よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

ハルモニュウムと歌声

2008年04月30日 | Weblog
長崎県長崎市外海町 出津教会(しつきょうかい・長崎県指定文化財)

長崎まで来たおり、出津教会に立ち寄りました。

出津教会は明治14年に着工、15年に完成しましたが、当時は煉瓦壁の寄せ棟造りだったそうです。その後明治24年に、ちょうど写真の奥のほうに見える塔の部分が増築されました。また、明治42年に2度目の増築がなされ、現在のような切妻造りの玄関の上に鐘塔のある作りとなったと、現地の案内板にあります。全てド・ロ神父の設計・施工によるものだったと、現地の案内板にありました。
そういう理由からでしょうか、増築したという感じはなく、鐘塔もむしろ、建物全体に対して非常にバランスよく建てられているように思われます。



以前ここを訪れたのはもう、10年前のことで、ド・ロ神父記念館もそのときは公開に向けて改装中でしたが、館内に入るとすぐにシスターがオルガンを弾いて下さり、一緒にどうぞと言って歌ってくださったのです。
私はそのときは、歌はまったく分からず、記念館改装作業に大工道具を手にしていた方々が、おそらく近くに住んでおられる方々だったのだと思いますが、手を休めて歌っておられたことを思い出しました。
この教会の白亜の壁が印象的でずっと覚えていたのですが、教会の建物もまた整備されているようで、ひときわ白く輝いて見えるように思われます。


長崎県内の教会は煉瓦積みというイメージが強いのですが、モルタルの壁と、屋根は瓦葺きです。


マカロニ工場跡 この建物の向こうに「ド・ロ壁」が続きます。

さらにそこからド・ロ神父記念館へと歩いていきました。
ド・ロ神父記念館は明治12年に外海に来た、フランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父の偉業を記念してやは、り神父によって建設された鰯網工場を利用して公開されたものです。
そこからマカロニ工場はすぐ近くで、石と練り土を積み上げた、いわゆる「ド・ロ壁」が数m延びています。と歩いていったのですが、日本で最初にパスタを作ったのはド・ロ神父だそうです。
パスタを作った、というのはこのマカロニ工場でのことだと思いますが、ド・ロ神父は外海の人々の窮状を救う為に、こういった授産施設や福祉施設をつくりました。


記念館ではやはり、シスターがオルガンを弾いて下さり、今回は後についてでしたが、歌わせていただきました。
歌は昔から苦手ですが、それでも二胡を習って弾き始めてからは音階がなんとなくわかるようになってきたので、オルガンの音を聴きながら少しだけ…です。ところでそのオルガンは実は、今から118年前に製造された、デュモン社製の「ハルモニュウム」というものです。オルガンですから、足元のペダル機構によって送り込まれた空気によって音を出すのですが、今までに聞いた事の無いような、温かみと透明感のある音色でした。

しばらく更新が滞ってしまいました。ブログに訪問いただいた方には申し訳ありませんでした。
私は、今日4月30日で14年間勤めた職場を退職することになり、この2週間ほどは挨拶回りで、ほうぼうに出かけておりました。ゴールデンウィーク後半に鹿児島に行ってから、故郷の和歌山にいったんは帰る予定にしておりますが移動は自転車で、2週間ほどかけて鹿児島から宮崎、大分、島根を経て関西方面へと向かいますので、途中、携帯から道中の文化財に関する記事をアップしていきたいと思っています。
出発は5月6日の予定です。今後は鹿児島の田の神さぁなど、なかなか訪ねる機会も少なくなり、関西方面の文化財に関する記事が多くなるとは思いますが、よろしければまたこのブログにご来訪いただければ幸いです。

出津から眺める海




紡ぎ出されるエネルギー  ~荒尾市 三池炭鉱万田坑跡

2008年04月15日 | Weblog
熊本県荒尾市

鹿児島からの帰り道、いつもは八女ICまで高速道路を利用するのですが、その日は途中の南関ICで降り、熊本県の荒尾市方面に向かいました。
というのは荒尾市には三井三池炭鉱の万田坑跡があり、宮原坑跡とともに国指定史跡にとして保存・公開されていたからです。

日本の近代化に大きく貢献した施設やその建築物は「近代化遺産」として近年、重要文化財や史跡として指定されるものが多く、公開されて保存・活用がなされており、熊本県荒尾市と福岡県大牟田市では三井三池炭鉱操業時の様々な炭鉱関連施設がその指定を受けて、市街地の各所に今も残ります。

竪坑櫓(たてこうやぐら)といったような巨大な建築物も多いので、道端から眺めるだけでもその歴史の航跡が感じられるほどですが、万田坑ではこの炭鉱に勤務しておられた方のガイドで建物群の中を見学することができます。
実は、内部を見学できることを知らなかったのですが、今回は偶然にも「万田炭鉱館」にてガイドをしていただける機会があって、残り少なくなったフィルムを気にしながらもカメラを携えて、貴重な近代遺産の残る建物等内部を見ることができましました。

デジタルカメラであれば、現在では記録メディアも大容量のものがありますから撮影枚数をあまり気にしなくて済むのですが、何故か時々は
「フィルムで撮ってみたい。」
と思う場所もあるのです。

第二竪坑の坑口付近

万田坑は三池炭鉱の坑口のひとつで明治30(1897)年から竪坑の開削が始まりました。現存するのは明治41年に完成した第二竪坑櫓とその巻揚室の建物で、最初に竣工(明治32年)した第一竪坑櫓は昭和29年に既に解体されています。
竪坑というのは地下にある石炭の層までまっすぐに降りるための垂直なトンネルで、このあたりは西側にある有明海の海底にまで石炭の層が続いているということで、三池炭鉱の坑道はこれらの竪坑から西へ、有明海の海底に向かって続いているそうです。

2階建てレンガ造りの巻揚室と、巨大な鋼鉄製の第二竪坑櫓が並びます。
煉瓦の壁をよく見てみると、一段毎に小口積みされていることに気付きます。これは「イギリス積み」と言われる積み方で、煉瓦の積み方にはほかに「フランス積み」、「ドイツ積み」、「アメリカ積み」、「オランダ積み」など色々ありますが、小口積みの多いイギリス積みは、しっかりと丁寧に建てられたという印象を受けます。
近くにある万田炭鉱館は、この巻揚室の建物の外観に合わせて建てられたものですが、やはりこちらも古めかしいという印象はありません。
当時最先端の技術を投入して整備された炭鉱だけあって、建物ひとつにも新しさの失せないデザインがなされていることに驚かされます。


「第二竪坑坑口」
トンネルの奥に見える部分が坑口で、その手前左側に置かれているのが「ケージ」(昇降用エレベータ)です。

炭鉱マンを乗せたケージはここから、地下274mにある仕事場まで降ります。
坑口は必ず、2つで1組のものとなります。つまり2つあればどちらか片方が坑内への空気の流入口となり、もうひとつが排気口の役目をして自然と空気の流れができ、常に坑内の空気が清浄に保たれるという工夫だそうです。


ケージの昇降には、鐘を鳴らして合図したそうですが、この鐘の鳴らし方には合図の内容によって、例えばケージを止めるには1回鳴らすとか、巻揚げるには2回鳴らすという、決まりがありました。



「第二竪坑櫓」

高さ18、8mの、万田坑におけるシンボル的な建築物です。
第二竪坑の開削は明治31年から始められ、10年後の明治41年にこの鋼鉄製の櫓が竣工、翌年に巻揚室が完成し石炭の採掘が始まりました。
上部に大きな滑車が見えます。この滑車から伸びるワイヤーは、櫓の隣に建つレンガ造りの建物「巻揚機室」(まきあげきしつ)に設置されている巻揚機のドラム巻かれており、その直下にある竪坑へとケージの揚げ降ろしをしていました。
下に小さな滑車もありますが、これは資材運搬用として使われていたそうです。
地面にしっかりと建てられた不動の巨大な建築物ですが、その滑車とワイヤーの存在が「機械」としての活動的な印象を受けます。


「炭がん」

「炭がん」は採掘された石炭を運搬する為の車で、坑口から延びたレールの上を走ります。
この「炭がん」は1トンの石炭を積載するものです。


「ジャックエンジン」
ワイヤーを巻いたドラムの両脇、写真の手前部分に、シリンダの一部分が見えます。

実はこの巻揚室でいちばん見たかったものがこの「ジャックエンジン」です。イギリス製の蒸気エンジン(90馬力)で、巻揚げの動力としては大正時代に電動の機械に替わりましたが、巻揚室内にいまも設置されたままで残ります。
蒸気機関車のしくみと同じで、シリンダ内に送り込まれる蒸気の力でドラムを回転させ、ワイヤーを巻き上げます。
ガイドの方から頂いたパンフレットには、明治31年に「コルニッシュ」式仮気罐1基を設置してジャックエンジンの運転を開始した、とあります。
つまり「コルニッシュ式」ボイラーで発生させた蒸気を動力源としてジャックエンジンを運転した、ということでしょうか。巻揚室のとなりには、明治時代のボイラー室(気罐場)の壁の一部が残っています。



「巻揚機」

坑内のケージを昇降させるための動力源で、ワイヤーを巻揚げるためのドラムやその回転を止めるブレーキが取り付けられています。ブレーキは手動ですが自動車のハンドルにあるパワーステアリングと同じ機構が備えられており、これは蒸気の力によるシステムだそうですが、巻揚機稼動時のブレーキ操作はそれほど力を必要とせず非常に楽に操作できるようになっていたそうです。


明治32年竣工の、第一竪坑跡基礎部分。強固なコンクリート製で、近づいてみると鉄筋が入っているのがわかります。

2つの竪坑跡と、石炭を運ぶトロッコ(炭がん)の軌道、石炭を選別する選炭場や気罐場(きかんば)と呼ばれるボイラー施設跡(動力としての蒸気を坑内各施設に供給する)など、明治以来の石炭採掘のシステムがここを見て回るだけで把握できるほど操業当時の施設が現存しています。


手前に見える煉瓦の壁は、「デビーポンプ」と呼ばれる当時世界最大の英国製排水ポンプが設置された建物の跡です

現在はここには多くの見学者が訪れ、県道からこのすぐ近くまで延びる道路も今年3月に整備されたばかりとのことです。
県道29号を大牟田市方面へ走り、岩本橋(県指定重要文化財)を過ぎるとやがて「万田坑跡」の案内板が見えます。道路沿いに万田坑の資料を展示した「万田炭鉱館」があるので、ここの駐車場に車を停めて歩きました。
この万田坑は、最盛期には3500人が働いた日本最大規模の竪坑で、社宅も800戸あったそうです。
現在、社宅は全て取り壊されてしまっていますが、そこにはいまここまでのアクセス道路ができて訪れる人も多いということです。
この時も、カメラを構えている方を何人か見かけました。
停まったままに見える竪坑櫓の大きな滑車ですが、いまもエネルギーを紡ぎ出して、人の心を動かしながら、変わりなく回り続けているのかもしれません。



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田の神さあ戻し ~祁答院町

2008年04月11日 | 田の神さぁ
鹿児島県薩摩川内市 祁答院町藺牟田

実はここ3日ほど鹿児島に居て、折りよく4月10日は祁答院町で
「田の神さぁ戻し」の行事があるということを聞きましたので、行って来ました。

一年毎に行われるこの行事は、田の神さぁが次の一年を過ごす家へ移動するという御祭りだそうで、田圃を眺めて立って居られる田の神さぁのほかに、各家庭あるいは新婚家庭を廻る、いわゆる「廻り田の神さぁ」と呼ばれる田の神さぁも多く、こうして「田の神さあ戻し」といった伝統行事と共に大切に伝えられているのです。



田の神さぁは、出発する家で綺麗に化粧直しをしてもらい、花で飾られた籠に載せられて次の一年を過ごす家へと向かいます。

ほら貝と鐘を叩く音に先導されて、女性が籠を担ぎ道中では田の神さぁを囲んでの舞いも披露されます。
舞うのは大きなメシゲを持ち、「ヘグロ」と呼ばれる炭を顔に塗って田の神さぁに扮した数人の男性で、袴や、たすきといった衣装も、田の神さぁ像によく見られる表現を映した姿です。




舞いの様子ももちろん面白いものなのですが、賑やかな舞と共に大切に運ばれる籠の上でにっこりと笑った田の神さぁの表情が、賑やかなことが好きな田の神さぁがまるで御祭りの日を待ちかねていたようにも思えて、見物の人々もまた、にこやか見守ります。


花かごで「田の神さあ」お引っ越し 薩摩川内市祁答院町の伝統行事(西日本新聞) - goo ニュース


 

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櫛田宮のみゆき大祭

2008年04月07日 | 文化財と桜の風景
佐賀県神埼市神崎町

昨日の夜、東の方から太鼓の音が聞こえてきて、そういえば4月の5、6日は櫛田宮の「みゆき大祭」だったのを思い出し午後になって自転車で出掛けてみました。


神輿などの行列が3時間かけて、下宮からこの櫛田宮へと歩きます。

昨日夜に下宮に渡った行列が今日は上宮である櫛田神社へと向かい、境内では、佐賀県の重要無形民俗文化財である「太神楽(だいかぐら)」や「高志狂言」が奉納されます。



写真は太神楽ですが、神埼市内の尾崎という地区に伝わるものだそうです。
獅子舞には笛、太鼓、ささらの音が入り、黒い翁面の「めずり」と呼ばれる役の少年が二人、獅子に向かいます。
獅子だけでも十数人がかりで演ずる、大掛かりなものです。


拝殿。

神社の拝殿には安政五年に描かれたとされる絵馬が奉納されており、大祭の行列の様子が描かれていますので、昔から変わらず伝えられてきた行事であることがわかります。

櫛田宮は長崎街道神埼宿の中心にあり、この櫛田宮の門前町として栄えた宿場町だそうです。このあたりの道沿いには、所々ですが古い町並みが残っています。



肥前鳥居。慶長7年(1602年)の銘があります。佐賀県指定重要文化財。




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器の勝負 ~千布城跡

2008年04月04日 | 遺跡・遺構
佐賀市金立大字千布

いつも通勤に使っている自転車が前日の夜にパンクしてしまったので、「とりあえず今日は歩いて通勤しよう」と、その日の朝は職場までの道を歩いてみたところ、途中に “土塁”があるのを見かけました。

ちょうど金立公民館がある場所です。

土塁の前には案内板が立てられており、『千布城関連「館」の土塁』とあります。
それによると、この千布には戦国時代、神代氏の拠点のひとつであった「千布城(土生島城)」があり、その城跡であると言われる場所には土塁や堀が残っていて、この土塁もまた神代氏に関連するものである可能性が高い、ということでした。


“千布城”で思い出されるのは、神代勝利と、その勝利の命を狙った小河筑後守の二人についてのエピソードです。

ある夜、千布城内の湯殿に大男が居るのを、下女が見つけました。
それで急いでこのことを報告すると、勝利が言うにはその男はおそらく小河筑後守という、敵である龍造寺隆信の家来に違いあるまいということでした。

風呂場に隠れているところを女性に見つかる、というのも可笑しい場面では有りますが、筑後守は隙あらば勝利を斬ろうと、城に忍び込んで様子を伺っていたのです。

ところが城内では酒宴が開かれているところで、あろうことか勝利はその筑後守も宴席に呼ぶように命じたそうです。
このことには皆驚きましたが、呼ばれた筑後守も堂々と座敷に現れて、お互い盃を酌み交わしたといわれています。
おそらく二人とも顔を合わせて後は、宴を楽しんだというわけではなく、やはり勝負は続いていたのです。
宴の席において武器を構えた勝負をすることなく、武人としてどちらの器が大きいかという、そういうものを競い合った。

もちろんお互いに身の危険が有ったはずで、勝利にしてみれば酒に酔っていたところですから、素面の筑後守と一戦交えれば明らかに不利といえます。盃を差し出したところで切りつけられるかもしれません。
また筑後守にとっては、既になみなみと酒の注がれた盃が勝利の掌にある、ということは毒が入っている可能性が全くないわけでもないと考えるでしょう。

筑後守は酒を飲み干してから、勝利に返杯しますが、刺客をつかまえて宴席に招いた勝利のほうが勝っていたと考えたのか、それとも役目を果たせなかった悔しさからか、それから歯を噛んで掌を握りしめて龍造寺の城に帰ったそうです

ブログを御覧の皆様はどちらの勝ちと思われますか?

この記録は江戸時代に現地で語り伝えられた話を集めた文献で、彼らが生きた時代からはかなりの時間がたっていますが、当時信憑性の高いものを意識的に採用したとありますので、全く史実でないとも思えず、またこの二人の人物像を非常によく伝えているもののように考えられます
勝利の器の大きさと、筑後守の勇猛さを伝えた話ですが、その時のその場所はどこであっただろうかと、少し周りを歩いてみました。


実はこの公民館が建てられる際に、ここでは発掘調査がなされています。
その発掘調査報告書によるとこの土塁は江戸時代の初め頃に築かれたもので、公民館の西側に現在もある浄円寺に関連するものではないかとあります。
ただ、館の周りに巡らされていたと考えられる二重の溝も確認されているとのことで、これは中世のものだそうですから、あるいはそれが千布城の一部であるかもしれません。

いったい城がどこにあったのか判りませんが、周りに比べてわずかに高くなった部分が北から南へと伸びるこのあたりの地形は、南の方向、つまり龍造寺氏の本拠があった佐賀方面への睨みをきかせる砦や城がありそうな場所です。


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思わず手を合わせてみると ~三界万霊塔

2008年04月02日 | 文化財と桜の風景
佐賀市久保泉町徳永

竿石のような石塔の上に蓮華座がありそこに仏像が載せられている、そういった石仏を道端でよく見かけます。
佐賀のみに見られる石仏というわけではないようですが、あちらこちらでよく見かけるものですから気になっていました。
なかでも、この久保泉の仏様が表情も温和で、この付近はよく通るのですがまるで道中の安全を見守ってくれているように思えたことから、よく覚えていたのです。
今日、そばにある桜がちょうど満開になっているのを見つけたので、立ち寄ってみました。



石の表面はかなり風化が進んでおり、台座に「寛政」という江戸時代の元号がかろうじて読み取れます。
「松平定信による寛政の改革」というのが日本史の教科書にありましたが、ちょうどその頃ということになります。
また、竿石の正面には「三界万霊」と刻まれていますので、「三界万霊塔」であることがわかります。
三界、というのは仏教における欲界(食欲などの、人間が持つ「欲」の世界)、色界(物質だけの世界)、無色界(欲も物質もどちらも存在しないとされる世界)の3つの世界であるとか、過去、現在、未来という3つの世界を指すものといわれますが、意味するところは「ありとあらゆる全ての世界」であるようです。
つまり、あらゆる世界の、鳥や獣までを含む全ての霊をここに宿して供養をする、というのがこの三界万霊塔であるとされています。



江戸幕府の老中、松平定信が寛政の改革を行ったのも、その頃起こった飢饉(天明の大飢饉)による農村の荒廃と困窮が幕府の財政を疲弊させたことも理由のひとつであるとされます。
詳しくは判りませんが、このあたりも当時は農村で何かしら飢饉の影響があったものかもしれません。

思わず手を合わせましたが、200年以上ここに居られる仏様に、こうして手を合わせた人は数え切れないほどいたことでしょう。
鳥や獣まで何でも全ての物の霊、というと何か大雑把なように聞こえますが、
これは手を合わせて拝む人が思う、心の中にある全てのものという意味かもしれません。
また、供養というのも、その存在のありがたみを改めて感じることであるように思います。




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宝珠寺の姫枝垂れ桜

2008年04月01日 | 文化財と桜の風景
「姫枝垂れ桜」が満開の、宝珠寺(ほうしょうじ)へ行ってみました。




車は、歩いて10分程はなれた「水車の里」の駐車場に置いてきたのですが、宝珠寺の夜桜を見物に行く人は多く、寺までの道中には案内の看板が立てられていますが、皆この寺を目指して歩くので、行く手にライトアップされた1本の桜の樹が見えてくるまで道に迷うことはありませんでした。



トップの写真は寺の北側から眺めた桜です。
夜道を歩いてきた方に「こんばんは、」と声をかけられて、
こちらも「こんばんは、」と挨拶すると、
「やはり、ここからの桜がいいですね」という話になり、夜桜というのは本当に久しぶりに観たのですが、夜空を背景にして輝くような花を楽しむ時間はこの2.3日のうちに戻ってきた寒さも気にならないほどです。
たった1本の樹ですが、樹齢100年というだけあって非常に高く大きく枝が広がり、
昼間にもまた素晴らしい眺めが観られることでしょう。



佐賀市内からは県道31号線を東へ、鳥栖方面に向かって「城原(じょうばる)」という所を過ぎて、飯町の交差点から県道21号線を北へ向かうと、まもなく「水車の里」にたどり着きます。


ところで、宝珠寺の西側に広がるこの「城原」という地名は、中世の歴史にたびたび登場します。
勢福寺城の麓にあたるこの城原に拠る軍勢は勢福寺城を本拠とする江上氏の家人達で、「九州治乱記」には「城原勢」の名があり、佐賀を本拠とする隆造寺隆信と度々戦をしています。

また、家人の一人に光安刑部丞という人物が居り、たいへんな剛の者であったそうですが、その刑部丞がある夜、山道で小石を拾い、それを懐に入れて持ち帰る途中やがて巨大な岩となり、とうとう持ち帰ることができなかったという、不思議な話の記録も伝えられています。
その小石を拾った場所が「土器割」というところで、宝珠寺から城原川を挟んで西に聳える「土器山」がそれらしく、
そこには「天狗が住む」という伝説もあることから、そんな不思議な話が伝えられたのかもしれません。
いずれにしろ、古くから多くの人が住み、行き交うような栄えた場所だったようです。



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