◆神代の案内人ブログ

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◆第一代神武天皇より第九代開化天皇までの皇統を語る 第三章 (その3)

2013-01-02 10:09:30 | 第一代神武天皇より第九代開化天皇
 
第三章    カンヤマトイワレヒコノスメラミコト(神武天皇)、武仁尊の大和討ち(その3)


 饒速日命は父や祖父の瓊瓊杵尊から呆れる程の素戔鳴尊の狼藉振りを聞き良く知っていた。今の中に義兄の長髄彦をさとし講和して末代まで恥を舁きたくない。その様な心理が働いたのでないか。その様に思えるのである。天鈴55年11月、先に高倉山にこもり行く手を遮っていた磯城彦兄弟に使者をだして、参上するよう促しますが兄は来ない。再度八咫烏を使者に出しても兄は従わず、弟にも使いを出すと弟は驚き怯えて、武仁君の元へ参上し『兄は君に背き絶対に聞き入れません』。武君は再三高倉下命と弟磯城を使いに出すが聞き入れず、総攻撃となり忍坂・女坂の二方から攻め鋏み討ちにして全滅させる。入れ替わる様に長髓彦の軍隊が表れ激しい戦闘になる。長髓彦軍は強く武仁軍は苦戦となった。その時氷雨が降り出し戦闘は中断する。雨が小雨となり青空が見え始めた。その時金色の鵜が飛んできて武仁君の弓弭(ゆみはず)に止まり金色の閃光を放ち、敵軍は不審に思い攻めを止める。日本書紀では金色の鵄と記され、目が眩んで退却したと書かれている。これに関して私は他書で以前私見を述べているが、それをこの機会に再び紹介をしたい。飛騨・美濃は天照大神や姉の和歌姫とは関係が深い所で、この時待ちに待った鉄製の剣を持った援軍、又は、武器が美濃より届いたのでないか。青空がのぞき再び戦闘開始となり、武仁軍は一斉に剣を抜いた。それが太陽に反射して強烈な光を発した。鉄製の剣の威力は敵味方に伝わっていて、己の不利を知り長髓彦軍は退いた。 美濃一の宮の金山神社の祭神は国魂命で製鉄の神さまである。創建は古く神代となっていて、神社縁起には神武東征の際、功績があったと記録されているそうだ。 
 長髓彦から申し入れがあり、『昔、天照大神の御孫奇玉火之明尊が天の岩船に乗り飛鳥に降臨された。その後継ぎとして饒速日尊が養子となり日嗣を受けられた。饒速曰尊は長髄彦の実妹御炊屋姫を后とされ可美直手命をお生みになった。これ故、わが主君は饒速日尊を置いて唯この一人であり、 忍穂耳尊の十種の神宝も所持されている。一体武仁、そなたは何者だ。天下の後継ぎであると云う証拠を示せ』。 武仁君は天照大神の神器を示し、長髓彦も十種の神宝をしめして、互いに埒が明かない。天照大神と忍穂耳尊を比べれば、天照君の方が皇統としては重い日嗣の証であるが、先に日嗣の証(あかし)を受けたのは我が君だとして、長髓彦は頑なに言い張る。武仁君の人柄を知った鐃速日尊は、頑固な性格で人の意見を聞かず天地の区別もつかない長髓彦をその場で切り殺した、となっているが、人知れず北の東日流に流したとの説が有力である。
 騒乱の余波はまだ続き、天鈴56年尚頑固に抵抗する背の低い土蜘蛛や力の強い足長蜘蛛が岩や木を振り回し抵抗を続けるため、多賀の宮を護る大物主櫛甕玉命に攻略の秘策を練らせると、命は葛の茎の網を考案、それを土蜘蛛の被せ退治することが出来た。
 大和はやつと平定され筑紫より天種子命が加わり、これに櫛甕玉命と二名で新しい都の候補地を選ぶように命令が下される。二名はあれこれ検討し、実地検分の末、橿原の地が一番適していると報告、武仁君も同じ意見で、これに決定となる。次に武仁君は皇后を立てようと思うと申された。この時武仁君には既に正式の后がおられ皇子もいた。地元の豪族から吾平姫を娶られ、手研耳尊が生まれていたのである。武仁君が大和東征を決意し出征されたのは既に45歳の時であったと記録されている。既に初老であるが若い美形の姫がお望みであった。「二代目の大物主事代主が玉櫛姫と生む姫蹈鞴(たたら)五十鈴姫は美形で阿波宮の住んでおります。この姫が宜しいでしょう」と家臣が勧め、天皇も大変喜ばれたと記されている。事代主命は恵美須神と云われ(七福神のエビスサマ)積葉事代主(四代目大物主)を祀主とし、孫の櫛根命お県(あがた)主(ぬし)に昇格させ、大三輪神社を改築させ盛大に祭礼を行った。若い姫を正妃にしたいと云われた理由は新しい政権の周囲を大和に強い地盤を持つ出雲系の豪族を親族とし、新政権を強固なものとする考慮が働いた為と私は考える。そこには大物主家への論功行賞の意味合いもあったのであろう。
 武仁君は神大和磐余彦の天君と広く名を公布し、この年神武58年。橿原の宮の第一年となった。
 以上はホツマツタエの記述を中軸とし私の考察を加え、文流を解りやすく整えた心算である。
 物には必ず裏と表がある。裏の部分を、前記した東日流外三郡誌[安部一族歴之歩録上巻]より神武天皇に関する記述を参考として念のため書き加えたい。この記述が真実か、真っ赤な嘘説かは、この際全く私は白紙として何も述べない心算である。。

【神武天皇の大和即位前八年、神武東征に際し安日彦・長髓彦・荒吐彦ら津輕五王はこれに応戦し彦五瀬尊を討ち取り、彦稲飯尊の軍船を東海淡路灘に沈める。
神武74年 荒吐一族は大挙して故地耶馬台国に向け発進す。よって皇位を剥奪しく空位とした。神武の死亡はその後二年の76年である】。




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