◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆第一代神武天皇より第九代開化天皇までの皇統を語る 第四章 (その1)

2013-01-16 12:27:07 | 第一代神武天皇より第九代開化天皇
第四章    カムヌナカハミミスメラミコトの治世
          (綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)兄弟と異母兄手研耳尊の相克)その1

 神武天皇大和即位七十六年三月十日に神となり、吾平津姫と大物主はそのまま橿原の宮を動かず喪に入り、天皇が未だ在命されておられる如く朝夕の御食を供え奉仕する。直り三人(重臣の一人が若返り、中臣は天種子命、と宇佐麻命、それに若返りの大物主の天立櫛根命の三役)は早速新しい若宮に、天皇の亡骸を送り、その後の大葬の相談をするが手研耳尊は御一人で政治の事を取り仕切る判断の様で、直り三役は困り果て、立大子した神渟名川尊に御伺をたてると、これもはっきりと答えず喪に入っていて「後はそち達に任せる意向」との事で、葬儀の件も先送りとなった。手研耳尊は二人の弟を殺してしまう企てで、畝傍山の花見の宴を催すと称し、片丘の室屋で催す当日となった。宴会で歌を詠むのが習わしで、五十鈴姫が自分の歌の手直しを、傍らに座る我が子の神渟名川耳尊に頼み、色紙を手渡しされる。その歌を尊が読むと
狹井川ゆ  雲たち渡り  畝傍山  木の葉さやぎぬ  風吹かんとぞ
畝傍山  昼は雲と居  夕去れば  風ふかんとぞ  木の葉さやぎる
と二種の歌が書かれてあり、この歌より、夕方に自分達が襲われ殺される危険があることを悟り、兄の神八井耳尊に話すと、兄は怒り弟に明かす事は「昔、兄の手研耳は父の妃糸薄依姫に恋情を抱き常軌を逸した行動に出た。宮中から追放されるところを父君の情けで、不憫と思われ今日まで穏便に過ごせたのだ。その恩を忘れ政治を我が者顔で取り仕切る心算でいる。本来ならば家臣に任せ自身は引くべきところだ。又、不穏な事をする。兄が承知しないから父君の大葬の儀も出来ないでいる。・・・我らが今日招かれたのも陰謀だ、殺されるぞ」。と稚彦に弓を作らせ、真浦に矢尻を練えさせ、神八井耳御子は靫(ゆぎ)を負い、神淳名川尊と共に片丘室の手研耳の館に侵入した。手研耳尊は其の時昼寝で床に入っていた。神渟名川尊は神八井耳御子に「兄弟なのに殺してしまうと企むのは人で無しの仕業だ。我が部屋に入ったら汝は弓で兄を射殺せ」と言い室の戸を突き上げる。兄は怒って、「靫を背負って人の館に入るとは何事だ」と叫び、斬りかかって来た。神八井尊は戦(おのの)いてたじたじとなる。神淳名川耳尊は弓を引き取り一矢を胸に、二の矢を背に射て殺してしまい、手研耳尊のお室を掌握して実権を完全に取り戻す。神八井耳は己の決断力の不足を恥じて唯の臣下となり、名を変えて身知津彦と名乗り神の道に入り、殺された兄の菩提を念ごろに一生涯弔ったと云う。
私の考えであるが、このホツマの記述から、兄手研耳は弟達の殺害など考えていなかったとも思える。己の家で酒宴の疲れで昼寝をしていた。其の不意を突かれた。むしろ弟達の企みであったと考えられるのである。神八井耳もそれに気付いいた、それ故に宮を下がり、兄の回向を絶やさなかったのでは・・・推理は尽きない。
 綏靖天皇が正式に誕生した。都を葛城(かだき)県(あがた)に立て天鈴134年一月三十一日、年52歳、神淳名川耳の大君諱安杵として高丘宮で即位、母五十鈴姫をあがめて御上后とした。九月十二日神武天皇の埋葬を白檮(かし)尾(お)にした。吾平津姫と大物主の鰐彦命は遺骸の傍らで無言のお仕えを務め、終に君臣共に洞に入り神となった。このことは後になり広く知れ渡り、殉死する者が三十三人に達したと記されている。


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