ノ毫相ハ常ニ右ニ旋(まけ)リ」(西大寺本最勝王経古点)」(668頁)の例をあげている。前田本日本書紀訓に、「二の女の手に、良き珠(たま)纏(ま)けること有り。」(仁徳紀四十年是歳)とある。巻かれていることがあった、という意味である。すなわち、ウガラマケジの音から「巻く」、「枕く」、「娶く」の意として、族が巻かれる、まといつく、絡んでいる、という意に理解されることはあったと考えられる。須山先生の語源同一説は傾聴に値すると考えている。
(注3)最上孝敬『原始漁法の民俗』(岩崎美術社、1967年)に、「長良・小瀬をはじめその系統をひいて鵜飼を復活した土地では、すこぶる原始的な方法でテナワをつくっている。ヒノキ材を薄くへいだものの数日水にひたしてやわらかくし、数本の針のならんだ道具でこいて、細い糸とし、それで三ツ編にしてテナワをつくるのである。これはなかなか丈夫でありながら、ちょっとよりを戻した上でひっぱるとポツッときれる。ウが水中の材などにひっかかった時、即座にテナワを切って放さないと助からないことがあり、そういう時にこの性質が役立つという。」(41頁)とある。そういうことを知ってか知らずか、狩野探幽・鵜飼図屏風(大倉集古館蔵)の手縄の描写に、群青が使われている。
 民俗資料では、日本から中国にかけての鵜飼の手縄は、必ずしもヒノキの繊維を撚ったものに限らない。篠原徹『自然と民俗―心意のなかの動植物―』(日本エディタースクール出版部、1990年)には、「ウを操る手綱・タスキがシュロ縄からナイロン製に変わった。」(175頁)とある。以前から使われていたシュロ縄も、容易くは切れないものと思われる。ただし、複数の鵜を使うのは当然のように行われており、もつれないようにするには熟練の技量を要する。鵜は、縄のことなどおかまいなしに本能的に魚を捕まえに行く。輪にしたり上を下をとくぐっていく。絡んでしまったら舟をまかせて下流へやり、鵜をひとまず舟べりに上げて休ませながら、人の方が川に入って縄のもつれをほどいていく。商売道具がいちばん大切であることは、世の常であろう。
(注4)鵜は時に自分の身体に比べてあまりにも大きな魚を獲物にして飲み込もうとすることがある。大きすぎる魚を喉に入れたまま死んでいる姿が見られるという。ただし、窒息して死んだのではなく、飲み込もうとしてがんばっているうちに体力を消耗してつき果てるといわれている。
(注5)後述のとおり、鵜の首結いには藁が用いられる。朽ちやすいからむしろふさわしいのかもしれない。無益な殺生は、めぐりめぐって鵜飼に使う鵜の数を減らしかねない。自然保護の観点からそう考えたのではなく、そのようなことをすれば、自分の首を絞めることにつながるという言語的な“循環”論法があったのではないかと考える。
(注6)卯田、前掲書の「まえがき」には、「なぜ、鵜飼い漁を研究しているのか」にまつわる問いと答えのキャッチボールがある。「自然と人間のかかわり」について研究すると言った場合、その“かかわり”において、鵜飼は、まず鵜とかかわったうえで魚とかかわるという二重のかかわりが見られる。それは鷹狩にも見られるが、鵜飼の場合は複数の鵜を小屋で飼育し、鵜どうしのかかわりにも任せながら進められる。かかずらわりあうとでも呼べるような、譬えて言えば手縄や首結いの纏わりつきのような関係が、自然と人間との間、またそれぞれの間、またそれぞれの間の間に生じているのである。こうなると、「自然」や「人間」は、確固として存在しているものではないものへと転調を来たす。関係性をカラ(柄、空)と捉えていた上代人は、物事をよく理解していた。
(注7)上代に、承諾の意としてウと言っていたのか、疑問とする向きもあろう。

 否も諾も 欲しきまにまに 赦すべし 貌(かほ)見ゆるかも 我も依りなむ(万3796)
 何為(せ)むと 違(たが)ひは居(を)らむ 否も諾も 友の並々(なみなみ) 我も依りなむ(万3798)

 原文に、「否藻諾藻」と記される上の2例については、イナモモと訓まれたと考えられている。「否諾かも 我や然思ふ」(万2593・3470)、「否諾かも かなしき児ろが」(万3351)の原文に、それぞれ「否乎鴨」、「伊奈乎加母」、「伊奈乎可母」とあることから「諾」はヲと訓むからである。
 辞書に載る承諾の意の感動詞については、

 けふの内に 否とも共 云ひはてよ 人頼めなる 事なせられそ(信明集、970頃)

という用例が見られるばかりである。
 ただし、口語的表現を多く伝える日葡辞書は、「Vtomo mutomo fenji nai.(有とも無とも返事ない)……そうだともそうでないとも,返事をしなかった.」(土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年、674頁)という用例を載せる。これは、「V.ウ(有)」の項の例であるが、「Vm.ウㇺ(うむ)自分に向かって言われた事に同意するとか、それを了解したとかを示す感動詞.」(691頁)とも記されている。ウトモムトモについては、このウㇺという感動詞に有無という漢語を掛けて洒落で表した言葉であろう。ウンスンカルタに由来するかとされる、「うんともすんとも言わない」という類義語がある。
(注8)このような解説なしの解説が行われる点から、上代人のものの考え方が紐解かれることもあるであろう。くだくだしく説明を並べるようではまだまだである。言葉の中に矛盾が一切なければすでに言い尽くされており、根本命題にして第一定理であって絶対真理であるとする。その優位性は何ものにも代え難く、いかなる雑音も掻き消える。これを現代の研究者は、言葉の力などと浮ついた言葉で論じているが、まことに真なる言葉は表明されることさえない。本質直観されるのが、上代人の言語世界であった。
(注9)Erving Goffman 1974 “Frame analysis : An Essay on the Organization of Experience.” New York : Harper & Row.(Northeastern University Press, 1986, p.269.)
‘As suggested earlier, whenever an individual participates in an episode of activity, a distinction will be drawn between what is called the person, individual, or player, namely, he who participates, and the particular role, capacity, or function he realizes during that participation. And a connection between these two elements will be understood. In short, there will be a person-role formula. The nature of a particular frame will, of course, be linked to the nature of the person-role formula it sustains. One can never expect complete freedom between individual and role and never complete constraint. But no matter where on this continuum a particular formula is located, the formula itself will express the sense in which the framed activity is geared into the continuing world.’
 伊奘諾尊と伊奘冉尊は、黄泉国で再会して co-presence の状況になる。その状況の定義づけ framing が行われなければ、何が起こっているのか定められない。一次的枠組 primary framework によって共有されるはずの意味に齟齬が生じている。伊奘諾尊と伊奘冉尊とで、ウガラ(族)という一語をめぐって応酬が繰り広げられるのは、互いの framing の相違によるもので、それぞれの framing に則った異なるレベルの水掛け論が生じている。そして、伊奘諾尊の発した「ウガラマケジ(族負けじ)」という句と、菊理媛神という名の神の存在によって、伊奘諾尊が新たに下した一句の framing によって、framing of frame する離れ業をやってのけた。言=事であるのが、上代の言霊信仰のもとに暮らした人の通念であったから、a person-role formula において、gear-changing に成功したのであった。
(注10)拙稿「事代主神の応諾」参照。
(注11)中国での鵜飼の首結いについて、卯田、前掲書に、「首結いに使用される材料は稲わらのほか,麦わら,葦の茎,トウモロコシの茎,細長い布製の紐がある.このなかで稲わらの使用がもっとも多い.……稲わらが使用されている地域では周辺で水田稲作がおこなわれており,漁師たちは農家から調達してきた稲わらを自宅で乾燥させて保管している.カワウの頸に首結いを付けるとき,彼らはまず稲わらを水に浸し,手で何度ももむ.こうすることで乾燥した稲わらをやわらかくし,切れにくくするのである.首結いの結び方はいわゆる男結びである.」(60~61頁)とある。
(注12)最上、前掲書、77頁。
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「族(うがら)負けじ」について 其の一

2017年08月08日 | 論文
 族(うがら)という語は、親族の内でも限られた範囲を指すとされている。同じ「族」という字を用いても、ヤカラはかなり範囲の広い一族郎党のことを指す。では、ウガラという語はどのような結び付きを表しているのであろうか。
 家族や一族があるのは、もとより婚姻によって子供ができて家族の成員が増えていくことに依る。子どものいない独身の高齢者は、親族に含まれることはあっても自ら親族を構成していくことはほとんどない。つまり、族(うがら)がその時点でなければ、族(やから)は作れない。召使を雇えばそれは族(やから)になるかもしれないが、なかなかそのようにはならない。召使を雇えるほどの資産家であれば、誰かと結婚していていたり養子をとったりするのがふつうであった。また、独身のままでいて新たに召使を雇うことは、剣豪や先生にして、慕われる性格を持っているならともかく、治安の悪い時代にはとても危険なことであった。
 大系本日本書紀の補注には、ウガラマケジという付訓について疑問が呈されている。本文を提示したのち引用する。

 一書に曰く、伊奘諾尊(いざなきのみこと)、追ひて伊奘冉尊(いざなみのみこと)の所在(ま)す処に至りまして、便ち語りて曰(のたま)はく、「汝(いまし)を悲しとおもふが故に来つ」とのたまふ。答へて曰(のたま)はく、「族(うがら)、吾をな看ましそ」とのたまふ。伊奘諾尊 、従ひたまはずして猶(なほ)看(みそなは)す。故(かれ)、伊奘冉尊、恥ぢ恨みて曰はく、「汝已に我が情(あるかたち)を見つ。我、復汝が情を見む」とのたまふ。時に、伊奘諾尊亦慙ぢたまふ。因りて、出で返りなむとす。時に、直に黙(もだ)して帰りたまはずして、盟(ちか)ひ曰く、「族(うがら)離れなむ」とのたまふ。又曰はく、「族(うがら)負けじ」とのたまふ。乃ち唾(つは)く神を号(なづ)けて速玉之男(はやたまのを)と曰(まを)す。次に掃ふ神を泉津事解之男(よもつことさかのを)と号く。凡そ二(ふたはしら)の神ます。其の妹(いろも)と泉平坂(よもつひらさか)に相闘ふに及(いた)りて、伊奘諾尊の曰はく、「始め族(うがら)の為に悲(かなし)び、思哀(しの)びけることは、是吾が怯(つたな)きなりけり」とのたまふ。時に泉守道者(よもつちもりびと)白(まを)して云う(まを)さく、「言(のたまふこと)有り。曰はく、『吾、汝と已に国を生みてき。奈何(いかに)ぞ更に生かむことを求めむ。吾は此の国に留りて、共に去(い)ぬべからず』とのたまふ」とまをす。是の時に、菊理媛神(くくりひめのかみ)、亦白す事有り。伊奘冉尊聞しめして善(ほ)めたまふ。乃ち散去(あら)けぬ。……不負於族、此には宇我邏磨穊茸(うがらまけじ)と云ふ。(神代紀第五段一書第十)

 不負於族……下に宇我邏磨穊茸(ウガラマケジ)とあるので、それに倣ってウガラマケジと付訓する。その意は、「族に負けまい」で、女神が一日に千人絞殺すると言ったに対して、男神が一日に千五百人生ましめようと言った事を指す。日本語では、主格や目的格の助詞は、本来欠けている場合が少なくないのだが、「族に負けまい」というような場合に、補格の助詞「に」を欠く例はほとんど無い。従って、ここでウガラニマケジのニが無いのは極めて問題である。おそらくニを脱したのか、あるいは、族と不負とに、別々にウガラ、マケジと付訓してあったものを機械的に続けたものであろう。なお、これの上文の族離れなむは、後世行なわれた放氏と同じように氏から追放するの意であったか。(ワイド版岩波文庫①、345頁)
 
 上のような語の捉え方をすれば、補格の脱落は奇妙である。ここで、ウガラと呼んでいるのは、伊奘諾尊、伊奘冉尊、双方が双方をそう呼んでいるものと想定している。一方、「不於族」を「族(うがら)に負けじ」であるとしても、いささか不明瞭なことが起こる。そう訓んだ場合の解釈に、女神族に負けまい、とされている。男神族と女神族とが対立するとする考えは、それはそれで成り立つが、「男族」、「女族」という言い方は使われない。「不於族」と記されてあれば、「族」に「於いて」「負けない」こと、「族」という次元では負けないという意味にもとれる。「不負於族」とないのが不審である。最初の伊奘冉尊の言葉、「族也、勿看吾矣。」の「族」は、伊奘諾尊ひとりを指して、あなたは私を見るな、という呼びかけにすぎない。他の眷属は含まれない。「汝也、勿看吾矣」とせずに、ことさらに「族」という語を持ち出している。持って回った言い方である。私とあなたの仲じゃないか、と馴染んでしまった女に責められている。「汝は吾と族なり(汝与吾族也)。」を記述上で略して、「族也、……」として、「也」を断定の助動詞から間投の助詞へと転化させているように思われる。問題は、「族」という概念にありそうである。
 金紋敬「『日本書紀』古訓「ウカラ」「ヤカラ」考」蜂矢真郷編『論集古代語の研究』(清文堂出版、2017年)に、日本書紀の古伝本に付された古訓を網羅的にあげていって、その用いられ方から古語の義を確かめようとする研究がみられる。結論的には、「「ウカラ」は主に子や兄弟・親・妻など比較的身近な関係に使用されているのに対して、「ヤカラ」は同一先祖から結ばれた縦の関係(ここでいう「一族」)の場合に用いられることが明らかとなった。」(203頁)とある。
 「族(うがら)」なる語についての記述は、課題としている神代紀第五段一書第十に集中している。その箇所は、おそらく、語の定義をその使用によって明らかにしようとする試みであろう。当時の語の意識を反映するべく記述されているということである。他の例は以下の通りである。

 悉(ふつく)に親族(うがらやから)を集(つど)へて宴(にひむろうたげ)せむとす。(景行紀二十七年十二月)
 親族(うがらやから)篤(むつ)ぶるときは、民(おほみたから)、仁(うつくしびのこころ)に興らむ。(顕宗前紀)
 是を以て、今より以後(のち)、各(おのおの)親族(うがらやから)及び篤信(あつきまこと)ある者に就きて、一(ひとつ)二(ふたつ)の舎屋(やかず)を間処(むなしきところ)に立てて、老いたる者は身を養ひ、病(やまひ)ある者は薬を服(くら)へ。(天武紀八年十月是月)
 武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)笠原直(かさはらのあたひ)使主(おみ)と同族(うがら)小杵(をき)と、国造を相争ひて、〈使主・小杵、皆名なり。〉年経るに決(さだ)め難し。(安閑紀元年閏十二月是月)
 凡そ諸の考選(しなさだめかうぶりたま)はむ者は、能く其の族姓(うがらかばね)及び景迹(こころばせ)を検(かむが)へて、方(まさ)に後に考(しなさだ)めむ。(天武紀十一年八月)
 遂に其の妃(みめ)、幷(ならび)に子弟等(みうがらたち)を率(ゐ)て、間(いとま)を得て逃げ出でて、膽駒山(いこまやま)に隠れたまふ。(皇極紀二年十一月)
 ……終に子弟(うがら)・妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自ら経(わな)きて倶に死(みう)せましぬ。(皇極紀二年十一月)
 ……、布を白き犬に縶(か)け、鈴を著けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上(たてまつ)りき。(雄略記)
 大伴坂上郎女の親族(うがら)と宴(うたげ)する日に吟(うた)へる歌一首(万401題詞)
 栲綱(たくつの)の 新羅の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる 親族兄弟(うがらはらから) 無き国に 渡り来まして ……(万460)
…… 如己男(もころを)に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小剣(をだち)取り佩き 冬◆(蔚の寸部分が刄)蕷葛(ところづら) 尋(と)め行きければ 親族(うがら)どち い行き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓(をとめづか) 中に造り置き ……(万1809)

 「負けじ」にあるマクについては、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、

 まく【負く】自動カ下二/他動カ下二
 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。(1103~1104頁。この項、須山名保子先生)

とある。
 「負く」と「巻く」の“語源”が同じであるかについては、筆者は明言を避けたい。ただし、「長い物には巻かれろ」という受身形の慣用句があるから、関連する語であろうと察しはつく。また、マク(枕く)はマク(巻く)と同根の語である。共寝の相手の腕を枕にするとは、数分前、その腕で自分の身体は巻かれる行為に及んでいた。腕は、回しつけられ、まといつけられ、絡まされていた。それと、座(鞍)の意のクラが結びついて、マクラ(枕)という語は成っていると考えられる(注1)
 ウガラマケジと言い放たれた句の、マケジに「負けじ」だけでなく、「巻けじ」、「枕けじ」、「任(罷)(ま)けじ」というニュアンスが含まれていたとして、さほど問題はない(注2)。それどころか、かえってそのようなさまざまな言葉の意味のまとわりつきこそ、ヤマトコトバの精神に合致する。無文字言語であった。そして、今問題にしている当該語は、マクというまとわりつきを表す語である。ある言葉がその言葉自身を自己循環的に説明することは、音声しか持たない言葉にとって、当該語について相手を得心に至らしめる唯一無比の手段であり、ヤマトコトバの正当性の根拠である。
 マクという語については、さまざまな漢字を当ててそれぞれの意味を理解する手掛かりとなっている。辞書により挙げる字は異動するが、次のようなものが見られる。「負」、「敗」、「巻」、「纏」、「蒔」、「撒」、「播」、「枕」、「娶」、「任」、「罷」、「設」である。伊奘冉尊のウガラ(族)を「汝」の意へと拡大解釈させた言い方は、言葉を無理やり撚りつけた言い方である。その撚りをほどいた元の言い方が、「雖汝与吾族也、勿看吾矣」であったとすれば、伊奘諾尊の「不於族」という漢文調表記も、「不於族」の省略形であると考えられる。「族(うがら)」という概念に於いてあなたには負けまい、ということを、ウガラマケジと省いて簡潔に言っている。話は男神族と女神族の対立ではなく、離縁のことである。現在の民法でも、離婚した後で子どもの親権や養育権をめぐって争い、子には相続権が残る。それに通じる問題を、ウガラの一語に封じ込めてしまっている。その切れるようで切れないつながりを、ウガラという語で表しているらしい。すると、ウガラマケジが、「族」+「枕けじ」の意であるとする解釈は、両語が自己撞着的に収斂する意味を表すことになって面白い。ウガラというのだから夫婦であればマク(枕)ことは当たり前であるのに、それはもはやできない相談だと言っている。離婚宣言の第一発語、「族、離れなむ。」という意思表明のみならず、実地にセックスを拒んでいる。族(うがら)だということが自動的に枕(娶)くことにはつながらないと言っている。
 伊奘諾尊の離婚宣告は一方的である。その一方的な吐き捨てるような言辞から、2つの神が成っている。その後、泉平坂(よもつひらさか)という境目に、伊奘諾尊と伊奘冉尊とは対峙する。家庭裁判所の光景である。泉守道者(よもつちもりびと)は伊奘冉尊側の代理人である。依頼人の伊奘冉尊はこう言っている。「吾与汝已生国矣。」と主張している。単にセックスを拒まれているにすぎないと勘違いしている伊奘冉尊の観点は、泉守道者(よもつちもりびと)によって表されている。国はすでに生んだからもう共寝の必要はない、別居状態でかまわないという言である。セックスレス容認とは、周回遅れの議論である。
 そしてまた、ウガラマケジに、「任(罷)(ま)く」の義として直接的に解釈され得る。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、他動詞カ行下二段動詞の意として、「①任命して赴任させる。主として「任く」と書く。……②命令で宮廷から退出させる。主として「罷く」と書く。」(1103頁)とある。それぞれの例をあげる。

 ①即ち当国(そのくに)の幹了(をさをさ)しき者(ひと)を取りて、其の国(くに)郡(こほり)の首長(ひとごのかみ)に任(ま)けよ。(成務紀四年二月)
 ②時に皇孫(すめみま)、姉は醜しと謂(おもほ)して、御(め)さずして罷(ま)けたまふ。(神代紀第九段一書第二)

 ①と②とは、上位者が下位者に対して命令して行かせることながら、内容的にアンビバレントな関係にある。任命することも罷免することも同じマクである。最終的なマクの主体は首相の指示らしい。あるいは総理官邸の最高レベルのご意向なのかもしれない。ウガラマケジはウガラなるがゆえに「任(罷)く」ことはできないだろう、という意味になる。伊奘諾尊と伊奘冉尊は婚姻関係による2神である。婚姻届も離婚届も、提出するには両者の署名と押印が必要となる。一方的に決めることはできない。伊奘冉尊よ、黄泉国へ赴任してくださいとも、私のところから退出してくださいとも言えない。相互自己呪縛の関係が、婚姻関係、チギリ(契)であることをものの見事に写し取った言い方である。
 つづいて、「是時」とあって「菊理媛神」が登場している。一方が代理人を立てて弁論しているのだから、今度は伊奘諾尊側の代理人なのであろう。そのことは特に示されておらず、さらに菊理媛神の言った言葉も示されない。大きな謎掛けが仕掛けられている。そこでは、菊理媛神の言に成らぬ言辞によって、伊奘諾尊は伊奘冉尊が発した範疇不明瞭な言葉、ウガラに対して抗している。ウガラという語はそのように使う語ではないと否定してかかっている。そのような曖昧な拡大解釈は許されない、そんな勝手な言葉遣いには負けないぞ、という決意表明である。その際、語の定義を糺す方向へまっすぐ進むのではなく、売り言葉に買い言葉的に、伊奘冉尊がそう言うのであれば、その議論の設定に乗っかって言い返そうとしている。異なるレベルの言語活動が、ウガラマケジという発語に凝縮されている。語用論で議論されるさまざまな意味を逆にからめてしまい、一つの文脈、伊奘諾尊の伊奘冉尊に対する離婚宣告の第二発語場面において、言葉の爆弾となって効果的に炸裂している。現代の人が一語句一義との固定観念から考えて、助詞ニの脱落を誤りではないかと指摘していると、上代の人から、言語能力にずいぶん劣ると侮られるかもしれない。
 ウガラマケジという発語は、ウガラ負けじでありつつ、ウガラ巻けじであり、ウガラ任(罷)けじであると感じられる。そんなウガラが形となって現れているものとして、鵜飼の際に鵜にまとわりつけられる手縄があげられる。可児弘明『鵜飼―よみがえる民俗と伝承―』(中央公論社(中公新書)、昭和41年)に次のようにある。

 手縄はヒノキの木質部を細くさいて右撚りになったものであり、長さは平均三・三メートル、径三~五ミリである。ヒノキを材料にすると三つの利点がある。第一に水に浸すとさばさばして捌きやすいため、ウが篝火の下で縦横に動いてももつれにくい。第二に引く力に強く耐えることであり、手縄をたぐってウを手もとに引きよせるのにつごうがよい。第三に川に障害物が多く、これに手縄がまきつくとウが水上に浮かびあがれず、 [ママ]溺死する危険がある。この時は間髪をいれず、気合いとともに手縄をねじきる必要がある。ヒノキの繊維は、撚りをもどすとたやすく切れる。こうした利点をかわれて、ナイロン時代にも化繊をうけつけない。(101~102頁。旧字体は改めた。)

 鵜を手元へ引き寄せるためにつけられる手縄が、上古からヒノキの繊維(注3)を撚ってできたものであったとすれば、鵜と鵜飼人との間の関係がうまくいかず、こじれていることと対比対照させられる。そのとき、鵜飼では、手縄は両者の結びつきを離すように逆に捻り返して切ってしまう。そうしないと、その1羽が溺れて死んでしまうだけでなく、絡んだ縄の先の鵜までも連鎖的、多重的に溺れ死んでしまう。1羽にこだわるとすべて失いかねない。そうなると、鵜匠(鵜使い)自身が生産手段をなくして路頭に迷うこととなる。負のスパイラルが生じる。だからすばやく捻って、縄を切る。もはや鵜縄は巻けないから、ウガラ(鵜柄)+マケジ(不巻)である。
 そして、伊奘冉尊が伊奘諾尊に対してなれなれしく、ウガラ(族)などと呼びかけたことに対して、ウガラ(族)というものは、本来、集合体のことを呼ぶ語であると捉え返している。上の仮説設定では、ウ(鵜)一族、鵜の仲間たちのことである。鵜飼いに飼われている鵜たちは、人間界の I や You、一人称(「吾」)でも二人称(「汝」)でもなく、神さまの男女、伊奘諾尊はと伊奘冉尊でもなく、三人称、他人称に当たると考えられる。ウガラマケジとは、鵜一族は負けないだろうとの謂いである。
鵜は、小さいうちに人に捕らえられ魚を捕るよう調教させられる。アユやイナ(ボラの幼魚)などを捕まえ、代わりに小魚をもらって食べ暮らしている。首結いをつけられているから大きな魚を飲み込むことができない。それはただ単に、人が鵜の丸飲みの性質を利用した魚法にすぎない(注4)。鵜自身は、解き放たれて首結いがはずれれば自活していける(注5)
 鵜は、ウと呼ばれている。人間の言語は、自然科学にDNA鑑定されて付けられるのではなく、恣意的である。あるとき、人との関係で交わりを持った動物は、それによって命名を受ける。鵜がウと名づけられたのも、鵜飼という興味深い人間の使用に耐えたことに由来するのであろう(注6)。ウカヒ(鵜飼)がウガヒ(嗽)と同根であることはよく知られる。同じようにガラガラとして、ペッと吐き出す所作をする。その吐き出す様が、ウッという吐き出し方、頷く姿勢をとるところにから、ウと名づけられている。もちろん、語源の証明ではなく、語感としてそうであったろうとする仮説である。検証はできない。ご自身でウガイ(嗽)をして口の内容物を吐き出してみればわかることである。
鵜飼船(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、199頁)
 その際、必ず頭を前へ下げる。お辞儀をしてウッと吐き出す。上を向いたまま吐き出したら、むせたり誤嚥性肺炎になる。このお辞儀の姿勢は、ウ(肯)である。「肯・宜(うべ)」、「宜(うべ)し」、「諾(うべ)なふ」、「諾(うべ)なむ」、「諾(うべ)な諾な」という言葉となっている(注7)

 東(ひむかし)の 市の植木の 木(こ)足るまで 逢はず久しみ 宜(うべ)恋ひにけり(万310)
 春ならば 宜(うべ)も咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜(よ)眠(い)も寝(ね)なくに(万831)
 …… 人そ多(さは)にある 浦を良み 諾(うべ)も釣(つり)はす 浜を良み 諾も塩焼く あり通(かよ)ふ ……(万938)
 今造る 久邇(くに)の都は 山川の 清(さや)けき見れば 諾(うべ)知らすらし(万1037)
 闇夜(やみ)ならば 諾(うべ)も来まさじ 梅の花 咲ける月夜(つくよ)に 出でまさじとや(万1452)
 …… 山川を 清み清(さや)けみ 諾(うべ)し神代(かみよ)ゆ 定めけらしも(907)
 高光る 日の御子 諾(うべ)しこそ 問ひ給へ 真(ま)こそに 問ひ給へ ……(仁徳記、記72歌謡)
 …… 大刀(たち)ならば 呉の真刀(まさひ) 宜(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(推古紀二十年正月、紀103)
 天照大神の曰はく、「諾(うべ)なり。〈諾、此には宇毎那利(うべなり)と云ふ。〉」とのたまふ。(神武前紀戊午年六月)
 直(ただ)に逢はず 有るは諾(うべ)なり 夢(いめ)にだに 何しか人の 言(こと)の繁(しげ)けむ(万2848) 
 …… 人の子ゆゑそ 通はすも吾子(あご) 諾(うべ)な諾な 母は知らじ 諾な諾な 父は知らじ ……(万3295)
 …… 諾(うべ)な諾な 君待ち難(がた)に 我が着(け)せる 襲衣(おそひ)の裾に 月立たなむよ(景行記、記28歌謡)
 やすみしし 我が大君は 宜(うべ)な宜な 我を問はすな ……(仁徳紀五十年三月、紀63歌謡)
 〈其の服(うべな)はざるは、唯星の神、香香背男(かかせを)のみ。〉(神代紀第九段本文)

 すなわち、互いにウと言い合う間柄こそ、ウガラと呼んで言葉的に間違いない。互いにウンウン頷き合っている間柄の若いカップルを、デートスポットのベンチに見ることができる。ウンウン吐いている鵜と、ウンウンよしよしと撫でるようにしている鵜飼いの関係である。給料を運ぶだけの伊奘諾尊に対して、ちょっとだけ料理を食べさせて喜ばせる伊奘冉尊という関係へと飛躍している。
 そんなこんなで伊奘諾尊は離婚したがっている。そもそも結婚とは契約である。売買契約や賃貸契約など、契約にはいろいろあるが、結婚という契約は、比喩として、鵜と鵜飼人との関係と見、自分たちに当てはめてそれで良しとする契約と思っても大きな誤りはないであろう。契約とは古語に、チキリ(チギリ)(契)である。チキリ(榺)とは、機織りの道具で、別名、緒巻(をまき)、経巻具のことである。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音勝負の勝、漢語抄に知岐利(ちきり)と云ふ〉は織機の経(たていと)を巻く木也といふ。」、新撰字鏡には、「機𦝘 知支利(ちきり)」とある。その形は、両端を太く、中央を細くしてある。武器とする棒にも、同様の形状の乳切木(ちぎりぎ)があり、天秤棒の棹秤(さおばかり)の一種も扛秤(杠秤)(ちぎり)という。男と女が両端にあって、中央は細いがしっかりとくっついている。そこへ経糸を巻きつけて引っ張りわたして機織りをする。機織りで梭(杼(ひ)、シャトル)を左右へ繰るのは、実は単純作業である。日々の暮らしのなかにある。肝心なのは、機拵えである。織り始める前段階で、経糸が布巻具から筬を通って機にかかり、榺で機種(はたくさ)を嵌ませて巻きあげテンションを整えてある。その最初の決め方が重要である。この第一段階をなおざりにしていい加減にしてしまうと、しっかりした織物は織り上がらない。織りの運命は、人生でどんな人と契るのかで決まるのと同じである。万事チキリ(チギリ)にかかっている。
ヒンギ・コンブ(肩布)(首架動物文様経絣、インドネシア・スンパ、19世紀)
榺(日本民家園実演品)
(つづく)
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井戸への呪詛話

2017年08月06日 | 論文
 雄略紀に、井戸(注1)を呪詛する話が載る。

 是月、御馬皇子(みまのみこ)、曾(いむさき)より三輪君身狭(みわのきみむさ)に善(うるは)しかりしを以ての故に、慮(みこころ)遣(や)らむと思欲(おもほ)して往(い)でます。不意(おもひのほか)に、道に邀軍(たふるいくさ)に逢ひて、三輪の磐井(いはゐ)の側(ほとり)にして逆(あひ)戦ふ。久(ひさ)にあらずして捉はる。刑(つみ)せらるるに臨みて井を指して詛(とご)ひて曰く、「此の水は百姓(おほみたから)のみ唯(ただ)飲(の)むこと得む。王者(ひとのきみたるひと)は、独り飲むこと能はじ」といふ。(雄略前紀安康十月是月)

 この話が何を表しているのか、昨日まで明らかにされていなかった。今日、本稿によって明らかとなる。
 この記事は、雄略天皇が他の皇位継承資格者たちを滅ぼしていった記述の最後に当たる。付けたり的で何のことやら意味不明になっている。御馬皇子は以前から三輪君身狭と親交があった。雄略天皇が暴れているので、身を守ろうとして頼ろうと出掛けてみると、想定外のことに、道に敵軍が待ち構えていて、三輪の磐井の側で戦う羽目となった。じきに捕らえられて刑に処せられることとなり、その井を指差して呪詛したというのである。タミ(百姓)は飲めるが、キミ(王者)だけは飲めないからな、と言ったのである。
 何のことやらわからないのは、何より文字として見ているからである。当時は無文字時代である。人は声としてしか言葉を知らない。ならば、声に出して読みあげてみればいい。漢文訓読調のお堅い文章で、イムサキ(曾)などと聞くと面食らうが、いちばん不思議な言葉は、タフルイクサ(邀軍)である。この「邀軍」は、他に考えられる候補がないから、即位前の雄略天皇の軍勢であろう。軍隊は、軍事作戦が展開されてはじめて出動する。なにゆえすでに進軍して「道」にいるのか。御馬皇子も想定外のことで、お供している護衛兵程度の軍勢で戦わざるを得ない。すると、ヒサニアラズテ(不久)身柄を拘束されてしまう。卑怯ではないか。処刑されるに至って、呪詛の言葉を吐くしかなかった。
 「道」に「邀軍」がいた。だいたい、三輪の磐井のところと思っていいであろう。三輪の磐井のところに、軍勢が集結して待ち構えていた。そのような軍勢のあり方は、「聚居(いはみゐ)」という。水分補給休憩がてらに集まっている。イハムという語は、軍隊の集結の意に限らないが、圧倒的に軍隊の集結、駐屯の意味に用いられている。

 復(また)、兄磯城(えしき)の軍(いくさ)有りて、磐余邑(いはれのむら)に布(し)き満(いは)めり。賊虜(あた)の拠(を)る所は、皆是れ要害(ぬみ)の地(ところ)なり。(神武前紀戊午年九月)
 我が皇師(みいくさ)の虜(あた)を破るに逮(いた)りて、大軍(いくさびとども)集(つど)ひて其の地に満(いは)めり。因りて改めて号けて磐余(いはれ)とす。(神武前紀己未年二月)
 是の時に、磯城の八十梟帥(やそたける)、彼処(そこ)に屯聚(いは)み居たり。〈屯聚居、此には怡波瀰萎(いはみゐ)と云ふ。〉……故、名けて磐余邑と曰ふ。(神武前紀己未年二月)
 時に官軍(みいくさ)屯聚(いは)みて、草木を蹢跙(ふみなら)す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。……埴安彦(はにやすびこ)と河を挟みて屯(いは)みて各(おのおの)相挑む。故、時の人、改めて其の河を号けて挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛(よこなば)れるなり。(崇神紀十年九月)
 一(ひとり)を鼻垂(はなたれ)と曰ふ。妄(みだり)に名号(な)を仮りて、山谷に響(おとな)ひ聚(あつま)りて、菟狭(うさ)の川上に屯結(いは)めり。(景行紀十二年九月)
 蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・国津神等、竹水門(たかのみなと)に屯(いは)みて距(ふせ)かむとす。(景行紀四十年是歳)
 則ち軍(いくさ)を引きて更に返りて、住吉に屯(いは)む。(神功紀元年二月)
爰に武内宿禰等、精兵(ときつはもの)を選びて山背(やましろ)より出づ。菟道(うぢ)に至りて河の北に屯(いは)む。(神功紀元年三月)
 乃ち諸の虬(みつち)の族(やから)、淵の底の岫穴(かふや)に満(いは)めり。(仁徳紀六十七年是歳)
 兵(つはもの)を執れる者、多(さは)に山中に満(いは)めり。(履中紀八十七年正月)
 天皇、産(あ)れまして、神(あや)しき光、殿(おほとの)に満(いは)めり。(雄略前紀)
 高麗の王(こきし)、即ち軍兵(いくさ)を発(おこ)して、屯聚筑足流城(つくそくろのさし)〈或本に云はく、都久斯岐城(つきしきのさし)といふ。〉に屯聚(いは)む。(雄略紀八年二月)
 爰に小許(すこしばかり)の遺衆(のこりのともがら)有りて、倉下(へすおと)に聚(いは)み居り。(雄略紀二十年冬)
 百済国、属(やから)既に亡びて、倉下(へすおと)に聚(いは)み憂ふと雖も、実(まこと)に天皇の頼(みたまのふゆ)に、更(また)其の国を造(な)せり。(雄略紀二十一年三月)
 乃ち相(あひ)聚結(いは)みて、傍(ほとり)の郡(こほり)を侵冦(あたな)ふ。(雄略紀二十三年八月)
凌晨(ほのぐらき)に起きて曠野(ひろの)の中を見れば、覆へること青山の如くして、旌旗(はた)充満(いは)めり。(欽明紀十四年十月)
 是の時に大雨(ひさめ)ふる。河の水漂蕩(ただよ)ひて、宮庭(おほみや)に満(いは)めり。(推古紀九年五月)
 是に、船師(ふないくさ)、海に満(いは)みて多に至る。(推古紀三十一年是歳)
 五つの色の大きなる雲、天(あめ)に満(いは)み覆ひて、寅(とらのところ)に闕(か)けたり。(皇極紀二年正月)
 是に、渡嶋(わたりのしま)の蝦夷(えみし)一千余(ちあまり)、海の畔(ほとり)に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。(斉明紀六年三月)
 各(おのおの)一所(ひとつところ)に営(いは)みて、散(あら)けたる卒(いくさ)を誘(をこつ)り聚む。(斉明紀六年九月)
然して後に、別(こと)に多臣品治(おほのおみほむち)に命(みことのり)して、三千(みちたり)の衆(いくさ)を率て、莿萩野(たらの)に屯(いは)ましむ。(天武紀元年七月)
 将軍(いくさのきみ)吹負(ふけひ)、乃楽(なら)の山の上に屯(いは)む。(天武紀元年七月)
 復(また)佐味君少麻呂(さみのきみすくなまろ)を遣して、数百人(ももあまりのひと)を率て、大坂に屯(いは)ましむ。(天武紀元年七月)
 更に還りて金綱井(かなづなのゐ)に屯(いは)みて、散(あか)れる卒(いくさ)を招(を)き聚(あつ)む。(天武紀元年七月)
 則ち軍を分(くば)りて、各上(かみ)中(なか)下(しも)の道に当てて屯(いは)む。(天武紀元年七月)
 以余(これよりほか)の別将等(すけのいくさのきみたち)、各三つの道より進みて、山前(やまさき)に至りて、河の南に屯(いは)む。(天武紀元年七月)

 軍勢は井のあるところに集まる。ふだんより重い衣(甲冑)を着ているので喉が渇く。喉が渇いたら人は井のあるところへ行く。一度戦って敗走した兵を再編成するには、将軍は井のところで待って居ればいい。つまり、戦において、井は、軍を「いはむ(屯・聚・満)」むための根拠なのである。そんな意味の井でお偉い天皇軍がイハムむのだったら、呼び名として、イハミヰ(屯井、ミは甲類)でなければならないと想定される。それなら、イハ(磐)+ミヰ(御井、ミは甲類)と聞こえて納得できる地名である。
 日本書紀の表記に、イハムに「屯」字を当てている。この字は、「屯倉(みやけ)」に用いられる。そして、「屯田(みた)」(御田)とも使う。

 ……将に倭の屯田(みた)及び屯倉(みくら)を掌るらむとして、……(仁徳前紀応神四十一年二月)

 「屯田」はただの田ではない。イハミタほどにたてまつられてふさわしいということらしい。
 ところが、通称される「三輪の磐井」は、イハヰであってイハミヰではない。ミヰ(御井)ではないのだから、敬称がつかないのだから、丁寧語にならないのだから、(ひとの)キミ(たるひと)(「王者」)、天皇になりそうな人は飲むに当たらない井であると呪詛している。だって、卑怯ではないか。そうならそうと、最初から、「三輪の磐御井(いはみゐ)」と言っておいてもらわないと困る。無文字文化なのだから、音声言葉を頼りに生きている。地名も地名譚が裏にあると思って暮らしている。そんな世の掟を無視するかのような振る舞いは、断じて許されてはならない。最後の手段だ、のろってやる。
 これは、話(咄・噺・譚)である。地名を端緒として譚をもっていると思ったところから、言=事であるとする言霊信仰に従って、イハヰは(ひとの)キミ(たるひと)は飲めないはずだと主張している。その主張が、主張としては筋が通っているよね、と当時の人たちに認められ、それどころか当たり前のことと思われて何ら注釈めいた解説が施されていない。どこまでが本当でどこからが嘘か、といったことには関知しない。話の次元が違う。史実かどうか、それはわからない。なにしろ、今日言う“史実”という発想が、雄略朝にも日本書紀の編纂者の頭の中にも霞んでいる。「天照大神」はいたのか。知らないとしか言えない。神武天皇とされる人は、127歳まで生きたのか。知らないとしか言えない。知らないけれど、いたり生きたりしたことにしていていけないかといえば、別に不都合なことはない。今日の人とは、頭の使い方とものの考え方が違うだけである。
 すべてはお話なのである。昔語りが先んじている。昔語りはカタリだから、騙られているかもしれない。そこをよくよく検討してみると、あまり大きな嘘偽りはないとわかる。語りは音声言語にすべてを委ねている。誰でもが納得する事柄だけが伝えられる。一人が一生懸命に伝えても、次の人が伝えなければ、その話は継がれない。無に帰す。大きな嘘偽りは、その次へ継ぐことができない。嘘で塗り固めた人生は、その一代限りで破綻する。人生は一代限りであると考えるのは、今日の人のものの考え方である。上代の人のものの考え方では、イハミヰ(磐御井)でないからお偉いさんは飲めません、と呪詛が行われ、なるほどと周りに納得されて継がれた。だから記事として残っている。音声言語として話を聞いた時、当たり前だと思われている。呪詛の効果のほどは知られない。また、それをどこまで信じて当時の(ひとの)キミ(たるひと)が飲まなかったか、それとも飲んだのか、不明である。お話が先行して了解事項とされている。それ以上でもそれ以下でもない。

(注1)「磐井(いはゐ)」は、岩で囲った掘り井戸ではなく、山の裾のようなところで、岩から水が浸みだして来ているような場所と考えられている。井戸の桁が岩石で組まれたものは、イシヰと呼ばれたと考えられている。
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トーハクくんと滑石製刀子のこと

2017年08月01日 | 無題
 トーハクくんはゆるキャラグランプリにエントリーしています。本日、8月1日から投票開始です。トーハクくんの本業は、ダンサーではなくて馬引きです。馬子(まご)とも言います。孫のようにかわいがってください。


 さて、新指定の重要文化財、世田谷区の野毛大塚古墳出土品に、滑石製のミニチュアがあります。①水の祭祀に関係があるものとして、水槽や下駄、②器として、坩(かん)と呼ばれる器やお皿、③生産用具として、斧や鎌、刀子が模造されています。なかでも、刀子、つまり、小刀は、革製の鞘に納めた鉄製の刀子がモデルです。革製の鞘を表現するために、革を糸で縫っていったように、糸の穴を2列に開けていくほど手が込んでいます。
滑石製刀子(野毛大塚古墳出土、古墳時代中期、5世紀、東博展示品)
 滑石製の刀子は出土点数がすごく多くて、野毛大塚古墳の第2主体部から232点以上も出土しているそうです。縫い合わせた跡を再現するなんて、何がしたかったのか興味津々です。なにしろ、生産の祭祀に関わるものであるとの括りに、斧、鎌がちょろっとあって、残りはみな刀子です。ナイフを革袋に納めた姿を石で作る気持ちが面白くて仕方ありません。
 月例講演会「古墳時代の石製宝器と儀器」(2017.7.29)で丁寧に教えたいただいた河野正訓先生にお尋ねしたところ、刀子は、それで木を削ったり、包丁として使ったり、埴輪の穴を開けたりといろいろできるとのことでした。要するに、河野先生の専門書にある古墳時代の農具(鋤や鍬)は、この刀子で木部を工作したのです。刃先は鉄でも、羽床(風呂)と柄の部分は木でできています。それをどうやって作ったか。伐り出してきた粗材を刀子で整えていく。だから、刀子は、稲作に使う農具を作る道具、今風の言い方で言えば、機械の機械、マザーマシンなわけです。国の産業にとって、工作機械メーカーの重要性に思いを致せば、なるほど、刀子ばかり模造してお墓に入れる理由も頷けます。工作機械の性能の優劣が、生み出される製品の品質を大きく左右し、ひいてはその国の工業力全体にも大きく影響を及ぼすため、工業立国を目指す国では工作機械産業を基幹産業と位置づけています。
滑石製刀子群(野毛大塚遺跡、古墳時代中期、5世紀、東博展示品)
左:滑石製斧、右:滑石製鎌(同上)
実際の刀子(鉄製、高崎市綿貫町出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品、写真は左右反転)
鍬羽床部分(木製、静岡市清水区長崎遺跡出土、弥生時代中期~後期、前2~後3世紀、静岡市教育委員会蔵、東博展示品)
 おおよそはそんなことであろうと思いますが、では、なぜ、滑石製鋸はないのでしょうか。いくつか考えられると思います。鋸があまり普及していなかった、木材が豊富にあったから無駄を考えずに手をかけることができて、叩き切ったり削いだりする方が早かったから専ら刀子が用いられていた、結局のところ最終的な仕上げ加工には刀子を用いていた、ほかいろいろです。下駄が鋸ではなくカッターで作られていたのか、私にはわかりません。
 モノが出土したから考えているだけですから、説得力のある議論に至りません。鞘に納められている姿で模造されていることの方が、重要なのかもしれません。刀子を表したいというよりも、鞘を表したいのではないでしょうか。他のところからは、鞘を縫った糸目を表現したものもあります。和名抄に、

 刀子 楊氏漢語抄に云はく、刀子〈賀太奈(かたな)、上、都穻反〉といふ。(細工具)
 剣鞘 郭璞方言注に云はく、鞸〈音旱〉は剣鞘也といふ。唐韻に云はく、鞘〈私妙反、佐夜(さや)〉は刀室也といふ。(弓剣具)

とあります。新撰字鏡に、

 鞘 思誚反平謂成刀剱室失知乃乎又佐也

とあって、「思誚反、平、刀剣の室を成すを謂ふ、失知乃乎、又佐也(さや)。」と読むのでしょう。中ほどの「失知乃乎」は、「失知のヲ(緒)」、備忘の用となる紐(手掛かり)という意味だろうと思います。つまり、刀子には大きさもそれぞれ、先の尖り方や反り、刃の幅もそれぞれで、それらを使い分けていたということではないでしょうか。使い終わってしまう時、それぞれぴったりくる専用の鞘に納め、刀子のセット一揃えが確かめられるわけです。
 「失知の緒」とある点はとても興味深いです。忘れないようにするための手掛かりだというのです。鞘とは“忘れ形見”なのです。カタナ(刀)を鞘に納めるということは、カタナは片名ですから、名(號)の半分です。もう半分は、人々の記憶の中に納めるのです。
 人は2度死ぬと言います。実際に当人が死ぬときと、その人を覚えている人が死ぬときです。生きている人に記憶されているうちは、その人は心のなかに生きていて、ありありと語られます。その記憶をたどる緒、思い出すよすが、それが「失知の緒」、鞘だというのです。あなたのこと覚えているからねぇって、お墓に副葬されたのではないでしょうか。
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吉備の反乱?(女相撲と闘鶏) 其の二

2017年07月30日 | 論文
(承前)
鳴鏑(頭部:ヤマグワ、七廻り鏡塚古墳、栃木県大平町、古墳時代後期、6世紀、山田昌久遍『考古資料大観 第八巻 弥生・古墳時代 木・繊維製品』小学館、2003年、14頁)
鏑矢作り(宮次男・角川源義偏『日本絵巻物全集23 遊行上人縁起絵』角川書店、昭和43年、原色版図版二)
鏑矢の利用(男衾三郎絵巻、紙本着色、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)
 鏑 丁狄反、入、箭鏃、矢佐支(さき)、又、奈利加夫良(なりかぶら)。(新撰字鏡)
 鳴箭 漢書音義に云はく、鳴鏑〈日本紀私記に八目鏑は夜豆女加布良(やつめかぶら)と云ふ〉の如くして之れをして鳴箭とする也といふ。(和名抄)
 ……手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副持(ちりそ)へ、又頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯(は)きて、……(神代紀第九段第四)
 亦、鳴鏑(かぶら)を大き野の中に射入りて、其の矢を採らしめき。(記上)
 故、其の鳴鏑(かぶら)の所落(お)ちし地(ところ)を訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ。(神武記)

 鳴鏑は哮(こう)ともいう。哮は嚆に同義で開戦布告の嚆矢のこと、つまり、時間的に戦のしょっぱな、先に放つので、場所的にもサキ(崎)でなければ辻褄が合わない。よって神武記に、鳴鏑の落ちた所をカブラサキと呼んでいる。そして、先に生まれた子の方が大きく、後から生れた子は小さいという対比ができる。それが、サキツヤとワカタケルの対比である。幼子のことは、髪型のおかっぱ頭から、カブロ(禿・童)という語で言い表す。カブラ v.s. カブロである。
禿(かぶろ)(岩瀬百樹・歴世女装考 秋、「早稲田大学古典籍総合データベース」
禿(かぶろ)(小松茂美編『続日本の絵巻9 慕帰絵詞』中央公論社、1990年、22頁)
禿(かぶろ)(華厳五十五所絵巻、紙本着色、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)
 禿 吐木反、无髪、加夫呂奈利(かぶろなり)。(新撰字鏡)
 瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音楊、賀之良加佐(かしらかさ)〉は頭瘡也といふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路(かぶろ)〉は頭瘡也といふ。野王案ずるに、髪無き也とあんず。(和名抄)
 天皇、岐嶷(かぶろ)にましますより総角(あげまき)に至るまでに、……壮(をとこざかり)に及(いた)りて……(允恭前紀)
 
 カブラ(蕪)という語には、アブラナ科の植物の意のほかに、その形を連想してからか、婦人が釵子をつけるときに頭頂部に添え加えた髢(かもじ)のこともいう。カブロ(禿)に髪は少なく、カブラ(蕪・鏑)に髪の多いことを強意している。ここに、前津屋が女の子や雄鶏を引き合いに出していた理由が確かとなる。釵子や鶏冠を簪(髪挿)と見たのである。新撰字鏡に、「簮簪 二同、則含反、平、加美佐志(かみさし)」、和名抄に、「簮 四声字苑に云はく、簮〈作含反、又則岑反、加无佐之(かむさし)〉は冠を挿す釘也といふ。蒼頡篇に云はく、簮は笄也といふ。釈名に云はく、笄〈音雞、此の間に笄子を云ふ〉は係り也、冠を抅(かか)る所以に使へば墜ちざる也といふ。」とある。髪(かみ、ミは甲類)は、上(かみ、ミは甲類)と同音で、同根の語かとされている。身体の上部に生えている毛だから、カミ(髪)と呼んだという。吉備下道臣前津屋と大泊瀬稚武とで、どちらが上(かみ)なのか、それを確かめてみる行為、その占いに及んだということであろう。
 「禿鶏」は、「小雄鶏」の「抜毛剪翼」りしたものである。「禿」字は、伝本諸本に、ツブレナル、アカハダナル(濁点は筆者)とある。日本書紀私記には、カブロナル(濁点は筆者)とある。文脈全体をノリ(罵・詈)のことと考え、言葉としても前津屋と稚武にそれぞれノリ(似)の状態にある「女」や「雄鶏」の個体を選び出している。一語一語について、対比の対象として対照させている。噺家の力量として、洒落を用いて人々の耳目を引くことは大事である。すると、前津屋が「鏑(かぶら)」に言葉の写像とされるのであれば、稚武は「禿(かぶろ)」と想定されたとするのが妥当である(注8)。「小女(をとめ)」とあるのは、頭髪が薄くなっているのではなく、髪が短くて結いあげるに至らないおかっぱ頭、すなわち、カブロ(童)なるカブリ(頭)の女の子、幼童女であると明らかに示されている。この話の設定時期は、八月、稲刈りの休暇であった。稲穂が頭を垂れるのである。「頭(かぶ)」を動詞化した語が、「傾(かぶ)す」である。

 栗太郡(くるもとのこほり)の人……、一夜(ひとよ)の間(ほど)に、稲生(お)ひて穂いでたり。其の旦(あした)に垂穎(かぶ)して熟(あからか)なり。(天智紀三年十二月)
蕪(「家庭菜園とバラと犬とおっさん」様)
 稲刈り休暇で吉備の実家に戻っている。ひたすら稲を刈った。古墳時代に鉄の鎌は登場し、穂首刈りと併用であったとされている。カブラ(蕪)の葉のように伸びた稲が垂穎(かぶ)していたのを刈り取り、カブロ(禿)なるごとく短髪のおかっぱとなった。
 イネ(稲)のことをシネ(稲)とも言う。「十握(とつか)の稲(しね)」(顕宗前紀)、「種稲(たなしね)三十斛(みちぢさか)」(天智紀元年正月)、「和稲(にきしね)・荒稲(あらしね)」(延喜式・神祇式・祝詞・広瀬大忌祭)、「味稲(うましね)」(万385)、「秥 唐韻に云はく、秥〈音活、漢語抄に乃古利之禰(のこりしね)と云ふ〉は穀を舂きて潰れざる物也といふ。」(廿巻本和名抄)など、みな籾の結実し稔りとなった状態のイネを示す例である(注9)。斎宮忌詞に、「死ぬを奈保留(なほる)と称(い)ふ」(延喜式・神祇式・斎宮)とあるのは、病が治ることを比喩に使っているとされている。イネが熟してきて穂が垂れて立てなくなっているにすぎないから、翌年の命の源を断ってしまえば真っ直ぐに起き上れる。すなわち、「死ぬ」の命令形、シネと言いつつ穂首刈りしていっては稲が立ち上がることから連想された忌詞かとも思う(注10)
 ここでの議論として、前津屋は小と大とを闘わせて、小が勝つと「抜刀而殺」している(注11)。その場合、小と大のどちらを殺しているのであろうか。両方とも殺しているのであろうか。文章に特に明示がなく、些末な事柄と感じられてか、議論も解釈も見られない(注12)。この話は、前津屋の呪詛が暴かれて滅ぼされた話と信じられている。しかし、言霊信仰のもとにあった上代の人に確かなこととして認められたから伝えられた話である。呪詛かウケヒ(誓・祈)か占いのようなことをしているらしいから、何か作法があったと考えて然るべきである。従来の読み方では、前津屋が天皇をのろって、それが露呈したために天皇に誅殺されたとの筋書きで捉えられている。前津屋が女相撲や闘鶏に勝ってしまった小の方、天皇に見立てた方を殺したから、それが都へ聞こえて天皇の怒りを買い、滅ぼされたとされている。
 けれども、この話では、見立てて競わせることをしている。ノリ(詈・罵)の話とする限りにおいて、作法にノリ(則・法・規・矩)となるものに従わなければ、お話にならない。拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」でも触れたように、言霊信仰のもとにおいては、言=事となることを前提として、それを活用して自分の意図に従うように、相手にダメージとなるべく、ノロヒ、トゴヒ、カシリをする。また、ウケヒ(誓・祈)も、眼前でAということが起るとするなら将来A´ということも起こると前言しておいて占いとした。そんな演繹的思考が確かと考えられたのは、すべて、言=事とする言霊信仰が確かであるとの基底があったればこそである。いま、前津屋は、自分に見立てた「大女」や「大雄鶏」が負けたからといって、勝つはずがなさそうであった「小女」、「小雄鶏(禿鶏)」に制裁を加えて殺すのであろうか。ノリ、ノロヒ、トゴヒ、カシリ、ウケヒに見られる言=事であるとする大前提を否定することになる。とても許される振る舞いではない。無文字文化の観念体系を根本からぶち壊すことになる。カード占いが思うように行かないからとやり直したり、手相が悪いからとペンで財運線や結婚線を書き伸ばして良しとするのは、占いの前提自体を否定することになろう。
 したがって、前津屋が腹いせに殺したのは、負けてしまった自分の見立てである「大女」や「大雄鶏」の方であると考えられる。前津屋が女相撲や闘鶏の勝敗が思うように行かなかったとき、話の展開として前津屋は滅ぼされて然りなのである。前津屋がした呪詛的ウケヒ的占いの結果に同じく、現実でも前津屋側は負けている。既に表出していたことが、実際として現出している。ウケヒの論理構成に等しい。ウケヒガリ(祈狩・宇気比獦)の例を見る。

 時に麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、共に菟餓野(とがの)に出でて祈狩(うけひがり)して曰く、〈祈狩、此には于気比餓利(うけひがり)と云ふ。〉「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣(しし)を獲む」といふ。二の王、各(おのおの)假庪(さずき)に居(ま)します。赤き猪忽(たちまち)に出でて假庪に登りて、麛坂王を咋(く)ひて殺しつ。軍士(いくさびと)悉(ふつく)に慄(お)づ。忍熊王、倉見別(くらみわけ)に謂(かた)りて曰く、「是の事大きなる怪(しるまし)なり。此(ここ)にしては敵(あた)を待つべからず」といふ。(神功紀元年二月)
 如此(かく)上り幸(いでま)しし時に、香坂王(かぐさかのみこ)・忍熊王、聞きて、待ち取らむと思ひて、斗賀野(とがの)に進み出でて、宇気比獦(うけひがり)を為(し)き。爾に香坂王、歴木(くぬぎ)に騰り坐して見るに、大きなる怒猪(いかりゐ)出でて、其の歴木を掘りて、即ち其の香坂王を咋ひ食(は)みき。其の弟(おと)、忍熊王、其の態(わざ)に畏(かしこ)まらずして、軍(いくさ)を興して待ち向へし時に、……(仲哀記)

 この「祈狩(うけひがり)」の結果は、戦ったら負けるであろうという悪い兆候に認識されている。そして、実際にも負けている。占ってみてその結果が良くなかったら、「是事大怪也。」と行動を慎むのが、上代人である。将来予測の占いをして負けが見えていたら、実際においても負ける。言=事が貫徹されるのである。もしその前提が覆るのであれば、無文字文化は無秩序状態のアノミーに陥る。現代のように他に頼りとするもの、文書も科学も宗教もなかった。
 前津屋は占ってみてうまくいかず、実際にも天皇方に滅ぼされている。話(咄・噺・譚)のレベルとして、「天皇聞是語」いて、そのとおりにしている。「遣物部卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」である。ここで、30人(注13)が70人を誅殺しているから、話が完結しているとわかる。前津屋の占いに、大が小を制するように仕向けているのに、小が大を制するしるしがあらわれていた。そのとおりに、少ない人数で大勢を攻めて殺している。占いに導かれるように、現実の結果が出来している。こういった理路整然とした話に対して、「史実はもとより問題がある」とする吉田先生の議論の次元に、大いなる疑問を感じる。史実性があるかどうか、すなわち、話が史実を語るものであるかどうかという設問自体、およそナンセンスであると言わざるを得ない。近代の歴史学が唱える“史実”なる薄っぺらな概念を、裏側から透かし通して笑っているように思えてくる。
 前津屋の考えに、長幼の序の思想があったり、三略の、「柔能く剛を制し、弱能く強を制す」のような、小よく大を制すという考えがあったのかわからない。少なくともこの短編噺からは読み取れない。特にないから特記されず、何かを匂わせる印象も与えていないのであろう。
 では、この占い話は、雄略紀全体、日本書紀全体の中で、どのように位置づけたらよいのか。そしてそこから、古代吉備地方の政治状況、在地の勢力とヤマト朝廷との関係について、何がわかるのか。筆者は、そのような憶測には触れない。雄略紀を読み返してみれば、よくわからない、味の定めがたい逸話が数珠つなぎに列挙されている。それら一つ一つをすべて検討し、上代の人がどのような考えでそれぞれの話を組み立てていったのか解読するところから始めなければ、空理暴論のそしりは免れまい。そのためには、書かれている文章の一つ一つのヤマトコトバを丹念に見極めていく必要がある。記紀の話は、大きな斧で荒削りされただけのものではなく、小さな彫刻刀で丹念に刻まれている。素材の質、つまり、ヤマトコトバの領域も多岐にわたり、当時の日常語がふんだんに盛り込まれている。求められているのは、抽象的な“構造”の理解ではなく、ヤマトコトバ一語一語についての深“読み”である。
 
(注1)別訓に、「京都(みやこ)に聴上(たてまつりあげ)ず」ともある。「不肯」をカヘニスと訓む例は日本書紀にいくつか見られる。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「「かへ」を「交(か)へ」「變へ」と解する説もあるが、その意を含むとはみえない。「かへにす」の「に」は、否定の助動詞「ず」の連用形。」(247頁)とある。「不肯」で、カヘニス、カヘズ、カヘニセム、ガヘンゼズの形ばかり登場する語である。名義抄に、「不肯 ガヘス、イナフ、ウケカヘニセス」とある。イナフは、「辞(いな)ぶ」、承知しない、辞退するの意である。このイナブという音に、上代の人がイナ(稲)+ブ(接尾語)という語感を聞いていたなら、稲が頭を垂れるように平身低頭してことわる雰囲気を読み取っていたのかもしれない。本稿の雄略紀七年八月条を、稲刈り休暇と想定したことと重なり、また、それが蕪の葉の株立ちしなる様に見えることから、この個所をカヘニスと訓んで正しいと理解される。
(注2)初出は、『歴史学研究』384号、1972年。『日本古代国家成立史論』(東京大学出版会、1973年)にも改稿して所収。その後を襲って、中山薫「下道臣前津屋事件の解釈」横田健一編『日本書紀研究 第二十二冊』(塙書房、平成11年)に、雄略政権が各豪族支配下の人々を朝廷のもとへと切り離して組織化していったという政治の流れが、吉備下道臣前津屋の不満、呪詛になったと解する観測が示されている。
(注3)前川明久「吉備の反乱」『古代を考える 雄略天皇とその時代』(吉川弘文館、昭和63年)に、「伝承にみえる相撲や闘鶏は、呪術的な行為ともうけとれて事実かどうか疑わしいが、五世紀前半にすでに造山・作山の両巨大古墳を築造した下道連合勢力(下道臣氏)は、しだいに雄略の王権と対決する姿勢をとるようになったのであろう。しかし王権の攻撃に出鼻をくじかれ屈服したというのが実情ではなかろうか。」(160頁)と推測されている。大橋信弥『日本古代の王権と氏族』(吉川弘文館、平成8年)に、「[この吉備弓削部虚空]の物語は、成立事情は、その内容からいって、吉備氏の関与するところとは考えられず、やや不明確である」(23頁)とされ、「この物語は、吉備国造の不敬行為を朝廷に知らせ、乱を未然にふせいだ、国造一族弓削部の功業譚として構成されていることが想定されるのである。」(24頁)とひねり出されている。
(注4)河村秀根・益根の書紀集解の説を承けて唱えられている。小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀②』小学館、1996年、169頁。
(注5)養老令・職員令の「兵部省(ひゃうぶしやう)」の「造兵司(つはものつくりのつかさ)」の「雑工戸(ざふくこ)」とある内訳に、「古記及釈云、別記云、鍛戸二百十七戸・甲作六十二戸・靫作五十八戸・弓削三十二戸・矢作廿二戸・鞆張廿四戸、羽結廿戸・桙刊卅戸。右八色人等、自十月三月、毎戸役一丁、為雑戸調役也。」(集解)とある。専業体制が敷かれていたらしいが、後の時代には、雍州府志・巻七・土産門下に、「凡そ弓を造る者を弓打と謂ひ、矢を造る者を矢師と謂ふ。凡そ弓を造る者の多くは又矢を作り、矢矯(やはぎ)と称す。」などとあって、弓具製造業者は弓具全般を扱うようになっていたようである。
(注6)靫と矢との関係については以下を参照した。
 鈴木敬三「靫と胡簶」国学院大学編『古典の新研究』明治書院、昭和29年。
 斎藤直芳「弓具の歴史」『現代弓道講座 第四巻―弓具施設編―』雄山閣出版、昭和57年。
 西岡千絵「古墳時代の矢入れ具―靫―」『七隈史学』第七号、2006年3月。
 杉井健「靫(矢入れ)から見た雪野山古墳」竜王町教育委員会編『古墳時代前期の王墓―雪野山古墳から見えてくるもの―』同発行、2014年。
(注7)湊哲夫「吉備の首長の「反乱」」門脇禎二・狩野久・葛原克人編『古代を考える 吉備』(吉川弘文館、2005年)に、「吉備臣山」という大氏(おおうじ)的表記法が本来で、吉備下道臣前津屋という小氏(こうじ)的表記法は、6世紀後半ないし7世紀初頭以降に分氏したことを後で整理する際に改めた結果として表記されているとする推測が起こされている。反乱伝承の述作時期も同様であろうとする。
(注8)ツブレという訓があながち間違っているとは言えない。和名抄に、「奴 唐韻に云はく、奴〈乃都反、和名、豆不祢(つぶね)〉は人の下也といふ。」とある。舎人は「人之下」なるツブネに相当するから、ツブレナル鶏と訓んで虚空を挑発したとも捉え得る。その場合、天皇と官者とを一体的に捉えていることとなる。現段階で歴史学がこの話から読み取れるのは、ヤマト朝廷の支配形態が、豪族の子飼い的なそれとは一線を画すものであったという点に限られよう。
(注9)三省堂の時代別国語大辞典上代編には、「シネがイネにs音の添加されたものとみるか、あるいは別に、もともとひろくいね科植物をさした名称とみるかは、検討を要する。」(361頁)とあるが、熟して稔っている稲を指すのではないか。
(注10)スーパー青果コーナーに売られている蕪の葉で、束ねられて先っぽだけを切り落とされたものがある。大根に比べてかなり長く残されている。漬物でも、蕪の葉は長く残されている。食べられるからであるが、この点がこの逸話にヤマトコトバ的に反映されているのか、それが穂首刈りされたように見て取っていたか、不明ということにしておく。
(注11)「殺」はコロスと訓まれている。依るべき古訓があるわけではないが、筆者はシニスという訓に惹かれるものがある。「死ぬ」という語は、しばしば「死にす」という形でサ変動詞化している。

 思ふにし 死にするものに あらませば 先遍(ちたび)そ吾は 死に返らまし(万603)
 かやうの万物の品々を、よくしにせたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、……(風姿花伝(1044~1402頃))

 同音のシニスという語には、上代に文献例はないが、為似す、仕似す、の意で、巧みに物真似することを言うことがある。ノリ(似)のことを語ってきているので、さらに駄目を押して口説いているのではないかと思う。為似す、の名詞化が老舗(しにせ)である。弓削は技術の伝承が必要で、老舗の匠によって成り立っている。
(注12)管見にして見つからないだけかもしれない。日本書紀研究に古事記研究より遅れがあるとするなら、本居宣長がガチで研究しなかった点が大きいと思う。調の一語一語について重箱の隅をつつく議論が加えられていない。
(注13)令義解に、「衛門府……物部卅人。〈謂、此名為内物部。為罪人.特置此府。当決罸時、皆帯刀剱。〉」とある。
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吉備の反乱?(女相撲と闘鶏) 其の一

2017年07月28日 | 論文
 雄略紀に、吉備勢力へのヤマト朝廷からの一連の弾圧と見られている記述に不思議なものがある。

 八月に、官者(とねり)吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおほぞら)、取急(あからさま)に家に帰る。吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)〈或本に云はく、国造(くにのみやつこ)吉備臣山(きびのおみやま)といふ。〉虚空を留め使ふ。月を経るまで京都(みやこ)に聴(ゆる)し上(まうのぼ)らせ肯(か)へにす(注1)。天皇、身毛君大夫(むけつきみますらを)を遣(つかは)して召さしむ。虚空、召されて来(まうき)て言(まを)さく、「前津屋、小女(をとめ)を以ては天皇の人(みひと)にし、大女(おほめのこ)を以ては己が人にし、競(きほ)ひて相(あひ)闘(たたか)はしむ。幼女の勝つを見ては、即ち刀(たち)を抜きて殺す。復(また)、小(すこしき)なる雄鶏(みにはとり)を以て、呼びて天皇の鶏(みにはとり)とし、毛を抜きて翼(はね)を剪(き)りて、大(おほき)なる雄鶏(にはとり)を以て、呼びて己が鶏(とり)として、鈴・金の距(あこえ)を著(は)けて、競ひて闘はしむ。禿なる鶏の勝つを見ては、亦刀を抜きて殺す」とまをす。天皇、是の語(こと)を聞しめして、物部の兵士(いくさびと)卅人(みそたり)を遣(つかは)して、前津屋幷(あは)せて族(やから)七十人(ななそたり)を誅殺(ころ)さしむ。(雄略紀七年八月条)

 弓矢を削り作る人がお里の吉備に帰ったところ、領主に留め置かれて使役し続けられた。天皇は不審に思って人を遣わして召還したら、事情説明がとんでもないものであった。小女を天皇の人、大女を自分の人と決めてけしかけて相撲をさせ、小女のほうが勝ったら刀を抜いて殺してしまう。また、小さい雄鶏を天皇の鶏として毛を抜き、翼を剪り、大きい雄鶏を自分の鶏として鈴や蹴爪に金属を被せて蹴り闘わせ、小さい方が勝ったらまた殺しているというのである。それを聞いて天皇は、物部の兵士を派遣して一族郎党を誅殺したという話になっている。
 この話(咄・噺・譚)については、ほとんど研究が行われていない。管見であるが、内容に一歩だけ踏み入れた考察がある。吉田晶『吉備古代史の展開』(塙書房、1995年)である(注2)

 この伝承の史実性についてはもとより問題があるが、この伝承の構造にはいくつかの問題を指摘することができる。第一に虚空が吉備弓削部を称しかつ官者=トネリと記されていること。第二に虚空を召還するために、身毛君大夫という氏名をもつ美濃地域に本拠をもったと考えられる豪族をわざわざ派遣したと記されていること。第三に反乱そのものは、すこぶる咒術的な祭祀性のつよいもので、前津屋に反乱の意志があったにせよ現実の反乱にまではいたらないと記載されていること。第四に書紀の記載する人数はもとより論外であるが、それにしてもすこぶる小規模な雄略側の先制攻撃によって前津屋が打倒されたと記載していること。以上の四点はこの反乱伝承のもっている特徴といえるだろう。(34頁)

 虚空は本拠地を吉備とした弓削部で、弓矢などの武器を製作する品部であり、久米郡と賀夜郡に分布していたと知られ、吉備一族が大王主導の内征、外征に参加した際には、武器製作者集団を隷属させていたと予想されるけれど、前津屋に留使されたとき、虚空はトネリとして大王家に上番勤務する者として描かれているから、もはやトモとして、部民制支配に組みこまれていたことを物語る、とされている。吉備一族と中小首長層の対立に大王家がすけ入ったとするのである。そして、事件の発端が、吉備弓削部虚空を大王家と吉備一族のどちらが把握するかをめぐる紛争であると記述されているのも、その背景を象徴的に物語っているとされている。そして、吉備一族には、吉備地域を組織して大規模な内乱に発展させる力を持っていなかった点が、前津屋の咒術的な古さとして表現されているとされている(注3)
 思い込みというのはかくも強いものである。書かれている文章の内容についての“史実性”はないものとしながら、文章の構造から“史実”を読み取ることができるというインチキが罷り通っている。近代の歴史学の考え方からすれば、呪術は古いものであろうし、吉備弓削部は吉備一族に以前は隷属していたとまとめられてしまっているようである。けれども、話を書き記したのは日本書紀の編者である。紀が編纂された681年から720年の人たちにとって、女相撲や闘鶏で小さいものいじめをするのが古い呪術とされ、吉備弓削部虚空と吉備下道臣前津屋との社会的な人間関係についてパワハラであると認識されていたとするに足る、何か根拠となる事例が見られるのか。
 筆者は、歴史学がするように、構図を当てはめる“読み”をしない。ヤマトコトバに書いてあることを、ヤマトコトバに考えて、ちょうどジグゾーパズルを組み立てるようにヤマトコトバのなかに調和点を見い出す。文化人類学のフィールドワークと同じ手法である。無文字文化とでは“文化”が違うのだから、他にやりようがないと思うが、社会科学の王道はそうではないらしい。
 筆者は“読む”ことをしたい。どうして「小女」と「大女」とを競わせ闘わすことをしたり、「小女」が勝ったら殺したりするのか。どうして「小雄鶏」の「抜毛剪翼」したのと、「大雄鶏」に「著鈴・金距」けたのとを競わせて闘わせ、「禿鶏」が勝ったら殺しているのか。「抜刀而殺」したのは「小女」か「大女」か、また「小雄鶏」か「大雄鶏」か。そしてこの話はどういう種類の“呪術”でどのような作法で行われたものなのか。話(咄・噺・譚)の核心について明らかにしたい。雄略朝当時、あるいは下るに下って日本書紀の編まれた天武(~持統・文武・元明・元正)朝に、話(咄・噺・譚)として十分に理解されたからそのように記されている。今日の歴史学や文学で、「呪術」の一言で片づけてしまい、中身について何ら考えない姿勢は、雄略朝当時にあり得ないと思う。話の意味するところを検討しないのでは、歴史学とも文学とも呼べないのではないか。大学の先生が印象や感想を語れば、それは“学”なのであろうか。
 雄略紀に、トネリは「舎人」(五年二月条)、「川瀬舎人」(十一年五月条)とある。その点をとらえ、中山薫、1999.に、「「官者」を必ずしも舎人と読む必要はないのではなかろうか。……官者吉備弓削部虚空は、大和朝廷の中央政府に仕える官人と解釈するのが妥当である。」(166頁)とする。では、「官者」をトネリとは読まず、ツカサなどと読んだのか。それは定められない。確かに大和朝廷の中央政府に使える官人と解釈するに値するが、国家公務員の場合、「取急(あからさま)に」、すなわち、ちょっと帰ってまたすぐ戻るつもりで、といった休暇形容で正しいのか検討されなければならない。
 養老令・假寧令に、「凡そ在京の諸司には、……五月、八月には田假(でんけ)給へ。分ちて両番為(つく)れ。各十五日。……」とあるから、本条は稲刈りのために実家へ帰ったことを表していると考えられる。「取急(あからさま)」と断り書きされている。効率的な集約農業が行われていたことが窺える。訓としては、「取假(あからしま)」(雄略紀八年二月条)ともある。新編全集本日本書紀では雄略七年八月条の当該部分、「急(いとま)を取りて」とあり、「急」は「休」の通用とする説を立てている(注4)。伝本にそのような古訓は見られない。アカラサマという訓の正しさは、神武前紀戊午年六月条、「海の中にして、卒(にはか)に暴風に遇(あ)ひぬ。」箇所の日本書紀私記に、「暴風 安加良之末加世(あからしまかぜ)」とある点にも求められる。はやてのことをいう。虚空も、吉備国の実家に、はやてのように現れて稲刈りし、はやてのように去って行くつもりでいたのであろう。ところが、在地のお偉いさんに留め置かれてしまった。
 そのように捉えてみると、「官人」という表記はなかなかに叡智がある。ヤマト朝廷側としては、正規雇用の公務員として労働規約に基づいて働かせ、決められたとおりに休暇を与えている。対して吉備下道臣前津屋は、吉備弓削部虚空という人間を使用人としての分際、低位のカーストであると認知している。誰に使われようが同じであるという発想から、自分のところへ留め置いてこき使っている。名称として、弓削司(ゆげのつかさ)なる言い方は見られない。雑戸扱いである(注5)。だから、専門技術を持った熟練工であるのに、呼び名はトネリである。トネリというのだから奴隷扱いしてかまわないだろうと誤解してしまった。図書寮本に、「官者」の右に「舎人也」と傍書され、左に「トネリ」とあるのは、深い理解に基づいていると納得できる。つまり、弓削の仕事人をツカサとは呼ばないが、労働条件はツカサに準ずるということである。他にふさわしい呼び名がなかったからトネリと呼んでいた。だからこそ、吉備下道臣前津屋は勘違いした。
 假寧令には、「凡そ假請はむことは、……以外、及び畿外に出でむと欲(ねが)はば奏聞せよ。……及び六位以下は、皆本司判りて給へ。」とあり、続紀・文武天皇・大宝元年五月条に、「勅(みことのり)したまはく、『一位已下に休暇(くげ)を賜ふこと、十五日に遇ぐること得ず。……』」とあり、15日が限度と定められていたようである。それなのに、ひと月経っても帰って来なかったから変だということになった。シナリオの導入部、事の発端部である。
 話の主人公は、官者吉備弓削部虚空である。弓削部は、弓矢をつくる人たちで、特に弓を削るのが得意な人である。天皇に対しているのは、吉備下道臣前津屋である。○○ヤという名だから、こちらは矢を作っていたと思われる。音声言語にのみ生きた上代の人の感性ならではの想念である。矢を作りつつ、弓を作る人を留め置いたら、要らぬ疑いをかけられても仕方あるまい。そして、弓矢を実戦に用いる際、兵士は矢をケースに入れて背負う。靫(ゆき、キは甲類)と呼ばれる。靫に緒を通して負ったから、弓使いの武人のことを靫負(ゆげひ)と呼んでいる。

 山陵(みさざき)の事畢るに至りて、乃ち弓部稚彦(ゆげのわかひこ)をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまら)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ、矢部(やはぎべ)をして箭(や)を作(は)がしむ。弓矢既に成りぬるに及(いた)りて、神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)、以て手研耳命(たぎしみみのみこと)を射殺さむと欲(おもほ)す。(綏靖前紀神武七十七年十一月)
 靫 釈名に云はく、歩人の帯ぶるを靫〈初牙反、由岐(ゆき)〉と曰ふ。箭を以て其の中に叉す也。(和名抄)
弓作り(公益財団法人前田育徳会尊閣文庫編『同所蔵七十一番職人歌合』勉誠出版、2013年、39頁)
靫形埴輪(宮山古墳、奈良県御所市、古墳時代、5世紀初頭、橿原考古学研究所附属博物館編『大和の考古学』同発行、1997年、54頁)
靫(雪野山古墳、滋賀県竜王町ほか、古墳時代、4世紀前半、竜王町教育委員会編『古墳時代前期の王墓―雪野山古墳から見えてくるもの―』同発行、2014年、口絵ⅲ頁)
靫復元品(奈良県鴨都波遺跡出土、福島県文化財センター白河館共同研究、「工芸文化研究所」様)
 靫に矢を収納する際、鏃の金属部分を上にして入れていた。きらきらさせて敵に見せつけて威圧する役目を果していたとも考えられている。形象埴輪にそのように作られた例が見られる。ただし、靫に蓋のあったことも出土状況から見えてきた。鏃が上だと取り出すときに自分の手を傷めるのではないかとも心配されている。しかし、射手は、弽(弓懸、ゆがけ)と呼ばれる革製の手袋をはめている。手袋していて手傷を負うようでは、そもそも手に神経が集中しておらず、とても的に命中させることはできない。戦力外である。適当にしか射ることができない靫負は、むしろ射ないでほしい。射殺すことができずに敵の近くへ矢が届くと、それはそのまま敵の武器となって射返されてしまう。記紀には、天若日子(天稚彦)の話として、「還矢(かへりや)」(記上)、「返矢(かへしや)畏(い)むべし」(神代紀第九段本文)といった話で伝わっている。今でも警察官がいちばん気を付けなければならないのは、携行した際にピストルを奪われないことである。したがって、鏃の納め方の上下が何を意味するのかを判断するのは素人考えである。靫は、刑吏の看督長(かどのをさ)の所用へと特殊化していく。むしろ靫から胡籙(やなぐひ)へ移行したのは、両方使われていたもののうち、鏃をおさめるだけの胡籙が実用的で、靫が儀礼的、顕示的、あるいは、調度的性格の強いものであったからではないか。矢の長さが長くなるにつれ、靫のように全体をおさめたケースを背負うと、肩ごしには取り出しにくくて廃れた可能性もある。以上は筆者の素人考えである(注6)
 その吉備弓削部虚空は、すぐ帰ってくるはずのところ、1か月経っても帰京せず、行きっぱなしになっている。吉備下道臣前津屋(国造吉備臣山)に留め置かれて使役されていた。農繁期を過ぎれば、弓削部という専門職だから、何かほかに仕事をしたわけではなく、弓を作らされていたにちがいない。制裁せずに放置しておけば、やがては核、ミサイル、ICBMまで作られてしまう。なにしろ、弓削部と(サキツ)ヤ(矢)とが、行(ゆ)きっぱなし状態で合わさっている。「行き(キは甲類)」は「靫(ゆき)」に同音である。1つの靫には50本の矢を装填できたらしい。矢の数をかぞえるのに用いる助数詞は、箭(のり、ノは乙類)である。

 ……又背(そびら)に千箭(ちのり)の靫(ゆき)〈千箭、此には知能梨(ちのり)と云ふ。〉と五百箭(いほのり)の靫を負ひ、……(神代紀第六段本文)
 そびらには千入(ちのり)の靫を負ひ〈入を訓みて能理(のり)と云ふ。下は此れに倣へ。〉(記上)

 天皇方は、身毛君大夫を使って召還している。そして、つぶさにその状況を報告させている。
 オホゾラ(虚空)という名は、曰くありげである。広大な空のことは、時として、いい加減で、あてどないことを言う。オホ(凡)にもソラ(空)にもいい加減さ、不確実さの意がつきまとう。だから、召還されての報告が、具体的な軍備増強をあらわすのではなく、呪術めいた女相撲と闘鶏の話である。かといって、吉備弓削部虚空が、スパイの真似事を専らとして語っているかといえばそうではない。何しろ、弓削部にできることは弓を削ることだけである。工作機械のロボットなのだから、弓を削ることしか出来ない。なのに、女相撲や闘鶏の話をし、そのロボットの話を天皇は確かなこととして聞いている。工作機械の機械音を人の言葉として聞くには、それなりのヤマトコトバの頓智があるものと考えられる。
 彼が話すべきことは、軍備増強の実態である。
 つまり、「○○箭(のり)」としか話せないはずである。ところが、吉備下道臣前津屋が天皇のことをノリ(詈・罵、ノは乙類)していると語っている。

 馬柵(ませ)越しに 麦咋(は)む駒の 詈(の)らゆれど 猶ほし恋しく 思ひかねつつ(万3096)

 そのやり方は、小女を天皇に見立て、大女を自分に見立てたり、小雄鶏を天皇と見立て、大雄鶏を自分に見立てている。天皇と自分とを対比させ、それぞれに相似するものとして小さいものと大きいものとをとりあげている。似ているというのである。古語に、ノリ(似、ノは乙類)である。そして、想定外に小が大を制することがあったら、すぐに刀を抜いて殺している。当然、血が噴き出る。血のことは古語にノリ(生血、ノは乙類)で、糊と同根の言葉である。今に血糊と言っている。どうして両者を対比させるのにノリ(似)のことがらを持ち出しているのか。それは、相手の氏姓が「下道臣」で、天皇の名は、「大泊瀬稚武(おほはつせわかたける)」だからである。「下道」とわざわざ名づけられてある。今にいう一般道のことではなく、新たに作られた幹線道路である。そのハイウェイを走るのは、馬であったろう。馬は、ノリ(乗、ノは乙類)物である。かたやオホハツセと聞けば、ものすごく馳せる様子、また水運の船が思い浮かぶ。ノル(乗)という語は、馬にも船にも関係する語である。

 是に大泊瀬天皇、弓を彎(ひきまかな)ひ馬を驟(は)せて、……(雄略前紀安康三年十月)
 隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走(わし)り出の よろしき山 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗し(雄略紀六年二月、紀77)
 君に恋ひ 寝(い)ねぬ朝明(あさけ)に 誰(た)が乗れる 馬の足音(あのと)そ 吾(われ)に聞かする(万2654)
 海原(うなはら)の 路(みち)に乗りてや 吾恋ひ居らむ 大船の ゆたにあるらむ 人の児ゆゑに(万2367)

 オホハツセという川の瀬に停泊する名に対する形で、或本に、「吉備臣(注7)という名が掲げられている。サキツヤ(前津屋)という名は、サキ(前・先)+ツ(助詞)+ヤ(矢)の意に聞こえ、鏑矢(かぶらや)が思い浮かぶ。先端に蕪(かぶら)のような形をした、木や骨角に穴を穿って中空に作ったホイッスルのついた矢である。とすれば、両者とも、騎射の名手であったらしいと聞こえる。鏑矢は、戦闘の開始の合図として放たれた。まず先(さき)に、放(さき)たれた矢ということである。いずれもキは甲類である。前津屋は、特に反乱を起こそうとして軍備増強を図ったのではなく、流鏑馬のような芸の道へ進もうとしていたのかもしれない。
(つづく)
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呪詛に関するヤマトコトバ序説

2017年07月24日 | 論文
 呪詛に関するヤマトコトバとしては、トゴフ、ノロフ、カシルといった語があげられる。それらの語彙の示すところは何か、どのように区別して使われているか、不分明である。日本書紀古訓にすでに複数訓をもって入り乱れており、了解されるに至っていない。ただ、何となくではあるが、それらの語の印象は捉えられている。
 伴信友「方術源論」に、細部に至ると信憑性が疑われるものの、本質的には鋭い議論が行われている。

「トゴヒ」〈言魂〉は憎悪(ニク)む敵(カタキ)に禍あらしめむとて其人を念(オモ)ひつめ、凶事(マガコト)して禍(ワザハヒ)在らしむべく神に請てする術なり、〈名義抄に詛トゴフとあり濁るべし、〉……(129頁)
「ノロヒ」は怨ある人に禍(マガ)を負ふせむと、ふかく一向(ヒタスラ)に念ひつめてものする所為(ワザ)ときこゆ、……(130頁)
「カジリ」は「トゴヒ」と同義ながら、殊に稜威(イヅ)々々しき術を云へるなるべし、……(131頁)

 現代の議論として、白川静『字訓』の語釈を示しておく。

とこふ〔呪・詛〕 四段。人をのろうために呪的な行為をすることをいう。自分の潔白をあかすために、神に対して自己詛盟することもあり、人を呪詛(じゅそ)するときには「のろふ」、自己詛盟的な意味をもつときには「とこふ」といったようである。……(535頁)
のろふ〔呪・詛〕 四段。人の身の上に不幸や災厄を招くように祈る。そのために呪的な方法を用いることをいう。「のる」に接尾語の「ふ」をそえた形。恨みのあるものに対して禍(わざわい)を与えようとする行為である……(602~603頁)
かしる〔呪・詛〕 四段。「かしり」はその名詞形。……別に「かしふ」という動詞形があり、「かし」を語幹とする語である。方言として三重や高知に「かじる」という語が残されている。古くは「かしる」という清音であった。神に祈って、人をのろうことをいう。(220頁)

 語の由来がわかるのは、ノロフという語である。ノル(告・宣・詈)に接尾語フのついた形である。「告」、「宣」字を当てるノルは、宣言して言うこと、「詈」字を当てるノルは、ののしる意であるが、同根の言葉であろう。積極的に口に出して大声で言う所作であるとわかる。伴のいう「ふかく一向に念ひつめてものする所為」とは、目もくれず揺らぐことなく一心に同じことを繰り返すようにノル(告・宣・詈)ことを続けることを表しているといえる。ノロフためには、迷いがあってはうまくいかないということである。学校で、死ね、死ね、死ねと言われ続けると、本当に死んでしまう子がいる。誰か一人、生きろと言う友だちがいると死なずに済む。いじめとはノロヒの典型といえる。

 是月、御馬皇子(みまのみこ)、曾(いむさき)より三輪君身狭(みわのきみむさ)に善(うるは)しかりしを以ての故に、慮(みこころ)遣(や)らむと思欲(おもほ)して往(い)でます。不意(おもひのほか)に、道に邀軍(たふるいくさ)に逢ひて、三輪の磐井(いはゐ)の側(ほとり)にして逆(あひ)戦ふ。久(ひさ)にあらずして捉はる。刑(つみ)せらるるに臨みて井を指して詛(とご)ひて曰く(「指井而詛曰」)、「此の水は百姓(おほみたから)のみ唯(ただ)飲(の)むこと得む。王者(ひとのきみたるひと)は、独り飲むこと能はじ」といふ。(雄略前紀安康十月是月)
 是に、大伴[金村]大連、兵(いくさ)を率(ゐ)て自ら将(いくさのきみ)として、[平群真鳥]大臣の宅(いへ)を囲む。火を縦(はな)ちて燔(や)く。撝(さしまね)く所雲のごとくに靡けり。真鳥大臣、事の済(な)らざるを恨みて、身の免れ難きを知(さと)りぬ。計(はかりこと)窮(きはま)り望み絶(た)えぬ。広く塩(うしほ)を指して詛(のろ)ふ(「広指塩詛」)。遂に殺戮(ころ)されぬ。其の子弟(こいろど)さへに及(いた)る。詛ふ時に唯(ただ)角鹿海(つのがのうみ)の塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)

 似たような呪詛の話である。宮内庁書陵部本の付訓をみると、同じ「詛」の字でも、雄略前紀にはトゴヒ(ト・ゴの甲乙不明、ヒは甲類)、武烈前紀ではノロフである。雄略前紀の個所は、「詛曰」とあって、トゴヒテイハクと読んで正しいのであろう。

 故、磐長姫(いはながひめ)、大きに慙(は)ぢて詛(とご)ひて曰く(「大慙而詛之曰」)、「……(神代紀第九段一書第二)
 因りて教へまつりて曰(まを)さく、「鉤(ち)を以て汝(いましのみこと)の兄(このかみ)に与へたまはむ時には、詛(とご)ひて言はまく(「則可詛言」)、『……(神代紀第十段第一)
 ……、其の河の石を取り、塩に合へて其の竹の葉に裹みて、詛はしむらく、(「令詛」)「……(応神記)
 ……、即ち其の詛戸(とごひと、ヒ・後のトは甲類)を返さしめき(「即令其詛戸」)。(応神記)
 対へて曰(まを)さく、「……時に[百済王の使、]久氐(くてい)等、天(あめ)に向ひて呪(のろ)ひ詛(とご)ふ(「向天而呪詛之」)。新羅人、其の呪ひ詛ふことを怖りて殺さず(「怖其呪詛而不殺」)。……(神功紀四十七年四月)

といった例が見られる。
 他方、武烈前紀では、「曰」、「言」といった発語の動詞を欠いている。そこで、ノル(告・宣・詈)に発するノロフという訓が付されていると理解できる。
 そう考えると、呪詛行為の精神的側面、悪く、悪くと気持ちをこめることに力点を置く言葉がトゴフであり、それを言葉として悪くなあれ、悪くなあれと発語して、呪詛が実行されているらしいとわかる。すなわち、意味上、トゴフ+イフ(ノル)→ノロフとなっていると整理される。むろん、思うことと口に出すこととの間は連続しており、南無阿弥陀仏という念仏など、明らかに声を上げているものから、ぶつぶつとつぶやいているもの、心のなかで自分にだけ聞こえるように思うものなど、いろいろである。仮に上の整理が正しいのであれば、トゴフは「憎悪む敵に禍あらしめむとて其人を念ひつめ、凶事して禍在らしむべく神に請てする術なり」とする解説はほとんど正解である。ただし、請う対象が神かどうか、いささか疑問が残る。八百万の神がいて、のろうのが専門の神さまもいるかもしれないが、記紀万葉に呪詛用語で神さまに祈った記述はない。人が勝手に良く思ったり悪く思ったりしているのと同じように、神さまのうちでも神さまどうしでよく思ったり悪く思ったりしていたように描かれている。神さまはみなそれぞれに特異な存在で、自己主張が強く、徒党を組むようなことは考えられていないふしがある。「天安河辺(あまのやすのかはら)」(神代紀第五段一書第六)、「天(あめ)の安の河原」(記上)といった川の八重洲に跨っているようなところに参集させており、それぞれ喧嘩しないようにとの配慮がなされていた。「○○神に祈りて詛(とご)ふ」といった用例はないから、神さまに請うて凶事が起きるように祈るとするのは、少し勝手が違うと考えられる。確かに祟り神として強力な大物主神があるけれど、自分までも大惨事に巻き込まれてしまうであろう。
 応神記の「令詛」については、「其の母」が春山之霞壮士(はるやまのかすみをとこ)に呪詛させている。「詛戸」については、呪物のことを指しているとする考え方が一般的である。応神記では、八目(やめ)の荒籠で河の石を取り、塩をまぶして竹の葉に包んだものである。つまり、呪物を使いながら呪言して、呪詛が行われている。そして、「令詛『……』如此令詛」と会話文を挟んで二度「令詛」と記されている。会話文の中の動詞は命令形で読み上げさせて、言ったとおりになるように、「詛戸」を「置於烟上」いている。烟にいぶしたら言った通りに涸れ、それに対照するように、秋山下氷壮士(あきやまのしたひをとこ)も苦しんだことになっている。入り組んだ呪詛方法である。「其の母」がさせているのは、悪意をもって強く念じるところから奨めているので、「令詛」、「詛戸」の「詛」字はトゴフという語で正しいと知れる。
 大系本日本書紀は、「詛(とご)ひて」について、「のろう意。トゴフの語源未詳。トは、ノリト(祝詞)・コトド(絶妻之誓)のトまたはドと同じものか。このトはト甲類の音。」(①145頁)と推測している。この説が正しいとすると、応神記の「詛戸(とごひと、ヒ・後のトは甲類)」という熟語の解釈に誤謬が生じる。「詛戸」は「呪いの置物。「詛戸」の「戸」は、「千位の置戸」……[記上]の「戸」と同じく、その物を指すとする説[本居宣長]による。」(新編全集本古事記、281頁)とされる。大系本の説の、「詛戸」=ト+ゴヒ+トの前後にト甲類でサンドウィッチにする語を示すことに、何ほどの意味があるのか。フトノリトゴト(「布刀詔戸言」(記上))という場合の前2つのトは甲類、最後のトは乙類である。紀では、「太諄辞(ふとのりと)」(神代紀第七段一書第三)とあり、その表記がよく物語っているように、懇切丁寧にこんこんと諭すように言う言葉が祝詞の特徴である。良いことを願うのが祝詞であるとするなら、悪いことを願う重々しいものに、フトトゴヒトゴト(「布刀詛戸言」)などと仮定してみて、そこから、前のト2音の連続が癒着してトゴフという語のト音は甲類である、あるいは、フトゴヒト(「太請辞」、この字面からは悪意を規定できないが)からトゴフという動詞が起こったとするのは、語展開の説明として順序が逆のように思われる。
 筆者は、何かを請うているから、トゴフ(詛)という語はできていると考える。「~と」(助詞、トは乙類)+「請(乞)ふ」→トゴフという語形成であったのではないか。詛(とごひ、ト・ゴの甲乙不明、ヒは甲類)であり、請・乞(こひ、ヒは甲類)である。「~と」という助詞は、「~」部分を引用部として括弧に入れる作用がある。「詛ひて曰く」の例では、「~と請ひて曰く、『~』といふ。」という形となる。前後の「~」部分には、同じ意味の言葉が入るので、前半の「~」部分が省略された形となっていると推定できる。言=事であるとする言霊信仰にあっては、事でないことを言うことは実は御法度なのであるけれど、念じていて念を押していくと、マートン、1961.のいう予言の自己成就(self-fulfilling prophecy)が起こることがあるから、それを「~と請ひて曰く、『~』といふ。」という形の短縮形として、「詛ひて曰く、『~』といふ。」の形に定式せしめたということではなかろうか。
 他方、カシルには、安藤正次「呪詛訓義考」に、カ(所)+シル(知)の形とする説があり、ヒジリ(聖)=ヒ(日)+シリ(知)と同じ展開であるとし、「作法こそは異なれ、その[「カジリ」の]目的はやはり倭の土地の領有にあつたのである。」(357頁)と説かれている。神武紀の用例で考えられている。
手捏土器(猪ノ子遺跡出土、茨城県坂東市弓田、古墳時代、5~6世紀、木村嘉市氏寄贈、東博展示品)
 夢(みゆめ)に天神(あまつかみ)有(ま)して訓(をし)へまつりて曰はく、「……亦、厳呪詛(いつのかしり)をせよ(「亦為厳呪詛」)。如此(かくのごとく)せば、虜(あた)自づからに平(む)き伏(したが)ひなむ」とのたまふ。〈厳呪詛、此には怡途能伽辞離と云ふ。〉(神武前紀戊午年九月)、
 ……乃ち此の埴(はにつち)を以て、八十平瓮(やそひらか)・天手抉(あまのたくじり)八十枚(やそち)……厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、丹生(にふ)の川上に陟りて、用て天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭(いはひまつ)りたまふ。則ち彼(そ)の菟田川の朝原にして、譬へば水沫(みなわ)の如くして、呪(かし)り著(つ)くる所有り(「而有呪著也」)。天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「……(神武前紀戊午年九月)
 廷尉(ひとやのつかさ)、其の子、守石(もりし)と名瀬氷(なせひ)と……を収(とら)へ縛りて、火の中へ投(なげい)れむとして、……呪(かし)りて曰く(「呪曰」)、「吾が手をもて投るるに非ず。祝(はふり)の手を以て投るるなり」といふ。呪(かし)ひ訖(をは)りて火に投れむとす(「呪訖欲火」)。(欽明紀二十三年六月是月)

 しかし、欽明紀の例を見ると、カシルに特に場所性はないとみられる。神武紀の第2例の「呪り著くる所有り。」の文は古来難解とされている。水沫のようなのがなにゆえ「呪り著くる所」とされたのか、なかなかに理解しづらいとされる。ここで、上の「詛(とご)ふ」=「~と」(助詞)+「請ふ」説に近い形で理解しようとすると、「~か」(助詞)+「知(領)る」→カシルという語形成であったと推論できる。「~か」と疑問の助詞で承ける部分は、本当かどうか疑問な事柄である。本当はとても疑問なことを、無理やりポジティブ思考をして「知(領)る」ようにしてしまうこと、それを「呪(かし)る」と言っているのではないか。助詞のカは、「表現者自身の内心の疑問を自分自身に投げかける意が原義と思われる。」(『岩波古語辞典』、1459頁)とある。疑問のあることなのに、疑問を無視して無理強いして相手にまで及ぼさせようとまず自ら知ったことにして、相手にも知らしめるのである。欽明紀の第2例に、カシル以外のカシフの形の連用形、カシヒ(ヒの甲乙不明)の形があるのは、疑問なのに強いることをしていることから生れた言葉ではないか。事実を枉げて強弁することをシフ(強・誣)といい、連用形はシヒ(ヒは乙類)である。
 欽明紀の例は、当初、馬飼首(うまかひのおびと)歌依(うたより)を譖(しこ)じて、つまり、讒言したのを真に受けて歌依を拷問したとき、彼は、「揚言(ことあげ)して誓(ちか)ひて曰く、『虚(いつはり)なり。実(まこと)に非ず。若し是実ならば、必ず天災(あめのわざはひ)を被(かうぶ)らむ』といふ。」と言っている。拷問に耐えられずに死んでしまった。その後すぐに殿(おほとの)が火災に遭ったので、さらに廷尉は、歌依の子までも焚刑に処そうとした。恥の上塗り、嘘を一度着くとどんどん嘘が膨らんでいくこと、一度黒いとしてしまうと皆黒くしなければ収まりがつかないということである。「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」(「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ」)の精神は欠如する。巨大な疑問符「」を、最初から無いことにしてしまうほど強く誣いることで知ったことにしてしまっている。
 神武前紀に、水沫のような「呪り著くる所有り」とあるのは、シルという語が、「領る」と書かれて理解される、領地を領有することである。アワ(沫・泡)という語は、とけやすいもの、消えやすいものの意である。水泡に帰すところである。「菟田川の朝原」というところは、不思議な地名表記で、アサハラとは、浅原というハラとしては浅いところを呼んでいる。川原が広くなっていて、砂地に流れが泡を作るほど浅いところは、雨が多く降って増水すれば水の底に沈んでしまう。つまり、水沫の如く、ともすれば消えてなくなるところである。国土を領有するという観点からは、今日でも河川法で堤防内の河原に作物を植えて畑にすることは認められていない。「領る」ことをしてはならないし、「領る」ことをしても水の沫となりますよ、という場所である。そういう大いなる疑問符の土のところへもってきて、埴(はにつち)で作った祭祀土器を使ったお祭りにつづけて見つけ、「祈(うけ)ひ」の場所にしようとしている。ウケヒ(祈・誓)とは、ある願い事をする時に、眼前でAということが起るのであれば、願い事A´も起こるであろうとあらかじめ言っておく。それで、眼前のことを確かめてAということが起ったら、願い事A´も起こると確信するというお呪い占いである。「菟田川の朝原」は水沫の如きところだから決して確かに「領る」ことはできないところである。それを強いて「領る」ことができるのであれば、どんな厄介なところであれ、「領る」ことができるに違いないと確信することができるというので、そこでウケヒを行って、不確かなところで不確かな願い事がかなうか試し、確かだと分かったからどこであれ確かだと自信が持てる、という強引な自己暗示が行われている。
 したがって、「厳呪詛(いつのかしり)」とあるのは、「潔斎して行う呪言。」(大系本①219頁)、「潔斎して、神に祈って行う呪い事。」(新編全集本①211頁)といった、身を清めた“正しい”行いではなく、まことねじけた心映えのしない行いである。そもそも呪詛するということは、悪質な行いである。その態度、性根、場の設定からして悪質でなくてはならないという発想であろう。イツ(厳)なるカシリ(呪詛)とは、まことに危うい状況設定でも堪え得るのか見定めるほどの、背水の陣的な強引なやり負かしをすることを言っている。カ(=「?」)+シル(知・領)の「?」を水泡に帰して白を黒と言い負かす悪辣さが求められている。神武天皇の行ったことは、襤褸を着せて醜い老人に変装させ、敵陣を通って泥んこを取りに行かせ、ろくでもない土器を拵えて手前勝手な祭祀を行って、自己暗示に酔いしれている。狂信集団の行いこそ、カシリであると考えられる。伴のいう「殊に稜威(イヅ)々々しき術」とは、犯罪者は犯罪者でも、確信犯たれという意味であるとわかる。
 以上、呪詛に関する語、ノロフ、トゴフ、カシルについて見てきた。「詛」や「呪」字に付されている訓は、諸本にノロフ、トゴフ、カシル、カシフのほか、ホク、ホサクなどがあって、それらが入り乱れている。そのため、語の理解の妨げとなっている。上は筆者の整理による訓を示しているに過ぎず、それを前提とした語の理解のための語形成、助詞+動詞の形とする仮説の提示である。言葉の語源はどこまで行っても“説”にすぎない。当たり前のことで、科学的な立証は困難である。ただし、仮にであれそう考えることで多くの納得が得られるのであれば、頭の体操として楽しんでいただけるのであれば、健康寿命が長く保たれて嬉しいことといえる。“科学”的に延命措置を施すばかりが社会に求められているとすれば、ずいぶん歪んだ社会であり、それに携わる人の心ももはや人の心とは呼べはしない。
 筆者は、呪詛が、神に霊威を請うために祈ることという通説に従い得ない。言=事であるとする言霊信仰の観点から、のろう気持ち、ならびに、それを発語することの2点によって、呪詛は支えられていると考える。思考はシンボルの操作によって行われる。すなわち、言語なくして思考は生まれない。呪詛心も同様である。かといって、それを内心に秘めている限り、爆発することはない。愚痴り出し、僻み出し、嫉み出し、恨み出して、はじめて呪詛心は呪詛として形となる。「呪」字に、凶事を招くようにのろう意として、欽明紀二十三年条に、ホク、ホサクという訓も行われている。ほかに、

 乃ち矢を取りて呪(ほ)きて曰(のたま)はく、『若し悪(きたな)き心を以て射ば、天稚彦は必ず遭害(まじこ)れなむ。若し平(きよ)き心を以て射ば、無恙(さき)くあらむ』とのたまふ。(神代紀第九段一書第一)

ともある。ホク(祝)とホク(呪)が同語であるのは、祝う意味でも呪う意味でも、その言葉を口に出して言うことが同じだからであろう。言葉に言ったことは、現実の事として返ってくるのが言霊信仰である。
 応神記で、「詛戸」を返させて身がもとのように健康になったとする話について、「此は、神(かむ)うれづくの言(こと)の本(もと)ぞ。」とまとめられている。「うれづく」という語は、賭け事のときの賭け物のこととされる。最初、秋山之下氷壮士のほうから、春山之霞壮士が伊豆志袁登売神(いづしをとめのかみ)を得ることができたなら、いろいろなものを「うれづく」としてやろうと賭けて言った。その話が、「神うれづくの言の本」であるとしている。伊豆志袁登売神は伊豆志の八前(やまへ)の大神(おほかみ)の娘とされている。だから、神うれづくの話である。負けたのに賭けたものをよこさなかったから「詛ふ」ことになっている。話が些末でみみっちく卑しい。「天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)」に「祈(の)む」のとは次元が異なるように思われる。神武紀の「厳呪詛」の話でも、天神は夢に出てきているが、呪詛をせよと命じているだけで、自分(天神)に祈ることをして相手にとっての凶事を起こさせるように働きかけよと求めてはいない。天神も逃げ口上なのである。欽明紀二十三年条でも、「呪り」ているのに、祝(はふり)の手で投げ入れさせて人のせいにしようとしている。責任逃れをしたくなるのが「呪り」らしい。いわゆる神さまのお仕事ではないということである。上代において、一般に、のろうために神の助力を直接願った例があるのか、史料文献の実例を以てご批判を賜われれば幸いである。

 伴信友「方術源論」『伴信友全集 巻五』ぺりかん社、1977年(「国会図書館デジタルコレクション」(70~/270)参照)
 白川静『字訓 普及新装版』平凡社、2000年
 安藤正次「呪詛訓義考」『国語学論考Ⅲ』雄山閣出版、1975年
 ロバート・キング・マートン、森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳『社会理論と社会構造』みすず書房、1961年
 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年
 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年=大系本日本書紀
 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①~③』小学館、1994・1996・1998年=新編全集本日本書紀
 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『古事記』小学館、1997年=新編全集本古事記
 本居宣長「古事記伝」『本居宣長全集 第10巻』筑摩書房、1968年(「国会図書館デジタルコレクション」(316/577)参照)
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角鹿の塩を呪詛忘れ 其の二

2017年07月19日 | 論文
(承前)
(注1)記紀の話に角鹿(敦賀)が登場する個所を論ったものや、呪詛一般ならびにその言葉について、また、角鹿の塩と若狭の塩の関係を論じたものはいくつか見られる。
 保坂達雄「「角鹿」というトポス」『神話の生成と折口学の射程』岩田書院、2014年。
 井上隼人「『古事記』における角鹿の性格―応神天皇の誕生―」『古代文学』第54号、2015年。
 森陽香「御食を得る天皇―角鹿の入鹿魚と応神と―」『藝文研究』第109号、慶應大學藝文學会、2015年。
 三品泰子「胎中天皇神話と「角鹿」の地域性」『古代文学』第55号、2016年。
 堂野前彰子「角鹿の塩」『古代日本神話と水上交流』三弥井書店、2017年。
 伴信友「方術源論〈一名方術考論〉」『伴信友全集 第五』ぺりかん社、1977年。
 松岡静雄『日本固有民族信仰』刀江書院、1941年。
 安藤正次「呪詛訓義考」『国語学論考Ⅲ』雄山閣出版、1975年。
 金子武雄『上代の呪的信仰』公論社、1977年。
 佐佐木隆『言霊とは何か―古代日本人の信仰を読み解く―』中央公論新社(中公新書)、2013年。
 石部正志編『若狭大飯』大飯町、1966年。
 狩野久「御食国と膳氏―志摩と若狭―」『日本古代の国家と都城』東京大学出版会、1990年。
 舘野和己「若狭の調と贄」小林昌二編『越と古代の北陸』名著出版、1996年。
 舘野和己「若狭・越前の塩と贄」小林昌二編『日本海域歴史体系 第1巻古代篇Ⅰ』清文堂出版、2005年。
 鈴木景二「「角鹿(敦賀)の塩」再考」『美浜町歴史シンポジウム記録集7 若狭国と三方郡のはじまり―若狭の古代社会のあり方から考える―』美浜町教育委員会、2013年。

 武烈紀の角鹿の塩の話は、冒頭に記した詛い忘れのこととして記されており、それ以外に何か関連する記述が見られるわけではない。この文辞に対してダイレクトに迫らなければ「読む」ことにはならない。「是に由りて」とあれば起源譚であるのに、そういう事実はなかったらしいで片付けられている。なぜそのように記されているのかを検討するには、このテキストが出発点であり、終着点である。他の個所で言っていることから勘案すると、あるいは、出土した木簡を整理した位置づけからは、などと、外堀を埋めたから本丸はこうであろうと理屈づけても冬の陣どまりである。歴史叙述の全体“構想”のなかにあって思いつきで按配して書いてあるとか、歴史叙述の一種のパロディのように記されていると考えるのは誤りである。角鹿(敦賀)が北陸への交通の要衝であるからといって、どうして気比大神との名替えや塩の呪詛忘れの話に化けるのか、その化ける理由を説明しなければ、無文字文化下に伝承が存在している根幹を無視するに等しい。古代人の心に近づかずして古代は理解できない。話(咄・噺・譚)とは何かについて、認知言語学の基礎、または落語家の弟子入りから始めていただきたい。外国語のジョークが通じないのと同じことが起っている。
 一例として、上にあげたうち新しいものとして、歴史学を導き入れてまとめられた堂野前、2017.を引用してみる。

 天皇が唯一食べられるものであったということは、裏返せば、天皇だけがその塩を口にすることが許されていたということであり、それはすなわち角鹿の塩を天皇が独占したということを意味している。角鹿という土地の背後には蝦夷との交易があったことからすると、角鹿でとれる塩を独占するということは、そのような交易権を入手することでもあっただろう。武烈天皇はその交易権を手に入れて王となったのであり、角鹿の掌握が、天皇になれるかどうかを決定づけていたのかもしれない。鈴木景二[、2013.]によれば、古墳時代以来日本海を仕切っていた角鹿海直が祭祀していたのが気比大神であり、その神に捧げられていた塩が貢納されるということは、角鹿海直の服属を意味しているのだという。そもそも塩など食物の貢納には二つのパターンがあって、一つは若狭のように大和政権の直轄経営[状態のミヤケ]によって生産された塩の貢納であり、もう一つは角鹿のように[独立性の強い]豪族が服従する際に[儀礼として]行われた塩の貢納であった。(161頁)
 若狭の塩は、志摩、淡路とともに、朝廷に献上されるものであり、それゆえ若狭は朝廷に贄を献上した御食国として大和政権とは密接な関係にあった。一方、角鹿の塩はどちらかというと呪具の要素が強く、角鹿の塩を口にすることは象徴的儀礼の意味があった。塩を口にすることによって天皇は角鹿の背後に控える北陸道を掌握し、その交易圏を獲得したのだと想像する。また、古代においてもっとも遠くまで交換されていったものは実用品ではなく祭具であり、呪的な力を秘めたものこそが交換されていく「貨幣」であった。「塩」は「潮」のことでもあり、塩を支配するものが潮すなわち海流をも支配するのであって、そのような水上交通の掌握が、古代においては何よりも重要であったのである(164頁)

 武烈紀の原文は、「計窮望絶。広指塩詛。遂被殺戮。及其子弟。詛時唯忘角鹿海塩、不以為詛。由是、角鹿之塩、為天皇所食、余海之塩、為天皇所忌。」である。どうして「望絶」えるときのことなのか、どうして「子弟」が出てくるのか、どうして「忘」れたことになっているのか、どうして……、と、話の面白さをことごとく消し去って、上の尤もらしい“学術的”「想像」が罷り通っている。長屋王は天皇ではないが、木簡が出土しており、角鹿の塩を味わったらしい。そんなことから、「長屋王、私(ひそ)かに左道を学びて国家を傾けむと欲(す)。」(続紀・聖武天皇・天平元年二月条)と讒言されるにつながったのであろうか。
(注2)呪詛に関するヤマトコトバに、ノロフ、トゴフ、カシルといった語があげられている。それらの語の使い分けについては(注1)の文献でもとりあげられているが、結局のところよくわかっていない。筆者の見解については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」を参照されたい。比較的古く訓が付けられている宮内庁書陵部本には、雄略前紀の「詛曰」の「詛」字に「トコヒ」、武烈前紀の「不-以-為-詛」には「乃ロハ爪」とある。雄略前紀の個所は、「詛曰」だから、トゴヒテイハクと読むのが正しいのであろう。武烈前紀では、「曰」、「言」といった発語の動詞を欠いており、ノル(告・宣)に発するノロハズという訓が付されていた理由が了解される。
(注3)「子弟」の訓については、岩波書店の大系本日本書紀補注に、「書紀の古写本では、これの訓を欠くものもあり、また、定本などにはコイロドという訓がある。コイロドという訓は、子弟をそれぞれ一字一字として訓んだにすぎないもので、ここでいう子弟の意は、むしろ、ヤカラにあたると認められる。」(③378頁)、小学館の新編全集本日本書紀頭注に、「ウガラは親族(血縁の一族)、ここの「子弟」も同じ。「軍防令」の「軍司ノ子弟」の『義解』に「子弟トハ、子・孫・弟・姪也」とあるように、血のつながりのある一族をいう。ヤカラはもっと広く、一族郎党を含めていう。」(②275頁)とある。現代の議論では、ヤカラ v.s. ウガラの様相を呈している。しかし、コイロドという比較的新しい古訓も、まんざら捨てたものではない。
 宮内庁書陵部本の傍訓に、「子弟」部分に「サヘニ」と付されている。助詞サヘ+ニを表している。大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、1974年)に、「サヘは、「添(そ)へ」の転と考えられる。万葉集では「共」「幷」「兼」「副」を「さへ」と読ませているのは、原義を示すものであろう。」(1449頁)とあり、「そへ」は他動詞形で自動詞の「そひ」(添・沿・副)は、「線条的なもの、あるいは線条的に移動するものに、近い距離を保って離れずにいる意」(747頁)としている。そして、他動詞の「そへ」には、「⑤【諷へ】《そばに並べる意から転じて》なぞらえる。」という義を載せ、万1642番歌を用例としている。

 たな霧(ぎ)らひ 雪も降らぬか 梅の花 咲かぬが代(しろ)に 諷(そ)へてだに見む(万1642)
 ……能く諷歌(そへうた)・倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月)
 是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡(わざうた)亦衆(おほ)し。(天智紀六年三月)

 「子弟」に続けてサヘニと訓むべきとの定めからは、真鳥大臣が詛ったのに対して、「そふ」(添・沿・副・諷)ことができる存在としては「子弟」しかいないに決まっているのだとわかる。真鳥大臣の「広指塩詛」姿になぞらえることができる姿と認められるのは、姿形や所作や言動が自ずと似ている「子弟」ということになる。一族郎党の誰でもいいわけではなく、また、真鳥大臣は男性であるから、色っぽく品を作る女性も除かれる。よく似ているのは、真鳥大臣の子(男の子)や弟ということがわかる。コイロドという誰でも読める言葉であったから、長い間傍訓が付されないままであったのではないか。
 そのように子弟を男子に限っておくことは、この話の底流にふさわしい。ツノガという地名の当て字の「角鹿」という字面が、角のある鹿とは大人のオスであることを導くために強調されているといえる。
(注4)ツノガについて、「角鹿」と書かれるだけでなく、仮名書きで「都奴賀」(仲哀記・応神記歌謡42)とあり、仲哀記の地名譚に、「血浦(ちうら)」→「都奴賀(つぬが)」、垂仁紀二年是歳条に、「額(ぬか)に角ある人」の故事から「角鹿」と名づけられたとされて、ツノ(角)+ヌカ(額)→ツヌガが正しいと考えられている。結局、後にはツルガ(敦賀)となってしまうほど、音に揺れがあったということなのであろうか。ただし、日本書紀では「奴」をノ甲類と訓んでいる。「角」はツノ(ノは甲類)としか訓まないと思われる起源譚に、本当にツガでいいのか、また、古事記で「奴」=ヌに限り、ノ甲類で訓むことは絶対にないのか、再検証しなければならない。また、どうしていわゆる好字令で「敦賀」と書かれて良しとしたのか、さらにそれをどうやったらツルガと訓めるのか、別に論ずる。
(注5)早川孝太郎『猪・鹿・狸』講談社(講談社学術文庫)、1979年。「国会図書館デジタルコレクション」参照。
(注6)「斛(さか)」、「斗(はこ)」などと訓読みされる場合ばかりでなく、字音で音読されたともされている。
(注7)人を指差すことは今日、失礼に当たることだからしないようにと躾けられ、そういうこともあってか、指差すこと自体が呪詛する行為であって嫌われるとも説かれている。いま、人ではなく、ウシホ(塩≒潮)を指している。例えば、あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川と指差した時、安達太良山は噴火すると信じられていたのか、筆者は知らない。角鹿海以外の潮の干満を指差してのろったというとき、指差喚呼自体に何か呪的な思惑があるのか、再検討が必要であろう。「【FHD】東海道新幹線 指差喚呼が素晴らしい真面目な車掌さん JR Shinkansen Conductor」を参照すると、声を出しながら点検していく性格が強いとわかる。すなわち、発した声(言葉)が指差した対象物の性格に宿るように乗り移ると思われたと考えられる。そのことこそ、言=事であるとする言霊信仰によっている。指差したことだけで呪的行為になるのではなく、言葉がその対象において実現するように発せられて当てはめられるから、呪的行為となる。もとより、何でもかんでもでたらめを言ってその通りになるかといえば、言霊信仰が適っている際にしか通用しない。当たり前の話であるが、呪術に力があるのは、言葉が通じているヤマトコトバ圏の人間界のことに限られ、呪詛したからといって、潮の満ち干を操ることなどできない。ただし、決してできないわけではないのは、「長老が雨乞いをすれば雨が降る」という文意の“正しさ”から承服せざるを得ない。本邦は火星ではないから、いつか必ず雨は降るのである。
(注8)奈良国立文化財研究所編『平城京木簡一』同発行、平成7年、PL36.204(「奈良文化財研究所木簡データベース」参照)。舘野和己、2005.では、「記載内容は不詳だが、「籠」が二カ所に見えるから、産地別の塩の分量を列記したものである可能性が大きかろう。そう考えて誤りなければ、「角鹿塩」と呼ばれた塩が確かにあったことになる。一種のブランドである。」(91頁)とされ、「長屋王木簡の中には、このほか「周防塩一籠」(『城』二五)と記されたものもある。」(96頁)と注されている。舘野先生は、角鹿は、塩の大生産地の若狭国領内ではなく、隣の越の国にあるという矛盾について悩まれており、なんとか説明をつけようとされている。もとをたどれば、角鹿の塩の伝承は、何らかの事実を反映して武烈紀の記述につながっているはずであるとのお考えである。調と贄との違いとして、狩野久、1990.は主張されており、鬼頭清明『古代木簡の基礎的研究』(塙書房、1993年)には、「天皇制がなんら律令法に規定されていないように、贄も本来律令法という国家法に規定されるような性質のものではなかったのである。」(125頁)と説明がある。
 筆者の立脚点は、初めに言葉ありき、とするもので基が異なる。大量生産・大量運搬の堅塩とは塩の種類が違い、ヤマトコトバの謎掛けにしたがって潮解を恐れずに粗塩のままの白塩を籠に入れて運んできてしまったものが、都では珍しい現物の「角鹿の塩」であろうというのが筆者の見解である。なお、延喜式には、「淡路塩」、「紀伊塩」、「生道塩」などとあるが、「角鹿(敦賀)塩」とは見えない。
(注9)拙稿「応神記の名易え 其の一」~「同 其の三」参照。
(注10)田辺悟『イルカ』(法政大学出版局、2011年)に、イルカという語彙の表記について、「「入鹿」については人名にもあてられているので、ここでは除外することにした。」(236頁)とあって、上代の人の知恵に近づくことを拒まれている。
(注11)土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年、683~684頁。上代語に、ウカウカトという言葉は文献に知られない。口語的表現として存在していたとするなら、ウク(浮)という語を反復させて形成されており、その場合、本当に浮いているなら、「浮きて」と言えば済む。それをわざわざ反復させていたとすると、浮いていることを強調する場合もあると解されようが、本当は必ずしも浮いていないことを語用論的に示す方便であったとも考えられる。実際、凪状態にブイが留まり浮かんでいることよりも、波に揺られながら浮いている時の方がウカウカトという定まらない語感にしっくりくる。

 ありありて 後も逢はむと 言(こと)のみを 堅め言いつつ 逢ふとは無しに(万3113)

 上の歌は、ずっと健在で今のように仲良しでいてまた逢おうと言っていながら、言葉には裏腹感が漂っている。人間は、「今」を生きている。将来どうなるかわからないことは、まぬがれようのない大前提である。病気にもなろうし、別に魅力的な異性が現われれば心はそちらへ向かってしまう。「ありありて」と強調すればするほど、そうはならない無常の存在を認めてしまうのである。
(注12)延喜式の、「~ケ」系と「~ヲケ系」では、助数詞にそれぞれ「合」、「口」を用いる区別があるとされる(金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)、ぎょうせい、1999年1月)。ここで角鹿に笥飯大神の存在することは、オヒツにご飯を盛って蓋をかぶせたことを表している。拙稿「「椎の葉に盛る」考(万142番歌、有間皇子作歌)」参照。「御食の魚」として「入鹿魚」を賜わったとしたときも、相手は笥飯大神であり、蓋のかぶさる曲物として存在していると想定されている。拙稿「応神記の名易え 其の二」に述べたとおり、イルカはナ(中・名・魚・己・汝・無)易えにおいてクラインの壺様を表す格好の具体物とされていた。入れ籠構造として身自ら蓋するものと考えられるのである。カ(鹿)のカたる本質とは、疑問の助詞カに求められよう。あったりなかったりするから疑問がわく。疑問の只中へ入っていく魚こそ「入鹿魚」である。和名抄に、「䱐𩶉 臨海異物志云はく、䱐𩶉〈浮布二音、伊流賀(いるか)〉は大魚也、黒一に浮き、一に沈む也といふ。兼名苑に云はく、䱐𩶉は一名、鯆𩺷〈甫畢二音〉、一名◆(魚偏に敷)◇(魚偏に常)〈敷常二音〉なり。野王案ずるに一名江豚なりとあんず。」とある。浮くのか沈むのかどっちなのか、あったりなかったり、ウカウカトしている魚と認識していた。源順は頓智の才があったから、哲学的大疑問をそのままに書いている。
(注13)近代天皇制は、古代天皇制を範としていたことは明らかであろう。その際、頓智、なぞなぞについてはわからなくなっていた。パッケージだけを移築している。藤田省三『天皇制国家の支配原理』(みすず書房、2012年)のどこを参照してもそのようなことは記されていないが、欠如理論と批判される“欠如”とは、近代における頓智の欠如ではないかとさえ思う。読み違えも甚だしいところ、藤田先生は筆者に暖かいエールを送って下さっていることと信じている。
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角鹿の塩を呪詛忘れ 其の一

2017年07月16日 | 論文
 日本書紀の武烈天皇条に、角鹿の塩の詛い忘れについての記述がある。武烈紀の研究は、そこに載る歌謡問答と、暴虐の君主像が考察の対象とされたものがほとんどである。「角鹿の塩」については、歴史学的なアプローチがあるが、詛い忘れに関する研究は見られない(注1)。けれども、日本書紀の編者がおろそかに書いているとは思われない。

 是に、大伴[金村]大連、兵(いくさ)を率(ゐ)て自ら将(いくさのきみ)として、[平群真鳥]大臣の宅(いへ)を囲む。火を縦(はな)ちて燔(や)く。撝(さしまね)く所雲のごとくに靡けり。真鳥大臣、事の済(な)らざるを恨みて、身の免れ難きを知(さと)りぬ。計(はかりこと)窮(きはま)り望み絶(た)えぬ。広く塩(うしほ)を指して詛(のろ)ふ。遂に殺戮(ころ)されぬ。其の子弟(こいろど)さへに及(いた)る。詛ふ時に唯(ただ)角鹿海(つのがのうみ)の塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)

 平群真鳥大臣が滅ぼされる時、塩に呪(のろ)い(注2)をかけて食べられないようにしたが、その子弟(注3)も角鹿(敦賀)(注4)の塩(うしほ)ばかりは呪詛するのを忘れていたため、角鹿の塩は天皇御用達になったという話(咄・噺・譚)である。その後、天皇御用達の塩のことは聞かれないので、何を示すために記されたのかわからないとされるに至っている。今考えてわからない、不思議であるからといって、当時の人が遅れていたと考えるのは誤りであるとよく言われる。時に、技術の発達とからめて捉えられることもある。その言われ方には幾通りかあり、当時の人にあってはとても難しいことだったからという考え方、当時の人には大陸からの知識が広まっていなかったからという視点、当時の人には別に難しくはないけれど必要なかったとする見方、当時となってはすでに忘れられてわからなくなっていたという意見などである。しかし、話として書いてあるからには、話として共通理解が得られていて書かれてあると考えるのが素直であろう。技術も、多くの場合、必要は発明の母という言葉で説明し切れるほどに、必要なときには開発され、必要がないときは利用されず、捨て去られる傾向が強いようである。わからない話をわからないままに書いて事足れりとすることは、学校教育の行き届いた末の人たちだけかもしれない。日本書紀の編者は、わからない時、「〈此の古語(ふること)、未だ詳らかならず。〉」(雄略紀元年三月条)などと注釈を入れるほど、念を入れる頭脳明晰な人たちである。結果的に“嘘”になるような談話をしない、司馬遷のような立派な人たちであった。
 ここで検討しているのは、言葉の言い回しである。当時とは感覚が違ってわからないと思える話である。塩と呪詛の間にどのような関係があるのか、また、角鹿の特殊性についての事柄である。中四国から北陸、東海にかけての製塩技術の発展史を反映する形で、この呪詛塩話が形成されているとする説がある。塩作りの技術と呪詛との関係を、技術史で解読できるはずがない。“心”は出土しないから、後付けで講釈している。出土品+今日の人の考えによって、当時の“心”が“復元”できるとは考えられない。出土品+当時の人の考えでなければならない。当時の人の考え方は、記紀万葉に残されている。素直に汲み取ればいい。

 塩 陶隠居曰く、塩に九種有り。白塩は人の常に食する所也といふ。崔禹食経に云はく、石塩は一名、白塩なり。又、黒塩〈余廉反、之保(しほ)。日本紀私記に堅塩と云ふ。〉有りといふ。(和名抄)
 白塩 陶隠居本草注に云はく、白塩〈爾廉反、和名阿和之保(あわしほ)〉は人の常に食する所也といふ。」、「黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名、白塩なり。又、黒塩〈今案ずるに、俗に黒塩と呼びて堅塩と為(す)。日本紀私記に堅塩は木多師(きたし)と云ふは是也と案ず。〉なりといふ。(廿巻本和名抄)

 塩にはいろいろな種類があり、「九種」とあるのは本草和名に載るさまざまな種類の塩のことを表しているとされる。源順が知悉していたかどうかわからない。おおむねのことで、白い塩、黒い塩、それはまた、堅い塩で、堅塩(きたし)ともいうと書いてある。白い塩があったことは、日本書紀の記述からわかる。

 俗(ときひと)の曰(い)へらく、「……時に二の鹿(か)、傍(かたはら)に臥せり。鶏鳴(あかとき)に及ばずとして、牡鹿(をしか)、牝鹿(めしか)に謂(かた)りて曰く、『吾、今夜(こよひ)夢(いめ)みらく、白霜多(さは)に降りて、吾が身を覆ふと。是、何の祥(さが)ぞ』といふ。牝鹿答へて曰く、『汝(いまし)、出行(あり)かむときに、必ず人の為に射られて死なむ。即ち白塩(しほ)を以て其の身に塗られむこと、霜の素(しろ)きが如くならむ応(しるし)なり』といふ。時に宿れる人、心の裏(うち)に異(あやし)ぶ。未及昧爽(あけぼの)に、猟人(かりびと)有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人の諺に曰く、『鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあはせ)の随(まにま)に』といふ」といへり。(仁徳紀三十八年七月)

 鹿の肉に白塩を塗りたくって塩蔵品を作っていたことから、鹿の夢の中に霜の降り積もるというしるしになってあらわれている。逸話として描かれているだけであるが、白い塩の存在が確かめられる。上代人の頭に、鹿と塩との結び付きがあったらしい。上の逸話は猟師と鹿との関わりで述べられている。列島において、鹿は獲物として熊や猪と並び最大級である。草食動物は、ミネラル分、特に塩を欲しがる。野生のシカやカモシカなども、塩分のとれるスポットを知っていて時折訪れる。人里に鹿が現われる時、便所に寄って来ることがある。人の小便の塩分を欲しがるようである(注5)。鹿が春日大社の使いとされて大事にされた時、家畜の馬や牛同様、今の鉱塩のように堅塩を与えていたのであろうか。すると、列島に縄文時代にはいた獣のうち、鹿狩りをする際に塩を使っていたのではないかと気づかされる。五月五日の薬狩りの対象である。広大な野で当日確実に仕留める手立てとして、あらかじめ塩を使っておびき寄せておけば、巻狩りとはいえ場所を限定することができ、効率的であったろう。獲った鹿の最大のお目当ては、薬効があると信じられていた袋角である。成長した牡鹿がターゲットであった。角鹿(つのが)と塩とは切っても切れない関係になったと言えるのである。

 十九年の夏五月の五日に、菟田野(うだのの)に薬猟(くすりがり)す。(推古紀十九年五月五日条)
 夏五月の五日に、薬猟して、羽田(はた)に集ひて、相連(つづ)きて朝(みかど)に参趣(まうおもぶ)く。(推古紀二十年五月五日条)
 鹿茸〈而庸反。角鹿初生。〉……鹿茸、一名、鹿角。〈雑要訣に出づ。〉和名加乃知[和ヵ]加都乃(かのわかつの)。(本草和名)

 塩生産は、海水の塩分濃度を高める「採鹹」、その鹹水を煮詰めて結晶を作る「煎熬」、できた粗塩か結晶化寸前の飽和水溶液を別容器に移して再加熱してにがりを焼き切る「焼塩」の工程に整理される。「焼塩」でできた塩は「堅塩(かたしほ、きたし)」と呼ばれる。塩を表す代表的な単位、助数詞に、嵩高や重量を表す「石(斛)」、「斗」、「升」、「合」、「勺」、「撮」がある。ほかに、形状のことからいうらしい「顆」、包み方、保存の仕方をいうらしい「籠」がある。「顆」は「堅塩」や「石塩(かたしほ)」の一個一個を数えて、~ツ(~チ)と言ったらしい。「籠」は、粗塩か「破塩(わりしほ)」を梱包か貯蔵した数を、~コ(コは甲類)と数えたのではないかという(注6)。粗塩の弱点は、湿度が高いと吸湿してべとべとになることである。なったらなったでそのままにがり分を上手に滴らせればよいという発想の転換をするか、べとつかないように予め焼き切るかという違いである。湿気の多い地方には竹籠に吊るしておく民具が伝わっている。塩の容器に、塩壺と塩籠があるのは、発想の違いともいえる。地場ですぐ使う塩に、燃料を多用して堅塩にする必要はない。堅塩を再び舂き砕いて択りわける必要もなく、粗塩のままの白塩を使って魚の塩蔵品は作られていたのであろう。精製塩はまた別のものである。
塩籠(アチック・ミューゼアム・コレクション)(「国立民族学博物館」様)
 大別した時の塩の二形態のうちの白塩(粗塩)が、武烈紀に登場する角鹿の塩なのではなかろうか。第一に、「広指塩詛」という言い方は、「塩」字にシホとウシホの両義を含めている。ウシホ(潮)は、ウミ(海)+シホ(塩)の意で、①潮汐による潮流、②海水、③塩、の3つの意で使われている。③の salt の意は、もっぱらこの武烈紀の用例に限られる。和名抄に、「潮 広雅に云はく、潮〈直遥反、字亦淖に作る。和名宇之保(うしほ)〉は海水の朝夕来り去る波の涌くこと也といふ。」とある。朝夕の満ち引きを潮汐と書き表わした。もちろん、月に導かれてのことであり、一日にほぼ2回あるからそう譬えられて然りなのである。真鳥大臣が指差してのろったのは、全国の津々浦々で満ち干している潮に対してであったろう。干満の様子がわかるから、指で指し示すことができる(注7)。ところが、角鹿(敦賀)の場合、潮の干満差はとても小さい。潮汐表に当たられたい。
 指で指し示すことを忘れたのは、潮があまりにも目立たず、同じ北陸道の手前にある琵琶湖岸の塩津港に同じかと錯覚し、湖の水はいくら焼いても塩はできないとの謂いではないか。「角鹿」は「越(こし)の前(みちのくち)」であり、それよりも手前に近江の塩津はある。それというのも、ツノガをことさらに「角鹿」と書いている。鹿に角があるのは実は当たり前のことではない。周知のように、牝鹿(めか)には角はない。子鹿も同様である。そして、古代にカと呼んでいるその当該牡鹿も、春になると角は落ちる。その後新しく袋角が伸びてきて、夏になると表面が角質化して角は完成する。成長するにつれ、大きく枝分かれしていく。秋にはオス同士の争いの武器となり、勝ったものがメスを独占できる栄冠に至る。つまり、ツノガをいう地名に、角鹿という字を当てて表すと、その地は鹿の角同様に、あったりなかったりするという特徴を再活性化させているのである。
シカの角(井の頭自然文化園解説パネル)
 あったりなかったりする点が、ツノガという場所の特徴を語るうえでわかりやすい。潮の干満があるのかないのかわからないとは、水の中に塩があるのかないのかわからないことである。そんな塩として一番ふさわしいのは、和名抄にアワシホと呼ばれる「白塩」のこと、焼き切っていない粗塩のことと考えるのが妥当である。顆単位の堅塩は、確かに堅く存在し、湿気が多かろうが少し水がかかろうがそう簡単にはなくならない。他方、粗塩の場合、湿気を帯びるとぽたぽたと流れて嵩が減って行く。落ちたにがりを豆腐作りに使えばいいのだが、豆腐の歴史は別に論じたい。
 話は真鳥大臣を主人公として描かれている。マトリ(トは乙類)と聞いて、マ(真)+トリ(取、トは乙類)の意と捉えるなら、対義語にカタ(片)+トリ(取)という語意が思い浮かぶ。それは、カタドリ(象・型取)のこと、型にはめて取った像のことである。伊勢神宮に伝わる御塩殿祭(みしおでんさい)の塩の焼き固めでは、三角錐のような形の土器に、およそ1.1リットルの粗塩を突き固めて焼いている。堅塩(かたしほ)に当たる塩が象られている。象られない塩とは粗塩ということになり、真鳥という名前は塩の形態をひとつに絞る仕掛けとして働いている。
伊勢神宮の塩づくり(「伊勢神宮・御朱印」様)
 さて、この粗塩を籠に入れて都へ運んだことがあるとすれば、到着時に荷をほどいてみたとき、ずいぶん少なくなっていて、本当に塩が籠か袋(俵、叺)にいっぱい入っていたのかどうかわからないと不審がられたことであろう。持ち運んで来た人は、そういうものなのだと一生懸命に説明したに違いない。「荷丁(もちよほろ)」(持統紀六年三月条)が切々と訴えている顔が浮かんで面白い。唯一、木簡例の証拠がある。

  □四籠□角□塩□□
    〔又 鹿 卅籠ヵ〕(注8)

 筆者は、特段に角鹿の白塩の実体に迫るつもりはない。話として、鹿の角はあったりなくなったりするから、「角鹿の塩」なるものを思考実験で思い浮かべられれば、それは観念の世界において十分に通用する。都に暮らす宮廷社会の人においてである。ツノガと聞けば、ツノ(角、ノは甲類)+カ(鹿)のことであると、字がわからなくてもピンとくる。なぞなぞとして、鹿(か)に角は必ずしもいつもあるわけではないから、これはおもしろい、ということになる。
 そのようなことが想起されていたことを示す証拠として、応神天皇が角鹿の気比大神と名替えを行ったとする仲哀記の話があげられる。

 故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つのが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)

 夢に現れた伊奢沙和気大神が名を易える幣を献ろうと言ったので、翌朝浜へ行ってみると、浦一面にイルカ(入鹿魚)がミケ(御食)のナ(魚)としてうち上がっていた。名と魚(な)とを易えたのではなく、ナ(中・名・魚・己・無)という概念を総ざらえにするという認知言語学的に高度なレトリックが繰り出されていた(注9)
 イルカがうち上がることは稀に見られる。理由はわかっていない。イルカとしても愚かなことである。それを見た人は、潮が引いていくことを忘れていた、あるいは油断していたと考えた(注10)。不注意のうっかりミスである。うかうかしていた。角鹿の海は潮の干満が少ないが、かといって皆無ではない。うかうかしていたからイルカはうち上げられた。日葡辞書に、

 Vcavcato. ウカウカト(うかうかと)副詞.不安定な,ぼんやりしているさま,または,気がふれたように放心しているさま,など.
 Vcavcaxiij. ウカウカシイ(うかうかしい)軽率な,または,頭の鈍い.
 Vccarito. ウッカリト(うつかりと)副詞.注意もしないで,ぼんやりしているさま.¶Vocarito xita mono.(うつかりとした者)うつけたようになっている者,または,何事かに心を奪われている者.(注11)

とある。だから、「御食(みけ)の魚(な)」となっている。「御食(みけ)」とは、「御笥(みけ)」と同等の語である。食べ物を盛る器が「笥」である。そこへ盛るご飯のことをケヒ(笥飯)といい、角鹿に坐す大神の名とされている。また、笥に入れる(注12)食べ物とは、食物自体をあらわす神の名、ウカである。

 倉稲魂、此には宇介能美拕磨(うかのみたま)と云ふ。(神代紀第五段一書第七)
 次に、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(記上)
 粮(くらひもの)の名をば厳稲魂女(いつのうかのめ)〈稲魂女、此には于伽能迷(うかのめ)〉と云ふ。〉とす。(神武前紀戊午年九月)

 うかうかしていて人の食べ物、ウカとなったもののメッカのようなところが、ツノガ(角鹿)というところにふさわしい。そのように獲れたイルカの類の自然の恵みをどうやって都へ運ぶのか。実際に「贄」として貢納したのが先ではない。頓智の世界において、話(咄・噺・譚)として、人々の観念のなかでどのように「想像」されたかを、テキストを頼りに検証している。歴史学や神話学とは無縁の、無文字文化のなかの純文学(言葉遊び)として捉え直している。上代の人は必ずや気づいたことであろう。塩蔵品にしようと。そう思考を進めていくと、角鹿の地は、どうしても塩の大産地であって欲しいことになる。言=事をモットーとする言霊信仰のもとで暮らす人たちは、そのように観念の世界で遊んだ。だから、文献上も出土状況も隣の若狭国が塩の大産地であるのに、角鹿にまつわる塩の話が日本書紀に載っていて、学者さんは悩むのである。実際に角鹿の地に製塩遺跡は皆無ではないようであるが、大産地を隣に控えていて、なにもわざわざ「角鹿の塩」をブランド品と捉える必要性はない。言葉の十分性の観点から、洒落として、小噺の次元で、「角鹿の塩」は有名であったと考えられる。言霊信仰のもとで忠実に言=事を再現しようとした結果、あるいは長屋王のもとへ「角鹿塩」が運ばれたということであろう。単位として「籠」とあることに、民具の塩籠を思い起こさせるものがあり、粗塩が運ばれたのであろうと推測されるのである。
大相撲の塩籠(「朝日新聞デジタル」様)
 「角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす」とある点については、言霊信仰の第一人者、推奨者が、天皇という存在であったからであろう。天皇という存在により、列島はほぼ平和的に統合された。「言(こと)向け和(やは)」(記上)すことが行われた。言葉で和平交渉をしたと考えるのは、誤りとまでは言わないが、正鵠を射ているとは言えない。言葉を使うとは、言葉の内容の次元と、言葉の外見の次元がある。その両者が相俟って、全国(肥国、高志国、毛野国、……)が戦争をせずに一つとなってまとまっている。その力とは、言葉としてそういうことだよね、という点に説得力があって、皆が納得して従ったということである。言葉が言葉自体を説明してグルリンパと落ちがつけば、喧嘩をしようにも喧嘩にならない。店員が「無いものはございません」という洒落横丁で、客が難しい注文をしてその商品がないとわかると、無いものはないと言っただろうとクレームをつけたとしても、「『無いもの』は無いのです」と看板を指差しながらニタニタと答えられたら、「何を?!」といきり立っても負けを認めざるを得ない。本邦初の人代の天皇とされる神武紀には、その方法が明示されている。(注3)にサヘニで詳解している文である。古代天皇制は、言語学に精通したことによって成り立ったと言える(注13)

 初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥(ひき)ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃ひ蕩(とら)かせり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲(ここ)に起れり。(神武紀元年正月)
(つづく)
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「椎の葉に盛る」考(万142番歌、有間皇子作歌)

2017年07月10日 | 論文
 有間皇子の自傷歌は、万葉集の挽歌の初めを飾る名歌として古来名高い。しかし、その第2首目の、「椎の葉」にご飯を盛るのかについては疑問とされたままである。

  有間皇子の自ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首
 磐白(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結ぶ ま幸(さき)くあらば また還り見む(万141)
 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万142)

 万142番歌の古来からの難題は結着がついていない。「椎の葉に盛る」という表現が、椎の葉は飯を盛るには小さすぎるから、椎の葉に盛られた飯が有間皇子の食べようとするご飯なのか、「紀州磐代の道祖神の神前に供へ」た神饌(注1)ではないのか、と意見が二分している。今日では前者が優勢である。後者の考えに立つと、歌で表現しようとする「家」と「旅」の対比がうつろになり、「余りにも抽象化し、ふやけた発想になってしま」う(注2)と批判されている。ご飯を「椎の葉に盛る」ことはあり得ないとする再批判には、安楽な家を離れて旅の不自由さの嘆きを表わさんがために詠んでいると強調されている。また、141番歌とともに2首あげられている題詞に、「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」とある点との関わりが不明ともされている。後の人が有間皇子を偲んで「自傷」と仮託したという説まである。
 筆者は、悠長な見解について詳しく解説しない。日本書紀を併せ読めば、この歌の歌われた時点は、有間皇子が謀反の疑いで都から紀温湯へ護送される途中が141番歌、申し開きが適わずに紀温湯から都へ護送される途中に歌ったものが142番歌であるとわかる。拘束感が違うと読み取れる。そして、142番歌は、藤白坂で絞殺刑に処せられる直前のものである。

 十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣、語有間皇子曰、天皇所治政事、有三失矣。大起倉庫、積聚民財、一也。長穿渠水、損費公粮、二也。於舟載石、運積為丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善己、而欣然報答之曰、吾年始可兵時矣。甲申、有間皇子、向赤兄家、登楼而謀。夾膝自断。於是、知相之不祥、倶盟而止。皇子帰而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪、率宮丁、囲有間皇子於市経家。便遣駅使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子、与守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚、送紀温湯。舎人新田部米麻呂従焉。於是、皇太子、親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天与赤兄知。吾全不解。庚寅、遣丹比小沢連国襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂於藤白坂。塩屋連鯯魚、臨誅言、願令右手、作国宝器。流守君大石於上毛野国、坂合部薬於尾張国。〈或本云、有間皇子、与蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬、取短籍、卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人、一日両夜、邀牟婁津、疾以船師、断淡路国。使牢圄、其事易成。或人諫曰、不可也。所計既然、而無徳矣。方今皇子、年始十九。未成人.可成人、而得其徳。他日、有間皇子、与一判事、謀反之時、皇子案机之脚、無故自断。其謨不止、遂被誅戮也。〉(斉明紀四年十一月)

 問題は残されたままである。旅先で食べるために盛ったご飯は握り飯なのか、糒(乾飯(ほしひ、ほしいひ、かれひ、かれいひ))の類なのか、という点である。「握飯」とすると、「罪人として護送中の囚われの身であれば、そのまま手づかみでたべたのであって、わざわざ食器や椎の葉に盛ってたべるという手間ひまをかける必然性はまったくない」し、「乾飯」とすると、「椎の葉に盛って食べるということはちょっと無理であろう」とフローチャートを組んだ解説(注3)もある。「盛る」と明示された作業を考究しなければならない。
 「家に有れば笥(け)に盛る飯(いひ)」とある「笥(け、ケは乙類)」とは何かである。ご飯をよそう器であると信じ込んでいる。和名抄に、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、和名介(け)〉は食を盛る器也といふ。」(注4)とある。食器のことを指しながら、そこへよそった食べ物のことも同じく「食(餉)(け、ケは乙類)」と呼んでいる。御食(みけ)、朝餉(あさげ)というケである。関根真隆『奈良朝食生活の研究』(吉川弘文館、昭和44年)に次のようにある。

 ……これら笥類の用途であるが、『万葉集』によると、
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(一四二)
とあり、飯を盛るという。武烈紀の影媛の歌に「拖摩該儞播(玉笥)、伊比佐倍母理(飯_盛)、拖摩暮比儞(玉盌_)、瀰逗佐倍母理(水_盛)」とあり、神功皇后紀十三年条に「命武内宿禰太子角鹿笥飯大神」などとあるのも笥に飯を盛った証左となろう。また近時の藤原宮跡出土木簡にも「]二大御莒二大御飯笥二□(坐)[」(〈『同概報』〉)とみる。
 まず大笥については、経師〜雑使五八人分として大笥五八合を計上し((16)六七~六八)、同じく経師〜雑使四四人分として大笥四四合を計上((16)五一三)しており、人別一合の割となる。ただここで問題となるのは、飯を盛るといっても今日の飯茶碗のように、それで食事をとったのか、あるいは今日のオヒツのように、ただ飯を入れるだけのものであったのかは定かでない。前掲『万葉集』では前者の意になろうか。(306頁)

 関根先生は、茶碗に当たるのか、オヒツ(飯櫃)なのか、推測だけで決定されていない。和名抄も、「飯を盛る器」としていて、それが銘々の茶碗(お椀、お弁当箱)に当たるものなのか、オヒツに当たるものなのか、分けていない。「笥」はケと訓んで、使い方として、「飯を盛る器」であると提示している。用途細目には触れていない。筆者は、142番歌の「笥」は、オヒツ(注5)に当たると考える。
 歌に、「家にあれば……」と「旅にしあれば」を対比させている。本当の対比とは、やることがことごとく正反対ということであろう。家にいれば、ご飯は炊いた後、オヒツに入れて余分な水分を木地に吸ってもらって良い頃合いの食感となる。反対に、旅路で糒(乾飯)を食べるときには、水分を与えて吸わせて「ふやけた」状態にする。ふやかさなければ硬くて食べられない。糒は携行食であるが、けっして飲みこむものではない(注6)。米粒の水分の出し入れがちょうど反対になるから、家と旅の対比が鮮明になる。空中を言葉が飛び交う「歌」なのだから、それぐらいでないと聞いただけではわからない。

 爰(ここ)に烏賊津使主(いかつのおみ)、命(おほみこと)を承(うけたまは)りて退(まか)る。糒(ほしひ)を裍(ころも)の中(うち)に裹みて坂田に到る。……仍りて七日経るまでに庭の中に伏せて、飲食(みづいひ)与ふれども湌(くら)はず。密(しのび)に懐(みふところ)の中の糒(ほしひ)を食(くら)ふ。(允恭紀七年十二月)(注7)
 餱 胡溝反、平、乾飯也。食也。加礼伊比(かれいひ)、又保志比(ほしひ)。(新撰字鏡)(注8)

 「椎の葉」は、「笥」=オヒツと対となるものなのか。対になるものである。糒(ほしひ、ヒは甲類)に水分を与える容器に、椎(しひ、ヒは甲類)ほどふさわしいものはあるまい。ホシヒとシヒの洒落をバカにされる人がいるかもしれないが、「歌」は空中を飛び交う音声言語である。それぐらいの想像力を持たなければ、無文字文化のなかでコミュニケーション力を強化することはできない。「旅にしあれば」の「飯」とは、ホシヒにほかならず、それが「家にあれば」の「飯」の水分調節を「笥」=オヒツが担っていたことを直観させるのである。「椎の葉」が糒を盛って水分を与えることができるかといえば、あまり生産的、効率的、実用的ではない。小さな葉1枚1枚に、糒を1粒1粒載せていって、水をポトリ、ポトリと垂らしていく。その結果、「椎の葉」上に、1粒1粒ご飯がよみがえる。それを1粒1粒食べるという話にしている。謀反の大罪を犯した罪人とはいえ、天皇家の皇子、有間皇子である。そのようなことを実際に行ったわけではないであろう。しかし、それと同等の屈辱を味わったことは確かである。すぐに絞首刑に処せられている。
 処刑されてお骨になった。お骨の1粒1粒のことは仏教に舎利である。ご飯の1粒1粒も、舎利である。色彩、形状が似ているから、言葉の上で同様に扱われた(注9)。すなわち、有間皇子が「自傷」の歌として詠んだという題詞は、この142番歌においてさらに際立っている。あと何分かで皇子、あなたは舎利になりますよ、と告げられて辞世の歌を詠んでいる。命乞いの歌ともとれる。なぜなら、シヒ(ヒは甲類)には、ほかに、メシヒ(盲)、ミミシヒ(聾)などのシヒ(癈、痺)という語があり、どんな不具も受け入れるから、命だけは助けてほしいという訴えに聞こえる。謀反に参加していた塩屋連鯯魚(しほやのむらじこのしろ)は、命乞いをしている。「塩屋連鯯魚、誅(ころ)されむとして言はく、『願はくは右手をして、国の宝器(たからもの)作らしめよ』といふ。」とある(注10)。このド迫力に付いていかなければ、少なくとも初期万葉の歌の生の声を聞きわけることはできない。
 題詞と142番歌の歌の内容が関わらないかとの指摘に触れておく。護送されて行く時に、有間皇子は、藤白坂で141番歌を歌い「磐白」と言っている。松の枝を引き結ぶ行為は、呪的な行いであるとされる。筆者は、その習俗について深くは立ち入らない。そうではなく、有間皇子がそのように口に出して歌ってしまったことが問題である。「ま幸くあらばまた還り見む」と続けている。無事である、良好な状態であるなら、再度見ようと言っている。斉明朝の天下は、完璧に良好な状態を保っているとするのが政府の方針である。全体主義的な国家は言論統制に傾く。そのなかで、言葉として発せられてしまった以上、言霊信仰下にあっては言=事であるから、「また還り見」るところまでさせなければ、「ま幸く」ないことになる。なぜなら、上三句には主語がない。有間皇子一人のことではなく、世の中全体について言い及ぼすアジテーションとして効いている。斉明朝の政策は、少なくとも歌が広まる宮廷社会のなかでは秩序を保つように向かう。したがって、有間皇子が歌を歌った「磐白の浜松が枝を引き結」んだ地点までは生かしておき、「ま幸くあ」ることを「還り見」させることで、社会全体の安寧の揺るぎないことを確定させたのち、絞首している。まったく同じ道を戻らせて、「還り見」させつつ、道(=道徳)に悖(もと)ると弾圧した。題詞の「松が枝を結ぶ」との指定は、2首目の142番歌に生きている。無文字文化の言霊信仰の歌であることを忘れてはならない。

(注1)高崎正秀「萬葉集の謎を解く」『文芸春秋』昭和31年5月号。
(注2)稲岡耕二「有間皇子」『萬葉集講座』第五巻、有精堂、1973年。
(注3)川上富吉「椎の葉に盛る考―有間皇子伝承像・続―」『萬葉歌人の伝記と文芸』新典社、平成27年。
(注4)狩谷棭斎の箋注和名抄に、「曲禮上注作簞笥盛飲食、文選思玄賦注引、作並盛食器、与此所引合、按曲禮注又云、圓曰簞、方曰笥、禮記引兌命曰、惟衣裳在笥、然則笥又可衣裳、故説文云、笥、飯及衣之器也、依以上諸書、笥非皇國所言介[(け)]、只以飯食之耳、古所謂介、蓋土器、後有銀造者、内匠寮式銀器有御飯笥、不源君所載者、其狀奈何、」とある。源順は、お茶碗に当たるものを「笥」と呼ぶとするのではなくて、「笥」というのは食べ物を盛る器でケというものだよ、と指摘している。「木器」の項に載せているのは、彼の目に木製のものが一番ポピュラーに映ったからであろう。オヒツとして、曲物であろう。
 延喜式に、「笥」、「板笥」、「飯笥」、「板飯笥」、「銀飯笥」、「熬笥」、「大笥」、「縄笥」、「円笥」、「筥笥」、「平笥」、「藺笥」、「笥杓」、「麻笥」、「水麻笥」とある。「藺笥」とはイグサの茎で編んだ飯を盛る器のこと、「熬笥」とは糒等を熬るための器のことであろうか。金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)(ぎょうせい、1999年1月)に、「……延喜式(九二七)では、麻笥と桶とは区別せずに使用しているが、(~)ケと(~)ヲケとは助数詞の合と口によってあきらかに区別されている。」(171頁)と指摘がある。(~)ケ系は13種33例中31例に「合」(蓋付き容器)が、(~ヲケ)系は7種44例中41例に「口」(蓋なし容器)であるとされている。今検討している「笥(け)」は、蓋付き容器であると考えられるのである。
 正倉院文書に載る経師~雑使に支給された「大笥」は、重箱でうな重か何かのようにそのまま食べろと渡されたのではなく、オヒツを渡されて各々よそって食べるようにということであろう。ご飯茶碗何杯分かが支給されたのではなかろうか。経師~雑使に采女のような仲居さんが給仕して回るとは思われない。その日持って帰って家族も食べたのであろう。また、年中行事絵巻などに描かれるように、強飯式のごとく山盛りにご飯が器に盛られた場合、その器には蓋をすることができない。それが常態であったならば、最初から蓋のないもの、つまり、「口」として数えられる(~)ヲケ系になってしまって、万142番歌は「家にあればヲケ(笥)に盛る飯を……」とつづけて字余りになる読み方をしなければならなくなる。
(注5)オヒツ(飯櫃)は、炊いたご飯をそこへ移し替えて盛り入れ、食事の場へ運んで各々の茶碗へよそうための道具である。オヒツという女房言葉が一般化している。木製の桶形のもの、竹籠様のもの、また、それを保温するための外装品や吊るし懸けるものなど、いろいろあった。水分の出し入れや保温、腐敗の進行を遅らせるなど、時に応じて種々の形態のものを活用していた。ハレの場では、塗物の櫃も使われている。旅館で出てくるオヒツでは、内に布巾をかける工夫もされている。筒江薫「櫃・イジコ・飯籠[ヒツ・イジコ・メシカゴ]」『食の民俗事典』(柊風舎、2011年)参照。宮本馨太郎『めし・みそ・はし・わん』(岩崎美術社、1973年)では、「飯櫃(めしびつ)」と「飯籠(めしかご)」とに分けて、後者を特に夏季のご飯保存用具としている。用途からの切り口ではなく、製作物としての曲物を総括された論説に、岩井宏実『曲物』(法政大学出版局、1994年)がある。史料文献としては乏しく、守貞漫稿や物類称呼などにしかオヒツについて記されていない。生活感がないことを売りにしていたのではなく、当たり前すぎて気に留めなかったのであろう。
オヒツ(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、231頁)
(注6)寺島良安・和漢三才図会に、「不多食、在腹甚膨張」と注意喚起されている。
(注7)「糒裹裍中」という書き方は注目すべきである。直に懐中に入れているらしい。糒はそれ用の弁当箱に入れたのではないかとも考えられるが、必ずしも決まっていたわけではなさそうである。和名抄に、「樏〈餉附〉蒋魴切韻に云はく、樏〈力委反、楊氏漢語抄に云はく、樏子は加礼比計(かれひけ)といふ。今案ずるに俗に所謂破子、是の破子は和利古(わりこ)と読む〉は樏子、隔て有る器也といふ。四声字苑に云はく、餉〈式亮反、字、亦𩜋に作り、加礼比於久留(かれひおくる)と訓む〉は食を以て送る也といふ。」とある。樏は、中仕切りのある楕円形のお弁当箱を指しており、そのΘ形は、ちょうど雪を踏むカンジキにそっくりなので字を通用(「欙」とも書く)しているとする説がある。カンジキの語が寒敷に由来するのか筆者は知らない。火を使わない寒食(かんじき)(多木洋一「書を楽しむ法」様参照)の食事がお弁当である。半分にご飯、半分におかずの詰まったものがプラスチック製の曲物に多いが、破子の片側半分に水を入れて餉(乾飯)をふやかすのに使ったのではないかとも思う。烏賊津使主は持っていないし、「与飲食而不湌」とあるので、お腹がパンパンになったり脱水症状を起こさなかったかと心配になる。下のワリコの弁当箱の例は、真ん丸でないいびつな楕円形をしている。イビツという語が飯櫃(いひびつ)に由来するとの説はかなり正しいのであろう。
お弁当箱(「博多曲物玉樹」様)
(注8)新撰字鏡に所載の字は、実際には「餱」ではなく、旁が「候」になっている。
(注9)空海・秘蔵記に、「天竺呼米粒舎利。仏舎利亦似米粒。是故曰舎利。」とあるのが早い由来説とするが、サンスクリット語の米の意、sari が遺骨の sarira とに混同があることや、色や形の類似によってもそう感じられるところは誰にも否定できない。米を脱穀する際に臼の中で米粒がうごめく様が、小さな猿がじゃれる風に見て取ったり、作業現場で砂利の小粒の動きを連想したり、あるいは、サル~サリ~シャリ~ジャリ系の語に共通の思惑を込めて行ったと考えた方が、語学的には正しかろうと筆者は考える。
 また、本議論の底流には、椎の実が食用となり、まるで糒のように見えることが前提にあるのであろう。応神記に、

 …… 遇はし嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも 歯並(はなみ)は 椎菱なす ……(記42)

とある。歯の1本1本が、椎の実のようにきれいに粒ぞろいであることを言っている。歯は生きているうちから露出する舎利(お骨・米粒)である。
椎(2017年7月3日)
 小学館の新編日本文学全集本・古事記に、「前から見て、歯並びをほめる。椎と菱とを持ち出したのは、形よく並んでいることをいうためか。殻を割って取り出した実の白さから、白いことを形容するという説があるが、従いがたい。」(262~263頁頭注)とある。しかし、両者とも樹上や水面に形よく並んで結実しているとは言い難い。八重歯、乱杭歯といった叢生、また、歯抜けになってしまう。椎も菱も食用にしたので、殻を剥いてみて大きさが粒ぞろいで歯の形に似て色も白いところから、そういう形容をしたと考えられる。椎の実は、クヌギやコナラの実と違ってあく抜きが不要という。菱の実にもえぐみなどはないという。食べる器官である歯の美しさを讃める謂いにふさわしいよう、おいしく食べられるものを選んで譬えとしている。上代人の「形容」の奥深さには感動させられる。
 なお、村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』(塙書房、2013年)に、「歯並(はなみ)は 椎菱なす」はつづく「櫟井の 和邇坂の土」にかかる序詞とする説があるが、長歌のだらだら表現の一句一句の発想の柔軟さが理解されていない。
(注10)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」参照。
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中大兄の第一妃(嬪(みめ))、蘇我倉山田石川麻呂の娘、「造媛(遠智娘、美濃津子娘)」について 其の二

2017年07月03日 | 論文
(承前)
 日本書紀に年齢記事には、「年○○」といった記述もあるが、ここでは「○○歳」をとりあげる。年齢をきちんと記すのはとても例外的で、あやしいものばかりである。「○○歳」記事ではないが、天智紀十年三月条のみ、年齢が主題になるため正確を期しているように思われるために追記した。通常は、天武天皇のような有名人でも記す習慣がないから、何年生まれかわからずに憶測が飛び交っている。

 次生蛭児。雖已三歳、脚猶不立。(神代紀第五段本文)
 次生蛭児。此児年満三歳、脚尚不立。(神代紀第五段一書第二)
 及年卌五歳、謂諸兄及子等曰、……(神武前紀)
 七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。(神武紀七十六年三月)
 至卌八歳、神日本磐余彦天皇崩。(綏靖前紀)
 天皇年十九歳、立為皇太子。(崇神前紀)
 天皇、践祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。時年百廿歳。(崇神紀六十八年十二月)
 廿四歳、因夢祥、以立為皇太子。(垂仁前紀)
 九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。(垂仁紀九十九年七月)
 六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穂宮。時年一百六歳。(景行紀六十年十一月)
 六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩。時年一百七歳。(成務紀六十年六月)
 六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚桜宮。〈時年一百歳。〉(神功紀六十九年四月)
 摂政六十九年夏四月、皇太后崩。〈時年百歳。〉(応神前紀)
 卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歳。(応神紀四十一年二月)
 天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。(継体前紀)
 〈百済本紀云、高麗、以正月丙午、立中夫人子王。年八歳。〉(欽明紀七年是歳)
 今司馬達等女嶋、曰善信尼〈年十一歳。〉(敏達紀十三年是歳)
 年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳、当于泊瀬部天皇五年十一月、天皇為大臣馬子宿禰殺。(推古前紀)
 五月、皇孫建王、年八歳薨。(斉明紀四年五月)
 百済僧常輝封卅戸。是僧寿百歳。(天武紀十四年十月)
 甲寅、常陸国貢中臣部若子。長尺六寸。其生年丙辰至於此歳、十六年也。(天智紀十年三月)

 斉明紀の建王の薨去年齢は、その示し方に殊更感がただよう。欽明紀七年是歳条の百済本紀にいう高麗(こま)王擁立の記述に似ていてわざとらしい。高麗は幼い子を立てて王とした。「建王」はタケルノミコであるが、漢字表記では、「建王」である。天智紀七年二月条の皇統譜の本文に、「其の三を建皇子(たけるのみこ)と曰ふ。唖(おふし)にして語ること能はず。」とある。唖者で言葉が喋れない。「坊や、いくつ?」と聞かれて、答えられない。答えられなければ、わからない。わからないのに「皇孫建王、年八歳薨。」と書いてある。日本書紀は歴史書だから「八歳」とあれば eight years old に決まっているだろうと考えるのは、噺家として失格である。門前払いであろう。書いてあるのは、噺が書いてある。百歳以上の天皇が大勢いるのは、噺家の口先三寸といえる。ここの「皇孫建王、年八歳薨。」も、「皇孫(みまご)建王(たけるのみこ)、年(みとし)八歳(やつ)にして薨(う)せましぬ。」と書いてある。唖者だから答えられないのに、ヤツ(八歳)となっている。古代に8才が何かの区切りであったとは知られない。噺としてなら、建王の母親は、天智紀にある「遠智娘」、「美濃津子娘」、「芽淳娘」という人であるが、それは、孝徳紀にあった「造媛(みやつこひめ)」と同一人物である。上に諱であると証明した。その証拠を加えると、ミヤツコ(ヒメ)のミコ(御子、皇子)なのだから、差し引きヤツ(八歳)なのである。ミヤツコ(造)、ミコ(御子、皇子)のミ・コはともに甲類である。ヤツ(八歳)、今日の小学校2年生以上に育つことはないという噺である(注18)
 述べてきたのは、「造媛」についての考証である。「遠智娘」、「美濃津子娘」、「茅渟娘」と同一人物であり、蘇我倉山田石川麻呂の娘「少女」であり、父親思いで、政略結婚をして相手の皇太子、中大兄の非道に苦しんだ。「赤心」を持って生きた人である。産んだ子の一人は持統天皇として即位している。今日、依然として飛鳥から奈良時代に女帝が多かった理由について議論になっているが、男であれ女であれ人間である。社会制度上どのように扱われようが、一人一人は一人の人間として生きている。日本書紀に非業の死を遂げた造媛の記述があって、人物像が確かに描かれている。人間が生きるということを捨象して時系列に事件を並べて整理して、頭で合理的に理解できて歴史がわかったとするのであれば、もはや「人間の学としての歴史学」ではない。

(注1)古事記の話にお馴染みのとおり、先に話の顛末を言い、それはどのような事情からそうなったのか、という語り口が上代には多く行われている。歴史を時間軸に従って見るのではなく、事柄の解説のために前後して話すのである。それが話(咄・噺・譚)の醍醐味である。そのほうがわかりやすいとしたのが、無文字文化のなかに暮らした上代の人の観念であった。本稿もそれに倣う。
(注2)液状のにがりを捨てずに土堝に入れて二度焼きすることでMgCl2をMgOへ変性させるのと、にがりを自然に落として塩とするのと、ほかにもいわゆる「藻塩」のヨード分のための色合いなど、種々の「塩」があったことは想定される。和名抄にも、「塩 陶隠居曰く、塩に九種有り。白塩は人の常に食する所也といふ。崔禹食経に云はく、石塩は一名、白塩なり。又、黒塩〈余廉反、之保(しほ)。日本紀私記に堅塩と云ふ。〉有りといふ。」とある。古代における塩は大別すると2形態、シホ(塩)とキタシ(堅塩)があるようである。稿を改めて論ずる。
(注3)延喜式・斎宮式に、「凡そ忌詞、内七言は、仏を中子(なかご)と称(い)ひ、経を染紙(そめがみ)と称ひ、塔を阿良良伎(あららぎ)と称ひ、寺を瓦葺(かわらふき)と称ひ、僧を髪長(かみなが)と称ひ、尼を女髪長(めかみなが)と称ひ、斎(いもい)[斎食]を片膳(かたじき)と称ふ。死を奈保留(なほる[治])と称ひ、病を夜須美(やすみ[慰])と称ひ、哭(なく)を塩垂(しほたる)と称ひ、血を阿世(あせ[汗])と称ひ、打(うつ)を撫(なづ)と称ひ、宍を菌(くさひら[菜・きのこ])と称ひ、墓を壌(つちくれ)と称ふ。」とある。
(注4)「姓」をカバネと読むのは、新羅で同様に社会的な地位の上下を示す際、「骨品」という語を用いていたことから、その「骨」に相当するヤマトコトバ、カバネ(骸骨)が当てられたと考えられている。ヤマトコトバのカバネについては、白川静『字訓 新装普及版』(平凡社、1995年)に、「かばね〔屍・尸〕 もと骨をいう語であろう。やがて残骨となるものであるから、屍体をもいう。のち『しかばね』という。『ね』は『骨(ほね)』の『ね』であろう。」(241頁)とする。
(注5)原文に「刺挙」とあるサシは接頭語で、原義をとどめているものではないと考える。もし本当に大刀で刺してしまったら、もう1本必要となる。では、なぜ横たえたまま首を斬り落とすのでは駄目なのか。おそらく、それでは死んだ状態を認めることになるからであろう。起こし立てて生きていることにして斬首にしている。どの程度まで起こしたかについては、筆者は、原文に「宍」に通用する「完」字が使われることから、完全に、まるごと、立っている状態に持ち上げられたのではないかと思う。医心方・巻二十二に、「録験方に云はく、妊娠にて体腫るるを治する方。生ける鯉魚(りぎょ)、長さ二尺なるもの一頭を、完(まるながら・さながら)水二斗を用て煮て五升取り、魚を食ひ、魚の汁を飲めといふ。」とある。鯉を一匹づけで煮込んでいる。それを、マロナガラ、サナガラと訓んでいる。とても興味深い訓である。起こし立てられたのは蘇我倉山田石川麻呂という人で、どこが名前かと言えば、麻呂だけである。あとは氏に当たる。マロという語は、男の名に付けられることが多いが、「人」であることを指している。サナガラという訓は、今日的感覚では、まるで○○のようだ、の意へとも転じる。死んでしまっているからもはや人ではないのだが、まるで本物の人のようであると伝えたくて、このような通字の「完」字が用いられた可能性がある。しかも、時の都は難波長柄豊碕宮、ナガラなのである。逆に考えるならば、本邦でのみ、「完」字を「宍」字の通字とさせた契機、上代人の言語感性について考察の対象を広げることができるようになるかもしれない。どうしてこの両字の通用が起こったかを研究テーマに据えるのである。後考を期したい。
(注6)養老律・名例律に、「死罪二 〈絞斬二死 贖銅各二百斤〉」とある。
(注7)そもそもの最初の名とされる「造媛」という命名にしても、いつからそのように呼ばれているのか確かではない。皇極三年三月条では、「少女」とのみ記されている。彼女は中大兄に嫁いだ。そこで奴婢同然にDVを受けていたとしたら、ミヤツコと綽名されて人々にわかりやすい。また、「物部二田造塩」という人物について、蘇我氏の一系統が石川氏であるように、物部氏の一系統の二田氏を表わしている。それがフツタと呼ばれていたことは、注目されるべきである。フツタとブツタ(仏陀)とは似て非なるものである。世の中は澄むと濁るの違いにて、真逆の性格を持つことがあるという洒落と理解できる。仏陀を大切にしていた石川麻呂は、謀反の疑いがかけられて、軍を差し向けられた時、茅渟道を通って大和へ向かい、山田寺に入った。一族に正しい道を説き、仏殿を開けてご本尊に、「願はくは我、生生世世(よよ)に君主(きみ)を怨みじ」と誓っている。輪廻転生を思うほどに信仰に篤い。その信仰に支えられて、忠義にも篤い。すべての問題は、道徳である。正しい道とは何かなのであり、石川麻呂が通った道は茅渟道であった。その後を追った造媛(遠智女、美濃津子娘)が、「或本」に「茅渟娘」とあるのは、moral のことと load のことがヤマトコトバに同じミチ(道)として用いられており、「道」字に「首」字が含まれていることを思って斬首の謂いを含めて考えたに違いない。
 一方のフツタ(二田)については、剣の名に、「韴霊(ふつのみたま)」(神武前紀戊午年六月条)とあり、ものを切断する時の音の擬音語とされている。シホ(塩)については、血潮の意との関連を匂わせる点は上に指摘した。続日本紀に、「庭の中にして天地(あめつち)と四方(よも)とを礼拝(をが)み、共に塩汁(しほしる)を歃(すす)り、誓(ちか)ひて曰く、……」(天平宝字元年七月条)とあり、謀反を起こす時の盟約としている。血が流れて良いのだね、と約束しているようである。反対に、服従を誓う時には、蝦夷の記事がある。「是に、綾糟(あやかす)等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃ち泊瀬の中流(かはなか)に下(おりゐ)て、三諸岳(みもろのをか)に面(むか)ひて、水を歃りて盟(ちか)ひて曰(まを)さく、「臣(やつこ)等蝦夷(えみし)、今より以後(のち)子子孫孫(うみのこのやそつづき)〈古語(ふること)に生児(うみのこ)八十綿連(やそつづき)と云ふ。〉清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用(も)て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉らむ。……」(敏達紀十年潤二月条)。真水で行っている。
 ところで、今日、興福寺に伝わる山田寺の仏頭とされるものは、白鳳期の特徴をもつものとされ、上宮聖徳法王帝説の裏書の記載から、天武朝に追善されて造られた薬師如来像の頭部ではないかとされている。大化五年三月条の、「仏殿の戸を開きて、仰ぎて誓を発てて曰く、……」の個所、彼が仰いだご本尊は、どのようなものであったのかわからない。何の因果があって、石川麻呂同様、首を斬られたようなお姿として仏頭は残るのであろうか。
(注8)「赤心」は、古訓にキヨキココロと訓まれている。岩崎本の朱書で少なくとも10世紀からそう訓まれている。字面は漢籍の引用である。荀子・王制に、「功名の就る所、亡を存し危を安んずるの墮(したが)ふ所は、必ず将に愉殷(ゆいん)なる赤心の所に於いてせんとするなり。(功名之所就、存亡安危之所墮、必将愉殷赤心之所。)」、後漢書・光武紀上に、「蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。(蕭王推赤心、置人腹中。)」とある。日本書紀編者は巧みで、血の色を思い出させる言葉を使っている。
(注9)嬪の2人目である「姪娘」は、「桜井娘」とも名づけられている。名前について、「……曰遠智娘。」と「……名姪娘桜井娘。」というように書き分けられていることに、名づけ方の流儀の違いがあるのかもしれない。また、その「桜井娘」という名前の由来のようなことも留意しなければならないのかもしれない。後考を期したい。
(注10)「隠流」については、当時の大宰府長官は、菅原道真のような待遇ではなく、けっして左遷のようなものには当たらないとも論じられている。けれども、筑紫国は美濃国よりもずっと都から遠い。それどころか、シノビナガシとは、シノブ(忍・隠)ことを目途とする転勤である。問題を追及せずにこらえて、露わにして事立てることなく、ただただ事件の鎮静化をはかっている。なかったことにしようというのである。当事者の蘇我日向が都からいなくなれば、事の真相、特に皇太子中大兄の暗愚については、証人喚問も参考人招致もされないから、噂程度で済んで闇に葬られる。では、どうして真実がばれてしまって、「世人相謂りて『是れ隠流か』といふ。」という文言が日本書紀という公文書に残されているのか。米国のように25年経ったから機密文書が公開されたのではなく、単に、中大兄(天智天皇)や斉明(皇極)天皇、天武・持統天皇などの世代までは、字が読めなかったからである。天武天皇のお達しで、本邦の正しい歴史を編纂するようにということで書いている。不都合なことでも読まれる可能性はないのだから、天皇のご意向に沿った形でまとめられて、そのまま撰上される運びとなっている。確定申告が通るような雰囲気といえばわかる人にはわかるであろう。
(注11)国名のミノ(ミ・ノは甲類)には、紀には「美濃」、記では「美濃」、「三野」、万葉集では「美濃」(1034題詞)、「三野」(3242)と当てられている。
(注12)春秋左氏伝・文公十三年に、「子秦に人無しと謂ふ無し。(子無秦無人。)」、史記・夏本紀に、「是に於て帝尭、乃ち人を求め、更に舜を得。(於是帝尭乃求人、更得舜。)」とある。
(注13)実際には、続紀の記録に、高麗国使を含め、各国の国使に渡している。
(注14)早川庄八『日本古代の財政制度』(名著刊行会、2000年)参照。
(注15)森、前掲書に、「[東海地方]海岸部で生産した堅塩を運び込まずに現地生産する理由としては、安価な粗塩を購入して現地生産した方が、堅塩の価格が有利であったり、流通ルートの問題などが想定される。」(17頁)とある。流通ルート的には、木曽川、長良川舟運の終港付近に美濃式製塩土器の大量出土遺跡があり、運べるのに一番効率的なところまで遡上しているとわかる。筆者は、塩を作るために大量の燃料材を必要とするため、森林資源のそばまで半製品を運んだとするのが合理的であろうと考える。
(注16)西宮一民「「堅塩」考―万葉集訓詁の道―」『萬葉』第83号(昭和49年2月)参照。
(注17)以前、建王の母親は造媛であるという考えに疑問を呈する方は少なかった。大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは同一人物であると解されてきた。直木孝次郎『持統天皇』(吉川弘文館、1985年)、青木和夫『白鳳・天平の時代』(吉川弘文館、2003年)を参照されたい。ところが、笹川尚紀『日本書紀成立史巧』(塙書房、2016年)は、遠智娘の子であるはずの建王の生れた年が死後になってしまうから大いに疑問であるという議論を起こしている。
 笹川先生は、それを裏付けるために力説されている。建王の祖母の斉明天皇が、不憫に思って亡くなった時に「不哀、傷慟極甚。詔群臣曰、萬歳千秋之後、要合葬於朕陵。」とあり、そして、歌を歌わせたり、同年の10月に紀温湯へ行く途中でも「憶皇孫建王、愴爾悲泣。」してまた歌を歌わせている。それほどなのに同じ墓に入ったとされる資料は見当たらないと指摘する。そこから、日本書紀編者は、建王に関する実情を聴取できずに、適当に記事を按配したのではないかと推測を展開していくのである。噺がわからない人はここまで話がわからないかと呆れる。
 日本書紀の編者は馬鹿ではない。官吏として仕事ができたかどうかということ以前に、人として真っ当かどうかという点である。自分の腹を痛めた子の発語に難があるなら溺愛するかもしれないが、余所に暮らしている息子のところに生れた孫に障害があるとわかった時、それはその子の母親がいけないとか、乳母のお乳の出が悪いとか、お付きの教育がなっていないとか、憤懣をぶちまけるのではないか。医心方・巻二十二には、「又[養生要集]云はく、婦の孕みて三月なるに、南に向きて小便すること得ざれ。児をして瘖瘂(おし)ならしむといふ。」、「朱思簡食経に云はく、諸肉を食す勿れ。子をして瘖唖(おふし)にし、声无からしむといふ。」とある。当時としてもこのようなことは半分迷信であると思われていたであろうが、人々の心にあったことは否めない。その裏返しとして、過剰ともいえる六首もの駄作の歌が正史を標榜している日本書紀に記載され、諸々の非難を封じ込めようとしている。そして、そうすればするほどその正体がばれる仕掛けになっている。孫の死を本当に悲しんでいて、大挙して温泉旅行へくり出せるだろうか。このお婆さんは対外戦争へ進撃した強者である。心臓に毛が生えている。
 歴史を考えることは、人間を考えることである。倫理的にどうかもさることながら、人情的にあり得ることを視野から消し去ってきれいごとを真に受けては困るのである。笹川、同書に、「今後の研究の糧とするためにも、諸賢のきびしいご批判をたまわることができれば幸いである。」(127頁)とある。「諸」の「賢」さなど不要である。当たり前のことだけでよい。
 斉明天皇や中大兄は、孫(建王)や妻(造媛)の死を全然悲しんでいない。人は、体験した時は何が何だかわからず整理がつかない。心の整理がついて経験となり、それが自らの人生の中に位置づけられて物語となる。その過程には時間を要する。亡くなってすぐに物語化して歌にまとめられてしまうことほど空恐ろしいことはない。良心の不在である。義父を死に追いやった自らの責めについて、「追生悔恥、哀歎難休」で済み、奥さんまで死なせたことについては、「皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。」とあって、奥さんの死を人から聞いて知って歌を歌わせて悦に入っている。不仲で別居していたのであろうか。村八分でも火事と葬式には出るというが、どういうことなのだろうか。戦国大名と同じだから意に介さないということなのであろうか。戦争が起こると人の気を変にさせるといってごまかす人は多いが、変な気の人がいるから戦争が起こるように思われてならない。斉明天皇の当該個所についても載せておく。こういう人でなしたちを相手にして、蘇我倉山田石川麻呂は抵抗する気になれず、山田寺で自決したのは無理からぬところがある。その子の造媛についてまでも、日本書紀の筆はきわめて好意的に運ばれている。共感する気持ちがあったのであろう。

 五月に、皇孫(みまご)建王(たけるのみこ)、年(みとし)八歳(やつ)にして薨(う)せましぬ。今城谷(いまきのたに)の上(うへ)に、殯(もがり)を起(た)てて収む。天皇(すめらみこと)、本より皇孫の有順(みさをか)なるを以て、器重(ことにあが)めたまふ。故、不忍哀(あからしび)したまひ、傷み慟(まど)ひたまふこと極めて甚(にへさ)なり。群臣(まへつきみたち)に詔(みことのり)して曰はく、「万歳(よろづとせ)千秋(ちあき)の後、要(かなら)ず朕(わ)が陵(みさざき)に合せ葬(はぶ)れ」とのたまふ。廼ち作歌(うたよみ)して曰はく、
 今城(いまき)なる 小丘(をむれ)が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か歎かむ(紀116)
 射ゆ鹿猪(しし)の 認(つな)ぐ川上(かはへ)の 若草の 若くありきと 吾(あ)が思(も)はなくに(紀117)
 飛鳥川 漲(みなぎら)ひつつ 行(ゆ)く水の 間も無くも 思ほゆるかも(紀118)
天皇、時々に唱ひたまひて悲哭(みね)す。(斉明紀四年五月)
 冬十月の庚戌の朔甲子に、紀温湯(きのゆ)に幸(いでま)す。天皇、皇孫建王を憶(おもほしい)でて、愴爾(いた)み悲泣(かなし)びたまふ。乃ち口号(くつうた)して曰はく、
 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中(うち)は 忘らゆましじ(紀119)
 水門(みなと)の 潮(うしほ)のくだり 海(うな)くだり 後(うし)ろも暗(くれ)に 置きてか行かむ(紀120)
 愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ(紀121)
秦大蔵造万里(はたのおほくらのみやつこまろ)に詔して曰はく、「斯の歌を伝へて、世に忘れしむること勿れ」とのたまふ。(斉明紀四年十月)

(注18)今般の社会情勢を鑑みて簡潔に述べた。斟酌して頂ければ幸いである。筆者は、「古事記・日本書紀・万葉集を読む」ことに専念したい。
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中大兄の第一妃(嬪(みめ))、蘇我倉山田石川麻呂の娘、「造媛(遠智娘、美濃津子娘)」について 其の一

2017年07月01日 | 論文
 大化改新後の政争において、大化五年(649年)、讒言によって左大臣蘇我倉山田石川麻呂が殺害された事件は、当時の政権の有り様を知る上で興味深いものがある。特にここでは、石川麻呂の娘で、中大兄に嫁いだ造媛(みやつこひめ)(遠智娘(をちのいらつめ)、美濃津子娘(みのつこのいらつめ))が父親の後を追って自殺した点にスポットを当てて検討する。
 事件を追っていくのではなく、造媛とは誰か、なぜ名前が変わって記されるようになったのかについて見ていく。したがって、掲げる日本書紀のテキストは前後することをお許しいただきたい(注1)。まず、父親の石川麻呂が斬首にされたことを聞き、造媛が、首斬りを実行した「塩」という人物の名を聞くのも嫌がるというところから見ていく。

 皇太子(ひつぎのみこ)の妃(みめ)蘇我造媛(そがのみやつこひめ)、父(かぞ)の大臣(おほおみ)、塩(しほ)の為に斬らると聞きて、心を傷(やぶ)りて痛み惋(あつか)ふ。塩の名を聞くことを悪(にく)む。所以(このゆゑ)に、造媛に近く侍(つかへまつ)る者、塩の名を称(い)はむことを諱(い)みて、改めて堅塩(きたし)と曰ふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ。皇太子、造媛徂逝(し)ぬと聞きて、愴然傷怛(いた)みたまひて、哀泣(かなし)びたまふこと極めて甚(にへさ)なり。是に、野中川原史満(のなかのかはらのふびとみつ)、進みて歌を奉る。歌(うたよみ)して曰く、
 山川(やまがは)に 鴛鴦(をし)二つ居て 偶(たぐひ)よく 偶(たぐ)へる妹を 誰(たれ)か率(ゐ)にけむ(紀113)
 本毎(もとごと)に 花は咲けども 何(なに)とかも 愛(うつく)し妹が また咲き出(で)来(こ)ぬ(紀114)
皇太子、慨然頽歎(なげ)き褒美(ほ)めて曰く、「善きかな、悲しきかな」といふ。乃ち御琴を授けて唱はしめたまふ。絹四匹(よむら)・布廿端(はたむら)・綿二褁(ふたかます)賜ふ。(孝徳紀大化五年三月)

 造媛の近侍の者たちは、奥方を憚ってシホと言わずにキタシと言ったという話である。小学館の新編日本文学全集本日本書紀に、「父を殺した人の名が『塩(しほ)』なので、娘造媛は『塩』という言葉を忌み、『堅塩(きたし)』といったというのである。キタシはキタシ(堅)シホ(塩)の縮約。キタシとカタシは音通。『堅塩(きたし・かたしほ)』は、塩のにがりを除くために土堝に入れて焼き、固い塊となるので『堅塩』という。」(③178頁頭注)とする。そういうこともあろうかと納得してしまっている。
堅塩(森泰通「古代美濃における堅塩の生産・流通・消費」木曽川研究協議会編『木曽川流域の自然と歴史―木曽川学論集―』同会発行、平成21年、2頁)
製塩土器(宮城県江ノ浜遺跡、奈良~平安時代、8~9世紀、「発掘された日本列島2017」展展示品。この薄手の曲物状の土器は、よく知られる厚手の円錐形をした製塩土器(写真下部に破片を集めてある)と併せて使われたものとされている。森先生の言われる「焼塩土器」か。)
 この考えについて、筆者は間違っているとは思わない(注2)が、思慮が浅いと思う。その程度のことをわざわざ後世に伝えようとするほど、上代の無文字文化のなかにある人たちの言語能力は低くない。言葉として、ずっと込み入った事情を伝えているものと思う。第一に、忌む言葉として有名な斎宮忌詞に関係する点があげられる。斎宮忌詞(注3)に、「涙」を「塩垂(しほたれ)」と言っている。延喜式に載る斎宮忌詞がいつからあるかわからないが、大化三年条に、「塩」←……←「涙」を流すことというつながりが感じられる。「傷心痛惋、悪塩名」という記述は、「塩」という名を聞くことはそもそもが斎宮忌詞にいう塩垂、涙を流すことを連想させるのに、さらに輪にかけて、物部二田造塩という名の人に父親が首斬られたのだから、悲しみが倍増している。造媛自身、困ったことに自分の名がミヤツコであって、物部二田造塩にあっては姓(かばね)に当たるが、悪い奴と同じ名に負うている。なぜ姓とが同じぐらいで深刻になるかと言えば、カバネとはシカバネともいうように、亡骸、骨の意だからである(注4)。お父さんは亡くなっていて、屍の骨がどうかされてしまった。物部二田造塩については、人斬り以蔵的なイメージがある。造媛にとって痛ましく辛かったのは、大化五年三月二十六日の出来事である。

 庚午に、山田大臣(やまだのおほおみ)の妻子(めこ)及び随身者(ともびと)、自ら経(わな)きて死(みう)する者衆(おほ)し。穂積臣嚙(ほづみのおみくひ)、大臣の伴党(ともがら)田口臣筑紫(たぐちのおみつくし)等を捉(かす)ゐ聚(あつ)めて、枷(くびかし)を著(は)け反(しりへでに)縛れり。是の夕(ゆふべ)に、木臣麻呂(きのおみ)・蘇我臣日向(そがのおみひむか)・穂積臣嚙、軍(いくさ)を以(ひきゐ)て寺を囲む。物部二田造塩(もののべのふつたのみやつこしほ)を喚(め)して、大臣の頭(くび)を斬らしむ。是に、二田塩、仍ち大刀(たち)を抜きて、其の宍を刺し挙げて、叱咤(たけ)び啼叫(さけ)びて、始(いま)し斬りつ。(孝徳紀大化五年三月)

 とんでもない話を聞かされてしまった。父親、家族、召使一家、首を括って自害している。それだけではない。凶暴な物部二田造塩を喚び寄せている。そやつは、息の絶えている父親の遺体を持ち上げ(注5)、大声を出して首を斬り落とした。それが律にいう斬首の刑(注6)に当たり、はじめての斬として公然と執り行われている。「叱咤啼叫」とあるのは、何と発語していたのか。周知のとおり、首を斬り落とした例は、大化改新の際の蘇我入鹿暗殺事件に見える。

 中大兄、子麻呂(こまろ)等の、入鹿が威(いきほひ)に畏りて、便旋(めぐら)ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟(やあ)」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意(ゆくりもな)く、剣を以て入鹿が頭肩(あたまかた)を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。入鹿驚きて起(た)つ。子麻呂、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、其の一つの脚を傷りつ。入鹿、御座(おもと)に転(まろ)び就きて、叩頭(の)みて曰(まを)さく、……(皇極紀四年六月)

 造媛が父親のために姉の代理で嫁いだ中大兄は、入鹿に斬りつけるに勢いをつけて、「咄嗟(やあ)」と言っている。大刀を揮う時の掛け声は、ヤアに決まっている。このたびは自分の夫が、実家の父親を殺させている。自決しているのにさらに死者に鞭打つどころか首を斬り落とさせている。夫がかつて人殺しを実行していた時の掛け声が聞こえてくる。おもちゃにするのもいい加減にしてもらいたい。心を持つまともな人であれば、とても生きてはいられない。そして、もはや三界にもどこにも帰るべき実家はない。造媛は気が狂って父親の後を追ったのではなく、まともだから生き続けることができなかったのである。
 この「造媛」という人は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるが、そのうちの2番目の子であろう。最初に登場するのは、中大兄に嫁ぐときのことである。今回、皇太子中大兄に讒言して蘇我倉山田石川麻呂を殺すように仕向けた首謀者、蘇我日向、字(あざな)を身刺(むざし)という人物は、そのときにも登場している。蘇我蝦夷・入鹿のいわゆる蘇我本宗家に対するため、蘇我氏の別流の倉山田石川麻呂の娘を嫁に迎えたらいいのではないかという中臣鎌足の提案に、若造にして前のめりにムラムラして喜んで受け入れ、鎌足が媒酌人として取り決めたところ、お相手に決まった「長女」は蘇我日向(身狭)に誘拐されてしまった。そこでピンチヒッターに、「少女」が立っている。親孝行な娘である。話として、2回とも蘇我日向(身刺)は、中大兄と蘇我倉山田石川麻呂との間の関係を壊す役柄として働いている。

 是に、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)議(はか)りて曰(まを)さく、「大きなる事を謀るには、輔(たすけ)有るには如かず。請(こ)ふ、蘇我倉山田麻呂の長女(えひめ)を納(めしい)れて妃として、婚姻(むこしうと)の眤(むつび)を成さむ。然(しかう)して後に陳(の)べ説きて、与(とも)に事を計らむを欲(おも)ふ。功(いたはり)を成す路(みち)、茲(これ)より近きは莫し」とまをす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。曲(ひばひらか)に議(はか)れるに従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒(なかだ)ち要(かた)め訖りぬ。而(しか)るに長女(えひめ)、期(ちぎ)りし夜(よ)、族(やから)に偸(ぬす)まれぬ。〈族は身狭臣(むさのおみ)と謂ふ。〉是に由りて、倉山田臣、憂へ惶(かしこま)り、仰ぎ臥して所為(せむすべ)を知らず。少女(おとひめ)、父の憂ふる色を怪びて、就きて問ひて曰く、「憂へ悔ゆること何ぞ」といふ。父其の由を陳(の)ぶ。少女曰く、「願はくはな憂へたまひそ。我(おのれ)を以て奉進(たてまつ)りたまふとも、亦復(また)晩(おそ)からじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其の女(むすめ)を進(たてまつ)る。奉(つかへまつ)るに赤心(きよきこころ)を以てして、更に忌むる無し。(皇極紀三年正月)

 結局、倉山田石川麻呂の「少女」の方が自ら進んで中大兄に嫁いでいる訳であるが、彼女の名前をきちんと記した報告書としては、天智紀の皇統譜によるしかない。

 二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)の女(みむすめ)倭姫王(やまとのひめおほきみ)を立てて皇后(きさき)とす。遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘(をちのいらつめ)と曰ふ。〈或本(あるふみ)に云はく、美濃津子娘(みのつこのいらつめ)といふ。〉一(ひとり)の男(ひこみこ)・二(ふたり)の女(ひめみこ)を生めり。其の一を大田皇女(おほたのひめみこ)と曰(まを)す。其の二を鸕野皇女(うののひめみこ)と曰す。天下(あめのした)を有(しらし)むるに及(いた)りて、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に居(ま)します。後に宮を藤原に移す。其の三を建皇子(たけるのみこ)と曰す。唖(おふし)にして語(まことと)ふこと能はず。〈或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其の二を大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰す。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女を芽淳娘(ちぬのいらつめ)と曰ふ。大田皇女と娑羅々皇女(さららのひめみこ)とを生めりといふ。〉次に遠智娘の弟(いろど)有り、姪娘(めひのいらつめ)と曰ふ。御名部皇女(みなべのひめみこ)と阿陪皇女(あへのひめみこ)とを生めり。阿陪皇女、天下を有むるに及りて、藤原宮に居します。後に都を乃楽(なら)に移す。〈或本に云はく、姪娘を名(なづ)けて桜井娘(さくらゐのいらつめ)と曰ふといふ。〉……(天智七年二月)

 嬪4人のうちの2人が石川麻呂の娘である。「遠智娘(美濃津子娘、芽淳娘)」と「姪娘(桜井娘)」である。一般的には、「美濃津子娘」は「三野津子娘」などと記されていたのを誤って写して大化五年三月条の「造媛」のミヤツコ→ミノツコとなっていると考えられている。ミヤツコを「三野津子」などと表記したのが誤読されてミノツコに変じたとされている。筆者は、単なる誤写ではなく、意図的、作為的な改変ではないかと考える。彼女は、自分の父親を斬首した物部二田造塩(もののべのふたたのみやつこしほ)が許せない。血潮(ちしほ)にまみれて喜んでいた奴が死んでも許せないと感じていた。きっと物部二田造塩は、血潮のことを斎宮忌詞流に、いい仕事をして「汗」をかいたと笑っていたのであろう。だからこそ、シホという言葉が忌み言葉として侍者に扱われている。ならば、後を追って死んでしまった造媛は、名前を同じミヤツコ(ヒメ)と呼んでいてはかわいそうである。浮かばれないではないか。名前を変えてあげよう。ミヤツコヒメ→ミノツコヒメ(ミ・ノ・コはともに甲類)である(注7)
 確かに、「三野津子」などと記したことによって生じた訓から生じたものではあろう。しかし、それだけの理由で、積極的に名前を変えるかといえば、上代の言霊信仰下にあっては疑問である。大化改新前の騒動の時、「赤心」(注8)を抱いて自らをいわば犠牲にして政略結婚に応じて中大兄に嫁いだのは、嬪の筆頭にあげられている「遠智娘」としか考えようがない。そういう誠なる性根だから、父親の死にショックを受けて後を追っている。
 「遠智娘」という名がいつからあったか、それはわからない。女の子が何人もいて、最初の子は「長女」で、2番目の子の呼び名である。年下の子はオト(弟・娣)である。さらに3番目の子が登場してしまったので、2番目のオトを叔、オトヲヂ(叔父、伯父に対する語)と捉え直して3番目をそれに対するメヒ(姪)として定めた。すると2番目の娘は女の子だからヲヂではなくてそれに近いものとしてヲチとして落ち着かせたと推定することができる(注9)
 最初の婚姻の個所では、「長女」対「少女」という並びであった。名前などどうでもいい扱いと思われていた。より正確にいえば、呼ばれるもの、それが名前であって、どう呼ばれたかが問題なのである。結果的に、ヲチ(ノイラツメ)と呼ばれている。ヲチといえば、遠いところのヲチ(彼方)の意があり、彼岸へ逝ってしまった人であり、以後のことを示すヲチ(遠)の意があり、結婚騒動で善後策をとってくれた人であるし、元に戻って若々しくあることをいうヲチ(復若)の意があり、若い良い人を亡くしたのでそう呼んで悼んだものと思われる。つまり、死後に授けられた諱(いみな)である。イミナとは、忌み名の意である。憚ってシホ(塩)をキタシ(堅塩)という忌み名で呼ぼうと取り決めていた。天皇でもないのに諱で呼ばれている。「遠智娘」という名で呼ばれるとは、忌み名の人ということである。最初に「少女」として登場した時も、「奉るに赤心を以てして、更に忌むる無し。」とある。厭わなかった、寛容であったという意味である。日本書紀編纂者の通念として、彼女は「忌」の人、くだけて言えば、恨みっこなしの人として一貫していたと認識されている。最終的に恨みっこなしにはできないほど、看過できない事態に陥って、自らこの世から出て行った。自己循環的に名前がそのものとしてから名づけられているところからして、上代の言語論理に合致していて正しいと知れる。言葉の意味に依って立つ意味を自らに含めてしまう二重化が自己循環的に起こっている。
 ミヤツコ→ミノツコについては、ミヤツコが、ミ(御)+ヤツコ(奴)の約とされるため、ミノツコは、ミ(御)+ノ(野)+ツ〈助詞〉+コ(子)、つまり、野辺送りのノ(野)の意味合い、墓守の奴から、後追い自殺した人の名とするに相当である。それも、彼女の人生の節目の原因をことごとく作った人物、蘇我日向、字(あざな)を身刺(身狭)という人物が、ヒムカ(日向)、ムザシ(武蔵)という国の名を負っていることに対抗して、ミノ(美濃)という国の名を当てられたということであろう。追号されて美濃守を賜わっている。遠国の日向国や武蔵国ではなく、ずっと都に近い美濃国を与えられている。日向の方は、つまり、蘇我日向は、筑紫大宰帥(つくしのおほみこともちのかみ)へと「隠流(しのびながし)」(注10)になっている。大宰府は筑紫国にあり、昔の考えでは、日向も筑紫国の一部であった。神代紀第九段一書第一に、「筑紫の日向の高千穂の槵触之峯(くしふるのたけ)」とある。
 では、なぜ、美濃国が選ばれたか。ミヤツコを「三野津子」などと記されたのが契機となって、「三野」は美濃国の字に用いていた(注11)からそういう流れからそうなったことに違いはない。ただし、それを積極的に支持する上代人の思想がありそうである。野というのは、武蔵野というように台地のことである。それが3つあるのが「三野」である。3つ野があって間を川が流れていたり低地に湿地となっている。河岸段丘になっている。すると、川の流れや水のある所は、字形としてY字、または、人字である。造媛は無実の父親の死に殉ずるに準じている。漢字の国の儒教道徳に照らしてまことあっぱれな「人」であると認められる(注12)。万葉集でも、「人」という言葉は、立派な人のことを指して使われることがある。つまり、ミヤツコという名を表記するに当たり、「三野津子」というように記してミノツコへと改変しようとした書記者の意図が反映されてのことなのである。

 …… 吾(あれ)を措(お)きて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば …… (万892)
三野と人の関係地図
 実際の美濃国については、古代から紙が特産品として知られていた。美濃紙である。延喜式・内蔵寮式に、「年料に造るところの色紙四千六百張……毎年図書の長上一人を差し、美濃国に遣はして造らしめよ。」とある。古代の紙の需要に一番多かったのは、お経の書写である。蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで追討されたのは、山田寺である。今日、興福寺仏頭として伝わるのが、山田寺の本尊、薬師如来像の頭部であるとされている。お経の書写には、染めた紙が使われている。防虫効果を狙ったものともいわれる。「染紙(そめかみ)」とは、やはり斎宮忌詞に、経のことをいう。忌詞つながりでも、ミヤツコヒメ(造媛)を改め、ミノツコヒメ(三野津子媛)として何ら不自然さがない。
 また、美濃国の特産品には絁(あしぎぬ)もあげられる。延喜式・大蔵省式に、「蕃客に賜ふ例 大唐皇。〈銀大五百両。水織絁・美濃絁各二百疋。細絁・黄絁各三百疋。……」とあって、渤海王や新羅王に渡す規定はない上等品扱いされている(注13)。唐への朝貢品に、名前にある粗悪な絹のイメージは払拭されよう。それがなぜか、アシギヌと言われて通っている。悪くないのにアシギヌである。そんなキヌと言えば、濡れ衣のことである。濡れた衣服を言うことから転じて、無実の罪のことを示す言葉である。決して悪くないのに、悪いように思われてしまった。蘇我倉山田石川麻呂の孝行娘を偲ぶのにふさわしいお国柄であるということができる(注14)
 そして第三に、美濃国という内陸国に塩を産する。森泰通、前掲書に、可児市宮之𦚰遺跡や関市重所遺跡から、美濃式製塩土器が出土していることが記され、「付近の土場で荷揚げされた粗塩を再加熱して堅塩を製作する『二次生産地』として機能していた可能性が高い。」(12頁)とする(注15)。つまり、「堅塩(きたし)」の生産が、美濃国で行われていたわけである。この堅塩については、今日まで伊勢神宮に清めの塩の作り方として続いている。粗塩を三角錐の土器に詰め込み、忌火を熾して5~6日かけて焼く。堅塩は、その実体そのものが忌みを表し得るものなのである(注16)。忌みの人、造媛に聞かれないように忌詞として「堅塩(きたし)」と呼んでいたのは、言葉が言葉へこれでもかと畳みかけるように言い表わす表現となっており、上代の言語感覚に合致した言葉遣いであると知れる。
伊勢神宮の塩づくり(「伊勢神宮・御朱印」様)
 以上が、本稿の主旨である。ところが、近年になって、大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは別人ではないかと大風呂敷を広げる方が現われた。「遠智娘(美濃津子娘)」の皇子とされる建皇子の年齢問題を取り沙汰されている。遠智娘の子の建王(建皇子)が斉明四年(658)に8才で亡くなっているとすると、生れたのが白雉二年(651)ということになり、造媛は大化五年(649)に父親の蘇我倉山田石川麻呂の死に落胆して亡くなったはずの記述と合わないから、その母親は別人であろうというのである(注17)
(つづく)
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万葉集の「幄」について(大伴家持作歌)

2017年06月23日 | 論文
 大伴家持には、「幄」字を使った前文、題詞の歌がある。

  掾(じょう)大伴宿祢池主(いけぬし)に贈れる悲しびの歌二首
 忽ちに枉疾(わうしつ)に沈み、旬を累ねて痛み苦しむ。百神を祷み恃みて且(かつ)消損(せうそん)を得たり。而も由(なほ)身体疼み羸(つか)れ筋力怯軟(けふなん)にして、未だ展謝に堪(あ)へず。係恋(けいれん)弥(いいよ)深し。方今(いまし)春朝には春花、馥(にほひ)を春苑に流(つた)へ、春暮には春鴬(しゅんあう)、声を春林に囀(さひづ)る。此の節候に対(むか)ひて琴罇(きんそん)翫(もてあそ)ぶべし。興に乗る感(おもひ)有れども、杖を策(つ)く労に耐(あ)へず。独り帷幄(ゐあく)の裏(うち)に臥して、聊かに寸分の歌を作り、軽(かろがろ)しく机下(きか)に奉り、玉頤(ぎょくい)を解かむことを犯す。其の詞(うた)に曰く、
 春の花 今は盛りに にほふらむ 折りてかざさむ 手力(たぢから)もがも(万3965)

  贈掾大伴宿祢池主悲歌二首
 忽沈枉疾累旬痛苦祷恃百神且得消損而由身體疼羸筋力怯軟未堪展謝係戀弥深方今春朝春花流馥於春苑春暮春鴬囀聲於春林對此節候琴罇可翫矣雖有乗興之感不耐策杖之勞獨臥帷幄之裏聊作寸分之歌軽奉机下犯解玉頤其詞曰
 波流能波奈伊麻波左加里尓仁保布良牟乎里氐加射佐武多治可良毛我母

  独り幄(とばり)の裏に居て、遙かに霍公鳥(ほととぎす)の鳴くを聞きて作れる歌一首 并せて短歌
 高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と すめろきの 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別きてしのはむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥 あやめぐさ 珠貫(ぬ)くまでに 昼暮らし 夜(よ)渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)

  獨居幄裏遥聞霍公鳥喧作歌一首 并短歌
 高御座安麻乃日継登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久尓能麻保良尓山乎之毛佐波尓於保美等百鳥能来居弖奈久許恵春佐礼婆伎吉乃可奈之母伊豆礼乎可和枳弖之努波无宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥尓比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等尓許己呂都呉枳弖宇知奈氣伎安波礼能登里等伊波奴登枳奈思

 今日まで、万3965番歌の「帷幄(ゐあく)」と、万4089番歌の「幄(とばり)」とが同じものであるという杜撰な解釈が通行している。万3965番歌の前文は、漢詩だからヰアク(帷幄)であり、万4089番歌は題詞だからトバリ(幄)と読み違えているだけで、実質的に同じであると考えられている。次の文献に当った。

(1)高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集四』岩波書店、昭和37年
(2)青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年
(3)小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『完訳日本の古典 万葉集(五)』小学館、昭和61年、『同 万葉集(六)』昭和62年
(4)小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集 萬葉集4』小学館、1996年
(5)佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注・訳『新日本古典文学大系 万葉集四』岩波書店、2003年
(6)橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年、伊藤博『萬葉集全注 巻第十八』有斐閣、平成4年
(7)武田祐吉『増補萬葉集全註釈 十一』・『同 十二』角川書店、昭和32年
(8)澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十七』・『同 巻第十八』中央公論社、昭和42年
(9)土屋文明『萬葉集私注八』・『同九』筑摩書房、昭和45年
(10)多田一臣『万葉集全解6』・『同7』筑摩書房、2010年
(11)中西進『万葉集全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年
(12)伊藤博訳注『新版万葉集四』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年
(13)稲岡耕二『和歌文学大系 萬葉集(四)』明治書院、2015年

 「帷幄(ゐあく)(の裏(うち))」については、(1)「とばりの中。室内。」(202頁)、(2)「寝所を囲う布製の衝立(ついたて)。」(74頁)、(3)「張りめぐらした幔幕。地方官が任地の居館内に垂したカーテンをいうことが多い。」(357頁)(4)「張り巡らした幔幕(まんまく)。ここは任地の居館内に垂らしたとばり、病室のカーテンをいう。」(179頁)(5)「……は部屋の垂れ幕。」(123頁)(6)「幕(とばり)のこと。大きな室内を区切り隔てる几帳の類。」(140頁)、(7)「……は、織物の幕。ここは室内の几帳の類。当時は家屋は、室は大きく、へだてを立てて使用した。室内に臥して。」(416頁)、(8)「……は、とばりとあげとばり。共に幕の類で、ここは室内の意に用ゐた。」(104頁)、(9)「帷は囲、幄は幕で、引きめぐらした幕の意である。帷幄を軍営の意に用ゐるのは古いが、かうした用法もあるのである。」(435~436頁)(10)「寝所を囲む布製の帳(とばり)。几帳(きちょう)の類。」(268頁)、(11)「とばり。」(96頁)、(12)「布製の衝立。寝所の囲い。」(53頁)、(13)「部屋の帳の中」(194頁訳文中)とされている。
 「幄(とばり)(の裏)」については、(1)―(2)「垂れ幕の中、部屋の中、の意。」(139頁)、(3)「『帷幄(ゐあく)』とも。カーテン。ここは地方官が任地の居館に張りめぐらした幕をいう。→(五)三九六五前文。」(46頁)、(4)「三九六五前文(帷幄)。」(254頁)、(5)「……は『帷幄の裏』(三九六五前文)に同じ。」(218頁)、(6)「……は垂れ幕の内側。すなわち部屋の内。」(129頁)、(7)「幄(あげばり)は、帷幕で張り廻らして作つた家。しかし、疾に沈んで詠んだ歌(巻十七、三九六五)の前文にも『独臥帷幄之裏』とあつて、ここもそれと同じく、室内の几帳(きちよう)の類をいうのだろう。室内にいての意。」(84頁)、(8)「……は倭名抄(六)に『四声字苑云、幄〈於角反、阿計波利〉大帳也』とある。前にも『独臥帷幄之裏』(十七・三九六五前文)とあつた。部屋の内、の意。」(79頁)、(9)「(作者及作意)家持が一人室内にこもつてほととぎすの鳴くのを聞いての歌である。」(58頁)、(10)「『帷幄(ゐあく)』(三九六五の前)。寝所を囲む布製の帳(とばり)。几帳(きちょう)の類。」(50頁)、(11)「今のカーテンの類。仕切り・蔽いに布を垂らしたもの。」(168頁)、(12)「ここは、部屋の中の意。」(118頁)、(13)「(「幄の裏」は三九六五前文の「帷幄の裏」に同じ)」(293頁訳文中但書)とされている。

 筆者は、部屋の使い方、布の仕切りの用途について、きちんと説明されていないことに疑問を覚える。

 獨臥帷幄之裏(万3965)
 獨居幄裏(万4089)

 両者の違いは一目瞭然である。上は寝ている。下は座っている。当然、「帷幄」と「幄」は何かが違う。小泉和子によれば、「古代の貴族住宅の大きな特徴は一棟一機能で、これが敷地の中にそれぞれ独立して建っていたことである。つまり寝るための寝殿(正殿(しょうでん))、炊事をするための厨屋、穀物を納めておくための倉、脱穀・精米するための臼屋(うすや)等々と、機能ごとに建物が分かれていたということである。」(注1)とされる。寝室と居間は別の部屋であった。大伴家持は越中国の国司として派遣されている。昼間は国衙に勤め、夜は国司館に帰って寝る。つまり、3965番歌は、病臥していているから出勤しておらず、官舎の国司館にお休みしている。国司館については出土例が少ないながらも存在は確かである。住居を与えられる国家公務員の転勤は今に伝わる。他方、4089番歌は、国庁の役所、国衙に出勤してそこで歌われている。
 病気でもないのに、昼間も着替えないでベッドに座る生活をしてしまったら、なかなか難しい事態に陥る。また、江戸時代の長屋や今のワンルームマンションのように、「臥」と「居」とが同じ場所というのも、はたして良いものなのか判断が分かれるであろう。畳敷きに押入から布団を出して敷き、朝には仕舞って卓袱台にお皿を並べてご飯を食べる。そういうことは日本的な生活であると思われているが、少なくとも奈良時代にはなかったことである。奈良時代の庶民がどうだったか。おそらくほとんど竪穴式住居に暮らしていたのではないかと思われ、大伴家持の「帷幄」、「幄」とは無縁の生活であったかと思われる。仮に、諸先生の仰るとおり、いずれも部屋の仕切りの布の「裏(うち)」で歌われたとしても、歌われた場所は違う。官舎の寝間と官庁の居間とでは、張り渡す布帛の色等が同じであろうはずはない。センスの問題である。万葉集の歌を議論されている方々は、センスの良い方々であろうと思う。まともな人間であれば、そこらじゅうに同じ柄のカーテンを懸け吊るすほど、生活に区別がなくなるような無味乾燥なことはしないであろう。
 まず、文字の義についておさえておこう。幄は、新撰字鏡に、「幄 於角反、入、大帳也と謂ふ。覆帳は之を幄と謂ふ。即ち幕也。」、和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、〈於角反、和名阿計波利(あげはり)〉は大帳也といふ。」、帷は、新撰字鏡に、「帷 於佳反、平、□也、唯也、帳也、林に連ねて布を張る也乎」(注2)、和名抄に、「帷 釈名に云はく、帷〈音維、和名加太比良(かたびら)〉は囲ひ也。以て自づから障へ囲ふ也。」とあり、䇳注倭名抄に、「按ずるに、釈名の云ふ所に依れば、則ち帷は後世軍営に之を施し自づから囲ひ、幕と呼ぶ者の類は加太比良(かたびら)に非ざる也」と断っている。軍陣に「帷幄」をめぐらしているのは、カタビラとは言わないという意味である。研究者のなかには武田祐吉先生のように、万4089番歌の「幄」をアゲハリ(アゲバリ)と訓む方もおられる(注3)
 では、国司館の「帷幄」、国衙の正殿の「幄」とはそれぞれどのようなものであろうか。寝所の「帷幄」に関しては、参考例がある。天寿国繡帳の銘文に、「繡帷二張」とある。天寿国繡帳は、刺繡を施した「帷(かたびら)」であり、それは、横木を渡した木製の台、几帳台に掛けられて几帳とし、寝所の目隠し、音隠し、といった遮蔽幕として使われた。繡帳は、横臥する身体の両側に設置された。よって2枚必要とされている(注4)。大伴家持の万4495番歌題詞に、「六日、内庭假植樹木以作林帷而為肆宴歌」とある。樹木を列にして並べて植えて、柴垣のようにしている。垣根版の几帳のようなものと理解できる。他方、大伴家持の万3965番歌の前文の「帷幄」は、「幄」字が添えられている。「幄」字は、テントのことを指す「幄舎」と言われるように、天井を覆う点に特徴がある。和名抄に、「幄」は、アゲハリと訓んでいる。白川静は、「〔釈名、釈牀帳〕に『幄は屋なり。帛を以て板に衣(き)せて之れを施す。形、屋の如きなり』とあり、蒙古包(パオ)のような天幕の家をいう。」とする(注5)。寝所に頭の上を覆うほどの布製のシートとは、帳台にほかならない。
帳台(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵上』中央公論社、1991年、15頁)
御帳台(源宗隆・鳳闕見聞図説、『新訂増補故実叢書第25』明治図書出版、昭和30年、19頁)
帳台のある光景(類聚雑要抄巻二 宝禮指図、江戸時代、元禄17年(1704)跋、「東京国立博物館研究情報アーカイブズ」
帳懸帷(川本重雄・小泉和子編『類聚雑要抄指図巻』中央公論美術出版、1998年、69頁)
 帳台は、浜床(はまゆか)と呼ばれる一段高くした床(ゆか)の上を設け、四隅に柱を立てて構とし、帳を垂れて中に貴人が入って寝たり座ったりするところである。建物内テントの様相がある。万3965番歌で、大伴家持は病臥している。心地よく安静にしてもらわなければならない。この帳台は、やがて周囲が屏風や障子(襖)で囲まれるようになっていく(注6)。建物自体の建具が発達、改良されたおかげで隙間風も少なくなり、障子や蔀戸によって光が採り入れられるようになった。そして、やがて帳台自体が姿を消すことになる。それでも、清涼殿には夜御殿に御帳台、母屋(もや)にも御椅子が中にあって狛犬と獅子が番をしている御帳台が伝わっている。夜御殿ではその帳台の中に入って寝ていた。国庁のあり方は、都の大極殿や朝堂院の様を模したものであり、儀礼、饗宴、政務の場として同じように機能していたとされている(注7)
清涼殿(源宗隆・鳳闕見聞図説、『新訂増補故実叢書第25』明治図書出版、昭和30年、46~47頁)
類聚雑要抄による清涼殿の図(小泉和子『室内と家具の歴史』中央公論社、1995年、71頁)
 つまり、国衙や国司館であっても、都の宮殿の真似事が行われていたと考えられる。国司は、任地においてはいちばん位が高く、いちばん偉いのである。国司館の建物は平城宮と比べると貧相であっても、わざわざ国司館が建てられて暮らしているのだから、帳台のなかで寝るのは当然であろう。「独臥帷幄之裏」とあって、「独○○」というところが中国の独坐詩に通じるところがあると指摘されている(注8)が、大の大人が一人だけ病気になったら、一人で寝ていてもらうしかあるまい。奥さんの看病があったとしても、咳でゴボゴボされているのに一緒に寝るのは誰でも嫌であるし、無理強いする人はいない(注9)。これは別に病室のカーテンといった類のものではなく、貴人は日常的に帳台を使っていたからその垂れ幕のことを言っている。帳台は柱部以外のところは開いていて、そこに几帳が立てられるケースもあった。いずれにせよ、寝所は帳台であり、それを覆う垂れ幕こそ「帷幄」である。
 昼間居る国衙の正殿の「幄」は、「幄舎」の「幄」に当たるから、座ったところの頭上に布製の覆いがあることになる。上にだけ翳される天蓋のようなものも想定はできるが、「裏」に「居」るとなると、やはりこれも帳台であると考えられる。平城宮にあるものの簡略化した姿の昼御座が越中国の国衙の正殿にあって、そこから中央政府の意向を伝えるのである。中央集権的な構図はここに固まる。椅子があったかどうかはわからないが、あったとするとわかりやすい。一人掛けの椅子なのだから、「独居」しているのは当たり前である。四方の幕を垂れているのではなく、前面は開けて政務を掌っている。部下が言ってきたことに対して答えて指示を出したり、ハンコを捺いたりしていたのであろう。ホトトギスの鳴き声を「遥かに聞く」のは、縁側(庇)に出ていたのではないことを表わしている。部屋の中心にしつらえられた帳台の中である。後に暖簾となる戸のところに懸けられる垂れ幕や、部屋を仕切る間仕切りのための几帳などではない。帳台の覆いに使われている幕ということになる。もし建物の戸の代わりの幕や几帳の内側であったならば、ヤ(屋・舎)と言えば済むことで、「幄」と断る必要はない(注10)。部屋は広く、国司様は真ん中に座って居る。
 大極殿のような建物がまずある。そのミニチュア版が各国庁にある。国家が国家たらんとして建物が先行している。日本古代国家は形から入って威厳を保ったようである。そして、とても広い部屋の中に、帳台というテントを設営して、いちばん偉い方はその中に鎮座された。越中国の冬、広い部屋の中にテントでも設けなければとても寒くていられたものではなかったであろう。高橋康夫によれば、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった」という(注11)。建具として空間を仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのないワンルーム建築が行われていた。間仕切りに敷居があって引戸や襖障子が走るのは平安時代になってからである。旧藤原豊成の板殿についての文書から推定されていることは、「ほとんど伝統的在来工法によっているなかで、『閾・鼠走・方立・楣・扉』からなる扉口や連子窓、つまり開口部にのみ大陸的な技術が使われている。このことは開口部をつくる伝統的技術をもっていなかったことを示唆するのであろうか。」(注12)とする。竪穴式住居のことを思えば、家屋に開け放つという発想がなかったことは頷ける。そんな状況のところへ極端に大きな倉庫式の建物を住居棟としたのだから、いろいろと難点が出てくる。前近代の土蔵住まいや現代の巨大物流倉庫に住むことを想像すればわかるであろう。中は暗く、天井もなくて寒い。ずっと居続けなければならない国司様は、威儀を整えるためにも帳台の中に居るしかない(注13)
 前掲の新日本古典文学大系本の解説に、「初めの四句[『高御座 天の日継と すめろきの 神の命』]、天皇の御代を讃める表現だが、以下のホトトギスの声を聞く内容から見れば、やや事々しく大げさな感が否めない。『賀陸奥国出金詔書歌』(四〇九四)には、宣命第十三詔と関わりある表現が多いが、その二日前に詠まれたこの歌にも、宣命が意識されているか。『天皇が御世御世、天つ日嗣高御座に坐して』(第十三詔)。」(注14)とある。宣命を意識していたかどうかはわからないが、宣命を念頭にしてホトトギスの歌を詠うのは怪しい。筆者は、国衙正殿の帳台のなかで詠われた歌であるから、平城宮大極殿の立派な帳台、高御座のことを思い浮かべたものと考える。題詞から初句へのつながりが素直に理解できる。
 以上のことから、万3965番歌の前文の「帷幄」は国司館の寝所の帳台のこと、万4089番歌の題詞の「幄」は、国衙正殿の国司が居ます帳台のことであると検証できた。それぞれをどのように訓んだかについては、万4098番歌の場合、題詞であるから、ヤマトコトバに訓んでしかるべきで、その場合、和名抄に同じく、「幄」はアゲハリが正しいのであろう。トバリではないと考えるのは、トバリは戸張りの意であり、部屋の内外を仕切る暖簾の前身や、部屋を間仕切りにする几帳の様相が強いからである。大伴家持は国司である。平安女流文学の作者であった女官が部屋の隅っこの御簾のたもとや衝立の陰に控えて居たのとは異なる。天皇や中宮などと同じく、トバリからは離れて部屋の真ん中に御座るのである。
 万3965番歌の前文の「帷幄」は、国司館の寝所の帳台である。手紙文である。漢語が漢語のままに使われても不自然ではないから、ヰアクでかまわないであろう。あえてヤマトコトバとして訓むには、孝徳紀大化二年三月条の、「帷帳」をカタビラカキシロに倣って、カタビラアゲハリで良いのであろう。都に天皇がお休みになられる御帳台の布帛ともども、どのような染織品であったかについては、後考を俟ちたい。

(注1)小泉和子『室内と家具の歴史』中央公論社、1995年、75頁。
(注2)新撰字鏡は読むのが難しい字書である。ここも疑問なしとしないが、一応こう呼んでおく。
(注3)布帛のカーテンの類について、呼び方は厳密に分けられていたようではなさそうである。和名抄には、ほかに、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利(とばり)〉は帷幔也。」、「帳〈几帳附〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗音長、今案ずるに帳の属に几帳の名有り。出る所未だ詳らかならず。〉は張也。床上に施し張る也。小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ。〉と曰ふ。形は覆斗の如き也といふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名字の如し、本朝式に班の読み万不良万久(まふらまく)〉は帷幔也といふ。」、「幕 唐式に云はく、衛尉寺の六幅幕、八幅幕〈音莫、万久(まく)〉なりといふ。」、「帟 周礼注に云はく、平張は帟〈余古反、比良波利(ひらはり)〉と曰ふといふ。」とあって、音読みを交えながら解説されている。新撰字鏡に、「幌 窓簾也。止波利(とばり)」ともある。このトバリとは、白川静『字訓 新装普及版』(平凡社、2000年)に、「大きな布を、室の中や外部との境に張り垂らして隔てとし、区切りとするもの。類義語の『かいしろ』は垣代の意。〔孝徳紀大化二年〕に、葬礼のときの帷帳(かたびらかいしろ)に白布を用いたことがみえている。壁代(かべしろ)・几帳(きちょう)ともいう。寝所や高御座(たかみくら)にもこれを垂れて用いる。仮名書きの例がなく、トの甲乙を定めがたい。〔大言海〕等に、『戸張り』の意であるとする。……〔戦国策、秦(しん)策〕に『樂(がく)を張り、宴(えん)を設(まう)く』とは、帳をめぐらしてその場所を設ける意。戸にかえて、布を張るのである。」(542頁)とする。
太子を科長陵に葬る場面の「帷帳」(聖徳太子絵伝第八面、秦致貞筆、平安時代、延久元年(1069)、東博展示品。よく見えないので、談山神社蔵の聖徳太子絵伝第四幅(「奈良地域関連資料画像データベース」)をお薦めしておく。)
 建具に「扉(とびら)」しかなかった時代である。扉はひらひら開くからトビラというのであろう。カタビラ(帷)は片方から見て図が図としてある文様ということである。表裏があって袷にしていないから、帷を張って中に入ると生地の裏が見えてしまう。綴れ織りではないから仕方がない。トバリ(帳、幌)という語が戸張りとして認識されていたとすれば、戸にかえて布を張ったものと想定されて然るべきである。簾や暖簾は、戸にかわるものなのか、微妙である。戸にしたいが、戸に「扉」しかないのであるから、布で代用せざるを得ない。その扉は法隆寺に残るもののように分厚いものが多かったから、トバリというものも、冬用のものなど、現在考えているカーテンよりもずっと重厚感があるのではないかと推測される。貴人の側近くにある帳台の垂れ布に、裏地が見えているカタビラを使うのかわからない。また、幄という字は屋外のテントにも使われる字だから、布製品の良し悪しと字義との間に関係はない。
 なお、「幔」字の和名抄、マフラマクなるものは何かわからないとして、狩谷棭斎は二十巻本をとって、本文を「……俗名如字本朝式斑幔読万太良万久……」と考え、マダラマクとしている(「国会図書館デジタルコレクション」(42/329))。筆者は、十巻本諸本の「……俗名如字本朝式班之読万不良万久……」で正しいと考える。「俗名、字の如し」とあるのは、「幔」の音読みのマンは「万(萬)」に通じ、「万掛帳(よろづかけちゃう)」とは帳簿の大福帳(大帳)のことである。和名抄に、「幄……大帳也」とあったように、垂れ幕の意味と帳簿の意味とで同じことを指していると面白がっているのである。そして、訓み方のマフラマクとは、マ(間)+フラ(振)+マク(幕)の意であると考える。広い空間を間仕切りする幕である。間を振り分けているし、ふらふらと振れている。そんな幕という意味で、「班」のワカツ(アカツ)義の具現化を示している。
(注4)拙稿「天寿国繍帳銘を読む」参照。
(注5)白川静『字通』平凡社、1996年、9頁。
(注6)中世には、壁として塗られたものがあり、塗籠(ぬりごめ)と呼ばれている。戦乱の時代は、宝物を納戸に入れてそこで寝ていた。
(注7)山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、1994年。
(注8)芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』(塙書房、平成15年)に、「独居」とあるのは漢語にいう「独坐」に相当し、六朝・初唐の詠物詩などで発展した技法で、花鳥を擬人化して感情移入しているのであるとする。
(注9)上宮聖徳法王帝説に、膳大刀自(かしはでのおほとじ)が聖王の看病疲れで一緒に寝ていて先に逝ってしまったことが記されているが、「得労」て「臥病」したのであって、一緒に寝なければならないという決まりなどなかったであろう。
(注10)山口博『万葉集の誕生と大陸文化―シルクロードから大和へ―』(角川書店、平成八年)には次のようにある。

 「帷幄」という語を単に「とばり」とのみ解釈するのは軽率ではなかろうか。中国典籍の用例を見ると、諸例は「帷幄」が主として軍陣の「帳」の意で用いられていることを示す。『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』服飾部には、帳・屏風・幔などの項があるが、そこには帷幄の項及びその語を含む詩文はなく、武部戦伐項に、帷幄の語を含む作品は採録されている。
 張庸吾[「『万葉集』における題詞左注―主に漢詩文の影響について―」『古典の変容と新生』明治書院、昭和59年]氏は『漢書』張良伝を挙げて、「帷幄」は中国では「軍帳」すなわち陣営の帳を意味することを指摘、「文人である家持が『帷幄』を使うのは、いささかの違和感を中国人には与えると思う」と述べている。また小野寛[「大伴家持の漢詩文」『上代文学と漢文学 和漢比較文学叢書2』汲古書院、昭和61年]氏は「帷幄」は戦場の陣営に張り巡らしたものであることを言い、「その『帷幄』を病室に用いた例は見られず、家持は都を遥かに離れて『遠の朝廷』である越中国府の国守館に臥す身を、戦場の『帷幄』の内にある思いで記したのだろうか」とする。
 張氏の意見は、家持の越中における立場の認識不十分からの意見であり、小野氏の見解は、結論としては正しいのであるが、なぜ国守館に臥す身を戦場にある思いにすり替えることができたのかの説明がなされていない。前述のごとき遠の朝廷である越中に、「ますらを」として赴任した家持にとっては、国庁は「帷幄」として表現する以外になかったのである。(184頁)

 20年以上前の論考である。「帷幄(ゐあく)」を戦場の本陣の意に用いた例は、本邦では軍記物に見られ、芸文類聚・武部の戦伐項に載る「籌策運帷幄」の和文化であろう。戦場に陣幕をめぐらせるのと作戦をめぐらせるのとを懸けた言葉らしい。芸文類聚では、「兼稟帷幄之謀」ともある。芸文類聚は初学書である。雑多な百科事典である。編集者が見つけた用例として、武部の戦伐項にふさわしいテントであったからそこへ載せている。恣意的な項目立てにとらわれてはいけない。本邦で、年中行事絵巻に見られるような儀式の際に設営するテントの幄舎について、そういった文例があれば、あるいは「禮部」にでも収められるであろう。
 漢籍に見える「帷幄」が必ず軍営を表すかといえば、そのようなことはない。司馬相如・長門賦に、「飄風迴而起閨兮 挙帷幄之襜襜」、曹植・冬至献袜決頌表に、「情繫帷幄 拝表奉賀」などとある。また、大伴家持が武に優れていたのか、筆者は知らない。彼はたまたま大伴氏に生まれ、オホトモという名前だから弓を射る時の防具の「鞆(とも)」と関係づけて自らを考え、「名に負ふ」者として自負していたに過ぎない。だから「ますらを」と言っている。「ますらを」精神に貫かれていたから、国庁の建物を「帷幄」(戦場のテント)と思っていたという想定は困難である。なぜなら、そこは、都から離れてはいても、「遠の朝廷(みかど)」である。「朝廷(みかど)」は安泰で、「遠の朝廷」も安泰で、けっして戦場ではない。越後の上杉氏や越前の一向一揆と戦っていたわけではない。あるいは、国衙や国司館がボロ屋であると愚痴をこぼすために、漢語で「帷幄」と形容しているほど程度が低いのであろうか。
(注11)高橋康夫『建具のはなし』鹿島出版会、昭和60年、9頁。
(注12)同上書、10頁。
(注13)鉄野昌弘『大伴家持「歌日誌」論考』(塙書房、2007年)は、万4089番歌について、「『独居幄裏』とは、ねやに夜独りあることを言うと見られる。……ねやの内から、山に鳴く春の鳥の霍公鳥を想起する当該歌も、……閉塞された状況から、その埒外へと向かう情を敷き並べるように歌うのである。家持は、退屈な毎日を振り返る。そして無為な生活をつらつら思っている現在もまた、無為の時間である。その現在のとりとめのない思いがそのまま言葉になって流れ出ている。」(141頁)とする。寝所に入って眠れない夜間、ホトトギスが鳴いていると想定するのであろうか。
(注14)佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注・訳『新日本古典文学大系4 万葉集四』岩波書店、2003年、218~219頁。この考えは、小野寛『大伴家持研究』(笠間書院、昭和55年)による。前掲の伊藤博『萬葉集全注 巻第十八』では、「今の家持にとって、遥かに鋭く鳴きわたるあわれの鳥、時鳥は、単なる風物ではなく、代々の天皇によって統治され来った国のまほらを象徴する鳥として写っている。それは尊き風土の申し子なのである。それ故にこそ、家持は、時鳥には一見不似合いな『高御座天の日継と云々』の六句をもって、一首を歌い起こしたのだと思う。歌は時鳥を通しての国ぼめで、家持の強い官人意識に支えられていると見なしうる。」(132頁)とある。
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