第三章 カンヤマトイワレヒコノスメラミコト(神武天皇)、武仁尊の大和討ち(その1)
日本書紀の神武紀は膨大の記述となっている。むしろホツマツタエの記述が平易で理解しやすい。故にホツマの記述を追って時代の経緯を追っていきたい。武仁尊とは神武天皇の諱(いみな)で天皇家の裕仁・明仁・徳(なる)仁(ひと)と同じである。武仁君は父君鵜葺草葺不合尊の四人の御子の末子で兄宮の五瀬尊は多賀宮に居住され該地方を治めておられた。父君は筑紫を根拠地として十年、体力の衰えを悟り天位を武仁尊に譲り、吾平の神となられた。武仁尊は宮崎宮で天種子命らの補佐のもと政治を取られ何事もなく平和な日々であったが大和香具山君の臣長髓彦は秘蔵で臣下が見る事が出来ない世継文を盗み写すなど暴挙を重ね、気ままに振舞っていた。主君の饒速日尊は他の任務で不在にしており、そのため規律が無い状態であった。忍穂耳尊の二人の兄弟の兄の奇氏玉火之明尊は飛鳥に降臨し飛鳥君として大和を治めていたが御子に恵まれず、弟の瓊瓊杵尊の三つ子の一人の火之明(梅仁)尊の御子の国照宮が養子に入り、名を饒速曰尊と変えていた。 規律が無い長髓彦の制裁のため、国照宮の父で瓊瓊杵尊の長男梅仁君が関東と東北の米の流通を止めたのである。つまり米(食料)を断って長髓彦に対する制裁を科したのである。これに対抗して長髑彦は淀川の川船の運航を断った。淀川から琵琶湖、琵琶湖から多賀・敦賀一帯の当時の先進地帯に物資の搬送を断つ手段であったと考える。其の時の六代目大物主の櫛(くし)甕(みか)玉(たま)命(みこと)はこれを怒って長髓彦を討とうとする。大物主家と奇玉火之明尊の相克は、遠く数十年前、日高見からの斑鳩降臨以来の不仲で、大物主と長髓彦の間の騒乱は避けられない状況であった。大物主は当時多賀の宮の補佐役を務めていたのである。争いを嫌って多賀の宮の主五瀬尊は宮崎の武仁君のところに帰ってしまい、どう対処するか決めかねていた。この家臣と家臣の争いが大きく事態は急を要するものとなり、天下の君、武仁尊としては立場が台無しとなり、立場を明確にする必要に迫られていた。それにしても長髓彦の以前からの態度は看過できないものであった。「この際長髓彦を懲らしめて大和を統治しては如何」こう進言したのはあの塩土の翁である。同一人物であれば可也の高齢の筈だ。武仁君も諸々の家臣の一同の意見も大和攻めに大賛成で「勿論です。彼の態度には我々はもう我慢ができません」。神武天皇51年、武仁尊自ら諸軍を引き連れ船団を組んで遠征の途に就くことになる。神武天皇治世の初め、全国的に大飢饉に見舞われたとウエツフミ・武内古文書には記録されているが、日本書紀の記録はない。これが真とすれば東北・関東にはまだ余裕があり、米その他を関西に送っていたのだと推測が出来る。船団が出発して間もなく豊予水道で道案内を申し出た小船に導かれて宇佐に寄り、次いで遠賀川河口、瀬戸内海安芸チノ宮、更に吉備の高島に三年もの間留まり続けた。多分瀬戸内海の豪族の水軍か、海賊か、彼らとの話し合いが長引いたのであろう。彼らが反抗し補給路の水路を断たれない用心が必要だったのである。天鈴55年船団は高島をでて東に進み、常に荒波が立つ浪速の港に着く。そこから陸路山川を越え、河内草香の身寄の館で軍備を整え竜田路に入る。この記録では竜田路は既にその前身が出来ていた事になる。路は細く二人並んで歩けない程であった。やっと生駒山を越えるとそこに長髓彦・安日彦兄弟の軍が満を持して待ち構えていた。武仁軍は水軍が主であったと思う。皇統の後ろ楯は財力の強い波堤命の海神であったからである。
長髓彦は作戦を練りに練って訓練を重ねていて、地の利もあり、初めから水軍が主力の武仁軍は不利であつた。長髓彦の軍は怒りで燃えていた。「この知れ者が、我が国を奪わんとするか」。両軍の戦った孔舍衛坂で五瀬尊は肘を射られて苦戦し退却を余儀なくされる。武仁君は「我々は日の神の軍隊である。その軍が西から御日様に向かって進むのはでは理屈に合わない。今は一旦退いてお日様を背に頂き、敵と戦えば勝つことが出来るであろう」。と八尾まで退き、敵軍もそこまで追って来なかった。船団は海路を進み茅渟の山城で五瀬尊は傷が基で戦死された。亡骸は紀の国の?山に送り埋葬した。名草の戸畔が反抗したのでこれを討ち、佐野・熊野村・磐盾を経て海にでて沖を進む中、海上が荒れつむじ風に船団は翻弄され、挙句の果てに潮に流されて漂流する始末となった。
兄の稲飯尊はあまりの味方の逆況にいらだち、天の神の加護があり、母の海神の加護があるのにこの有様は何だ。陸で苦渋を飲み、又、海で海神の攻めを受ける、と半狂乱で海に飛び込まれた。又、御毛入尊も同じく余りにも荒れる海を恨んで入水され四人の中武仁君一人となってしまわれた。
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「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
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日本書紀の神武紀は膨大の記述となっている。むしろホツマツタエの記述が平易で理解しやすい。故にホツマの記述を追って時代の経緯を追っていきたい。武仁尊とは神武天皇の諱(いみな)で天皇家の裕仁・明仁・徳(なる)仁(ひと)と同じである。武仁君は父君鵜葺草葺不合尊の四人の御子の末子で兄宮の五瀬尊は多賀宮に居住され該地方を治めておられた。父君は筑紫を根拠地として十年、体力の衰えを悟り天位を武仁尊に譲り、吾平の神となられた。武仁尊は宮崎宮で天種子命らの補佐のもと政治を取られ何事もなく平和な日々であったが大和香具山君の臣長髓彦は秘蔵で臣下が見る事が出来ない世継文を盗み写すなど暴挙を重ね、気ままに振舞っていた。主君の饒速日尊は他の任務で不在にしており、そのため規律が無い状態であった。忍穂耳尊の二人の兄弟の兄の奇氏玉火之明尊は飛鳥に降臨し飛鳥君として大和を治めていたが御子に恵まれず、弟の瓊瓊杵尊の三つ子の一人の火之明(梅仁)尊の御子の国照宮が養子に入り、名を饒速曰尊と変えていた。 規律が無い長髓彦の制裁のため、国照宮の父で瓊瓊杵尊の長男梅仁君が関東と東北の米の流通を止めたのである。つまり米(食料)を断って長髓彦に対する制裁を科したのである。これに対抗して長髑彦は淀川の川船の運航を断った。淀川から琵琶湖、琵琶湖から多賀・敦賀一帯の当時の先進地帯に物資の搬送を断つ手段であったと考える。其の時の六代目大物主の櫛(くし)甕(みか)玉(たま)命(みこと)はこれを怒って長髓彦を討とうとする。大物主家と奇玉火之明尊の相克は、遠く数十年前、日高見からの斑鳩降臨以来の不仲で、大物主と長髓彦の間の騒乱は避けられない状況であった。大物主は当時多賀の宮の補佐役を務めていたのである。争いを嫌って多賀の宮の主五瀬尊は宮崎の武仁君のところに帰ってしまい、どう対処するか決めかねていた。この家臣と家臣の争いが大きく事態は急を要するものとなり、天下の君、武仁尊としては立場が台無しとなり、立場を明確にする必要に迫られていた。それにしても長髓彦の以前からの態度は看過できないものであった。「この際長髓彦を懲らしめて大和を統治しては如何」こう進言したのはあの塩土の翁である。同一人物であれば可也の高齢の筈だ。武仁君も諸々の家臣の一同の意見も大和攻めに大賛成で「勿論です。彼の態度には我々はもう我慢ができません」。神武天皇51年、武仁尊自ら諸軍を引き連れ船団を組んで遠征の途に就くことになる。神武天皇治世の初め、全国的に大飢饉に見舞われたとウエツフミ・武内古文書には記録されているが、日本書紀の記録はない。これが真とすれば東北・関東にはまだ余裕があり、米その他を関西に送っていたのだと推測が出来る。船団が出発して間もなく豊予水道で道案内を申し出た小船に導かれて宇佐に寄り、次いで遠賀川河口、瀬戸内海安芸チノ宮、更に吉備の高島に三年もの間留まり続けた。多分瀬戸内海の豪族の水軍か、海賊か、彼らとの話し合いが長引いたのであろう。彼らが反抗し補給路の水路を断たれない用心が必要だったのである。天鈴55年船団は高島をでて東に進み、常に荒波が立つ浪速の港に着く。そこから陸路山川を越え、河内草香の身寄の館で軍備を整え竜田路に入る。この記録では竜田路は既にその前身が出来ていた事になる。路は細く二人並んで歩けない程であった。やっと生駒山を越えるとそこに長髓彦・安日彦兄弟の軍が満を持して待ち構えていた。武仁軍は水軍が主であったと思う。皇統の後ろ楯は財力の強い波堤命の海神であったからである。
長髓彦は作戦を練りに練って訓練を重ねていて、地の利もあり、初めから水軍が主力の武仁軍は不利であつた。長髓彦の軍は怒りで燃えていた。「この知れ者が、我が国を奪わんとするか」。両軍の戦った孔舍衛坂で五瀬尊は肘を射られて苦戦し退却を余儀なくされる。武仁君は「我々は日の神の軍隊である。その軍が西から御日様に向かって進むのはでは理屈に合わない。今は一旦退いてお日様を背に頂き、敵と戦えば勝つことが出来るであろう」。と八尾まで退き、敵軍もそこまで追って来なかった。船団は海路を進み茅渟の山城で五瀬尊は傷が基で戦死された。亡骸は紀の国の?山に送り埋葬した。名草の戸畔が反抗したのでこれを討ち、佐野・熊野村・磐盾を経て海にでて沖を進む中、海上が荒れつむじ風に船団は翻弄され、挙句の果てに潮に流されて漂流する始末となった。
兄の稲飯尊はあまりの味方の逆況にいらだち、天の神の加護があり、母の海神の加護があるのにこの有様は何だ。陸で苦渋を飲み、又、海で海神の攻めを受ける、と半狂乱で海に飛び込まれた。又、御毛入尊も同じく余りにも荒れる海を恨んで入水され四人の中武仁君一人となってしまわれた。
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内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
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