なんとなく、ふわっと・・

写真と画像処理関係とひとりごとをなんとなく書き溜めていきたい

日本歴史写真帖 073

2024-04-21 23:38:33 | 日本歴史写真帖



歩兵第三聯隊第一大隊(二個中隊を欠く)青山停車場に於ける鉄道輸送の光景
(明治二十七年九月二十六日撮影)


秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


歩兵第3連隊(ほへいだい3れんたい、歩兵第三聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。駐屯地は
第二次世界大戦後の東京大学生産技術研究所があった場所(現在の国立新美術館・政策研究大学院
大学)。

1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍

1936年まで駐屯していた麻布台の旧兵舎が東京大学生産技術研究所として2000年代まで残っていたが
ほとんどを取壊し、ごく一部が「国立新美術館 別館」として保存されている。


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日本歴史写真帖 072

2024-04-15 22:55:35 | 日本歴史写真帖



明治二十七八年 戦役広島大本営御座所

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


広島大本営(ひろしまだいほんえい、旧字体:廣島大本營)は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の
戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された大本営である。

9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。

洋風建築の木造2階建て、広島城本丸におかれた。1階に大臣室や侍従職室、2階に御座所・御召替所・
侍従長室・軍議室などがあり、御座所は執務室と寝室を兼ね、近くに剣璽が置かれた。

明治天皇はほぼここに留まって深夜まで政務を行い、質素な生活をしていたと伝えられている。この戦争中に
見せた「精力的な活動」「質素な生活」つまり「聖徳」は明治後期における天皇神格化の中で重要なイメージ
戦略として用いられており、例えば当時普通の古びた備品を使う様は戦前の教科書に描かれている。

1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により建物は全て崩壊した(爆心地から約900メートル)。
1948年(昭和23年)、戦後の軍国主義排除の風潮の中で、史跡指定が解除され塗りつぶされた。現在では、
建物の基礎および礎石と、一部文字が消された石碑が残っているのみとなっている。


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日本歴史写真帖 071

2024-04-09 23:45:09 | 日本歴史写真帖



日清戦争当時の広島大本営

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


広島大本営(ひろしまだいほんえい、 旧字体:廣島大本營)は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の
戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された大本営である。

大本営は1893年(明治26年)5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、
日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、
同年8月5日に皇居内に移った。

その後、当時東京を起点とする鉄道(山陽鉄道)網の西端であったこと(広島駅)、また大型船が運用出来る
港(宇品港(現・広島港))が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった。

この時期、1894年10月に招集された第7回帝国議会は広島の広島臨時仮議事堂で開会された(議事堂は
西練兵場内に建設された)。国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、
広島市は臨時の首都の機能を担った。 これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例で
ある。

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日本歴史写真帖 070

2024-04-03 22:28:57 | 日本歴史写真帖



明治三十六年露国クロバト将軍渡来 陸軍士官学校に於て撮影 中央クロバト将軍 其左津野大将 其右寺内大将 其右田中中将

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(Алексе́й Никола́евич Куропа́ткин, Aleksei Nikolaevich Kuropatkin,
1848年3月29日 - 1925年1月16日)は、帝政ロシアの軍人。ロシア帝国陸軍大臣、日露戦争時のロシア満州軍総司令官を
歴任した。

実戦経歴を伴う優れた軍人であるとして評価され、1898年1月にニコライ2世により陸軍大臣に任命される。陸軍大臣時の
1903年、同皇帝の勅命により極東視察のため来日、日本では新築後の芝離宮に国賓として滞在した。事実上の偵察で
あったが、青山練兵場で挙行された観兵式などの歓迎を受けた。日本の軍事力を高く評価、日本との軍事衝突には一貫して
反対していたが、日露戦争開戦直前にロシア満州軍総司令官に任命され日本軍と直接対決する事となる。しかし実戦指揮
能力や決断力・判断力に乏しく日本軍に連戦連敗し、奉天会戦に敗北した責任を取らされロシア満州軍総司令官を罷免され
第1軍司令官に降格される。

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日本歴史写真帖 069

2024-03-28 22:17:23 | 日本歴史写真帖



元老 松方候の家庭 (日本第一の子福者 七十余人の子ありと云う)

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日〈1835年3月23日〉- 大正13年〈1924年〉7月2日)は、
日本の政治家、財政家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。
号は海東。

明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに、大蔵卿(第6代)、大蔵大臣
(初・第3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として
財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学
協会名誉会員。第2代日本赤十字社社長。

松方は女好きで、早世した2男も含めて15男11女の26子をもうけた。ある日、明治天皇から何人子供が
いるのかと尋ねられたが、咄嗟に思い出せず「いずれ帰宅、調査の上、奉答仕りまする(後日、調査の
上、報告申し上げます)」と奏上した逸話もある。


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日本歴史写真帖 068

2024-03-22 21:56:19 | 日本歴史写真帖



其暗殺者 伊庭 想太郎(獄死)  明治三十四年六月東京市会議事堂に暗殺されたる星 亨氏

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日〈1850年5月19日〉 - 明治34年〈1901年〉6月21日)は、
日本の英学者、弁護士、政治家。

日清戦争後、韓国の法律顧問に就任し、1896年(明治29年)には駐米公使に就任。1898年
(明治31年)に憲政党内閣(隈板内閣)が誕生すると帰国して憲政党を分裂させ、1900年
(明治33年)に伊藤博文とともに立憲政友会を結党した。同年の第4次伊藤内閣で逓信相と
して初入閣したが、東京市疑獄事件の中心人物と目され辞職。1901年(明治34年)、伊庭
想太郎に刺殺された。

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伊庭 想太郎(いば そうたろう、1851年(嘉永4年)10月 - 1907年(明治40年)10月31日)は、
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての教育者(私塾文友館館長)、剣術家(心形刀流剣術
第10代)にして、政治家星亨を殺害した殺人犯である。幼名は、亥朔(いさく)。

明治34年(1901年)6月21日、前逓信大臣で政治家の星亨を公衆の面前で暗殺した。刺殺後、
天下のためであると怒号を上げて、持参した斬奸状なる書状を読み上げたという。

無期徒刑となり、明治35年(1902年)4月24日小菅監獄に入獄し、明治40年(1907年)に胃ガンの
ため病死した。

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日本歴史写真帖 067

2024-03-16 23:19:33 | 日本歴史写真帖



明治二十三、四年頃 世を騒がせし相馬事件被告 今大臣 後藤男爵 及び 錦織剛清 世は様々哉

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


相馬事件(そうまじけん)は、明治年間に起こったお家騒動の一つ。最後の相馬藩主相馬誠胤が
精神病者として自宅座敷牢に監禁されたことに端を発した騒動で、1883年から1895年まで法廷で
争われた。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ
大きな影響を与えた。

経緯

旧中村藩主、相馬誠胤の統合失調症(推定)の症状が悪化したため、1879年に家族が宮内省に
自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神科病院に相当)へ入院させた。

1883年、旧藩士の錦織剛清が主君の病状に疑いを持ち、家督相続を狙った異母弟家族による不当
監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら相馬家の家宰たちを告発したことから事件が
表面化した。告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。当時は精神病の
診断も未熟であり、高名な大学教授らによる精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との
判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。

1887年、相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に錦織が侵入、誠胤の身柄の奪取に一旦は成功する
ものの、1週間で逮捕された。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁錮処分を受けるとともに、偏執的な
行動が批判を受ける。1892年、誠胤が病死した。錦織はこれを毒殺によるものとして、翌1893年に
再び相馬家の関係者を告訴し、遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとした。しかし最終的に、死因が
毒殺とは判定できなかった。

1895年、錦織が相馬家側より誣告罪で訴えられ、後に有罪が確定し、事件は収まりを見せた。医師
として錦織を支持していた後藤新平(当時内務省衛生局長)も、連座して5か月間にわたって入獄
したが、証拠不十分で不起訴となった。

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日本歴史写真帖 066

2024-03-10 23:38:00 | 日本歴史写真帖



滋賀懸大津事件帯勲車夫 北賀市市太郎君と向畑治三郎君


秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・
ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺
未遂事件である。

当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復され
かねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上
重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となったが収監の翌々月に死亡した。日本政府内では外務大臣・
青木周蔵と内務大臣・西郷従道が引責辞任し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した

人力車夫
向畑 治三郎(むかいはた じさぶろう、1854年? - 1928年)
北賀市 市太郎(きたがいち いちたろう、安政6年12月3日〈1859年12月26日〉- 1914年〈大正3年〉11月3日)

この事件で津田を取り押さえるという功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦
に招待された。この際、ニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこでロシア
軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算で
おおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた。
当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と
呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。



ニコライ(後のニコライ2世)


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日本歴史写真帖 065

2024-03-04 22:50:40 | 日本歴史写真帖



警察の創始者川路大警視   近時の井上候

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日〈1836年1月16日〉 - 大正4年〈1915年〉9月1日)は、
日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。

太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では
内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に
多大な影響を与えた。

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川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、
日本の警察官・陸軍軍人。幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視(後に旧警視長を
経て現在の警視総監)、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。

初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の
警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、
警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた。

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日本歴史写真帖 064

2024-02-27 22:20:27 | 日本歴史写真帖



狙撃者来島恒喜  条約改正問題に付狙撃せられたる外務大臣大隈伯

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日〈1838年3月11日〉- 大正11年〈1922年〉1月10日)は、
日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。

参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)
内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立
評議会会長。同志社大学社友。

通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制
推進。

早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における
女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。立教大学の発展にも携
わった。

明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃
(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。

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来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 - 1889年〈明治22年〉10月18日)は、
日本の右翼活動家、不平士族、テロリスト。筑前共愛公衆会・玄洋社元社員。条約改正に絡む外国人
司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画して1889年10月18日に
決行におよび、大隈に爆弾を投げつけて右脚切断の重傷を負わせ、自身はその場で自害した。

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日本歴史写真帖 063

2024-02-21 22:21:01 | 日本歴史写真帖



右暗殺者西野文太郎 xxxせられたる文部大臣森有禮君

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


森 有礼(もり ありのり、旧字体: 森 有禮、1847年8月23日(弘化4年7月13日) - 1889年(明治22年)2月12日)は、
日本の政治家、外交官、思想家、教育者。通称・助五郎、金之丞。栄典は贈正二位勲一等子爵。

第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により大日本帝国期の教育制度を確立した。また明六社、
商法講習所(一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院(日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に
数えられる。

明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・
西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。

当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足
厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではない
のかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは
定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると
書き残している。

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西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、
日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。

1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に
参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた)という報道が行なわれる。この事件については、
事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと
考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた
森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の
護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。

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日本歴史写真帖 062

2024-02-15 23:06:36 | 日本歴史写真帖



明治二十年十二月廿六日 保安条例違犯入獄者

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

保安条例(ほあんじょうれい)は、1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された勅令である
(明治20年勅令第67号)。全7条。1898年6月25日、保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)
により廃止されたが、同法の機能は集会及政社法(明治26年4月14日法律第14号)に、労働運動の
規制という新たな機能を付加した上で、2年後の1900年3月10日に制定された治安警察法によって
発展的に引き継がれた。

自由民権運動を弾圧するための法律で、治安警察法や治安維持法と列んで戦前日本における
弾圧法の一つ。集会条例同様、秘密の集会・結社を禁じた。また、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害を
する恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)
以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。これにより退去を命じ
られた者は、12月26日夜から28日までに総計570人と称されている

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武市 安哉(たけち あんさい/やすや、弘化4年4月1日(1847年5月15日) - 明治27年(1894年)12月2日)は、
土佐藩出身の明治時代の日本の政治家であり、北海道を開拓した人物の一人である。

土佐勤王党を結成した武市半平太や、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬の親戚である。

1887年(明治20年)12月、三大事件建白で、片岡健吉、坂本直寛と共に京橋警察署に保安条例
違反で逮捕される。その後、警視庁に送られ、東京地方裁判所で軽禁固2年6か月の判決を受けて、
石川島監獄に投獄される。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法の発布にあたり大赦により出獄し、
故郷に帰る。

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日本歴史写真帖 061

2024-02-09 22:13:22 | 日本歴史写真帖



明治二十年二月十一日 憲法発布式 桜田門外の装飾

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、
旧字体: 大日本帝󠄁國憲󠄁法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)
11月29日に施行された日本の憲法 。

略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。また、
現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。

東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正される
ことはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の
審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)
11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、
1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日
(20,608日)である。

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日本歴史写真帖 060

2024-02-03 21:14:41 | 日本歴史写真帖



右 板垣伯  左上 右 板垣伯の青年時代 左 相原尚褧
左下 板垣伯岐阜遊説中狙撃せられ負傷したる血痕付着の衣類

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 -
大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督)、武士(土佐藩士)。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し
「国会を創った男」として知られる。伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、
常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。神道の立場から理神論を唱えた。

岐阜遭難事件
明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、
板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ
死セン」と言い 、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でござい
ましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語って
いる。

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相原 尚褧(あいはら なおふみ、1854年頃 - 1889年頃)は、明治時代の士族、小学校教員。1882年
(明治15年)4月6日、全国遊説中の自由党総理(党首)・板垣退助の殺害を図ったことで知られている
(岐阜事件)。

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わたしにとって「板垣退助」と言えば、百円札の人である。その特徴的な髭の生え具合は記憶に強く
残っている。また、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、百円札を見ながら親が教えて
くれたことが思い出される。この百円札は1953年には発行され、1974年に発行停止された。


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日本歴史写真帖 059

2024-01-28 22:11:06 | 日本歴史写真帖



明治十六年頃の自由党員の集団 大井憲太郎 河野広中 伊藤仁太郎 花香恭二郎 の諸氏

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、
日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、
馬場城二郎、馬城山人。

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河野 広中(こうの ひろなか、1849年8月24日(嘉永2年7月7日) - 1923年(大正12年)12月29日)は、
日本の武士(三春藩士)、政治家。第11代衆議院議長。磐州と号した。福島県庁前に「河野磐州翁」の
銅像が立っている。

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福島事件(ふくしまじけん)は、自由民権運動のなかで1882年(明治15年)、県令三島通庸が会津三方
道路工事事業に反対する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件。喜多方事件も含んでいう。民権激化
事件のひとつ。

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