直家はさらに、
「いまひとつ、欲がござる。わが息のあるうちに、八郎の男姿を見とうござる」といった。男姿が見たいというのは、元服させてくれという意味である。
(略)
やがて元服の諸役がきまった。加冠ノ役、理髪ノ役、烏帽子ノ役、鏡台ノ役などである。そのうち理髪ノ役は、秀吉から小西弥九郎行長が命ぜられた。この宇喜多領生まれの堺商人はその優れた外交能力を買われてすでに秀吉の家来になっており、中国筋の大小名のあいだを駆け回って反毛利体制を作り上げている。
同時にその場で八郎の傅人になるよう、秀吉から命ぜられた。この商人あがりの武将と秀家の結びつきが関ヶ原の戦場にまで及ぶとは、この場の誰もがむろん想像もできなかったであろう。
さて命名である。(略) 秀吉は秀の一字をあたえることにした。秀吉は様式どおりの紙を用意させ、その中央に「秀」という文字を大書し、左下に花押をしたためて八郎にあたえた。
(略)
秀吉は姫路にひきあげるにあたって、秀家を直家の看病のためという名目で岡山城に残した。宇喜多家にとっても戦国の慣例としても信じられぬほどの好意であった。この秀吉の好意を、直家と同様に感じたのは八郎の生母の於ふくであった。
「筑州殿の御恩を忘れてはなりせぬ」
と於ふくは直家と同様、八郎に対し、毎日のように教えた。
司馬遼太郎「豊臣家の人々」より
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いにおいて、西軍の中でもっともよく戦った一人と言えますが、その人物はなかなかドラマや小説では描かれません。この後、秀家は、前田利家の娘で秀吉の養女と結婚し、秀吉の一門衆の一人として育っていきますが、おそらく、いいところ育ちのおぼっちゃまで、素直で実直な青年にそだったのではと思います。その一方、裏の含みのある発言や、微妙な機微には疎かったのかもしれません。
こういう人は個人的に好きですけどね。