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物理学ノート --- レプトンの物理

2011-06-16 08:41:53 | 数学・物理
Orchid_3

文系オヤジにとっては,理系の専門分野とくに物理学は,ややこしく分散し,奇妙に輻輳としている問題で生活環境とつながっていることを実感してきた.仕方ないので,断片的にメモ書きしながら,文科的な観点からのトレースの目印にする.


・陽子崩壊とニュートリノ相互作用の検出
 光電子倍増管の検出するチェレンコフ放射は,陽子崩壊の生成物がひき起こしたものだけでなく,ニュートリノと(検出)装置の中の陽子や中性子との衝突によるものもある.それらを区別することは,放射のコーン(円錐状の発光のような感じ)の数やそれらの方向を調べることでできる.陽子崩壊(陽子→パイ中間子 + 陽電子)では,ある特別な角度にチェレンコフ光の3つのコーンをつくる.ニュートリノの相互作用では,荷電粒子のシャワーを一つしかつくらないので,たった一つのコーンのチェレンコフ放射として観測される.(S. ワインバーグ「陽子の崩壊を探る」,別冊日経サイエンス)

神岡カンデも,膨大な水に含まれる膨大な陽子のうち1個か2個かが崩壊するのを,じっと検出するチャンスを待つものから,ニュートリノの相互作用など,しかける装置に増設されたという感じなのだろうか?  ノーベル賞もまたノーベル賞級の成果も続いているから,珍しくうまくいった例なのだろうか?


・ベータ崩壊と社会

原発事故で専門家が神経質になる理由のひとつは,物理の理論に自信がないから,ばつの悪い思いをしたくないという心理なのだろうか? 人文,社会科学とて,学問としての活力を失い,リアルな問題への指針力を喪失している状況が進行し,自然科学や技術の錯綜の庇護に逃避しているわけだから,科学の曇りを拭き取るのは,難事業になるわけである.強いて言えば,曇った科学は,巨大な科学利権という装置で,企業の科学・技術の独占という避難所を営む.科学の利益が,そのような装置の規制にかけられるわけである.そのためのロジックになびくことが,科学とともに生きているという科学についていけてる頭脳に変われているのだという満足感と,フラストラーションを,蔓延させる.メディア,評論家,文化人,学者,官僚,政治家,企業,感染は甚大である.

日本での原子力の平和利用,それは原子力発電だったり科学の基礎研究だったりするのだろうが,特に原発の方はその推進の意欲が特殊異様という感じがする.発電所だから電気を供給するわけだろうが,特殊異様な特定のグループが描いた絵に,石油危機に限定されない経済的動機をつぎはぎしたものの印象があるが,経済の問題と原発はそう相関的なのだろうか? 原発の安全性が100パーセント確立されたら,原発そのものが不要な段階の社会になってなっているはずだから, 安全性は危ういに限るわけである.特殊異様な特定グループのある種の利権オルグも次の段階には維持できないものになるから,安全性を現実的にするのは嫌なわけである.しかし,安全性は,いつまでも味方となってくれる.安全性は,適当に犠牲にできるからである.あちらを立てればこちらが立たず的な仕組みでできているのだから,もしかしたら,深刻ながら,あるいは電源が復旧しなかったから,ある程度現状までこぎつけてる面もあるかもしれないわけで,もちろん必要なことであると思うが,事故発生後の対応を改善することと,「安全の保証」とは別なはずである.専門家はどういうか知らないが,原発の安全性の確立は,実際,技術的に不可能なのだろうから(加速器でも事故があるわけだから), 裏切られる心配もない.しかも,一円の節約を求めて億兆円をだまし取ろうというのだから道徳的になんら恥ずべきこともない. 原発推進,反原発なんて対立は,その範囲を超えることはない.原発をめぐる議論をちょっと皮肉ってみたが,原子力とは,やはり,より根源的に人間社会や科学が問い続けられる問題なのだろう思う.

・書物によれば,ニュートリノ(中性微子)νは, 原子核が電子を放って別な原子核に転換するベータ崩壊の見かけのエネルギー非保存は,ベータ崩壊の際に電子と対になって放出される電気的に中性の粒子を仮定すれば,エネルギーの保存を破ることなく理解できるということで,パウリが仮説的に導入した粒子である(1931年).
フェルミは,パウリのニュートリノ仮説を認めることで,ベータ崩壊の際に,対発生する相手を陽電子の代わりに反ニュートリノ(電荷は0だから,粒子=反粒子)であるとして,ベータ崩壊を説明した.
電子と対となる相手を陽電子にとる場合では,陽電子を吸収して中性子が陽子に変わり,陰電子が残って放出されるが,中間の過程でエネルギーの非保存を認めなければならないから(n → n + γ → (n + e(+)) + e → p + e,および,ガンマ線γ → e + e(+)).想像すれば,p → (p + e) +e(+) → n + e(+) もありそうである.
そして,(フェルミは,)中性子が電子と反ニュートリノの生成をともなって陽子に変わる(n → p + e + ν)という素粒子の変転の考えを導入した(電気的に中性の中性子が陰電荷を失えば陽電荷を帯びることになるから?).
中間子論は,パイ中間子が電子と反ニュートリノに崩壊する過程(π → e + ν)を導入して,中間子論とベータ崩壊を結びつけた(n → p +π → p +e + ν)(『素粒子論』,岩波講座10).


レプトン族であるミューオン(ミュー中間子μ)が中間子族(メソン)のパイ中間子(π)と取り違えられていたりして,坂田博士等の二中間子論で別物と判明するとか,パイ中間子がミュー中間子に変わり,ミュー中間子が電子とニュートリノに壊れるという二段構えでベータ崩壊が起こるというように現在はなっているとか,ニュートリノはイオン化することがないから,イオン化した線の濃い薄い(イオン化する力の度合い)で判別する霧箱には写らないとか,中性子も当初は,異常に強い,ガンマ線の変わり種のようにみなされていた(ボーテとベッカーのベリリウム線(独),1931年)とか,原子の構造における長岡の土星モデル(1903年)以降も,ディラックの陽電子が陽子と考えられていたとか,錯綜とした状況を通って,現在のような理解に至っている.そういう経緯もあってか,ベータ崩壊のメカニズムも,どこか今でも,電子陽電子対によるモデルとニュートリノ仮説に基づくモデルが微妙に混合したモデルとして成り立っているような気もする.(参考:『物理の歴史』ちくま学芸文庫,南部『クォーク』講談社ブルーバックス)


クォーク物理では,6種類のクオーク(u, d), (c, s), (t, b)と,電子,ミューオン,タウ,ニュートリノといったレプトンで,物理の法則が矛盾なく説明されるということだろう.




・連続性と時間
 ものを考えるとき,連続性を意識することはない.考えの断片や余剰が非連続的に繋がっていくだけである.もし,時間を逆戻しできたら,非連続的な思考の連鎖は,どうなるのだろう.おそらく,同じ思考の経緯は辿れないのだろう.人間の思考ならば,思考の経緯が大きくずれても,振り向いた向きに前に歩み続けていることと変わらないのかもしれない.物理では,時間反転の対称性が弱い相互作用で少し破れることをCP対称性の破れというそうであるが(Cは荷電反転(粒子-反粒子反転),Pはパリティ(偶奇)反転(あるいは空間反転),Tは時間反転を表す.CPT保存から,CPが破れていれば,その破れを打ち消すために,Tも破れていなければならないということ),考えようによっては,人間の思考は,CPの破れに圧縮された存在ということもできる(?)だろうか.それとも,考えの集中力が足りないだけだろうか.

連続性が非可換性との関連を思わせるのも,ベータ崩壊の特徴だろうか?


・i(アイ)があるのとi(アイ)がないのと.
クォークのレベルまでいけば,物理は数学に近づいていく.複素数のことだが,変形保存できる経路ではアイは現れず,変形保存が破れる経路ではアイが現れるというイメージがわく.アイのない場合とアイのある場合が,次元の高い空間からおりてくる.アイのない空間とアイのある空間が混合して,物質世界を実現しているという感じがする.分離と混合が,違った層で混合しているという感じである.矢野健太郎のエッセーに虚数単位iをアイにしゃれている箇所があったのを思い出す.a, bを実数とすれば,a+biでa=0なら純虚数,b=0なら実数.a, bも0以外の値をとりうるならば複素数.これだけの定義の中に,物理は,確率のフィルターを通したり,空間の分類や混合を立てたりして,物理的対象の法則を定めていくという手続きを踏まなければならないのだろう.そして,それはまた,数学の手続きでもあるということなのだろう.


・天然の放射能と人工の放射能(戸田,宮島編集『物理学ハンドブック』,朝倉書店)
放射性元素であるウラン235も自然のままなら,7億年の半減期だから,たぶん,タービンはちっとも回らない.ところが,放射性でない安定な元素も,アルファ線,陽子,中性子,電子,ガンマ線をあてて,放射能(放射線を放って別な元素に変わる性質をもつこと)をもたせることができる.そうやってできる放射性元素を人工放射性元素という.当然,天然放射性元素に人工放射性元素の放つ放射線が加算されるという意味だろうと思う.放射性元素といわずに「自然に元々存在する放射能」というのなら,人工放射性元素の放つ放射線は含まれないわけだから,その放射能の影響は,インド人のように頭がよくなったり,進化の過程でスーパーマンに変身する人類を生み出すかもしれないが,人工放射能が加わると,そうマイルドにはいかなそうである.

しかも,ウラン235は中性子を吸収して,原子核が中重核に分かれる(半々ではなく,軽い原子核と重い原子核の二つに分かれる場合が多いそうである),核分裂反応が起こる.フェルミは,それ(ウラン同位体の混合標的に遅い中性子を吸収させる核反応で生じる物質?)を原子番号93番目の超ウラン元素と考えたようだが,1939年ハーンとストラスマンは,フェルミのそれが原子番号56のバリウムBaであることを発見して,核分裂が発見されることとなった.つまり,中性子が吸収されることによって,中性子が陽子に変わるベータ転換をひき起こして,原子番号92のウランから93の超ウラン元素ができたのではなく,中くらいの重さの元素に分裂したことが確かめられることになるから.中くらいというのは元素の周期表で半分にあたるあたりらしいが,だいたいウランの半分でもそう外れなさそうである.チャドウィック(James Chadwick)による中性子の発見(1932年)は,原子核の理解に整合的統一性をもたらしたが,原子核現象のさらに深い問題に導く出発点となったということでもあるだろうか.

核分裂の際に2個以上の速い中性子線が放出されるが,速い中性子のエネルギーを奪って減速して(ブレーキの利かなくなった車を側壁にわざとぶつけて減速させることに喩える話も聞いた覚えがある),次々と核分裂をおこさせる核分裂の連鎖反応をおこすことができる.それによって生まれる,人工放射能の物質が,物理的,化学的状態変化で制御できないものとして,確率的に放射線を放って崩壊していく.(天然の)放射性元素の発見と,人工放射性元素(アイソトープ)の発見,核分裂反応の発見による,原発などの恩恵と危険の濃縮的再生という仕組みが判る気がする.


・原子力の法的側面
原子力関連の法律は,まだ,じっくり見てないので,まったく個人的な印象の羅列であるが,
原子力の平和利用の促進を通じての経済・産業発展のための基盤事業であるらしいこと.--- 経済が跛行的な発展を遂げるなか,高度成長経路のもつ不安定さや負の成長要因の増幅およびそれを経済の成長の仕組みに転換する装置の切り替えなど,田中角栄の列島改造にみられる均衡的配分の理念のかたちをとって,原子力の平和的産業的利用のための法体系がその実定性を担保するという法的体裁をとったようにみえる.そのためか,一見,抽象的な規定の羅列をとり,その法的な効果を最大限担保するロジックになっている感じもする.そういう意味では,軍事の法的な位置づけの考え方も法体系づくりのモデルの一つになっているのかもしれない.

原子力の平和利用においては,仮に,事故や不測の問題が生じた場合,すみやかに報告がなされ,国はそれに基づいて,原子力の平和利用を妨げない方策をおこない,それを維持するために,法律を適宜改正して,原子力の利用を促進しなければならない,といっているように読めるが,だとすれば,ストレステストがどうだとか,賠償がどうだとか,放射線量の測定や公表がどうだとか,地震津波がどれほどダメージを与えるかだとかは,原発の廃止とは別問題であるのは当たり前に思える.そういう前提のもとで,脱原発のポーズをとって,マスコミや政治家が,原発というより,原子力利権を温存しようという(国民的という看板の)議論偽装に取り込んでいくやり方に見えるが,どうなんだろう.立地自治体や周辺自治体も,一般住民や事業者への安全の担保というより,利権前渡金という名目で,銭だけもらっておけばいいのではなかろうか? 福島原発事故の後,原子力の危険な面への意識や知識が増大ししていることと,利権という意識で原子力行政を語る政治家などの論調は食い違っていても,原子力利用推進という点では,何ら支障はないという仕組みらしいので.馬鹿でノー天気な政治家には弁論の花を与えてくれそうな問題ではある.善良ぶれる部分は税金であるし,利権保証は法律で守られているし,大して心配要らないわけだ.

子供の頃だったと思うが,大気圏核実験のとき,大気圏で原子爆弾を爆発させたら危ないじゃないかという問いには,大気圏でやるから安心なんだ.上空で拡散して,健康にはほとんど影響ないからと答えていたように記憶しているが,事実はどうだったか責任もてないが,その後,放射能汚染が既成事実として深刻だというニュースになったようだが,多分,原爆実験やる方には大して不都合もないのだろう.そういう仕組みなのだろう.


まあ,利権のみに目がくらんで,推進馬鹿じみた政治家や評論家,文化人などのレベルは幼稚である.背に腹はかえられない思いは多くの人にあるのだから,推進馬鹿のノー天気特権ではない.それはさておき,金融危機にしても,ソゴウの破綻にしても,経産省体質にしても,結局は,列島改造の架空名義売買にはがれ落ちたおいしい利権のための官僚仲良しグループのヤーチョン仁義が表に出ているということではなかろうか? 海江田もそうだが,どの程度そうかは知らないが,田中眞紀子も石原も,原子力の科学的な知識はないようなので,政治家も引込みやすいということではないだろうか? 自民党は当然として,旧社会党も中道公明党も推進ではねじれなく絶対多数だったようだから.新しい政治の枠組みを担うというより,パパがむりして国民だましして残してくれるものを,長老などのじいやの手助けで,ママが権限を持って手渡してくれるのを,若手二世議員などがあまく引き継ごうという政治を目指しているような気もする.二世議員でないのは学習院のご学友的に.当人は周りの目をかすめて万引きで,過保護の親や先生は必死にもみ消し謀って,しかもそういうのに限ってませ口で,学者ポストで体面保つてきなガキチョンオヤジが勘違いして,自分は優秀だと思い込んでるのも,政府の無能程度にうんざりではないか? もう少し大人げのある論者を通して,国民が事実を考えていける機会があっても良さそうだが,なんかいかにもやらせのが多いような気がする.レイカちゃんなら東大学長でいいかもしれないが.


・正確な話ではないが,0.004444etc.とか0.004999etc.とか0.009999etc.とかなら0ではないが,0.00にはできる.確率なら,普通,0や1は考えないが,0なら起こりえない,1なら必ず起こるといっているだけだから.確率は起こるかもしれないし起こらないかも知れないことを科学するわけだから,その理論にとって0や1も含めておく方がすっきりするし,不都合もないからということで,含めてあるわけだから.0.00は0ではないが,少なくとも非常に低い確率であるということだろうか?

ストレステストというのも,許される限りで,ほんの少し条件を変えて,物理的な測定によってデータを収集・解析して,その生データから,科学的に推定していくというものと思うのがふつうだと思うが,それもコンピュータで仮想化してあるということだろうか? それはそれで大変だろうとは思うが,科学的な知識を増やすにはいいかも知れないが,実際的な判断のためには,それで十分なものなのだろうか.理論的に十分ということと,事故のような現象を否定するということは,異なる次元の問題のような気もする.

原子力の技術的,経済的,政治的,軍事的危険性や問題点については,岩波新書『技術革新』にも説明がある.原発に詳しい人には常識に属することなのだろうが,引用すると,原発の大型化にともなって,その電力コストが火力発電などに比べて安くなるという主張に対して,原発も三年もすぎると,容量比率(設計上得られるはずの電力に対する,実際生産された電力の割合の比率)も急激に低下して,七年後には30パーセント台に落ち込む.それは,資本費の割合が高い原発ではコスト高につながるとか,放射能を帯びた澱(おり,沈殿物,crud)などで,原発システムの各部が破壊されたり,保全作業が人手や時間に関しても難しくなったりということに続いて,「放射能による材料の損傷のメカニズムも,まだ十分には分かっていない.燃料棒にしてみれば,摂氏二〇〇〇度をこえる高熱にさらされているうえに,激しく流れる水によって水圧と振動応力をうけ,内部からは核反応によって生じるクリプトンなどのガス圧で半径方向に膨張せられる一方,酸化ウランのペレットが収縮するはたらきもある.そこへ中性子が作用して被覆材のジルコニウム合金の結晶が縦方向に成長するはたらきが加わる.これらが錯綜した結果,被覆材の形状や物性がどう変化するかは,理論的にはきわめて予見しにくい」.横にのばされると同時にギュトしめつけられ,おまけに縦にも膨らまされ,さらにおまけに,ねじられ,フンダリケッタリな燃料棒という感じだろうか.このような原発に宿命的な問題が,地震・津波という天災によるダメージだけをシミュレーションすることで,安全の保証が得られるというのは,逆にいえば,原発の腐食・老朽化など十分にあらかじめ分かっているということだろうから,あらゆる未知の現象を導きだしては,シミュレーションを続けて,その評価を自動的に行うということだろうか? では,冷却水漏れなどどうして起こるのだろうか? それに,技術的にも経済的にも欠陥製品というものらしいので,効率の良い,経済性の高いものとして稼働することは,ワザと原発を爆発させるような行為に等しいということではないのだろうか? すると,新式のに買い替えればいいというのが出てくるが,三年もすれば,そう変わらないわけだから,同じことではなかろうか?

原子力だの知らなくても,正しい説明があれば,ある程度理解することはできる.そこらを,はたして,原子力に無知な一般の国民以上に理解しているかどうか保証もない連中のご都合でごまかされるのも嫌なものである.大学の物理学も利権派閥で,ちゃんとしてなっかたのではないだろうか? 幼稚な見栄とか虚勢とか,そういうことばかりが,原発ウソつき老人達には目立つが,その程度で,例えば,東大幼稚園の保父や保母連中は,科学を背負ってきたのだろうか? 推進派といわれる連中が,あまり科学的な知識のない,裏からの取り入りで利権に預かったような連中ばかりだということ.これは,昔の政治家なりが,ごり押しで,馬鹿うつけそうなのを選んで立場を与えたということだろうか? ことさら,偏って言っているわけではないが,あまり追いつめると闇に潜ってヤーチョンと結託して,日本の経済は滅ぶぞキャンペーンやりそうなのだから,手に負えないというたちの連中ということだろうか? そのような連中は,実際,日本の経済にも,科学にも寄与のない連中なのだから,仲間内のうぬぼれ談義でその気になっている連中の,勘違いではなかろうか? 

そんなことより,アメリカも原発推進には曲折があったようだし,あるいはアメリカの政治家グループが陰に陽に推進のための活動を仕掛けていたのかも知れないが,古い利権を固定して,国を滅ぼすまでになるのはどうかと思うからである.そういう面は人災ではなかろうか.そこが知りたい.もちろん,技術や装置に携わる人にとって,過酷な技術であって,人的管理が難しいという面でとらえられてもいるのだろうが.

宗教的に,人間の生死観まで考えれば,死の瞬間,放射線が世界を光で満たし,幸せな光景のなかで,プツンとあの世へいけたら,苦しみもなく,大往生できるということになるのだろうか? ならば,放射能の影響で,人がどう死ぬかとか,後遺症でどう苦しんで死ぬかとか,「管理された死」の科学で,効率の良い,きれいで道義的な死を管理する核兵器は,平和利用されて極楽浄土の医療に変わるのだろうか? 医療が,病気を治したり,苦痛を和らげたり取り除いたりということを否定しているというのではないが,私も,どうやら地獄の方なのだろうが,その入り口付近までは二三度いってあやうく戻ってきたことがあるので,そうあの世的な問題でもないのだが.


・原子爆弾を作ろうプロジェクトと節電日本
原子爆弾の爆発する仕組みは,作りたいわけでないのでよく判らないが,読んだ限りで勝手にシナリオ作ると,U235も効率は悪いが速い中性子ともある程度反応する.反応の効率が良くないので臨界するための係数(比)1を超えるのが難しいが,高度に濃縮して瞬間的に係数1を超える連鎖反応を起こせば,爆弾として機能するという感じだろうか.ここらについての正しいメカニズムは,専門書で確認していただきたいが.エネルギーの高い速い中性子が,一方で遅い核連鎖反応の発電と再生核資源に,他方で原子爆弾にと使い分けられている感じである.

ウランの濃縮は,電気の消費もその他のコストも高くかかる難しい技術らしいが,無理すればできなくはない.だから,原爆も原発も原子力潜水艦もある.しかし,そうして生じる核の灰は,技術的に消せない.環境や生物,人の健康への影響は担保できない.そこの部分は,夜会で飲み過ぎて麻痺した,政治家や行政や,利権保護団体の経済団体には,意識されない.それだけの問題である.

原爆作るには,大きな面積も必要だし,個人や企業の電力消費量に関係なく大規模原発炉を燃やしたりと,節電日本が原爆の自家開発に向かっているようなイメージとダブルが,政治的な右翼主張の経済界や政界の既存利権の保身のために原発事故をシナリオづけようというわけだろうか.そういうポーズさえ維持できればいいということで,原子爆弾製造のコストを原発喪失によるコストとわざと混同させているのだろうか? それくらいなら,中立的な(それをどう評価できるか難しそうだが)アメリカの原子力の研究・調査団体とか,経済研究団体とか,政治や軍事の戦略分析の専門家とか,少し高めのギャラはらって,招き寄せ詐欺集団のやらせ議論ばかりの日本の利権のお決まりパターンから解放して,考えてみるというのも必要かも知れない.信頼おけない日本の学者や言論人,経済界の老後話より,日本がまじめに自らの意思を決めていくにはいいと思う.


原発や核兵器の話題になると,誰しも,経済なんてそううまくいきはしないんだとか,国は平和に共存することなどできやしないとか,そのての話の前で,一服する.それは,ほんとに創造力のある知性が,そういう問題のとき働かないからだということも一理あるかも知れないし,なにか論理だったシナリオをひどく錯綜とさせる論題のような気がして,ちょっと複雑な気分を呼び起こされるからかも知れない.「現実」とはそういう気分の別名という感じもする.飛躍が必要なのかも知れない.マキャベリの「キツネとライオン」の喩えは,そういう「現実」からの飛躍としての<科学の創始>をいっているのではないかという気がしている.マキャベリへの評価自体は,そこまでいっていないという話もあるだろうが.ところで,現代は,飛躍としての科学の創始というより,逃避の工学としての科学の時代なのだろうか.それはそれでも,それなりに,結構,何とかなっているということもよくささやかれる.大きなイデオロギーではなく,小さなイデオロギーのかけらたちが乱舞する光景に見えて,微笑ましい.しかし,そこにも,飛躍としての創造の論理が働きうるのだという考えである.庶民のささやかな希望というものだろうか.モダニズムとかポストモダニズムとか,否定と希望の佇みのなかで,科学の動きに,あるいは,足音もなく,共謀するあり方を描写しているように思える.原発にしろ原爆にしろそれと関係なく,例えば,超伝導技術にしろ,小さな技術の積み重ねは続いていくだろう.ガソリン車やEV車ができて,蒸気自動車が廃れるから,人間は移動の手段を失うんだ的な論者もいるようだが,技術の未来が,原発や原爆を置き去りにするくらいになれば,それらを軍事的にどう暴走させないかの手練手管に少し我慢が必要なだけになるだろうか? 楽観的に過ぎるといわれそうだが.








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原子力の果てにあるもの

2011-06-07 22:19:39 | インポート
・「形状」という言葉がある.物理の法則や反応を表す式は,いくつも考えうる.それらが,いわば,形状というものの定義であって,その科学的な組み合わせで組織化されているものが,例えば,燃料棒とか,原子炉とかの設計の形状を決めるものになっているというイメージでいいのだろうか? 形状を保たないということは,選択された形状では,説明しきれない現象が確認されるという意味になるのだろうか.いろいろな段階で同じ言葉が使われることもあるのだろうが,いかにも専門家でなければ,検証しようもなさそうである.しかし,原子核の物理が,その法則においても,未知の部分を含んだ形状で支えられているのだとすれば,原子力の果てにあるものは,「科学する」ということ以外ないのではないだろうか.科学するための原則が,「公開,民主,自主」という三原則だろうか.


・分子は原子から,原子は原子核と核外電子からできている.原子核は陽子と中性子からできている.中間子論は,大局的な対称性(陽子と中性子が大局的に入れ替わる)を非可換な局所対称性へ励起したような印象.人体への放射線の影響があるのは,元素が放射線の影響で元素自体が被曝することがあるから.人体への影響は,もっとデリケートな問題もあるだろうが,癌もDNAの損傷が原因なら,放射能は,その確率を高めるような圧縮状態を作るということだろうか?

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メモ書き(6)

2011-06-01 08:56:41 | インポート
・素人が判断できることではないが,初期対応を巡る迷走した国会の議論は,事故発生の一分,二分で炉心の状態悪化が進行するから,それを食い止めるのにECCS(緊急炉心冷却装置)の機能が期待されたが,不具合で機能しなかった.その後,その事態をうけてベントなどで対応したが爆発がおこった.事故後しばらくはメルトダウンはないという前提だったが,現在は地震津波の直後にはメルトダウンしていたということになっているなどということもあり,もちろん,ラグもあるのだろうが,ということであれば,国会の議論立て自体が,事故の客観的な経緯というより,それらを都合のいいように,組み替えたり,省略したりして,その場限りの優位を演出しようとする体のものだということになる.もちろん,民主,自民などの野党などの議員すべてがそのようなあり方を望んでいたわけではないだろうが,国会自体の責任は,必ず検証すべきである.メディアも代理戦争で,加担しているということであれば同様である.もちろん,メディアの情報も参考にしているが,メディアの方でも何人かは,官邸報告ということばかりでなく,国会での議員の発言の中で,所々,ご都合で言い換えられたりしてることに気づいているはずである.何故なのか? 原発事故の責任を,地震津波被災を利用して担保して演出しようというつもりだろうか?


YouTubeにあったNHKの報道番組から,1号機のケースを簡単にまとめると

3月11日 

14:46 地震発生

(およそ30分後)  津波到達

17:50頃  メルトダウンしていた(?)

3月12日

3時すぎ 東電よりベント実施する旨の報告(海江田).

9:04 ベント実施

15:36 水素爆発

19:04 海水注入


19:25から20:20まで 注入の中断があったかなかったかで,国会で論争.不信任案否決,その後も,政局芝居の継続を謀っている模様.国会議員同士の怨念,下心.結局,茶番政局芝居しか能がないように,プログラムされているのだろか? 与党も野党も,政治評論家まがい連中も.


・原発を今後どうするのか?

普通にまとめれば,原発には当然危険が伴う.そして,その危険の原因は様々であり得るが,結果の重大性は同じである.一方で,原油高だし,経済状況は厳しい.単純に,どちらを選ぶか? 経済も大事だし,原発事故は現実ヤバイ.それ以上,知恵が出ない.さてさてどうしたものか.既成の利権は,温存するに限る.それが社会の,政治の安定である.しかし,ヤバイ面はどうするか.知恵が出ない.結局,そういう問いである.原発事故がなくても,経済なんて責任とれないし,とらないし,安全神話があろうとなかろうと,原発の安全性などたいしてどうでもいいし,議論立てだけやっておけば,適当に収まるだろうし,そういうことで,損はないじゃないか.日本を支える巨大産業利権を,まして国際的な利権を,敵にまわすわけにはいかないじゃないか.でも,それじゃあ,なんか後光がかすむ.ややこしい,有り難そうな,話にもってけないものか.そうすれば,体面が保てる.小沢とか森嘉朗とか谷垣とか,海江田とか石原とか,それでまとまるというシナリオということだろうか.飾り立てたお調子低能芝居としか思えない.しかし,だからこそ,日本はなんとかそれでやってこれた.急に回転ドア止めるような抵抗力が働いたら,もっと悪くなるではないか,なんて言えばいいか? 原子炉は,熱源が行方不明だから冷温停止状態とも言えるかも知れないし.ごくごく俗なシナリオではこういうことではなかろうか?
原発を巡る論議自体が,やらせ安全神話のためか,なれあい出世競争の腰巾着サラリーマンのロジックになってしまっているという面はないのだろうか.意外と,そういう模範ということで,支持があったりで,原発問題というより,茶飲み談義という意識も多いのではないだろうか? 安全神話というけど,私は,キュリー夫人の伝記を読んで以来,放射能は危ないという意識のままであるし,医療で放射線を使うのは,危ないという認識があるから成り立っているわけだろうし,どっちかというと,アスベストが,裏で,行政後押しで違法容認的に使われていた事情に通じるものがあるのではないかという感じがする.安全神話の陽気な信奉感情は,もちろん推進の動機付けのために,どっかで誰かが,清涼剤配ったような面もあるのだろうが,大掛かりな感性操作のような印象もある.











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