身近な山野草から

人生の余熱利用から拡張型心筋症に。歩行百メートルで一休みの状態がようやくまともに散歩ができるようになりました。

今、将に”賽の河原”なのでしょう

2011-06-14 14:11:27 | 日記
 自分の信じていた世界が“超大型地震M9.0から東日本大震災”に発展し、私の住む地域・環境・友人の死亡・行方不明も多数です。・・・・全て壊滅的に破壊され尽くされました。信じていた世界が、目の前から突然消失してしまった現実があります。一体、どのような生き方・生活の立て直しがあるのでしょう。生かされている限られた人生の末期になった世代ながら、また、最初から一歩一歩着実に歩む以外、その方法がないのでしょう。人々は生かされているだけでも感謝しなさいと、いとも簡単に言いますが・・・・本当にリアルな世界です。今、将に“賽の河原”なのでしょう。

ホッとするようなエール

2011-06-13 15:42:08 | 日記
ACジャパンをはじめ、いろいろなエールがあります。
“”がんばれ 日本   がんばれ 東北   がんばれ 岩手  がんばれ 気仙   がんばれ 陸前高田・・・
我が雷神自治会では“”がんばれ 雷神   明日に向かって 立ち上がれ“”・・等
こんな中で、地元の保育園の垣根にホッとするようなエールがありました。
“みなさん ありがとう  わたくしたちもがんばるよ よねさきほいくえん”がありました。

超弩級の東日本大震災:91日振りのインターネット・ブログ復活(修正版)

2011-06-11 10:42:55 | 日記
東日本大震災:千年に1回発生するか否かの超弩級の大震災です。世界的には歴代4位とのこと。今年は古稀祝いの年で数年前から事務局の一員として案内状の作成やら何やらのお手伝い、この6月8~9日には盛大にキャピタルホテルで古稀祝いの筈だった。

 3月11日午後2時46分、とてつもなく長い地震、書斎の戸棚倒壊破損、ガラス戸のサッシが破損し屋根瓦が容赦なく落下してきました。避難した庭には亀裂が走り、近くの水田では水が噴出(液状化)する等経験したことがない世界に陥った。避難した庭先から太平洋の広田湾をみると、地震後30分位経過してから、海岸は水しぶきが目立ち、どす黒い巨大な津波が押し寄せてきました。
震源地は宮城県沖150キロメートルとのこと。チリ津波を経験しているので津波は差ほど驚かないのであるが、想像も出来ない程の超大型津波が来襲したのです。時速200kmものスピードだ。海抜が10~20メートルになるにつれ時速は20~25キロメートルに低下したが、巨大な“真っ黒い波の壁”が容赦もなく襲ってきたことは未だに脳裏をはなれない。

津波が過ぎ去った跡は将に地獄です。こつこつと着実に築いてきた我が世界を一瞬にして崩壊したのです。日本百景・名勝高田松原、啄木や虚子が訪れた高田松原、ケンカ七夕・命の鼓動で有名な太鼓の街・陸前高田市が全くすっかり消えてしまったのです。恐らく、生きてみることが出来ない“地獄の世界”を見てしまった状態です。しかも今回の津波は青森~千葉県までの南北500キロメートルにも及ぶ大震災です。
3階建てビルは完全に大津波に飲み込まれた。中身も壁もなし、鉄筋の一部が残っているだけです。すべてがチリ津波を念頭に設計された第一避難所が襲われた。避難所の三階もダメでした。全く役に立たない避難所だった。むしろ、行方不明・死亡者激増の最大要因となった。
また、現代は情報化社会で生活していますが、全く、情報が入らない社会が存在しました。電話も携帯も電気もテレビも新聞もない、インターネットも全く接続不可能です。
唯一の情報、トランジスタラジオでしたが電池がなくなれば一巻の終わりでした。
想像できますか?際立って役にたったのはガーデニングに利用したソーラーライト。暖房もない寒い部屋の中でわずかな光を中心にささやかな家族の団欒ができました。この中にはすべてをさらわれ避難してきた3世帯9人もいました。

超弩級の東日本大震災:91日振りのインターネット・ブログ復活

2011-06-10 22:19:02 | 日記
東日本大震災。千年に1回発生するか否の超弩級の大震災。世界的には歴代4位とのこと。今年は古稀祝いの年で数年前か事務局の一員として案内状の作成を手伝い、この6月8~9日は盛大に古稀祝いの筈だった。
 3月11日午後2時46分、とてつもなく長い地震、書斎の戸棚倒壊破損、屋根瓦落下、庭は亀裂が走り、水田では水が噴出(液状化)する等経験したことが世界に陥った。避難した庭先から見た太平洋・広田湾は水しぶきが目立ち、津波が押し寄せてきた。
震源地は宮城県沖150キロメールとのこと。チリ津波は経験しているので差ほど驚かないのであるが、創造も出来ない大津波が40~45分で来襲した。時速200kmものスピードだ。巨大な“真っ黒い波の壁”が容赦もなく襲ってきました。
津波が過ぎ去った跡、日本百景・名勝高田松原、啄木や虚子が訪れた高田松原、ケンカ七夕・命の鼓動で有名な太鼓の街が全くすっかり消えてしまった。生きてみることが出来ない“地獄”を見てしまいました。
3階建てのビル、完全に大津波に飲み込まれた。中身も壁もなし、鉄筋の一部が残っているだけです。すべてがチリ津波を念頭に設計された第一避難所が襲われた。避難所の三階もダメでした。全く役に立たない避難所だった。むしろ、行方不明・死亡者激増の最大要因となった。
また、現代は情報化社会で生活していますが、全く、情報が入らない社会が存在しました。電話も携帯も電気もテレビも新聞もない、インターネットも全く接続不可能です。
唯一の情報、トランジスタラジオでした。電池がなくなれば一巻の終わりです。想像できますか?際立って役にたったのはガーデニングに利用したソーラーライト。暖房もない寒い部屋の中でわずかな光の中で家族の団欒ができました。