◆神代の案内人ブログ

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◆その時歴史が動いた 箸墓古墳(その7)

2013-05-29 18:52:47 | ◆その時歴史が動いた 箸墓古墳
 大彦命は先帝開化天皇の実兄である。その娘御間城媛は崇神天皇の皇后となっている。実力者吉備としては天皇の気を引き、又、外戚大彦命を敵に回さないよう、この大任を任せたのであろう。大彦命には心配ごとがあった。まだ若く気が多い現帝は、あちこちと女性を追って自分の娘のところにはあまり寄りつかない。地元の大和にいても高天原族が気を合わせる不穏の空気を肌に感じる。四道将軍が各々出陣し大和が手薄になった時、不穏の輩が決起すれば、大切な婿殿・娘があぶない。しかしその地下の芽を密告しそれが表に出た場合、大彦命の立場は余りスマートとは云えない。そこでまた例の神のお告げが登場する。
 軍団が大和を出発した。「大彦命、和珥坂の上に至る。時に乙女ありて歌して曰く『御間城彦はや(崇神天皇のこと)おのが命を殺(し)いせむとせむと窃(ぬす)まくしらに姫遊びすも』」
いのちを狙われているのも知らず、女あさりに夢中とはいやはやいい気なものだ。
「ここに大彦命異(あやしび)びて、童女に問いて曰く『汝が言は何事ぞ』答えて曰く『ものいわず唯歌いつらくのみ』といふ。すなわち重ねて先の歌を詠いて忽ちに見えずなりぬ。大彦命即ち還りて具に状を以て奏す」と書紀にある。童女の詠は大彦命の仕組んだ筋書きであろう。神のお告げは神聖である。すくなくとも表面上はそうされていた筈である。これにより武埴安彦と妻の吾田姫の謀略が露見し、軍を起して内乱となる。かなり大きな内乱であったらしい。大和・大阪・山城と転戦して鎮圧することができた。埴安彦命は孝元天皇の皇子であった。『汝、天に逆らいて無道し、王室を傾け奉らむとす、故義兵を挙げて汝が逆らふを討たんとす』これが反乱軍の大義名分であった。
 大彦命はしたたか者であつた。大御気主の如く正面きって諫言するのでなく、神を使って天皇の女遊びを激しく諌め、政権の危機を救ったのあった。大内乱の出鼻を挫かれ、各地の騒乱の機運は次第に沈静に向かい、四道将軍の派遣は成功する。(つづく)


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