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『論語』解読スタート 解説

2019-12-01 10:50:22 | 四書解読
論語解説
一 『論語』とは

『論語』は、孔子の言葉、弟子との問答、弟子同士の問答などを、孔子の没後、弟子たちの手により編纂されたものである。このことについて『漢書』藝文志に、「論語者、孔子應答弟子時人、及弟子相與言、而接聞於夫子之語也。當時弟子各有所記。夫子既卒、門人相與輯而論篹。故謂之論語。」(論語とは、孔子、弟子時人に應答し、及び弟子相與に言いて、夫子に接聞せしの語なり。當時弟子各々記する所有り。夫子既に卒して、門人相與に輯めて論篹す。故に之を論語と謂う。)とあり、いろんな形で孔子の思想が述べられている書物である。それでは具体的に誰が『論語』を編纂したのかという問題は、古来より多くの人により研究されてきているが定説とされるものはない。
『論語』は、漢文大系に掲載されている服部宇之吉氏の解題に、「此の書漢初に三種有り、即ち齊・魯及び古是れなり。齊論語は齊人の傳えしもの、魯論語は魯人の傳えしものにて、古論語は孔子の舊宅の壁中より出でし古文なり、古論語は孔安國之が訓解を為りしが、世に傳わらず、齊・魯二論語は各其傳有りて、漢代には之を治めたる学者少なからざりき。古・齊二論語は早く亡びて魯論語獨り今に傳わる。」とある。
聖人の中の聖人として位置づけられてきた孔子を理解する上に於いて『論語』以上の書物はなく、古来より多くの人に読み継がれてきた名著である。

二 孔子について

孔子については、『史記』の孔子世家が一番詳しい。できれば私のホ―ムページにアクセス(http://gongsunlong.web.fc2.com/)『史記』世家の孔子世家を読んでいただくのが一番良いのであるが、一応簡単にに紹介しておく。
孔子は魯の昌平郷の陬邑に生まれ、名は丘、字は仲尼、姓は孔氏という。魯の襄公二十二年(前551年)に生まれた。襄公二十一年(前550年)とする説もある。七十三歳にして、魯の哀公十六年(前479年)に亡くなった。
孔子の青春時代は、魯の国政を季孫子・孟孫氏・叔孫氏の所謂三桓氏が恣にし、君主の権威が著しく損なわれた時代であった。この背景が孔子の思想に大きな影響を与えたと思う。壮年時代には政治家として魯の国政に携わったが、結局三桓氏の壁を討ち破ることが出来なかった。己の思想を実現させるために、弟子を連れて13年間、諸国を遊説して歩いたが、遂に用いられることなく魯に戻り、晩年は弟子の育成に務めた。門人は三千人ともいわれ、その中で特に六芸に秀でた者が七十二人いたと言われている。この七十二人については、『史記』の仲尼弟子列伝に述べられている。更に詩・書・春秋等の古典を整理し、今に伝わる儒学の基礎を築き上げた。

三 注釈本

『論語』は中国でもわが国でも、多くの人に読み継がれてきた書物である。その為先人による多くの注釈本が存在し、それらすべてを舉げることは不可能である。そこで主だったものだけを紹介しておく。
○「論語集解十巻」 248年、魏の何晏らの編集による。漢代の孔安国・包咸・周氏・馬融・鄭玄、魏では陳羣・王粛・周生烈の八家の説の善なるものを選びて之を取り、異論のある所は、自分らの解釈を施した。現在完全な姿で伝わっている注釈書としては最古のものである。
○「論語義疏十巻」 545年、梁の皇侃(オウ・ガン)の編集による。何晏の「論語集解」を本とし、晉の衛瓘等十三家の説を參取した。この書は北宋頃までは存在したらしいが、その後亡びた。しかし幸いにもわが国では早くから伝わっており、室町時代の写本が保存されていた。これにより我が国でも中国でもこの書を読むことが出来るのである。
○「論語正義二十巻」 999年、北宋の邢昞(ケイ・ヘイ、「昞」の本字は「日」が上につく)等の編集による。「論語集解」・「論語義疏」を修正し、一段と詳細な注釈書を作り上げた。
○「論語集注十巻」 南宋の朱熹の著である。前の三注が古注と呼ばれるのに対し、これは新注と呼ばれる。これは論語の注釈のなかでも、最も有名なもので多くの人に影響を与えた書である。
次いで我が国における注釈本である。
○「論語古義十巻」 江戸時代の大儒伊藤仁斎の著である。朱注に捉われず、古注を尊重した。
○「論語徴十巻」 伊藤仁斎より四十年ほど後の大儒荻生徂徠の著である。同じく古注を尊重している。
○「論語集説六巻」 幕末の大儒安井息軒の著である。古注を本としながら、朱注や伊藤仁斎、荻生徂徠を交え取ったもので、論語の注釈本としては非常に価値の高いものである。

四 テキスト本と解読に当たって
今回解読に使用した底本は、影璜川呉氏仿宋刊本の論語集注(朱熹)で、参考書は安井息軒の「論語集説」である。「論語集説」では古注が紹介されているので、それと朱注と息軒の見解などを参考にしながら、私見を交えて解読していきたいと思う。私は常々、論語の訳本や、論語から学ぶといった式の本を目にして思うのは、孔子は本当にそこまでの意味を込めて述べているのか、という疑問である。そのことから、解読の基本的な姿勢として、原文を重視し、拡大解釈は極力排して読んでみたいと思っている。どの程度其の試みがなし得るかは分からないが、その内容の稚拙さに対しては寛大な心でもってお許し下さることを切望しております。

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