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アマチュア無線局開局50周年記念 開局時を振り返って 50周年を迎えました

2019年02月01日 | アマチュア無線

  アマチュア無線局 開局50周年記念

     開局時を振り返って

 小生がアマチュア無線局を昭和44年2月(西暦1969年)に開局してから

今年2019年2月で丸50周年を迎えました。

長いような短いような半世紀でした。

 今日は,その頃を振り返ってみたいと思います。

 

 小生が電気のことやラジオに興味を持つようになったのは,小学校の高学年の

4年生か5年生の頃だったと思います。

 たまたま学校の理科室か図書室で目にした本の1ページに鉱石ラジオの記事があり,

こんなものでラジオが聞こえるんだと思い,興味を持ったことが始まりです。

当時は,本にあった鉱石を町の電気屋さんで買い求めてラジオを作りました。


 同じころ,当時のラジオ雑誌に載っていた真空管のラジオに惹かれ,

6年生の頃に友人と二人で,部品を集めて真空管のラジオで,

並三ラジオという真空管を3本使うラジオを作り,音が出た時の感動は

今でも忘れられません。

 

 中学生になってからは,学校の近くに本屋さんがありそこで当時からあった

無線雑誌のCQハムラジオを買って読みふけりアマチュア無線を知りました。

50年経った現在もCQ誌は毎月定期購読で愛読しています。

 昭和40年の中学2年生の頃,東京オリンピック(前年の昭和39年10月)の

翌年のころです。 何とか国家試験を受けてアマチュア無線をやりたいと思い,

当時本屋さんにあった国家試験の問題集を手に入れて一生懸命覚えましたが,

当時はまだ受験(東京)に行くまでには至らず勉強しただけで終わりました。

 

 その後,高校生になってから,2年生になったころ理科部という部活動があり

そこに入部しました。 理科部で知り合った同級生とアマチュア無線の試験を

受けようということになり,一緒に受験を試みることになりました。

 

 当時のアマチュア無線の資格は,電話級,モールス通信のできる電信級

そして上級資格の第2級,第1級という資格がありました。

 

 当時の試験は,4月期と10月期の年2回しか行われず,受験申請には,

当時あった欠格事項という項目をクリアーするために,医師の診断書を付ける

必要がありました。


 今は,病院や医院などたくさんありますし,たやすいことですが当時の田舎では,

かなりの難関でした。かかる費用もそうでした。

 

 こういったことを何とかクリアーして,高2の昭和43年4月期の試験を友人と

受けました。


 当時の試験は,今のように択一試験や穴埋め試験ではなく,法規試験も無線工学試験も

設問は,〇〇について述べよ というようなまったくの記述試験でした。

中学時代に少し勉強していた小生は,タカをくくってあまり勉強せずに臨んだ結果,

見事に不合格でした。

 一緒に臨んだ友人と,同じく受験していた先輩は,見事合格し

その後まもなく無線局を開局しました。

この時の悔しさと残念さは,今でも脳裏に残っています。


 こうなったら,次の10月期には何が何でも合格しなくてはと,猛勉強して

2回目の試験でやっと合格の通知をもらいました。

 

 合格は,通知をもらうまでわかりませんが,記述試験の問題すべてについて

答えることができましたので,いささかの自信はありましたが,

通知が来る頃には毎日学校から帰ると郵便受けを見に行く毎日でした。

 

 ある日,学校から帰って郵便受けを見ると通知が届いていました。

恐る恐る見ると合格の2文字が見えて,その場で飛び上がって喜んだのを

50年経った今でも忘れられません。

 

写真にあるのがその時の電話級の国家試験の受験票と合格通知です。

 

             当時実際に交付された受験票

        

 試験会場は,当時国鉄蒲田駅前にあった日本電子工学院の教室でした。

 

       これが夢にまで見た合格通知の原本です

 

 


 この時の受験から,後年の上級資格受験までのすべての受験票と合格通知は保存しています。

小生の生涯の宝物です。

 

 受験に前後して,晴れて開局できる日を夢見て,無線機作りに励みました。


ちょうどそのころに,無線機器メーカーのトリオ㈱(現在はケンウッド)から

受信機9R59という名前で,そして送信機にTX88Aという機種が発売されました。


この機種は,今でも保存している方がたくさんいると思います。

 ただ小生は,高校生ですから,当然市販の機器を買うことなど夢のまた夢でしたので,

もっぱら自分で作るしかないと,街の古物やさんへ行き回収してあったテレビの壊れたものや

ラジオの壊れたものなどから真空管や使える部品を取り,なにがしかの金額を古物やさんの

おじさんに支払って,集めました。

 どうしても買わないと手に入らないもの,例えば受信機用のコイルパックや水晶発振子などは,

夏休みなどに工事現場の土方のアルバイトなどで得た小遣いで買いました。

 

 そうして自作の無線機も完成し,あとは申請した開局申請が通って,

無線局の呼び出し符号のコールサインが発給されるのを待ちました。

この無線局のコールサインは,すべての無線局に固有の符号が割り当てられる

もので,放送局なども例外ではありません。

 

 例えば,こちらはJOAK(ジェイオーエイケイ)NHK第1放送局です。というような

アナウンスを聞いたことがあると思いますが,これが無線局コールサインなのです。

  

  合格後に発給された無線従事者免許証

 

  当時は二つ折りの免許証でした(現在はラミネート加工のもの)

 

 こちらは,無線局免許状です

 この免許状も当時のままのものです

 


 当時は,免許になっても免許状が手元に届くまでにタイムラグがありましたので,

郵政省に電話を掛けるとコールサインを教えてくれました。

 晴れて受け取った免許状そして世界に二つとないコールサインが 

JH1TCA ジェイエイチ ワン ティーシーエー というものでした。

 

これ以後今日まで50年間このコールサインを使って無線活動をしています。

 

こうして晴れて開局を果たし,その後は日夜を問わず無線に明け暮れる毎日でした。

学校では,友人と先輩の方とそして後輩と学校に無線部を作りクラブ局を開局しました。

今でも残っているかどうかはわかりませんが,高校生活の良い思い出です。

 

 高校を卒業して,晴れて社会人となり少し無線とは離れる生活になりました。


しかし,しばらくすると無線の虫は納まらず,次の展開へと入っていきます。

 

 ここより先は,次の回で回想したいと思います。

 

  これが現在の CQハムラジオ という専門雑誌です

昔のそれは,広告が山ほど載っていて,数センチの厚さがある本でした

現在は,広告が限られ相当薄い(昔と比較して)本になっています。

 

 

 

拙い思い出にお付き合いくださり有難うございました。

次回に以降の思い出話をしたいと思います。

  ではまた!
  

コメント
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