よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

内田下の田の神さぁ

2008年01月24日 | 田の神さぁ
鹿児島市 上谷口町内田下

田の神さぁの表情、衣装や動作の描写に驚かされることがよくあります。
簡略化された表現でありながら、充分すぎるほどのイメージを見る者に与えているのです。

前回アップしました鹿児島市松元支所南の田の神さぁのすぐ近くに、笑顔の印象的な田の神さぁが居られました。
表情はシンプルに表現されており、半円にディフォルメして描かれた口などから、造立はそれほ古くないようにも思えるのですが、「天保二年」と読める文字が刻まれていて案外古いようです。(風化のため文字の判読がやや難しいのですが)。
天保2年は西暦1831年にあたり、篤姫が生まれたのが天保6年ですから、いま大河ドラマでやっているような時代の田の神さぁということになります。
顔の上にひさしのような部分が残っていますので、舟形光背を思わせるような平たい石の前面を少し彫り込んで、浮き彫りのようにしてその姿を表現していたと考えられます。
今は身体の部分の彫刻は風化してしまっているようですが、メシゲや茶碗を持って田の神舞を踊る姿が、そのにこやかな表情から想像されます。
石像の特に顔の部分が少し紅みがかって見えます。石材は凝灰岩ですので紅い色に見えるとも考えられますが、彩色がなされていた可能性もあります。



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ワラヅトを持って  ~鹿児島市松元支所南の田の神さぁ

2008年01月22日 | 田の神さぁ
鹿児島市 上谷口町

シキをかぶり、メシゲと茶碗を持って…という姿の多い田の神さぁですが、石碑に「田之神」或いは「御田之神」と文字だけを記した田の神さぁも居られます。

写真は、鹿児島市上谷口町、旧日置郡松元町内の鹿児島市松元支所の近くで出会った田の神さぁです。

波形の模様を彫り出した台座に、上のほうをやや尖らせた石を載せられており、そこに描いた円の中に「田之神」と記しているのが見えます。この円は、板碑などで見られる月輪の影響があるのかもしれません。




石に文字だけというと、なにかそっけないようにも思えますが、横に立てられた笹の枝には、「ワラヅト」が掛けられています。豊作になるはずの種籾をワラヅトに詰めて、ワラヅトもちゃんと持っているよ、とでも言うようにここでこうして田圃を見守っています。
それだけで田の神さぁの温かさが感じられるように思えてきます。




円の下側には、右に「二月吉日」、中央はおそらくこの田の神さぁを造立した“講”の名前、左には「明和六年」の銘があります。
高さは54~55cm、台座が30cmありますから、全高85cm前後となります。
ところが田の神さぁ本体の石に明和六年とあるのに対し、台座は元文五年の銘が記されており、もとは別であったようです。ただ、この組み合わせはぴったりで、違和感無いようにも思うのですが・・・。

所在地は鹿児島市上谷口町になると思います。上谷口町の内田下にあたり、この田の神さぁを「内田下の田の神さぁ」とする文献がありますので、その名前が正しいと思われます。
今回は所在地の地名について詳しく確認できませんでしたので「鹿児島市松元支所南の田の神さぁ」としています。





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狛犬の角

2008年01月21日 | Weblog
勤務先で書類を印刷する時に裏紙を使うことが多いのですが、いざプリンタに用紙をセットする際、そこにおもしろそうな記事を見つけることがあるのです。
先日も、ある狛犬の記事があるのを発見しました。
ただの狛犬ではありません。そこには「吽形は頭に一角を持つ狛犬で、・・・」と、頭に角のある狛犬について書かれてあったのです。
内容はすぐ近くの町について書かれたものでしたから、町史か何かの1ページをコピーしたものだったのでしょう。その狛犬のある神社の場所まで詳しく書かれていました。

頭に角がある狛犬、というのはそれほど見かけません。関西ではたまに見かけることもあったのですが、九州へ来てからは、唐津で一度見たことがあるだけです。また、実は関東地方に多い、という話を聞いたことがあります。


大阪府岸和田市 岸和田天神宮の狛犬(吽形・角があります。)

狛犬はもともと中国大陸から日本に持ち込まれたもので、本来は獅子の像であり今日でも中国では寺院や門前に1対の獅子像が置かれています。阿形、吽形の区別は特に無いようですが、ちょうど鏡に映したように左右対称になって一対としている例をよく見かけます。


中国の獅子像 江蘇省蘇州近郊 保聖寺にて


中国 雲南省大理 大理古城門前の獅子像

日本では狛犬は中世に石像として造られ始められたそうです。それが江戸時代の中頃に全国に広まったと言われています。いま神社でよく見かけるような形の狛犬はこの頃に形が定まったと思われます。
古い狛犬としては東大寺(奈良)に建久7年(1196年・鎌倉時代)造立の例があり、これが現在日本で最古とみられています。

頭に角があるというのは一般的に吽形のほうで、狛犬像としての原型に近く大陸から狛犬が伝えられた時のもとの姿がそれであるとも言われますが、古い狛犬ほど必ず角があるかというとそうではありません。どうやら本来角のあった姿から、角が無くなったというわけではないようです。
なぜ狛犬に角のある例があるのか、実はその角の由来は、いまのところはっきりわかっていません。

中国には、「犬に角を生やす」という言葉があり、「格好をつける」という意味で使われ、羊の真似をして格好をつけることからきています。
さらに中国には「かいち」という想像上の動物が伝えられており、頭に1本の角を持つとされています。
「かいち」は物事の善悪をよく判断し、為政者によって世界がよく治められているときに現れるとか、または裁判の正・不正を見極めるために姿を現すと伝えられる、神獣あるいは幻獣と呼ばれる存在です。
身体は獅子、狛犬によく似ていて、日本の狛犬の姿に影響を与えたともいわれていますので、狛犬の角はこの「かいち」に由来するものかもしれません。

「かいち」の像 中国 江蘇省にて

もうすぐ節分ですが、鬼に角があるのも、鬼の超人的な力を表現しているように思われます。

結局、その狛犬を探し当てることはできたのですが、角らしいものが見当たりませんでした。眉間にある毛の表現がそれなのでしょうか。頭もちょっとなでてみたのですが、丸くて特に突出している部分はありません。
短い記事から場所を推測しながら、現地を探し歩いてようやくたどり着いたのですが、書類の裏の記事にあったのはこの神社の狛犬のことではなかったのかもしれません。また近くに行ったときは、改めて探してみるつもりです。

トップの写真は唐津市、東城内にある八幡神社の狛犬の、吽形です。頭に一角があります。

参考・引用「石仏調査ハンドブック」庚申懇話会



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守り、守られて  ~船津原の田の神さぁ

2008年01月20日 | 田の神さぁ
鹿児島県 姶良郡 姶良町船津

田の神さぁは鹿児島・宮崎において大切に信仰されている神様ですが、なかには明治時代の廃仏毀釈による寺院・仏像破壊の影響を受けて一部破損のみられる像も多くあります。廃仏毀釈は明治元年(1868年)の政府による神仏分離の政策が発端ですが、当時鹿児島では他の地域に比べよりその運動が激しかったそうで仁王像や磨崖仏などはそのほとんどが損傷を受けています。

田の神さぁはその後補修されていることが多いのですが、補修がある場合はなんとなく分かります。石材の材質の違いが有る場合も多く、やはりバランスというか、一度に彫り上げたのとは違う印象を受けます。
しかし、補修がなされている、というのは素晴らしいことです。

田の神さぁの信仰を支えているのは、田の神講などの地域的な人々の結びつきです。田の神さぁは決して祟らない神様と言われますから、その後もやはり笑顔を見せておられるのでしょう。

船津原の田の神さぁも、頭部は後の補修によると思われます。詳しいことは分かりませんが、やはり廃仏毀釈によるものでしょうか。ただ、ここにその笑顔があるのがとても自然に思えます。広い田圃が広がる中心に大きな磐があり、その上に座って居られます。



これは補修されている田の神さぁに限らず全ての田の神さぁについて言えることですが、訪れてみたとき、人々の豊作の願いを受け止める、にこやかで温かい田の神さぁの姿をそこに見ることは間違いありません。

船津原の田の神さぁは、本来の姿と思われる胴部は神像型となっています。想像されるのは、神職を象った坐像ですから、もとは紫尾田の田の神さぁのような、衣冠束帯でちょっとすましたような表情をなされていたのかもしれません。
文化財には本来の姿を忠実に復元することも必要ではありますが、田の神さぁの場合は復元そのものが補修の目的ではないようにも思えます。
それで今、にこやかな表情で田の神さぁがここに居られることが、とても自然におもえるのです。



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鹿児島市直木町 山方の田の神さぁ

2008年01月15日 | 田の神さぁ
鹿児島市直木町山方

谷に沿って田圃が広がる山間部の道路脇に、田の神さぁが居られます。
最初は、おそらく庚申塔か何かだろうと思ったのですが、正面に回ってみたところ田の神さぁでした。
四角い石とは限りませんが、石碑のように建てた石材に田の神さぁの像を刻むのはここから西、川内のあたりでよく見かけます。またときには2体並んでおられることもあります

寛政4年(1792年)壬子 三月吉日の銘が刻まれています。
シキをかぶり、メシゲと、左手には非常に大きな椀を持っておられます。
注連縄はもともと、掛けられていたものでしょうか。
お酒がありますが、「白波」です。
田の神さぁを尋ねて歩くと、榊や花、お供え物が絶えず置かれていることに驚きますが、お酒はやはり焼酎がほとんどでした。
表情は残念ながらはっきりとは分かりませんが微笑んでいるのでしょう、孤を描いた眉が却って、にこやかな笑顔を想像させます。





台座となっている石には宝暦(1751~61年)の元号があります。田の神さぁより30年以上も前のものということになりますので、本来一組のものではないようです。
別に使われていたものを田の神さぁためにここに持ってきたのでしょうか。台座に銘を刻むのは、墓石や石碑よりも石仏によく見られます。
それとも、田の神さぁは近隣の村を豊作にするために、数年間ほど出かけることがあると言いますので、別の田の神さぁのものなのでしょうか?


直木町山方の田の神さぁが眺める田畑の景色です。




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姶良町 寺師 黒葛野の田の神さぁ

2008年01月14日 | 田の神さぁ
姶良町内の県道446号線を県民の森方面へ向かう途中、段々畑の上に田の神さぁが居られました。
丘の頂上を少し削った見晴らしのよい場所から眺めておられるようにも見えます。
最近の造立というわけではなさそうですが、彩色は非常に良く残っています。
祭りの日などに化粧をし直すような行事があるのでしょうか。


段々畑のある斜面から少し突き出た丘の、頂上あたりに居られました




椀を持ち、やや腰を落とした姿勢で、被ったシキを右手のメシゲでちょっと上げる姿は田の神舞を表現しています。
田の神舞型の田の神さぁは、そのほとんどが舞の特徴的な一瞬を捉えて描写されているように見えます。ひととおり踊る舞のなかでも、ちょうどこのポーズが面白い、この瞬間にどっと人々が盛り上がる、そんな一瞬をとらえているような気がするのです。
田の神さぁに「動き」を感じるのはそういった理由からなのでしょう。

また、この田の神さぁの表情や耳の造形は、どちらかというと仏像を思わせるところがあります。にこやかな笑顔の田の神さぁが多い中で、たしかに穏やかな表情ではあるのですが、なんとなく力強さを感じるような視線を向けておられます。
人々にとって身近な場所に居られ、時には愉快な舞で皆を楽しませる田の神さぁですが、実は豊作をもたらすという神秘的な力を持っているということに対する、人々の尊崇の気持ちが現れているかのようにも思えます。




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旅の疲れを癒す絶景 ~熊野古道 御所之芝

2008年01月13日 | 熊野古道
和歌山県 海南市

熊野古道の途中、塔下王子址の近くに、”御所之芝(ごしょのしば)”という場所があります。
藤白峠を越えてすぐのところにあり、とても眺めがいいので、麓にある藤白神社に来た際には、ついここまで登ってきてしまいます。
ただしここまでは急な上り坂の続く山道で、歩きづらいこともあって藤白神社からは片道1時間ほどもかかってしまうのですが・・・。

しかし何故”御所之芝”と言うのでしょうか。

ここは眺めが素晴らしいことから、当時白河上皇(天皇としての在位は1072~86、その後上皇として院政を行いました)が熊野詣での行宮地としたところだそうです。
行宮地、というのは、上皇や法皇の旅先での宿泊所です。
朝の光が波に輝く風景や、夕陽に染まる山や海岸を観ることが出来たでのでしょう。

平安時代から鎌倉時代初めにかけて、法皇や上皇が皇室行事として盛んに熊野詣でを行い、また江戸時代に入ると貴族に限らず武士や庶民も多く参詣したことから
この古道沿いにはいろいろエピソードや言い伝えが残ります。
上皇の熊野詣に同行した藤原定家も、この場所について日記に「熊野路第一の美景なり」と記してあるそうです。
今は干拓によってほとんどが陸地となっていますが、もともと黒江坂の中言神社あたりから南西に広がっていた黒江湾は、万葉集に「黒牛潟」と詠まれた場所です。
湾が一望できるこのあたりの場所からの景色は、ずっと昔から旅人の疲れを癒してきたのかもしれません。
険しかった道はここから、しばらくは楽な下り坂になります。


遠くに和歌浦の海岸、片男波が見えます。


御所之芝に至る古道。岩盤を削り出して作った階段がありました。


「丁石地蔵」 道沿いに、一丁ごとに祀られています。

今、ここからは海南市の市街地や和歌山マリーナシティの観覧車、和歌浦の海岸、淡路島沿岸の街がよく望め、
平安時代の景色からは大きく変わってしまっているでしょうが、やはりいい眺めです。

またここは、蓮如上人が喜六大夫と共にした場所、とも言われ「後世(ごせ)の芝」とも呼ばれています。

今回「朝日、夕陽百選」というモニュメントが建てられているのを見つけました。
和歌山県観光連盟が、和歌山県内の、朝日・夕陽が美しく見えるスポットを100ヶ所選んで指定したものだということで、
ここはどうやら”夕陽のきれいな場所”ということのようです。




近くの塔下王子の址には、地蔵峰寺があります。
本堂は室町時代中期頃の建築とされる禅宗様の建物で、昭和51~53年に解体修理され、建立当初に復元されたそうです。
「峠の地蔵さん」と呼ばれる本尊の石造地蔵菩薩像は元亨3年の(1323年)の造立ですが、700年近くたっているとは思えないほど彫刻が鮮やかで、また意外に大きく見えます。
以前、一度開帳の折に訪れたことがあるのですが、今回は扉が閉まっていました。
しかし本堂の扉に葉書の大きさ程度の少しだけ開いた部分があって、そこから姿を見ることができます。

そのまま坂道をずっと登っていくと、中世に築かれた地蔵峰寺城の跡があります。
峰の頂上は平坦地となっていて、そこが曲輪のようです。登り坂の途中には土塁らしき土盛りが続いていますが、最近になって給水ポンプが
設置されていて、その工事の痕跡である可能性もあり城に伴うものかどうかよくわかりません。

既に2008年も12日がたってしまいました。
しばらく更新が滞っておりましたが、できる限りアップを続けていこうと思います。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。



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