歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(5)

2010-03-03 00:06:29 | アタテュルク像問題

(4)からの続き

それにしても、一連の“セルカン事件”の流れを追っていて思ったのは、これだけネットが発達し、しかも自動翻訳ソフトの精度が日々向上していることを考えれば、単純に日本語と他言語間の“言語障壁”を利用した“だけ”の詐術というかインチキは、今後は通用しづらくなるのではないかということでした。

もし仮に、その言語が、翻訳ソフトなんて存在しなさそうなマイナー言語であっても同じでしょう。現に今回のように、その気になって探せば、ネット上には古代シュメール語が読める日本人すらいた訳で。

ただまあ、セルカン氏が他人の発想やデザインをパクれたのも、コピペ論文で博士号が取れたのもまた、発達したネットのお陰なんでしょうけどね。

その意味では、氏は自己実現というか、成り上がるためにさんざん活用してきた、まさにそのネットによって引導を渡されるという、何とも皮肉な運命を辿ることになりそうです。

合掌。

ところで、日土間の“言語障壁”を悪用していたのは何もセルカン氏1人に限ったことではありません。似たようなことをやっている人は、実は日本人の中にも結構いたりします。以前にアタュルク像騒動に関するエントリーで取り上げた新潟県柏崎市の三井田市議なんて、まさしくその典型でしょう。

この政治家の先生は、かねてより対立政党に属する柏崎市長に圧力をかけるとともに、恐らく自身の知名度を高めるため、例の“アタテュルク像問題”を最大限に活用しようとしてきた節があります。

確かに、他国から貰った物を大事にしようと言う主張そのものは間違いではないし、政敵の失点に乗じて名を売るのも、まあ政治の常道なのでしょう。また、アタテュルクなんて普通の日本人には馴染みの薄い名前ですから、世間の耳目を引くためには、いくらか問題を誇張する必要があるというのも、分からない話ではありません。

でも、だからといって、そのためにトルコの新聞記事やら写真の内容を歪曲して広め、元より存在しない“日本に激昂するトルコ世論”なるものをでっち上げるというのは、完全に“誇張”の域を超えています。

はっきり言って“詐欺”ですよ。

ネット上で拾った写真を適当にコラージュして“トルコ人初の宇宙飛行士”を名乗っていたセルカン氏と、何ら変わるところはない。

もちろん、嘘自体のスケールこそ違いますが、“エルトゥールルの恩返し”物語を絡めて、ネットやメディアをうまく利用した点なんてよく似ていますね。実際に“引っ掛けた”日本人の数から言っても、結構良い勝負なのではないでしょうか。

こういうことを書くと、

“嘘だろうが何だろうが、三井田ブログや産経新聞のお陰でアタテュルク像問題に関心を持つ人は実際に増えたんだから、それで良いではないか!銅像の串本移転にも貢献したに違いない!!”

とか何とか、“嘘も方便”的な擁護をする人が出てくるかもしれませんが、そういう“ダメな前向き思考”はよくないですね。

話を分かりやすく某健康食品に例えるならば、

“食べなかったら絶対に死ぬぞ!と無理やりプルーンを大量に買わされて仕方なく食べてるけど、今健康な理由の何分の一かはきっとプルーンの効能のお陰だから、そういう強引な商法も超OK(死語)

みたいなことを言うに等しい .....

とか、却って分かり難くなってますがw、

要するに、どんな言い方をしようが“嘘”は“嘘”であって、それを信じた人たちが騙されていたという事実に変わりは無い訳です。

でまあ、嘘吐きは今後も何かと嘘を吐き続けるだろうから、その口から出る言葉は何であれすぐには信用せず、まずは眉に唾をつけてみようという話ですかね。

それと、前にも書いた通り、銅像の串本移転が急転直下的に実現したのは、今年の1月4日から1年間続く“トルコにおける日本年”の記念事業の一環だと言われているわけですが、そのために、銅像を所有していた企業と直に返還交渉を行ったのは駐日トルコ大使館であり、移転の費用を負担するのは日本財団です。移転そのものには、三井田市議らは別に関わっていないはず。

何はともあれ、銅像問題も解決したことだし、さすがにもうこのネタは引っ張ってないだろう、と思って久しぶりに三井田市議のブログを見てみたら....

こんな↓記事がありました。

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2010年1月 5日 (火)

アタチュルク像、トルコ国外では最大
トルコ国内でアタチュルク像報道

http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/2010/01/post-9264.html

(
前略)


本年2010年は、エルトゥールル号事件から120年となることから「2010年トルコにおける日本年」となった。この事から、本年1月3日から4日まで岡田克也外務大臣がトルコを訪問し、アブドゥッラー・ギュル(Mr. Abdullah GUL)大統領をはじめ、アフメット・ダーヴトオール(Dr. Ahmet DAVUTOGLU)外務大臣との会談、そして「2010年トルコにおける日本年」のオープニング式典に出席した。

そして、アタチュルク像問題についての経過説明と謝罪が岡田外務大臣からあったという(トルコ国内某自治体関係者より)。

発言した詳細な内容を議事録などのかたちでまだ入手はできていないが、トルコ国内の複数の新聞でアタチュルク像の移設まで書かれた記事が4日から5日にかけて掲載されたことから、事実であろうと推測できる。

一例:Hürriyet紙(英文)
「Erecting Atatürk’s statue in another corner of the world」

トルコ語の別記事:http://www.nethaber.com 「Kaidesiyle birlikte 7.5 metrelik Atatürk heykeli Japonya’nın Kushimoto kentine dikilecek」

内容としては、両国のため今年のイベントに影響がないよう、ご苦労をされた駐日大使への配慮もあって、以下のようなストーリーになっている。

・新潟地震?により、トルコ文化村は廃業となり、この地震によって銅像にも損害があり、保管されていた。しかし、今回、もうすぐ再建される。

記事によっては「Kashiwazaki:柏崎」の名称が出ておらず、「Niigata:新潟」という表記のみで新潟県民皆様へは申し訳ない限りであるが、両国のためにはこのような報道でまずは安心したところ。

また、今回のトルコ語を何とか読んで分かったことは、旧柏崎トルコ文化村に建立されていたアタチュルク像(重さ8トン、全高7.5メートル)は

・トルコ国外にあるアタチュルク像では一番大きい。
・トルコ国内を入れても3番目の大きさを誇る。

だったことである。

本来であれば、柏崎市で引き取り、柏崎市から和歌山県串本町に移設するのが筋であるが、今回のように一旦、トルコ共和国に返す(駐日トルコ大使館)かたちになったのは、恥の極み

今年、是非、トルコに行き、関係者の皆様にお詫び申し上げたいと思う。

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まだやってたのか!w

今回のは多少手が込んでるようですが…..

何というか……

その行間から

“銅像問題は解決なんかせず、ずっと飯のタネであり続けてくれればよかったのに!”

という魂の叫びとか、

“それが無理なら、この問題が後々までも市長派への糾弾+知名度UP用の政治的アイテムとして使い続けられるよう、最低でも自国の外相すら巻き込んだ<外交問題>に発展したことにしておきたい“

という書き手の執念の如きものが、にじみ出ているような文章ですね。

大本の情報ソースが“トルコ国内某自治体関係者”と微妙に得体が知れないのも、落合信彦みたいで素敵ですw。

 →(6)に続く


アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(4)

2010-02-19 00:31:10 | アタテュルク像問題

→(3)からの続き

セルカン氏(+“チーム・セルカン”?)による“エルトゥールルの恩返し”物語の有効利用はまだまだ続きます。

“串本大使”になった後、2007年11月1日の日本語版ブログには、あの有名なイラン・イラク戦争時のトルコ航空機による、在イラン日本人の国外脱出の話が出てくるのですが、

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「影のヒーロー 」 2007年11月1日
http://blog.anilir.net/?month=200711
|
1985年3月19日、今は故人となった元イラク大統領サダム・フセインが 突然、イラン上空通過航空機の無差別爆撃を表明しました。イラン・イラク戦争の勃発です。イラン在住の外国人は、至急に国外脱出をしないと危険です。その猶予は24時間。まさに映画の様な出来事です。

しかし、日本は自国のエアラインがテヘランに乗り入れていないため、帰る手段がありません。多くの外国人が帰国する中、日本人は取り残されることになってしまいました。大使館もあらゆる交渉を行いましたが、時間だけが刻々と過ぎていきます。

すると、トルコ航空が手を挙げました。危険を顧みず、トルコ航空の飛行機はテヘランに飛来し、多くの日本人をトルコまで送り届け、そこから日本人は自国機に乗り換え帰路につき、戦争を免れました。

「日本の串本では、トルコ人の祖先の船が遭難したとき、町の人々が全力でトルコ人を助けてくれた。今は、その恩を、感謝を返すときだ。」

それが、この救出劇の真実でした。


歴史には、影のヒーローがいるものです。そして、僕はそのヒーロー、その時のトルコ航空の機長に、先日お目にかかりました。 彼は、僕が串本大使になり、町作りに貢献していく活動を行っていることも、既に知っていました。

「セルカン、君はトルコと日本の架け橋になるんだ。君の手には、もう既にそのバトンが手渡されている。」

トルコ人のこの熱い気持ち、僕は同じ民族として、とても誇りに感じました。 トルコと日本は、歴史の中で様々な出会いをしてきました。それを結んできたトルコと日本の人々は、決して有名人ばかりではありません。国と国をつなぐのは、人と人が結ぶ手、この熱い思いなのです。

いつかオルハンさんを連れて、串本へ行こう、そう思っています。
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ふーん、バトンが手渡されてるんだ。良い話ではありませんか(棒読み)。その“バトン”が誰から渡されたかは明示されてませんが、文脈から言ってこの機長氏からセルカン氏にってことになるんでしょう。

つまり、セルカン氏が串本で行おうとしている(ことになっている)“町興し”の活動は、 1985年のトルコ航空機による在イラン日本人の脱出行と同レベルにして、同時に“エルトゥールルの恩返しサーガw”の一端に連なる善行である。しかも、その際のトルコ航空の機長のお墨付きなのだ、とでも訴えたいようです。

しかし、元機長氏は本当にそんなことを言ったのか?

その翌日の、同じ内容について書かれたトルコ語版の記事は以下↓の通り。

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「旗を担うこと….」     2007年11月2日
原題:Bayrağı taşımak...
http://anilir.blogcu.com/bayragi-tasimak/2532853

1985年、当時のイラクの指導者サダム(=フセイン)は突如としてイランへの侵攻を決定。イラン領内に居る外国人は24時間以内に国外に退去するよう最後通牒を出しました。イラン在住の外国人たちはこのニュースを知ると、自国の航空会社の飛行機でテヘランから脱出し始めたのです。ただ一つの国を除いて。それが日本でした。

というのも、イランは遠く、飛行機を出しても時間内には到達できないこと、また、リスクが高いことなどを理由に、日本航空がフライトを拒否したのです。220名もの日本人たちが、空港に閉じ込められることになりました。彼らを乗せてくれそうな飛行機はまったくありません。そうやって、戦争が始まってしまいました。

その時、テヘラン空港に、予定には無かった一機の飛行機が着陸しました。DC-10型機の胴体には“トルコ航空”の文字が。その時は熱狂的な歓迎を受けたわけではありません。でも、トルコ航空は、その場にいた日本人たちに対し“これはあなた方を迎えに来たのだ”と言うではありませんか。

※実際にやってきたのは2機で、一機がダイヤにあった定期便、もう一機が特別機だった。

件のトルコ航空機は、爆弾が炸裂し、戦闘機が飛び回っていた空域から巧みな操縦技術によって離脱、日本人の乗客全員をトルコへと移送したのでした。彼らはそこから日本へと戻ったのです。

※その時は“無差別撃墜”の時間帯に入る前であり、実際にはテヘラン空港周辺での戦闘は行われていなかったはず。

10月29日に東京のトルコ大使館で開かれた建国記念日のパーティーは、その前の週に起きたテロ事件によって我が軍に戦死者が生じた悲しみから少々しめっぽく、でも賑やかなものでしたが、その席で、あの日本人をイランから脱出させた飛行機の機長であった、オルハン=スヨルジュ氏と知り合う光栄に浴しました。
|※2007年10月21日、イラク国境に近いトルコ南東部のハッカリ地区で、トルコ軍部隊がクルド人の独立派組織“PKK(クルド労働党)”のゲリラによる攻撃を受け、10人以上の戦死者が出たといわれるが、この事件のことを指していると思われる。

氏のお話で印象的だったのは、“私たちは、別に英雄的なことなんてしてないよ。ロンドンに飛ぶような感じで向こうに行って客を乗せ、トルコまで戻ってきただけだ。でもまあ、爆弾の音を聞いたり戦闘機を見たりした時点で、戦争が始まっているのは分かったんだけどね。”と言われたことです。

注意していただきたいのは、氏が主語を単数ではなく複数形にして話されていた点ですね。つまり、氏は俺がやったのだ、俺が飛んだのだ、みたいなことは言わず、あくまでクルー全員の功績であることを伝えようとしていたのですよ。こちらが人生において最も尊敬すべき人間の特性であると考える、このような無私の人柄を前にして、私は思わず頭を下げ、敬意を示したのでした。

しかしながら、恐らく新聞記事で目にされた方もおられるでしょうが、日本の小泉首相がイスタンブルを訪れた際には、その際に副操縦士だった方を機長だと勘違いして、そちらに顕彰プレートを手渡してしまいました。それでも、氏はいっこうに動じなかったのです。

あと、我々が行っている研究について大使館でいくらかの知識を得ておられたのでしょうが、こちらに向かって、

“君や、君のような人たちはここで一本の旗を担っているんだよ。この旗は、日土間の友好と言う風を受けて翻っている。この旗を担い、この風を世界各地にもたらすのが、君らの責務なのだろうな”

と言われたのでした。大なる敬意を以て、再度頭を下げた次第です….。

私たちは、歴史における大切な事件をそんなに沢山は知りません。でも、こうした事件こそが、大いなる友好関係の端緒となっているのです。日土の友好関係は永久に続いていくことでしょう。

さあ、日土友好に重大な貢献をなしたオルハン=スヨルジュ元操縦士とクルーの皆さんのことをネット上に広めて、もっと多くの人々に知ってもらおうではありませんか。そうなれば、この友好関係をさらに磐石なものにするに違いない、沢山の新たな英雄を産むきっかけを作ることになるのです。

追伸:あと何ヶ月か後に伯父さんになります。アヌルル一家に初孫が生まれるのです….。
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日本語版の方にはこんな↓くだりがありますが、

>「日本の串本では、トルコ人の祖先の船が遭難したとき、町の人々が全力で
>トル コ人を助けてくれた。今は、その恩を、感謝を返すときだ。」それが、
>この救出劇 の真実でした。


トルコ語版では串本やエルトゥールル号の話なんて微塵も出てきません。

その理由は…もういいでしょう。

それとですね、トルコ語版の方のこの↓くだりを読んでいて、

>注意していただきたいのは、氏が主語を単数ではなく複数形にして話されて
>いた点 ですね。つまり、氏は俺がやったのだ、俺が飛んだのだ、みたいなこ
>とは言わず、 あくまでクルー全員の功績であることを伝えようとしていたの
>ですよ。こちらが人生 において最も尊敬すべき人間の特性であると考える、
>このような無私の人柄を前にして、


日本の某科学館が宇宙エレベーターを題材に教育用アニメを製作した際、実際には3人いた監修者の1人に過ぎなかったにも拘わらず、あたかも原作から監督から全て自分1人でやったかのように騙っていた、どこかの自称宇宙飛行士候補にもぜひ聞かせてやりたい話だと思いましたねw。

また、同じくトルコ語版のこの↓箇所を読んでいる時も、

>さあ、日土友好に重大な貢献をなしたオルハン=スヨルジュ元操縦士とクル
>ーの皆さんのことをネット上に広めて、もっと多くの人々に知ってもらおう
>ではありませんか。そうなれば、この友好関係をさらに磐石なものにするに
>違いない、沢山の新 たな英雄を産むきっかけを作ることになるのです。


そのスヨルジュ元操縦士と自らを不自然に結びつけて売名を図っている怪しいトルコ人と不愉快な仲間たちは明らかに日土の友好に害をなしつつあり、両国の友好関係を危機にさらさないためにも、彼らのことはネット上に広めて、もっと多くの人々に知ってもらうべきだと決意を新たにした次第ですw。

そして何よりも、スヨルジュ元操縦士がセルカン氏に言ったというこの↓言葉は、

>“君や、君のような人たちはここで一本の旗を担っているんだよ。この旗は、
>日土間の友好と言う風を受けて翻っている。この旗を担い、この風を世界各
>地にもたらすのが、君らの責務なのだろうな”


要するに“両国のためになることをしてるそうで。頑張ってね”くらいのことを、文学的表現を用いて言ってるだけだと思うのですが、

それがどうして、 こういう↓劇的なw日本語になってしまうのか。

>「セルカン、君はトルコと日本の架け橋になるんだ。君の手には、もう既
>にそのバトンが手渡されている。


意訳のレベルを超えているように思えます。

というか、アーサー・C・クラーク氏をはじめ、有名人との人間関係などを捏造するのが得意なセルカン氏のことですから、そもそもどちらもスヨルジュ氏の発言ではなく、セルカン氏の脳内から生じたものかもしれないんですけどね。

ちなみに、トルコ語版の方にあった、

>しかしながら、恐らく新聞記事で目にされた方もおられるでしょうが、日本
>の小泉首相がイスタンブルを訪れた際には、その際に副操縦士だった方を機
>長だと勘違いして、そちらに顕彰プレートを手渡してしまいました。それで
>も、氏はいっこうに動じなかったのです。

とのスヨルジュ元機長についての説明は、事実に反します。実際には、このことを知ったスヨルジュ氏は激怒。駐土日本大使館に抗議文を送り、長年の友人だった副操縦士とは絶好状態になってしまいました。

後に、両者はトルコの新聞“ミリエット”紙の記者の仲介で和解することになりますが、これについて報じた記事の和訳が、東京外国語大学のサイトに掲載されています。

↓東京外国語大学のサイトより
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http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News200623_1824.html


小泉首相訪問が日本人救出したパイロットの友情裂くことに!本紙が仲裁し誤解解消へ(Milliyet紙)

2006年02月02日付 Milliyet紙

日本のドキュメンタリー番組で、 1985年のイラン・イラク戦争時に215人の日本人を1人で救出したかのように描かれたトルコ航空元第二パイロットのアリ・オズデミルを日本の小泉首相が訪問すると、第一パイロットであったオルハン・スヨルジュとの55年間に渡る友情に亀裂が入った。しかし本紙記者が仲裁に。  

すべては2年前に始まった。1985年に当時のイラク指導者サダム・フセインがテヘランにミサイル攻撃を行うと警告する中、テヘラン空港に残された215人の日本人を救出したトルコ航空の元パイロットを撮影するため、日本のドキュメンタリー制作チームがトルコにやって来た。

しかし制作チームはそのトルコ航空機の第一パイロットであったスヨルジュではなく、第二パイロットであったオズデミルを撮影した。

そして今回、日本の小泉首相のトルコ訪問が問題を大きくした。小泉首相はドキュメンタリー番組に影響されオズデミルだけに感謝を述べ、オズデミルとスヨルジュの55年に渡る友情の溝を深めた。

小泉首相の訪問後疎遠になっていた2人を、本紙が仲裁した。 

事件の続きをスヨルジュが説明した。

「2年前ドキュメンタリー撮影の準備をしながら制作チームは私を探していたが、私はその時ボドルムにいた。10月に戻ると話した。戻った後、ある日オズデミルが私に電話をかけてきた。ドキュメンタリーを撮影する日本の制作チームが彼の家に来ていると言って、私も招待された。私が到着したとき、アリは制作チームに救出フライトを行ったメンバーのリストを見せていた。しかし彼らはあまり関心を持っていなかった。制作チームはオズデミルが唯一のヒーローであるかのように接していた。私はこの救出フライトがチームプレイだったことを話したが、注目されないと分かると家に帰ったよ。」

■「どうして話さなかったのか」

日本で放送されたドキュメンタリー番組に影響された小泉首相も、犠牲祭の時期にトルコを訪問した際、唯一のヒーローとして描かれていたオズデミルと会い、感謝を述べた。この訪問の後第一パイロットだったスヨルジュは受話器を握り締め、親友のオズデミルに電話をかけた。

「アリ、テヘランには神風特攻隊のようにたった1人で向かったのかい? あれはチームプレイだったと何故言わなかった? 今後も成功することを祈っているよ」

と話し、電話を切った。これが2人の最後の連絡となった。その後事件の真相を説明する手紙を書き、日本領事館に送った。

■「親友だった」  

本紙記者は事件の詳細を聞く為、まずスヨルジュのところに向かった。スヨルジュはドキュメンタリー制作チームの中途半端な仕事のせいで問題がここまでこじれたと話した。更に「私はアリより4歳年上だ。55年にも渡る友情がある。昔から散歩をしていたよ。これまでも散歩をしながら、心から話したよ。でもこの事件が私たちの関係を変えてしまった。」と話した。

■「私に罪はない」
我々がオズデミルを訪ねていくと、「私はドキュメンタリーを撮影する制作チームに救出フライトチームのリストを見せたが、彼らはそれを番組に取り入れなった。これに関して私に罪はない」と話した。唯一のヒーローであるかの様に描かれたオズデミルは、インタビューの後となりのアパートに住んでいるスヨルジュの家に一緒に行きましょうという誘いを受けてくれた。 

約1ヶ月ぶりに再会した親友同士は、懐かしそうだった。オズデミルは「君を考えない日はなかったよ、兄弟」と言って、スヨルジュを抱きしめた。 

本紙記者がこの2人と別れる際、2人は「誤解を解いてくれてありがとう」と言っていた。
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わざわざこんな話を掘り返して、スヨルジュ氏を貶すなと言う人もいるかもしれません。

でも、何しろかつての危険なフライトを理由に、当時のクルーが客室乗務員に至るまで称揚されたというのに、自分1人が除け者扱いされたのです。スヨルジュ氏の怒りは人として当然のことだし、日本大使館に抗議するのも正当な行為だと思いますね。

むしろ、ただ“俺はこんな偉い人と知り合いなんだ”と言いたいが為に、事実を曲げて無理やり安っぽい人格者に仕立て上げる方が、よほど相手に失礼ではないでしょうか。

ところで、今後のセルカン氏は東大助教の職も危ういと言われるわけですが、2010年2月18日現在、“串本大使”の肩書きは未だ保持しているのでしょうか?

英語版Wikiのセルカン氏についての項目を見てみたところ、こんな↓具合でした。

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http://en.wikipedia.org/wiki/Serkan_Anilir

Serkan Anilir “Crocodile” (Turkish: Serkan Anılır) (b. March 22, 1973) is a honorary ambassador of Kushimoto city in Wakayama prefecture, Japan.

セルカン=アヌルル“クロコダイル”(土:Serkan Anılır)(1973年3月22日生まれ)は、日本国、和歌山県串本市の名誉大使である。
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どうやら、かつて存在した山のような肩書きの中で、唯一残っているのがこの“串本大使”の称号らしいのです。これだけは叩いても埃の出ない“本物の”肩書きだということでしょう。しかし、“クロコダイル”って何なんですかね?コードネームか?w

そういう制度があるのかどうか知りませんが、串本町は一日でも早く、セルカン氏を“串本大使”から“解任”した方が良いように思えます。これ以上国外で悪用されないためにも、また他の“串本大使”の方々の名誉のためにも…..。

→(5)に続く


アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(3)

2010-02-17 23:35:41 | アタテュルク像問題
→(2)からの続き

しかし、そもそもセルカン氏が串本町と関わりを持つようになったきっかけって何なのでしょうか?

氏のブログの記事などを読む限り、どうやら氏の側から積極的に串本町に接触したらしい。 2007年6月10日のトルコ語版ブログには、以下のような記述があります。

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http://anilir.blogcu.com/japonya-da-bir-turk-sehri/1762786

今週、“インフラ・フリー”システムの日本での適用性を調査するために、和歌山県の串本市を3日の日程で訪問しました。

研究のため串本市を選んだのには、重要な理由が二つありました。第一に、2万の人口を有するこの都市では、インフラ・システムの基石の一つである集中廃水処理システム(下水道)を利用している人々が人口の僅か5パーセントであり、新しいシステムが必要だと感じられたこと。第二に、というか多分こちらがより重要なのですが、串本市はトルコ人に最も縁のある町として知られていることでした。

※実際には2万未満。
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以前に引用した新聞記事でも多少触れられていましたが、セルカン氏は自らの研究“インフラ・フリー”技術の主な実験地として、串本を選んでいるのです。

上の引用した文章にも正直に書いてある通り、別に串本が理想的な研究環境というわけではないらしい。下水道の普及していない人口2万以下の過疎の町や村なんて、おそらく、探せば日本中にあるんだろうし。

最大の理由は、宣伝効果が高いことでしょう。もっと露骨に言えば、氏にとって“串本”は売名の良いネタだったのではないですかね。

大分前のエントリーでも書いた通り、普通のトルコ人で、串本という地名や、それにまつわるエピソードを知っている人はそれほど多くありません。

でも、かつてトルコ人(正確には“オスマン人”ですが)の船乗りが命を救われた村を、日本で活躍するトルコ人博士がロハスでお洒落な最新テクノロジーを以て過疎化から救うという美談は、いかにもトルコ人の自尊心をくすぐりそうで、母国で名を売るには非常に役立ちそうな“物語”です

さらに、その最初の串本調査からわずか3ヵ月後には“串本大使”に任命されるに至るわけで。

まあ、トルコ人で、世界的に有名な“宇宙飛行士候補”で、何よりも東大のお墨付きのある博士にして教員なのです。しかも話術が巧みで、自身の研究によって町興しを支援してくれると言う。串本町の役場の人たちが直ちに飛びついたのも仕方が無いでしょう。

で、実際には単なる名誉職であっても、普通のトルコ人にはそんなことは分りませんから“セルカン博士の貢献に感謝する和歌山県が、氏を串本の開発を指導する要職に任命した”と少々誇張して、件の“物語”にさらに彩を加えたのでした。

そして、トルコで串本とかエルトゥールル号が話題になることがあれば、セルカン“串本大使”は一連の“物語”とともに脚光を浴びることになる“はずだった”わけですよ。

例えば、今年の“トルコにおける日本年”にしても、もし昨年からの騒動が無かったとしたら、セルカン氏はトルコのメディアでも、もっと色んな所に露出していたに違いない。

一方、日本人に対しては、方々で自分と串本の結びつきを宣伝することで、人々の間にある素朴な親土感情がセルカン氏個人への好感度に結びつくように努め、同時に知名度も上げようとしたって感じですかね。

そのために利用したのが、例の“エルトゥールルの恩返し”のエピソードだったようです。

あのエピソードを信じている素朴な人がいかに多いかは、ちょっとネットを巡回すれば分ることですから、セルカン氏ならびに“チーム・セルカン”の中の人々も、“これは使える!”と踏んだのでしょう。

“大使”になる約1年前、2006年10月27日の日本語版ブログにはこんな↓ことが書いてあります。串本を利用する計画は、ずっと前から進んでいたのですね。

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2006.10.27 Friday      和歌山大学
http://blog.anilir.net/?eid=280633

トルコと日本は歴史上、一度も戦ったことがないばかりか、トルコの船が難破した際に和歌山県串本町の方々が町をあげて助けてくだって以降、トルコの人々はその感謝を忘れずに、親日家が多い国となっています。僕も日本が大好きですし、今回初めて伺った和歌山で出会った人々も、とても温かいステキな方ばかりでした。

講演会でもたくさんのご質問をいただき、先生、生徒さんが垣根なく学ぼうとされる積極的な姿勢は、和歌山大学の素晴らしさではないかと感じました。来年、串本町での講演のお話も進行しています。再訪を楽しみにしています。
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また、このシリーズの最初で引用した、セルカン氏の串本訪問を報じた2007年6月2日付けの南紀州新聞にはこういう↓くだりがありますが、

>同町は日ト友好原点の地。 セルカンさんは、 トルコ軍艦エルトゥールル号
>の遭 難を教科書で学んだという小学生の従弟から預かった 「エ号を助けて
>くれてあり がとう。 いつか出会えるのを楽しみにしています」 というメッ
>セージを披露


この話は、2007年6月10日の日本語版ブログの記事に詳しく出てきます。

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 「串本町調査」  2007年6月10日
http://blog.anilir.net/?eid=454124

インフラフリー研究の国内調査のため、和歌山県の串本町に行ってきました。

串本町とトルコには、とても深いゆかりがあります。この関係は、1890年9月、トルコの軍艦エルトゥールル号が串本沖で難破したことから始まっています。この時、亡くなった人は580名にもおよび、串本の方々に助けられた約70名の人だけ生還できました。住民の方々は、見たこともない異国の遭難者を、町をあげて救出し保護してくれました。

トルコでは、その感謝の気持ちを今も忘れずに、子供たちにも教科書に載せて伝えています。 僕もトルコ人として、この感謝の気持ちを表明したいと思い、樫野崎灯台近くに建立されているエルトゥールル号遭難慰霊碑とトルコ記念館に足を運びました。串本町長もご一緒して下さり、ご案内いただきました。

その後、大島小学校を訪ね、子供との時間をもちました。みんな明るくて、トルコ人にも慣れていて、楽しい時間を過ごしました。トルコの国旗を持って校門で出迎えてくれたり、僕のスリーサイズを知りたがったり(笑)、本当にかわいい子供たちでした。また会いましょうね。

そのまま高校へ移動し、僕が1時間ほど、話をしました。串本町のすべての中学校・高校の生徒が集まってくれて、質問もどんどん出て、充実した時間を一緒に共有できました。

今後、串本で彼らが活躍できるフィールドがある町作りを目指して、僕らの研究が役にたってくれれうば、こんなにうれしいことはないと思います。

その後、調査のデータを打ち合わせするため、役場に向かいました。役場に到着したら、そこでもトルコと日本の国旗を持って待っていてくれる人たちが。

串本町は海沿いにあり、日本最南端に位置しています。そのため、南国ムードがあふれていて、よい観光地になる可能性がありますが、まだまだインフラの整備ができていません。近隣の島には、まったくインフラがない無人島もあり、地元の漁師の方に船をだしていただき、調査に行ってきました。ここをリゾート地として開拓することは、研究としても、町の将来を考えても、非常に意義のあることかもしれないなと感じました。

最後に、僕のいとこの話をご紹介します。実は、2年前、当時9歳だった僕の従兄弟から、頼まれていたことがありました。もし、セルカンおじちゃんが串本に行くことがあったら、トルコの子供達はみんな、串本の人たちにありがとうと思っているし、串本の子供と僕たちは、会ったことはないけれど友達だと思っている、と伝えてほしいとのことでした。今回、ようやく従兄弟との約束を果たすことができ、明日からのトルコ出張には、胸を張って従兄弟に報告ができます。みなさん、本当にありがとうございました。
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 恐らく本当にそういうことを話したのでしょう。良い話ではありませんか(棒読み)。

ま、そういうのはどうでもいいとして(←セルカン氏の口癖らしい)、同じ日に同じ内容について書かれたトルコ語版ブログの方はどうでしょうか?

最初の部分は前の方で引用したので少し重複になりますが、一応全文を引用してみようと思います。

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 2007年6月10日    
「日本にあるトルコの町」
原文:Japonya'da bir Türk şehri
http://anilir.blogcu.com/japonya-da-bir-turk-sehri/1762786

今週、“インフラ・フリー”システムの日本での適用性を調査するために、和歌山県の串本市を3日の日程で訪問しました。

研究のため串本市を選んだのには、重要な理由が二つありました。第一に、2万の人口を有するこの都市では、インフラ・システムの基石の一つである集中廃水処理システム(下水道)を利用している人々が人口の僅か5パーセントであり、新しいシステムが必要だと感じられたこと。第二に、というか多分こちらがより重要なのですが、串本市は日本でトルコ人に最も縁のある町として知られていることでした。

今から約130年前のオスマン帝国の時代、イスタンブルを出発した軍艦エルトゥールル号は日本に到達し、特使の一行は日本政府と接触しました。この時期はオスマン時代の末期にあたりますが、船は既に老朽化したものだったため、長い航海の間に船体には様々な破損が生じていました。

我らが船乗りたちは嵐が近づいていたにもかかわらず、一般に公表されていた日時に復路の航海に乗り出し、串本の近海にて嵐に巻き込まれ、岩礁に激突してしまったのです。この事故で何百もの船員たちが犠牲になりました。

その内の数十人は串本の漁師たちの嵐をものともしない海中での救援活動により救われ、時の天皇の命で彼らに割り当てられた船により、故郷に戻ったのでした。

この不幸な事故は日土間の深い友好関係の第一歩をなしたわけですが、その船員たちを忘れないために、トルコと日本の当局は串本に記念碑を建てました。

今日、串本の人々は深い愛情によってトルコと結ばれています。殉職した全ての船員たちの魂は故国から遠く離れた地にありながら彼らによって見守られ、また彼らの心の中に生き続けているのです。我が海軍も5年ごとに串本を訪れてはそこで感謝の意を表し、両国間の関係をさらに確かなものにしています。

日本とトルコ、双方の関係者に敬意を表します。

私も串本市の来賓として可能な限りの熱意を示し、集まった市内全ての小中高校の子供たち(約1000人)を前に、二回にわたる講演を行いました。

それから、エルトゥールル号の追悼記念碑を訪れ、市長とともに花輪を供えて黙祷を行った後、市民に向けて行われたあるイベントにおいて、市長殿を始めとする全職員とともに、町中から集まった人々と対話する機会が得られたのでした。

この他、串本でこの先実現されるであろうプロジェクトについて、意見の交換を行いました。その間、ずっと私と行動を供にしてくれた串本市の職員の方々に心から感謝します。

我が国から遠くにありながらも、その心はトルコへの愛に溢れるこの小さな日本の町を訪れる機会が、読者の皆様にもありますように。こうした友好関係は、将来、全世界に平和をもたらす小さいながらも大事な一歩として、歴史に刻まれることになるでしょう。私たちも真摯に見守っていきましょう。
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相変わらず、串本は串本“市”と書かれていますね。

それはともかく、日本語版ブログの方で、

>トルコでは、その感謝の気持ちを今も忘れずに、子供たちにも教科書に
>載せて伝えています。

と書いてある割には、全体の半分以上がエルトゥールル号事件と串本の関わりについての説明に費やされてますねw。

何故こんなに詳しく説明しないといけないか?

簡単な話ですよ。

あちらでは知ってる人が少ないからです。

トルコ語版の方に“串本の人たちに感謝したがっている従兄弟”の話が出てこないのも、多分理由は同じでしょう。日本人向けのサービスキャラ、もしくは“透明従兄弟”ではないかと思われます。

この2つの記事を読み比べて、日本語版の方のコメント欄を読むと,何だか暗澹たる気持ちになりますね。

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被害者1号
日本では知られてませんよね。私も高校留学の時にトルコ人と友達から聞いて初めて知りました。でも、そんなに前の話をずっと受け継いではるやなんて☆友達から聞いたときは結構最近の、何十年か前の話かと思っていました。人の恩を忘れない国民性が小学生にまで続いてるっていいなぁって思いました。


被害者2号
セルカン先生と一緒に大島小学校、串本高校と同行した者です。セルカン先生が従兄弟のメッセージを伝えたとき、大島小学校では3,4年生ぐらいの女の子何人か目頭をおさえていました。串本高校でも同じ仕草をする男子校生がいました。まだ、一度も会ったことのない友人、これからも一生会わないかもしれない友人をこれからずっとココロのなかで会話するんでしょうね。セルカン先生のお話を聞くことが出来た子供達は何か確実に成長したと思います。もちろん私も
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........... Allah yalancılara lanet etsin! (アッラーよ、嘘吐きに罰を与え給え!)

→(4)に続く

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(2)

2010-02-17 22:44:25 | アタテュルク像問題
→(1)からの続き

“串本大使”については、前回引用したものとは別の地元紙、“紀伊民報”の記事↓により詳しい説明がありました。

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 「大使第1号にアニリールさん 串本町が委嘱」     2007年09月03日

http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=131002


              (前略)  

串本大使の取り組みは、町のPR以外に情報や助言をもらうことで町の活性化に役立てるのが狙い。町出身者や縁があったり、応援してくれたりする人に依頼する。大使の中から1人を講師に招いた講演会を、年4回ほど開く。  近く大使に委嘱する8人は次の皆さん。

前田弘信(和歌山信愛女子短期大学事務部長、串本町出身で和歌山市在住)▽城谷剛志(京都青果合同ロジスティックス部長、串本町出身で京都府在住)▽中谷和夫(サントリー品質保証本部長、串本町出身で京都府在住)▽渋沢幸子(作家でトルコ文化研究家、東京都)▽森永堯さん(日本・トルコ協会理事、東京都)▽平早勉(写真家、東京都)▽赤木正和(水中写真家、大阪府)▽中山英明(東京海洋大学名誉教授、千葉県)

              
(後略)
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要するに、ある程度社会的な影響力があって、串本のことを世間で宣伝してくれそうな人たちに贈られる名誉称号のようなものなのでしょう。

基本的には、他の地域にもよくある町興し、村興しのための“~観光大使”や“~名誉市民”と同じものかと思われます。

“串本大使”の数はその後も増加しているらしく、たまたまネット上で見つけたこの↓ブログをやっている手話通訳士の方も、そうした“大使”の一人らしい。 -

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2008年5月06日   私は串本大使です!!

http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/95831382.html


南 瑠霞です。両親の実家が、和歌山県串本町です。串本町の高校を卒業しました。同級生が、町会議員です。いろんなご縁で、串本大使をおおせつかりました。

和歌山県串本って、日本地図のどこにあるか、わかりますか?「探してみてくらんせ」(地元の言葉で「探して見てください」っていう意味です。)

全国の皆さん、串本について、どうぞ知ってくださいね。

目指せ東国原英夫!!串本を宮崎みたいに有名にするぞ!!(笑)

地元に由来する角界で活動中の様々な人が『串本』を応援する。・・・というのが、串本大使の使命です。

( 以下略)
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>地元に由来する角界で活動中の様々な人が『串本』を応援する。
>・・・というのが、串本大使の使命です。

このくだりを読んで、一瞬“ああ、串本って力士の産地なんだな”と納得してしまった自分は、疲れているのかもしれませんw。といった些細なことはさておき、このブログ自体はトルコ絡みのもの以外にも串本に関する情報が豊富で、とても参考になりますね。お勧めです。

それにしても、当の“第一号大使”セルカン氏は自身の“使命”について一体どう思っているのでしょうか?

“大使”に任命された直後の日本語ブログには、以下のような記述があります。

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 「串本大使に任命される。」      2007年9月7日
http://blog.anilir.net/?cid=11532&page=1

夏休みを利用して、弟夫婦が遊びに来ています。ドイツに住む彼らのバカンスは、うらやましいことに1ヶ月近くあるため、東京にも約2週間滞在する予定です。

先日、その弟夫婦を連れて、和歌山県串本町を訪れました。ブログにも書きましたが、僕は二度目の訪串になります。

でも、今回は、特別な意味がありました。それは、僕が第一回串本大使に任命されたからです。笑

市長から委嘱状というものを渡され、大使としてどう串本町に関わり、貢献していけるか、打ち合わせも行いました。 過疎化が進む地方の町作り、無人島という自然財産を大切に保護しながら、それを町のためにどう生かしていくか、エネルギー問題、子供問題、意義のあるテーマばかりです。

僕の研究が串本町の人々の暮らしに役立ててもらえるよう、研究者としても串本大使としても、引き続き頑張っていこうと思っています。

みなさんも、是非、一度、串本を訪れてみてください。
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“大使”に任命された事実は淡々と記し、その期待に応えるべく地域への貢献を語るなど、極めて謙虚で好感のもてる文章ですね。

でも、同じ日に書かれたトルコ語版のブログはどうかというと......

こんな↓具合なのです。

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 「大使となる名誉」  2007年9月7日    
原文:Büyükelçi olma şerefi
http://anilir.blogcu.com/buyukelci-olma-serefi/2295741

以前のエントリーで串本市のことを書きました。今から約130年前、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が日本を訪問した帰りにこの町の沖合いで嵐に遭遇し、沈没。その生存者たちに串本の人々が救いの手を差し伸べたことで、日土友好の大切な輪が生まれたという話です。

今週の週末、その串本市に招かれました。彼の地の市及び県議会の決議により“串本大使”に任命されるという栄誉に恵まれたのです。

今後の私は、串本を世界に紹介することにおいても、また、この町を新世紀に相応しい姿にできるような未来に向けたプロジェクトの開発においても、指導的な役割を求められることになるでしょう。

信じられないほど美しい自然に恵まれ、年に百万もの国内旅行者が訪れるというこの小さな町での最初のプロジェクトは、11ヘクタールの大きさの無人島“ツヤジマ(通夜島)”に私たちが建設するプロトタイプのインフラ・フリー・ユニットの研究となります。

自分にとって大いに誇りにすべきこの任務をお受けするにあたって、市長も参加された任命式典が催されました。この任にあって、私を信用してくれる人たちを失望させないことが一番の望みですね。

式典の最中、市長が報道陣への質問に答えている際に、頭をちょっと左の方に向けると、ちょうど私たちの後ろの方にある棚に、3枚の写真が並んでいるのが目に入りました。

何と偉大なる領袖、アタテュルクの写真ではありませんか.....

私はその横で、カメラに向かって誇らしげにポーズを決めたのでした....

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大まかな内容は同じですが、トーンはかなり違う。日本語版よりもはるかに自己愛に満ちていると言うべきか、“自分”が全面に押し出されていると言うべきか、ベタに“自慢話”っぽい仕上がりになっています。

こういうのはあちらでは全然普通ですが、日本社会では一般に“俺が!俺が!”といった感じの暑苦しいキャラは敬遠されがちですから、このまんまのことを日本語版のブログに書けば、ドン引きされること間違いなしですね。

その辺りはちゃんと考えて、日本向けのキャラを作っているわけですよ。こうした点一つをとっても、やはりセルカン氏あるいは日本語版ブログを運営している“チーム・セルカン”の中の人wは、“日本人転がし”に長けていると思わざるをえません。

いや、長けてるってほどでもないか。要するに、こんなのですぐ“善き人”だと思ってしまう日本人の側が単純に過ぎるのでしょう。あと、珍しい外国人に甘いと言うか。自分も含めてね。

そんなことよりも、トルコ語版の方はセルカン氏が自分を大きく見せるためか、“例の如く”色んなことを誇張しているのが気になりますね。

何しろここでの“串本大使”は、和歌山県議会の承認が必要だったり、その受任に際して大掛かりな任命式典が開かれたり、さらにはその式典に報道陣がつめかけたりする程の“要職”とされているのです。

これを読んだトルコ人読者たちは、まさかその“大使”の肩書きがどちらかと言えば“一日警察署長”とか“ミスくの一”に近いレベルの名誉称号であって、セルカン氏も大勢いる“大使たち”の一人に過ぎないなんて、夢にも思わないのではないか。

それと、文中に頻繁に出てくる“串本市”という呼称なのですが、これは原文で使われているトルコ語で“市”を意味する言葉“kent”“Belediye”をそのまま訳したものです。

でも、日本の地方自治体としての“町”は、トルコ語でも“市”の一ランク下、“町”を意味する“kasaba”と訳されるのが普通だし、あちらの行政区分であっても、人口2万未満の町は同じく“kasaba”と呼ばれます。

それを思えば、“串本町”の正しい土訳は“Kushimoto kenti”“Kushimoto belediyesi”ではなく、“Kushimoto kasabasıとなるはずなのです。

駐日トルコ大使館のトルコ語版サイトでも、“串本町”は“Kushimoto kasabası”とやはり“kasaba”が用いられていますね。

↓駐日トルコ大使館のサイトより
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http://www.turkey.jp/tr/ertugrulfrigatet.htm

Kushimoto kasabası Mersin ve Yakakent ile kardeş şehirdir. Kushimato’da bir de müze bulunmaktadır. 1974 yılında inşa edilen "Türk Müzesi"nde Ertuğrul Fırkateyni’nin maketi, gemideki asker ve komutanların fotoğrafları ve heykelleri bulunmaktadır.

 (串本はメルスィンとヤカケントの姉妹都市である。串本には博物館が一ヶ所あり、その1974年に建てられた“トルコ博物館”ではエルトゥールル号の模型と、その船長や水兵らの写真、彫像などが展示されている。)
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でもまあ、なにぶん遠い外国のことでもあり、あちらでもその辺の認識は結構あいまいだったりします。例えばグーグルなんかでも“串本市”と“串本町”のヒット数はちょうど半々くらいであり、

↓グーグルの検索結果
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KUSHIMOTO Kasabası(串本) Результаты 1 - 10 из примерно 19 200 для KUSHIMOTO Kasabası. (0,14 секунд)

KUSHIMOTO belediyesi(串本) Результаты 1 - 10 из примерно 19 100 для KUSHIMOTO belediyesi. (0,26 секунд)

KUSHIMOTO kenti(串本市) Результаты 1 - 10 из примерно 4 740 для KUSHIMOTO kenti. (0,40 секунд)
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特に新聞記事なんかは“串本市”と書いているものが多い。

だから、必ずしもセルカン氏だけがどうこうといった話ではないのですが、日本語版ブログの方では、はっきり“串本”と“”の方を使っているのですよ。

まあ、実際に書いたのはいわゆる“チーム・セルカン”の中の人wであって、セルカン氏ではないのかもしれない。それでも、当人も現地には何度か行っているようだし、串本が“市”ではないことを知らないなんて、やっぱりおかしい訳です。

そう考えると、やっぱりセルカン氏は、トルコ語版の方では確信犯的に“串本市”という呼称を使っているように思えます。 その辺は、多分、実際は東大の“助教”であるにも関わらず、日本国外では一ランク底上げした“助教授”を名乗っていた心理と同じではないでしょうか。

“町”よりも“市”から与えられた称号はより権威があるということで....。

→(3)に続く

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(1)

2010-02-10 23:37:23 | アタテュルク像問題

この所、トルコの生んだ稀代のコラージュ職人にして未確認アニメ原作者、セルカン氏にかまけ過ぎたお陰ですっかり遅くなってしまいましたが、ようやくこの↓話題です。

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「トルコ建国の父、アタチュルク銅像 新潟から和歌山・串本に移設へ」
2009年12月18日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091218/trd0912182002012-n1.htm

トルコ共和国政府が新潟県のテーマパークに寄贈したものの、閉園などによって、屋外に放置されたままとなっていたトルコ建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルク初代大統領の銅像が和歌山県串本町に移設されることが決まり、18日、串本町が発表した。

トルコの軍艦「エルトゥールル号」が串本沖で沈没した際、地元漁師が救出活動にあたったゆかりがあるためで、沈没から120年にあたる来年6月に除幕される。

銅像が設置されていたのは新潟県柏崎市のテーマパーク「柏崎トルコ文化村」。平成8年に開園したが経営破綻し、17年に閉園していた。その後、施設は結婚式場として利用されていたが、新潟県中越沖地震が発生。倒壊の恐れがあるとして像は台座から外され、屋外に放置されたままとなっていた。

このため「トルコとの友好関係を損なう」という声もあがっていたという。

移設をめぐっては20年3月、駐日トルコ大使館がゆかりのある串本町に打診。町議会も承認するなどして交渉が進められていたが、同園の土地をめぐる訴訟が起き、移設交渉はいったん頓挫していた。しかし、今年10月にトルコ大使館が像の寄贈を要請したところ了承され、移設が決まったという。 

串本町の田嶋勝正町長は「両国民の友好のシンボルとなる像の移設が決まり、うれしい」と話している。
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 今回の急展開の背景には、2010年、つまり今年の“トルコにおける日本年”があるようです。

日本の外務省のサイトによれば、この“日本年”というのは、トルコに関わる日本企業と外務省を中核に官民一体で展開される、日本という国の一大紹介キャンペーンのようなものらしい。具体的には、今年一年の間中、日本文化絡みのイベントやら交流事業がトルコ各地で目白押しなのだとか。

まあ、実行委員会の委員長がトヨタの張会長だったり、日本側の名誉総裁に皇族の仁親王、トルコ側のそれにアブドゥッラー=ギュル大統領を戴いていたりと、トップに錚々たる面子が揃っている所からしても、その気合の入りようが分かろうというものです。先月の4日にアンカラで行われた開催式典でも、日本から岡田外相が直々に出席していましたし。

でもって、そうした友好ムードに華を添えようと、エルトゥールル号事件から120周年にあたる今年の6月に合わせて、串本に件のアタテュルク像を建立することになったと。

ただ、柏崎市の市長派と反市長派のどうでもいいローカル政争の解決を待っていたら6月には間に合わなさそうなので、駐日トルコ大使館がその頭越しに、現在銅像を所有している企業と直接交渉。それを手放させたと。大体そんな所ではないでしょうか。

その交渉に、日本側の政財官界の“偉い人”がどの程度関わったのかは分かりませんが、銅像の移転にかかる費用をあの日本財団が負担するという話からも、何となく想像がつくような.....。

日本財団ブログ・マガジンより↓
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トルコ建国の父像、串本町へ 6月3日に除幕式
[2010年01月29日(金)]
http://blog.canpan.info/koho/archive/974#BlogEntryExtend

トルコは世界でも有数の親日国。今年が両国の友好120周年に当たることから、本財団が関係者との話し合いを進めた結果、串本町への移転が決まった。
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それにしても、

>倒壊の恐れがあるとして像は台座から外され、屋外に放置されたままとな
>ってい た。このため「トルコとの友好関係を損なう」という声もあがって
>いたという。


何だか他人事みたいな文章ですね。そもそも、新潟・中越沖地震直後のものと思われる横倒しになった銅像の写真を、何ヶ月も後になってセンセーショナル気味に公開したのはどこの新聞でしたっけ?。

で、さらに、トルコの新聞がその件を取り上げると、恐らくその記事の内容もろくに確認することなく“「建国の父」に対して非礼だとして、トルコ紙でも報道された”とか、“トルコとの友好関係を損なう”どころか、ほとんど“既成事実として友好関係が損なわれている”かのような報じ方をしていた新聞もあったような気がしますが、どこでしたっけね?

確かどちらも名前をサン...何とか新聞と言ったようなw。

あるいは、ひょっとして、初めから今年の“トルコにおける日本年”を下から盛り上げるための遠大な“仕込み”だったとかw。まあ、どっちでもいいですけどね。とにかく“飛ばし記事”はよくないですよね。何に関しても。

それはともかく、結果として、アタテュルク像の落ち着き先が串本に決まったのは良いことですね。大分前のエントリーにも書きましたが、あの銅像を立てるなら柏崎よりも串本の方が相応しい。別に柏崎がダメだという話ではありません。管理人は串本と柏崎の双方に行ったことがありますが、どちらも良い所ですよ。

ただ、エルトゥールル号事件以来の縁と地元住民の親土感情の高さを思えば、やはり日本中であの町以上に適した所は無いように思えるのです。

まあ、細かいことを言えば、かつての清朝と現在の中華人民共和国が別物であるのと同様に、というか、オスマン帝国(=多民族からなる古典的なイスラーム帝国)と今のトルコ共和国(=トルコ民族が中心の近代的な国民国家)は多分それ以上に異なるわけで、そのオスマン帝国を滅ぼした言わば“張本人”であるアタテュルクの像とオスマン海軍将兵の殉難碑が一堂に会するのはおかしくないか、という話もあるかもしれません。

でも、成立したばかりのトルコ共和国と日本の間に国交が結ばれた後に(オスマン帝国と日本の間に正式な国交は無かった)、トルコ政府がそれらの将兵を“トルコ人”だと認定し、殉難碑が改修されたり、トルコ大使館の関係者も交えた慰霊祭が行われるようになったのは、いずれもアタテュルクが大統領に在任中の出来事でした。

その意味ではアタテュルクと件の殉難者の間にもそれなりに縁はあるわけで、個人的にはそこにアタテュルクの像があったとしても、特に不自然では無いと思うわけです。

ところで、そういうめでたい話とは別に、串本については少々気がかりなことがあります。というのも、ネット上で“串本 トルコ エルトゥールル”みたいなキーワードを入れて検索すると、しばしば不吉な内容の新聞記事に出くわすからです。

例えばこれ↓は、和歌山県の地方紙“南紀州新聞”の2007年6月10日付けの記事なのですが、

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「失敗も大切な経験」
トルコ人初の宇宙飛行士候補セルカンさんがエール送る
串本町大島小で

http://minamikisyu.i-kumano.net/news/2007_06/20070610_00.htm

トルコ人初の宇宙飛行士候補、 アニリール・セルカンさん (34) が8日、 串本町立大島小学校 (山崎多喜雄校長) で、 3~6年生42人を対象に、 挑戦を繰り返してきた少年時代を講演。 「失敗も大切な経験。 いつも前向きに夢に向かって取り組めば、 きっと何でもできる」 とエールを送った。

セルカンさんは東大大学院工学系研究科建築学専攻の助教で、 エール大学の客員教授なども務める。 宇宙エレベーター計画など、 宇宙構造物に関する研究開発で、 ケンブリッジ大学物理賞を受賞

※受賞してないw。

先端技術を応用し、 インフラに依存しないで暮らせる空間技術の開発、 研究をしている。

ドイツ生まれで、 8歳で科学に興味を持ち、 スイスへ留学。 世界各国から集まった級友たちと過ごすが、 15歳のとき、 問題を起こし、 退学。 学業の道を閉ざされ、 何をすべきか迷っていたとき、 テレビの人気番組をきっかけに、 タイムマシーンの実験に挑戦。 一躍注目を集め、 再び進学への扉を開いた

※この辺りは全て脳内での設定で、実際には小中高全てトルコの学校だったらしい。

セルカンさんは 「退学しても宇宙飛行士の候補にまでなれた。 出会いを大切に、 失敗も経験として、 いつも前向きにいれば、 きっとなりたい自分になれる」 と力を込めた。

※なれてないw。

同町は日ト友好原点の地。 セルカンさんは、 トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難を教科書で学んだという小学生の従弟から預かった 「エ号を助けてくれてありがとう。 いつか出会えるのを楽しみにしています」 というメッセージを披露。 「距離を超えて、 友愛の心をつなぎ、 世界へ発信して」 と呼び掛けた。

※かなり怪しい。これについては後述。


山下由莉さん (4年) は 「宇宙エレベーターの話がすごい。 まだ何になりたいか決めていないけど、 いろんなことに挑戦したい」、 吉田颯平君 (同) は 「退学しても頑張れるところがすごい。 将来は養殖をしたい」 と目を輝かせて聴き入っていた。

研究を生かすのは人次第
串本高で中高生800人に講演


トルコ人初の宇宙飛行士候補、 アニリール・セルカンさん (34) は8日、 串本高校で同校生徒と町内中学生ら約800人を対象に研究者の視点から講演。 「素晴らしい研究も社会に役立てることができるかは、 扱う人間次第。 みんなで一緒に考えていくとが大事」 と力説した。

8歳で太陽電池に着目し、 高校中退後、 大学も巻き込んで、 タイムマシーンの実験に没頭。 建築学を基礎にさまざまな研究に取り組み、 透明人間のプロジェクトにも携わった。

最先端の技術に関わり続けているが、 「本当に人の役に立つ研究かが大切」 との視点も忘れない。「日本ではロボットが人間の友達の感覚で新鮮。 近い将来、 我々の生活に大きく関わってくるかもしれない」 と話した。

※疑似科学はいらないw。

日本語で好きな言葉は 「ただいま」。 「過去も未来もない。 今が大切と感じる」 という。 また 「無」 は 「訓練で幸せも悲しみの気持ちも表れない自身にピッタリ」 とも。 ただ、「家族を思うときと、 若い皆さんの前で話す機会に感じる幸せだけは抑えられない」 と笑顔を見せた。

※一体何の訓練なんだろう?w

講演後は生徒からの質問が殺到。 「宇宙飛行士候補になってから、 深夜にトルコに帰国しても、 空港に大勢の子どもが迎えに来てくれるようになった」、 「今後は災害時に役立つ仮設住宅の開発に取り組みたい」 などと話した。

※すげえ(棒読み)
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またセルカン氏か!

この人を扱うのは前回のエントリーでやめたはずなんですがね。まさかこんな所にまで関わってこようとは....。

でも、これだけではありません。 実はセルカン氏と串本町の関係は非常に深かったりします。 同じく南紀州新聞の、上記の記事から3ヵ月後の2007年9月2日付けの記事は以下の通り。

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 「セルカンさん大使第1号に 研究と友好に力尽くす 串本町」
南紀州新聞 2007年9月2日
http://minamikisyu.i-kumano.net/news/2007_09/20070902_00.htm

「世界の中で串本の名はトルコ人の心では意味が違う。 これだけ大切にされている町はない。 がんばりたい」 串本大使の委嘱状を松原繁樹町長から受けたトルコ人初の宇宙飛行士候補、 アニリール・セルカンさん (34) が笑顔を見せた。

串本町は1日、 新町誕生後初の 「串本大使」 の任命書をアニリール・セルカンさんに交付した。 松原繁樹町長は 「世界へ串本をアピールしていただきたいが、 インフラのない場所で生活できる研究の場としても町を活用してほしい。 子どもたちとの交流もぜひ深めて」 と依頼した。

セルカンさんは東大大学院工学系研究科建築学専攻の助教で、 エール大学の客員教授も務め、 研究の一つに水道や電気などのインフラがない場所でも暮らせる技術を研究している。 町の大使は 「広報マン」 の役割を担うのが普通だが、 大規模災害に備えて研究課題として町を利用してもらいたい意向もある。

セルカンさんは 「串本はトルコでは教科書にも載っている。 ものすごく名誉なことだ。 串本大使を自分のブランドの一つとして続けたい」 と喜んでいた。

合併する前の旧町で行われていた 「くしもと大使」 は新町の誕生でなくなっていたが、 今年度から復活した。 「視点を変えること」 アニリール・セルカンさん講演 串本大使  トルコ人初の宇宙飛行士候補、 アニリール・セルカンさん (34) が8月31日、 串本町文化センターで 「最先端技術を用いた観光のまちづくり」 をテーマに講演、 会場には町職員や議員ら約60人が詰めかけた。

※候補じゃないw。

セルカンさんは宇宙エレベーター計画など宇宙構造物に関する研究開発でケンブリッジ大学物理賞を受賞

※受賞してないw。

先端技術を応用し、 インフラに頼らないで暮らせる空間技術の開発、 研究をしている。 宇宙エレベータの研究は実際の研究は不可能に近いが、 この研究をきっかけに生まれた素材を日常生活に技術移転するのが目的。

「ワークショップでいくら考えてもできない。 でも想像できることが面白い」 と話す。 宇宙飛行士は自分の尿を浄化して1週間は水分を補給するという話題も紹介した。 全くインフラのない生活の研究もしている。 串本はインフラに頼らない 「インフラフリー技術」 の研究の場とできないかと提案した。

セルカンさんはスキーのオリンピック選手にも選ばれている

※ 選ばれてないw。

「他の選手と同じ方法で滑ると勝てない。 全く違う方向から考えることで金メダルが獲得できる。 視点を変えることが大事だ」 と話し、 物を見る視点の大切さを訴えた。

※獲得してないw。

また、 大島小学校などで子どもたちと交流できたことが思い出深いと話し 「子どもたちに夢を与えたい」 とも語る。

※ 確かに、夢を与えたかもしれない(悪い意味で)w。

「空が好き。 上から全体を見ることができるから。 いろいろな視点を楽しめる」 と講演を締めくくった。
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何と、セルカン氏は初代の“串本大使”らしいのです。

→(2)に続く