お城にいく話

偉大な小説の一場面を引用させていただきながら、城を紹介していけたら、と思っております。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

北ノ庄城(柴田勝家)

2016-10-08 23:30:00 | 福井県

その翌日、秀吉は大軍をもって北ノ庄城をかこみかれ自身は城を見おろす足羽山に本陣を据えた。

勝家のこの城は、すでに戦闘力はなきにひとしい。かれは湖北から逃げもどるとすぐ兵を集めたが離反するものが多く、三千人ほども集まらなかった。勝家は絶望し、それらを本丸と二の丸、三の丸のみに集め、城の外郭は捨てた。

(略)

激闘がつづき、羽柴方は正午になってようやく城壁を超えて城内に入ることができた。勝家は天守閣にしりぞき、なおも戦った。午後四時、勝家はその一類八十余人とともに自刃をし、用意の火薬に点火させ、建物もろとも自分の遺骸を爆燃させた。

「やむをえなかったのだ」

と秀吉は次々と誘爆してゆく敵城を見ながら大声で言った。大声で左右の諸将にきかせねばならなかった。なぜならばかれの麾下には勝家と昵懇の者がおおく、それとなく札家の助命を秀吉まで申し入れていたのである。人を無用に殺さぬということが秀吉の織田時代から諸戦場で見せてきたかれの特色であり、そのことがいまではかれの政治的標榜であるかのように天下にしられており、このため秀吉といったん戦った者でもあとで安堵して降伏する傾向が諸国で見え始めていた。秀吉はいまではそれを意識的な政策とし、不殺をもって人を手なずけ、世間を飼いならそうとしていたが、

「勝家だけはちがう」

というのである。

 

司馬遼太郎「新史 太閤記(下)」より


秀吉と賤ヶ岳で戦った柴田勝家が滅びました。

おそらく彼は天下をとるのではなく、あくまで織田を当主として考えていたのかもしれません。

そう思うと、実力主義で秀吉がのし上がっていくことと、秀吉なき後の家康の台頭も、同じように考えられるのかもしれませんね。

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 富山城(佐々成政) | トップ | 岡山城(宇喜多直家) »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。