古事記・日本書紀・万葉集を読む

コピペで学位は自己責任で。(つまり、そちらの問題なのだ。)

天孫降臨 其の三

2017年03月27日 | 論文
(承前)
 カイツブリの最大の特徴は、弁足の水掻きである。「水掻きの」という枕詞は、「久(ひさ)し」にかかる。三省堂の時代別国語大辞典に、「神社の玉垣の久しく栄えつづく意で、久シにかかる。」(708頁)とされている(注16)

 処女(をとめ)らを 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり吾は(万2415)
 楉垣(みづかき)の 久しき時ゆ 恋すれば 吾が帯緩(ゆる)む 朝夕(あさよひ)ごとに(万3262)

 そして、「瑞垣(みづかき)」については、「玉垣。神社の周囲にある垣を讃めていう。」(同書、707頁)とされている。和名抄には、「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に美豆加岐(みづかき)と云ふ、一に以賀岐(いがき)と云ふ〉といふ。」とある。家々で使われる垣根にはいろいろあり、神社の垣根にもいろいろある。伊勢神宮の場合、門が5つも続いており、それぞれに垣をめぐらせている。内側から、瑞垣の御門(みかど)、蕃垣(ばんがき)の御門、内玉垣(玉串)の御門、外玉垣(中重)の御門、板垣の御門と呼んでいる。いちばん内側の最後の砦的な垣根が、瑞垣ということになる。伊勢神宮や春日大社では板で、石上神宮では石で、びっしりと隙間を開けずに張られている。一方、出雲大社では、隙間が空いている代わりに屋根がついており、屋根つきの垣根を瑞垣と呼んでいるようである。
伊勢神宮内宮の瑞垣(いちばん内側をいう。遷宮時の情景。「伊勢神宮」様)
鳥居につづいて内奥をかためる瑞垣(春日権現験記絵)(神戸説話研究会編『春日権現験記絵注解』和泉書院、2005年、口絵ⅰ頁)
石上神宮瑞垣(白井伊佐牟『石上・大神の祭祀と信仰』国書刊行会、平成3年、表紙、森好央氏撮影)
和州山辺郡布留社頭并山内絵図(江戸時代後期、白井、同上書、口絵ⅰ頁)
出雲大社瑞垣(「100 paysages du Japon (ère Heisei)」様)
 瑞垣が音でミヅカキである以上、水掻きにふさわしい形態でなければ、ヤマトコトバの言霊信仰(言=事)上、適切ではない。カイツブリの持つような船の櫂の形をした、先の三角形に尖った板を並べているのが伊勢神宮や春日大社、石上神宮である。確かにびっしりと並べてあるから、一見、漏れなく垣根でめぐらされているように思われる。けれども、重なりを持たせているわけではないから、若干スリットが入ったように向こう側が透けて見える。屋根のことを考えてみれば、家の母屋を杮(こけら)葺きで葺いたときには、重なりを持たせているから雨漏りは起こらない。しかし、そこから張り出して作った廂・庇(ひさし)の部分は、屋根もぞんざいに作ってあるから、一応は雨を防げても完全とは言えない。雨を防ぐ目的よりも、日差しを防ぐために設けられていたようである。日差しが眼目だからヒサシ(廂・庇)というのであろう。よって、ミヅカキノはヒサシにかかる枕詞となっている。出雲大社は、瑞垣に屋根を付けるということをしている。発想の転換である。
石包丁(唐子・鍵遺跡、弥生時代、橿原考古学研究所附属博物館編『大和の考古学 常設展示図録』同発行、1997年、27頁))
鎌ほか(8~10世紀、武蔵国府関連遺跡出土、府中市教育委員会所蔵、府中市郷土の森博物館展示品)
 ニホという稲積みについては、技術革新の象徴であったのではないか。弥生時代、石包丁で穂首刈りされていた。穂首刈りした稲穂(穎稲)は、縄文時代以来、クリなどを貯蔵していたフラスコ状の土坑に納められていたとされている。古墳時代、鋸歯のついた鉄鎌が伝来して株ごと刈り取ることが始まった(注17)。その全体を結束し、地干しやハザ(稲架)などで乾燥させたあと稲積みにした。稲野藤一郎『ハサとニホ』(ハサとニホの会発行、昭和56年)は、ニホという「稲干方式は他の方式で乾燥させた後に、一定の方法で集積し、乾湿の繰り返しを防ぎながら徐々に乾燥する方法である。」(99頁)とされる。安定的な乾燥と貯蔵とに適っているのだから、有効な方式である。そして、必要な分だけ脱穀し、自給用に食べていった。租税分や商売分は、稲刈り後すぐに大忙しで脱粒し、俵(叺)に詰めて出荷してしまっている。その残りを積んでいる。なにしろ、脱粒、脱穀に手間ひまがかかる。千歯扱きはないから扱き箸や横槌やくるり棒を使い、唐箕がないから箕に大うちわなどを使って飛ばして選別した。摺り臼もないからもっぱら竪杵を使ってひたすら搗いた。現在も良く知られていることであるが、精米してから時間がたつと味は落ちる。乾燥しすぎるのは良くなく、かといって湿るとカビが生える。食べるときに食べる分だけ精米するのが、効率的にも実質的にも賢いといえる。よって、生産者である農家は、戦国時代のように刈り取ってまで持って行くような略奪の恐れがない限り、大量の米のすべてを一気に籾にして米倉に鍵をかけて仕舞う必要はなかった。ニホに積んでおいていいのならそうしておく。楽である。
左から、ニホの作り方、ニホの覆蓋(笠・傘)、ニホの台(鳰台)(稲野、前掲書、それぞれ高知県南国市大埇地町(123頁)、鹿児島県肝属郡高山町(113頁)、石川県金沢市古保地区(107頁))
 稲積みのニホの諸相をみると、さまざまな工夫が施されていることが知れる。地域により、時代により、さまざまな形態が行われていた。基本的には、真ん中に風通しをよくする空洞を設けながら稲束を上へ上へと円筒形に盛り積んで行く。最後に雨除けの笠を被せている。古語に、カヅク(被)である。カイツブリのニホがカヅク(潜)のと同じである。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「かづく〔潜(潛)〕」は、「『被(かづ)く』と同根の語で、もと頭上に物を載(の)せる意。」(234頁)とある。
 枕詞のニホドリノ(鳰鳥)は、その性質から、「潜(かづ)く」や同音の「葛飾(かづしか)」にかかる。

 鳰鳥の 潜く池水 情(こころ)有らば 君に吾が恋ふる 情示さね(万725)
 鳰鳥の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(万3386)

 万3386番歌は、新嘗祭を示す歌として有名である。稲積み、水鳥、どちらのニホも、頭が水を突き抜ける事柄となっている。
 稲積みのニホは稲束を盛ったものである。カイツブリのニホも、水鳥の先払い的な意味合いから、やはりモル(守)と感じられたかもしれない。子育てで卵を巣に置いたまま出掛けるときには、蓋(笠・傘・覆)を被せていた。また、雛が孵ってから羽が生えてきてもまだ小さいうちは、我が子を自分の身の上に乗せて運ぶようにして守っている。羽毛にくるまれて背負われている様は、ねんねこにくるまれ背負われた子守の姿に相同である。カイツブリはカモ類より小さく、さらに小さな子をおんぶしている。子どもの“おしん”が、赤ん坊をおんぶしながら教室をのぞき見ている風が思い出される。小さいからツム(粒)のようであり、赤子を積む「船舶(つむ)」(皇極紀元年八月条)のようでもある。大型船に救命ボートが備えられているようにも見える。そして、櫂のような水掻きで掻いて進んでいる。
子乗せカイツブリ(安部直哉・叶内拓哉『野鳥の名前』山と渓谷社、2008年、96頁)
 垣根のことをいうカクという語は、「懸(か)く」の名詞形とされている。白川、前掲書に、「かく〔掻〕」は、「『懸(か)く』『書く』『畫(か)く』など、みな同根の語である。」(210頁)とされている。

 大君の 八重の組垣 懸かめども 汝(な)を編ましじみ 懸かぬ組垣(紀90)
 恋ひつつも 稲葉掻き別け 家居れば 乏(とも)しくあらず 秋の夕風(万2230)

 カイツブリに見られたように、水掻きをもってオール(漕ぎ板)とすることは、先払いの役を担うことになる。侵入者を防ぐ垣根も、先払いと同じ役目を果たしている。そして、瑞垣で囲まれたなかにニホと同形の塔が建てられているところは、寺の伽藍内のことに同じという謂いらしい。出雲大社の瑞垣と寺の回廊とはよく似ている。稲積みのニホは、仏教とともに入ってきた新技術であったようである。
旧山田寺回廊復元連子窓の様子(飛鳥資料館)

 また、秦造(はだのみやつこ)が祖(おや)・漢直(あやのあたひ)が祖と、酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須々許理(すすこり)等と、参ゐ渡り来たり。故、是の須々許理、大御酒(おほみき)を醸みて献りき。是に、天皇、是の献れる大御酒をうらげて、御歌に曰はく、
 須々許理が 醸みし御酒に 我酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり(記49)(応神記)

 応神記の「仁番(にほ)」という名は、稲積みのニホを意識している。新醸造技術の伝来は、稲の品種、栽培、収穫、保存、精米法においても新しかったということであろう。また、記のこの記事は、その前に、百済の国王が文物と人を「貢上(たてまつ)りき」とあり、さらに前に、「新羅の人、参(ま)ゐ渡り来たり」となっている。仁番は「参ゐ渡り来たり」となっている。すなわち、新羅から、自発的に、渡来したということを言っているのであろう(注18)
 臼で舂くことをして籾をとった。古代において、米は、常食する時には玄米で食べたと考えられている。ただし、酒に醸造する時はきちんと精米しようとする傾向があったと思われる。今日でも、精白歩合によって味に違いがあると知られている。うまい酒が飲みたければ、上手に精白しようとする。その精米作業のことをシラグ(精)という。銀舎利は白いから、白くしていくから、シラグといわれるのであろう。詳しくは後述するが、それを新羅からの渡来人が伝えている。米を白米として食べるようになったとは、それだけ生産力がついて余剰が生れたことを表すのであろう。精白することでお米の酒もおいしくなる。
 新羅を導く枕詞に、「𣑥衾(たくふすま)」、「𣑥綱(たくづの)の」など、𣑥(たく)が関係する言葉がある。𣑥は楮の古名で、樹皮から繊維を取り、後には紙の原料ともされる。丈夫なため、綱や領布、衾の材料に用いられた。色が白いので、同音の新羅にかかるとされている。上代の人の言葉の音に対する感性には、目を見張るものがある。

 栲衾 白山風(しらやまかぜ)の 寝(ね)なへども 子ろが襲着(おそき)の 有(あ)ろこそ良(え)しも(万3509)
 𣑥衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと 斎(いは)ひて待たむ(万3587)
 𣑥綱の 新羅の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる ……(万460)

 「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ」(紀第九段本文)とある。この真床追衾については、紀第十段一書第四には、「内床(うちつゆか)に真床覆衾の上に寛(あぐみ)に坐(ゐ)たまふ」、「真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて浪瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」とあるところから「覆」うものとの考え方が出てくる。前者は、天孫が海神の宮、すなわち、豊玉姫の家に入ってのしぐさ、後者は、豊玉姫が皇孫との子を産むときのことである。他に、延喜式に、「衾・単(ひとへ)を大嘗宮の愈紀殿に置き奉り」とある。座布団に代用されているおくるみについて、大嘗祭に用いられるかとされる象徴的な意味合いばかりが検討の対象になっている(注19)。具体的に解釈し直さなければ、当時の人が納得していた次元に到達できたとはいえない。
 紀の一書の「真床覆衾」の字面をもって、真床追(覆)衾は、一段高くなった床を覆う敷布団のことかとされている。大嘗祭に用いる衾は、フス(伏)+マ(裳)を表すとされ、袖や襟のない、つまり、かい巻きではない大きなダブルサイズの掛布団、ないし敷布団というのである(注20)。けれども、今に伝わる近世の夜着には、かい巻きを多く目にする。上代の掛布団がかい巻きであったかなかったか、筆者は不明である。いま、日本書紀の記述を考えており、大嘗祭からは離れて考えなければならない。「遂に真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて波瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」(紀第十段一書第四)という表現からは、イズメ(嬰児籠)の不在を思わせる。置き去りにするのだから、寝返りが打てないようにしておかないと窒息してしまう。うまくくるまなければならない。
いずめこ(上杉本洛中洛外図屏風、前掲『洛中洛外図屏風に描かれた世界』69頁)
ふすまの袋を使って藁がくるまれている(板橋区立郷土資料館)
 建具のフスマには襖の字を当てる。襖障子のことで、なかに木の骨を設けて下張し、上からきれいな紙を張ったものである。別名を唐紙という。麸(ふすま)は、小麦などを挽いて粉にしたときにできる皮の屑、小麦の糠をいい、家畜の飼料や洗粉にし、また、食べるものがないときに混ぜ物にし、容量を多く見せることもある。別名を、からこ、もみじという。以上から、フスマという言葉には、なにかしら膨らませたもののことを指すとわかる。米を玄米で食べるとは、米と米糠の両方を食べることで、栄養価が高くなってかえって良いとされる。米の場合、稃(ふすま)と書く。そういった言葉の使い方に従うなら、衾とは、わた入れの夜着である。わたが入って膨らんでいるものとなると、おくるみに裹み使うのはなかなか難しい。しかし、フスマ(衾)と言っている。皇孫が被せられているところを考えると、かい巻になっていて赤ん坊が寝ることに使うもの、すなわち、ねんねこ半纏であろう(注21)。ねんねこのぶかぶかに「其の児」を入れ、隙間に「草」を詰め込んで帯を回せば、赤ちゃんは寝返りを打とうにも動けない。お漏らししてもすべて「草」が吸ってくれる。やがては田んぼの肥やしになる。姿は奴凧に緊縛されたような感じである。「覆ふ」という語には、形のピッタリ感が備わるようである。カイツブリが子どもをおんぶしていたことが思い出されよう。
ねんねこの上から左手で子のお尻を支える(小松茂美編『日本の絵巻4 信貴山縁起絵巻』中央公論社、昭和62年、5頁)
おんぶ姿(大蔵永常・除蝗録、小西正泰・堀尾尚志・岡光夫解題校注『日本農書全集15』農山漁村文化協会、昭和52年、80頁。「垣根に期皃の実をまく図」)
孫を背負って落穂拾い(須藤功『写真ものがたり昭和の暮らし6―子どもたち―』農山漁村文化協会、2006年、51頁、南利夫氏撮影、秋田県二ツ井町、昭和30年10月、まさに猫背。)
焚き火にあたる子どもの子守(須藤、同上書、60頁、熊谷元一氏撮影、長野県会地村(現阿智村)、昭和13年)
(つづく)
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天孫降臨 其の二

2017年03月26日 | 論文
(承前)
 カササ(笠沙)という音はわざとらしいと気づかなければならない。笠を被った先払いの姿は、江戸時代には参勤交代でよく目にする。陣の先頭を行く者が、挟み箱という衣裳ケースをかついでいる。先箱ともいう。どうして衣裳ケースが先頭を進むのか、筆者には“合理的な”理解ができない。“歴史的な”理解ならできる。それが飛鳥時代に遡ると、大胆にも言うことができる。警蹕(けいひつ)のことである。紀には、

 兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駈(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月条)
 仍りて平旦(とら)の時を取りて、警蹕(みさきおひ)既に動きぬ。百寮(つかさつかさ)列(つら)を成し、乗輿(きみ)蓋(おほみかさ)命(め)して、以て未だ出行(おは)しますに及(いた)らざるに、……(天武紀七年正月条)

といった例がある。
歌川広重・東海道五十三次之内日本橋朝之景、保永堂版、天保4~7年(1833~37)、木版(「町田市立国際版画美術館」様)
 警蹕とは、先払い、先追いのことである。名義抄に、「先駈 オホムサキオヒ、サキバラヒ」とある。先頭に立ってそこのけそこのけと邪魔者を散らしていく。「稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて」部分についての解説に、鈴木重胤・日本書紀伝(国会図書館デジタルコレクション(166/374))は、次のように述べている(注7)

 [忌部正通・日本書紀]口訣に、稜威道別道別者警蹕払御前謂也と注され、[一条兼良・日本書紀]纂疏に、稜威可畏之意、天孫行幸、警蹕前導、行叱且呵、故曰道別道別と注させ給へる、共に甚奇らしき説なるに就て思ふに大に其謂有り、……唯に雲路を排分させ給ふのみならむには稜威云々とは云ふべからざるを、此は警蹕の所なるが故に実に其語は有るなりけり、(320頁、漢字は新字体に改めた。)

 その先駆の者が、江戸時代に衣裳ケースを担っている。その挟み箱の前身は、ズボンプレッサーのように2枚の板で衣類や袴を覆ったものを竹で挟みつけ、持ち運んでいたとされている。挟み竹という。寺島良安・和漢三才図会に(国会図書館デジタルコレクション(51/52))、

 挟箱(波左美波古(はさみばこ)、二つ折り・大二つ折り・一寸高・二寸高・三寸高等の数品有り。)
 按ずるに挟箱は近代の制なり。古は板二枚を用ゐ衣服の上下を覆ひ、竹を以て之れを挟み、僕をして之れを擔(にな)はしむ。挟竹と名づく。慶長年中より始めて箱を以て棒を挿し、之れを擔はしむ。挟箱と名づく。平士及び庶人は一箇を用ゐ、高官は一人を双び行かしめ、一対の挟箱と謂ふ〈慶長中、秀吉公の僕、布施久内と名づくる者、始めて之れを作り出すと相伝す。〉。

とある。
 挟み竹は、オールのような形状をしていたと推定される。江戸時代の挟み箱の箱(はこ、コは甲類)の上代音は、羽子(はこ、コは甲類)と同じである。つまり、羽子板形をしているのが、挟み竹、挟み箱である。羽根突きは厄払いの意味があるとされており、よって同形の挟み竹、挟み箱は、先払い役の者が担うことになっていたのであろう。行列を見ていると、先頭が通過してだいぶ経ってから陛下(将軍、殿様)がお通りになる。時間軸へ置き換えることができるのが、先払いの「先」の意味である。挟み竹は板に挟んでなかの衣類を押して平らにする。平らげて平定してしまう。「葦原中国を言(こと)向け和(やは)し平(たひら)げつる状(かたち)」(記上)といった言い方が常套的に用いられている。先陣が、戦う前に相手を服従させてしまっている。
 警蹕が先払いをする時にかける掛け声は、オシ、オシオシなどという(注8)。枕草子に、「警蹕など『おし』といふ声聞ゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……」(岸上慎二編『三巻本枕草子』武蔵野書院、1961年、27頁)とある。挟み竹が、衣類を押しているのと同じである。そのせいで、先払い役は妙なものを担がされているのであろう。オシという声を発する理由は、「おし」というものに由来する。押機(おし)である。クマなどの獣を捕まえるのに上から押さえつける罠や、踏むと圧死させられる鼠取り(鼠落し)も圧機(おし)と呼ばれてふさわしい。寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」の項に、別名として「鼠弩 和名於之(おし)」とある。人間に対しても、戦で相手方が罠を仕掛けておくと、先頭を行く先払い役は、押機によってぺしゃんこにされてしまう。逆に先払い役がオシ、オシと声をかけながら行けば、賊の顔色が変わって押機を仕掛けていると知れ、ならば先にご自身で殿中へ入られよという問答(ネゴシエーション)が行われる。「其の殿の内に押機(おし)を作りて待ちし時に、」・「乃ち己が作れる押(おし)に打たえて死にき。」(神武記)、「殿(おほとの)の内に機(おし)を施(お)きて、」・「乃ち自(おのれ)機を蹈みて圧(おそ)はれ死ぬ。」(神武前紀戊午年八月条)などとあるのはその例である。羽子板に押絵を貼ることの淵源である。
圧機(おし)(木村孔恭・日本山海名産図会の「陸弩捕熊」(千葉徳爾註解説『日本山海名産・名物図会』社会思想社、昭和45年、78~79頁)
鼠落とし(寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」、国会図書館デジタルコレクション(54/56))
 カササ(笠沙)について考えている。ほかに、カササと聞けば、蚊を笹(篠)で除けることが思い起こされたであろう。蚊の忌避法である。和漢三才図会に、「酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅(かたすみ)に挿さば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。」(国会図書館デジタルコレクション(23/40))とある。お酒を呑むととりわけ蚊が寄ってくることからの発想であろうか。あるいは、発酵過程で生ずる二酸化炭素に蚊が反応するということであろうか。本当に効果があるのか知れないが、お呪い程度の効果としてそういうことが行われていた(注9)。無患だからクシとの考えにあわすように、酒のことをクシとも言う。百薬の長である。世にも珍しいことを表す「奇し」から来ているともいわれる。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」と自己矛盾する説明があるのは、酒はクシであるが、酒の臭いに蚊が寄ってくるから洗い流したい、その際、石鹸成分のサポニンをムクロジ(槵)の実は含んでおり、奇しくもそれを使って臭いを洗い流すことができるから、いずれの場合もクシであるといっている。自己撞着を冒しながらすべてを定義してかかるように、ムクロジの実は「槵」に相応している。
 蚊除けのお呪いとしてはほかに、羽根突きがある。蚊が出る夏に行うのではなく、予め先立ってのお祓いの意味合いがあった。やはり先払いの意である。紀の「槵触之峯」にあった「槵」はムクロジだから羽根突きの羽子の材料である。節用集の「胡鬼」(こぎ、コ・ギの甲乙不明)の字は後の当て字であろうが、蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとされている。一条兼良・世諺問答(室町後期)に、羽根を蚊を食うトンボに見立て、夏に蚊に食われないおまじないとしてつかせたとする説がある。「[問]曰、おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは、いかなることぞや、答、是はおさなきものの、蚊にくはれぬまじなひ事也、秋の始に、蜻蛉と云虫出きては、蚊を取くふ物也、こきのこと云は、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、是をいたにてつきあぐれば、おつる時蜻蛉返りのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍る也、」(国会図書館デジタルコレクション(6/32))とある。世諺問答の説は、にわかに謬説とし難い。第一に、追い羽の姿が蜻蛉の頭と羽によく似ている。第二に、列島と韓国(からくに)との間のやりとりに譬えるのに意味深長である。第三に、羽子板の形と挟み竹の形が似通っている。
 記の、「韓国」は朝鮮半島の、列島からみて対岸のことを指すと考えられる。海外の国のことを指すカラ(韓・唐)という言葉について、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「もとは三~六世紀ごろ、朝鮮半島南部にあった小国『伽羅』を指したが、のちに朝鮮半島全部、やがて隋・唐と国交を開くようになると中国、そして中世以降は南蛮などの外国のことをも指していうようになった。」(388頁、この項、我妻多賀子先生)とある。ならば、対馬海峡のこちら側に「槵触之峯」があることになる。両者の間で羽根突きをしている姿が思い浮かぶ。当時の人の発想として、そのような観念が生じていたか、それが問題である。海峡を挟んだ海外のことを指す「韓国」に向って別れを惜しんだ例としては、松浦佐用比売(まつらさよひめ)の逸話が名高い。彼女は、大伴佐提比古(おおとものさでひこ)が朝命により朝鮮半島へ出帆するとき、領布(ひれ)を振った。

 遠つ人 松浦佐用比売 夫(つま)恋に 領布振りしより 負へる山の名(万871)
 山の名と 言ひ継げとかも 佐用比売が この山の上(へ)に 領布を振りけむ(万872)
 万代(よろづよ)に 語り継げとし この岳(たけ)に 領布振りけらし 松浦佐用比売(万873)

 領布はひらひらする細長く薄い布で、女子が首から肩にかけた。羽衣、長いスカーフの類である。万871番歌の題詞に、「これに因りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺と曰ふ」とある。今の唐津市の鏡山に比定されている。欽明紀二十三年七月条には、

 韓国の 城(き)の上(へ)に立ちて 大葉子(おほばこ)は 領布振らすも 日本(やまと)へ向きて(紀100)
 韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ 難波(なには)へ向きて(紀101)

とあり、新羅が任那、もと伽羅(から)と呼ばれたところを滅ぼしたので倭は参戦したが、戦いに敗れて捕虜になったときに歌った歌とされる。ほかに、「蜻蛉領布(あきづひれ)」(万3314)、「あきづ羽の袖」(万376)といった表現もある。蜻蛉の羽のような薄い領布を振ることで、蜻蛉が海峡を渡るように、自分も海峡を渡りたいという願いを叶えてほしいと祈ったのであろう。
 天孫降臨の話では、領布振る峯ではなく、「槵触之峯」となっている。世諺問答で、羽子が蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとあった。ヤマトは、「蜻蛉島(あきづしま)」である。看聞御記に、「こきの子勝負」と言っている。遊びの名前がコギノコ、道具名がコギイタという呼び方について、漢字の「胡鬼」という当て字以外に求め、コギという語の由来がかなり古くに遡る言葉であるとするなら、動詞のコグ(漕、コは乙類、ギは甲類)と関係して、船を漕ぎ板、オールのことと理解される。船を漕ぐと言えば、たいへんな勝負事がある。対馬海峡を渡るとき、みな一心に漕いだことであろう。帆船であると言っても、当時の帆はマストに向きは固定されているから、順風ならともかく逆風では話にならず、横風には斜め斜めに少しずつしか風を利用できない。だから、漕ぐことが何よりも大事である。まさに、「漕ぎの子勝負」で海峡を渡った。
 上に述べたとおり、「槵触之峯」はどこかではなく、何なのかが問題である。お酒のことを「奇(く)し」と言ったように、霊妙であるという動詞からクシフル(クシブル)という。紀の訓み方はその点で合っている。記では、「久士布流多気(くじふるたけ)」と清濁が入れ替わっている。記のクジフルという語は、上代になかなか素直ではない音である。音的に馴染みにくい。筆者は、太安万侶の洒落、音読みを使った造語ではないかと推測している。たとえば、「くじふるたけ」のクジフルについては、クジ(籤)+フル(振)という洒落も考えられる。振る籤については、算木や筮竹も考えられるが、紀に「短籍(ひねりぶみ)」という方法が記されている。

 短籍(ひねりぶみ)を取りて謀反(みかどかたぶ)けむ事を卜(うらな)ふといふ。(斉明紀四年十一月条或本)

 細い紙片に別のことを書いて捻っておき、探り取って占いとしたものとされる。捻文の語義には、立て文のことも言った。包紙の上下を捻るので呼ばれた。タテブミと聞けば、立って踏むことであると聞こえる。立って踏むには、足首から下をぎゅっとねじり捻って踏みつける所作が必要となる。どこを利かせるか。クルブシ(踝)である。紀にあるクシブル(タケ)に音がよく似ている。太安万侶の洒落のきつさが伝わってくる。謂わんとしていることは、踏みにじるところのことであるらしい。
「圧伏」(山田清慶・服部雪斎ほか筆・薏苡仁図解 飢饉予備、紙本着色、明治5~18年(1872~85)、東博展示品、これはハトムギの耕作法で株を踏みにじっている。)
 稲作において踏みにじることは、前年の収穫残の株を泥田に踏みこみ入れて肥料とすることである。いなしびおし(稲株圧)とも呼ばれている。イネという栽培植物は、連作障害が少なく、水田をずっと維持管理しておくことが翌年の稔りにつながる。植え付けの前に、代掻きをして田を整えておく。前もって先払いをしておくわけである。

 埼玉(さきたま)の 小埼(をさき)の沼に 鴨そ翼(はね)きる 己(おの)が尾に 降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし(万1744)
 …… 石(いそ)に生(お)ふる 菅(すが)の根取りて しのふ草 祓へてましを 往く水に 禊ぎてましを ……(万948)
 …… い漕ぎつつ 国見し為(せ)して 天降(あまも)り坐し 掃ひ言向け 千代累(かさ)ね ……(万4254)

 そして、音読みのクジフとは、「九十(くじふ)」のこと、「九十」は続けて書いて「卆(卒)」、亡くなることである。「卆」字は法華義疏や文祢麻呂墓誌銘に残る(注10)
 亡くなって残るものは骨、仏教にいう舎利である。仏舎利を納める場所は塔である。塔の形は茸(きのこ)に同じである。クジフルタケとは「卆茸」のことと洒落ているのであろう。とてもいい臭いがするキノコだけれど毒キノコなのかも知れず、実態はわからない。傘のあるキノコの形であることは明らかである(注11)
舎利塔(銅製鍍金(塔身部)、木製(木壇部)、平安時代、保延4年(1138)、東博法隆寺献納宝物展示品)
妙覚寺華芳塔・華芳宝塔(「がらくた置場」様)
池上本門寺宝塔
金閣寺舎利殿(上杉本洛中洛外図屏風、群馬県立歴史博物館・米沢市上杉博物館・林原美術館・立正大学文学部編『洛中洛外図屏風に描かれた世界』三館共同企画展『洛中洛外図屏風に描かれた世界』プロジェクトチーム発行、平成23年、68頁)
 同じく舎利と呼ばれる米粒を納める場所も、塔のような形をした稲積みである。稲積みのことは民俗に、ニオ、ニュウ、ニョウ、ノウなどといい、沖縄ではイナマズン、シラと呼ぶところもある。柳田国男『海上の道』(岩波書店(岩波文庫)、1978年)に、「……この稲の堆積には一つの様式の共通があることで、すべて稲の束(たば)を、穂を内側にして円錐形(えんすいけい)に積む以外に、最後の一束のみは笠(かさ)のように、穂先を外に向けて蔽(おお)い掛ける者が今も多く、さらにその上になお一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せておく風(ふう)が今もまだ見られる。」(256頁)とある(注12)。バリエーションはあるが、刈り取って少しく乾燥させた稲束を、籾を扱き落とすまでの間、台を設けて穂のほうを内側、株もとのほうを外側にして塚のように積み上げる。そして、一番上には藁で雨避けの笠を作って被せている。それが標準的なやり方である。このニオは、古語ではニホである。新種の巨大なキノコに見える。
稲積み(ニホ)(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、133頁)
「稲取集て大露積に仕る」(土屋又三郎・農業図絵、享保2年(1717)。清水隆久校注・執筆『農業図絵』農山漁村文化協会、昭和58年、158頁(注13)
ニホに積む(大泉四季農業図、致道博物館蔵、犬塚幹士ほか校注・執筆『絵農書二』農山漁村文化協会、1992年、13頁)
ニホのある光景(須藤功『写真ものがたり昭和の暮らし6―子どもたち―』農山漁村文化協会、2006年、94頁、佐藤久太郎氏撮影、秋田県横手市、昭和30年代、雪囲いが残る雪解け間もない頃。)
 ニホという言葉には、2つの意味がある。円筒形の稲積みのことと、水鳥のカイツブリの古名である。両者の相同性は、第一にカイツブリが浮巣、いわゆる「鳰(にほ)の浮巣」を作る点にある。水面の浮遊物を集めて厚い山のような巣を作っている。葦ばかりであれば下図のようなものができあがり、今日のような環境下では、浮かんでいれば何でも、木の枝葉であれ、水草であれ、ビニール袋や布類などのごみであれ、それを利用する。そして、産座に卵を産む。卵の大きさは、約3.7×2.5cm、白からクリーム色、茶褐色で、籾粒よりは大きい。雌雄ともども抱卵するが、巣を離れるときには卵の上に巣材で覆いをかける。稲積みに笠がかけられているのによく似ている。
カイツブリ(ニホ)とその浮巣のようなもの(井の頭自然文化園、2015.6.10)
カイツブリの巣(柿澤亮三・小海途銀次郎『日本の野鳥 巣と卵の図鑑』世界文化社、1999年、16頁)
 カイツブリは、淡水の湖沼、河川にごくふつうに生息する。巧みに潜水して小魚を捕食する。足についている水掻きは、カモ類に見られるような指の間に膜のついた蹼ではなく、弁足と呼ばれるものである。前方にある3つの指と後ろにつく小さな指にも船の櫂のようなものがついている。漕ぐときはそれを広げて後ろへ掻き、戻すときは畳んで捻るようにする。人間でいえば平泳ぎに譬えられるという。この弁足のために、地上の歩行はうまくできない。櫂があり、小さな鳥でツブ(粒・頭)と言えるほどに丸まっている姿のため、カイツブリと呼ばれるのかもしれない。浮巣の様子から、記に「宇岐士麻理(うきじまり)」、紀に「浮渚在り」とあるのではないか。田は古代に常湛であったから、まるで湖沼のなかに稲積みのニホが浮かんでいるように見える。その後の、記の「蘇理多多斯(そりたたし)」は、隆起している、すっくと高くなること、紀の「平地(たひら)に立たし」は、田の平のなかに立っていることを示すのであろう。
堀田禽譜のカイツブリ(堀田正敦著、鈴木道男編著『江戸鳥類大図鑑―よみがえる江戸鳥学の精華「観文禽譜」―』平凡社、2006年、176頁)
 現代人と異なり、ニホドリが身近な存在として感じられ、よく観察されている。食べたからであろう(注14)。小さな水鳥である。竹棒や小枝などに鳥黐を塗っておき、捕まえた。それを擌(黐擌、(はが、はこ))という。和名抄に、「黐〈擌附〉 唐韻に云はく、黐〈丑知反、和名毛知(もち)〉は鳥を黏らす所以也、擌〈所責反、漢語抄に波加(はが)と云ふ〉は鳥を捕ふる所以也といふ。」、和漢三才図会に、「擌〈山責切〉 擌、黐擌、和名波加(はが)、今に波古(はこ)と云ふ。黐(とりもち)は灌木類に出づ。囮(をとり)は鳥類下に出づ。黐擌は鳥を捕ふる所以の者也。按ずるに、黐を用ゐ蘆竹及び縄に伝ふ。之れを擌と謂ひ、囮の傍に置けば、鳥、囮に誘はれ、頡頑(とびあがりとびさがり)往き来して、終に擌に罹る。水禽の如きは、稗(しべ)を以て擌と為(し)、之れを田沢に設け、名けて流れ擌と曰ふ。」とある。ベタベタするものを縄に結んで流しおいて再び見に行くと、獲物がくっついているという仕掛けである(注15)
 ニホドリは羽子板、漕ぎ板のような、船の櫂のような水掻きを持っている。それが擌によって絡めとられてしまう。黐にくっついて離れないのをはずすには、シャボンで洗うしかない。サポニンは、ムクロジの実の外皮に含まれていて、擦れば泡立つ。すなわち、ニホドリ自体が羽根突きの事柄のすべてを物語っている。そして、多くの水鳥が冬に渡ってくるなか、河川湖沼において留鳥にして先払い役を担っている。
(つづく)
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天孫降臨 其の一

2017年03月21日 | 論文
 いわゆる天孫降臨神話(注1)は、(1)天神の命令で平定された葦原中国(あしはらのなかつくに)に天津日子番能邇々芸命(あまつひこほのににぎのみこと)(天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと))がお伴の諸神とともに行くこと、(2)天(あめ)の八衢(やちまた)に立っていた猿田毘古神(さるたびこのかみ)(猨田彦大神(さるたひこのおおかみ))が先導して降り立つこと、(3)天宇受売命(あめのうずめのみこと)(天鈿女命(あまのうずめのみこと))の子孫が名をもらって猿女君(さるめきみ)と称したこと、(4)海鼠(こ)の口が裂かれることなどが一連の話になっている。
 (2)・(3)については、本ブログ「猿田毘古神と猿女君 其の一」以下で詳述した。(4)のナマコの口の話は、古事記にしかなく、ナマコの口の起源譚をされている。それが何を意味しているのか、何の話なのか了解されることなく、放置されて今日に至っている。誰も研究しようとしていない。いわゆる“大人”になると、ナマコの口の話は、寓話か童話の類としか捉えられず、相手にされない。しかし、(1)~(4)の話は一連の経過として編まれているのだから、同列に扱われなければならない話(咄・噺・譚)であろう。今回は、(1)のいわゆる天孫降臨の主話について、古事記を中心に考察する(注2)。該当する記紀の主な部分を次に記す。

 故、爾に、天津日子番能邇々芸命に詔(のりたま)ひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋(あめのうきはし)に、うきじまりそりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾に、天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)の二人、天の石靫(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の大刀(たち)を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟(たばさ)み、御前(みさき)に立ちて仕へ奉る。故、其の天忍日命、〈此は大伴連等が祖(おや)ぞ〉。天津久米命、〈此は久米直等が祖ぞ〉。是に詔はく、「此地者向韓国真米通笠沙之御前、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」と詔ひて、底津石根(そこついはね)に宮柱ふとしり、高天原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(いま)しき。(記上)
 時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降(あまくだ)りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座(あまのいはくわ)天磐座、此には阿麻能以簸矩羅(あまのいはくら)と云ふ。を離(おしはな)ち、且(また)天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)は、槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、立於浮渚在平処、此には羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(うきじまりたひらにたたし)と云ふ。膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(ま)ぎ行去(とほ)る。頓丘、此には毗陀烏(ひたを)と云ふ。覓国、此には矩貳磨儀(くにまぎ)と云ふ。行去、此には騰褒屢(とほる)と云ふ。吾田(あた)の長屋の笠狭之碕(かささのみさき)に到ります。(神代紀第九段本文)
 [猨田彦大神]対へて曰はく、「天神(あまつかみ)の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上(かはのへ)に到るべし」といふ。……皇孫、是(ここ)に、天磐座を脱離(おしはな)ち、天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫をば筑紫の日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのたけ)に到します。(第九段一書第一)
 故、天津彦火瓊瓊杵尊、日向の槵日の高千穂之峯(たかちほのたけ)に降到(あまくだ)りまして、膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘から国覓ぎ行去る。浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして、乃ち国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつながさ)を召して訪(と)ひたまふ。対へて曰さく、「是に国有り、取捨(ともかくも)勅(おほみこと)の随(まにま)に」とまをす。(第九段一書第二)
 一書に曰く、高皇産霊尊、真床覆衾(まとこおふふすま)を以て、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)に裹(き)せまつりて、則ち天磐戸を引き開け、天八重雲を排分けて、降り奉る。時に、大伴連の遠祖(とほつおや)天忍日命(あまのおしひのみこと)、来目部(くめべ)の遠祖天槵津大来目(あまくしつのおほくめ)を帥ゐて、背(そびら)には天磐靫を負ひ、臂(ただむき)には稜威の高鞆を著(は)き、手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副持(とりそ)へ、又頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯(は)きて、天孫(あめみま)の前(みさき)に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだ)りて、日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る。吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。(第九段一書第四)
 是の時に、高皇産霊尊、乃ち真床覆衾を用て、皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこくねほのににぎねのみこと)に裹せまつりて、天八重雲を排披(おしひら)きて降り奉らしむ。故、此の神を称(たた)へて、天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)と曰す。時に、降到りましし処をば、呼びて日向の襲の高千穂の添山峰(そへやまのたけ)と曰ふ。其の遊行(いでま)す時に及(いた)り、云々(しかしか)いふ。吾田の笠狭の御碕に到ります。遂に長屋の竹島(たけしま)に登ります。乃ち其の地を巡り覧(み)ませば、彼(そこ)に人有り。(第九段一書第六)

 古事記の話の概要を説明する。天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかぎのかみ)は、太子(おほみこ)の正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に対して、今や葦原中国は平定し終わったから、委任に従って天降りして統治するようにと詔した。すると、彼は、自分が降りようと準備していたら子どもが生まれた、名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(あめにきしくににきしあまつひたかひこほのににぎのみこと)(注3)といい、この子を降ろすのが良いでしょうと言った。この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)と結婚して生んだ子で、長男は天火明命(あめのほあかりのみこと)で次男に当たる。奏上したとおりに、天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に命じ、豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)は、お前が統治する国であると委任する、命令どおりに天降りしなさいと詔が下った。
 日子番能邇々芸命が天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)に、お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である、ちょっと出かけて行って、我が御子が天降りしようとする道で、通せん坊をしているのは誰かと問いなさいと仰った。そのとおりすると、自分は国つ神で名は猿田毘古神だ、天つ神の御子が天降られると聞いたので、先導しようと出迎えたのだと答えた。
 そこで、天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)・天宇受売命・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の計五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、例の天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからおのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副えた。この鏡は私の御魂として、私を祭るように祭り仕えるようにと言い聞かせ、また、思金神は、今言ったことを弁えて祭事をしなさいと仰った。以下、神の鎮座所と祖先伝承へと続く。
 日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまり、そりたたして)」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りした。天忍日命・天津久米命の二人が、天の堅固な靫を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨(はじ)の木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで、天孫の御前に立ってお仕えした。
 日子番能邇々芸命は、ここは韓(から)の国に相対し、笠沙の岬に通じていて、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだと仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせ、お入りになった。以上が、今日まで解釈されているところの話のあらすじである。気宇壮大なお話が構成されている。
 記紀の諸書の間で表現が微細に違っている。焦点を絞ると次の4点である。

1.クジフルタケ(クシフルノタケ、クシヒ)
 竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)(記)
 槵日(くしひ)の二上の天浮橋(紀本文)
 筑紫の日向の高千穂の槵触之峯(くしふるのたけ)(紀一書第一)
 日向の槵日の高千穂之峯(紀一書第二)
 日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋(一書第四)
 日向の襲の高千穂の添山峰(一書第六)

2.カラクニ(ソシシノムナクニ)+国覓ぎ
 韓国に向ひ、真米通笠沙之御前(記)
 膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(まぎ)行去(とほ)る(紀本文)
 膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘から国覓ぎ行去る(紀一書第二)
 膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る(一書第四)

3.カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)
 笠沙(かささ)の御前(みさき)(記)
 吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の碕(みさき)(紀本文)
 吾田の長屋の笠狭の碕(紀一書第四)
 吾田の笠狭の御碕……長屋の竹島(たけしま)(紀一書第六)

4.ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)
 うきじまり、そりたたして(記)
 浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして(紀本文)
 浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして(紀一書第二)
 浮渚在之平地(うきじまりたひら)に立たして(紀一書第四)

 どこでどう混線しているのかわからなくなっている。天孫降臨の経路は一つの詞章になっており、暗記して語られたものと考えられている。行程の順序さえ異なるところもある。バイアスがそのままに載っている。けれども、どのお話でもそれぞれの話で辻褄が合うのであれば、それぞれに意味のある筋立てということになる。表現として不思議な言葉が登場している。その形容語について、それぞれの詞章をまたいで意味の一貫性を求めるのは、必ずしも賢明とは言えない。どれが正しい、どれが間違っていると一概に決め難い(注4)
 天孫降臨の話において、記と紀本文に共通する話しぶりがある。記には、「是に詔はく、……」、紀本文には、「既にして皇孫の遊行す状は、……」とある。先に話した様子について、もう一度解説している。後講釈が行われている。これが本来の形であるとすると、天降りしたところは、上にあげた1.クジフルタケ(クシフルノタケ)であるが、そこを説明し直すと、2.カラクニ(ソシシノムナクニ)、3.カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)、4.ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)といった言葉で表すことができると言っているようである。そこで、本稿では、1.クジフルタケ(クシフルノタケ)が何を示しているのかを主題にして、その登攀に挑戦したい。
 今日まで、天孫とされるホノニニギのことは、稲穂と関わりのある神さまであると想定されている。岩波書店の大系本日本書紀の補注には、「タカチホのタカは、高、チは数量の多い意。ホは稲の穂。従って稲を高くつみあげた所の意が、最も古い意味であろう。」(ワイド版岩波文庫①372頁)、小学館の新編全集本古事記の頭注には、「高く積み上がられた稲穂の意。現在のどこに比定するか、説が分れるが、現実の地名である必要はない。」(117頁)とある。また、倉野憲司『古事記全註釈 第四巻』(三省堂、昭和52年)に、「『高千穂』は、本来高く積み上げた稲穂(稲積(ニフ))で、神降臨の目標と農民の間に信ぜられてゐたものであらう。」(175頁)とある。これは、柳田国男らが主張していたことを踏まえて、民俗信仰のレベルから述べられた言説である。それを割り引いて考えたとしても、稲穂説についてはほとんど異論が出ていない。既定事実である。そのとおりに解釈できるか一語一語調べ、それぞれの筋立てで上の1~4について諸本で意味が通るなら、検証できたことになる。お話は「言葉」でできている。
 天孫降臨の設定は、記で、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りしたことになっている。紀の、「槵触之峯」(紀一書第一)の槵の字は国字である。新撰字鏡に、「槵 胡慣反、無槵」とあり、いまも無患子と書かれるムクロジをいう。記の「久士(くじ)」は紀にクシと清音である。小学館の新編全集本日本書紀①頭注に、「『無患』だからクシ(奇)で、それに霊性を表わす『日』をつけて『奇霊(くしひ)の二上山[ママ]』としたもの。」(120頁)と、頭注にて短絡化されている。
 ムクロジの硬い核は、羽根突きの羽根の玉にする。穴を穿って2枚の鳥の羽をつけたものが羽子(胡鬼の子)で、それを突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、押絵を貼った飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。上杉本洛中洛外図屏風には、羽根突きをしている様子が描かれている。その起源は、文献上では室町時代までしか遡れないとされる。下学集(1444年頃)では、「羽木板 コギイタ ハゴイタ〈正月ニ之ヲ用ユ〉」、黒本本節用集(室町末期)には、「胡鬼板 コギイタ〈小児正月之を翫ぶ〉」とある。貞成親王・看聞御記に、「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態(まけわざ)則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日条)などとあるのが古い例とされる。中世の出土例に、草戸千軒遺跡のものがある。
 万葉集に、筑波山にかけてツクバネということばが出てくるから、古くから行われていたものと推測される。筑波山は男体山、女体山の二峰から成り、男女の歌のかけ合い、嬥歌(かがい)の行われるところとも知られる。紀に、「二上」、「二上峯」と出てくるのは、羽根突きからも連想される事柄と考えられる。そして、意図的に「槵」という文字で表記することにこだわっているから、「槵触之峯」とはどこかという設問よりも、「槵触之峯」とは何かを問う方が有意義であろう。天孫降臨の話は、羽根突きと何らかの関係がありそうである。
羽根突きの図(狩野永徳筆・上杉本洛中洛外図屏風、東京国立博物館・日本テレビ放送網編『特別展京都―洛中洛外図と障壁画の美―』日本テレビ放送網発行、2013年、45頁)
ムクロジの実(神代植物公園)
羽子板(広島県福山市草戸千軒町遺跡出土品、スギ製、鎌倉~室町時代、広島県立歴史博物館蔵、「ホットライン教育ひろしま」様)
 記には、番能邇々芸命がその地のことを、

 此地者向韓国真米通笠沙之御前而

と言っている。この部分、「此地(ここ)は、韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来(まき)通りて」と訓む説が有力視されている。真福寺本古事記の「米」字は、「来」の誤写としている。紀の該当部分に、「国覓(ま)ぎ通りて」とあるところから、清音ではあるもののマキトホリテと訓じたがってそうしている。道祥本・春瑜本に「真来通」とあるのに従っている。本文が仮にそうなら、「此地は韓に向ひ、笠沙の御前に国真来(まき)通りて(此地者、向韓、国-真-来-通笠沙之御前)」といった訓法もありそうである(注5)
「韓國真米通」(『古事記 国宝真福寺本』桜楓社、1978年、71頁、国会図書館デジタルコレクション(37/46)参照。)
 伊藤剣『日本上代の神話伝承』(新典社、平成22年)では、本文校訂をしながら、記の記述は、紀の「国覓ぎ」にあたるのではなく、「国見」なのであるとされる。次の木花之佐久夜毗売との結婚の話へと続ける際の「天皇による統治の正当性を説く神話の目的の達成度を高めるため」(211頁)に、記紀の間で脚色上の差異が生じているというのである。後にあげる万4254番歌に、「国見し為(せ)して 天降(あまも)り坐し」とある。しかし、当該個所に当てはめたとき、降りたところから「国見」しているのか、「国見」してから降りていくのか不明である。また、高いところに「宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて坐しき」とは居住しないであろう。山のてっぺんに展望台を作ることはあっても、今日のタワーマンションのようには窓硝子もない時代、長く滞在したくはない。
 伊藤先生は、真福寺本にある「米」について、「訓字として処理しなければならなくなるのだが、その際に適当な意味を見出すことはできそうもない。」(同書、192頁)ともされて、澤瀉久孝「古事記天孫降臨の条訓詁復古」『国語国文』10-1(京都帝国大学国文学会、1940年1月)を引き合いに出されている。「米」字を訓字として考える場合、稲の粒、ヨネと訓むのがふさわしい。新撰字鏡に、「稞 胡買反、穀実也、粳米也、精米也、又莫代反、禾の死也、志良与祢(しらよね)」、和名抄に、「米 陸詞切韻に云はく、米〈莫礼反、与祢(よね)〉は穀実也といふ」、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢(しらげよね)、上傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米也といふ」、「糙米 唐韻に云はく、糙米〈上音造、漢語抄に糙米は毛美与祢(もみよね)と云ふ。一に加知之祢(かちしね)と云ふ〉は米穀雑也といふ」などとある。「真米通笠沙之御前而」を「真(まこと)米(よね)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に通(かよ)ひて」などと訓んで意味が通じるなら、「真」にマコトと訓む例は万葉集にはあるが古事記には他に見られないものの、それが正解に近いということになる。
 今日まで、「笠沙之御前」を地名のこと、九州南部の笠沙岬のこととする考えに囚われている(注6)。記は、ヤマトの人が、特に奈良盆地の人が作ったお話である。夷の地名を持ち出して何が面白いのか。単にそれは、語の音が洒落につながるからであろう。「御前」とある言葉は、当該個所近くに、先払い役のいることを示すために用いられている。古事記では、「猿田毘古神……御前に仕へ奉らむ」、「天忍日命、天津久米命の二人、……御前に立ちて仕へ奉りき」などとある。日本書紀では、「先」という字で表わされている。海岸の突き出たところの意を装いながら、先払いにして賊をはらう役の謂いなのではないか。だから夷の地名を出して喜んでいる。
(つづく)
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貂、あるいは手について

2017年03月18日 | 無題
ホンドテン(キテン)(「TSUJI, Yamato(辻大和)」様、3月26日、上野動物園で「マレーヒヨケザルの未来に向けて―現地調査による基礎生態の解明―」の講演会が予定されています。上野動物園公式サイトからお申し込みください。先着順80名のようです。)
ホンドテン(スステン?)(「しゅんたのtoritori」様)
 上はテンである。テンの毛皮のことは、源氏物語・末摘花に「ふるき」とある。それは、渤海などからの輸入品らしいとされている。日本に棲息しているテンの毛が、古くなったものと思っての命名なのかもしれない。籠手の研究をしていてテンの剥製を目にする機会があり、テンの胴を抜いて筒にすれば、アームウォーマーにそのまま行けるのではないかと感じたことがある。
鉄錆地縹糸威腰取五枚胴具足(板橋区立郷土資料館「武具繚乱」展展示品)
 毛色によってキテン(明色型)とスステン(冬でも灰褐色型)に分けられている。キテンの冬毛は特に光沢があってきれいでやわらかい。
 和名抄には、

 貂 四声字苑に云はく、貂〈音凋、天(て)〉は鼠に似て黄色〈皮は裘(かはごろも)を作るに堪ふ〉といふ。
 黒貂 唐韻に云はく、貂に黄貂有り、東北夷に出づ〈黒貂、布流岐(ふるき)〉といふ。

とある。
 万葉仮名に、「天」はテと訓む。つまり、奈良時代、平安時代初めに、貂のことは、テと呼ばれていた。手と同じ言葉となると、やはり、アームウォーマーとされていたらしい。実際にしていたかどうかはわからないが、上代に「手(て)」の意味は、人体の①肩から指先までの部分全体、②腕や手首、③手首から先、のいずれをも指す語である。仮に貂のことを手に相当すると考えるなら、①肩から指先までの部分全体を表す意、と捉え返すことができる。貂の顔から胴の胸の部分が人の手首から先であり、貂の前足から後足までの腹の部分が人の一の腕、貂の尾が人の二の腕に当たるように感じられる。人の手の甲が貂の頭頂、掌がスステンの鼻先から首筋の黄色い部分に当たるという観察である。人は、手の甲と掌とで色がとても違っていることに譬えられるわけである。なお、和名抄の、「東北夷」が渤海に当たるのか、筆者には疑問である。交易品のリストをご存知の方、教えていただきたい。和名抄の、「黒貂 唐韻云貂有黄貂出東北夷〈黒貂布流岐〉」を「……貂に黄貂有るも東北夷に出づるを〈黒貂、布流岐(ふるき)〉といふ」などと読むのか、同語の反復略字を「貂」一字ではなく「黒貂」と見るべきなのか、これもわからない。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「黒貂 唐韻云、貂有黄貂黒貂東北夷〈黒貂、布流岐〉」ととっている。
 残念ながら、貂をテと訓む例は、文献上、和名抄以外に見られない。古今著聞集(1254年)に、「てん」の形であらわれている。かといって、撥音便のンは上代になかったから、テムなどという外来語系の形であったかといえば、列島に在来種がいたらしいためその可能性は低い。縄文人が放っておくとは考えにくいからである。使いたいではないか。したがって、和名抄の記述なりを見た人が、それまでテと呼ばれていた動物を字音でテンと呼ぶようになっていったとするのが妥当であろう。

 さあ、みなさん、動物園へ「テ」を見に行きましょう。一度そう見てしまうと、もはや「手」にしか見えません。
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猿田毘古神と猿女君 其の三

2017年03月11日 | 論文
(承前)
(注2)12世紀の梁塵秘抄に、「御厩(みまや)の隅なる飼ひ猿は、絆(きづな)離れてさぞ遊ぶ、……」(353)とあり、13世紀末の一遍聖絵にも、厩につながれた猿の姿が見られる。一説に、インド・中国から、猿は厩の守り神であるという思想が伝わったからであるとされる。筆者は語学的立場から、猿轡と馬の轡との共通テーマに由来を求めるものである。轡を食ませることとは、有無を言わせないこと、すなわち、黙らせることと飲食をさせないこととある方向へ向かって行かせる(連行する)ことを意味する。
なお、民俗については、広瀬鎮『猿と日本人―心に生きる猿たち―』(第一書房、平成元年)に詳しい。
(注3)橋本進吉「駒のいななき」『国語音韻の研究』(岩波書店、昭和35年、47~50頁)
(注4)管見では、山口県上ノ山古墳や、愛知県志段味大塚古墳出土の轡の鏡板は、それぞれ七、ないし五個の鈴をつけた青銅製で、珠文、珠点で飾られている。張允禎『古代馬具からみた韓半島と日本―ものが語る歴史15―』(同成社、2008年)によると、鹿角かと思われる有機質製の棒状鏡板(鑣)(はみえだ)に鈴がつくものも見られるという。
タイワンクツワムシ(多摩動物公園)
(注5)西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。しかし、神が降臨する場所としては、紀第九段本文に、「二(ふたはしら)の神[経津主神・武甕槌神]、是に出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)り」などとあって、川の上流が望ましいわけではなさそうである。詳しくは、本ブログ「五十鈴の川上 其の一(川上=カハノヘ(ヘは乙類)、両サイド」参照。
(注6)古賀登『猿田彦と椿』雄山閣、平成18年。戸井田道三『歴史と風土の旅―みかんと猿田彦―』毎日新聞社、昭和48年。
(注7)ハート形や楕円形とされる鏡板も、「田」の字ではないかと見ればそう見えてくる。
 また、ニホンザルの顔を見て、伝統的な日本人同様、平面的であると捉えるのは大きな誤りであろう。サルの顔の特徴は、食べ物を口に入れて頬張ることができるように、猿頬と呼ばれる袋を左右の頬に持つ点である。猿頬がサルの顔らしさ、その特異な点と見えたとき、そこにツラ(面)が現れる。「つらつら椿」との関連性が浮かび上がってくる。
ニホンザルの頬袋(小田英智・津田堅之介『ニホンザル観察事典』偕成社、2005年)
(注8)名無しの意味からナナ(七)が出たのかもしれない。轡の鏡板に打たれる鋲をナナコと呼ぶ可能性もなくはない。鈴木勉『ものづくりと日本文化』(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、2004年)によれば、魚々子とは魚の卵のことで、円文をぎっしりと詰めて使うものゆえ、古墳時代のそれは魚々子とは呼ばないのではないかとされている。今日、そう呼ぶのはふさわしくないから、当時もそう呼ばれていなかったとするのは当て推量である。かといって、筆者は、鋲止めをナナコと呼んでいたと強く主張するものではない。ただし、ナナコがナ(中)+ナ(ノの意)+コ(子)との洒落であった場合、なぞなぞ的には、クツワというワ(輪)の中に丸い輪となる大きめの鋲の点があれば、ナナコと呼ばれていて不思議ではないとも思う。猿田毘古の話に海鼠(こ)の話が続いていることもあって面白いものがある。ナマコは子なのか親なのか、コと呼ばれていたなら子のつもりだろうが、子に子が生まれるコノコという珍味もある。「海鼠(こ)」のコの甲乙は未詳である。
 なお、三大珍味として、三河のこのわた、長崎のからすみ、越前のうにが挙げられている。延喜式の内膳司条には、「供御月料」として「熬海鼠(いりこ)」や「海鼠腸(このわた)」が見える。同「諸国貢進御贄」には、旬料として「志摩国御厨鮮鰒、螺、……味漬、腸漬、蒸鰒、玉貫、御取、夏鰒……、雑魚……」、年料として「深海松(ふかみる)」が見える。宮内省式の「諸国例貢御贄」にも、志摩からは「深海松」を出すことになっている。
(注9)農家のお馬さん同様、猿回し(猿曳、猿芝居)にとってみれば、曲芸に使う猿は大切な生き物であることに変わらない。「次郎」などといった愛称が付けられて自然である。それを観客側がしっかりと覚えようとするかというと、何ともいえない。他方、厩猿に名がつけられて呼ばれていたか、文献資料があるのか管見にしてわからない。厩の守り神と尊ばれていたとすると、ペットのように名づけられていたのか疑問である。
(注10)言葉(音)だけですべてを言い表すことは難しい。文字があれば頼ることができるし、絵や図でも示すことができる。それを口頭の言葉だけで口づてに伝えることは、言葉自身を自ら説明する自己言及にならざるを得ない。グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社、2000年)参照。以下、天孫降臨のなぞなぞ話が一段とユーモアに富むのは、メッセージとコンテクストとのレベルの差を自覚的、意図的に行き来する遊びをしていることによる。
 なお、いくつか出土している蛇形状鉄器について、旗竿金具であったとする意見が埴輪出土によって定説化しつつある。筆者は、馬が旗を立てる意味について計りかねている。一部復元した埴輪の姿が本当に正しいのか、疑問を抱く。「将(はた)~や、抑(はた)~や」の修辞法から考えられるのは、馬という乗物がどちらへ進むものなのか、それを聞いているのであろう。すなわち、旗竿を最初に立てたとき、ボロ布のような旗は反対に靡いていたのではなかろうか。ポマードで塗りつけたような鬣の旗と相対してである。さあ、お立会い、どちらへ進むのでしょう? そして、歩きだすと図のように竿がくるりと回って尻尾の方へたなびき、鼻先の方向へ進むことがわかった。前後ろが定かではないことは、埴輪の鞍に特徴的に見られる前輪・後輪ともに直立した鞍橋(くらぼね)からもわかる。この狭いところにどう跨ったらいいのか不可解である。古墳時代の鞍の作りは、朝鮮半島由来であると説明されている。『行田市文化財調査報告書第20集―酒巻古墳群―』(行田市教育委員会、1988年)参照。
酒巻14号墳出土埴輪(古墳時代、6世紀後半、行田市郷土博物館蔵、行田市HP様)
蛇行状鉄器(奈良県磯城郡田原本町団栗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
(注11)祝詞にも登場する「鰭の広物・鰭の狭物」という表現は、食用となって神に捧げるに値する水族全体を表す。「鰭の広物・鰭の狭物」が全体集合で、「諸魚」はその部分集合、「海鼠」はそれに対する補集合となる。仮に海老や蛤や雲丹があれば、「諸魚」の集合に入る。食用に適さないものや毒のある水族もいるものの、それはそもそも最初から除外されている。「鰭の広物・鰭の狭物」と祝詞を唱えて神さまに捧げるのに毒があってはいけない。ウヲ(イヲ)は、和名抄に、「魚 文字集略に云はく、魚〈語居反、宇乎(うを)、俗に伊乎(いを)と云ふ〉は、水の中を連れ行く虫の惣名也といふ」とあり、泳ぐ特徴を持った魚類を指している。毒があっても含まれる。国譲りの条に、「天(あめ)の真魚咋(まなぐひ)」とある。
 また、仲哀記の、太子(ひつぎのみこ)、後の応神天皇と気比大神(けひのおおかみ)との名易えの話にも、名(な)における中(な)と魚(な)との交換という頓智話が載る。詳しくは、本ブログ「応神記の名易え 其の一」以下を参照されたい。天皇家に苗字がないということと、天皇になると名がなくて薨去後に諡で呼ばれるとする考えは、意味合いの次元が異なる。記に、太子は禊のために敦賀を訪れており、天皇に即位するための大嘗祭の禊を思わせる。天皇になると名がなくなり、魚(菜)を受けるようになるということを加味して表しているのかもしれない。後の名が、「御食津(みけつ)大神」、「気比大神」とあるのは、食(け)+霊(ひ)の意とされる。食膳のケ(食)となったナ(菜・肴)のことを言っている。家庭の主婦に、「○○君のお母さん」と呼ばれる人がいる。名前が忘れられるのである。本人はその匿名性を利用して、結構楽しんで子育てをされている風にも見受けられる。それを参考にしながら、天皇家の苗字と天皇の名前の不在について検討すべきところであるが、本稿の主旨から外れるので後に譲りたい。
(注12)本ブログ「五十鈴川上 其の三(馬鍬とは何か)」参照。なお、啣については、1本の金属棒では自由が利かずに馬に苦痛があるらしく、中間を輪につないだ2本のものがふさわしいと知られていたようである。
(注13)上代の「平らぐ」という動詞には、平らになる、鎮まる、治まる、という自動詞と、平らにする、鎮める、治める、平定する、という他動詞の意がある。食べ物を大量に喰らう意は見られはしないが、ヲス(食)という動詞に、食う、の意ばかりか、治める、統治する、の意があることから推量すると、口語的、ないしはジョーク的な言葉の用法として、タヒラグに食べる義があったとして不思議ではなかろう。馬のことなのだから、よく食べ、軍事力を発揮して鎮圧・平定し、馬鍬をひいて田は平坦になる。
(注14)シヅムは、白川、前掲書に、「水に沈む。また沈静することから、鎮定の意ともなる。」(390頁)とある。漢字の鎮は犠牲をもって神意を安んずることをいう。斎い鎮められた神霊が、その地の守護神となって鎮定されて沈静化する。荒御魂(あらみたま)が和御魂(にきみたま)となるということらしい。一方、フルは、同じく「小さくふり動かす。ゆり動かすことによって、その生命力がめざめ、発揮されると考えられる。」(668頁)とある。気絶した人を介抱する際、身体を揺すって声をかけるものである。鎮魂祭は、遊離しようとした魂を本体に復帰させることがミタマシヅメ、沈滞している魂を振り動かすことがミタマフリに当たり、両者を統一した儀式なのであると説明されている。同じく魂に関する儀式であり、結果的に目指すところは同じであるが、相反する作用ではないかと思われる。それを一語に包み込んでしまったとするところは、なま物としてのことばの感覚からは俄かには納得しづらい。後考を俟ちたい。
(注15)新谷尚紀「大和王権と鎮魂祭 民俗学の王権論 折口鎮魂論と文献史学との接点を求めて」『国立歴史民俗博物館研究報告』152号(2009年)には、天武紀の記事は、病気平癒を願った仏教的、道教的な施術であり、後に王権儀礼となる鎮魂の祭儀とは別物であるとの指摘もある。鎮魂祭と神楽舞については、雨宮康弘「神楽の成立と変遷―鎮魂祭を中心として―」『専修史学』第56号(2014年3月、1~21頁)、中本真人『宮廷御神楽芸能史』(新典社、平成25年)参照。鎮魂祭と神楽と猿楽と猿との関連については、後考を俟ちたい。
大嘗祭に参列する猿女(貞享四年大嘗会図、国学院大学図書館蔵、国学院大学博物館「祭祀と神話―神道入門―」展(~2017.4.9迄)リーフレット)
(注16)藤澤友祥『古事記構造論―大和王権の<歴史>―』(新典社、平成28年)では、古事記のこの話について、サルタビコは漁労神で力能を失い、ウズメが名を貰ってサルメとなって天孫に「仕奉」ることになったとする服属物語であるとされている。上代の文献を現代の解釈によって“神話”化されている。しかるに、漁労の能力を失ったら漁民は生きていけない。政治的な背景があっても生活できなくなるのでは、何のための征服なのかわからなくなる。win-winの関係があるなり、植民地支配のように絞るだけ絞るには、うまい具合に漁労し続けてもらわなければならない。サルタビコ→サルメへの名の“移籍”は、伊勢において、海女さんの漁に取って代られたことでも表しているというのであろうか。もとより、筆者は、古事記のこの話について、馬具の話と思っており、漁民の話とは考えていない。古墳時代の“歴史”を逸話化するにおいて、海女ちゃんが大事か、馬具が画期か、自ずとわかると思う。
(注17)記紀間の記述の相違について、どうしてそのような違いが生れたのか、管見にして詳らかに説明された議論を知らない。西宮一民『古事記』(新潮社(新潮日本古典集成)、昭和54年)頭注に、「宮廷で舞楽奉仕する女性に『君』をつけて呼ぶことに不審を起す(通常、女から男に対して『君』という)ものがいたから、その事情を説明したもの。『猿田毗古』という男神の名を貰ったからだというわけ。」(72頁)、小学館の新編古典文学全集本・古事記頭注に、「女が、男神である猿田毘古神の名を受け継いで、猿女君と名乗っているのはの意。猿女君の名で宮廷に奉仕するのは女性。」(119頁)、岩波書店の思想大系本・古事記に、「紀などに『男女』とあるのは、氏族の猿(猨)女君をさしているが、記の『女を』以下の表現は職掌名としての猨女君を意味する。」(357頁)とある。事の本質、サルに固有名詞をもって呼ぶことがないことへの言及がなされていない。
(注18)ギルバート・ライル著、坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳『心の概念』みすず書房、1987年。
(注19)井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』(岩波書店、1976年)の補注は、振るったものになっている。「本[縫殿]寮の職掌のうちの『裁二縫衣服、纂組』は、義解のように『此擬御服并為賞賜』と恰も実際に裁縫を担当するかの如く解すると、直ちに『裁縫衣服人、文不見也』(朱説)という疑問が出る。掌の『裁縫衣服纂組』は後宮の縫司の掌と同文であり、穴記も『勘掌女之縫司所一レ縫也。非当司別縫作也』としている。……なお、官司名と職掌との関係を考えると、本寮は宮内省の主殿寮、後宮の殿司、東宮坊の主殿寮のような殿舎関係の職掌が無い。或いはかつて中務省の前身が存在しなかった当時は本寮も無く、後宮の縫司の前身、もしくはその製品を納めて置く建物が、『縫殿』とでもよばれていたのであろうか」(519頁)。同様の疑問は、虎尾俊哉編『延喜式 中』(集英社、2007年)の補注にも引き継がれている。ミシュランの調査員ならずとも、存在をカモフラージュせずに覆面調査はできない。
 なお、真福寺本では、「猿田毗古」・「猿女君」から、「猨田毗古」・「猨女君」へと用字が変化している。太安万侶は、サルには固有名がないということを、表記において言外に表そうとしている。
(注20)動物園のサル山には、毛繕いのしすぎでところどころかなり禿げているものがいて見るに痛々しい。することがないと常動行動をしてしまう。現代人のすることはほとんど常動行動のように思われる。
ニホンザル(多摩動物公園)
(注21)松木俊曉『言説空間としての大和政権―日本古代の伝承と権力―』(山川出版社、2006年)によれば、「名に負ふ」という表現は、音韻の親近性、つまり、語呂合わせに、単なる名称の一致以上の意味を見出そうとする姿勢があり、名称・呼称としての狭義の名が、その由来・評判等をコトとして背負っていることを意味するという。上代のことばに対する感覚から整理すると、基調には言霊信仰がある。言=事であってもらわなければならないから、名がコトを負うのは必然である。そして、無文字文化のなかであるから、音の親近性、語呂合わせや駄洒落は非常に重要である。
また、人間の自己は、自分自身との相互作用を含めた社会的相互作用のなかで、状況の定義と再定義を通じながら形成されていく。G.H.ミード著、稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳『精神・自我・社会』(青木書店、1973年)や、ハーバート・ブルーマー著、後藤将之訳『シンボリック相互作用論』(勁草書房、1991年)など、社会心理学の古典を参照されたい。名づけることと名づけられること、名のることとそれを聞くことの繰り返しによって、自己は社会のなかに構成されていく。これを直ちに権力との関係で考えようとする傾向は、近代の「国家」・「国民」といった思考の枠組に毒されているように思われる。
(注22)大野晋編『本居宣長全集 第十巻』(筑摩書房、昭和43年)に、「政(マツリゴト)は、凡て君の国を治(ヲサメ)坐す萬事の中に、神祇(カミ)を祭リ賜ふが最重事(ナカニモオモキコト)なる故に、【他(ヒト)ノ国にも此意あり、皇国(ミクニ)は更(サラ)なり、】其ノ餘(ホカ)の事等(コトドモ)をも括(カネ)て祭事(マツリゴト)と云とは、誰も思ふことにて、誠に然ることなれども、猶熟(ヨク)思フに、言の本は其ノ由には非(アラ)で、奉仕事(マツリゴト)なるべし、そは天ノ下の臣連(オミムラジ)八十伴緒(ヤソトモノヲ)の、天皇の大命を奉(ウケタマ)はりて、各(オノオノ)其ノ職(ワザ)を奉仕(ツカヘマツ)る、是レ天ノ下の政(マツリゴト)なればなり、さて奉仕(ツカヘマツ)を麻都理(マツリ)と云由は、麻都流(マツル)を延(ノベ)て麻都呂布(マツロフ)とも云ヘば、即チ君に服従(マツロヒ)て、其事を承(ウケタマ)はり行(オコナ)ふをいふなり、」(321頁)(国会図書館デジタルコレクション(468/600))とある。
 吉村武彦『日本古代の社会と国家』(岩波書店、1996年)は、「大化二年八月(癸酉)詔に『「祖子(おやこ)より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫・臣・連・伴造・氏氏の人等、〈或本に云はく、名名の王民といふ〉』とあるように、臣・連・伴造ばかりか氏(うじ)の名(な)をもった人々は天皇に仕え奉る関係があり、氏人が百姓として存在したこともほぼまちがいない。こうした位相から『陛下(きみ)、千秋万歳(ちよよろづよ)に及至(いた)るまでに、浄(いさぎよ)く四方の大八島を治(しら)したまひて、公卿・百官・諸の百姓等、冀(ねが)はくは、忠誠を磬(つく)して勤(いそ)ひて事(つか)へまつらむ』(白雉元年〔六五〇〕二月甲申条)の寿詞の論理を理解することが可能となる。……十七条憲法の君―臣―民の関係を使っていえば、臣は君に対して、民は君に対して仕奉する関係があったのである。」(82頁)とある。百姓も氏を持っていたということである。
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猿田毘古神と猿女君 其の二

2017年03月07日 | 論文
(承前)
訓蒙図彙(朝倉治郎監修『訓蒙図彙集成第三巻』大空社、平成10年、78頁)
 ひらぶ貝は、タイラガイのこととされる。タイラガイはタイラギともいう。タイラガイという言い方は重言かとも言われる。白川静『字訓 新装普及版』(平凡社、1995年)に、「たひらか」は、「ものに高低がなく、広やかであること。『ひら』は『ひろ』と同系の語で、『ひら』は高低のないことをいい、『ひろ』は広がりを主にしていう。『た』は接頭語。土地などの状況から、ことのありさまに及ぶまで、その事態のおだやかで静かなことをいう。『たひらぐ』はその動詞。」(479頁)とある。中村惕斎・訓蒙図彙(1666)に、「玉珧 今按ずるにたいらぎ 海月、馬頬、江跳、並びに同じく西施舌は盖し其の肉柱の名也」とある。馬頬とは、馬の横顔のように、鋭角の三角形に近い形をしている点に由来するようである。そして、馬に食わすほどという比喩があるほど馬は大食いである。動詞の「平(たひ)らぐ」の用法の後代に使われた例に、大量の食べ物を馬のように完食してしまう意がある(注13)。つまり、ひらぶ貝に咬まれるとは、轡が馬の口に嵌められたことを指す。轡の啣は、馬の口のなかにあって、唾液の底に沈んだり(「其沈二居底一之時」)、唾液が粒立ったり(「其海水之都夫多都時」)、泡を吹いたり(「其阿和佐久時」)と、いろいろな目に遇わされる。馬の唾液に塩味が感じられることは、体感していたことによると考えられる。以上、猿田毘古神が何を表わしているのか検討した。
 他方、猿女君については、猿女が登場する宮中の儀式から推測されよう。鎮魂祭である。古来、伊勢国の地名との関係が取り沙汰されている記述である。古事記では、地名を借用して馬具について物語っている。
 鎮魂祭は、天皇の霊魂が身体から離れないように強化するお祭りである。神祇令にオホムタマフリと訓があり、ミタマシヅメとは衰える霊魂を奮い起こすことだからという(注14)。貞観儀式等によると、神座に大臣以下が列になって入り、いっせいに八回手を拍つ。そして、御巫(みかんなぎ)が一人舞を舞い、さらに、宇気槽(うけふね)を伏せてその上に立ち、桙で槽を十回撞く。そのたびごとに神祇伯が木綿(ゆう)を結んで葛箱におさめる。このとき、女蔵人(にょくらうど)が御衣を振動させる。つづいて御巫、猿女が倭舞を舞い、中臣、忌部、侍従等も榊を手に庭で舞う。終了後、もとの座に戻って酒肴を賜って終了となる。古語拾遺に、「鎮魂(たましづめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。
 猿女に関しては、延喜式・大嘗祭式に、「大臣、若しくは大・中納言一人、中臣、忌部、中臣は左に立ち、忌部は右に立つ、御巫、猨女(さるめ)を率(ゐ)て、左右に前行せよ、大臣は中央に立ち、中臣・忌部は門外の路の左右に列す」とあり、鎮魂祭式に、「縫殿寮(ぬひとののつかさ)は猨女をして参入(まい)らせ……御巫、及び猨女等(ら)、例に依りて舞へ」と指示されている。猿女は、縫殿寮に所属しており、鎮魂祭のときだけ派遣されて舞を舞っている。天武紀十四年十一月条に、「天皇の為(おほみため)に、招魂(みたまふり)しき」とあり、そのころには行われていたと知れる。この日、法師が「白朮(をけら)」を献上してきたともある。ひょっとして天皇は、精力増強を思い立ったのかもしれない(注15)。いずれにせよ、この場で猿女君は、天の石屋を前にした天宇受売命さながらに、舞を舞う。
 舞を舞うに際し、髪に髻華(うず)を挿す。草木の枝葉や花を飾りに使った。「唯し元日(むつきつきたち)にのみ髻華(うず)着(さ)す。髻華、此には于孺(うず)と云ふ。」(推古紀十一年十二月条)とある。つまり、天宇受売命の、雲珠(うず)を連想させるストリップダンスを改め、同じ音のウズをつけた舞にしたのである。ウズだと聞いて楽しみにして集まった殿方は、とんだ猿芝居に付き合わされたと憤慨したであろう。天宇受女が猿女君の祖である由縁である(注16)
平野神社巫女舞(「京都時空旅行」様、平野神社・例祭・巫女舞の動画参照)
 記に、「猿田毘古大神は、専ら顕し申せる汝、送り奉れ。亦、其の神の御名は、汝、負ひて仕へ奉れ」とある。また、「猿女君等、其の猿田毘古之男神の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶ」とある。紀一書第一には、「汝(いまし)、顕しつる神の名を以て、姓氏(うぢ)とせむ」とあって、「因りて、猨女君(さるめのきみ)の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこをみな)、皆呼びて君と為(い)ふ、此其の縁(ことのもと)なり」とある。これらの記事は、天宇受売命とその子孫が、猿田毘古神の名から猿の一字をもらって猿女君というようになったという話と解釈されている。しかし、記には女と限定し、紀には男女ともという(注17)。君とは臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)のような称号の一つであるが、「姓氏」とあるから今の苗字に当たり、蘇我氏や秦氏、物部氏、大伴氏に当たることをいうようである。すると、例えば、中臣氏のような猿女君氏ということになり、傍訓にあるサルメキミと訓ずるのが良いのであろうか。何ともおさまりが悪い。名義において、カテゴリー錯誤を表明しているようである(注18)。名に負うことの意味合いをよくよく考えねばならない。
 猿女を管轄するのは、縫殿寮である。養老職員令に、「頭(かみ)一人。掌(つかさど)らむこと、女王(にょわう)、及び内外(ないぐゑ)の命婦(みゃうぶ)、宮人(くうにん)の名帳(みゃうちゃう)、考課(かうくゎ)のこと、及び衣服(えぶく)裁ち縫はむこと、纂組(さんそ)の事。助(すけ)一人。允(いん)一人。大属(だいぞく)一人。少属(せうぞく)一人。使部(しぶ)二十人。直丁(ぢきちゃう)二人」とある。実際の仕事は人事考課だけではないかと平安時代から疑問視されている(注19)。ところが、延喜式では、鎮魂祭のとき、「猿女」を出すようにと指示がある。いないはずの人がいるのはどういうことか。簡単である。人ではなくて猿だからである。
 猿の語源について確かなことはわからない。「戯(ざ)る」と関係するのではないかともされる。西郷信綱『古事記注釈 第四巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)に、「猿女君の『猿』は猿楽の『猿』、つまり『戯(サ)る』であり、宮廷神事において職掌としてワザヲキ(俳優)を演ずるのにもとづく名だと思う。猿女というこの宮廷の呼称が先にあり、猿田毘古の名はいわばその説話的こだまとして生じたのである。」(86頁)とある。議論は本末転倒しているものの、言葉の関連性をよく捉えられている。ふざけ、たわむれる意味のザレルの変化した形である。子どもや動物がなれてまとわりつき、はしゃいでたわむれることである。サル山を観察してみれば、まさにそうした光景を繰り広げられている。親愛の情の深さゆえか、なかでもメスザルは、群れの順位の上位者に対してもよく毛繕い(グルーミング)をする。繕いものをしているように感じられる(注20)。よって、形式的に名前上、縫殿寮に所属することとなっている。言葉の上で違和感がない。
 また、猿は、「然(さ)る」、すなわち、そのようにあることを想起させる。したがって、猿女とは、それらしく振舞うこと、演じること、西郷先生ご指摘の通り、俳優を意味する名を負っていたと解釈される。「俳優(わざをき)」は、「隠されている神意……を『招(を)き』求める」(白川、前掲書、802頁)存在である。俳優は、ふつうの人なら王から死を賜るであろう諫言をさえ、その演劇的なわざのおかげで生き長らえ、王の側近くで裕福な生活もできた。猿芝居もはなはだしい。他の家臣からすれば、それは人に似ているが、人としての誇りを持たない一段劣る存在である。猿と呼んで過言ではない。
 江戸時代には、岡っ引の異称としても猿という言葉は使われた。奉行所の役人、今の警察官の手先として探索、捕縛にあたった。庶民の顔をしてなれなれしく振舞っておきながら、いざ事件となると情報はお上に筒抜けになっていた。仕事上の人事考課からふだんの素行までチェックしている。監察官は、人のようで人でない、小賢しい存在である。猿と呼びたくなる輩たちである。万葉集に一首だけ猿の歌が載る。

 あな醜(みに)く 賢(さかしら)をすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る(万344)

 記に、天宇受売女命について、「手弱女人に有れども、いむかふ神に面勝つ」とあるのは、王に対しては俳優であり、家来に対しては通信簿、いわゆる閻魔帳をつける係だからである。そうと知っていれば、怯み、口を慎み、おとなしくなる。まるで猿轡を食まされたかのように。

 大伴(おほとも)の 名に負ふ靱(ゆき)帯(お)ひて 万代(よろづよ)に 憑(たのみ)し心 何所(いづく)か寄せむ(万480)
 隼人(はやひと)の 名に負ふ夜声(よごゑ) いちしろく 吾が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ(万2497)

 「名に負ふ」という考え方について2首例示した。第1例の大伴氏は、靫負部(ゆげいべ)・舎人部など軍事集団を統率する氏族として、朝廷の王権確立のために戦ってきた。それは、名前のオホトモにも表れていて、トモとは鞆のことである。鞆は、弓を引く力が強すぎて、弦が弾けて左手の一の腕に当たって怪我をしないよう着ける防具のことである。したがって、オホトモは弓の名人なのである。また、隼人は、城門の外で夜警に当たるときに犬の吠え声を発することになっているが、名前のハヤヒトのハヤは、お囃子のハヤである。大声で囃さなければ、盛り上がるものも盛り上がらない。すると、猿女君の場合、名に負うとは、猿は人ではないから名前などはないのが本来で、女性を猿女君と呼ぶのも、男性を猿女君とするのも、偽の偽は真でいっこう差支えがないということになる。なにしろ、文献記録に、猿女君某を名乗った人は誰一人記録されていない。
 むろん、猿女君は名前であり、建前上は名負氏である(注21)。名に負う職掌を司っているとは、天皇に仕え奉る関係があることを示す。本居宣長に、政は祭事(まつりごと)ではあるが、本来は奉仕事(まつりごと)であって、天下の臣・連・伴緒(とものお)は、天皇の大命を拝してそれぞれの職を全うすることで仕え奉る、だから天下の政というとする(注22)。では、それを可能にした心性のベクトルは何であろうか。絶対主義国家の王権神授説になぞらえていうなら、それは、王権なぞなぞ説とでも呼ぶべきものであったろう。すなわち、天皇家の人に名がないのは、天孫が稲、つまり、ご飯ないしお酒を表し、おかず、つまり、菜(な)(魚)ではないからである。茶碗の飯(めし)を手に持ち、反対の手に箸を持って菜を取って食べる。飯が主、菜が副の関係である。これをパラレルに展開したのが古代の氏姓制であり、名のある人々は天皇の命(みこと=御言)に召されたわけである。なぞなぞの素っ頓狂な知恵によって煙に巻いて、古代の朝廷は支配の正当性を確かにしていたといえる。

(注1)日本書紀では、神代紀第九段一書第一に記載がある。
 已(すで)にして降(あまくだ)りまさむとする間(ころ)に、先駆者(さきはらひ)の者(かみ)還りて白さく、「一の神有りて、天八達之衢(あまのやちまた)に居り。其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長さ七尺(ななさか)余り。七尋(ななひろ)と言ふべし。且(また)、口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり」とまをす。即ち従(みとも)の神を遣して往きて問はしむ。時に八十万の神有り。皆目(ま)勝ちて相問ふこと得ず。故、特(こと)に天鈿女(あまのうずめ)に勅して曰はく、「汝(いまし)は是、目の人に勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし」とのたまふ。天鈿女、乃ち其の胸乳(むなぢ)を露にし、裳の帯(ひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)ひて向きて立つ。是の時に、衢神(ちまたのかみ)問ひて曰く、「天鈿女、汝為(かくす)るは何の故ぞ」といふ。対へて曰く、「天照大神の子(みこ)の幸(いでま)す道路(みち)に、如此(かく)居(を)るは誰そ。敢へて問ふ」といふ。衢神対へて曰く、「天照大神の子、今し降行(くだ)りますべしと聞く。故、迎へ奉り相待つ。吾が名は是、猨田彦大神(さるたひこのおほかみ)」といふ。時に天鈿女、復(また)問ひて曰く、「汝、将(はた)我に先(さき)だちて行かむや。将抑(はた)我や汝に先だちて行かむや」といふ。対へて曰く、「吾、先だちて啓(みちひら)き行かむ」といふ。天鈿女、復問ひて曰く、「汝は何処(いづこ)にか到らむとする。皇孫(すめみま)何処にか到りまさむとする」といふ。対へて曰く、「天神の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(くじふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に到るべし」といふ。因りて曰く、「我を発顕(あらは)しつるは汝なり。故、汝以て我を送りて致りませ」といふ。天鈿女、還り詣(いた)りて報状(かへりことまを)す。皇孫、是に天磐座(あまのいはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に到します。其の猨田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到ります。即ち天鈿女命、猨田彦神の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂に以て侍送(あひおく)る。時に皇孫、天鈿女命に勅したまはく、「汝、顕しつる神の名を以て姓氏(うぢ)とすべし」とのたまふ。因りて猨女君(さるめきみ)の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこおみな)、皆呼びて君と為(い)ふ。此れ其の縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段一書第一)
(つづく)
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東洋文庫ミュージアムはやはり楽しい

2017年03月03日 | 無題
ロマノフ王朝展(~4月9日迄)
相変わらず不思議な世界を楽しませてくれます。
(絶好調の1行キャッチコピーはありませんでしたが。)

画版のような首枷でした。
泥棒が晒し者になっているところ(日露戦争写真集、20世紀前半、パリ、Aune station,un voleur exposé dans la cangue)

北極海航路を探していたらクジラを見つけて争いになっています。ペリーが来るだいぶ前のことですね。
ノルウェー沖スピッツベルゲン島周辺での英蘭捕鯨競争(ベルナール・北方旅行記集成、1716年、ルーアン)

ウールのボタンセーターです。ロシア皇帝から贈られたのですって。庶民がウールを着たことなど無かった時代だと思います。
(奥田太十郎の上着)

何を除けるために被っているのでしょう、蜂ですか?
虫よけに熊の皮で作った防護帽を被っているところ(魯西亜国漂舶聞書、磯吉談、1792~1828年、江戸)
ふと思い出したので下に引用しておきます。

 五月、この地域を霧のように掩う、マシカと呼ばれる毒ぶよが、私たちの収容所一帯にも発生した。それはほとんど一夜のうちに発生して、ある朝私たちは戸外へ出るやいなや、マシカの群れの中にいた。むき出しになった皮膚という皮膚へ針で刺すような痛みとともにわっとまつわりついたものを、私たちははじめ理解できなかった。この地域に数年前からいる少数の〈経験者〉を除けば、私たちはほとんどこれについて無知であった。……マシカにとりつかれたら、手ばやくこれをふりおとす。ころしてはならない。刺された痕はなるべく水で冷やす。掻いてはいけない。マシカはいったんとりついたら、からだいっぱい血を吸ってしまうまでは、けっして飛びたたない。ほとんど逆立ちするような姿勢で皮膚に食い入ってくる胡麻粒ほどのマシカをつぶすのは、蚊をころすよりも容易である。それはただ、てのひらでおさえるだけでたりる。しかし、おさえた結果はさらに悲惨である。血の匂いにはおどろくほど敏感なマシカは、おしつぶされた血の痕へあっというまに集まってくる。無経験な私は、最初の日にこの失敗を犯した。夕方、乾いた血でまっ黒になった手首を水で洗ったとき、皮膚の一部がうそのようにめくれおちるという目に会った。マシカがとくに好んで集まる部分は、目と首のまわりである。ことに目のまわりに集まってくるマシカは、追い払うだけで、ぜったいにころしてはならない。わずかの血痕でも目のふちにつけば、二、三時間後に目は完全にふさがってしまう。(石原吉郎「オギータ」『望郷と海』みすず書房、2012年、37~38頁)

今日も、中露間の協定で、互いに発展させようということになりながら、中露国境沿いで中国側ばかりインフラ投資している町があるようです。清朝当時もそういうことがあったようです。
なお、ロシアのことを、ヲロシアと書いてあるところがあります。そのように言った方が、Россияの発音に適っているかもしれません。
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猿田毘古神と猿女君 其の一

2017年03月01日 | 論文
 記紀の天孫降臨の話に、猿田毘古と猿女君という配役が登場する。ここでは、古事記の話を中心にして、日本書紀(注1)を参照していくことにする。

 爾に日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)、天降りまさむとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上(かみ)は高天原を光(てら)し、下(しも)は葦原中国を光す神、是に有り。故、爾に天照大御神・高木神の命(みこと)を以て、天宇受売神(あめのうずめのかみ)に詔(のりたま)ひしく、「汝(いまし)は手弱女人(たわやめ)に有れども、いむかふ神と面(おも)勝つ神なり。故、専(もは)ら汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り為る道を、誰ぞ如此(かく)して居る』ととへ」とのりたまひき。故、問ひ賜ふ時に、答へ白ししく、「僕(あ)は国つ神、名は猿田毗古神(さるたびこのかみ)ぞ。出で居る所以(ゆゑ)は、天つ神の御子天降り坐すと聞きつる故に、御前(みさき)に仕へ奉らむとして、参ゐ向へ侍ふぞ」とまをしき。……天宇受売命は、〈猿女君(さるめきみ)等が祖(おや)ぞ〉。
 故、爾に天宇受売命に詔りたまひしく、「此の御前に立ちて仕へ奉りし猿田毗古大神は、専ら顕はし申せし汝、送り奉れ。亦、其の神の御名は、汝負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。是を以て、猿女君等、其の猨田毗古の男神(をがみ)の名を負ひて、女(をみな)を猨女君と呼ぶ事是れぞ。
 故、其の猨田毗古神、阿邪訶(あざか)〈地の名〉に坐す時、漁(すなどり)為て、ひらぶ貝に其の手を咋ひ合さえて、海塩(うしほ)に沈み溺れき。故、其の底に沈み居たまひし時の名は、底度久御魂(そこどくみたま)と謂ひ、其の海水(うしほ)のつぶたつ時の名は、都夫多都御魂(つぶたつみたま)と謂ひ、其のあわさく時の名は、阿和佐久御魂(あわさくみたま)と謂ふ。
 是に猨田毗古神を送りて還り到りて、乃ち悉に鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狭物(さもの)を追ひ聚めて、「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや」と問言(と)ひし時に、諸の魚(いを)皆、「仕へ奉らむ」と白す中に、海鼠(こ)白さず。爾に、天宇受売命、海鼠に云ひしく、「此の口や答へぬ口」といひて、紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故、今に海鼠の口拆くるなり。是を以て、御世(みよみよ)、島の速贄(はやにへ)献(たてまつ)る時に、猿女君等に給ふぞ。(記上)

 古事記の天孫降臨の話を要約すると次のようになる。天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に詔して、「豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)は、お前が統治する国であると委任する。命令どおりに天降りしなさい」と命じた。そこで天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売神に、「お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である。ちょっと出かけていって、『我が御子が天降りしようとする道で、通せん坊をしているのは誰か』と問いなさい」と仰った。そのとおりすると、「自分は国つ神で、名は猿田毘古神だ。天つ神の御子が天降られると聞いたので、先導しようと出迎えたのだ」と答えた。
 (以下、上に中略とした個所であるが、概略を示す。)そこで、天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)(太玉命)・天宇受売命・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)(石凝姥命)・玉祖命(たまのおやのみこと)(玉屋命(たまのやのみこと))、并せて五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、例の天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからおのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副えた。「この鏡は私の御魂として、私を祭るように祭り仕えるように」と言い聞かせ、また、「思金神は、今言ったことを弁えて祭事をしなさい」と仰った。(以下、神の鎮座所と祖先伝承へと続く。)
 日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「うきじまり、そりたたして」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りした。天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)の二人が、天の堅固な靫(ゆき)を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨(はじ)の木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで、天孫の御前に立ってお仕えした。
 日子番能邇々芸命は、「ここは韓(から)の国に相対し、笠沙(かささ)の岬と一直線で、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだ」と仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせ、お入りになった。(ここまでを中略とした。)
 天宇受売命に、「先導した猿田毘古神は、お前が正体を明らかにしたからお前が送っていけ。そして、その神の名はお前が自分の名に受けて仕えるように」と仰った。それで、猿女君たちは、その猿田毘古之男神の名を負い、女性でも猿女君と呼ぶのである。
 ところで、猿田毘古神が阿耶訶(あざか)にいたとき、漁をして、ひらぶ貝に手を食い挟まれてしまい、海水に沈んで溺れた。そのときの名を底度久御魂(そこどくみたま)といい、海水が粒立っているときの名を都夫多都御魂(つぶたつみたま)といい、海面でその泡がはじけるときの名を阿和佐久御魂(あわさくみたま)という。
 猿田毘古神を送ってから帰ってきてすぐ、大小の魚を追い集めて、「お前たちは天つ神の御子にお仕えするか」と尋ねたとき、魚たちはみな、「お仕えします」と答えるなか、海鼠(こ)だけが答えなかった。そこで天宇受売神は海鼠に向かって、「この口は答えぬ口だ」と言って、紐つきの小刀でその口を切り裂いた。だから、今でも海鼠の口は裂けている。そういったことから、代々志摩から初物の海産物が献上されるとき、それを猿女君たちに下賜されることになっている。以上が話のあらすじである。
猿轡(笹間良彦『図説江戸の司法警察事典』柏書房、1980年、165頁)
鉄製の猿落とし(法隆寺西円堂、鎌倉時代、猿落としがその時代のものか不明)
 本稿では、猿田毘古神と天宇受売命、猿女君について検討する。猿田毘古神の名義については諸説唱えられているが、未詳である。サルと言って気づくのは、猿轡(さるぐつわ)である。猿轡は、声を出させないように手拭いなどを口に噛ませ、後頭部に括りつけるものである。猿轡の猿とは、枢(くるる)の異称、戸の桟のことをいう落とし猿を指すとされている。また、天宇受売命のウズと言う言葉には、髪や冠にさす飾りである髻華(うず)のほかに、雲珠(うず)がある。馬の唐鞍の尻繋(しりがい)(鞦)の交わるところにつける飾りである。植物のサクラの雲珠桜とは鞍馬桜のことをいい、猿木とは、厩で馬をつなぐ木をいう。猿を厩の神とする信仰がある(注2)。このように、馬に関する言葉が並んでいるからには、猿田毘古神は、馬の轡のことを指しているのであろう。
厩猿(小松茂美編『石山寺縁起 日本の絵巻16』中央公論社、昭和63年、63頁)
唐鞍図(鈴木敬三編『有職故実辞典』吉川弘文館、平成8年、167頁)
轡(屋代弘賢編『古今要覧稿 第2巻』原書房、昭和56年、608頁(国会図書館デジタルコレクション(61・64/81)))
 轡は馬具で、馬の口の中に含ませて、端に手綱を結びつけ、馬を御して進む方向を定める。轡は、馬具のなかでも鞍橋(くらぼね)や鐙(あぶみ)よりも早く発明されたものとされている。本邦には4世紀の末頃、朝鮮半島から馬やその技術とともに伝来した。馬の口に喰ませる連結した金属棒の部分を啣(はみ)(噛)、啣の両側につけられる板状の部分を鏡板(かがみいた)(鏡(かがみ))、鏡板から手綱につながる部分を承鞚(みずつき)(水付)(ないし、引手(ひって))、鏡板上部の面懸(おもがい)(面繋)を取り付ける部分を立聞(たちぎき)と呼ぶ。昆虫のクツワムシは、轡の音のようにガチャガチャと鳴く虫である。別名をクダマキといい、糸車を繰る音に似ているからという。
 伊勢神宮の内宮があるのは、五十鈴川(いすずがわ)のほとりである。猿田彦神社も同じ伊勢市で五十鈴川に程近い。馬の鳴き声は、今日でこそ日本ではヒヒーンと記すが、上代音のハ行は fa に近かったとされることもあり、イと記した(注3)。万葉集の戯書と呼ばれる表記法に、「馬鳴」(万2991)でイと訓んでいる。つまり、イスズという地名からは、五十個もの鈴というだけでなく、馬の鈴をイメージすることができる。馬の鈴には馬鈴があるが、ふだん使いの音とすると、クツワムシもするガチャガチャという音である(注4)
鈴付f字形鏡板付轡(模造、和歌山県和歌山市大谷古墳、5~6世紀、東博展示品)
 「五十鈴の川上」とあって、一般にはカハカミと訓まれている。紀第九段一書第一に、「吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に到るべし」とある。「川上」には、カハカミ(川の上流の意)、カハノヘ(ヘは乙類)(川岸、川の上(うへ)の意)、カハヘ(ヘは甲類・乙類、川岸、川岸の辺りの意)、カハノホトリ(川のそばの意)、カハラ(川原、川沿いの平地の意)の訓がある。天孫を送った「槵触之峰(くしふるのたけ)」に対応し、狭長田という狭くて細長い田があるのは、川の上流であろうから、カハカミがふさわしいとされている(注5)。他方、カハノヘというのは川の岸だから、必ず両岸ある。馬の面には左側と右側の両側がある。昔ながらの平面的な日本人の顔とは異なる。古来、猿田毘古神は椿と関係が深い(注6)
猿田彦大神(掛軸、平田篤胤賛、江戸時代、伊勢・猿田彦神社蔵、鎌田東二編著『謎のサルタヒコ』創元社、1997年、167頁)

 河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は(万56)

 川の両岸に椿が連なって生えている姿は「つらつら椿」である。馬の面(つら)を含めて面は顔の両側にある。両サイドに分かれているものをツラと言っている。したがって、「つらつら椿」は「つらつらに」を導いている。椿の木の利用法としては、椿油、椿灰のほか、材質が硬いので棍棒に用いた。景行紀に、「海石榴樹(つばきのき)を採りて椎(つち)に作り、兵(つはもの)にしたまふ」(景行紀十二年十月条)とある。邪気をはらうとされ、正月の上の卯の日の行事に使われた卯杖にも、ヒイラギなどとならんで椿も用いられた。正倉院に、天平宝字二年正月に献上された椿製の杖が残る。ほかに殴りかかる武器には剣がある。後の日本刀のように切れ味鋭いものではなく、打撃によって打ち倒す性質が強い。手で握るところは鍔の下である。棍棒に用いた椿の場合、木の上にもツバ、下にもツバがあることになり、どちらを握っても使うことができ、つらつらな状態になっている。杖にできるぐらいの椿の材は、上下で太さが同じほどに伸びている。
椿杖(卯の日の儀式用の杖、二柄、各長159.0、径1.8~1.9cm、奈良国立博物館編『第六十五回「正倉院展」目録』同発行、平成25年、85頁)
 轡は、馬の口の近くの面に左右それぞれ鏡板(鏡)をつけ、そこにつないだ啣を噛み合わせて真ん中でつながっている。どちらから見ても轡があり、鏡に反射して写っているから、つらつらな状態である。鏡像になるから、カガミイタと呼ばれるのであろう。和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音秘、訓久豆和都良(くつわづら)、俗に久都和(くつわ)と云ふ〉は一名◆(金偏に獻)〈魚利反〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢二音、和名上に同じ〉は一名馬鞚といふ。」とある。したがって、「五十鈴の川上」は、イスズノカハノヘと訓むのがふさわしいと考えられる。狭長田は、最上流部の川岸に拓かれた田という可能性よりも、それほど遡らずに蛇行していない両岸に作られている田としたほうがイメージに合致する。光景として、馬の面のように長く延びた田である。考古学にf字形鏡板と呼ばれるものに対照される地形である。
 猿田毘古神の名のなかに「田」とある。日本古来の轡は、鏡と啣と承鞚の接続の仕方によって、輪轡式、外鏡式、中鏡式の三種に大別される。古墳時代後期から奈良時代に使われたとされる外鏡式に、鏡板の輪の中に十文字が設けられて、中心のクロス部分に鐶(わ)が懸けられ、それに啣と承鞚がついているものがある。ちょうど漢字の田の字のようであり、それをデザインした家紋は角轡(かどくつわ)と呼ばれている。五十鈴の川上の田という話に照らして合致する。猿田毘古神の田は、轡の形に従う(注7)
長方形鏡板付轡(伊勢市塚山古墳出土、6~7世紀、東博展示品)
 紀一書第一に、猨田彦大神の形容に、「其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長さ七尺(ななさか)余り。当(まさ)に七尋(ななひろ)と言ふべし」とある。形容する数に、盛んに七が出てきている。ナナとナを続けることによって、ナ(名)にまつわることを暗示しているようである(注8)。人に名(固有名詞)はあるが、サルに名は基本的にはない。家で飼っていた犬や農耕牛馬に名をつけることはあっても、野生のサルに名をつけたりしない(注9)。紀では、「口尻(くちわき)明り耀(て)れり。八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)酸醤(あかかがち)に似(の)れり」と表現されている。鍍金が施されていて光り輝いているらしい。立って待っていたのは、紀に、「天八達之衢(あまのやちまた)」、記に、「天(あめ)の八衢(やちまた)」とあるところである。猨田彦大神は、「衢神(ちまたのかみ)」であるとされる。八は大きな数の意で、十字路の交叉点になっていると表現している。轡のつく馬の頭部は面懸(おもがい)で決めてしまう。辻金具を使ってクロスさせている。轡自身も、啣、承鞚、立聞というように、それぞれの方向へ向く金具が束になって交叉している。
 猿田毘古神がいたとき、天宇受売神に様子を探らせに行っている。記に、「汝は、手弱女人に有れども、いむかふ神に面勝つ神ぞ」、紀一書第一には、「汝(いまし)は是、目人に勝ちたる者なり」と激励されている。これは、天石屋に天照大御神が籠ってしまったときのことを受けているとされる。そのときは、記には、「胸乳(むなち)を掛(か)き出だし、裳(も)の緒(を)をほとに忍(お)し垂れ」た状態になったので、八百万の神が笑い、天照大御神の気を引いて引き出すことに成功している。今回は、紀一書第一に、「其の胸乳を露(あらは)にし、裳の帯(ひも)を臍(ほそ)の下(しも)に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)ひて向きて立つ」とある。尻繋の交わるところにつける雲珠が装飾性に優れて注目され、相手を面食らわせるに十分なことの謂いであろう。「臍」と言っているのは、雲珠自体を出臍と捉えているようである。
金銅装雲珠(群馬県伊勢崎市出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
金銅装花形座雲珠(大阪府茨城市海北塚古墳出土、古墳時代後期、6世紀、東博展示品)
 紀一書第一では、天鈿女は猨田彦大神に対して、「汝(いまし)や将(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ」と問い、「吾先だちて啓(みちひら)き行かむ」との答えを得ている。轡と雲珠とがあったら、馬は轡の方向に進む。知っている人にとっては当たり前である。ところが、ヤマトの人にとっては、馬も馬具も、馬の御し方もはじめてであった。なんとかうまく言い表そうとして、なんとも滑稽な問答になってしまった。馬具の一部が馬具の一部との話し合いをして、進む方向を決めている。まるで、子どもが縄飛びのロープなどを使ってする電車ごっこである。思考において、上位の論理階型からの鳥瞰図を入れ込んでしまっている。わざわざ自己言及的なやりとりをさせているのは、馬の到来の驚きを言葉だけで表したかったからに違いない(注10)
古代の馬装復元図(「座乱読無駄話日記」様)
 「将(はた)……、抑(はた)……」とあるのは、前後はどちらかと問うている。祝詞に常套句の「鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)」が後文にも出てくる(注11)。魚の胸びれのことを引き合いに出している。人は胴が立っていて、その前側に進み、ときおり背側にバックすることもある。馬の場合、その進む方向は魚のようであり、胴が横になって地面を向いている。腹と背との関係で進む方向を示そうとすると、馬の左右どちら側に立つかで左右どちらへ進むかベクトルが違ってしまう。旗がたなびいたときのように、こちら側とあちら側で見え方が反対になる。そういう文章が提示されている。やはり、「五十鈴の川上」は、イスズノカハノヘと訓むのが良さそうである。
 猿田毘古神は、阿耶訶でひらぶ貝に咬みつかれている。アザカとは、交合、交叉するところを意味するアザ、建物に校倉造(あぜくらづくり)というのと同じアザのあるカ(処)のことを指すのであろう。猿田毘古神こと、轡が咬みつかれるとは、馬の口に装着されたことを示唆している。馬は臼歯と犬歯との間に歯槽間縁という隙間があり、鉄でできていても噛むのに苦痛は感じないそうである(注12)
(つづく)
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応神記の名易え 其の三

2017年02月26日 | 論文
(承前)
(注1)「伊奢沙和気大神之命」を伊奢沙和気大神の御言(みこと)の意と論証されているものとして、坂下圭八「伊奢沙和気大神」前掲書がある。また、誰の夢に託宣を聞かせてくれたのかについては、本居宣長、前掲書(国会図書館デジタルコレクション(229/577))に、「此(コ)は太子の御夢には非(アラ)で御供人(ミトモビト)の夢なるべし」(1625頁)とし、武内宿禰の夢であるとする。後文に、「御子、于神云」とあって、第三者を介して神さまに伝えている。その第三者とは、神と人とをつなぐ御言持ちとなる御供人、巫覡者である武内宿禰であろう。夢のなかでの問答においても、大神の問いに対して「言禱(ことほ)き」て巫覡の役割を果たしている。
(注2)藤澤先生ご自身は、「『古事記』の当該条の「易名」は、実際には名の交換ではなく、太子が一方的に大神の名を吸収したことになっている。『古事記』では天皇の立場の優位をより一層強く押し出すため、互いの名の交換ではなく、太子への名の献上という形をとったのである。すなわち、大神の「易名」の申し出は、名を献上することによる服属の申し出だった、という文脈になっているのである。」(56頁)とされている。
 また、烏谷知子『上代文学の伝承と表現』(おうふう、平成28年)にも論点整理があり、当該個所は、「『吾が名を御子の御名に易へまく欲し』と読み、その解釈には⑴神が太子の名を自分の名として替える ⑵神の名をもって太子の名に替える ⑶ともに名を交換するの三説がある。」(335~336頁)とされている。そして、⑴説に、本居宣長・古事記伝、⑵説に次田潤『古事記新講』(明治書院、1924年)、中島悦次『古事記評釈』(山海堂出版部、1930年)、⑶説に、西宮一民「神功皇后・応神天皇の物語」『国文学 解釈と教材の研究』第36巻8号(学燈社、平成3年7月)があるとする。
 西宮先生はたいそう悩まれたらしく、発表時期によって訓読を変更することまでされている。上掲書では、「私は、古事記をこう読めば分ると思う。すなわち、誉田別の名とイザサワケの名とではなく、大鞆和気の名とイザサワケの名と交換したものと読むのである。すると御子は新たにイザサワケの名を貰ったわけで、「「イザ」(さァ)、サ(神稲)をどうぞ」の名で、「鞆(ほむた)」と同音の「誉田(ほむた)」(美田の意)という新名義への転換の契機を与えたものと読むのである。」(74頁)とある。
 烏谷先生ご自身は、⑵の立場に立たれているようである。上掲書に、「夢の中で詔られた伊奢沙和気大神命の『獻名之幣。』の言葉は、天照の御心を受けた天命・受命であり、名易えによって御子の名に権威が与えられ、翌朝浜にうちあげられた幣の入鹿は、天からの受命の君に降された祥瑞であり、符言に相当するものであろう。したがって『私の名をあなたに差上げて、あなたの名としたい。』と解釈するのがよいと思われる。」(339頁)とある。
 筆者には、藤澤先生や烏谷先生の論考が、文脈をいかに解釈するかという問題に堕していることに危機感を覚える。単に“解釈”の問題であるとするなら、言=事とする言霊信仰は揺らぎ、上代の人々はニーチェのような人ばかりであったことになるからである。
(注3)御子が越の国へ禊ぎへ行ったことと名前を変えることによって、立派な大人となって天下を治めるのにふさわしい存在となった考える傾向は、読みの細部こそ違え、今日の人々の研究者の間に定説のように語られている。主だった議論を紹介しておく。
 倉塚曄子『古代の女―神話と権力の淵から―』平凡社、1986年。
 ……太子は武内宿禰にともなわれて淡海若狭を遍歴した後、角鹿でみそぎをする。話の上では戦における死の機れを浄めるためということになるが、これも儀礼的な死の期間に課せられる試練を克服した後に、水の生命力によってよみがえるという復活儀礼の段取をこのように語ったのであろう。次いで角鹿のケヒノ大神が名を易えることを申し出、その礼にイルカが御食として太子に献上される。わかりにくいところのある話だが、名を易えることが、成年式を経ておとなとして再誕したことの証として欠かせない儀礼的手続きであったことを想起すれば、物語構造におけるこの話の意義は諒解できるだろう。みそぎの場所が角鹿であり、ケヒノ大神が登場することには深いわけがある。この神は角鹿笥飯浦の地名を名とした地主神である。御食の魚を献上したから御食つ大神と名づけたという話になっているが、ケヒノ大神は元来そうした性格をおびていたのだろう。角鹿は越前に属するが若狭に接しており、若狭から越にかけての海陸の交通の要路に位置していた。志摩淡路と並ぶ御食つ国若狭の調の大部分は海産物で占められるが、それらは角鹿を経由して都に運ばれたらしい。ケヒノ大神は若狭から越にかけてのこの一帯をうしはく御食つ神であったのだろう。従って御食の魚献上の話は、この一帯の、御食つ国としての服従を意味する。さらにケヒノ大神にはもう一つ、大陸交通の裏玄関の守り神という役割があった。潮流の関係で、越の海岸には意図的にせよ不本意にせよ、大陸からの船が到来することが稀ではなかった。(82頁)
 三品彰英『増補日鮮神話伝説の研究』平凡社、昭和47年。
 ……そこで名換えの神事が行なわれたことを語っている。すなわち神の名「イザサワケ」と皇子の名を取りかえたというのである。とすれば、この名換えをした後の神名「ミケツ」あるいは「ケヒ」が、かつての皇子の名であったことになる(「記」は鼻のやぶれた魚(な)<いるか>を名(な)にかけて、ミケの名を賜ったとしゃれた語呂合せをしているので話の筋が混乱している)。ミケは御食(みけ)、ケヒとは食霊(けひ)の意で、ともにこの皇子が本来、穀霊を意味する幼名を持っていたことが知られ、かつそうした名が瑞穂の国の天皇や皇子たちに類例の多いことは改めて論ずるまでもない。たとえば神武の海上東征伝説で語られている、浪の秀(ほ)を踏んでトコヨに行ったミケヌノミコトや、神武自身の別名ワカミケヌのごときはその著例であり、そこに神武(ミケヌ)と応神(ミケツ)の名の上での対応が見られるばかりでなく、海の国トコヨから渡り来る穀霊的日の御子という伝承観念もまた類型を同じくしている。換言すれば、これこそ瑞穂の国に君臨する偉大な天皇の霊能を詮表する神話的観念であると云えよう。ただし、そのように即位物語が神話的であるということは、必ずしもそれぞれの天皇が非実在であることを意味しない。神話は特定の実在者の性能に対する説明的 theory であり類型的称讃であるからである。トコヨから喪船で渡って来た皇子がミソギをしてこの世に再生し、イザサワケノ大神の社前で神の名を自分の名としたということは、もっとも典型的な成人式の儀礼であり、カリスマ的社会における「名取り」である。あるいは原始的な即位儀礼と解釈してもよい。いずれにするも、神との交霊による新しい人格の成立を意味している。トコヨからの喪船の旅も、そうした儀礼による新天皇の出現を説明したものにほかならない。(120~121頁)
 吉井巌『天皇の系譜と神話三』塙書房、1992年。
 ……気比大神は漁撈民に尊崇された、海の幸を内容とした食物神であったことがわかる。あるいは、この神は、魚群を湾に追い込むことのある海豚を原体とする神であったのかもしれない。「應神天皇の誕生」の物語で、「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」というのが、ただ一つの應神天皇の発言であるが、禊ぎの後の魚の摂取をうかがわせる場面でのこの発言は、即位の大嘗祭で聖なる稲を食べて稲の司祭となりえたと同様、漁撈民社会での豊饒祭の聖餐の場面での支配者誕生を告げる発言の響きがある。浦一面に寄せられた、鼻を傷つけた海豚は、祭りの日に舟ばたを叩く音におどされて、湾の浅瀬にのりあげ殺害された聖なる魚の姿であったのかも知れない。私は気比大神による名の授与の話を、漁撈民社会における豊饒祭を下敷きにした、支配者儀礼の名残を示すものと受けとりたいのである。ともあれ、気比大神の鎮座する角鹿の地が、若狭から越前にかけての漁撈民の中心となる聖域であったことは十分に推定できる。(203~204頁)
(注4)仮宮に蚊が入ることに触れた上代の記述に、景行記の酒折宮の話がある。本ブログ「ヤマトタケル東征後の筑波問答『かがなべて』歌について 其の一」以下に論じた。
(注5)横浜市歴史博物館編『称名寺貝塚―土器とイルカと縄文人―』(同・横浜市ふるさと歴史財団発行、2016年)に、「湾内に入ってきたイルカを仕留めるには銛漁法が有効だ。称名寺貝塚でも最盛期には大型の銛が作られるようになる。併せてヤスを使うことにも積極的であった。イルカの群れがやって来たからといって必ずしも捕獲できるとは限らない。ソロモン諸島のイルカの追い込み漁では、成功率20%。5回の4回は獲物なしで浜にもどったと言う報告がある(竹川[大介「ソロモン諸島のイルカ漁」動物考古学研究会編『動物考古学』第4号、同発行、]1995[年])。称名寺貝塚の人々も同じように、あるいはそれ以上に厳しい状況の中で、生き抜いてきたのであろう。」(33頁)とある。
モリ頭・ヤス頭(シカ角製、都筑区南堀貝塚・獣骨や角製、金沢区称名寺貝塚、横浜市歴史博物館展示品)
 銛漁法が有効かどうか、筆者は疑念を抱いている。竹川大介「イルカが来る村」秋道智彌編著『イルカとナマコと海人たち―熱帯の漁撈文化誌―』(日本放送出版協会(NHKブックス)、1995年)には、「何時間もかかって、群を囲い込みながら村までやってくると、浜では女たちがカヌーを用意して待ち構えている。総勢五〇艘近くのカヌーがラグーンの中にならぶ様子は壮観である。最後は人々が歓声をあげながら海に飛び込み、浅瀬に追い詰めたイルカを次つぎに抱きかかえカヌーに乗せていく。」(97~98頁)とある。
 田辺悟『イルカ』(法政大学出版局、2011年)は、『伊東誌』(寛永二年(1849))を引いている。そこには、「陸地成(ママ)平生用る地曳網の場に至れば、後掛と云て幾重にも地曳網にて懸廻し、手近くなると両村より若者大勢出て、曳ころばしという太き縄網にて懸廻し陸地へしめつけ、数人海中へ飛入、かの入鹿を抱上(だきあげ)るなり。」とある。屈強な若者が水深の浅いところに追い込まれたイルカを抱きかかえるようにして浜に持ち上げるというのである。究極の追い込み漁で、銛で突く必要はないらしい。そして、後はその他の人が解体作業を行う。昭和時代の写真でも、頭を落とし、内臓を取り出している。浜辺が鮮血で染まる。記に、「血浦」と称したというのは理解されるところである。
肥前国産物図考・江猪漁事(天明4年(1784))(同書、口絵)
 なお、イルカの中身をえぐって皮を使った道具があったかどうか不明である。筆者は、なかったはずはなかろうと思うが、残念ながら不勉強で知らない。お教え頂けると幸いである。
鮭の鞋(左:アミューズミュージアム展示品、右:ナナイ族の伝統品、東洋文庫ミュージアム展示品)
(注6)教科書を引用する。川崎徹郎『曲面と多様体』(朝倉書店、2001年)に、「自分自身との交差をもつものも曲面の仲間に入れることによって、向き付け不可能な閉曲面を考えることができる。典型的なものは、クラインの壺(klein bottle)といわれるものである。これは、ジェットエンジンのカバーのような曲面で、空気の取り入れ口に続く風洞を延ばして、自己交差を許して、カバーの外に導き、ジェットの吹き出し口に逆に取り付けたものである。」(43頁)とある。なお、4次元空間では自分自身との交わりをはずすことができるという。
(注7)正倉院文書には、「鞆」と「𩎒」について次の記事が見える。○に番号は、大日本古文書の巻、後の数字はページを表わす。「𩎒」字は、諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店)に字義未詳とされ、また、大日本古文書に「干」を「于」に作る例もある。
 𩎒肆拾巻料稲壱拾柒束弐把 壱巻料稲肆把参分〈鹿韋長九寸 広五寸 直稲三把二分 緒鹿洗皮長二尺三寸 広五分 直稲一把〉(①六一二)天平六年十二月二十四日、尾張国正税帳
 鞆肆拾勾〈別長九寸 広九寸〉料皮壱張半〈一張長四尺、広三尺、一張長三尺、広二尺、〉直稲拾伍束〈一張直十束 一張直五束〉(②六九)天平十年二月十八日、駿河国正税帳
 𩎒肆拾巻料馬皮壱枚半〈一長四尺 広三尺 一長三尺 広二尺 巻別長九寸 広五寸〉直稲壱拾伍束〈一枚十束 一枚五束〉(②一一九)天平十年、駿河国正税帳
 𩎒手牛革壱枚〈長五尺 広三尺四寸 巻別長四寸五分 広一寸五分〉直稲柒拾束 縫糸捌拾条〈卌条別長二尺四寸 卌条別長一尺五寸 巻別長短各一条〉成斤壱両直稲参束柒把〈一斤直六十束〉緒洗韋半枚〈長二尺三寸 広二尺 巻別長二尺三寸 広五分〉直稲肆束(②一一九)天平十年、駿河国正税帳
 𩎒壱拾口料𩎒手牛皮壱条〈長四尺五寸 広一寸五分〉価稲捌束(②一九二)天平十一年、伊豆国正税帳
 ……正丁、兵士、左手鞆◆(人偏に𠘨のなかに人)疵三(②二七五)天平十二年、越前国江沼郡山背郷計帳
 伊勢貞丈・四季草(安永7年(1778))(早稲田大学古典籍総合データベース)に、「貞治の頃既に鞆付て弓射るやう知人少きやうになりたり。今の世に知る人なきはことわりなり。」とあるほどに、早く廃れて知られなくなったものである。
(注8)関根真隆『天平美術への招待―正倉院宝物考―』(吉川弘文館、平成元年)は、正倉院文書に残る正税帳の記事から、鞆本体の材質は、「鹿革または馬皮の可能性が強いだろう。院蔵の一例によれば、長一一・五㌢、幅約七㌢であるから、右の一巻料の皮を二等分して四寸五分×五寸のもの二枚を重ねて巴形に截り、心(牡鹿白毛やマコモ「材質調査」)を入れ、縫合せたと考えられる。」(124~125頁)としている。
(注9)「巴(ともゑ)」という言葉があり、鞆に描かれていた絵のこととする説と、鞆の形を描いた絵とする説とがある。筆者は、鞆の皮の上に鞆の形を絵として描いていたと考える。鞆がクラインの壺として認識されていたとするなら、絵を描くことも自己循環的になっていて正解である。後に、文様として二つ巴や三つ巴が作られていくが、もとは自己完結的に一つ巴文として鞆に描かれていたであろう。
左一つ巴文(「旅から旅の着物のおはなし」様)
巴文軒丸瓦(仙台城跡出土、「仙台市HP」様)
 三つ巴文が瓦の軒に見えるようになるのは、武具としての鞆が廃れていった平安時代の終わりごろからのようである。そのへんの心理的事情については、後考を俟ちたい。
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応神記の名易え 其の二

2017年02月21日 | 論文
(承前)
 さて、それでは、「胎中天皇」とも記されることのあった太子(応神天皇)の元の名は、何であろうか。ふつうなら生れていて乳母に抱っこされ、名前が付けられて呼ばれていたであろうときに、お腹の中にいるのだから名前が付けられていない。これは異常事態である。あるべき名がない。名がない子どもとしてお腹の中にいた。ナ(名)はナ(無)かった。ナ(腹、中)にあった。ナ(己)にはどうすることもできない。それをどうにかしたいとき、決意・希望の助詞ナが使われよう。それらすべてが実情である。すなわち、太子の元の名とは、ナ?&ナ!である。
 ナ(己)については、次のような例がある。

 大己貴神(おほなむちのかみ)(紀)=大汝神(おほなむちのかみ)(播磨風土記飾磨郡条)=大汝(おほなむち)(万4106)=大穴道(おほなむち)(万1247)=大名持神(おほなもちのかみ)(出典未詳)
 常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣刀(つるぎたち) 己(な)が心から 鈍(おそ)やこの君(万1741)
 …… 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず ……(万1755)
 …… 己(な)が母を 取らくを知らに 己(な)が父を 取らくを知らに ……(万3239)

 第2例の万1741番歌は、「剣刀」はナ(刃)の意でナにかかる枕詞である。常世の国辺に住んで安楽に居られるものを、自分で間抜けなことをしでかしているよと歌っている。その「己(な)」を二人称と見る説もあるが、一人称と二人称の呼び方が重なる例は数多い。問答をする際に、相手の立場に立って言えば、ワレ(吾)もワタシ(私)もボク(僕)もジブン(自分)も二人称となる。第3・4例も同様である。
 実際、古事記において、応神天皇は太子時代、名前をもって呼ばれていない。「御子」、「其の太子」、「其の御子」とされている。どう呼ばれていたか。ナであろう。彼は幼少のころ、ナと呼ばれていた。ナという語に名と魚の両義性を求めていたのではなく、ナという語の根本概念、自己撞着を起した状態をもって、綽名とされてそう呼ばれている。したがって、彼は、角鹿(つぬが)において、ナに包括されている呪縛から抜け出そうとしていた。そういう洒落を言っている。ナ(腹、中)とナ(名)とナ(無)とナ(魚)などの多義性を面白がっている。
 魚のことをナという例は、万葉集にも見られる。

 帯日姫(たらしひめ) 神の命(みこと)の 魚(な)釣らすと 御(み)立たしせりし 石を誰(たれ)見き(万869)

 この歌は、記紀の逸話に依っている。仲哀記には、帯日売命(たらしひめのみこと)(神功皇后)がご飯粒でアユを釣ったとする話になっている。

 亦、筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り坐して、其の河の辺(へ)に御食(みをし)せし時は、四月(うづき)の上旬(はじめ)に当りき。爾くして、其の河中の磯に坐して、御裳(みも)の糸を抜き取り、飯粒(いひぼ)を以て餌(ゑ)と為て、其の河の年魚(あゆ)を釣りき。其の河の名は、小河と謂ふ。亦、其の磯の名は、勝門比売(かちとひめ)と謂ふぞ。故、四月の上旬の時に、女人(をみな)の裳の糸を抜き、粒(いひぼ)を以て餌と為て、年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)

 どうしてこのような釣りの逸話が作られているのか。それは、彼女のお腹のなかにいた御子のことをナと呼んでいたからであろう。釣ったナ(魚)はアユ(年魚)である。このアユという語は、アユ(肖)と同じ言葉である。ナ(中)、ナ(魚)、ナ(名)のそれぞれの似ていること、写像としてあることを言いたいから、アユ(鮎、肖)という語をもって示している。仲哀紀には、「皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。」と、きちんと「肖ゆ」という言葉を使って述べている。記に、時期は「四月之上旬」としている。ウヅキノハジメノコロとは、陣痛の我慢から解放された時のことだから、「疼(うづ)き」と同音の時期に設定されているのであろう。さほどに、ナと神功皇后のナ(お腹の中)とは密接な結びつきを孕んでいる。
 「お腹(なか)」という語は、日葡辞書(1603~04)に、「Vonaca. ヲナカ(御中)」とあり、婦人語とされている。古い文献例は見られないようで、腹の内部のことはただハラというのがふつうであったらしい。今でも、胃腸が痛いことをハライタと言っている。ただし、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「はら〔腹〕 人や動物などの腹部をいう。『原(はら)』『平(ひら)』などと同源。身体の中で最も広く平らなところである。」(631頁)とある。すると、脹らんだお腹のことは、ハラの概念と異なってくる。最も象徴的な膨らんだお腹は、臨月の妊婦のそれである。問題は、腹の中身である。中身についてとやかく言おうとしているから、記に「腹中」、紀に「胎中」という特異な表記が出現している。口語としてナカ、または、ナという言い方があったのではないか。それは、この話でいえば、水族でありながら哺乳類で胎生のイルカを持ち出して語られていることからも窺える。妊娠中のイルカであれば、ナ(魚)でありつつ、ナ(中=腹・胎)にナ(魚)(児の魚)を包んでいる。タナゴ的な様相になっている。配役にイルカを登場させた第一の理由である。このからくりによって、お腹の大きな女性(雌イルカ)は、妊娠しているのかメタボなのかわからないことになる。神功皇后のお腹の中の胎児であった応神天皇がナ(胎中)として入っていたのが、代わりとして胃袋にナ(食物)を詰め込むことで同じ状態を保つことができる。これは、ナ(中)とナ(魚)との交換である。御子(応神天皇)は、ナ(己、自分)のナ(名前)において弄ばれていることに気がついた。無理して胎中にあったのだから、出て行きたくてたまらなかったのである。古語に、動詞イヅ(出)である。

 越の海の 角鹿(つぬが)の浜ゆ 大船に 真梶(まかぢ)貫きおろし 鯨魚(いさな)取り 海路(うなぢ)に出でて あへきつつ ……(万366)

 「いで」という語には、感動詞の、さあ、の意がある。大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「動詞イヅ(出づ、ダ下二)の古い命令形イデから出た語。上代から例があり、中古を中心によく使われている。」(130頁)としている。上代の使用例としては、相手に向って呼びかけるときの場合(さあ。どうぞ。)、自分が行動を起そうとするときの場合(いざ。それっ。どれ。)、自分に対してであるが承服しがたい場合(いや。さあどうだか。)といった分類が行われている。三省堂の時代別国語大辞典上代編では、「①他に対して何らかの行動を乞い求める場合。……②自己の意志を強調する場合。……③自分に対して問いかけ、疑いをこめる場合。」と分類され、「【考】類語にイザがあり、イデと同じとみる説がある。②にはイザと重なる面があるけれども、①と③はイザにはない。」(84頁)とある。それぞれ1つずつ例をあげる。
 
 圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)。(允恭紀二年二月条)
 この川に 朝菜洗ふ子 汝れも我れも よちをぞ持てる いで子給(たば)りに(万3440)
 いで如何に ここだはなはだ 利心(とごころ)の 失するまで思ふ 恋ふらくのゆゑ(万2400)

 時代別国語大辞典にいう①の意と同じ用例として、「…… 夕(ゆふべ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり ……」(万904)の「いざ」という例があると思うがどうなのであろうか。大野編、前掲書に、感動詞の「いざ」は、「動詞イザナフ(誘ふ)の語幹。勧誘・行動開始の時などに発する語で、上代から確例がある。」(109頁)とある。また、イデの③の使い方は、さあどうだかわからない、と言いよどむ言葉のイサによく似ている。

…… 愛(は)しきやし 今日やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある ……(万3791)

 すると、イデという語は、イザとイサとによってまかなわれることになる。語の由来としてイザとイサは異なると、目鯨を立てる方もおられようが、鯨のことは古語にイサである。「俗(くにひと)、鯨を云ひて伊佐(いさ)と為す。」(壹岐風土記逸文)とある。ここで筆者は半分冗談を言っている訳であるが、口語の発語の言葉について、用法が異なると峻別できるものなのか、はなはだ疑わしい。もとより、上代の人たちが、言葉遊びに興じていたとして、何も咎めたてられることではあるまい。
 現代語で、「さあ」と言った時、「さあ、やるか」は自分がやるのか、相手にやらせるのか、どちらでも構わないし、やるものか、という拒絶の言としても成り立っている。そのような義の古語イザには、「さあ」の短縮形のサという語もある。それらを連結させたイザサという語は、自らを奮い立たせて何か新しい境地へと向かう際の掛け声を表すことになるし、相手に誘いかける時の重々しい働きかけの掛け声とも捉えられる。はたまた、どうしたらよいのか躊躇、逡巡するときの発語ともなり得るであろう。
 「御子」は、わざわざ越の国へ赴いて何をしようとしていたのか。一般に成人式、成年儀礼の意味があるとされている(注3)。そういう言い方をするならばそのとおりであろう。母親の庇護から離れ、独立した一人前の人間として生きて行こうとしていた。そのためには、負っているナ(中、腹)というナ(名)をどうにかしなければならない。母親あっての「御子」なのであるが、「御子」でありつつ独り立ちしたい。ダブルバインドから抜け出すにはどうしたらいいのか。そのとき、気比大神が夢に現れて、うまいことを提案してくれたのである。その名は、笥飯(けひ)である。食べ物のことである。お腹の子どもの代わりに、お腹に食べ物を入れればいい。そうすれば、あなたはナ(中、腹)という名を負ったままでも、ナ(己)として一人前になれる。だからさっそく、ナ(魚)を献上しましょう、ということとなっている。
蚊帳のある御殿(春日権現験記絵巻七(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵 上』中央公論社、1991年)
 イルカ(「入鹿魚」)であった理由の第二は、太子と武内宿禰とは、出張先で仮宮を建てて泊まっているからである。いつもの御殿ではない。ボンボンはふだん宮殿で暮らしている。蚊帳で囲われているから、母胎に包まれているのと同じ境遇にある。蚊に食われることはない。しかし、出先の仮宮では、蚊帳がないから蚊取線香になるような松葉などを燻べて凌ぐわけだが、どうしても部屋の中に蚊が入ってきてしまう。イルカ(「入る蚊」)である(注4)。夜、なかなか熟睡できない。今日、レム睡眠とノンレム睡眠とが循環して眠りが構成されていることが知られ、レム睡眠の際に頭脳が活動して夢を見ることが多いことが知られている。(ノンレム睡眠中でも夢を見ることはあるらしく、夢に濃淡もあるらしいが、本稿とは関係ないので深入りしない。)蚊が入って熟睡できないから、夢を見がちになる。付き添いの建内宿禰とて同様である。刺されたら痒いから、バチバチ叩く。叩かれて死ぬ蚊は、鼻を人の体の中に入れたまま潰されるから、鼻がへし折られて血まみれの状態になる。だから、角鹿の海岸に打ち寄せられていたイルカは、「鼻を毀てる」こととなり、その浦は「血浦」と名付けられている。地震が関係してイルカが浜に打ち上げられている例が知られ、また、イルカを捕獲するには、追い込み漁を伴いながら頭部を銛で突くこともある。神奈川県横浜市稲荷山貝塚(縄文時代)からは、イルカの骨が多数出土している(注5)。しかし、実際の漁法や解体作業と、「鼻を毀てる」という表現とは結びつかないと思われる。なお、イルカの呼吸器は、ハナ(端)と呼ばれる口先の部分にではなく、頭の上にある。
バンドウイルカ頭骨(横浜市金沢区称名寺貝塚、縄文時代中期末~後期初頭、横浜市歴史博物館展示品)
バンドウイルカ?(新江ノ島水族館)
「海豚漁法」(三重県水産図解データベース様、48頁)
 なるほどである。御殿暮らしばかりでは知り得ない体験である。世の中には蚊がいて、食うか食われるかの自然の営みをしている。食べ物が手に入るのは当たり前だと思っていてはいけない。「御食(みけ)の魚(な)」はそういう自然の営み、民百姓の生業をもって生れている。飛躍的な悟りである。それは成人儀礼に当たると言えばそのとおりである。ただし、儀式化した行事を意味するのではなく、本当に体験して理解したということを示している。体験を経験としてフレーミングし、物語へと昇華している。それを言葉として表しているのが、この名易えの話である。ナ(中、腹)というナ(名)は普通名詞だから変えられないが、それをナ(魚、菜)であると捉え返せば呪縛から逃れられるのである。嫌な綽名を付けられても、意味を読み替えて克服する人は生きる力の強い人である。
 胎中にあるままの坊やは、世間知らずである。与えられた過保護の呪縛から解き放たれなくてはならない。抜け出すには、イザ、サ、と掛け声をかけて発奮し、自ら鼓舞して生きようとしなければならない。そんな状況の時に、イザ+サという神さまが夢に現れた。あなた、名前、易えようか? まったくもって「恐(かしこ)し」、賢いことである。頓智が冴えわたっている。翌朝、浦へ行ってみると、「御食の魚」が「依」っていた。依っているのだからそれに依って何とでも考えればいい。これは、「御食の魚」なのだ、自分の名のナ(中、腹)は、これからは、ナ(魚、菜)に当たるものにしよう。それはまるで、クラインの壺(クラインの瓶)(注6)をぐるりとめぐったも同じであるが、ナ(己)を相対化して鳥瞰することができたのである。雌イルカのお腹の中に子イルカのいるのを見て悟ったものと思われる。
鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
鞆(幅12cm、厚6.3cm、奈良国立博物館編『第六十六回「正倉院展」目録』同発行、平成26年、66頁)
鞆形のクラインの壺(山下正勝「3次元の幾何学的トポロジー」本間龍雄ほか『幾何学的トポロジー』共立出版、1999年、9頁)
 ホムタノスメラミコトのホムタ(鞆)は、トモ(鞆)のことである。紀の分注に、「上古時俗、号鞆謂褒武多」とある。今はトモ(鞆)といい、昔はホムタと言ったとする。弓を射る時に左手に当てておいて、弓弦が手を痛めないようにする防具である。黒漆塗りの皮製で、正税帳からすると鹿ないし馬の皮を使うようである(注7)。正倉院に残るものは、牡鹿の白い毛やマコモなどの詰め物を入れて膨らませてあるという(注8)。鹿は、雌鹿はメカ、子鹿はカゴ、牡鹿をシカと呼び分けていた。記に、「角鹿(つぬが)」という設定をことさらにしているのは、シカ(牡鹿)にしか角が生えないため、その毛皮を使った鞆のことが念頭にあるからである。鞆は外皮に牡鹿の皮、なかに牡鹿の白毛を入れている。シカ(牡鹿)の毛皮を剥いで、裏返してくるりと丸めまとめたようなものである。シカは「然(しか)」と同音である。鞆とはすべてシカ(牡鹿)でできた然なるものである。
シカ(♂、奈良公園、2月)
「白鞆之図」
「鞆製作裁革表之図」
「同 裏之図」(高木正朝・日本古義(入江康平編『近世弓術関係刊行物資料その二 弓道資料集第九巻』いなほ書房発行、平成七年、257~259頁。国会図書館デジタルコレクション(65~67/87)参照。)
鞆の図(吉部秘訓抄を引く伴信友「鞆考補証」国書刊行会編『伴信友全集 巻五』(ぺりかん社、昭和52年、243頁)(国立国会図書館デジタルコレクション(127/270)、又は参照)
 話に唐突にイルカが出てきていた。浦に打ち上げられていたのが他の魚ではなくイルカだった第三の理由は、鞆が入れ子のシカ(牡鹿)ゆえである。牡鹿が子を孕むことはないから、面白味が増している。御子が胎内に宿った時、「我が大神」が「天照大神の御心」として、また、「底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神」だと称して教えてくれている。

 ……亦、建内宿禰、沙庭に居て神の命(みこと)を請ひき。是に教へ覚したまふ状(さま)、具(つぶさ)に先の日の如く、「凡そ此の国は、汝命の御腹(みはら)に坐す御子の知らさむ国ぞ」とさとしめたまひき。爾に建内宿禰白さく、「恐(かしこ)し。我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何(いづ)れの子(こ)ぞ」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子(をのこご)ぞ」とのりたまひき。(仲哀記)

 わざわざ建内宿禰が問い掛けて、大神が答える問答となっている。話として性別を確かにしたい点は、シカ(牡鹿、然)を強調する伏線となる。そして、「入鹿魚」と記している。当て字に魚類であることを示すために添え字が付けられている。手紙が入っている魚のことは、中国の故事に鯉素という。鹿が入っている魚のような形をしたものとは、鞆であろう。太安万侶は字が読めたから、そのような当て字をしているのであるが、イルカ=イル(入)+カ(鹿)という語感は識字能力とは無関係に、人々に共有され得る。みなヤマトコトバである。これは語源という意味ではない。古代の人は連想ゲームを楽しんでいたということである。イルカという水族は、カ(鹿)がイル(入)状態、入れ子構造状態のものであると洒落を言っているのである。そして、「鼻を毀てる入鹿魚」とは、イルカの鼻先に穴をあけてくるりと尾を回し通したら、まるで鞆のような形になると空想している。(その際、位相幾何学的な曲面まで考慮していたかは定かではないが、ナという言葉の循環を楽しんでいることから、概念としては理解していたように思われる。)
 鞆とは、外身も中身もトモ(共、伴)にシカ(牡鹿)であるから確かなものである。新撰字鏡に、「切々 敬也、憂也、太志加尓(たしかに)」などとある。タ+シカ(然)+ニの語構成であろう。確かなものとは、田において、然(しか)と確実な収量が見込まれる田のこと、すなわち、美田を指す。ホムタを「誉田」と記したときの義は、おいしいお米をたくさん収穫できる確かな田のことである。種籾を蒔いておいて秋に確かに一粒万倍に稔りを得ることができる田こそ、ホムタ(誉田)である。外もシカ(牡鹿の皮)、中もシカ(牡鹿の毛)なるものは鞆である。よって、ホムタというのは、御食(みけ)の謂いでありつつ鞆(とも)の謂いである。そして、ムタやトモという語は、~と一緒、という意味である。ナ(名)において、ナ(中、腹)とナ(魚、菜)とが一緒なことを自己循環的に表わす語としてふさわしい。
 ムタという語は、助詞のノやガをともなう連体修飾をうけて、副詞句を作る。~とともに、~のままに、~につれて、の意である。「波のむた」(万133)、「風のむた」(万119)、「神のみた」(万1804)、「君がむた」(万3773)、「人のむた」(万3871)などとある。波や風や神や君や人に包まれ懐かれて一緒になってもまれていくことになる。「波のむた」という言い方によく表れているように、波は寄せては返すもので、ぐるりと循環することを可とすることをいう。
 つまり、ナ(中)というだけのナ(名)であった御子は、ナのままでありながらナ(魚)と易えて、ナ(己)たるものとして、いろいろなナと一緒にもまれて行ったということである。この名易えの話は、日本書紀の分注の謎掛けにあるとおり、「然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。」として詳らかである。太子の名はナ(中)でありつつ、「いざ、さ」と「角鹿」まで出掛けてきている。大神の名はナ(魚)でありつつ、そうそうと答える「しか(然)」であり、「ほむた」でも「とも」でもあるような鹿が中に入っているようなものである。
埴輪 鞆(群馬県伊勢崎市上植木本町恵下2622出土、古墳時代、東京国立博物館情報アーカイブ様)
 以上、ナというヤマトコトバの位相幾何学を述べた。鞆という弓の防具がシカの毛皮を裏返してくるりと丸めて端を貫き通す作業を実地に行ってみれば、「然(しか)」なりと納得されることであろう(注9)。上代の人にとって、世界はヤマトコトバでできていた。これほど頓智の利いた言葉を喋っていながらただやり過ごすことはなかろう。人々は興趣を覚え、わざわざ鞆を単独の形として面白がって埴輪にして遊んでいる。形象埴輪とは何か。考古学では出土するモノを出発点として当時の人々のことを考えようとするが、残るものについては考え、無いものについては考えない。あるものについても、なぜそれがあるのか、現代人の視点、歴史学や民俗学からしか考えが及ばない。籠手形埴輪は乏しいのに、なぜ鞆形埴輪があるのか、素朴な疑問さえ浮上していないように思われる。しかし、古代の人は、鞆を埴輪に作って悦に入っていた。その所以について、名易えの話として古事記は雄弁に語ってくれている。古代の人は、ヤマトコトバで考えていたのである。
(つづく)
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「春日大社」展の籠手(こて)+板橋区立郷土館「武具繚乱」展

2017年02月19日 | 無題
籠手(鎌倉時代、13世紀、春日大社蔵、「義経籠手」、東博「春日大社展」2月12日迄展示。写真は『春日大社古神宝宝物図録』春日大社社務所発行、昭和48年)
両方の手に嵌める両籠手(もろごて)です。
南北朝時代から戦闘形態が接近打撃戦に変化して、両方の手にするようになったとされています。
その最古の残存例とのことです。

盛装の男子(埴輪、栃木県下都賀郡壬生町ナナシ塚古墳出土、古墳時代、6世紀、高山政之助氏寄贈、東博展示品)
古墳時代の埴輪でも、両方の手にしているように見えます。
その際、左手(弓手)に鞆(とも)を着けている例も見えます。
(埴輪には、鞆を腰にぶら下げているものもあります。鞆“単独”の作品がありますが、籠手“単独”のものはあるのでしょうか。)
その後に、籠手を左手だけにするようになったらしいのです。
絵巻物の絵でも左手だけに着けている例があります。
どうして左手だけになったのか、専門家による解説があったら教えてください。

古墳時代の甲冑の様子が展示されている横浜市歴史博物館にてお尋ねしたところ、
籠手については「ミッシングリンク」ではないでしょうか?
とお答えいただきました。
さすがプロの使う言葉は違い、英語が登場してきて驚きました。
“歴史”博物館だから“歴史”的にみることに貫かれています。

鞆はどこへ行ってしまったのかとか、
古墳時代の埴輪にありながら遺物としては鉄器でたまにしか見られないとか、(ほぼほぼ革製だったから残らなかった)
その辺までは良しとしても、物がないものを考えても仕方がない、というか
資料の途切れているものは科学的には考えようがないということのようです。
籠手(岡山県倉敷市真備町天狗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、團伊能氏寄贈、東博展示品)

思うに、(=非科学的に)
弓を持った人が馬に乗るようになって騎射になったとき、
右手で手綱を操りたいから籠手を嵌めていては動かしにくくて邪魔なので、(落馬しては意味がない)
籠手は左手だけにするようになった……、とか、
当てて音を鳴らして楽しむ(「ますらをの 鞆の音すなり」(万76))ために鞆をつけることがあった……、とか
戦以外の武装する必要のない芸事の弓の場合は鎧も兜も籠手もしていない……、とか、
それでも弓弦が左手に当ったら痛いから素手に鞆をつけることがあった……、とか
いろいろ考えては楽しんでおります。

小手先では謎が解けそうもないので本格的に研究(=道楽)しようと思っております。
(大いなる疑問→「籠手単独埴輪はなく、鞆単独埴輪があるのはなぜか?」)

なお、春日権現験記絵を絵巻大成などで予習してから行けばよかったと後悔しております。
その巻十三に描かれている灯火の燃料は、さて何でしょうか。胡麻油でしょうか?
灯明皿(横浜市金沢区上行寺東やぐら群遺跡、鎌倉時代、玉川文化財研究所所蔵、横浜市歴史博物館展示品)
さらにわからなかったのは、琴箱(緑地彩絵琴箱、本宮御料古神宝類、平安時代、12世紀、春日大社蔵)です。檜板の曲物で樺で綴じられていると説明されていますが、つなぎ目が見えませんでした。曲物は塗られてしまうととてもわかりにくいです。そして、その職人技について、人に聞くのも憚られます。愛好家にとっては「国宝」ですし、職人さんにとっては当たり前のことのようです。
(以上が、2017-01-30に記したことです。)

(以下は、2017-02-19に記したことです。)
板橋区立郷土資料館「武具繚乱」展(~3/26)へ行ってきました。
関谷弘道氏の遺された甲冑刀剣類コレクションが寄託されてたくさん展示されています。
江戸時代のものがほとんどです。

左から、鉄黒漆塗五本篠籠手(細長い鉄板を並べたものを篠といいます)、鉄黒漆塗三枚筒籠手(一の腕の筒のところが紅糸菱綴で繋がれています)、鉄錆地三枚筒籠手(3枚の筒板を蝶番繫としています)、鉄錆地七本篠籠手(四入り鎖で繫いでいます)です。
揃えで陳列されているものに、
 
左から、展示されていた鉄黒漆塗萌黄糸威五枚胴具足、鉄錆地塗紺糸威菱綴桶側二枚胴具足、鉄錆地縹糸威腰取五枚胴具足、ならびにポスターに使われている鉄潤色塗紅糸威二枚胴具足、金箔押仏二枚胴具足のそれぞれ籠手部分を撮ってみました。甲冑と小具足がもとからセットとして残るものは少なく、また誰が着用したのか(いま、籠手のことばかり考えていますから、誰が袖を通したのか、と言った方がふさわしいでしょう)、確かなものは少ないそうです。

鉄に漆が塗ってあるものを保存するとなると大変だろうと思って伺ったところ、湿度が高いと鉄が錆び、逆に低いと漆が剥げるとのことでした。昔の高床式倉庫や土蔵の知恵はすごいそうです。

江戸時代も末になると、鎧の着方がわからないお侍さんがたくさんいたようです。籠手は、褌を締めてから始めて最初のほうで着けます。
甲冑着用備双六(歌川芳貞画、江戸時代、安政年間、板橋区立郷土資料館所蔵)

展示解説」なるギャラリートークが、次回は3月11日(土)に13:30~(公称40分程度)予定されています。まず15時まではするだろうと思ってご参加ください。歴史が大好きだということは、トークができることが嬉しくて仕方がないわけでありましょうし、それがまた素人にもとてもわかりやすく的確に説明していただけますし、素朴な疑問、質問も大歓迎でいくらでもお話しされてしまうというとても有り難い事態が出来していました。聞きたいことがあったら箇条書きでたくさんメモしておいてどんどん聞いてしまいましょう。閉館時間は17時ですから、それまでならいくらでも、関係のあまりないようなことでも日本史のことなら何でも教えてくださると思います。
入館無料です。質疑応答も際限なく無料です。日本甲冑武具研究保存評議員の、甲冑を見ながら歴史を研究されている方のお話を聞くことのできる格好の機会と思います。

なお、常設展示は外の民家のみです。白い毛のテンの剥製などが甲冑展示により隅に追いやられていて、ガラス越しでなく見れて嬉しいものがありました。源氏物語・末摘花に「ふるき」(たぶん、古着の謂い。和名抄に「黒貂」)などとあるのは、渤海などからの輸入品らしいとのことです。日本に棲息しているテンの毛が、古くなったものと思っての命名ではないかと考えられるのです。籠手のことばかり思い詰めていると、テンの胴を抜いて筒にすれば、アームウォーマーにそのまま行けるのではないか、などと宜しくないことを考えてしまったのでした。
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応神記の名易え 其の一

2017年02月18日 | 論文
 応神天皇に名易えの話が載る。

 故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)

 日本書紀に、名前を取り替えたのならば、元の名がそれぞれであったはずなのに、そうはなっていない。よって、「未詳」であるとしている。

 初め天皇、在孕(はらま)れたまひて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)、三韓(みつのからくに)に授けたまへり。既に産(あ)れませるときに、宍(しし)、腕(ただむき)の上に生(お)ひたり。其の形、鞆(ほむた)の如し。是、皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。肖、此には阿叡(あえ)と云ふ。故、其の名(みな)を称へて誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と謂(まを)す。上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。一に云はく、初め天皇、太子(ひつぎのみこ)と為りて、越国(こしのくに)に行(いでま)して、角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拜祭(をが)みたてまつりたまふ。時に大神と太子、名を相易へたまふ。故、大神を号けて去来紗別神と曰(まを)す。太子を誉田別尊と名くといふ。然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。然れども見る所無くして、未だ詳らかならず。(応神即位前紀)

 この分注記事から、紀を編纂した当時の人にとっても、すでに意味が理解できなくなっていたとされている。ずいぶん幼稚な解釈である。当時、過去数百年以上の歴史をまとめ、日本書紀を編纂してしまうほどの人たちが、その程度の人たちであったとは考えられない。筆者は、晦渋な編纂者が、事実を知りつつ、ここは謎掛け部分ですよと記したいがために、無用な注をつけていると考えている。わからなければわからないままにしておけばいいし、小賢しい輩なら記述自体を改竄すればいい。確かに、当時も、頓智のきかない人にはわからなかったであろう。それをからかっているとしか思われない。

 古事記に、「以吾名、欲御子之御名。」というのは、夢の中の話である。夢に現れたのは、「伊奢沙和気大神」か、「伊奢沙和気大神之命」である。「大神之命」という神名の呼び方は他に見えない。ミコトは名前の尊称であるとともに、ミ(御)+コト(言)の意でもある。偉い人の言うことは、そのとおり実現することが多いから、言=事であるとする言霊信仰に適うことになる。そこで、伊耶那岐命(いざなきのみこと)とか、倭建命(やまとたけるのみこと)という名前ができあがっている。しかし、「天照大御神之命以」(記上)とあるのは、「天照大御神の命(みこと=仰ること)を以て」の意である。すぐ後ろにも、「恐、随命易奉」とある「命」は、御言(みこと)の意である。「亦其神詔」とあって「亦其神之命詔」とはない。したがって、この部分の訓みは、

 爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢に見えて云ひしく、……(爾坐其地伊奢沙和気大神之命、見於夜夢云、……)

となければならない。小学館の新編古典文学全集本古事記には、「爾(しか)くして、其地(そこ)に坐(いま)す伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)、夜(よる)の夢(いめ)に見(み)えて云(い)ひしく、……」(253頁)とあり、頭注に、「気比大神の名だが、神名の下に『命』をつけるのは異例であり、問題が残る。ミコトは神名でなく、夢の託宣の言葉を指すとする説もあるが、言葉の意とするのでは『夢に見え』ということと合わない。」(252頁)とされている。「夢(いめ、メは乙類)」という語は、イ(寐)+メ(目)とする捉え方から、目で見るものだから静止画なり動画なり、映像であろうとお考えのようである。するとそもそも、夢のお告げという言い方は成り立たなくなる。そうではあるまい。お告げで神さまが伝えてくれていることも、やはり夢に見るという言い方で表現していると考えられる。後述の神武記の高倉下の見た夢、垂仁記の御夢の覚しの話も同様である。
 電気のない時代、「夜」の「夢」に「伊奢沙和気大神」が「見」えて「命(みこと)」=御言を「云」っている。この夢で大切なのは、伊奢沙和気大神の姿かたちや立ち居振る舞いではない。伊奢沙和気大神の云っている言葉である。だから、「命(みこと)」という語を丁寧に使っている。夢に見えたのは神の姿ではないのか、という反論もあろうかと思われるが、この逸話のテーマは、名前のことである。名前とは、言葉である。無文字文化にあって、言葉とは声である。「云」っていることが「命(みこと)」として発せられ、それを恭しく聞いているのが、付添い人で神の託宣を聞く役目の武内宿禰である。武内宿禰が神さまのお言葉を聞いて、それを太子に伝達している。仰られたことを伝えていく言葉とは、御言(「命」)である。大切なのは、神さまの仰ることをきちんと聞いてきちんと伝えることである(注1)

 其の横刀(たち)を獲し所由を問ひしに、高倉下(たかくらじ)が答へて曰ひしく、「己が夢(いめ)に云ひしく、『天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)を以て、建御雷神を召して詔はく、「葦原中国は、……」とのりたまふ。……』といふ。……」といひき。(神武記)
 爾くして天皇の愁へ歎きて神牀(かむどこ)に坐しし夜に、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰ひしく、「是は我が御心ぞ。……」といひき。(崇神記)
 是に、天皇患ひ賜ひて、御寝(みね)しませる時、御夢に覚(さと)して曰さく、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくりをさ)めたまはば、御子必ず真事問はむ」とまをす。(垂仁記)
真福寺本古事記
 神武記の例の「高倉下答曰『己夢云、「天照大神・……」』」部分の「云」字は、諸本に「云」とあるのを「之」と校異するテキストが多い。しかし、真福寺本の当該字は、「之」にも「云」にもとれる曖昧な字体である。筆者には、どちらかといえば「云」に見える。内容的にも、夢に見たのは神さまの間の会話のやり取りである。「天照大神・高木神二柱之神命以」とあるように、「命」は御言のことである。二柱の神が仰られたことを伝えていって建御雷神を招集している。最終的に、「故、夢の教の如く、旦に己が倉を見れば……」とある。教えとは夢のお告げのことである。すべて言っていることばかりだから、夢の中で神さまたちが「云」っているとするのが適当であろう。夢は見るものであるけれど、神さまどうしの会話を聞いているのだから「云」と考えるのがふさわしい。
 小学館の新編古典文学全集本古事記頭注に、「原文『夢之』とあり、「之」は不読で、夢に見たことにはの意。『夢云』の本文を採用し、夢で建御雷神(たけみかずちのかみ)が言うことにはの意とする説があるが、この段階ではまだ建御雷神の名は出てきておらず、無理がある。」(146頁)とされている。建御雷神の言葉だけが夢に「云」われているわけではなく、天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)、すなわち、言うことを以て建御雷神が登場している。結論の建御雷神の言葉だけを取り出すこと自体、ナンセンスと言わざるを得ない。夢の中で神さまたちがいうことにはの意と考えるのに何の支障もないであろう。その夢に映像は重要ではなく、音声だけで十分である。ラジオの夢を高倉下は見ている。
 仲哀記に、「以吾名、欲御子之御名。」→「於我給御食之魚。」へと展開している。それを、ナ(名)とナ(魚)との交換であろうかとする説は従来より指摘されている。「我に御食(みけ)の魚(な)を給へり。」と訓むテキストも存在する。岩波書店の日本古典文学大系本古事記(昭和33年)、日本思想大系本古事記(1982年)、小学館の日本古典文学全集本古事記(昭和48年)、尾崎友光編『全注 古事記』(桜楓社、昭和47年)、次田真幸『古事記(注)』(講談社(講談社学術文庫)、昭和55年)、中村啓信『新版 古事記』(角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年)などである。一方、どうしても納得がいかないということで、「魚」をウヲ(イヲ)と訓むテキストも多い。新潮社の日本古典集成本古事記(昭和54年)、小学館の新編日本古典文学全集本古事記(1997年)、沖森卓也編『新校古事記』(おうふう、2015年)などである。
 藤澤友祥『古事記構造論―大和王権の〈歴史〉―』(新典社、2016年)に、論点が整理されている。「大神の申し出は『以吾名御子之御名。』というものであり、これについては以下の三通りの解釈が考えられる。
 〔一〕吾が名と太子の名を交換したい。(大神←→太子)
 〔二〕吾が名を太子に差し上げたい。 (大神―→太子)
 〔三〕吾が名に太子の名を賜りたい。 (大神←―太子)」(44頁)
としている。〔一〕説に、岩波書店の日本思想大系本古事記、〔二〕説に、小学館の新編日本古典文学全集本古事記、〔三〕説に、本居宣長・古事記伝があるとされている(注2)
 この名易えの場面は、太子の命名の由来とも関わるとする坂下圭八『古事記の語り口―起源・命名・神話―』(笠間書院、平成14年)は、ナという一語の名と魚との両義性が話の肝腎な点であるとされている。

 この説話全体の意味から肝腎なのは、太子の言葉の「魚(ナ)」がすでに食物化したイルカをさすにとどまらず、謎かけとして示された神託への見事な解答となっていることであろう。それは、「神は私に御食の魚(ナ)を下さった。(神のいう「吾名(ワガナ)」は名(ナ)ではなくてこの魚(ナ)だったのだ)」と補うことができる。実は太子はナの両義性、名(ナ)と魚(ナ)の変換関係をはっきりよみ解いたとして差支えなく、そのこと自体、太子の成年への到達を語るものであった。かくして太子が神をたたえてみずから「御食津大神」と命名するに及び、魚(ナ)と名(ナ)の交換・贈与は完了する。結局、大神は「御子之御名」ではなく、太子からあらたな名を贈られたことになる。古代における命名・賜名は命名者と被名者(物) との関係更新のしるしであった。それよりすれば、太子の名を負うことと太子に命名されることとは全く同一の意義を示すものとしてよい。(22頁)

 そして、「気比(けひ)」という大神の名は、「易(かへ)」という語の音転であることによっているとされている。西郷信綱『古事記注釈 第六巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年、243頁)も踏襲されている。仮に「気比(けひ)」という言葉が「易(かへ)」ることと関係するなら、宇佐八幡が嘘八幡であるかのような逸話が、もっと多く伝えられて良いように思われるが他に見られない。そして、日本書紀の分注にあげられている疑問点は、これまでの諸説同様、解消されていない。大神の本の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)でなくてはならないのではないか、という問いに答えられていない。
 太子の元の名は何であったか。応神記を遡ってみていくと、上にあげた「御子」、「其の太子」、「其の御子」とあり、仲哀記の皇統譜に出生譚が記されている。

 又、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)是は大后なり。を娶りて生ませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともわけのみこと)、亦の名は品陀和気命(ほむたわけのみこと)。二柱。此の太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、初め生れまししし時、鞆(とも)の如き宍(しし)、御腕(みただむき)に生(な)りき。故、其の御名に著(つ)けき。是を以て腹の中に坐して国を知らすぞ。(仲哀記)
鞆をつけた射手(小松茂美編『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社、昭和62年、22頁)
鞆をつけた挂甲武人埴輪(群馬県太田市飯塚町出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
 わざわざ、「此太子之御名、所-以負大鞆和気命者、」とされて説明が付されている。特異な「負」字が記されて説明されている。名負いの者として、「大鞆和気命」はあった。そして、そのことによって、「是以知腹中也。」とある。その名前が付されていることから、お腹の中にありながら国を治めた。そう理解されなければ、上代の人と共通の認識に立ったとは言えない。名は体を表していると述べられている。そして、この皇統譜以降、名は語られていない。
 応神天皇の出生の経緯は、神功皇后の新羅親征の話として語り継がれてきている。「神の命(みこと)」として、「凡そ此の国は、汝(な)が命(みこと)の御腹に坐す御子の知らさむ国なり。」と武内宿禰に教え覚らせている。「此の国」は倭の国のことである。本居宣長『古事記伝・坤』(吉川弘文館、1935年)(国会図書館デジタルコレクション(202/577))にも、「此ノ国は、上文に、玆(コノ)天ノ下者(ハ)とありしと同くて、皇国なり、【書紀に、汝不(ジ)其国ヲ、唯今云々、其ノ子有獲とあるに依れば、三韓を指るが如くにも聞ゆれど、然には非ず、かの書紀の汝ハ不其国ヲも、此記には玆(コノ)天ノ下者(ハ)云々とこそはあれ、】」(1570頁)とある。そこで、お腹の中に身籠ったまま、いわゆる鎮懐石をあてて産まれないようにしておいて新羅(「其の国」)へ親征した。そのようなことが現実に、ないし、科学的に可能かどうか、「話」とは無関係である。そういう「話」として聞かされ伝えられ知られているから、そういうものとして認められていた。
 皇統譜に「腹中」とある個所を、今日までハラヌチ(腹の内)という訓み方をしている。しかし、太安万侶は、「中」という用字で記している。紀には、ホムタノスメタミコトに「胎中誉田天皇」・「胎中之帝」(継体紀六年四月条)、「胎中天皇」(継体紀二十三年四月条)と記されている。近似の用法であろう。ウチ(内)ではなく、ナカ(中)であることが特別な事柄なのではないか。
 記の用字法において、「中」と「内」とは峻別されていると考える。それぞれ、固有名詞に使われている。

 「中」…天御中主神、中津綿津見神、中筒之男命(中筒男)、胸形之中津宮、倭田中直、葦原中国、中臣連、田中臣、剣池之中岡、大中津日子命、須売伊呂大中日子王、帯中津日子命、息長真若中比売、大中比売命(大中津比売命)、中日売命、額田大中日子命、忍坂大中比売、田井之中比売、田宮之中比売、中日子王、忍坂之大中津比売命、墨江之中津王、田井中比売、橘之中比売命、春日中若子、中津王
 「内」…凡川内国造、内色許男命、内色許売命、河内青玉、味師内宿禰、建内宿禰(建内宿禰命)、河内(川内)、川内之若子比売

 この両者の間に、ナカ(中)とウチ(内)の言葉の交ることはない。「中」と書いたらナカ、「内」と書いたらウチ(uti)と決めている。そうしているのなら、一般名詞に使う際にも、「中」はナカ、「内」はウチと区別していると考えられる。例えば、「宮の中を臨むこと得ず」(仁徳記)と、「宮の内に参ゐ入りし時」(神武記)、「仍りて宮の内に召し入れて」(顕宗記)とでは、はっきりとニュアンスの違いがあることを知る。「宮内」は、その内部に入ることを言っており、囲いの内側へ入ることを指す。それは、「殿内」(記上、神武記)という記し方に同じである。他方、「宮中」は、内部に入ることがない。それは、「国の中に烟(けぶり)発(た)たず」、「後に国の中を見るに」(仁徳記)にある「国中」同様、傍観している。その場合、隔てがあっては見ることができない。隔てがないところ、戸や垣根、障害物がないところから見ている。つまり、「外(そと)」に対する「内(うち)」ではない。
 他の例の、「衣中服鎧」(応神記)、「其衣中甲」(応神記)、「衣中服甲」(安康記)といった一連の表現について、防弾チョッキを内装しているから、「中」をウチと読んでいるテキストが多い。内側に隠してという印象をつけたいためであろう。しかし、「衣」を重ね着する場合、上着と下着の間に着るのなら、ナカ(中)に着ていると考えればいいのではないか。それは、「頂髪中」(仲哀記)とある個所を、「頂髪(たきふさ)の中(なか)」と読んで違和感のないことに同じである。「海中」(記上)、「火中」(垂仁記)、「野中」(垂仁記、景行記)、「庭中」(仁徳記)の「中」もナカと読んで問題ない。
 以上の検討から、仲哀記の当該「腹中」箇所は、ハラ(腹)のナカ(中)と読むべきであると知れる。

 大津渟中倉之長峡(おほつのぬなくらのながを)(神功紀元年二月条)
 三国の坂中井〈中、此には那(な)と云ふ。〉に聘(むか)へて、……(継体前紀)
 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)(欽明紀十五年正月条、後の敏達天皇)
 天渟中〈渟中、此には農難(ぬな)と云ふ〉原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)(天武前紀)
 遠近(をちこち)の 磯の中(なか)なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも(万1300) 

 第1~4例で、仮名遣いとして、「中」をナと訓んでいる。ナカ(中)はナ+カ(処)の意であろうとされている。類義語のウチ(内)は、ソト(外)に対して、ある範囲に包まれている内部をいい、ナカ(中)は本来、ものの中間、中くらい、その間柄のことを言っていたとされている。ただし、ものとものとの間にあることとは、両側のものが大きければ包み囲まれる様子となり、容易にナカ(中)にウチ(内)のような義が生じ得る。それが第5例である。磯の大きな巌の間に白玉があると言っている。応神記に連続する例として、「山谷之中」、「山谷之間」という表記がなされており、同じ意味であると考えられる。
(つづく)
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仁徳天皇の名、オホサザキの秘密

2017年02月12日 | 論文
 仁徳天皇の生前の名、オホサザキについて、その名の由来は、①鳥の名サザキによるものであるとする説、②御陵のことをいうミサザキによるものであるとする説が唱えられている。仁徳紀にそれぞれ論拠となりそうな記述があり、どちらも「異(あや)し」という言葉が出てくる因縁譚である(注1)。「異(あや)し」い出来事で、「異し」い言葉ができている。
 では、オホサザキという天皇の名前は、そのどちらに由来するものか。その正統性を問おうとするのは、はなはだ愚かである。異しい“都市伝説”に翻弄されてはならない。サザキという名前は、いまに佐々木さんであろう。とてもたくさんいらっしゃる。佐々木さんの名の由来を問うて限定させてどうなるのか、筆者には不可解である。古い時代に名づけられてあったこと、そのことについて検討が加えられなければならない。
 先行研究をいくつか見てみる。①の鳥名由来説に傾いているものとして、古市晃「王名サザキについて」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』(塙書房、2010年)は、他にサザキの名のついた武烈、崇峻天皇のことから考えると、「王名サザキは巨大な王陵ではなく、鳥の名に因む。」(66頁)とする立場に立つ。また、川崎保・梶田学「古代天皇陵をなぜミササギと呼ぶか」『古代学研究』181号(古代学研究会、2009年)では、鷦鷯=ウグイス説を唱えられ、「……古墳時代に、古墳に葬られるような貴人が小鳥になるという考え方があったためではないか。」(24頁)とされている。一方、②の陵の語由来説に傾いているものとして、和田萃「日本古代・中世の陵墓」『天皇陵古墳』(大巧社、1996年)は、「『古事記』『日本書紀』では、仁徳のオホサザキという名を鳥と結びつけているが、あるいはミサザキという言葉に関連があるかもしれない。仁徳紀には、仁徳陵が寿陵(じゅりょう)(生前から造っておく山陵)として造営されたことを伝えており、また巨大な墳丘をオホミサザキとよんで、それが仁徳のオホサザキという名となった可能性はある。」(62頁)(注2)とする。また、三浦祐之『古事記を旅する』(文芸春秋(文春文庫)、2011年)は、「仁徳というのは後世の呼称で、ほんとうの名前はオホサザキ(古事記では大雀命、日本書紀では大鷦鷯尊)という。サザキというのは、漢字表記からもわかるようにミソサザイという小鳥の名とされているが、大きなミソサザイというのでは言語矛盾をきたす。たぶんこの説明は後から加えられたもので、もとは『大きな墓=オホサザキ』という意味だった。生存中から築造が行われていたのか、死後の呼び名かはわからないが、大墓を意味するオホサザキは、いつのまにやら、大きなミソサザイという意味の大王オホサザキになった。」(233頁)とする。
 新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦 加也久支(かやくき)、又佐々支(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)は小鳥也。蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。他方、御陵のことは、「山陵〈埴輪附〉 日本紀私記に云はく、山陵〈美佐々岐(みさざき)〉といふ。埴輪〈波迩和(はにわ)〉は山陵の縁辺に埴人形を作り、車輪の如く立てる者也といふ。」とある。上代において、なにゆえか、サザキという言葉をもって、鳥類のミソサザイと大王などの墓のことが、同じサザキという言葉で表現されている。すでにそのように表現されている。2つのほとんど関わりがないように思われる事柄が、同じ言葉(音)で表わされている。それは、一方から他方へ意味があてがわれたのかもしれないが、そのあてがわれた時点は、けっして仁徳天皇が大きな寿陵を作ったときに求められるものではない。それ以前から、天皇が葬られるお墓も、ミソサザイという鳥も、ともにサザキと呼ばれていたと考えられる。無文字文化のなかにあって、人々が互いに納得し合うためには、既定の事実として、言葉(音)が前提として存在しなければならない。言葉が音でしかなかったのだから、そうでなければ混乱をきたす。オホサザキという人がいるから、大きな御陵(みさざき)を作ってあげようじゃないか、と皆の意見が一致している。そうすれば逆に、オホサザキ(大御陵)に葬られた人は、オホサザキ(「大雀命」(記)・「大鷦鷯」(紀))という人であったことは間違いないことになる。言葉がそのとおり事柄となり、反対に事柄が言葉になる。それこそが言霊信仰である。言葉が音でしか存在しないから、言霊信仰を行わなければ世界の秩序は崩れてしまう。詐欺だらけの世の中になる。
 鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれるのか、その語源を探ることは不可能である。小学館の日本国語大辞典第二版に、tsa =ツァと鳴く鳴き声から名づけられた擬声語+接尾語とする説が載る。しかし、ツァと鳴いていると思う鳥はたくさんいる。そのように聞けばそのように聞けるし、そうでないと思えばそうでない。犬の鳴き声は、日本人にワンワンでも、英米の人には bowwow らしい。dog のことを表す日本語に、①イヌ、②ワンワン(幼児語)の2種があり、②は鳴き声によるものと“推定”されている。①のイヌについて、エヌからの転とする不可思議な説がある。なるほど dog が甘える声で、エヌと鳴いているように聞こえることがある。では、エヌ→イヌが“語源”であるかと言えば、冗談でならともかく、確かなことはわからない。当然、鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれたのか、わかろうはずはない。わかっていることは、古墳時代に、おそらくは今いうミソサザイという鳥がサザキと呼ばれ、陵墓のこともサザキと呼ばれていたということである。呼ばれるもの、それが名である(注3)
 和名抄には、鷦鷯のひとつ前に、「巧婦」の項がある。「巧婦 兼名苑に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好く葦皮を割きて中の虫を食べる、故に亦蘆児と名くといふ。」とある。狩谷棭斎の箋注倭名抄に、「鷦鷯、巣を造るに人の髪、或は馬の尾を以て蘆花を綴り、其の形、襪(したぐつ)の如し。巧緻を愛す可し。是、巧婦の名を有する所以なり。剖葦は則ち然らず。稲稈、蘆を縛り以て巣と為し已りて観るに足らざること絶ゆ。然らば則ち太久美止利(たくみどり)は、以て鷦鷯を訓ずる可くして、剖葦を訓ずること得ざる也。」とある。狩谷棭斎は、鷦鷯の項で、「陳蔵器に曰く、林藪の間に在りて窠を為(つく)り、窠は小嚢の如しといふ。埤雅に云はく、其の喙の尖利なること錐の如し。茅秀を取りて巣と為す。巣は精密に至し、麻を以て之れを紩(ぬ)ふこと韈を刺すが如し。故に又一名、韈雀といふ。」などとしている。巣を造るのが巧みなタクミドリという鳥がいて、それは鷦鷯と記すサザキ、今のミソサザイのことであると言っている。
 この考えは正しいであろう。林良博監修・小海途銀次郎著『決定版日本の野鳥巣と卵図鑑』(世界文化社、2011年)によれば、ミソサザイの「巣の特徴:岩の陰など薄暗い場所にコケで球形(壺形)の巣を作る。外側に小枝、枯れ葉などを張りつける場合もある。産座には特に何も敷かない。大きさ:外径約13×11cm、高さ約15cm、出入り口の広さ約3×3cm、深さ(奥行き)約7cm。」(124頁)とある。ミソサザイはとても小さな鳥でありながら、とても上手に巣をつくっている。外敵に襲われないように、立ち入れないようなところに巧みに拵えている。足場、櫓(やぐら)でも仮設しなければつくれないものを、それすら立てられそうもない場所につくっている。高所作業もする宮大工のことを「木工(こだくみ)」(雄略紀十三年九月条)というのだから、これをタクミドリと呼ばずして、他に候補となる鳥はいるのであろうか。
ミソサザイの巣(左:抱卵の様子、右:沢(滝?)づたいの立地)(和田剛一「雌雄で分担するミソサザイの巣づくり」朝日新聞社編『科学朝日』39-6(459号)朝日新聞社、1979年6月)
 巣の周りに水がある。近寄れないようになっている。どこかで見たことがある。御陵(ミサザキ)である。濠をめぐらせて中に古墳が築かれている。仁徳天皇陵ともされる大仙古墳は、濠がめぐらされたとても大きな古墳である。ミソサザイの巣の形は、壺型であることが多くあり、それを横に倒して見れば、前方後円墳にとても似通っている(注4)。生前に、オホサザキと呼ばれた人が、亡くなった後に暮らす巣をつくるとするなら、とても大きな前方後円墳にして、周囲に濠がめぐらされているところがふさわしいということになる。ヤマトコトバでそう言われているのだから、そうすることが言霊信仰に適う。皆が納得する事柄となる。大きなサザキ(ミソサザイ)とあるのは言語矛盾であるとする解釈は、無文字文化時代のヤマトコトバの論理が理解されていないとの誹りを免れない。
大仙陵絵図(享保年間)(一瀬和夫『古墳時代のシンボル‐仁徳陵古墳‐』新泉社、2009年、11頁)
樋部分の現在の様子
山陵図(天治元年(1864)、百舌鳥耳原中陵荒蕪、公文書館蔵、堺市博物館パネル展示、“文久の修陵”工事前で拝所なし)
仁徳天皇正辰祭(2017.2.8)
大仙陵(昭和5年(1930)、谷村為海氏撮影ガラス乾板写真、堺市博物館蔵、同パネル展示品)
州の描き方(松平伊予守(池田綱政)作成、備前国絵図、元禄十三年(1700)、「岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム」様)
 ヤマトコトバにおいて、鳥の巣のスという言葉は、鳥が巣食うところである。それは卵を産んで雛をかえし、少しして巣立っていったら打ち捨てられるものである。鳥の巣は、役目を終えたら放置される。そう認識されていたことは、同音の語、「す(州・洲)」が、川の中州(中洲)や河口に見られる州(洲)などの意味であり、水面上に出ていたと思っていたら川や潮の流れによって水面下に消えてしまい、再び現れるときには違う場所であったりするのと同じであることから確かめられる。同じスという言葉(音)を以てして、状態を形容したことから「す」(巣、州(洲))という言葉は成り立っている。仁徳天皇は、陵墓に埋葬されて儀式を済ませたら、その大土木工事のレガシーは、ほとんど放置されるだけのものとなった。「す」だからそれがふさわしい。江戸時代の絵図に見る大仙陵にも水門がついている。灌漑用溜池として利用されていたのであろうか。開ければ水が抜かれて濠は空堀となり、地続きの古墳となる。そうなったとき、もはやミサザキ(御陵)ではないということになる。それは、ツカ(塚)である。つき固められてできている。和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ。豆賀(つか)〉は塚塋地也といふ。広雅に云はく、塚塋〈𠖥營二音〉は葬地也といふ。大言するに、土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉は並の塚の名也。」とある(注5)
 以上で、「異(あや)し」い話はおしまいである。サザキという言葉は、ミソサザイという鳥が水をまわりにめぐらせておいて守りとするように巧みに作る巣のことの謂いであり、そのことを観察した結果として、上代の人はサザキとその鳥を呼んでいる。それは、周濠のある陵墓の造りと同じことであるから、御陵のことも同じ言葉で呼び、尊称ミ(御、美)を付けてミサザキとしている。当該の鳥の名における語、サザキ→ミソサザイへの変遷については、語史の検討課題である(注6)。ミゾ(溝)という語が接頭しているのは、濠のことが頭から離れなかったためであるらしい。

(注1)サザキがササキと清音のみの構成で言われていたこともあったかとおもわれるが、清濁について議論しない。仁徳紀に名の謂れと思われる個所を提示しておく。

 初め天皇(すめらみこと)の生れます日に、木菟(つく)、産殿(うぶとの)に入(とびい)れり。明旦(くるつあした)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうちのすくね)を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣対へて言さく、「吉き祥(さが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻(め)の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)産屋(うぶや)に入れり。是亦異(あや)し」とまをす。爰に天皇曰はく、「今し朕(わ)が子と大臣の子と、同じ日に共に産れたり。並びに瑞有り。是天(あま)つ表(しるし)なり。以為(おも)へらく、其の鳥の名を取りて、各(おのもおのも)相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて太子(みこ)に名け、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰(まを)し、木菟の名を取りて大臣の子に号け、木菟宿禰(つくのすくね)と曰ふ。是、平群臣(へぐりのおみ)が始祖(はじめのおや)なり。(仁徳紀元年正月条)
 ……河内(かふち)の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、陵地(みさざきのところ)を定めたまふ。丁酉(ひのとのとりのひ)に、始めて陵を築(つ)く。是の日、鹿(か)有りて、忽ちに野の中に起りて走りて役民(えたみ)の中に入りて仆(たふ)れ死ぬ。時に其の忽ちに死ぬることを異(あや)しびて、其の痍(きず)を探(もと)む。即ち百舌鳥(もず)、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに咋ひ割(か)き剥(は)げり。故、其の処を号けて百舌鳥耳原(もずのみみから)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(仁徳紀六十七年十月条)
(注2)和田、同書では、「『陵』は、元来、大きな丘の意で、転じて天使の墓を意味した。『山陵』は山岳と丘陵の意で、天子の墓を秦(しん)では『山』、漢代には『陵』といったところから、通じて『山稜』というようになった(『水経注(すいけいちゅう)』渭水(いすい)注)。」(62頁)と字義解説され、「記紀にみえる山稜と御墓」については、古事記は「御陵」、「陵」ばかりであり、日本書紀では歴代の天皇には「陵」、それ以外は、「日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)之墓」(垂仁紀三十二年七月条)、「皇祖母命(すめみおやのみこと)之墓」(皇極紀二年九月条)、「玖賀媛(くがひめ)之墓」(仁徳紀十六年七月条)、「武内宿禰(たけしうちのすくね)之墓域(はかのうち)」(允恭紀五年七月条)、「桃原(ももはら)墓」(推古紀三十四年五月条)といった例をあげ、基本的には区別されているとする。そして、例外として、蘇我蝦夷・入鹿のつくった寿陵、「双墓(ならびのはか)」を、「大陵(おほみさざき)」、「小陵(こみさざき)」と呼ばせたこと、日本武尊(やまとたけるのみこと)の「能褒野陵(のぼののみさざき)」、「白鳥陵(しらとりのみさざき)」(景行紀四十年是歳条)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の「箸墓(はしのみはか)」(崇神紀十年九月条)が「箸陵(はしのはか)」(天武前紀元年七月条)と記されていることをあげられている。これは表記研究である。
 森浩一「考古学と天皇陵」同編『天皇陵古墳』(大巧社、1996)に、「〝ミササキ〟を地名とするものは、その当否はともかく今日宮内庁の管理下にある大型の前方後円墳が多い。重要なものでも百舌鳥陵山(もずみささぎやま)(履中(りちゅう))とかだ佐紀陵山(さきみささぎやま)(日葉酢媛(ひばすひめ))のほか、〝ミサンザイ〟も〝ミササキ〟に由来するとすれば、岡ミサンザイ(仲哀(ちゅうあい))、土師(はぜ)ニ(ミ)サンザイ(参考地)、鳥屋(とりや)ミサンザイ(宣化(せんか))などがある。ただしこれらの古墳の地名がいつまでさかのぼって確認できるかは明らかではなく、……藤ノ木古墳の中世での使用例[ミササキ]はその意味でも価値が高い。」(28頁)とある。これは地名研究である。
(注3)名について、個々の語源をたどろうと探究されるのは、あまり生産的なことではない。何とかして言葉として成り立たせるべく知恵を捻ってある形に落ち着いた、それが名であるという基本原則に立ち戻る必要がある。うまい綽名が定着するのは、なるほどうまいことを言うなぁと、誰もが感心するほどの造語力をもってしての力作だからである。上代において、名詞に動詞の連用形として知られるものがある。反対に、名詞にサ変のス(スル)(為)を付けて動詞化したものは、後の時代の産物である。(筆者は、はじめて「チンする」という言葉に接した時、言い知れぬ言語感覚を味わった。けれども、相手に恋心を「コクる(告)」という言葉に接した時はそうでもなかった。)記紀に登場する神々の名も、何かを連ねあわせて形作られているとはわかりつつ、その名の意味するところが多義的で俄かには決め難いものが多い。これは何を意味するか。呼び表わす深度が、上代において異様に深いことである。どうしても名前の語源を探りたい方には、同じように、ある動詞の語源を探っていただきたいと願う。「真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。」(夏目漱石「日記」三好行雄編『漱石文明論集』(岩波書店(岩波文庫)、1986年、306頁)である。
(注4)筆者は、前方後円墳全般において、その周濠を伴ったものについて、このサザキという言葉によって説明できると主張するものではない。仁徳紀にサザキという語で謂れが書いてあるのは、(注1)に見るとおり、仁徳天皇の名易えの話と、仁徳天皇の陵墓の話である。本稿では、その話からサザキという言葉の深奥について探ったまでである。また、他の天皇の陵墓や蘇我氏の墓をミサザキと称したことについて、日本書紀に“話(咄・噺・譚)”として書いてあるようには思われない。(もう一度読み返したら、“話(咄・噺・譚)”として書いてあるように読めるかもしれないからその可能性を排除するつもりはない。)確かに言えることは、仁徳紀のこの部分は、“話(咄・噺・譚)”として書いてあり、“話(咄・噺・譚)”として具現化されていることである。歴史学や考古学では、仁徳天皇の御陵は大仙陵ではないのではないか、といった問題提起がされている。筆者の「読む」立場からは、おそらく、この書き方からして、河内平野のモズ(百舌鳥)地域の最も大きな陵墓こそ、仁徳天皇陵であろうと考える。仁徳紀の御陵の記述は、古代における古墳や陵墓のこと全般を語るものではなく、仁徳天皇の御陵のことしか述べていない。ツカ、ハカ、ミサザキという呼称の区別について、仁徳紀以外のことは“話(咄・噺・譚)”のネタにされていないのだから、わからないということである。
 古墳には、周濠のあるもの、その形のさまざま、2重、3重になるもの、空堀すらないものなどいろいろある。考古学では、自然地形を利用して多少整形を加えたものを「井辺八幡山型」、平地に人工の墳丘をつくったものを「百舌鳥御廟山型」と呼んで大別しようとする試みも行われた。周りを掘って高く積み上げて築(つ)いて作った結果として周濠のある古墳ができたとする素朴な視点は大切にされながらも、丘陵をそのまま活用したようなものも多くあって、それらを言葉の上でどう区別していたのか説明できない。記紀万葉に出てくるヤマトコトバからは、何か証明となるような企てがあったとは(今のところ)思われない。仁徳紀において、サザキとスの2語によって言い表したかったことからは、逆にそれ以上には言い表そうとしていないことが窺い知れる。古墳時代は、古墳という独特のお墓が築かれているからそう呼ばれているが、当時の人にとって、関心の中心が特に古墳にあったわけではないことは、認めなければならないであろう。
(注5)和名抄のこの部分、諸本に、「墳墓(つか)……大言土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクション(70/71))とあるが、狩谷棭斎は、「方言云墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクション(81/84))としている。筆者は、源順の「大言」として、「土墳」や「壟」は、程度でいえば「並」であると評していると解釈した。「山陵(みさざき)」とのランクの違いを壮語して説明したものと捉えた。
 なお、前方後円墳の形態について、長頸壺を横倒しした形に似ているとの説がある。先人の知恵であり、形の相同性を検討して頂きたいために下に例をあげておく。ミソサザイの巣が壺形(「其の形、襪(したぐつ)の如し」)で(まわりに水が)あることとの関連性について、サザキ(陵墓)にはサザキ(ミソサザイの巣)を以て当てようとする思考経路が、仁徳天皇時代においてあったことは確かであろう。ただし、弥生時代に遡る棺において、ミソサザイが小さな鳥であることから、小さな子供や小さな犬の遺骨を入れることから始まったようにも思われる。そして、古墳の淵源は前方後円墳とは別しているように考えられていることもあり、考古学との接点はかなり遠いように思われる。筆者は、ツカ(塚)やハカ(塋)一般の議論をしているのではなく、ミサザキ(御陵)に限っての話をしている。源順の「大言」を襲う者である。逆言すれば、古墳時代にすでになぞなぞが流行っていたと主張するものである。
子供を埋葬した壺(長頸壺、日明山式土器、弥生文化博物館展示品)
犬の棺(長頸壺、弥生時代後期、2世紀、桜井市大福遺跡、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
(注6)佐藤武義「『鷦鷯(みそさざい)』の語史」『語文』109号(2001年3月)参照。
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多摩動物公園 インドサイ

2017年02月11日 | 無題
2017年2月11日午後3時ごろの光景です。
さっき、かなり積極的にアプローチして、大げんかをしていたと家族連れは言っています。
ネット情報では、「まれに嫌がるメスとの間に戦いが起こることもあります。」

オスのビクラム(左)は、角のつけ根に血をにじませて、それでも性懲りもなくまた近寄って来て、見合っていました。

メスのナラヤニ(右)は鼻をブンブン言わせています。
アラカシを間に、近づかざれとあらむかし。

ネット情報では、「交尾を拒否したメスのサイがオスに殺されることは稀にあり」ます。「発情したオスのサイは、メスを追いかけ回して突進します。メスがダウンしたところで交尾が始まり」ます。ということなのですが、

草食男子のビクラムは、ナラヤニの剣幕に諦めたのか、1周まわって右奥の石垣のところで暖をとることになりました。

やくもたつ 多摩一重垣 妻拒みに 一重垣隔つ その石垣ゑ

私は、動物園へ、ブッダのことばの「犀の角のようにただ独り歩め」とは実際にはどういうものなのか、見に行っただけです。
比喩、方便を実地で“確かめる”ことの遠回り(たぶんそれはブッダの一生の時間)を知った一日でした。





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和船と海運の展覧会(センター北 & 白楽 & 東大島)

2017年02月02日 | 無題
横浜市歴史博物館「津々浦々百千舟」展(~3月17日)と神奈川大学日本常民文化研究所「順風満帆千石船」展(~3月20日)とで、主に近世の和船と海運についての連携展覧会が行われています。

歴史博物館は、歴史の視点が中心です。
歌川広重「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」
展示関連講座もあります(500円とのことですが、入館料なしで受けられるのでしょうか?)。
フロアレクチャーもあります。
ボートツアーは定員に達した模様です。

神奈川大学は、技術の視点が中心です。
板をスリアワセノコできれいに切って釘打ってつないで(どうしてそんなにピタッと合わさるの?)、
     ↓
熱とお湯をかけて曲げる(最大厚12cm(?)までの杉板を曲げて水押で合体)。
このオーバースペックぶりは、ガラパゴス的だと思います。中国の船の作り方と対比できる展示ですから、とてもよくわかります。

なお、航海には磁石が必要で、子丑寅卯……を逆回りにした逆針(さかばり)磁石(Old Japanese Compass)なるものが日本にありますが、私のような素人でも、まあ、そういうものは創るだろうと思います。とり立てて言うほどのことはないでしょう。けれど、根付磁石のようなものに出くわすと、これはガラパゴス的だ! と嬉しくなってしまいます。
船磁石(江戸時代、東京海洋大学明治丸海事ミュージアム蔵、中川船番所資料館「江戸の海運と江東」展(~3月5日)展示品)

(追記 2017.2.12)船の模型の古いものとしては、
菱垣廻船模型(元禄5年(1692)、元禄五壬申歳二月吉日棟梁戎嶋町淡路屋□□衛門、堺市博物館展示品)



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