戦争もゼニであるということからいえば,国どうしの安全保障も密談ゼニ儲けが何より優先するということもあるのかもしれない.したがって,上の,算数の問題も,大掛かりな,安保疑獄のゼニ儲けの論理を提供するものになりうるかもしれない.算数も結構役立つのである.わかりにくそうなところを,ちゃっかり利用して,兵器の売買密約とか絡めないと,儲けられるはずがないわけだから.ビットコイン化すればどうだろうか.防衛省の密談組だけが,ちゃっかり,大金せしめるというのより,公平で開かれたものになるかもしれない.できれば,実質的な平和への貢献を基準にしたいのだが,無理だろうか.
安保関連法案や日本の終戦記念日が重なって,戦争をどう考えるか的な話題が多いので,気にはなるのだが,そういう論調で気になることは,やはり,どこか隔絶した異常事態への対応の問題であって,そこで拠るべき基準は,とにかく,軍事力であるという話の筋に,逃げ場を求めている感じなことである.無理をしながら,戦時体制に編成して,無理をしながら軍事体制を維持するという,国家エゴの体制維持が国際社会の現実であり,現に,核兵器も化学・生物兵器も拡散して,そのうち,非国家テロ組織も,保有勢力となるじゃないか,というのが,理由の一つらしい.それが望ましい,国際社会の秩序であるという見識なのだろうか.戦争を悪として断罪して,平和の秩序を基盤に置くとしたのは,アメリカをはじめヨーロッパや旧植民地勢力ではないか.ネオナチなどの台頭で,欧米やその関連国が国際秩序の構築を放棄したというのだろうか.私個人から言わせれば,バカな人類の選択であり,ロクな世界にならないに決まっていると,直ちに判断できる.旧日本軍の軍人が,あまり戦争を語りたがらないのも,日本軍に日本兵が殺されたからというのも,あるのじゃなかろうか.国際秩序は,敗走する,あるいは迷走する日本が,提言したものでも,作ったものでもないことは,事実である.だが,戦争経験した年取ったおじん達が,「戦争みたいなものは,ありゃ,やっちゃいかん」という言葉から,未来につなげる選択をするのが,戦争体験を訊くということではなかろうか.そういう言葉はそういうものではなかろうか.「やっちゃいかん」というのだから,ごまかしなどではなく,「せんようにする」ということではないのだろうか.いやなら,「戦争したいから戦争するつもりだ」と言っておけばいいのである.わたしは,「せんようにする」という返答をとったから,こういうことに関しては,そういう立場を変えるわけにはいかないのである.戦争中どうゆうことがあったとか,軍の実態はどうだったとか,そういう話一切なしの,唐突な,おしゃべりではあったが.
中公文庫『日本の歴史24』では,日本が軍部暴走の無責任体質で,戦争に埋没した理由として,当時の日本の立憲主義のトリックがあると締めくくってある.大日本帝國憲法下の帝國日本が,立憲主義に基づき,臣民の権利等をある程度補償するものであり,アジア進出が,民主的な理由と規律を伴ったものであったというような話が,ときに,言われるようなことに関係するのだろう.しかし,それは,立憲主義のトリッキーな形態のもとで,狂走に転化する立憲主義の不安定な形式的安定であるということなのだろう.「しかし天皇は,憲法ではすべての責任の外にあり,しかも大正期以降は,原則として実質的権限を行使しない存在になっていた.こうなれば,この体制は多頭支配になり,無責任体制になるのは自明のことである」.
そういうものの一つとして,「統帥権独立の原則」があるらしい.統帥権は天皇の大権であり,政府や議会の関与すべきものではないという考えから,天皇の権威強化の制度だそうであるが,それが,実質,軍の独立性と,政府や議会の軍への従属性をもたらすことになるように,事態は進行して行ったのだろう.政府も議会も「軍と右翼の尻馬に乗った」粗忽者だというわけである.こういう流れが,ワシントン軍縮(あるいは軍事制約)条約やロンドン海軍条約の締結といった,力の均衡配分で危機管理しようとする国際連盟を中心とする国際政治の流れのなかで生じているわけである.(『日本の歴史24』, 中公文庫)
力の均衡配分による国際危機管理は,国際社会の危機管理のゆるみや無能化を露呈していくが,原子爆弾は,それらを一挙に手中にする,国際的な政治リーダーのソリューションとして,降臨したのだろう.したがって,核による抑止という発想そのものが,核兵器がそのようなソリュ−ションたり得ないものであることの認定以外のなにものでもなく,平和の実質的構築は,核兵器体系ではあり得ない.核抑止論依存は脱却すべく進むのが,アメリカをはじめとする国際政治の指針である.
さて,実質的な権限を行使しないといっても,多頭支配体制を統一しているのは天皇だから,多頭支配の無責任体質を問えるのは,神様と呼ばれるものであり,父母のような実質を求められるものであるが,それが存在してもしなくても,神様や父母は,すなわち,天皇ということになるというので,「天皇万歳」ということになったのだろう.すなわち,「神国日本」.
アメリカの,原爆投下も,ロシアの進出に対してアメリカの実力を示しておくためだったとか,アメリカの核の優位を示すためのデータを取るためだったとか,軍事戦略上の難点を吹き飛ばすためだったとか,憶測も含めて,今日でも,いろいろ言われているが,日本の立憲主義のミラーイメージを原爆で表現したという感じにならないだろうか.欧米にも,厭戦感や苛立ちや不安もあり,日本の帝国主義的立憲主義国家をミラーイメージとして,徹底的な破壊をもって解決するということが,シンボル的な表現になったということはないだろうか.その上で,再建されるべき姿をもってしか,戦後国際社会は,日本を受け入れようがないとか.
ポツダム宣言(米英華,1945年7月26日)では,無条件降伏しなければ,ナチスおよびドイツへの武力行使におけるよりも,比較にならないほどの軍事力の最高度の使用によって,日本軍および日本国本土を破壊に至らしめる意志と準備を有している.遅延も条件の変更も認めない.受諾の場合,「無責任なる軍国主義が世界より駆逐せられるまで」また「日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまで」占領下に置く.カイロ宣言の条項は履行される.民主的権利や産業や貿易は,再軍備を行うような場合を除いて,認められる.などのことが書かれてあるが,ポツダム宣言の受諾は,「我儘なる軍国主義的助言者」に統御されることで,無責任なる軍国主義的犯罪に至った日本国が,理性の経路を履むべく再生する決断をする 時期を画することである.つまり,そういう将来が許されるということだろう.安保が,性質を変えて存続するといっても,「無責任なる軍国主義の駆逐」を目的とするものであって,理性の経路を離脱するものではあり得ない.安保法制が違憲であるということは,理性からの離脱のおそれが強いということではなかろうか.矮小なる「我儘なる軍国主義的助言者」とアメリカのご都合が結びついているように見えるところに,国民の安保の動向への不信感も生じているのではなかろうか.
[軍事同盟の限界と安全保障]
論理的な整合性をいうなら,軍事同盟の限界を意識せざる得ない国際情勢の変化を考える必要があるのではなかろうか.具体的といえば中国とか北朝鮮とかいうような抽象的で,嘘混じり的な,国際情勢分析ではなく,アメリカやEUやロシアも含めて直面する,安全保障の軍事同盟化路線が限界にきていることを,丁寧に説明すべきではなかろうか.そうすることが,国際平和秩序にとって未来志向となる動きに沿うのではなかろうか.
実際,国連の求心力が低下して,国家や国家地域がエゴ丸出しに抗争し合う平和秩序は,調整が難しいに決まっているが,しかし,実質的に国際平和の秩序を担う機関が不必要というわけではないだろう.口先だけの,国際情勢だの現実だのという言い訳がまかり通るほうがおかしい.安保関連優先株で,投資詐欺はかるような,少数派パラダイス学者もいるのではなかろうか.安全保障や日米安保や国際情勢を語る器が足りないのを,なんらかのコネで,政治家などが按配しているのが,この国の実情かもしれない.竹田くんだろうか.皇族ビジネス損失の補填騒ぎだろうか.米軍もうまくそういうの利用する風潮になっているとか.