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裁判員法を見直すべきこれだけの理由

2009年01月18日 | Weblog
裁判員法を見直すべきこれだけの理由
                             山田 眞也

千葉県弁護士会は、今月22日に臨時総会を開き、そこで一部の会員から
提案された裁判員法実施延期決議の当否について討議し、会としての意思を
表明することが予定されている。
 私も延期決議を求める一人で、総会に先立ち、この問題に関する私見を会の
MLに投稿したので、以下にこれを転載する。
 当面の問題は、国民の司法参加という理念を論じることではなく、近く実施
されようとしている裁判員法を受け入れることの利害得失を論じることにある。
 ところが、自明と思われるこのことが、裁判員法支持論者の側からは、全く
無視され、法の問題点を指摘する立場の論者との論争は、どこにも見られず、
論争不在の状況にある。
  私には、裁判員法の実施を急ぐ論者が、議論を避けているとしか思えない。
 そもそも、立法当時の衆参両院法務委員会の議事録や司法制度審議会の
議事録を読むと、どんな事件に国民の司法参加を求めるべきかという制度設計の
根本問題が、ほとんど論じられていないことに驚かされる(むろん厖大な議事録の
全体を一人で読むことは期待されていないと思うので、どこで、こんな形で論じられ
ていると指摘される方は、WEB上で公開されている議事録の該当部分をcopyして
示していただきたい)。
 特に被告人の選択権を認めることの適否は基本的な問題だが、なぜこれを
認めないのかについて、議論が尽くされているとは到底思えない。
  陪審制度が施行されている国では、大部分の被告人が陪審を回避し、そのため
の司法取引も是認されることで、制度の維持が可能とされているはずだ。
 裁判員法が、そのような制度設計を選ばなかった理由は、裁判員が有罪無罪の
判断だけでなく、量刑判断についても関与すべきことを前提としたからに違いない。
 そのためには、被告人に選択権を与えるわけにはいかないし、裁判員が関与する
事件の範囲も、一律に定めざるを得ない。
 そして国民の負担が可能な限界を考えれば、事件数が少ない重罪事件に限って、

すべて裁判員の関与を要すると定めることになったのも、当然な成り行きであろう。
 そこには、無辜の被告人を守るという立法目的は、そもそも存在しない。
 起訴される刑事事件の全体を通じて、被告人が無罪を訴える事件の割合は、いう
までもなく低い。
 死刑無期に当たる重罪事件においても、大部分の被告人は事実を争わないし、
主要な部分においては、争いようがない証拠が存在することが、むしろ普通である
から、裁判員の関与対象を罪名によって一律に定める限り、裁判員の主要な役割は、量刑判断に加わることにならざるを得ない。
 しかし、救済されなければならない冤罪事案が、窃盗、詐欺のようなありふれた一般 刑事事件や、選挙違反、ビラ配布などの法定刑が重いとは言えない事件のうちにもあることは言うまでもないが、裁判員対象事件を被告人の選択によらず、罪名によって 画一的に定めることを前提とする限り、いかに裁判員制度が冤罪の防止に効果的な制度であり得るとしても、それらの事件で起訴された被告人が、裁判員の存在によって救済されることはあり得ない。
 従って、裁判員制度による冤罪の防止を期待する論者は、これから施行されようとしている裁判員法は、むしろ冤罪防止目的を阻害するものとして、その見直しを求める のが当然であり、即時実施論に賛同するのは、自己矛盾だと気づくべきなのである。
 それとも、志布志事件のような事件に、裁判員が出る幕はなくてもいいと主張されるのであろうか。
 冤罪の救済を裁判員に期待する限り、裁判員対象事件は被告人の選択によって
定めるという制度を要求するしかない。
 重罪事件を一律に対象事件とするという制度を変えない限り、対象事件をそれ以外に広げることは、ほとんど期待できないからだ。

 事実に関する争いの有無にかかわらず、裁判員の関与は、被告人が望む場合に限るべきである。
 そうでないと、争いが責任能力の有無だけに限定されているのに、精神鑑定をめぐる不毛な神学論争に裁判員を巻き込んでしまうことにもなりかねない。
 また畠山鈴香に対する殺人被告事件では、娘を殺害したという事実そのものが争われているが、このような事件で裁判員の関与を望む弁護人がいるとは思われず、より適正な裁判の実現のために裁判員の関与が有益だとする論理も、私には考えられない。
 裁判員法支持論者は、その主張の正しさを明らかにするために、このような具体的事件をモデルとして、裁判員が果たし得る役割を示すことが必要だとは、なぜ思われないのであろうか。
  そもそも、現行犯で逮捕された大量殺人犯の審理にまで、なぜ必ず一般人が加わり、心に傷を負いかねない負担にさらされねばならないのか。
 未解決の世田谷一家四人殺害事件では、犯人の指紋が採取されたことによって、もしこれと一致する指紋を持つ人物が特定されれば、責任能力の有無以外には、争いはあり得ないはずだが、こんな場合でも裁判員が審理に加わって、あの血も凍るほどに残虐な犯行の一部始終を正視しなければならないのか。
 最高裁もさすがに、裁判員が被るかもしれない心の傷に対する手当てを考え始めたようだが、昨日の新聞には、まさにそのような事態が東京地裁で起きたことが報じられている。
 裁判員のために工夫され、一目でわかりやすいとされる立証方法によって、殺害された被害者の遺体が切り刻まれる生々しい状況が展示された途端に、傍聴席の遺族が悲鳴をあげて号泣し、裁判所職員に抱えられて法廷を去ったという。
 そもそも犯罪の立証のために、公開の法廷でそのような展示をする必要があるのか。
 私は、ないと思うが、東京地裁の裁判官の一人は、取材にに対して、「裁判員は、正視に耐えない場面でも見なければならない」と述べたとのことだ。
 私は、こんな光景を展示した検察官も、それを是認するという裁判官も、内心は裁判員制度をつぶしたいのではないかと疑う。
 修習生の半分以上が裁判員制度に反対だと伝えられているが、当然なことだと思う。
 検察官のうちでは、即時実施に賛成という人が、100人を超えたら驚きだ。
 裁判官の場合は、刑事事件に対する関心や経験の程度が一様ではないが、積極的な賛成論者は、4分の1未満とみていいだろう。
 ただ現職の裁判官や検察官には、意見を述べる自由がないから、確かめようもないが、本来は国会が、現職の実務家に、匿名で意見を述べさせる調査を行うべきであったと思う。
 ともあれ、裁判員制度の有無とは別に、生々しすぎる立証を公衆の目にさらすことには、それなりの弊害も伴うだろう。
 実は裁判員対象事件を被告人の選択によって定めるべきだというのにも、一抹の不安がなくはない。
 被告人の中には、残虐非道な犯行の状況を、公開法廷で裁判員に見せ付けたいという歪んだ欲求を持つものがいないとも限らないという不安だ。有能で善意ある弁護人がついても、これには対処のしようがないかも知れない。
 何でも公開するのがいいことだと思い込む傾向は、何かを見落としているのではないだろうか。
 犯罪も自殺も、どこかに模倣する誰かがいる。

 裁判員対象事件では、審理に費やされる時間は制約され、死刑が求刑された場合でも、裁判員がその当否の判断を下すのに与えられる時間は余りにも短い。
 死刑の選択をするには、半年ぐらいの審理期間があって当然ではないか。
 これまでの裁判官は、その間に苦い薬を少しずつ飲むようにして、自らを納得させ、死刑を選択してきたのではないか。
 たとえ圧倒的に多数の国民が死刑を期待する事件であっても、裁判員法が予定するような短期間に死刑の判決にまで至るような裁判が異例とされないようになれば、裁判一般の質が低下するのではないか。
 私はむしろ、量刑については、裁判員には自発的な意見を述べさせるだけで足りるのではないかと思う。
 裁判員制度は、民主主義を司法の場でも実現するもののように言われるが、必ずしも望ましくはない副産物もあり得る。
 裁判官以外に、匿名の裁判員が加わった合議によっで量刑までが決められるとすれば、責任の所在がかすみかねないとは言えないか。
 現実には裁判官が誘導して、思うとおりの結果に導いたのであっても、守秘義務によってその実態は蔽われてしまう。
 再三、指摘されるとおり、裁判員の誰かが裁判官の誘導に不満を持ち、これを批判しようとしても、猿轡をはめられている。
 しかも最高裁は、裁判員対象事件については、控訴審においても原審の判断を尊重するのが原則だという。
 確かにそれは当たり前のことであって、控訴審で一審の判断が変更されることがこれまでと同じ程度にあったら、裁判員の苦労は何のためであったかということになってしまうが、そう言われても言われなくても、控訴審にとっては裁判員制度は実に悩ましいに違いないのだ。
 しかし責任という点では、控訴審も裁判員尊重という建前を重視してしまえば済むのだろうし、最高裁もさらにそれを追認することが通例となるのだろうが、そうなるといよいよ、裁判の結果に対する裁判官の責任感は、低下するおそれがありはしないか。
 だから、せめて量刑についてだけでも、裁判官が全面的に責任を負う建前を残しておいた方がいいと思うわけである。

 以上に記したことの多くは、すでに会誌「槙」35号に掲載された「裁判員制度の得失」と題する拙文で述べたことの繰り返しである。
 この投稿では、「日弁連もメディアも無責任きわまる。国民をだまして欠陥商品を売りつける悪徳商法と、どこが違うのか」と、人格を疑われそうな記述にまで及んでしまったが、実は今でもその気持ちは変っていない。
 
 末筆ながら、松本会員が、「裁判員制度を重罪事件から実施する必然性は全くない。むしろ裁判員の負担を考えれば、軽い事件から始めるべきだという意見は、傾聴に価する」と述べておられることは心強く、「さすがに」と敬意を表したい。

  追記
 
 安倍がこけ 福田もこけた永田町 麻生こけたら誰が四人目

 私としては、「小沢さん、しっかり頼みますよ」と言いたいが、「死んでください」というのと同じになりかねないことが不安だ。
 オザワはとにかく、オバマは文字どおり命がけで、大統領職につこうとしている。
 いつ、どこから、凶弾が飛んでくるかも知れない、あの国で。
 あの国と言えば、刑務所人口が180万人とも200万人とも言われるようだが、はるかに及ばない日本も、10年前の5万人未満から、8万人台になったらしい。
 昨日、不法残留で言い渡された前刑の執行猶予期間が、やっと切れてから間がないフィリピン人が、二度目の不法入国後の残留で2年の実刑を言い渡され、「許してください」と泣きながら退廷したが、当たり前の判決とは思うものの、満員の刑務所に入れてどうなる、と思わぬでもない。
 
 オバマのチェンジが、どこまで実現するのか。
 ヒラリーが国務長官で、イスラエルの冷血非道な戦争犯罪を少しでも抑えられるのか。
 そして日本では、強制退去におののく子どもたちに未来はあるのか。
 目をそむけたいことばかりですが、今年もほどほどに世を憂えることをボケ封じの健康法として、もう少しお付き合い願いたいと思います。
 どうぞ、よろしく。



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