お城関係をまとめるために作りました。
興味ある方はお楽しみください^0^
小説に感化されてますます「城」が好きになっていっている最中です。
そんな偉大な小説の一場面を引用させていただきながら、訪問した城々を紹介していけたら、と思っております。
「この小説がよかったよ。」「この場面が好き。」などありましたら是非コメントしてください^^。
真田幸村が
「それがしが南を守りましょう」
と買って出たのは、この城の最大の弱点を、おのれ一手で塞ぎ止めてみせようということであった。幸村には一途にそのようなところがあった。豊臣家の人柱になってみようという覚悟が、自負心のつよさに裏打ちされていた。
幸村は、このため三の丸の南限の堀の外へ自分を置こうとした。つまり敵へ突き出した場所に小城塞をつくろうとした。
「真田丸」
といわれる構造物が、それである。
司馬遼太郎「城塞(中)」より
この間、真田幸村は、常時城南にいた。
城南は、この巨城を秀吉が築城した早々から最大の弱点とされ、秀吉は終生それを苦にしていた。
大坂城はいわゆる上町台地の北端にあり、西には海をひかえ、北と東には川をめぐらしていわば天嶮にまもられている。ただ、南に対してだけは、台地が平らかに続いて四天王寺にまで至っており、人馬の往来は自由であった。家康が、この城南の攻撃に主眼をおき、大軍を集結させ、みずからの指揮所も城南の四天王寺付近の茶臼山に置いたのは、当然の着眼であった。
「南がよわい」
と、真田幸村は入城早々、大野修理に警告しその後、軍議がひらかれるたびにいったのも、このことであった。
司馬遼太郎「城塞(中)」より
「御本丸もあぶない」
と、速水守久はいった。
北へ参りましょう、と守久はいった。北とは山里郭のことであった。山里郭は、秀吉が茶をたのしむため自然の山水をつくりあげた一郭で、樹木が多いためにたとえ天守閣が炎になっても火は山里郭まではおよばない。
守久が、先導した。秀頼、淀殿など、男女三十人がつづいた。修理は途中で一時消え、やがて一同のあとを追って山里郭へむかった。この間、修理は千姫を城からおとした。
司馬遼太郎「城塞(下)」より
直家はさらに、
「いまひとつ、欲がござる。わが息のあるうちに、八郎の男姿を見とうござる」といった。男姿が見たいというのは、元服させてくれという意味である。
(略)
やがて元服の諸役がきまった。加冠ノ役、理髪ノ役、烏帽子ノ役、鏡台ノ役などである。そのうち理髪ノ役は、秀吉から小西弥九郎行長が命ぜられた。この宇喜多領生まれの堺商人はその優れた外交能力を買われてすでに秀吉の家来になっており、中国筋の大小名のあいだを駆け回って反毛利体制を作り上げている。
同時にその場で八郎の傅人になるよう、秀吉から命ぜられた。この商人あがりの武将と秀家の結びつきが関ヶ原の戦場にまで及ぶとは、この場の誰もがむろん想像もできなかったであろう。
さて命名である。(略) 秀吉は秀の一字をあたえることにした。秀吉は様式どおりの紙を用意させ、その中央に「秀」という文字を大書し、左下に花押をしたためて八郎にあたえた。
(略)
秀吉は姫路にひきあげるにあたって、秀家を直家の看病のためという名目で岡山城に残した。宇喜多家にとっても戦国の慣例としても信じられぬほどの好意であった。この秀吉の好意を、直家と同様に感じたのは八郎の生母の於ふくであった。
「筑州殿の御恩を忘れてはなりせぬ」
と於ふくは直家と同様、八郎に対し、毎日のように教えた。
司馬遼太郎「豊臣家の人々」より
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いにおいて、西軍の中でもっともよく戦った一人と言えますが、その人物はなかなかドラマや小説では描かれません。この後、秀家は、前田利家の娘で秀吉の養女と結婚し、秀吉の一門衆の一人として育っていきますが、おそらく、いいところ育ちのおぼっちゃまで、素直で実直な青年にそだったのではと思います。その一方、裏の含みのある発言や、微妙な機微には疎かったのかもしれません。
こういう人は個人的に好きですけどね。