真田幸村が
「それがしが南を守りましょう」
と買って出たのは、この城の最大の弱点を、おのれ一手で塞ぎ止めてみせようということであった。幸村には一途にそのようなところがあった。豊臣家の人柱になってみようという覚悟が、自負心のつよさに裏打ちされていた。
幸村は、このため三の丸の南限の堀の外へ自分を置こうとした。つまり敵へ突き出した場所に小城塞をつくろうとした。
「真田丸」
といわれる構造物が、それである。
司馬遼太郎「城塞(中)」より
真田幸村が
「それがしが南を守りましょう」
と買って出たのは、この城の最大の弱点を、おのれ一手で塞ぎ止めてみせようということであった。幸村には一途にそのようなところがあった。豊臣家の人柱になってみようという覚悟が、自負心のつよさに裏打ちされていた。
幸村は、このため三の丸の南限の堀の外へ自分を置こうとした。つまり敵へ突き出した場所に小城塞をつくろうとした。
「真田丸」
といわれる構造物が、それである。
司馬遼太郎「城塞(中)」より
この間、真田幸村は、常時城南にいた。
城南は、この巨城を秀吉が築城した早々から最大の弱点とされ、秀吉は終生それを苦にしていた。
大坂城はいわゆる上町台地の北端にあり、西には海をひかえ、北と東には川をめぐらしていわば天嶮にまもられている。ただ、南に対してだけは、台地が平らかに続いて四天王寺にまで至っており、人馬の往来は自由であった。家康が、この城南の攻撃に主眼をおき、大軍を集結させ、みずからの指揮所も城南の四天王寺付近の茶臼山に置いたのは、当然の着眼であった。
「南がよわい」
と、真田幸村は入城早々、大野修理に警告しその後、軍議がひらかれるたびにいったのも、このことであった。
司馬遼太郎「城塞(中)」より
「御本丸もあぶない」
と、速水守久はいった。
北へ参りましょう、と守久はいった。北とは山里郭のことであった。山里郭は、秀吉が茶をたのしむため自然の山水をつくりあげた一郭で、樹木が多いためにたとえ天守閣が炎になっても火は山里郭まではおよばない。
守久が、先導した。秀頼、淀殿など、男女三十人がつづいた。修理は途中で一時消え、やがて一同のあとを追って山里郭へむかった。この間、修理は千姫を城からおとした。
司馬遼太郎「城塞(下)」より