鹿児島市 上谷口町内田下
田の神さぁの表情、衣装や動作の描写に驚かされることがよくあります。
簡略化された表現でありながら、充分すぎるほどのイメージを見る者に与えているのです。
前回アップしました鹿児島市松元支所南の田の神さぁのすぐ近くに、笑顔の印象的な田の神さぁが居られました。
表情はシンプルに表現されており、半円にディフォルメして描かれた口などから、造立はそれほ古くないようにも思えるのですが、「天保二年」と読める文字が刻まれていて案外古いようです。(風化のため文字の判読がやや難しいのですが)。
天保2年は西暦1831年にあたり、篤姫が生まれたのが天保6年ですから、いま大河ドラマでやっているような時代の田の神さぁということになります。
顔の上にひさしのような部分が残っていますので、舟形光背を思わせるような平たい石の前面を少し彫り込んで、浮き彫りのようにしてその姿を表現していたと考えられます。
今は身体の部分の彫刻は風化してしまっているようですが、メシゲや茶碗を持って田の神舞を踊る姿が、そのにこやかな表情から想像されます。
石像の特に顔の部分が少し紅みがかって見えます。石材は凝灰岩ですので紅い色に見えるとも考えられますが、彩色がなされていた可能性もあります。
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田の神さぁの表情、衣装や動作の描写に驚かされることがよくあります。
簡略化された表現でありながら、充分すぎるほどのイメージを見る者に与えているのです。
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表情はシンプルに表現されており、半円にディフォルメして描かれた口などから、造立はそれほ古くないようにも思えるのですが、「天保二年」と読める文字が刻まれていて案外古いようです。(風化のため文字の判読がやや難しいのですが)。
天保2年は西暦1831年にあたり、篤姫が生まれたのが天保6年ですから、いま大河ドラマでやっているような時代の田の神さぁということになります。
顔の上にひさしのような部分が残っていますので、舟形光背を思わせるような平たい石の前面を少し彫り込んで、浮き彫りのようにしてその姿を表現していたと考えられます。
今は身体の部分の彫刻は風化してしまっているようですが、メシゲや茶碗を持って田の神舞を踊る姿が、そのにこやかな表情から想像されます。
石像の特に顔の部分が少し紅みがかって見えます。石材は凝灰岩ですので紅い色に見えるとも考えられますが、彩色がなされていた可能性もあります。
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