過去日記

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■通帳  (20111023)

2012-07-10 13:45:21 | -過去日記・小学校時代-
(これは・母方の祖母宅での・話なので。小学校5年生のときの・出来事です)


祖父は・孫たちに、毎日100円を・お小遣いとして・くれました。
近くには・年の変わらない・イトコたちが・8人くらい・いました。
( 長男・次男・母( 長女 )・三男末っ子( 生まれつき・心臓に穴が開いていて・二十歳まで・生きないと・言われていました )


私も、毎日。祖父から・100円を・もらっていました。
いつしか・その100円を使わずに。毎日・銀行へ・持っていくように・なりました。


何ヶ月かを・毎日続けたころ。父と母が・再婚しました。
それによって・母が
・母・「 チエコ・通帳・預かっといてやる! 」と・言い出し。
私は・拒否したのですが。母は・怒り出し。
・母・「 おまえが持ってたら!全部使っちゃうだろう!アタシが・ちゃんと・持っててやるって・言ってんだよ!3つのうちに・よこしなさい!いーち・にー・・・ 」


母の・怒気を孕んだ・「 声 」に、、、
私は・涙いっぱいになり・母に・通帳を・渡しました。
母が・父と再婚した以上。そのお金は・家を出て行くのに・使おうと・思っていたからでした、、、


それから・少し経ったころ、母に。
・私・「 通帳ある?あれ・使いたいんだけど・返してくれる? 」と・聞くと
・母・「 ああ・アレ?つかっちゃったよ!生活費が足りなかったら・もう・ないよ! 」
私は・この一言で・固まってしまい、、、二の句も告げずに、、、ただ・唖然としてしまいました、、、


以来、、、
>「 貯金 」が・できなくなりました。


また、どんなに・10歳のころから働いても。お小遣いも・給料も・ほとんど・なかったので・貯めることも、難しかったのです。
少ない給料から。
・テレビ
・ご飯代( 家で食べる・以外の。仕事先でのなど )
・交通費など
すべて・ほとんど。自分で・出していたからです、、、


うちは・「 貧乏 」なのだと・大人になっても・しばらくの間・信じていたので、、、
私の・「 給料 」は・そっくりそのまま・「 接待 」に・使われているのだと、、、


大人になっても。
臨時的な・ボーナスなどが入っても。ときどき・そっくりそのまま・母に・もって行かれることも・ありました。
私の給料は・22~23歳くらいまでは。数万円でした。
そこから・少しずつ・増えていき。最終的には・十数万円に・なりました。

-過去日記・転載・中学校時代-

2012-05-24 21:53:30 | -過去日記・小学校時代-
入学式。      (20070609)



入学式の開始時間まで、まだ時間があり。
それぞれの各小学校から集まった見知らぬ子供たちに混じって、私も決められた教室でやる気も無く、ただ頬杖をつきながら窓の外を眺めていました。



その間に、2年生、3年生の上級生の人たちが、入れ替わり立ち代り、私に挨拶に来てました。



「 ○○○先輩から、君の事聞いてるから大丈夫だよ! 」と、
そのほとんどが、好意的なものばかりでしたが、私は気のない返事ばかりを繰り返してました。
正直、全てが気に入らなかったからでした。
従兄弟は、私と入れ違いに卒業をした、この地域一体では名前の通った「 不良 」でした。
私と従兄弟はとても仲が良かったので。
そして、従兄弟は伯父である私の父に、私の事を頼まれてもいたからでした。
私は、全てが不快で成りませんでした。
先生までもが、わざわざ、私を見にやって来る人もいたくらいです。
そして、先生も
「 アイツ( 従兄弟 )は、本当にいいやつだったからなー。
  君の事は、アイツから聞いてるよ。入れ違いに従姉妹が入ってくるから、
  よろしく頼むと言われているよ! 」と、見知らぬクラスメイトたちの中で、私だけが名指しで話しかけられてました。



それは、とても居心地が悪く。不快でもありました。
それが、たとえ。善意なのだとしても。



そして、同じ小学校からの同級生と、目が合いました。
私から怯えるように、視線を逸らし。怯えるように、青ざめたりしてました。
私はそれも、とても不快でなりませんでした。
なぜ? なにが、そんなに怖いの?
私を、平気でドツキ倒していたでしょう?今更、私の何が怖いの?と。。。



不快で、不愉快で、居心地が悪く、仕方がありませんでした。
私と同じ小学校の子供たちは全て、私から目を逸らし、ただ、怯えているようでした。
見知らぬクラスメイトたちは、私をただ、奇異の目で遠くから、目が合わないように見詰めてました。



イラつきが募ります。
入学式の開始時刻。体育館への移動の際も。
上級生たちが、すれ違うたびに、私に話しかけてきます。
名前を聞かれたり、クラスをきかれたり。
従兄弟から私の事を頼まれていると、嬉しそうに話されてみたり。



うるさい!ウザイ!消えろ!死んでしまえ!知るかボケ!。。。と。
心の中で、悪態をついていました。
話しかけられても、愛想笑いすらしなくなりました。
「 知らない。 」 「 そう。ありがと。 」と、イラつきを隠さない返答を繰り返しました。



入学式が終わり、2年生の女子の集団に呼び止められました。
「 なにか? 」と、蔑むように見返しました。
お前生意気だからちょっと来い!と言われ。2年の校舎に連れて行かれました。
ケンカかな?と、内心笑いました。バカらしくって。くだらなくって。



2年の校舎。階段を登り、教室の並ぶ前に立たされて。手を上げられました。
私も、すかさず殴り返しました。
十数人対一人のケンカになりました。
頭に血が上り、ぶっ飛ばしたい気持ちで一杯になりました。
怒声が飛びました。制止する声も、チラホラありました。
けれど、とにかく目の前のリーダー格の女の子だけは、ぶっ飛ばすつもりで殴りつけました。
鼻血を垂らしました。ざまーみろと思い、ハイキックを決めてやろうと思った瞬間。
そのまま引きずり倒されて、十数人にボッコボコに蹴り倒されました。
私は憤慨だー!とばかりに、
「 ふざけんな!タイマン張れ!バカヤロー!!! 」と、蹴りまくられながら、
精一杯の虚勢とプライドを賭けました。



けれど、返ってくる答えは
「 お前なんか、タイマン張る資格ねーんだよ! 」とか、そんな感じのものばかりでした。
ムカつきながら、
「 ふざけんな!タイマン張れ!バカヤロー!!! 」と、精一杯の怒声をあげました。
けれど、同時に気がついても居ました。
この人たちは、私に負けるわけにはいかないのだと。



蹴り倒されている最中、一つの声と視線に気がつきました。
転がり、倒されながら、その視線を追ってみると。
母方の私より一つ年上で、いつも私にイタズラをしてくる従兄弟が、女子に囲まれて、俯いていました。
「 あれ、お前の従姉妹だろ? 」と、言われ。ただ、小さく、硬く、俯いていました。
私は、この後、どうするのかな?と、従兄弟を見てました。
どんな、対応をするのだろう?と。
けれど、私は嘲笑しました。従兄弟は、私に暴力を振ったり、イタズラするような強さは無く、ただ、下をじっとみて、うつむいているだけでしたから。
くだらない、、、と、強く思いました。
私も、従兄弟も、このケンカ相手たちも全部、くだらないと。



一通り、蹴り倒された後。開放されました。
私は自分の教室へ戻る最中に、勝てなかった事が悔しくて、泣いてしまいました。
勝てるつもりでいたのです。( アホだなあと、思いますけれど、、、 )
教室に帰って、服や気持ちを整えて。
家にある木刀を持って、リベンジに行くかと思っているところへ。
先生たちが来て、私を校長室へ連れ出しました。
いまから、私の両親が来るから、ちょっとここで待っているように、と言われました。



私は、しまった!と、初めて血の気が引きました。ヤバイ!と。
ぶっ飛ばされると。。。どうしようと。。。震えました。怖いと。。。



けれど、わざわざ車で駆けつけた父たちは、思いのほか、とても優しい態度でした。
先生方に確認を取りました。
「 うちの娘は十人以上の上級生に、一方的に暴力を振るわれたんですね? 」と。
先生たちは、「 十数人に暴力を振るわれたのは確かです。 」と頭を下げて、言いました。
父は私の腕を掴み、
「 解かりました。今から医者の診断書を取ってきますので、
  話はそれから、双方改めてと言う形でお願いします。 」と告げ、
私が、待って!病院行くほどじゃないから待って!と言った所で、聞く耳を持たれず。
そのまま、腕を掴まれたまま。職員室の前に停められた車に乗せられました。



父と母は、私に黙っていろと、圧力をかけました。
これから知り合いの病院で、診断書を取るからと。
ついでに、そのまま1日入院させるからと、言いました。
私は泣きながら、「 やめて! 」と言いました。
子供のケンカに、出てこないでと。
けれど、父たちは言います。会社をやっている以上、
「 被害者にならないと、信用にかかわるからだ 」と。
「 お前だけの問題じゃ、ないんだ 」と。
私は、自分の感情が理解できず、ただ、ボロボロと泣きました。



病院に着いて。それでも、懇願しました。「 ヤメテ、お願い! 」と。
父たちは、「 じゃあ、入院だけは、カンベンしてやるけれど、診断書はだめだ。 」と言いました。
私は、父とお医者さんとの話し合いの結果。
全治2~3週間の打撲、打ち身という診断書を受けました。
それを手に、父たちとまた、学校へ行きました。
車の中で、父と母は言います。
「 ケンカするなとは言わないけれど、絶対に被害者になるように、しろ 」と。
私は、泣きながら返答が出来ませんでした。
もう、しない! もう、ケンカなんかしない!と、思うことだけでした。



私は違った意味で、学校のほとんど全てと孤立していきました。
もう、全て。どうでもよかった。 何も、要らなかった。
私に関わる全てのものが、私には要らなかった。 
もう、誰も、何も、私に関わらないで欲しいと思いました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



診断書を取ることは。
私にとって、なにかとても大切で、キレイだった何かが壊されて、穢されていく感覚に陥りました。
診断書を取った、効力を、私は知っていたからです。



助けて欲しかった、誰かに。 このどうにもならない全てから。 環境から。
私は、助けて欲しいと強く絶望し、悲しかったのを覚えています。
同時に、私は全てのものを、真っ直ぐに捉えなくなりました。
自分も含めて、キレイな人が居ない。 自分も含めて、汚くて、弱くて、ズルイ人ばかりだと。



それでも、キレイな人に出会いたかった。 
心のキレイな人に、出会いたかったのを覚えています。 
悲しい気持ちで、出逢いたいと強く望んでいたのを、覚えています。
私自身は、どんどん、冷たいドライな人間に成って行くのに。
それでも、キレイな人と出会いたかったのを、自嘲しながらも望んでいたのを覚えています。
キレイな人に、許されたかったのです。私と言う人間を、許して欲しいと願っていたからです。
私は、いつでも。誰かに許して欲しいと、願っていたからでした。
なぜ、許して欲しいと思うのか、願うのか。未だに自分自身でも、よく解からないのですが。。。




************************

>中学デビューと・制服と・ワタチ・・・il||li_| ̄|○il||li
http://ameblo.jp/buraiai/entry-10890341489.html


>中学になってから・毎朝毎夕・シャワーを・浴びるように・なりました


髪は・ドライヤー焼けで・両サイドは・かなり・茶色かったです・・・il||li_| ̄|○il||li



>不良のステータス?( かなり・強い立場の不良じゃないと? )来賓用のスリッパは・はけなかったの(*`・ω・´)ゞデシ

     ↑理由は・教師に・取り上げられる( 時に・ゲンコツ?(笑 )。そして・生徒同士での・力関係でも・ありました



実際・来賓用のスリッパをはいてるのは・当時・

私と・私と対立していた?少女と・その彼氏など・かなり・限定されていました(^^;;;

     ↑先生も・まず・「 手が出せない 」。生徒に?限られていたようです・・・




>私たちの代が・最後の不良世代と・先生たちは・言っていたそうです

    ↑私たちより・一つしたの学年の・しめつけは(^^;;;>すごかったです(^^;;;

でも・私たちの代では、、、2つ前の世代で・「 不良世代 」は・消滅?してしまったと・思っていたように・思います、、、


3つ違いの・私の弟は(^^;;;

私のせいかどうかは・知りませんが(^^;;;



かなり・陰湿な・教師の反撃?に・在ったようでした・・・il||li_| ̄|○il||li

    ↑弟・・・番長?だったのに・・・国語教師&社会教師に・乳首をつねられて・・・3年間・アザになっていたのを・卒業まじかに・カミングアウトされたです・・・il||li_| ̄|○il||li


父・大激怒でした(^^;;;>「 陰湿 」にも・ほどがあると・・・

    ↑父・乗り込んだら(^^;;;>教師・謝罪の嵐だったそうなのですが

その後・弟に・

・教師・「 チクったな!! 」と・・・il||li_| ̄|○il||li 言われ・内申書で・脅されたそうです、、、



弟は・学校の内申書などが・もらえなかったため?←確か(^^;;;

自力( 家庭教師の先生が・テストの山を・かけてくれたので(^^;;; )で・大学付属の高校へ・受かりました




だけど、、、

>国語教師

>社会科教師

   ↑どちらも・よく・知っているし(^^;;;>また・社会科教師は・1年くらい?私の担任でもありました(^^;;;>癇癪?持ち?っぽいところと・気の弱いところと、、、たしかに(^^;;;>陰湿なところはあったけれど、、、

・「 内申書 」を・たてに(^^;;;>まさか・弟たちを・上半身裸にして・横一列に並ばせて・乳首を・つねっていたなんて(^^;;;う~ん、、、


-過去日記・転載・小学校時代-

2012-05-21 15:54:21 | -過去日記・小学校時代-
5~6年生のころの・転校生   ( 20111023 )


ある日・一人の男の子の転校生が・現れました。
服装も・ブレザーに近い清潔な装いでした。
( 当時のクラス平均より・かなり上の服装・生地でした。会社経営を・ご両親がしていると後に聞きました )
男の子は・はきはきとして。壇上で・挨拶をしました。
次の瞬間。クラスの女の子たちの・ほとんどが彼に夢中になりました。
私も・一瞬で好きになりました。育ちの良さそうな物腰。とても優しそうな・話し方。


クラスで転校生の男の子と・教室入り口で・ぶつかりそうになったとき。私は・カラダを・とっさに硬くしてしまいました。
いつも・殴られていたり。跳び蹴りをされていたので・瞬間的に痛みに構えてしまいました。
だけど・転校生の男の子は・優しい声で・「 大丈夫? 」と・声をかくてくれました。


このとき・私は・ものすごく・あせりました。びっくりしました。
・汚い
・死ね
・学校くんな
・明日までに・1000円持って来い( 学年が・あがるごとに・要求される金額も、毎日・上がっていきました )
・シカトすんぞ
そんな・「 言葉 」しか。この数年。このクラスで・ほとんど聞いたことが・なかったからでした、、、


泣きそうになるくらい。胸が・締め付けられそうになるくらい。
とても・うれしかったのに・胸が痛かった、、、、、、
だけど、クラスの異変は・その日のうちに起こり始めました。
授業の休み時間ごとに・クラスの男の子たちの態度が・どんどん・転校生に攻撃的に・なっていきました。
それを・休み時間のたびに見ていて、、、とても、ココロが痛みました、、、
だけど、転校生の男の子も・クラスの女の子も・ほとんど気づいていないようでした、、、


クラスの女の子たちが・休み時間のたびに。転校生と談話して。ほほを赤くして・笑い声がこぼれてく。
クラスの男の子たちは・数箇所に集まって・その様子をみながら・いやな顔つきで・いやな声のトーンで。
なにかを・ひそひそ・話しています。
私は・それを見ながら、とても・ココロが苦しくなっていきました、、、。


転校初日の放課後には。ほとんどの・クラスの男の子は・転校生に話しかけることはなくなりました。
それを・クラスの女の子たちも察知し始め。
数日で・転校生の男の子は孤立してしまいました、、、。


それでも、最初の数日は。
転校生の男の子は・一生懸命。話題を作り・クラスの男の子たちに話しかけていました。
けれど・男の子たちは・おもいっきり無視をして・転校生を見ることも・ほとんどありませんでした。
( 転校生の男の子を・「 見なかった 」からこそ。この転校生の男の子も・まだ・話しかけることができたのだろうと思います、、、 )


その・一部始終を見ていた・クラスの女の子たちも。
次第に・転校生の男の子に話しかけることが・なくなりました。
転校生の男の子に・「 教科書を見せて 」と・言われれば・まだ、授業中・一緒に見ているようでしたが。


1週間も過ぎるころ。
転校生の男の子のイジメは・もっと・激しくなっていきました。


移動教室などで・転校生の男の子が・クラスの男の子に話しかければ。
おもいっきし・にらまれて。怒鳴られるように・なりました。
それでも、転校生の男の子は・急に話しかけたことに・自分にも非があると思ったようで。
急に話しかけたことを・わびて。再度・移動教室へ自分も一緒に行きたいと・意思表示すると。
男の子のグループに・暴言を吐かれるように・なりました。


このころから。クラスの女の子たちも。この・転校生の男の子と距離を・置くようになりました。
「 教科書を見せて 」と言われても。机を少し離し。「 触らないでね 」と、汚いものを見るような目つきで・話すようになりました。
転校生の男の子は・とても・ショックを受けているようでした、、、
( たぶん、、、そんな目に一度もあったことが・なかったのでしょう、、、あれだけ・まっすぐに・明るく。また・誰に対しても・わけ隔てなく優しい少年だったので、、、 )


1か月、、、イジメが・転校初日から始まって。1か月が・経ったころ。
転校生の男の子は・それでも・懸命に・クラスの男の子たちに話しかけていました。
体育などで・ペアになるとき・偶数の人数だったので。なんとか・あぶれることはなかったのですが。
それでも・クラスの男の子たちは・転校生の男の子と組むのを嫌がって、ばい菌扱いをするように、なりました。
力関係で・負けたクラスの男の子が・この転校生の男の子と組みました。
その・一部始終を見ていた転校生の男の子は・とても、傷ついているようでした。
転校生の男の子は・日増しに自尊心も。尊厳も、失っていくのが・手に取るように判りました、、、。


2か月、、、イジメが・転校初日から始まって。2か月が・過ぎるころ。
転校生の男の子は・もう・ほとんど・クラスの女の子とは・会話をしませんでした。
クラスの男の子と・会話をするように・心がけているようでした。
けれど・イジメは
・クラス全体の・シカト
・聞こえる大きな声での・悪口
・ばい菌扱い
・村八分・ハブ( 体育や・遠足などの・班決めのさい。わざと・外す←プライドを・さらに・傷つける暴言なども、含まれます )
転校生の男の子は・みるみる・笑顔がなくなっていき。顔色も・いつも・青白くなっていきました、、、。


3か月、、、イジメが・転校初日から始まって。3か月が・過ぎたころ。
上記のイジメに・直接的な・肉体的暴力も加わるように・なりました、、、。
転校生の男の子は・もう・このころには。自分から・クラスの男の子たちへ・話しかけることも、なくなっていました。
   ↑学校の先生は・この件で。一度も・触れたことはありませんでした、、、


転校生の男の子と・私へのイジメが・長期化へと・変わっていきました。
それまでは。イジメは・長くても・数ヶ月おきくらいの・ローテーションだったのですが。
いつしか・卒業するまで・ほぼ・イジメのターゲットが・固定されてしまいました。


5年生から・6年生になったころ。
色白の・少しぽっちゃりした少女が・このクラスに転校してきました。
この少女もまた・「 軽い・イジメ 」に・合うようになりました。
少女がされていたのは、シカトをされているわけでも・ハブ( 村八分 )に・されているわけでもなかったのですが。
クラスに溶け込めなかったのか。いつも・一人でいることが多かったように・思います。
とても・おとなしいタイプの・少女だったと・思います。
( この少女のことは・中学時代・「 登校拒否の子 (20090818)  」で・触れています。そちらを・参照してください。 )


いきなり・クラスの男の子に・後ろから跳び蹴りをくらって、教室の床等に手を着き・突っ伏して。
ときには・いすから・引きずり倒されて・床に・這いつくばらされて、たくさんの少年少女たちに・踏まれたり・蹴られたり・してました。
ふと・目を上げると。
私から・1メートルくらい先に・転校生の男の子と・同じ目の高さで・目が合いました。
それだけのことが・とても・言葉にならないくらい勇気や・頑張れる力などを分けてもらえたように、思えました、、、。


私たちは・それからも。
ときどき・目が合いました。
イジメられてても・お互いに・泣き顔は・なぜか・ありませんでした。
一言も・交わせなかったけど。ふとした拍子に・目が合うことで・どれほをの勇気になっただろうと・思います。
私たちは・たぶん、、、ふたり・「 同じ境遇 」だったから・頑張れたんだと思います、、、。
たぶん・一人だったら・ムリだっただろうとも、思うのです、、、。


私は・学校を・休めかなった。
母が・私の目の前でだけ自殺未遂を・繰り返す、、、
だから・私は・「 なんでもないよ 」「 楽しいよ 」「 子供らしい・私 」で・いなければ・いけなかったかです
母が・本当に・死んでしまうのが・怖かったから、、、学校を・やすめなかった、、、
また・母に・いえなかった。これ以上・母からも・傷つけられたく・なかったからでした、、、。


だけど、転校生の男の子は・「 なぜ・学校を・やすまなかったのだろう? 」と、今にして・思います、、、
・会社経営の家庭での・「 事情( 次期社長としての・両親からの・プレッシャー ) 」?などで
学校を・やすめなかったのだろうか?
ここは・私にも・なぜ・この転校生の男の子が・あれほどの・イジメ
・精神的暴力
・肉体的暴力の中
1年以上も・やなまい・イジメの中で。学校を休まずに・登校してきたのか、私には・判りません、、、。


ただ、知っているのは、、、
この・転校生の男の子が・「 小学校で・1年以上・イジメられていた 」ことを
この転校生の男の子の・ご両親は。成績優秀な実兄は・知らなかったので。
さらに・この・転校生の男の子は・中学・高校と、、、追い詰められていくことになります、、、
今度は・クラスメイトではなく、、、実の・「 家族 」から、、、。


中学・高校、、、それ以降の・この転校生の男の子のことは。
そのつど・書き足していこうと・思います、、、。
( 過去日記・中学時代・「 3年デビュー (20090822)  」>こちらのほうでも・触れています )


転校生の男の子のイジメは・転校初日から・小学校を卒業する・1年半くらいの間。
やむことは・ありませんでした、、、。
私は、この男の子が・イジメによって・人生を大きく壊してしまったことを、ずっと、見てきました、、、
・薬物
・自殺未遂
・暴力・窃盗など、、、
男の子は、転校してきた当初、、、王子様のように、とても輝いていた少年でした、、、

-過去日記・転載・小学校時代-

2012-05-21 15:53:50 | -過去日記・小学校時代-
海と・サメ   ( 20111027 )

毎年・お盆休みに・家族旅行が・母と父の再婚から・定番になりました。
それまでは・シーズン前に・旅行をする感じだったのですが。
両親の再婚と同時に・上場企業の社員食堂を・やらせていただけるようになってからは、その企業の連休に合わせた・長期連休が・私たちの旅行の日程になりました。

家族での旅行は、気がすすまず。
( 小学校時代・「 タンポン(20061214) 」>こちらのほうも・見ていただけたらと、思います )
それでも・全員参加が・家訓?のように。仰々しく・課せられてしまったので。毎回・参加せざる得ませんでした。
・父
・母
・私
・妹( イトコ。母の2番目の実兄の長女 )
・弟
父の運転する車で・下田の大和館へ行くのが・定例でした。
なぜか・父の隣の助手席が・私の定位置でした。
( 母は・「 事故。助手席の死亡率 」を・とても、恐れていました。 )

ホテルに着き・荷物を置いて・さっそく・海へと出かけました。
目の前が・ほとんどホテル客しか利用しない感じの・ビーチだったので。いつも・ゆったり・できました。
珍しく・その日は父も一緒に・泳ぐことになり。ボートを借りて子供たち3人と・沖のほうまで行くことになりました。
母は・ほとんど泳ぐこともなく。いつも、砂浜で・のんびりしてました。

沖のほうになると、水温は・かなり冷たくなり。真っ青な深い・濃紺色の海色になりました。
すると・父がいきなり・弟を海に放り投げました。
弟が・パニくりながら・「 サメが来る!!サメが来るー!!助けてー!!サメが来るー!! 」と・ものすごい勢いで・パニくりました。
私は・サメなんて・こねーよ!と大爆笑でした。

すると・今度は妹を父は・海へ放り投げました。
妹も・「 サメが来る!!怖いよ!!助けてー!!サメが来る!!サメー!! 」と・パニくりました。
私も、その雰囲気?に・尋常じゃない恐怖心?に・戦慄?していきました。
ふと・父を見ると・私を見据えていたので。

・私・「 私も投げたら・絶対!怒るからね!? 」と・かなり・静かに睨みながら・父に告げました。
父は・「 やるわけ・ねーだろ? 」と・笑いながら・私たちは・お互いの動向を見据え合っていました。
その間。ボートの周りでは。
パニくっている・弟と妹が・「 サメがくるー!!サメー!!怖いよー!!サメが来るー!! 」と・大絶叫でした。

その・パニック?に・私もかなり・飲まれてしまい。
父を本気で・見合っていました。
父も、私を投げようか・どうしようか。かなり・葛藤しているようでした、、、。

だけど、私たちは、、、
父には・プライド?が
私には・自分を保つのが・精一杯の精神状態で、、、
父と私の間には・「 中学時代・週末の過ごし方(20070715) 」が・せめぎ合っているようでした、、、。
たぶん、父は・父なりの・多くの葛藤も・あったのだろうと思います。

だけど、最終的に父は・私は投げませんでした。
そして・パニくっている弟と妹を・ボートに引き上げました。
弟たちは・サメが来ると本気で怖かったようでした。
妹は・弟が・「 サメが来るー!! 」と・パニくったので。妹にも・サメの恐怖が・感染?してしまったようでした。

ボート遊びも終わり・ホテルに戻り。お風呂に入って・豪華な食事を始めました。


ときどき、、、。
父と私は。お互いの・「 距離? 」を・測るように・見据えあうことがありました、、、。

この・ボートも・そうでした。
お互いの・「 力関係? 」を・測る?摩り替える?ように、、、
時々、父が、こういったことで・距離を測ることがありました。

やっぱり、、、機能不全家族の典型なのだろうとも、思うのです、、、。

-過去日記・転載・小学校時代-

2012-05-21 15:53:22 | -過去日記・小学校時代-
通帳   ( 20111023 )


( これは・母方の祖母宅での・話なので。小学校5年生のときの・出来事です )


祖父は・孫たちに、毎日100円を・お小遣いとして・くれました。
近くには・年の変わらない・イトコたちが・8人くらい・いました。
( 長男・次男・母( 長女 )・三男末っ子( 生まれつき・心臓に穴が開いていて・二十歳まで・生きないと・言われていました )


私も、毎日。祖父から・100円を・もらっていました。
いつしか・その100円を使わずに。毎日・銀行へ・持っていくように・なりました。


何ヶ月かを・毎日続けたころ。父と母が・再婚しました。
それによって・母が
・母・「 チエコ・通帳・預かっといてやる! 」と・言い出し。
私は・拒否したのですが。母は・怒り出し。
・母・「 おまえが持ってたら!全部使っちゃうだろう!アタシが・ちゃんと・持っててやるって・言ってんだよ!3つのうちに・よこしなさい!いーち・にー・・・ 」


母の・怒気を孕んだ・「 声 」に、、、
私は・涙いっぱいになり・母に・通帳を・渡しました。
母が・父と再婚した以上。そのお金は・家を出て行くのに・使おうと・思っていたからでした、、、


それから・少し経ったころ、母に。
・私・「 通帳ある?あれ・使いたいんだけど・返してくれる? 」と・聞くと
・母・「 ああ・アレ?つかっちゃったよ!生活費が足りなかったら・もう・ないよ! 」
私は・この一言で・固まってしまい、、、二の句も告げずに、、、ただ・唖然としてしまいました、、、


以来、、、
>「 貯金 」が・できなくなりました。


また、どんなに・10歳のころから働いても。お小遣いも・給料も・ほとんど・なかったので・貯めることも、難しかったのです。
少ない給料から。
・テレビ
・ご飯代( 家で食べる・以外の。仕事先でのなど )
・交通費など
すべて・ほとんど。自分で・出していたからです、、、


うちは・「 貧乏 」なのだと・大人になっても・しばらくの間・信じていたので、、、
私の・「 給料 」は・そっくりそのまま・「 接待 」に・使われているのだと、、、


大人になっても。
臨時的な・ボーナスなどが入っても。ときどき・そっくりそのまま・母に・もって行かれることも・ありました。
私の給料は・22~23歳くらいまでは。数万円でした。
そこから・少しずつ・増えていき。最終的には・十数万円に・なりました。