出産と産後うつを振り返って

長女の妊娠・出産とその後の産後うつ、9か月で完治後、次女の妊娠・出産を振り返りました。

子どもの虐待について思ったこと

2011-08-15 | 出産と産後うつのこと
⑭の我が子恐怖症のところでも書いたように、
私が、産後うつの間、私のやっていたことは、
客観的には「育児放棄」にあたるのだろうな、と思っていました。

もちろん、故意に傷つけようと思ったり、故意に世話がしたくなくてしなかったり、というわけではなく、
ごく普通の母親のように世話がしたくても、できなくて、
自分のことだけで精一杯で、それだけで必死だったのです。

ですが、自分の思いがどうであれ、
母親が、自分で我が子のミルクもあげられない、オムツも替えられない、抱くことすらできない、
しまいには、同じ部屋に母と子の二人だけで居る、ということすら怖くてできなくなって、
一日中、逃げるように別室で過ごしたり、
それでも、はじめは、最低限の授乳とオムツ替えの時だけなんとか顔を合わせていたけれど、
ついには、それすらできなくなって、朝から晩までずっと誰かに預けていたりする。
という状況は、傍目には、育児放棄以外の何物でもないことだと思います。

私の場合は、幸い、たくさんの理解ある協力者が周囲にいて、
何もできなくなった私の代わりに、
子どもの面倒を見てくれる人が、たえず家に来てくれたので、
子どもが放棄されずに済んでいた、というだけのことでした。


産後うつの間、私は、(私の場合は)
今では、本当に一体どういう思考回路でそうなるのか、と心底不思議なくらいに、
感覚がまるっきり普通ではなくなってしまっていました。
たとえば、一つのミルクの缶の底が尽きてきて、次の新しいミルクの缶の封を開ける、
そんなことすら、一人でできる自信がなくて、誰かに立ち会って見ていてもらわないと開けられないとか、
今では思いもよらないようなことの連続でした。
周りも、そんな状態の中で、私と子どもの二人だけでほうっておく、ということが
危なっかしくてできなかったのではないかと思います。


これが、もし、母子の二人きりで暮らさざるを得ない環境で、
毎日、毎日を過ごしていたら、
いったい私はどういう言動に走っていたのか、
そして、子どもはどうなっていたのか、
正直いって、自信がありません。

だけど、私のように救いの手がいっぱいすぐ近くにある、という人のほうが珍しいのであって、
たとえば、パパは単身赴任、実家も遠い、あるいは親がいない、というような人は、
いくらでもいるに違いありません。
    

何の罪もない赤ちゃんや幼い子どもが、唯一のよりどころである親から虐待を受けて、
傷ついたり命を落としたりすることは、絶対に許されないことだと思います。
また、悲しい無理心中も、同様に大罪であると思います。

今、虐待のニュースを聞いても、その思いはまったく変わりませんが、
最近は、それが、ほんとうに悪質な故意のものなのか、
追い詰められて狂った人間のやったことなのか、
と、ひそかに思うようになりました。

こうしている間にも、
正気と狂気の間を行き来しながら、辛い毎日を過ごしている二人きりの母子がいないだろうか、
もしいたら、一刻も早く、なんらかの助けの手が差し伸べられますように、
などと、考えてしまいます。


うつと自殺について思ったこと

2011-08-06 | 出産と産後うつのこと
不眠と同じように、うつという病気についても、
これまでは、あまり理解していませんでした。
さすがに、色々な体験談などを目にする機会が増えて、
怠けているとかサボっているとか、そんなふうなことは思いませんでしたが、
こんなに苦しい精神の病なのだということは、自分がなってみるまで、思いもしませんでした。

産後うつの間、私は、ひどい車酔いをするバスに、四六時中乗っているような気がしていました。
もちろん、「吐き気」という具体的な症状とは、ちょっと違うのですが、
どうにもこうにも身の置き所のない辛さ、自分の身をどこかに捨ててしまいたいような、
なんともいえない辛さの感じ、のたうちまわりたいような感じが、
まるで、ひどく酔ってしまった車中で、じっと到着を待って我慢している時の感覚に似ている、と思いました。

これが本当にバスならば、いつかは目的地に到着して、気分の悪いバスから降りることができるけれど、
この毎日には、到着地点があるのか、いつまで続くのか、それが見えない。
もしかしたら、永遠に到着地点のない、ドーナツのようなトンネルの中を走っているのかもしれない。
わっと叫んで泣き出したいけど、そうしたところで、楽にならないことは分かっている。ひたすら苦しい。

毎日毎日、「今日という日は、あと何時間あるのだろう。あと何時間過ごさなくてはならないのだろう」と思い、
何かで必死に気を紛らわせようとし、それでも「ああ、まだ10分しか経っていない。」とがっかりし、
「眠って意識をなくせば楽になる。」と思うのだけど、不眠だから十分眠ることができない、
あっという間に、夜中や早朝に目が覚めてしまって、
「朝が来てしまった。もう朝になってしまった。」と、心底がっかりする。
酔い続けるバスに、今日も乗り続け、耐え続けなければならない。
来る日も来る日も、我慢しなければならない。

ときおり、そのバスの窓を開けて、ふっと飛び降りたくなりました。
そこが、高速道路の上だと分かっていても。
ぽんっと飛び降りれたら、この苦痛からは解放されるのだろうな、と。


私は、これまで、自殺というのは「死にたい人が積極的に死ぬこと」だと思っていました。
まあ、なかには、もちろん、そういう自殺もあるのでしょうが・・・
私は、自殺に対する考え(というか、それまでの偏見)を、すっかり変えました。

自殺とは、今の私が言い表すなら、
「強烈な我慢大会に負けて、降参する」行為。
死にたくて、死ぬのではない。
死にたくないけど、この苦しみから逃れるためには、死ぬという方法しか残されていない、
そこしか、出口がないのです。もう我慢できないのです。もうダメ、降参します。
そういう感じではないでしょうか。


私は、産後うつだったから、いつかは「産後」でなくなるはず、治る日が来る、と、まだ思うことができました。
これが、仕事が原因のうつだったり、人間関係が原因のうつだったり、
場合によっては、理由の分からないうつだったり、
それで苦しんでいる方というのは、どんなにか苦しく辛いことだろうかと思います。
簡単に理由を取り去ることができるものなら良いけれど、
そうはいかないことも、多く有るのでしょう。
電車の人身事故などのニュースを聞いたりすると、
これまでのように「迷惑なことだな」なんて、思わなくなりました。
「耐え切れなかったのかな、どんなにか苦しかったんだろうな」と、切なく思うようになりました。

私の体験したことなんて、もっとひどい産後うつや、長年うつで苦しんでいる方からしたら、
全然たいしたものではないことでしょう。    
それでも、私の中では、人生最大の苦しみでした。
過去には、入院するような病気や、救急車で運ばれるような怪我もしていますが、
そんなものとは比べ物にならない・・・陣痛でさえも遠く及ばない、
なんといっても、最もつらい体験でした。

薬の力を借りて、いっときでも、心が解放される時間を持つようにしながら、
決してヤケを起こさず、到着地へ少しずつ向かっていくしかないのでしょう。
そして、こういう時って、先のことは先になってから考えるしかないと思います。

周囲も大変だと思いますが、一番辛くて大変なのは本人なのですし、
迷惑を掛けていると分かっていても、どうすることもできません。
でも、治ったら、
この人たちには恩返ししなければいけない、と、真っ先に思います。
私も、幸い、理解ある家族に恵まれて立ち直ることができましたから、
この人たちに助けの要ることが来た時には、
今度は、私が一番親身に支える立場になる番だと、強くそう思っています。

不眠について思ったこと

2011-08-06 | 出産と産後うつのこと
産後、不眠とうつに自分がなってみるまで、
不眠にしろ、うつにしろ、これほど苦しいものだとは思いもしませんでした。
とくに、不眠なんて、病気のうちにも入らないと思っていました。
眠れないことが苦になったことがありませんでしたし、
人間は、ある程度眠らなければ眠れるようにできているものなのに、
不眠を理由に病院に行ったり、睡眠薬を飲んだりする人の気が知れない、
次の日まとめて眠ればいいのに、ぐらいに思っていました。

お産の前、「夜中も3時間おきに起きて授乳しないといけない。」と聞いても、
私は、そんなの楽勝だと思っていました。
仕事が忙しくて、毎夜2時3時に帰ってきて、ちょっとしか眠れない日が続いた時期もあったので、
そんなハードさに比べれば、授乳で睡眠不足になるくらい、かわいいものだと思っていました。
自分の体力を過信していたと思います。
夜中まったく眠れなくても、昼間眠くならないから、眠らない、というような日々を続けているうちに、
本当に、身体が眠り方を忘れてしまいました。

今回、初めて、「眠いはずなのに眠れない、それも何日間も」ということを経験し、
不眠の怖さを知りました。
眠ろうとすると動悸が激しくなって寝付けない、なんとか寝付いてもすぐ目が冴えてしまう。
そのわずかな時間でさえ、目を閉じていただけなのか、眠っていたのか、分からない。
眠れない日々が続いていくから、身体がおかしくなってきて、常にだるくてしんどくて仕方がない。
それでも、運動不足だから眠れないのかと思って、昼間、だるい体にムチ打って動き回ってみるけど、やっぱりダメ。
夜が来るのが恐怖でした。

やっぱり、睡眠って大事だと思います。
何も考えずに、「ああ眠い。寝よう。」と思って、薬を飲まずに当たり前に6時間ほど眠れることが、
どんなにありがたいことかと思います。
「眠いから眠れる」のは、やっぱり健康な証拠です。
眠れない日が続いて、じわじわと体調が悪くなり続け、精神が壊れていく怖さは、2度と体験したくありません。
今では、「不眠」も薬が要る治療の対象の病気なのだと、はっきり理解できます。


お産後、授乳や夜泣きで、「眠くて眠くて仕方がない。」といえる間は、健全だと思います。
「眠っていないのに、眠くならない。」になってきたら、黄信号、
「眠っていないのに、眠れない。」が何日も重なってきたら、明らかに赤信号でしょう。
精神的異常のはじまりを自覚しなければならないと思います。

「出産後の母親は、眠らなくてもよいように、身体ができている。」
大ウソです。
私は、この言葉をクソマジメに信じすぎました。
人間、やっぱり、眠らなければ壊れます。

産後うつを振り返って

2011-08-04 | 出産と産後うつのこと
私が、自分の体験を通じて、思ったことです。

<産後うつになってしまった原因>

・陣痛を家で我慢しすぎた。
・結果として、お産が長引き、疲れすぎた。
・お産後、その疲れを癒す時間がなかった。
・疲れをひきずったまま退院した。
・退院してからも、疲労と睡眠不足をひきずり続けた。

・子どもを絶対死なすまいと神経をとがらせ過ぎた。
(私の娘は、授乳中の息切れと疲れが異常に激しく、通常とは違っていたことが大きいです。)


丸3日間、完全徹夜で、ほとんど食事も取らずに10分ごとに痛みに耐え続ける、ということをやって、
その後、4時間半、1分ごとに全力でいきみ続ける、ということをやって、
さらに、その24時間後になって、やっと1時間半だけ眠って、
その後は、1日の睡眠時間が3時間以内(それもまとまってではない)という状況を1ヶ月続ける、
ということをやれば、
誰だって、気が狂うのではないかと思います。


出産前にも、うつの傾向がある方もおられるかもしれませんが、
そうではなくて、お産後、はじめてうつになった、という人は、
ほとんどの場合、極度の疲労と睡眠不足がきっかけになっているのではないでしょうか。

私は、たまたま性格やらホルモンの乱れやらで、
ばくちのように「不幸にも産後うつに当たってしまった。」というようなものではなくて、
そうなるには、確実な原因があって、また、予防すれば避けられるものではないかと思っています。
少なくとも、私の場合は、そうだったと思います。

授乳も大切かもしれませんが、それ以前に、母親の休養が大事だと思います。
「母親は、眠らなくても平気なように、身体ができている。」
これは、大嘘だと思います。
むしろ、いつも以上に眠らなければならないのではないでしょうか?
授乳のためにまとまって眠れない、というだけのことで、
トータルの睡眠時間は確保しないといけないと思います。


<産後うつを、比較的早く克服できた理由>

・育児の協力者が近くにいっぱいいた。
・母乳にこだわりをもたず、すぐにミルクに切り替えられた。
・家事、育児を周囲に任せきろうと、完全に開き直れた。
・病院と良い先生に恵まれた。(産科、精神科)

私のうつに対して、夫、母、姑に大変理解があったこと、
すぐに病院に行き、親身に対応してもらったこと、
これに、おおいに甘えられたこと、
これに尽きます。


<今、もし、産後うつで苦しんでいる方がいたら ~私の体験から>

・先のことを考えない。今日だけのことを考える。
 先のことを考えたら、「とてもやっていけない、私には無理」と思って、絶望します。
 この子が大きくなったら、とか、この子の何ヶ月後、などは、一切想像しないほうがよいと思います。
 精神状況が悪いときは、なんでも悪いほうに、悪いほうに、考えますから。
 とりあえず、今日、ただ、機械的に過ごして生きることだけ、考えます。

・心療内科か精神科に行く。
 専門の医療機関に行って、薬をもらう。
 産科より、やはり心療内科か精神科がよいと思います。
 母乳にこだわるより、自分の健康を第一に考えるほうがよいと思います。

・自分の調子の悪さに、無理に抗わない。
 つらい時は、何かしかけていてもすぐに寝転がり、1日中かかって家事をやる、ようにしました。

・治るまで
 ネット等を見ると、「産後うつが治るまで、数ヶ月から1年」などと書いてあります。
 この地獄が、数ヶ月以上も続く、と思うと、げんなりし絶望してしまいます。
 私の体験から言えば、
 確かに完治するまで(薬を飲み終わるまで)、約7ヶ月かかりましたが、
 その最後のほうは「1ヶ月のうち、ちょっと調子の悪い日が2、3日」というレベルでした。
 治療をはじめたら、「今の地獄が、数ヶ月以上続く」のでは、ありません。

・子どもは
 治ってかわいがれば、母親を母親とちゃんと認識してくれました。
 私は、症状が酷い時期は、ほとんど子どもの世話をしませんでしたが、
 (周囲がローテーションで世話をしてくれていました。1日1度も抱かない日もありました。)
 今、一番、私になついています。

⑳回復

2011-08-04 | 出産と産後うつのこと
気がついたら、大晦日とお正月、でした。
アカシジアをアカシジアと分からずに苦しんでいた頃は、
じっと家に座ってテレビを観たりするなんてことは、とても無理で、
お正月が来たらどうしよう、恐ろしい、などと考えていましたが、
ごくごく、普通の精神状態で、お正月を迎えることができました。

抗うつ剤のジェイゾロフトは、相変わらず服用を続け、
デパスもほんのたまに服用し、
また、月に数日、今日は具合が悪いな、という日があるものの、
ほとんど普通に生活できるようになってきました。

1月になり、娘も5ヶ月になると、それまでの「我が子恐怖症」は一体なんだったのか、と思うほど、
娘が可愛くて可愛くて仕方なくなり、気持ち悪いほどベタベタするようになりました。
「この子は、母親を認識しなくなるかも。」と心配していましたが、
娘は、まったくそんなこともなく、一番私になつくようになってくれました。

S病院に通う回数も間が空いてきて、
必要なだけのジェイゾロフトとお守りがわりのデパスをもらうだけになりました。
睡眠薬は、もう服用しなくなりました。
「ジェイゾロフトは、半年間は、飲み続けるように。」と先生から言われましたが、
私は2月頃から、ちょっとずつちょっとずつ間引く計画でカレンダーに印をつけ、
4日に一度、2錠を1錠にする、3日に一度、1錠にする、1日おきに1錠にする・・・と
服用を減らしました。
「これからは、1日1錠にしてみましょうか」と先生に言われた頃には、すでに1錠にしていたので、
そこからは、更に、
4日に一度、飲まない日にする、3日に一度、1日おきに・・・と、今度は飲まない日を作り、
徐々に徐々に、服用をやめていきました。

薬が切れている間は、頭がびんびんするような、軽く不快な症状を感じていましたが、
どうにか次第に忘れていくことができました。

春になると、私はようやく、娘と二人だけでお風呂に入ったり、同じ部屋で眠ったりできるようになり、
また、チャイルドシートに娘を乗せて、ごく普通の母親のように買い物に連れて行ったり、
当たり前のことができるようになりました。
半年以上かかりましたが、まったく薬を飲まずに、普通の生活を送れるように、
確実に回復しました。

5月末、娘が9ヶ月になった頃、抗うつ剤も完全にやめることができました。


⑲我にかえる

2011-08-03 | 出産と産後うつのこと
睡眠薬のロヒプノールがまったく効かず、ドラールという薬を処方してもらいましたが、
これも、4時間くらいで目が冴えてしまいました。
枕元に安定剤のデパスを置いておいて、夜中に目が覚めて寝付けなくなったら飲むようにすると、
再び眠れるようになりました。

この、安定剤のデパスというのは、この時期、とてもありがたい存在でした。
当初は、1日2錠分をもらっていましたが、2錠目を飲んでしまうと「もう今日は飲めない」と不安になり、
結局、1日3錠分を処方してもらうようになりました。

相変わらず、身体のだるさと動悸、子どもが怖い「我が子恐怖症」が続いていましたが、
デパスを飲めば、薬が切れるまでの3、4時間は、普通の精神状態に近く過ごせるようになりました。
私の体調を理解して、毎日のように、姑が3時間ほど娘を預かってみてくれていました。
娘を迎えに行く前には、デパスを飲んで恐怖心を押さえなければなりませんでしたが、
わずかずつながらも平常心で娘に向き合えるようになってきたことが、普通の母親に近づけたようで嬉しく、
また、アカシジアも無くなり、自力で最後までミルクをあげられるようになったことが嬉しく、
ひとつひとつ、薬の力を借りて、乗り越えていけるようになりました。

11月中旬のある日の晩、
ふっと「あ、私、今、これが本来の私だった。」と思える瞬間が来ました。
8月のお盆明け、陣痛が始まってから、3ヶ月経ってやっと
これが元気な普通の自分だった、そうだった、と「本来の自分」を認識した日でした。
抗うつ剤の、ジェイゾロフトが効き始めてきたのだと思います。
薬が身体になじみ、副作用の下痢や吐き気も治まってきて、
ようやく、ちょっと快適に過ごせる時間が長くなり始めた頃でした。

そうはいっても、まだ、娘と同じ部屋で眠ることはできず、お風呂にも共に入れず、
一人で娘を買い物に連れていったり、というようなことは、全くできない状況はしばらく続きました。
すべて、夫と母と姑の協力があって、生活をこなしていました。
それでも、周囲に甘えながら、ようやく回復の実感を得ることができてきました。

デパスを飲む回数も、だんだん減らしていくことができました。
薬を飲み始めた頃は、もう依存してしまうかも、と半ばやけになっていましたが、
N先生が言ったとおり、次第に飲まずに長時間過ごせるようになってきました。

12月のある日、とうとうはじめて、
「娘と二人きりだけで、家で一日過ごせる日」ができました。
仕事帰りに夜、立ち寄った母に、
「今日はお義母さんにも預けず、誰も来ず、二人きりで家にいた。」と伝えると、
母は、半分涙ぐんで笑い、幼い子にするように私の頭を「よしよし」と冗談めかしてなでました。
他人から見れば、いい年をして、なんと馬鹿馬鹿しいと、呆れられることだと思いますが、
それほどまでに、私にとっては、誰の力も借りずに、娘と家で二人きりで居られるということが、
「進歩」でした。


希望を感じ始めて調子に乗った私は、娘を実家に預け、しばらくぶりに美容院に出かけました。
用心して、予めデパスを飲んでおき、しっかりメイクをして揚々と行ったものの、
妊娠前から私を知っている担当の美容師さんは、私を見た途端、
「えっ、大丈夫ですか?」と言ったなり、しばらく絶句してしまいました。
私はあわてて、
「あ、ちょっと産後体調を崩して、今も本調子ではないんです。でも大丈夫です。」と言いましたが、
美容師さんは、「具合悪そうですね、急ぎますね。」と言って、いつものお喋りもどこへやら、
ひたすら無言のまま、シャンプーもカットも、ものの10分ほどで、ばーっと超特急で仕上げてしまいました。

私自身の中では、かなり良くなり、復活に近づいたつもりでしたが、
冷静に考えると、産後は一気に8キロ減り、顔もやせこけ、目は落ち込み、病人そのものの顔になっていて、
お産前の私を知る人は、驚いて当然だなと思い直しました。
年内に、娘を連れて、元職場へ遊びに行こうと考えていましたが、
年明けにしようと、考え直しました。

⑱抗うつ剤

2011-08-03 | 出産と産後うつのこと
娘を出産したのは、恐ろしいほど酷暑の日だったのに、
いつの間にか、もう季節は晩秋になっていました。
自分のことで精一杯で、この頃の娘の記憶は、ほとんどありません。

私は、精神病院のS病院のN先生から処方された、抗うつ剤のリフレックス15㎎を、
指示どおり、寝る前に1錠ずつ飲み始めました。
T病院の処方で飲んでいた安定剤のアビリットは、もちろん、飲むのをやめました。
そうすると、その日の夜頃から、地獄のようなうろうろ(アカシジア)がぴたっと収まり、
薬が抜けて、体調が良くなり始めました。

ところが、今度は、リフレックスを飲んだ後、お酒を呑んだようにドキドキして頭痛がするようになりました。
興奮して、コンスタンを飲んでも、明け方まで動悸で眠れないという状況になってしまい、
「寝る前に1錠」という指示でしたが、夕食後すぐに飲むようにし、
なんとかドキドキが収まった頃、眠りにつくように逆算して服用せざるを得ませんでした。
不思議にはっきりしたリアルな夢をたくさん見るようになりました。
目が覚めると、朝から1日中ズキズキと頭痛がし、頭を抱えてそろそろ歩かなければいけなくなり、
夕方、マシになってきたかと思うと、次の薬を飲む時間が来る、という困った状況になりました。
しまいには、視線を動かしただけでも、ズキーンと頭痛が走るようになり、
1週間後の診察日まであと1日になって、私は耐え切れず、S病院に相談の電話をかけました。

S病院のN先生もずいぶん親切な先生で、電話口で相談に乗ってくれ、
「頭痛の副作用は、そんなに多いものではないのですが・・・
それほど痛いのも辛いでしょうから、では、今日はやめてみて。」
と言ってくれました。

翌日の診察日、もう薬はこりごりになっていた私は「一度、すべての薬をやめてみたい。」と申し出、
N先生は「抗うつ剤を使って治療するのが基本ですが、そう希望されるなら。」と私の意志を尊重し、
薬をやめてみることにしました。

寝る前の睡眠薬がわりのコンスタン以外の薬を、一切やめてから、薬が身体から抜け切るまでの数日は、
すがすがしいほど体調が良く、「結局、薬に振り回されていただけじゃないの。」と、治った気でいました。
ところが、これは、大きな間違いでした。
やはり、安定剤や抗うつ剤的な薬は、急に切ってはいけなかったようです。


薬の揺り返しなのか、なんなのか、私は、数日後、恐ろしいほどのうつに襲われました。
あの初期に現われた症状の「動悸と辛い気持ち」を3倍以上上回る、強烈な辛さに襲われました。
うつとは、こうも恐ろしいものだとは思いませんでした。
両手で口をふさいでも嗚咽が漏れ出てくるほどの、どうにもならない辛さで、
口から「あーあーあーあー」とため息まじりの声を出し続け、辛さを吐き出していなければ、
辛すぎて立ってもいられない、
だけど、何が辛いかと問われても、何が辛いのかが全く分からない、頭と心が勝手に強烈に辛くなっている、
しまいには、辛さの塊が嗚咽になってもなり切れずに吐き気になってこみ上げてくるという感じで、
タオルハンカチで口を押さえながら、「今日はあと何時間あるのだろう」とそればかり考えるようになりました。
もう、気を紛らわせる何かを探す気力すら失っていました。

すでに自分では何もできず、母からS病院のN先生に電話をかけてくれていました。
私は母に引きずられるように、再びN先生のもとを訪れました。
もちろん、化粧などする余裕もなく、髪もぼさぼさ、服も着の身着のまま、うつろな表情で、
もう、まさに精神病院のS病院に通っていて何の不自然もない、立派な精神病患者でした。

その日は、N先生の診察日ではなかったのに、N先生も親切で、無理に時間を作ってくれていました。
初診の時と同じように、親身に話を聞いてくれ、
抗うつ剤のジェイゾロフト錠25㎎を1日1錠分、睡眠剤のロヒプノール、頓服として安定剤のデパス0.5㎎を
処方してくれました。
会計と薬の受け渡しを待っている際にも、N先生は私を見かけて「デパスは今すぐ飲んでよいから。」と
見かねたように声をかけてくれました。

今度はどんな副作用があるのだろう、またアカシジアが出たらどうしよう、
そう思いながらも、この強烈な辛い毎日から抜け出すには、この薬に頼ってみるしかない、と決意し、
ジェイゾロフトを飲み始めました。
薬が身体になじんでくるまで、N先生が説明されたとおり、
およそ1週間、下痢と吐き気に耐えなければなりませんでした。

睡眠薬のロヒプノールは、私にはあまり効き目がなく、夜中にぱっちり目が覚めてしまいました。
眠っている間だけが、唯一、うつの辛さから離れられる時間だったので、
夜中に目が冴えて時計を見るのが恐怖でした。
「まだ3時半、また長い1日が始まってしまう。」とげんなりし、夜が明け始めると、
「ああ、また朝になってしまった、朝が来てしまった。」と、泣き出したいほどがっかりしました。
眠れるものなら、午前中いっぱい、いや永遠にでも眠っていたいのに、
今日という日はあと何時間あるのだろう、と、
朝、というよりも早く目覚めてしまう夜中、が恐怖でした。
明け方自殺をしてしまう人たちの気持ちが、ものすごくよく分かりました。

⑰精神科へ

2011-08-03 | 出産と産後うつのこと
こうして、お産をしたT病院のS先生に、紹介状を書いてもらったのが、土曜の朝でした。
心療内科のある「Kホスピタル」あての紹介状をいただき、その足で直接、Kホスピタルに向かいました。
もう、私も母も、とにかく「今すぐどうにかして」という思いしかありませんでした。
Kホスピタルは、あいにく休診で、受付で何度か頼んでみましたが、
困ったように「医師がいませんから。」と言われるだけでした。

Kホスピタルの駐車場から、娘を自宅で見てくれている姑に電話をかけ、事情を報告したところ、
姑は、すぐさま近隣の心療内科について調べてくれ、折り返し、S病院なら開いていると教えてくれました。
S病院は、山の中にある地元でも有名な精神病院で、
普通に元気な状況なら、ちょっと敬遠してしまうような印象のところでしたが、
その時はもう、どこでもいい、という心境でした。
Kホスピタル宛の紹介状でも、気にしませんでした。
トイレに行きたい時にトイレを探しているごとく、とにかくすぐに診て、なんとかしてほしい、という思いで、
S病院に飛び込みました。

S病院では、土曜は初診の人だけ受け入れる、ということになっていたようでしたが、
そんな人も滅多にいないのか、待合ロビーには、入院患者の人が数名うろうろしていただけでした。
明るい産科と雰囲気が違うのは当然なのに、どこかおどろおどろしいS病院の精神病院独特の雰囲気や、
入院している人がさまようように歩いている状況に、かなり怖気づきました。
母も「一人じゃ来れるとこじゃないわ。」とつぶやきながら、付き合ってくれました。

はじめに医師ではない男性の心理士?の方との面談があり、
これまでの生い立ちや学歴、生活状況などを詳しく尋ねられました。
その後、しばらく再び、薄暗い待合ロビーで待つように言われ、
私は、椅子に座れずに立ち上がって、檻の中の熊のようにうろうろしていましたが、
この病院の雰囲気と、患者が自分だけのはずなのになかなか診察に呼んでくれない状況に、
だんだん後悔が募ってきました。
普段の私は、少々待たされるくらい何とも思わないほうで、むしろ黙って何時間でも待てるタイプですが、
この時は、とにかくじっとしていられず、狭い空間に居ることも恐怖を感じるくらいだったので、
あと何分待たされるのかが、ものすごく気になり始めました。
「先生が病棟のほうにいて手が離せないので・・・もうあと20分くらいで来られると思うのですが。」と、
受付の方や看護師さんにも、気の毒そうに気にかけてもらいながら待ち、
もう帰ろうかと思い始めた頃に、診察室に呼ばれました。

これで、高圧的な事務的な先生だったら、ここの病院からはすぐに去ろう、などと思っていましたが、
若い感じのよい先生で、「お待たせして申し訳ありません。」と迎えてくださり、
とてもじっくりと話を聞いてくれました。すぐに大変いい先生の印象を持ちました。

そこではじめて、
「その症状は、アカシジアというのですが、ご存知ですか。」と言われました。
もちろん、初めて聞く言葉でした。
後に、ネットで「アカシジア(静座不能)」を調べて、心底ぞっとしました。

診察中、何度か「立ち上がって歩いてきていいですか。」と言いたくなるのを我慢していました。
今に思えば、アカシジアの症状を抑える特効薬もあるようで、いっそそうしたほうが、
深刻さが伝わってよかったのかもしれませんが、
私は、動き出したい身体をなんとかごまかしなだめながら、先生の質問に答え続けました。

リフレックス(15㎎)という抗うつ剤を、1日1錠飲むよう、1週間分処方してくれました。
私をアカシジアの地獄に陥れていたアビリットとは、ようやくこの日に決別し、
その日の夜から、1日1錠、リフレックスを試すことになりました。

⑯アカシジア(2)

2011-08-03 | 出産と産後うつのこと
「じっとできない」私の症状は、次第にエスカレートしてきました。
家事のやることが無くなって、娘も寝てしまう時間が来てしまうと、
ひたすら家の中の階段を行ったり来たりして過ごし、
娘をみてくれる人が来てくれると、救われたように、外をあてもなくうろうろしに行きました。

そのうち、ピアノを弾くと、落ち着いてくることが分かるようになりました。
状況が許される限り、しばらくご無沙汰していたピアノに向かうようになりました。
テンポの遅いものや、ゆったりした曲調のものは、ダメで、
音符がなるべくたくさんあって、指が忙しいものでないと、座って弾き続けられませんでした。
感情も芸術性も何もあったものではなく、ただただ機械的に、同じ曲を、何度も何度も弾きました。
それでも、弾き始めは、椅子に座り続けることを「我慢」しなくてはなりませんでしたが、
引き続けているうちに、歩きたがる身体をなんとかなだめ、多少落ち着くことができました。
ピアノが弾けて救われた、と思いました。

そのうち、夜、睡眠薬がわりのコンスタンを飲んでも、寝付けなくなるようになりました。
すぐに目が覚め、何度も寝返りを打って起き上がってしまいます。
せっかく毎日5、6時間は眠れるようになってきていたのに、
この「再び眠れなくなる」という事態が、たまらなく恐怖でした。

ついには、ピアノの前に座っても、身体が動きたがって座り続けられなくなりました。
両脚は、登山でもしたかのように筋肉痛でぱんぱんになり、もう休みたい、動きたくない、
なのに、立ち止まることさえ、身体が気持ち悪くて動かざるを得ない、
泣きたい思いで、せまい家中を動き回りました。
意を決して、「座ってテレビを観てみよう。」と、ソファに座ってテレビをつけてみました。
5分間我慢するのが必死でした。
これは、なんなのか、私は一体どうなってしまったのか。
もう、座り続けられない体質になってしまった、
こんなでは、電車もバスも乗れない、映画も観れない、美容院もいけない、
普通に座ってじっとできた頃に戻りたい・・・

ついには、食事ですら、一口含んでは、目的もなく1階から2階に上がって戻ってきて、
また、次の一口を食べては、2階まで上がっていって下りてきて・・・
というような事態になってしまいました。
もう完全に狂った、と思いました。傍目には間違いなく狂っていました。
私は、筋肉痛の足で階段を何十往復もしながら、仕事中の母に電話をかけ、
「もう限界。どうしたらいい?どうにかして。」と、泣きながら訴えました。
母は「今すぐ帰る。」と、忙しい仕事を無理に切り上げて来てくれました。
私が狂っている間、娘は、私の窮状を分かっているかのようにおとなしく、よく寝てくれていました。

私は、T病院の看護師さんのAさんに電話をかけ、
「新しい症状が出てきた、じっとしていられない、薬のせいかもしれない、薬をやめてみてよいか。」
と相談しました。
Aさんは、忙しい最中、迷惑な電話だったことと思いますが、親切に対応してくれ、
「副作用の可能性は薄いと思う、万一副作用でも、薬をやめてしまったら分からないから飲み続けるように。」
と言われました。

次の日、S先生も大変親切で、またまた診療時間外に時間を割いて、朝一番で待っていてくれました。
病院へ行く道中の車の助手席でも、私は、身体を揺すって耐え続けなければならず、
待合室の椅子に座ることもできず、うろうろしながら、診察を待つという状況でした。
完全に薬を信じられなくなっていた私は、「心療内科を紹介してほしい。」と申し出ました。
S先生は、すぐに紹介状を書いてくれました。

⑮アカシジア(1)

2011-08-03 | 出産と産後うつのこと
アビリット100㎎を1日3錠飲むようになってから、
調子のよい日、悪い日、と波に揺られるように、毎日を過ごしていましたが、
そのうち、自分になんとなく落ち着きがなくなってくるのを感じていました。

朝、台所を片付けて、洗濯して、浴室を洗って、掃除して、ひととおり済んでしまって、
娘も寝ている、ふっと空いた時間ができる、
そんな「空いた時間」が、妙に苦痛になってきました。
同じ窓を何度も開けたり閉めたり、洗う必要の無い食器を洗ってみたり、
わざわざ用事を作って、まだ身体は生だるいのに、ふわふわと動き回りました。
ちょっとソファに座って、なんとなく時間を過ごすということが、全くできませんでした。

「家事が片付いて、子どもも寝ていて、ふっと空いた時間、何してた?」
ある日、母に聞いてみたら、母は奇妙な顔をして
「そんなこと考えたこともなかったわ。」と言い、
「まあ、テレビつけたり、新聞読んだり、そんなとこかな。」と答えました。
私は、じっと座ってテレビを観てみましたが、3分と持ちませんでした。

娘にミルクをあげる間すら、じっと座っていられなくなり、
姿勢を変えたり、立ったり、寝そべったり、いろんなことをしながら、
最後までミルクをあげるのに、大変な苦労がいりました。

その頃、午後になるとよく姑が来てくれ、
「赤ちゃん見といてあげるから、好きなことをして。」と言ってくれました。
私は、しょっちゅう「散歩してきます。」と言って、ケイタイだけ手に持って近所をぶらつきに出かけました。
この、歩く時間が、この頃の私にとっての、一番「救われる時間」でした。
ちょうど秋で季節も良く、ぶらぶらと外を目的なく歩いている、
もしかすると、ご近所の方からは変に思われていたかもしれませんが、
その時間が、もっとも快適で、生き返れる時間でした。
30分くらいして、家に帰ると、「ああ、またこの狭い家に居なければいけない。」となんともいえない憂鬱を感じ、
3時間くらい外を歩きまわっていたい、という思いを抑えながら、
でも、そうするわけにもいかず、玄関に入ってくる、という感じでした。

娘も2ヶ月近くになり、体調の良い日を見計らって、お宮参りに行くことになりました。
宮司さんにお参りしてもらっている間、椅子にずっと座っていられるかどうかが、一番の心配でした。
「お願い、お願い、早く終わって」と念じながら、でも、幸い5分そこそこで終わりました。
その次の週には、市町村の助産師さんの訪問がありました。
この時も、ずっと座っていられるかどうかが、最大の心配でした。
結構長い時間居てくれましたが、助産師さんと話をしている間は、
身体を揺すりながら、なんとか気をそらせて我慢することができました。


この落ち着きのなさが、なんなのか、自分ではまったく分かりませんでした。
周囲にも「じっとしてられない。」とよく話しましたが、
「そりゃ、今まで朝から晩まで目一杯仕事してたんだから、専業主婦の生活に慣れてないんでしょ。」
という感じのことを言われ、自分でもそうだと思いました。
「仕事を辞めて生活が変わったら、こんなに時間が空くということが苦痛になって、
身体が勝手に、動かずにいられなくなるように、反応するものなんだ。」
と、変な感心をしていました。(そんなこと、あるわけありません。)

もちろん、T病院のS先生や看護師さんのAさんにも、
「じっとしていられない。」とか「座っているのが苦痛です。」ということは伝えていました。
それでも、その「じっとしていられない」深刻さと身体の違和感が、なかなか上手く伝わりませんでした。
散歩をしているとS先生に話すと、S先生はよく
「無理に動き回らなくてもいい、昼寝でもしてゆっくりしていればいい。
散歩したいのなら、してもそりゃ構わないけれど。」というように言って下さいましたが、
寝転んでじっとする、などということは、もう恐怖に近いぐらい嫌悪感を抱くことになってきていましたし、
もし、姑が来てくれなくなって、外を歩き回れなくなる日が来たらどうしよう、というぐらい、
「外を歩き回る30分間」が、私の心身にとっては、ものすごく貴重な時間になっていました。