【当時】
80年代の日本ボクシング界は低迷期で世界戦での連敗が続いていた。
そんな時代に才能溢れる高校生スターが3人デビューした。
後に世界チャンピオンになった鬼塚勝也、川島郭志、そして渡久地隆人である。
中でも最も才能溢れる天才と言われたのが渡久地隆人、ピューマ渡久地である。
3人は昭和30年代に三羽烏と言われたファイティング原田、青木勝利、海老原博幸と良く比較された。
しかし破天荒な言動は青木に重ね合わせる向きがあり、最も才能がありながら唯一世界に手が届かなかった青木に似た危うさを感じる関係者は多かったという。
【デビュー】
デビュー直後から渡久地のボクシングは注目を集めた。
パンチ力と目の良さは抜群で、前年のインターハイで敗れた川島にも東日本新人王決勝で6RKOで破り、その後も9連続KOと快進撃を続ける。
10戦目の日本タイトル戦もKOで勝利する。
そして12戦全勝でむかえたのはチャコフ・ユーリー(のちの勇利アルバチャコフ)。
世界チャンピオン確実の声が高いユーリーと稀有の日本人ホープの対決とあって、対戦決定から注目され、多くの予想がなされた空前の日本タイトルマッチとなるはずであった。
しかし試合直前、渡久地は失踪した。
【真相】
試合はキャンセルされ、渡久地のタイトルは剥奪。
無期限のライセンス停止となる。
復帰後、初黒星を喫しながらもなんとか日本タイトルを獲得するが、往時の輝きを取り戻すことはなく、世界チャンピオンになった勇利に挑戦するが、なすすべなく敗れた。
この「直前逃亡」に関しては諸説ある。
・調整がうまくいかず自身に腹を立てた。
・勇利の実力を恐れて逃げた。
・練習方法やファイトマネーなどを巡ってジムと対立。
諸説がありどれも実しやかに囁かれたが、実際は飲酒の上、ケンカをし拳を骨折したのだ。
プロボクサーのケンカは当然ライセンス停止につながるし、ジムの叱責にふてくされ姿をくらました。
天才ゆえの自我、そしてわがままさが生んだ悲劇。
このピューマVSユーリーが実現していたら、どうだっただろう。
諸説意見はあろうが、渡久地がKO勝ちした可能性も50%以上あったと思う。
それほどの天才であった。
破天荒の使い方間違ってます。調べてもらったら、わかりますが破天荒の意味は誰も成し遂げたことのないことをした。という意味です。はちゃめちゃなという意味ではありません。ちなみに渡久地は好きです。