球座標
とおけば,だから,
,
から,
.
これは,デカルト座標系O-XYZの座標(x, y, z)と球座標(r, θ, φ)の間の関係であるが,(科学理論の)歴史と論理の間の,また経験と論理の間の相互規定を考える材料の一つであるということであるが,物理の古典理論の形成と,現代の理論の間の相互的な関係,古典理論の進展から生まれた量子論や相対論が,また,古典理論を基礎づけるという関係は,物理に限らず,生命現象や社会現象の解明を目指す理論にも共通するものなのだろう.古典理論の意義は,懐古的な安住とは程遠い,現在や未来との緊張関係であるということなのだろうが,同時にまた,経験的な確かさを与えるものでもあるということだろうと思う.
ユークリッドの数論も土地の面積を測るという実用的な問題と無関係だったのかとか,複素数も,x^2 + 1 = 0に解を持たせるために,虚数を導入したのは,カルダノで,オイラーがそれを正当な数として認めて虚数単位記号iを用い活用し, ガウスが複素数という名の名付け親で,複素平面もガウスの考案.現在では,実数全体の集合Rを複素数全体の集合Cの部分体として,a + biは単なる記号の形式的な表示から,体Cにおける演算とみなされることになる.というような,数学上の経緯も類似性を感じさせる.当然,コンピュータで数をどう扱うかという問題とも関連しているはずである.intとかdoubleとかfloatとか.floatや行列演算用のチップというのかモジュールというのかは別売り(今ならパソコンもう1台買える値段で)という昔ではないのだから,なおさらではなかろうか.
鏡の向こうの世界へたどり着くには,仮説的な定説を覆す果てしない旅が必要である,ということを,GPS付きの乗り物で誰でもできるようにするのがCAGE法の今後の課題であるらしいが,当面は,私には手が出ないお高い装置であるのだろう.誰でも買えるくらいの値段になるのは,ずーっと先のことだろうか.そこまで安くはならないということだろうか.ガン抑制遺伝子の発見物語で,Rb遺伝子(網膜芽細胞種の原因遺伝子となる抑制遺伝子)分離をめぐる話は,どうなのだろう.超電導の研究での捏造話も,もともと膜ができるものらしいから,それを応用しようとして,捏造研究ということになったのかもしれないが,紙一重ではなかろうか.科学研究だから,科学の立場で,審査するのは当然の手続きだろうけど,捏造より意味のない捏造騒ぎは,どういう背景なのだろうか.捏造であるかどうかは,科学自体の問題であって,政治や経済などとの関連は,迷路をめぐっていればいいだけの代物である.オバマやプーチン,あるいは,ビルゲーツがフェルマー予想を解いたといって,捏造でないということになっても,信じるものは誰もいない.政治家やお金持ちとして,科学に通じていて理解力があるという評価はあり得るかもしれないが.
・ベクトル a, b, cで,a + b = cとすれば,cの逆元-cが存在する. c + (-c) = c -c = 0, a + bを力の平行四辺形とみれば,大きさが同じで向きが逆の力が存在する.
・単位の大きさを持つ,OX, OY, OZに平行な単位ベクトルe_1, e_2, e_3をとることができるが,単位ベクトルは,自由ベクトルであるが,固定ベクトルとして扱っても支障がない.
[内積と外積]
[音と絵画と歴史]
歴史と論理の関係を考えるとき,絵画として流れる世界と音として流れる世界が,未分化なまま,音としての意味の現れとして,絵画としての意味の現れとして,戯れる風景の中に,自分がいることを感じることがある.生物の論理は,そのような戯れの中に意味を具象化する歴史のネットワークのような感じを受ける.作曲家や画家が,どういうモチーフで,メロディーや形象を得るのか,絵画の意味があって,メロディーにまとまるのか,メロディーが固まって,形に意味が宿るのか.色はどうなのか.物の配置はどうなのか.私自身の存在は,どう流れていくのか.ベートベンの伝記にある作曲スタイルや,ムンクの叫びなどをみると,芸術の世界には,そういう存在として流れる世界が立ち現れているのじゃないかと,考えたりする.科学の世界も,案外,芸術的な未分化な世界の立ち現れと無縁ではないように感じる.私自身の世界の中の他者として,どのようなシグナルが選択されるのか.数の体系とその妖精たちのコラボのように,音と絵画的な意味の戯れが,自分という存在自身の他者として立ち現れる世界を見ることなら,数学も視覚的なのだろう.見えることなく見,聞こえることなく聞く,存在の歩みや立ち止まりのようなものかもしれない.
兄弟からは,「あんたは精神年齢が3歳児だ」という評価を受けたが,私の芸術的なセンスが分かりづらいのが原因だろうといっても,まったく承認する気配さえ見せない.あの芸術的な世界の親しみは,身内や肉親でも,他人には伝わりにくいもののようである.
しかし,芸術的世界の親和性が出現する機構は,細胞レベルでは,常時生じているのかもしれない.卵母細胞---卵黄膜(vitelline membrance)---卵胞細胞(→濾胞細胞(follicle cell))とか,胎児---胎盤---卵黄膜内胚葉とか,あるいは脳の仕組みとか,そのような親和性出現機構を示していないだろうか.
高木貞治の『解析概論』にある,4/3 < a < 4/3(4T/3<S<4T/3あるいは0<S-4T/3<0)なら,aは4/3 (Sは4T/3)以外の何物でもない,というような,厳密論証が,実数の連続性を示唆しているという,アルキメデスの求積法も,親和性出現機構の一つかもしれない.
親和性出現機構の数学での例は,「複素多様体の変形理論」などが挙げられるだろうか.出処を異にする指標が,不思議に親和性をもつということは,おそらく出処の違う音の発現と形の発現の親和性に通じているかもしれない.
自然が,時折,歴史の中に届けるものは,他者としての私の存在を共役させる,異質なものどうしの邂逅かもしれない.
虚数に限らず,物理量をベクトルで表すことも,瞬時に誰かがやっていそうに感じるが,実際には,なぜか,時を費やす逡巡があったらしい.それが意味のない足踏みだったのかどうかは,科学のその後が語ることなのだろう.我々の細胞も,語り始めているかもしれない.
音と形,これは,歴史と論理の相互規定を考える,私の一つの観点であるが,岩波現代物理学の基礎『古典物理学I』が,ネタ本である.ネタばらしである.つまり,湯川秀樹の執筆部分である.その私なりのアレンジである.しかし,小平邦彦の複素多様体の変形理論や,音楽や絵画などの芸術,生物特に細胞生物学の話題と結びついたのは収穫である.『不思議の国のアリス』はおとめぽくて,読んでないが,アリスの旅した世界にいけそうなことも収穫である.まあ,乙女が主人公の童話で,私が読んだのは,『一切れのパン』(『パンを踏んだ娘』という題だそうだが,子供の頃読んだときの題はそうだった気がする)だから.
冗談ついでに,恐竜はなぜ鳥になったのか,カラスに聞いたら,カニ飛び歩きが歩きやすいからだそうである.斜に構えて,飛び歩きすることで,滞空感覚が遺伝子に伝わりやすかったのだそうである.飛べそうな気になったと先祖の記憶が言っていたらしい.そういう説があっても良さそうであるが,聞いたことないが、あるんだろうか.滞空しやすいという感覚が,どうやって鳥に進化したのだろうか.それとも,飛ぶつもりもなかったが、ミクロの世界の都合で、結果、鳥になったのだろうか.
細胞進化は,どういう文字盤になっているのかわからないが、細胞に訊くのが一番なようである.進化とは何か.この問いは,簡単には答えの得られない問題のようである.文字盤が流動化しながら,可触的に関与しているような感じである.ピカソやダリの絵画が細胞に溶け込んで時を刻めば,そんな感覚になるかもしれない.
細胞内に,ピカソやダリの絵画あるいはベートベンやモーツァルトの音楽が,顕微鏡などで確認できるかどうかはわからないが,「細胞は生体の構造的単位であるばかりでなく,代謝・生理・発生・分化・遺伝・進化などすべての生命現象の発現の場であることが実感されるようになった」(『岩波生物学辞典』)のである.