山東半島を出て東に直進し黒潮にぶつかる。黒潮は時速7ノットで北に向う強い波のうねりである。船体が頑丈でその本流に乗り切れば列島太平洋側を北上する。その時の船の位置により西に偏れば、支流の対馬海流に沿って日本海側を北上することになる。
徐福伝説の所在地をよく見るとこの黒潮の流れと全く一致する。高知県、和歌山県、三重県、愛知県熱田、静岡県清水、東京都青ヶ島もある。この10数年間の中国・ベトナムから不当入国を目的の来航者の漂着海域と同じである。熊野の波田野には徐福たち7人が漂着し。徐福は死に丸山に葬られたが残った人は村人の介護をうけ、生きて村人に諸芸を教えたという。今も徐福の墓が残り波田野徐福神社の神宝は徐福の剣であるという。
この話が事実を伝えているとすれば神のいたずらか徐福は本隊から離れ黒潮本流に押し流されて紀伊半島の突端に流れ着いたことになる。佐賀県有明海沿岸に本隊が上陸したとの印象が強いからである。佐賀市の金立神社は貞観二年(860)従五位下に叙された延喜式内社である。祭神は徐福(徐市)。徐福と書いてジョフツと読み徐市もジヨフツである。金立神社縁起図には徐福の上陸風景が描かれ徐福王子と書かれた祭神がいる。
日本列島の人口は当時どのくらいであったであろうか。多くて30万、九州で最大5~6万と考えるのが妥当であろう。その大部分は南部の鹿児島で、北の玄界灘沿岸は少なかったと思われる。土木工学等の高度の技術と共に上陸した徐福集団が土地を改良し大規模の工事で沿岸・内陸に秩序ある小国家を作りだすには、長い年月を要しなかったと思う。先住民族-この場合南方から来た黒潮の民-を同化、上下の身分制度が出来たのでないかと思う。
卑弥呼は鬼道に通じよく人を惑わすと倭人伝にあるが鬼道とは道教のことである。女であるから方士とは呼べないが人々の畏敬を集める、智仁勇を兼ね供えた人柄であったのであろう。卑弥呼が徐福集団の後裔であるという印象を深める筆回しでは、独断が過ぎるとご批判が集中しそうなのでこの程度に止めるが、私の頭の中では拭っても拭ってもその流れが湧き出てしまう。徐福一行が山東半島を出て東の海中、蓬莱山を求めて出航して間もなく始皇帝が死に、歴史の一頁が地球の自転と共にめくられる。
前漢が秦に取って代わり、ついで後漢,魏と変わる。魏は強力国家でその領土域は後漢を凌ぐ勢いであった。魏の王統は関中から立ち上がってきた、これは秦と同じである。国とはそんな単純のものではないと思うが、漢に横取りされた秦の王権を同じ関中の魏が取り返したことになる。しかし対抗する四川周辺の蜀と江南の呉が連合して魏の突出を阻み、有名な赤壁の戦いで大勝、魏を最大のピンチに追い込む。中国史上名高い三国時代の到来である。
蜀の劉備玄徳は前漢景帝の子劉勝の後裔と自称している。蜀の大義名分は、漢を滅ぼした魏を撃ち漢の世に戻すことであった。劉備には三顧の礼をとって客将として得た諸葛孔明がいた。劉備の死後不倶戴天の敵の魏との戦局が進まず、自身の生涯のけじめを付けるため、孔明は出師の表を未だ若い後継の劉禅に奉り、魏に対して一大決戦を挑むべく漢中から平原に通じる五丈原に進出した。五丈原とは幅が五丈しかない高台の平地の意で孔明は戦略的にこの地を選んだという。
しかし魏の名将司馬仲達はその誘いにのらず,弱小国の蜀の食料輸送線の衰退を待って対峙、孔明は日頃の病弱が嵩じ大喀血をして病没した。自身の最後を予期して孔明は部下に、如何に効率よく退却するかの術を授けて、息を引き取ったという。不滅の名将の名を馳せた孔明の死は即ち蜀の敗北の示すものであった。
前門の虎が失せ退き、魏の司馬仲達は、直ちに常に悩まされ続けてきた後門の敵,公孫氏の征伐に主力をかたむける。公孫氏とは中国東北部・遼東半島・北朝鮮・韓国北部を領し多年敵味方の態度を豹変して魏を欺き、しばしば煮え湯を飲まされてきた仇敵である。一方その勢力を日増しに増す新興国家は地理的には九州に近い。大陸の情勢や交易の利点をもたらすなど邪馬台国には大切な国であった。仲達軍は一気に其の主力で首都、今の平穣を突き大規模な殺戮を行って公孫氏を滅ぼしたのである。
◆◆電子書籍を出版致しております。◆◆
↓
「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです
徐福伝説の所在地をよく見るとこの黒潮の流れと全く一致する。高知県、和歌山県、三重県、愛知県熱田、静岡県清水、東京都青ヶ島もある。この10数年間の中国・ベトナムから不当入国を目的の来航者の漂着海域と同じである。熊野の波田野には徐福たち7人が漂着し。徐福は死に丸山に葬られたが残った人は村人の介護をうけ、生きて村人に諸芸を教えたという。今も徐福の墓が残り波田野徐福神社の神宝は徐福の剣であるという。
この話が事実を伝えているとすれば神のいたずらか徐福は本隊から離れ黒潮本流に押し流されて紀伊半島の突端に流れ着いたことになる。佐賀県有明海沿岸に本隊が上陸したとの印象が強いからである。佐賀市の金立神社は貞観二年(860)従五位下に叙された延喜式内社である。祭神は徐福(徐市)。徐福と書いてジョフツと読み徐市もジヨフツである。金立神社縁起図には徐福の上陸風景が描かれ徐福王子と書かれた祭神がいる。
日本列島の人口は当時どのくらいであったであろうか。多くて30万、九州で最大5~6万と考えるのが妥当であろう。その大部分は南部の鹿児島で、北の玄界灘沿岸は少なかったと思われる。土木工学等の高度の技術と共に上陸した徐福集団が土地を改良し大規模の工事で沿岸・内陸に秩序ある小国家を作りだすには、長い年月を要しなかったと思う。先住民族-この場合南方から来た黒潮の民-を同化、上下の身分制度が出来たのでないかと思う。
卑弥呼は鬼道に通じよく人を惑わすと倭人伝にあるが鬼道とは道教のことである。女であるから方士とは呼べないが人々の畏敬を集める、智仁勇を兼ね供えた人柄であったのであろう。卑弥呼が徐福集団の後裔であるという印象を深める筆回しでは、独断が過ぎるとご批判が集中しそうなのでこの程度に止めるが、私の頭の中では拭っても拭ってもその流れが湧き出てしまう。徐福一行が山東半島を出て東の海中、蓬莱山を求めて出航して間もなく始皇帝が死に、歴史の一頁が地球の自転と共にめくられる。
前漢が秦に取って代わり、ついで後漢,魏と変わる。魏は強力国家でその領土域は後漢を凌ぐ勢いであった。魏の王統は関中から立ち上がってきた、これは秦と同じである。国とはそんな単純のものではないと思うが、漢に横取りされた秦の王権を同じ関中の魏が取り返したことになる。しかし対抗する四川周辺の蜀と江南の呉が連合して魏の突出を阻み、有名な赤壁の戦いで大勝、魏を最大のピンチに追い込む。中国史上名高い三国時代の到来である。
蜀の劉備玄徳は前漢景帝の子劉勝の後裔と自称している。蜀の大義名分は、漢を滅ぼした魏を撃ち漢の世に戻すことであった。劉備には三顧の礼をとって客将として得た諸葛孔明がいた。劉備の死後不倶戴天の敵の魏との戦局が進まず、自身の生涯のけじめを付けるため、孔明は出師の表を未だ若い後継の劉禅に奉り、魏に対して一大決戦を挑むべく漢中から平原に通じる五丈原に進出した。五丈原とは幅が五丈しかない高台の平地の意で孔明は戦略的にこの地を選んだという。
しかし魏の名将司馬仲達はその誘いにのらず,弱小国の蜀の食料輸送線の衰退を待って対峙、孔明は日頃の病弱が嵩じ大喀血をして病没した。自身の最後を予期して孔明は部下に、如何に効率よく退却するかの術を授けて、息を引き取ったという。不滅の名将の名を馳せた孔明の死は即ち蜀の敗北の示すものであった。
前門の虎が失せ退き、魏の司馬仲達は、直ちに常に悩まされ続けてきた後門の敵,公孫氏の征伐に主力をかたむける。公孫氏とは中国東北部・遼東半島・北朝鮮・韓国北部を領し多年敵味方の態度を豹変して魏を欺き、しばしば煮え湯を飲まされてきた仇敵である。一方その勢力を日増しに増す新興国家は地理的には九州に近い。大陸の情勢や交易の利点をもたらすなど邪馬台国には大切な国であった。仲達軍は一気に其の主力で首都、今の平穣を突き大規模な殺戮を行って公孫氏を滅ぼしたのである。
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
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