チツジョ に ついて
たとえば はじめて きた カセイフ に ジブン の ショサイ の ソウジ を まかせる と する。 カノジョ は ツクエ の ウエ や マワリ に ランザツ に おかれた ホン や ショルイ や ブンボウグ など を セイトン して きれい に ならべる で あろう。 そして カノジョ は マンゾク する。 ところで イマ ワタシ が ツクエ に むかって シゴト を しよう と する バアイ、 ワタシ は ナニ か ととのわない もの、 おちつかない もの を かんじ、 1 ジカン も たたない うち に、 せっかく きちんと セイトン されて いる もの を ひっくりかえし、 モト の よう に ランザツ に して しまう で あろう。
これ は チツジョ と いう もの が ナン で ある か を しめす ヒトツ の タンジュン な バアイ で ある。 ガイケンジョウ きわめて よく セイリ されて いる もの かならずしも チツジョ の ある もの で なく、 むしろ イッケン ムチツジョ に みえる ところ に かえって チツジョ が ソンザイ する の で ある。 この バアイ チツジョ と いう もの が、 ココロ の チツジョ に カンケイ して いる こと は あきらか で ある。 どのよう な ガイテキ チツジョ も ココロ の チツジョ に ガッチ しない かぎり シン の チツジョ では ない。 ココロ の チツジョ を ドガイシ して どのよう に ガイメン の チツジョ を ととのえた に して も クウソ で ある。
チツジョ は セイメイ あらしめる ゲンリ で ある。 そこ には つねに アタタカサ が なければ ならぬ。 ヒト は アタタカサ に よって セイメイ の ソンザイ を カンチ する。
また チツジョ は ジュウジツ させる もの で なければ ならぬ。 たんに きりすてたり とりはらったり する だけ で チツジョ が できる もの では ない。 キョム は あきらか に チツジョ とは ハンタイ の もの で ある。
しかし チツジョ は つねに ケイザイテキ な もの で ある。 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ゲンソク は チツジョ の ゲンソク でも ある。 これ は きわめて テヂカ な ジジツ に よって ショウメイ される。 セツヤク ――フツウ の ケイザイテキ な イミ での―― は チツジョ ソンチョウ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 この バアイ セツヤク は おおきな キョウヨウ で ある のみ で なく、 シュウキョウテキ な ケイケン に さえ ちかづく で あろう。 ギャク に いう と、 セツヤク は チツジョ スウハイ の ヒトツ の ケイシキ で ある と いう イミ に おいて のみ リンリテキ な イミ を もって いる。 ムチツジョ は オオク の バアイ ロウヒ から くる。 それ は、 ココロ の チツジョ に かんして、 キンセン の ランピ に おいて すでに そう で ある。
トキ の リヨウ と いう もの は チツジョ の アイ の アラワレ で ある。
サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク が ドウジ に ココロ の チツジョ の ホウソク でも ある と いう こと は、 この ケイザイ の ホウソク が じつは ビガク の ホウソク でも ある から で ある。
ビガク の ホウソク は セイジジョウ の チツジョ に かんして さえ モハンテキ で ありうる。 「ジダイ の セイジテキ モンダイ を ビガク に よって カイケツ する」 と いう シルレル の コトバ は、 ナニ より も チツジョ の モンダイ に かんして ダトウ する で あろう。
チシキ だけ では たりない、 ノウリョク が モンダイ で ある。 ノウリョク は ギジュツ と いいかえる こと が できる。 チツジョ は、 ココロ の チツジョ に かんして も、 キジュツ の モンダイ で ある。 この こと が リカイ される のみ で なく、 ノウリョク と して カクトク されねば ならぬ。
サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク は じつは ケイザイテキ ホウソク で ある より も ギジュツテキ ホウソク で あり、 かよう な もの と して それ は ビガク の ナカ にも はいりこむ の で ある。
プラトン の ナカ で ソクラテス は、 トク は ココロ の チツジョ で ある と いって いる。 これ より も グタイテキ で ジッショウテキ な トク の キテイ を ワタシ は しらない。 コンニチ もっとも わすれられて いる の は トク の このよう な カンガエカタ で ある。 そして トク は ココロ の チツジョ で ある と いう テイギ の ロンショウ に あたって ソクラテス が もちいた ホウホウ は、 チュウイ す べき こと に、 ケンチクジュツ、 ゾウセンジュツ-トウ、 モロモロ の ギジュツ との ヒロン で あった。 これ は ヒロン イジョウ の ジュウヨウ な イミ を もって いる こと で ある。
ココロ と いう ジッタイセイ の ない もの に ついて いかに して ギジュツ は カノウ で ある か、 と ヒト は いう で あろう。
ゲンダイ ブツリガク は エレクトロン の セツ イライ ブッシツ と いう もの から ブッタイセイ を うばいさった。 この セツ は ゼン-ブッシツカイ を カンゼン に ジッタイセイ の ない もの に する よう に みえる。 ワレワレ は 「ジッタイ」 の ガイネン を さけて、 それ を 「サヨウ」 の ガイネン で おきかえなければ ならぬ と いわれて いる。 スウガクテキ に キジュツ された ブッシツ は あらゆる ニチジョウテキ な シタシサ を うしなった。
フシギ な こと は、 この ブッシツカン の ヘンカク に ソウオウ する ヘンカク が、 それ に なんら カンケイ も ない ニンゲン の ココロ の ナカ で ジュンビ され、 ジツゲン された と いう こと で ある。 ゲンダイジン の シンリ ――かならずしも ゲンソン の シンリガク を いわない―― と ゲンダイ ブツリガク との ヘイコウ を ヒヒョウテキ に あきらか に する こと は、 あたらしい リンリガク の シュッパツテン で なければ ならぬ。
チシキジン と いう の は、 ゲンシテキ な イミ に おいて は、 モノ を つくりうる ニンゲン の こと で あった。 タ の ニンゲン の つくりえない もの を つくりうる ニンゲン が チシキジン で あった。 チシキジン の この ゲンシテキ な イミ を ワレワレ は もう イチド はっきり ワレワレ の ココロ に おもいうかべる こと が ヒツヨウ で ある と おもう。
ホメロス の エイユウ たち は ジブン で シュコウギョウ を おこなった。 エウマイオス は ジブン で カワ を セツダン して ハキモノ を つくった と いわれ、 オデュッセウス は ヒジョウ に キヨウ な ダイク で サシモノシ で あった よう に しるされて いる。 ワレワレ に とって これ は センボウ に あたいする こと では ない で あろう か。
ドウトク の ナカ にも シュコウギョウテキ な もの が ある。 そして これ が ドウトク の キソテキ な もの で ある。
しかし コンナン は、 コンニチ ブッテキ ギジュツ に おいて 「ドウグ」 の ギジュツ から 「キカイ」 の ギジュツ に ヘンカ した よう な おおきな ヘンカク が、 ドウトク の リョウイキ に おいて も ヨウキュウ されて いる ところ に ある。
つくる こと に よって しる と いう こと が タイセツ で ある。 これ が キンダイ カガク に おける ジッショウテキ セイシン で あり、 ドウトク も その イミ に おいて まったく ジッショウテキ で なければ ならぬ。
プラトン が ココロ の チツジョ に ソウオウ して コッカ の チツジョ を かんがえた こと は キタイ な こと では ない。 この コウソウ には ふかい チエ が ふくまれて いる。
あらゆる チツジョ の コウソウ の コンテイ には カチ タイケイ の セッテイ が なければ ならぬ。 しかるに コンニチ リュウコウ の シンチツジョロン の キソ に どのよう な カチ タイケイ が ソンザイ する で あろう か。 リンリガク で さえ コンニチ では カチ タイケイ の セッテイ を ホウテキ して しかも コウカツ にも へいぜん と して いる ジョウタイ で ある。
ニーチェ が イッサイ の カチ の テンカン を となえて イゴ、 まだ どのよう な ショウニン された カチ タイケイ も ソンザイ しない。 それ イゴ、 シンチツジョ の セッテイ は つねに なんらか ドクサイテキ な カタチ を とらざる を えなかった。 イッサイ の カチ の テンカン と いう ニーチェ の シソウ ソノモノ が じつは キンダイ シャカイ の たどりついた カチ の アナーキー の ヒョウゲン で あった。 キンダイ デモクラシー は ナイメンテキ には いわゆる カチ の タシンロン から ムシンロン に、 すなわち キョム シュギ に おちて ゆく キケン が あった。 これ を もっとも ふかく リカイ した の が ニーチェ で あった。 そして かよう な キョム シュギ、 ナイメンテキ な アナーキー こそ ドクサイ セイジ の ジバン で ある。 もし ドクサイ を のぞまない ならば、 キョム シュギ を コクフク して ウチ から たちなおらなければ ならない。 しかるに コンニチ ワガクニ の オオク の インテリゲンチャ は ドクサイ を キョクタン に きらいながら ジブン ジシン は どうしても ニヒリズム から ダッシュツ する こと が できない で いる。
ガイテキ チツジョ は キョウリョク に よって も つくる こと が できる。 しかし ココロ の チツジョ は そう では ない。
ジンカク とは チツジョ で ある、 ジユウ と いう もの も チツジョ で ある。 ……かよう な こと が リカイ されねば ならぬ。 そして それ が リカイ される とき、 シュカン シュギ は フジュウブン と なり、 なんらか キャッカンテキ な もの を みとめなければ ならなく なる で あろう。 キンダイ の シュカン シュギ は チツジョ の シソウ の ソウシツ に よって キョム シュギ に おちいった。 いわゆる ム の テツガク も、 チツジョ の シソウ、 とくに また カチ タイケイ の セッテイ なし には、 その ゼッタイ シュギ の キョム シュギ と おなじ に なる キケン が おおきい。
カンショウ に ついて
セイシン が ナン で ある か は シンタイ に よって しられる。 ワタシ は うごきながら よろこぶ こと が できる、 ヨロコビ は ワタシ の ウンドウ を カッパツ に し さえ する で あろう。 ワタシ は うごきながら いかる こと が できる、 イカリ は ワタシ の ウンドウ を ゲキレツ に し さえ する で あろう。 しかるに カンショウ の バアイ、 ワタシ は たちどまる、 すくなくとも セイシ に ちかい ジョウタイ が ワタシ に ヒツヨウ で ある よう に おもわれる。 うごきはじめる や いなや、 カンショウ は やむ か、 もしくは タ の もの に かわって ゆく。 ゆえに ヒト を カンショウ から だっしさせよう と する には、 まず カレ を たたせ、 カレ に うごく こと を キョウヨウ する の で ある。 かく の ごとき こと が カンショウ の シンリテキ セイシツ ソノモノ を しめして いる。 ニホンジン は トクベツ に カンショウテキ で ある と いう こと が ただしい と すれば、 それ は ワレワレ の ひさしい アイダ の セイカツ ヨウシキ に カンケイ が ある と かんがえられない で あろう か。
カンショウ の バアイ、 ワタシ は すわって ながめて いる、 たって そこ まで うごいて ゆく の では ない。 いな、 ワタシ は ホント には ながめて さえ いない で あろう。 カンショウ は、 ナニ に ついて カンショウ する に して も、 けっきょく ジブン ジシン に とどまって いる の で あって、 モノ の ナカ に はいって ゆかない。 ヒヒョウ と いい、 カイギ と いう も、 モノ の ナカ に はいって ゆかない かぎり、 イッコ の カンショウ に すぎぬ。 シン の ヒヒョウ は、 シン の カイギ は、 モノ の ナカ に はいって ゆく の で ある。
カンショウ は アイ、 ニクシミ、 カナシミ、 -トウ、 タ の ジョウネン から クベツ されて それら と ならぶ ジョウネン の ヒトツ の シュルイ では ない。 むしろ カンショウ は あらゆる ジョウネン の とりうる ヒトツ の ケイシキ で ある。 スベテ の ジョウネン は、 もっとも ソヤ な もの から もっとも チテキ な もの に いたる まで、 カンショウ の ケイシキ に おいて ソンザイ し ないし サヨウ する こと が できる。 アイ も カンショウ と なる こと が できる し、 ニクシミ も カンショウ と なる こと が できる。 カンタン に いう と、 カンショウ は ジョウネン の ヒトツ の フヘンテキ な ケイシキ で ある。 それ が ナニ か ジッタイ の ない もの の よう に おもわれる の も、 それ が ジョウネン の ヒトツ の シュルイ で なくて ヒトツ の ソンザイ ヨウソウ で ある ため で ある。
カンショウ は スベテ の ジョウネン の いわば ヒョウメン に ある。 かよう な もの と して それ は スベテ の ジョウネン の イリグチ で ある と ともに デグチ で ある。 まず アト の バアイ が チュウイ される。 ヒトツ の ジョウネン は その カツドウ を やめる とき、 カンショウ と して アト を ひき、 カンショウ と して おわる。 なく こと が ジョウネン を しずめる こと で ある リユウ も そこ に ある。 なく こと は はげしい ジョウネン の カツドウ を カンショウ に かえる ため の テヂカ な シュダン で ある。 しかし なく だけ では たりない で あろう。 なきくずれなければ ならぬ、 つまり セイシ が ヒツヨウ で ある。 ところで とくに カンショウテキ と いわれる ニンゲン は、 あらゆる ジョウネン に その コユウ の カツドウ を あたえない で、 ヒョウメン の イリグチ で カクサン させて しまう ニンゲン の こと で ある。 だから カンショウテキ な ニンゲン は けっして ふかい とは いわれない が ムガイ な ニンゲン で ある。
カンショウ は ムジュン を しらない。 ヒト は アイ と ニクシミ と に ココロ が ブンレツ する と いう。 しかし それ が カンショウ に なる と、 アイ も ニクシミ も ヒトツ に とけあう。 ウンドウ は ムジュン から しょうずる と いう イミ に おいて も、 カンショウ は うごく もの とは かんがえられない で あろう。 それ は ただ ながれる、 むしろ ただ ただよう。 カンショウ は ワカイ の テヂカ な シュダン で ある。 だから また それ は しばしば シュウキョウテキ な ココロ、 くだかれた ココロ と いう もの と コンドウ される。 ワレワレ の カンショウテキ な ココロ は ブッキョウ の ムジョウカン に エイキョウ されて いる ところ が すくなく ない で あろう。 それ だけ に リョウシャ を ゲンカク に クベツ する こと が カンヨウ で ある。
カンショウ は ただ カンショウ を よびおこす、 そう で なければ ただ きえて ゆく。
ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって ソウゾウ する、 ないしは ハカイ する。 しかし カンショウ は そう では ない。 ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって イマジネーション を よびおこす。 しかし カンショウ に ともなう の は ドゥリーム で しか ない。 イマジネーション は ソウゾウテキ で ありうる。 しかし ドゥリーム は そう では ない。 そこ には うごく もの と うごかぬ もの との アイダ の サイ が ある で あろう。
カンショウテキ で ある こと が ゲイジュツテキ で ある か の よう に かんがえる の は、 ヒトツ の カンショウ で しか ない。 カンショウテキ で ある こと が シュウキョウテキ で ある か の よう に かんがえる モノ に いたって は、 さらに それ イジョウ カンショウテキ で ある と いわねば ならぬ。 シュウキョウ は もとより、 ゲイジュツ も、 カンショウ から の ダッシュツ で ある。
メイソウ は オオク の バアイ カンショウ から でて くる、 すくなくとも カンショウ を ともない、 あるいは カンショウ に かわって ゆく。 シサク する モノ は カンショウ の ユウワク に まけて は ならぬ。
カンショウ は シュミ に なる こと が でき、 また しばしば そう なって いる。 カンショウ は そのよう に カンミ な もの で あり、 ユウワクテキ で ある。 メイソウ が シュミ に なる の は、 それ が カンショウテキ に なる ため で ある。
スベテ の シュミ と おなじ よう に、 カンショウ は ホンシツテキ には ただ カコ の もの の ウエ に のみ はたらく の で ある。 それ は できつつ ある もの に たいして で なく できあがった もの に たいして はたらく の で ある。 すべて すぎさった もの は カンショウテキ に うつくしい。 カンショウテキ な ニンゲン は カイコ する こと を このむ。 ヒト は ミライ に ついて カンショウ する こと が できぬ。 すくなくとも カンショウ の タイショウ で ある よう な ミライ は シン の ミライ では ない。
カンショウ は セイサクテキ で なくて カンショウテキ で ある。 しかし ワタシ は カンショウ に よって ナニ を カンショウ する の で あろう か。 モノ の ナカ に はいらない で ワタシ は モノ を カンショウ しうる で あろう か。 カンショウ に おいて ワタシ は モノ を あじわって いる の で なく ジブン ジシン を あじわって いる の で ある。 いな、 セイカク に いう と、 ワタシ は ジブン ジシン を あじわって いる の で さえ なく、 ただ カンショウ ソノモノ を あじわって いる の で ある。
カンショウ は シュカン シュギ で ある。 セイネン が カンショウテキ で ある の は この ジダイ が シュカンテキ な ジキ で ある ため で ある。 シュカン シュギシャ は、 どれほど ガイネンテキ あるいは ロンリテキ に よそおう とも、 ナイジツ は カンショウカ で しか ない こと が おおい。
あらゆる ジョウネン の ウチ ヨロコビ は カンショウテキ に なる こと が もっとも すくない ジョウネン で ある。 そこ に ヨロコビ の もつ トクシュ な セッキョクセイ が ある。
カンショウ には コセイ が ない、 それ は シン の シュカンセイ では ない から。 その イミ で カンショウ は タイシュウテキ で ある。 だから タイシュウ ブンガク と いう もの は ホンシツテキ に カンショウテキ で ある。 タイシュウ ブンガク の サッカ は カコ の ジンブツ を とりあつかう の が ツネ で ある の も、 これ に カンケイ する で あろう。 カレラ と ジュンブンガク の サッカ との サイ は、 カレラ が ゲンダイ の ジンブツ を おなじ よう に たくみ に えがく こと が できない テン に ある。 この カンタン な コトガラ の ウチ に ゲイジュツロン に おける シュジュ の ジュウヨウ な モンダイ が ふくまれて いる。
カンショウ は タイテイ の バアイ マンネリズム に おちいって いる。
シンタイ の ガイカン が セイシン の ジョウタイ と かならずしも イッチ しない こと は、 イッケン きわめて ガンジョウ な ニンゲン が はなはだ カンショウテキ で ある バアイ が ソンザイ する こと に よって しられる。
タビ は ヒト を カンショウテキ に する と いう。 カレ は うごく こと に よって カンショウテキ に なる の で あろう か。 もし そう で ある と すれば、 ワタシ の サイショ の テイギ は まちがって いる こと に なる。 だが そう では ない。 タビ に おいて ヒト が カンショウテキ に なりやすい の は、 むしろ カレ が その ニチジョウ の カツドウ から ぬけだす ため で あり、 ムイ に なる ため で ある。 カンショウ は ワタシ の ウィークエンド で ある。
コウドウテキ な ニンゲン は カンショウテキ で ない。 シソウカ は コウドウジン と して の ごとく シサク しなければ ならぬ。 キンベン が シソウカ の トク で ある と いう の は、 カレ が カンショウテキ に なる ユウワク の おおい ため で ある。
あらゆる もの が ルテン する の を みて カンショウテキ に なる の は、 モノ を とらえて その ナカ に はいる こと の できぬ ジコ を かんじる ため で ある。 ジコ も また ルテン の ナカ に ある の を しる とき、 ワタシ は たんなる カンショウ に とどまりうる で あろう か。
カンショウ には つねに なんらか の キョエイ が ある。
カセツ に ついて
シソウ が ナン で ある か は、 これ を セイカツ に たいして かんがえて みる と メイリョウ に なる で あろう。 セイカツ は ジジツ で ある、 どこまでも ケイケンテキ な もの で ある。 それ に たいして シソウ には つねに カセツテキ な ところ が ある。 カセツテキ な ところ の ない よう な シソウ は シソウ とは いわれない で あろう。 シソウ が ジュンスイ に シソウ と して もって いる チカラ は カセツ の チカラ で ある。 シソウ は その カセツ の オオイサ に したがって イダイ で ある。 もし シソウ に カセツテキ な ところ が ない と すれば、 いかに して それ は セイカツ から クベツ されうる で あろう か。 かんがえる と いう こと も それ ジシン と して は あきらか に ワレワレ の セイカツ の イチブブン で あって、 これ と ベツ の もの では ない。 しかるに その もの が なお セイカツ から クベツ される の は、 かんがえる と いう こと が ホンシツテキ には カセツテキ に かんがえる こと で ある ため で ある。
かんがえる と いう こと は カテイテキ に かんがえる こと で ある。 カテイテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 しかるに シコウ が カテイテキ で ある の は カセツテキ に かんがえる から で ある。 すなわち カセツテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 カイギ に して も ホウホウテキ で ある ため には カセツ に よらねば ならぬ こと は、 デカルト の カイギ に おいて モハンテキ に しめされて いる。
カセツテキ に かんがえる と いう こと は ロンリテキ に かんがえる と いう こと と タンジュン に おなじ では ない。 カセツ は ある イミ で ロンリ より も コンゲンテキ で あり、 ロンリ は むしろ そこ から でて くる。 ロンリ ソノモノ が ヒトツ の カセツ で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は ジコ ジシン から ロンリ を つくりだす チカラ を さえ もって いる。 ロンリ より も フカクジツ な もの から ロンリ が でて くる の で ある。 ロンリ も カセツ を つくりだす もの と かんがえられる かぎり それ ジシン カセツテキ な もの と かんがえられねば ならぬ。
すべて カクジツ な もの は フカクジツ な もの から でて くる の で あって、 その ギャク で ない と いう こと は、 ふかく かんがう べき こと で ある。 つまり カクジツ な もの は あたえられた もの で なくて ケイセイ される もの で あり、 カセツ は この ケイセイテキ な チカラ で ある。 ニンシキ は モシャ で なくて ケイセイ で ある。 セイシン は ゲイジュツカ で あり、 カガミ では ない。
しかし シソウ のみ が カセツテキ で あって、 ジンセイ は カセツテキ で ない の で あろう か。 ジンセイ も ある カセツテキ な もの で ある。 それ が カセツテキ で ある の は、 それ が キョム に つながる ため で ある。 カクジン は いわば ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため に うまれて いる。 いきて いる こと は、 ただ いきて いる と いう こと を ショウメイ する ため では ない で あろう、 ――そのよう な ショウメイ は およそ フヨウ で ある、―― じつに、 ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため で ある。 だから ジンセイ は ジッケン で ある と かんがえられる。 ――カセツ なし に ジッケン と いう もの は ありえない。―― もとより それ は、 なんでも カッテ に やって みる こと では なく、 ジブン が それ を ショウメイ する ため に うまれた コユウ の カセツ を ツイキュウ する こと で ある。
ジンセイ が カセツテキ な もの で ある と すれば、 シソウ が ジンセイ に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される の と おなじ シカタ で、 ジンセイ が その もの に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される ある もの が ある の で なければ ならぬ。
カセツ が たんに ロンリテキ な もの で ない こと は、 それ が ブンガク の シコウ など の ウチ にも ある と いう こと に よって あきらか で ある。 ショウセツカ の ソウサク コウドウ は ただ ヒトスジ に カレ の カセツ を ショウメイ する こと で ある。 ジンセイ が カセツ の ショウメイ で ある と いう イミ は これ に ルイジ して いる。 カセツ は すくなくとも この バアイ たんなる シイ に ぞくする の で なく、 コウソウリョク に ぞくして いる。 それ は フィクション で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある。 だから それ を ショウメイ する こと が モンダイ で ある。 それ が フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある と いう の は たんに ロンリテキ イミ に おいて で なく、 むしろ ソンザイロンテキ イミ に おいて で ある。 いいかえる と、 それ は ニンゲン の ソンザイ が キョム を ジョウケン と する のみ で なく キョム と コンゴウ されて いる こと を イミ して いる。 したがって カセツ の ショウメイ が ソウゾウテキ ケイセイ で なければ ならぬ こと は ショウセツ に おける と おなじ で ある。 ジンセイ に おいて ジッケン と いう の は かよう な ケイセイ を いう の で ある。
ジョウシキ を シソウ から クベツ する もっとも ジュウヨウ な トクチョウ は、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない と いう こと で ある。
シソウ は カセツ で なくて シンネン で なければ ならぬ と いわれる かも しれない。 しかるに シソウ が シンネン で なければ ならぬ と いう こと こそ、 シソウ が カセツ で ある こと を しめす もの で ある。 ジョウシキ の バアイ には ことさら シンコウ は いらない。 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない から で ある。 ジョウシキ は すでに ある シンコウ で ある、 これ に はんして シソウ は シンネン に ならねば ならぬ。
スベテ の シソウ-らしい シソウ は つねに キョクタン な ところ を もって いる。 なぜなら それ は カセツ の ツイキュウ で ある から。 これ に たいして ジョウシキ の もって いる おおきな トク は チュウヨウ と いう こと で ある。 しかるに シン の シソウ は コウドウ に うつす と いきる か しぬる か と いった セイシツ を もって いる。 シソウ の この キケン な セイシツ は、 コウドウジン は リカイ して いる が、 シソウ に ジュウジ する モノ に おいて は かえって わすれられて いる。 ただ イダイ な シソウカ のみ は その こと を コウドウジン より も ふかく しって いる。 ソクラテス が しょうよう と して シ に ついた の は その ため で あった で あろう。
ゴカイ を うける こと が シソウカ の ツネ の ウンメイ の よう に なって いる の は、 ヨノナカ には カレ の シソウ が ヒトツ の カセツ で ある こと を リカイ する モノ が すくない ため で ある。 しかし その ツミ の イッパン は タイテイ の バアイ シソウカ ジシン にも ある の で あって、 カレ ジシン その シソウ が カセツテキ な もの で ある こと を わすれる の で ある。 それ は カレ の タイダ に よる こと が おおい。 タンキュウ の つづいて いる かぎり シソウ の カセツテキ セイシツ は たえず あらわ で ある。
セッチュウ シュギ が シソウ と して ムリョク で ある の は、 そこ では カセツ の ジュンスイサ が うしなわれる ため で ある。 それ は このむ と このまない と に かかわらず ジョウシキ に ちかづく、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない。
カセツ と いう シソウ は キンダイ カガク の もたらした おそらく サイダイ の シソウ で ある。 キンダイ カガク の ジッショウセイ に たいする ゴカイ は、 その ナカ に ふくまれる カセツ の セイシン を まったく みのがした か、 ただしく ハアク しなかった ところ から しょうじた。 かよう に して ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちいらねば ならなかった。 カセツ の セイシン を しらない ならば、 ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちて ゆく の ホカ ない。
ギゼン に ついて
「ニンゲン は うまれつき ウソツキ で ある」、 と ラ ブリュイエール は いった。 「シンリ は タンジュン で あり、 そして ニンゲン は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 シンリ は ニンゲン に ぞくしない、 それ は いわば できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 テン から くる。 そして ニンゲン は ジブン ジシン の サクヒン、 ツクリゴト と オトギバナシ の ホカ あいしない」 ニンゲン が うまれつき ウソツキ で ある と いう の は、 キョエイ が カレ の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある ため で ある。 そこで カレ は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 キョエイ は その ジッタイ に したがって いう と キョム で ある。 だから ニンゲン は ツクリゴト や オトギバナシ を つくる の で あり、 そのよう な ジブン ジシン の サクヒン を あいする の で ある。 シンリ は ニンゲン の シゴト では ない。 それ は できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 ニンゲン とは カンケイ なく、 そこ に ある もの で ある。
その ホンセイ に おいて キョエイテキ で ある ニンゲン は ギゼンテキ で ある。 シンリ とは ベツ に ゼン が ある の で ない よう に、 キョエイ とは ベツ に ギゼン が ある の では ない。 ゼン が シンリ と ヒトツ の もの で ある こと を リカイ した モノ で あって ギゼン が ナン で ある か を リカイ する こと が できる。 キョエイ が ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる よう に、 ギゼン も ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる。 ギゼン が キョエイ と ホンシツテキ に おなじ もの で ある こと を リカイ しない モノ は、 ギゼン に たいする ハンカン から と しょうして ジブン ジシン ヒトツ の キョエイ の トリコ に なって いる。 ギゼン に たいして ギアク と いう ミョウ な コトバ で よばれる もの が それ で ある。 その ギアク と いう もの こそ あきらか に ニンゲン の おぼつかない キョエイ では ない か。 その もの は ギゼン が キョエイ に ほかならぬ こと を タメン から メイリョウ に する の で ある。 かよう な ギアクカ の トクチョウ は カンショウテキ で ある と いう こと で ある。 かつて ワタシ は ギアクカ と しょうする モノ で カンショウカ で ない よう な ニンゲン を みた こと が ない。 ギゼン に ハンカン を かんじる カレ の モラル も センチメンタリズム で しか ない。 ギアクカ は とかく ジブン で ソウゾウ して いる よう に ふかい ニンゲン では ない。 その カレ の ソウゾウ が また ヒトツ の センチメンタリズム に ぞくして いる。 もし カレ が ムガイ な ニンゲン で ある と した なら、 それ は イッパン に カンショウテキ な ニンゲン は ふかく は ない が ムガイ で ある と いう こと に よる の で ある。
ヒト は ただ タ の ニンゲン に たいする カンケイ に おいて のみ ギゼンテキ に なる と かんがえる の は まちがって いる。 ギゼン は キョエイ で あり、 キョエイ の ジッタイ は キョム で ある、 そして キョム は ニンゲン の ソンザイ ソノモノ で ある。 あらゆる トク が ほんらい ジコ に おける もの で ある よう に、 あらゆる アクトク も また ほんらい ジコ に おける もの で ある。 その ジコ を わすれて、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ を のみ アイテ に かんがえる ところ から ギゼンシャ と いう もの が しょうじる。 それだから ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき こと が リキセツ される よう に なって イライ、 いかに オオク の ギゼンシャ が しょうじた で あろう か。 あるいは むしろ ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき リロン は ゲンダイ に トクチョウテキ な ギゼン を かばう ため に ことさら のべられて いる よう に さえ みえる の で ある。
ワレワレ の ダレ が ギゼンテキ で ない で あろう か。 キョエイ は ニンゲン の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある。 ギゼンシャ が おそろしい の は、 カレ が ギゼンテキ で ある ため で ある と いう より も、 カレ が イシキテキ な ニンゲン で ある ため で ある。 しかし カレ が イシキ して いる の は ジコ で なく、 キョム でも なく、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ と いう もの で ある。
キョム に ねざす ジンセイ は フィクショナル な もの で ある。 ニンゲン の ドウトク も また フィクショナル な もの で ある。 それだから ギゼン も ソンザイ しうる の で あり、 ジャッカン の コウヨウ を さえ もちうる の で ある。 しかるに フィクショナル な もの は、 それ に とどまる こと なく、 その ジツザイセイ が ショウメイ されねば ならぬ。 ギゼンシャ と そう で ない ニンゲン との クベツ は、 その ショウメイ の セイイ と ネツジョウ を もって いる か どう か に ある。 ジンセイ に おいて ショウメイ する と いう こと は ケイセイ する こと で あり、 ケイセイ する と いう こと は ナイブ と ガイブ と が ヒトツ に なる こと で ある。 ところが ギゼンシャ に あって は ナイブ と ガイブ と が ベツ で ある。 ギゼンシャ には ソウゾウ と いう もの が ない。
キョゲン の ソンザイ する こと が カノウ で ある の は、 あらゆる ヒョウゲン が シンリ と して うけとられる セイシツ を それ ジシン に おいて もって いる ため で ある。 モノ は ヒョウゲン される と ワレワレ に ムカンケイ に なる。 ヒョウゲン と いう もの は そのよう に おそろしい もの で ある。 コイ を する ニンゲン は コトバ と いう もの、 ヒョウゲン と いう もの が いかに おそろしい もの で ある か を かんがえて おののいて いる。 コンニチ どれ だけ の チョサクカ が ヒョウゲン の オソロシサ を ホント に リカイ して いる か。
たえず タ の ヒト を アイテ に イシキ して いる ギゼンシャ が アユテキ で ない こと は まれ で ある。 ギゼン が タ の ヒト を ハメツ させる の は、 ギゼン ソノモノ に よって より も、 その ウチ に ふくまれる アユ に よって で ある。 ギゼンシャ と そう で ない モノ との クベツ は、 アユテキ で ある か どう か に ある と いう こと が できる で あろう。 ヒト に おもねる こと は まちがった こと を いう より も はるか に わるい。 コウシャ は タニン を フハイ させ は しない が、 ゼンシャ は タニン を フハイ させ、 その ココロ を かどわかして シンリ の ニンシキ に たいして ムノウリョク に する の で ある。 ウソ つく こと で さえ も が おもねる こと より も ドウトクテキ に まさって いる。 キョゲン の ガイ で さえ も が しゅとして その ウチ に コンニュウ する アユ に よる の で ある。 シンリ は タンジュン で ソッチョク で ある。 しかるに その ウラ は セン の ソウボウ を そなえて いる。 ギゼン が おもねる ため に とる スガタ も また ムゲン で ある。
タショウ とも ケンリョク を ゆうする チイ に ある モノ に もっとも ヒツヨウ な トク は、 おもねる モノ と ジュンシン な ニンゲン と を ヒトメ で シキベツ する チカラ で ある。 これ は ちいさい こと では ない。 もし カレ が この トク を もって いる なら、 カレ は あらゆる タ の トク を もって いる と みとめて も よい で あろう。
「よく かくれる モノ は よく いきる」 と いう コトバ には、 セイカツ に おける ふかい チエ が ふくまれて いる。 かくれる と いう の は ギゼン でも ギアク でも ない、 かえって シゼン の まま に いきる こと で ある。 シゼン の まま に いきる こと が かくれる と いう こと で ある ほど、 ヨノナカ は キョエイテキ で ある と いう こと を しっかり と みぬいて いきる こと で ある。
ゲンダイ の ドウトクテキ タイハイ に トクチョウテキ な こと は、 ギゼン が その タイハイ の フヘンテキ な ケイシキ で ある と いう こと で ある。 これ は タイハイ の あたらしい ケイシキ で ある。 タイハイ と いう の は フツウ に カタチ が くずれて ゆく こと で ある が、 この バアイ ヒョウメン の カタチ は まことに よく ととのって いる。 そして その カタチ は けっして ふるい もの では なく まったく あたらしい もの で さえ ある。 しかも その カタチ の オク には なんら の セイメイ も ない、 カタチ が あって も ココロ は その カタチ に ささえられて いる の で なく、 キョム で ある。 これ が ゲンダイ の キョム シュギ の セイカク で ある。
たとえば はじめて きた カセイフ に ジブン の ショサイ の ソウジ を まかせる と する。 カノジョ は ツクエ の ウエ や マワリ に ランザツ に おかれた ホン や ショルイ や ブンボウグ など を セイトン して きれい に ならべる で あろう。 そして カノジョ は マンゾク する。 ところで イマ ワタシ が ツクエ に むかって シゴト を しよう と する バアイ、 ワタシ は ナニ か ととのわない もの、 おちつかない もの を かんじ、 1 ジカン も たたない うち に、 せっかく きちんと セイトン されて いる もの を ひっくりかえし、 モト の よう に ランザツ に して しまう で あろう。
これ は チツジョ と いう もの が ナン で ある か を しめす ヒトツ の タンジュン な バアイ で ある。 ガイケンジョウ きわめて よく セイリ されて いる もの かならずしも チツジョ の ある もの で なく、 むしろ イッケン ムチツジョ に みえる ところ に かえって チツジョ が ソンザイ する の で ある。 この バアイ チツジョ と いう もの が、 ココロ の チツジョ に カンケイ して いる こと は あきらか で ある。 どのよう な ガイテキ チツジョ も ココロ の チツジョ に ガッチ しない かぎり シン の チツジョ では ない。 ココロ の チツジョ を ドガイシ して どのよう に ガイメン の チツジョ を ととのえた に して も クウソ で ある。
チツジョ は セイメイ あらしめる ゲンリ で ある。 そこ には つねに アタタカサ が なければ ならぬ。 ヒト は アタタカサ に よって セイメイ の ソンザイ を カンチ する。
また チツジョ は ジュウジツ させる もの で なければ ならぬ。 たんに きりすてたり とりはらったり する だけ で チツジョ が できる もの では ない。 キョム は あきらか に チツジョ とは ハンタイ の もの で ある。
しかし チツジョ は つねに ケイザイテキ な もの で ある。 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ゲンソク は チツジョ の ゲンソク でも ある。 これ は きわめて テヂカ な ジジツ に よって ショウメイ される。 セツヤク ――フツウ の ケイザイテキ な イミ での―― は チツジョ ソンチョウ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 この バアイ セツヤク は おおきな キョウヨウ で ある のみ で なく、 シュウキョウテキ な ケイケン に さえ ちかづく で あろう。 ギャク に いう と、 セツヤク は チツジョ スウハイ の ヒトツ の ケイシキ で ある と いう イミ に おいて のみ リンリテキ な イミ を もって いる。 ムチツジョ は オオク の バアイ ロウヒ から くる。 それ は、 ココロ の チツジョ に かんして、 キンセン の ランピ に おいて すでに そう で ある。
トキ の リヨウ と いう もの は チツジョ の アイ の アラワレ で ある。
サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク が ドウジ に ココロ の チツジョ の ホウソク でも ある と いう こと は、 この ケイザイ の ホウソク が じつは ビガク の ホウソク でも ある から で ある。
ビガク の ホウソク は セイジジョウ の チツジョ に かんして さえ モハンテキ で ありうる。 「ジダイ の セイジテキ モンダイ を ビガク に よって カイケツ する」 と いう シルレル の コトバ は、 ナニ より も チツジョ の モンダイ に かんして ダトウ する で あろう。
チシキ だけ では たりない、 ノウリョク が モンダイ で ある。 ノウリョク は ギジュツ と いいかえる こと が できる。 チツジョ は、 ココロ の チツジョ に かんして も、 キジュツ の モンダイ で ある。 この こと が リカイ される のみ で なく、 ノウリョク と して カクトク されねば ならぬ。
サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク は じつは ケイザイテキ ホウソク で ある より も ギジュツテキ ホウソク で あり、 かよう な もの と して それ は ビガク の ナカ にも はいりこむ の で ある。
プラトン の ナカ で ソクラテス は、 トク は ココロ の チツジョ で ある と いって いる。 これ より も グタイテキ で ジッショウテキ な トク の キテイ を ワタシ は しらない。 コンニチ もっとも わすれられて いる の は トク の このよう な カンガエカタ で ある。 そして トク は ココロ の チツジョ で ある と いう テイギ の ロンショウ に あたって ソクラテス が もちいた ホウホウ は、 チュウイ す べき こと に、 ケンチクジュツ、 ゾウセンジュツ-トウ、 モロモロ の ギジュツ との ヒロン で あった。 これ は ヒロン イジョウ の ジュウヨウ な イミ を もって いる こと で ある。
ココロ と いう ジッタイセイ の ない もの に ついて いかに して ギジュツ は カノウ で ある か、 と ヒト は いう で あろう。
ゲンダイ ブツリガク は エレクトロン の セツ イライ ブッシツ と いう もの から ブッタイセイ を うばいさった。 この セツ は ゼン-ブッシツカイ を カンゼン に ジッタイセイ の ない もの に する よう に みえる。 ワレワレ は 「ジッタイ」 の ガイネン を さけて、 それ を 「サヨウ」 の ガイネン で おきかえなければ ならぬ と いわれて いる。 スウガクテキ に キジュツ された ブッシツ は あらゆる ニチジョウテキ な シタシサ を うしなった。
フシギ な こと は、 この ブッシツカン の ヘンカク に ソウオウ する ヘンカク が、 それ に なんら カンケイ も ない ニンゲン の ココロ の ナカ で ジュンビ され、 ジツゲン された と いう こと で ある。 ゲンダイジン の シンリ ――かならずしも ゲンソン の シンリガク を いわない―― と ゲンダイ ブツリガク との ヘイコウ を ヒヒョウテキ に あきらか に する こと は、 あたらしい リンリガク の シュッパツテン で なければ ならぬ。
チシキジン と いう の は、 ゲンシテキ な イミ に おいて は、 モノ を つくりうる ニンゲン の こと で あった。 タ の ニンゲン の つくりえない もの を つくりうる ニンゲン が チシキジン で あった。 チシキジン の この ゲンシテキ な イミ を ワレワレ は もう イチド はっきり ワレワレ の ココロ に おもいうかべる こと が ヒツヨウ で ある と おもう。
ホメロス の エイユウ たち は ジブン で シュコウギョウ を おこなった。 エウマイオス は ジブン で カワ を セツダン して ハキモノ を つくった と いわれ、 オデュッセウス は ヒジョウ に キヨウ な ダイク で サシモノシ で あった よう に しるされて いる。 ワレワレ に とって これ は センボウ に あたいする こと では ない で あろう か。
ドウトク の ナカ にも シュコウギョウテキ な もの が ある。 そして これ が ドウトク の キソテキ な もの で ある。
しかし コンナン は、 コンニチ ブッテキ ギジュツ に おいて 「ドウグ」 の ギジュツ から 「キカイ」 の ギジュツ に ヘンカ した よう な おおきな ヘンカク が、 ドウトク の リョウイキ に おいて も ヨウキュウ されて いる ところ に ある。
つくる こと に よって しる と いう こと が タイセツ で ある。 これ が キンダイ カガク に おける ジッショウテキ セイシン で あり、 ドウトク も その イミ に おいて まったく ジッショウテキ で なければ ならぬ。
プラトン が ココロ の チツジョ に ソウオウ して コッカ の チツジョ を かんがえた こと は キタイ な こと では ない。 この コウソウ には ふかい チエ が ふくまれて いる。
あらゆる チツジョ の コウソウ の コンテイ には カチ タイケイ の セッテイ が なければ ならぬ。 しかるに コンニチ リュウコウ の シンチツジョロン の キソ に どのよう な カチ タイケイ が ソンザイ する で あろう か。 リンリガク で さえ コンニチ では カチ タイケイ の セッテイ を ホウテキ して しかも コウカツ にも へいぜん と して いる ジョウタイ で ある。
ニーチェ が イッサイ の カチ の テンカン を となえて イゴ、 まだ どのよう な ショウニン された カチ タイケイ も ソンザイ しない。 それ イゴ、 シンチツジョ の セッテイ は つねに なんらか ドクサイテキ な カタチ を とらざる を えなかった。 イッサイ の カチ の テンカン と いう ニーチェ の シソウ ソノモノ が じつは キンダイ シャカイ の たどりついた カチ の アナーキー の ヒョウゲン で あった。 キンダイ デモクラシー は ナイメンテキ には いわゆる カチ の タシンロン から ムシンロン に、 すなわち キョム シュギ に おちて ゆく キケン が あった。 これ を もっとも ふかく リカイ した の が ニーチェ で あった。 そして かよう な キョム シュギ、 ナイメンテキ な アナーキー こそ ドクサイ セイジ の ジバン で ある。 もし ドクサイ を のぞまない ならば、 キョム シュギ を コクフク して ウチ から たちなおらなければ ならない。 しかるに コンニチ ワガクニ の オオク の インテリゲンチャ は ドクサイ を キョクタン に きらいながら ジブン ジシン は どうしても ニヒリズム から ダッシュツ する こと が できない で いる。
ガイテキ チツジョ は キョウリョク に よって も つくる こと が できる。 しかし ココロ の チツジョ は そう では ない。
ジンカク とは チツジョ で ある、 ジユウ と いう もの も チツジョ で ある。 ……かよう な こと が リカイ されねば ならぬ。 そして それ が リカイ される とき、 シュカン シュギ は フジュウブン と なり、 なんらか キャッカンテキ な もの を みとめなければ ならなく なる で あろう。 キンダイ の シュカン シュギ は チツジョ の シソウ の ソウシツ に よって キョム シュギ に おちいった。 いわゆる ム の テツガク も、 チツジョ の シソウ、 とくに また カチ タイケイ の セッテイ なし には、 その ゼッタイ シュギ の キョム シュギ と おなじ に なる キケン が おおきい。
カンショウ に ついて
セイシン が ナン で ある か は シンタイ に よって しられる。 ワタシ は うごきながら よろこぶ こと が できる、 ヨロコビ は ワタシ の ウンドウ を カッパツ に し さえ する で あろう。 ワタシ は うごきながら いかる こと が できる、 イカリ は ワタシ の ウンドウ を ゲキレツ に し さえ する で あろう。 しかるに カンショウ の バアイ、 ワタシ は たちどまる、 すくなくとも セイシ に ちかい ジョウタイ が ワタシ に ヒツヨウ で ある よう に おもわれる。 うごきはじめる や いなや、 カンショウ は やむ か、 もしくは タ の もの に かわって ゆく。 ゆえに ヒト を カンショウ から だっしさせよう と する には、 まず カレ を たたせ、 カレ に うごく こと を キョウヨウ する の で ある。 かく の ごとき こと が カンショウ の シンリテキ セイシツ ソノモノ を しめして いる。 ニホンジン は トクベツ に カンショウテキ で ある と いう こと が ただしい と すれば、 それ は ワレワレ の ひさしい アイダ の セイカツ ヨウシキ に カンケイ が ある と かんがえられない で あろう か。
カンショウ の バアイ、 ワタシ は すわって ながめて いる、 たって そこ まで うごいて ゆく の では ない。 いな、 ワタシ は ホント には ながめて さえ いない で あろう。 カンショウ は、 ナニ に ついて カンショウ する に して も、 けっきょく ジブン ジシン に とどまって いる の で あって、 モノ の ナカ に はいって ゆかない。 ヒヒョウ と いい、 カイギ と いう も、 モノ の ナカ に はいって ゆかない かぎり、 イッコ の カンショウ に すぎぬ。 シン の ヒヒョウ は、 シン の カイギ は、 モノ の ナカ に はいって ゆく の で ある。
カンショウ は アイ、 ニクシミ、 カナシミ、 -トウ、 タ の ジョウネン から クベツ されて それら と ならぶ ジョウネン の ヒトツ の シュルイ では ない。 むしろ カンショウ は あらゆる ジョウネン の とりうる ヒトツ の ケイシキ で ある。 スベテ の ジョウネン は、 もっとも ソヤ な もの から もっとも チテキ な もの に いたる まで、 カンショウ の ケイシキ に おいて ソンザイ し ないし サヨウ する こと が できる。 アイ も カンショウ と なる こと が できる し、 ニクシミ も カンショウ と なる こと が できる。 カンタン に いう と、 カンショウ は ジョウネン の ヒトツ の フヘンテキ な ケイシキ で ある。 それ が ナニ か ジッタイ の ない もの の よう に おもわれる の も、 それ が ジョウネン の ヒトツ の シュルイ で なくて ヒトツ の ソンザイ ヨウソウ で ある ため で ある。
カンショウ は スベテ の ジョウネン の いわば ヒョウメン に ある。 かよう な もの と して それ は スベテ の ジョウネン の イリグチ で ある と ともに デグチ で ある。 まず アト の バアイ が チュウイ される。 ヒトツ の ジョウネン は その カツドウ を やめる とき、 カンショウ と して アト を ひき、 カンショウ と して おわる。 なく こと が ジョウネン を しずめる こと で ある リユウ も そこ に ある。 なく こと は はげしい ジョウネン の カツドウ を カンショウ に かえる ため の テヂカ な シュダン で ある。 しかし なく だけ では たりない で あろう。 なきくずれなければ ならぬ、 つまり セイシ が ヒツヨウ で ある。 ところで とくに カンショウテキ と いわれる ニンゲン は、 あらゆる ジョウネン に その コユウ の カツドウ を あたえない で、 ヒョウメン の イリグチ で カクサン させて しまう ニンゲン の こと で ある。 だから カンショウテキ な ニンゲン は けっして ふかい とは いわれない が ムガイ な ニンゲン で ある。
カンショウ は ムジュン を しらない。 ヒト は アイ と ニクシミ と に ココロ が ブンレツ する と いう。 しかし それ が カンショウ に なる と、 アイ も ニクシミ も ヒトツ に とけあう。 ウンドウ は ムジュン から しょうずる と いう イミ に おいて も、 カンショウ は うごく もの とは かんがえられない で あろう。 それ は ただ ながれる、 むしろ ただ ただよう。 カンショウ は ワカイ の テヂカ な シュダン で ある。 だから また それ は しばしば シュウキョウテキ な ココロ、 くだかれた ココロ と いう もの と コンドウ される。 ワレワレ の カンショウテキ な ココロ は ブッキョウ の ムジョウカン に エイキョウ されて いる ところ が すくなく ない で あろう。 それ だけ に リョウシャ を ゲンカク に クベツ する こと が カンヨウ で ある。
カンショウ は ただ カンショウ を よびおこす、 そう で なければ ただ きえて ゆく。
ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって ソウゾウ する、 ないしは ハカイ する。 しかし カンショウ は そう では ない。 ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって イマジネーション を よびおこす。 しかし カンショウ に ともなう の は ドゥリーム で しか ない。 イマジネーション は ソウゾウテキ で ありうる。 しかし ドゥリーム は そう では ない。 そこ には うごく もの と うごかぬ もの との アイダ の サイ が ある で あろう。
カンショウテキ で ある こと が ゲイジュツテキ で ある か の よう に かんがえる の は、 ヒトツ の カンショウ で しか ない。 カンショウテキ で ある こと が シュウキョウテキ で ある か の よう に かんがえる モノ に いたって は、 さらに それ イジョウ カンショウテキ で ある と いわねば ならぬ。 シュウキョウ は もとより、 ゲイジュツ も、 カンショウ から の ダッシュツ で ある。
メイソウ は オオク の バアイ カンショウ から でて くる、 すくなくとも カンショウ を ともない、 あるいは カンショウ に かわって ゆく。 シサク する モノ は カンショウ の ユウワク に まけて は ならぬ。
カンショウ は シュミ に なる こと が でき、 また しばしば そう なって いる。 カンショウ は そのよう に カンミ な もの で あり、 ユウワクテキ で ある。 メイソウ が シュミ に なる の は、 それ が カンショウテキ に なる ため で ある。
スベテ の シュミ と おなじ よう に、 カンショウ は ホンシツテキ には ただ カコ の もの の ウエ に のみ はたらく の で ある。 それ は できつつ ある もの に たいして で なく できあがった もの に たいして はたらく の で ある。 すべて すぎさった もの は カンショウテキ に うつくしい。 カンショウテキ な ニンゲン は カイコ する こと を このむ。 ヒト は ミライ に ついて カンショウ する こと が できぬ。 すくなくとも カンショウ の タイショウ で ある よう な ミライ は シン の ミライ では ない。
カンショウ は セイサクテキ で なくて カンショウテキ で ある。 しかし ワタシ は カンショウ に よって ナニ を カンショウ する の で あろう か。 モノ の ナカ に はいらない で ワタシ は モノ を カンショウ しうる で あろう か。 カンショウ に おいて ワタシ は モノ を あじわって いる の で なく ジブン ジシン を あじわって いる の で ある。 いな、 セイカク に いう と、 ワタシ は ジブン ジシン を あじわって いる の で さえ なく、 ただ カンショウ ソノモノ を あじわって いる の で ある。
カンショウ は シュカン シュギ で ある。 セイネン が カンショウテキ で ある の は この ジダイ が シュカンテキ な ジキ で ある ため で ある。 シュカン シュギシャ は、 どれほど ガイネンテキ あるいは ロンリテキ に よそおう とも、 ナイジツ は カンショウカ で しか ない こと が おおい。
あらゆる ジョウネン の ウチ ヨロコビ は カンショウテキ に なる こと が もっとも すくない ジョウネン で ある。 そこ に ヨロコビ の もつ トクシュ な セッキョクセイ が ある。
カンショウ には コセイ が ない、 それ は シン の シュカンセイ では ない から。 その イミ で カンショウ は タイシュウテキ で ある。 だから タイシュウ ブンガク と いう もの は ホンシツテキ に カンショウテキ で ある。 タイシュウ ブンガク の サッカ は カコ の ジンブツ を とりあつかう の が ツネ で ある の も、 これ に カンケイ する で あろう。 カレラ と ジュンブンガク の サッカ との サイ は、 カレラ が ゲンダイ の ジンブツ を おなじ よう に たくみ に えがく こと が できない テン に ある。 この カンタン な コトガラ の ウチ に ゲイジュツロン に おける シュジュ の ジュウヨウ な モンダイ が ふくまれて いる。
カンショウ は タイテイ の バアイ マンネリズム に おちいって いる。
シンタイ の ガイカン が セイシン の ジョウタイ と かならずしも イッチ しない こと は、 イッケン きわめて ガンジョウ な ニンゲン が はなはだ カンショウテキ で ある バアイ が ソンザイ する こと に よって しられる。
タビ は ヒト を カンショウテキ に する と いう。 カレ は うごく こと に よって カンショウテキ に なる の で あろう か。 もし そう で ある と すれば、 ワタシ の サイショ の テイギ は まちがって いる こと に なる。 だが そう では ない。 タビ に おいて ヒト が カンショウテキ に なりやすい の は、 むしろ カレ が その ニチジョウ の カツドウ から ぬけだす ため で あり、 ムイ に なる ため で ある。 カンショウ は ワタシ の ウィークエンド で ある。
コウドウテキ な ニンゲン は カンショウテキ で ない。 シソウカ は コウドウジン と して の ごとく シサク しなければ ならぬ。 キンベン が シソウカ の トク で ある と いう の は、 カレ が カンショウテキ に なる ユウワク の おおい ため で ある。
あらゆる もの が ルテン する の を みて カンショウテキ に なる の は、 モノ を とらえて その ナカ に はいる こと の できぬ ジコ を かんじる ため で ある。 ジコ も また ルテン の ナカ に ある の を しる とき、 ワタシ は たんなる カンショウ に とどまりうる で あろう か。
カンショウ には つねに なんらか の キョエイ が ある。
カセツ に ついて
シソウ が ナン で ある か は、 これ を セイカツ に たいして かんがえて みる と メイリョウ に なる で あろう。 セイカツ は ジジツ で ある、 どこまでも ケイケンテキ な もの で ある。 それ に たいして シソウ には つねに カセツテキ な ところ が ある。 カセツテキ な ところ の ない よう な シソウ は シソウ とは いわれない で あろう。 シソウ が ジュンスイ に シソウ と して もって いる チカラ は カセツ の チカラ で ある。 シソウ は その カセツ の オオイサ に したがって イダイ で ある。 もし シソウ に カセツテキ な ところ が ない と すれば、 いかに して それ は セイカツ から クベツ されうる で あろう か。 かんがえる と いう こと も それ ジシン と して は あきらか に ワレワレ の セイカツ の イチブブン で あって、 これ と ベツ の もの では ない。 しかるに その もの が なお セイカツ から クベツ される の は、 かんがえる と いう こと が ホンシツテキ には カセツテキ に かんがえる こと で ある ため で ある。
かんがえる と いう こと は カテイテキ に かんがえる こと で ある。 カテイテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 しかるに シコウ が カテイテキ で ある の は カセツテキ に かんがえる から で ある。 すなわち カセツテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 カイギ に して も ホウホウテキ で ある ため には カセツ に よらねば ならぬ こと は、 デカルト の カイギ に おいて モハンテキ に しめされて いる。
カセツテキ に かんがえる と いう こと は ロンリテキ に かんがえる と いう こと と タンジュン に おなじ では ない。 カセツ は ある イミ で ロンリ より も コンゲンテキ で あり、 ロンリ は むしろ そこ から でて くる。 ロンリ ソノモノ が ヒトツ の カセツ で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は ジコ ジシン から ロンリ を つくりだす チカラ を さえ もって いる。 ロンリ より も フカクジツ な もの から ロンリ が でて くる の で ある。 ロンリ も カセツ を つくりだす もの と かんがえられる かぎり それ ジシン カセツテキ な もの と かんがえられねば ならぬ。
すべて カクジツ な もの は フカクジツ な もの から でて くる の で あって、 その ギャク で ない と いう こと は、 ふかく かんがう べき こと で ある。 つまり カクジツ な もの は あたえられた もの で なくて ケイセイ される もの で あり、 カセツ は この ケイセイテキ な チカラ で ある。 ニンシキ は モシャ で なくて ケイセイ で ある。 セイシン は ゲイジュツカ で あり、 カガミ では ない。
しかし シソウ のみ が カセツテキ で あって、 ジンセイ は カセツテキ で ない の で あろう か。 ジンセイ も ある カセツテキ な もの で ある。 それ が カセツテキ で ある の は、 それ が キョム に つながる ため で ある。 カクジン は いわば ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため に うまれて いる。 いきて いる こと は、 ただ いきて いる と いう こと を ショウメイ する ため では ない で あろう、 ――そのよう な ショウメイ は およそ フヨウ で ある、―― じつに、 ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため で ある。 だから ジンセイ は ジッケン で ある と かんがえられる。 ――カセツ なし に ジッケン と いう もの は ありえない。―― もとより それ は、 なんでも カッテ に やって みる こと では なく、 ジブン が それ を ショウメイ する ため に うまれた コユウ の カセツ を ツイキュウ する こと で ある。
ジンセイ が カセツテキ な もの で ある と すれば、 シソウ が ジンセイ に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される の と おなじ シカタ で、 ジンセイ が その もの に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される ある もの が ある の で なければ ならぬ。
カセツ が たんに ロンリテキ な もの で ない こと は、 それ が ブンガク の シコウ など の ウチ にも ある と いう こと に よって あきらか で ある。 ショウセツカ の ソウサク コウドウ は ただ ヒトスジ に カレ の カセツ を ショウメイ する こと で ある。 ジンセイ が カセツ の ショウメイ で ある と いう イミ は これ に ルイジ して いる。 カセツ は すくなくとも この バアイ たんなる シイ に ぞくする の で なく、 コウソウリョク に ぞくして いる。 それ は フィクション で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある。 だから それ を ショウメイ する こと が モンダイ で ある。 それ が フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある と いう の は たんに ロンリテキ イミ に おいて で なく、 むしろ ソンザイロンテキ イミ に おいて で ある。 いいかえる と、 それ は ニンゲン の ソンザイ が キョム を ジョウケン と する のみ で なく キョム と コンゴウ されて いる こと を イミ して いる。 したがって カセツ の ショウメイ が ソウゾウテキ ケイセイ で なければ ならぬ こと は ショウセツ に おける と おなじ で ある。 ジンセイ に おいて ジッケン と いう の は かよう な ケイセイ を いう の で ある。
ジョウシキ を シソウ から クベツ する もっとも ジュウヨウ な トクチョウ は、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない と いう こと で ある。
シソウ は カセツ で なくて シンネン で なければ ならぬ と いわれる かも しれない。 しかるに シソウ が シンネン で なければ ならぬ と いう こと こそ、 シソウ が カセツ で ある こと を しめす もの で ある。 ジョウシキ の バアイ には ことさら シンコウ は いらない。 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない から で ある。 ジョウシキ は すでに ある シンコウ で ある、 これ に はんして シソウ は シンネン に ならねば ならぬ。
スベテ の シソウ-らしい シソウ は つねに キョクタン な ところ を もって いる。 なぜなら それ は カセツ の ツイキュウ で ある から。 これ に たいして ジョウシキ の もって いる おおきな トク は チュウヨウ と いう こと で ある。 しかるに シン の シソウ は コウドウ に うつす と いきる か しぬる か と いった セイシツ を もって いる。 シソウ の この キケン な セイシツ は、 コウドウジン は リカイ して いる が、 シソウ に ジュウジ する モノ に おいて は かえって わすれられて いる。 ただ イダイ な シソウカ のみ は その こと を コウドウジン より も ふかく しって いる。 ソクラテス が しょうよう と して シ に ついた の は その ため で あった で あろう。
ゴカイ を うける こと が シソウカ の ツネ の ウンメイ の よう に なって いる の は、 ヨノナカ には カレ の シソウ が ヒトツ の カセツ で ある こと を リカイ する モノ が すくない ため で ある。 しかし その ツミ の イッパン は タイテイ の バアイ シソウカ ジシン にも ある の で あって、 カレ ジシン その シソウ が カセツテキ な もの で ある こと を わすれる の で ある。 それ は カレ の タイダ に よる こと が おおい。 タンキュウ の つづいて いる かぎり シソウ の カセツテキ セイシツ は たえず あらわ で ある。
セッチュウ シュギ が シソウ と して ムリョク で ある の は、 そこ では カセツ の ジュンスイサ が うしなわれる ため で ある。 それ は このむ と このまない と に かかわらず ジョウシキ に ちかづく、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない。
カセツ と いう シソウ は キンダイ カガク の もたらした おそらく サイダイ の シソウ で ある。 キンダイ カガク の ジッショウセイ に たいする ゴカイ は、 その ナカ に ふくまれる カセツ の セイシン を まったく みのがした か、 ただしく ハアク しなかった ところ から しょうじた。 かよう に して ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちいらねば ならなかった。 カセツ の セイシン を しらない ならば、 ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちて ゆく の ホカ ない。
ギゼン に ついて
「ニンゲン は うまれつき ウソツキ で ある」、 と ラ ブリュイエール は いった。 「シンリ は タンジュン で あり、 そして ニンゲン は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 シンリ は ニンゲン に ぞくしない、 それ は いわば できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 テン から くる。 そして ニンゲン は ジブン ジシン の サクヒン、 ツクリゴト と オトギバナシ の ホカ あいしない」 ニンゲン が うまれつき ウソツキ で ある と いう の は、 キョエイ が カレ の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある ため で ある。 そこで カレ は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 キョエイ は その ジッタイ に したがって いう と キョム で ある。 だから ニンゲン は ツクリゴト や オトギバナシ を つくる の で あり、 そのよう な ジブン ジシン の サクヒン を あいする の で ある。 シンリ は ニンゲン の シゴト では ない。 それ は できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 ニンゲン とは カンケイ なく、 そこ に ある もの で ある。
その ホンセイ に おいて キョエイテキ で ある ニンゲン は ギゼンテキ で ある。 シンリ とは ベツ に ゼン が ある の で ない よう に、 キョエイ とは ベツ に ギゼン が ある の では ない。 ゼン が シンリ と ヒトツ の もの で ある こと を リカイ した モノ で あって ギゼン が ナン で ある か を リカイ する こと が できる。 キョエイ が ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる よう に、 ギゼン も ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる。 ギゼン が キョエイ と ホンシツテキ に おなじ もの で ある こと を リカイ しない モノ は、 ギゼン に たいする ハンカン から と しょうして ジブン ジシン ヒトツ の キョエイ の トリコ に なって いる。 ギゼン に たいして ギアク と いう ミョウ な コトバ で よばれる もの が それ で ある。 その ギアク と いう もの こそ あきらか に ニンゲン の おぼつかない キョエイ では ない か。 その もの は ギゼン が キョエイ に ほかならぬ こと を タメン から メイリョウ に する の で ある。 かよう な ギアクカ の トクチョウ は カンショウテキ で ある と いう こと で ある。 かつて ワタシ は ギアクカ と しょうする モノ で カンショウカ で ない よう な ニンゲン を みた こと が ない。 ギゼン に ハンカン を かんじる カレ の モラル も センチメンタリズム で しか ない。 ギアクカ は とかく ジブン で ソウゾウ して いる よう に ふかい ニンゲン では ない。 その カレ の ソウゾウ が また ヒトツ の センチメンタリズム に ぞくして いる。 もし カレ が ムガイ な ニンゲン で ある と した なら、 それ は イッパン に カンショウテキ な ニンゲン は ふかく は ない が ムガイ で ある と いう こと に よる の で ある。
ヒト は ただ タ の ニンゲン に たいする カンケイ に おいて のみ ギゼンテキ に なる と かんがえる の は まちがって いる。 ギゼン は キョエイ で あり、 キョエイ の ジッタイ は キョム で ある、 そして キョム は ニンゲン の ソンザイ ソノモノ で ある。 あらゆる トク が ほんらい ジコ に おける もの で ある よう に、 あらゆる アクトク も また ほんらい ジコ に おける もの で ある。 その ジコ を わすれて、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ を のみ アイテ に かんがえる ところ から ギゼンシャ と いう もの が しょうじる。 それだから ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき こと が リキセツ される よう に なって イライ、 いかに オオク の ギゼンシャ が しょうじた で あろう か。 あるいは むしろ ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき リロン は ゲンダイ に トクチョウテキ な ギゼン を かばう ため に ことさら のべられて いる よう に さえ みえる の で ある。
ワレワレ の ダレ が ギゼンテキ で ない で あろう か。 キョエイ は ニンゲン の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある。 ギゼンシャ が おそろしい の は、 カレ が ギゼンテキ で ある ため で ある と いう より も、 カレ が イシキテキ な ニンゲン で ある ため で ある。 しかし カレ が イシキ して いる の は ジコ で なく、 キョム でも なく、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ と いう もの で ある。
キョム に ねざす ジンセイ は フィクショナル な もの で ある。 ニンゲン の ドウトク も また フィクショナル な もの で ある。 それだから ギゼン も ソンザイ しうる の で あり、 ジャッカン の コウヨウ を さえ もちうる の で ある。 しかるに フィクショナル な もの は、 それ に とどまる こと なく、 その ジツザイセイ が ショウメイ されねば ならぬ。 ギゼンシャ と そう で ない ニンゲン との クベツ は、 その ショウメイ の セイイ と ネツジョウ を もって いる か どう か に ある。 ジンセイ に おいて ショウメイ する と いう こと は ケイセイ する こと で あり、 ケイセイ する と いう こと は ナイブ と ガイブ と が ヒトツ に なる こと で ある。 ところが ギゼンシャ に あって は ナイブ と ガイブ と が ベツ で ある。 ギゼンシャ には ソウゾウ と いう もの が ない。
キョゲン の ソンザイ する こと が カノウ で ある の は、 あらゆる ヒョウゲン が シンリ と して うけとられる セイシツ を それ ジシン に おいて もって いる ため で ある。 モノ は ヒョウゲン される と ワレワレ に ムカンケイ に なる。 ヒョウゲン と いう もの は そのよう に おそろしい もの で ある。 コイ を する ニンゲン は コトバ と いう もの、 ヒョウゲン と いう もの が いかに おそろしい もの で ある か を かんがえて おののいて いる。 コンニチ どれ だけ の チョサクカ が ヒョウゲン の オソロシサ を ホント に リカイ して いる か。
たえず タ の ヒト を アイテ に イシキ して いる ギゼンシャ が アユテキ で ない こと は まれ で ある。 ギゼン が タ の ヒト を ハメツ させる の は、 ギゼン ソノモノ に よって より も、 その ウチ に ふくまれる アユ に よって で ある。 ギゼンシャ と そう で ない モノ との クベツ は、 アユテキ で ある か どう か に ある と いう こと が できる で あろう。 ヒト に おもねる こと は まちがった こと を いう より も はるか に わるい。 コウシャ は タニン を フハイ させ は しない が、 ゼンシャ は タニン を フハイ させ、 その ココロ を かどわかして シンリ の ニンシキ に たいして ムノウリョク に する の で ある。 ウソ つく こと で さえ も が おもねる こと より も ドウトクテキ に まさって いる。 キョゲン の ガイ で さえ も が しゅとして その ウチ に コンニュウ する アユ に よる の で ある。 シンリ は タンジュン で ソッチョク で ある。 しかるに その ウラ は セン の ソウボウ を そなえて いる。 ギゼン が おもねる ため に とる スガタ も また ムゲン で ある。
タショウ とも ケンリョク を ゆうする チイ に ある モノ に もっとも ヒツヨウ な トク は、 おもねる モノ と ジュンシン な ニンゲン と を ヒトメ で シキベツ する チカラ で ある。 これ は ちいさい こと では ない。 もし カレ が この トク を もって いる なら、 カレ は あらゆる タ の トク を もって いる と みとめて も よい で あろう。
「よく かくれる モノ は よく いきる」 と いう コトバ には、 セイカツ に おける ふかい チエ が ふくまれて いる。 かくれる と いう の は ギゼン でも ギアク でも ない、 かえって シゼン の まま に いきる こと で ある。 シゼン の まま に いきる こと が かくれる と いう こと で ある ほど、 ヨノナカ は キョエイテキ で ある と いう こと を しっかり と みぬいて いきる こと で ある。
ゲンダイ の ドウトクテキ タイハイ に トクチョウテキ な こと は、 ギゼン が その タイハイ の フヘンテキ な ケイシキ で ある と いう こと で ある。 これ は タイハイ の あたらしい ケイシキ で ある。 タイハイ と いう の は フツウ に カタチ が くずれて ゆく こと で ある が、 この バアイ ヒョウメン の カタチ は まことに よく ととのって いる。 そして その カタチ は けっして ふるい もの では なく まったく あたらしい もの で さえ ある。 しかも その カタチ の オク には なんら の セイメイ も ない、 カタチ が あって も ココロ は その カタチ に ささえられて いる の で なく、 キョム で ある。 これ が ゲンダイ の キョム シュギ の セイカク で ある。