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角鹿の塩を呪詛忘れ 其の一

2017年07月16日 | 論文
 日本書紀の武烈天皇条に、角鹿の塩の詛い忘れについての記述がある。武烈紀の研究は、そこに載る歌謡問答と、暴虐の君主像が考察の対象とされたものがほとんどである。「角鹿の塩」については、歴史学的なアプローチがあるが、詛い忘れに関する研究は見られない(注1)。けれども、日本書紀の編者がおろそかに書いているとは思われない。

 是に、大伴[金村]大連、兵(いくさ)を率(ゐ)て自ら将(いくさのきみ)として、[平群真鳥]大臣の宅(いへ)を囲む。火を縦(はな)ちて燔(や)く。撝(さしまね)く所雲のごとくに靡けり。真鳥大臣、事の済(な)らざるを恨みて、身の免れ難きを知(さと)りぬ。計(はかりこと)窮(きはま)り望み絶(た)えぬ。広く塩(うしほ)を指して詛(のろ)ふ。遂に殺戮(ころ)されぬ。其の子弟(こいろど)さへに及(いた)る。詛ふ時に唯(ただ)角鹿海(つのがのうみ)の塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)

 平群真鳥大臣が滅ぼされる時、塩に呪(のろ)い(注2)をかけて食べられないようにしたが、その子弟(注3)も角鹿(敦賀)(注4)の塩(うしほ)ばかりは呪詛するのを忘れていたため、角鹿の塩は天皇御用達になったという話(咄・噺・譚)である。その後、天皇御用達の塩のことは聞かれないので、何を示すために記されたのかわからないとされるに至っている。今考えてわからない、不思議であるからといって、当時の人が遅れていたと考えるのは誤りであるとよく言われる。時に、技術の発達とからめて捉えられることもある。その言われ方には幾通りかあり、当時の人にあってはとても難しいことだったからという考え方、当時の人には大陸からの知識が広まっていなかったからという視点、当時の人には別に難しくはないけれど必要なかったとする見方、当時となってはすでに忘れられてわからなくなっていたという意見などである。しかし、話として書いてあるからには、話として共通理解が得られていて書かれてあると考えるのが素直であろう。技術も、多くの場合、必要は発明の母という言葉で説明し切れるほどに、必要なときには開発され、必要がないときは利用されず、捨て去られる傾向が強いようである。わからない話をわからないままに書いて事足れりとすることは、学校教育の行き届いた末の人たちだけかもしれない。日本書紀の編者は、わからない時、「〈此の古語(ふること)、未だ詳らかならず。〉」(雄略紀元年三月条)などと注釈を入れるほど、念を入れる頭脳明晰な人たちである。結果的に“嘘”になるような談話をしない、司馬遷のような立派な人たちであった。
 ここで検討しているのは、言葉の言い回しである。当時とは感覚が違ってわからないと思える話である。塩と呪詛の間にどのような関係があるのか、また、角鹿の特殊性についての事柄である。中四国から北陸、東海にかけての製塩技術の発展史を反映する形で、この呪詛塩話が形成されているとする説がある。塩作りの技術と呪詛との関係を、技術史で解読できるはずがない。“心”は出土しないから、後付けで講釈している。出土品+今日の人の考えによって、当時の“心”が“復元”できるとは考えられない。出土品+当時の人の考えでなければならない。当時の人の考え方は、記紀万葉に残されている。素直に汲み取ればいい。

 塩 陶隠居曰く、塩に九種有り。白塩は人の常に食する所也といふ。崔禹食経に云はく、石塩は一名、白塩なり。又、黒塩〈余廉反、之保(しほ)。日本紀私記に堅塩と云ふ。〉有りといふ。(和名抄)
 白塩 陶隠居本草注に云はく、白塩〈爾廉反、和名阿和之保(あわしほ)〉は人の常に食する所也といふ。」、「黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名、白塩なり。又、黒塩〈今案ずるに、俗に黒塩と呼びて堅塩と為(す)。日本紀私記に堅塩は木多師(きたし)と云ふは是也と案ず。〉なりといふ。(廿巻本和名抄)

 塩にはいろいろな種類があり、「九種」とあるのは本草和名に載るさまざまな種類の塩のことを表しているとされる。源順が知悉していたかどうかわからない。おおむねのことで、白い塩、黒い塩、それはまた、堅い塩で、堅塩(きたし)ともいうと書いてある。白い塩があったことは、日本書紀の記述からわかる。

 俗(ときひと)の曰(い)へらく、「……時に二の鹿(か)、傍(かたはら)に臥せり。鶏鳴(あかとき)に及ばずとして、牡鹿(をしか)、牝鹿(めしか)に謂(かた)りて曰く、『吾、今夜(こよひ)夢(いめ)みらく、白霜多(さは)に降りて、吾が身を覆ふと。是、何の祥(さが)ぞ』といふ。牝鹿答へて曰く、『汝(いまし)、出行(あり)かむときに、必ず人の為に射られて死なむ。即ち白塩(しほ)を以て其の身に塗られむこと、霜の素(しろ)きが如くならむ応(しるし)なり』といふ。時に宿れる人、心の裏(うち)に異(あやし)ぶ。未及昧爽(あけぼの)に、猟人(かりびと)有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人の諺に曰く、『鳴く牡鹿(しか)なれや、相夢(いめあはせ)の随(まにま)に』といふ」といへり。(仁徳紀三十八年七月)

 鹿の肉に白塩を塗りたくって塩蔵品を作っていたことから、鹿の夢の中に霜の降り積もるというしるしになってあらわれている。逸話として描かれているだけであるが、白い塩の存在が確かめられる。上代人の頭に、鹿と塩との結び付きがあったらしい。上の逸話は猟師と鹿との関わりで述べられている。列島において、鹿は獲物として熊や猪と並び最大級である。草食動物は、ミネラル分、特に塩を欲しがる。野生のシカやカモシカなども、塩分のとれるスポットを知っていて時折訪れる。人里に鹿が現われる時、便所に寄って来ることがある。人の小便の塩分を欲しがるようである(注5)。鹿が春日大社の使いとされて大事にされた時、家畜の馬や牛同様、今の鉱塩のように堅塩を与えていたのであろうか。すると、列島に縄文時代にはいた獣のうち、鹿狩りをする際に塩を使っていたのではないかと気づかされる。五月五日の薬狩りの対象である。広大な野で当日確実に仕留める手立てとして、あらかじめ塩を使っておびき寄せておけば、巻狩りとはいえ場所を限定することができ、効率的であったろう。獲った鹿の最大のお目当ては、薬効があると信じられていた袋角である。成長した牡鹿がターゲットであった。角鹿(つのが)と塩とは切っても切れない関係になったと言えるのである。

 十九年の夏五月の五日に、菟田野(うだのの)に薬猟(くすりがり)す。(推古紀十九年五月五日条)
 夏五月の五日に、薬猟して、羽田(はた)に集ひて、相連(つづ)きて朝(みかど)に参趣(まうおもぶ)く。(推古紀二十年五月五日条)
 鹿茸〈而庸反。角鹿初生。〉……鹿茸、一名、鹿角。〈雑要訣に出づ。〉和名加乃知[和ヵ]加都乃(かのわかつの)。(本草和名)

 塩生産は、海水の塩分濃度を高める「採鹹」、その鹹水を煮詰めて結晶を作る「煎熬」、できた粗塩か結晶化寸前の飽和水溶液を別容器に移して再加熱してにがりを焼き切る「焼塩」の工程に整理される。「焼塩」でできた塩は「堅塩(かたしほ、きたし)」と呼ばれる。塩を表す代表的な単位、助数詞に、嵩高や重量を表す「石(斛)」、「斗」、「升」、「合」、「勺」、「撮」がある。ほかに、形状のことからいうらしい「顆」、包み方、保存の仕方をいうらしい「籠」がある。「顆」は「堅塩」や「石塩(かたしほ)」の一個一個を数えて、~ツ(~チ)と言ったらしい。「籠」は、粗塩か「破塩(わりしほ)」を梱包か貯蔵した数を、~コ(コは甲類)と数えたのではないかという(注6)。粗塩の弱点は、湿度が高いと吸湿してべとべとになることである。なったらなったでそのままにがり分を上手に滴らせればよいという発想の転換をするか、べとつかないように予め焼き切るかという違いである。湿気の多い地方には竹籠に吊るしておく民具が伝わっている。塩の容器に、塩壺と塩籠があるのは、発想の違いともいえる。地場ですぐ使う塩に、燃料を多用して堅塩にする必要はない。堅塩を再び舂き砕いて択りわける必要もなく、粗塩のままの白塩を使って魚の塩蔵品は作られていたのであろう。精製塩はまた別のものである。
塩籠(アチック・ミューゼアム・コレクション)(「国立民族学博物館」様)
 大別した時の塩の二形態のうちの白塩(粗塩)が、武烈紀に登場する角鹿の塩なのではなかろうか。第一に、「広指塩詛」という言い方は、「塩」字にシホとウシホの両義を含めている。ウシホ(潮)は、ウミ(海)+シホ(塩)の意で、①潮汐による潮流、②海水、③塩、の3つの意で使われている。③の salt の意は、もっぱらこの武烈紀の用例に限られる。和名抄に、「潮 広雅に云はく、潮〈直遥反、字亦淖に作る。和名宇之保(うしほ)〉は海水の朝夕来り去る波の涌くこと也といふ。」とある。朝夕の満ち引きを潮汐と書き表わした。もちろん、月に導かれてのことであり、一日にほぼ2回あるからそう譬えられて然りなのである。真鳥大臣が指差してのろったのは、全国の津々浦々で満ち干している潮に対してであったろう。干満の様子がわかるから、指で指し示すことができる(注7)。ところが、角鹿(敦賀)の場合、潮の干満差はとても小さい。潮汐表に当たられたい。
 指で指し示すことを忘れたのは、潮があまりにも目立たず、同じ北陸道の手前にある琵琶湖岸の塩津港に同じかと錯覚し、湖の水はいくら焼いても塩はできないとの謂いではないか。「角鹿」は「越(こし)の前(みちのくち)」であり、それよりも手前に近江の塩津はある。それというのも、ツノガをことさらに「角鹿」と書いている。鹿に角があるのは実は当たり前のことではない。周知のように、牝鹿(めか)には角はない。子鹿も同様である。そして、古代にカと呼んでいるその当該牡鹿も、春になると角は落ちる。その後新しく袋角が伸びてきて、夏になると表面が角質化して角は完成する。成長するにつれ、大きく枝分かれしていく。秋にはオス同士の争いの武器となり、勝ったものがメスを独占できる栄冠に至る。つまり、ツノガをいう地名に、角鹿という字を当てて表すと、その地は鹿の角同様に、あったりなかったりするという特徴を再活性化させているのである。
シカの角(井の頭自然文化園解説パネル)
 あったりなかったりする点が、ツノガという場所の特徴を語るうえでわかりやすい。潮の干満があるのかないのかわからないとは、水の中に塩があるのかないのかわからないことである。そんな塩として一番ふさわしいのは、和名抄にアワシホと呼ばれる「白塩」のこと、焼き切っていない粗塩のことと考えるのが妥当である。顆単位の堅塩は、確かに堅く存在し、湿気が多かろうが少し水がかかろうがそう簡単にはなくならない。他方、粗塩の場合、湿気を帯びるとぽたぽたと流れて嵩が減って行く。落ちたにがりを豆腐作りに使えばいいのだが、豆腐の歴史は別に論じたい。
 話は真鳥大臣を主人公として描かれている。マトリ(トは乙類)と聞いて、マ(真)+トリ(取、トは乙類)の意と捉えるなら、対義語にカタ(片)+トリ(取)という語意が思い浮かぶ。それは、カタドリ(象・型取)のこと、型にはめて取った像のことである。伊勢神宮に伝わる御塩殿祭(みしおでんさい)の塩の焼き固めでは、三角錐のような形の土器に、およそ1.1リットルの粗塩を突き固めて焼いている。堅塩(かたしほ)に当たる塩が象られている。象られない塩とは粗塩ということになり、真鳥という名前は塩の形態をひとつに絞る仕掛けとして働いている。
伊勢神宮の塩づくり(「伊勢神宮・御朱印」様)
 さて、この粗塩を籠に入れて都へ運んだことがあるとすれば、到着時に荷をほどいてみたとき、ずいぶん少なくなっていて、本当に塩が籠か袋(俵、叺)にいっぱい入っていたのかどうかわからないと不審がられたことであろう。持ち運んで来た人は、そういうものなのだと一生懸命に説明したに違いない。「荷丁(もちよほろ)」(持統紀六年三月条)が切々と訴えている顔が浮かんで面白い。唯一、木簡例の証拠がある。

  □四籠□角□塩□□
    〔又 鹿 卅籠ヵ〕(注8)

 筆者は、特段に角鹿の白塩の実体に迫るつもりはない。話として、鹿の角はあったりなくなったりするから、「角鹿の塩」なるものを思考実験で思い浮かべられれば、それは観念の世界において十分に通用する。都に暮らす宮廷社会の人においてである。ツノガと聞けば、ツノ(角、ノは甲類)+カ(鹿)のことであると、字がわからなくてもピンとくる。なぞなぞとして、鹿(か)に角は必ずしもいつもあるわけではないから、これはおもしろい、ということになる。
 そのようなことが想起されていたことを示す証拠として、応神天皇が角鹿の気比大神と名替えを行ったとする仲哀記の話があげられる。

 故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つのが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)

 夢に現れた伊奢沙和気大神が名を易える幣を献ろうと言ったので、翌朝浜へ行ってみると、浦一面にイルカ(入鹿魚)がミケ(御食)のナ(魚)としてうち上がっていた。名と魚(な)とを易えたのではなく、ナ(中・名・魚・己・無)という概念を総ざらえにするという認知言語学的に高度なレトリックが繰り出されていた(注9)
 イルカがうち上がることは稀に見られる。理由はわかっていない。イルカとしても愚かなことである。それを見た人は、潮が引いていくことを忘れていた、あるいは油断していたと考えた(注10)。不注意のうっかりミスである。うかうかしていた。角鹿の海は潮の干満が少ないが、かといって皆無ではない。うかうかしていたからイルカはうち上げられた。日葡辞書に、

 Vcavcato. ウカウカト(うかうかと)副詞.不安定な,ぼんやりしているさま,または,気がふれたように放心しているさま,など.
 Vcavcaxiij. ウカウカシイ(うかうかしい)軽率な,または,頭の鈍い.
 Vccarito. ウッカリト(うつかりと)副詞.注意もしないで,ぼんやりしているさま.¶Vocarito xita mono.(うつかりとした者)うつけたようになっている者,または,何事かに心を奪われている者.(注11)

とある。だから、「御食(みけ)の魚(な)」となっている。「御食(みけ)」とは、「御笥(みけ)」と同等の語である。食べ物を盛る器が「笥」である。そこへ盛るご飯のことをケヒ(笥飯)といい、角鹿に坐す大神の名とされている。また、笥に入れる(注12)食べ物とは、食物自体をあらわす神の名、ウカである。

 倉稲魂、此には宇介能美拕磨(うかのみたま)と云ふ。(神代紀第五段一書第七)
 次に、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(記上)
 粮(くらひもの)の名をば厳稲魂女(いつのうかのめ)〈稲魂女、此には于伽能迷(うかのめ)〉と云ふ。〉とす。(神武前紀戊午年九月)

 うかうかしていて人の食べ物、ウカとなったもののメッカのようなところが、ツノガ(角鹿)というところにふさわしい。そのように獲れたイルカの類の自然の恵みをどうやって都へ運ぶのか。実際に「贄」として貢納したのが先ではない。頓智の世界において、話(咄・噺・譚)として、人々の観念のなかでどのように「想像」されたかを、テキストを頼りに検証している。歴史学や神話学とは無縁の、無文字文化のなかの純文学(言葉遊び)として捉え直している。上代の人は必ずや気づいたことであろう。塩蔵品にしようと。そう思考を進めていくと、角鹿の地は、どうしても塩の大産地であって欲しいことになる。言=事をモットーとする言霊信仰のもとで暮らす人たちは、そのように観念の世界で遊んだ。だから、文献上も出土状況も隣の若狭国が塩の大産地であるのに、角鹿にまつわる塩の話が日本書紀に載っていて、学者さんは悩むのである。実際に角鹿の地に製塩遺跡は皆無ではないようであるが、大産地を隣に控えていて、なにもわざわざ「角鹿の塩」をブランド品と捉える必要性はない。言葉の十分性の観点から、洒落として、小噺の次元で、「角鹿の塩」は有名であったと考えられる。言霊信仰のもとで忠実に言=事を再現しようとした結果、あるいは長屋王のもとへ「角鹿塩」が運ばれたということであろう。単位として「籠」とあることに、民具の塩籠を思い起こさせるものがあり、粗塩が運ばれたのであろうと推測されるのである。
大相撲の塩籠(「朝日新聞デジタル」様)
 「角鹿の塩は、天皇の所食(おもの)とし、余海(あたしうみ)の塩は、天皇の所忌(おほみいみ)とす」とある点については、言霊信仰の第一人者、推奨者が、天皇という存在であったからであろう。天皇という存在により、列島はほぼ平和的に統合された。「言(こと)向け和(やは)」(記上)すことが行われた。言葉で和平交渉をしたと考えるのは、誤りとまでは言わないが、正鵠を射ているとは言えない。言葉を使うとは、言葉の内容の次元と、言葉の外見の次元がある。その両者が相俟って、全国(肥国、高志国、毛野国、……)が戦争をせずに一つとなってまとまっている。その力とは、言葉としてそういうことだよね、という点に説得力があって、皆が納得して従ったということである。言葉が言葉自体を説明してグルリンパと落ちがつけば、喧嘩をしようにも喧嘩にならない。店員が「無いものはございません」という洒落横丁で、客が難しい注文をしてその商品がないとわかると、無いものはないと言っただろうとクレームをつけたとしても、「『無いもの』は無いのです」と看板を指差しながらニタニタと答えられたら、「何を?!」といきり立っても負けを認めざるを得ない。本邦初の人代の天皇とされる神武紀には、その方法が明示されている。(注3)にサヘニで詳解している文である。古代天皇制は、言語学に精通したことによって成り立ったと言える(注13)

 初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥(ひき)ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃ひ蕩(とら)かせり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲(ここ)に起れり。(神武紀元年正月)
(つづく)
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