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『中庸』第十七節、十八節

2014-12-22 11:18:19 | 漢文
            『中庸』第十七節、十八節

                 第十七節
大体において天下国家を治めるには、九つの原則があるが、これを実践して、具体的にそれを行い遂げる根本的な方法は一つである。物事は事前に熟慮して計画し準備することである。そうすれば物事は計画通りにすらすらと進み成り立つが、事前の準備が不十分であれば、中途で失敗したり挫折したりするものである。たとえば何か発言をする場合でも、その内容をよく考えて組み立てておけば、途中でつまずいて口を閉ざすようなことは無い。事業を行うにも、事前に計画を立てておけば、中途で困難に陥ることも無い。遠方に出かける場合でも、行く前に善く計画を立て準備をしておけば、途中道に迷ったり、困難に出会ったりして心を悩ませることは無い。自分の進むべき道も熟慮して正しい道を選べば、途中で行き詰まって苦しむことも無い。

凡天下國家有九經。所以行之者一也。凡事豫則立、不豫則廢。言前定則不跲、事前定則不困、行前定則不疚、道前定則不窮。

凡そ天下國家を為むるに九經有り。之を行う所以の者は一なり。凡そ事は豫めすれば則ち立ち、豫めせざれば則ち廢す。言、前に定まれば則ち跲(つまづく)かず。事、前に定まれば則ち困まず、行、前に定まれば則ち疚しからず、道、前に定まれば則ち窮せず。

<語釈>
○「跲」、鄭注:「跲」は「躓」(チ、つまづく)なり。○「行」、行為の行か、行游の行か、説は分かれるが、前に「事」について、下に「道」について述べられているので、ここでは行為よりも、行くの意に解釈するほうが妥当であるように思うので、遠方に旅をする場合と解釈しておく。○「疚」、鄭注:「疚」は「病」なり。

                 第十八節
前節で述べたように、事前の準備をして事を進めようとしても、自分の行政上の位が低く、上からの信任を得られなければ、人民の支持を得て、人民を治めようとしても、治めることは出来ない。そこで本当に政治の九つの法則を実践しようとするならば、上位者の信任を得なければならない。その為には上位者に阿り諂って気に入られるのでなく、先ず自分自身が修めなければならない道が有る。それは先ず徳を修めて友達に信用されることであり、そうでなければ上位者からの信任を得ることは出来ない。そして友達から信用されるには、一定の道が有る。それは親に素直であることであり、親に素直でなければ、友達から信用を得ることは出来ない。その為には親を養うだけでなく、一定の道が有る。それは親に仕えても日々反省し、誠を以て親に仕えることであり、そうでなければ親に素直であるとはいえないのである。そして自分自身を誠にするには、その為の一定の道が有る。それは何が善であるかを正しく認識し、善惡を明らかにし、惡を排除し善を行うことに務めなければ、自分自身に誠を備えることはできないということである。

在下位不獲乎上、民不可得而治矣。獲乎上有道。不信乎朋友、不獲乎上矣。信乎朋友有道。不順乎親、不信乎朋友矣。順乎親有道。反諸身不誠、不順乎親矣。誠身有道。不明乎善、不誠乎身矣。

下位に在りて上に獲られざれば、民得て治む可からず。上に獲らるるに道有り。朋友に信ぜられずば、上に獲られず。朋友に信ぜらるるに道有り。親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。親に順なるに道有り。諸を身に反して誠ならずば、親に順ならず。身を誠にするに道有り。善に明らかならざれば、身に誠ならず。

<解説>
第十七節では、国家を治めるには九つの原則があり、その原則を実行するためには、事前の準備が必要であると説かれた。そして第十八節では、いかに準備を整えて、九つの原則を実践しようとしても、上位者から信任されていなければ国家を治めることはできないと述べ、その為には自分自身が誠を備えなければならないと結論付けている。「誠」と言う概念は、第一節の解説でも触れているが、『大学』、『中庸』の一つの柱であり、取りも直さず儒教の中心的命題の一つである。辯説利口にして非を飾ることを退けて、誠心を備えることは、国家を治めるだけでなく、人間として極めなければならない課題である。