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『史記』孝景本紀

2017-12-31 10:16:52 | 四書解読
孝景本紀

孝景皇帝は、孝文の中子なり。母は竇太后なり。孝文、代に在る時、前の后に三男有り。竇太后、幸を得るに及び、前の后死し、及び三子も更々死せり。故に孝景立つことを得たり。
元年四月乙卯、天下に赦す。乙巳(乙巳は乙卯の十日前にあたるので、衍文)、民に爵一級を賜う。五月、田の半租を除く(孝文帝十三年に租税を除いているので、この「除」は妥当でない。中井履軒により、半租を出させたと解す)。孝文の為に太宗廟を立つ。群臣をして朝賀することを無からしむ。匈奴に代に入る。與に約して和親す。
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『孟子』巻第七離婁章句上 八十一節、八十二節、八十三節

2017-12-28 10:15:54 | 四書解読
八十一節

孟子は言った。
「高位にある人間がつまらない人物だとしても、それを責めるには及ばない。政治が悪いからと言ってその一つ一つを非難するには及ばない。大切な事は君主の誤りを正すことであり、それは徳を修めた優れた人物のみが出来ることである。君主が仁愛深ければ、国じゅうは皆仁愛深くなる。君主が義を重んずれば、国じゅうは皆義を重んずるようになる。君主が正しければ、国じゅうは皆正しくなる。このように一旦君主の心を正しく導けば、国はよく治まるものだ。」

孟子曰、人不足與適也。政不足間也。惟大人為能格君心之非。君仁莫不仁、君義莫不義、君正莫不正。一正君而國定矣。

孟子曰く、「人は與に適むるに足らざるなり。政は間するに足らざるなり。惟だ大人のみ能く君の心の非を格すことを為す。君、仁なれば仁ならざること莫く、君、義なれば義ならざること莫く、君、正しければ正しからざること莫し。一たび君を正しくすれば、國定まる。」

<語釈>
○「人不足與適也」、趙注:「適」は「過」なり、時に皆小人位に居るも、過ちを責むるに足らざるなり。「適」は“せめる”と訓ず。○「閒」、趙注:「閒」は「非」なり。非難すること。○「格」、趙注:「格」は「正」なり。

<解説>
不適切な役人やよくない政治が行われているのは、取り立てて責めるには及ばない、君主の心を正しく導くことが、国を治める根本であると述べている。儒教の徳治主義である。今の我々からすれば異論のある所だろう。

八十二節

孟子は言った。
「思ってもいなかった名誉を得ることも有れば、完全を期していても反って非難を受けることがある。」

孟子曰、有不虞之譽。有求全之毀。

孟子曰く、「虞らざるの譽れ有り。全きを求むるの毀(そしり)有り。」

<解説>
自分に対する世間の評価は、自分が思っているのと違うことがある。だからそのような者に右往左往せずに、自分が信じる正しい道を行っていけばよいということである。趙岐の章指に云う、「君子は行いを正しくし、斯の二者に由らざるなり。」

八十三節

孟子は言った。
「人が軽々しく物を言うのは、責任感がないからだ。」

孟子曰、人之易其言也、無責耳矣。

孟子曰く、「人の其の言也を易くするは、責め無きのみ。」

<解説>
「無責」の解釈については諸説がある。朱注は、人の其の言を輕易する所以の者は、其の未だ失言の責めに遭わざるを以てなりと述べており、人から責められないからだと解釈している。通釈のように、責任感がないと解釈しておくのが無難だろう。

『呂氏春秋』巻第十五愼大覧

2017-12-24 10:44:38 | 四書解読

巻十五 愼大覧

一 愼大

一に曰く。賢主愈々大なれば愈々懼る、愈々彊ければ愈々恐る。凡そ大なる者は、鄰國を小とし、彊き者は、其の敵に勝つなり。其の敵に勝てば則ち怨み多く、鄰國を小とせば則ち患多し。患多く怨み多ければ、國彊大なりと雖も、惡くんぞ懼れざるを得んや、惡くんぞ恐れざるを得んや。故に賢主は安きに於て危きを思い、達せるに於いて窮するを思い、得るに於て喪うを思う。周書に曰く、「深淵に臨むが若く、薄冰を履むが若し。」以て事を慎むを言うなり。桀、無道を為し、暴戻頑貪、天下顫(ふるえる)え恐れて之を患う。言う者同じからず、紛紛分分として(高注:「紛紛」は殽亂なり、「分分」は恐れ恨むなり)、其の情得難し。干辛(高注:干辛は桀の諛臣なり)、威に任せ、諸侯を凌轢(力づくで侵入して踏みにじる)して、以て兆民に及び、賢良鬱怨す。彼の龍逢を殺して、以て群凶(桀に逆らう者たち)を服す。衆庶泯泯(乱れ亡びる)として、皆遠志を有し、敢て直言する莫く、其の生は驚くが若し(高注:「驚」は亂るる貌、民、敢て其の生を保たざるなり)。大臣患いを同じくして、周からずして畔く。桀愈々自ら賢として、過ちを矜り非を善とす。主道重塞し、國人大いに崩る。湯乃ち惕懼(テキ・ク、懼れ憂えること)し、天下の寧からざるを憂え、伊尹をして往きて曠夏(国内が虚ろな状態になっている夏)を視しめんと欲するも、其の信ぜられざるを恐れ、湯由りて親自ら伊尹を射る(高注:夏の伊尹を信ぜざるを恐る、故に由りて言を揚げて、親自ら伊尹を射て、伊尹の罪有りて亡ぐるを示す、夏をして之を信ぜしむ)。伊尹、夏に奔りて三年、反りて亳(ハク、湯の都)に報じて曰く、「桀は末嬉(桀の寵妃)に迷惑し、彼の琬琰を好みて(「琬」(エン)は、角のない圭、「琰」(エン)は、角のある圭であるが、ここでは美人の名))、其の衆を恤えず、衆志堪えず、上下相疾(にくむ)み、民心怨みを積み、皆曰く、『上天恤(あわれむ)まず、夏の命其れ卒きん。』」湯、伊尹に謂いて曰く、「若の我に曠夏を告ぐるは、盡く詩の如し。」湯と伊尹と盟いて、以て必ず夏を滅ぼさんことを示す。伊尹又復た往きて曠夏を視んとし、末嬉に聽く。末嬉言いて曰く、「今昔、天子、西方に日有り、東方に日有り、兩日相與に鬭う,西方の日勝ち、東方の日勝たざるを夢む。」伊尹以て湯に告ぐ。商、涸旱するも、湯猶ほ師を發して、以て伊尹の盟いを信にせんとす。故に師をして東方從りして國の西に出でて、以て進ましむ。未だ刃を接せずして桀走る。之を逐い大沙に至る,身體離散し、天下の戮と為りて、正諫す可からず。後に之を悔ゆと雖も、將た奈何す可き。湯立ちて天子と為るや、夏の民大いに說び、慈親を得たるが如し。朝は位を易えず、農は疇を去らず、商は肆を變ぜず、郼に親しむこと夏のごとし(高注:「郼」(イ)の讀みは「衣」の如し、桀の民、殷に親しむこと夏氏の如くするを言うなり)。此を之れ至公と謂い、此を之れ至安と謂い、此を之れ至信と謂う。盡く伊尹の盟いを行い、旱殃を避けず,伊尹を祖して世世商を享せしむ。武王、殷に勝ち、殷に入るや、未だ轝(輿に同じ)を下りざるに、命じて黄帝の後を鑄に封じ、帝堯の後を黎に封じ、帝舜の後を陳に封ず。轝より下り、命じて夏后の後を杞に封じ、成湯の後を宋に立て、以て桑林を奉ぜしむ(高注:桑山の林は湯の禱る所なり、故に之を奉ぜしむ)。武王乃ち恐懼し、太息流涕す。周公旦に命じて殷の遺老を進めて、殷の亡びし故を問わしめ、又衆の說ぶ所、、民欲する所を問わしむ。殷の遺老對えて曰く、「盤庚(殷の中興の祖)の政を復せんと欲す。」武王是に於いて盤庚の政を復し、巨橋の粟を發し(高注:巨橋は紂の倉の名)、鹿臺の錢を賦し(高注:鹿臺は紂の銭府、「賦」は布なり)、以て民に私無きを示す。拘を出だして罪を救い、財を分かち責(サイ、「債」に通ず)を棄て,以て窮困を振う(高注:「振」は「救」なり)。比干の墓を封じ、箕子の宮を靖んじ、商容の閭を表(表顕)し、士の過ぐる者は趨らしめ、車にて過ぐる者は下りしむ。三日之內,與謀の士は封じて諸侯と為し,諸大夫は賞するに書社を以てし(里は二十五家で、里ごとに社を立てるので、社は里を指し、書社とは社に住んでいる人間を記帳したもので、それを与えることは領土と人民を与えることを意味する)、庶士は政を施(ゆるめる、「弛」に通ず)め賦を去る。然る後に河を濟り、西に歸りて廟に報ず。乃ち馬を華山に税き(高注:「税」は「釋」なり)、牛を桃林に税き、馬は復た乘らず、牛は復た服せしめず。鼓旗甲兵に釁し、之を府庫に藏し、終身復た用いず。此れ武王の德なり。故に周の明堂は外戶閉じず、天下に藏せざるを示すなり。唯だ藏せざるのみならんか、以て至藏を守る可しとなり。武王、殷に勝ち、二虜を得て焉に問いて曰く、「若の國に妖有るか。」一虜對えて曰く、「吾が國に妖有り。晝星を見て、而して天、血を雨らせたり。此れ吾が國の妖なり。」一虜對えて曰く、「此れ則ち妖なり。然りと雖も、其の大なる者に非ざるなり。吾が國の妖、甚だしく大なる者は、子は父に聽かず、弟は兄に聽かず、君令は行われず、此れ妖の大なる者なり。」武王、席を避けて之を再拜す。此れ虜を貴ぶに非ざるなり、其の言を貴ぶなり。故に易に曰く、「愬愬(おそれる貌、恐る恐る、用心深さを表している)として虎の尾を履む、終に吉なり。」趙襄子、翟を攻め、老人・中人(共に城の名)に勝つ。使者をして來たりて之に謁せしむ。襄子方に食し、飯を摶して憂色有り(「摶」(タン)はまるめること、飯を食べずに丸めている事)。左右曰く、「一朝にして兩城下る,此れ人の喜ぶ所以なり。今、君憂色有るは何ぞや。」襄子曰く、「江河の大なるや、三日に過ぎず(黄河が溢れても三日を過ぎない)。飄風暴雨、日中須臾ならず(はやて暴雨もすぐに終わる)。今趙氏の德行、積む所無きに、一朝にして兩城下る。亡ぶること其れ我に及ばんか。」孔子之を聞きて曰く、「趙氏は其れ昌えんか。」夫れ憂うるは昌ゆるを為す所以なり。而して喜ぶは亡ぶるを為す所以なり。勝つは其の難き者に非ざるなり。之を持するは其の難き者なり。賢主は此を以て勝つを持す。故に其の福は後世に及ぶ。齊・荊・吳・越皆嘗て勝てり。而れども卒に亡を取るは、勝ちを持するに達せざればなり。唯だ有道の主のみ能く勝ちを持す。孔子の勁き(高注:「勁」は「彊」なり)、國門の關を舉ぐれども、肯て力を以て聞こえず。墨子の守攻を為すや、公輸般服せしも、肯て兵を以て加えず。善く勝ちを持する者は、術を以て弱きを彊くするなり。

二 權勳

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『孟子』巻第七離婁章句上 七十九節、八十節

2017-12-18 11:03:52 | 四書解読
七十九節

公孫丑は言った。
「君子といわれる徳の高い人でも自分の子供は教えないと聞きますが、それはなぜですか。」
孟子は言った。
「それは自然のなりゆきで、うまくゆかないからだ。教える者は必ず正しい道を教えようとするものだが、子供がそれに従わないと、しかりつけることになる。子供を善道に導こうとして教えて入ながら、それが出来ないからと言ってしかりつけるようでは、反って子供を傷つけることになる。子供の方も、お父様は私に正しい道をお教えになるけれど、お父様もその正しい道が行われていない、と考えるのが自然のなりゆきだ。これでは親子互いに傷つけあうことになる。親子が互いに傷つけあうことはよくない事だ。だから昔は、子供を取り換えて教えたのである。父子の間では善の実行を求めて責めるものではない。それを責めれば親子の心が離れてしまう。親子の心が離れてしまっては、これ以上の不幸はないのである。」

公孫丑曰、君子之不教子、何也。孟子曰、勢不行也。教者必以正。以正不行、繼之以怒。繼之以怒、則反夷矣。夫子教我以正,夫子未出於正也。則是父子相夷也。父子相夷則惡矣。古者易子而教之。父子之間不責善。責善則離。離則不祥莫大焉。

公孫丑曰く、「君子の子を教えざるは、何ぞや。」孟子曰く、「勢い行われざればなり。教うる者は必ず正を以てす。正を以てして行われざれば、之に繼ぐに怒りを以てす。之に繼ぐに怒りを以てすれば、則ち反って夷(そこなう)う。『夫子、我に教うるに正を以てするも、夫子未だ正に出でざるなり。』則ち是れ父子相夷うなり。父子相夷えば、則ち惡し。古は、子を易えて之を教う。父子の間は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば則ち不祥、焉より大なるは莫し。」

<解説>
古は、子を易えて之を教う。これは昔も今も変わらない。親が子供を教えると、とかく感情的になり、子供も反抗的になる。このことは無下に否定することはない。これこそが親子の情である。


八十節

孟子は言った。
「仕えることでは、何に仕えるのが一番大切であるか、それは親に仕えることである。守ることでは、何を守るのが一番大切であるか、それはわが身を守って不義に陥らないことである。わが身を不義に陥らないように守って、親に善く仕える者は聞くが、不義に陥っていて、親に善く仕える者は聞いたことがない。仕える人は沢山いるが、誰に仕えるのが本当に仕えていると言えるか、それは親であり、親に仕えることは仕えるということの根本である。誰を守るのが本当の守りだと言えるか、それはわが身であり、我が身を守って不義に陥らないようにするのが、守りの根本である。孝で有名な曾子が父の曾皙に仕えたときは、食膳には必ず酒と肉とを供え、膳を下げるときは必ず『残りは誰にやりましょうか』と尋ねた。又余分にまだあるかと尋ねられたら、たとえなかったとしても必ず『ございます』と答えたそうだ。曾皙が死ぬと、今度は子供の曾元が曾子を養うことになったが、食膳には必ず酒と肉とを供えたものの、膳を下げるとき『残りは誰にやりましょうか』と尋ねもせず、余分に有るかと尋ねられると、たとえ有ったとしても、『ございませんが、お望みならば今からお作りしましょう』と答えたそうだ。これは飲食の欲を満足させるだけのお世話であり、曾子の場合は、親の心を満足させる養いということが出来る。親への仕え方は、曾子のようにするのが良いのだ。」

孟子曰、事孰為大。事親為大。守孰為大。守身為大。不失其身而能事其親者、吾聞之矣。失其身而能事其親者、吾未之聞也。孰不為事。事親、事之本也。孰不為守。守身、守之本也。曾子養曾皙、必有酒肉。將徹、必請所與。問有餘、必曰有。曾皙死。曾元養曾子、必有酒肉。將徹、不請所與。問有餘、曰亡矣。將以復進也。此所謂養口體者也。若曾子、則可謂養志也。事親若曾子者可也。

孟子曰く、「事うること孰れか大なりと為す。親に事うるを大と為す。守ること孰れか大なりと為す。身を守るを大と為す。其の身を失わずして、能く其の親に事うる者は、吾之を聞けり。其の身を失いて能く其の親に事うる者は、吾未だ之を聞かざるなり。孰れか事うると為さざらん。親に事うるは、事うるの本なり。孰れか守ると為さざらん。身を守るは、守るの本なり。曾子、曾皙を養うに、必ず酒肉有り。將に徹せんとすれば、必ず與うる所を請う。餘り有りやと問えば,必ず有り、と曰う。曾皙死す。曾元、曾子を養うに、必ず酒肉有り。將に徹せんとするも、與うる所を請わず。餘り有りやと問えば、『亡し。將に以て復た進めんとするなり』と曰う。此れ所謂口體を養う者なり。曾子の若きは、則ち可志を養うと謂う可きなり。親に事うること、曾子の若き者は可なり。」

<語釈>
○「守身」、趙注:身を守るとは、不義に陥らざらしむるなり、不義ならば、何ぞ能く父母に事うるや。○「曰亡矣。將以復進也。」、曰くが、どこまでかかるかで、説が分かれている。朱子は曰亡矣。までで、下句は説明文と見ている。焦循は、「將以復進也。」まで曰くの内容としている。これを採用して解釈しておく。

<解説>
趙岐の章指に云う、
「上孝は志を養い、下孝は體を養う、曾參の親に事うること、至と謂う可し、孟子、之を言うは、後人をして曾子に則らしめんと欲するなり。」

『史記』孝文本紀

2017-12-12 10:48:51 | 四書解読
孝文本紀

孝文皇帝は、高祖の中子なり(高祖の子は八人、孝文帝は第四子)。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。位に即きて十七年、高后八年七月、高后崩ず。九月、諸呂・呂產等、亂を為さんと欲し、以て劉氏を危うくす。大臣共に之を誅し、謀りて召して代王を立つ。事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等、人をして代王を迎えしむ。代王、左右・郎中令張武等に問う。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故と高帝の時の大將にして、兵に習い、謀詐多し。此れ其の意を屬すること(意を配って計画すること)、止(ただに)に此れのみに非ざるなり。特に高帝・呂太后の威を畏れしのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すする)る。此れ大王を迎うるを以て名と為せども、實は信ず可からず。願わくは大王疾を稱して往くこと毋く、以て其の變を觀よ。」
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