スポーツ記録箱

スポーツの記録や用語、人物からランキング等を独自視点で分かりやすく解説!スポーツ観戦のための「スポーツ記録箱」登場!

阿波野 秀幸

2010-08-29 11:23:53 | 名選手列伝
阿波野秀幸(プロ野球)

1964年東京都大田区蒲田生れ

高校まではあまり目立つ存在ではなかったが、東都の名門亜細亜大学に進んでから台頭。
東都リーグ歴代4位の32勝を挙げた。

ドラフトではバファローズ、オリオンズ、ジャイアンツが競合し、バファローズが交渉権を得た。

1年目からエースとして活躍。
いきなり3完封を含む15勝を挙げた。
またリーグ最多の201三振を奪い、同じ15勝を挙げた西崎をかわして新人王を獲得した。

89年には19勝を挙げて最多勝を獲得。
球界を代表する投手に成長したが、その年の日本シリーズでの投球をピークに低迷。
その後セ・リーグに移籍するが復活する事はなかった。

鈴木啓と野茂という強烈で怪物的なエースの間の期間に活躍したが、印象の強さは決して二人に負けるものではなかった。




1984年

2010-08-25 16:30:58 | スポーツとその時代
スポーツとその時代⑨ 1984年

●社会全般
この年は日本中を震撼させる事件が起こった。
江崎グリコの社長が何者かに誘拐される。グリコ森永事件の始まりである。
その後、菓子に青酸カリを入れるなどし食品会社の脅迫が連発し日本中が安全性に不安を持つ。

一方でスペースシャトルディスカバリーが初の打ち上げに成功。
コアラがオーストラリアから6頭贈られるなど明るいニュースもあった。

世界を見渡すとアメリカはレーガン大統領が再選、ソ連は最高指導者であるアンドロポフが死去、新時代に突入する。

また冒険家植村直己がマッキンリーの単独登頂に成功するが下山時に消息不明になった。

なお、マッキントッシュが発売されたのもこの年である。


●スポーツ界では
オリンピックのスタイルを変えたと言われるロス五輪が行われた。
カール・ルイスが4冠を獲得し、世界的スーパースターとしての地位を確立した。
日本勢では、柔道の山下泰裕が怪我をおして金メダルを獲得、国民栄誉賞を受賞した。
期待されたマラソンの瀬古は体調を崩し14位に終わった。
日本勢は柔道、体操を中心に10個の金メダルを獲得した。

プロ野球ではブレーブスのブーマ・ウエルズが外国人選手として初の三冠王を獲得。
そのブーマのいるブレーブスがリーグ優勝し、日本シリーズで広島カープと対戦した。
シリーズでは、ブーマーの弱点を徹底して突いたカープが3度目の日本一に輝いた。

高校球界では前年に衝撃のデビューをしたPL学園の桑田、清原のコンビが活躍するが、春夏ともに準優勝に終わる。
センバツは初出場の岩倉高校、夏は取手二が優勝。共に自由を打ち出したチームの優勝だった。

大相撲では、蔵前国技館が秋場所を最後に閉館した。
この場所で、ハワイ出身の小錦が大活躍。あわや優勝まで迫ったが、平幕の多賀竜がまさかの快進撃を見せ初優勝した。
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10.19川崎劇場(ロッテ・オリオンズVS近鉄バファローズ)

2010-08-25 10:32:58 | 名勝負物語
名勝負物語⑧
1988年10月19日
プロ野球公式戦
ロッテ・オリオンズVS近鉄バファローズ

バファローズがリーグ優勝をかけ、オリオンズと対戦したダブルヘッダー。
ライオンズとバファローズの大激戦のペナントレースは、10月16日にライオンズが全日程を終了。
この時点でライオンズが 73勝51敗6分で 勝率.589
一方、バファローズは  72勝51敗3分で 勝率.585 4試合を残していた。

バファローズが優勝するには3勝1敗が必要であったが、9月からの勢いからすると全勝も夢ではない状況で、バファローズの逆転優勝の可能性が俄然強まっていた。

しかし長年関西地区のライバルであったブレーブスとの対戦に破れ、残り3試合全勝が必須となったバファローズは、18日オリオンズに12-2で圧勝。
翌日のダブルヘッダーに連勝すれば優勝と言うとところまで来た。


初回にロッテ愛甲猛が小野の失投を捉え2ラン本塁打で2点を先制。近鉄は小川の前に4回までパーフェクトに抑えられるが、5回表に鈴木貴久のソロ本塁打で1点を返す。7回裏・ロッテ、四球2つなどで2死一・三塁のチャンス。佐藤健一がセンター前に放った打球はダイビングキャッチを試みる鈴木の前に弾みタイムリー二塁打、1点を追加、再び2点リードとなる。8回表・近鉄、鈴木のヒットと代打・加藤正樹の四球で1死一・二塁。この場面、近鉄ベンチは代打・村上隆行を送る。村上の打球はレフトフェンスを直撃する2点タイムリー二塁打で3-3の同点。同点のまま9回表を迎える。当時のパ・リーグは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし。9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの9回表に勝ち越さなければならなかった。

その9回表1死、淡口憲治がライトフェンス直撃の二塁打で出塁。代走に佐藤純一が送られた。ここでロッテはリリーフの牛島和彦を投入した。続くこの日2安打の鈴木が牛島からライト前に安打を放つ。三塁コーチ・滝内弥瑞生は本塁突入を指示したが、打球が強すぎ、前進守備を強いていたため佐藤は三本間に挟まれ、捕手小山昭晴にタッチされ、2アウトになった。なお、このランダウンプレーの間に鈴木は二塁に進塁している。

ここで近鉄・仰木彬監督はこの年での引退を決めていた梨田昌孝を代打に送る。またロッテは捕手を小山から袴田英利に交代した。一塁が空いており、敬遠もありえる状況だったが、牛島は梨田との勝負を選んだ。カウント0-1からの二球目、梨田の打球は牛島の内角高め直球に詰まりながらもセンター前に落ちるヒット。二塁走者の鈴木は三塁を回り本塁へ。センターから返球がダイレクトに届き、クロスプレーとなるも、鈴木は捕手袴田のタッチをかいくぐりながら横っ飛びでホームに滑り込む。球審・橘は両腕を開いてセーフの判定。4-3、勝ち越しに成功した
9回裏、ストッパーの吉井がボールが続いたところで、エース阿波野。満塁のピンチを招くが何とか逃げ切り第2試合に優勝がかかる。

3対3で迎えた8回に怪物ブライアントが34号を放ち勝ち越し。
第1試合に続阿波野をマウンドに送った。
しかし高沢に本塁打を浴び、再び同点に追いつかれる。

同点で迎えた9回裏、マリーンズの攻撃。
先頭打者古川慎一がヒットで出塁。続く袴田英利の送りバントを阿波野、梨田が一瞬譲り合ったため慌てて交錯、内野安打となり無死一・二塁。
ここで阿波野は二塁へ牽制球を投じる。この球が高めに浮き、それを大石がジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川と交錯しながらもタッチしにいく。その際、古川の足が二塁ベースから離れたとして、新屋晃二塁塁審はアウトを宣告した。

ここで球史に残る愚公とされるオリオンズ有藤道世監督の抗議が始まる。走塁妨害走塁妨害を主張した。
この当時は、延長は時間で区切られていた。
引き分けも許されないバファローズは1分でも時間が欲しい。
この抗議がなされた時点で試合時間は既に残り30分を切っていた。
近鉄ベンチから仰木が飛び出し有藤に迫り、客席からもの罵声や怒号が飛び交う等、騒然となる中、9分間の抗議がなされた。その後ロッテは2死満塁、打者の愛甲猛が放ったレフト前への詰まった飛球をレフト淡口憲治が猛ダッシュして地面すれすれでダイレクトキャッチしピンチを切り抜けた。

結局10回を戦い引き分け。
優勝はライオンズのものとなった。
試合後、涙ながらにファンに手を振ったバファローズナインの姿は忘れられない。

翌年、ライオンズとバファローズは再びデットヒートを繰り広げる。





「あ」行⑥

2010-08-25 08:38:19 | 大相撲大事典
「あ」行⑥

あずかり(預かり)
 物言いがつき、判定が紛糾した場合などに、勝負を協会預かりとするケースがかつてあった。
引き分けとhんていされる場合と、協会がのちに勝敗を決めるケースとあり、協会がのちに決めるケースは「協会さばき」と言われた。
のんびりした時代の産物である。

あずまふじきんいち(東富士謹一)
 第40代横綱。
東京都台東区出身の江戸っ子で人気があった高砂部屋の力士。慎重179cm、体重157キロと言う当時としては巨体を生かした寄り身が持ち味で、千代の山や栃若と同時代に活躍した。
引退後は力道山の影響もありプロレスに転向したが、あまり活躍できずに不遇な晩年であった。

あにでし(兄弟子)
 相撲界では番付に関係なく入門の後先で順番が決まり、早いほうが兄弟子である。
稽古をつけてもらうという面はもちろんあるが、暇だと雑用をさせられたり苛められたりと厄介な存在。
人偏に無理と書いてあにでしと読むととも言われる。

あぶらせん(油銭)
 力士が髪を結ってもらった時に床山に支払う心づけのこと。
このシステムが床山を下に見る要因の一つとなっている。

あまよこづな(アマ横綱)
 学生と社会人の頂点を決める全日本相撲選手権のチャンピオンのこと。
長岡(大関朝潮)、服部(藤ノ川)、成松(智の花)、尾曽(大関武双山)、田宮(大関琴光喜)、加藤(高見盛)などがアマチュア横綱で、当然角界入りが期待される。

あらきだ(荒木田)
 東京都荒川区町屋・尾久周辺の粘土質の土。
粘りがあって乾燥が速いので、土俵作りに使用するのに適正と言われる。現在は千葉県の我孫子や茨城県の筑波などの土が使われている。

桑田強行指名

2010-08-19 06:13:50 | 事件の真相
事件の真相(スポーツ編)⑧ 桑田強行指名



【桑田事件】

PL学園で2度の全国制覇を成し遂げたPL学園の4番清原和博は10年に一人のスラッガーとしてプロ各球団の注目を集めていた。

本人は「巨人以外には行かない」とジャイアンツ入りを熱望。

ジャイアンツの王監督も氏名を匂わすような発言をしていた。

同僚のエース桑田真澄はプロには行かず早稲田大学進学を表明。

しかし疑心暗鬼の各球団は桑田を説得に行くがいずれも門前払い。各球団は諦めて、清原、伊東昭光、長富のビック3に指名を集中させた。

注目の当日、清原の熱望するジャイアンツの1位指名は清原ではなく桑田であった。

【密約説】

徹底した桑田のプロ入り拒否は、既に密約が出来上がっていたからだという説が翌日のスポーツ紙を中心に流布された。

清原は親友に騙され、大人の世界に翻弄された。

このような論調が飛び交い、指名した王と共に桑田は一躍悪役に仕立て上げられた。



清原同情論が流れ、監督や部長も桑田は早稲田に行くだろうし早稲田に入るべきだという主旨の発言をし、一時は中村監督辞任表明にまで発展する。

本人も早稲田行きを明言していた。



しかし桑田は高輪プリンスで記者会見を行い、ジャイアンツ入りを表明する。

事件の真相 桑田強行指名

【真相】

桑田の断固拒否、王の冷静な態度、そして中村監督の辞任表明(のちに撤回)などがあまりに出来すぎていることからマスコミは密約説を確信し、清原本人も密約を信じていた節がある。


現にジャイアンツとの日本シリーズで日本一を前にし、守備位置の一塁ベースで号泣した。

結論から言えば、これはジャイアンツサイドの強硬策が成功したものと思われる。

王が桑田と共謀し清原を騙すような人物とは到底思えないし、桑田もいくらクレーバーとは言え高校生である。

中村監督の辞任表明も早稲田に対し、PL→早稲田ラインが切れないためと言うより、ジャイアンツサイドのあまりの強硬に腹を立てたということだろう。

このような強行指名は、それまでも何度もありスカウト仲間ではさほど珍しいことではなく、江川卓や木田勇、工藤公康、元木大介、福留孝介、城島健司など数多い。

実際、この年の清原は入団しているし、工藤の時も父親が球団に激怒しながら結局希望の熊谷組に入らずライオンズ入りしている。

慶応の志村亮や日本生命で活躍した杉浦正則のようにプロでのプレーを希望していないケースは別として、最終的にプロ希望、しかも特定球団でのプレーをしていないケースでは落とせるという。

しかも桑田の場合は、ジャイアンツでのプレーを希望していた。

PLか天理に入り、その後早稲田、そしてジャイアンツでプレーするのが夢だった少年。


事前交渉では落とせなくてもどうしても桑田が取りたければ強行指名する。

さほど不思議なことでないと思う。


見たかった選手ベスト10

2010-08-18 11:30:36 | スポーツベスト10
見たかった選手ベスト10

自分が生まれる前、或いは物心がつく前に活躍した選手の話を聞くと自分も見てみたかったと思うのが人情。
そんな選手をランキング!(~1975年)

 1.江川 卓 (高校野球)
 2.大場 政夫(ボクシング)
 3.双葉山  (相撲)
 4.景浦 将 (プロ野球)
 5.江夏 豊 (プロ野球・先発投手)
 6.尾崎 行雄(高校野球)
 7.長嶋 茂雄(プロ野球)
 8.初代若ノ花(相撲)
 9.中西 太 (プロ野球)
10.大下 弘 (プロ野球)
次点.酒井 圭一(高校野球)
別枠.東洋の魔女(女子バレーボール)


そもそもこのランキングを思いついたのは高校野球時代の江川卓を本で読むたびに、それを見れなかったことに非常に悔しさを覚えるからである。
三振を取るのが当たり前、ヒットを打つどころか当たれば歓声が上がる投手。
こんな投手が今後現れるのだろうか。

2位にはボクシングの大場を入れた。
高橋ナオトという逆転の貴公子が80年代にいたが、この世界タイトル版。
首都高で事故死するという劇的な最後も併せてスポーツファンを虜にする選手だろう。
是非、生で見てみたかった。

このランクに入れるのが失礼な気もしたが、双葉山の貫禄はその時代に見なければ分からなかっただろう。

プロ野球でトップはタイガースの景浦将。
機嫌が悪いと自身の近くに打球が飛んできても腕組みをして追わない。
石本監督の日記に「今日も景浦、飛球を追わず、打っても走らず。原因不明。」とある。
監督は大変だったろうが、こんなゾッとする選手は是非見てみたかった。

そして江夏。
抑えとしてのカリスマ的江夏は良く覚えているが、怪物的な先発時代は記憶にない。
オールスターでの9連続三振や自身がサヨナラホームランを打って完封するなど、当代随一のサムライ投手だったことは間違いない。

高校野球からもう一人。
尾崎行雄だ。
江川を除けば松坂を上回って1位と言う評価の快速球は是非見てみたかった。
柴田勲率いる法政二との対決はさぞ面白かっただろう。

そしてミスタープロ野球。
どうも監督時代の胡散臭さと段階世代の過剰な騒ぎから好きになれないが、チャンスの強さなど魅力的な選手ではあったのだろう。

土俵の鬼と言われた若ノ花。
仏壇返しといわれる呼び戻しは見てみたかった。

中西太の超ド級のホームラン、大下の奔放なプレー振り。
西鉄ライオンズは稲尾、豊田と言うサムライを擁した最高に魅力的なチームだったのだろう。

サッシーと言われた江川以来の怪物、酒井圭一と伝説の名投手沢村栄治。
沢村は長嶋同様、G党の過剰評価がありイマイチ素直になれずに酒井を次点とした。

その他、カミソリパンチの海老原やファイティング原田。
水泳の古橋や金田正一も見てみたい選手だ。

また別枠として東洋の魔女と呼ばれた1964年東京五輪での女子バレーボールチームを入れた。
当時の日本全体の活気も体感してみたかった。



日本とスポーツを愛する「スポーツ観戦の達人」
http://ameblo.jp/jfkrfk/

イベンダー・ホリフィールド

2010-08-18 09:13:42 | 名選手列伝
名選手列伝⑦
イベンダー・ホリフィールド(ボクシング)

1962年アメリカ アラバマ州生まれ

1984年にプロデビューし、86年にはWBAクルーザー級のタイトルを獲得。88年に3団体のタイトルを統一。ヘビー級に進出。

当時世界最強と言われたマイク・タイソンのライバルと目されるが、そのタイソンが東京でバスター・ダグラスに敗れると、標的をダグラスに変更し90年ダグラスをKOで下しタイトルを獲得する。

その後フォアマンを破るなど防衛を重ねるが、92年に無敗のリディック・ボウに激戦の末、破れ無冠に。

翌年にボウに雪辱しチャンピオンに返り咲くが、94年にマイケル・モーラーに破れ転落。

その後、ボウとのラバーマッチにダウンの応酬の末、敗れるが、96年に圧倒的不利の下馬評を覆しタイソンをKOで下す。

タイソンとのリマッチやレノックス・ルイスとの戦など激戦、名勝負が多く、常に感動を与えるボクシングスタイルから「リアルディール」の異名を持つ。

現在も4大団体のタイトル獲得を目指し現役を続けている。


1978年

2010-08-15 06:49:44 | スポーツとその時代
スポーツとその時代⑧ 1978年

●社会全般
この頃は高度経済成長期であり、開業が相次いだ。
まず揉めに揉めた新東京国際空港(成田国際空港)が5月に開業。
羽田と並ぶ日本の空の玄関口として国際社会の一員としての加速を示すものであった。
地下鉄は半蔵門線と都営新宿線が一部開業。東京一極集中の象徴である。
またサンシャイン60が完成したのもこの年である。
スポーツ界でも横浜スタジアムが4月に完成した。

政界では8月に日中平和友好条約が締結されたが、福田首相は自民党の総裁選で敗北し大平内閣が誕生した。

サザンオールスターズが「勝手にシンドバット」でデビューしたのもこの年である。
 

●スポーツ界では
大相撲では北の湖がピークをを迎え、初場所から秋場所までを5連覇。初の年間制覇が」かかった九州場所では11勝に終わり優勝を逸したが、年間82勝を挙げ大鵬の持つ81勝を更新(当時の記録)した。
名古屋場所後に大関若三杉が横綱に昇進し、二代目若乃花となったのもこの年である。

球界では大きな記録が生まれる。
6月に王が通算打点で、張本が通算安打でそれぞれ野村克也の記録を更新。
その王は8月に通算800号本塁打を達成する。
優勝はセ・リーグが球団創設以来初めての優勝、パ・リーグはブレーブスが4連覇を果たす。
日本シリーズは激戦の末、4勝3敗でスワローズが初の日本一に輝く。
第7戦での大杉のホームランを巡ってのブレーブス上田監督の抗議は1時間19分に及んだ。
スワローズを初の日本一に導いた広岡監督の管理野球は話題となった。

また後に黄金時代を築くライオンズを西武が買収したのもこの年である。

10月にはゴルフの世界マッチプレーで青木功が優勝。世界のアオキを印象付けた。

ボクシング界では具志堅が全盛期。4回の防衛を全てKOで飾った。

Qちゃん落選

2010-08-15 06:20:08 | 事件の真相
【経緯】

2000年のシドニー五輪で金メダルを獲得し、翌年には世界記録の更新をしたスーパースターの高橋尚子。

連覇を目指すアテネ五輪への出場は確実と見られていた。

しかし先行を兼ねた2003年の東京国際女子マラソンで、終盤に失脚し2時間27分台の平凡なタイムで2位に終わった。

世界選手権で銀メダルの野口みずきの出場が内定する中、残る2つの椅子を大阪、名古屋の出場選手と争う事になった。

【当時の情勢】
日本女子マラソンは1990年代中盤から黄金期を迎えていた。

オリンピック2大会連続メダリストの有森裕子を筆頭に、実力世界NO.1といわれた鈴木、浅利などの世界選手権王者を揃えていた。

そして2000年のシドニーで高橋が金メダルを獲得し頂点を迎える。

その後も野口をはじめ、土佐や渋井など世界トップ選手が目白押し。
国内の3大大会では2時間25分を切って当然と言う雰囲気すら流れる超激戦となった。

そんな中、27分を越えた高橋が出場できるのか。
名古屋で再度勝負を賭けた方が確実ではないか。
そのような声も聞かれたが、高橋陣営は名古屋出場を見送った。

【真相】

高橋陣営は、名古屋に出場しても勝利する自身はあっただろう。
しかし今回は本番でラドクリフと言う怪物もおり、万全の状態で五輪を迎えたい。
そうなると3月のレースは回避したいという思惑が先行した。

そんな中、高橋のコーチである小出氏は陸連の沢木氏と会談する。
この日を境に、名古屋回避を示唆するようになった。


小出監督は、陸連の意向を聞いたのだろう。
そして恐らく「余程のことがない限り、高橋出場はOK」と言う感触を得たのだろう。

陸連サイドも小出監督もまさか、大阪、名古屋で連続して25分をきる好タイムを出すと思っていなかったのだろう。

しかもそれを無名選手が出せば、実績で高橋を選ぶつもりだったのだろう。


陸連のミスは大阪で優勝した無名の坂本に内定を与えた事。
そしていつも繰り返される3人枠に4大会の選考。

小出の言葉を信じて名古屋を回避した高橋と小出の関係はここでコジれ、遂にはコンビ解消となる。

高橋はこのあと完全に復活する事はなく、引退する。
高橋と野口の対決も、そして五輪連覇の偉業への挑戦を見ることも出来なかった。

陸連の甘い見通し。

これによって起こった落選劇だったが、当時の日本女子マラソン界のレベルの高さを示すエピソードでもある。


石井毅

2010-08-14 15:08:39 | 名選手列伝
名選手列伝⑥
石井毅(高校野球)

1961年和歌山県有田市生まれ。

野球の名門箕島高校に入学後、1年秋からアンダースローに転向しエースとなる。
後にプロ入りする嶋田宗彦をバッテリーを組み、2年春から4期連続して甲子園に出場する。

センバツでベスト8、夏は自身が登板しなかった3回戦で敗退するが、3年生となった79年甲子園春夏連覇を成し遂げる。

特に香川・牛島率いる浪商や池田高校との激突は印象深い。
そして星陵との延長18回の死闘は高校球史に残る。

甲子園通算14勝を上げ、これはPL学園の桑田に抜かれるまで1位の記録だった。

その後、社会人の住友金属に進み活躍。ドラフト3位でライオンズに入団するが5年間で8勝しか挙げられず引退している。

現在はスポーツジムを経営しながらみかん販売を行っているという。